– 霊は、祝い祭る、ということが好きのようである。そのせいであろう、キリスト教の祝祭日に関連した特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として、3年連続して送られてきたイースターメッセージを紹介しておく。1874年のインペレーターによるメッセージに比べると、1875年に別の霊がサインしたものが、雰囲気も異なり観点も違う点に気づかれるであろう。

イエスの虚像と実像

– イースター、1874年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが届けられた。

あの通信が届けられたころのそなたの心境と現在の認識とを比べれば、そなたの進歩のよい指標となろう。重大な問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めてきたかがよくわかるであろう。あのころ、われわれは、いわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説きました。

遠い未来ではなく、死の瞬間における霊の蘇りの真相を説き明かしました。それは、その時点においてはそなたにとって初耳でした。が、今は違います。当時理解に苦しんだことについて、今は明確な理解ができております。

イエスの地上での使命を、今われわれ使者を通して進展中の仕事についても説きました。イエスの真の神性 – そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説きました。

イエスみずからが述べたように、イエスもそなたたちと同じ1個の人間であったこと、ただ比類ない神性を体現した至純・至高の人間の理想像であったことを説きました。愚かしい神学によってでっち上げられたイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての霊覚者イエスの実像を明かすことができました。

イエスは肉体をたずさえて昇天したのではありません。が、決して死んでしまったわけでもありません。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説きました。われわれも同じことをする日が到来するかも知れません(1)。

今そなたが見ているのは、これから始まる新しい神慮 – 人間が空想し、神学者が愚かにも説いた人類の終末の審判者としての“主”の出現ではなく、われわれ使者を通じての新たな使命(実は旧い真理の完成)、地上への新しい福音の啓示という形による“主”の出現 – の前ぶれとしての“しるしと不思議(2)”なのです。

すでに地上に進行しつつあるその活動の一環を、われわれも担っているのです。イエスの指揮のもとに新しい福音を地上にもたらすことが、われわれの使命なのです。今はその一部しか理解されないでしょう。

が、いずれ、のちの時代に、それが神から授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることでしょう。

俗世にあって俗世を超越する

このところそなたの反抗性が減り受容的態度が増してきたことで、われわれによる直接的な働きかけが目立って容易になってきました。忍耐づよく待つ心とともに、祈りの気持と不動の精神をぜひとも堅持してもらいたい。目指す目標から目を外らせてはなりません。

今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを、繰り返し、じっくりと噛みしめることです。進歩の妨げとなる障害物を、つとめて排除してもらいたい。

もっとも、日々の勤めをおろそかにしてもらっては困ります。そのうち、今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではなさそうです。そのためには、まだまだ試練と準備とが必要です。

友よ、その時期までには、そなたは火の如き厳しい鍛練を必要とすることを覚悟されたい。地上的意識を超えて、高級霊の住まう高き境涯へと意識を高めねばなりません。これが、われわれからの復活祭(イースター)のメッセージです。

死せるものから目覚め、魂を蘇らせよ。

地上世界の低俗な気遣いから超脱せよ。

魂を縛り、息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。

死せる物質から生ける霊へ、俗世的な取り越し苦労から霊的な愛へ、地上から天界へと目を向けられよ。

地上生活にまつわる気苦労から霊を解放せよ。

これまでの成長の補助的手段にすぎなかった物的証拠ならびに物理的現象を捨て去り、そなたの興味を地上的なものから霊的真理の正しい理解へと向けられよ。

イエスが弟子たちに申したであろう – “この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ”と。次のバイブルの言葉もそなたの心の糧とされよ。

“そなたたち、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん(3)。”

常に向上心を

– 私がこの世的なことに無駄な時間を費してきたとおっしゃっているように聞こえますが…

そうは言っていない。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことはしなくてはならないと言ってきたつもりです。

が、われわれの願いは、そうした客観的証拠がもはや必要としない段階においては、そこから霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることです。常に向上を心掛けてくれることを望んでいるのです。そして、そなたに求めることをすべての人間に求めているのです。

– さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世の仕事に不向きとなり、ガラスケースにでも入れておくほかはないほど繊細(デリケート)となる – つまり霊界との関係にのみ浸りきり、世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのか、と尋ねた。

霊媒には環境も背後霊もまったく異質の別のタイプがあります。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想でしょう。そなたもいずれはそのように扱うことになるでしょう。もともとそなたを選んだのは、そうしたもくろみがあってのことです。

だからこそ自制心に欠け邪霊の餌食となりやすい人間となるのを防ぐために、あえて時間を犠牲にしてきたのです。時間を掛けるだけ掛ければ、疑念と困難が薄れ、代って信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのです。

焦ったからとて、その時期の到来が早まるものではありません。たとえ早まるとしても、われわれは急ぎません。が、霊的向上心の必要性だけは、われわれの仕事に関わるすべての人間に促してきました。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも、常づね印象づけてきたつもりです。

– ここで私は、かつて述べたことがあることを改めて述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、特には有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、むやみに利用すると危険である、といったことだった。

さらに私は、信念が必要であることは論をまたないが、私には私なりの十分な信念ができていること、これ以上いくら物理的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。すると –

“山をも動かす”信念

そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いです。信念が真実の意味で拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいる、冷ややかにして打算的かつ無気力な信念とは、およそ質を異にするものとなるでしょう。

今の程度の信念では、本格的な障害に出遭えば、呆気なく萎(しぼ)むことでしょう。まだまだそなたの精神に染み込んでおりません。生活の重要素とはなっておりません。ある種の抵抗に遭うことで力をつけることはあるでしょうが、霊界の邪霊集団の総攻撃に遭えば、ひとたまりもないでしょう。

真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越した無条件の“あるもの”によって鼓舞されたものであらねばなりません。魂の奥底から燃えさかる炎であり、湧き出る生命の泉であり、抑えようにも抑え難いエネルギーであらねばなりません。

イエスが“山をも動かす(4)”と表現した信念はこのことだったのです。それは、死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しい試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を、首尾よくゴールへ向けて導いてくれるはずのものです。

この種の信念をそなたはご存知ない。そなたの信念はまだ信念とはいえません。ただの論理的合意にすぎません。自然に湧き出る生きた信念ではなく、常に知的躊躇を伴った検討のあげくに絞り出された、“知的合意”にすぎません。

安全無事の人生を送るには間に合うかも知れませんが、山をも動かすものではありません。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れませんが、魂を鼓舞し元気づけるほどの力はありません。

知的論争における楯としての効用はあるでしょうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為や崇高な目的の遂行において圧倒的支配力をふるう、魂の奥底から絶え間なく湧き出る信念ではありません。その辺の認識がそなたには皆無です。

が、心しておかれたい。そのうちそなたも過去を振り返って、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつ又、その及び腰の信念でもって神の真の扉が開かれるのを夢想したものであると、驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことです。その時節が到来すれば、信念に燃え崇高な目的に鼓舞された生ける身体の代りに大理石の彫像を据える愚はしなくなるでしょう。

とにかく、そなたにはまだ信念といえるものはありません。

– あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、いささか希望を挫(くじ)けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか、理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。

違います。今のそなたは、内と外より影響を受けつつ、そなたみずから造り上げてきたものです。外部の環境と内部の偏向、それに霊的指導が加わった産物です。そなたは誤解しています。われわれが批難したのは、その名に値しないものを信念であると広言したこと、そのことだけです。

案ずるには及びません。そなたは崇高な真理への道を歩みつつあります。なるべく現象的なものを控え、内的なもの、霊的なものの開発を心がけてほしい。信念を求めて祈られよ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼ぶものが魂に注がれ、その力によって、より高い知識へと導かれるよう祈られよ。そなたの、その“あらぬ気遣い”がわれわれの妨げとなっております。

†インペレーター

– イースター、1875年。午前中、かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及したあと、それまでとはまったく異質の影響力のもとに、次のようなメッセージが綴られた。ただし筆記者はいつもの霊(レクター)である。

物質からの復活

すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝います。イースターも、貴殿たちにとってと同じように、われわれにとっても祝日です。もっとも、祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が違います。

われわれにとってもイースターは復活を祝う日には違いないが、肉体の復活ではありません。“物質の”復活ではなく、“物質からの”復活であり、“霊の復活”です。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活でもあり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることです。

すべての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学ばれた。その意味において、キリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味を持つものです。

キリスト教徒は主イエスの、死による支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信じるのは誤りですが、霊にとって死は存在しないという偉大な真理を、そうとは知らないまま祝ってはいる。

それは、われわれにとっては人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらに又、この日に結実したイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大です。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について、おぼろげながらも理解しはじめたということです。

イエスは体質的にも非凡

– イエスの肉体的体質とその生涯の霊的な意義について尋ねると –

人類救済のために偉大な霊が地上に降誕した例はイエスひとりにかぎられたことではない、と言うに留めておきましょう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものです。

そうした特殊な降誕については、こののちさらに述べることになるでしょう。差し当たっては、人間の身体にも民族によって程度の差があるごとく、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差がある、と言うに留めておきます。

俗性と官能性とを多分にそなえた肉体もあれば、霊性の高い、洗練された肉体もある。中でもイエスは最も洗練された霊性の高い身体をそなえ、しかも、それがわずか“3年”の活動にそなえて“30年”もの鍛錬と修養を重ねられたのです。

[このとき私の脳裏に、3年のために30年を費すのは不釣合だ – もったいない、という思いが走った。]

救世主の仕事が地上生活の期間のみに限られていると思うのは間違いです。ナザレのイエスの場合に見られるように、本当の影響はその死後の余波にある場合がよくあります。イエスの仕事はその3年の間に“始まった”のであり、そして“今なお続いている”のです。

イエスの生活の特質は、威厳と謙虚の合体でした。偉大さと平凡さの結合にありました。偉大さが発揮されたのは誕生時と死亡時、そのほか、ヨルダンにおいて霊やイエスを試し、その使命を神聖なものと認めた時(6)など、その生涯の節目にいくつか見られます。

イエスを知る住民たちは、イエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていました。その生涯が俗世間の社会生活や家族関係によって束縛されるべき人物でないことを知っておりました。

生活は庶民的だった

と言って、イエスを取り巻く生活の和気あいあいとした雰囲気は、イエスにとって心地よいものでした。そのことを住民はよく理解していました。バイブルは、そうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分です。

イエスの言葉と行為とが住民に及ぼした影響に関するものがあまりに少なく、他方、いつの時代にもあるように、新しい真理に盾突(たてつ)いた当時の学者ならびに貴族階級の愚かな誤解についての言及があまりに多すぎます。

律法学者、為政者、パリサイ派、ならびにサドカイ派の学者は、こぞってイエスの敵にまわりました。今もイエスが当時のありのままの姿で教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者もこぞってイエスを嫌い、あるいは迫害もしかねないでしょう。

仮りに貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちからの証言を得たいとは思わないでしょう。イエスの言行についての記録がそうした無知な知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡な住民とともに暮らした生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述があまりに少なすぎるところに問題があります。

編纂者はイエスの直接の教えを受けた者との接触はなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得たにすぎません。これでは、あたかも何世紀も後になって歴史を編纂するのにも似ています。その点をよくよく心していただきたい。

イエスの背後霊団

イエスの生涯は、世に知られているかぎりでは3年と数ヵ月でした。それまでの30年はそのための準備期間でした。その間ずっとイエスは、その使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団からの指示を受けておりました。

常に霊界と連絡をとっていたのです。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることができたのです。

地上の救済のために遣わされる霊は、そのほとんどが、肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外でした。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚が鈍らされることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡をとることができていました。

天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における自分の地位まで記憶していました。長時間にわたる入神も苦になりませんでした。そのことはバイブルに幾つかの例を見出すことができる – 荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶…いずれも誤り伝えられてはいますが。

さらに又、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあるでしょう。そうしたものが数多くあるのです。

イエスにとっては肉体がほとんど束縛とならず – それはまさに仮りの上着であり物質と接触する時にしか必要でなく – その生涯は、ふつう一般の人間とは質こそ同じであっても、次元において異っていました。清らかにして素朴であり、崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間でした。

そうした生活は同時代の者には決してその真価が理解されないものです。イエスが誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされたのは当然の結果でした。それは、一般より抜きんでた者に大なり小なり共通して言えることですが、イエスにおいてはまた格別でした。

犠牲としての死の真意

その聖なる生涯が、人間の無知と悪によって、その半ばにして終焉を迎えたわけです。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していません。

確かに、イエスは人類の犠牲となるために地上に降りました。が、その意味は、熱烈なキリスト教信者が説く意味とは異なります。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図したものではありませんでした。

使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかったのです。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしい出来事でした。

イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類を救いに来たのであり、その至上の目的のために自分の肉体を犠牲にしたのです。その意味においては確かにイエスは人類を救い、そして人類のために死ぬために地上に降りた。

しかし、あのカルバリの丘での終末のシーンに至る人間の愚かしい行為があらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって降誕したのではありません。これはきわめて重大な意味をもつ問題です。

もしもイエスが地上生活を全(まっと)うしていれば、人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れないものがあります。が、時期尚早だったのです。当時の人間は、その施された恵みのほんのわずかだけ味わって棄て去った – それを受け入れる用意ができていなかったのです。

同じことがすべての偉大な指導者についても言えます。まわりの者は理解し得るものだけ取って残りを後世へ譲り、ないしは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早にすぎた霊を崇め敬慕し、肝心の教えを勝手に曲解する…これ又、由々しき問題です。

受け入れの機が熟さないうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていません。否、それは神ご自身の計画の中にはないはずです。大神の統べ始められる全宇宙は、整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばなりません。

今も同じです。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に俗することができるでしょう。が、今はまだその時期ではなさそうです。

一握りの備えある者のみが、後世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を、今受け入れていくのです。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終ってしまったと言えるでしょう。

のちにキリストの名を冠する教会が誕生して、天使の影響のもとに、イエスの生涯が象徴する真理をかき集めました。が、悲しいかな、今やその真理も長い間の慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至っております(9)。

