モーゼスの「霊訓」(中)
モーゼスの「霊訓」(中)
W・S・モーゼス著
近藤千雄訳
Spirit Teachings
by William Stainton Moses
(c)Spiritualist Press (1952)
(現 Psychic Press Ltd.)
20 Earlham Street, London, WC2H 9LW, England.
【もくじ】
33歳の時のモーゼスとスピーア夫人。モーゼスの右肩のあたりに写っている人物については不明。1872年にハドソン写真館にて撮影。
The College of Psychic Studies 所蔵。Mary Evans Picture Library 特約。
ハドソンは英国における心霊写真家第1号といわれている人で、元来はふつうのスタジオ写真家だったのが、ちょうどこの1872年ごろから、彼が撮影した写真にその時スタジオにいなかった人物像が写るようになり、家族の証言でそれがすでに他界した身内の者で、しかもそれと同じ写真はこの世に存在しないことが判明するということが相次ぎ、ハドソンが特殊な心霊能力をもつ写真家として有名になると同時に、心霊写真が人間の死後存続の有力な証拠として注目されるようになった。
なお、スピーア博士夫人については本巻冒頭の“自動書記通信が入手されるまでの経過と本巻の内容”を参照されたい。
自動書記通信が入手されるまでの経過と本巻の内容
本書の編著者であり霊能者でもあったウィリアム・ステイントン・モーゼスは、オックスフォード大学でキリスト教神学を学んだあと、牧師としてマン島に赴任しました。
若いながらも教養と人間味を兼備した、有能な青年牧師として大変な期待と尊敬を受けていましたが、1869年、30歳の時に重病を患い、翌年回復して英国本土に赴任しますが、病気が再発したために、ついに牧師職を断念して、ロンドンで教職につくことになります。
こうした経過は、背後霊団による計画的なものだったようです。というのは、病気再発後、長期療養のために世話になった医師のスタンホープ・T・スピーア博士の夫人がスピリチュアリズムに大変熱心で、子息のチャールトンの家庭教師としての家族ぐるみの生活の中で、霊的現象についての知識と体験を少しずつ身につけていったのです。そして間もなく、モーゼスの身のまわりにも、さまざまな物理現象が発生しはじめます。
テーブル浮揚、人体(モーゼス自身)の浮揚、物品引寄(アポーツ)、香気の発生、楽器を置いてない部屋での器楽演奏、手先などの物質化現象、等々ですが、やがて自動書記と霊言が生じるようになります。
それまでの一連の物理現象は、目に見えない知的存在の実在と威力をモーゼスに得心させるためのもので、すべてが自動書記と霊言を最終目標として計画的に進められていたことが、のちに霊側の証言で明らかとなります。
本書に収められたのは自動書記通信ばかりですが(霊言は続編の More Spirit Teachings に収められていて『インペレーターの霊訓』のタイトルで潮文社から出ている)、最初のころは取りとめのない内容のものが多くてモーゼスもあまり真剣に取り組んではいなかったようです。
ところが、1873年から出始めたインペレーターと名のる霊からの通信内容が、それまでモーゼスが絶対的に信仰していたキリスト教の教義内容と正面衝突するものとなっていき、戸惑いと不満をぶちまけたモーゼスの質問に対してインペレーターが、忍耐づよく、克明に、そして丁寧に、しかし時には叱りつけるような語気をもって教えさとすという形での内容が、1880年まで続きました。
上巻に引き続いて、本書に収められた内容も、相変らずキリスト教信仰から抜け切れないモーゼスが執拗に反論し、その反抗的態度と猜疑心、つまり、インペレーター霊団はバイブルにいう“天使を装った悪魔”の集団ではなかろうかという疑念が捨てきれないモーゼスにほとほと手を焼いたインペレーターが、ついに“総引き上げ”の最後通告を出すに至るという、まさに火花を散らした壮絶な論争に発展していきますが、それを、その頃に他界したモーゼスの友人が間に入って取りなすという、顕幽両界にまたがるドラマチックな展開を見せながら、“論争”という形での問答は、本巻をもって、モーゼスの得心という形で終息します。
下巻では、論争ではなくモーゼスから問い質すという形で、キリスト教の本質を改めて取り上げ、さらには、その原型となっているという古代インド思想へと発展していきます。
第12節 神についての啓示の歴史
[本質においてプライベートな内容のものを公表するのは、決して私の本意とするところではないが、それを、あえてこうした形で公表するのは、1人の人間の思想的遍歴が他の大勢の人たちの経験となることも有り得るであろうし、私がたどってきた精神的および霊的な葛藤の過程が、同じような過程をたどりつつある人たちにとって参考になるかも知れないと考えたからである。
さて、その後数日間、霊による宗教上の教えに関する通信が途絶えていたが、私の胸には、以前にもましてさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせてもらった。
当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んでは途方に暮れ、茫然(ぼうぜん)自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして、私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”だった。
その時の私の考えでは、霊の教説をうんぬんするよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。また、それくらいのことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えてもらえないことに焦燥を覚えたのである。
今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時(1873年7月)の私には理解できなかったのである。
さらに私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが、決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく、かつ、いい加減なものであるという印象を拭い切れないことだった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者の方が上だった。
また私には、霊の見解の中に大きな矛盾があり、いろんな思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもそのほとんどに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。
内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私は、さきに述べた疑問点を書き連ねた。それは、主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、およびスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものだった。次に掲げるのがそれに対する回答である – ]
友よ、ふたたびそなたと対話を交えることをうれしく思います。そして、たとえこの機会にそなたの質問のすべてに答えることができず、またすべてを解決し得ずとも、神と人間との関係、ならびにわれわれの使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを正すことができるでしょう。
そなたの誤解の根源は、神および神と人間との関係についての間違った概念にあるように思えます。人類の歴史を通じて、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはありません。
が、人間がその啓示を理解しようとするうちに、愚かにもその本性と働きについて、真実から大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するにいたりました。
太古においては、そのお粗末な概念は何らかの物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬(いけい)され、叶えられなかったら即座に捨て去られることの繰り返しでした。
当時の人間は、目の前の物体そのものには何の霊力もなく、背後に霊が控えていて、筋の通る祈りは叶えてあげようとしている事実を知りませんでした。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのです。目に見え、手に触れるものにしか、神の概念を託すことができなかったのです。
この点を“とくと”注意してもらいたい。“彼ら自身の神の概念”を託したのです。神そのものではなく、彼らが精いっぱい想像した未熟な概念だったのです。いい加減な占いの結果からお告げを引き出し、それを基準にして勝手な祭礼の規範をこしらえ、あげくには、それをもって神まで裁くにいたりました。
自分たちの想像した神を裁いたのです。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えました。人間から切り離せない幾つかの弱点を、神も有するものと考えたのでした。
こうして出来あがった神は、何よりもまず、おのれの名誉の維持に腐心する神であり、ときに我慢づよく、ときには優しい慈悲心をもつ神でした。しょせんは神を語る者自身が、神はかくあるべきであると“想像したもの”だったのです。
要するにそれは栄光を授けられた“人間”、普遍絶対性と全知全能をそなえた“人間”だったわけです。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならばこうするであろうと考えたのでした。
かくして、いつの時代にも、神の概念にはその時代の特色が反映しているわけです。それは、しかし、人間の成長とともに進歩します。その知的発達と人間性の洗練の度合に応じて進歩したものとなっていきます。
ほかでもない、その通路となる霊媒(霊覚者)が無知の足枷から解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神についての正しい概念を把握することが可能となるからです。
神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるという事実は、これまでもたびたび述べてまいりました。当然そういうことになるのです。神も、人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示できないのが道理だからです。
それは、そなたには奇異に思われ、理解することは不可能でしょう。ゆえに、これ以後も、われらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入してまいります。そして、いずれは現在のそなたの概念の誤りに気づいてくれる日も来ることでしょう。
が、今はまだその時期ではなさそうです。神について人間各自が抱いている概念がすなわちその者にとっての絶対的な神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対に有りえないのです。事の本質上、それは不可能なのです。
それゆえ、そなたが神の働きの真意にまで言及して「そのような絶対に有りえない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神もそのような行為に出られなかったからである」と述べるということは、言い変えれば、「私の神の概念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の概念を受け入れるわけにはいかない。私の信じるところによれば、私の神はそのような態度を取られるはずはないからである」と述べていることになります。
われわれが指摘せんとするのは、まさにそこです。そなたは自分で自分の神をこしらえ、自分がふさわしいと考えるとおりの働きを、神に強要しているのです。そのうち – この地上にせよ、死後にせよ – そなたの視野が広がるにつれて新たな光が射し込み、「なるほど自分は間違っていた。神は自分が想像していたものとは、まるで違う。なぜあのような愚かな概念を抱いていたのだろう」と述懐する日も到来することでしょう。
これは、すべての進歩的人間に言えることです。その目覚めの時は、かならずしも地上生活中に到来するとはかぎりません。ある者は死後の新たな生活まで待たねばなりません。
が、この地上において洪水のごとき知識の恩恵に浴する者もいます。魂が古い信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求めます。干天の慈雨のごとく、生命を生き返らせる何ものかを求めるのです。
さて、そなたはそなたなりの啓示を得られた…いや、今まさに手にされつつあるところです。見方によれば、これはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の概念の入る余地ができたしるしと言えるでしょう。
さらに見方を変えれば、外部から新しい豊かな神の啓示 – 人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示 – が流入したと考えることもできましょう。
それはどちらであっても構いません。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にあります。受容力がそなわるまでは知識は授かりませんし、精神がその不足を意識するほどに進化するまでは、より高い啓示は得られません。その理由は単純です。精神そのものが啓示を受ける通路だからです。
そなたが抱いている神の概念は、すべて、人間の精神を濾過器として地上にもたらされてきたものです。神を求める人間的渇仰が具象化したものです。未熟な精神の産物であり、その精神の欲求はかならずしもそなたの真実の欲求とは一致せず、したがってその神は、というよりは、神についてのその見解は、そなたにとっては違和感があります。
それをそなたは何とかして自分の思想構造に適合させんとしておられるが、しょせん、それは叶わぬことです。何となれば、その概念たるや、発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからです。
よく考えていただきたい。そなたは、われわれの述べるところの概念が、そなたが“聖なる記録”から引き出す概念と相容れないことを理由に、われらを神の使徒とは認めないという。
ではお尋ねするが、われらの説く神は、いったいどの神と異なると言うつもりであろうか。アダムとともに人間の姿で地上を歩き、何も知らない者たちの犯した罪 – 今ではささいな過ちにすぎないとされている罪 – に恐ろしい報復をしたと、まことしやかに語られている神のことであろうか。
それとも、忠実な友にそのひとり子を供物として捧げることを命じたという神のことであろうか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍とともに戦場におもむき、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上ない法律と法規とを発令したという神のことであろうか。
もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。
それとも、自分が選んだ民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後100年にもわたって手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことであろうか。
さらに、われわれの教えは、バイブルの大予言者たちの説く神々のいずれと相容れないというつもりであろうか。イザヤの神であろうか。エゼキエルの神であろうか。それともエレミヤの病的な心の産物である、あの陰気な神のことであろうか。
それとも、かのダビデの神 – 半ば慈父のごとく、半ば暴君のごとく、残忍さと寛大さとを交互に見せ、つねに矛盾と不合理に満ちた神のことであろうか。それともヨエルの神であろうか、ヨハネの神であろうか。
それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢のごとき物憂(ものう)げな天国等々の幻想のことであろうか。それらのいずれと矛盾するというつもりであろうか。パウロかヨハネか、はたまたイエスか。
改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にも、その時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされております。言い換えれば、神の概念は、鮮明度の差こそあれ、それを受けた霊感者の考えであったと言えます。
精神に印象づけられた霊示が、その霊感者を取り巻く精神的環境によって形を賦与されていったのです。すなわち、その霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが当人の考えによって形を整えたのです。
真理のすべてを授かった者は1人としておりません。みな、その時代、その民族の特殊な要請にかんがみて、必要な分量だけが授けられたのです。今も引き合いに出したように、神の概念が種々様々であるのはそのためです。
むろん、われわれと、われわれの説く神とは、ヨシュアとその神とは異なります。パウロとその神とも違います。もっとも、神なるものを最も正しく理解し、その真近かで生活したイエスによって、何も知らない民に寓話に託して説かれた曖昧な神の概念を、われわれの説く神と同列に置いて比較しようとは思いません。
イエスは、弟子の誰よりも鮮明に神を認識しておりました。その説くところは、きわめて単純にして平易であり、そして真摯(しんし)でした。その神の教えもまた、平易そのものでした。“天に在(ま)しますわれらが父” – 無知な人間が勝手に神の属性ときめつけ、他愛ない要求を神に押しつけている神学上の教説に比して、これはまた何という違いでしょう!
神!そなたはまだまだ神の何たるかをご存知ない!そのうちそなたも、その目をさえぎるベールの内側に立った時、それまで愚かにも想像していた神の概念の誤りを知って驚くことであろう。
真実の神は、およそそなたが想像しているものとは異なります。もしも神がキリスト教の説くとおりのものであるとすれば、その神は、創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけた傲慢無礼なる人物に報復すべきところです。
が、神はそのようなものではありません。人間の哀れな奴隷根性などで捉えられる性質のものではないのです。神はそうした卑屈な想像しかできない愚昧な人間の無知を哀れみ、赦されます。けっして咎めだてはなさいません。無知は、故意でさえなければ、けっして恥ではありません。
が、神は、低劣な概念をいつまでも御生大事にする愚かさ、おのれの偶像を宿す暗くカビ臭い心に、新たな光を入れようとしない態度をこそ、お咎めになります。
闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟な幻想にしがみつき、イエスの説いた単純素朴にして雄大な神に美を見出すことができずに、その崇高な概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木しないと承知できない者たちをこそ咎められるのです。
それ以上の崇高な教えを受け入れられない者は今なお、けっして少なくありません。が、まさかそなたはその1人ではありますまい!
もしもそなたが、軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしては次のように答えるほかはありますまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような、腹を立て嫉妬するような人間的暴君に仕立てた、古い不愉快きわまる教説とは大いに矛盾するであろう。
が、イエスを通じて授けられた神聖そのものの啓示とは完全に軌(き)を一(いつ)にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手な欲求によって堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けさせるに至ったのである(2)、と。
もしもわれらの述べる神、および死後の生命についての言説に何ひとつ心に訴えるものを見出しえないとすれば、それは、そなたの魂が、かつて喉を潤(うるお)した雄大にして単純素朴な概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ありません。
多分そなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間をさえぎる暗雲が、そなたに恐ろしい影響を及ぼしつつあるということであるに相違ありません。願わくばわれらがその暗雲を取り払い、今一度、感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことができればと思います。
永遠に拭(ぬぐ)いきれない危害がそなたに及ぶとは危惧しておりません。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思いません。それも無益ではないでしょう。
さしたる意味もない、ささいな問題に囚(とら)われることは止めることです。大きな問題、神についてのより明瞭な啓示の必要性、神およびわれわれ使徒について今地上にはびこっている冷ややかな無関心と無知の問題、われわれが明かす生命躍如たる来世観を十分に検討してもらいたい。
想像の産物にすぎない“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることです。真摯な心の持ち主、純真な心の持ち主、誠意ある心の持ち主にとって、神学がまことしやかに説く悪魔も魔王も存在しません。悪は近づけないのです。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となるのです。
そのまわりは天使によって保護され、明るい霊の支配を受け、進むべき正しい道へと導かれます。彼らの前途には限りない知識と、彼らの知性を高揚し気高くするものが待ち受けております。
悪魔などは、みずから創造しないかぎり、恐れるに足りません。善性への親和力が善なるものを引き寄せるからです。まわりには守護にあたる霊たちが控え、みずから求めぬかぎり、邪霊の餌食(えじき)とはなりません。
と言って、悪の誘惑や罠(わな)が特別に免除されるというのではありません。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることはできません。魂が悲しみと懊悩(おうのう)の暗雲におおわれ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れません。すなわち、辺りに見る不幸と悪におのれの無力さを感じ、良心の呵責に苦しめられることもあるでしょう。
が、悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは、絶対にありません。そうした懊悩も悲しみも、良心の呵責も、しょせんは魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上していきます。
それは進歩の手段として背後霊が用意した試練であり、ゆえに細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのです。
悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏った者のみが、肉体を捨てたのちもなお肉体的欲望を捨てきれない同質の未発達霊を引き寄せるのです。悪の侵入の危険性にさらされているのは、そうした類いの人間のみです。その性癖そのものが悪を引き寄せるのです。
“招かれた悪”が住みつくのです。そうした人間が地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのです。
さきに、そなたは軽率にも、霊界通信なるものがいい加減で益になるとは思えないと述べたが、それはすべて、その種の低級な邪霊の仕わざなのです。
友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級な人間がみずから招いている低級な霊の仕わざをもって、われわれを咎めてはなりません。咎められるべきは、聖純なものや高尚なものを嫌い、低俗にして下劣なものを好む、他愛ない人間的愚行の方です。
かの愚かな法律をまず咎めるべきです。単なる慣習と流行によって助長されたにすぎない愚行と罪状によって行く手を阻まれ、堕落の道へと引き下ろされた数多くの人間を、何の予備知識もないまま死後の世界へ追いやる法律を、まず咎めるべきです。
さらには酒場、精神病院、牢獄、そして、そういうものによって増幅された情欲と悪魔のごとき強欲(ごうよく)を咎めるべきです。無数の霊が永遠に火刑に処せられるとは、実にこのことです。キリスト者が想像した物的な炎ではありません。死後もなお消えやらぬ強欲が、炎のように魂を焼き続けるのです。
燃えるだけ燃え、その強欲を焼きつくせるだけ焼きつくして、ようやく魂が清められるのです。さよう、咎められるべきは、善霊を偽って人間をたぶらかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる、低級霊たちです。
これ以上のことは又の機会としよう。すでにわれわれは予定していたもの以上のことを述べました。それに、わたしの耳に、神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえます。これより、わたしもその礼拝の儀式に参列することになっております。(3)
願わくばわたしの祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこから流れ出る御恵みの流れのひとすじがそなたにも届き、和(なご)みと静かなる確信がその悩める魂を癒やし、慰めとなるよう祈ります。
†インペレーター
(1)John Calvin 16世紀のフランス生まれの神学者。スイスにおける宗教革命家。カルビンとも。
(2)イエスの実像に関しては本書のいたるところで述べられており、端的に言えば、インペレータ霊団はイエスとバイブルに関する誤った認識を改める作業を通じて基本的な霊的真理、いわゆるスピリチュアリズム思想を説くことを使命としていたと言えよう。
それと同じことを英国の元牧師のモーリス・エリオットが心霊科学とスピリチュアリズムの観点から行なった著作が、同じく元牧師の山本貞彰氏によって翻訳され、『聖書(バイブル)の実像』のタイトルでコスモ・テン・パブリケーションから出版されている。
新約篇と旧約篇とがあり、その内容は本書で述べられていることと完全に一致している。とくにバイブルが原典から翻訳される際の誤訳にまで言及しているところは、学問的な説得力がある。
たとえば、“マグダラのマリヤ”といえば売春婦だったというのが通説だが、“マグダラ”という用語には“癒やされた”という意味があるという。つまり、イエスによって奇跡的に癒やされた女性で、それがきっかけで生活物資の面でイエスを援助したというのが真相らしいのである。
その他、イエスとバイブルの実像が納得のいく形で鮮明に描き出されていて、キリスト教に関心のある方にとって画期的な必読書といえる。
(3)これはシルバーバーチの霊言の中にもたびたび出てくる霊界の上層界での行事のことで、世界各地で行なわれている地球を霊的に新生(スピリチュアライズ)させるための活動、いわゆるスピリチュアリズム活動の指導霊が一堂に会して行なう、審議と祈りの集会のことである。
が、これ以外にも、上層界へ行くほど讃仰(ごう)の祈りがしばしば行なわれているらしい。参考までに2つの例を挙げておく。
ひとつは“コスモのテン・ブックス”の1冊となっている『妖精世界』の著者ジェフリー・ホドソンが霊視したもので、それを日本のスピリチュアリズムの先駆者・浅野和三郎氏が「心霊と人生」誌に訳出しておられるので、それを漢字・かなを一部修正して紹介しておく。出典は Coming of the Angels。
≪天使たちは太陽を全組織の大中心、一切の生命の大本源と考える。ただし、天使たちが太陽について抱く神秘的な意義は、一般の人類には十分にわかっていない。太陽は実に最高級の天使たちの大本営であり、それより以下のすべての天使、すべての自然霊にとって、実に憧憬・渇仰の中心なのである。一切の活力、一切の指導方針はみなそこから賦与される。
むろん最高級の天使においては、全組織の中に遍在する霊気と合流融合してしまっているから、外部的に具体化した神の姿を特別に崇拝することはしない。彼らは万有に宿れる神と合一し、彼らにとって神は随所に存在するのである。要するに神とは力・光・生命および意識の没人格的大中心なのである。
しかし、それは最高の理想の境地であって、その域に達することは、わずかに少数の天使たちにのみ可能である。ふつうの天使はみな、太陽を崇拝の中心とするのである。
これがため、彼らは時として地界から遠く離れた天空に留まり、各自の神格に応じて、秩序整然たる幾重の円を描いて、感謝と祈願の誠を捧げる。円の層は一段また一段と次第に高くなり、末は渺茫(びょうぼう)として無形の世界へ消える。
天使たちの身体はいずれも光り輝いているので、かくして造られた集団は、宛然(えんぜん)、生きた光のさかずきである。すべての心は愛と絶讃とに満ち、すべての眼は、生命の本源たる日の大神にさし向けられ、それらが渾然(こんぜん)融合して、ここに清き尊き力の凝体ができ上がる。
その中から奔流のようなすさまじさをもってほとばしり出る光の流れは、上へ上へと上昇して太陽神の御胸に達する。
俄然として虚空にいみじき音楽が起こる。礼拝者たちの胸の高鳴りが加わるにつれて楽声もまた強さを増し、ここに歓天喜地の、光と音との、世にも妙(たえ)なる世界ができ上がる。
それにつられて、いかなる天使も、日ごろ住むおのれの領域よりはるかに高き境涯に進みのぼりて、太陽神の荘厳無比の御姿を目(ま)のあたりに拝するのである。
かくて全てが随喜渇仰の最高潮に達した瞬間に、大神の御答えが初めて下される。それは黄金の光の洪水となって、すべての天使の魂にひしひしとしみ込む。前後左右、天上天下、辺りはただ澎湃(ぼうはい)たる光の海。
そしてその真っただ中に、いちだん清く、強く、そして美しき日の大神の御姿が浮かぶ。むろん神の御姿は見る者の霊格によってそれぞれに異なる。いかなる者も、自己の器量だけしか拝むことはできないのである。≫
もうひとつは、ジョージ・オーエンの霊感書記通信『ベールの彼方の生活』の中で、アーネルと名のる通信霊が、暗黒界の探訪を終えて、その報告のために上層界に戻ってきた時の体験をこう綴っている。
≪その界を取り囲むように連なる丘の上でわれわれは一団の出迎えを受けました。みんな大喜びでわれわれの帰還を待ちわびており、みやげ話を熱心に聞きたがりました。
そこでわれわれは、いっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ“聖なる山”の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて“聖なる山”をのぼり、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。
そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来てみると、そこに大群集が集まっており、跪(ひざまず)いて、姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。
われわれはそこを通り抜けて最後部で待機していたのですが、われわれの動きに一べつすらくれる者は1人もいませんでした。
地上の人間は真の静寂というものを知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。が、あの大聖堂での讃仰の祈りの時は、まさしく静寂そのもので、荘厳さと畏敬に満ちておりました。≫
第13節 神と祈り
[これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考もないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに、全編を通じて一箇所の挿入も訂正もなされていないことなどを考え合わせると、ただただ、その美しさに驚きを覚えるばかった。
が、その主題の問題となると、私は相変らず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたら、キリスト教会の信仰が根底から覆えされることになるという危惧は拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは日を見るよりも明らかである。
用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを、数多く捨て去らねばならなくなる。とくに、その中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。
各種の神学上の著作 – ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタンとくに近代ドイツ神学 – に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備はできていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。
また、神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大して価値はないことも認識していた。要するに私は、この種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備はできているつもりでいたのである。
ところが、インペレーターの言葉はまったく問題が別だった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に関わることばかりだった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的な解釈を施すということは、私の信じているいかなる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。
じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない、知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならないと考えた。
とにかく、たとえ内容的にどんなに美しかろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると、次のような通信が届けられた – ]
良いことを述べてくれました。こうした重大な問題については、深く考えるための十二分な時間を掛ける必要があります。われわれは、いずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説を、そなたの熟考にまかせるつもりです。
疑問があれば何なりと尋ねるがよい。われわれも喜んで答えよう。が、これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信はあえて押しつけないことにします。すべからく忍耐と真摯な祈りが肝要です。
寒々として霊性を寄せつけない地上生活にあっては、人間の魂と、その欲求を叶えてあげようとして待機している背後霊との間の磁気的霊交が、真摯な祈りによってどれほど強く促進されるものであるか、そなたはご存知ない。
使うほどにその絆は強化され、交わるほどにその親密度を増すものです。祈りというものがどれほど豊かな霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることでしょう。
博学な神学者たちは、祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けております。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ちうける背後霊の存在を知りません。無理からぬことではあります。現時点における科学では立証できない性質のものだからです。
そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとします。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのです。
が、それでもなお、彼らは迷路をさ迷い続けております。何となれば、そうした努力によって摑みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らないからです。祈りの結果は、そのようなことで計れるものではありません。
人間の科学では捉えられない性質のものなのです。あくまでも霊的なものであり、個々の祈りによって結果もまたさまざまな形式をとります。背後霊が異なるように、祈りの結果の表れ方も異なるのです。
無言の願いが叶えられないままであることが、実は魂にとって最高の恵みであることが往々にしてあるものです。虚空に向けて発せられた悩める魂の叫び – 悲しみから絞り出される叫び – それが、それ自体が魂の救済となることがあります。
当人にはなぜかがわかりません。が、待機している背後霊が、その重荷に苦しんでいる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂がふと覚える何とも不思議な安らぎと、神へ確信がいずこから来るかが理解できるでしょう。
それをもって祈りが叶えられたというのです。魂の奥底からの叫びが背後霊団とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶(もだ)える心が慰められるのです。
緊密な関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実な叫びがもたらす恩恵のひとつなのです。真の霊交はそれ以外の条件下では実現しません。
天使が住まわれる“神秘の間”に入る者は、よほどの霊性を開いた者にかぎられます。同時に、われわれの側から最も近づきやすい魂は、日ごろから霊的交わりを重ねている者です。
友よ、これ以外にはないのです。それが、人間の世界とのつながりを支配する不変の法則のひとつなのです。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのです。
願いごとへの回答は、かならずしも人間が無知ゆえに勝手に期待しているとおりになるとはかぎりません。往々にして、その願いごとを叶えてやることが、当人に悲しむべき害を及ぼすことにもなりかねないのです。
当人は真相を知らないまま、せっかちに愚かな願いごとをします。当然その祈りは無視されます。が、切実に祈るその心の姿勢が、待機している背後霊との連絡路を開き、その必要性にかんがみて、力と慰めを授けてくれます。
人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思います。もっとも、その祈りは、為すべき義務を怠り、貴重な試練の生活を病的ともいうべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰な瞑想、あるいは無理じい的かつ非現実的哀願のみに費す、礼拝一途(いちず)の生活のことではありません。
それは真の礼拝とはいえません。真実の祈りの生活はそれとはまったく別のものです。真実の祈りとは、守護せんとして待機している背後霊への魂の奥底からの叫びの直情的発露でなくてはなりません。
気まぐれな要求に応えて、変えられるはずもない法則をよろこんで変えてくれるかに期待する神への他愛ない幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっております。そのようなことは断じて信じてはなりません!
