私は霊力の証(あかし)を見た
私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療
M.H.テスター著
近藤千雄訳
“The Healing Touch”
by M. H. Tester
© Psychic Press Ltd.,
20 Earlham Street,
London WC2H 9LW,
ENGLAND.
【目次】
第1章 奇蹟の体験から自分自身が治療家になるまで
まえがき
私は世に言う心霊治療家である。私を訪ねてくる患者のほとんどが、ありとあらゆる医学的療法を試みてなお治らない人たちである。医薬品で簡単に治るような患者はまず来ない。ほとんど全部といってよい人々が“慢性的不治”の病人である。
闘病生活で疲れ果て、衰弱し、腰は曲がり、まともに歩けない人たちばかりだ。そういう人たちが私の治療室で、あるいは希望を見出し、あるいは霊的真理を理解し、そして、しばしば、奇蹟的に全治して帰って行く。
奇蹟的治癒を体験した人は当然、自分を治してくれた不思議な霊力(エネルギー)の秘密を知りたいと思う。そういう人に、私は秘密の扉を開いて真理の花園へと案内してあげる。
その時の、魂の奥底から湧き出るよろこびは、この私がいちばんよく知っている。なぜなら、私自身が言語を絶する痛みと、苦しみと、挫折感と、絶望の淵から這い上がり、やっとの思いで真理の花園に辿りついた体験をもっているからである。
その真理の扉へ案内してくれたのはトニーという知人だった。その扉を開いてくれたのは心霊治療家のテッド・フリッカー氏だった。そしてその花園の中へ手を取って案内してくれたのは、心霊ジャーナリストで霊媒でもあるモーリス・バーバネル氏だった。“感謝とは忘れずにいること”というフランスの名言がある。この3人は私の魂が忘れない。
さて、今では私が扉を開けてあげる立場にある。治療家としてまずは病気を治療してあげる。治る人は1度で瞬時に治ってしまう。治るべき人だったのだろう。が、心の支えと、人の道を求める人もいる。そのほうが必要な人がいる。
この道だけは“何人の人を救った”と言うような、数では測れない要素がある。たった1人でもいい。魂が求める真理の花園へと案内してあげることが出来たら、それで十分、人間としての存在価値があったと私は考える。
患者の中には過去の過ちと愚行の数々を、後悔の念を込めて語ってくれる人がいる。その人にとっては2度とやり直しのきかない唯一の人生であるから悔むのも無理はない。が私にとっては人間の誰にもある“お互いさま”のパターンなのだ。私はフランス人のモラリスト、ラロシュフーコーの名言を引用して慰めてあげる。
「過ちを犯さない人間は、たいてい、良いこともしない。大過なく人生を送る人間は、自分が思っているほど立派な人間ではない。」
私も人並みの煩悩の中で迷い、苦しみつつ生きて来た。その体験の中から綴ってみようと思う。その中の何かが、あなたにとって真理の扉への案内となれば幸いである。
治療することも、こうして書くことも、だから、私の真の目的ではない。いずれも目的への手段にすぎない。私の究極の目的は霊的真理の普及にある。そのわけは次の聖書の一句に尽きる。ヨハネ曰く – 「真理は汝を自由にすればなり」
第1章 奇蹟の体験から自分自身が治療家になるまで
(1)地獄の苦しみ
痛みを和らげてくれるはずのコルセットが私に地獄の苦しみを与えていた。まさしく現代の鎧(よろい)である。背部は部厚い固いプラスチックで出来ている。それがぴったりと当てがわれ、首のつけ根から足の先までガッチリと固定している。
前の部分は、かつて海軍の製帆業者がステッチ台にしたキャンバスで出来ている。このオバケのような医療器具にはめ込まれた私の全身は、さらに、中世の拷問の責め道具やクラッシックカーのボンネットの固定に使われた“なめし革”で、がんじがらめに縛り上げられていた。
その苦しみに耐えることは、まさしく地獄の1丁目にいる思いだった。なにしろ全身がその器具の中にガッチリとはめ込まれている。自分のからだのどこ1つ動かせないのだ。生きるための最低限の活動である呼吸をすることすら容易なことではないのだ。
といって、その器具をゆるめようものなら、前にもまして耐え切れない激痛が走る。とくに右の太ももから足の先までが燃えるように痛む。私はワナにはまった動物も同然だった。
そもそもこんなことになったキッカケは、私が柄にもないことをやり始めたことにあった。私はもともとスポーツをする柄ではない。運動がしたくなったら、ベッドに横になってラクにしていると、そのやりたい気持がいつの間にか消えてしまうのが常だった。
ところが何を思ったのか、ある時ゴルフをやってみる気になった。どう記憶を辿っても、その理由がわからない。知り合いにゴルフをやる人間が特に多いわけでもない。むしろ私はゴルフに夢中になる人間を気の毒に思っていたほどである。
まるで人生に希望を失った者が、ああしてブラブラと時間をつぶす一種の中毒患者だぐらいに思っていたほどである。そんなスポーツに私が手を出し、挙げ句の果てに私の人生を変えてしまう体験をさせられることになったのであるから、なぜ選りに選ってゴルフを始めたのかがわからないというのが不思議なのである。
偶然でなかったことだけは確かである。なぜなら、この世に偶然というのはないからである。アナトール・フランスの言葉を借りれば「偶然とは神が署名したくない時に使う偽名である」というが、私もその通りだと思う。突如として、しかもこれといった理由もなしに、私はゴルフを始めていたのである。
サセックス州にある私の住いの近くにはいくらでもゴルフコースがあるのだが、1点スキのない服装をしたゴルファーが長々と列を作ってやっている中に混って、自分が最初のティーショットからさんざん苦労している姿を想像するとどうも気が進まず、ロンドンの勤務先の近くにある個人レッスンにまず通うことにした。
練習場はビルの地下室に設けてあった。インストラクターは小柄な人で、懇切ていねいに教えてくれた。まずティーの上にボールを置いて打ってみせた。ボールは猛烈な勢いで真っすぐにネットへ向けて飛んでいった。続けてもう1発打ってみせた。さらにもう1発。その人はどこからどうみても平凡な人なので、大したことはなさそうに思えた。
そのあと私の指導に入った。クラブの握り方から始まって両足の位置、目の方向、姿勢と、ひと通りの指導を受けたあと、ゆっくりと打ってみた。こうしたレッスンを3、4回重ねるうちに、私も結構いけるではないかという感触を得た。ただ私のからだの動きがいかにもスローだった。もしもスローモーション賞というのがあるとすれば、さしずめ私などその第1候補だったであろう。
問題はいかにしてその動きにスピードをつけるかにあった。私は古いドライバーとボール1ダースを借りて帰り、スピードをつける練習をすることにした。そして土曜日の午後それを携えて近くの空地へ行った。
私は背の低い、肌の浅黒い、ガッチリとした体格で、ロンドンで生まれサセックス州で育った純粋の英国人ではあるが、地中海の北部沿岸地方へ行けば似たような人間によく出合う。
が、ゴルフに関するかぎり、その“背が低くてガッチリした体格”というのが問題のタネなのだ。というのは、ドライブショットの時は両足を固定し顔が右から左へ向くように急速に腰をひねる – まあ簡単に言えばそういう身体の動きが要求される。そこが問題なのだ。私にはそれがうまく出来ないのだった。
20分ばかり必死にその動きを繰り返した頃、私はえらいことを2つ仕出かしていた。1ダースのボールが全部行方不明になってしまったこと。そしてもう1つは、第4腰椎と第5腰椎の間の椎間板がはみ出てしまったこと。いわゆる椎間板ヘルニアである。