貴殿も知るとおり、キリスト教界の三大勢力(10)は、イエスの生涯の出来事のいくつかを祝うという点においては一致しています。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派がありますが、これは感心しません。

彼らは真理の一部をみずから切り取ったも同然です。が教会は主イエスを記念してクリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコステ等を祝います。これらはイエスの生涯の節目であり、それぞれが霊的な意義を秘めた出来事なのです。それを説明しましょう。

クリスマス Christmas(キリスト降誕祭) – これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴します。尊い霊が肉体を仮りの宿とし、人類愛から自己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは“無私の祭日”です。

エピファニー Epiphany(救世主顕現祭) – これは、その新しい光の地上への顕現を祝う日であり、われわれにとっては“霊的啓発の祭日”です。地上に生まれ来るすべての霊を照らす“真実の光明”の輝きを意味します。光明をひとりひとりに持ち運び与えるというのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高く掲げるのです。

レント Lent(受難節) – これは、われわれにとっては真理と闇との闘いを象徴します。敵対する邪霊集団との格闘です。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴します。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日です。

グッドフライデー Good Friday(聖金曜日) – これは、われわれにとっては闘争の終焉(しゅうえん)、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴します。ただし、“新たな生へ向けての死”です。それは自己否定の勝利の祭日です。つまりはキリストの生涯のもつ意味の理解と達成の祝日です。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく、愛の勝利を祝う日です。

イースター Easter(復活祭) – これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇る生命、神の栄光を授けられた生命を象徴します。今まさに自己を克服しつつある霊、そして又、これより克服へ向かう霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭です。

ペンテコステ Pentecost(聖霊降臨祭) – キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけていますが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日です。それは、“キリスト”の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日です。人間がその愚かさから、自分に受け入れられない真理を抹殺し、一方、その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であ
り、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日です。

アセンション Ascension(昇天祭) – これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日です。クリスマスをもって始まった人生が、これをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉です。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化された、ささやかな生涯の終焉です。使命の完遂の祭です。

以上が、キリスト教会の祝日に秘められた霊的な意味です。われわれの仕事の最高責任者であられる方(インペレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当ててくださったお蔭で、われわれが今こうして、すべての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのです。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明かされることになるのです。
われわれは、貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成したいと望んできました。これまでは破壊することが必要でしたが、今や構築を必要とする段階となりました。神の子羊、人類の救い主イエスがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したごとく、代ってわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばなりません。

イエスは真理を求めてあえぐ魂を地上的煩悩から救い出し、邪霊の支配から解き放しました。われわれは魂を人間的ドグマの束縛から解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らせたいのです。

磔刑(たくけい)と復活 – 自己犠牲と新生

[イースターメッセージ、1876年。私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に関わる象徴的側面について一段と踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は、“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生への道であると考えてよいかと尋ねた。するとインペレーターが – ]

その件に関しては、昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されています。すなわち物質からの復活であり、物質の復活ではないということです。キリスト教会が祝い続けてきたもろもろの祭日のもつ霊的意義についても述べてある。参照するがよい。

[言われるままに私は、1875年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、エピファニーは霊的啓発、レントは霊的葛藤、グッドフライデーは愛の勝利、イースターは蘇った生命、ペンテコステは豊かな霊的真理、アセンションは使命の成就を意味する、とある。]

その通りである。人間像の模範であったイエスの生涯は、地上に始まった生命の進歩的発展が、そなたたちの用語で言えば、天国にて完成される – 自己否定の中に誕生し、昇天の中に終焉を迎えることを意味しています。

そのイエスの生涯の中に、霊が肉体と結合し、そして解放されていく過程を、ひとつの物語を読むごとくに読み取ることができよう。天使の加護のもとでの30余年の準備期間は、イエスの使命にとって相応しいものであり、3年という短い期間も、人間の理解能力に相応しいものを行使するには十分でした。

人間の霊も、その発達過程においては、教会が祝う祭に象徴される過程をたどります。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。

自己否定の中に誕生した生命が犠牲的生活の中で進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、および敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、物的なものから超脱し、イースターの朝、物質の墓から昇天し、それを機に、豊かな聖霊の洗礼を受けて新しい生命として生まれ変わり、ついには地上生活の徳性によって用意された境涯(11)へと進む。

日々新たに

これこそ霊の進化であり、磔刑と復活によって端的に象徴されている霊的新生の過程と言えよう。古い自我が死に、その墓場から新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られてきた自我が十字架にかけられ、新たな自我が神聖な霊的生活を送るべく昇天する。

肉体的生活の終焉は霊の新生です。そしてその過程が自我の磔刑 – パウロの言う“日毎の死(12)”です。霊的生活に停滞があってはなりません。麻痺があってはなりません。不断の成長であり、日々の生活における真理の体得であらねばなりません。

地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応した霊的なもの、天上的なものの啓発であらねばなりません。言い変えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生活についての理解を深めることです。

物質的なものからの超脱と霊的なものへの発展 – あたかも火のごとき、すべてを焼き尽くすほどの熱誠によって焼き払うごとく、物的な汚れを清めていくことです。それは自我と、自我にまつわるすべてのものとの闘いであり、
神の真理の終りなき悟りのための行(ぎょう)です。

これを除いて他に霊の浄化の方法はありません。鍛練の炉は自己犠牲です。これに例外はありません。ただ、霊的な炎が一段と大きく燃えさかる偉大な霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがあります。

他方、鈍重な霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と、幾度も繰り返されることになります。いち早く地上的なものから脱し、浄化の炎を有り難く受け入れる者は幸いです。そうした者は進化も急速であり、浄化も確実です。

– その通りだと思います。が、その闘争は酷(きび)しく、何から克服していくべきか迷います。

3つの敵

まず内部(うち)より始めよ。往古(いにしえ)の賢人は、魂の敵の表現において見事でした。魂には3つの敵がある – おのれ自身と、それを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団です。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現しています。

まずおのれ自身、すなわち“肉”の克服から始めるのです。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして我欲を抑え、隠者的独房から出て、宇宙的同胞主義の自由な視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まずおのれ自身を克服することです。これが第一歩です。まず自分自身を十字架にかけなければいけません。そうすれば、おのれを埋葬した墓地から、物的束縛のない魂が自由に羽ばたくことでしょう。

これさえ成就されれば、その魂にとって、目に映じる物を忌み、永遠の価値あるものに憧れるようになるのは、さして困難ではありません。真理は永遠なるものの中にのみ発見されのであることを悟り、そう悟った時から、外界の物的形体を真理の影 – 人を迷わせ真実の満足を与えない外敵 – として、ひたすらそれとの闘争を続けることになるでしょう。

物質は殻であり、それをはぎ取ってはじめて真理の核が得られることを知ります。また、物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)い幻影であり、その奥に、悟った者のみに見出せる霊的真理が隠されている。そう悟った魂にとっては、もはや、物的なものを避けてその殻の内部の真理を求めるように改めて説き聞かされる必要はありません。

表面上(うわべ)の意味が霊的理解力においてまだ幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的な霊的真理が潜んでいることを悟っております。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかな理解力にかなう真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。

その魂にとっては、真実の意味において“身を捨ててこそ浮かぶもあれ(13)”なのです。その生活は魂のための生活です。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も、もはや魅力はないからです。

が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて、邪霊の敵対行為も目立ってくるものです。不倶戴天の敵ともいうべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通して絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らします。信仰厚き魂はそのひとつひとつを首尾よく克服していくことでしょう。

が、地上生活においてそれが完全に絶える日は、ついぞ訪れぬものと覚悟されたい。何となれば、それはより高度の霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏み台だからです。

魂の不滅の輝き

以上が、簡単ではあるが、進歩的人間のたどる生活です。すなわち、おのれを十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活です。そこに停滞は許されません。休息もありません。そして終息もありません。

“1日1日が死であり”、“そこから新たな生活が始まります”。不断の闘争であり、そこから止まることのない進歩が得られるのです。魂に内在する霊的な灯火(ともしび)が徐々にその光度を増し、ついに完全な光輝となるための絶え間ない闘争です。そなたたちのいう天国は、こうした厳しい闘争の末においてのみ得られるものです。

– Sic itur ad astra.(14)(これぞ不滅の輝きへの道なり)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学(オカルト)においても中心的思想となっています。イエスの言葉の中にも、その生涯を通して鼓舞し続けた同じ思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。

そこにこそ、イエスが述べた通り、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるのです。この高度な理想は、日常の雑務に心を奪われている者には、まずもって実現は不可能です。

だからこそわれわれは、そなたの関心をできるかぎり物理的交霊実験から逸らそうとしてきたのです。危険とみたのです。物理的現象から超脱するよう努力せねばなりません。構ってはなりません。理想の霊的な交わりは日常的煩悩に追いまくられなくなった者にのみ可能です。

– ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容(あいい)れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために、世間との接触に適応できなくなる – あるいは、とにかくその霊媒の性格がふつうの生活をしにくくさせるものとなり、そういう種類の影響ばかり引き寄せるようになる、と。

そうした傾向は多分にあります。だからこそわれわれは、あまり物質的すぎる現象を控え、危険性の少ない精神的現象を発達させてきたのです。とにかく、われわれがすべてを良きに計らっていると信じるがよい。危険なのは、背後霊が背後霊としての仕事がやりにくくなった時です。そうなった時の危険性は深刻です。が、案ずるには及びません。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱強く待つことです。

†インペレーター

イエスの生涯が象徴するもの

[イースター、1877年]

神の祝福のあらんことを!この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思います。

このキリスト教の祭日のもつ素朴な象徴的意義については述べません。すでに述べてあるからです。すなわち葛藤のあとに得られる勝利について説きました。そなたも人間イエスの生涯の中に霊の向上進歩がいかに象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

さて、救世主イエスは、神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活から地上へと降りられた。至純なる霊が1個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中で誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩をそなえ、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から逃れることのできない、1個の人間となられたのです。

そこに、進歩の唯一の手段としての、霊から物質への降誕のひとつの典型を読み取っていただきたい。遠い過去より存在し続け、必要かつ十分な発達を遂げた霊が、他の手段では絶対に得られない進化の不可欠の要素としての葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということです。

かくして人類の境涯へと誕生したイエスは、たちまちにして“この世の君(15)”サタンによる迫害に身をさらされた。時の権力者たちは、こぞってイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからです。

すでに述べたように、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかるごとに天使の一団が見守っているが、その恩恵は、格闘と煩悶[のちに“葛藤”の意であるとの説明があった]の末でなくしては得られません。危険を冒すこともなく、必死の努力をすることもない、ただのんびりと夢見るような生活の中からは得られません。

もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とはいえません。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのです。このことを、とくと心するがよい。肉体をたずさえて生をうけた霊には、常にこれを滅ぼそうとする霊が付きまとうことを知るがよい。

幼な子イエス

幼なき日のイエスも、そうした外敵の危険を察知した両親によって、安全の地を求めてエジプトへ連れて行かれました。そしてその地で豊かな霊的知識を身につけることになります。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露した知識の多くは、そのエジプト滞在中に摂取したものでした。

そなたにとっては、もはやそうした闘争の意味について改めて探る必要はあるまい。敵に取り囲まれ、怯(おび)えるその霊は、エジプトをおいて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか – 先人が苦闘の中に蓄積した神秘的知識と体験の記録の豊富な土地にそれを求めたのは、けだし賢明だったと言えよう。

神秘的知識の豊富なエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ、徳性を涵養して、霊的武力をそなえる兵器庫のようなものでした。

と言うのは、実を言えばエジプトへの脱出にはふたつの意味があったのです。ひとつには安全な土地への逃避でしたが、今ひとつは、教育のための留学の目的もあったのです。

すなわち徳性を涵養し、その中から霊的闘争の武器を身につけるために、エジプトという深遠な神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事な雰囲気の中に安らぎと憩いを求めたのです。

瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長 – イエスも、そのか弱い幼少時代から青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得した知識の中で、徳性が涵養されていったのです。まさに叡智と体力の増強の時期でした。

準備期から伝道期へ

救世主イエスの象徴的生涯のひとつの典型ともいうべき時代が、これにて終了します。準備期が終わり、公的生活が始まります。

つまり、大衆の求めるものをはるかに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく必死に自分にムチ打つ霊に、いよいよ第2の時期、われわれのいう“伝道期”に入るに先立って、その準備を整える期間を与えられて、可能なかぎりの真理を摂取したということです。

そなたには改めて説くまでもあるまいが、霊的進歩にとっては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を自分のために使用せず、生活のすべてにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく施せ(16)”の戒律を厳守することが必須の条件なのです。

ゆえに、自分に与えられたものは、それを求める者と分かち合わねばなりません。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えねばなりません。しかし、より深い、より天上的な真理は、イエスがひとりで山頂にこもって孤独な瞑想の中で自分自身と対峙(たいじ)し、背後霊団(17)との交わりの中に霊的生気を取り戻すことをしたように、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばなりません。

その時のイエスには、その体験を共にすべき地上の友はいなかった。ただひとり霊体に宿って地上を遠く高く離れた(18)。その時の情景は、ひとりを除いて、弟子たちには見ることができませんでした。そのひとりだけは幾度か、神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を目撃する栄誉に浴したのでした。

[のちに、そのひとりとは聖ヨハネであるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(19)を目撃している。]

この意味において、背後霊との交わりと同時に、地上の同志との交わりの中に霊的真理による救いと喜びを分かち合うことができる者は幸いです。霊的真理は、分かち合うことによっていささかもその恩恵が減少するものではありません。一途な目的と、真摯にして完全な共感の絆さえあれば、見る者が増えたからといって真理の光が減少するものではありません。

しかし、求道の世界では、たとえ同じ道を歩んでいても、二人三脚は滅多に望めるものではありません。たとえ目指すものは同じでも、それぞれにたどるべき道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、ひとりでそこに引き込もる時を持たねばなりません。

その宗教的向上心の生活と相まった陶冶(とうや)の生活は、来るべき奉仕的社会生活への準備なのです。救世主イエスは、エジプトで霊的知識を身につけ、瞑想の生活によって霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、福音を授けるべく熱意に燃えて、隠遁の生活からようやく大衆の中へと入って行きました。

