シルバー・バーチの霊訓 4巻

2025年12月4日

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シルバー・バーチの霊訓 4巻

ウィリアム・ネイラー編
近藤千雄訳

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor
Psychi cPress Ltd.
London.England

シルバーバーチに捧げる詩 シルビア・バーバネル

シルバーバーチに捧ぐ

シルビア・バーバネル

いまだ御姿は拝さずとも
あなたは苦しみの時の我が友、我が助言者、我が指導者、我が力、我が慰め –
片時として我れより離れることなし。
人の世の悩みを知り、人の心を察し、
おのれが蒔きし種はおのれが刈るとの摂理に照らしつつ、
人の道を示し給う。
飾らぬ言葉にていつもあなたは説く –
おのれを人に役立てることこそ霊の通貨(コイン)、愛と優しさこそ神の道へ誘(いざな)うものなりと。

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まえがき

霊的交信という不安定な関係を永年にわたって維持し続けている数多くの優(すぐ)れた支配霊の中でも、ハンネン・スワッハー・ホームサークルの霊言霊媒モーリス・バーバネルの支配霊シルバーバーチほど広く愛され、しかるべき敬意を受けている霊はまずいない。

本書の目的はそのシルバーバーチの膨大(ぼうだい)な霊言の記録の中から、今なお霊的実在の理解へ向けて刻苦(こっく)している人類にとって不滅の意識を持つシルバーバーチならではの叡智(えいち)のいくつかを選んでお届けすることである。

私は当初、すでに出版されている霊言集の中からいくつかの主題に分けて抜粋しようと思った。つまり“枕辺(ベッドサイド)のシルバーバーチ”とでも呼ぶべきものが最初の構想だったのである。

ところが、いざ手がけてみると、シルバーバーチの霊言はそう簡単に扱えるものでないことが分かった。大画家、大劇作家、大作曲家と同じく、シルバーバーチというのは常に人間的体験の重大なテーマを扱うか、永遠の普遍的真理を説き明かそうとしているかの、いずれかであることが分かった。

一見些細(ささい)に思える問題について質問すると、シルバーバーチはすぐにそれを宇宙の大哲理の本流につながった支流として扱うのである。

私は当初、すでに出版されている霊言集の中からいくつかの主題に分けて抜粋しようと思った。つまり、枕辺のシルバーバーチ“”とでも呼ぶべきものが最初の構想だったのである。

ところが、いざ手がけてみると、シルバーバーチの霊言はそう簡単に扱えるものでないことが分かった。大画家、大劇作家、大作曲家と同じく、シルバーバーチというのは常に人間的体験の重大なテーマを扱うか、永遠の普遍的真理を説き明かそうとしているかの、いずれかであることが分かった。

一見些細に思える問題について質問すると、シルバーバーチはすぐにそれを宇宙の大哲理の本流につながった支流として扱うのである。

そこで私は、いっそのことその本流に足を踏み入れて、真理、死、恐怖心、愛、不滅性、人生の摂理、大霊すなわち神、その他いくつかの関連した問題についてのシルバーバーチの言葉を集めることにした。

さてシルバーバーチの霊言の流暢さについては今さら申し上げるまでもない。経験豊かなさるジャーナリスト(モーリス・バーバネル)の言葉を借りれば –
「シルバーバーチの教えは言わば霊の錬金術、つまりアルファベットの26文字を操って輝かんばかりの美しい言葉を生み出す能力の典型である。年がら年じゅう物を書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けることそれ自体がすでに超人的であることを示している。

ペンに生きる他のジャーナリストと同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり削ったり、文体を書き改めたり、字引きや同義語辞典と首っぴきでやっと満足のいく記ことができあがる。

ところがこの“死者”は一度も言葉に窮することなく、スラスラと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し精神を昂揚し、気高さを感じさせる。

シルバーバーチは宗教とは互いに扶助し合うことに尽きると言う。神とは自然法則であり、腹を立てたり復讐心をむき出しにする人間的な神ではないと説く。その言葉ひとつひとつにダイヤモンドの輝きに似たものがある。

その人物像はまさしく“進化せる存在”であり、全人類への愛に満ち、世故に長けた人間の目には見えなくても、童子のどとき心の持ち主には得心のいく真理を説き明かそうとする。

迷える人類のために携えてきたメッセージは“人のために自分を役立てなさい”ということしかないと言いつつも、そのたったひとつの福音の表現法はキリがないかに思えるほど多彩である。

永年にわたってその霊言に親しんできた者として、ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する」

第1集の Teachings of SilverBirch(後注【1】)を読んだ英国新聞界の大物のひとりで政治家でもあるビーバーブルック卿 W.M.A.Beaverbrook は当時の交霊会の司会者であるハンネン・スワッハー(第1巻21ページ参照)へ宛てた手紙の中で“文章が実に美しい。そして私はその内容の純真・素朴さに心を打たれました”と激賞している。

第2集の More Teachings of Silver Birch(後注【2】)について Natal Daily News 紙は“イギリスの言語をこれほど優しく、これほど簡潔に、これほど美しく操った書は滅多にない”と論評し、“英語による表現の最高傑作のひとつ”として The Book of the Week(その週の推選図書)に推している。

また、その中の一節が“これだけのものはチャーチルほどの名文家にも書けない”と激賞されている。

そしてこの度は Wisdom of Silver Birch(邦訳シリーズ第3巻)が Aberdeen Press and Journal 紙によって激賞され、同じくその文章表現の自在な躍動ぶりがチャーチルの名文にも匹敵すると述べられている。

確かにシルバーバーチの訓えほど高尚にしてしかも難解さを感じさせない思想は、世界の大宗教家の訓えは別として、他に類を見ない。しかし同時にその大宗教家たちの思想も比肩しえないものも兼ね具えている。それはシルバーバーチがわれわれの地上とは異なる次元の世界から語りかけていることにある。

愛他精神と素朴さと叡智に満ち、汎神論に裏打ちされたその明晰な教訓は、常に人生における霊的要素と同胞との関係における慈悲心の大切さを強調する。そして“無色の大霊”と呼んでいる神に対する絶対的な奉仕の生活を唱道する。

シルバーバーチには現代の聖人と呼ばれるアルバート・シュバイツァーに見られるのと同じ、苦しむ人類への献身的精神と全生命に対する畏敬が見られる。同時に(英国の詩人)シェリーの詩を一貫している洞察力の純粋さと、万物に同じ霊の存在を認める思想を見ることもできる。

しかしそのふたりの稀代の天才とも異なるものがある。ふたりは、作品と業績はさておくとして、その哲理に普通一般の人間の理解の及ばないものが時として見られるが、シルバーバーチは“知”に偏ることがない。繰りかえし一貫して説くテーマは“摂理への従順”である。

ではその摂理とは何か。それをシルバーバーチ自身に語っていただくことにしよう。

1955年 ウィリアム・ネイラー


訳者注【1】 – オースチン編の第1集は『シルバーバーチ霊言集“”の題で桑原啓善氏によって訳され、私の『古代霊は語る“”と同時発売されている。訳し方に独自の工夫が凝らされていて私の訳とかなり趣が異なるが、差し当たって私のシリーズからはこの1冊だけはずすことにしている。

それで私のシリーズは全10巻となる予定であるが、何度もお断りしているように、原典の11巻の中には同じ霊言が重複して編集されている箇所がかなりある。とくにこのネイラー編は3分の1以上が他の霊言集からの引用で構成されている。

それをそのまま訳したのではまったく面白味がなくなるので、私のシリーズではそうした箇所を割愛したり、全体の構成を私なりの判断で日本人向きに工夫を施したりしている。

本書でも重複部分は前3巻でカットしておいたものと置き換え、さらにオースチンの第1集からも関連した部分を引用してある。こうすることで私のシリーズにシルバーバーチの霊言の全部を摂り入れるつもりである。

結局第1集は単行本として訳さず全10巻に分散するという形をとることにした。その点をご理解ねがいたい。サイキック・ニューズ社からも“良いと思われるように編集されて結構”という諒解を得ている。

訳者注【2】 – オースチンの続編で、次の第5巻に予定している。

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1章 絶対不変の摂理

「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の1分子です。不動の信念をもって正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例1外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、かならずやそれを手にすることができます。

それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、かならずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。

地上の歴史を播(ひもと)けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分かります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。

時として酷(きび)しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです –

自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫(くじ)けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。

多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱(みだ)すのです。“完(まった)き愛は怖(おそ)れを払う”(ヨハネ【1】4・18)“まず神の御国と義を求めよ。さらばすべてが汝のものとならん”(ルカ12・31)

これは遠いむかし神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気をもって実践すればかならず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えができれば、何ことも望みどおりの結果が得られます。

もうひとつ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えばそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。

つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。

人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方ひとりひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものはありません。

私どもはあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩(ぼんのう)の土塊(どかい)の中に章埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

できるだけ高い界のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙でひとりぼっちでないこと、いつもまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。

そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。

人間は同胞のために自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持しているかぎりその人は神のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

単なる信仰、盲目的信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。

いまだ証(あかし)を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人はその三倍も幸せです。

(訳者注 – 死後にも生命があることは証明できたが、それが永遠に続くものであるかどうかは、証明の問題ではなく信仰の問題である。それは高級霊にとっても同じで、だから究極のことは知らない、とシルバーバーチは明言するのである)

ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証(あかし)を手にしておられるからです。

そこまでくれば、さらに、今度は万ことが良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。

無明(むみょう)から生まれるもの – あなた方のいう“悪”の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護のもとに生き、活動しているのだという信念です。

心に邪(よこしま)なものさえなければ善なるものしか近づきません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。

あなた方には何ひとつ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹きこまんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。

その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。変心の嵐を鎮め、絶望の暗闇(くらやみ)から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何ひとつ恐れるものはありません。

完(まった)き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐(くちく)します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来ごとも克服できないものは有りえないことを悟っているからです。

恐怖心はみずから魂の牢獄(ろうごく)をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言できるようでなければなりません –

自分は神なのだ。足もとの事情などには迷わされない。いかなる困難も内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮(ちぢ)こませるのでしょう。

神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

ですから、あなた方のように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解してください –

私の方でも向上進化の足を止めてあなたのために精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。

地上の人間のすべてが自分が人間的煩悩(ぼんのう)と同時に神的属性も具えていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。

しかし人間は心の奥に潜在する霊力をあまり信じょうとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

その昔“この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ”という訓え(※)が説かれましたが、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間にはそれを実践する勇気がありません。

金持を羨ましがり金持の生活には悩みが無いかのような口を利きます。金持には金持としての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。

(※この世にありながら、この世的な俗人となるなというイエスの訓えで、たしかに聖書にそういう意味のことを説いている箇所があるが、そっくりそのままの言葉は見当らない。

モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊のひとりが“われわれがキリストの地上での行状を語るときは霊界の記録簿を参照している”と述べている。訳者)

人間が地上にあるのは人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかがその人の性格を決定づけます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

心の平和はひとつしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心とひとつになり、神の大いなる意志とひとつになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。

神の摂理は精細をきわめ完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることもありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。

地上の束の間のよろこびを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物ごとを考え、私どもは霊の目で見ます。摂理を曲(ま)げてまで人間のよろこびそうなことを説くのは私にはとてもできません。

私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そのスピリットたちは2度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。

ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

どこまで向上してもなお自分に満足できない人がいます。そういうタイプの人は霊の世界へきても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。神の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通してまだまだ魂に磨きをかけ神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておれると思われますか。

光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。

私どもがじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。

神は人間に必要不可欠なものはすべて用意してくださっています。それが平等に行きわたっていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。

私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢(あ)えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側(はた)から手出しをしてはならないことがあるのです。

首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指1本援助してはならないことがあるのです。

私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。そのときの辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。

しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が代って解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。

もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、いち人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害されはじめます。

霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物ごとがラクに順調に渉(はかど)るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私たちにも干渉を許される場合が生じます。

万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねないこと態に立ちいたった時は干渉します。たとえばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。

しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関わる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません」

ある日の交霊会でサークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取りあげてシルバーバーチがこう語った。

「タネ蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が“実り”を産み出していく自然の営(いとな)みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。

大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みのすばらしさに感心し、秩序整然たる困果関係の営みの中に、そのすべてを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。

蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(タネ)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。

利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑(かたくな)な人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。

この摂理は変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃美歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。

発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。

邪(よこしま)な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。そのひとつひとつ摂が神の計画に沿って調和して働いています。

この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転稼できるかのように教える誤った神学を一刻も早く棄てさるべきであることになります。

人間は自分の魂の庭師(にわし)のようなものです。魂が叡智(えいち)と崇高(すうこう)さと美しさを増していく上で必要なものは神がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております」

このようにシルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会でこう述べている。

「人間的な感情を具(そな)えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。

神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰ひとりとしてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。

神がすべてを知り尽くしているのも法則であればこそです。法則だからこそ何ひとつ見落されることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。

人生のありとあらゆる側面が – いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも – けっして見逃されることがありません。すべてが法則によって経施されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。法則は絶対です。

人間の自由意志が混乱を惹(ひ)き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪(のろ)いとなっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました」

(訳者注 – 第2巻ならびに第3巻の“あとがき”で説明したとおり、シルバーバーチは同じ単語を冠詞の用い方で使いわけることが多く、ここでも一般に法律や法則をさす law を a law、the law、laws、the laws、そしてただの law、さらにこれらを大文字にしたりしており、私はその場に応じて法則、摂理、理法、絶対的原理、真理、神の“おきて”、あるいは“働き”等々と訳し変えている。

シルバーバーチも言っている通り霊的な内容を地上の言語で完璧に表現することは所詮むりなことであるから、用語そのものにあまり拘(こだわ)らずに全体としての意味を汲み取っていただければ結構である)

さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象にすべきであると説いてこう続ける。

「私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを始めから是正させられる日が来ます。

法則から逃れることはできません。誰ひとりとして免(まぬが)れることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いた者は尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。

いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。

なぜなら、そうと知りつつ怠(おこた)ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨30枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。

(訳者注 – 最後の晩餐の直前にイエスの弟子のひとりユダが、イエスを捕縛せんとする側と密通して銀貨30枚を貰ったことから“裏切りの値”としてよく用いられるが、ここではシルバーバーチは摂理に背(そむ)くことを神への裏切り行為として述べている)

神は人間のすべてに内在しております。むろん人類はありとあらゆる進化の形態をへて今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらのすべてに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を“神のごとく”生きることができます。

あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間のひとりひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫をひとりひとりが携えているのです。“神の御国は汝等の心の中にある” – この言葉の真意を理解する人がなんと少ないことでしょう。

その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送ることです。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。

行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為がいちばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の“主人”でなく“奴隷”になっている、とはよく言われることです」

普遍的な同胞精神の必要性を説いて –

「私たちはひとりの例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、そのひとつひとつが全体の組織の一部を構成しているのです。

そのうち神の摂理が地上全土で理解され、あらゆる肌色をした人種が混り合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、そのひとつひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。

そのすべてが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。

このサークル – レギュラー・メンバーとシルバーバーチ霊団 – がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょうか。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。

私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体のために寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。

あなた方ひとりひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。おひとりおひとりが神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分よりも力の劣(おと)る人に手を貸すという、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現(けんげん)しようとする行為でもあるということになります。

いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べものを与え、寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。

そうした行為のひとつひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこにはかならず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。

神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊力に反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神の力によって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬(どうけい)に燃える人はみな神の道具です。

地上世界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手に決めてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。

その力はいっさいの地上的差別を無視します。地位や肩書き、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応す章る人に働きかけ、真理の大根源からの霊力を注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙という名の神の大農園の働き手として雇います。

どうか皆さんもこの教訓を会得され、神のために、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光と力をもたらしてあげていただきたいのです。

それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人のために自分を役立てることの喜び – 自分のためには何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう」

霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて –

「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには大変な責任が担(にな)わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。

霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞のために活用することをまるでしようとしない人に、私は時おりうんざりさせられることがあります。

そういう人は霊の述べたことなら何でも“高等な訓え”として有難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解していくのですから、訓えそのものに“高級”も“低級”もありません。

もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を渇かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことができるような世の中にするために何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践(じっせん)していることになりましょう」

続いて自由意志との関連について –

「人間は戦争が起きると“なぜ神は戦争を中止させないのか”“なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか”と言って私たちを批難します。しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。

自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。

高慢、嫉妬、怨恨、貪欲(どんよく)、悪意、不信、猜疑心(さいぎしん) – こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違(なかたが)いとなります。

神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちから(さきほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。

この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が章宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。

誰であろうと – いち個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと – 摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケがまわってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。

時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申し上げます – 宇宙には自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。

ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちにできるのは永遠の霊的原理をお教えすることだけです。

物的なものがすべて朽ち果て灰燼(かいじん)に帰したあともなお残るのはそれだけだからです。物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。いたって単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。

霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかはありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟っていただきたいのです。

ですが、それが叶えられない – つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背(そむ)いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかはありません。

地上で偉人とされている人がかならずしも私たちの世界で偉人であるとはかぎりません。私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持の大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。

自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適(かな)った生き方をすれば、その恩恵がもたらされます。

摂理に背(そむ)いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑(けいべつ)されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとしません。

地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆(か)られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが…。

ですが、霊的盲目による無知の中に浸(ひた)り切り、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。

私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼にのって、援助の手を差しのべられるところならどこへでも参ります。それらが私たちに課せられた大切な使命なのです。

むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服していかねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。

あなたがた地上の同志と手を握り合えばいくばくかの仕事はできます。たった一個の魂でも目覚めさせれば、たったひとりでも暗闇から光明へ導くことができれば、たったひとりでも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります」

個々の人生に宿命的な流れがあるという意味において自由意志にも限度があるということにならないかとの質問に答えて –

「人生にある種の傾向、つまり波動の流れがあることは事実ですが、どうしようもないものではありません。人間は常に各種の放射物や影響力によって囲まれており、その多くが個々の運動を左右する可能性をもっていることは事実です。

しかし神はすべての人間に自分の一部、大霊の分霊を賦与しています。それには、各自の進化の程度に応じて自由意志を正しく行使しさえすれば、その発現の障害となるものすべてを克服する力が秘められております。なぜならひとりひとりが即ち神であり、神は即ちあなたがたひとりひとりだからです。

神性を宿した種子はひとりの例外もなくすべての人間に植えられております。その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な生長を促(うなが)す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。

その種子は神があなた方の魂に植えてくださっているのです。が、その手入れをするのは自分自身です。いつ花を咲かせるか、あるいは、はたして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛かっております。

各自には自由意志があります。もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長のための光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいっになっても発揮されることはありません」

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2章 “苦”の哲学

シルバーバーチが神の摂理を説くとき、その絶対性への確信があまりに深く、その述べ方があまりに“あっさり”としているために、われわれ地上の人間には“冷淡”な印象すら与えることがある。たとえば次のように述べる –

「摂理であるがゆえに摂理であるところのもの – 永遠の心すなわち神の働きであるがゆえにこれまで絶え間なく機能し、これからも絶え間なく機能し続けるところの摂理の存在を指摘しているのです。その摂理に則(のっと)って生きれば内にも外にも調和と安らぎが得られます。

逆らって生きれば内にも外にも不和と混沌が生じます。あなた方人間は霊的存在です。これは誰もがいつの日か直面することになる厳粛な事実です。が、“いつの日か”ではなく“今すぐに”認めて、これから先の何十年ものムダな困難を省(はぶ)いた方がどれだけ賢明でしょうか」

そう言われれば、われわれには反論の余地がなくなる。それが冷淡さと受け取られかねないのである。霊的に未熟な者、あるいは悲しみの涙で視野を曇らされている者が苦しみと悲しみの必要性を説かれると、いっそうその感じを強く抱くことであろう。しかし、シルバーバーチはさらにこう説くのである。

「神は無限なる愛です。そしてこの全宇宙のいかなる出来ごとも神の認知なしに生じることはありません。すべての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙の“より高い”、“より深い”実相について“より大きな悟り”を得させることになるのです」

別の交霊会でもこう述べている。

「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。

過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の難問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。

いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたには何の影響も及ぼさず、通る道に石ころひとつ転がっておらず、征服すべきものが何ひとつないようでは、あなたは少しも進歩しません。

向上進化は困難と正面から取り組み、それをひとつひとつ克服していく中にこそ得られるのです。

さらに別の交霊会で –

ひとつひとつの体験があなたの人生模様を織りなしています。あなた方はとかく一時の出来ことでもって永遠を裁こうとされます。つまり目先の矛盾撞着にとらわれ、人生全体を通して神の叡智の糸が織りなされていることを理解しません。

調和を基調とするこの大宇宙の中であなた方ひとりひとりが神の計画の推進に貢献しております。人生での出来こと – 時には辛く絶望的であり、時には苦しく悲劇的であったりしますが – そのひとつひとつがこれから辿(たど)りゆく道のために魂を鍛える役割を果たしているのです。

光と闇、日向と陰、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして陰はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。困難、障害、不利な条件 – これらみな魂の試練なのです。

それをひとつ克服した時、魂は一層充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。

いったい無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。もちろん思われないでしょう。

人生の喜び、楽しい笑いの味は、人生の辛酸をなめつくして始めて分かります。なぜなら深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の陰を体験するほど、それだけ日向の喜びを味わうことができます。