人間の背骨は言ってみれば人体工学の最高傑作の典型である。完璧なのだ。驚異的な重力や圧力に耐えることができる。これを折ろうとすれば余ほどの衝撃を一気に加えなければなるまい。体重よりも重いものを支えながら、どっちの方向でも動ける。
その動きを運動に譬えれば、ウェートリフティング(重量あげ)のクラッチのような運動からアクロバット(曲芸)の捻転運動、そしてバレリーナのあの優雅な動きに至る、ありとあらゆる運動をやりこなす。
脊椎というのは頭部から骨盤に至る言わば骨のチェーンで、1つ1つ形が違っている。その1つ1つの骨の間に円盤(ディスク)と呼ばれる軟骨のクッションがある。円盤の中央部は髄核と呼ばれる物質から出来ており、これが身体の動きに応じて動いてくれる。
クッションの役をしてくれているのである。もしも円盤がなくて骨だけのつながりだったら、ギシギシと気味の悪い音を立てることであろう。車で言えば緩衝器(バンパー)に相当する。円盤はショックを和らげるだけでなく背骨が自由に動けるようにする働きもあるということである。
その円盤が急激なショックや不自然な動きによって骨と骨の間からはみ出ることがある。時には髄核がつぶれることもある。すると肝心の中心部が脱水して位置がずれる。
ずれた円盤がこんどは坐骨神経を圧迫する。坐骨神経は脂肪性の太い神経で、両足まで至っている。それが圧迫されると背中と片足または両足に痛みが出る。脊椎のずれをかばおうとして身体がよじれてくる。
私はまさにその状態に陥ったのである。大体私の身体は長い間の運動不足から、その時すでにかなり柔軟性を失っていた。ロクな準備運動もせずに、いきなり腰をひねったものだから、はずみで第4腰椎と第5腰椎の間の円盤が片側へはみ出てしまった。
しかも髄核がつぶれて水分がほとんど失くなってしまった。それがもとで背骨全体が少しずり下がった。はみ出た円盤が坐骨神経を圧迫する。かくして私の地獄の苦しみが始まった。
腰に激痛が走る。まだ始めの頃は姿勢のとり方次第で – とっぷりと身体が沈められる肘掛イスなら – どうにかその痛みも和らげることが出来たが、和らいだといっても激痛にはかわりない。立っても坐っても横になっても痛い。まるで拷問にあっているようだ。
右脚の臀部から親指にかけて火がついたような痛みが走る。位置をどう変えても少しも和らがない。足先は痛みで完全にマヒし、肌に触れても何の感覚もない。それをかばって屈み込むような歩き方をするものだから、右の臀部(ヒップ)がずれてしまい、右脚が2/3インチほど左脚より短くなってしまった。
病院へ行った。が医者は別段驚いた様子も見せず、専門医を呼んでX線写真を撮った。診察の結果は今まで述べた通りの状態で、治療法としてはコルセットをはめて平板ベッドで寝るしかないということだった。
最初に当てがわれたベルトは厚地のがっちりとした布で出来ていた。その上から、なめし革で被われた鋼鉄製のステーを当てがわれた。さらに背部には鋼鉄製のサポーターで補強した革製のパッドが当てがわれ、前部をサドルレザーの革帯で締めあげられた。
昼間はこの状態でじっとしていて、どうしても歩く必要がある時は杖を使った。なにくそと元気を出そうと気張ってみても痛みには勝てない。夜は平板の上に横になった。
赤いカプセルの鎮痛剤を日に3錠、白と黒のまじった精神安定剤を4錠、そして夜は睡眠薬として黄色いカプセルを2個のまされた。ベッドのわきはまるで薬局だった。が、それらが一向に効かない。痛みが取れないから寝てもウトウトするだけで、ほとんど眠れない。まるで中毒患者だ。精神が安定するわけがなかった。
やがて夏が来た。コルセットが暑苦しくて仕方がない。もともと第2次大戦以来私は神経性の皮膚炎を患っていた。それがこの暑苦しいコルセットを当てがわれて、暑さと汗とで猛烈な痛みが走る。
私はもう頭がおかしくなるほどイライラしてくる。そこで新たに軟膏と一段と強力な精神安定剤がベッドのわきに並ぶことになる。夏も盛りに入ったころ、コルセットが夏用に取り替えられた。
といっても、サドルレザーが汗をよく吸収するシャモア革に、厚地の布が小さい穴の開いた目の粗い木綿の布に取り替えられただけで、型は前と少しも変わらなかった。たしかに少し暑さが退いたようだ。が、弾力性がありすぎるせいか、痛みは前より激しくなった。
その間、私がこの半不具者的状態を平然と耐え抜いてきたように思われては困る。整骨療法、指圧、温熱療法、そしてぶらさがり療法といろいろ試してみたが、どれも効果がなかった。
1年と5か月、私は痛みと不便さと絶望感を忍んだあと、気分転換のために旅行へ出てみようと考えた。1959年8月、家族と共にフランスのブルターニュへ飛んで沿岸の小さなホテルに落ち着いた。
「フランス語なるものを発明した神を私は許せない」と言ったのはピーター・アスチノフだが、私だったら「フランス語」を「フランスベッド」と置きかえたいところだ。そこで過した数日間、私はそのベッドのためにさんざん苦しめられた。
そしてついに病院を訪ねた。診察した医師は絶対入院をすすめた。私も観念して言われるまま従った。さっそく救急車で空港へ運ばれ、30分後には現在住んでいる市のヘイワーズヒース病院の個室に入れられた。
ここでもまた酷い目にあった。私は拷問台というのはもうとっくに使われなくなったと聞いていたが、これはウソだった。ヘイワーズヒース病院にもそれが1つ残っていたのだ。それが、あろうことか、この私のために使われたのである。
ベッドの上に1枚の板が置いてある。その上に横になると、脚を置いている部分が18インチほど上昇する。当然私は頭部の方へ向ってずり落ちそうになる。それを防ぐために吊り革をヒップに巻き、それをロープでつないで、ベッドに取り付けた滑車を通してその先端に重しをぶらさげる。18ポンドと聞いたが、私には何100ポンドにも感じられた。
要するに私の背骨を引き伸ばそうというわけである。頭の方へずり落ちそうになると、ロープがヒップのところを引っぱる。すると腰椎と腰椎の間がゆるむ。その時に円盤がもとの位置に戻ってくれることを期待するわけである。一応面白い実験ではあった。
その状態を昼夜の区別なく3週間続けた。痛みは幾分和らぐが、その姿勢をじっと維持するのは痛いことよりさらに辛く、不愉快でならなかった。例によって鎮痛剤からトランキライザー、鎮静剤、スキンローションと、おきまりのコースをエスカレートしていった。
その状態での入院生活が3週間続いたころ、最初にコルセットをこしらえてくれた専門医が再び現われて背中の湿性の鋳型を取っていった。それでベッドの外で動きまわれる柔軟性のあるコルセットを作るということだった。要するに石膏で固めようという考えだったが、そのころの私の皮膚炎は悪化の極にあり、気も狂うかと思うほどの状態だった。
普通のコルセットなら自分で取りはずしも出来るが、石膏ではそれが出来ない。が、背に腹はかえられない。私はついに背中を石膏で固められ、三か月に及ぶ薬づけの入院生活の挙句に、絶望感を抱きながら自宅での療養生活に入った。
秋になった。私の忍耐もそろそろ限界に来ていた。坐っても、立っても、横になっても、そのほかどんな姿勢をとっても痛みは和らがない。仕事のことなど思いもよらない。だから生活費が入らない。人とも会えない。社会生活が完全に閉ざされてしまった。
そこで私は往診に来た医者に、どこかにこの道の最高権威はいないのかと尋ねた。このままではどうしようもない。何とかして最高の腕をもった人に診てもらって、思い切った診断を聞きたい。ずっとこのまま我慢しなければならないのか、それとも何かほかに方法があるのか。とにかく知りたい、と。