祈り – 魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして、はるか上界との連絡の労を取らんとして待機している背後霊を通じての、神への直情的叫び – これは形式の問題ではありません。言葉で述べる必要もありません。音節の区切り方をやかましくいう必要もありません。ましてや、宗教的慣習や紋切り型の用語等によって拘束する必要など、さらさらないのです。
真の祈りとは魂と魂との直接の交わりであり、日頃から交信している見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念のような速さでもって送り返される、その一連の営みをいうのです。
言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒やすことのできる霊の手にゆだねることです。それには言葉も身構えも形式も無用です。むしろそうしたものへの“こだわり”が消えて自然に発せられた時こそ、もっとも真実味を帯びるものです。
必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみです。そのためには、日頃の訓練が望まれます。さもないと、日頃の使用を怠っている手足のように、その衝動に反応を示さなくなるのです。
それゆえ、日頃から霊性に目覚めた生活を営む者ほど、霊的世界の深奥に入ることができるわけです。その種の者にはわれわれの方からも近づきやすいのです。
外界の喧騒に影響されることなく、その者のみが有するところの、われわれにのみ反応する奥深い琴線に触れることができるのです。そういう人は、身は地上にありながら、きわめて高い霊性を発揮します。何となれば、日頃から霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからです。
彼らには、物的生活に埋もれている者には閉ざされている霊的真理の秘密の扉が開かれていることになります。そして、不断の祈りによって、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができるのです。
ああ、これほど素晴らしい摂理を地上の人間が知らずにいるとは、何と悲しいことでしょうか!この真相がより正しく理解されれば、人間は聖純にして気高い霊の雰囲気の中で暮らせるものを!
霊性の自覚によって、のぞき趣味的好奇心に駆られ、おのれの分際もかえりみずに心霊の世界に深入りする者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯な探究者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることもできるのです。(1)
たとえ完全には免れなくても、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間になしうる他のいかなる手段にもまして、われわれの力となってくれます。それはわれわれの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする、もっとも有効な力となるのです。
ゆえに、ひたすらに、祈られるがよい。ただし、心のこもらない紋切り型の嘆願とならぬよう心されたい。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めるのです。ひたすら魂に関わる問題にのみ心を向けるのです。他のことは収まるべくして収まります。神学上の難解にして煩わしい問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に関わる核心的真理に集中されよ。
単純素朴な霊的真理が、人間の無益な混沌によって幾重にも取り巻かれております。その収拾にそなたが関わる必要はありません。また、その中のいずれがそなたにとって不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今はそなたが関わる必要はありません。
今のそなたに絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用されるべき一面的教説にすぎなかったことを悟る日も来ることでしょう。
結論を焦るのは人間の弱点です。むしろ歩を緩(ゆる)めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階でじっくり時間を掛けねばなりません。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならないことは幾らでもあります。
このことについてはなお言うべきことがありますが、さし当たって必要なことは述べたつもりです。願わくば神がわれわれとそなたとを守り給い、われわれが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。
†インペレーター
[右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いをめぐらした。そして、やがて聞いてみたいことが浮かんだので、それを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。
そして、代ってその手が激しい勢いで別のことを書きはじめ、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間、ただの1度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は、書き終えるまで半入神状態になっていた。]
待たれよ!焦るでない!待つのです!今は議論の時ではない!真理をくり返し吟味するのです。そなたはせっかちに過ぎます。しかも、下らぬことばかり思いめぐらしている。
われわれの述べることが他の信仰と相容(あいい)れないからとて、それが一体そなたに何の意味があるというのであろうか。何ゆえに尻込みするのであろうか。信仰は大なり小なり他の信仰と相容れなくなるものではなかろうか。
否、信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではなかろうか。(2)それすら理解できぬようでは、先へ進む資格はない!
かつての古い教義や信仰 – 当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに、人間は慰めを求めてきた。自分に都合のよい言説を拾い求めてきた。あるはずもないものを、わざわざ求めに赴いたのです。なぜ無いのか。
魂がそうした古い言説 – 時代には生命を失ってしまった言説 – を超えて生長したからこそです。
それはもはやそなたにとって益にはなりません。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動しなくなっている。語りかける言葉を持ち合わせないのです。心を癒やす力を失っているのです。ある者にとっては生々しい声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかな“こだま”に過ぎません。
しかるに、何ゆえにそなたはそのようなものに心を煩わせるのであろうか。何ゆえにそなたは、すでにそなたにとって何の意味を持たないものから意義を見出そうと、無益な努力を続け、さ迷うのであろうか。
なぜ霊の世界から語りかけるわれわれの生々しい、燃えるような、真実味あふれる声に耳を傾けようとしないのであろうか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化しているものの代りに、真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれわれの声に、何ゆえに耳を傾けようとしないのであろうか。
一時の気まぐれとはいえ、何ゆえに生命なき過去の遺物を有り難がり、生々発展している“今”という時から絶縁し、霊との交わりとも絶縁し、神および人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁まで切らんとするのであろうか。
これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上次元へ引きずり下ろすことを愉(たの)しみとする邪霊の影響にほかなりません。われわれの啓示が古い啓示と相容れないからといって、一体それがそなたにとって何の関わりがあるというのであろうか。
われわれの啓示は生々しい響きをもってそなたの魂に訴えている – それはそなたにもわかるであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有り難い力に浴している。古い啓示はもはやそなたにとっては死物も同然です。
その生命なき形骸のまわりを、何ゆえにそなたはうろつきまわるのであろうか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在であったとしても、今や朽ち衰えんとしている死骸に、何ゆえにすがりつこうとするのであろうか。
バイブルにも、イエスの墓のまわりに集まった悲しみの者たちの霊耳に、霊がこう語りかけたことが記されています“何ゆえにあなたたちは死者の中に生者を求めるのか。彼はすでにここにはいない。蘇ったのです(3)”と。
そこでわれわれもそなたに言う – 何ゆえに死せる過去、埋葬された真理の墓をうろつきまわり、もはや存在しないものを無益に求めるのか、と。それはもはや、そこには存在しないのです。蘇ったのです。かつて、変転きわまりない時代に神の真理を包蔵したドグマのもとを去ったのです。
残っているのは空(うつ)ろな宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在しないのです。生命は蘇ったのです。そして、見よ!われわれはそなたにその蘇った崇高な真理、より気高い教義、より聖なる神を説いているではありませんか。
かの古き時代に神の命(めい)を担(にな)って地上へ下りた使者とその世代に語りかけたのと同じ声が、今そなたとそなたの世代に語りかけているのです。いつの時代も同じなのです。
神は今も昔もまったく同じように人間を扱われます。すなわち、より多くの光、より高き真理へ導こうとされているのです。その神の声にしたがうか否かは、人間の意志に任されます。
神を求める崇高な志をもつ者にとっても、古いもの、それまで親しんできたもの、歴史あるものには棄てがたい魅力があり、それがひとつの関所となります。その最初の迷いの中で、彼らは古いもの、大切にしてきたものを全て葬り、新しいもの、未知なるものを受け入れねばならないことを悟ります。
それはひとつの死を意味するかに思えます。しかも、人間は死を恐れます。確かに、それはまさに死です。しかし、生へ向けての死なのです。暗い墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路なのです。
肉体の死によって霊がその束縛から放たれて自由になるように、古い信仰の束縛から解放された魂は、自由の世界へと飛躍します。それはまさしくイエスの言える、唯ひとり間を自由にする“真理による自由(4)”です。今は理解できないかも知れませんが、そなたもいずれ悟る日も来ることでしょう。
これが、われわれの切なる声です。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束してくれているというのに、そなたは何ゆえに死せる過去へ目を向けるのであろうか。われわれの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の関係(かかわり)があるというのであろうか。
古い教えはすでにそなたにとって生命はなく、その失われた生命をふたたび吹き込むことはできません。それは、今なおその教えに意義を見出す者にあずけておけばよい。
そしてそなたは、より高き真理へ向けて、神が植えつけ給うた真理探究心の衝動にしたがって、迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去は、たとえ新しい現代を通って未来へ進むその通路ではあったとしても、もう、ここできっぱりと訣別することです。
もっとも、今のそなたにとっては、そうとも言えぬように見うけられる。そなたにとってはその過去が今だに魅力があり、われわれの説く新しい教説は、古い信仰を根底から破壊するとの説に加担しておられる。イエスがそう述べているとでも言いたいのであろうか。
イエスはモーセの教えの全廃を説いたであろうか。前にも述べたように、イエスの教えがモーセの教えに比して取り立てて驚異的なものではなかったように、われわれの教説は、イエスの教えに比して取り立てて驚くほどのものではありません。
われわれが理解を求めているのは、古い教説との矛盾ではなく、その完成です。より完全に近づけることです。より広き知識への発展です。
イエスがその新しい信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものが見出せるでしょう。
くり返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(5)の無関心主義に比して、イエスの教えが取り立てて驚くべきものではなかったように、れの説く教説は決して、今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではありません。
当時は当時なりに新しい啓示を必要とし、今日は今日なりの新しい啓示を必要としているのです。ただ、古いものを愛し、慣れ親しんだ道に波風が立つことを望まない者にとってはわれわれの言説が忌々しいものであるように、当時の宗教家にとっては、イエスの教えが怪(け)しからぬものであったまでのことです。
今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もない、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果ててしまいました。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望みました。今日とまさに同じです。
古い信仰は死物と化し、人間は新しい生きた神の声を欲したのです。それがイエスによってもたらされました。想像もしなかった人物 – およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、傲慢なサドカイ派に容れられる見込みのない人物から、神の声がもたらされたのです。
そして、それが全世界に広がり、1800年間にもわたってキリスト教界の宗教的生活を動かしてきたのです。しかるにその教義は、今や堕落し果てています。
ただ、イエスが身をもって示した犠牲的精神は今なお生きつづけております。今こそ要請されるのは、その精神に新たなる息吹きを吹き込むことです。そうすれば、金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた分だけ一層、真理の輝きを増すことでしょう。
われわれの説く神の真理は、あの時代 – 地位と身分のある教養人すなわちパリサイ派の支配階層の中にひとりでもお前の言うことを信じる者がいるか、と冷笑的に言われた時代 – そういう時代にイエスが説いたのと同じく、そなたたちにとっていささかも奇異なるものではないはずです。
どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているにすぎません。ニコデモ(6)の気持を察するがよい。そして、それをそなたらの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。
ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の概念をより鮮明に啓示した同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しい生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることができることを信じるがよい。
全知全能の神の導きと祝福のあらんことを。
†インペレーター
(1)ここでは祈りの功罪の“功(プラス)”の面が強調されているが、祈り方次第で“罪(マイナス)”となりかねない要素もあるので、それを指摘しておきたい。
これは“時間”が長すぎることから生じる人間特有の危険性で、グループで行なう場合はそれほどでもないが、ひとりで行なう場合はせいぜい20分から30分もすると心身ともに緊張度が衰えはじめる – 言いかえれば波動が乱れてくるために、そこに邪霊がつけ入るスキができる。
その単純な反応が手先のシビレ、全身の震動などで、霊能養成会などですぐにそうした動きをみせる人がいて、本人は得意になるが、実際は低級霊のしわざか、存外、本人の潜在意識による暗示の反応にすぎないことが多い。要するに自己顕示欲の強い人である。
同じ原理に基づくものとして、座禅とか瞑想とかがあるが、こうした行を頭から“立派なこと”と思い込んで1時間でも2時間でも、場合によっては1日中座っている人がいるが、それがやむにやまれぬ事情のもとでの、真剣な動機に発するものであればよいが、心のどこかにカッコ良さを求める安直さがあると、邪霊・悪霊の影響を免れるどころか、逆にその“えじき”となる危険性があることを指摘しておきたい。
憑依されて体調を崩したり、精神病的な症状を見せるようになった人が少なくないのである。
私の師の間部詮敦氏は、ひとりで精神統一をする時は15分程度を目安にして、気持が良ければもう少し延ばしてもよいが、落着かない時はすぐに止めるように、と忠告されていた。
シルバーバーチ霊は、祈る気がしない時は無理して祈らない方がよいとまで言っている。理由は同じである。ご承知の通りシルバーバーチは“日常の行ない”をいちばん重要視している。
インペレーターも同じである。その一方で両者とも祈りないしは瞑想の時をもつことの必要性を説くのは、人間があまりにも、ただ生きるための生活、つまりはカネ儲けのためだけに終始し、しかも、そのことから生じる“どうでもよいこと”にあくせくしているからである。
それで、1日のうち1度でよいから、そうした俗世のことを忘れて、本来の霊的存在としての自分に立ち帰りなさい、と言っているのである。
(2)シルバーバーチが“真理とは自己矛盾を含むもの”と表現しているのと相通じるもので、要するに“甲の薬は乙の毒”の例えの通り、同じものを万人に押しつけることはできないことを言っている。
われわれはお互いに異なる進化の段階を歩んでおり、それぞれに異なる環境のもとで生活しながら、その条件下で霊性の向上を目指す – それが宗教なのであるから、組織を作り、同じ規範のもとに生活する、いわゆる宗教団体というのは、霊性の進化にとって害にこそなれ益にはならないことになる。
考えてみると、われわれの生活にはまず家庭があり、市があり、県があり、国家がある。これは社会秩序を保つための不可欠の組織である。このほか、学校にしろ役所にしろ会社にしろ、すべて一種の組織であり、それなりの束縛がある。せめて魂の世界だけは自由闊達でありたいものである。
(3)ルカ 24・5
(4)ヨハネ 8・32
(5)the Saducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在は認めなかった。
(6)ユダヤ議会のメンバーでありながらイエスをひそかに信奉し、処刑後、没薬(もつやく)と香油を持ってきイエスの亡骸が野犬や禿げ鷹の餌食になるのを防ぐ処理を施したという。(G・M・エリオット著・山本貞彰訳「聖書(バイブル)の実像」)
第14節 イエスの立場とモーゼスの立場
[前節の通信は、私に少なからず影響を及ぼした。即座の反論ができず、次の交信まで何日かの間が必要だった。いよいよその交信をする気持になった時、私がまずこう反論した – ]
キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってイエスの言説に耳を傾けている図は、私にも容易に想像できます。今の時点から言えば、そのサドカイ派の学者たちは間違っていたことになります。それはわかります。しかし、思うに、それは実に無理からぬことだったのです。
理性の光だけで判断すれば、イエスの言説はとてつもないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者連中が、虚言か妄想としか思えないものを拒否したのは無理もなかったでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度は無かったとしか思えません。
ただ彼らの場合は、そのとてつもないことを言う人物が目の前にいたということ – 姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が本人の実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べがついたということです。
その点、私の場合は、影も形もないただの影響力であり、もしかしたら自分の中だけの心と心との葛藤にすぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴(つか)みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それもきわめて曖昧で、しかも、往々にして軽蔑したくなるものばかりです。
啓示だと言われても、愚かというのが言い過ぎなら、得体(えたい)が知れないとでも言わざるを得ないもので、その名のもとで行なわれているものを見たら、ショックを受けることもしばしばです。
私はどうしてよいのかわかりません。あなたという存在についても、私は何も知らないばかりか、果たして1個の独立した存在なのかどうかもわかりません。あなたに関して得心のいく手掛かりは何ひとつありません。たとえ、かつて地上で生活をしたことがあると聞かされても、私には大した意味はありません。
一体あなたは個性をそなえた存在なのですか、それとも単なる影響力にすぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば、幾分かは救われる気がします。しかし、とにもかくにも、できることなら私のことはもう一切構わないでいただきたいという心境です。
[正直いって、その頃の私は、自分の強固な信仰と強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克(そうこく)によって頭が混乱をきわめていた。そしてそれが来るべき段階へのひとつの準備としての体験であることは明らかであった。]
友よ、そなたが疑問に思うことはよく理解できます。われわれとしても、その疑念を解く手助けをしてあげたく思います。
まずそなたは、例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけに有利であると言う。なるほど、イエスは目に見える存在でした。が、そのことは有利であるどころか、むしろ困難を増すものだったのではなかろうか。
何となれば、目の前にいるイエスという若者はナザレの大工の息子です。それを神の新たな啓示者と結びつけるのは、そなたがわれわれを神の使者と結びつけること以上に困難だったのではなかろうか。
サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれわれのことを”果たしてこれが個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻な問題ではなかったろうか。
イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れることのできる明白なもので、しかも、およそ好条件とはいえないものばかりが揃っていました。
生まれは(当時のユダヤ社会通念として)卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところがすべての民衆から背を向けられる – こうしたことはすべて現実であり、どうしようもない不利な条件でした。
あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどでした。ゆえに、たとえサドカイ派の学者にイエスの言説が理解できず、イエスを神の使者として認めなかったとしても、その学者連中には何の咎もありません。それは単に彼らがより成長した後に再び訪れるであろう進歩の好機を逸したというに過ぎないと言えるでしょう。
そなたの場合はそれとは事情が違います。そなたには目を惑わす困難は何ひとつない。知的疑念と闘っていればよい。しかも、これまでそなたに語られた言葉が、神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるはずです。
そなたも必要性を痛感するものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさにあふれ、しかもそれを受け入れる用意のある者には、強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた以外の源から発していることは十分に得心しているはずです。
何となれば、もしもそなた自身の内部から無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向から衝突することが有り得ないことは、当然そなたも認めるはずだからです。
もしもわれわれの述べるところの言説がそなたの精神から自然に発するものであれば、そなたもその公表を控える余裕をもつこともできるでしょう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説は、そなたみずから納得できないでしょう。
そうでないことは、そなたもすでに得心しています。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではありません。
やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、なぜわれわれのことを、そなたと同じく“人間”と呼ぶ個体をそなえた知的存在であることを疑ったのであろうかと、不思議に思える日も到来するでしょう。
さよう、今そなたに必要なのは“時間(とき)”です。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間です。
こうまでそなたの心を深く動かしている言葉 – その深さはそなたみずからの想像すら超えているが – それはそなたの思いに通じ、そなたの苦しい立場を理解し、さらには、それに劣らず、今そなたを悩ましている懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉です。
地上時代、わたしはイエスの出現に先立つ苦難、今ふたたびくり返されつつある苦難の世相の中で使命を担わされた者のひとりでした。歴史は巡り来るものです。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わりません。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになります。
が、昼のあとに必ず夜が訪れるように、神の概念が薄れ、真実味のないものとなる時代が訪れます。すると、より明確な知識を求める内部の神の火の粉が、ふたたび炎となって燃えあがり、天に向かって神のメッセージを求めます。そこに新しい啓示の必要性が生じます。人間の魂がそれを希求するのです。
古いものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中から新しいものが芽生えます。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉にほかなりません。
いつの時代にもそうでした。そのことはそなたも知っていたはずです。こうした神と人間との関係は全歴史を通じてたどることができます。それが何ゆえに今の時代にそうであってはならないのであろうか。人類が最もそれを必要としているこの時代に、何ゆえに神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのであろうか。
このわたしについて何も知らぬから、とそなたは言う。しかし、何ゆえにそなたは啓示そのものと啓示を届ける者とを混同するのであろうか。何ゆえに神の教えと、その教えを伝える通路にすぎない者とに同一価値を置かねば気が済まないのであろうか。
[こうした議論の末に、ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰にひとつの確信を得ることができた。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。
それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓と、それを伝える者(インペレーター)とを区別して考えることもできるようになった。
私はそうした一連の論議 – その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが – を、再度、初めから目を通し、そこに、まさしく新しい啓示といえるものをやっと見出すことができた。
通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没(まいぼつ)してしまった。私はその時に至ってはじめて、燃える炎のごとき強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持が、その確信の炎にかき消されてしまった。
が、そう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は、容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに、私の若き日の宗教的修行もそれを許さなかった。私の脳裏にふたたび神学的見地からの反論が甦った。その最初の波が去り、2日間の間を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。
その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを、くり返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去1年間にわたる交霊の体験の価値評価もしてみた。そして次の3つの明確な結論に到達した。すなわち –
(1)私に働きかけている“影響力”は私自身とは別個の存在である。
(2)その述べるところは真実であり首尾一貫している。
(3)その宗教的教説は純粋であり崇高さがある。
以上の3点は間違いないように思えた。そこでさらに私は、その身元の確認と主義・主張の問題を探ってみた。その他の問題は後回しにしてもよいように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今もなお誠実であるはずだと強く信じ込む気持になった。
が、そこで、ふと、猜疑心が頭をもたげた。これは、もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆(くつがえ)さんと企んでいるのでは?という猜疑心である。そこで私はこう綴った – ]
私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させていただけば、あなたの教説は、取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは – これは言い過ぎでしょうが無神論にもなりうる性向をもっていると言えないでしょうか。それは、神をただのエネルギーの一種と見下げることになり、人の心に、絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。
つまり神とは宇宙に瀰漫(びまん)する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示といっても、それは神から真理が明かされたのではなく、内部から、つまり人間の心の中で想像したものにすぎないことになります。
キリスト教もそうして生まれた信仰のひとつにすぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は、程度の差こそあれ、盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。
神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、ひとりひとりが自分だけの特殊な神をもつことになります。絶対的な真理は数学以外には存在しないことになります。
結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位にすぎないことになる – それも知性が硬直化しなければ、の話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性がある、という皮肉な理屈になります。
こうした味気ない思想は、絶対的な神性を有するキリスト教の福音に取って代ろうとするものです。キリスト教の教説にはいささかの誤りもなく、その道徳性はほとんど誰にでも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。
それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることができなかったのです。なのに、あなたが説くような“善の影”ていどしかない思想、まさに影のみの存在で、漫然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代る未来への建設力をもたない教説に、どうしてそれが可能でしょうか。
その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教ですら手を焼いた反抗的民衆の心を捉えることなど、とても出来るものではないと信じます。
あなたの教説の拠って来るところが不明瞭であることについては、すでに述べたので繰り返しません。また、それが一般に普及した場合の危険性についても、改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先の話であり、ここで詳しく論じる必要性を認めません。
同時に、あなたの教説が広まると、道徳的・社会的・宗教的に人類にとって欠かすことのできない健全な結びつきを、多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。
万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄な軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。
こうした危惧はまったく私の杞憂にすぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代りになるものとは思えません。
たとえあなたの主張する通りの真正なものであるとしても、人間はエンゼルケーキ(スポンジケーキ)だけでは生きて行けないように、このような教説にしたがって生きることに耐え切れないでしょう。
その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣な面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。]
神の御名において、われわれはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれわれの手に余るものがある。われわれの述べたところの真意を正しく理解してないようである。襲いくる感情の激動が精神を混乱させ、微妙な点の理解を不可能にしている。
それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことです。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行です。今は理解できないことも、そのうちわかるようになります。
衝動と情熱が、経験的知識と静かな確信へと変っていくでしょう。これまでの、理解して受け入れるというよりは、ただ単に同意したにすぎなかった信仰は、いかに崇高で有り難そうに思えても、入念な吟味と論理的分析から生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われわれの述べたところは、その吟味と分析に値するものばかりです。
これまで綴られたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもっていただきたい。そして、そなたとの交信に、一貫して流れるものを読み取ってもらいたい。われわれがいかなる素性の者であるかは、ぜひとも、そなたとの関わり合いの中で判断してもらいたい。
前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時に、われわれの言葉と態度、われわれの説く教えの道徳的印象によって判断してもらいたい。細かい分析によって論理上のアラ探しをするのもよいが、それと同時に、われわれから受ける霊的雰囲気によって判断してもらいたく思うのです。
さし当たっては、われわれが神の使者であることを、厳粛な気持でくり返し主張するに留めておきます。われわれが述べる言葉は神の言葉なのです。それはそなたにもわかっているはずです。その弁明に改めて言葉を費やすこともありますまい。
そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではありません。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもありません。悪魔なら、神についてわれわれのような説き方はしません。また、人間の脳からは、われわれの述べたような教説は出てこないし、われわれの与えたような証言も出てきません。精神が今少し穏やかになれば、そなたにもその事実が読み取れるようになります。