体験のすべてが霊的進化の肥やしです。そのうちあなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折(うよきょくせつ)した一見とりとめのない出来ことの絡(から)み合いの中で、ひとつひとつがちゃんとした意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。

地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものをもっております。

いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです」

こうして一方では厳しい生き方を説きながらも、他方では慰めの教説も忘れない。最近ご主人を失ったばかりの婦人にこう語って聞かせた –

「あなたもそのうち物的なつながりよりも霊的なつながりの方が大きいことを理解しはじめることでしょう。ご主人はこの世にいた時よりもはるかにあなたにとって身近な存在となっておられます。

地上人類が肉体的存在の消滅を大変な不幸として受け止めるのは、地上世界の進化が物的バイブレーションの段階を超えていないからです。

その段階を超えて進化すれば、物質というものがただの殻(から)にすぎないことを理解するようになります。それを実在であるかに思い込むのは地上が影の世界だからです。

霊的に向上していくと、光とその光によって生じる影との区別ができるようになります。地上的縁には拘束力はありません。霊的な縁こそ永遠に続くものです。

ぜひ銘記していただきたいのは、あなた自身にとって大変な悲しい出来ことのように思えることも、実は他の大ぜいの人たちのためにあなたを役立てようとする計画の一端であることがある、ということです。

あなただけの個人的(パーソナル)な見地からのみ眺めてはいけません。その体験を通じてもし大勢の人々の魂が鼓舞されることになれば、それがひいてはあなた自身の魂の成長を促すことになります。そして、あなた自身がこちらへお出でになりご主人と再会された時にも、それが大きな拠(よ)りどころとなります。

“死んだ人”はあなたのもとを去ってしまうのではありません。死という名のドアを通り抜けて新しい生活へ入っていくだけです。その人たちにとって死は大きな“解放”です。決して苦しいものではありません。彼らにとって唯一の辛さは、地上に残した人々が自分のことで嘆き悲しんでいることです。

いくら順調に進化していても、地上にいる限りは相変らず霊的なバイブレーションより物的バイブレーションの方が感応しやすいものです。縁故のあるスピリットがすぐ身のまわりにいます。

肉体に宿っていた時よりも一段と親近度を増しているのですが、 – 人間の方は鈍重なバイブレーションにしか反応しないために、すぐ近くにいても、その高いバイブレーションに感応しないだけです。

あなた方は今この時点において立派に霊魂(スピリット)なのです。物的世界での教訓を身につけるために地上にやってきているところです。時としてそれが辛い教訓となることがありますが、それはそれなりに価値あることではないでしょうか。

皆さんはなぜ物的な出来ことをもって永遠を判断しようとなさるのでしょう。皆さんは空の広さは計れません。地球の大きさすら計れません。なのにわずかな地上生活でもって永遠を計ろうとなさいます」

同じく主人を失い、失意のあまり自殺まで考えた婦人が質問を寄せ、それがシルバーバーチに読んで聞かされた。 – 自らの行為によってそちらの世界へ行くことは許されるでしょうか。たとえば最愛の伴侶を奪われた人の場合です。

「許されません。あくまでも摂理にしたがって寿命を完(まっと)うしなければなりません。神の摂理は常にその働きが完璧だからです。完全な愛によって、つまり全存在に宿り全存在を通じて働いている神の意思によって支配されているからです。その摂理の働きに干渉する権利は誰にもありません。

もし干渉して与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わされます。

たとえばリンゴを熟さないうちにもぎ取れば、リンゴの美味しさは味わえません。それと同じで、霊的に熟さないうちに無理やり次の世界へ行くようなことをすると、(地上での悲しく苦しい期間よりも)永い期間に亘って辛い体験を支払わされることになります。

おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人にも会えないことにもなります。その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしらえるからです」

このシルバーバーチの回答がサイクック・ニューズ紙に掲載されたのを読んだ婦人が次のような礼状を寄せてきた。 –

「質問にお答えくださったことへの私の感謝の気持をシルバーバーチ霊にお伝え頂けるものかどうか存じませんが、 もしお伝えいただけるのでしたら“残された者”の質問にこんなに明快にそしてこんなに早く回答してくださったことに対する私の感謝の気持をお伝えください。

そして、こうもお伝えください – お言葉に大変失望致しましたが、お訓えを信じ神からお呼びが掛かるまで、力のかぎり“生き続ける”覚悟を決めました、と」

では“安楽死”はどうであろうか。これは現代の世間一般の関心ことであると同時にスピリチュアリズムでも議論の的となっている問題である。ある日の交霊会でそれについての質問が出された。

– 回復の見込みのない患者を死なせる特権を法律によって医師に与えるべきだという考えをどう思われますか。

「私はすべての生命は神のものと申し上げております。肉体が滅び霊が解(と)き放たれる時が来れば、自然の摂理でそうなります」

– 物的手段を講じて永生きさせることは正しいとお考えでしょうか。

「はい」

– たとえ永生きさせることが苦しみまで永びかせることになってもですか。

「そうです。ただ、この問題に関してひとつお忘れになっていることがあります。霊は、肉体を去るべき時が至れば必ず去るもので、地上にはその理法を変える手段はないということです」

– 不治の患者を人為的に死なせた場合、それは死後その患者の霊にさらに苦痛をもたらすことになるのでしょうか。

「そういうことはありませんが、死後に備えのできていない霊に一種のショックを与えることになり、そのショックが何かと良からぬ影響をもたらします。自然に死ねば必要でなかったはずの手間をかけて埋め合わせをしなければならなくなります」

– 医師にも寿命を永びかせる力があるでしょうか。

「医師が“肉体”を生き続けさせようと努力なさる – それは結構です。が、“霊”にはその肉体を去るべき時というものがあり、その時が至れば地上の医師には為すべき手段はありません」

– ということは生命を維持させようといくら医師が努力しても無駄ということでしょうか。

「そういうことです。もしあなたのおっしゃる通り医師に生命を維持させる力があるとすれば、なぜ最後はみんな死んでいくのでしょう」

– でも少しの間だけでも永生きさせてあげることはできます。

「患者がその処置に反応すればの話です。たとえば酸素吸入ができます。しかしそれも“ある程度まで”のことでしょう。霊が私たちの世界へ来るべき準備が整ったら最期、医師に為す術(すべ)がありません」

– もし寿命というものが定まっていて、各自が原則として霊的に準備が整った状態でんでいくのが事実だとすると、なぜ平均寿命が延びているのでしょうか。

「人類が進化しているからです。肉体的なことが霊的なことを決定づけるのではありません。霊的なことが肉体的なことを決定づけるのです」

– 産児制限をどう思われますか。

「人間には正しいことと間違ったこととを見分ける道義的判断力と、それを選択する自由意志とが与えられております。つまるところ動機(意図、魂胆)の問題です。

何のために? – これをみずからの良心に問いかけるのです。一度ならず何度でも問いかけてみるのです。その結果として選択したもの、それが何より大切です。他のことはどうでもよろしい」

– でも、生命の誕生を阻止することは神の摂理に反することではないでしょうか。

「どうしても地上に誕生すべき宿命をもった霊は避妊しない夫婦を選んで誕生してきます。因果律は絶対です。一対の夫婦にとって新しい生命が誕生することが進化のためのプランに組み込まれておれば、それを阻止することはできません。本人(夫婦)みずからがそれを要望するようになるものです」

– 生まれてくることになっていれば夫婦の方でそれを望むようになるということでしょうか。

「そうです。その夫婦の進化の程度が新しい生命の誕生による影響を必要とする段階に達したということもあるでしょう」

– 当然それは“より高い”進化を意味するわけですね。

「いえ、必ずしも高いとは言えません。必ずしも低いとも言えません。(第3巻141ページ参照)中には肉体的快楽だけを求めてその結果(妊娠)は避けようとする者もいますので、この種の人間は別に扱わなくてはいけません。むろん私はそうした生き方は感心しません。その意図が同じく利己的で程度が低いからです。

(訳者注 – シルバーバーチは利己性はすべていけないとは言っていない。人間界においては、たとえ愛に発する行為であっても、大なり小なり利己性は免れないという。

要は動機の程度が高いか低いかの問題で、そこでこのように Lowly selfishness、直訳すれば“下賤(げせん)な利己主義”という言い方もする訳である。これはきわめて大切なことである。

この点を正しく理解していないと安易な自己犠牲精神に駆り立てられ、その犠牲が何も生み出さずに無駄に終わって元も子も無くしてしまう危険性がある。

別のところでもシルバーバーチは、人類愛や博愛精神を説く一見崇高そうな人間の心の奥にも、霊界から見ると“オレこそは”と言った自惚(うぬぼ)れと野心がうごめいているのがよく読み取れると言っている。

私が若いころ師の間部氏から“人間のすることなんかタカが知れてる!”と強い口調で戒められたことがあったが、そういう意味あいがあったのであろう)

– でも、それがもし生まれてくる子供にとって不幸だという考えからだったらどうでしょうか(裏がえせば育児が面倒だということ – 訳者)

「それが動機ということになりませんか。何ことも動機に帰着します。摂理をごまかすことはできません。摂理は各自の魂に入力されております。そしてあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる観念、あらゆる願望が細大もらさず魂のオーラに印象づけられていきます。

霊の目をもって見れば、そのすべてが一目瞭然です。地上生活での行為がいかなる意図のもとに為されたかが明確に知れます。あなた方の魂は霊の目の前では裸も同然です」

– 霊は妊娠中のどの時期に宿るのでしょうか。

「異議を唱える方が多いことと思いますが、私はふたつの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能するための媒体を提供した時、その時が地上生活の出発点であると申し上げます。

– 遺伝的に精神病をかかえた人の人生が、その肉体的欠陥のために地上体験から教訓が得られないという意味で無意味であるとした場合、その病気の遺伝を防ぐ目的で断種をするという考えをどう思われますか。

「私には、そして全宇宙のいかなる存在もみなそうですが、生命の法則を変える力はありません。 一個の魂が物質界に誕生することになっている時は、それを阻止しようといかに努力しても、必ず誕生してきます。なぜかとお聞きになることでしょう。そこで私は再生の事実の存在を説くのです。それが理由です」

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3章 再生の原理

“再生” – 生まれ変わり – はスピリチュアリストの間でも論議の的となっている問題で、とかく意見が食い違うことがある。シルバーバーチはこれを全面的に肯定(こうてい)するスピリットのひとりであるが、ただ従来の輪廻転生(りんねてんせい)説に見られる機械的な生の繰返しではなく、進化のための“埋め合せ”を目的とし、しかも生まれ変わるのは同一霊の別の意識層であるとする。次がそれについて問答である。

– 意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

「“今のあなた”という意識とは別に、同じく“あなた”といえる大きな意識体があります。それのホンの一部(分霊)がいま地上という物質界で“そのあなた”を通じて表現されている訳です。そして、あなたのほかにも同じ意識体を構成する分霊が別の世界で表現されております」

(訳者注 – ここでいう“意識体”は次の質問に対する答えの中に出てくる“内奥の霊的実在”と同じで、これを浅野和三郎氏に倣(なら)って“中心霊”と訳しておく)

– 個々が独立しているのでしょうか。

いいえ、独立はしていません。あなたも他の分霊も1個の中心霊の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれが様々な媒体を通して自我を表現しており、時おりその分霊同士が合体することもあります。

ですから、分霊どうしが霊的に無縁というわけではありませんが、互いに意識するのは何らかの媒体を通して自己表現し始めてからのことです。

合体したことに互いが気づかないこともありますが、それは表現しはじめて間もない頃(霊的な幼児期)に限られます。

そのうち共通の合流点を見出して、最終的には全体としてひとつに再統一されます」(マイヤースはその部分的存在を“類魂(グループソウル)”と呼んでいる – 訳者)

– その分どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるのでしょうか。

– 中心霊をひとつの大きな円として想像して下さい。その円を構成する分霊が離ればなれなって中心核の周りを回転しています。

時おり分霊どうしが会ってお互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て再びもとの円が完成されます」

– ふたつの分霊が連絡し合うことができますか。

「必要があればできます」

– ふたつの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。

「ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識であらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりに成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られま」

– 個々の意識は自らの進化に自らが責任を負い、他の分霊の体験による恩恵は受けないというのは本当ですか。

「その通りです。個々の霊はひとつの中心霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識していきます」

(訳者注 – マイヤースは“類魂”の説明の中で他の仲間の体験を自分のものとすることができると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが喜怒哀楽を中心とした“体験”を言っているのに対し、シルバーバーチは例によって“因果律”の観点から述べているのであって、たとえ同じ類魂どうしとはいえ、他の仲間の苦難の体験によって罪業が中和されたりすることはないという意味に解釈すべきである)

– そうして進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね。

「(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが…」

– 個々の小我の地上への誕生は1回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。

「それは成就する目的いかんに関わる問題です。同じ小我が2度も3度も再生することがあります。ただしそれは特殊な使命のある場合に限られます」

– ひとつの意識体の個々の部分、というのはどういうものしょうか。

「これは説明の難しい問題です。あなた方には“生きている”ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的にはもっとも下等な形態で顕現しているのです。

そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識をもって生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。

宗教家が豁然(かつぜん)大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかなカゲを見たにすぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなたがたに、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。

私の苦労を察してください。譬(たと)えるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなた方にはせいぜい光と影、日向と日陰の比較ぐらいしかできません。

虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです」

– 再生は自発的なものでしょうか、それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのでしょうか。

「そのいずれの場合もあります」

– ということは、つまりは強制的ということですね。

「強制的という言葉の意味が問題です。誰かに再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。

ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世での過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に自覚するようになり、今こそ実行するのが自分にとっての最良の道だと判断するのです」

– 死後は愛の絆のある者同士が生活をともにすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら残った者との間はどうなるのでしょうか。

「別に問題はありません。物的な尺度で物ごとを考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬(たと)えています。

ひとつのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間に物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のあるところにそんな別れは問題ではありません」

– 霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵庫のようなものがあるのでしょうか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供はいくらでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのでしょうか。

「あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂を拵えるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための“器官”を提供することだけです。生命の根源である“霊”は無限です。無限なるものに個性はありません。

その一部が個体としての表現器官を得て地上に現れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界には既に地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さねばならない用事、達成せねばならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的の為のチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです」

僕が頻繁に浴させて頂いてる霊的現象は、法悦状態・霊聴・幽体離脱・インスピレーションで、僕は霊視能力は殆ど無いようです。離脱中に様々な方とお会いして霊界でのコミュニケーション方法も知ることができました。思念対思念の直接的会話は瞬間的で美しいです。皆さんにも知っていただきたいです(祈)

– 人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが…。

「そうではありません。それは身体については言えますが霊は無始無終です」

– 古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか。

「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」

– 類魂のひとつひとつを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか。

「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」

– それはマイヤースの言う類魂と同じものですか。

「まったく同じものです。ただし、単なる霊魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやってくるのです」

– その意識の本体に戻ったとき各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思われるのですが…。

「川が大海へ注ぎ込んだとき、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」

– なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか。

「霊言という手段によっても説明のしようのない問題に証拠などがありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になってはじめて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。

まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うにすぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです」

– 再生するということが自分で分かるのでしょうか。

「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は永遠の時の流れの中で1歩1歩、徐々に表現を求めています。あるところの魂は、永遠の時の流れの中で1歩1歩、徐々に表現を求めています。

が、どの段階でどう表現してもその分量は僅かであり、表現されない部分が大半を占めています」

– では無意識のまま再生するのでしょうか。

「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘に触れた問題で、とてもあなた方の言語では説明しかねます」

– 生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。

「愛はかならず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛はかならず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同志を永久に引き裂くことはできません。

– でも再生をくり返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが。

「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神がこしらえたのであって、その子供であるあなた方がこしらえるのではありません。

賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終わることを知っているからです」

– これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しは“ましな”人間であってもいいと思うのですが…。

「物質界にあっても聖人は聖人ですし最下等の人間はいつまでも最下等のままです。体験を積めば即成長といわけにはいきません。要は魂の進化の問題です」

– これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。

「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経てはじめて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて始めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞(たくま)しい輝きを見せるのです」

– そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。

「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」

– 再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。たとえばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に。

「そうとは限りません。目指している目的のためにもっとも適当と思われる国、民族を選びます」

– 男性か女性かの選択も同じですか。

「同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません」

シルバーバーチ霊が多大な犠牲を払って地上人類にもたらしてくれた“ダイヤモンドの輝き”に譬えられる珠玉の霊的真理。僕たちはその美しい霊言の数々に触れることで、大切な知識を得るチャンスを与えて頂いたのです。人類の宝とも言える霊界通信の書籍は、すぐ手の届くところにあるのです☆(祈)

– 死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して2度も罰を与えるのですか。

「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。

もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。ましてや2度も罰せられるということは決してありません。

神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」

– 自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか。

「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然に分かるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前を幾つか挙げても結構ですがそれでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は“説く”だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいてもそれは一向に構いません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。

人が受入れないからといって、別に構いません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」

– 再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的を絞るという考えは如何でしょう。

「闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励む方がよろしい。

向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探究の終着駅ではありません。そこから始まるのです。

自分が神の分霊であること、それ故に何の苦も無く何の変化も無く“死”の関門を通過できるとい事実を理解したとき、それですべてがおしまいになるのではありません。そこから本当の意味で“生きる”ということが始まるのです」

– 新しい霊魂はどこから来るのですか。

「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。

聖書でも“神は霊なり”と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」

– ということは我々は神という全体の一部だということですか。

「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります。

– でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。

「これまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。

その意味でしたらそれはよくあることです。但し、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」

– 再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか。

「こうした問題はすべて自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。つまり意識が拡大し、こんど再生したらこれだけの生長が得られるということが分かるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいる訳ではありません。すべて魂自身が決めるのです」

– 再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏み外していちばん下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか。

「すべての生命、特に霊的は生命に関する限り、常に進歩的です。今は根源的な霊性についてのみ述べています。それがいちばん大切だからです。

いったん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」

– 先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。我々スピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか。

「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分が納得がいくまで疑ってかかればよろしい。納得すればその時初めて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争で勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。すべては悟りの問題です。

悟りが開ければ生命の神秘の理解がいきます。もっとも、すべてを悟ることはできません。すべてを悟れるほどの人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。

すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。

私はただこれまで自分が知り得た限りの真理を説いて教えてさしあげるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば“そうですか。それは残念(アイアムソリー)ですね”と申しあげるほかはありません」

シルバーバーチ以外で僕が好きな書籍の紹介です。「母と子の心霊教室」です☆この本は子供達に向けて書かれた書籍で非常に分りやすく、霊的知識に初めて触れる方にぴったり☆僕はこの本は小学校の教科書にすべきだと本気で思ってます。早く霊的知識が当り前になる時代が来るといいですね(祈)

– 霊に幾つかの側面がありそのうちのひとつが地上に生まれ、残りは他の世界で生活することもありうる、という風におっしゃいましたが、もう少し詳しく説明して頂けませんか。

「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号に過ぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものをどうして地上的用語で説明できましょう。

これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば霊とあなた方のいう神 God、私のいう大霊 Great Spirit、の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方はできません。

生命力 Life Force、動力 Dynamic、活力 Vitality、本質 Real Essence、神性 Divinity、それが霊です。仮に私が“あなたはどなたですか”と尋ねたらどう答えますか。

“私は○○と申す者です”などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目わかりません。個性があり、判断力をもち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することのできる人 – それがあなたでありあなたという霊です。

その霊があるからこそ肉体も地上生活を営めるのです。霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能な訳です。その霊に幾つかの面があります。

それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしふたりの人間が格別相性がいい場合(滅多に無いことですが)それは同じダイヤモンドのふたつの面が同時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然ふたりの間に完全なる親和性がある訳です。調和のとれた全体の中のふたつの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」

– あなたがダイヤモンドに譬えておられるその“類魂”についてもう少し説明して頂けませんか。それは家族(ファミリー)関係のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味をもつ霊の集まりですか。あるいはもっと他の種類のグループですか。

「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとは全く異なります。肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。

そもそも霊的関係というものは。そのもっとも崇高なものが親和性に起因するのであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基くものではありません。

類魂というのは、人間性に関わった部分に限って言えば霊的血縁関係とも言うべきものに起因した霊によって構成されております。同じダイヤモンドを形作っている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。

その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」

– 我々個々の人間はひとつの大きな霊の1分子ということですか。

「そう言っても構いませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」

– では今ここに類魂の一団がいるとします。個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって1個の霊になってしまうことは考えられませんか。

「そういうことは有り得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりがないからです。完全というものは絶対に達成されません。1歩進めば、更にその先に進むべき段階が開けます。聖書に、己れを忘れる者ほど己れを見出す、という言葉があります。

これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど“個性的存在”が強くなり、一方“個人的存在”は薄れていくということです。おわかりですか。

“個人的”存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり“個性的”存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて“利己性”が薄れ、一方“個性”はますます発揮されていくわけです」

– “双子霊”Twin Souls というのはどういう場合ですか。

双子霊というのはひとつの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性をもった霊魂 – いわゆるアフィニティ Affinity – は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとは限りません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上でめぐり合うという幸運に浴した場合は、まさに地上天国を達成することになります。

霊的に双子なのですから霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり“あなたたちはアフィニティですね”と申し上げることがありますが、その場合がそれです」

– 双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになる訳でしょう。

「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのはふたりが霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。

しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」

– 物質界に誕生する霊としない霊がいるのはなぜですか。

「霊界の上層部、つまり神庁には1度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても生長進化を遂げることができるのです。

頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」

– 大きな業(ごう)(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか。

「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業(ごう)もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。

原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすればそれはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。

しかしいっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」

– 戦争、と事故、疾病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったと考えるべきでしょうか。もって生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか。

「業というのは詰まるところ因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証(あかし)として神が用意した手段のひとつです。もし介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。

因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることもなく少なすぎることもないよう配慮されています。それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。

次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。しかし個人には自由意志があり、また諸々の事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」

シルバーバーチ以外で僕が好きな書籍の紹介です。「ベールの彼方の生活 1巻~4巻」です。人間全員が100%暮らすことになる次の生活の場、霊界における様々な界層での生活の様子を言語で説明できる限りトコトン紹介した書籍です。地上生活中に絶対に知っておくべき知識の宝庫なのです(祈)

– 寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間に当てはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが…。

「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの方が肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」

– 地上で辿るべきコースが分かっているとすると、その結果得られる成果についても分っているということでしょうか。

「その通りです」

– そうなると、前もって分かっているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか。

「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もって分ったからといって霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

たとえば世界中の書物を全部読むことは出来てもその読書によって得た知識は体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」

– 航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業(ごう)を消すためなのだから前もって計画されているという考えは、私にはまだ得心がいきませんが…。

「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず“計画されている”という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引起こしているように聞こえます。すべてのこと故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者 – 用語が気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます – の問題ですが、これには別の見方があることを知って下さい。つまりあなたがたにとって死は確かに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者にとってはある意味で喜ぶべき出来ごとなのです。

赤ちゃんが誕生すればあなた方は喜びますが霊界では泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大喜びでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。

これは運命と自由意志という相反するふたつの要素が絡み合った複雑な問題ですが、ふたつとも真実です。つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません」

– 事故が予知できるのはなぜでしょう。

その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは“永遠なる現在”だということです。このことをよく理解してください。

人間が現在と過去とを区別するのは地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来もないのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることができます。

もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別問題です。単に物的感覚の延長に過ぎない透視、透聴の類の心霊的能力(サイキック)psychic powers によっても予知できますし、霊視・霊聴の類の霊感(スピリチュアル)spiritual powers によっても知ることができます。

psychicとspiritualは同じではありません。いわゆるESP(Extra Sensory Perception 超感覚的知覚)は人間の霊性には何の関わりもなく、単なる五感の延長にすぎないことがあります」

– 占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか。

「およそ生命あるものは、生命をもつが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。

宇宙間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。

要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。

それはもちろん物的エネルギーですから肉体にも影響を及ぼします。しかしいかなるエネルギーもいかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすればそれは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません」

– 今の質問者が言っているのはたとえば2月1日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが…。

そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に優るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件にもよりますが。いずれにせよ肉体に関する限り、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。

それは胎児として母胎に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。しかしそうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまでも霊魂なのです。

霊魂は無限の可能性を秘めているのです。その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、如何なる環境も克服し得ないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが…」

– これから先のことはどの程度まで運命づけられているのでしょうか。それは自分の行いや心掛けによってどの程度まで変えられるのでしょうか。

“なあブルータスよ、
オレたちがうだつが上がらんのは星のせいじゃない。
オレたち自身が悪いのさ(シェークスピア)”

“門がいかに狭(せま)かろうが
いかなる逆境が運命の巻物に記されていようと、
私は平気だ。なぜなら
運命の主人公は私だからだ。
私が魂の指揮者なのだ(W・E・ヘンリー)”

– このふたつの詩文を引用してからシルバーバーチはこう続けた。

「惑星は物的存在です。それぞれに放射物を出しバイブレーションを発しております。しかしあなた方は物的存在であると同時に霊的存在です。内部には物的なものから受ける影響のすべてを克服する力を具えております。

未来は過去が生んでいきます。自分の行為を思念によって創(つく)り出していくのです。大自然の法則については既にお話しました。そのひとつに因果律があります。自分が蒔いたタネは自分が刈り取るという法則です。ある花のタネを蒔けば、その種の花が咲き、それ以外の花は咲きません。

あなた方の未来も同じです。過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえていくのです。これから先どうなるのだろう – こうした不安の念を抱くということそれ自体が、それを本当に実現させる手助けをしていることになります」

– 出席者がしきりに“災害”とか“悲劇”とかの言葉を使って語り合っているのを聞いていてこう述べた。

「物的な側面だけを見つめてはいけません。物的尺度で無限なるものを計ることはできません。そのことを常に念頭において物ごとを判断してください。

物的な目だけで見れば地上は不公平だらけです。しかし悪業に対する懲罰があるように善行に対する報酬も必ずあります。霊的な天秤はいつかは平衡を取り戻すようになっているのです。地上生活は永遠なる生命のごく短い一時期にすぎません。

人間にとって悲劇に思えることが私どもにとって有り難いことである場合があります。人間が有り難がっていることが私どもにとって困ったことである場合があります。人間は私たちから見てどうでもいいこと、あるいは霊的に何の価値もないものを大切にしすぎます。

財産、この世的な富、権力、支配への欲望です。強欲と貪欲によって動かされている人間が多すぎます」

– さらに霊的進化について聞かれて –

「霊に関わる分野において進歩が容易に得られることは有得ません。もし容易であれば成就する価値がないことになります。

霊的進化はもっとも成就しがたいものです。1歩1歩の向上が鍛練と努力と献身と自己滅却と忠誠心によってようやく克ち得られるものだからです。霊的褒章を手に入れるには奮闘努力がいるのです。もし簡単に手に入るものであれば価値は無いことになります。

価値が出るのは入手が困難だからです。それはいつまでも終わることのない道程です。霊的進化に終局というものはありません。水平線のようなものです。近づくほどに遠ざかっていきます。

それと同じで、学べば学ぶほど、さらに学ぶべきものがあることを知ります。進歩は知識や真理や叡智と同じく、限界というものがありません。ここまでという区切りがないのです。

1段よりも2段が上、2段よりも3段が上、3段よりも4段が上であるに決まっていますが、いずれもそこまでの到達度を示しているにすぎません。1段1段が人生の目的、真実、人生の拠って立つ永遠の原理をそれだけ多く理解したという指標で、その理解と共に調和が訪れます。

成就は調和を生みます。宇宙を支配する霊力を身につけるごとに、それだけその根源との調和が深まります。生活が豊かさを増します。本当の価値の識別力が身につきます。その識別力が正しく働くようになります。選択の優先順位がきちんと決められるようになります。

何がもっとも大切かが分かるようになります。他の人たちが必死に追い求めるものがあほらしく思えるようになります。この世的な富への執着がすっかり無くなった時、霊の宝がいささかも色褪(あ)せることなく、傷つくことなく、常に本来の純粋素朴な美しさを見せるものです。

私は物質面での進歩についてあれこれ申し上げる立場にありませんが、物的進歩にもそれなりの役割があります。身体(からだ)にとって必須のものを無視することは私どもの教えに反します。

身体がその正しい成長にとって必須のものをきちんと得ていないと、霊も正しく機能を発揮することができません。大切なのは身体と精神と霊の調和です。この三者が一体となって機能し、その結果として健康と幸福と冷静さと自信と決断力と安らぎが得られるのです。

霊的なことにばかり気を奪われて身体上のことをおろそかにすることは、身体のことにばかり気を奪われて霊的なことをなおざりにするのと同じく間違っております。心の修養にばかりこだわって他の側面を忘れるのもまた間違っております」

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4章 シルバーバーチ霊団の使命

– 自分自身についての単純・素朴な真理 – これを本当に理解している人が何と少ないことであろう。ところがその自分みずからを知らない人間がとかく他人のことについては、あたかも深い洞察力をもっている人間であるかのような口を利くものである。

曰(いわ)く – “あいつも、もうそろそろ気づいてもよさそうなものだが…”“いつになったら目が覚めるのだろう”“あの人がもし側(はた)から見られるように自分で自分を見つめることができたら、さぞかし…”等々。

他人についての単純な真理を表現したこうした言葉はよく耳にするが、それを口にする本人も自分自身についてはとかく何も知らないものである。

こうした中にあって、古来、その霊性の高さと説教の崇高さにおいて際立ったものを見せる存在がいる。人間それ自身についての彼らの説くところには永遠の真実味がある。ソクラテスがそれであり、イエスがそれであり、そしてシルバーバーチがそれである。

ロンドンの霊媒(バーバネル)の言語機能を借りて語る、3000年前に地上を去ったという古代霊シルバーバーチは、交霊現象にまつわるあらゆる障壁を乗りこえて、しかも稀(ま)れにみる言語感覚の冴(さ)えをさりげなく発揮しながら、こう語る。

「私にできることは永遠・不変の原理・原則を指摘することだけです。地上世界のことがすべて探求しつくされ、説明しつくされ、理解されつくしたあとに、なおかつ誰ひとりとして完全に究(きわ)めることも説明することもできない永遠の摂理があります。それは構想においても適用性においても無限です。

人間のすべてが、日々決断を迫られる問題に直面した時に、自分が霊的存在であること、大切なのは物的なもの – それなりに存在意義はあっても – ではなくて、それがあなたの本性、永遠の霊的本性に与える霊的な意義であることを自覚することができるようになれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。

物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。所詮はあなた方も霊的存在なのです。真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上では有り得ませんし、それ以下でも有り得ません。

そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。それを悟ったとき、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです。

私の目には、あれこれと“大事なこと”があって毎日あっちへ走りこっちへ走りして、忙(いそが)しく暮しながらその実“いちばん大切なこと”を見落し、なおざりにしているために、心が絶望的でヤケになっている大勢の人々の姿が見えます。

このあたりに私どもが説く教えの核心があるのですが、お判りになりますか。その人たちが日々の生活の中に生きるよろこび – 神の子として当然味わうべき充足感を見出してくれるようにと願って霊界から舞い戻ってくるそもそもの目的がそこにあることが判っていただけるでしょうか。

それはいわゆる宗教、信条、教義といったものより大切です。人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱の原因となってきた、その類(たぐい)のもののいずれにもまして大切です。が、それは自分という存在についての(霊的存在であるという)いたって単純な事実にすぎないのです。なのにそれを悟っているのはごく僅かな人たちだけで大多数の人は知らずにおります。

– さて、こうした霊的啓示をわれわれは“たまたま”良い霊媒がいたから得られた、気紛(きまぐ)れで無計画なものと受けとめがちである。

が、シルバーバーチがこれから明かすように、その背後では幾重にも組織された霊団によって遠大な計画の下に推進されている

※訳者注 – シルバーバーチに限って言えば霊媒のバーバネルが誕生する以前から計画を立て英語の習得や心霊現象の研究と準備を重ねてきたというが、同じことが各国・各民族において太古よりそれ独自の形で推進されて来ており、これから先には本格的なものが計画されていることであろう。

地上人類は言わばケンカ遊びから学ぶ幼児期を終えて、やっと本格的な霊的真理を学ぶ時代に入りつつある – そんな程度の段階にあるのではなかろうか。シルバーバーチはこう語っている。

「私たち霊団の使命はれっきとした目的ないし意義をもつ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方、生きるよろこびと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。

そうした使命をもつ私たちには、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にも亘って積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手に拵えた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなくてはなりません。

私たちの努力は常に、物質界の神の子等にいかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷(どれい)となっている状態から抜け出せるかをお教えすることに向けられております。これは容易な仕事ではありません。

なぜなら、いったん宗教という名の足枷(あしかせ)をはめられたが最期、迷信という名の厚い壁を突き破って霊的真理が浸透するには永い永い年月を要するからです。私たちは霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。

その霊的な重要性に目覚めれば、戦争と流血による革命より遥かに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。それは魂の革命です。その暁には世界中の人々が受けて当り前のもの – 霊的存在としての様々な自由を満喫する権利を我が物とすることでしょう。

私たちが忠誠を捧げるのは教義でもなく書物でもなく教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。

いずれ地上世界に強力な霊の力が注がれます。世界各地において霊的勢力の働きかけが認識されるようになります。

これまで蔓延(はびこ)ってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための大きな仕事があるからです。それはいつか必ず成就されます。が、その途中の段階においては大きな産みの苦しみを味わわなくてはならないでしょう。

その仕事を支援せんとして霊界から大勢の霊が馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれてくる人もいます。

背後霊というとあなた方はすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方にはまったくあなた方の知らない人たちで、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人たちがいることも、どうか忘れないでください。

聖書にはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ行く途中、天からの光に包まれ、目が眩んで倒れ、それがきっかけで改心する話がありますが(使徒行伝9・3、22・6)世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。

ひとりずつ霊的真理に目覚め、ひとりずつ神の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心は得てして永続きしないものです。私たちの仕事は“永続性”が命です。

1個の魂が道具となったとき、1個の魂が暗黒から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めたとき、その魂は世界の進歩に貢献していることになります。なぜなら、そのひとりひとりが言わば物質万能主義の棺に打ち込まれるクギのようなものだからです。

発達にもふたつの種類があることを知って下さい。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体(※)の発達です。前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発に過ぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では低い次元のバイブレーションしか出せません。

両者が相携えて発達した時、その人は偉大な霊能者であると同時に偉大な人物であることになります。

(※その働きを普段我々は精神あるいは潜在意識として捉えている。この中にいわゆる超能力が宿されている。シルバーバーチは別のところで、それがいずれは人類のあたりまえの能力として日常茶飯に使用されることになると述べているが、ここでは、それがすなわち人格の向上を意味するもので無いことを指摘し、超能力者だからといってすぐに崇めたがる風潮を戒めている – 訳者)

私たちが携えてくるメッセージは地上人類にとって実に素晴らしい恩恵をもたらします。魂を解放し、神からの遺産(神的属性)の素晴らしさに目を開かせます。あらゆる足枷と束縛を棄てるように教えます。霊的真理の本当の有り難さを教えます。

物的生活の生き方と同時に霊的生活の生き方も教えています。美と愛と叡智と理解力と幸福をもたらします。人のために、ひたすら人のために、と説くメッセージです。

ところが、そのメッセージを携えてくる私たちが、神を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それはいつの時代にも“よくある話”です。

一方、現在の地上の状態はそうした私たちスピリットの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲となった人々の涙の絶えることがありません。無明ゆえに地上人類は神の摂理に従った生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。

そこで私たちが希望と光明と平和と調和をもたらす知識を携えてきたのです。無明ゆえに私たちを軽蔑します。私たちのメッセージを拒絶します。私たちを背後から導いている強大な力の存在に気づいてくれません。しかし霊的実在を教える大真理は必ずや勝利をおさめます。

摂理に逆らう者はみずからその苦(にが)い実りを刈り取ることになります。摂理に従って生きる者は物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。

暗闇が蔓延(まんえん)する地上にあって、どうか希望を失わず、あなた方とともに人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しようとしている霊の努力は必ず実ることを信じていただきたいのです。その背後に控える霊力は宇宙でもっとも強大な力だからです。

価値あるものは苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の修得方法があるのです。それは避ける訳にはいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて物質万能主義の闇を追い散らしていきます。

私たちは罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者になってほしくはありません。

内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。そのためには、まず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。

なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるものだからです。満足する人間は進歩が停滞します。満足できない者はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。

私たちは決してあなた方に“理知的に難しく考えず、ただ信じなさい”とは申しません。逆に“神から授かった理性を存分に駆使して私たちを試しなさい。徹底的に吟味しなさい。その結果もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください”と申し上げております。

(訳者注 – シルバーバーチがそう述べる時、自分の訓えを押付けるつもりはないという態度の表明であると同時に、次のような事実を踏まえていることも指摘しておきたい。)

(それは、シルバーバーチの名が広まるにつれてその名を騙(かた)る霊が出没していることである。これは霊媒のバーバネルの在世中にもあったが、他界後も世界各地であるようである。)

(シルバーバーチは自分が霊媒とは別個の存在であると証明するため他の霊媒、たとえばロバーツ女史を通して“バーバネル夫妻”に語ったことはあるが、それも“そう約束した上”でのことだった。そういう事実を踏まえて、変だと思われたら遠慮なく拒絶して下さいと言うことにもなった)

私たちはひたすらあなた方に“より高潔な生活”自己犠牲と理想主義を志向する生活を説いております。もしそれをお認め頂ければ、それは私たちの訓えの中身に神の極印が押されていることを証明するものと言えましょう。

たった1個の魂でも目覚めさせることができれば、悲嘆に暮れる者をたったひとりでも慰めてあげることが出来れば、怖(お)じ気づいた人の心を奮い立たせ人生に疲れた人に生きる勇気を与えることができれば、それだけでも努力の甲斐があったことにならないでしょうか。

私たちのメッセージを耳にして心に動揺を来し、困惑し、訳が分らなくなりながらも、先入主的信仰によって身動きが取れずにいる人が大勢おります。しかしその人たちも、牢獄に閉じ込められた魂へ向けて呼びかける自由の声を耳にして煩悶(はんもん)しています。

そういう人たちにこそ私たちのメッセージを届けてあげるべきです。思いも寄らなかったものが存在することを知ってそれを必死に求めようとする、そのきっかけとなります。真理とはすべて踏み石のひとつにすぎません。

この霊媒の口をついて出る言葉にもしもあなた方の理性に反撥(はんぱつ)を覚えさせるもの、神の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それはもはや私の出る幕ではなくなったことを意味します。私の時代は終わったことになります。

この交霊会もこれまで数え切れないほど催されておりますが、その間私が魂の崇高なる願望と相容れないものを述べたことは、ただの1度もないと確信しております。私たちは常にあなた方の魂の最高の意識に訴えているからです。

地球人類は地球人類なりに、みずからの力で救済手段を講じなくてはなりません。出来合いの手段はないのです。前もって用意されたお決まりの救済手段というものはないのです。

そのためにはこれが生命現象だと思い込んでいる自然界の裏側に目に見えない霊的実在があること、そして物質界に生活している人間は物的存在であると同時に霊的存在であり、物的身体を通して自我を表現しているという事実をまず理解しなくてはなりません。

物的身体は、神の意図された通りに、生活上の必需品をきちんと揃えることによって常に完全な健康状態に保たねばなりません。一方、霊はあらゆるドグマと信条による足枷から解放されねばなりません。

そうすることによって実質的価値、つまり霊的に見て意味のないものに忠誠を捧げることなく、真実なるもののためにのみ精を出すことになり、過去幾千年にも亘って束縛してきた信条やドグマを巡っての戦争、仲違(たが)い、闘争を無くすことができます。

私たちは神を共通の親とする全民族の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に建てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。

(※宗教組織の発達に伴って内部において権力の構造が生まれる。それは人間的産物にすぎないが、それを宇宙の絶対者から授かったものと錯覚し主張しはじめる。それを“横領”と表現したのである – 訳者)

私たちの霊訓が理解されていくにつれて地上の民族間の離反性が消えていくことでしょう。各国間の障壁が取り除かれていくことでしょう。民族的優劣の差、階級の差、肌色の違い、さらには教会や礼拝堂や寺院どうしの区別も無くなることでしょう。

それは、宗教には絶対的宗教というものは無く世界の宗教のひとつひとつが宇宙の真理の一部を包蔵しており、自分の宗教にとって貴重この上ない真理が他の宗教の説く真理と少しも矛盾するものでないことを理解するようになるからです。

そうしていくうちに、表面上の混乱の中から神の意図(プラン)が少しずつ具体化し、調和と平和が訪れます。こう申し上げるのも、あなた方にその神のプランの一部 – 私たちが霊の世界から携わり、皆さんひとりひとりが地上において果たさねばならない役割を正しく理解していただくためです。

私たちが説いていることはかつて人類の進歩のために地上へ降りた各時代の革命家、聖者、霊覚者、理想主義者たちの説いたことと少しも矛盾するものではありません。

彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境と闘争を克服することができたのでした。彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲(なげう)ったのでした。

彼らも悪(あ)しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁(はんぱく)され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。

それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力が再び地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしてもその潮流をせき止めることはできません。

人間は問題が生じるとすぐ流血の手段でカタをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし従って何の解決にもなりません。

なぜ神から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ大勢殺すこと以外に、解決法が思いつかないのでしょう。なぜいちばん多くの敵を殺した者が英雄となるのでしょう。地上というところは実に奇妙な世界です。

地上にはぜひ私たちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に霊的法則と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかが判るでしょう。

こうした仕事において私たちは、自分自身のことは何ひとつ求めていません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てばという、その願いがあるだけです。

永い間忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的なエネルギーを再発見してくれるようにと願っているだけです。

今や、これまでの古い規範が廃棄され、あらゆる権威が疑問視され、その支配力が衰えつつある中で人類は戸惑っておりますが、そんな中で私たちは絶対的権威者であるところの宇宙の大霊すなわち神の存在を、決して機能を停止することも誤ることもない法則という形で啓示しようとしているのです。

地上世界がその法則に順応した生活規範を整えていけば、きっと再び平和と調和が支配するようになります。

そうした仕事は、廃棄された信仰の瓦礫(がれき)に中にいる人類が不信感と猜疑心からその全部を棄ててしまうことなく、真なるものと偽なるもの、事実と神話とを見分け、永いあいだ人類の勝手な想像的産物の下に埋れてきた真に価値あるもの、すべての宗教の根底にあるもの、霊についての真理を見出すように指導するという、私ども霊団に課せられた大きな使命の一環なのです。