イエスは真理に対する不敵な信念に燃えていました。が、決して破壊主義者ではありませんでした。破壊することではなく真理を成就することこそ、彼の眼目でした。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせるために土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことでした。

材料は手もとにあるものを使用し、その埃(ほこ)りを払い、生命を失った儀式も彼の誠意に満ちた言葉の魔法にふれて、生きた真理の象徴と化しました。骨と皮ばかりのやせこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのです。

霊的再生は自然の摂理

誠実な目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴な終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことがわかるであろう。すべては推移であり、緩やかな目覚めであり、それは今なお自然界に見られる通りです。

1年の終わりと始まりとに急激な断絶はありません。そなたたちの目には前年に埋められた墓の石蓋がいかなる力によって取り除かれたかがわからない。ある時はすべてが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなったかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じます。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えない霊力によって起こされるのです。

太陽がふたたび光を放ちます。その光は、死せる年が閉じ込められていた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげます。

やがて足もとはエメラルドのじゅうたんと化し、緑の平野が広がり、そして、見よ!やせ細れる者が生気を取り戻す、復活の季節(とき)が勢いよく訪れる…というよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのです。

同じ教訓を救世主イエスの生涯の中からも読み取ってもらいたい。伝道のために祖国に戻った時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々のごとくに霊性を失い、寒々としていました。

樹液が流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れた旅人の喉をうるおす果実ひとつなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病がすべてに蔓延しておりました。

そうした中に“神の使者”“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)” – これは“息子(サン)”でもあった(20)。両者に差異はない – が、死せるがごとき裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだのです。

そして、見よ、その変化を!空虚な形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかな教説が健全な生命によって生気を取り戻した。古き時代の説話に新たな奥深い意義がもたらされた。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していった。宗教はかつてなく高度にその霊性を増した。

イエスは形式に代って霊的意義を、けばけばしい儀式に代って静かな人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教 – 人に見せんがための宗教 – に代って、人目につかない隔離された部屋での、自分と神とのふたりきりの交わりを説いた。

これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代って温順にして霊性に富んだ求道の生活を説いたのです。その真実の例証は、騒々しい市場にはなくて静かな個室にあり、パリサイ派にあらずして収税史(21)にあり、大衆の目にあらずして大神の監視の前にありました。

生命の旅路

大自然とイエスの生涯に寓された教訓は、霊的生命の旅路にも見られます。学び得たかぎりの知識をたずさえ、徳性を培った魂は、試練の生活ののちに新たな生命の旅へと出発(たびだち)します。形式と儀式とにこだわってきた過去が、霊性を賦与されて新たな道が開けます。

信仰に目覚めた魂の目には、それまで単なる現象にすぎなかったものの裏に秘められた霊的意味が見えます。むき出しの枝が緑の衣をまといます。死んだように放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて、新たな生命の息吹きを取り戻します。

古いものが廃棄されるのではありません。質が変えられるのです。果たすべき義務が免除されるのではありません。逆に、より鋭い熱意と配慮をもって果たすことになるのです。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではありません。その長い過程が、ささやかな善行の霊的意義によって、楽しく、かつ誇り高いものとして感じられるようになるということです。

あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸にはたして生命があるのでしょうか”と幾度も魂に叫ばしめた無味乾燥の儀式が、復活霊の息吹きによって生命と温もりと現実味を帯びます。それなりの効用を果たした古い儀式が、新たな環境に適応した生活へと再生されます。

古い生命力より一段と強さを増し、過去の美しさより一段と霊性を増して新生されます。若さを取り戻したのです。霊的に啓発された目をもってみれば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され、再生されていくものであることを知ります。

かくして魂は、それを取り巻く自然界全体の復活に参加するのです。生命を新たにし、高度な知識を獲得し、奥深い真理を悟り、貯えた力をたずさえて、啓発と発展のための手段を授けに、同胞のもとへ赴くのです。

その時はもう、平凡な人間とは物の見方が違っています。行為も異なります。何の変哲もない外観の内側に神の潜在力を読み取るようになります。いかなる厄介物といえども、剪定によって発育を促し、枯れ枝の刈り込みによって若い枝が生長するとみれば、そのための労も厭いません。

こうして同胞のための公的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては、絶え間なく霊的向上のための生活 – 真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によって1歩でもイエスの完全な模範に近づかんとする修養を怠りません。こうした隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのです。

伝道者の宿命

主イエスの地上生活の終末シーンもまた象徴的意義を秘めています。それは、敵意と侮蔑と迫害を煽る時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らない真理に対する地上的報復なのです。

イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得なかったことに理解がいくことであろう。

恐れることを知らないイエスの出現に危惧の念を覚えた卑劣な神学者たちは、民衆をけしかけて一斉にイエスを攻撃させました。そうしなければ、自分たちがその虚飾の姿を赤裸々にさらされることになっていたかも知れません。

尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義者は、もしもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(22)と収税吏を戒めた以上の厳しい言葉で糾弾されていたかも知れません。

見せかけのみの儀式主義に堕し、金の力で容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(せいひつ)(23)にさえ不敬をはたらく忌々しいナザレイエスを憎むべき大罪人に仕立てなかったならば、やがて大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦の方が高い地位と権力とを手中にすることになるかも知れないと危惧した。が、そうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善さは、怨恨を呼ばずにはおかないものでした。妥協を許さない真摯な態度は、嫉妬心を惹起(じゃっき)せずにはおきませんでした。その説くところの教義はあまりに厳しく、一般民衆にはついて行けませんでした。

その生活上の戒律はあまりに霊的にすぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。つまるところ、そうした高度の教えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのでした。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔刑(はりつけ)にすることにより、至純・至聖な“真理の子”に報復したのでした。

そういう次第だったのです。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることができます。中には神の使者の活動の波がたまたま通過した時代に、その波にのって時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に受け入れられ、その功ゆえに名誉と賞賛を得た改革者がいました。また中には、さらに多くの世俗的知恵に長(た)け、より多く世のために尽くした人物もいました。

が、そうした指導者は稀れです。大抵の指導者はイエスのように真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎えます。真実を説いた指導者に死が与えられる。が、その教えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世から消えてはじめて、その教えの真価が理解される。その例は改めて列記していくまでもないであろう。

物質の霊化

イエスが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせませんでした。悲劇のどん底にあってもなお鋭い直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白もせず、きわめて臆病でさえありながら、実はもっとも忠実な側近であった隠れた弟子のヨセフとニコデモのふたりのみであり、他はすべて逃走したのでした。

そして新しい真理の伝道者、新たな福音の宣教師は今いずこにあるのか – 身罷(みまか)ってしまったのです。そして彼の説いた福音は今いずこに?これ又、どうみても葬られたとしか思えなかった。それゆえ、誰ひとりとして福音のこともイエスのことも思い出さず、注意すら払わなかった。

しかし、人間の判断はとかく性急です。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ、時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が力を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じました。が、実はそれは天使の仕業だったのです(24)。

それと同じ力 – 完全に死んだものと思って埋葬した肉体に新たな生命を吹き込んだと信じられた力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育み、ついに諸国に波及させ、当時の霊的真理の強大な原動力とならしめたのでした。

それを個々の革命家に当てはめてみられよ。たどるべき宿命は同じです。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮りに訴えたとしても、それれが時宜(じぎ)を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならないのです。

それが神の選別の方法なのです。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及にかける意気込みも大となります。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろします。

その闘いの生涯がイエスのごとき終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重な配慮によって、その悲劇的運命が避けられるか – それは大した問題ではありません。

真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのです。それはちょうど、イエスが修行時代において孤独と瞑想の生活の中で誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中で身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じです。

愛の摂理の成就

修行時代を終え、新たな生命をたずさえて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、目覚めた魂に訪れる変化の象徴でした。この世に在りつつこの世の住民とならない生活 – 地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつも、それに隷属しない生き方、それをイエスは示しました。

20
またイエスは常に、すべての霊的影響力に見られるかの最も強力な原理、すなわち“愛の摂理”によって鼓舞され続けました。イエスが姿を現わす時、あるいは何かを為す時、それは常に愛に発していました。そなたたちの手に残された記録は乏しく、かつ誤りに満ちているとはいえ、その原理を示す事象は十分に盛り込まれています。

イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しい境涯へと昇天して行きました。2度と御姿を拝することも、直接(じか)にお会いすることもできません。もはや形体をそなえた存在ではないからです。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっておられます。

みずからの発意によって地上界へ降誕する霊は、ことごとくその“愛”によって鼓舞されているのです。言いかえれば、彼らの使命はイエスと同じく愛の摂理に発しているのです。

人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級界の存在を引き寄せます。そして、界たすべき使命を終えれば、彼らも又、父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行きます。

種子の死

希望に燃えよ!そなたは真理の枯渇を嘆きすぎます。暗く寒い冬にあってはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”あってこそ“蘇り”があり、新しい生活、より広い視野と生き甲斐と目的をもった生活へと導かれるものであることを忘れている。

そうした生活には必ず死が先立つものであること – そなたたちが死と呼んでいるものは、神の真理に関するかぎり、豊かな実りをもたらすための必須条件としての“種子の死”にすぎないことを、そなたはご存知ない。

生へ向けての死 – これこそが魂のモットーなのです。より次元の高い生へと昇華されていく死です。墓場における勝利であり、死を通じての勝利です。霊的真理を扱うに当たっては、このことを忘れてはなりません。

輝きと静けさの中にある時こそ油断は禁物です。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇ききり、太陽が容赦なく照りつける時、か弱い植物はしぼみ、萎(しな)びていきます。

ゆえに、安逸と安楽の時、事が順調に運んでいる時、そして世をあげて“真理の言葉”を賞賛する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭がかげり、伝来の世俗的信仰の中に埋没していくことを案ずる必要があるのです。

すべての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要性が生じ、より深い真理が要求される時が到来しつつあるものと覚悟するがよい。

それとは逆に、強烈な抵抗の中にある時こそ、大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによってこそ頼もしい後継者が誕生し、その気力と精神力とによって抵抗をはね除け、神の規範を一段と有利な闘いの場へと導いてくれるであろうからです。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程には、そうした趣旨が秘められている。これは永遠に変ることのない比喩なのです。

[注釈]

(1)使徒行伝2・43

(2)中巻でも述べたように、この通りの言葉は現行のバイブルには見当たらないが、イエスのインドでの生活をテーマにした H.Kersten: Jesus Lived in India によると、インドのある礼拝堂の巨大なアーチに次のような文章が刻まれているという。“イエス曰く「この世は橋である。渡るのはよいが、そこに定住してはならない」と。”表現は違うが、言っていることは同じである。イエスは各地でこうした生き方を説いたのであろう。

(3)エペソ5・14

(4)マタイ17・20

(5)聖書(バイブル)全体に流れる基本的教説。

(6)マタイ3~4その他

(7)スピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて1度も物質界に生をうけたことのない霊の一団によって支配され鼓舞されていました」と述べている。日本でいう自然霊である。

(8)Calvary ゴルゴタ Golgotha のラテン名。イエスが十字架にかけられた地名。

(9)中巻第16章・注(1)参照。

(10)カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教。

(11)人間は日常生活において死後に落着く環境を築きつつあるというのが、高級霊界通信に共通した説である。

(12)コリント前15・31

(13)To die has been gain.

(14)ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道、すなわち不滅への道はかくのごとし、という意味。(ラテン語)

(15)the Prince of the World(ヨハネ12・31その他)

(1)マタイ10・8

(17)西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。(注(7)参照)

(18)幽体離脱現象。体外遊離ともいう。

(19)俗に、後光がさす、と言っているもので、一種の変容または変貌現象。

(20)Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。

(21)当時の民衆の尊敬を得ながら、現実には空理空論をもてあそんでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながらも、社会にとっては無くてはならぬ存在である収税吏の方が上であるということ。

(22)伝説的には、かつて売春婦で、イエスの教えで信仰に目覚めた女性とされているが、中巻でも触れたように、エリオットの『聖書の実像』によると“マグダラのマリヤ”の“マグダラ”には“癒やされた”という意味があるという、つまりイエスの霊力によって難病が癒やされた美貌の女性で、その感謝の印として生涯イエスに物質面で貢(みつ)いだということらしい。売春婦とされたのは、イエスを妬む者たちがでっち上げた中傷であろう。

(23)モーセの律法が記された巻物などが納めてある入れもので、ユダヤ教では神聖にして侵すべからざるもの。

(24)シルバーバーチは、イエスの死体はどうなったのかという質問に答えて、ただ一言“Banished.”と答えている。これは目の前から姿が無くなることを意味する語で、ここでは心霊学でいう“物質の気化現象”が起きたことを言っている。物品引奇現象(アポーツ)では、いったん気化して室内に持ち込み、それから再物質化するということが行なわれているが、イエスの肉体は気化されたまま大気中の元素に還元されてしまった。それを背後霊団がやったというのである。