そなたの精神が今のような状態でさえなければ、神聖なものに悪魔的な要素を見出そうとしてしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところです。それはちょうど、イエスが地上の腐敗と災禍の中にあった時、彼によって追い払われた悪魔(低級な邪霊)がユダヤ教の狂信家たちの口をついて、イエスは魔王の手先であると非難したのと同一です。
われわれはそのような他愛ない非難には関わりません。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからです。じっくりと時間を掛けて熟考すれば、おのずとそなたの疑念に対する回答が出てきます。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切です。
友よ、祈るのです。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのです。
祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが、激情から発したものでもよい。とにかく、われわれとともに、啓発と耐える力を求めて祈ろう。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るのです。
光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのです。そして解き放たれた後も堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈るがよい。
そなたの求めるところが、低劣なものを求める者たちによって邪魔されることのないように祈るがよい。そなたにとって正しいものを選び出し、他人は他人なりに適切なものを選ぶに任せる、大らかな心を求めて祈られよ。
選択するにせよ拒絶するにせよ、その責任を明確に認識し、一方において頑固な偏見を避け、他方において安易な軽信に流れることのないよう祈られよ。なかんずく正直さと誠実さと謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷さと下劣さによって神の計画を損なうことのないよう祈るがよい。
かくしてわれわれの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手をさし延べんとして待機する、高級界の神の使者たちの愛と慰めを引き寄せることになるのです。スピリチュアリズムが一般社会にもたらす影響についてのそなたの批判に関しては、すでにその大半に答えてあるはずです。
表面的活動の底流には、そなたの目に映じない大切なものが存在することを指摘してあります。いつの時代であれ、神の知識の発達過程には、人目につかぬところで密かに新しい啓示をむさぼり求め、さらに高い真理を求めて着実に成長しつつある者が、必ずいるものです。
今の時代とて同じであることを述べているのです。そなたと同じく、酔狂に心霊現象をもてあそぶ者たちの存在を憂えつつも、それによっていささかも信念を揺るがされることなく、真摯にわれわれ霊の教えを心の支えとしている者がいる – 実に大勢いるのです。その信念には“事実”という基盤があるからです。(3)
さらにそなたに指摘しておきたいことは、われわれ霊界の者と地上との交霊は、地上の科学ではまだ捉えきれない法則によって支配されていることです。しかも、われわれの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われわれにすらよく分からないものが多々あるのです。
そなたの保護のために勝手に規則を定めるわけにはいかないのです。われわれ自身の保護すらままならないのです。そなたが関わっているこの仕事の遠大な重要性については、この仕事に興味を示す者にすら、本当のところはほとんど理解されておりません。多くの場合、ただの好奇心の程度を出ておりません。それよりさらに下劣な動機に動かされている者もいます。
霊媒の管理が適切さを欠いています。そのため、霊界との連絡がうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労ぎみの者もいます。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なります。
われわれもその条件の変化には必ずしも対処できるとはかぎりません。出席者の構成が適切さを欠いていることもあります。そうした諸条件の重なり合いが、交霊現象をつねに同質のものに保ち規則正しいものにすることを不可能にしているのです。
現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また、目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにしてしまう原因もそこにあります。
この問題についてはまだまだ言うべきことがあるのですが、今はそれ以上に大切なものが迫っております。これまで述べたところによって、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、多くの交霊会での下らぬ現象を寛恕の目をもって評価しなければならない理由の一端がわかってもらえると思います。
偽称霊の侵入する交霊会に至っては、今は述べる言葉を持ち合わせません。よほど低級な霊の仕業であり、すべて信じるに足らず、不愉快きわまります。
その点に関してそなたはわれわれの手助けができるはずです。愚かな好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいは、そなたに出来るはずです。と言うのは、そなたはわれわれのサークルにおいてわれわれの指図どおりに行ない、現象が次第に発展してきた経緯(いきさつ)を知悉(ちしつ)しているからです。
他の交霊会の者たちにも同じ指図を与えてほしいのです。やがて暗雲も晴れることでしょう。ともあれ、交霊会にまつわる問題の原因は、われわれの側と同様にそなたらの側にもあることだけは確かです。
†インペレーター
(1)Deism 理性と自然のみを拠りどころとする有神論で、宇宙は神によって創造されたが、創造後は法則のみで機能し、霊的啓示などはないとする説。18世紀のヨーロッパで流行した。
(2)Pantheism 森羅万象が神性の具現したものとする思想。スピリチュアリズムも汎神論と言えなくもないが、物質界は神性のごく一部の顕現にすぎず、内的世界でも無限の次元で神性が顕現し、今後も永久に顕現し続けるとするところが、従来の汎神論と異なる。
(3)スピリチュアリズムの基盤が心霊科学という実証性をもつ学問にあることを指摘している。人間が永遠不滅の霊性を有し、現在の個性をそのまま携えて死後もさまざまな次元で生活する – 地上生活はその出発点である、というのがスピリチュアリズムの基本思想であるが、もしもそれだけのものだったら世界中の太古の霊的思想もみなそうだったのではないかということになる。
が、1848年の米国ハイズビル村におけるスリラーもどきの心霊現象、俗にいうハイズビル事件をきっかけとして欧米の第1級の化学者・物理学者・天文学者・文学者・判事その他、あらゆる分野の専門家が大挙して、いわゆる“霊媒現象”の真偽性を追求し、調査・検討するという動きが起こり、それに真剣に取り組んだ人はひとりの例外もなくその真実性を確信するに至っている。
インペレーターのいう“酔狂に心霊現象を弄ぶ者”というのは、単なる好奇心から面白半分に交霊会を開く者たちのことで、その種の交霊会に呼ばれる霊媒は金儲けが目当てであるから、その背後で働く霊は低級霊であり、中には邪悪な考えをもつ者もいる。
ために、後でとかくの悪評(うわさ)が立つ。モーゼスがスピリチュアリズムを毛嫌いしたのは、その種の交霊会が念頭にあったからである。
現在のスピリチュアリズムの潮流は、世界的にみても現象的なものから霊言や心霊治療・因縁除去といった精神的なものへ移行しつつあるが、そうなったらそうなったで、その分野でもモノマネ専門や法外な金銭を要求する悪徳霊能者がのさばりつつあるので、警戒が肝要である。
第15節 スピリチュアリズムの宗教的教訓
[こうした議論がこの後もひじょうな迫力と強力な影響力のもとに、ほとんど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたその影響力がいかに強烈にして崇高なものであったか、それを正しく伝えることは、拙い私の筆ではとてもできない。]
そなたはわれわれの教説が理神論であるか、純粋な有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで思いめぐらしているが、普段は正確な思考と知識とに事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本をみる思いがします。
すべての人間の心に通じる神、いかに堕落した人間の魂でさえ感応しうる神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しいかぎりの不毛な思想について、われわれはもはや言うべき言葉を知りません。
人間というものがみずからの目を被い隠すことすらするものであることを万一知らずにいれば、われわれは人間が一体なぜこうまで愚かなことを考えるのか、理解に苦しむところでしょう。
申すまでもなく、われわれはすべての存在を支配する絶対神の存在を説きます。それは、人間が勝手に想像しているような気まぐれな顕現の仕方はしません。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在 – もっと厳密に言うならば、神の概念とその働きについての、より真実に近い見解を植えつけるべく働きかけてきた存在です。
イエスと同じくわれわれは、宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純の神を説きます。人間が想像するような人格神ではありません。真の意味における父なる存在です。エネルギーの化身でも具現でもありません。真に生ける実在です。
ただし、その本質と属性は、その働きと、人間が心に描く概念としてしか捉えることはできません。そなたの抱いている概念の中から全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつ又、さし当たって問題とするに足らない神学的教説を一応残しつつ、われわれは神について以上のごとく説いてきたのです。
われわれの教説を読んで、そこに絶対的真理が見当たらないと言うのであれば、われわれはむしろ、われわれの教説がそこまで理解してもらえるに至ったことを有り難く思うくらいです。絶対的完全性が有りえないように、今の未完成の状態においては、絶対的真理などというものは望むべくもありません。
最高級の霊にしてもなお目を眩まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届けられるようになることを期待してはなりません。限りあるその精神で、無限なるもの、不可知なるもの – 地上よりはるかに懸け離れたわれわれにとってもなお遠くより拝(おろが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が今すぐ理解できると思うのは、とんでもないことです。
万一できると思うようであれば、それこそそなたの置かれている発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかありません。
そなたにとっては真理はまだまだ断片的であり、決して全体像を捉えうるものではなく、また細目まで行きわたることは叶わず、あくまでもベールを通して大まかな輪郭を垣間見る程度にすぎません。われわれとしても決して真理のすべてをそなたに啓示してあげようなどとは思いも寄りません。
われわれみずからがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われた多くのものを少しでも深く理解したいと願っているところなのです。われわれに為しうることは、せいぜい、その神の概念 – これまでキリスト教において絶対的啓示として罷(まか)り通ってきた概念よりは、幾分か真実に近いものを仄(ほのめか)す程度にすぎません。
これまでのところわれわれは、そなたも筋の通った崇高なものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功したと見ております。今のところそれ以上のものを求めてはおりません。
神についても、そなたにとって崇拝と敬意の対象となりうる神を啓示しました。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露しました。道徳的規範として、そなたが聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理じいせず自然に理解できる、しかも説得力のある見解を確立しました。
われわれの教説を根拠のない宗教と決めつけるに至っては、奇々怪々な誤解というほかはありません。地上生活というこのタネ蒔きの時期のひとつひとつの行為が、それ相当の実りをもたらすとの教え – 悪と知りつつ犯した故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならないという教え – 過ちを犯した魂が、それがいかに遠い昔のことであろうと、その自分の過ちゆえに生じた縺(もつ)れを、必ず“みずからの手で”解(ほど)かねばならないという教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説というのであろうか!
ど
われわれは、人間の言動は池に投げ入れた小石のごとく、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には“最後まで自分が”責任を負わねばならないこと、ゆえに、ひとつの言葉、ひとつの行為には、その結果と影響とに計り知れない重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのですが、これが果たして下らぬ教説でしょうか。
また、その賞罰は、はるか遠い未来の、死にも似た休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によってその行為の直後から始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのですが、これも愚にもつかぬ言説でしょうか。これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならないのであろうか。
そうしたわれわれの教説と、そなたたちの信じている教説、すなわち自分の思うがままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずか)しめた人物が、たった1度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変節によって、一気に、眠けを催すような天国への資格を獲得するとのキリスト教の説、しかもその天国での唯一の楽しみが、魂の本性が忌々しく思うはずのものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よい仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。
堕落した魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られないにお構いなく、いつかは悔い改めねばならない時がくること、そして、他力ではなく自力で償わねばならないこと、それによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえないとの教えの方であろうか。
それとも、何をしでかそうと、天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか1度の叫び声によって魔法のごとく魂が清められ、遠い未来に訪れる審判の日をへて神の御前に召され、そこで、今なら退屈この上なく思うはずの、礼拝三昧(ざんまい)の生活を送るとの教えの方であろうか。
そのいずれが人間の理性と判断力に訴えるか、どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか、それはわれわれとしても、そしてそなたにとっても、明々白々のことです。
なのにそなたは、われわれの説くところが確固たるものを曖昧なものに、明確な賞罰の体系を何の特色もないものに置き替えようとするものであると言う。
否!否!われわれこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしのような天国や、残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはしません。
キリスト教こそ、いつのことやら知れない遠い未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の者でも、その者自身が信仰も有り難味も見出しえない教義に合意することによって、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得るなどと、不合理きわまることを説いている。
あえて言おう。われわれの説く信仰の方がはるかに罪を抑制すべく計算され、人間に受け入れやすく説かれています。人間の死後についても、はるかに合理的な希望を与え、人類史上かつてない現実性に富む包括的信仰を説いています。
くり返しますが、これぞ神の教えです。神の啓示として今そなたに授けているのです。われわれは、これが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待も希望もしません。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢ができていないかぎり、それは叶わぬことです。その時節の到来を、われわれは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。
いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間はかつてのような、ケチ臭い救済を当てにしたがために犯す罪も減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいてその動機の源は、甘い天国と恐ろしい地獄などというケチ臭い体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言します。
子供だましの地獄極楽説は、まともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠のない、非合理で愚劣なものとして、灰燼に帰されることでしょう。
[総体的にみてスピリチュアリズムの影響は好ましくない – 少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して、1873年7月10日に次のような回答が届けられた – ]
その点については、われわれの側にも述べたいことが多々あり、そなたが陥っている誤解を解くべく努力してみたく思います。まず第1に、そなたは人間の宿命ともいうべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映った限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムのすべてであると思い込んでいます。
その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムのすべてであると見なす一部の連中と同類です。
見よ、彼らは結果によってのみ知られる静かな流れが、その見えざる底流を音もなく進行していることに気づきません。そなたの耳に入るのは騒々しい無秩序な連中のみです。さして多くはないが、よく目立つのです。
そなたが、あのような連中に世の中の再生ができるはずはないと言うのも、もっともなのです。そなたの知性はそうした無責任な言説にしりごみし、果たしてこんな程度のものが神のものであり善の味方であろうかと訝(いぶか)るのですが、実はそなたの目にはそうした一部のみが映り、しかもその一部についても明確な理解ができているとは言えません。
そうした連中にも彼らなりに必要な要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解しやすい手段によって神から授けられている – そうした表に出ない静かな支持者たちの存在については、そなたは何も知りません。そなたの視界に入らないのです。
が、入らなくても現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに、彼らもまた霊界からこのスピリチュアリズムの普及のために一役買う日が来るのを待ち望んでいるのです。
このように、そなたは一方に喧騒、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会ゆえに、狭隘(きょうあい)な見解しか持ちえず、およそ見本とはいえない小さな断片をもって全体と思い違いをしています。
これよりわれわれは、そなたが下したスピリチュアリズムの影響についての結論を、細かく取りあげていきたいと思います。そうすることによって、そなたがその究極の問題について断定的な意見を述べる立場にないことを指摘したいと思います。
と申すのも、そもそも“真実”とは何かということです。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず、他のすべての分野においても、不偏平等です。地上には善と悪とが混在しています。平凡な霊で事足りる仕事に偉大な霊を派遣するような愚は、神はなさいません。
未発達の地縛霊の説得に神々しい高級霊を当てたりはなさいません。絶対にしません。自然界の成り行きには、それ相当の原因があります。巨大な原因から無意味な結果が出るようなことはありません。
霊的関係においても同じことです。知能程度が低く、その求めるところが幼稚で、高尚なものを求めようとしない魂の持ち主には、その種の者にいちばん接触しやすい霊が割り当てられます。
彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟な知性に訴えるために物理的手段を講じます。精神的・霊的に無教養で未発達な者には、その程度に応じた、最もわかりやすい言葉によって語りかけます。死後の生活の存在を得心させるためには、目に見える手段でないとだめな者がかなり、いや、大勢いるのです。
この種の人間は、高級な天使の声 – いつの時代にもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高な霊の声 – によって導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち – その欲求と性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に訴え、最も受け入れやすい証拠を提供することのできる霊によって導かれます。
さらに、そなたによくよく心得ておいてほしいことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることです。本来は進歩性に富める魂が、その宿った肉体によって進歩を阻害され、歪んだ精神的教育によって拘束を受けることも有りえます。
同じ啓示がすべての魂の耳に届くとはかぎりません。同じ証拠がすべての魂の目に見えるとはかぎりません。肉体的性向と精神的発達の欠陥によって、地上生活における発達を阻害された霊が、死後、その不利な条件が取り除かれた後に、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくありません。
というのも、本性は魔法の杖によって1度に変えるわけにはいかないものなのです。性癖というものは徐々に改められ、1歩1歩向上していくものなのです。ゆえに、生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積んだ者の目には、当然のことながら、無教養で無修養の者のために用意された手段はあまりに粗野で愚劣に映じるでしょう。
否、その前に、彼らが問題としているもの自体が無意味に思えるでしょう。その声は耳障りでしょう。その熱意は分別に欠けるかも知れません。が、彼らは彼らなりに、その本性が他愛ない唯物主義、あるいはそれ以上に救い難い無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感じる新たな視野に、一種の情熱さえ覚えるようになります。
彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けしませんが、彼らなりに真実の喜びの声なのです。批判的なそなたの耳には不愉快に響くかも知れませんが、父なる神の耳には、親を棄てて家出した息子が放浪の末に戻ってきて発する喜びの声にも劣らず、心地よいものなのです。
その声には真実味がこもっています。その真実の声こそ、われわれの、そして神の期待するところなのです。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われわれの耳には届きません。
このように、霊的に未発達な者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではありません。それでは無駄に終ります。まず霊的事象に目を向けさせる手段を用い、それを霊的に鑑識するように指導します。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのです。
物理的現象についてはそなたもすでに馴染んでいる。そして、そうした物的手段が不要となる日は決して来ないでしょう。いつの時代にも、そうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからです。目的にはそれなりの手段を選ばなくてはなりません。
そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く、視野の狭い者です。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことです。それはあくまでも“手段”にすぎません。霊的発達への足がかりとして用意され、ある者にとっては価値ある不可欠の手段であるということです。
そこで、これより、右の例以上にそなたが腹に据えかねているもの、すなわち粗野にして無教養な低級霊の仕業について述べるとします。そなたにとってそうまで耳障りで不快を覚えさせる霊を、そなたは“悪の声”であると想像しているようであるが、果たしていかがなものであろうか。
悪の問題についてはすでに取りあげましたが、また改めて説くこともあるでしょう。が、ここでわれわれは躊躇なく断言しますが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いて、大抵の場合、そなたが想像するような悪の仕業ではありません。
悲しいかな、悪は多い。そして、善に敵対する者が一掃され、勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはないでしょう。ゆえにわれわれは、決してわれわれとそなたとを取り巻く危険性は否定しないし軽視もしません。が、それは、そなたが想像するような性質のものではありません。
見た目に常軌を逸するもの、垢抜けしないもの、粗野なものが、必ずしも不健全とは言えません。そうした見方は途方もない見当違いというべきです。真に不健全なものは、そう多くは存在しません。むしろ、そなたらの気づかないところに真の悪の要素が潜むものです。
霊的にはまだ未熟とはいえ、真剣に道を求める者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上は、この地上における精神的・身体的・霊的発達にかかっていることを理解しつつあります。それゆえ彼らは身体を大切にします。
酒びたりの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控えます。そしてその熱意のあまり、同じことをすべての者に強要します。彼らは、人それぞれに細かい個人差があることまでは気が回りません。そして、往々にしてその熱意が分別を凌駕(りょうが)してしまうのです。
しかし、洗練された者に反発を覚えさせる、そうした不条理さと誇大な言説を振り回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも、霊的に不健全であろうか。
そうでないことは、そなたにもわかるはずです。前者は少なくとも自分の義務と信念とに目覚めて、必死に生きています。今や、かつての希望も目的もない人間とはすっかり違っています。死者の中から蘇ったのです。
その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのです。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補って余りあるのではなかろうか。
その叫びは確信の声であり、死にもたとえるべき無気力状態からの目覚めた魂の叫びなのです。それは、生半可な信仰しか持たない者が紋切り型のキザな言い回しで厚化粧し、さらには、世間的に体裁の悪いことは、たとえささやき程度のものでも避けて通ろうとするお上品ぶりよりも、われわれにとって、また神にとって、はるかに価値あるものなのです。
何となればそれは、新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われわれの使命にとっても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかないからです。
そなたは、俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。きっぱり申し上げるが、それもまったくの見当違いです。的確さと上品さには欠けていても、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他のものよりも大衆に訴える力があります。
野蛮な投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石の方が、打算から慣習に
迎合し、体裁を繕(つくろ)う教養人の言説よりも、よほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのです。
現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのです。霊界から指導に当たる大軍には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されています。
“物”にしか反応を示さない唯物主義者には、物的法則を超越した目に見えない力の存在の証拠を提供します。固苦しい摂理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦(むつ)み合いの生活への信念を培(つちか)います。
筋の通った論証の過程を経なければ得心できない者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していきます。
さらに、そうした霊的心理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越した、より深い神秘への突入を欲する者には、神の深い真理に通暁した高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせます。
このように、人間にはその発達程度に応じた霊と、それにふさわしい情報とが提供されます。これまでも神は、それぞれの目的に応じて手段を用意してこられたのです。
今一度くり返しておきます。スピリチュアリズムはかつての福音のような散発性のものとは異なります。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教であり、救済の手段でもあります。それを総合したものがスピリチュアリズムなのです。
が、実は、それだけと見なすのも片手落ちです。そなたにとって、そして又、そなたと同じ観点から眺める者にとってはそれだけでよいかも知れません。が、他方には意識程度の低い者、苦しみにあえぐ者、悲しみに打ちひしがれている者、無知な者がいます。
そうした人たちにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもちます。それは、死後における肉身との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安です。実質的には、五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋です。
肉体を棄てた者も、肉体に宿る者と同じく、その発達程度はさまざまです。そこで、地上の未熟な人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれます。ゆえに一口にスピリチュアリズムの事象といっても、程度と質を異にする種々様々なものが演出されることになります。
底辺の沈澱物が表面に浮き上がってくることもあり、それのみを見る者には、奥でひそかに進行しているものが見えないということにもなります。
今こそそなたも得心がいくことでしょうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生した“しるし”を見れば、その種の現象が決してこのたびの活動のみに限られたものとの誤解に陥ることもないでしょう。
それは、人間の魂を揺さぶるすべてのものに共通する、人間本来の性分が要求するのです。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせない要素でした。
人類の歴史において新しい時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに、霊的知識の発達にもそれが付随しているのです。が、それをもって神の働きかけのすべてであると受け取ってはなりません。
政治的暴動がその時代の政治的理念のすべてではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれわれの仕事の見本と考えてはなりません。
何事にも分別を働かさねばなりません。その渦中にある者にとっては、冷静な分別を働かせることは容易なことではないでしょう。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しい事情を振り返った時には、容易に得心がいくことでしょう。
そなたの提示した問題については、いずれ又の機会にさらに多くのことを述べるとしましょう。このたびは、ひとまずこれにて – ご機嫌よう。
†インペレーター
(1)死者はこの世の終末に神が下す“最後の審判”の日まで、休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰をさす。
死の直後は霊的調整のための無意識状態に入るのが通例であるが、この信仰を幼少時代から教え込まれ、そう信じきって死んでいった者は、やがて意識が戻っても、まだ最後の審判日は来ていないと知らされると、また眠りに落ちてしまうという。
西洋の高等な霊界通信はこの“最後の審判説”と“贖罪説”とを人間性を堕落させる最も悪質な教義として厳しくその間違いを指摘するが、これに似た弊害をもたらす教義ないし信仰としてすぐに私の念頭に浮かぶのが、仏教の“蓮のうてなの境涯” – いわゆる極楽浄土説である。
気候温暖、風光明美、病気も災害もなく、すべてが満ち足りた成果が存在することは事実で、これを西洋のある通信では“青い島”と呼んでいる。環境が青い色彩を帯びているのでそう呼ぶのであるが、実はそこは魂の慰安所ないしは療養所のような目的をもった世界で、そこで地上時代の悪戦苦闘の生活、胸をえぐられるような体験による魂の傷が癒やされる。
が、本来ならば、つまり地上時代に正しい霊的知識を身につけていれば、魂の自然な発露として、さらに向上進化を求めるようになる。その結果として、さらに次元の高い世界へと旅立つ者もいれば、指導霊として地上へ戻ってくる者もいる。それはひとりひとり事情が異なるので一概には言えないが、ともかく、そののんびりとした境涯からは去っていくべきところである。
問題は、地上時代の信仰の型から抜け切れずに、そこが自分が祈り求めていた極楽だと思い込み、半永久的に安住してしまう者が多いことである。それはそれで別に害はなさそうに思えるが、実は、霊的親和力によって結ばれている“類魂”に対してマイナスの影響を及ぼしていることを知らねばならない。つまり同じ霊系の地上の人間に無力感、非積極性、頑張りのなさとなって現れている。
おしなべて仏教には、キリスト教が“積極的”な害を及ぼす教義や信仰が多いのに対して、“消極的”な害を及ぼすものが多いようである。
第16節 真理と宗教
[思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて、逆に次のような通信が届けられた。]
これまで述べてきたところをまとめる意味で、今少し述べてみたいと思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたないものであることを十分に理解していないようです。
われわれの述べる言説こそ人類の必要性と願望を満たす要素をもつことも理解していない。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ないものを、ここで指摘しておく必要がありそうです。