紹介されて私が訪れた医師は“円盤”のエキスパートで、専門のテキストまで著しているほどの人だった。私はこの人を最後の頼みとした。その診察室にやっとの思いで辿り着き、診察台にころげるようにして横になった。診察が終って私がやっとの思いで服を着直した時は、すでに診断書ができていた。
円盤の脱出がひどい。その専門医もはじめてみるほど位置がずれている。それが坐骨神経を圧迫して右脚がしびれる。唯一残された手段は、手術をしてその圧迫を和らげてやるしかないが、手術箇所は脊髄とつながったところなので、神経外科医に頼まないといけない。
しかし手術をしても良くなる可能性はせいぜい40パーセントで、それもなるべく早い時期でないといけない。あまり遅れると右脚が完全に機能を失ってしまうおそれがある。そこまで行ったら何も請け合えない。そういう診断だった。
それを聞いて私は尋ねた。私には妻と3人の子供、コンサルタントとしての仕事、そのほか面倒をみてやらねばならない人が何人かいる。手術まで最大限何日の余裕があるか、と。すると、せいぜい2か月が限界という返事だった。その日は10月21日だった。私はクリスマスが終ってからにして下さいとお願いした。
(2)一縷(る)の望み
病院から私の事務所まではわずか1マイルそこらだが、タクシーで行くのはまさに悪夢を見る思いだった。運転手は親切だった。私の手を取って、というよりは、まるで私を抱き上げるようにして坐らせてくれた。そして何度となく声を掛けて励ましてくれた。
もしかしたらその運転手は、私がそのまま車中で死んでしまって警察へまだ“ぬくもり”のある死体を運ぶハメになってはと思っていたのかも知れない。その時の私の見るもみじめな様子からすれば、彼が事実そう思ったとしても、あながち酷い奴とも言えなかった。
事務所は1階にある。タクシーから降ろしてもらった時はちょうど昼どきで、電話線の工事人が2、3いて故障箇所をさがしているほかは、事務員はみな出払って居なかった。それは私にとっては幸いだった。
とにかく今は1人になって考えたかった。杖をつきながら歯をくいしばって秘書の部屋へ入った。秘書も食事に出ていた。私は秘書のイスに坐り込んで医者の診断の結果をもう1度始めから反すうしてみた。
入院は困る。手術はもっと嫌だ。腰にメスを入れて張りめぐらされた神経の中から、はみ出た円盤を探し出すなど、想像するだにおそろしい。これから数週間という入院期間は仕事のことを考えると長すぎる。
医師が大ざっぱに見積った40パーセントという低い成功率も思い出した。その手術を神経外科医がやるということは、失敗したら下半身がマヒすることを意味していた。
秘書の部屋に水差しが置いてあった。私は鎮痛剤と鎮静剤をいっしょに流し込んだ。しばらくすると痛みが和らぐと同時に睡気を催すのが常なので、私は“そうなるまでに”結論を出そうと真剣に考え込んだ。
私に残された道は2つしかない。それはきわめて明瞭だった。1つはその名医の言う通りにすることである。手術が成功すれば痛みは取れるだろう。が恐らく生涯ムリのきかない身体になるだろう。はみ出た円盤を元に戻そうとするのは、はみ出た歯みがきをチューブに戻そうとするようなもので、まずムリだ。
となると手術はその円盤のはみ出た部分を切り取るしかない。するとクッションとしての機能が永久に失くなる。もしも手術が失敗したら、良くならないだけでは済まされないだろう。多分後遺症が出るだろうし、神経がダメージを受けて、悪くするとマヒ状態になるかも知れない。
もう1つの道は何もしないことだ。ということは、これまでどおりの激痛と不快感と肉体的及び社交的不自由を忍ばねばならないことを意味する。坐骨神経の圧迫がさらに続けば、右脚がマヒしてしまう可能性もある。
私はいよいよ運命の岐路に立たされた。目の前で道が2つに岐れている。1つは半不具者としての人生へつながり、もう1つは病院へつながっている。前者は激痛と不快との毎日となろうし、そして恐らく片方の脚を失うであろう。後者は手術と不快と、そして、かなりの確率をもった永久マヒの危険性を秘めている。どちらを選んでも運命は見えている。私は絶体絶命の窮地に追いつめられた。
その時である。私の心の奥でふと小さな疑念が湧いた。そしてそれが次第に大きくなっていた。「もう本当に他に道はないのか」という疑念である。もう無いにきまっている、と思い切ろうとしても、しつこくその疑念が私を責め立てる。本当に無いのか、本当に無いのか、と。その時、目の前の電話が鳴った。
掛けてきた相手はトニーという私の年来の顧客だった。私は公認検査官である。いわば財産管理のコンサルタントである。その店も何度か相談にのってあげていた。財産もあり成功者の1人であることはよく知っていたが、その時は、これといって、大事な話があったわけではない。
2、3分仕事の話をしたあと、トニーは私の元気のないのに気づいて「どうしたんです。えらく元気がありませんね」と言う。私は正直にこれまでの経過を話して聞かせた。ボクシングに“ゴングに救われたと”いう表現がある。私はこの電話でまさしくゴングに救われることになる。
私の話を聞き終るとトニーは同情の言葉1つ吐かず、その代わりきっぱりとこう言った。「いかがですか、騙されたと思って私の紹介する人のところへ黙って行ってみませんか。余計な質問をなさらずに…」
やはり他にも道があったのだ。3本目の道があるのだ。私はむろん行ってみると答えた。すると「ではあとでもう1度電話を入れますから」と言っていったん切った。
そしてものの15分もしないうちに電話が掛かった。そしてロンドン郊外のトテナムというところにエドワード・フリッカーという人がいるから、今日の午後5時半に訪ねてみて下さいと言う。ハワードロード40番地、午後5時半。私はそこに一縷の望みをつないだ。
(3)希望
ロンドンは私の生まれ故郷である。今はサセックス州に住んでいるが、ロンドンで生まれ、ロンドンで育ち、ロンドンの学校に通い、年季奉公をしたのもロンドンだった。ついでに言えば、道楽のかぎりをやったのもロンドンだし、妻を見つけたのもロンドンだった。だからロンドンは自分の家の庭のようなもので、表も裏も知りつくしているつもりだったが、トテナムと聞いて首をかしげた。
今や英国は階級差別が無くなったと言う人がいる。そういう人は貴族階級だの労働者階級だの中流階級だのという言葉を聞くと、よくわからんといったふりをするが、ロンドン子はそうではない。厳とした階級意識をもって生活している人がまだまだ多い。
中流にはさらに“中流の上層”と“中流の下層”とがある。トテナムはその下層の中流階級に属する社会である。生き生きとした庶民の町で家並も一応きちんと整っている。ただ、通りを歩いていると物干しの下着がちらほら見えかくれする。ハワード通りもそんな町にあった。
タクシーの運転手は私が告げた場所をよく心得ていた。着くとまるで大切な骨董品でも扱うように、私を抱きかかえるようにして下ろしてくれた。門に40の数字が見えた。見たところ隣近所と変わらぬ家だったが、1つだけ違ったところが目に入った。「フリッカー治療センター」と書いたピカピカの真ちゅうのプレートがドアに貼ってあったのである。
そのドアのベルを押した。押したあと、そのドアの開くのを待ちながら、ふと私の心を横切るものがあった。自分がこんなみじめな身体になってから果たして幾つのドアを苦しい思いで通り抜けたことだろう。今朝も専門医のドアをくぐった。そして絶体絶命の“判決”を言い渡れたばかりだ。
救急車のドアにも何度か運び込まれた。タクシーのドアも運転手に抱きかかえられるようにして通った。そして今また、石膏で固められ革帯で締め上げられた、まるで朽ち果てる1歩手前の残骸のような姿で、杖を片手にドアの前に突っ立っている。