「私は確信をもって今の時代に役立つと思います」シルバーバーチ霊の思念と思われますが(祈)†■2023年2月15日UP■
「私は確信をもって今の時代に役立つと思います」シルバーバーチ霊の思念と思われますが(祈)†
僕もこれまで果てしなく霊的知識をお勉強し続けてきて、霊言を降らせる事の重大性は十分すぎるほど理解していますから、シルバーバーチ霊の言葉に反対を表明するほど愚かではありませんが、霊界にはウソというモノが存在しません、僕の心の中など霊団およびシルバーバーチ霊には全て丸見え筒抜けですからあえて正直に書かせて頂きますが、ハッキシ言ってもうウンザリなんですよ。霊性発現(2012年6月)から一体どれだけの月日が流れていますか。この10年以上、霊団はひたすら口だけをピーチクパーチク動かし続けてきましたが物的状況には一切変化はありません、さも今動く、今変わる的な事を延々言われてその通りにしてきてハッとうしろを振り返ってみたら最低最悪の場所にただ閉じ込められ続けただけだった。僕が霊団に対して抱いている怒り憎しみの念はもはやただ事ではないレベルになっているのです、長年の蓄積があるからです…続きを読む→
「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†■2022年4月27日UP■
「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は、自身の大犯罪を隠し通さなければ本当に逮捕になってしまうため、いつまでもどこまでもウソ洗脳ニュースをメディアに流し続けて国民をダマし続けなければならない。つまり「明仁、文仁、徳仁、悠仁にはウソをつき続けなければならない理由、動機、必要性がある」僕、たきざわ彰人には、これほど長い年月にわたって画家の夢Dreamworkを捨てさせられてブログでウソの内容を書き続けるなどという行為をしなければならない必要性が全くない。そもそも僕の人生の目的は全く別のところにある。「僕にはウソを公言する理由、動機、必要性がない」そんな事しても別に何にもならない…続きを読む→
「回心」僕の心の中の反逆の思念がだいぶ消されています、完全に操作されています(祈)†■2023年7月26日UP■
「回心」僕の心の中の反逆の思念がだいぶ消されています、完全に操作されています(祈)†
今度こそ、今度こそ、その場所から脱出してやると固く固く固く固く固く決意して、山のアタック帰還後にそのアクションを起こそうと準備万端整えて待機状態にしていたのです。それが一体何がどうなっているのか、あれほど強く決断したはずなのに、僕の心の中から反逆の思念がどんどん消えていくのです、おかしなおだやかさが広がっていくとでも言えばいいのでしょうか。僕は全然そんな風(おだやか)になるつもりはないのに、何が何でも反逆を実行し完結させるつもりでいるのに、全然反逆する気持ちが湧いてこなくなっていったのです。こんな事は有り得ない、それで「あ!また“パウロの波長”をやられたのか」と、後になって気づいたのでした。完全に心を書き換えられた、その威力のすさまじさに改めて驚愕した、という事がありました。つい2、3日前の事です…続きを読む→

昨日のトレイルラン爆走ももちろんありますがそれより前から背中には大きなダメージを負っていまして、全く治る気配がなくて困っています。もちろん霊団に閉じ込められている最悪の場所でそのダメージを負っているという側面もあります。

どのみちこのままあそこに閉じ込められ続けるのは有り得ないという事になりますので脱出は実行します。反逆と言われるのは心外だ。どうしても霊団が脱出させないという事であればせめて日数を減らすだけでも十分効果があると思います。(週5を週2にするとか)

「JESUS Teacher And Healer」スキャン開始してます。この書籍もぜひ翻訳させて本文を読みたい1冊となります。近藤千雄先生にぜひ翻訳して頂きたかったですが、何とか自力、イヤGoogle翻訳を駆使して日本語にしてみましょう。

アナログ絵380が完全に止まってしまっていますので急がないといけません。このストーリーを描き終えたらフラー26の新規デザインを復活させるつもりでいます。作業時間が足りないとか言ってるわりには使命遂行と関係ない作業をしようとしてるな、と思われてしまうかも知れません。が、僕はデザインの人間ですのでデザインの血に従って描くという事になります。

あともうひとつ、僕は汗のかきすぎなんでしょうね、皮膚もかなりヤヴァイ事になっていまして、かなり危機感を募らせていますが、この皮膚疾患もたぶん気温が下がってくればおさまると思います。あとモチョト辛抱だ。とにかくまずスキャンは終わらせないと話が始まらないのでそちらに集中中(祈)†

「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†■2024年3月6日UP■
「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†
まず僕はいつものようにインスピレーションに備えてトランスを維持しています。(目は閉じた状態)すると突然僕の左肩に誰かが手を置きます。ちょうど僕のうしろから肩を叩かれて呼び止められたような格好です。で、僕は左後方に振り向きます。するとそこには全く知らない女性が満面の笑顔で立っています。ヨーロッパ系の女性のような感じでした。カラーリングの基調はゴールドで超鮮明な容姿でした。(香世子さんではありません、それだけは間違いありません)はい、今のこのお話は肉体のお話ではありません。この時、僕はふとんの中で目を閉じ、身体(肉体)はピクリとも動かしていません。しかしハッキリ左肩を叩かれ、左後方を振り向き、超鮮明な女性の笑顔を見たのです。全ては霊体でのお話です。※僕がその女性に向かって「あなたはどちらさま?」と言ったという事ですよ。そしてこの女性の件があった時、僕はトランスを維持しながら「自動書記の嘆願の祈り」を心の中で唱え続けていました。その僕の祈りを受けて女性が満面の笑顔で肩を叩いてきたのです。これはまるで「あたしが自動書記やるわよ」と言っているかのようなシチュエーションとなります…続きを読む→
■アナログ絵356UP。クレスで定期的におこなわれる「フラー講習会」の1シーンです(祈)†■2023年8月24日UP■
■アナログ絵356UP。クレスで定期的におこなわれる「フラー講習会」の1シーンです(祈)†
そしてももちゃんの成長ぶりを少し描きました。アナログ絵168の時と比べてだいぶオトナになっていますよね。使命感みたいなものも芽生えているようです。イエス様と出会ったばかりの時はシルキーと一緒になってただ単にはしゃいでいただけですが、その後イエス様にまつわる様々な事情をお勉強した事によって精神的に成長を遂げているという事を短いながら表現しています。で、この「イエス様とももちゃんのやりとり」の中にはひとつ間違いがあります。イエス様はももちゃんが質問する前からももちゃんの心の中が分かっていますから「ん?どうしたんだい?」と聞き返す事はないはずで、ももちゃんが質問を投げかける前にいきなり答えを話し出すはずです。…続きを読む→
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†■2024年2月7日UP■
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†
コイツらが僕を憎もうが憎むまいが、奴隷の女の子を信じられない人数、強姦殺人しまくって遊んできたコイツらは「神の因果律」によって自動的機械的に帰幽後、暗黒の底の底に落ちていく事になります。そこに僕の裁量などありません。自分のおこないによって自分を地獄に落としている、ただそれだけの事です。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分たちが1番偉いと本気で信じ込んでいます、この宇宙、上には上がいる事を全く理解できません、物質界生活中、生まれてから死ぬまでワガママ放題、自分の全人生をウソで塗り固め、国民を虐げて私腹を肥やし続けてきた奴らですから人格が全く形成されていません、幼稚極まるガキという事です。そんな奴らが反省などできる訳がありませんからいつまでもどこまでも暗黒の底の底でのたうち回りながら僕に対する憎しみを燃やし続ける事になるでしょう。しかしその憎しみの念は上層界で進歩向上の生活を送る僕には全く届きません。霊界は思念フィルタリングという機能がありますので下層界の邪念は上層界に届かないのです。(※「ベールの彼方の生活2巻」7章 天界の高地 3 霊界の情報処理センター 参照)…続きを読む→

WordPress霊関連書籍ヘッダーJesusTeacherAndHealer

ホワイトイーグル霊の英語書籍の入手をしばらく控えた方がイイかも知れません、もう全然作業が追いつかないからです。まず現在英文見直し中の「Paul In Athens」これが超難関書籍で全く終わる気配がありません。

「Spiritual Unfoldment One、Three、Four」もWordPressへの訳文掲載は当分先になりそうです。アナログ絵も描かないといけませんし近藤千雄先生の書籍もまだまだたくさん残されています。もう全然作業時間が足りないのです。作業時間捻出という意味でも脱出はもはや必須と言いたいくらいです反逆なんてとんでもない。

昨日のトレイルラン爆走のダメージもありますので今日の作業はここまでとし明日以降にスピードアップさせましょう。脱出はもはや反逆じゃない、使命遂行前進のための必須要素だ。霊団にどれだけ脅されても脱出を達成してみせる、でなければ全然作業が追いつかないからです(祈)†

「お前の行動に制限を加えていたんだ」この最悪人生は霊団主導でやらされているという事です(祈)†■2024年9月18日UP■
「お前の行動に制限を加えていたんだ」この最悪人生は霊団主導でやらされているという事です(祈)†
コレは「ペナルティの内容」という事でイイと思います。確かにこの数年、僕は脱出しようとしてありとあらゆるアクションを起こしてきましたが、成功確率0%、信じられない事に何ひとつ上手く行っていません。明らかに脅しと受け取れるインスピレーションを多数受け取り、泣く泣く脱出の試みを頓挫させられた事が何度あったか知れません。そこまでして閉じ込めてくるのが僕には異常と思えてならず「そのパワーを物質界の邪悪の滅亡に使えよ」と言いたくて仕方ありませんでした。使命遂行開始初期の頃、霊団は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を僕に果てしなく怒涛に教えてきて、ももちゃんを筆頭とした奴隷の女の子の存在も猛烈に教えてきました。僕はその導きに従って天皇一族の邪悪の正体を徹底的に情報拡散してきた訳ですが、あるところから霊団が全く正反対の行動をとり始めます。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を全く滅ぼすつもりがない、奴隷の女の子に関してはまるっきり助けるつもりがない、見殺しにするつもりであるとハッキリ言ってきて、僕は耳を疑う事になります…続きを読む→

240918お前の行動に制限を加えていたんだ

バトルと思っているのは僕だけなのでしょうが霊団とのバトルがずっと続いています。僕は何が何でも脱出するつもりで猛烈に準備していますが、霊団は僕を全力で閉じ込めようとしています。そこまでする必要が一体どこにあるのかがまるっきり意味不明。まずは少ないインスピレーションをこのように羅列してみますが↓

この最悪人生、いつまでやらされねばならないんだよ、そこまでして懲罰を受けねばならないのか僕は。確かに反逆はしているかも知れないけど使命遂行は1日の休みもなく全力で続行している。どうにもこうにも釈然としない。んんん、撃つべきは撃っていきましょう。

16

アナログ絵16

この「16」とはアナログ絵16の事ですが、だぁかぁらぁ、なぜこんな大昔に描いた絵を今さら持ち出してくるんだよ、この時と現在とでは状況がまるで違うだろと首を傾げずにはいられないのですが、この絵を見返してみると、僕が一刻も早く帰幽を望んでいるが帰幽させてもらえずに物質界に閉じ込められているといった内容です。

まだまだキミに試練を降らせるよ、簡単に帰幽はさせないよ、そういう意味でしょうか。だったら使命遂行を前進させればいいだろと思うのですがそれもしない。霊団の動きを見ていると僕の個人的罪障消滅のみを目的としていて物質界の邪悪の滅亡の事などまるで眼中にない、そういう風にさえ見えます。

罪障消滅だけだったら霊性発現させる必要なんてなかったんじゃネィのか。守護霊様にその仕事を継続させればよかっただけの事なんじゃネィのか。わざわざ霊性発現させて守護霊様を守護の任から外させてこの使命遂行をやらせたのは何のためだったんだよ。

僕という霊の道具を駆使して達成したい目標があったからじゃネィのか。それを全くやろうとせずただ罪障消滅のための試練を降らせるだけと言うなら守護霊様の管轄に戻せばイイだけの事だろ。100の光の霊団の仕事はそんなパーソナルなモノじゃないはずだろ。ホンッッットウに首を傾げるよ。

↑目次へ↑

ゴメンね 傷跡はみな永遠を受けた成長の証♪ これ以上オススメしません ない事は決してない

240918これ以上オススメしません

「ゴメンね」これは霊団がしつこくしつこく、もう何度言ってきたか覚えていないくらい繰り返し言ってきているインスピレーションで、つまり僕がイヤでどうしようもない状況を継続させると言ってきている訳ですが、僕の側にも事情がありますので黙って閉じ込められる事を了承する訳にはいかないのです。

イヤでどうしようもないところに閉じ込められている、その精神的理由ももちろんですが、もう肉体的にも限界値で、これ以上あの狂った部屋でこき使われるのが耐えられそうもない状況なのです。事実去年のスノーシューアタックを断念せざるを得ない状況にさせられていますし、このまま行ったら使命遂行も続行不能にさせられてしまいます。

この霊団とか名乗っている奴らは一体何がしたくて生きているというのか。使命遂行続行不可能な肉体的ダメージを受けるまで閉じ込めるつもりなのか。あんたたちの目的は一体何なんだよ。ただ単にイジメイヤガラセとしかもはや思えない。こんな理不尽な導きにこれ以上従えるか。

「傷跡はみな永遠を受けた成長の証♪」これはあるメロディーに乗せて降らせてきたインスピレーションだったのですが、そのメロディーは忘れてしまいました。ただ言っている事は霊的知識に即した内容で僕も十分納得できるのです。物質界で辛酸を舐めて霊格を高めるという意味で、それは了解です。

しかし何度も書いていますように「物事には限度というモノがある」僕はもうとっくの昔に限界値を突破しているのです。つい最近限界を感じるようになったのではなくだいぶ前から限界値を突破しているのです。その突破状態を延々継続させられているので僕の怒りが最高潮に燃え上がっているのです。

「これ以上オススメしません」これは僕の反逆をこれ以上続ける事をオススメしないと霊団が言ってきているのですが、そう言われてハイ分かりましたとはならないんですよ。もう僕の限界値を完全に突破しているので絶対にこのまま閉じ込められる事を了承する訳にはいかないんですよ。

これ以上反逆すると僕の帰幽後の霊界生活に重大な障害が発生するのでオススメしない、という意味で間違いないものと思われますが、そう脅されてもなおこの状況を受け入れる事ができません。どうしてもこれ以上閉じ込められるのがムリなのです。

「ない事は決してない」これは意味が分からないのですが、たぶん「アキトくんはもう耐えられないと言っているが、耐えられないという事は決してない、キミは肉体的、精神的、ともにまだ余剰を残している」とでも言いたいのではないでしょうか。

ジョォォォダンじゃネィよ。つまり死ぬまで苦しみを与え続けるつもりと、そういう事か。そう言われてハイ分かりましたってなる人間がいたら連れて来てみてくれよ。この全宇宙にそんな人間いる訳ネィだろ。邪悪の滅亡は一体どこに消し飛んでしまったんだよ。あんたたちのやっている事はもう僕をイジメる事一辺倒になってるじゃネィかよ。

