まずは昨日の山の撮影画像をUPですが、例によってまたやりやがったよ…これからテキスト撃つ寸前になってそんなドッカーンって降らせてきたって対応できる訳ネィだろ。要するに書かせないようにしてる、って事だよな。ずっとスピードダウン、止まれって言い続けてくるし。
とにかく全部の説明は100%できませんから相当数を削除してテキスト撃ち始めます、それしかありませんので。もぉぉやだこの人生、いつまでこの苦悶状態を続けさせられるというのか。何とかテキストだけは撃ってみましょう(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
まずは昨日の山の撮影画像をUPですが、例によってまたやりやがったよ…これからテキスト撃つ寸前になってそんなドッカーンって降らせてきたって対応できる訳ネィだろ。要するに書かせないようにしてる、って事だよな。ずっとスピードダウン、止まれって言い続けてくるし。
とにかく全部の説明は100%できませんから相当数を削除してテキスト撃ち始めます、それしかありませんので。もぉぉやだこの人生、いつまでこの苦悶状態を続けさせられるというのか。何とかテキストだけは撃ってみましょう(祈)†
よく山の話をする同僚女性に、あるアウトドアメーカーの存在を教えてもらって、そのメーカーが明らかに現在僕が使用しているメーカーより安いので、もう今後はそちらに乗り換えるつもりでいるのですが、さっそく入手した新規レインパンツを雨の降りしきる中でテストしてみました。
イヤ、この値段でこの性能なら申し分ないのではないでしょうか、90点「合格」です。イヤー安いメーカーを教えてくれた同僚女性に感謝しないといけないなぁ。ググっても出てこない、全く知らないメーカーでしたので。
で、明日の長文ブログネタはある事はあるのですが不愉快の極致のインスピレーションで、またこんな事を説明しなきゃいけないのかよとウンザリ感がタダ事ではないですが、またいつものように寸前ドッカーンインスピレーションをやってくる可能性もあります。
とにかく絶望感がスゴイ、その絶望感を緩和する方法が今のところ思いつかない。いつまでもこんな状態を続けられない、何とかしないといけない、しかしどうにもできない、本当に地獄の状況だ。今日の撮影画像は明日UPさせて頂きます(祈)†
まぁたレインアタックの予報ですよ…ここのところ全然グラデーション撮影ができていません。まぁ天候には逆らえませんので与えられた環境で撮れる限りのモノを撮ってくるつもりですが、それはともかく絶望感がスゴクて、チョト心の持ちようを何とか考えないと今後の人生が苦しくなります。
このままでは心がもたないと思う、心の救いをどこかに求めないと。で、フツーこれだけ霊的なモノに浴しながら生活していれば当然霊的なモノに救いを求めるときっと皆さまはお考えになる事でしょうが、何しろ僕は霊団に散々ヒドイ目に遭わされてこの12年生きてきましたので、チョトそういう気にはなれません。かといって物質に救いを求めるのも本末転倒。
さぁどぉぉするか。とにかく復刊できそうな10数冊は何とか歯を食いしばってでも完成させるつもりですが、それをやってみたところで全く脱出できない、完全に閉じ込められる。どうやったら出られるのか、脱出しない限りこのメランコリは晴れそうもない。明日雨に撃たれて頭を冷やしながら考えてみましょうか。
イヤ僕のキャラで言えば答えは簡単なんですよ、絵を描けばいいんです。しかしフラーをいくら描いても脱出につながらないから困ってるんです。「シルバーバーチの霊訓3巻」テキスト見直し完了中で「モーゼスの霊訓 上」のテキスト見直しも始めています。帰幽する以外に心の救いはないというのか。物質界に残されている限りいつまでもどこまでも最悪をやらされるというのか(祈)†
1917年12月7日 金曜日
地球を取り巻く暗闇 – 光明界から使命を帯びて降りてくる霊のすべてがどうしても通過せざるを得ない暗闇を通って、地上という名の“闘争の谷”から光明と安らぎの丘へと、人間の群れが次から次へと引きも切らずにやってまいります。
これからお話するのは、その中でも、右も左も弁(わきま)えない無明(むみょう)の霊のことではなく、“存在”の意味、なかんずく自分の価値を知りたくてキリストの愛を人生の指針として生きてきた者たちのことです。
彼らは地上においてすでに、その暗闇と煩悩(ぼんのう)の薄暮の彼方に輝く太陽が正義と公正と愛の象徴であることを知っておりました。
それゆえ彼らはこちらへ来た時に、過ちではなかろうかと気にしながらも生きてきたものを潔く改める用意と、天界へ向けての巡礼の旅において大きく挫折しあるいは道を見失うことのないよう蔭から指導していた背後霊への信頼を持ち合わせているのです。