何とぞ、何とぞ、もうこれが最後のドアであってほしい。私は心でそう念じた。
ドアが開いた。若くて可憐な娘さんだった。服装はアンサンブルとツイードのスカートだった。名前を告げると“どうぞ”と招き入れてくれた。入ってみると客間は患者でいっぱいだった。
その中を、まるでラッシュアワーの人混みをかき分けるような恰好でその女性のあとについて進むと、ダイニングルームのドアのところへ来た。いきなりダイニングルームは変だと思ったら、客間との中間の仕切りを取っ払っていたのだ。
そのドアを開けて入ると、そこは実はダイニングルームでなく、張り出し窓のところに質素な、というよりは安っぽい机が1つ置いてあるだけの、ただの部屋だった。その机に向かって腰掛けた助手の娘さんは、いかにも仰々しい手つきで、これまた時代もののタイプライターをパチパチとやりだした。
ゆか1面に敷物が敷きつめてある。その中央に低いテーブルが置いてあり、その上にカバーの取れた古い雑誌が無雑作に置かれていた。が、この部屋も患者でいっぱいである。といっても、この部屋では順番に従って壁づたいに列を作っている。みな壁に背を向け、腕と腕とが触れ合うほど詰めて腰掛けている。空いたイスは1つもない。
英国人というのはあまり人をジロジロ見ないものだ。私はドアにもたれて腰かけ(そこしか空いた場所がないのだ)、そして、おもむろに見まわして目で挨拶した。まわりの人たちも目で挨拶を返した。その時、奥のドアがベルの音とともに開いた。部屋全体にざわめきが起きた。
1人が治療を終って出て来て、代わってそのドアにいちばん近い人が次の人に挨拶して中へ入った。空いた席を順々に詰めていく。最後の私も1つ詰めた。するとドアが開いて新しく患者が入ってきて、今まで私の座っていたイスに腰かけた。また満員である。
患者はいろんな人がいる。バスの車掌がいる。制服のままである。喘息で呼吸が苦しそうだ。ルイ14世のようなヘアスタイルをした中年のブロンドがいる。片方の腕が枯枝のように細った子供を連れた母親がいる。いい身なりの黒人が何を思うのか静かに瞑想している。
汚れたジーンズにごついブーツをはいた2人の労務者風の男が新聞を見ながら何やらささやき合っている。見事な脚線美をした黒髪の端正な身なりの女性が、頬の醜いただれを見られたくないかのように視線を避けている。
老人がハンカチで口を押さえてせき込んでいる。そして、めそめそ泣いている子供がいる。みなそれぞれに病気をかかえている。が、その表情にはどこか希望の色が見える。
壁に目をやると、いろいろな新聞からの切り抜きが貼ってある。いずれもフリッカー氏による奇蹟的治療に関するものばかりだ。
“フリッカー氏また奇蹟を起こす”
“12年の歩行不能者が歩く”
“聾唖者が完治”
“私は松葉杖を棄てて帰った”
“奇蹟!医者を戸惑わせる”
“フリッカー氏は奇蹟の人か”等々
本当にフリッカー氏は奇蹟の人だろうか。そう思った時、またベルが鳴ってドアが開き、例のアンサンブルとツイードの女性が私の前まで来て「次はあなたさまの番です」と言った。
果たして奇蹟が起きるか。まさに運命の時が来た。私は今まさにその奇蹟の人の前に足を運ばんとしている。
(4)そして奇蹟
エドワード・ジョージ・フリッカー氏は中年の小太りの紳士だった。ミスター・フリッカーと呼ぶ人もおれば、愛称のテッドを使う人もいた。言葉つきから生粋のロンドン子のようで、性格も陽気だった。私が杖を片手にやっとの思いで治療室に入ると、温かく私の手を取って迎えてくれた。
治療室といっても元は台所だった小さな部屋だ。ゆかには部厚いカーペットが敷いてある。片隅には手洗い水とタオルと香料のアロマ(消毒用)が置いてある。家具といえば肘かけ椅子が1つと低いスツール(背もたれのないイス)が2つ、それにレコードプレヤー付きのラジオくらいなもので、そのラジオの上に木製のサラダボールが置いてあり、その中に紙幣や硬貨が無雑作に入れてある。
壁には良いのか悪いのか判別しかねる古い絵画がやたらと掛かっている。そのほかキリストの磔刑像やロザリオ付きのダビデの星といった聖像の類いがあちらこちらに置いてある。
さて私がやっとの思いでスツールに腰を下ろすと、もう1つのスツールにフリッカー氏が腰かけて「どうなさいました」と尋ねた。私は胸にたまっていた思いを吐き出すように一部始終を語った。氏はそれにじっと耳を傾けてくれた。私が語り終ると、「コートを脱いで」とだけ言った。
「あなたは信仰治療家ですか」と私はコートを脱ぎながら聞いた。「少し違いますね」「じゃ、あなたに対する信仰は要らないわけですか」「あなたが信仰心を持とうが持つまいが、私には関係ありませんね。私は私なりに必要な信仰を十分もっていますから」
コートを脱ぐと、立つように言われた。立ち上がると左手を私の腹部に当てがい、右手を背筋にそってかるく上下させた。間もなくその手が例の脱出した円盤のところで止まった。そのあたりは合成樹脂で出来たコルセットがあるのだが、その上からピタリと悪い箇所を探し当てた。肌に直接届くにはドリルがいるところだ。
氏はそのコルセットも取るようにと言った。取るのは大変だったが、氏も手を貸してくれた。取りはずしたあと再びズボンとシャツを着ると、氏はさっきと同じように左手で腹部を押さえ、右手を脊柱にそって上下させながら、円盤のところだけは横にもさすった。
たださするだけである。ネコでも可愛がるようにかるくさするだけで、ほかには何も操作はしない。しばらくすると右のヒップの方まで手が伸びた。マヒしかかっている箇所だ。
こうした治療が何分続いたか、私は知らない。奇蹟を祈る気持と、あまりに単純な治療方法に幻惑されて、私は時の経過を一切意識しなかったのだ。むずかる子を母親が“よしよし”と言いながら撫でてやる、あの優しい手つき以外の何ものでもないのだ。これで本当に治るだろうか。そんな気持が去来していたのである。
が状況から判断して、せいぜい10分ていどだったと想像される。あとで知ったのだが、どの患者もみなその程度で、それ以上かかる人は滅多にいないとの話だった。むしろそれより短い時間の人もいるらしい。そのわずかな時間のために何時間もあの待合室で待つのだ。
今思うと、その時がまさしく私の人生の曲り角であった。痛みが確かに薄らぐのを感じた。私は当惑すらした。2年近くも激痛に悶えた。挫折感と不快感に苦しめられて、やっと今、自然な、そしてラクな気分に浸っている。それがただ手のひらを数分間上下にさすっただけなのだ。私は思った。今日は何も聞くまい。ただこの幸福を有難く享受しよう。なぜ治るのかは後で考えよう、と。
治療を終えると、フリッカー氏は別の部屋へ行って、大きな茶色の用紙を手にして戻ってきた。何をするのかと思っていると、鼻歌まじりで私のコルセットを包みはじめた。
包み終ると顔一面に笑みを浮かべながら「さあ、これを持ってお帰りなさい。杖は置いて行かれてもいいです。帰ったらベッドの板をはずして普通に寝てよろしい。そして来週もう1度いらっしゃい」と言う。
私が呆気に取られながら部屋を“歩いて”出た。それと同時に次の患者を呼ぶベルの音が聞こた。そして私と同じようにフリッカー氏に温かく迎えられていた。一体この人は何者なのか。10分間に1つの奇蹟を起こす、文字どおりの“奇蹟の人”なのだろうか。
いま“部屋を“歩いて”出た”と書いたのに注意していただきたい。私は立派に歩いて出たのである。杖にもたれてやっとの思いで足をひきずったのとは違うのだ。右足が少しばかり痛む。腰もわずかながら痛む。ヒップもまだ左右がずれている。
が、立派に歩けるのだ。足どりもしっかりしている。首筋をまっすぐにして普通に歩ける。私は、紙包みとステッキを小脇に抱え、颯爽とフリッカー治療センターを出た。奇蹟だ!奇蹟が起きたのだ!