↑目次へ↑

テニスやるそうです 信じられない 怖い

「テニスやるそうです」これは何のインスピレーションですか?全く意味が分からないんですけど。僕は幼少期を含め人生の中でテニスをやった事は1度もありませんので、僕以外の人間の事を言っているのでしょうか。テニスは大変メンタルなスポーツですので僕のメンタルの強靭さが足りない事を指摘しようとしているのでしょうか。回りくどい言い回しだな。

「信じられない」「怖い」これも僕の思念ではありませんね、誰の事を言っているのでしょうか、これだけでは全然分かりません。ただ、僕の使命遂行の進捗をご覧になった方の思念、感想である事は間違いないでしょう。

で、こういうインスピレーションを霊団は過去数えきれないくらい降らせてきていますが、感想じゃなくて結果を出せと言ってるんですよ。僕を霊性発現させてから一体何年が経過しているか言ってみてくれよ。あんたたちはひとりの人間の人生を一体何だと思ってるんだよ。

「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†■2024年5月22日UP■
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†
実は何もやる気がないのではないか。この12年の霊団の動きを見ればおのずとそういう回答が導き出されるのではないか。僕は霊団の事を「口だけ霊団」と公言していますが、この言葉は実は大正解なのではないか。本当にこの霊団とか名乗っている奴らは最後まで口だけピーチクパーチク動かして何もやらずにボケっと見てるだけで終わらせるつもりなんじゃないのか。要するに「アキトくんの場合はインスピレーションで事足りているのでわざわざ低次元の霊媒現象をやらなくても我々の目的をだいたいにおいて達成している」という事なのかも知れません。インスピレーションが霊界側にとってもっとも自然な交信方法という事は霊的知識をお勉強して頂ければ分かります。霊媒現象というのは霊力に感応しない物質界の人間に霊的な事を理解させるために霊界側が物的次元まで波長を下げる犠牲的仕事ですが、物質界の人間がインスピレーションを受け取れるようになってくれれば、そしてさらにそのインスピレーションによる導きに従ってくれれば、霊界側はその犠牲的仕事をせずに済み、思念の送信だけで目的達成できますからこんな簡単な事はない、という事になります…続きを読む→

↑目次へ↑

6年 ペテロと同じ お前の行動に制限を加えていたんだ

240918ペテロと同じ240918お前の行動に制限を加えていたんだ

なぜそこまで執拗にイジメ続ける必要があるのか、なぜ物質界の邪悪の情報を教えてきておきながら全く滅ぼすつもりがないのか。永遠に理解できませんが今回は「お前の行動に制限を加えていたんだのインスピレーションをブログタイトルに冠しました。

「6年」「ペテロと同じ」えっと、僕は聖書を一切読んでいませんので詳しくないのですが、12使途のリーダー格であるペテロは主イエスに反逆の意思を示した事があるが、その罪業消滅をかなりの短期間で済ませてそれ以降は数々の病人を治療するなどの奇跡をおこなった、と、だいたいこういう感じだったと思います、細かいところは違っていると思われますが。

で、残念ながら僕も霊団に対して本気の全力で反逆していますので、そのペナルティが課せられる事になるのですが、現在僕が徹底的に自分の心が望まないところに閉じ込められているのがその「ペテロと同じペナルティ」という事なのでしょうたぶん。

で、そのペナルティの期間が6年という事のようなのですが、間もなく6年が経過するという意味か、これから6年のペナルティが開始されるという意味か、どちらか分かりません。これから6年という事であれば、それはチョト耐えられそうもありませんムリです。

んー、反省していないと判断されてペナルティ期間が延長されたらたまったものではありませんのであまり深く突っ込んだ事は言うべきではないのでしょうが、イヤ僕はそこもおかしいと思っていて「それではまるっきり脅しじゃネィか」と思いますし、ペナルティという脅しをかけられて言いたい事も言えなくさせられる、それが霊的仕事なのかと僕は逆に文句が言いたいのです。

反逆と表現していますが僕は使命遂行を日々全力でおこなっています、やめるつもりなどサラサラありません、いま自分にできる事を体力、精神力の許す限り限界の限界までおこなっています。

ココまでやっていてペナルティを受けるというのがどうにも釈然としませんし、6年という期間も長すぎると思いますし、人にペナルティを課す前にあんたたち(霊団)は全く仕事やってネィだろと、僕的にはツッコミたい事がたくさんあるのです。

んー、僕などという男より遥かに叡智に長けた方々が判断される事ですから文句を言えば言うほど苦しい状態にさせられるのでしょう。謙虚に導きに従う事が長期的に見た時に必ず自分のためになると霊的知識的見地からも分かっているのですが、僕がやっている事はやはり「正当防衛」という言葉がいちばん的を得ていると僕は自分で思っています。

とにかくやりすぎ、ヒドイ状況に留め置きすぎ、試練の度が過ぎる、どうしても理不尽な思いが沸き上がってきて、それが反逆、反省の念が足りないと判断されてさらなるペナルティとされてしまうのかと思うと「じゃあもうイイよ」という自暴自棄的な気分にもなってくるのです。

僕の目には「イジメ」としか映らないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させる事は一切やろうとせず、僕をイジメる事にだけ全力を投入してくる、僕にはそう思えてならないので理不尽な気持ちが払拭できないのです。

「お前の行動に制限を加えていたんだんー、最後にこちらの説明をしてみようと思いますが、コレは「ペナルティの内容」という事でイイと思います。確かにこの数年、僕は脱出しようとしてありとあらゆるアクションを起こしてきましたが、成功確率0%、信じられない事に何ひとつ上手く行っていません。

明らかに脅しと受け取れるインスピレーションを多数受け取り、泣く泣く脱出の試みを頓挫させられた事が何度あったか知れません。そこまでして閉じ込めてくるのが僕には異常と思えてならず「そのパワーを物質界の邪悪の滅亡に使えよ」と言いたくて仕方ありませんでした。

使命遂行開始初期の頃、霊団は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を僕に果てしなく怒涛に教えてきて、ももちゃんを筆頭とした奴隷の女の子の存在も猛烈に教えてきました。僕はその導きに従って天皇一族の邪悪の正体を徹底的に情報拡散してきた訳ですが、あるところから霊団が全く正反対の行動をとり始めます。

「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を全く滅ぼすつもりがない、奴隷の女の子に関してはまるっきり助けるつもりがない、見殺しにするつもりであるとハッキリ言ってきて、僕は耳を疑う事になります。僕でなくても誰でもそうなるでしょう。
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†■2022年9月28日UP■
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†
奴隷の女の子たちを助けてあげてしまったら、その人間の「罪障消滅」を遅らせる事になり、永遠の視点で考えた時、必ずしもその人間を助けてあげる事にはならないのだ。これは霊的知識としては理解しても、どうにもこうにも釈然としません。奴隷の女の子の存在を知らされずにいたのであれば「知らなかったのだから助けてあげられるはずもなかった」と言い訳もできますが、僕は霊団に奴隷の女の子の存在を徹底的に教えられてここまで使命遂行してきたのです。知らずに犯す罪より知っていて犯す罪の方が何倍も重い、と霊的知識にあります。奴隷の女の子たちが今こうしている間も「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に四肢切断、強姦殺人され続けている事を知っていながら、助けようともせずその悪行を黙って見ているという霊団の考えには、何をどう頭をひっくり返しても賛同する訳にはいきません…続きを読む→

言い出しっぺでこの仕事をやらせた仕事の本体である霊団がまるっきり正反対の態度を表明し始めたのですから「一体何がどうなってるんだ」と首を傾げるのが当然なのです。しかし霊団を擁護するような事は言いたくないのですが、やはりこちらのアナログ絵123に帰着するのではないかと思います↓

アナログ絵123

霊団は全情報に通観した状態で大俯瞰から状況を眺め、判断しています。僕は肉体という牢獄に閉じ込められ極端に視野が狭められた肉眼でしか物事を見て判断する事ができませんから、僕の小我の判断より全体が見通せる霊団の判断の方が大局で見た時に正しい、というのが霊的知識から導き出される結論となります。

しかし知識としてそれを理解していても僕は実際に自分の人生で明けても暮れても最悪をやらされているものですから「いくら何でもやりすぎだろ、そろそろいい加減にしてくれよ」となるのです。

「お前の行動に制限を加えていたんだなぜ僕の行動に制限を加える必要があるのか。それが霊団が再三にわたって僕に言ってきている「スピードダウン」と関係があると思われます。

要するに霊団は長期的に目標を達成しようとします。僕の残された物質界人生の中で問題を全解決しようとは思っていません。最終的に霊団の思惑通りになればイイのであって僕の物質界人生はその中のひとつのコマでしかありません。僕という道具ではココまで仕事を進める、次はこの道具を使ってココまで進める、といった具合に。

何しろ霊界には時間の概念がありませんから肉体に包まれ物的天体(地球)の自転の影響を受けながら人生を送っている僕たちにはどうしても霊界側のモノの考え方が理解できないという事になってしまいます。

霊体は歳を取らず永遠の現在を生きます。霊界は物的天体の回転の影響を受けません。物質界生活者と霊界生活者とでは根本的に価値判断基準が異なるという事を念頭に置かねばなりません。その理解が最高にムズカシイのですが。

ですので僕は霊団に「お前の行動に制限を加えていたんだと言われて簡単に納得できずにいますが、大俯瞰で全体を眺められるようになれば霊団の言っている事の意味が分かるようになる…んだろうなぁという漠然とした理解しかできません。

そしてこれも小我と言われて一蹴されてしまうのでしょうが、僕はココまでヒドイ状況に閉じ込められねばならない意味がどうしても分かりません、それがペナルティと言われてもやはり釈然としません。僕は自分にできる事を限界までやっている、あんたたち(霊団)はやってネィじゃネィか、そう思えてならないからです。

なぜ霊団はスピードダウンと言い続けてくるのか、それは一応「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に僕が殺されないようにする防御の意味があるのでしょう。しかし僕は霊性発現後から一貫して「帰幽カモン」と公言し続けています。

僕はそもそも物質界に残っていたくないのです、一刻も早くこの最低の境涯から離れたいのです。やるべき仕事をやり切って帰幽できれば別にそれでイイ、必要以上にココに残り続けようなどとは夢にも思っていないのです。なので僕に試練ばかり降らせてきて全然使命遂行を前進させようとしない霊団のやり口が頭にきてどうしようもないのです。

地球圏霊界の人間というのはそんなに強姦殺人魔が大切なのか。強姦殺人魔は地球圏の霊的進歩向上に必要だとでも言うつもりなのだろうか。明仁、文仁、徳仁、悠仁にケタケタ笑われながら四肢切断、強姦殺人され続けている奴隷の女の子たちを、霊界上層界の人間たちはどういう心境で見下ろしているというのだろうか。

僕はシャレじゃなくかなり本気で地球圏霊界という存在の場に興味を失い始めています。とはいえ僕たち物質界に籍を置く人間は元々地球の子供ですから帰幽後は地球圏の霊界に帰っていく以外にないのです。ですので僕は地球圏霊界から離れたいという願望を抱いていますが、もちろんそれは叶えられる事はありません。

1千万年後、1億年後には進歩向上を果たし切って地球圏を超脱し、より進歩した惑星圏に進出するという事もあるかも知れませんが、どのみち当分は地球圏で研鑽を積み重ねる事になり、僕の願望は全くのお笑い草「とんだお子ちゃま」という事になるのでしょう。

最後に霊的知識の基本中の基本を述べて終わりにしましょう。僕たち人間は「死んだら終わり」ではありませんよ。死ぬという現象は肉体という衣服を脱ぐだけの事です。僕たち人間の本体は「霊(肉眼に映じないモノ)」であり、その霊が肉体を脱いで霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界生活に突入する、それが死と呼ばれている現象です。

つまり人間に「死」はないという事です。「わが父の家には住処多し」というヨハネ氏の言葉もありますように、物質界でどのような生活を送るかによって霊格が形成され、帰幽後にその霊格に見合った境涯へ自動的に引かれ上がって行ったり(上層界)引かれ下がって行ったり(下層界)します。

つまり天国に召される人間は物質界人生の中で自分を天国に押し上げるおこない(善行)をした人間という事になり、地獄に落ちる人間は物質界人生の中で自分を暗黒の底に落とすおこない(悪業)をした人間という事になります。つまり自分の帰幽後の未来は自分で作り上げているのであり、誰かに裁きを受けて天国に向上したり地獄に落とされるのではなく完全に自己責任という事です。

「神の因果律」は絶対的に公平、公正です。寸分の狂いもなく善行には褒章が、悪行には反省の境涯が与えられます。つまり「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は想像を絶する人数の奴隷の女の子を強姦殺人しまくっていますから、物質界生活中にどれだけ洗脳ニュースを流しまくって善人を装っても帰幽後に魂も凍る真実の地獄が待ち受けているという事になり、完全に自業自得なのです。

少なくとも僕たち日本国民はその洗脳くらいは撃ち破って真実の理解に到達せねばなりません。いい加減に目を覚ましましょう。メディアが流してくる洗脳情報にアッサリコロッとやられるという旧式の思考パターンから卒業しましょう。

そして返す返すも分からないのが、その大量強姦殺人魔どもを全力で守ろうとしているかのように見える霊団の動きなのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁には指1本触れようとしないが僕の事は徹底的にイジメてくる。実に公平、公正だ。納得できる。地球圏霊界をいつか離れられますように(祈)†