霊の力 – 太古において人類を鼓舞し、洞察力と勇気、同胞のためを思う情熱と願望を与えたその力は、今日においてもすぐ身近に発見できる法則の働きの中に求めようとする心掛けひとつで我がものとすることができるのです。

教会の権威、聖典の権威、教理の権威 – こうしたものが今ことごとく支配力を失いつつあります。次第に廃棄されつつあります。しかし霊的真理の権威は永遠に生き続けます。

私がこうして戻ってくる地上世界は騒乱と混沌に満ちていますが、霊の光が隙間から洩れるようなささやかなものでなしに強力な光輝となって地上全土に行きわたれば、そうしたものは立ちどころに治まることでしょう。

なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義を後生大事にするのでしょう。

単純・素朴な霊的叡智の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃(ほこり)の中で暮らしたがるのでしょう。外(はず)せるはずの足枷(あしかせ)を外そうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかもその自ら選んだ暗闇の中で無益な模索を続けている魂がいるのです。

思うにそういう人はあまりに永い間鎖につながれてきたために、それを外すことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永い間カゴの中で飼われた小鳥は、、カゴから放たれた時、果たして飛べるかどうか不安に思うものです。

足枷を外すまではいいのです。が外したあとに自ら歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべも無くて戸惑うまま放置されるようなことになってはいけません。私たちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向も良く見きわめてほしいのです。

永いあいだ束縛の中で生きていると、やっと自由を得た時に、もう何の指図も受けたくないという気持を抱きます。そしてこう言います – “もう指図を受けるのはご免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り棄てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません”と。

足枷から解放されて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります(たとえば神仏の化身として崇めた教祖がただの人間に過ぎなかったと知って – 訳者)そこで私は、私といういち個人、ただのメッセンジャー(使いの者)にすぎない者に過度の関心を寄せられるのを好まないのです。

私はメッセージそのものにすべてを賭けております。地上の人間はあまりに永いあいだ“教えを説く人物”に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭上げ、肝心の“教えそのもの”を忘れてきました。私たちの使命はもはやそんな、しょせん人間にすぎないものを超人的地位に祭上げることではありません。

真理と知識と叡智をお届けするだけです。私が地上で傑出した指導者であったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでも良いことです。私の述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。名前や権威や聖典に訴えようとは思いません。

訴えるのはあなた方の理性だけです。人間の知性に矛盾を感じさせるようなことは何ひとつ要求いたしません。人間としての道義に反すること、尊厳に関わること、屈辱感を覚えさせること、人類を軽蔑するようなことは決して説きません。

私たちは全人類の意識を高め、地上におけるいち生命としての位置、宇宙における位置、創造神とのつながり、ひとつの家族としての地上人類どうしの同胞関係を正しく理解する上で必要な霊的真理を明かそうとしているのです。

これまでのように何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威をふりかざしたりすることはいたしません。私たちは神から授かっている理性を唯一の拠りどころとして、それに訴えます。

ただ単に聖書に書いてあるからというだけの理由で押しつける方法はとりません。理性が反撥を覚えたら拒否なさって結構です。

ただ、よく吟味してくだされば、私たちの説くところが霊的存在として最高にして最善の本能に訴えていること、その目標が間違った古い考えを洗い落とし、代って、あとできっと有り難く思ってくださるはずの大切な真理をお教えすることであることが分って頂いただけるものと確信します。

地上のいわゆる宗教は真実を基盤とすべきであり、理性の猛攻撃に抗しきれないようなものはすべて廃棄すべきです。

私たちが霊的真理を説く時、それは霊的世界の摂理に関わることとしてのみ説いているのではありません。物的世界に関わることでもあるのです。私たちの目から見れば物的世界は神の創造された宇宙の一側面であり、それを無視して、つまり絶望の淵に沈む人類の苦しみに無関心でいて“宗教的”では有得ません。

そういう人たちのために援助の手を差しのべる人はすべて偉大なる霊と言えます。真理を普及することのみが人のための仕事ではありません。他にもいろいろあります。

ひんこんに喘いでいる人々への物的援助も、病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることも、不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して内奥の霊性に神の意図された通りに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです。

私が残念に思うのは、本来霊的存在であるところの人間があまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。(巻末“解説”参照)

あなた方もひとりの例外もなく神の分霊なのです。ということは、あたかも神があなた方にこう語りかけているようなものです – “私がすべての法則を用意し、あなた方ひとりひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。

そのすべてを利用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとをみずから選択しなさい。それを私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし無視してよろしい”と。そこで神の子等はそれぞれ好きなように選択してきました。

しかし他方において、霊界から地上の経綸に当っている者は神の計画を推進するために、地上において間違いなく神の御心に感応できる人材を送り込まねばならないのです。

地上の神の子等はこれまで大きく脇道に外れてしまったために霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっております。しかし冷たい冬の風が吹きまくった後には必ず春の新しい生命が芽生えるものです。

地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春の喜びは分かりません。が春はきっと訪れるのです。そして生命の太陽はゆっくりと天界を回って、いつかは生命の壮観がその極みに達する時がまいります。

今、地上全体を不満の暗雲が覆っています。が、その暗雲を払いのけて夢を抱かせる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を速めるのも遅らせるのも、あなたがた神の子の自由意志の使い方ひとつに掛かっております。

ひとりの人間が他のひとりを救おうと努力するとき、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨(ふく)らませようと努めます。善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄に終らせることはありません。

誰かが先頭に立ってヤブを開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて新しい道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

高級神霊界の神が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を時おり見かけます。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚める日が来ることを祈りつつ眺めているのです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

私はすぐそこまで来ている新しい地上の夜明を少しでも早く招来せんがために、他の大ぜいの同志とともに波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。

物質界に降りてくるのは正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で生命力に欠けています。

たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。従って当然、生きる喜びに溢れている人は殆ど見当らず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

私が住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きる喜びがみなぎり、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分の足らざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。

それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してくださっているのです。

問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには許されないのです。

私どもにできるのは物質に包まれたあなた方に神の摂理を訓(おし)え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげるだけです。今日ここにいらっしゃる方にはぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを身をもって示していただきたいのです。

もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これにすぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちをひとつでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。

私たちの霊団はけっして本来あなたがた人間が果たすべき義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟って頂ける生き方をお教えしようとしているだけです。そう言うとある人はこんなことを言います –

– “おっしゃる通りです。だから私たちも施しをします。が施しを受ける者はまず神に感謝しなければいけません”と。施しをしたあと、その相手がそのことを神に感謝しようがすまいが、そんなことはどうでも良いことではないでしょうか。お腹を空かしている人がいれば食べものを与えてあげる – それだけで良いではありませんか。

寝るところに困った人に一夜の宿りを提供してあげる。それは良いことですが“どうぞウチで泊っていってください。ですがちゃんと神にお祈りをなさってくださいよ”などと余計なお説教をしてはいけません。

スピリチュアリズムの真実を知ったあなた方は、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまりあなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがえのない高価なものをお持ちになっている。

自分が霊的に宇宙の大霊と直結していることを悟られた。神の分霊であるという事実を悟られた。その神から遣わされた使者の働きかけを受けとめる心得も会得された。そうしたことに比べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれからも永遠に生き続けるのです。

すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切であるかがお判りになるはずです。見かけの結果だけで物ごとを判断してはいけません。あなた方は“物”の目でしか見てないのです。

“霊”の目でご覧になればひとりひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。私は時おりあなた方をはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。そしていつもこう思うのです – もし神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決して嬉しくない結果をもたらすであろう、と。

地上を去って霊の世界へ来る人たちに私はよく質問してみることがあるのですが、霊となって自分の地上生活を振り返ってみて、そこに納得のいかないことがあると文句を言う人はひとりもいません。

(訳者注 – これは、すべてはなるべくしてそうなっていた、つまり自分が蒔いたタネだったということで、“文句を言う人はひとりもいない”というのは誰しもその事実関係は認めざるを得ないことを言っているのであるが、だからみんなすぐに反省して殊勝な心掛けに立ち帰るという意味ではない。) –

– (頭でそう認めても心が素直に従うとはかぎらないのは地上でもよくあることで、地上ならば片意地を張って通すことはできても霊界ではそうはいかない。) –

– (その頑(かたくな)な心の奥にある恨みや嫉妬などの悪感情がすぐさま身辺の雰囲気に漂い、環境にそぐわなくなり、親和作用によって同じような感情の中で生きる霊ばかりのいる境涯へと引きつけられていく。そこを地獄という)

地上世界には今3つの大きな問題があります。ひとつは無知であり、もうひとつは悲劇であり、三つ目は貧困です。この3つは霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならない限り、いつになっても無くならないでしょう。しかし勝利の潮流は着実に押し寄せてきます。

古い秩序が廃(すた)れ新しい秩序にその場を譲っていきます。新しい世界は近づいております。しかし新しい世界になったら地上から暗い場所が完全に無くなると思ってはいけません。相変らず涙を流す人がいることでしょう。心を痛める人がいることでしょう。

大いなる犠牲が求められることもあるでしょう。神の計画に関わる仕事は犠牲なしには成就されないのです。取り壊しなしには建て直しはできません。人間は大きな悲劇に遭遇して初めて霊的なことに関心を抱きはじめ、その拠ってきたる源を探(さぐ)ろうとします。

つまり、あれこれと物的手段を試みてそのすべてが何の役にも立たないことを知ると、ワラをもつかむ気持でどこかの宗教団体にすがりつき、そしてやがて失望します。そうしたことの繰り返しの中で霊的真理が台頭し、新しい世界 – 神の摂理が正しく機能している世界の建設が始まります。

そうなるまでは何かと大きな問題の絶えることはありません。が、いずれにしても、何も言うことのない完全な世界にはなりません。なぜなら完全に近づけば近づくほど、その先により高い完全が存在することを知るからです。

– 霊界が地上のスピリチュアリズムの普及に関心があるのなら、なぜもっとマスコミに働きかけないのでしょうか。

これは、これは。どうやらあなたは(真理のあり方について)あまり理解がいっていないようですね。知識が普及すること自体は良いことに決まっております。

でも、いきなりマスコミを通じての宣伝効果の話をもち出されるとは驚きました。あなたは魂というものがいついかなる状態で真理に感動するものかをご存じないようです。私たちは私たちなりの手段を講じております。計画はちゃんと出来ているのです。

後はあなたがた地上世界の協力を俟(ま)つのみなのです。忘れないでいただきたいのは、私たちは“魔法の杖”は持合わせていないということです。“魔法の呪文”をお教えするのではありません。宇宙の自然の理法を明かしてさしあげようとしているだけです。

その理法を知って魂が目を覚まし、自分も神の分霊であること、自分を通じて神が地上へ働きかけることもあり得ることを理解してもらいたいと願っているのです。そのために私たちなりの普及活動は行っております。

が、地上の雑音(マスコミを通じての宣伝)によってそれを行ってみても必ずしも効果は期待できません。1個の魂、ひとつの心に感動を与えていくこと、つまり霊とのより密接な一体化を体験させることによって成就していく他はありません。

– 地上の体験、たとえば戦争、苦難、精神的ならびに肉体的受難、病気、悲しみ、憎しみ等々は人類の進化と発達にとって不可欠のものとして神の計画の中に組込まれているのでしょうか。

いえ、そんなことはありません。戦争は神が計画されるのではありません。病気は神が与えるのではありません。人類が自由意志の使用を誤ってみずから招来しているのです。

その中にも学ぶべき教訓があることは確かです。しかしそれは、何も人類どうしで野蛮な行為や恐ろしい残虐行為をし合わなくても学べることです。人間が勝手にやり合っていることを神の行為と取り違えてはなりません。

– 今は連邦となっている英国の“王室”の存続は有益であると思われますか。

そう思います。なぜなら、何であれ国民をひとつに結び合わせるものは大切にすべきだからです。

世界人類が共存していくための団結の要素を求め、お互いに近づき合うようにならなければいけません。離反・孤立を求めて争うことを私がいけないと言うのはそこに理由があります。魂が一切の捉(とら)われを無くすると、世界中の誰とでも調和した一体化を求めるようになるものです。

– 霊界のプランがあることを何度も聞かされてますが、それらしい明確な証が見当たらないのですが…。

物的な目をもってご覧になるから見えないのです。あなた方は全体の進歩というものを自分ひとりの短い生涯との関連において判断されますが、私たちは別の次元から眺めております。

その私たちの目には霊的真理の普及、霊的知識の理解、寛容的精神の向上、善意の増大、無知と迷信と恐怖心と霊的奴隷状態の障壁の破壊が着実に進行しているのが見えます。進歩は突発的な改革のような形でなされるものではありません。絶対にあり得ません。

霊的成長はゆっくりとした歩調で為されねばならないからです。どうか失望なさらないでください。なるほど物質万能主義の風潮がはびこるのを見ていると失望の要素ばかりが目につきますが、他方では霊的真理がそうした物質万能的な利己主義のモヤに浸透していくにつれて、 希望の光が射し込みつつあります。

正しい認識が広まれば真理が勝利を収めます。だからこそ私たちのメッセージが大切なのです。私たちにとって大切なのではありません。あなた方にとって大切なのです。

私たちは地上人類がその利己主義に対して、その理不尽な無知に対して、その計画的な残虐行為に対して払わねばならない代償の大きさを認識させるべく努力しているのです。あなた方のために努力しているのです。何とか力になってあげようとしているのです。

その動機はあなた方に対する私たちの愛に他なりません。私たちは人類を破滅の道へ追いやろうと画策している悪霊の集団ではありません。私たちはあなた方の品性を汚すことや残忍な行為、あるいは罪悪を犯させようとしているのではありません。

それどころか、逆にあなた方の内部に宿る神性、神から授かっている霊的能力を認識させ、それを駆使して自分を他人のために役立てる方法を説き、そうすることによって神の計画の推進に役立たせてあげたいと望んでいるのです。(巻末“解説”参照)

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5章 死んだらどうなるか

ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

– 幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが…。

「地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐え切れないショックを与えるでしょう。ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。

こちらへ来てすぐの生活の場は地上とひじょうによく似ております。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのはそのためです。

こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方がきわめて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて土臭く、考えることがすべて物的感覚によって行われます。

そういう人たちは“”物“”を離れて存在を考えることができません。かつて1度も生命(いのち)というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。

霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に霊的なものを受け入れる余地が無いのです。ですが幽界(※)の生活にも段階があり、意識の開発とともに徐々に、着実に、土臭さが取れていきます。そして生命というものが物的な相(すがた)を超えたものであることが判りはじめます。

そして自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

(※ここでは“物的感覚から脱しきれない世界”のことを指している。これをシルバーバーチが幽界 astral world と呼んだのは質問者が最初にそう呼んだからで、そこは実質的には“界”というよりは“状態”という方が当たっている。

だから霊的な自覚ができてから赴く世界をシルバーバーチは“霊界”spirit world とは言わず“霊の世界”the world of spirit という言い方をするのである。

仏教で“成仏した”というのは地縛的状態から脱して霊的自覚が芽生え、本格的な生活が始まる段階に入ったという意味で、そこから地上で身につけた霊性に相応しい境涯へ赴くことになる。オーエンの『ベールの彼方の生活』では“区分けの界”という呼び方をしている – 訳者)

– 死後の世界での体験は主観的なのでしょうか客観的なのでしょうか。

「客観的です。なぜかというと、こちらの生活はそれぞれの界で生活している住民の思念で営まれているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると自然に離れていきます。

成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の法則によって次の段階へ移行するのです(※)。それぞれの界において立派に客観的生活が営まれています」

(※『ベールの彼方の生活』によると霊性の向上とともに光明の実在へ次第に近づいていく過程は神秘中の神秘で、人間の言語では説明できないし、そもそも人間の理解力を超えているという – 訳者)

– ということは夢の世界ではないということですね。

「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこに生活している間は現実の世界です。それを夢と呼ぶか呼ばないかは観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間はそれを夢だとは思わないでしょう。

夢から覚めてはじめて夢だったことを知り“なんだ、夢だったのか”と言うわけです。ですから、霊が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して“夢だった”と言えるわけです。ですがその夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

– すべての人間がかならずその低い界層からスタートするのでしょうか。

「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や幼稚な者にか
ぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることのできない人の場合です。あなた方が幽界と呼んでいるところは霊の世界の中の小さな区域です。

それは低い境涯から高い境涯へと至る無数の段階のひとつにすぎません。きっちりと周囲が仕切られて存在するのではありません。それを“界”と呼んでいるのは、あなた方に理解できる用語を用いるしかないからです」

(訳者注 – 夢の説明で夢を見ている時はそれが現実で覚めれば夢であることを知ると言っているのと同じで、その境涯にいる間は現実に境界があり仕$切りがあるように思えるが、霊性が向上してその境涯から脱け出ると、それもやはり夢幻で仏あったことを知る。色即是空は地上だけとはかぎらない)

– 霊界での成長について –

「ひとつの界から次の界へ“よじ登って”いくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は肉体の死と同じ過程で失われていくのではありません。

低級なものが消えるにつれて浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。そもそも、“死”とは変化であり復活であり、低いものから高いものへの“上昇”です。時間と空間にしばられた地上生活のすべての制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。

低いものは高いものを理解できません。有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくほかはありません」

– 幽界ではたとえば心臓なども残っていてやはり鼓動するのでしょうか。

「肉体器官が残っているか否かはその霊の自覚の問題です。もし地上生活のあとにも生活があることを知らず、霊の世界など思いも寄らない人であれば、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています – “あらゆる”機能です」

– では霊の世界についての理解をもった人の場合はどうなりますか。

「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化しはじめ、そのうち消滅してしまいます」

– 死の直後からそういう現象が起きるのでしょうか。それとも、ゆっくりとした過程なのでしょうか。

「それも自覚の程度によります。程度が高ければそれだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないことは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。精神が最高の権威をもち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。

昔から、高級界からやってきた霊のことを“光り輝く存在”というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」

– 最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」

– 形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか。

「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。

私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

他界した身内の者や友人・知人は姿こそ見えなくても、地上にいた時よりいっそう身近な存在となっていることを説いて、こう述べる。

「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身のまわりにいて何かと援助してくれております。

自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで全部読み取っております。そしてあなた方の“魂の成長”にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。

けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです」

(このあと死後の生活についての質問と答えが続くが、その部分は第2巻の9章にすでに出ている – 訳者)

「私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことがわかっていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが好(す)き好(この)んで降りてまいりましょう。

あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。

肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。

“死”というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗やみが後退していきます。

霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが“死んだ”といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。

地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。

失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それがすべてです。

地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。

そして、それを支援してくれるあなたがたの、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。

死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。

痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。

いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

英国はいま美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのは5月だった – 編者)木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。

あなたがたは造化の美を見て“何とすばらしいこと!”と感嘆します。がその美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色あせた模作ていどでしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり色彩があります。

その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれひとつとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

そのうちあなたがたもその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

実は今でもあなたがたは毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。

来てみると、1度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。」

– 死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと – 多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

「低い世界へ引きっけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。

なぜかというと、そういう人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」

– 朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。

「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることが出来ません。ムリをすると歪(ゆが)みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。

袋にはおのずから容量というものがあります。ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は“地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですョ”と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。

皆さんおひとりおひとりにお会いしているのですヨ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから」

– 死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか。

「そうです。何ひとつ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情なくなります。知らない人間ほど己れの愚かさをさらけ出すのです」

– 睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか。

「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。

そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをすると言うのはその辺に理由があるわけです。

ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。

それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。しかし地上での体験も霊界での体験も、ひとつとして失われることもありません。

そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです」

– 霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くでしょうか。

「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と過った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれないかぎり、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に人のためによく尽した人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」

– 死後の生命を信じず、死ねばおしまいと思っている人はどうなりますか。

「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。つまりどれだけ進化しているか、どれだけ新しい環境に順応できるかにかかっています」

– そういう人、つまり死んだらそれでおしまいと思っている人の死には苦痛が伴いますか。

「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」

– 善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎(とが)めを受けますか。

「私にはその善人とか悪人とかの意味がわかりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真の価値は毎日をどう生きてきたかに尽きます」

– 愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが…。

「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、ふたりの結びつきは地上より一層強くなります。

が、ふたりの男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差があるときは、死とともに両者は離れていきます。それぞれの界へ引かれていくからです。

若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことでなく、成長、進化、発達という形で現われます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。

男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」

– 死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪がいちばん多いですか。

「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。

従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌にあらわれて、霊格が下がるのがわかります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、さきほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」

– 死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主または神の支配する世界であることはわかりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。

「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。

低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体がひとつに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」

– 地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか。

「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります」

– シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことができるでしょうか。

「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大ていの場合会うことができるでしょう。共感のきずなが両者を引き寄せるのです」

– この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

「地上よりはるかに実感があり、しっかりしてます。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」

– ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある、と。こちらの方が実在なのですから…。あなたがたはいわば囚人のようなものです。

肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」

– 霊界では意念で通じ会うのですか、それとも地上の言語のようなものがあるのですか。

「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」

– 急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

「魂の進化の程度によって違います」

– 呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか。

「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。

魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所 – 病院なり休息所なり – に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」