ハワード通りにはタクシーはない。例のアンサンブルの可愛らしい助手が電話でハイヤーを手配してくれていた。その助手は私の足どりや姿勢が良くなったことに別段おどろいた様子も見せなかった。事実、彼女にとっては日常茶飯事なのだ。
やがて到着したハイヤーの運転手はこの治療所専門に客を運んでいる人だった。私がいま起きたばかりの奇蹟の話をすると「それくらいのことは毎日起きてますヨ」と、これまた当たり前といった表情で言った。そして夕方のラッシュの中をビクトリア駅へ向けて車を走らせた。
デコボコ道がある。急ブレーキをかける。左右に折れる。信号で停車する。また発車する。そうした動きが私に何の痛みも与えなかった。1時間前にタクシーで来た時は、ちょっとした動きでも死ぬほどの痛みを感じたのだが…
ビクトリアまで30分かかった。ドンキホーテよろしく、私の頭にはさまざまな思いがとりとめもなく去来した。が1つだけはっきりしていることがある。それは、からだがすっかり良くなったということだ。信じられないほど良くなった。しかも10分足らずさすってもらっただけで…一体何が起きたのだろう。いつかその原因を追求しよう。そう心に決めたのだった。
ビクトリア駅で鉄道に乗り換えた。列車の座席に坐って、またしても回復のすごさに驚いた。実にラクに坐っていられる。まるで列車はカーペットの上でも走っているみたいに感じられる。
ヘイワーズヒースに着いてホームに降り立つと、妻のジーンが待っていた。紙包みとステッキを小脇に抱えて近づく私の姿を、妻は驚きと嬉しさと呆気に取られた様子でしげしげと見つめた。2人とも言葉が出なかった。溢れる感激が言葉をさえぎるのだ。
妻の運転する車に私は軽々と乗り込んだ。乗ってすぐ妻の頬にキスをした。そこでようやく言葉が出た。「さ、帰ろう。帰ってからゆっくりと話そう」
(5)真理を求めて
人間は、人に打ち開けると感激が薄れてしまいそうな気がする、そんな素晴らしい体験が誰しもあるのではないだろうか。私の気持がまさにその通りだった。
理屈はわからないが、とにかくあの激痛がウソのように消えたのである。もっとも、2、3箇所にわずかながら痛みが残っている。が耐え切れない痛みではない。
夜はよく寝るし、あの毒々しい色をした薬からも解放された。ベッドに取り付けていた平板も取りはずし、苦い思い出とともに焼却してしまった。コルセットも処分した。ステッキだけは玄関のカサ立てに残っている。
10代の後半、私は伝統的説教から何かを得ようと一心に勉強したが、そこに発見したものは戒律と迷信と民話と勧善懲悪の説教ばかりで、ばかばかしさしか感じられなかった。その後もずっと霊的真理を求め続けた。ユダヤ教の礼拝堂で祈ったこともあった。そこのラビ(指導者)の話に耳を傾けたりもした。
キリスト教については最も簡素なユニタリアン派からいちばん仰々しいカトリックのミサに至るほとんど全ての信仰形態を体験した。イエズス会の修道士、仏教の僧侶、セブンスデーアドベンチスト派の信者、ヒンズー教のマハルシ(指導者)、イスラム教のカストディアン(管理人)等々とも大いに議論した。
比較宗教学の勉強を通じて、手に入るかぎりの世界の聖典を読んだ。キリスト教の新約及び旧約聖書は6種類もの翻訳に目を通した。イスラム教の聖典コーランとユダヤ教の聖典タルムードも研究した。
一時は中国に熱中し、孔子と老子の本を片っ端から読んだ。ペルシア神話のミトラ神、古代セム人が信仰したバール神、そして今では忘れられてしまったが不思議に愛敬のある古代エジプトの神々に出遭ったのもその頃だった。
そうした勉強と体験を通じて私が悟ったことは、全ての宗教を通じて共通した1つの大きな、そして純粋な哲学の流れがあるということだった。ただその流れが人間の煩悩によって歪められ、カムフラージされ、修正されてしまっているだけだ。
その真髄を勉強すればするほど、相違点よりもむしろ類似性に心を打たれるばかりだった。私は霊的真理に飢えていた。真理の扉を叩く必要があった。そして是非ともその扉を開けてもらわなくては…
人間が霊的真理を悟るには2つの要素がいる。まず第1に、単純でもいいからズバリ得心のいく霊的体験 – 人間的常識を超えた不思議な力の存在を如実に実感させる体験がいる。次はそのメカニズム、つまりなぜそういう現象が起きたのか、そのウラに潜む意味を知ることである。
辛い体験の末に私は奇蹟的体験をした。多分 – その段階ではあくまで“多分”としか思えなかったが – 多分フリッカー氏の手を通じて霊の威力が私に働きかけたのであろう。あとはその霊力の真相を知ることだ。それもフリッカー氏から得られるかも知れない。
長かった真理探求の旅の末に、自分は今ようやくこの扉のすぐ前まで辿り着いた – そんな思いが私の胸をしめつけ、静かな、内なる興奮を覚え始めた。が、このことは誰にも語るまい。当分は公言すまい。私はそう考えて、妻にも2人の秘密にしておくようにと言って聞かせた。
フリッカー氏のところへはその後2度通った。1度は午前中、もう1度は午後だったが、いつ行っても同じ光景だった。患者がぎっしりと詰まっている。ベルが鳴って1人が出てくると代わって1人が入る。空いたイスを1つずつ詰めていく。
からだに固定器を付けたポリオ患者がいる。松葉杖を手にした腰椎脱臼者がいる。ぜいぜいと息苦しそうに呼吸している喘息患者がいる。歩く姿も痛々しい関節炎の人もいる。静かに待つ人もいれば、患部を人に見せて何やら得意げ(?)にしゃべっている人もいる。が大半は黙って待つという耐え難い苦行に専念しているのだ。
私の場合は2度とも同じ要領だった。コートを脱いでスツールに腰掛ける。フリッカー氏が左手を腹部に当てがい、右手を背骨を上下にさすり、やがて坐骨神経にそって右脚をさする。左手を肩に当てがうこともある。
「いかがですか、調子は」そう尋ねる以外にはほとんど話らしい話はしない。治療中に音楽を流すこともある。治療が終ると音楽を止めて私がコートを着るのを手伝い、「ではまた来週いらっしゃい」と言う。
治療ごとに私の身体はぐんぐん回復していった。途中の列車もタクシーもまったく気にならなくなった。ところがその3度目の治療のあと2、3日して突然痛みがぶり返した。再度奈落の底につき落されたような気分になった。私は妻の運転する車でまたハワード街まで行くはめになった。
妻は私の痛みを気遣ってゆっくりと運転してくれた。そのせいもあって実に2時間半もかかった。が私にはそれが2週間半のようにも思える長い長い道中だった。フリッカー氏は落ち着いた方だ。私の訴えを聞いても表情1つ変えず、いつもと同じ要領で施療し、手を洗ってから「もう大丈夫です。また来週おいで下さい」と一言だけ言った。
帰りは車が混んでいて思うように進めなかった。2人ともいささか疲れと空腹を覚えていたが、それが一向に気にならない。すっかり回復したよろこびがあるからだ。よかった。有難い。そういう念が私たち夫婦を陽気にしてくれた。
それにしても、私を治してくれたエネルギーは一体何なのか。2人は車の中でそのことで一心に語り合った。信仰治療ではなさそうだ。私がフリッカー氏を始めて訪ねた時、氏がどんな人で何をする人かについて一片の予備知識もなかった。
治療中氏はほとんど語りかけることもなく、私の気持を鼓舞するような言葉もかけなかった。全体の雰囲気はどちらかといえば“面白くない”と言える。飾ってあるものも、お世辞にも上等とは言えないものばかりだ。
音楽も取り立てて感心するほどのものでもない。実際私自身は感情的に興奮したことは1度もない。たとえあったとしても、その興奮だけであれほどの異常がいっぺんに治るだろうか。
とにかく私は、その治療エネルギーがフリッカー氏以外のところにあって、それが氏を通じて流れ込んだのだということだけは確信した。がそれが何なのか、どう作用したのかという点になると皆目わからない。
最高の医師に診てもらい、最高の専門医に相談しながら、彼らは結局何1つ病気の回復には寄与してくれなかった。強いて言えば、コルセットや薬で激痛を“わずかながら”和らげてくれただけだ。最後に残された手段も手術しかなかったのだ。