↑目次へ↑

「成長している」霊団が僕を最悪の中に閉じ込める理由がコレなのだそうですが(祈)†■2024年9月11日UP■
「成長している」霊団が僕を最悪の中に閉じ込める理由がコレなのだそうですが(祈)†
僕はずっと「反逆」という表現を用いていますが、これは反逆ではなく正当防衛だ、僕が脱出しようとしているのは人間として至極当然の事だと、かなり本気で思います。理不尽にもほどがあるだろ、全く何の結果にも到達させないつもり、ただ苦しみだけを延々味わわせると言われて誰がそれに従うか?んんん要するに「視点の置きどころ」が僕たち物質界生活者と霊界生活者とでは根本的に違うという事ですね。霊界には時間の概念がありませんし、物質界で学ぶべきを学ばずに下層界でたむろしている大量の低級霊に長年悩まされている事情もありますから、地球圏を経綸している方々としては強姦殺人魔の問題のみならず地球圏が抱えている問題も解決させたいという願望もあるのでしょう。で、悔しいですがこういう風にまとめるしかないでしょう。僕は霊団の仕事の進め方に超超超ムカついています。しかし現在僕を導く仕事をしている「100の光の霊団」のメンバー達も、かつて物質界生活中に現在の僕と同じような目に遭わされてそれを耐え抜いた方々であるという事です。でなければこの仕事を与えられませんので。できない人間にやらせる訳がありませんからね…続きを読む→
「戦争の可能性をすごく感じています」以前から何度も同じ意味の事を降らせていますが(祈)†■2024年9月4日UP■
「戦争の可能性をすごく感じています」以前から何度も同じ意味の事を降らせていますが(祈)†
まず霊的知識をお勉強しておられる方には改めて言うまでもないと思いますが、戦争ほど愚かなおこないはありません。なぜかと言えば、人間とは「神」を共通の親とした霊的大家族、霊的同胞であり、戦争で敵国の人間を殺す事は自分の家族を殺す事と同義であるという霊的知識を全く理解していないという事になるからです。つまり戦争を起こす人間は霊的に全く無知の人間という事になるのです。霊的な事を理解している人間であれば戦争という愚劣行為はしないはずだからです。単純に物的側面だけを見ても何の問題解決にもなりません。一部の人間が利益を得るだけ、そいつらのために何千何万という人間が無意味に殺され、物質界で学ぶべきだった事を学べずに中途で強制帰幽させられて人生に大変なマイナスを背負う事になってしまうのです。戦争を続けているという事は、その種族、その文化がまだ全然霊的に成熟していない事を意味するのです。僕たち地球人類が宇宙全体から見た時にまだ全然進歩向上していない原始的種族という意味ですよ…続きを読む→
「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†■2024年8月29日UP■
「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†
やはり「海割り」のシーンは何度見ても爽快ですね。この紀元前12世紀のモーセ氏が僕の「100の光の霊団」に協力して下さっているなどという事がどうして信じられるでしょう。霊団にそのような事を言われてもまるで絵空事のように聞こえます。よほど強烈な霊現象か何かでもこの眼で見ない限りそんな事は信じられるはずもありません。しかし霊団は「私を信じて欲しい」と言ってきてます。このインスピレーションがモーセ氏の思念という根拠はどこにもありませんので、まずは静観しておきましょう。これまでの霊団の動きからして、何もなく素通りしていくに決まってますので。ひとつたりとも言った通りになった事がありませんからね。しかし久々にムービーの作業をやってみて、やはりムービーは大事だなぁと改めて思ったりもします。僕はYouTubeにムービーをUPしても100%消されますから「消されると分かっているモノに対してパワーはかけられない」という気持ちが働いてトレイルムービーを作り続けられなくなったという経緯がありますが、このようにWordPress上にUPする事も一応できます…続きを見る→
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†■2024年8月28日UP■
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†
僕たち人間は本体が霊で、その霊が肉体、幽体、霊体等の表現媒体をまとって自己表現をしていますが、この「霊」さえも【神】の生命表現のひとつでしかなく、この霊の先にさらに何かあるそうなのです。それは完全に次元が異なる問題ですので物的言語などでは全く説明不可能であり、どの霊関連書籍にも「霊の先にあるモノ」については一切叙述がありません。通信霊自体がその事を知らないからだそうです。例えばレッドインディアン、シルバーバーチ霊を霊界の霊媒として霊言を語っておられた3000年前に物質界人生を送っておられた高級霊(僕はこの方がエリヤ氏だと思っているのですが)この方は間もなく地球圏を脱出する寸前まで霊的に進歩しておられるそうですが、たぶんその先に「霊を超えた何か」が待ち受けているのではないでしょうか。僕は「地球圏霊界を脱出する」と公言していますが、エリヤ氏でさえ3000年経過してまだ脱出に至っていないのですから、反逆まみれのお子ちゃまの僕が地球圏を脱出して霊を超えたモノを理解するようになるのは1億年、100億年先となるでしょう。まさに「身の程を知らない恥さらし発言」という事になるのです…続きを読む→

八ヶ岳アタック1340プロセス実行

何とか眠い目をこすってテキスト撃ち続けていますが、本当にこの作業が苦しくて仕方ありません。撃っても撃っても全く何の成果も上がらない事がいちばん苦しいところで、こんな状態にさせられてどうモチベーションを維持しろって言うんだよと、霊団にキレるのが当然の状況なのです。

やるべき作業がありすぎて、それらが全然進まなくて、このままでは本当に作業を残した状態で帰幽するハメになってしまう、それは認められない、何としてもやり切らないといけない、そのためには作業時間を増やさないといけない。しかし霊団は正反対の事を言ってくる。っとと、一旦切りましょう。間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†

まずは昨日のガス、ルートミス撮影の画像をUPですが、案の定、足にはかなりのダメージが残っており特に背中がキビシイですが、もうそんな事は言ってられない、説明したくもないイヤな内容を撃つしかありません。いつまでこの人生をやらされるんだ。もう本当にいい加減にしてくれ。

ホワイトイーグル霊の書籍が1冊到着してます、こちらもメチャ時間がかかりました、長文ブログUP後に画像をUPさせて頂きます。スキャンしなければならない書籍が手元に3冊あります。全く作業時間が足りません。何が何でも作業時間を捻出してみせる。霊団にどれだけ反対されても脱出してみせるぞ。フゥゥ、イヤなテキストを撃ってみましょう(祈)†

稜線上に出るとまたまたまたしても強風とガス。今シーズンは全然グラデーション撮影ができずにいます。霊団の呪いか?などと思いつつ仕方なく稜線から一旦引き上げて今まで1度も足を踏み入れた事のないコースをテストする事にしました。

そのテストのおかげで今後撮影に使えそうなポイントを発見する事ができたのですが、撮影を終えて下っている最中に道標を見逃して間違ったルートに直進してしまい、久々にパニクってアチコチ右往左往、かなり焦りましたがようやく元の分岐に戻って正しい方向に下り始める事ができました。

しかしこのルートミスによってゴール予定タイムがかなり遅れる予測となり、ゴールが遅れるイコール家に着くのも遅れる、イコール明日の長文ブログが切迫する、自分で自分の首を絞める状態となってしまうため「あとは下りセクションのみだ、もう走るしかない」という事で超久々にトレイルランを敢行。

危険な場所だけはスピードを落としますが、フラットなところはできるだけ走って下ります。イヤ、こんなに思いっきりトレイルランしたのは山に行き始めた当時、若い頃以来でしたので自分でもビックリ。こんな大きくて重いザックを背負って走るのはかなり異常事態ですが、ルートミスの遅れを何としても取り戻したかったのでとにかく走る走る。

おかげで予測ゴールタイムより30分早くゴールできました。たぶん明日、足に猛烈なダメージが来るでしょうが今回は走るしかなかった。明日の長文ブログネタは枯渇してますが、僕が書きたくない内容ならあります。それを書かされる事になる可能性が大なので今からウンザリです。トレイルランのダメージを少しでも回復させないといけませんので早めに休ませて頂きます(祈)†

冷凍コーン、冷凍ポテトを解凍してタッパーに詰めたりしていました。かろうじて運転中にワンハンドで食べられる、コンビニでポテチを買うより安く済むという事で採用したのです。確実に節約になっていますが手間がかかる、ハッキシ言ってメンドクサイ、しかし脱出のためにはやるしかない。

アナログ絵380の描画が止まっていますが今日はしょうがなかったかなぁ、かろうじて少しスキャンしました。そして「Paul In Athens」英文見直し20%完成中、まだ全然終わりが見えない正真正銘の地獄。この書籍は今まで入手してきた全書籍の中で最強レベルの難しさかも知れません。

明日はグラデーション撮影はできそうもありませんがわずかな可能性にかけて標高を上げます。できる限りの撮影をしてくるつもりですがそれより帰還後の長文ブログがピンチです。いつものごとくというか何というかインスピレーション枯渇状態でほとんどネタがありません。霊団のやる気のなさが絶望的レベルとなっています。

やる気がないなら物質界の試練を終わりにしてくれ。何の成果にも到達せず試練だけを延々とやらされるのは死んでもガマンならぬ。理不尽の究極形、断じて認められぬ。なぜ何の成果にも到達してないのに毎日こんなに忙しんだ。これだけ忙しく作業を続けているんだから何かしらの結果に到達するはずだ。この人生は絶対におかしい。僕は認めない。まずは山に集中中(祈)†

■2021年3月26日UP■
「クスリとダマしてガン注射」僕の暗殺の超具体的方法を霊団が幽体離脱時映像として降らせてきました(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は(というよりコイツらの部下の下僕たちが)様々な毒物の開発製造を手掛けていて既に完成している。その中にはガン細胞そのものを注射するというものまである。その毒物を人々にバラまいて感染させる手段として、白衣を着て人々から「先生」など呼ばれている「医者」「学者」のような人間を使用して、人々に「これは治療薬です、予防薬です」と信じさせて次々と注射して回ってドンドン毒物を感染させる方法を取ろうとしている。僕に対してもこの「医者を使用したダマし戦法」で暗殺を画策しており、毒殺ではなく病気(ガン)で死亡したと見せかけ「我々は治療を続けたが残念ながら手が及ばなかった」などと言い訳できる殺し方をしようとしている。さらに職場の同僚を使用して僕に注射を撃たせようとしていたのは「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の「責任逃れ」の典型的パターン、何か不具合が発生したら「毒(ガン)注射を撃ったのはこの人たちです」と責任を擦り付け自分たちはすっとぼけられるようにしている…続きを読む→
■2021年3月24日UP■
「分かりません」これは間違いなく文仁の法廷での「すっとぼけ」発言という意味でしょう(祈)†
日本人は強姦殺人魔が大好きで強姦殺人魔に血税をプレゼントし続け強姦殺人ライフを守ってあげて、強姦殺人魔の事を陛下だの殿下だのと呼んでおだて上げ続けている、強姦殺人魔に笑顔で手を振ってキャーキャー言ってはしゃいでいる、犯罪者にとってこれほど住みやすい国が他にあるだろうか、いやない。明治維新から一体何年の月日が経ったのか、日本人はまだ目が覚めない、洗脳にやられ続けている、何とダマしやすい人間たちなのだ、大変優しい民族性なのは尊敬に値するが、邪悪に目を閉じ続ける様子は残念としか表現のしようがない。僕たち日本国民はおおざっぱに世界の方々からこのように思われているものと予測します。特に韓国の方々は僕たちの事を内心呆れ返って見ている事は間違いないでしょう「洗脳にやられっぱなしのお花畑民族」といった感じに…続きを読む→

[1874年3月15日。この頃までに、他人の名を詐称する霊が出没しているから用心するようにとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで、一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られてきたが、その中でただひとつ普遍的な内容をもつものを紹介する。]

進歩派と逆行派

このところわれわれの要請がしつこくなっているが、それは、人を騙すために他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまで再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからです。いわゆる”未熟霊”の暗躍です。

その種の霊がひき起こす面倒や困難の危険性がそなたの身近に迫っており、その餌食(えじき)とならぬよう、最近とくに注意を促したばかりであろう。いかにもわれわれに協力しているかに見せかける霊が存在することを、われわれは確かめている。その目的とするところは、われわれの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにあります。

この点については十分に説明しておく必要がありそうです。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に、熾烈(しれつ)な反目があります。

われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いです。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いです。

逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集します。憎しみに煽られる無知蒙昧(もうまい)な者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持から加担する者もいます。

要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界から光明の世界へと導こうとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる魂胆からこれを阻止せんとする連中です。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できないのは、どうやら彼らの暗躍の実情がそなたの肉眼に映じないからであるらしい。

その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類です。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさなかった。その意念の赴(おもむ)くところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示しません。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得ようとします。

肉体的煩悩から抜け出せない霊たち

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失った後も、肉欲のみは失うことのできない、そうした哀れな霊たちは、感応しやすい同類を地上に求め、深みに追いやることをもって生きる拠(よ)り所とします。それをおいて他に楽しみを見出すことができないのです。

地上では肉体はすでに病に蝕まれ、精神はアルコールによってマヒされていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑(つ)きやすい呑んだくれを見つけては、けしかける。

けしかけられた者たちは一段と深みにはまる。それが罪もない妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるべき都会の片隅に、不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに、彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのです。

こうした“現実”がそなたたちの身のまわりに“実在”するのです。それにそなたたちは一向に気づいていない。そのような悪疫の巣がある – あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも批難の声が上がらぬのであろうか。

なぜか – 実はそこにも邪霊の働きがあるのです。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声がマヒされているからにほかなりません。その悪疫は歓楽街のみに止まりません。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのです。

かつての呑んだくれは – そなたたちの目には死んだと思えるであろうが – 相も変らず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変らず地上の同類の人間の魂を蝕みつづけているのです。

死刑制度の犠牲者

一方、人間の無知の産物である死刑の手段によって肉体から強引に切り離された罪人の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではいません。

毒々しい激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみを抱き – その罪は往々にして文明社会の副産物にすぎず、彼らはその哀れな犠牲者なのですが – その不当行為への仕返しに出ます。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽ります。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図ります。

一体いつになったら人間は、毎日のように、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑した都会生活の産み出す必然の副産物にすぎないことを悟るのであろうか。根本の腐敗の根元をそのままにして、何ゆえに醜い枝や葉のみを切り落とすのであろうか。

協同責任において産み出した哀れむべき仲間を、何ゆえに無慈悲に処分するのであろうか。それは生者の側の利己主義的手段であるのに、その利己主義者がなぜ憎悪に燃える霊を敵にまわして自業自得をくり返すのであろうか。

ああ、友よ、そなたたちの旧時代的刑法が誤った認識の上に成り立っており、犯罪防止どころか、むしろ悪用を産み出していることに気づくまでには、そなたたち人間は、まだまだ幾多の苦難を体験しなければならないでしょう。