– 愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか。

「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

– 肉親や親戚の者とも会えますか。

「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」

– 死後の生命は永遠ですか。

「生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」

– 霊界はたったひとつだけですか。

「霊の世界はひとつです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側にはかならず霊的表現があるのです」

– その分布状態は地理的なものですか。

「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」

– ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。

「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような“地域”とか“層”が存在します(地球に隣接した幽界の下層界のこと – 訳者)」

– 各界層が地球や太陽や惑星を取り巻いているのでしょうか。

「取り巻いているのではありません。地理的に分けられているのではありません。球体つまり天体のような形で存在しているのでもありません。宇宙という大きな広がりの中の一部としての生活の場を構成しているのです。

宇宙にはあらゆる次元の生活の場があって互いに重なり合い融合し合っています。あなた方はそのうちの幾つかを知られたわけですが、まだまだご存知ない世界がたくさんあります。地上の天文学で知られていない生活が営まれている惑星が他にいくつもあります」

– 各界を構成している成分は地球のようにマテリアルなものですか。( material には“物質的”“実質的”“実体のある”等々さまざまな意味があり、それを観念的に理解していただくために敢えて訳さずにおいた – 訳者)

「私という存在はマテリアルでしょうか。男女の愛はマテリアルでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルでしょうか。こうした質問に対する答えはマテリアルという言葉の意味によって違ってきます。

あなたのおっしゃるのが実感があるのか、実体があるのかという意味でしたら答えは“イエス”です。なぜなら霊こそ生命の実在そのものであり、あなた方が物質と呼んでいるもの、すなわち物質の世界はその実在を包んでいる殻にすぎません」

– 霊界も地球の電磁場あるいは重力場の影響をうけて地球や太陽と運動を共にしているのでしょうか。

「私たちの世界は地球の回転の影響はうけません。昼と夜の区別がないのです。エネルギーも地球に生命を賦与している太陽からうけているのではありません。引力は物質だけが受けるのであって、霊的なものは影響をうけません。霊的な法則とは関係がありません」

– 霊の動く速さに限界がありますか。

「私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約をうけなくなります。この地球のどの地域でも思念の速さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。

ただし、霊的発達段階による制約はうけます。その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約にすぎません」(地上のように外的条件による制約はないということ – 訳者)

– 生命の住む天体にはかならず霊界もあるのでしょうか。

「あなた方が霊界と呼んでいるものも宇宙の霊的側面にすぎません。宇宙はあらゆる界層のあらゆる生命を包含します」

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6章 潜在意識の機能

入神(トランス)状態における霊媒はどんな役割を演じているのか – ある日の交霊会でそれが問題となったことがある。そのきっかけはシルバーバーチが霊媒のバーバネルが入神状態から睡眠状態へ移りそうなのでコントロールがしにくくなったと述べたことにある。

そして“私にはそうなると【まずい】のです”と言うとサークルのひとりが“なぜですか”と尋ねた。すると“私はこの霊媒の身体の全体をコントロールしなければならないからです”と答えた。

– 霊媒が眠ってしまうとコントロールできないのですか。

「できません。身体を操るには潜在意識を使用しなければなりません。眠ってしまうと潜在意識が活動を停止します」

– でもどっちにせよ霊媒はその身体から出るのではないでしょうか。

「いえ、霊媒自身が身体の中にいるか外にいるかの問題ではありません。潜在意識とその機能の問題であり、それは中でもなく外でもありません。

– 私は霊媒はワキヘ押しやられてると思ってました。

「それはそうなのですが一時的に“身体からは”離れているというだけのことです(身体から離れていても意識状態には関係ないということ – 訳者)

それは霊媒がみずから進んで身(み)(潜在意識)を任せている状態で、潜在意識まで引っ込めてしまうのではありません。そうなると睡眠状態になってしまいます。霊媒現象はすべて霊界と地上との間の“意識的”な協力関係で行われます。

無意識のうちに潜在能力が一時的に使用されるケースが無いわけではありませんが、支配霊と霊媒という関係で本格的な霊的交信の仕事をするとなると、その関係は意識的なものでなければなりません。つまり霊媒現象に関するあらゆる機構に霊媒が“進んで参加する”ことが必要になります」

– 睡眠中の霊媒が(支配霊以外の霊によって)使用されて通信が届けられたケースがあったように思いますが…。

「そういうこともあったかも知れませんが、それは通常行われるべきプロセスが逆転した状態です」

(訳者注 – 冒頭でシルバーバーチが霊媒が眠ってしまいそうなので通信しにくくなったと述べたが、逆に眠っていた潜在意識が引き戻されて通信を送るということ)

– その場合、睡眠中にそういう形で使用されることを霊媒自身も同意していたということが考えられますか。

「それは考えられます。ただご承知のように私どもは霊媒の望みはよほど下らぬことでない限りは敬意を払い然るべき処置を取ります。しかし言うまでもなくこの身体は私どもの所有物ではありません。居住者であるバーバネルのものです。

こうして私どもが少しの間お借りすることを許してくれれば結構で有難いことですが、その許可もなしに勝手に使用することは道義に反します。その身体を通じて働く様々な霊的エネルギーに対して霊媒と私たちの双方が敬意を払った上で気持よく明渡すというのが正しいやり方です」

– その潜在意識がどのように使用されるかを聞かれて –

「そのことに関してずいぶん誤解があるようです。精神(大半が潜在意識)には様々な機能があります。人間というのは自我意識を表現している存在と言ってよろしい。意識がすべてです。

意識そのものが“個”としての存在であり、個としての存在は意識のことです。意識のあるところには必ず個としての霊が存在し、個としての霊が存在するところには必ず意識が存在します。あなた方の物質界においては自我のすべてを意識することはできません。

なぜならば – あなた方に分かりやすい言い方をすれば – 自我を表現しようとしている肉体(脳)よりも本来の自我の方がはるかに大きいからです。小は大を兼ねることができません。弱小なるものは強大なるものを収容することができないのが道理です。

人間は地上生活を通じて、より大きな自我のホンの一部しか表現しません。大きい自我は死んでこちらへ来てから自覚するようになります。死んですぐに全部を意識するようになるのではありません。

やはりこちらの生活でもそれなりの身体を通して、霊的進化と共に少しずつ意識を広げていくことになります。意識的生活のディレクターであり個的生活の管理人である精神は、肉体的機能のすべてを意識的に操作している訳ではありません。

日常生活において必要な機能の多くは自動的であり機械的です。筋肉、神経、細胞、繊維等々がいったん意識的指令を受け、さらに連鎖的に働くことを覚えたらその後の繰り返し作業は潜在意識に委託されます。たとえば物を食べる時皆さんは無意識のうちに口を開けています。

それはアゴが動く前にそれに関連した神経やエネルギーの相互作用があったことを意味します。すなわち精神の媒体である脳から神経的刺激が送られ、それから口を開け、物を入れ、そして噛むという一連の操作が行われます。すべてが自動的に行われます。

一口ごとにその操作を意識的に行っている訳ではなく無意識のうちにやっております。潜在意識がやってくれているのです。赤ん坊の時はそのひとつひとつを意識的にやりながら記憶していかねばなりませんでした。しかし今はいちいち考えないで純粋に機械的に行っております。

こうして皆さんの身体上の、そしてかなりの程度まで精神的機能も大部分が潜在意識に委託されていることがお分りになるでしょう。潜在意識というのは言わば顕在意識の地下領域に相当します。たとえば皆さんが読書中で、これはどういうことだろうと自問すると、 –

– 即座に答がひらめくことがあります。それは潜在意識が普段から顕在意識の思考パターンを知っているので、それに沿って答を生み出すからです。誰かの話を聞いている時でも同じです。“あなたはどう思いますか”と不意に聞かれても即座に潜在意識が答を出してくれます。

ところが日常的体験の枠外の問題に直面すると、それは潜在意識が体験したことも、あるいは解決したこともないことですので、そこで新たな意識操作が必要となります。新しい回線を使用することになるからです。

しかしそうした例外つまりオリジナルな思考 – という言い方が適切かどうかは別として – を必要とする場合を除いて人間の日常生活の大部分は潜在意識によって営まれております。言わば潜在意識は倉庫の管理人のようなものです。

あらゆる記憶を管理し生きるための操作の大半をコントロールしています。その意味で人間のもっとも大切な部分ということができます。

その原理から霊媒現象を考えれば、そもそも霊媒現象というのはそれまで身体機能を通して表現してきた自分とは別の知的存在が代って操作する現象ですから、顕在意識の命令に従って機能することに慣れている潜在意識を操作する方が楽であるに決っています。

命令を受けることに慣れている訳です。仕事を割当てられ、それをよほどのことがない限り中断することなく実行することに慣れております。霊媒現象の殆ど全部に霊媒の潜在意識が使用されています。その中に霊媒の人物の本当の姿があるからです。貯蔵庫ともいうべき潜在意識の中にその人物のあらゆる側面が仕舞い込まれているのです。

こうした入神現象において支配霊が絶対に避けなければならないことは、支配の仕方が一方的すぎて霊媒が普段の生活で行っている顕在意識と潜在意識の自動的連係関係が、いつものパターン通りに行かなくなってしまうことです。その連係パターンこそがこの種の現象のいちばん大切な基本となっているからです」

– 霊媒の方が潜在意識をおとなしくさせる必要があるということでしょうか。

「そうではありません。支配霊の個性と霊媒の個性とが完全に調和し、その調和状態の中で支配霊自身の思念を働かせなければなりません。

同時に支配霊は、他方において、ちょうどタイプライターのキーを押すと文字が打たれるような具合に、霊媒の潜在意識の連係パターンをマスターして、他の知的存在の指令にもすぐさま反応するように仕向けなければなりません。それが支配霊として要求される訓練です。

さきほど述べたことを絶対に避けるための訓練といってもよろしい。これで皆さんも容易に得心して頂けることと思いますが、霊媒現象は霊媒という“生きた人間”を扱う仕事であり、霊媒には霊媒としての考えがあり偏見があり好き嫌いがありますから、今も述べたように“支配する”といってもある程度はそうした特徴によって影響されることは免れません。

霊媒を完全に抹殺することはできません。どの程度までそうした影響が除去できるかは、支配霊がどの程度まで霊媒との融合に成功するかに掛っています。

もし仮に100パーセント融合できたとしたら霊媒の潜在意識による影響はゼロということになるでしょう。霊媒を抹殺するのではありません。それはできません。融合するのです。霊媒現象の発達とはそれを言うのです。

サークル(円座 – シルバーバーチの交霊会ではバーバネルが普段使っている書斎の椅子に座り、そこから左右にほぼ円形にメンバーが席を取る – 訳者)の形を取るのはそのためです。出席した人たち全員から出るエネルギーがその融合を促進する上で利用されるのです。

調和が何より大切ですと申し上げるのはそのためです。出席者の間に不協和音があるとそれが霊媒と支配霊の融合を妨げるのです。交霊会の進行中は絶え間なく精神的エネルギーが作用しているのです。

あなた方の目にお見せできませんが、出席者の想念、思念、意志、欲求、願望のすべてが通信に何らかの影響を及ぼしています。支配霊が熟練しているほど、経験が豊富であるほど、それだけ霊媒との調和の程度が高く、それだけ潜在意識による着色が少なくなります」

– その説からいうと、霊媒はなるべく支配霊と似通った願望や性格の持ち主がよいことになりませんか。

「一概にそうとも言い切れません。これは異論の多い問題のひとつでして、私どもの世界でも意見の相違があります。

忘れないでいただきたいのは、私たちスピリットも人間的存在であり、地上との霊的交信の方法について必ずしもすべての点で一致している訳ではありません。たとえば無学文盲の霊媒の方が潜在意識による邪魔が少ないので成功率が高いと主張する者がいます。

それに対して、イヤ、その無知であること自体が障害となる、それが一種の壁を拵えるのでそれを崩さねばならなくなるのだ、と反論する者がいます。

安物の楽器よりも名匠の作になる楽器の方が良い音楽を生むのと同じで、霊媒は教養があるほどよい – 良い道具ほど通信を受けやすいのだと主張するのです。私はこの意見の方が正しいと思います」

– なぜ教養の有る無しが問題とされるのでしょう。人格の問題もあるのではないでしょうか。

「私は今トランス状態での通信の話をしているのです。人間性の問題はまた別の要素が絡(から)んだ問題です。私は今霊言が送られる過程を述べているのです。通信の機構(メカニズム)と呼ばれても結構です。

それを分りやすい譬えで言いますと、バイオリニストにとっては名器のストラドバリウスの方が安物よりも弾きやすいでしょう。楽器の質の良さが良い演奏を生むからです。安物では本当の腕が発揮できません。

霊媒の人間性の問題ですが、これは霊言の場合ですと通信内容に、物理現象の場合ですと現象そのものに影響が出ます。

物理霊媒の場合、霊格が低いほど – 程度の問題として述べているだけですが – たとえばエクトプラズムの質が落ちます。物質的にでなく霊的観点から見てです。霊側と霊媒とをつなぐ霊力の質は霊媒の人間性が決定づけるのです。

たとえば地上ならさしずめ聖者とでも言われそうな高級霊が人間性の低い霊媒を通じて出ようとしても(※)その霊格の差のために出られません。接点が得られないからです」

(※ここでいう“出る”とはエクトプラズムで拵えた発声器官(ボイスボックス)でしゃべる場合 – 直接談話現象 – と、同じくエクトプラズムを身にまとって姿を現す場合 – 物質化現象 – とがある – 訳者)

– 物理現象においても霊媒の潜在意識が影響を及ぼすように思えるのですが、その点についてご説明願えませんか。

「交霊会のカギを握っているのは霊媒です。霊媒は電話機ではありません。電信柱ではありません。モールス信号のキーではありません。生きた器械です。

その生命体のもつ資質のすべてが通信に影響を及ぼします。それで良いのです。もし霊界と地上との交信のための純粋の通信器械ができたら – そういうものは作れませんが – それによって得られる通信は美しさと崇厳さが失われるでしょう。

いかなる交霊会においてもカギを握るのは霊媒です。霊媒なしでは交霊会はできません。霊媒の全資質が使用されるのです。たとえばメガホン1本が浮揚するのも、物質化像が出現するのも、その源は霊媒にあります。そして霊媒のもつ資質が何らかの形でその成果に現れます」

– 霊が憑(かか)ってくると霊媒の脈拍が変化するのはなぜでしょうか。その脈拍は霊の脈拍なのでしょうか。

霊が霊媒を支配している時は霊媒の潜在意識を使用しています。すると当然霊媒の基本的な機能つまり心臓、脈拍、体温、血液の循環等々を支配することになります。

入神すると呼吸が変化するのはそのためです。一時的なことです。ですが一時的にせよその間は支配霊は物質界と接触して自分の個性を物的身体を通して再現している訳です。たとえば私は元アメリカ・インディアンの幽体を使用しています。

そのインディアンが霊媒の潜在意識を支配していますから、その間の脈拍はその幽体の脈拍です。このような形(※)で行う方が一から始めるよりも手間が省けます。

(※地上の霊媒と霊界の霊媒を使用して通信を送っており、これであの肖像画に見るインディアンがシルバーバーチその人でないことは明白である – 訳者)

あなた方の住む物質界は活気がなくどんよりしています。あまりにうっとうしく且つ重苦しいために、私たちがそれに合わせようと波長を下げていく途中で高級界との連絡が切れてしまうことがあります。私の住む光の世界とは対照的に、あなた方の世界は暗くて冷たい、じとじとした世界です。

あなた方は太陽の本当の姿、目も眩まんばかりの(太陽の霊体の)光輝をご覧になったことがありません。あなた方が見ておられるのはその粗末な模造にすぎません。

ちょうど月が太陽の光を反射して輝くように、あなた方の目に映っている太陽は私たちの太陽の微(かす)かな反射程度にすぎません。

譬えてみれば、地上に降りてきた私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去っていく時の私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方へ喜び勇んで飛び去って行きます。死ぬということは鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

さて私があなた方と縁のある霊からのメッセージを頼まれる時は、それなりのバイブレーションに切り換えてメッセージを待ちます。その時の私は単なるマウスピースにすぎません。状態が良い時は連絡は容易にできます。が、この部屋の近所で何かコトが起きると混乱が生じます。

突如として連絡網が途切れてしまい、私は急いで別のメッセージに代えます。バイブレーションを切り換えなくてはなりません。そうした個人的なメッセージの時は霊の言っていることが一語一語聞き取れます。

それは、こうして私が霊媒を通じてしゃべっている時のバイブレーションと同じバイブレーションで霊がしゃべっていることを意味します。しかし、高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。

シンボルとか映像、直感等の形で印象を受け取り、それを言葉で表現しなくてはなりません。それは霊媒がスピリットからの通信を受けるのと非常によく似ております。その時の私は、シルバーバーチとして親しんで下さっている意識よりもさらに高い次元の意識を表現しなければならないのです。

たとえば画家がインスピレーションを受ける時は、普段使用しているのとは別のバイブレーションに反応しています。その状態の中で画家はある霊力の作用を受け、それを映像に転換してキャンバスの上に画きます。インスピレーションが去るとそれができなくなります。

それと同じで、私が皆さんに霊的真理をお伝えしようとすると、私の意識の中でも高等なバイブレーションに反応できる回線を開き、高級霊がそれを通路として通信を送ってくる。それを私が地上の言語で表現する訳です。

とは言え、私は所詮この霊媒(バーバネル)の頭にある用語数の制限を受けるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長してくれれば、その分だけそれまで表現できなかった部分が表現できるようになるのです。

今ではこの霊媒の脳のどこにどの単語があるかということまで分っていますから、私の思うこと、というよりは、ここに来る前に用意した思想を全部表現することができます。

この霊媒を通じて語り始めた初期の頃は、ひとつの単語を使おうとすると、それとつながった他の要らない単語まで一緒に出て来て困りました。必要な単語だけを取り出すためには脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。

現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少し着色されていると言わざるを得ないでしょう。が私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません。

あなた方西洋人の精神構造は、私たちインディアンとはだいぶ違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数がいります。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質をもった人々の睡眠中をねらって、その霊体を使って試してみます。

そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです。他人の身体を使ってみると人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分ります。

一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺激しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。

初めのうちはそうした操作を“意識的”にやらなくてはならないのです。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには1歩1歩に全意識を集中します。そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。

私がこの霊媒をコントロールするようになるまで、やはり同じ経過を辿(たど)りました。ひとつひとつの操作を意識的にやりました。今では自動的に働きます。最近他界したばかりの霊がしゃべる時はそこまでする必要はありません。霊媒の潜在意識に思念を印象づけるだけでよろしい。

しかしそれにもかなりの練習がいります。それをこちらの世界の者同士で行います。そう易々とできることではないのです。こうして霊媒の口を使って思うことを伝えるよりはメガホンを使ってしゃべる方がずっと楽です。

(訳者注 – メガホンの中に発声器官をこしらえてしゃべる。詳しくは「ジャック・ウェバーの霊現象」 – 国書刊行会 – を参照されたい)人間の潜在意識はそれまでの生活によって働き方にひとつの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。

その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイデアなり単語なりを伝えるためには、その流れをいったん止めて、新しい流れを作らなくてはなりません。もし似たような考えが潜在意識にあれば、その流れに切り換えます。レコードのようなものです。

その流れに乗せれば自動的にその考えが出てきます。新しい考えを述べようと思えば新しいレコードに代えなくてはならない訳です。この部屋に入ってくるのに、壁は別に障害になりません。私のバイブレーションにとって壁は物質ではないのです。

むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。私のバイブレーションに感応するからです。もっとも私の方はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまくいくようになるまで15年もかかりました。

霊媒のオーラの中にいる間、私は暗くて何も見えません。この身体によって私の能力が制限を受けています。この霊媒が赤ん坊の頃から身につけていくことを私がいかに使用するかをひとつひとつ勉強しなければなりませんでした。もっとも足の使い方は知る必要がありませんでした。

私は足には用事がないからです。必要なのは脳と手だけです。この霊媒を支配している時に別の霊からのメッセージを口移しに伝えることがありますが、その時は霊媒の耳を使うのではなく私自身の霊耳を使います。すべては霊媒のオーラと私のオーラの問題です。

私のオーラは霊媒のオーラほど濃密でなく霊媒のオーラの中にいる時でも他の霊が私のオーラに思念を印象づけることができます。言ってみれば電話で話をしながら同じ部屋の人の話を聞くのと同じです。ふたつのバイブレーションを利用しているのです。同時にはできませんが切り換えることはできる訳です」

– 霊言現象は霊が霊媒の身体の中に入ってしゃべるのですか。

「必ずしもそうではありません。大抵の場合オーラを通じて操作します」

– 霊媒の発声器官を使いますか。

「使うこともあります。現に今の私はこの霊媒の発声器官を使っています。拵(こしら)えようと思えば私自身の発声器官を(エクトプラズムで)拵えることも出来ますが、そんなことをするのは私の場合はエネルギーの無駄です。

私の場合はこの霊媒の潜在意識を私自身のものにしてしまっていますから、全身の器官をコントロール出来ます。言わば霊媒の意志まで私が代行し – 霊媒の同意を得た上での話ですが – しばらく身体をあずかる訳です。終わって私が退くと霊媒の意識が戻って、いつもの状態に復します」