人間界に蔓延している死後の問題への関心が実にいい加減であることも、そなたにはわかっていない。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかないということ、それだけです。
理性的にみれば、絶対的啓示として信じるよう教え込まれた“神の啓示”には人工の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断基準にさえも耐え切れないこと、そして又、理性は啓示の判断基準ではないのだから知的追求の枠外に置き、ただひたすら信ぜよとの牧師の詭弁は、実は、決して誤らないはずの福音の中に数多く発見される誤りと矛盾を被い隠すための巧妙な言い逃れの手段であることは容易に知れます。
理性という試金石を使用すれば、それくらいのことは立ちどころに知れます。理性をもたない者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていくのです。
そして、教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから1歩も出ようとしません。それもただ、それに疑念をはさむことが恐ろしいからに過ぎません。
宗教上の問題についての理知的思考を禁じることほど、精神を拘束し魂の発育を歪めるものはありません。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の成長をほぼ完全に阻害します。魂が、その欲求を満たす満たさないに関わりなく、ひとつの因習的宗教によって縛りつけられてしまうからです。
これでは、魂の成長の糧をみずから選択する自由が皆無となります。遠い祖先にとってはそれで良かったかも知れないことも、時代を異にして苦悩する魂にとっては、まったく無意味なことも有りえます。ゆえに、その自由を奪われては、魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになります。
キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたたちのいう異教徒となるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになります。
その神がインディアンのいう大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその予言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも – 要するに、その宗教的概念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的な拘束力をもつことになります。
何となれば、いずれの国にあっても、古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからです。
この事実は、そなたにとって熟考を要する問題です。いかなる宗教といえども、地上のある地域の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示のすべてを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む、作り話にすぎません。
今地上で全盛を誇っている宗教も、あるいはかつて全盛をきわめた宗教も、どれひとつとして真理を独占するものではありません。完全な宗教など、どこにも存在しません。
それが発生した土地、そして又、それを生み出した者の必要性を満たす、それなりの真理を幾つかそなえてはいても、同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけられるべきものではありません。
それは神からその民族のために与えられた霊的栄養なのです。それをもって普遍絶対性を主張すること自体が、すでに人間らしい弱点をさらけ出しております。
人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものです。その妄想にしがみつき、われらこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して、他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込んでいる姿を見ていると、われわれは、その“けなげな”気持には微笑(ほほ)えまずにおれません。もっとも、その思い上がりを笑われ、その思想を蔑まれるのが落ちですが…。
すぐれた学識をそなえているはずの神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせていますが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条にすぎないことに、今まで気づかず今なお気づかずにいることは、われわれにとって驚異というほかはありません。
神の真理は太陽のごとくあまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できません。それはぜひとも地上の霊媒を通すことによって和らげる必要があります。
つまり、光に慣れない目を眩まさないように、人間的伝達手段を通すことによって幾分か光度を落とさねばなりません。その中間的媒体を通さずに直接(じか)に真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て、天上高く舞い上がった時でしかありません。
地上のすべての民族にそれ相当の真理の光が授けられております。それを各民族それなりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもあります。
いずれにせよ、結局はその民族固有の必要性に応じて変形されてきております。それゆえ、地上のいかなる民族といえども、真理独占を誇り、それを他民族に押しつけんとす無益な努力が許される道理はないのです。
これまで地上に発生したどの宗教も – バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も – それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ人間が勝手にそれを真理のすべてであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続人であると自負したにすぎません。
その過ちを最も顕著に示しているのが、ほかならぬキリスト教です。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じていながら、その実、教会内部において対立する宗派がいちばん多いのもキリスト教であるという事実が、その過ちを何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。
内部の分裂、その支離滅裂の教義、互いに愛を独占せんとして罵(ののし)り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことは、キリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かな自負への絶好の回答です。
が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつあります。その新しい啓示の普及による啓発によって、そうした宗閥的勢力争いも消滅するでしょう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意ができているのです。
その暁には、各宗教には中心的太陽ともいうべき神の光の一条のみが与えられているにすぎないこと、しかも、その光が人間の無知によって曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知ることでしょう。
それゆえ人間は、他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、自分たちの欲求にそぐわないと思い込んでいたものの中にも、神聖なものを認識しなければいけません。
われわれがその普及を使命として担わされている壮大な霊的教訓は、理性的観点からすれば合理的であると同時に崇高なものをそなえており、その普及によって、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の物笑いのタネとしてしまった宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上から払拭(ふっしょく)される日も間近に迫っております。
それにしても、ああ、何たる醜態でしょう!本来ならば神の本性を明らかにし、神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学 – それが、事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しい感情をむき出しにする不毛の地と化し、神についての無知を最もあらわに曝け出し、神の本質と働きについて激しく非難し合う、佗しい荒野と化してしまうとは!
神学!これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っています。神についての無知の証ともいうべき退屈きわまる神学書は、見苦しい悪口雑言(あっこうぞうごん)、キリスト者と
して最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりです。
神学!聖なる本能のすべてをかき消し、敵に向けるべき攻撃の刃(やいば)を同志に向け、聖者の中の聖者ともいうべき霊覚者を火刑に処し、あるいは拷問にかけて八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし、あるいは追放し、人間としての最高の本能を堕落させ、自然の情緒をかき消すことを正当化するための口実とされてきたではありませんか。ああ、何たる醜態でしょう!
そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界から1歩でも出ようとする者を押し止めんとします。“退がれ!退がれ!神学のあるところに理性の入る余地などあるものか! – これが神学者の態度です。
真摯な人間を赤面させる人間的煩悩のほとんどすべてがそこにあり、自由な思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化しております。本来ならば神について語るべき叡知を、人間はそのような愚劣な目的のために堕落させてきたのです。
しかし友よ、われわれの目的成就の日も間近です。こうした風潮をいつまでも放置しておくわけにはいきません。今はまさにイエスの降臨前と同じです。夜明け前の漆黒(しっこく)の闇と同じです。
無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつあります。聖職の権能によってがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸した愚行、無知が生み出す偽善、そして曖昧模糊(もこ)の思索の産物に代って、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れるでしょう。
その時は神についてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命についてのより正しい見解を手にすることでしょう。人間が死者と呼んでいる者も、地上時代と少しも変らず、否、むしろ、より実感をもって生きていること、しかも、地上時代に交わった時と変らぬ情愛をもって加護に当たっていることを知ることでしょう。
イエスは生命の本質と不滅性の真理を地上にもたらした、とバイブルにあります。その言葉は、筆録者が意味したものより、もっと広い意味において真実です。
イエスによる啓示の成就は – 今まさにそれが成就されんとしているところですが – 真実の意味における“死の観念”の撲滅であり、“生命の不滅性”の実証にほかなりません。
その偉大な真理、すなわち人間は永遠に死なないということ、たとえ死にたくても死ぬことはできないという事実の中に、未来へのカギが託されています。信仰のひとつとしてではなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実のひとつとして、生命の不滅性は未来の真実の宗教の基調であらねばなりません。
われわれの説く深遠な真理も、崇高な義務の概念も、壮大な宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すべてその生命の不滅性の上に成り立っているのです。
今のそなたには理解できないことかも知れません。炎に慣れていないそなたの魂は、目が眩むことでしょう。が、友よ、よく心されよ、やがてわれわれの言葉の中に真理のしるし、神性の一面を認めるようになる日が必ずきます。
†インペレーター
(1)キリスト教についてこれほど遠慮容赦のない批判を、罵倒に近い調子で投げつけた節も珍しい。訳者としても訳語の選択に戸惑うほどである。
キリスト教に愛着をもたれる方にとっては不愉快きわまる言説かも知れないが、これが、オックスフォード大学で徹底的に神学を叩き込まれ、しかもそれを唯一絶対のものと信じ、みずからも説いてきた、ステイントン・モーゼスという牧師自身の手が本人の意志を無視して自動的に動いて綴ったものであるという事実が、ここで大きな意味をもつことになる。モーゼス自身がその内容に反発し、反論し、健康を害するほどまで悩まされたのである。
ところで、ここで“堕落させてきた”とインペレーターが言っているその源をたどっていくと、325年のニケア会議(ニケアはニケーアと表記されることもあり、古代ではニースといった)での“歴史上最大の陰謀”(一聖書学者の言葉)に至るというのが常識的結論であろう。
そのニケア会議の全容を記した古書 History of the First Council of Nice, by D. Dudley(第1回ニケア会議の真相・初版1886年)を英国の古書店に依頼しておいたのであるが、不思議にも、この一節を執筆している最中に、突如、届けられた。
1年近くも前に注文し、すっかり忘れていたので驚いたが、その内容を一読してさらに驚いた。どこかの国の乱闘国会よりもっと見苦しい醜態の中で、キリスト教を国教とする採択がなされた経緯が、非難攻撃といった態度でなしに、一種の学術的資料の公表といった形で、整然とまとめられている。
いずれバイブルとキリスト教に造詣の深い方によって全訳されることになろうが、その著書の第7版(1925)に寄せられた大学教授ヒルトン・ホテマ氏の“序”がその概要を簡潔に説明してくれているので、それを≪参考資料≫として巻末に掲げておいた。
第17節 メッセージとメッセンジャー
[思うに、私がこうして執拗に反抗しているのを、私の知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし、私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明する以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。
私はどうしても得心がいかないし、得心できないままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、2日後(1873年7月14日)に、その中でどうしても受け入れられない点について反論した。それは次の3点だった。
(1)インペレーターの地上時代の身元
(2)イエス・キリストの本質と使命
(3)通信の内容の真実性を示す証拠
私は以上の3点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を私の方から指定しようと思うがどうか、と述べた。同時に、これまでの通信の内容について幾つか反論したが、それは今ここで取りあげるほどのものではない。
とにかく私はその時点での私の確信を有りのままに表明したが、今にして思えば、私の反論は不十分な知識の上でなされていたことがわかる。それはその後順次解決されていき、解決されていないものも、やがて解決されるであろうとの確信がもてるようになった。
そうは言っても、当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚(きたん)なくその不満を打ち開けた。以下がそれに対する回答である – ]
友よ、そなたの述べることに率直さと明快さとがうかがえて喜ばしく思います。もっとも、そなたは、われわれの述べることにそれが欠けていると非難しておられるが…。
(われわれの身元についての)そなたの要求については、そう要求する心境はわからないわけではないが、それに応じるわけにはいかないし、たとえ応じても何の益にもなりません。
申し添えますが、そなたの要求のすべてにすぐに応じないからといって、われわれの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してありません。
われわれとしても、そなたの心に確信を植えつけたいと切に願っているのです。が、そうするためには、われわれの側にもその時期と手段とに条件があるのです。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われわれにとってこの上なく残念なことであり、遺憾に思います。そなたにとっても、われわれにとっても残念なことです。
が、結果としてこうなった以上は、致し方ないでしょう。われらとて全能ではありません。これまでどおりの論議と証言の過程による以外に対処する手段はありません。
その論議も証言も、今のところそなたの心に得心がいかぬとみえます。ということは、そなたにそれを受け入れる備えができていないということとみて、われわれは、それが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐づよく待つとしましょう。
そなたが提出した疑問については、そのほとんどに回答の必要を認めません。現時点で必要とみたものについては、すでに回答を与えてあるからです。すでに回答を与えてあるものについて改めて述べても、意義があるとは思えません。単なる見解の相違にすぎない問題について深入りするのは無意味でしょう。
われわれの述べたところが、これまでのわれわれの言動に照らしてみて果たして一致するか否かといったことは、些細(ささい)な問題です。そなたの今の心境は、そうした問題について冷静な判断を下せる状態ではありません。
また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれわれの言うとおりのものとなるか、それともそなたが主張するようなものとなるかは、こ
れ又どうでもよい問題です。
われわれはその問題について一段と高い視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところです。そなたの視野は限られており、それに較べてわれわれは、はるかに広い視野のもとに眺めています。
また、そなたがわれわれの教えをキリスト教の論理的展開のひとつとみるか否かも、取るに足らぬ問題です。その道徳的崇高性はそなたも認めております。その論理的根拠については、今ここで論じる必要を認めません。
そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ、感謝の念をもって人類に受け入れられていく教えなのです。そなたがわれわれの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく教えです。
われわれとしては、そなたのことを、良い霊媒を得たと喜んでいました。そして今もそう思っております。何となれば、そなたの今の混乱する心境は一過性のものにすぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことでしょう。
が、不幸にしてそうならずに、そなたの選択が失敗だったことになれば、われわれは再び神の命令を仰ぎ、われわれに託された使命達成のために、新たなる手段を見出さねばならないことになります。
もっとも、霊媒はわれわれの究極の目的にとって絶対不可欠というものでもありません。(1)が、使用する以上は良い霊媒であることが望ましいにきまっています。われわれがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなたが、そなた自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを拒否する態度に出ていることです。
が、それもわれわれの手の及ぶところではありません。自由意志による判断に基づいて、そなたがあくまでも拒否するというのであれば、われわれとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれわれが提供したものを受け入れる用意がなかったことを残念に思うほかはありません。
われわれの身元についてですが、そなたが要求するような押しつけがましい方法で証明せんとすることは無益、というよりは、いたずらに混迷を大きくするのみでしょう。そのような試みは失敗に終ります。そして絶対的確信を得ることはできないでしょう。
間接的証拠ならば折々に提供していくこともできないわけではありません。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではありません。われわれとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことでしょう。
が、われわれの教説は、もっと堅固(けんご)なものを基盤としなければなりません。そのような実体のない基盤(2)の上に成り立つものではありません。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れないでしょう。
われわれは、あくまでも精神的基盤の上に訴えます。地上的なものでは一時的で、およそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておきます。
とは言え、今のそなたの精神状態は、得心のいく証拠を要求できる状態ではありません。われわれは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかでしょう。もしもわれわれが、みずから公言しているごとく神の味方であるとすれば、そなたが言うような、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説を、わざわざでっち上げるはずはないでしょう。
一方、もしもわれわれが、そなたが思いたがるように悪魔の手先であるとすれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのはなぜか、みずから問い直してみられるがよろしい。われわれとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思いません。
これまでわれわれが述べてきたところを正しく吟味・検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ありません。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではありません。
われわれ自身のことはどうでもよいことです。大事なのは神の仕事であり、神の真理です。今のそなたにとっても、未来のそなたにとっても、大切なのはメッセージそのものです。そのことを時間を掛けてじっくり考え、とくと反省されたい。
どうやら、そなたを中心として得られた啓示の顕(あらわ)れ方がいささか急激にすぎ、そなたの目を眩(くら)ませたようです。言いたいことも多々あることでしょうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考していただきたい。われわれも暫(しば)し身を引き、そなたにその沈思黙考のための余裕を与えたいと思います。
と言うことは、そなたひとりを置き去りにするということではありません。よりいっそうの警戒心をもつ複数の守護霊と、より経験豊かな複数の指導の霊がそばに待機することになりましょう。その方が、われわれにとっても得策であるように思えます。
事がこうなってしまった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきか否か、それとも、これまでの努力が無益であったと見なして改めて初めからやり直すべきか否かを“時”が判断してくれるかも知れないからです。
いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注した仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しい失望であることには相違ないでしょう。しかし、われわれもそなたも、あくまで内に宿された道義の光に照らして行動せねばなりません。
これまでの経緯(いきさつ)に関するかぎり、責任はすべてわれわれの側にあります。ゆえに、われわれは問題を解決すべく何らかの手を打たねばなりません。これまでよりさらに多くの祈りを、いっそうの熱意を込めてそなたに送ることにしましょう。きっと効果があるであろうことを確信します。
では、これにて失礼します。神の加護と導きのあらんことを。
†インペレーター
[このあと私は数回にわたって通信を試みた。また初めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして、私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、できるかぎりのことを試みてみた。が、無駄だった。
得られた情報は、私についている霊は Zoud と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると(インペレーターとは別の霊が)その霊媒の述べたことは間違いであると断言してから、こう綴った – ]
われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められません。信頼が置けないからです。忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信の置けない通信を受け取り、事態をますます混乱させることになります。
[この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば、わたしの合理的要求を満たすことは容易にできたはずだと述べた。すると同じ霊が – ]
それは違います。われわれの側としても、満足を与えてあげたい気持は山々です。が、あの会場への出現は頭(チーフ)(インペレーター)から止められたのです。しかも、われわれはあなたの出席は阻止できなかったのです。
あのような体験は今のあなたには毒になるだけです。禍いを招くことにしかならないので、今後は一切あのような招霊会には出席せぬよう、厳重に忠告しておきます。
今あなたにとって必要なのは“耐えること”です。性急に無理じいすることは、いたずらに迷惑と困惑をわれわれに与えるのみです。それよりも、静かに心を休め、待つことの方がはるかによろしい。すべてチーフが良きに計らってくださいます。早まった行動は誤りのもとです。
[しかし(と私は反抗的に述べた)、あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何ひとつ応じられないというのですか。]
友よ、そなたが要求するような数学的ともいうべき正確な証拠は、得ようとしても、所詮、無理です。われわれとしても、そなたが求める通りのものを授けることはできません。たとえできたとしても、それがそなたにとって益になるとは思えません。すべては、われわれの側で良きに計らってあります。
[これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信をいったん中止した。そして7月24日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。そのひとつは例の「私と父はひとつである(3)」という有名な文句に言及したものだった。
以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた – ]
そなたが引用した文句は前後の脈絡の中において理解しなければなりません。その時イエスは、エルサレムでハヌカー祭(4)に出席していました。その折、そこに集まった民衆が“もしもあなたがキリストだと言うのであれば、その明確な証(あかし)を見せてほしい”とイエスに迫ったのです。
彼らは今のそなたと同様に、疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのです。そこでイエスは、われわれと同じく、自分が説く教えと、その教えによってもたらされるものの中に神のしるしを見てほしいと述べました。
同時に、それを理解するだけの備えのある者 – イエスのいう“父のひつじたち” – は、その教えの中に父の声を聞き、それに答えたのと同じことであると述べました。
が、質問者たちはそのような回答を受け入れることができなかった。なぜなら、彼らにはイエスの言っていることが理解できず、信じる心の準備ができていなかったからです。備えのある者はイエスの言葉にしたがって永遠の生命と進歩と生き甲斐を得ました。
それが神の意図するところであり、それを妨げることは誰にもできません。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類のすべてに新たな息吹きを吹き込んだのです。すなわち、父なる神と、その真理の教師であるイエスとが一体となった – 「私と父はひとつである。」
イエスはそう述べたのです。が、ユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして、非難のつぶてを投げつけました。しかし、イエスの弁明は正しかったのです。どう正しかったか。おのれの神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのです。
同じことがこのわたしにも弁明できるかとおっしゃるか?(6)それはできません。が、その心に陰日向(ひなた)のひとかけらもないイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した – 自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのか、と。
非難者たちは答えました。奇跡のことを非難しているのではない。完全なる神と一体であるなどと公言するその傲慢(ごうまん)不遜の態度を非難するのである、と。
そう言われたイエスは、これを無視して取り合わなかった。なぜか。バイブルにもあるように、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからです。
ならば、イエスほどの特殊な使命を背負った人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれが不遜な言葉と言えるでしょうか。疑うのなら、私の為せる業(わざ)を見よ、とも言っております。そこには、自分こそ神であるなどという意味はひとかけらもありません。むしろその逆です。
[翌25日、私が霊媒となって交霊会を開き、インペレーターがしゃべった。(7)がこれといって私の精神状態に触れたものは出ていなかった。他の列席者は私の抱える事情にはまったく関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出して、それなりの解決を得た。
その間、私の意識は休止状態なので、霊言そのものには影響はなかった。そのあと、最近他界したばかりの知人が出て、私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。
それから夏休暇(8)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味ぶかい通信を得たが、私の1番の悩みを解決するものではなかった。
アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして8月24日にインペレーターからの別の通信を受け取った。
これは披露しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私のかねてからの要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にならぬという警告を受けた。
その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えず、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。]
これまでたどってきた道をよく振り返ってみることです。われわれに許された範囲でそなたのために尽くしてきた、もろもろのことを細かく吟味し直すことです。その上で今そなたが目の前にしているものの価値をくり返し検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われの言説の崇高性に着目してもらいたい。
われわれは、そなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めるつもりはありません。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ません。ただ、そなたの性急な性格があまりに結論を焦りすぎることを注意しているのです。精神的に混乱するのもそのせいです。何かと面倒が生じるのもそのせいです。
それを咎めているのではありません。われわれが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私な判断は下せないということです。その性急な態度を和らげ、結論を焦る気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われわれの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ、そなたはあまりに破壊的すぎます。
さらに友よ、そなたが抱いている疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われわれの今後の進展にとっても障害となることを忘れないでほしい。これまでも大いに障害となり、手控えざるをえないこともよくありました。が、それは、事の性質上やむをえなかったといえるでしょう。
が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。しばしの休息と隔離のあと、ぜひそうなってくれることを期待しています。
われわれが出る交霊会も、出席者が和気あいあいの精神に満ちていることが何より大切です。湧き出る疑念は、旅人を迷わせるモヤと同じく、われわれの行く手を阻みます。モヤの中では仕事はできません。ぜひとも取り除かねばなりません。
先入観を棄てて素直に過去を点検すれば、きっきっと取り除かれるであろうことを信じて疑いません。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅することでしょう。そして眼前に広がる新たな視野に驚くことでしょう。
ムキにならぬことです。そなたにとって目新しく聞き慣れないものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめていただきたい。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらば取りあえずそれは脇へ置き、もう1歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にしてまっ正直な心には、時が至ればすべてが叶えられます。
今のそなたにとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達します。ともかく、そなたの知らない新しい真理、これから学ばねばならない真理、改めねばならない古い誤りが、まだまだ幾らでも存在するという事実を忘れないことです。待つことです。そして、祈ることです。
†インペレーター
(1)1848年の“ハイズビル事件”を契機として始まった地上の霊的浄化運動、いわゆるスピリチュアリズムは、高級界からの霊力を地上に根づかせるための本格的な働きかけであると言われ、それが“究極の目的”であるが、たとえばシルバーバーチにとってはバーバネルの霊言能力を利用して平易な霊的真理を説くことが当面の目的であったように、インペレーターにとっては、モーゼスという一牧師の自動書記能力を利用して、キリスト教の誤りを指摘することによって正しい霊的真理を説くことが、直接の目的だった。
こうした霊言能力や自動書記能力は、最近はやりの超能力と同じく、人間の目には不思議に映るのでいかにも凄そうに思えるが、インペレーターもシルバーバーチも口を揃えて、こうした手段に出なければならないのは本当は地上人類がまだまだ霊的に未熟だからで、最高の指導は霊と霊との直接の感応、いわゆる以心伝心、テレパシー、ないしインスピレーションであると述べている。私はそれができる人物を“霊覚者”と呼んで、“霊能者”と区別している。
(2)地上の人物にとっては、霊が地上時代の氏名を明かし、その人物らしい内容の思想を述べ、その時代の歴史的事実を知っていたりすると、もうそれだけで、まさしくその人物と思いたくなるが、霊は名のろうと思えば何とでも名のれること、その人物に関する歴史的事実はまったく当てにならないこと、立派な霊ほど地上時代の自分が恥ずかしいほどつまらなく思えるものであること、歴史上の人物や神話・伝説上の神々や英雄の名をかたってそれらしくしゃべるのを得意とする低級霊のモノマネ集団がいること、こうした理由から、高級霊ほど地上時代の身元は絶対といってよいほど明かさない。