それが、医師の免状もない、カッコ良さのひとかけらもないロンドンの下町っ子によって、それも、どこの医学校の先生が聞いても笑って小ばかにしそうな単純な手の操作だけで、あっけなく治ってしまったのだ。そんなことを妻と語り合いながらやっと家にたどり着いた時は、なんと3時間もかかっていた。
(6)運命の紡ぎ車
その後は7、8日の間隔で6、7回ほどフリッカー氏の治療所へ通った。治療はいつも同じだ。時おり冗談を飛ばす以外は「いかがですか、調子は」と聞かれて「おかげさまで、ずいぶん良くなりました」と返事をする、おきまりの会話しかしなかった。
やがて11月も半ばになった頃には私は完全に仕事に復帰できるまでになっていた。毎日列車で40マイルの距離を往復した。そんなある日、ホームドクターがやって来た。私が普通の生活をしている姿を見てびっくりした様子だった。
私の回復ぶりが信じられないらしく、改めて私に歩かせたり腰かけさせたり立ち上がらせたり、くるりと身体を回転させたりした。曲がっていた腰がしゃきっとしている。
コチコチだった全身が柔かく動かせる。憂うつそうだった顔が明るく輝いている。コルセットも付けていない。ステッキも手にしていない。医者は私の身体を細かく診察した。そして“完治”の宣言をした。
そのあと私と妻とが代わるがわる、それまでの一部始終を語って聞かせた。医者は目をパチクリさせながら興味ぶかげに聞き入っていた。が残念ながら、なぜ、どうして、という私の問いには答え切れなかった。私は、やはり自分で扉を叩くほかはないと覚悟した。
が、その前にやるべきことが1つあった。2か月前に手術の約束をした例の専門医を訪ねることだった。クリスマスが終ってからと約束してあったからだ。専門医はいきなり訪ねるわけにはいかない。そこでホームドクターにお願いして予約を取ってもらった。
ウィンポール街にある病院は優雅なドアをしていた。タクシーを降り立つ身も軽々と、運転手へのチップもはずんで晴々とした気分でステップを駆け上がり、ドアを開けた。
専門医の机の上には、これまで私がかかった何人かの医師のカルテとX線写真、そしてその専門医自身の診断書が置いてあった。「クリスマスが終ってからとの約束でしたので参りました。診察をお願いします」私はそう言った。
診察は30分余りかかった。前回と同じように徹底したものだった。背筋と脚のあらゆる筋肉をテストして反応を調べた。関節を動かす度に「痛みますか」と言う。そのたびに私は「いいえ」と答える。
医師は次第にけげんな表情を浮かべ始めた。ヒザもヒップも正常である。腰椎も正常であることは、つま先に手が届くほどの前屈運動をしても何ともないことで明らかだ。診察の途中で医師は一度診断書に目をやり、二度ほどX線写真を見た。そして私に聞いた。
「何かなさいましたね。どんな手当てをされましたか。」が私は言わなかった。少なくともその時は言いたくなかったのだ。私がどうしても言おうとしないので、やむなく医師はそこで診察を終えた。そしてこう言った。
「ほぼ完全に回復していますね。椎間板ヘルニアの症状は完全に消えています。4週間ないし6週間くらいすれば後遺症も完全に失くなるでしょう。これまであまり使わなかった部分が少し弱っているだけです。それも良くなります。まだ半年ほどは坐骨神経に痛みを覚えることがあるかも知れませんが、それも次第に和らいで、いずれ消えてしまうでしょう。
おめでとう。もう治療の必要はありませんし、もちろん手術の必要はなくなりました。ところで、一体あなたはどんな手当てをしてもらったのか、教えていただけませんか。」
私は言わなかった。それよりも、こちらから質問したいことが2つあった。1つは私が苦しめられたような椎間板ヘルニアが何の手当てもしないで自然に治るということが有り得るかということだった。
私は今この道のトップクラスの専門医の前にいる。その専門医の答えならそのまま受けとってもいいはずだ。彼は首を左右に大きく振って断言した。「あなたの場合、自然に治る可能性はゼロでした。まったくのゼロでした。」
続いてもう1つ尋ねた。「私の場合、心身症の可能性はありましたでしょうか」。最近とみに心因性の病気のことが言われるようになってきた。もしも私の場合もこの心身症だったとしたら、私にとって事は重大だと思ったのである。が彼はX線写真と彼の前に診察した医師の報告書、それに自分自身の診断書を指さしながら「可能性はありません。問題外です」と、きっぱり答えてくれた。
その2つの答えを得てから私はようやくフリッカー氏の話を告白した。あの日、すなわちその専門医から手術が必要との診断を受けた日の夕方、ハワード街のフリッカー治療センターを訪れ、わずか10分足らず手でさすってもらったこと、それだけで、帰る時はコルセットを手に持って帰ったこと、帰ってからベッドの板を取りはずして焼却してしまったこと、ステッキもそれ以来一切使っていないこと、間もなく仕事に復帰できたこと等を話した。
医師はただ黙々と真剣な面持ちで話に聞き入っていた。そして最後に私が前日のクリスマスにツイストを踊った話をすると、医師の驚きはその極に達した。言葉がなかった。ただただ圧倒されていた。生涯をかけた医師としての全体験を超えたことばかりだったのである。
圧倒されたのは彼だけではなかった。当の私が圧倒され続けているのだ。一体何が起きたのだろう。奇蹟的治癒を起こした人はいつの時代にもいた。イエスがそうだった。モーゼがそうだった。エジプトにも治療を専門にする聖職者がいた。
いつの時代にもほとんど全ての民族で奇蹟的治癒の話がある。世界の大宗教の聖典にはかならずその話が出ている。旧約聖書にも治療は神の業であると述べた箇所がある。本当に神が治すのだろうか。私はその秘密を知るべく、再びフリッカー氏を訪ねた。
フリッカー氏は快く迎えてくれた。ただし私の完全に回復した姿を見ても別段おどろきも見せなかった。氏にとっては日常茶飯事だからだ。私と同じような重症の患者を何千人と治している。何千人である。驚くべき数字だ。
話の中で氏は自分の治療エネルギーは神から授かると言った。治療に入ると色々と声が聞こえる。その声に従っているだけだという。それで大半の患者が治っていく。その殆んど全部が医学的に“不治”として見離された人ばかりだ。
そうした話をしたあと氏は「もしも心霊治療について詳しく知りたかったら、心霊週刊紙ツーワールズの編集長をしているモーリス・バーパネル氏に会ってみられるがよろしい。彼なら全ての質問に満足のいく解答を授けてくれるでしょう」と言った。
私は礼を述べて帰ろうとした。そして私の手がドアの取っ手にかかった瞬間のことである。フリッカー氏の口から出た一言が私のからだを巡っていた時の流れを一瞬止めてしまった。
「今なんとおっしゃいました?」私は尋ねた。フリッカー氏は同じ言葉をもう1度くり返した。その言葉が私のその後の人生を大きく変えることになった。氏は言った。
「あなたも心霊治療家です。生まれついてのヒーラーですよ。私がやってあげたのと同じことがあなたにも出来ます。生まれながらのヒーラーです。」
家に帰ると私はさっそくこのことを妻に告げた。妻はおどろき、且つ興奮した。誰か身近な人に試してみよう。2人ともそう思ったが、家族も友人もみな腹が立つほど健康だ。
私がフリッカー氏にすがりついたように誰か私の足もとに必死の思いで治療を求めて来てくれれば、と思うのだが、そんな人はいそうにない。患者がいなくては治療家にはなれない。しばらく時を待つしかないと自分に言って聞かせた。
それよりもまずバーパネル氏に会って心霊治療について勉強することの方が先決問題だった。
(7)モーリス・バーバネル氏との出会い
バーバネル氏に電話で面会を申し込むと快く応じてくれた。レストランで昼食を共にしながらの面会となった。会ってみると、白髪まじりの頭をオールバックにした、ロイドメガネの、小柄で小ざっぱりした紳士だった。
まず私のほうからこの2、3か月の絶望的な苦しみから奇蹟的な治癒に至る話の一部始終を語ると、氏は矢つぎ早に質問を連発し、それに対する私の返事を細かくメモした。
中でもフリッカー氏の世話になる前と後に第1級の専門医の診断を受けたことが私の治療体験を価値あるものにしたという意見を述べた。あとでそのメモをもとにして氏は記事を書いてツーワールズの1面トップに掲載した。驚くほど細かくしかも正確に出来ていた。