– 霊媒の霊体を使うこともありますか。

「ありますが、その霊体も常に肉体につながっています」

– 仕事を邪魔しようとするスピリットから守るために列席者にも心の準備がいりますか。

「いります。いちばん大切なことは身も心も愛のひとつになり切ることです。そうすれば愛の念に満たされた霊以外は近づきません」

– 霊界側でもそのための配慮をされるのですか。

「もちろんです。常に邪魔を排除していなくてはいけません。あなた方出席者との調和も計らなくてはなりません。最高の成果をあげるためにすべての要素を考慮しなければなりません。こちらにはそのために組織された素晴しい霊団がおります」

– 霊媒は本をよく読んで勉強し少しでも多くの知識をもった方がいいですか。それともそんなことをしないで自分の霊媒能力に自信をもって、それひとつで勝負した方がいいでしょうか。

「それは霊能の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという考えには賛成できません。知らないよりは知ってる方がいいに決っています。知識というのは自分より先に歩んだ人の経験の蓄積ですから、勉強してそれを自分のものにするよう努力した方がいいでしょう。私はそう思います」

– 立派な霊能者となるには生活面でも立派でなくてはいけませんか。

「生活態度が立派であれば、それだけ神の道具として立派ということです。ということは、生活態度が高度であればあるほど、内部に宿された神性がより多く発揮されていることになるのです。日常生活において発揮されている人間性そのものが霊能者としての程度を決めます」

– ということは霊格が高まるほど霊能者としても向上すると言っていいのでしょうか。

「決まり切ったことです。生活面で立派であればあるほど霊能も立派になります。自分の何かを犠牲にする覚悟の出来ていない人間にはロクな仕事はできません。このことはこうして霊界での生活を犠牲にして地上に戻ってくる私たちが身をもって学ばされた教訓と言ってもいいでしょう」

– 他界した肉親や先祖霊からの援助を受けるにはどうすればいいでしょうか。

「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。言わば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。

その人たちの念があなたがたを動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなた方が恐怖感や悩み、心配等の念で壁を拵えてしまい外部から近づけなくしていることがあります。

悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。穏やかな心、安らかな気持、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。

私たち霊界の者はできるだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。

霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そういう人はスピリチュアリストばかりとは限りません。

知識としてスピリチュアリズムのことを知らなくても、霊的なことを理解できる人であればそれでいいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取越苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。それらがモヤを拵えて私たちを近づけなくするのです」

– そういう霊にこちらからの念が通じますか。

「一概にイエスともノーとも言いかねます。魂の進化の程度が問題になるからです。波長の問題です。もしも双方がほぼ同程度の段階にあれば通じるでしょう。が、あまりに距離がありすぎれば全く波長が反応し合いませんから、通じないでしょう」

– 他界した人のことをあまり心配すると霊界での向上の妨げになるのでしょうか。

「地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。スピリットはスピリット自身の行為によって向上進化します。人間の行為とは関係ありません」(絶対的拘束力はないという意味で述べている – 訳者)

– 世俗から隔絶した場所で瞑想の生活を送っている人がいますが、あれで良いのでしょうか。

「“良い”という言葉の意味次第です。世俗から離れた生活は心霊能力の発達には好都合で、その意味では良いと言えるでしょう。

が私の考えでは、世俗の中で生活しつつ、しかも世俗から超然とした生活の方がはるかに上です。つまり霊的自覚に基いた努力と忍耐と向上を通じて同胞のために尽くすことが、人間本来のあるべき姿だと思います」

– 世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか。

「いちばん偉大なことは他人のために己れを忘れることです。自分の能力を発達させること自体は結構なことです。が開発した才能を他人のために活用することの方がもっと大切です」

– これからホームサークルを作りたいと思っている人たちへのアドバイスを…。

「イヤな思いをすることのない、本当に心の通い合える人々が同じ目的をもってひとつのグループを拵えます。

週一回、同じ時刻に同じ部屋に集まり、一時間ばかり、あるいはもう少し長くてもよろしい、祈りから始めて、そのまま瞑想に入ります。目的、動機がいちばん大切です。面白半分にやってはいけません。

人のために役立たせるために霊能を開発したいという一念で忍耐強く、粘り強くコンスタントに会合を重ねていくことです。そのうち同じ一念に燃えた霊と感応し、必要な霊能を発揮すべく援助してくれることでしょう。

言っておきますが私どもは何かと目を引くことばかりしたがる見栄っ張りの連中には用はありません。使われずに居眠りをしている貴重な能力を引き出し、同胞のため人類全体のために有効に使うことを目的とした人の集まりには大いに援助します」

– どうすれば霊媒や霊視能力者になれますか。

神のために自分を役立てようとする人はみな神の霊媒です。いかにして霊を向上させるか、これはもう改めて説く必要はないでしょう。これまで何回となく繰り返し説いてきたことだからです。自分を愛する如く隣人を愛することです。

人の為に役立つことをすることです。自分を高めることをすることです。何でも宜しい、内部に宿る神性を発揮させることをすることです。それが最高の霊媒現象なのです。霊視能力者になる方法よりは神の光が見えるように魂の眼を開く方法をお教えしましょう。それも今述べたのと同じです」

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7章 霊媒を励ます

シルバーバーチの交霊会にはよく霊媒や心霊治療家が招待される。そしてシルバーバーチがそのひとりひとりに称賛と激励の言葉を述べる。その中には霊媒現象の裏面に関わることなどが窺(うかが)われて、同じ仕事に携わる人はもとより、一般の読者にも興味のある話題が豊富である。

本章では3人の霊媒と心霊治療家の場合を紹介する。(本章では前巻の Wisdom of Silver Birch でカットしておいたものを紹介する – 訳者)

リリアン・ベイリー女史 Lilian Bailey

シルバーバーチ「あなたは人類の救済のために背後からあなたを使用している素晴らしい霊団が存在している事実を喜ぶべきです。あなたのお蔭でどれほどのことが成し遂げられているか、あなたご自身は(入神しているので)ご存知でありません。

意識が消えて、やがて意識が戻る -あなたにはただそれだけのことのように思えるでしょうけど、実際はその間に誰かの魂が目を覚まし、誰かの心の荷が軽減され、悲しみに暮れる人が慰めを受け、挫折した心が癒され、混乱した精神が安らぎを見出しております。

あなたに感謝の気持を抱いている人が長い列をなすほどいらっしゃいます。私たち霊団としても、神から授かった才能を自分のことを忘れてひたすら人類のために捧げんとする霊媒の存在をどれほど誇りに思っているかを、何とかして言い表わしたいとじれったく思っているところです。

あなたは神の豊かな恩寵を受けられた方です。本当に豊かな恵みを受けておられます。地上で大物とか大家と言いはやされている人たちより、あなたの方がはるかに立派な仕事をしておられます。残念ながら今のところ一握りの人によってしか活用されていない霊力をあなたは存分に活用しておられます。

それはどしどし活用されるべきものです。迷信という名の闇を地上から一掃するために、その霊力をできるだけ多くの人間の魂の中で胎動させなければなりません。

それが私たち – あなたと私、そして他のすべての神の道具 – が偏見と無知という名の霧とモヤを一掃し、真理という名の光が世界中に射し込むようにするために全身全霊を打ち込んでいる大事な仕事なのです。偉大な仕事です。あなたもその光栄ある仕事の一翼を担っておられるのです。

私たち神の道具はひたすら前進あるのみです。その道程においてはしばしば落胆させられます。些細ないざこざにうんざりさせられることもしばしばです。歓迎されてよいはずの場でしばしば反撃に会います。そこで、あなたより少しばかり先の見透しの利く私から申し上げましょう。

どうか、そうした邪魔は相手になさらず、かつてあなたに閃いたビジョン(先見の明・理想像・悟り)にすがっていただきたい。そして、あなたの霊的能力を最善に、純粋に、そして最高に活用することのみに専念していただきたい。

それ以外のことは構わないことです。そうしておればきっと愛の恵みが届けられ、ご自分が使用されている能力は神がその発現の通路を求めて間断なく行使しておられる霊力にほかならないことを認識されることでしょう」

ここでベイリー女史が感謝の言葉を述べかけると、シルバーバーチはそれを制して – 「私は暗闇に呼ばわる声のひとつにすぎません。私を地上へ派遣した高き神霊の仕事を推進せんとしているだけです。

私もこれまでに易しい真理を少しばかり学んできて、それを形を変え、言いまわしを変えながら説いておりますが、同じ単純・素朴な真理であることに変りはありません。

それを地上の方々が受け入れてくだされば、すべての難問が解決されるのですが…」と述べてから「このサークルに参加されてどんな感想をお持ちですか」と尋ねた。

ベイリー女史「すばらしいと思います。全体にみなぎる力がとても感じが良いです。もっとも、私には少し強すぎるようです。私の意識から離れて作用しているみたいです。この意味がお分かりいただければ有難いですが…」

このサークルでも直接談話をはじめ数々の現象が行われており、それぞれに霊媒が揃っている。ベイリー女史は霊視力もあり霊感も鋭いので、その“舞台裏”が見えたのである。女史は続けて「このボリュームあふれるエネルギー、迫りくるパワーは物質化現象に使われるものですね?」と述べた。

シルバーバーチ「そうです。このサークルにいつも潜在しているものです。今日はそれがあなたの存在によって刺激されております」

ベイリー女史「何人かのスピリットがそのエネルギーを部屋の中央へ運んでひとつの固まりをこしらえているようです。珍しい光景ですね。次の機会にはもっとしっかりと確かめたいものです。どうやら声が出されるみたいです」

シルバーバーチ「声の準備ですよ。いつも行われているものです。以前はそれを使って発声器官をこしらえていたのですが、戦争の影響で大気が混乱しているためにそれができなくなり、今のところ私の入神談話だけで間に合わせているのです」

ベイリー女史「私が見たところでは大きな柱のようですね。白い柱です。コチコチに固いものではありません。そこから何本かの紐状のものが伸びてメンバーのひとりひとりとつながろうとしています。各メンバーから何かを摂取しようとしてるみたいです」

そう述べてからその“触手”を霊界の技師たちが操っている様子を細かく説明した。

シルバーバーチ「地上の方々はこうした霊界の働きの現実を理解してくださらないのです。いつでも使用できる態勢になっているのです。あなたはその眼でご覧になったのですから、ぜひその事実を伝えてくださらないといけません」

ベイリー女史「ときどき人間の探求は表面的すぎるという印象を抱くことがあります。ですからその背後に働く単純な現実を理解させるのが難しいのです」

シルバーバーチ「おっしゃる通りです。しかし私たちの世界には、かつて地上で一見とても勝算はないと思えた逆境の中で、長いこと忠誠心に燃えて戦った古強者がたくさんおります。

彼らはその仕事が引き継がれ少しずつ成果が実っていくのを見守っております。私があなた方にひたすら前進なさいと申し上げるのはそのためです。あなた方はそれだけで(他のことは何も心配しないで)よろしい。霊的知識を広めることだけを考えておればよろしい。

理解力を広めるのです。思いやりの心を広めるのです。無知をなくすのです。光明へ向けて進むべき者を引き止めんとする勢力を打ち砕くのです。私たちが掲げる光明はけっしてささやかなものではありません。

なぜなら、いったん霊の力がいかに働きかけているかを知ったら、いったん死の扉を開くカギを手にしたら、いったん死の向こうに広がる生命躍如たる世界をご覧になったら、その時こそその人は霊的実在を理解し、神の永遠の計画の中における自分の位置を悟ることになるからです。

あなたはひたすらご自分の信じる道を突き進まれることです。あとは私が力のかぎり鼓舞し援助します」

W・H・リリー氏 W.H.Lilley
A・リチャーズ氏 Arthur Richards

心霊治療家のリリー氏が同僚のリチャーズ氏を伴って出席したことがある。まずリリー氏が、ふたりでロンドンに心霊クリニックを設立しようとしているが偏見と無理解からくるさまざまな難問に遭遇している事情を説明してから、面接に出た役人が“この連中はいったい何者なのか”といった目つきでふたりをじろじろ見つめ回した話をした。するとシルバーバーチが –

「この連中はいったい何者か – このセリフは遠い昔にも言われたものです。霊力がひと握りの男たちを鼓舞し真理普及のために自分を棄てて邁進させたのは2000年足らず前のことでした。

不変の摂理を啓示し、地上のいかなる力よりも偉大な力人を導き霊感を注ぐことのできる力、訓(おし)え諭(さと)すことのできる力、病を癒し、傷つき衰弱した身体を回復させる力が存在することを身をもって証明しました。

すると人々は言いました – いったいこの者たちは何者かと。別に耳新しいセリフではありません。これからも何度も何度も聞かされることでしょう。

あなたがこうした光栄ある仕事に携われることになったのは神から才能を授かっておられるからこそです。使用するために授かったのです。私どもの世界から援助せんとする者と全面的に協調する姿勢を持ち続けるかぎり、その才能を行使することを妨げる力は地上にはありません。

問題や障害が立ちはだかっているとおっしゃいましたが、それは克服すべきものとして与えられているのです。ただし、その中にはあなたご自身がみずから招かれた問題もあることを忘れてはなりません。あなた自身が蒔いたタネもあるということです。と申しますのは、あなたは(操り人形のように)ただ黙って言うなりになる道具ではないからです。(自由意志が尊重されているから過ちも犯しているということ – 訳者)

ですが、背後にはいかなる困難の中をも導きとおす力を具えた霊団、永年の霊界での研鑽(けんさん)によってその能力を立証している霊団が控えております。

これまでも数多くの困難を克服し、数多くの悩みごとを解消してきております。いつか、これまでのあなたの辿(たど)ってこられた人生を振り返りじっくりと見つめられれば、そこに霊による導きがあったことを明確にお認めになるはずです。

あなたは心霊治療家です。病を癒す仕事です。それを阻止する力は誰にもありません – あなたご自身が拒否なされば別ですが。ぜひとも使用しなければならない力を授かっておられます。地上の力ではありません。はるか高級界から送られてくる力です。

それは病に苦しむ数知れぬ人々に恩恵をもたらし祝福を与えることになりましょう。あなたに決意さえあれば、地上にはそれを阻止できる権力はありません。問題はあなたの心のどこにも心配の念を宿らせないことです。

これまで導いてくれた霊団が自分を見放すはずはないという断固たる信念を持たねばなりません。まだまだ越えねばならない険(けわ)しい道があるからです。まだまだ献身を必要とする仕事の場がたくさんあるからです。

怖じ気づいてはなりません。かつてあなたがもう絶対にダメだと思ったことが霊の力によって克服されてきたように、これから先もきっとその力は凱旋(がいせん)を続け、あとで振り返ったとき、今のあなたには難問に思えることが他愛ない杞憂(きゆう)にすぎなかったことを知って、にっこりなさることでしょう。

為さねばならない仕事があるのです。治癒の手を必要とする人が大勢いるのです。悩める魂が大勢いるのです。怖(こわ)ごわ生きている人が大勢いるのです。身体の異状と病に苦しんでいる人が大勢いるのです。

あなたはそうした人々を救うことのできる霊力を授かっている数少ない人間のひとりです。いかに祝福された方であり、いかに素晴らしい能力を授かっている方であるか、あなたご自身の想像も及ばないほどです」

続いてリチャーズ氏が、この交霊会に出席できたことを光栄に思うという挨拶をしたあと次のように述べた。

リチャーズ氏「私はこれまで、あなたが毎週毎週お説きになっている訓えを忠実に信じておられる患者さんを大ぜい治療しております。そして私自身もあなたのお説きになる思想を細かく読み、それを道しるべとしてまいりました。

私の理解したところを言わせていただけば、あなたは神についての誤った観念を打ち砕き、それに代って理知的な概念を説き、それを“無色の大霊”the Great White Spirit と呼ばれたり“法則”と呼ばれたりしております。

私にとって、あなたを始めとする霊団の方々は人間より高等な知的存在であり、したがって個的人格を具えた存在ですが、“大霊”は非人格的存在であるように思えます。この私の理解の仕方はさらに深い理解への中途の段階にすぎないのでしょうか」

シルバーバーチ「永いあいだ地上を毒し続けてきた無知が私の力によって幾らかでも取り除かれたことをうれしく思います。しかし、無知を無くしていく仕事はゆっくりとした、時間の要る仕事であることを忘れてはなりません。

眼の見えなかった人に視力が戻る時はゆっくりと光に慣れさせていかねばなりません。真っ暗闇からいきなり真昼の太陽の中に出せば逆に眼をひどく傷めてしまいます。

そこで、ある意味で“教える”立場にあるこの私は、教える相手の意識の程度に合わせて、叡智を噛みくだいてあげなければなりません。それは段階を経ながら徐々に行うしかありません。

地上にはこれまで余りにも誤りが多すぎました。間違った神々を信じてきました。あまりに永いあいだ叡智を拒絶してきたために、そのすべての誤りを正すには弛(たゆ)まぬ忍耐をもって臨むしかないのです。

人格を具えた神の概念は、いつの時代にも個人はもとより民族・人種・国家にもそれを導く霊がいるという信仰にさかのぼります。つまり知識というものが今日ほど広がることのなかった時代にあっては、霊界から時おり姿を見せる指導者を畏怖(いふ)の心をもって崇めたものです。

そしてそれがいつの間にか神の座に祭り上げられていったのです。それだけのことなのです。地球の歴史において、人類の痕跡のあるところには必ずそうした信仰があるといってよろしい。そして遠くさかのぼればさかのぼるほど、その信仰には神話と寓話がごたまぜになっております。

さて、神とは法則です。私が思想や観念を述べるにはどうしても地上の言語を使用せざるを得ませんが、実はその言語そのものが障害となり、制約となり、限界となっているのです。

と申しますのは、観念を言語に移しかえる時、言いかえれば大なるものを小なるものに合わせようとする時、必然的に脱落する要素がたくさんあるのです。

ですから、私が述べたいと思っている思想や考えの符号またはシンボルとして言葉を使用しなければならない – それも往々にしてきわめて“ぎこちない”ものです – という事実そのものが、それを聞かれてあなた方が脳裏に画かれるものが必ずしも私が本当に述べたいと思っていることと同じではないことを意味します。お判りでしょうか」

すると司会者のハンネン・スワッハーが意見を述べた。

スワッハー「こう解釈してよろしいでしょうか。あなたはアメリカ・インディアンを霊界の霊媒として使用しておられるので、たとえば神のことをインディアンの古い用語である Great White Spirit を使用することになる – この方が国教会で使用されている God よりも自然の摂理の表現として確かに適切です」

シルバーバーチ「それがまさしく私の言わんとしていたことです。どうやらここで詳しく解説しておく必要がありそうですね。このインディアンは私の道具です。

ですが、道具とはいえ(さきほど述べたとおり)これを使用している間はその個性によって条件づけられ、したがって私は私の言いたいことを表現する上で役に立つ要素を精一杯活用することになります。

たとえば大自然を支配する法則を私はアメリカ・インディアンの用語である“大霊”を使用しますが、それはひとつには今なお残っている“神は人間である – えらく威張った人間である”とする観念、しかもむろん女性ではなく、自分の言うことを聞く者だけを可愛がりそして特権を与え、気に入らぬ者には腹を立て憎むことすらする男性であるとする、いわゆる神人同形同性説との相違をはっきりさせるためです。

が、もうひとつの理由として、それをどう表現しようと、その用語を超えた観念として私が何とかして明らかにしたい完璧な摂理の働き – あなた方や私の願望にはおかまいなしに働く法則、全宇宙を支配する法則、四季のめぐり潮の満ち引きを調節する法則、地上の生命の生長と活動と運動とリズムを管理している法則の観念があるのです。

その法則は全存在の行為のひとつたりとも、言葉のひとつたりとも、思念のひとつたりとも、観念のひとつたりとも見逃すことはありません。表に出る出ないに関わりなく、生活現象のすべてを管理しています。その法則こそ私が最高の崇敬を捧げているものです。

それを大霊と呼ぼうと神と呼ぼうと、その他いかなる名称で呼ぼうと、その背後にある意味を理解してくだされば、それはどうでもよいことです。それが全存在をあらしめている力です。その力なくしては生命は存在しえないのです。

いかなる形態をとろうと、その力なしには存在しえないのです。生命に存在を与えている根源的エネルギーなのです。それを神と呼ぶのも結構でしょう。大霊と呼ぶのも結構でしょう。全知全能の知的存在と呼ぶのも結構でしょう。しかし、いずれも、所詮は“言葉”にすぎません。

私がそれを法則として説くのは、人間の意志ではどうしようもない絶対的な理法というものがあることを指摘したいからです。それを正しく認識すれば、そのワク内でお互いが協調的に生きることができ、それに背いて不和と仲違いと利己主義と貪欲と腐敗と戦争を生むことにならなくて済(す)むはずです。

その摂理を理解しさえすれば、人生の図式が分かるようになり、進むべき方向と道しるべと目的が見えるようになります。そして同時にそれに自分を合わせていく方法も分かるようになります。なぜなら、自分も一個の霊、全生命の親である神の一部として、永遠の営みに参加できることを悟るようになるからです」

リリー氏「病気はすべて治せるのでしょうか」

シルバーバーチ「病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。

が、人類にはさまざまなタイプがあることを考えれば、病気にもさまざまなタイプがあるわけであり、それがさらに細かく変化していきつつあります。したがって治療に使う霊力もそれぞれのタイプに合わせていく必要があります。