それはそれなりに事実です。が、彼らにしてもなお、いよいよこちらへ到来してその美しさと安らぎの深さを実感した時の驚きと感嘆は、あたかもカンバスの上に描かれた光と蔭だけの平面的な肖像画と実物との差にも似て、その想像を超えた躍動する生命力に圧倒されます。
– 判ります。私にはその真実性をすべて信じることができます、リーダーさん…あなたがそちらでそう呼ばれていることをカスリーンから聞いております…でも、何か1つだけ例をあげていただけませんか。具体的なものを。
無数にある例の中から1つだけと言われても困りますが、では最近こちらへ来たばかりの人の中から1人を選んでみましょう。現段階では吾々の班は地上界との境界近くへ行って新参の案内をする役目は仰せつかっていませんが、それを仕事としている者とつねに連絡を取り合っておりますので、その体験を参考にさせてもらっています。
では、つい先ごろ壁を突き抜けてきたばかりで、通路わきの草地に横になっていた若者を紹介しましょう。
– “壁”というのは何でしょうか。説明していただけませんか。
貴殿らの住む物質界では壁といえば石とかレンガで出来ていますが、吾々のいう壁は同じく石で出来てはいても、その石はしっかりと固いという意味で固形をしているのではありません。その石を構成しているところの分子は、地上の科学でも最近発見されたように常に波動の状態にある。
そしてその分子の集合体も地上でエーテルと呼ぶところの宇宙に瀰漫(びまん)する成分よりもさらに鈍重な波動によって構成されている。そもそも“動”なるものは意念の作用の結果として生じるものであり、また意念を発するのは“意識をもつ”存在です。したがって逆に考えれば次のようなことになりましょう。
まず1個の、または複数の意識的存在がエーテルに意念を集中するとそこに波動が生じる。そしてその波動から分子が構成される。それがさらに別のグループ(天使団と呼んでもよい)の意念の働きによって濃度の異なる凝固物を構成し、あるいは水となり、あるいは石となり、あるいは樹木となる。
それゆえ、あらゆる物質は個性的存在である“意念の物質化現象”であり、その個性的存在の発達程度と、働きかけが1個によるか複数によるかによって、構成と濃度が異なるわけです。つまり意念の不断の放射がその放射する存在の発達程度に相応しい現象を生み出すわけです。
霊界と物質界との間には常にこうした一連の摂理が働いているのです。さきの“壁”は実は地上界から放射される地上独特の想念が固まってでき、それが維持されているものです。すなわち天界へ向けて押し寄せてくる地上の想念が地上に近い界層の想念によって押し返される。
これを繰り返すうちに次第に固さが増して一種の壁のようなものを形成する。その固さと素材は吾々霊界の者には立派に感触があるが、地上の人間には一種の精神的状態としてしか感識できません。貴殿らがよく“煩悶の暗雲”だの“霊的暗黒”だのと漠然と呼んでいる、あれです。
従って吾々が“その壁は地上の人間の想念によって作られている”と言うとき、霊の創造力の文字どおりの意味において述べているのです。すべての霊に創造力があり、肉体に宿る人間は本質的には霊です。そしてその1人ひとりが吾々と同じく宇宙の大霊の一焦点なのです。
それゆえ霊界との境界へ向けて押し寄せてくるこの想念の雲は霊的創造物であり、それを迎えうって絶えず押し返し続け地上圏内に止めているところの霊界の雲と同じです。本質において、あるいは種類において同じということです。程度において異なるのみです。
つまり程度の高い想念体と低い想念体との押し合いであり、その時どきの濃度の割合によって霊界の方へ押し込んで来たり、また地上近くへ押し返されたり、を繰りかえしている。が、それにも限界があり、全体としてみればほぼ定位置に留まっており、けっして地上圏からそう遠ざかることはありません。
さて、貴殿の質問が吾々に1つの大きなテーマを課す結果になりました。今日の地上においてはまだ科学の手の届いていない領域の1つを無理して地上の言語で語ることになってしまいました。いずれ科学が領域を広げた暁には地上の誰かが人間にとってもっと馴染みやすい用語で、もっと分り易く説明してくれることでしょう。
– 大体の流れは掴(つか)めました。どうも済みませんでした。
さてその男は道路わきの芝生に横になっていましたが、その道は男を案内してきた者たちの住居の入口に通じる通路でした。間もなく男は目を開いて、あたりの明るい様子に驚きの表情を見せたが、目が慣れてくると彼を次の場所まで案内するために待機している者たちの姿が見えてきた。
最初に発した質問が変わっていた。彼はこう聞いたのである「私のキット(*)はどうしたのでしょうか。失くしてしまったのでしょうか」(*ふつうは身のまわり品のことであるが、ここでは兵士の戦闘用具 – 訳者)