(3)ヨハネ福音書 10・30
(4)Hanukah 古代シリアのアンチオコス4世によって奪われたエルサレムの神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(5)the Christ 現在ではイエスの姓のような使われ方をしているが、もともとはメシヤ、いわゆる“救い主”の意味で、のちのイエスの“しるしと不思議”つまり奇跡的現象や病気治療のすごさを見て、この人こそユダヤの救い主だということで Jesus the Christ“救い主イエス”と呼んだ。それがいつしかイエス・キリストという固有名詞になっていった。
(6)この質問はモーゼスが書いたのではなく、モーゼスの心に湧いて出た疑問を読み取ったもの。
(7)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。
(8)当時モーゼスは学校の教師だった。
第18節 信仰と自由
[8月26日。私はこれまでの通信を読み返し、そこに象徴されている意味について、あれこれと思いをめぐらした。自分の解釈が字句にこだわりすぎているのだろうかと考えて、この点を霊側に質(ただ)してみた。すると、まだ私の精神状態は通信をするのに相応(ふさわ)しい状態になっていないという返事だった。
このように、交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。気分の転換が必要であることも指摘された。あいにくその日は空模様のうっ陶しい、憂うつな日だった。
私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと、机に向かった。すると、初めのうちは少し書きづらく速度もゆっくりだったが、やがてラクに筆が運ぶようになった。]
状態はまだ十分とはいえないが、前よりは良好となってきました。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要です。満腹状態の身体が操作しにくいことは前に述べましたが、逆に機能の低下した弱々しい身体もまた、われわれの目的に適さないことをここに指摘しておきます。
飽食と泥酔はもとより感心しませんが、度の過ぎた節制による体力の低下も感心しません。われわれは全てにおいて中庸を説きます。極端な節制も、節度を失った放縦(ほうしょう)も、ともに好ましからぬ結果を招きます。中庸こそ身体機能を自由に働かせ、一方、精神的能力を曇りなく、かつ激することなく自在に発揮させます。
われわれが求めるのは、明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することのない精神と、活力に溢れ、その活力を使いすぎもせず欠乏もしない身体です。
各自がこの思慮分別に基づいて、おのれに課せられた地上の仕事に勤しむ上でよりいっそう適切な身体をそなえ、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えることが大切です。日常生活における習慣はとかく感心しないものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいきます。
われわれは、一般原則としての注意と節制を説く以上のことはしません。当人にとって何がもっとも適切であるかは、当人と深く関わってみなければわからないものです。自分のことは自分で判断して、もっとも適切と思うものを決めることです。
われわれの使命は、もとより魂の宗教を説くことにありますが、その一部として、身体の宗教も説かねばなりません。そなたに、そして全ての人間に宣言しますが、身体の健康管理は魂の成長にとって不可欠の要件です。
魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿っているかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けないよう、これを正しく管理していくことが必須です。
ところが現実には、衣食の選択と日常の生活習慣に賢明な配慮がなされることは、実に稀れです。現在の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものはすべて、真の霊的生活にとっては障害であり妨害となります。
そなたの質問であるが、これまで幾度も述べたように、われわれはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付着した夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なもの、真実でないものは放棄します。古い言説については、イエスがユダヤの律法を扱ったのと同じ扱い方をします。
すなわちイエスは、この字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たな意味、崇高な意味を賦与しました。われわれが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、ならびにラビ(1)的学説を扱ったごとくに扱います。
イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説きました。これはいつの時代にも同じであり、われわれもバイブルの言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておきましょう。
律法の字句にあまり厳格にこだわることは、肝心の精神をおろそかにするのと同じ、というよりは、次第におろそかにさせていくものです。儀文のひとつひとつを几帳面に守る信仰態度は、高慢不遜にして鼻もちならない独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に呑み込まれて、自分は他の連中とは違うのだという特殊意識を抱き、その意識の中で神に感謝するようになります。
われわれが断固たる闘いを挑むのは、こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対してです。人間の勝手な産物である神学に束縛されて生きるよりは、たとえ迷い多くとも、きっと神を見出してみせるとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求める魂にとってどれほど良いか知れません。
神学は神への道を規定してしまいます。その道へ入る狭き門は神学という名のカギがなくては開かないことになっています。それのみではない。神学が神そのものを規定するのです。
かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もない機械的信仰生活へと落ちぶれ果ててまいります。そんな、霊性豊かな宗教の猿真似(パロディ)のようなものよりは、自由な魂の葛藤の方がはるかにましであることを断言します。
確かに、キリスト教の高位高階の者の中にさえ、宗教の深い思想に関しては“出来合い”の信仰教義でなければならない者がいます。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いをめぐらすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味します。
目も眩(くら)む高所に登り、隠された秘密をのぞき込み、曇りない“真理の太陽”の輝きを目(ま)のあたりにすることなど、思いもよりません。
“永遠の真理”の横たわる深い谷間を見下ろす高い峰に登ることは、彼らにはできません。落ちることを恐れて、のぞき込むことができないのです。否、その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのです。
そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通ったより安全な常道を選ぶことになります。その道は両側に高い壁がそそり立ち、その外側は見ることができません。油断なく1歩1歩、転ばぬように、あらゆる起伏を避けつつ進みます。頑強な教会が規定するドグマにすがるのです。
そうするようにと、教会の浅はかな知恵が主教たちを通して説いているのです。疑うことは破滅を意味するのです。思考することは結局は迷いに終るのです。信じることが唯一の安全策なのです。
ゆえに、信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい – そう説くのですが、彼らには、内心では、それが素直に受け入れられません。そんなものが、どうして受け入れられましょう。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解できないのです。ならば、真理を秘納せる奥の院まで、どうして入ることを得ましょう。
中にはまた、これが神の真理のすべてである、と教え込まれた古来の神学と相容れない教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばない者もいます。
キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分でした。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得てきました。それは今も昔も変わりません。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音でした。
それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、ぜひとも自分たちが子供たちに譲渡していかねばならないものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいきます。
そうなれば当然、彼らの心はその信仰、それほどの伝統的なつながりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには、目もくれぬことになります。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのです。
その心の中には殉教者の情熱が燃えつづけております。われわれの語りかける言葉は、彼らの耳には届きません。われわれとしても、それほどまで居心地のよい安住の世界にあえて踏み込もうとは思いません。
万一踏み込むとなれば、彼らが作りあげた信仰の殿堂を根底から突き崩さねばならないでしょう。それほどまで大切にされている信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならないことになるでしょう。
彼らにとっての絶対神、型にはまった宗教 – それは幾世紀にもわたっていささかも変わらず、また変わりようもないのですが – これに攻撃をかけ、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し、過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばなりません。
さらに彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うって崇めている、おびただしい量の人間的創作に反省を迫ることになるでしょう。
が、それも所詮は徒労に終ることでしょう。われわれは、そうと知りつつあえて試みるほど愚かではありません。彼らは、地上とは別の世界(死後)において必要な知識を得るほかはありますまい。
これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考をめぐらさない者もいます。宗教とは名ばかりで、一種の世間体としての意味しか持たない者たちです。
ゆえにその信仰心はきわめて薄く、慣習としての場(教会など)を除いては意識することもありません。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではありません。遠くから見て“それらしく”見えれば、それでいいのです。
こうした人種、およびこれに類する人々は、われわれにとって難敵です。彼らにとっては宗教について思索を強いられること自体が退屈であり迷惑なのです。不愉快きわまる問題であり、慣習により、やむを得ず、軽く体裁(ていさい)をつくろう程度にしか関わろうとしません。人間としての正しい道は牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信じるのみなのです。
ましてや、古い信仰の欠点を指摘され、新しい信仰の美点を説き聞かされることは、彼らにとっては二度手間(でま)であり、有り難迷惑なのです。そのいずれも理解できないのです。
相変わらず古いものにすがり、その中で生き永らえるのみです。今のままで結構なのです。進歩はご免こうむりたいのです。自由など思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にありません。
自由な思索は、彼らにとっては懐疑と不信と無信仰を意味します。そのいずれも有り難からぬものであり、一種の社交上の誤りを犯すことになります。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのです。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑をもって自由を見つめます。
彼らの理想はすべて古き良き時代に大切に仕舞い込まれています。その古き良き時代には、自由だの進歩だのという問題は一切語られていません。ゆえに、それは彼らにとっては邪悪なものであり、避けねばならぬものなのです。
以上の3種の人間にわれわれが一切の関わりをもたないことは、そなたにも明白であることを疑いません。同時にこの中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にも、われわれは関知しません。それがわれわれの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにもわかる時がくるでしょう。たとえ手を出したくても、“出せない”のです。
神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件のひとつを犯していること、こうしたことをわれわれは教えんとしているのです。神への道を閉ざし、この門戸にカギをかけ、おのれの説く道へ強要する権利を有する者はひとりもいないと言っているのです。
硬直化した神学、人間が発明した用語で勝手に規定した頑固(かたくな)な信仰、その道から外れた者は神から見放されると説き、一字一句たりとも動かせないという教説 – これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたこうとする魂を引きとめ、地上にクギづけにする拘束物であるということです。
そのような宗教を教え込まれるまま受け入れて自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として、みずから迷い、みずから祈り、みずから思考し、みずから道を切り開くことによって真理の日の出を拝むにいたる方が、よほど立派であることを改めて述べておきます。
その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、また、心を満たしてくれなくてもよい。冷たい風に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく、風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても与えられるのは石ころのごとき古い教説であり、化石のごとき人間的無知の産物でしかない生活よりは、はるかに、はるかによい。
複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴ではあっても、背後霊の直接の働きかけによって自分なりの“大いなる父”たる神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方が、どれほどよいか知れません。
自分に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第1の条件です。これなくしては魂は羽ばたくことができません。そして、これさえあれば必ず進歩します。
このことを、主イエスの生活に示された模範的な生きざまの中に、今少し見てみる必要があります。
霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについては、すでに述べました。幸にして勇気をもって因習から脱け出し、神を求める旅に発った者は、必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代って、われわれが説くところの崇高な霊的信仰へと導かれます。
霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に、霊的意味も含まれているからです。物的傾向の色濃い時代には、この霊的解釈が完全におろそかにされます。
かくして人間は、イエスの教説のまわりに推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁を張りめぐらしました。それは、パリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに張りめぐらした壁と同じです。
こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなります。かくして今やわれわれの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説から導かれた、硬直化した冷ややかな物質偏重の教説です。
われわれの任務は、イエスがユダヤ教のために行なったのと同じことを、そなたたちのキリスト教のために行なうことです。すなわち古い霊的意義を賦与し、新しい生命を吹き込むことです。
排除しようというのではありません。復活させることこそわれわれの望むところなのです。くり返しますが、イエスが地上にもたらした教えの一かけらたりとも、われわれは排除しません。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見えなくなっている霊的な意味を表に出してみせるためです。
われわれはそなたを肉体的支配下の日常生活から少しでも救い出し、そこに浸透している霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めているところです。字句にこだわって非難する者は、われわれの教説の皮相的解釈しかできない人種です。
われわれはそなたを身体中心の生活から引き上げ、肉体を棄てたのちの生活にとって意義のある生き方へ導かんと願っているのです。目下のところ、それにはまだほど遠い状態です。
が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ちあふれる隠れた神秘を見ることができる日も到来するでしょう。それは、今のそなたの精神状態では、われわれも説明することは困難です。
その時節が到来するまでは、何ごとにも霊的な意義が秘められていること、バイブルもその霊的意義にあふれていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵している形而下的な“殻”にすぎないことを知るだけで、よしとしなければなりません。
もしもわれわれがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心は萎(しお)れ、生命を失うでしょう。そこでわれわれとしても、そなたの理解力の届く範囲において、そなたが長いあいだ親しんできた形而下的教説の下に隠れている生きた真相を指摘する程度で満足しなければなりません。
イエスの使命もそこにありました。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就させることこそ使命であると公言したのです。モーセの戒律の根底にひそむ真理を指摘しました。
パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理埋葬されかかっていた崇高な原理を白日のもとにさらしました。イエスは宗教改革者であると同時に、社会改革者でもあったのです。
その生涯の大事業は、人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面をはぎ取ることであり、暴君から逃れんとしてあがく魂を、その魔手から救い出すことであり、そして神から託された真理の力によって人間を解放することでした。イエスはいみじくもこう述べています –
「私は真理を教えてあげようとしているのです。その真理こそ魂の束縛を解いてくれるのです。そのとき真の意味であなた方は自由の身となるのです」(ヨハネ8・32)(3)
イエスは生と死と永遠の生命について説きました。人間の真の尊厳を説きました。神についての進歩的知識を得る方法を説きました。摂理の偉大な体現者として地上へ降りたのでした。摂理が意図としている真の目的、すなわち人類の霊的改革を身をもって実践する人間のひとりとして地上へ来たのです。
心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして宗教的行為のすべてを唯一の尺度つまり、それがもたらす結果によって価値判断をするよう、民衆に説きました。
常に謙虚に、慈悲心を忘れず、誠実で純心で私心なく、自分に正直であれと説きました。そして、みずからそれを実践してみせたのでした。
イエスは偉大な社会改革者でした。その目的は死後の幸せを説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することでした。
言うなれば、イエスは日常の宗教を説いたのです。より高い真理を求める日々の生活においての、霊性の道徳的向上の必要性を説いたのです。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する – そこにイエスの教えのほぼすべてが要約されています。
イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にありました。そこでイエスは、信仰と政治の双方の自由を説きました。が、その自由とは気ままな自由ではありません。
神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由でした。人間の真の尊厳を示さんとしたのです。摂理の尊厳 – 人間性を束縛から解き放す霊的摂理の偉大さを民衆に知らしめんとしたのです。
身分にはこだわりませんでした。同志も伝道者も、身分の低い貧しい階層の者の中から選びました。そして庶民と共に生きました。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとりました。そして、人間として必須の、しかも彼らに理解できる素朴な教えを説きました。
伝統的信仰と高貴な社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には、滅多に足を運びませんでした。慣習的に教え込まれた信仰から少しでも気高く、少しでも崇高な真理を求めんとする情熱を、庶民の心に湧かしめたのです。そして、その真理を手にする方法をも説いたのでした。
人類にとって真の福音というべきはイエスの福音です。それこそ人間にとって唯一にして必須の真理です。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音です。
われわれはイエスから引き継いで同じ福音を説くものです。イエスを地上へ送った神と同じ神の命令を受け、同じ神の権能と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのです。イエスが説いたのと同じ真理をわれわれも説きます。
人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説きます。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものです。墓場へ葬られてしまった霊的真理を掘り起こし、それが今も生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えてあげたいと願っているのです。
人間の進歩性と、人間への神の絶え間ない関わり、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳な真理を教えてあげたいと願っているのです。
独善的宗教家集団が背負わせた荷は、われわれが風に吹き飛ばさせましょう。魂の生長を妨げ、向上心の足を引っぱるドグマは、われわれが引き裂いて、魂を解き放してあげましょう。
われわれの使命は、人間があまりに歪めすぎた古い教えの真実の姿を継承することです。その源は同一であり、そのたどる道も同じであり、その向かうところもまた同じです。
[インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化活動は、イエスの命令によるものと理解してよいかとの問いに対して – ]
その通りです。さきにわたしは、わたしの使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入した一柱の霊から授けられ、今なおその指揮下にある、と述べました。イエスは過去に蓄積された誤った信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めるために、天使を召集する計画を用意なさりつつあります。
– 他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“イエスの再来”ということでしょうか。
イエスの再来とは霊的再来のことです。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではありません。使徒を通じて、聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来です。イエス自身もこう述べております – 「聞く耳をもつ者が聞いてくれればよいのです。受け入れる用意のある者が受け入れてくれればよいのです」と。(4)
– こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。
さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを、大勢の人々に知らしめているところです。が、今はこれ以上のことは述べません。神の祝福のあらんことを。
†インペレータ
(1)ユダヤの律法学者。空理空論を振り回す人の意味にも用いる。
(2)コリント第2・3・6巻第11節参照。
(3)バイブルにくわしい方はすぐにお気づきと思うが、このヨハネ伝によると、最後の「そのとき…」の前に弟子たちの質問があって、それに答えた形となっている。が、インペレーターの引用文にはそれがなく、シルバーバーチも同様であることから、私はイエスは実際は一気にそうしゃべったのではないかと考えている。それを筆録者が加筆したのであろう。
また私の訳文がバイブルの文章とかなり違うこともお気づきであろう。が、その前後の文脈から考えて、私はイエスはそういう意味で語ったはずだと確信した上で、そう訳した。これが言わば、イエスの教えのエッセンスなのである。
(4)これもバイブルでは2つに分かれていて、前文がマタイ11・35、後文が同19・12に出ているが、原文ではひとつにまとめられている。便宜上そうしたにすぎないのかも知れないが…。
第19節 スピリチュアリズムの真髄
[くり返し反論したきた問題 – これまで再三にわたって言及してきたものが、8月31日になってようやく本格的な回答を得た。]
これまでにも何度か言及しながら本格的に扱わずにおいた問題について述べたく思います。そなたは、われわれの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めがなく、実体が感じられないという主張を固持し、それを再三にわたって表明してきました。
その主張によれば、われわれの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代る新たな合理的信仰を持ち合わせないという。その点に関しては、これまでも散発的には述べることがありましたが、大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に解説したことはありませんでした。それを、これより可能なかぎり述べることとします。
まず、われわれは全創造物の指揮者であり審判者であるところの宇宙神 – 永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしましょう。その至高の尊厳の前にわれわれは厳粛な崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものです。
その御姿を拝したことはありません。また、御前に今すぐ近づこうなどとも思いません。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることでしょう。それはもはや限りある数字で表わせるものではありません。
が、たとえ拝したことはなくとも、われわれはその御業を通して奥知れぬ完ぺきさをますます認識しております。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりなのです。それはそなたには叶わぬことですが、われわれは無数の方法によって、その存在を認識することができます。
地上という低い界層には届かない無数の形で認識しております。哀れにもそ
なたたちは、神の属性を独断し、愚かにも、人間と同じ形態をそなえた神を想像していますが、われわれにはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し、感受しております。われわれとの関係(つながり)の中に優しさと愛とを感受するのです。
過去を振り返っても、慈悲と思いやりに満ちあふれていることを知ります。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われております。未来は…これは、われわれも余計な憶測はいたしません。これまでに身をもって味わってきた力と愛の御手に、すべてを託します。
詮索好きな人間がするような、おのれの乏しい知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯しません。神への信頼があまりに実感あふれるものであるがゆえに、あえて思案をめぐらす必要を感じないのです。
われわれは神のために生き、神に向かって生きてまいります。神の意志を知り、それを実践せんと心がけております。そうすることが、自分のみならず全創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信じるからです。
また、そうすることが、神に対する人間的存在としての当然の敬意を表明するゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのです。われわれは神を敬愛します。神を崇拝します。神を敬慕します。神に絶対的に従います。が、神の御計画に疑念をはさみ、あるいは神の秘奥をのぞき見するような無礼はいたしません。
次に人間についてですが、われわれはまだ、知っていることのすべてを語ることを許されておりません。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、そなたの精神を惑わせることにしかならない知識を明かすことも、許されておりません。
人間の霊性の起原と宿命 – いずこより来ていずこへ行くのか – については、いずれそのすべてを語るべき時期が到来することを信じるに留めてもらいたい。さし当たっては、神学が事細かに語り広く受け入れられているところの“アダムとイブの堕罪”の物語は、根拠のない作り話であることを知られたい。
恐らくそなたたちキリスト者においても、これにまともな思考をめぐらせたならば、あのような伝説には理性がついていけないのが正直な事実でしょう。取りあえず人間が物質をまとった霊魂であることを認識し、支配する神の摂理にしたがって進歩していくことこそが、地上での幸せと死後の向上を導くものであることを理解すべく努力をすることです。
はるか遠く高き世界 – 洗練され浄化されつくした霊のみが入ることを許される天上界のことは、ひとまず脇へ置いておくことです。その秘奥は、限りある人間の目には見ることはできません。
天上界への門扉(もんぴ)は聖なる神霊にのみ開かれます。そして、いつの日かそなたにも、十分な試練と進化の暁にその列に加えられる時がきっと訪れることを信ずればそれでよい。
それよりも今のそなたにとっては、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要でしょう。人間は、そなたも知るごとく、一時期を肉体に宿っている“霊魂”なのです。霊的身体を具えており、それは肉体の死後もなお生きつづけます。そのことについてはバイブルでも述べられています。
仔細の点では誤りも見られますが、一応正しいとみてよいでしょう。その霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばなりません。死後の生活は、人間の知性の届くかぎりにおいて無限です。
こういう言い方をするのは、人間には“無限”の意味は理解できないからです。さし当たってそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておきましょう。
その霊的存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿って生活するにすぎないとはいえ、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なされております。
肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心 – 往々にして粗末であり未熟ではあるが – を先天的にそなえております。各自、その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請がありしだい与えられる援助の手段も用意されています。
こうした事実についてはすでに述べました。こののちもさらに述べることもありましょうが、取りあえず地上という試練の場における人間の義務について述べたいと思います。
人間は責任ある霊的存在として、自分と同胞と神に対する義務を有します。その昔、そなたたちの先師たちは、その時代の知識の及ぶかぎり、そして表現しうる能力のかぎりにおいて、霊的生活にとって適切な道徳的規範を説きました。
しかし、彼らの知識の及ばぬところ、そして彼らには伝え得ないところにも、まだまだ広く深い真理の領域が存在します。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によって理解され始めたところです。
が、この事実によって、人間の向上進化を促す勢力と妨害する勢力とが存在することを窺い知ることができるでしょう。このことに関しては、こののちさらに述べる機会もあることでしょう。
それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は“向上進化”の一語 – おのれに関する知識をはじめとして、霊的成長を促すあらゆる体験を積むことに要約されましょう。
次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は“教養”の一語に要約されましょう。ひとつの枠に限られない幅広い教養を積むことです。地上生活のみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動です。
そして肉体に宿る一個の霊としての自分に対する義務は、思念と言葉と行為における“純粋”の一語に要約されましょう。以上の“進歩”と“教養”と“純粋”の3つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そして肉体的存在としての人間の、自己に対する義務が要約されていると言えるでしょう。
次に一単位として生をうけた民族、所属する共同社会の一員としての義務についてですが、これを強いて一語で表現するとすれば、その中心となるべき心掛けは“慈悲心”に要約されましょう。
意見の相違に対しては寛容心を、それを是正する時の言葉には同情心を、交わりには優しさをもって臨み、援助には見返りを求めず、日常の品行に礼儀と穏やかさを心掛け、誤解をうけても我慢し、正直で一途(ず)な目的意識に情愛と寛容を加味し、同情と哀れみと優しさに満ちた心をもち、所属する社会の公的義務は遵守し、同時に弱き者、意志薄弱なる者の権利も尊重する。
以上の、そしてこれに類する資質これぞまさしく“キリスト”(1)の名にふさわしい性格のエッセンスです – を、われわれは慈悲心もしくは能動的な愛の一語に要約します。
最後に、人間と神との関係について申せば、それは、いかに低い界層の者といえども、“無始の光の泉”“万物の創造者”であり、“父”であるところの大神に近づく可能性をもつものであらねばなりません。
大神を目の前にした時の人間にふさわしい態度は、そなたたちのいう聖なる記録の中で“天使もその翼もて顔を被う”(2)と表現されていますが、まさにその通りです。それは人間の霊にとって最もふさわしい畏敬と崇拝の念を象徴しているのです。