あらゆるタイプの病気に効くたったひとつのバイブレーションというものはありません。治療が成功するか否かは、それぞれの病気に合ったバイブレーションの霊力を見出せるか否かに掛かっております。

しかし治療の不成功を単純に霊界側の責任、担当した専門の霊の責任、あるいは治療家の責任と決めつけることはできません。数え切れないほどの要素が絡んでいるからです(訳者注 – 別のところで100人の霊視家が見てもすべての要素を見究めることはできないと述べている)。

そこで治療家であるあなたにとっていちばん大切なことはこう考えることです – 自分を使用する霊力と完全にそして完璧に一体となるためにはいかなる生き方をすべきか、ということです。

言うまでもなくあなたと背後霊団との間にはさまざまな相違点があります。それをひとつでも少なくすることが、治療霊団にとって、ひとりひとりの患者に適切なバイブレーションをあなたを通して注ぐことを容易にすることになります。

こちらの世界には莫大な種類の治療エネルギーがあり、かつて地上で病気治療に当たった者や科学者たちが弛(たゆ)まぬ研究を重ねております。

しかし無数の治療エネルギーのうちの“どれをどれだけ”活用できるかは、ひとえに治療家に掛かっているのです。そこにあなたの役割があります。すなわち魂の成長と精神の啓発と身体の管理です」

リチャーズ氏「心霊治療についての偏見を無くす必要もあると思います」

シルバーバーチ「おっしゃる通りです。だからこそ私たちが援護射撃をしているのではありませんか。数年前でしたらあなた自身も私の言うことなどには耳を貸さなかったでしょう。

それが今はこうして熱心にお聞きになるということは、私たちの働きによって偏見をひとつ減らすことができたということです。強烈な体験によって魂が目を覚まし、奉仕的精神を鼓舞された人をひとりずつ私たちの霊力の活動範囲の中に導いていくのです。

あなた方はおひとりおひとりが私たちの働きかけによる成果の生き証人なのです。そのつどひとつの偏見が取り除かれたということです。それだけ私たちの仕事がラクになったということです。

まだまだ取り除くべき偏見が山のように立ちはだかっているという事実に、私どもは別に途方に暮れることはありません。それが私たちの仕事なのです。

すなわち神の子がその魂の奥に秘めた霊性を発揮することによって生命のよろこびを味わい、当然受けるべき神の遺産を存分に我がものとするように導いてあげることです。

おふたりもその役割を担っておられるのです。ひたすらお仕事に邁進なさることです。数々の困難に遭遇することでしょう。しかし背後に控える霊団がいかなる試練にも荒波にも支えになってくれます。首をうなだれてはなりません。

堂々と背筋を伸ばし、決して自分を見棄てるようなことをしない援助の手によって支えられていること、そして心の奥に芽生えた信念への忠誠心を失わず真摯な気持で奉仕し、神に召された今の仕事に良心的に仕えておれば、決して挫折することはないことを確信してください。

あなた方が一心に努力しておれば強力なる霊団が参加し、援助し、偉大な勝利へと導いてくれます。これから為し遂げていく仕事を大いなる期待をもって楽しみにするくらいの気構えが必要です。そしてそのお蔭で数知れぬ人々がよろこんでくれることを知ってください。

人のために自分を役立てるということは大いなる特権です。その機会を与えられたことをおふたりは誇りに思うべきです。

それと同時に、私たちの世界から協力する者にも使命が託されていること、重大な使命、神からの使命が託されていること、そしてあなた方の方から見放さないかぎり決してあなた方を見放すことはないことを信じることです。これまでも大いなる成果が上がっております。これからもさらに多くの仕事が成就されていくことでしょう」

パリッシュ夫妻 Mr.and Mrs.Parish

イーストシーン治療所をめったに離れることのない心霊治療家のパリッシュ氏が夫人を伴って出席した。この交霊会の長老格である。早朝から16時間もぶっ通しで治療したあとなのに、出席者の中でもいちばん元気そうに見える。シルバーバーチがこう語りかけた。

「私はあなたとお話できる時はいつも楽しくてなりません。光栄にも私は現在の治療所で微力ながら毎日のように背後よりお伝いさせていただいておりますが、こうしてふたりで人間らしく語り合えば、ほかの方々はまた別の意味でよろこばれます。

おふたりの献身的なお仕事によって霊の力が着々と広がり、多くの魂が感動して目を覚まし、暗黒の中にいる人々が光を見出していることを私たち霊界の者がどれほどうれしく思い、世界中の人々が(遠隔治療を)どれほど有難く思っているかを知っていただきたいと思います。

今ではあなた方を通じて真理と悟りの光を見出した人が世界のほとんどの国におられます。あなたのこれまでの人生、そして今なお続けておられる毎日の献身的活躍によって巨大な奉仕の金字塔が築かれております。

憶えておいででしょうが、何年か前にはじめてお会いした時、私はあなたにこれから後のお仕事の発展ぶり、どういう具合に世界のすみずみまで広がり、いかに多くの人々が祝福を受けに来ることになるかを申し上げました。

すべての人が治るとはかぎりません。それぞれに地上との縁の切れどき(寿命)というものがあります。が、たとえすべての人の病気を治してあげられなくても、わずかな光明、暗闇の中に一条の光を見出させてあげていることを知ってください。

前にも一度申し上げたことがありますが、病気を治してあげることは確かに大切ですが、もっと大切なことは魂を目覚めさせること – 真の自分を見出し、自分を見出すことによって生命の大霊であるところの神とのつながりをより緊密にしてあげることです。

私たち霊界側でも絶え間なく活躍しております。あなた方に協力している高級霊団、あなた方を地上への働きかけの道具としている霊団では常に新しい霊波の研究をしており、また、あなた方が徐々に体験しておられる精神統一における意識の深まりが、治療エネルギーをより多く地上へ注ぎ込む可能性を大きくしてくれております。

治療に入る前にあなた方が背後霊団との完全な連繋態勢(れんけいたいせい)と調和を得るために行っておられる心掛けと工夫もその一環となっております。

どういうことかと言えば、精神統一が深まりあなたという個的存在が消滅する直前においての治癒エネルギーとの融合が完全に近づけば近づくほど、そのエネルギーの威力がより多くあなたの身体を通して流れるからです。それは治療所における直接治療の場合でも、世界各地への遠隔治療の場合でも同じです。

(訳者注 – 私の師である間部詮敦氏が予言について語ったところによると、精神統一を深めていくと次から次へといろんな情報が飛び込んでくる。が、それにすぐに飛びついてはいけない。どんどん統一が深まっていき、もう少しで意識が消えるというギリギリのところまで行ったときに閃(ひらめ)いたものがいちばん信頼できるということだった。

あるときは地震を何時何分何秒まで正確に当てたことがある。シルバーバーチが別のところで、霊媒の霊格が向上するほど程度の高い叡智を授かるようになると述べているが、これは言いかえれば精神統一の深さの程度のことであり、波長が高くなるということであろう)

そうは言うものの、時にはうんざりなさることもありましょう。無意味に思えることもあることでしょう。しかしそれも詮ずるところ厳然たる計画と目的をもった仕事の一環です。あなたはそのための道具です。ただひとりで悟りへ向けて、孤独な道、犠牲の道を徐々に手引きされております。

かつても申し上げたことがあるのを覚えておいででしょうが、その道は行くほどに見慣れた景色をひとつひとつ後にしていかねばならない寂しい道です。しかしそれしか道がないのです。

みずから魂を高揚しなければなりません。高き憧憬(どうけい)を抱き続けねばなりません。魂の受容性を高めねばなりません。内的意識を拡大していかねばなりません。しかし、それが順調にいくだけ、それだけ多く霊界からの生命力が流れ込むことになるのです。

あなたとともに大ぜいのスピリットが働いております。地上で医者だった者、病気治療の専門家だった者はもとよりのこと、こちらで永い永い年月にわたって研究を重ね、各種の治癒エネルギーを扱って人間の霊的身体への影響を調べているスピリットもいます。

ご承知のとおり私たちの世界はけっして終局の世界ではありません。すべてのことが分かる世界ではありません。すべてが成就されてしまって、もう何もすることがないという世界ではありません。

私たちも実験・研究が必要なのです。が、治療家としてふさわしい身体をもち、人のためにという願望ひとつに燃え、大方の人間が追い求めるチャチな物的ぜいたくには目もくれず、ただひたすら魂と精神と身体を完全にマスターするための修行の道に勤(いそし)む人間がいないことには、私たちとの協力関係も完璧は期しがたいのです。

その修養は一種の霊的浄化の過程です。純金が姿を現わすためには不純物を取り除かねばなりません。あなたも人間である以上、多少の不純物はかならずあります。しかし、あなた方はいま正道を歩んでおられます。そして、それは偉大なことと言うべきです」

パリッシュ夫人も治療能力をもっておられ、シルバーパーチがその養成についての助言を与えた。夫人も霊の道具として活躍できることのよろこびを語った。夫妻は霊媒として大望を抱く者にとってひとつの模範である。といって、ふたりの治療がすべて奇蹟的な効果を上げているわけではない。シルバーバーチも言っているように“”困難があり、失敗があり、そして心を大いに痛めることもあるが、それでもおふたりはなおも前向きの姿勢を失わない。
B2
二時間に及んだその日の交霊会の最後に、シルバーバーチはサークル全員をこう励ました。「決して弱気になってはいけません。堂々と胸を張り、宇宙の全生命を創造した力、夜空にきらめく星空を支えている力、花に香を添え、太陽を昇らせそして沈ませる力、虹にあの美しい色彩を施し小鳥にあの可憐なさえずりを与えた力、全生命に存在価値を与え、人間に神性を賦与した力、その力がいつもあなた方を支え、守り、そして導いていることを忘れてはなりません」

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8章 質問に答える

再生の問題、動物実験の是非、犯罪、自殺等についての質問がシルバーバーチのもとに数多く寄せられる。その中からいくつかを紹介しよう。

【質問1】 – 動物実験は正しいことでしょうか間違ったことでしょうか。これによって人類の益になるものが得られるのでしょうか。

「私はかねがね動物を使っての実験のすべてに反対しております。そこに何ひとつ正当化すべきものは見出せません。動物はあなた方人間が保護し世話すべきものとして地上に存在しているのです。

その成長と進化を促進する責任が全面的にとは言えませんが、人間に託されております。その無力な動物に苦痛を与えることは、動物が人間に示す愛情と献身と忠誠に対するあまりに酷い報復です。

治癒力は自然界にさまざまな形で存在し、使用されるのを待っております。動物界の創造と進化をそんな形で邪魔しなくてもよいように、必要なものは創造主がちゃんと用意してくださっております。

私たちの世界から援助するスピリットは苦痛を軽減したり不治と宣告された病すら治してしまう技術を身につけておりますが、決して生体実験はいたしません。

薬草を使うことがあります。霊波を使うことがあります。いずれも動物に対する残酷な行為は伴いません。宇宙には道義的な意図が行きわたっております。非道義的なものは摂理に反します」

【質問2】 – スピリチュアリストの中にはスピリチュアリズムを占星術と同類と見ている人がいます。そういう人たちは地上の出来ごとは星によって宿命づけられ操られていると考えています。

「生命現象は一連のバイブレーション、放射性物質、放散物から成っており、したがって人間も自然界のあらゆる存在ないしは生命体によって影響されていることは確かです。そういったものが影響を及ぼしていることは事実ですが、どれひとつとして、どうしようもない宿命的な力をもってはおりません。

あなたの誕生日にある星が地平線上にあったからといって、その星によってあなたの生涯が運命づけられていると考えるのは間違いです。すべての惑星、すべての自然、宇宙間のあらゆる存在、あらゆる生命体が何らかの影響を及ぼします。

しかしあなたはあなたの魂の支配者です。あなたには自分で背負わねばならない責任があり、あなたの霊的進歩に応じて自分が運命を定めていくのです。

占星術でいう惑星には確かに人体に影響を及ぼす放射性物質がありますし、人体に影響を及ぼせば霊にも影響を及ぼすことになります。しかし霊は絶対です。すべてに優るものです。ですから、いかなる恒星も惑星も星座も星雲も、人体に及ぶ影響を克服するその霊の威力を妨げる力はありません。

私が言いたいのは、要するにあなた方は神の一部であること、そして神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、あなた方はその身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。

分りやすく言えば私も影響力のひとつです。あなた方が付き合う人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力をもっております。しかしあくまで影響力にすぎません。それによってあなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう」

【質問3】 – 再生は本当にあるのでしょうか。

「再生は事実です。私はかつて地上へ再生したことのある霊に何人か会っております。特殊な使命を託された人、預けた質(しち)を取り戻したい人がみずからの意思で行うものです。ただし再生するのは個的存在の別の側面です。

同じ人格がそっくり再生するのではありません。ここに一個の意識的存在があって、そのごく小さな一部がちょうど氷山のように地上に顔を出します。それが誕生です。残りの大きい部分は顕現しておりません。次の誕生つまり再生の時にはその水面下の別の一部分が顔を出します。

ふたつの部分に分れても個的存在全体としてはひとつです。これが霊界において進化を重ねていくと、その潜在している部分全体が顕現した状態となります。(表現する身体が精妙となっていき、それだけ神性が発揮しやすくなっていく – 訳者)

【質問4】 – 私は最近、一方で若者による犯罪が激増し、他方においては体罰が禁じられていることについて大いに考えさせられております。暴力以外に青春のはけ口を知らず、けだもの同然となってしまっている若者をどう扱ったらよいでしょうか。何かよい処罰の方法はないものでしょうか(第2次大戦の事。本書は1955年の出版 – 訳者)

「戦争が起きると気高い人間精神(愛国心)が昂揚される反面、敵を殺そうとする、人類のもっとも残忍な性質が発揮されます。人間精神の極致ともいうべき英雄的行為を生むと同時に、むごたらしい野蛮性も生みます」

– 両極性が発揮される訳ですね。

「そういうことです。しかも、暴力の方は戦争の必然性として大いに奨励されることになります。では戦争が終れば暴力と残虐性がすぐに引っ込むかといえば、そう簡単にはまいりません。既に無数の人間が獣性をむき出しにした状態になっております。

そうしたこと態にどう対処すべきかをお尋ねですが、それにはふたつの方法があります。いずれも地上で敬々(うやうや)しく読まれている本(新旧聖書)にはっきりと述べられているものです。

– 古い方は“目には目を、歯には歯を”(出エジプト記)と説き、新しい方には“己を愛するごとく隣人を愛せよ”(マタイ)と説きます。どちらが良いかは分り切ったことです。前者の方法を取れば解決は得られません。

緩和剤、一時しのぎの荒療治にはなっても、罪悪ないし蛮行を根本から無くしたことにはなりません。後者の方法を取りそうした邪悪が精神と肉体と霊との不調和から生まれていることを認識し、それを矯正する為の適切な手段を講ずれば、彼らもまともな市民になっていくでしょう。 – 私は後者の方法をお勧(すす)めします」

– それは解るのですが問題はそうした暴徒にどう近づくか、彼らの従順な側面をどう捉えるかです。

「従順な側面を捉えるかどうかの問題ではありません。彼らの野獣性を鎮め、本来の姿である霊性を発揮させるような精神的治療を、さらに必要であれば霊的治療をいかに施すかの問題です。言ってみれば彼らは一種の病人であり、肉体と魂とが本来のつながりを失っているのです。

病気を治すにはいろんな方法がありますが、いちばん望ましい方法は身体と精神と霊の狂った関係に終止符を打ち、協調関係を取り戻させることです。すると自動的に健康状態になります。

それと同じで、秀(すぐ)れた心理学の専門家の協力、さらには心霊治療家の参加を得ることができれば、きっとうまく行くでしょう。しかし残念ながら、地上はまだその段階まで来ておりません」

– (別のメンバーが)これは非常に考えさせられる問題です。そういう若者はしっかりと体罰を課せば一応おとなしくなると思うのですが…。

「恐怖心を吹き込むばかりで、病弊の治療にはなりません」

– でも、おとなしくさせることはできるでしょう。

「できます。ですが、一個の人間としての問題の解決にはなりません。あなた方は極めて限られた視野で見ておられます。それはちょうど死刑にするのと同じです。その人間を地上から抹殺すれば問題は片付くじゃないかとおっしゃるようなものです。確かに一面から見れば片付いたと言えるでしょう。

しかし本人はちゃんと(死後の世界で)生き続けているのです。(モーゼスの『霊訓』でインペレーターが死刑にされた人間の霊や戦死者の霊の怨念と激情が地上の犯罪や暴力沙汰に拍車をかけている事実を生々しく伝えている – 訳者)

– ひとりの堕落者の更生の方が社会全体より大切なのでしょうか。

「社会は個人が集まって出来あがっているのです。すべての者に注意を向けてやらねばなりません。私が指摘しているのは“より良い方法”です。つまり暴力に暴力をもって対処するのではなく理解をもって臨み、凶暴性を鎮めて市民的意識を芽生えさせるということです」

– (さrに別のメンバーが)若者が暴徒と化してしまったことには我々にも責任があります 。我々みんなの責任です
私たちみんなに責任があります。なぜなら人類はひとつであり、同胞へ及ぼす影響はこの私にも及びます。私たちが生活している宇宙は全生命があらゆる面において互いに依存し合っており、いかなる側面も他と隔絶することはできません。

– ムチを使うことは一時しのぎであり、単に恐怖心でもっておとなしくさせるにすぎません。

「現段階での地上人類はまだ社会悪に対する適切な矯正措置を生み出すところまで至っておりません。これは進化の問題です。

– かつては羊を一頭盗んだ者でも絞首刑にした時代がありました。死刑にしなかったら残りの羊はどうなるんだという理屈が大真面目でまかり通ったものです。

– 未熟な社会では未熟な処罰が許されるのだと思います。

「“より良い”方法に目覚めた人がひとりでもいる限りは許されません。たとえば恐怖の監獄に放り込むのと、まじめな市民に更生させる目的をもった監獄の改善のために働かせるのと、どちらが“より良い”でしょうか。たったひとりだけ更生に成功して99人失敗に終ったとしても、何の更生手段も講じないでいるよりは“まし”です」

– 死刑制度は正しいとお考えですか。

「いえ、私は正しいとは思いません。これは“ふたつの悪のうちの酷くない方”とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることにしかなりません。個人が人を殺せば罪になり、国が人を殺すのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」

– 反対なさる理由は、生命を奪うのは許されないからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それはその人にとって気の毒なことだからでしょうか。

「両方とも強調したいことですが、それにもうひとつ強調したいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら死刑では問題の解決になっていないことを悟る段階に至っていないからです。

それはもうひとつの殺人を犯していることに他ならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に、別の世界へ突き落しただけです」

【質問5】 – 余暇の正しい使い方について教えてください。

「余暇は精神と霊の開発・陶冶(とうや)に当てるべきです。これはぜひとも必要なことです。なぜかと言えば、身体に関したことはすでに十分な時間が費やされているからです。

人間は誰しも健康を維持し増進するための食生活には大変な関心を示します。もっとも必ずしも健康の法則に適っておりませんが…しかし精神と霊も発育が必要であることをご存知の方は殆どいません。

そういう人たちは霊的にみると一生を耳を塞ぎ口をつぐみ目を閉じたままで生きているようなものです。自分の奥に汲めども尽きぬ霊的な宝の泉があることを知りません。精神と霊が満喫できるはずの美しさを垣間(かいま)みたことすらありません。

誰にも霊的才覚が宿されていることを知らずにいます。それの開発は内的安らぎを生み、人生のより大きい側面の素晴らしさを知らしめます。となれば霊性そのものの開発が何より大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中においてなされるものです。

その静寂の中で、まわりに瀰漫(びまん)する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することが出来ます。その宝は使われるのを待受けているのです」

【質問6】 – 直感について説明してください。

「よろしい。ひとことで説明できます。“霊の即発”です。直感とは霊が自己を認識する手段です。普段の地上的推理の過程を飛躍します。

考えに考えた末に到達するような結論でも、電光石火の速さで到達します。同じ問題について多くの時間と思索ののちにやっと到達することを“霊の即発”によって一気に我がものとしてしまう、一種の“一体化”の過程です」

【質問7】 – 有色人種と白人とが結婚して子孫をこしらえることは好ましくないことでしょうか。

「私も有色人種です。これ以上申し上げる必要があるでしょうか。地上では“色素”つまり肌の色で優劣が決まるかのように考えがちですが、これは断じて間違いです。

優劣の差はどれだけ自分を役立てるかによって決まることです。他に基準はありません。肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は魂の程度を反映するものではありません。

地上世界ではとかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準はひとつしかありません。すなわち“霊”です。すべての民族、あらゆる肌色の人間が神の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっております。

大自然の美事な“わざ”をご覧なさい。広大な花園で無数の色彩をした花が咲き乱れていても、そこには、ひとかけらの不調和も不自然さも見られません。すべての肌色の人間が融合し合った時、そこに完璧な人種が生まれます」

【質問8】 – 現段階の人間社会において、いわゆるハーフカースト(宗教または階級を異にする者同士の間の子孫、特にヨーロッパのキリスト教徒とヒンズー教徒またはイスラム教徒との間の混血児のこと – 訳者)の子孫も社会に受入れられるべきでしょうか。

「偏見を打ち崩し、誤った考えと闘わなければなりません。真理は、いかにその歩みはのろく苦痛を伴っても、真理であるがゆえに必ず前進するものです。価値あるものほど手に入れるのに困難が伴うものです。