するとリーダー格の者が答えた。「その通り、失くされたようですね。でも、その代りとして私たちがもっと上等のものを差しあげます」男が返事をしようとした時あたりの景色が目に入り、こう尋ねた。
「それにしてもこんなところへ私を連れてきたのはどなたですか。この国は見覚えがありません。敵の弾丸(たま)が当たった場所はこんな景色ではありませんでしたが…」そう言って目をさらに大きく見開いて、こんどは小声で尋ねた。「あの、私は死んだのでしょうか」
「その通りです。あなたは亡くなられたのです。そのことに気づかれる方はそう多くはありません。私たちはこちらからずっとあなたを見守っておりました。生まれてから大きく成長されていく様子、職場での様子、入隊されてからの訓練生活、戦場で弾丸が当たるまでの様子、等々。
あなたが自分で正しいと思ったことをなさってきたことは私たちもよく知っております。すべてとは言えないまでも、大体においてあなたはより高いものを求めてこられました。ではこれから、こちらでのあなたの住居へご案内いたしましょう」
男は少しのあいだ黙っていたが、そのあとこう聞いた。「お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか」「どうぞ、何なりとお聞きください。そのためにこうして参ったのですから…」
「では、私が歩哨に立っていた夜、私の耳に死期が近づいたことを告げたのはあなたですか」「いえ、その方はここにいる私たちの中にはおりません。もう少し先であなたを待っておられます。もっとしっかりなさってからご案内しましょう。ちょっと立ってみてください。歩けるかどうか…」
そう言われて男はいきなり立ち上がり、軍隊のクセで直立不動の姿勢をとった。するとリーダー格の人が笑顔でこう言った。「もう、それはよろしい。こちらでの訓練はそれとはまったく違います。どうぞ私たちを仲間と心得てついてきて下さい。
いずれ命令をさずかり、それに従うことになりますが、当分はそれも無いでしょう。その時がくれば私たちよりもっと偉い方から命令があります。あなたもそれには絶対的に従われるでしょう。叱責されるのが怖くてではありません。偉大なる愛の心からそうされるはずです」
男はひとこと「有難うございます」と言って仲間たちに付いて歩み始めた。いま聞かされたことや新らしい環境の不思議な美しさに心を奪われてか、黙って深い思いに耽っていた。
一団は登り道を進み丘の端を通りすぎた。その反対側には背の高い美しい樹木の茂る森があり、足もとには花が咲き乱れ、木々の間で小鳥がさえずっている。その森の中の小さく盛り上がったところに1人の若者が待っていて、一団が近づくとやおら立ち上がった。
そして彼の方からも近づいてくだんの兵士のところへ行って、片腕で肩を抱くようにしていっしょに歩いた。互いに黙したままだった。
すると突如として兵士が立ち止まり、その肩にまわした腕をほどいて若者の顔をしげしげとのぞき込んだ。次の瞬間その顔をほころばせてこう叫んだ。「なんと、チャーリーじゃないか。思ってもみなかったぞ。じゃあ、あのとき君はやはりダメだったのか?」
「そうなんだ。助からなかったよ。あの夜死んでこちらへ来た。すると君のところへ行くように言われた。君にずっと付いてまわって、できるだけの援助をしたつもりだ。が、そのうち君の寿命が尽きかけていることを知らされた。僕は君にそのことを知らせるべきだと思った。
と言うのも、僕が首に弾丸を受けたとき君が僕を陣地まで抱きかかえて連れて帰ってくれたが、あのとき君が言った言葉を思い出したんだ。それで君が静かに1人ぽっちになる時を待って、(死期の迫っていることを知らせるべく)できるだけの手段を試みた。あとでどうにか君は僕の姿を見るとともに、もうすぐこちらへ来るぞという僕の言葉をおぼろげながら聞いてくれたことを感じ取ったよ」
「なるほど“こちらへ来る”か…もう“あの世へ行く”(*)じゃないわけだ」(*第1次大戦ごろか“死ぬ”ということを英語で俗に go west “西へ行く”と言うようになった。ここでは死後の世界からみれば“行く”ではなく“来る”となるので come west と言ったわけである – 訳者)
「そういうわけだ。ここで改めてあの夜の君の介抱に対して礼を言うよ」
こうした語らいのうちに2人だけがどんどん先を歩んだ。と言うのも、他の者たちが気をきかして歩調を落とし、2人が生前のままの言葉で語り合うようにしてあげたのである。
さて吾々が特にこの例を挙げたことにはいろいろとわけがあるが、その中で主なものを指摘しておきたい。
1つは、こちらの世界では地上での親切な行為は絶対に無視されないこと。人のために善行を施した者は、こちらへ来てからその相手からかならず礼を言われるということです。