敬(うやま)い畏(おそ)れるのです。奴隷的恐怖心ではありません。崇(あが)め拝(おろが)むのであって、屈従的恐怖心に身をすくめるのではありません。神と人とを隔てる計り知れない距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、かりそめにもその御前に今すぐ侍(はベ)ることを求めてはなりません。
ましてや、天使にしてなお知り得ない深い神秘をのぞき見せんとする傲慢(ごうまん)な態度は慎まなければなりません。“畏敬”と“崇拝”と“愛”、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性です。
きわめて大まかですが、以上が自分と同胞と神に対する人間の義務です。枝葉の点については追って付け加えることになりましょうが、以上の中に人間が知識を広め、良き住民となり、すべての階層の人間の手本となるべき資質が述べられております。
この通信ならびにこれまでの通信の中に、パリサイ派の学者が重んじた儀式的ないし形式的義務に関しての叙述が見られないのは、われわれがその必要性を認めないからではありません。人間が物的存在である以上、物的行事も当然大切です。
われわれがその点について詳しく言及しないのは、その重大性について、あえてわれわれが述べずとも事足りているとみたからです。われわれの中心的関心は霊性にあります。すべてを生み出すところの霊性です。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為もおのずと正しく行なわれるはずのものです。
われわれはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱ってまいりました。その原則とは、そなたの関心を真の自我であるところの“霊”に向けさせ、すべての行為をその内的自我の発現として捉えさせることです。その霊性こそが、地上を去ったのちの霊界生活のすべてを決定づけるからです。
そこに真の叡智が存在します。すべてを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移りゆく姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えます。現時点においてわれわれがそなたに示しうる義務は以上のごときものですが、次に、その義務を果たした時と怠った時にもたらされる結果について述べねばなりません。
自己の能力のかぎりにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして、生き甲斐と向上が得られます。あえて“向上”を強調するのは人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すという不変の真理を見失いがちだからです。
“これでよし”との満足は、真の自我(魂)にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかありません。魂は過ぎ去ったものの中に腰を下ろすことは許されません。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかもちません。
過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向かう態度は一層の向上を求める、希望と期待の表われです。満足感に浸り、それで目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、その時の魂は退歩の危機にあります。
霊的存在としての正しい姿勢は、常により高い目標に向かって努力し続けることです。その絶え間のない向上の中にこそ真の幸せを見出すのです。これで終りという時は来ません。絶対に来ません。
このことは、人間が人生と呼んでいる地上の一時期のみに限りません。生命の全存在に関しても言えることです。そうです、肉体に宿って行なった行為は、肉体を捨てたのちの霊界の生活にも関わりをもつものです。その因果関係は、人間が死と呼んでいる境界には縛られません。
それどころか、霊界へ来て落着く最初の境涯は、地上の行為がもたらす結果によって定まるのです。怠惰と不純の生活に浸っていた霊は、当然の成り行きとして、霊界でそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになります。
犯した罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、1歩また1歩と高い境涯へと向上して行く – これが神の摂理を犯した者に与えられる罰です。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではありません。意識的生活の中で犯した違反が招来する不可避の悔恨と自責の念と懲罰です。
これは懲らしめのムチと言えなくもないでしょう。が、それは復讐心に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではありません。愛の神が我が子にその過ちを悟らせるために用意した因果律の働きなのです。
同様に、善行の報いは天国における“永遠の休息”などという、感覚的な安逸ではありません。神の玉座のまわりで讃美歌三昧に耽ることでもありません。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によって安易に得られる退屈きわまる、白日夢のような無為の生活でもありません。
義務を果たした充足感、向上した喜び、さらに向上できる可能性を得たという確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持したという自信 – こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に初めて味わえるものです。
休息の喜びは働かずしては味わえないように、食事の美味(おい)しさは空腹の者にしか味わえないように、一杯の水の有り難さは渇いた者にしか味わえないように、そして、我が家を目の前にした時の胸の高まりは、久しく家を離れていた者にして初めて味わえるように、善の報酬は、生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇いた者にして初めて、その真の味が賞味できるのです。
怠惰な感覚的満足は、われわれの望むところではありません。あくまでも全身全霊を込めて努力したのちにようやく得られる心の充足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのです。
以上に見られるように、われわれは人間というものを、果たすべき義務と数かぎりない闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱っております。別の要素として背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もありますが、ここでその問題を取り上げる必要性を認めません。
取りあえずそなたの視野に映り、そなたみずから検討しうる範囲内の事柄にかぎって述べてきました。又、われわれとしては罪なき神の御子、というよりは、神との共同責任者としてのイエスにおのれの足らざるところをすべて償わせるような、都合のよい言説は説きません。
1度の信仰告白によって魔法のごとく罪を消すという、かの贖罪説は説きません。卑しい邪悪な魂も、死の床にて懺悔(ざんげ)すればイエスがその罪のすべてを背負ってくれて、立ちどころに“選ばれし者”の中に列せられ、神の国へ召されるなどという説は、とても認めるわけにはいきません。
われわれは、そのような卑屈にして愚劣な想像の産物に類することは一切述べたことはありません。援助はあります。常に身近かにあり、いつでも活用できる強力な霊力が控えております。
しかし、放蕩と貪欲と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くした人間が、その最期の一瞬に、聖者のひとりとして神の聖域に列せられるために自由に引き出せる、そのような都合のよい徳の貯えなどは、どこにも存在しません。
臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼びおこす死後の苦しみに怯(おび)えるあまりにすがろうとする身代りの犠牲など、どこにも存在しません。そのような卑怯な目的のためには、神の使者は訪れません。そのような者に慰めを
与えに参る霊など、ひとりもいません。
幸にしておのれの罪深さに気づいて後悔することになれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるでしょう。神の愛のムチを当てられるままに放置することでしょう。何となその苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからです。
しかるに神学者は、そのような者のために神は御子を遣わし、そしてすべての罪を背負って非業(ひごう)の死を遂げさせたのである!と説きます。それをもって最高の情けある処置である!神の慈悲の最高の表現である!と説きます。
そのような作り話は、われわれの知識の中には存在しません。徳の貯えは自分みずからひとつひとつ刻苦勉励の中に積み重ねたもの以外には存在しません。至福の境涯に至る道は、かつて聖者たちがたどった苦難の道と同じ道以外にはありません。
一瞬にして罪深い人間を聖者に変え、したたかな無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたたちのいう天国にふさわしい霊に変えてしまう魔法の呪文など、われわれは知りません。そのような冒瀆的想像の産物は、およそわれわれとは縁はありません。
人間は一方においてそのような無知が生み出す、到底あり得ない空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻くせっかくの霊的援助と加護にはまったく気づかずにいます。われわれは人間みずから果たすべきことを代って果たしてあげる力は持ち合わせません。
が、援助はできます。慰めることはできます。心の支えとなることはできます。われわれは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっているところです。
時として、あまりにあくどく、あまりに物質かぶれしすぎて、われわれの霊力に感応せず、霊的なものを求めようとしない者に手こずり、あるいは愚弄されることもありますが、霊的援助は常に用意されており、真摯な祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによって結びつきを強化することが可能なのです。
ああ!何たる無知でしょうか。至純・至聖・至善なる霊が常に援助の手を差しのべんと待機しているものを、祈ることを疎(おろそ)かにするために、その霊との交わりを得ることができないのです。
魂を神に近づける崇拝の心、そして天使を動かす祈りの心、この二つはいつでも実行可能な行為です。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手な信仰、教義、宣誓、身代り等々、事実とはほど遠い、根拠のない作り話に託しております。
われわれは、そうした個々の信仰は意に介しません。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩、改められていくものだからです。狂気のごとき熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体から解放されれば、一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられます。
生涯抱きつづけた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散します。いかに誠意をこめて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われわれは“信条”にはさしてこだわりません。それよりもわれわれは、“行為”を重要視します。何を信じていたかは問いません。何を為したかを問います。
なぜなら、人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解しているからです。そうした性格は長い苦難の過程をへてようやく改められるものであり、それゆえにわれわれは、言葉より行ないに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのです。
われわれの説く宗教は、行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれな信仰の宗教ではありません。身体の宗教でもあり、魂の宗教でもあります。打算のない、進歩性に富む真実の宗教です。
その教えには終局というものはありません。信奉者は数知れない年月を掛けてひたすら向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨きつくされた霊 – 苦しみと闘争と経験によって磨き上げられた霊 – が、その純真無垢の姿で大神の足もとに跪(ひざまず)くのです。
この宗教には怠惰も安逸も見出せません。霊の教育の基調は真摯と熱意です。そこには、おのれの行為がもたらす結果からの逃避は見出せません。不可能なのです。罪科はそれみずからの中に罰を含むものだからです。
また、おのれの罪を背負ってもらう都合のよい身代わりも見出せません。みずからの背に負い、その重圧にみずから苦悶せねばならないからです。
さらに又、われわれの宗教には、これさえ信ずれば堕落した生活がごまかせるとか、これさえ信ずれば魂の汚れが覆い被せるなどという、卑怯な期待をもたせて動物的貪欲と利己主義を煽(あお)るような要素も、いずこにも見出せません。
われわれが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではありません。そのような気まぐれな隠れ蓑(みの)は死とともに一気にはぎ取られ、汚れた生活が白日のもとにさらされ、魂はそのみすぼらしい姿を衆目にさらします。
また、われわれの説く宗教には、そのうち神は情けを垂れて、すべての罪に恩赦を下さるであろうなどという、けちくさいお情けを求める余地など、さらさら見出せません。そのような人間的想像は、真理の光の前に呆気なく存在を失います。
神の情けは、それを受けるにふさわしい者のみが受けるのです。言いかえるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進歩がおのずとその報酬をもたらすのです。そこにはもはや情けも哀れみも必要としません。
以上が、われわれの説く霊と身体の宗教です。神の真理の宗教です。そして、人類がこれを理解する日も、ようやく近づきつつあります。(3)
(1)the Christ(ザ・クライスト)というのは語原からいうと“聖油を注がれた人”という意味の称号で、スピリチュアリズム的にいえば霊的真理を理解した人、すなわち“霊覚者”ということである。17節[注釈](5)参照。
(2)この引用句どおりの言葉は新約聖書・旧約聖書のいずれにも見当たらない。その前で“バイブル”と言わず“聖なる記録”と言っているところをみると、古代インドかどこかの聖典の中にあるのであろう。
(3)本節はタイトルどおりスピリチュアリズムの真髄を説いたもので、ほぼ半世紀後に出現したシルバーバーチ霊の教えと完全に付節を合している。これによっても、スピリチュアリズムの名のもとにおける地球浄化のためのさまざまな事業 – 物理的ならびに精神的心霊現象、奇跡的心霊現象、独裁者の失脚と自由思想の発展等々 – が、地上でイエスと呼ばれた霊を最高指揮者とする地球規模の霊団によるものであることが肯(うなず)かれる。その最大の基盤となるのが、本節で説かれている霊的真理である。
インペレーターとシルバーバーチの相違点を強いて指摘すれば、再生(生まれ変り)について双方ともその事実は認めながら、インペレーターは“人間が考えているようなものとは違う”と言うに留まっているのに対し、シルバーバーチは因果律を基本とした魂の向上進化にとって不可欠の要素として、思い切って前面に押し出して説いている点であろう。
第20節 懐疑と猜疑
[この時点でいろんな霊からの通信が届けられた。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて、私の心に確信を植えつけるためということだった。その中のひとりに、著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実をその人の身内の人に知らせてもよいかと尋ねた。すると – ]
それは無駄であり、賢明でもありません。彼の身内の者は交霊の事実を知らないし、われわれが知らしめようとしても不可能でしょう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山でしょう。
とにかく今は身内の者に近づくことはできないでしょう。これは、後に残した地上の肉親と何とかして連絡したいと思う、他界したばかりの霊が味わう試練のひとつなのです。
大体において他界してすぐは、身内の者に近づくことはできません。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのです。自分からのメッセージが何よりも証拠として効果があり、かつ望ましかろうと思いすごし、その強い波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破ろうとしても破れない強い障壁をこしらえるのです。
霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時にはじめて、霊は地上へ近づくことが可能となります。このことに関しては、このあと改めて述べることもあるでしょう。
さて、そういう次第で、そなたの知人は今は血縁関係の者との連絡を断たれております。受け入れる用意のない者に押しつけてみても有害無益です。これは、われわれにもどうしようもない不変の摂理のひとつなのです。
理解力のない者に霊的知識を押しつけるわけにはまいりません。哲人でさえなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を、3歳の童子に説いてみたところで無意味でしょう。
もっとも、童子には実害はないかも知れません。が、不用意に押しつけることによって、われわれの本来の目的達成が阻害され、真理を授かるべき者が授からずに終ることにもなりかねません。賢明な者はそのような愚は犯しません。
受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りです。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試そうとする者たちの、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるでしょう。そのような法の逆進は許されません。そう心得ていただきたい。
[ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記(1)によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合、霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信用するわけにはいかない、と強く抗議した。するとインペレーターが答えた – ]
今ここで身元確認の問題について議論しようとは思わないが、そなたが指摘していることは容易に説明のつくことです。あの霊の身元についてはこのわたしが保証し、そなたも、少なくともわたしの言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記した霊が犯したものです。
そなたらが直接書記と呼んでいる現象は、今回はそなたのたっての要請に応じて行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはいません。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊の、いわば代書のような役をするのが通例です。
これには、多くの場合、数人の霊が携わります。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったとみえる。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回のように容易に説明のつくものばかりであることがわかるであろう。
[私の精神状態の乱れのせいで、交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかし時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしいと、それから出る音も調子はずれで、軋(きし)むのです”と言ってきた。
が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に、神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。1873年9月30日に次のような通信が届けられた。]
神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もありますが、神経の1本1本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶いません。
われわれとしてはほとんど手の施しょうがなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯となります。そのような状態の時は、われわれの世界との交信は求めぬよう忠告します。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。
そなたはこれより急速に進歩し、それが、あらゆる種類の霊的影響を受けやすくします。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企(たくら)みます。悪そのものは恐れるに足りませんが、それによる混乱は避けられません。
高度に発達した霊媒(霊能者)は、指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会への出席は避ける用心が肝要です。交霊会に危険はつきものですが、今のそなたの精神状態では2重の危険性に身をさらすことになります。催す時は忍耐づよく、かつ受け身の精神で臨んでもらいたい。そうすれば、そなたの望む証拠も得やすいでしょう。
[私は、たとえそういう態度で臨んだところで、結局は私自身の判断力で判断するほかはないのではないか、と述べた。さらに私は、疑問を解くカギになると思える事柄を2、3指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信 – それも私をただ惑わせるだけだったこれまでの通信よりも、その方がよほど決定的な重要性をもっているように思えたのである。
どう考えても、世界的な大人物が、私ごとき一介の人間のために、人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやってくるとは思えなかった。そこで、むしろ最近他界したばかりの、生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす、何か良い証拠を出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。
さらに私は、スピリチュアリズム思想の拠(よ)ってきたる淵源と規模との問題点、とくに霊の身元の問題について、明快にして総合的な説明を切望した。私は、これまでの言説のすべてを真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を、完ぺきで間違いないものにしてくれないと困る、と述べた。
その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいる、といった程度のこと以外には、証言らしい証言は何ひとつ見当たらなかったのである。
それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力してみても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して、10月1日に次のような通信が届けられた – ]S
全能の神の御恵みの多からんことを!
そなたが提出した問題についてわれわれがそのすべてに対応せず、また議論しようともしないのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完ぺきな証拠を持ち出すことが不可能だからに過ぎません。
もっとも、多くの点においてそなたが率直で汚れのない真情を吐露してくれたことには、感謝の意を表したい。が、それでもなおかつ、そなたの心の奥底にわれわれの言説に対する不信と、われわれの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけにはいきません。
これは、われわれにとって大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられます。疑うこと自体は決して罪ではありません。ある言説が知的に受け入れられないことは、決して咎められるべきことではありません。
が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物にすぎない勝手な判断基準に照らそうとする態度は、悲しむべき結果に終るであろうし、そこに、われわれの不満の根源があるのです。
そなたの疑念にはわれわれも敬意は払います。そして、それが取り除かれた時はそなたとともに喜ぶことでしょう。が、それを取り除こうとするわれわれの努力を“あたら”無駄に終らせる態度は、われわれとしても咎めずにはいられないところであり、非難するところです。
その態度はそなたを氷のような障壁の中に閉じ込め、われわれの接近を阻みます。またそれは、率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄ともいうべき暗黒地帯へと引きずり込みます。
そうした意固地な心の姿勢は邪霊による破壊的影響力のせいであり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねません。
われわれは、そなたからそのような態度で臨まれるのはご免こうむります。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれわれの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪(たま)りません。
そなたは何かといえばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭におき、その視点から現在を見ようとする傾向がありますが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉が、われわれの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。
イエスが最後まで自分の言葉以外のしるしは与えなかったことは、そなたもご存知であろう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索しないでおきましょう。不可能だったのかも知れません。不必要とみたのかも知れません。
精神的土壌がそれを受け入れない状態にあったのかも知れません。今のそなたがまさにそれと同じ状態です。議論を強要する時の、その荒れた気性そのものが、われわれの適切な返答を阻んでしまうのです。
イエスの場合も多分それと同じ事情があったのでしょう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、おのれの知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順な、心のか弱い人々、真理ひとつ拾うにも、おどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態でもたらされるものであるかも詮索しない、忠実にして真っ正直な人たちでした。
イエスのその態度は生涯変わりませんでした。その姿勢は、まさに父なる神が人間に対するのと同じでした。神の真実の恩寵に浴するのは、おのれの我が儘を押しつけておいてそれがすぐに満たされないと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってもなお“父よ、どうか私の望みよりも、あなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを!”(2)と祈る、謙虚にして疑うことを知らない、敬虔な平凡人です。
これが神の御業(みわざ)のすべてを支配する摂理です。それを具体的にキリスト教界に見ることは、今は控えます。ただ、ここで指摘しておきたいことは、そなたの頑固(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら1歩も退こうとしない独善的議論の態度は、そなたにとって何の益にもならないということです。
不本意ながらも、われわれはその姿勢を譴責(けんせき)せねばなりません。過ぎこし方を振り返ってみるがよい。われわれとの関わり合いの中で体験したもろもろの出来事を思い返してみるがよい。
そなたの生活全体に行きわたっている背後霊の配慮について、そなたは何ひとつ知りません。
そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響から守り通すための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解から救うための配慮 – – こうした目に見えない配慮について、そなたは何ひとつ知りません。しかし、その努力の証は決して秘密にしてきたわけではありません。
このところ、そなたのもとを離れたことは一日とてありません。われわれの言葉、われわれの働きかけは、そなたの知るとおりです。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺(あざむ)いた言葉があったであろうか。
われわれの態度に、卑劣なもの、利己的なもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われわれにとって不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対して侮辱的な言葉、愚かしい言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣な策略、浅ましい動機によってそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道から引きずり下ろすような行為をしたであろうか。
要するに、われわれがもたらした成果から判断して、果たしてわれわれの影響は“善”を志向するものだったであろうか、“悪”を志向するものだったであろうか。神を志向するものだったであろうか、その逆を志向していたであろうか。
そなた自身は、それによって“改善”されたと思えるであろうか、それとも“改悪”されたと思えるであろうか。無知が深まったように思えるであろうか、無知から救われたように思えるであろうか。少しでも“まし”な人間になったように思えるであろうか、“つまらぬ”人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じなくなったであろうか。
われわれの存在そのものについて、あるいはわれわれの教説について、誰が何と言おうと、筋の通ったものであれば、われわれは少しも苦にはしません。聞く耳をもつ者すべてに、われわれは公然と主張します – われわれの教説は神の教えであり、われわれの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。
われわれは、イエスがそうであり、みずからもそう述べているように、公言した教説については、必ずその証となるべき“しるし”を提供してきました。当然納得してしかるべき一連の証拠を提供しました。これ以上付け加えようにも、もはや困難なところまで来ています。
霊力の証を求めるそなたの要求に対しては、決して労を惜しむことなく応じてきました。それどころか、よりいっそう顕著な現象を求める同志の要求を満たさんとして、そなたの健康を損ねることまで行ないました。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれわれの高い視野から判断して望ましいとみたものは、すべて、喜んで応じてきました。
確かに、要求を拒否してきたものもあることは事実です。が、それは、そなたが無理な要求をした場合、ないしは、そうすることがそなたにとって害になることを知らずに要求した場合にかぎられます。そなたとは視点が異なることを忘れてはなりません。
われわれはそなたよりはるかに高い視点から眺め、しかも、そなたよりはるかに鋭い洞察力をもって眺めている。ゆえに、人間の無知と愚かさから出た要求は拒否せざるを得ないことが、しばしばあります。もっとも、そうした正当な理由によってわれわれが拒否してきたものは、要求に応じて提供した証拠に比べれば、微々たるものにすぎません。
その証拠は、地球に属さないエネルギーの存在、慈悲ぶかく、崇高にして尊い霊力の存在を証し、それがほかならぬ神の御力であることを証すに十分です。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、かつ又、われわれの身元についての言説を真剣に疑(うたぐ)る…。
どうやら、そなたにとっては、これまで崇めてきた尊い歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが、よほど引っかかるのであろう。
そこでそなたは拒絶し、無知からとはいえ、無礼にもわれわれを詐称者である – 少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善人ぶったことをしているのである、と非難する。
が、そう批判しつつも、そなたは、われわれが詐称しなければならない根拠を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれわれが地上に派遣された動機を見出し得ず、人間にとっての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。
そなたのそもそもの誤りはそこにある。われわれもその点は譴責せざるを得ません。あえて言おう。それはそなたにとって、もはや“罪”ともいうべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことは、われわれはご免こうむる。そのような視点から要求する証は提供するつもりはありません。
われわれは、もはやこれ以上1歩も譲歩できないギリギリの限界にきている。これまでそなたの前に披露してきたものを侮(あなど)るのは結構であるが、それによって危害をこうむるのはそなた自身にほかならないことを警告しておきます。
過ぎこし方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠を、ただの幻想として片づけることのないよう警告しておきます。
今はこれ以上は述べません。ともかくわれわれとしては、そなたのような判断を下されることだけはご免こうむります。われわれは当初、こうした霊的教訓の受信者として、そなたを最適任者として選んだ。
願わくば現在の無知と愚かさとから一刻も早く脱し、われわれがそなたを選んだ時の、あの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを切望する。そうしたわれわれの願いを、そなたが持てるかぎりの能力と率直さとをもって検討しなければなりません。
今後のそなたとの関係も、それによって決定されます。ぜひとも公正に、そして神に恥じぬ態度で判断してもらいたい。決して焦ってはなりません。早まってはなりません。事の重大性と、その決断のもつ責任の重大さを認識した上で決定されたく思います。
その間、新たな証を求めてはなりません。求めても与えられないと思っていただきたい。他のサークルとの交わりも避けるよう警告しておきます。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。いたずらに迷いを増幅させ、それがわれわれをいっそう手間どらせることになります。
やむなく生じた問題に関しては、われわれから情報を提供しよう。また、われわれのサークルでの交霊会は、決して勧めもしませんが、あえて禁止もしません。ただし、たとえ開いても、新たな証拠は出しません。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばなりません。
かつてわれわれは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがあります。このたびも、改めて同じことを述べておきます。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで、時には参加いたしましょう。その条件については後で述べます。が、なるべくならば当分は催さない方がよい。
こう申しても、決してそなたをひとりに放置しておくということではありません。そなたは常に2重3重に守られていると思うがよい。これにてひとまずそなたのもとを去りますが、祈によってそなたを守りつづけます。
みずからを律しきれずにいるそなたに、全能の神の導きのあらんことを!