成就は奮闘努力の末に得られるものです。勇気をもって挑戦しそして征服した者こそ賞賛に値します。恐怖心から尻込みし困難を避けようとする者に用はありません。人生とは学校です。刻苦と闘争、努力と困難、逆境と嵐の中をくぐってこそ魂は真の自我に目覚めるのです」

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9章 宗教の本質と子供の宗教教育のあり方

– ある日の交霊会で“宗教”の定義を求められてシルバーバーチはこう述べた。

「宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕することです。本来の宗教は地上の世俗的概念とはほとんど何の関係もありません。

人間の魂に内在する神性を地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と神とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを大きくするものでなければなりません。宗教とは人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることがすなわち宗教です。

そのほかのこととは何の関わりもありません。肉体が朽ちてしまえば、それまで永いあいだ後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが空虚で無価値で無意味で無目的なものであったことを知ります。魂の成長を微塵(みじん)も助長していないからです。

魂の成長は自分を役立てることによってのみ促進されるものです。他人のために自分を忘れているうちに魂がその大きさと力を増すものだからです。地上にはこれまであまりに永いあいだ、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。

しかしその宗教がもっとも大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待(ぎゃくたい)、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を1インチたりとも増しておりません。

逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、はては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。

分裂と不和を助長することばかりを行ってきました。神の子等をひとつに結びつけることに失敗しております。私が宗教的建造物や俗にいう宗教に価値を認めない理由はそこにあります。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは何を為すかです」

続いて子供の宗教教育のあり方について聞かれて –

今日の子供は明日の大人であるというごく当り前の考え方でその問題と取り組んでみましょう。当然それは学校教育を終えた後の社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるべきものでなければなりません。

意義ある社会の一員として、いかなること態においても、社会のため人類のために貢献できる人物に育てるための知識を授けることが教育の根本義なのです。それには何よりもまず宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。

人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てるために開発するよう指導してやらねばなりません。

子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することができません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのままを呑み込んでしまうのです。

このように、子供を教育することは実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸となりヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者はまず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。

子供の潜在意識に関わることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象づけられ、それが子供のその後の思想を築いていく土台となるのです。その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は動機がどうあろうと、人類とその文明の将来に大きな障害を築いていくことになり、罪を犯していることになるのです。

子供に種々さまざまな可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙に置ける人間の位置を理解していない人 – こうした人に育てられた子供は健全な精神的発育を阻害されます。

ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは私の領分ではありません。それについてはすでに十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学とあらゆる生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で、役に立つものすべてを教えてやるべきであることは明白です。

そこで宗教の問題にしぼって申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理である以上、教育上極めて重大な意義を有することは明らかです。

子供のひとりひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには“自由”がもたらすところのあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期に拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的権利を無視することになります。奴隷(どれい)状態に陥らせることです。霊的奴隷としてしまうことです。

“自由”こそが教育の核心です。私の考えでは、宗教についての正しい真理を教わった子供は自由闊達に成長します。教育に携わる人が子供に自由を与えてやりたいという意図からではなく、古い神話や寓話への忠誠心を植えつけたいという願望から物ごとを教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。

もしも知性があれば拒絶するはずの間違った教義を教え込むことは、宗教的観点から見ても教育的観点から見ても、その子にとって何の益にもなりません。

それだけでは済みません。いつかきっと反撥を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教え込んだ人たちみんなに背を向けるようになります。幼い魂は若木のように逞しく真っすぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは存在の根をいじくり回されることであり、生長が阻害されます。

霊について、神とのつながりについて正しい真理を教えるのではなく、倒れかかった教会を建て直し、空席を満たそうとする魂胆(こんたん)から誤った教義を押しつけんとする者すべてに対して私は断固として異議を唱(とな)えます。

宗教についての真実を申せば、真理のすべてを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏(ねつ)造されております。

子供には宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉(とら)われることなく、真面目で無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽すことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません。

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10章 シルバーバーチの祈り

●人間の神性を讃える祈り

「神よ、私たちはあなたの永遠の真理、あなたの無限の力、あなたの不変の摂理の生き証人でございます。あなたの聖なる御業であるところの大自然のパノラマの中に、私どもはあなたの神性の顕現を拝しております。

私どもは昇りゆく太陽の中に、沈みゆく太陽の中に、夜空のきらめく星の中に、大海の寄せては返す潮(うしお)の中に、そよ風とその風に揺れる松のそよぎに、やさしい虫の音に、澄み切った青空の中に、そのほか移り変る大自然のあらゆる営みの中に、あなたを見出すことができます。

また、あなたは生きとし生けるもののすべてに宿る霊の中に見出すことができます。人間においてそれは意識を有する個的存在として顕現しております。あなたとともに宇宙の限りなき創造の大業に携わらしめるために人間をその高き段階へとお引き上げくださったのでございます。

あなたは人間にあなたの聖なる属性を数多くお授けになりました。人間はその霊的資質を有するが故の当然の成り行きとして、物的生命を超えたより精妙なる力、すなわち霊力を知覚せしめるところの霊的能力を有しております。

人生を営むことを可能ならしめているものは、その霊力にはかなりません。人間を全創造物から超脱せしめているものもその霊力にはかなりません。思考をめぐらし、判断を下し、反省し、決断し、美に感嘆し、美を賞美し、叡智を授かり、その真価を悟り、知識を獲得し、それを大切にする能力も、霊力あればこそでございます。

より高き世界からのインスピレーションを感受せしめるのも霊力でございます。人生の重荷に耐えかねている者のもとへ赴(おもむ)くことができるのも霊力あればこそでございます。

霊の世界の存在を知覚し、その世界の居住者が人間をより広き奉仕的行為のために使用せんとしている事実を認識することができるのも、霊の力ゆえでございます。果てしなき宇宙の大機構の中に置かれた己れの位置を理解せしめるのも霊の力でございます。

私たちは人間にそうした本来の役割を成就せしめるものについての知識、死後に赴く世界にふさわしきものを身につけさせるものについての知識を広めんと希望している者でございます。

そうなってはじめて人間は、いま目を曇らせている暗闇をみずから払いのけることを得ることでございましょう。そうなってはじめて叡智と真理と悟りと調和と平和の中に暮らせるようになることでございましょう。

そうなってはじめて同胞があなたとの真のつながりと生きる目的、そして人間が死と呼ぶ扉の向こうに待ちうけている、より大きな生命の世界の存在を理解する上で力となることができることでございましょう」

●相互扶助の尊さを讃える祈り

「神よ、私たちはあなたの真理、あなたの叡智、あなたの愛、そしてあなたの永遠なる自然法則の理解を広めるために、力のかぎりあなたの忠実な子供たらんと願っている者でございます。

地上のあなたの子等にあなたの無限の機構の中における存在価値を理解させること – 真の霊的自我を見出し、暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界にあって、あなたから授かった力を発揮するように導いてあげることを願いと致しております。

私たちは霊的実在についての単純素朴な真理 – 正義と権利と善と美の永遠の基盤であるところの真理を説かんと致しております。

道を見失える者、いずこにあなたを見出すべきかを知らずに迷える者に対しては、あなたが彼ら自身の中に存在すること、あなたの無限なる霊がみずからの存在の内部にあること、まさしく天国は彼らの心の中にある – よろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国は自分の心の中にあるという事実を教えることを目的と致しております。

私たちは悲しみに暮れる人々、人生に疲れた人々、病める人々、困窮せる人々、肉身を失ったまま慰めを得られずにいる人々、いずこに導きと英知を求めるべきかを知らずにいる人々に近づき、あなたがその人々をけっしてお見捨てになったのではないことを教えてあげたいと願っている者でございます。

私たちの使命は地上のすべての地域とその住民にいっさいの分け隔てなく行きわたっております。あなたの霊は人間界のすみずみまで流れ、雄大なる宇宙のあらゆる現象に現われ、意識的存在のすべてに顕現されていると認識するゆえにございます。

その事実を認識することによって新たな安らぎが得られ、それは、ひいては人間の心と魂と精神を鼓舞してお互いがお互いのために生きる意欲を誘い、あなたの子のすべてに分け隔てなく奉仕することによってあなたに奉仕することになることでございましょう」

こう祈ったあと、最後にサークルのメンバーに向かってこら説いた。

「私たちの訓えの根本は Service(後注)の一語に尽きます。地上の悪弊(ガン)のひとつである利己主義に対して、私たちは永遠の宣戦を布告しております。戦争、流血、混乱、破壊へと導くところの物質万能主義を打ち砕かんと努力しております。

私たちの説く福音は相互扶助、協調、寛容、思いやりの福音です。お互いがお互いのために自分を役立てるようになっていただきたい。そうすることによって持てる者が持たざる者に幾らかでも譲り、豊かな才能に恵まれた者がそれを活用して暗闇の中にいる者を啓発してあげることになるからです。

地上世界は今、もっともっと Service を必要としております。人間のひとりひとりが同じ全体の一部であり、人類のすべてに神の霊が流れている – その意味において万人が神のもとにおいて平等である – その本性に関するかぎり平等である、という認識を広める必要があります。

性格において、霊格において、進化において、そして悟りにおいて1歩先んじている者が、その持てるものを持たざる者に分け与えんと努力するところに偉大なる行為が生まれま
す。
霊の世界の働きかけに応じて働く人々、持てる才能を霊団に委(ゆだ)ねる人々は、自分を捨てることによっていつも自分が得をしていることに気づくはずです。

何となれば、その行為そのものがひとつの摂理に適っているからです。収賄行為ではありません。ご利益目当ての行為でもありません。因果律の作用にほかなりません。すなわち、もっとも多く施す者がもっとも多く授かるということです」


訳者注 – Service の訳語について

英語には、民族の文化的背景の違いから、ぴったりと当てはまる日本語が見当たらない単語がいくつかありますが、その最たるものがこの Service です。

これをサービスというカタカナにすると“おまけ”の意味あいが出てくるので、あえて横文字のまま用いたのですが、本来の意味は“他人のために何かをしてあげること”で、テニスの“サーブする”と言い方に単的にそれが表われております。

すなわち相手に働きかけて何らかの相互関係をもつことです。そこに報酬のあるなしは関係ありません。つまり手数料を取っても Service です。日本人がこれを“ただで差しあげる”という意味で使用したことから非常にややこしくなりました。

というのは“奉仕する”と訳すと日本人は“無料奉仕”の観念を思い浮かべますが、本当は有料であっても Service であり、同時に“無料奉仕”の意味でも Service を用いるのです。

日本人はお金を取ると奉仕でなくなる、つまり功徳が消えるかのように考え、お金を取らなかったら大変な功徳積みをしたかのように思う傾向がありますが、その行為によって相手が何らかの益を得ればそれだけで立派な Service であり、功徳積みであり、シルバーバーチもその意味で用いております。

金銭的感覚を超越しております。お金をいただくことがいけないことであるかのように考えること自体がすでにお金にこだわっていることを意味し、これは多分に中国から来た儒教思想の影響ではないかと考えております。

つまり幼児期から教え込まれた中国の倫理・道徳思想(四書五経)の文面にこだわって本来の意味を取り損ねているのだと思います。

シルバーバーチはサークルのメンバーも招待客もみなキリスト教国の人間だからキリスト教を引き合いに出し、その教義の誤りを指摘して本来の宗教のあり方を説いているまでで、私は、日本人にとっては儒教思想が西洋人にとってのキリスト教と同じ悪影響を及ぼしている面が多分にあると観ております。いずれそれを神ながらの道との関連においてまとめてみたいと考えております。

それはともかくとして、私はこれまで Service をその場に応じて幾通りにも訳し分けてきました。他人のために自分を役立てる、人のために尽くす、奉仕する、献身する、援助する、手を差しのべる等々で、文章の前後関係から判断してそう訳し分けたわけです。

英文でお読みになる方は常に前後関係、脈絡 – 英語でいう Context – を見究めた上で意味を読み取ることが大切であることを老婆心ながら申し添えておきます。

これも30年近く大学受験生を教えてきた教師としての習性が言わしめるのでしょうが、そのついでにもう一言付け加えさせていただけば、柔軟な脳細胞をしているはずの若い学生が文法や構文や語句にこだわって本来の意味を取り損ね(それだけならまだしも)オバケのような日本語に訳してしかも“それを変だと思わない”のは、教説にこだわってその本来の意味を忘れていながら、形式だけで済ませて“それでよし”とする思考パターンと同じで、その辺に私は学制改革だけでは済まされない、もっと奥の深い問題点を見る思いがしております。

シルバーバーチが教説はどうでもよろしい、人のためになることをすれば、それで立派な宗教ですと言うのは、人生百般に通じる単純にして明快な訓(おし)えであると思っております。

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解説 霊的教訓と心霊現象

本書は Silver Birch Anthology(シルバーバーチ名言集 – 1955年初版 – )の全訳である。全訳と言っても、編者のネイラー氏がそれまでの霊言の中から珠玉の訓え」と言えるものを集めたもので、その3分の1以上に相当する部分が邦訳シリーズの前3巻に出ているので、当然それは削除せざるを得ず、その穴埋め(といっては語弊があるが)のために前3巻の原書でカットしておいたもの、およびオースチン編 Teachings of Silver Birch から関連した部分を抜粋してある。

このことに関しては本文の「まえがき」の末尾でも「訳者注」として述べておいた。原書を読まれる方が不審に思われるのではないかと思ったからであるが、ついでにもうひとつ念のために付け加えさせていただけば、編者が霊言のオリジナル原稿(速記録とテープ)から収録するとき、編者自身の判断で部分的に削除したり段落を適当につけている(週刊の「サイキックニューズ」月刊の「ツーワールズ」に転載されているものと照合するとそれが判る)ので、私が訳す際にもところどころ私の判断によって段落を変えたり削除されているものを付け加えたりしている個所があることである。

とにかく私は公表されたかぎりのシルバーバーチの霊言を30年間近く書物と雑誌とテープを通じて徹底的に親しみ、1981年には霊媒のバーバネルに直接面会してその肉声にも接して、それが私の脳裏に焼きついている。今も折をみてカセットテープを聞いてその感じを忘れないようにしながら訳している。

大ゲサに、そして、いささか僭越(せんえつ)の謗(そし)りを覚悟の上で言えば、翻訳に携わっている時の私はシルバーバーチに成り切っていると理解していただきたい。(なぜか正座して威儀を正さないと訳せない)

さて、本文の中で“巻末「解説」参照”と記した部分が2箇所ある。両者は表面的には関係ないようで実は重大な関連性があるので、ここで解説しておきたい。

ひとつは4章の次の一文である。「私が残念に思うのは本来霊的存在であるところの人間があまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちがテーブルを上げてみせたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです」

これはいわゆる物理的心霊現象のことで、事実シルバーバーチの交霊会でも物理霊媒を呼んで種々の心霊現象を行っていた。心霊治療も行っていた。その最高責任者、総監督の立場にあったのがシルバーバーチであるが、物理現象の演出に直接携わるのはそれを専門とする霊団であり、心霊治療にも治療霊団が組織されていた。

太古より霊的啓示には物理現象と病気治療はつきもので、イエスも盛んに活用している。それを聖書では“しるしと奇跡”Signs and Wonders と表現しているが、実際は聖書に記されているよりはるかに多く起きていたはずである。

ところが霊界通信の真実性を確信しはじめた人はとかく現象的なものを軽蔑しはじめる傾向があり、奇妙なことにキリスト教徒がもっともその傾向が強いが、これは間違いであると同時にきわめて危険なことでもある。

たしかに物理的現象に直接携わるのは低級霊であり、モーゼスの『霊訓』の中でイムペレーターが述べているところによれば、いわゆる地縛霊がようやく目を覚まして修養と償いのために高級霊の指導下で働いていることが多いようである。

言うなれば“更生の場”を与えられているわけである。こうした場合は監督に当たる霊、いわゆる支配霊が高級であるから危険性はまず無い。

それよりも意外に陥りやすい危険は、むしろそういうものを軽蔑して自分自身の、あるいは自分が所属するサークルないし宗教団体の霊言や自動書記のみを絶対のものとし、その霊媒のロないし手を通して得られたものは何も彼も真実のもの絶対のもの高級なものと決めてかかってしまうことである。

そういう間違った考えが定着する原因はどこにあるかと言えば、心霊現象の基本、つまり精神的現象と物理的現象の原理(心霊学)についての認識が十分でないことにある。このことが同じく4章の一文の裏面の事情とつながってくる。「私たちは人類を破滅の道へ追いやろうと画策している悪霊の集団ではありません」

これはキリスト教界がスピリチュアリズムのことをそう決めつけるので、それを念頭において述べているのであるが、キリスト教と切り離して考えても、心霊問題に関わる者が忘れてならない大切なことを暗々裏に述べている。

つまり現実にそういう意図をもって画策している悪霊・邪悪の集団がうようよしているということである。

さきのイムペレーターもその点を再三にわたって指摘しているし、オーエンの『ベールの彼方の生活』の中でも、通信を横取りしようとしてスキを狙っている連中がいるので油断がならないと述べている。

そういう霊はうまく横取りした通信内容をさも自分のものであるかのように巧みに使用して、いかにも立派な高級霊であるかのごとく振舞い、そのうち通信の中にそれとなく偽りの事実を混入して問題を生じさせ、“それみろ。霊界通信なんて全部ごまかしなんだ”という風評を立てさせ、そして“ほくそえむ”。

なぜそんなことをするかと言えば、高級神霊による計画推進を挫折させんとしているまでで、別に深い意図はない。

では霊界通信の真偽をどうやって見分けるかということが問題となるが、シルバーバーチは常に批判的精神をもって理性的に判断するように – くだけた言い方をすれば、とことん疑ってかかれと説く。

確かにこうした活字になってしまえばそれしかないが、実際にその場に立ち会った時は、一種の直感力が何よりの武器となる。その雰囲気から読み取るのである。

実は霊媒のバーバネル亡きあと、サイキックニューズ社はさっそく別の霊言霊媒を探し出して、その霊言を心霊誌に連載しはじめた。私もそれを読んで、正直のところ最初はなかなかの内容だと思った。

そしてその後に発売されたカセットをすぐに取り寄せて、大きな期待をもって聞いたが、ものの1分も聞き続けることができなかった。直感的にこれはニセモノという気がしたのである。念のためカセットを裏返して後半の部分を聞いてみたが、やはり1分と聞く気になれなかった。

それから1週間ほどしてもう一度気を取り直して3分間ほど聞いてみたが、やはりその雰囲気からは本物という判断はできなかった。果たせるかな、その後間もなくしてその霊媒のトリックが暴(あば)かれて、それきり連載も中止された。そして代って連載されたのは又もやシルバーバーチであった。古い霊言集からの抜粋である。

本物にはどうしようもない強みがある。英国新聞界の法王とまで呼ばれ、ヘソ曲りの毒舌家として世界的に知られたハンネン・スワッハー(シルバーバーチの交霊会は当初はこの人の家で催され司会もこの人が勤めた)すら手も足も出なかったほどである。そのスワッハーがこう述べている。

「が、いったん活字になってしまうとシルバーバーチの言葉もその崇高さ、温かさ、威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがいかに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることを我々はひしひしと感じる。決して人を諌(いさ)めない。そして絶対に人の悪口を言わない」

内容的に“いいことを言っている”というだけでは霊言としての真価は分からない、ということが以上のことから理解していただけると思う。問題は雰囲気であり風格である。

私の翻訳もシルバーバーチという古代霊の風格を出すことにいちばん苦心している。原書を読まれる方もそれが読み取れるまで読み込んでいただきたい。文法や構文に振り回されていては本当の意味は読み取れない。これはシルバーバーチにかぎったことではないが…。

知識は力なりという。これから幽明交通がいっそう盛んになっていくにつれて次々と霊界通信なるものが輩出されることであろうが、その真偽性、純粋性、優秀性を適確に判断できるようになるには、スピリチュアリズムの全体像を理解すると同時に、その基本であるところの心霊学を勉強することが、直感的判断力を自然に養ってくれると信じる。

といって心霊学を好奇心からいじくり回していては何にもならない。こうした言わば落し穴と誘惑に満ちた世界に踏み入って宝を探すための学問的基盤として、心霊現象の原理つまり霊界側がどういう形で物的世界に働きかけているのかを知ることが必要不可欠であることを指摘しておきたい。

近藤 千雄


新装版発行にあたって

多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、この度、装いを新たにして出されることになりました。天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

平成16年1月
近藤 千雄


シルバーバーチの霊訓(4) – 新装版 –

近藤千雄(こんどう・かずお)昭和10年生まれ。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり、明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳に従事。1981年・1984年英国を訪問、著名霊媒、心霊治療家に会って親交を深める。

主な訳書 – M.バーバネル『これが心霊の世界だ』『霊力を呼ぶ本』,M.H.テスター『背後霊の不思議』『私は霊力の証を見た』,シルバー・バーチ露訓『古代霊は語る』,アルフレッド・ウォーレス『心霊と進化と – 奇跡と近代スピリチュアリズム』,G.V.オーエン『霊界通信・ベールの彼方の生活』,(以上潮文社刊)S.モーゼス『霊訓』,J.レナード『スピリチュアリズムの真髄』,H.エドワーズ『ジャック・ウェバーの霊現象』(以上国書刊行会刊)

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2025年12月4日

Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†