食事をとりながら肝心の心霊治療について私のほうからいろいろと尋ねたことは言うまでもない。氏は必読書を何冊か紹介してくれた。私は以後、氏の助言のもとにスピリチュアリズムについて、心霊治療について、心霊現象について、片っ端から読んでいった。そのうち面白いことに気づき始めた。
読む本そのものはむろん始めてのものばかりである。著者も知らない人ばかりだった。が、その内容がなぜか私のすでに知っていることばかりなのだ。読めば読むほど当たり前ではなかと思えることばかりなのだ。
言ってみれば1度も行ったことのない遠い見知らぬ国へ行ってみて、確かここは1度来たことがあるようだという親しみと同時に、事実にその辺の地理まで知っていたという経験に似ている。
正統派の教義は読めば読むほどバカバカしくて信じる気になれなかったが、スピリチュアリズムの思想は完全に得心がいき、これだ!と思うことばかりなのだ。
いずれ私はスピリチュアリズムについて書こうと思っているが、その時はついに扉は開かれたという感慨でいっぱいだった。その扉をくぐって、そこに私は、それまで迷いに迷いながら求め続けて来た真理の花園を発見したのだった。
それから何日かのちのことだった。雨の降る寒い日で、私は1日中事務所に詰め通しだったので疲れと空腹を覚えていた。が、その日が初の心霊治療を施す日になるとは夢にも思わなかった。気分的にもそんなことの出来る心境ではなかったのである。
家に帰ってみると妻が居間の肘かけ椅子にからだをうずめ、両足をスツールの上に置いて痛みをこらえている表情をしていた。脊柱のいちばん下にある仙腸骨関節を伸ばしているのだった。妻は時おりこの症状が出ることがあった。
今こそ子供はすっかり大きくなって手がいらなくなったが、当時は私がヘルニアで育児の世話を手伝ってやることが出来なかったので、入浴の世話から着更えまで全部妻1人でやらざるを得なかった。その無理が出はじめ、前回の時は2、3週間も動けなかった。
人間は身近にいる者が病気になると口うるさくなるものだ。その時の私がそれで、妻に立て続けにこう言ったものだ。「なぜベッドでちゃんと寝ないのだ。医者を呼んだのか。なぜ革帯で固定してもらわんのだ。」
妻は痛みをこらえながらも、ほほえみながらこう言った。「あなたがお帰りになるのを待ってたの。だってあなたは心霊治療家でしょう。私を治して!」
一瞬私はどきっとした。自分の妻が患者第1号になるとは!本当なら手を消毒して白いガウンでも着てカッコよく行きたいところだが、その時はそんな余裕はなかった。濡れたレインコートを脱ぎ棄て、手を洗うと、フリッカー氏のやり方を思い出しながら、出来るだけ同じ要領でやってみた。
左手を腹部に当てがい、右手を腰のあたりで上下させた。が何の反応もない。私は妻をうながしてベッドに寝かせ、さっきと同じ操作をもう1度くり返した。そのあと私が夕食を作って一緒に食べた。
翌朝目を覚ましてびっくりした。妻がすっかり良くなっている。コリが取れ、自由な動きが出来る。痛みもない。私はついに人を治したのだ!
それから2、3か月たった頃のことである。仕事の問題で南アフリカから来た弁護士に会うことになった。6フィートはありそうな大柄な人で、30代後半と思われた。いかにも見かけは頑丈なのだが、実はこの人も脊椎骨を2か所痛めていた。
痛めてからすでに4年半にもなるのに今だにコルセットが手離せないのだ。はずすのは夜寝る時だけだが、代わりに薬を浴びるほど飲んでいる。朝起きて数歩も歩くともう痛みに耐え切れなくなる。
1つ1つの動作がみな応える。従って車も運転できないし、前かがみも出来ないし、自分で衣服の着更えもできない仕末だ。この度ロンドンへ来たのも、法律の仕事もあったが、1つにはフリッカー氏に治療してもらうためでもあった。
話をさかのぼれば、面白いことに彼も私が世話になった同じ専門医の診断を受けていた。しかも私と同じく絶望的な診断を言い渡されていた。彼の場合は手術も不可能な状態だった。そこへ私との運命的な廻り合いがあった。私はその時これは偶然ではないと直感した。
そこでツーワールズの例の私の治療体験記事を見せると、ぜひこの治療家のところへ連れて行ってくれという。私はさっそく電話で予約を取ってあげた。知人からして貰ったのと同じ厚意を今その弁護士にしてあげたのだった。
車で送ってあげながら私は、治療所がどんなところかをわざと言わずにおいた。案の定、治療所に着くと、その余りの変哲のなさに彼は“こんなところか”といった驚きの表情をみせた。
フリッカー氏は例によって単刀直入、手を当てるだけで異常箇所を探り当て、私の場合と同様コルセットを取るように言った。フリッカー氏と私が手伝った。するとこんどは私に「一緒に治療しましょう」と言う。
弁護士は立ったままの姿勢で、フリッカー氏と私がそれぞれの左手を背中に当てた。プレーヤーから音楽が流れている。その時、私の右手に激しい振動を感じた。それが2、3分ほど続いてから消えた。フリッカー氏がプレーヤーを止めた。そして弁護士にこう言った。
「4年半も脊椎異常で苦しまれたそうですが、4分半で治りましたよ。」弁護士は当惑した表情を見せた。フリッカー氏が「どんな動作が苦痛でしたか」と聞くと「つま先に手が届きません」と言う。「じゃ、今やってごらんなさい」と言われて、前にかがんでみるとラクに手が届く。
さらに「1人で横になれませんでした」と言うので、フリッカー氏と私がスツールをわきへやって「このベッドに1人で横になってごらんなさい」と言うと、これまたラクに横になり、すっと起き上がった。
「4年半自分で靴のヒモを結んだことがないのです」と言うので、2人で靴ヒモをほどいて「さあ、おはきになってみて下さい」と言うと、これまたラクに前かがみになって自分でヒモを結んだ。
弁護士はキツネにつままれたような顔で立ち上がった。そして、あれはどうだろう、これはどうだろうと、からだをいろいろと動かしてみていた。しかし何でも出来る。何をやっても痛くない。完全に治ったのだ。
翌日私の事務所にその弁護士から電話が掛かった。奥さんといっしょにロンドン市内を見物しながら5マイルも歩いたが何ともない。むしろ女房の方がヘトヘトになったという。
さらに翌日の夕方にも電話してきた。あれからさらにロンドン市内をまわったが女房はへばって先に寝ている。自分はこれから夜のロンドンを見に行ってくるという。
それから2日後に別れの電話が掛かって来た。礼を述べたあと、実は国へ帰るのではなくヨーロッパまで足を伸ばしてくるのだという。8か月後に彼から砂糖づけの果物が届けられた。その中に入っていた走り書きに、今は水泳もやっている、とあった。
こうして彼との接触があるごとに私の脳裡に甦る1つの事実があった。それは、すっかり良くなった弁護士を車で連れて帰る、その別れぎわにフリッカー氏が私と握手しながらじっと目を見つめてこう言ったのである。
「なぜわざわざ私のところへ連れて来られたんですか。あなたご自身でも私と同じくらいラクに治せたはずですよ。」
(8)古代霊シルバーバーチに導かれて
本性から言うと私は遠慮がちな人間の部類に入る。ストレートに自分を発散できないタイプである。フリッカー氏から生まれついての心霊治療家だと言われても、妻を見事に治しても、まだ、本当に治病能力があるのだろうかという疑念がつきまとっていた。
バーバネル氏から紹介された本の中に世界的に有名な心霊治療家ハリー・エドワーズ氏の本があった。それには背後霊との“一体化”ということが強調してある。私もひとつやってみようと思った。本格的に治療家としての練習をしてみようと思ったのである。
そのための補助として音楽を流した。特にチャイコフスキーの“くるみ割り人形”を使った。10分ないし15分ほど瞑想していると、何となく一種の白日夢に似た状態に入りかけてきた。それがエドワーズ氏のいう一体化の状態なのだろうか、私はそう思った。
しかし、それ以上の変化はない。声が聞こるわけでもなし、映像が見えるわけでもなし、何1つ超常的な現象は起きない。これでいいのだろうか。フリッカー氏は悪ふざけを言ったのではなかろうか。
妻は本当に私の“治療”で治ったのだろうか。私は本当に生まれながらの治療(ヒーラー)家なのだろうか。その確信がもてなければ公然とヒーラーを名告るわけにはいかない。