こうして地上社会の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上界に舞い戻る邪霊の群れは、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵です。われわれの敵であり、われわれの仕事への攻撃の煽動者となります。至極当然の成り行きであろう。

久しく放蕩と堕落の地上生活に浸りきった者が、死後一気に聖にして善なる霊に変わるであろうか。肉欲の塊(かたま)りが至純な霊に、獣のような人間が進歩を求める真面目な霊に、そう易々と変われるものであろうか。

それが有り得ぬことくらいは、そなたにもわかるはずです。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙(ねら)いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれわれの敵です。

真理の普及がしつこい抵抗に遭うのは彼らの存在のせいであり、そなたにそうした悪霊の影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力を無視して彼らに攻撃のスキを見せることだけはないよう心掛けてもらいたい。

われわれはその危険性を、声のかぎり警告するものです。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのです。地上の罪悪と悲劇の多くは、そうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果にほかなりません。

地上の名誉を傷つけ、体面を辱(はずか)しめるところの、文明と教養の汚点ともいうべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業です。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも、彼らなのです。

諸悪の根元 – 物質文化と大都会

そなたたち文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇ります。文明を誇り、自国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと、大真面目で奔走しています。

いや、それどころか、それを“そなたたちだけ”に授けられた神の万能薬として、他国へ押しつけんとしています。その押しつけんとする宗教と文明がもたらしている現実については、言わぬが華であろう。

繰り返し説いてきたように、そなたたちの説く宗教は、真実のキリスト教の名に値する単純素朴にして純粋な信仰の、退廃的所産にほかなりません。誇りとしている文明も文化もうわべのみの飾りにすぎず、化膿した傷口はとうてい隠し切れず、霊眼には歴然として正視できません。それが人間性に及ぼす影響に至っては、その本来の崇高な感覚を汚し、空虚さと欺瞞と利己主義しか産み出せません。

その点においては、人間本来の感性を文明によって矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民アラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜きペテンにかけることに長けた文明国の狡猾な商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙な弁舌家、淫乱きわまる文明人よりはるかに高潔であることが、往々にして見受けられます。

地上の大都会は、まさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲のるつぼです!魂は真理に飢え、打ちひしがれる思いの中で途方に暮れています。霊的影響力を受けつけない雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静な雰囲気を求めて悶え苦しんでいます。

が、その悶えも、取り囲む闇の帷(とばり)を突き抜けることはできません。必死の向上心も、繰り返される悪の誘いに打ち砕かれます。折角の決意も邪霊に奪われます。

かくして彼らは、次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失っていきます。その段階に至れば、自暴自棄の念を吹き込むのは、いとも簡単です。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされます。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷 – 実はすぐ目と鼻の先の、そなたの同胞の住む都会であり、そこでは財産(かね)さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが – そうした巷から霊界入りする人間は、その後いかなる経過をたどるのであろうか。

彼らの住む環境は、見た目には、霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えない。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ちあふれている。金儲けのみが人生であり、愉しみといえば飲食と酒色です。雰囲気は金銭欲と権力欲と、その他ありとあらゆる形の利己心です。

そうした環境で暮らす人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか – そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、たずさわる仕事もない。

発育はいびつとなり、落着くところは古巣の地上でしかなく、カネと欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊につかまり、そそのかされ、欲望をいっそう掻き立てられ、われわれには近づき難い存在となります。

そうなったが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われわれは手を施すすべを知りません。辺りはむせ返る雑踏 – そこではカネのみが物を言い、利己心と貧欲と盗みが横行しています。邪霊集団の行動の中心地であり、そこから毒々しい影響力が発散されていきます。

富裕階級の退廃と堕落

が、人間はそれに一向に気づいていません。諸悪の根元について無知であり、その諸悪に格好の場を提供している点において愚かというべきです。悪の環境を永続させているのは、その愚かさにほかなりません。そして、地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれわれの努力を、いっそう困難なものにします。

たとえば結婚生活のもつ重大な意義について、これまでにもそれを正しく理解した高邁な改革者が幾人もいました。われわれも、そなたに理解しうる範囲で、見解を述べてきました。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っております。が、今はまだその時期ではありません。

差し当たりわれわれとしては、結婚生活というものが病気と犯罪と貧困と精神病等の重大な問題と密接に結びついている問題であることを指摘するに止めておきます。

それが人間との関わりにおいてわれわれを悩ませ混乱させているのです。その多くが結婚生活にまつわる愚劣な思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰 – 犯罪的であると同時に、より一層愚かしい法律に帰せられるべきです。

そのことは無知・無教養の階層に劣らず、教養ある上流階級についても言えることです。否、むしろその最大の罪は、富裕階層にあるでしょう。人間はこれまでの結婚にまつわる観念を大いに改めねばなりません。

結婚の美名のもとに行われる堕落の大根源を抹殺するには、まず、これまでそなたたちが良しとしてきたものに代って、幸福と進歩のための、より真実にして神聖な規範を学ばねばなりません。

われわれを誤解してはなりません!われわれは放縦を唱道する者ではありません。世に言う社会的自由の伝道者ではありません。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落します。その堕落した観念をわれわれは軽蔑をもって拒否します。

かの恥ずべき人身売買、もっとも神聖な生命の法則の侮辱ともいうべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われわれは結婚の美名のもとに行われる人身売買を軽蔑するものです。

そなたは、肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉体に宿って送る地上生活にとって必須のものであることを理解しておりません。そのことに関しては前にも述べましたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことですが、この問題においてもそなたたちはわれわれの敵に味方する結果となっております。

キリスト教徒が大切にしている純粋で崇高な霊的福音が地上にもたらされて、はや十九世紀の歳月が流れました。しかるにそなたたちは、真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、ほとんど成長らしい成長をしておりません。

いや、むしろイエスがその修行時代を過ごしたエッセネ派(1)にも及びません。イエスにもっとも辛辣な非難を浴びせた律法学者やパリサイ派と同列です。

そなたは何もご存知ない。肉体と霊の問題 – この世のみならず死後の生活にも関わる重大な意味をもつこの問題について、そなたはまるでわかっておりません。

以上、かつて言及しておいた、われわれに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみました。彼らは勢力を結集してわれわれの仕事を挫折させ、悩ませ、傷つけんとしてスキを窺っています。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によって、時々刻々、その勢力を拡充していきつつあります。

ますます巧妙化する妨害手段

これまでわれわれは、もう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために尽力している霊の集団については述べずにきました。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高い生きざま、心豊かな行為については、あえて述べずにおきました。

それは、われわれの差し当たっての仕事が、その反対の暗黒面を描いてみせることにあるからです。出来るだけその方向へそなたの注意を向けさせてきました。

言っておくが、われわれはその内面の姿を“有るがままに”描いているのです。この通信の底流にある深刻な事実、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われわれが担う仕事の今後の進展に大きく関わる重大な事実だからです。今しがた述べたことも、われわれに敵対する組織的集団についてすでに述べたことを繰り返したにすぎません。

が、これ以後ますます繁くなりゆくであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えてきました。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求がつのるにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄(ろう)し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企(たくら)みのもとに、多くの霊媒が輩出する可能性が大きくなるということです。

これは特殊な敵対手段であり、きわめて大きな危険性を秘めています。と言うのは、程度の低い霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちているのです。彼らは、目を見張るような心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと、強力に働きかけています。

いったん得心させれば、あとは簡単です。トリックとペテンを弄し、同時に真面目そうな道徳的教説を混じえつつ、徐々に疑念を誘い、はじめ霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと、肝心の道徳的教訓にまで広がっていきます。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ面白がらせるためのものではありません。肝心の目的は霊的教訓にあります。それに対する不信感を煽る手段として、これに勝る巧妙なものはありません。

人間は最後にこう言い始める – われわれは色々とやってみた。みずからも実験してみた。そして真相がわかった。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに、これは悪魔の仕業に違いない、と。

そう考えはじめた連中に正と邪を見分けるようにと説いてみたところで、もはや無駄です。揺らぎはじめた信頼がそれを許しません。はじめは信じてかかったものがニセモノであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫(がれき)となって散乱します。基礎が十分でないということであり、それでは建造物を支えることができなかったということです。

ハデな現象は要注意

繰り返し述べるが、これほどわれわれの仕事をマヒさせる悪魔的策謀はありません。このことを、われわれは厳粛な気持ちでもって警告するものです。必ずわれわれの警告にしたがって行動してもらいたい。

次から次へと、やたらに派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうした類は大体において低級で未発達な霊の仕業です。その演出には往々にして“招かれざる客”がたずさわっています。驚異的現象も、あまり度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては、大いに危険性があります。

心霊実験は必要です。われわれは決してある種の人間にとっての効用を過小評価するものではありません。求める者すべてに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思います。が、そうした物理的現象のみに偏った興味、魂の成長にほとんど役に立たない、うわべの興味にの始してもらっては困ります。

そうした現象にしか興味を抱かない者の目には、われわれの行なうことが時として人間のすることよりお粗末に映ることすらあります。が、われわれは現象そのものを目標としているのではありません。目標は一段高い次元にあります。

また、この世のものとは異質の存在がこの世に干渉できることを証明することだけで満足しているわけでもありません。もしもそれがすべてであるとするならば、そうした事実を知ることは、害にこそなれ益にはならないでしょう。

われわれはたったひとつの至上命令を下されているのです。その使命達成のために地上圏へ戻ってきたのです。それ以外に地上に用はないのです。その使命が何であるかは、すでにそなたにも分っているはずです。

信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われわれは、人間が神の火花を宿すがゆえに永遠不滅であることを証しに来るのです。旧(ふる)い時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫(えいごう)へと目を向けさせるためです。

われわれが不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のためにその本来の目標を脇へ置くことがあるのは事実ですが、あくまでも目的のためのやむを得ない手段として必要とみた上でのことであって、決してそれが望ましいことと考えているからではありません。

かりに無害であるとしても、われわれは同じ忠告をするであろう。が、現実には、われわれが最も恐れている反抗集団による攻撃手段とされており、それゆえ、そうした物的現象を無やみに求めたり、それをもってわれわれとの交霊の目的とすることを、声を大にして警告するものです。

前座のあとに真打ちが控えている

心霊現象は、あくまでも霊の実在を確信させるための手段にすぎないことを心得られたい。そのひとつひとつが霊の世界から物質の世界への働きかけの証なのです。“それだけのもの”と理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用してほしい。

現象はどういじくってみたところで、それ以上の価値は出てきません。それに、霊側がこれ以上やっても無駄とみた時は、そうした現象を得意とする低級霊に譲って引き上げてしまうものです。かくして折角の奥深い啓示の機会が逃げ去ることにもなります。

あくまでも現象を基礎として、そこから一歩踏み出さないといけません。現象にたずさわる知的存在の本性はいったい何であるのか、いずこより来るのか、その意図は何なのか、等々を知ろうとしなければなりません。

そなたたちとて、きっと、それが神の計画であり、その拠ってきた根源も意図も至純であり、必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂のたどる宿命と、人間が死と呼ぶところの変化にもっとも有効に対処できる心がけについて、納得のいく指針を得たく思うことであろう。

それは当然の成り行きです。なぜなら、万が一われわれが人類と同類でないとすれば、われわれの体験がそなたたちにいったい何の役に立つのでしょう。万が一そなたたち人間の不滅性を語れないとすれば、われわれがこうして存在し続けていることをいくら徹底的に証明してみたところで、いったい何の意味があるのでしょう。奇々怪々な話になるでしょう。これほど奇妙な話もないことになります。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探究にまで進めば – 要するにわれわれの意図を信じてくれればということになるが – その暁には、そなたがまだ知らずにいる世界に案内することができるでしょう。

その世界については、すでにはるかに奥深い啓示を手にしている真摯な求道者が他の国には大勢いるのです。そなたの国ではまだその恩恵にあずかれる者はわずかです。

こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(2)その他のぎこちない手段に比べれば、よほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段をへない直接的な霊と霊との感応に比べれば、足もとにも寄れません。

最高の交霊手段はインスピレーション

スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送ることができるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢います。

英国民の精神の不信心性と興味の唯物性と、雰囲気の低俗性のゆえに、われわれの思うに任せないことが、米国では着々と成果を挙げていきつつあります。われわれの仕事は、俗事を処理するようなわけにはまいりません。

われわれは心を読み取ってしまいます。ゆえに、実際には興味を覚えないのに、いかにも興味ありげに装ってみたところで – そなたがそうだというのではありません – 心底から信じないままわれわれの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもなりません。

いつの時代にも、いずこの国においても、常にそうでした。高級な霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おりなされます。が、時期尚早であることを悟って手を引くことがあります。

もっとも、このたび指摘するのはそのことではありません。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物理現象はそろそろ卒業して霊的知識へと進むよう忠告しようとしているまでです。

進歩には受け入れ態勢が先行せねばなりません。が、われわれとしては、そなたが少しでも早く物的束縛から脱して、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈るのみです。その目標に向かって迷わず突き進まねばなりません。有象無象(うぞうむぞう)の意見を振り切り、地上の生活者として、出来うるかぎり物的感覚から脱け出なければなりません。

永遠なる父よ!私たちはあなたの御名のもとに勤(いそ)しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちが語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚ましめ、私たちの説くところを悟らしめます。

願わくば彼ら地上の者の心に信仰心を育みたまえ。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればこそでございます。

†インペレーター

– 私は、右に述べられたことがすべて真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法と秩序が霊界にないのが理解できない、と述べた。何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に、彼らが他人の名を騙るという事実が不思議に思える。なぜそんなことに興味を覚えるのかが理解できない、と述べた。

イタズラを楽しみとする低級霊

われわれの世界に法も秩序もないかに想像するのは間違いです。そちらの側で整えるべき条件を整えてくれないことが、われわれの秩序ある努力を挫折させているにすぎません。

交霊会を催すに際しては、まずそれなりの条件を整えてくれないといけません。それさえ励行してくれれば、これまでのようなイタズラや混乱の半分は除去されるでしょう。もっとも、そなたたちのいう悪の要素が完全に抹殺される日は来ません。

何となれば、そうした体験も霊的鍛練のひとつだからであり、われわれとて、そなたの進歩を促す過程を免除してやるわけにはいかないのです。そなたもその過程を通過する必要があるのです。まだまだ学ばねばならないことが多々あります。こうした実際に即した体験もその勉強のひとつと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後も多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうしたイタズラを楽しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄(ろう)する才能をもっているということです。

人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は、サークルのメンバーが用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨(にら)みを利(き)かせれば、大ていは締め出すことができるものです。

むやみに交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それがために霊側の厳戒態勢が整わないようでは、彼らの侵入を許す危険が大です。われわれの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種のイタズラ霊の侵入を許しているとみてよいでしょう。

単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大真面目で聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを楽しみとして何の不思議があろう!