次に、こちらへ来ても相変わらず地上時代の言語をしゃべり、物の言い方も変わっていないことです。ために、久しぶりで面会した時にひどくぶっきらぼうな言い方をされて驚く者もいる。今の2人の例に見られるように軍隊生活を送った者がとくにそうです。
また、こちらでの身分・階級は霊的な本性に相当しており、地上時代の身分や学歴には何の関係もないということです。この2人の場合も、先に戦死した男は軍隊に入る前は一介の労働者であり、貧しい家庭に育った。
もう1人は世間的には恵まれた環境に育ち、兵役につく前は叔父の会社の責任あるポストを与えられて数年間それに携わった。が、そうした地位や身分の差は、負傷した前者を後者が背負って敵の陣地から連れて帰った行為の中にあっては関係なかった。こちらへ来てからは尚のこと、何の関係もなかった。
こういう具合に、かつての知友はこちらで旧交を温め、そしてともに向上の道に勤しむ。それというのも、地上において己れの義務に忠実であった者は、美と休息の天界において大いなる歓迎を受けるものなのです。そこでは戦乱の物音1つ聞こえず、負傷することもなく、苦痛を味わうこともない。地上の労苦に疲れた者が避難し、生命のよろこびを味わう“安らぎの境涯”なのです。
コレだけ怒涛に作業しまくっているのにいまだに1冊目も復刊できていない、まさに絶望の極致ですが、まずはこのように校正刷りが到着しています。今まで使用していた印刷会社とだいぶ違う。
断ち切りの幅が違う、印刷の色表現が違う、裁断面がやや粗雑、本文の印刷はまぁ問題ない(イヤ、やや精度を欠くか)これから若干のデータ修正をおこなわないといけません。忙しい、殺人的に忙しい、なぜここまでやっているのに1冊も復刊できないんだ。
そしてとにかく脱出の可能性がほぼ断たれている事で猛烈壮絶な絶望感に襲われていまして、もう脱出方法は姑息な手段に手を出すか、もしくは新規の霊言が降ってくるか、それしかない。
霊団はもちろん僕という霊媒を使用する方を推してくるはずですから「できるならやってくれ」という心境になっていますが、その僕の心境が祈りと霊界側で受け止められたのかどうか、先ほど霊団が「よろしくお願いします」と降らせてきました。
降ってさえくれば僕はそれを速攻で書籍化する準備が整っているのです。しかし何をどう頭をひっくり返しても霊団が僕を閉じ込めているあの最悪の場所と交霊会が関係しているとは思えない、サークルメンバー問題は絶対に解決しない、自動書記しか霊言を降らせる方法はないと思っていますが、もうそこは「霊の導きに身を委ねる」しかないのかも知れません。
反逆しまくっている僕が今さら霊団に祈っても、その祈りは聞き届けられないと思いますが、僕の精神状態が謙虚とかけ離れているとしても、とにかく僕という人間は本をガンガン作れるんだよ、拡散できるんだよ、という事実を考慮に入れてくれるのかどうか。なぜ自動書記をやろうとしないのか。
フゥゥ書籍データの修正をおこなって、イヤでイヤでどうしようもないおーふぁん的な作業に再着手します。霊団、霊言降らせられるならやってくれ、降らせられる訳ないだろこの環境で、と思うのですが(祈)†
もう書籍の作業で脱出を実現させるのは99.999%不可能と言い切ってイイ状況で「姑息な手段」以外に脱出方法はなさそうな最悪な状態ですが、そんな中「復刊冊数が少なくなってしまうならやはり自伝書籍を最低1冊は出すべきではないか」という事で再びテキストを撃ってますが、これは絶望度がタダ事ではない。
とにかく絶望感がスゴすぎる、なぜこんな気持ちで生きねばならないのかが全く意味不明。近藤先生は「平凡に徹する」と書籍の中で仰っていますが、それは僕も人生一般については賛成ですが、使命遂行という意味ではそれではダメだと思うんですよ、眼前に立ちはだかる高い壁を撃ち崩してムリヤリ前進させないと何も変わらない。
間もなく「インペレーターの霊訓」Amazonの校正刷り書籍が到着予定、コチラの方が以前使用していた日本最安の印刷会社でのテスト印刷より安いので、今後はコチラを活用しましょう。流通目的ではない、あくまでテストですので。
まぁ霊的知識に基づいて考えると、そうやって(宜しくない精神状態で)トランスを維持し続ける事が時にキケンな事があるそうで(地縛がやってくるんだそうです)何もないイコール霊団が保護してくれているという事なのかも知れませんが、なぜ前進させるつもりがないんだ、人にココまでやらせておいて。
はい、書籍として完成させてから絵をUPするつもりだったのですが、時間がないのと、この書籍が復刊できない可能性が高い事が判明した事を受けて、絵は完成させてあるのにUPしないという訳にはいきませんので、もうUPしてしまおうという事になりました。
で、表紙の絵ですが、僕はぜひとも「ヘリ」を描きたかったのですが、ヘリの資料なんてググりましたが全くありません。それでもどうしても描くとなれば完全に僕の想像のあてずっぽうの絵になってしまいますので「それは宜しくないだろう」という事で泣く泣くヘリをやめて無難なところで、ももちゃん、シルキーと少年期のイエス様、という絵にしました。