†インペレーター
(1)モーゼスは“まえがき”の冒頭で自動書記のことを“直接書記”とは区別する必要があると述べたり、直接書記の専門霊媒ヘンリー・スレイドを引き合いに出したりしていることからも窺えるように、この現象には特別の関心を抱いていて、Direct Spirit Writing(霊による直接書記)という論文調の書物を出している(1878)ほどである。
その中にはいろんなタイプの例が紹介されているが、モーゼスらしく、自分自身の体験は述べていない。が、モーゼスの死後、スピーア夫人によって公表された本書の続篇 More Spirit Teachings の中に興味ぶかいモーゼス自身の体験が出ているので、それを《参考資料》として巻末に紹介しておく。
(2)ルカ22・42
第21節 インペレーターの最後通牒
[この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は相変らず強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。
そして私をしきりに過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのだった。私の背後で何が行なわれているのか、当時はまるで理解できなかったが、今にして思えば、それは私の霊的教化の一環であった。
私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。そして、それまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをバラバラに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の安まることがなかった。
それほど、私を支配した力は強烈だったのである。私の心がこの通信以外のことを思うのは、わずかに教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。
そこで私は自分で厳律をもうけた。それは通信に関わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ10年間守りつづけている。日課を終え、さて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。
さんざん考え抜いたあげくに、私は、これまでインペレーターが相手にしてくれなかった問題を、これ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。インペレーターの頑固な態度には何か特別の意味があると見たのである。
私はインペレーターの要求を何ひとつ拒絶したことはなかったが、逆にインペレーターは、意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて、私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。
それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙そうと企む一団によって弄(もてあそ)ばれているのではないとの確信が得られると思ったのである。
そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが今だに相手にされていないこと、私から手を引くかもしれないとの脅(おど)しは、事を悪化させるばかりであると述べた。
さらに私は、これからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。
しかし同時に、身元についての得心が得られるまでは、これ以上先へ進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性がなく曖昧であること、そして私が置かれている精神状態は、あのような表現では正しく表現されていないと指摘した。
また、イエスが“しるし”を見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。
総引きあげの件についても、そんなことをすれば、それはこの私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私自身の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。すると、すぐに返事が来た – ]
友よ、そなたの述べたところを吟味してみて、われわれもそなたの言い分に妥当性を認めたく思います。われわれがあのような厳しい言葉で責めたのは、情報を得たいというそなたの欲求そのものではなく、われわれに応じきれない条件を強要するその心の姿勢です。
また、そなたのしつこい反抗的態度、少なくともその時のそなたの不安と不信の念がわれわれに与える印象を、ぜひそなたに知らしめたいと考えたのです。あのような乱れた精神状態はわれわれの妨げとなるからです。
われわれには果たさねばならない使命があります。いたずらに無為に過ごし、貴重な時と機会を無駄にするわけにはいかないのです。為さねばならない仕事があるのです。何としても果たさねばならないのです。そなたのサークルがだめとなれば、他のサークルを通じてでも果たさねばなりません。
われわれが総引きあげの意図がある旨を述べたのは、要求を満たしてくれなければ先へ進めないというそなたの言い分を受け入れたからにほかなりません。われわれの側として、そのような要求に応じるわけにはいかなかったのです。それで総引きあげの必要を感じたのです。
われわれとしても、せっかく築きあげた関係を打ち切り、辛苦の中に成就してきた仕事を1からやり直すことは、もとより望むところではありません。将来はそなたをいっそう強く支配することになるかも知れません。休息と反省とがわれわれとそなた自身にとってよい薬となるかも知れません。
今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さない方がよい。よくよく真剣な要求でもないかぎりは、われわれは応じません。これまでに述べてきた以上のことを付け加える第意図意図も、まったく持ち合わせません。そなたが要求している条件も感心しません。
そのような条件がひとつ増えるごとに環境が変化し、それが余計な心配と手間の原因となります。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言いませんが、この際はその見通しもなく、それゆえ、そなたの提案に同意するわけにはいかないのです。
そなたが霊媒となって行なうすべての物理的実験を、これ以後絶対に禁じます。それによる肉体的消耗にそなたは耐えられないからです。昨今はあまりに物理的現象に重きを置きすぎています。現象はせいぜい副次的な意味しか持ちません。しかもそなたは、他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。
すべて差し控えてもらいたい。いたずらに進歩を遅らせ、ついには危害と落胆をこうむるのみです。そのような手段では、そなたの益になるものは得られません。これまではあえて出席を阻止することまではしませんでしたが、これ以後は阻止しなければならないことを承知されたい。
われわれとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばなりません。これは大切なことです。排除してくれなければ、われわれの仕事はますます困難となり、他の霊にそなたが憑依される危険性もあります。
その霊たるや、そなたがもしもその本性を知れば、そなたの方から逃げ出したくなる類のものであり、およそわれわれと仕事を共にできる性質(たち)のものではありません。
そなたの霊能が他のサークルの霊にとって役に立つと思うのは誤りです。われわれはあえて阻止します。そのような方法ではそなたの求める証拠は得られないし、他の霊媒の為にもなりません。むしろ逆効果です。そのようなことにそなたが使用されるのを見過ごすわけにはいきません。
そなたが持ち出した問題について、今はこれ以上深入りしません。もしもわれわれがそなた本来の実直さと忠節を認めていなければ、とうの昔に、これほど実りのない苦労は中止していたことでしょう。
今少し賢明であれば行なわずに済んだであろうことを、そなたは無知ゆえに行なってきました。そなたの同志たちも、われわれが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そしてそなたにも、できるかぎりの益をもたらしてきたつもりです。
しかし、こうした問題においては、われわれの力にも意志にも、限界があります。しかも、全体的にみて、そなたに相応(ふさわ)しくないものを押しつけることになれば、われわれの側に配慮が足らなかったことになります。
これよりのちも援助することになることでしょうが、差し当たってこの時点では、これ以上のことはできかねます。新しい試みをするつもりもありません。
これ以上無益な時間と労力とを費すわけにはいきません。無益であることを、そなたの状態をみて悟ったのです。そなたの言説を聞けば、少なくともそなたの知力はわれわれの仕事の本質を理解していないことがわかります。
大前提として要求している例の実験(1)には応じられないし、応ずる気にもなれません。そのようなことで確信が得られるものではなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもありません。
そのような要求に応じても、そなたはまた新たな要求を突きつけてくるにきまっています。確信というものは、そのような物理的手段によって確立されるものではないのです。
それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。そなたは目の前に提出されたものを脇へ押しやっています。そなたが得心のいかないものを率直に拒否すること自体、少しも非難はしません。が、拒否されてしまえば、もはやわれわれとしては、他に取るべき手段を知りません。
ゆえにそなたの選択は永遠の重要性を秘めていることになるのです。そして、そなたはすでに最終的選択を行なっているやに察せられます。それが果たして賢明なる選択であるか否かは、時が証明してくれるでしょう。そして、その時に、その選択の誤りを幾分かは修正することができるかも知れません。
が、願わくば今、細心の反省を行なうことによって、その選択を撤回してくれることを祈り求めるものです。
†インペレーター
[翌10月4日も引き続いて通信が来た。その中にあまりに私的な内容のものが含まれているので、その部分は公表を控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。
内容的には結局これまでの主張のくり返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩を示している。とくに総引きあげの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫してみられる理路整然とした論調の典型を思わせるもので、幾分か私的な色彩があっても、そのまま紹介する。
きわめて読みやすい文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終えるまで私にもその内容がわからなかったほどである。]
神の僕(しもべ)として、また使者として、そなたの指導と守護の任にある者として、わたしは、そなたに神の御恵みの多からんことを祈ります。至聖にして慈悲深き父なる神の祝福のあらんことを。目にこそみえなくとも、そなたを包む力強き神の御力が、何とぞそなたを良きに計らい給わんことを。
われわれは今、これ以後の計画をすべて放棄する前に、ぜひともしばしの間を置くようにとの要請を受けております。とくに〇〇氏 [他界したばかりの私の友人で死後すぐに通信してきた](2)から強い要請がありました。
彼は信仰問題でそなたが置かれている苦しい立場について、われわれより生々しく、かつ強烈な印象を有しているのであろう。
われわれの仕事は、もしそなたが駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、ともかくしばしの猶予を考慮してやってほしい – そなたほどの証を手にする者が最後まで完全な確信に抵抗しうるはずはない、というのがその言い分である。
そなたの視点、いかに公明正大な精神も免れ得ない偏見、それに、交霊につきものの様々な困難 – こうしたものも考慮せねばなりません。そなたには疑わしく思えても、われわれはそ
の真相を知り尽くしているがゆえに、そなたのその頑固な態度がいかにも合点(がてん)がいかないが、それでもなお、われわれはそなたの疑念に率直さと現実味とを認め、それが、これよりのちの確信の可能性を示唆するものであろうとの希望を抱いております。
これまでわれわれは、そなたの心が近づき難い雰囲気に包まれていないかぎり、そなたの悩みに答えてきました。が、あれほどの辛苦の末に結成したサークルも用を為さぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれわれの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得ませんでした。
物理実験のしつこい要請はわれわれの望むところとあまりに懸け離れていました。われわれはそのような目的でそなたを選んだのではありません。かりにそうであったとしても、そなたの身体をあのような現象で消耗させるわけにはいきません。
さなきだに激しい消耗を強いられる生命力と、絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいきません。あの種の実験にはそれなりの体質を必要とします。それには、反対に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が適切です。
そなたを通してわれわれは、こうして“書く”手段によって、述べたいことを実に効果的に伝えることを得てきました。が、振り返ってみるに、その大部分はそなたの抗議への対応に終始し、サークル活動も、その所期の目的は今だに達成されぬままとなっております。
そうした中において、さらにそなたは、われわれが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきました。その折われわれは、これを、さらに新たな要求を突きつけてくる先がけにすぎないと受けとめたのです。
そして、そなたはまだわれわれのこれまでの言説を十分に吟味していないと見ました。その上われわれは、証拠ならばそなたが愚かにも要求しているもの以上のものを、われわれにとっての好機を見計らって出すこともできたのです。
そこでわれわれは、いっそのことそなたがこの仕事を中止すれば、言い換えれば、われわれがこの通信の仕事からしばし引きあげてしまえば、多分そなたの心はおのずと過去へ向かい、そこから正しい教訓を学んでくれると判断したのです。
が、別な見方もできます。つまり、たとえわれわれが引きあげたところで、そなたの霊的能力まで消すことはできない。われわれが使用を中止するということにすぎません。
するとその霊力が他の霊によって牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、ついには、われわれの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねません。その危険を無視するわけにはいきません。もしもそなたをそのような状態に放置すれば、そなたが懐疑から不信へと陥るであろうことも十分承知しています。
直感的判断力よりはるかに幅をきかせているそなたの論理的判断の習性のために、恐らくそなたは、それまで毎日のように出ていたものが出なくなれば、その存在を信じなくなるでしょう。印象が薄れ、やがて消滅していくことでしょう。
そこで、困難を回避する唯一の道は辛抱強く待つことであるように思われます。将来の結果を予言することはできませんが、そなたの前に2本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかはそなたの理性が決めることであること、この2点に間違いはありません。
われわれにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する権利はありません。責任はすべてそなたにあります。選択に誤りがなければ、そなたの魂は進歩と啓発の道を歩むことになります。その道を拒絶すれば、当然、暗黒と退歩の道を進むことになりましょう。それもこれも、そなたの判断次第で決まることです。
われわれとしては、これまでの主張を一語たりとも削るつもりはありません。むしろ、さらに強調したいところです。その実相については、そなたもこののちいっそう明確に理解することになるでしょう。
が、今は神の使徒としてのわれわれの存在と、これまでの教説について、真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味してもらいたい。過去を振り返ることです。教説を吟味することです。記録を分析し、その中からそなたなりの結論を引き出すのです。
その間の進歩の足跡に注目していただきたい。神より出された教義がいかに入念な配慮によって仕上げられてきているか、その過程に着目されたい。そして、その過去を踏まえて将来への展望を広げてみてほしい。
そなたは今まさに重大な境界線上に立っていること、魂の進歩の前に取り除かねばならぬものが数多くあること、建物を構築するに先立って地ならしの工事が必要であること、永遠がそなたを待ちうけていること、われわれが真理の扉を開くカギを授けんとしていることを認識されたい。
どうか、2度と訪れぬこの機を拒否する前に、しばしの間を置いてみられることを切望する。拒否したが最後、それは暗い影となって永遠にそなたの魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となって、永遠にその輝きを増し続けることであろう。
祈れ!父なる神に祈るのです!そなたを守り、われわれをして引き続きそなたを導くことを得さしめ給わんことを祈るのです。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、そなたを導かんとして待機している明るい霊との交わりを求めて祈るのです。
そなたほど厚き看護を受けている者はいないものを、その看護をそなたほど無益にした者はいないということになっても構わぬのであろうか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪(よこしま)なる影響力から守られるよう、そして又、より高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、そなたとともにわれわれも祈ろう。
父よ!永遠にして無限、全知全能なる神よ!子なるわれらに、御前に近づき、願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届けくださると信ずるゆえにほかなりませぬ。
永遠なる神よ!何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物とを取り除き給え。疑う心に一条(すじ)の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠(ひそ)れる敵対者を払いのけ給わんことを。
われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけその愛の力も大なるを要するのでございます。
全能なる神よ!何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心からの敬慕の念を捧げさせ給え。
御身の使者たるわれらより、御力のしるしである宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります!
†インペレーター
[この通信が事実上これまでの一連の議論の締めくくりとなった。むろん、これで私があっさりと確信に至ったわけではない。しばしの議論の小休止、とくに霊界との関係を全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持で振り返らせることになった。
それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。というよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと表現したほうがよいであろう。]
(1)他の霊媒を通じてインペレーターがしゃべり、モーゼスを通じて働きかけている霊と同一であることを証明し、そうすることで、その存在が客観的存在でありモーゼスの第二人格でないことを証明するということ。
これは条件次第では可能なことで、シルバーバーチも1度だけ、エステル・ロバーツという女性霊言霊媒を通じてバーバネル夫妻に語りかけたことがある。
が、この場合、ロバーツ女史の背後霊団もシルバーバーチの霊団と同じスピリチュアリズムの大計画の一環を担った霊団であり、しかもバーバネルはそれまでにロバーツ女史の交霊会のほとんど全部に出席して、そのメモを取っていたほどの親密性があったからこそ出来たことである。
(2)モーゼスのサークルの数少ないメンバーのひとり。よほど霊的知識を理解した人であろう。そうでないと他界してすぐに通信を送ることはできない。この重大な時期に他界し、しかもその仲裁のおかげで霊団の使命がどうにか完(まっと)うできたことを考えると、インペレーターよりさらに霊格の高い霊で、この霊団の総監督であるプリセプターの配慮によるものと察せられる。
第22節 天上界と地上界
[インペレーターがしばらく不在だったので、次に出た時にその理由を尋ねると、地上とは別の用事があって留守にしたということだった。そして、別に私のすぐそばに – という言い方が適切かどうかは別として – いなくても、影響力を行使することはできるがそのためには、いわば意念の操作を必要とするということだった。
そうなると他に急務が生じた時にはそれもできなくなる。今回も、そしてこれまでにも何度かあったが、霊界の上層部において、大神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるため
に、数多くの神霊が一堂に集結したという。(1)その他の質問に対して長文の回答があったが、次に紹介するのはその一部である。(12月12日)]
われわれは大神への礼拝と祈願のために、地上の使命につきまとう気遣いと苦心から離れ讃仰の境涯の安らかな調和の雰囲気に、しばし浸ってきました。使命に挫折と衰微をきたし、悲しみのあまり気弱となり、あるいは熱意に燃えて邁進する勢いを殺がれることのないよう、時には休息し、聖なる天使たちと交わることによって気分を一新するのです。
ああ、そなたはこれまで混雑した都会の細い裏通りを辛苦して歩み、慈悲の使命に燃えて悪徳の巣窟に踏み込み、むせ返る不潔な悪臭をかがされ、悲劇と罪悪の光景を目のあたりにしながら、それを取り除くことはおろか、幾分かでも軽減することすらできなかった。
ならば、われわれがいかなる気持を抱きつつそなたたち人間の中にあって使命に勤しんでいるか、ある程度は察しもつこうというものです。そなたも人の不幸に心を痛めたことがあった。施す術(すべ)もない無知と愚行と悪徳に思いあぐねたこともある。貧困と犯罪の世相の前に、おのれの無力を痛感したこともある。
身も心も、実りのない努力に疲れ果てたこともある。が、その時、われわれとて、平然として任務を遂行していたのではありません。その間、どれだけ地上の窮状を目撃し、どれほど心を痛めてきたことであろうか。
そなたはとかくわれわれのことを、そなたらの実生活には関心を抱かず、悲劇を知らず、日常の労苦に関わりをもたない、遠く離れた謎めいた存在のように想像しがちであるやに窺える。
われわれもそなたの心をのぞき込み、隠された悲しみを地上の“人間以上に実感をもって知ることができる”ことを知らないようである。われわれのことを俗世から掛け離れた存在のごとく想第像しているらしいが、実は地上の悲しみも喜びも、人間と共に実感をもって認識しているのです。
地上生活につきまとう物的悲劇も精神的悲劇も、われわれの視野に入らぬかのごとく想像しているようであるが、とんでもない誤解です。むしろわれわれの方が、そなたたちよりはるかに鮮明に、悲しみを生み出す要因、犯罪へ引きずり込む誘因、絶望へ追いやる悲劇、悪徳と罪悪に群がる邪霊の集団を見ているのです。
われわれの視野は物的悲劇にかぎられているのではありません。霊的誘因もありありと目撃できるのです。物的視野に映じる悲哀にかぎらず、人間が一向に知らずにいる隠れた悲哀もありありと見えます。
われわれが人間の悲劇や犯罪をみることも知ることもできないと思ってはなりません。さらに又、人間と交わり地上の雰囲気に浸ることによって、われわれもまた、その汚れに幾分かは染まることが避けられないことも知っていただきたい。
比べてもみられよ。雑然とした都会の裏小路の息も詰まらんばかりの悪徳の生活 – 悲劇と罪悪の温床へと足を踏み入れた時のそなたの気持と、高き世界より低き世界へと降りてくる時にわれわれが味わう、冷たく寒々とした気持とを。われわれは光と無垢の美の界層から降りてくるのです。
そこには不潔なるもの、不浄なるもの、不純なるものは、ひとかけらもありません。その視野には目障りなものは何ひとつ見当たりません。暗闇もありません。目に入るものはすべて輝くもの、至純なるもののみです。完成された霊の住む世界、平和のみなぎる環境を後にするのです。
光と愛、調和と崇敬の念に満ちた境涯を離れて冷ややかな地球、暗黒と絶望の地、反感と悲哀の気に満ちた世界、悲劇と罪悪の重苦しい雰囲気に包まれた世界 – 人々は従順でなく、信じることを知らず、物欲に浸り切り、霊的教唆に反応を示さない世界 – 悪徳の巣窟と化し、邪霊に取り囲まれ、神の声の届かぬ世界へと降りてくるのです。
神の光と真理の輝く世界から地球の暗黒へと向かいます。そこでは神の真理の光は、わずかに数えるささやかな交霊会を通して、ほんのりとした薄明かり程度にしか見られません。
調和と平和から騒乱と不和、戦争と不穏の中へと入り込むのです。純粋無垢の仲間に別れを告げて、懐疑と侮蔑に満ちた冷ややかなる集団、呑んだくれと好色家、あぶれ者と盗人にあふれる世界へと降りてくるのです。
天使がこぞって神を讃仰する神殿を後にして、人間の想像の産物である偶像の君臨する地上へと向かうのです。時にはそれすら無視され、人間は霊的なもの、非物質的なものへの信仰のすべてを失ってしまっております。
かくして、ようやく降りてきたって見出すのは、聞く耳を持たず、何の反応も示さない人間ばかりです。中には、自分に都合のよい言説、自分の想像と一致する言説には一応耳を傾ける者がいます。
が、その者たちも、その段階を超えて1段高い真理、より明るい光へ導いてあげようとすると、われわれに背をむけます。イエスと同じことをわれわれも体験させられるわけです。
つまり人間は、奇跡を演じてみせようとすると感心する。そして、自分の個人的興味がそそられ好奇心が満たされるかぎりは、ついてくる。が、その段階から引き上げ、自己中心的要素から脱して永遠の価値を有する本格的真理へ近づけんとすると、背を向けます。高すぎるものは受け入れられないのです。
そこで神の計画が挫かれ、神より託された人間への恩恵が、にベもなく打ち捨てられます。その時われわれの悲しみに加えて、将来の見通しに寒々とした挫折の懸念がよぎるのです。
こうした次第で、われわれは時として休息と気分一新を求めて地上界から引きあげ、調和の世界で気力と慰めを得て、ふたたび冷ややかな地球の恩知らずの群れの中へと戻ることになるのです。
[私がこれまでに得た通信で、これほど人間的脆(もろ)さに似たもの、絶望感に近いものを披瀝したものはなかった。これまでは、終始一貫して地上的なものを達観した、威厳の雰囲気が漂っていた。
インペレーターの存在とその言葉の中で最も特徴的だったのが、その人間的脆さと地上的なこせこせした心配事に対する超然的な雰囲気だった。常に別世界に悠然と構え、人間的視野の範囲にあるものは眼中になきがごとくであった。
そうしたものに超然としていた。視野が広く、絶対的な重要性をもつものにしか関心を示さなかった。しかも人間的弱点に対しては優しく寛容的で、こちらの激情にも平然としていた。