– そんなことでは、これで絶対に大丈夫という確信を得ることができませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが、結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対に安全といえる人がいるでしょうか。

猜疑心を注ぎ込む邪霊たち

その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみです。われわれの信頼性と誠意と客観性については、そなたはすでに証明済みです。証拠の上に証拠を重ねてきました。

われわれの道徳的意識の程度は、すべての面で一貫している誠意 – これまでに授けてきた教訓に一貫する基調をもって証明してきたつもりです。それは、そなたみずからの判断によって評価されたい。

そなたの評価を得てはじめて世のすべての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになります(3)。そなたは今すでにそれを、全体の傾向として、崇高にして善なるものであることは認めている。

われわれの身元、われわれの仕事、そしてわれわれの目的に関して、そなたは一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしています。

– おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっていれば、容易に私の信念を揺るがせかねなかったと思われます。

それは十分に有り得たことです。万一の場合、われわれがその働きにどこまで対抗できたかはわかりません。が、そのような危険に足を踏み入れることは、われわれはご免被(こうむ)ります。

あの場合にしても、どう警告したところで、彼らはそれに対抗して巧みに取り入り、うまく人の名を騙(かた)って、あげくには、ただでさえ心もとないそなたの信念に致命的な打撃を与えていたことでしょう。

そなたにとっては、真実、危険です。何にもまして、矛盾した偽りの言説はそなたに猜疑心を誘発せしめることでしょう。その猜疑心は最後にはわれわれへの信頼をも覆し、われわれは退散のやむなきに追い込まれることでしょう。

低級霊の餌食となりやすいタイプの人間

– 確かにこれは、関わりあうと実に危険な存在であるように思われます。

何ごとにせよ、乱用は感心しません。正用は結構であり、それを常に心掛けるべきです。軽薄な心でもって霊界と関わりをもつ者、単なる好奇心の対象にすぎないものに低俗な動機からのめり込んでいく者、見栄っ張りのうぬぼれ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、冗舌家 – この種の者にとっては危険が実に大です。

われわれとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに関わることは、絶対に勧められません。ゆゆしい危険性をはらんでいるからです。密かな魂胆を宿さず、賢明にして強力な背後霊に守られ、その指示に忠実に行動する者のみがこの道にたずさわるべきであり、それも、細心の注意と誠心からの祈りの念をもって臨むべきです。

不用意な関わりあいは断じて許せません。また、円満な精神と平静な感情の持ち主でなければ、とても霊界との完全な関わりあいは不可能であり、せっかくの地上生活に新たな禍いの種子を持ち込むことになります。

節度のない精神、興奮しやすい感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は、低級霊にとって格好の餌食となります。その種の人間が霊的なことにたずさわることは危険です。とくに、その求めるものが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めにすぎない場合は、なおさらのことです。その種の人間には、神の訓えは耳に届きません。

願わくば、聞く耳をもつ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして、高級界の、より聖純な大気の中へと進んでくれることを望むこと、切なるものがあります。

– それは、しかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っつきにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(4)、イスやテーブルが浮揚するのを見る方を好むものです。

確かにそなたの言う通りです。それはわれわれも十分に承知しています。が、現在の段階はあくまでも“通過せねばならない”段階と考えるべきです。われわれの仕事にも物理現象は付随します。

が、それは真の目的ではありません。われわれが期待している本来の発展の“地ならし”程度に考えないといけません。これより後も、各地でいっそう盛んに見られるようになるでしょう。

われわれはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはしません。遺憾には思うものの、その必要性は認めます。この件に関しては付言すべきことがまだまだありますが、今は控えます。しばし休息されよ。

– わずかばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。

良識に欠ける霊たち

邪霊集団の暗躍と案じられる危険性については、すでに述べました。それとは別に、悪意からではないが、やはりわれわれにとって面倒を及ぼす存在があります。

元来、地上を後にした人間の多くは、格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟ともいえません。肉体から離れていく人間の大半は、霊性においてとくに悪でもなければ善でもありません。

そして、地上に近い界層を一気に突き抜けていくほど進化した霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在についてはすでに述べました。

言い残したものに、もう一種類の霊団がいます。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、わざと間違った情報を伝えたりします。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体(もったい)ぶった雰囲気で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては、面白がっているにすぎません。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがある、とそなたに言わせる要因がそこにあります。茶目っ気やイタズラ半分の気持から、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持をもてあそぶ霊の仕業が、その原因となっています。

列席者が望む肉親を装って、いかにもそれらしく応対するのも彼らです。誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在のせいです。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりに聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業です。

通信にふざけた内容、あるいはバカバカしい内容を吹き込むのも彼らです。彼らは真の道徳意識は持ちあわせません。求められれば、いつでも、どんなことでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時どきの面白さ以上のものは求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみです。

人の道を誤らせ、邪悪な欲望や想念を抱かせるのも彼らです。霊媒をひそかに操り、高尚な目的を阻止しようとします。高尚で高貴な目的が彼らには気に食わず、俗悪な意図を示唆します。要するにその障害物、妨害物となってやろうとするのです。関わるのは主として物理的現象です。

大体においてその種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を引き起こさせるような現象を演出します。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそえみます。

憑依現象をはじめとする数々の心霊的障害は、彼らの仕業である場合がよくあります。いったん付け入れば、どうにでも心理操作が可能なのです。個人的に霊を呼び出して慰めを求める人たちを愚弄するのも彼らです。いかにもそれらしく応対し、うれしがらせるような言葉を述べて欺きます。

しっかりとした意志の疎通が行なわれることがあることはあります。しかし次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながらその中につじつまの合わない話を織り混ぜたり、まったくの作り話を語ったりします。そうした霊に付け入られないためにも、一身上の話題はなるべく避ける方が賢明です。

†インペレーター

[注釈]

(1)Essene 紀元前2世紀ごろから存在していたユダヤ教の一派で、禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。

イエスが一時期この一派に属していたらしいことは、バイブルの中のイエスの言動によっても推察がつくが、今世紀半ばに死海のほとりの洞窟から発見された巻き物、いわゆる“死海文書”によってその事実の可能性がますます濃厚となった。

しかし、イエスの信仰態度は“愛”を基調として、その時その場における自分の判断による行為を尊び、戒律や教義による束縛を排した点に最大の特質がある。それが取りも直さずスピリチュアリズムの基本的な教えでもあるのである。

(2)テーブルがひとりでに傾斜して、1本の脚が床を叩き符牒によって通信を送ってくる。

(3)本書の形での公表は、霊側は当初から意図していたことが窺われる。もしかしたら、こうして日本でも翻訳紹介されることも、遠大な計画の中に組み込まれていたのかも知れない。

(4)心霊実験会では霊がメガホンなどで列席者の頭や肩をポンポンと叩いてまわることがよくある。訳者も体験がある。心情的にはなぜかそれを“うれしく”思うことは事実である。

「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†■2024年8月21日UP■
「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†
もう僕という霊媒が機能するだの、新規の霊言が降るだの、そういう事を書くつもりは一切ありませんが、現存する正真正銘の霊関連書籍をテキスト化する作業は全力で続行するつもりでいるのです。その作業を続けるイコール「本を読み続ける」という事になり、さらに深く霊的知識を理解する事につながるので僕的に好都合ですし霊的知識拡散という意味でも大変重要なのです。なぜ霊団がそこまでしてあの無意味なところに僕を閉じ込め続けようとしているのかがどうしても分かりません。僕をあそこに閉じ込めてみたところで僕という霊媒は機能しない、新規の霊言は降らない、「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡にもつながらない、奴隷の女の子たちもひとりたりとも助けてあげられない。何ひとつイイ事ないじゃないですか。なのにそこに閉じ込められる事を耐え抜けば僕は霊的に向上を果たす事ができて明るい境涯に赴く事ができるのだそうです。邪悪を滅ぼす事より、殺される運命の女の子を救出する事より、仕事を前進させる要素ゼロの意味なしの場所に閉じ込められる事の方が霊的向上に寄与するとは、これは一体何がどうなっているのでしょうか。本気で意味不明なんですけども…続きを読む→
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†■2024年7月24日UP■
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†
その男性が失われた良書を復活させようとしている事をシルバーバーチ霊が「真一文字に突き進みなさい」と言って鼓舞しているシーンがあります。僕はこのシルバーバーチ霊の「真一文字に突き進みなさい」の言葉が大好きで、画家時代から人生の指針としていたほどです。で、続いてシルバーバーチ霊が秘書の女性に話しかけ始めますが、ココで評価が一変します。シルバーバーチ霊はこの秘書の女性を「黄金の心を持つ女性」と言ってベタ褒めします。女性は赤面して「私は無力な人間です」と言いますがシルバーバーチ霊はこの女性をココぞとばかりに褒め続けます。この秘書の女性は出版業の男性を影で支えているのみで、実際の作業は男性がやっているのですが、霊界側では女性の方がこのように評価されるのです。これは物的成果を見ているのではなく“心の持ちよう”を見ているからこうなるのではないかと僕は思ったりするのです。つまりこの秘書の女性には私利私欲、自己主張のようなものが全然心の中になかった、献身的姿勢を貫いていたのではないか、それをシルバーバーチ霊が読み取っていたからベタ褒めしたのではないかと僕は予測するのです…続きを読む→

僕は霊団に本気の全力で反逆してますが(イヤ反逆と表現するのはおかしい、僕は当たり前の事をやっているだけ、正当防衛だと思ってます)しかし使命遂行の手を止める訳にはいきません、霊的作業が最優先となりますので何が何でも続行中です。

物的なモノに心を奪われ物的作業だけをおこなう事は帰幽後の霊界人生に何の役にも立たないという事は分かっているものの、しかしまず脱出を完了させない事には話が始まりませんのでアレコレ手を広げて物的調査をしたりしてます。

精神的にイヤでどうしようもないところに閉じ込められるのが耐えられないというのもありますが単純に身体的にも、もうムリなんですよ。僕はもうジイサンですのでこの先もずっとこの状態をやらされるのは絶対ムリと誰でもわかる状態にさせられています。こんな状態にさせられる事を自ら選択する訳がない。脱出するに決まっているのです。

明日はロングドライブ対策でアレコレ“ルクエ”の作業をやらねばなりませんので作業はほとんどできませんが、それでもホンの少しでもやるつもりです。精神的にも肉体的にも限界、もうムリなのです。こんな状態に閉じ込めようとする霊団を心の底から憎んでいます。地球圏霊界と縁を切りたいけど間違いなくこの願望は叶えられないでしょう。

ちなみに「トリカブトちゃん作戦」2年目の準備を開始します。1年目は大失敗、まるっきり何も咲きませんでした。またタネを蒔くつもりです。咲くまで続けます。詳細は後日。OCR変換続行中(祈)†

■2021年8月13日UP■
「死体切断はもったいないから」明仁、文仁、徳仁、悠仁が奴隷の女の子を四肢切断する理由です(祈)†
ブタ(奴隷の女の子)は死んだけど、この死体はまだオモチャとして遊べる、このまま捨てたり焼いたりしたらもったいない、最後の最後まで遊び倒さないといけない。世界中でこの遊びができるのは俺たちぐらいのもんだ、ホラ悠仁、お前もブタの胴体を切って遊べ、人間を殺すのは楽しいだろ、これが俺たちの仕事だぞ。これからも国民を殺しまくって遊ぶんだぞ。イーッヒッヒッヒッヒッヒ♪つまり奴隷の女の子たちの人生、人権、性格、夢、そして生命、それら全てをオモチャにして遊ぶ事ができるのは世界で俺たちぐらいのものだ、ただ殺すだけじゃもったいない、女の子が生きている間も、泣き叫んで助けを懇願している時も、四肢切断した後も、強姦殺人する時も、女の子が死んで死体となった後も、その死体を切り刻む時も「処刑遊び」の全シチュエーションをバッチリ撮影して記録に残し、最後の最後まで徹底的に遊び倒さないといけない…続きを読む→
今回は霊団のインスピレーションをほぼ全て無視し、僕の心境を語らせて頂きます(祈)†■2024年8月7日UP■
今回は霊団のインスピレーションをほぼ全て無視し、僕の心境を語らせて頂きます(祈)†
これは詳細説明できないのですが、実は霊性発現初期の頃に「隔離フィールド」という霊現象に長らく苦しめられた時期がありました。この時の実際の状況は諸事情がありまして説明できないのですが、どうもこの隔離フィールドの時から現在までが1本の線でつながっているのではないか、僕の人生はこの隔離フィールドからおかしくさせられたのではないか、という気もしているのです。ごめんなさい、これは説明できないのです。僕という霊媒から新規の霊言を降らせたいのなら、いくらでも方法があるはずだろう、サークルメンバーのいるところに僕を移動させる、自動書記で霊言を綴る、できなかったなどとは言わせない、絶対にできるはずだ。コイツらは言ってる事とやってる事が完全に正反対だ。僕がある方向に動くととにかく脅して止めてくる。何の結果にも到達しないようにしているとしか思えない。で、僕は反逆(脱出)などと言っていますが、実際に脱出が実現したとしましょう。そうなると僕は現在の生活より自由に使用できる時間を増やす事ができるようになり、使命遂行に多くの時間を割く事ができるようになり、さらに霊的仲間を求めて外洋に飛び出す事もできるようになります。現在の生活では困窮を極めているためにそれができません…続きを読む→