70年問題をクリアして復刊できる可能性のある書籍をピックアップしてみますと…10~17冊くらいかなぁ。これでは全く脱出できません。このままでは完全に霊団の思うツボ、一生閉じ込められる事が決定してしまいます。そこで以前から考えていた「姑息な手段」をやってしまう可能性が出てきています。てかもうコレしか脱出方法はないと思うので。んんん初期投資が…キビシイんだよなぁ。
1917年12月6日 木曜日
これまでに述べたことはごく手短かに述べたまでであって、十分な叙述からはほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。
吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、こんどはご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。
では吾々の叙述を進めましょう。前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供 – 男児あるいは女児 – について述べてみましょう。
生まれる子供に4つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。
この4つの要素、と言うよりは、1つの要素の4つの側面、もっと正確に言えば2つの主要素と2つの副次的要素とが1個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び1つになるという、一連の営みが行われるわけです。かくしてその子も1個の人間として独自の人生を開始する無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。
どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按(あん)手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。
貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定どおりに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。吾々には予定表がきちんと出来あがっているのです。
貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日は何の話題であろうかと先のことを勝手憶測したり期待してもらっては困るのです。
吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。
– 申し訳ありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです – 聖餐式(せいさんしき)、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。(訳者注 – 本来の順序は洗礼が第1で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)
“死”のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも1年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。
“死”をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は“生”と“死”をともに生きたサクラメントと見なしています。“婚姻”をサクラメントとする以上はその当然の産物としての誕生もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において“死”をサクラメントとすべきです。
誕生においては暗黒より太陽の光の中へと出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。“誕生”においては神の帝国における公権を与えられ、“洗礼”によって神の子イエスの王国の一住民となり、“死”によって地上という名のその王国の一地域から解放される。
誕生は1個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する – 地上での実績の“可”なる者は義なる千軍万馬の古兵(ふるつわもの)として、“良”なる者は指揮官として、“優”なる者は統治者として迎えられるであろう。