いわゆる“この世にあってしかもこの世のものに囚われない”(2)者であり、穏やかな平和の境涯からその安らぎをもたらしてくれる訪問者の風情(ふぜい)があった。それだけに右の通信の響きが印象的だったので、その点を指摘すると – ]
われわれは、たとえ苦痛を訴えても挫けはしません。そなたと、そしてそなたの置かれた環境との触れ合いによって、やむなくそなたの人間的情念を摂取することになるまでのことです。
あのような苦痛を述べたのは、われわれも幾ばくかの犠牲を強いられていること、そしてそなたを動かしている情念と同じものによる影響を免れないことを知ってもらいたかったからです。
われわれとて精神的煩悶と霊的苦痛を味わうのです。人間の心を締めつけている心痛と同じものを、真に味わうのです。われわれがもし(そなたのいう)人間らしさを感じないとすれば、そなたにとって必要なものを見届けることができないことになります。
いずれそなたも知る日も来ようが、今のそなたがまだ知らずにいる摂理によって、地上へ降りてくる霊は一時的に純然たる人間味を帯びるのです。そして霊界へ戻ればそれを振り落とすのです。地上にあっては地上的雰囲気と地上的想念の中に融け込むのです。
[このあと私に、通信を求めることを控えて過去を振り返るように、との忠告がくり返し述べられた。物理的現象をやり過ぎると体力の消耗が激しいので危険であると述べた。とくに他の霊媒による交霊会に出て現象を観察するのは、研究発表のためによくよくの必要性のある時以外はいけないとの警告を受けた。
仕事においても、仕事以外のことにおいても、節度を守ることが大切であり、反省と休息の時間を取るようにとのことだった。そこで、われわれは交霊会を中止こそしなかったが、以前ほど頻繁に催すことは止めた。
その間にも私のために身元の証拠を提供しようとする努力が為されていることがわかった。とくに顕著なケースとして、10月14日に次のようなことが起きた。
それまで長期間にわたってよく出現していた霊に列席者のひとりが、その霊の在世中の事実が載っているある書物をもとに、細かく詰問した。その書物は出版されたばかりで、質問者のほかは誰も見ていない。
が、質問者の頭の中で、その書物に出ている他の氏名と日時が混乱していたらしく、質問された霊はその間違いをひとつひとつ叩音(ラップ)で強く指摘し、黙って見過ごすわけにはいかないと言って、氏名の読み方の間違いなどについては綴りまで述べて訂正してきた。
その時に霊が出した音には、困惑と苛立(いらだ)ちと腹立たしさが、ありありと感じられた。訂正の速さは、質問者が全部を言い終らないうちに為されるほどで、しかも正確だった。
その様子から判断して、その霊はたしかに地上時代と変わらぬ個性を留めており、記憶もすこしも損われておらず、特徴的だったバイタリティも失われていないことは疑う余地がなかった。
その夜の私の心に、それまで私に通信を送ってきた霊たちも、自称している通りの存在であろうとの確信がようやく芽生えてきた。
間違いを指摘する時のきっぱりとした強い調子、苛立ちを込めた抗弁と訂正の人間味あふれる自然な調子から、私は、それが他の霊による偽装的演出であるとはとても信じられないし、あれほど微妙な特徴を思いつくわけもないと考えたのである。翌朝その点を質してみた。]
– 昨夜のあなたの訂正ぶりには感嘆させられました。
あの本には誤りや不完全なところが多すぎます。私は○○氏とは、氏が私の弟子になる以前からの知り合いです。それに、私がパリで勉強したというのは本当です。
– 別に疑っているわけではありません。あなたがひどく真剣で腹立たしく思っておられる様子が、ありありと窺えたものですから。
いい加減な情報で、しかもいい加減な記憶で間違ったことを質問されるのは腹の立つものです。ずいぶん腹が立ったことは事実ですが、理性は弁(わきま)えていたつもりです。
– 実は私にとっては、むしろ感謝しなければならないことなのです。死後存続の証拠として、これまでにない最高のものを提供してくださったからです。
なるほど。でも、そうおっしゃりながら、スキあらば暴いてやろうと、チャンスを窺っておられるのでしょう。
– とんでもない!私はとにかく証拠がほしい一心なのですから…。
証拠なら、あなたはもうこれ以上増やせないほどのものを手にしておられます。
[こうした中にも、それまでに得られた通信、とくに今回のテストの結果に対する信頼心は、何度も逆戻りした。言っていることはウソではなかろうか。通信は名のっている本人からのものではないのではなかろうか。
つまり自分は謎めいた話、あるいは一種の寓話のようなもので騙されているのではなかろうか。それとも単に理解できないものに振り回されているにすぎないのではなかろうか、といった疑念につきまとわれていた。それは漠然としたものではあったが、私にとっては真実味を帯びていた。
こうした霊界との交信にとって最も好ましくない精神状態が禍いして、ついに、われわれのサークルは解散するに至った。メンバー全員の意見もその方が賢明であるとの結論に固まっていたと思われるが、インペレーターもしきりにそれを促し、最後には強要してきた。
そして、過ぎ来し方をよく吟味すること、とくに自分が引きあげたあと、他の交霊会に出席したり勝手に交霊会を催したりすることは危険であるとの戒めを残して – 交霊会に関するかぎり – 引きあげてしまった。
自動書記通信も幾分気まぐれな現われ方をしだした。私は次々と質問を連ねたが、出される回答はそれまでのインペレーターと同じ、断固とした目標にそったもので、それは明らかに私の精神とは対立した別個の、厳然たる知的存在が働きかけていることの証左であった。
かつてない動かし難い証拠が与えられた。綿密な計画が練られ、実行に移され、それを弁護するための数々の納得のいく筋の通った言説が述べられ、私はその一貫性をどうしても認めざるを得ないところまで追いつめられた。
私の全生涯にわたる霊的使命に関する長文の通信(3)が届けられたのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた。そして、それまで私を扱ってきた霊団の誠意と実在性を改めて確信するところとなった。
本来なら公表せずにおきたいことも相当披露することになりそうであるが、純粋に個人的なことだけは公表する気になれない。霊的実在に関する教訓を、証拠の全般的な流れに光を当てるものにかぎって公表しようと思う。〕
(1)神道の祝詞(のりと)の中に「八百万(やほよろず)の神等(たち)を神集(かむつど)へに集へたまひ…」とあるのはこのことであろう。
(2)Be in the world, but not of the world.“in”は“存在すること”を意味し“of”は“所属すること”を意味する前置詞で、言わば、この世を旅する者であれ、俗世の人間になり切ってはいけない、といった戒めであると私は解釈している。
むろんイエスは英語でしゃべったわけではない。その原典はバチカン宮殿に仕舞い込まれたままだということであるが、それに大々的な改ざんがなされたという現在のバイブルには、この文章は見当たらない。
(3)スピーア夫人が編纂した More Spirit Teachings に、その“長文の通信”というのはこのことではなかろうか、と推察される引用文がある。参考までに紹介しておく –
<“真理の太陽”の一条の光がそなたの魂に射し込んだ時、死せる者たち – とそなたが思い込んでいた人たち – も生者の祈りによって救われること、永遠の煉獄は神学的創作、あるいはそれ以上に愚かなたわごとであることを悟られました。
神は、神を求める子等すべてを等しく好意の目をもって見つめ給い、信仰と信条よりも正直さと誠実さの方を嘉納されることを学ばれました。
そなたは又、神はバイブル以外のいずこにおいても、また他のいかなる形でも人間に語りかけておられること – ギリシャ人にもアラブ人にもエジプト人にもインド人にも、その他、すべての子等に等しく語りかけておられることを学ばれた。
神は信条よりも誠心誠意を嘉納されることを学ばれた。そなたの心の中でプラトンの思想が芽を出し、その言葉が甦ったこともあります。が、その時はまだ、神の言葉はプラトンを通じて啓示されても、あるいはイエスを通じて啓示されてもその価値に変りはないとの理解ができておりませんでした。
その後そなたは、かの教父たち(1)の教理や信仰が本質的にいかなるものであったかを学ばれた。真相を理解し、それに背を向けられた。初期の教会時代の神学を精神的に超えたのです。
型にはまった神学に満足し、アタナシウス信経(2)の害毒に喜びを覚えた段階から一段と向上したのです。不合理なもの、神人同形同性説的な幼稚なものを思い切って棄てられました。
そなたにしてみれば、みずからの思索によってそうしたのだと言いたいところであろう。が、それは違うのです。われわれが手引きして、その結論を固めさせたのです。
やがてわれわれは、もはやそなたの知的ならびに宗教的水準に合わなくなった教会の牧師としての職から身を引かせるのが賢明と判断しました。所期の目的を果たした場から身を引かせ、地上での使命の次の段階のための準備へと歩を進めました。
幾度かくり返した身体上の病気も、それによってそなたの気質を調節する効果を意図したものであり、それは実は、われわれにとっては、霊力のエンジンの調節のようなものでした。それによってそなたの健全なコントロールを維持してきたのでした。
– 私のこれまでの人生はそのための準備だったわけですか。
その通りです。唯一その目的のためにわれわれは計画を立て導いてきたのです。何とかして十全な準備をした霊媒を確保したかったのです。まず精神が鍛えられていなければならない。それから、知識も蓄えていなければならない。そして生活そのものが真理の受け皿として、進歩的精神を培(つちか)うにふさわしいものでなければなりませんでした。
そのあげくにそなたは、ある時われわれにとって最も接触しやすい人物(スピーア夫人)によってスピリチュアリズムへの関心を持つよう手引きされることになりました。その際のわれわれの働きかけは強烈でした。計画を積極的に進めていきました。それまでの教説よりはるかに進んだ、神の福音を直接的に教えていきました。
今そなたが抱いている神の概念は、それまでのものに比べてどれだけ真実に近いことでしょう。ようやく理解してくれた豊かな神の愛は、どこかの一地方の一民族だけをひいきするような偏ったものではなく、宇宙と同じ無限にして無辺なのです。
いかなる教理にも縛られることなく、人類はすべてが兄弟関係で結ばれており、共通の神の子であり、その神はいつの時代にも必要に応じてご自身を啓示してこられているのです。
神人同形同性説が人間の無知の産物であること、“神のことば”としてまことしやかに喧伝(けんでん)されているものが、往々にして人間の勝手な想像の産物にすぎないこと、最高神が1個の人体に宿って降誕するなどという考えは人間の“たわごと”であること、そのような迷信は、知識が進歩すれば、それに由来する教義、神を冒瀆するような見解とともに、あっさりと打ち棄てられるものであるとの理解に到達されました。
また、“救い主”は自分以外には無用であること、自己と同胞と神に対する責務を忠実に遂行(すいこう)することこそ、幸福への唯一の道であることを学ばれました。そして今まさに、現在の罪に対する死後の懲罰、進歩と善行の結果としての霊界での充足感について、われわれ霊団が説く真理を理解しつつあります。
霊的教訓がそなたにどれほどの影響を及ぼしてきたかを知りたければ、かつて抱いていた思想を吟味し、それを現在の考えと比較対照し、いかにしてそなたが暗黒から神の真理の驚異的な光明へと導かれてきたかを見きわめることです。
そなたは、おぼろげながらも、人生が外部の力によって形づくられるものであることを認識し、霊が想像以上に人間界に働きかけているのではないかと思っておられる。事実その通りなのです。人類全体が、ある意味で霊界からの指導の受け皿なのです。
とは言え、われわれといえども、原因と結果の連鎖関係に干渉することだけはできません。人間の犯した罪の生み出す結果から救ってあげるわけにはいきません。愚かしい好奇心に迎合することもしません。試練の場としての地上を変えるわけにはいかないのです。
また、全知全能の神が秘しておくのが賢明と考えられたがゆえに謎とされているものを、われわれが勝手に教えるわけにもいきません。知識を押しつけることも許されません。提供することしか許されないのです。これを喜んで受け入れる者を保護し、導き、鍛え、将来の進歩のために備えさせることしか許されないのです。
われわれの使命についてはすでに述べました。それは、実は、人間と神との交わりの復活にすぎません。かつての地上の精神的指導者が今なお霊界において人類の指導に心を砕いており、このたびそなたを監督し守護し指導してきたのも、そなたがそうした指導者のメッセージを受けいれ、それを広く人類一般に伝えてくれること、ひとえにそれを目標としてのことでした。
そなたをその仕事にふさわしい人物とすることが、これまでのわれわれの仕事でした。これからは神の福音を受け取り、機が熟せばそれを世界の人々へ伝えることが次の仕事となるでしょう。
– では、これは宗教的活動なのでしょうか。
まさにその通りです。われわれが、人間にとってぜひとも必要な福音を説きに来た“神の真理の伝道者”であることを、ここに改めて主張します。その使命にとって大切なこと以外は、われわれは何の関心もありません。その点によくよく留意していただきたい。
さし当たってわれわれは、そなたが個人的な(霊界の)知友との交霊のための霊媒にされようとしている傾向は阻止します。その種のことに身をさらすのは危険この上ないからです。
霊覚の発達した者は、地上の人間と交信したがっている無数の霊に取り憑かれやすいことをそなたは忘れております。感受性が発達するほど、地上近くをうろつく低級霊に憑依される危険性も増えます。
実に恐ろしいことであり、そなたをそういう危険にさらすわけにはいきませ
ん。低級霊のすることは、そなたもすでにご存知のはずです。その種のものにそなたは実に過敏です。そうなった時は、もはやわれわれも手出しができないかも知れません。>
中巻終
《参考資料》
<古代においては、いずれの国家にも宗教体制があって、その聖職者階級の支配力によって治められていた。ジュリアス・シーザーに始まるローマの皇帝たちも、コンスタンチヌスに至るまでは、その征服国家の宗教体制はそのまま存続を許してきた。が、それも、西洋と東洋の宗教がローマにおいて激突して大混乱を引き起こすに至って、終止符が打たれることになる。
当時のローマの宗教でとくに勢力が大きかった神は、東洋のヒンズー教のクリシュナ神と、西洋のドルイド教のヘサス神だった。実は両者とも同じ太陽神に由来しており、太古よりそう信じられ、そう崇拝されてきていたのであるが、狡猾なローマの聖職者たちはそれを巧みに人間神にすり替えていた。そのことを国民は知らなかったのである。
そのうちクリシュナ神派の司教たちは、ヘサス神派の煽動によって次第に浸透してきたクリシュナ神への疑念と不信の波に不安を覚えるようになった。
両派ともに自分の宗教の神こそ最古で唯一の、真実の神であると主張して譲らなかった。西暦324年ごろにはその争いが深刻となり、よほど思い切った方策を講じないと収まりがつかないところまで来ていた。
以上が、福音書にいうイエスなる人物の刑死後300年を経た紀元4世紀におけるローマ帝国の宗教事情であるが、バイブルの筆録者によれば、そのイエスがこう言ったとある – “よく聞かれよ。あなたの名はペテロ(ス)である。私はその巌(いわお)の上に私の教会を建てるつもりである。地獄の門もこれには勝てぬであろう”と。(マタイ16・18。ペテロはギリシャ語のペテロスに由来し、“巌”を意味する。)
が、当時の事情は“地獄の門”が“私の教会”に大混乱を巻き起こしており、それが又、その教会の布告によって古代の歴史がすべて破棄され、国民に知られたくない事実をことごとく抹殺した新しい歴史が書かれることになった理由でもあるのである。(それを議決したニケア会議での経緯はあとで述べるとして – )
そうした破壊的な歴史的陰謀が暴かれ始めたのは、かのニケア会議から200年のちに(その会議で皇帝派の暴力によって追放された)アリウス派の勝れた後継者ユノミウスが、その事実を知って公表に踏み切ったことに端を発する。それがキリスト教界に大きな衝撃を与えたのである。
ローマ教会としては当然そうしたユノミウスによる暴露事実が広く知れわたるのを放置しておくわけにはいかない。そこで、その強力な権力を行使して、ニケア会議の経緯を記したユノミウスの全著作、さらにはそのユノミウスを告訴しようとする動きに抵抗する者たちの著作のすべてを、一片の痕跡も残らないまでに隠滅する工作に出た。
ユノミウスが暴いた事実は、ローマ国教会なるものがいかなる経緯で紀元4世紀に設立され、さらにその“神(ゴット)”として“イエス・キリスト”なる人物がどのようにしてでっち上げられるに至ったかを明かしていたのである。
が、真実を永久に隠しつづけることはできない。陰謀に満ちた教会成立の過程と、謎の人物イエスの真相を隠し反抗勢力を抑圧せんとする懸命の工作にもかかわらず、世界を唖然とさせる黒い陰謀を暴くまぎれもない物証が、古代史家の手によって遺跡の中から発掘される日がついに到来した。(その個々の資料をまとめたのがダドレー氏の本文)
正義が永く眠らされることはあろう。が、いつかは必ず目を覚まして仕返しに出る。真実が深く埋もれることはあろう。が、抗しがたい力で、突如、さん然たる光線を放ちながらその勇姿を現わし、策士たちの肝を寒からしめる。
そもそもニケア会議なるものが開かれた目的は何だったのか – それは(表向きは)ヒンズー教のクリシュナ神をドルイド教のヘサス神の上位に位置づけるべきか、それぞれ個別に崇拝すべきか、それとも合体させて1個の神として祀るべきかを討議することにあった。
コンスタンチヌスは(ニケア会議の召集にいたるまでは)議論を収拾するために、両方の神を併用してはどうかという案を出していた。当然その案は失敗した。そして両派の論議が敵意むき出しの様相を呈してきたので、コンスタンチヌスはこれを本格的に検討するために、両派の有力な司教をニケアに召集することにしたのだった。
その会議を、ローマ領とはいえ小アジヤの小王国ビテニヤのニケアで開催したことには、実はコンスタンチヌスの下心があった。(いっそのこと新しい宗教をこしらえようという)その本当の目的を国民に知られないようにとの深謀である。
西暦325年の5月に始まった審議がようやく終了したのは8月だったというが、一説によると、衝突があまりに激しくて、9月にまで及んだという。(その舞台裏では着々とバイブルの改ざん工作が進行していたことになる。)
発掘された断片的資料や出席した司教たちの書簡などによると、その会議に召集された司教の数は1800名にのぼったようである。
(イタリヤの古代王国)ヘラクレアの司教サビナスは、友人に宛てた手紙の中で、コンスタンチヌスと(パレスチナの古代都市)カイザリアの司教ユーセビウスの2人を除けば、両派の神の名を合体させるという皇帝の案に最終的に賛成票を投じた300名の司教たちは“およそ理解力というものを持ち合わせない、無教養でおめでたい連中ばかり”だったと述べている。
そして、今日“キリスト教”の名で知られる新しい宗教体制を率いる新しい神の名を“イエス・キリスト”とすることを認めそして受け入れよとの皇帝の強制的な案に賛成票を投じたのも、そうした、何の節操も持ち合わせない、ただただ“異端者”の烙印を押されることを恐れ、皇帝に媚びへつらい、そして、こんな怒号に満ちた審議会は1日も早く終ってもらいたいと願うしか能のない、愚かな聖職者たちだった。
かくして、福音書にいう“救い主イエス”が誕生した。その強行採決にいたる経緯はこうだった。
コンスタンチヌスが提出した案に賛成したのは、最初の採決では1800名中わずかに300名だった。コンスタンチヌスはこれに激怒した。反対派の中心人物は(アレキサンドリアの司教)アリウスだった。
アリウス派はその案への反対声明文を提出した。それを皇帝派が破り棄てた。たちまち“聖なるキリスト教議会”は大混乱に陥り、それを収めるためにコンスタンチヌスはローマの衛兵を呼び入れた。
皇帝と武装した衛兵を頼みに、勢いづいた皇帝派はアリウスとその一派全員の聖職権を剝奪し、衛兵が議場から連れ出した。そしてコンスタンチヌスの一存でアリウスは国外へ追放された。
アリウスとその支持者1500名が議場から追い出されたあと、改めてコンスタンチヌスの案が、初めから賛成するに決まっている300名の司教の前に提出され、“万場一致”で可決された。
かくしてキリスト教の世界に“その血をもって罪を洗い流し給う”(黙示録)救い主イエスが誕生したのだった。>
1965年
ヒルトン・ホテマ
Hilton Hotema
こうした事実を裏付ける資料をまとめたのがダドレー氏の著書で、これで、シルバーバーチが再三にわたって“バイブルは改ざんされています”と述べていることの裏付けが取れたことになる。そのことをシルバーバーチが明確に指摘した部分を次に紹介しておく。
牧師「神は地球人類を愛するがゆえに、唯一の息子を授けられたのです。」
シルバーバーチ「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから、例のニケア会議でそんなことがバイブルに書き加えられたのです。」
牧師「ニケア会議?」
シルバーバーチ「西暦325年に開かれております。」
牧師「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました。」
シルバーバーチ「どうしてそれが分ります?」
牧師「いや…歴史にそう書いてあります。」
シルバーバーチ「どの歴史ですか。」
牧師「どれだかは知りません。」
シルバーバーチ「ご存知のはずがありません。一体バイブルが書かれるもとになった書物はどこにあるとお考えですか。」
牧師「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です。」
シルバーバーチ「いいえ、それよりもっと前の話です。」
牧師「バイブルは西暦90年に完成しました。」
シルバーバーチ「その原典になったものは今どこにあると思われますか。」
牧師「いろんな文書があります。例えば…」と言って、ひとつだけ挙げた。
シルバーバーチ「それは原典の写し(コピー)です。原典はどこにありますか。」
牧師がこれに答えられずにいると –
シルバーバーチ「バイブルの原典はご存知のバチカン宮殿に仕舞い込まれたまま1度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーなのです。おまけに“原典にないものまで”、いろいろと書き加えられております。
初期のキリスト教徒は、イエスは遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。ところが、いつになっても再臨しないので、ついにあきらめて、記憶をたどりながら書きました。イエス曰(いわ)く – と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは、書いた本人も確かでなかったのです。」
牧師「でも、4つの福音書には、その基本となったいわゆるQ(キュー)資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその4つの福音書に出ていると思うのですが…」
シルバーバーチ「私は別に、そうしたことがまったく起きなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルに書いてあることの一言一句に至るまでイエスが本当に言ったとはかぎらないと言っているのです。バイブルに出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません。」
Teachings of Silver Birch by A. W. Austen
“サークルのメンバーの向上心の高さが、訪れる霊の性格を決めるのです。出席者の精神的波動は霊界まで波及し、その程度次第で、集まる霊の程度も決まります。このことをすべての人にわかってもらえれば有り難いのですが…”
これは直接書記によって綴られたインペレーターの通信で、書記役のレクターがそれを操作している様子を、モーゼスが体外遊離(幽体脱離)の状態で観察した。その様子をモーゼスが次のように記述している。
<その日はひとりで自分の部屋にいた。ふと、書きたい衝動を感じて机に向かった。それほど強烈に感じたのは、ほぼ2ヶ月ぶりのことである。まず最初の部分をふつうの自動書記で書いた。どうやらその時点で無意識状態に入ったようである。
気がつくと、自分の身体のそばに立っている。例のノートを前にしてペンを右手にして座っている自分のそばである。その様子と辺りの様子とを興味ぶかく観察した。
自分の身体が目の前にあり、その身体と自分とが細い光の紐によってつながっている。部屋の置きものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。
その私の肉体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方を、ペンを握っている私の右手にかざしている。そのほかにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。さらには私に見覚えのない霊が出入りして、その様子を興味ぶかそうに見守っていた。
天井を突き抜けて、柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が何本か私の身体へ向けて照射されていた。そのたびに私の身体がギクリとし、震えを見せていた。生命力が補給されていたのであろう。さらに気がつくと、外の光も薄れて、窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。
私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは、人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。
インペレーターが、これは実際のシーンで、私に霊の働きぶりを見せるために用意した、といった意味のことを述べた。レクターが書いているのであるが、私が想像していたのと違って、私の手そのものを操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。
つまり、その光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手はただの道具にすぎず、しかも、必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から放し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、冒頭に掲げた文章を綴ったのである。
出だしの部分を除いて、ほとんどが人間の手を使用せずに綴られたものである。インペレーターの話によると、人間の手を使用せずに直接書くのは容易なことではなく、そのため綴りにいくつか誤りが見られるとのことだった。事実その通りだった。
そのあと私は、一体ここにいる(人種の異る)霊たちはどうやって通じ合うのだろうという疑問を抱いた。すると、すかさずその疑問に答えて、数人の霊が代わるがわる、違う言語でしゃべってみせた。私にはさっぱりわからなかったが、インペレーターが通訳してくれた。
その上さらに、霊がいかなる要領で思念の移入によって通じ合うかを実演してみせてくれた。またインペレーターは、音も物的媒体なしに出すことができることを説明してくれた。その時に、例の鈴の音が聞こえ、また部屋中に霊妙な芳香が漂った。(モーゼスの交霊会ではよく鈴の音が聞こえ、不思議な芳香が漂った。)
その場にいた霊はみな、前に見た時と同じ衣装をつけていた。そして、まわりの物体には何の関係もなく、自在に動き回っていた。そのうちの何人かは、私の身体が向かっている机を取り囲んでいた。
私自身も白のローブに青の帯をしているように見えた。さらに、その上に紫の布、一種のオーバーローブのようなものを羽織っていたように思う。どの霊も自然発光的に輝いており、部屋中が非常に明るかった。
そのうち私は、戻ってこのことを書き留めておくように言われた。肉体に戻るまでのことは意識にないが、部屋で観察したことに関しては絶対に確信があり、それを素直に、そして誇張をまじえずに綴ったつもりである。>
訳者 近藤千雄(こんどう かずお)
(平成元年8月写す)
昭和10年生まれ。18歳のときにスピリチュアリズムとの出会いがあり浅野和三郎の訳書の影響を受けて、大学で翻訳論を専攻。現在までに訳したスピリチュアリズム関係の原典約40冊、著書2冊。広島県福山市在住。