したがって“死”は何事にも終止をうつものではなく、“誕生”をもって始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取りもつ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。
これで結果的には“洗礼”についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕(しもべ)としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。
そこで“死”のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終りとしたい。貴殿にも用事があるようですから。いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮(ぎょうしゅく)しはじめる。
これはそれまでの体験の残留エキス – 希望と動機と憧憬(どうけい)と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲(し)みわたっている。
それが死期が近づくにつれて1つに凝縮(ぎょうしゅく)して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。
そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体からさきに述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。
それは譬(たと)えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。
そういう次第で吾々は“死”は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。
人類の歴史において、そのゆるやかな解体の過程 – 人間の目にはそれが死を意味するのですが – を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。
主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容(しょうよう)として迎えた。その死にざまによって主は、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは“神の心”より流れ出る“生命の河”の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。
現在所持している全書籍について改めて精査してみましたところ、70年問題をクリアして復刊できそうな書籍は10数冊程度しかなさそうだという事がほぼ分かりました。これでは脱出など到底不可能という事が一目瞭然です。
復刊は霊的知識普及ですから何とかやってみましょう、しかしやってみたところで最悪のところに延々閉じ込められる状況に何ら変更はない。恐るべき絶望感、そして霊団への怒り。霊団の考えている事がさらにさらに分かった気がしますがココではチョト書き切れません、と言いつつ少しだけ書いてみますと…。
とにかく霊団は失敗したんだ、そしてもう何もするつもりがないんだ、霊団の目的はもう僕を向上させてあげるというごく個人的なモノにすっかり切り替わっているんだ。あの最悪のところに閉じ込める理由は僕という霊媒を機能させるためなんかではなく、ただ向上させるために苦難の状態を続けさせようとしているだけ、そうに違いないと確信するに至っています。
「モーゼスの霊訓上」スキャン完了中「モーゼスの霊訓中」のスキャンに入ってます。そして「イエスの少年時代」はどうも復刊できなそうですので、表紙の絵をもうUPしてしまおうと思います、明日やります。とにかくこの人生破壊、死んでも永遠に許せない。その僕の怒りを帰幽後に鎮めるために僕を向上させようとしている、そういう事だと予測してます(祈)†
「イエスの少年時代」は表紙の絵もアナログ絵364として描き終えていますが、複数の作業に追われて未だにWordPressにUPできずにいます。既にほぼ完成しているAffinityPublisherのデータをAmazonように多少変更し、あとは最終校正と復刊者コメントを撃って書籍として完成させ、再びAmazonの校正刷りをおこないます。
おーふぁん的なモノを活用しても大幅に復刊冊数が制限されてしまうかも。当初は70冊全部復刊させるつもりでいましたが、それが45冊に減り、さらに70年問題で冊数が減るものと思われます。何としても復刊させる覚悟ですが霊団の手のひらの上で踊らされる事になるというのか。