そこで再びバーバネル氏に相談することにした。本当に自分がヒーラーであることを確認するにはどうしたらいいか、そして、もしも本当にヒーラーであることがわかったら、どうやって患者を求めたらいいか。私はこの2点について相談した。
するとバーバネル氏は私と妻を、翌週、氏のアパートへ招待した。そこではハンネン・スワッハー・ホームサークルという交霊会が開かれているから、そこに出現する霊の助言を聞くのがいちばんだというのである。
ハンネン・スワッパーと言えばフリート街(英国新聞界の別称)きっての名物男だった。多分今もそうであろう。ショーマンシップ、取材能力、ジャーナリストとしての資質、そのいずれをとってもスワッハー氏を凌ぐ者はいなかったし、今もいないであろう。
その氏がスピリチュアリズムを援護するに至った動機は、霊媒現象を暴いてやろうと交霊会に乗り込んだことにあった。それが逆にその真実性を確信することになってしまった。
ミイラ取りがミイラになったのである。そのホームサークルも彼の発案で発足し、彼の他界後もなおその名で存続しているのだった。ただ場所が最初スワッハー氏の自宅だったのがバーバネル氏のアパートに移っただけである。
その交霊会の中心的指導霊がシルバーバーチと名告る3000年前の古代霊であることは知っていたし、その霊言も「シルバーバーチ霊言集」を繰り返し読んでよく理解していた。が、そのシルバーバーチが身体を借りる霊媒が当のバーバネル氏自身であることは全く知らなかった。
サークルのメンバーはバーバネル氏の奥さんも入れて6、7人を数えるだけの平凡な男女のグループで、私たち夫婦を気持ちよく迎えてくれた。何の変哲もない茶の間で、イスを雑然と円を画くように並べ、男女が交互に座った。
開会が宣せられると一同が起立し、中央のテーブルに手を置いて讃美歌「わが目を開かせ給え」を歌う。お世辞にも上手とは言えないのだが、歌っているとテーブルが動き始め、ひとしきり動いて静かになると、全員が自分の席に着席する。
するとバーバネル氏がソファに座り、メガネをはずし、グラスで水を1杯飲んでから目を閉じる。ライトが部屋の隅々まで明るく照らしている。瞑目すること4、5分。やがてバーバネル氏はうめくような声を発し、頭を左右に振って、背筋をまっすぐにして座り直す。そして目を閉じたままで全員に挨拶を述べる。
この時のバーバネル氏はもはや私の知っている普段のバーバネル氏ではない。話しぶりが違う。声が違う。アクセントが違う。使う単語が違う。顔に老賢人を思わせる深いシワが寄り、異民族のような印象を与える。
座っている身体は間違いなくバーバネル氏だが、その身体を借りて語っているのはもはやバーバネル氏自身ではなく、指導霊のシルバーバーチであった。
シルバーバーチの霊言はすでに世界各国で紹介されている。安価なペーパーバックも何冊かある。私はこの霊言集が1人でも多くの人に読まれることを希望している。素晴らしい教訓の宝庫である。(日本語版全12巻が潮文社から出ている)
もっとも、その日の交霊会は主として私たち夫婦のためのプライベートな内容のものばかりであった。私たちはいろいろと質問し、その1つ1つに確実な解答を得た。しかし何といっても私にとって最も重要な問題は、私に心霊治療家としての素質があるということであった。
その質問にシルバーバーチは、私が辿ってきたこれまでの人生はすべて心霊治療家としてのこれからの人生のための準備であったと語り、「あなたは人の病気を治すために生まれてきたのです」と言った。
会も終りに近づいたころ「ほかにお聞きになりたいことは?」とシルバーバーチが言うので、私は「患者に来てもらうにはどうすればよいでしょうか」と尋ねた。その質問にシルバーバーチはこう答えた。「心配はいりません。あなたの治療力を神が放っておくはずはありません。患者はそのうちやってまいります。」
そのあとメンバーの1人1人と親しく言葉を交わした。至って人間味のある内容の話だった。悩みごとに対しても懇切に答えた。そして1時間も経過したころ、最後に短い祈りの言葉を述べて、シルバーバーチは去った。
ソファにうずくまるのはもはや見知らぬ老賢人ではなく、ぐったりとした、見なれたモーリス・バーバネル氏の姿だった。それから数分間、私たちはソファのバーバネル氏を横目で見ながら静かな声でおしゃべりを続けた。
それはまるでスヤスヤと寝入っている赤ん坊のそばでヒソヒソ話をするみたいだった。そのうちバーバネル氏が身震いとともに目を覚まし、大きく深呼吸をして起ち上がった。そして水を1杯飲みほし、片手で顔をさすってからメガネをかけた。かくしてバーバネル氏が戻った。
交霊会には書記が1人いて、シルバーバーチの言葉を一語逃さず速記していた。書記が休んだ日はテープレコーダーに録音するとのことだった。そうした記録をもとにシルバーバーチ霊言集が編纂されるわけである。
本書はシルバーバーチについての本ではないから霊言の内容まで述べるのは控える。是非知りたい方は霊言集をお読みになるのが1ばんであろう。とにかくシルバーバーチ霊の出現は人類の歴史上類を見ない偉大なる霊的業績の1つに数えられよう。
その後私たち夫婦は数多くの霊媒による交霊会に出席しているが、この日の交霊会は生涯忘れることのない記念すべき会となった。2人はその始めての不可思議な体験に驚異と満足の念を覚えながら帰途についた。が、これで全てが解決したわけではなかった。
(9)心霊治療家M・H・テスターの誕生
人生というのは何がキッカケになるか分からぬものである。私が心霊治療家として知られるに至るいきさつもその1つだった。
ヘルニアが全治したあと移り住んでいる現在のヘイワーズヒースというところは避暑地ブライトンに近い住み良い土地で、どこから訪ねるにしても、さほど来にくい場所ではない。
心霊治療家として本腰を入れることを決意した私は、治療日と営業時間を書いた広告を事務所で何枚かコピーさせた。妻は駅前のタクシー会社に出向いて、ウチへ来る客から料金を取らないよう、月毎にウチがまとめて支払うから、という約束を取り決めた。
治療日はひとまず月曜日とし、時間は午後2時から6時までとした。その最初の月曜日、私はピアノ用の椅子を患者用に使うために応接室に運んだ。そしてレコードプレーヤーには「くるみ割り人形」を用意し、さらにドアのすぐ外に手洗い水とタオルをのせたワゴンを置いた。
さあ、これで患者がいつ来てもいいという体勢だけは整った。はたして来てくれるだろうか。それが、思わぬことがキッカケで大挙して押し寄せることになったのである。
すでに述べた通り私は検査官が本職である。商品や事業用の資産の管理を指導する仕事で、仕事は地味なのだが、英国中を手広くやっているせいもあって、いささか名前は知られていた。
よほどのことでもないかぎり人目を引くようなことはないのだが、新聞ダネになることはままあった。その“ままある”ことがたまたまその頃に起きた。フィナンシャルタイムズという有名な経済新聞が毎号掲載している「ひと」の欄で私を紹介してくれることになったのである。
人に知られる – これは願ってもないことだ。といっても、こちらから売り込むわけではない。記者が私にインタービューしてそれを記事にするだけで、ああ書け、こう書けとは言えない。
が、せいぜい好い印象を与えようと、私は担当記者のロバート・ヘラー氏を「ミラベル」という英国で、いやヨーロッパでも指折りのレストランへ招待した。私は食通ではないので、本当にその名に相応しい料理を出すところかどうかは知らない。知っているのは英国一高い店、ということだけだ。
2人は豪華な食事に舌鼓をうちながら色々とおしゃべりをした。ヘラー記者は話のしやすい人だった。職業柄かも知れないが、こちらの話に一心に耳を傾けてくれるのは嬉しいものだ。もっともそれは1つには豪華な食事のせいかも知れないが、いずれにしても雰囲気はきわめて良好だった。
食事も終りに近づき、コーヒーが出た。するとヘラー記者が「お仕事のことは十分お聞きしました。ところでお仕事のほかにはどんなことをなさってますか」と聞いた。私は正直に心霊治療が施せると言った。そのことが「ひと」の欄の最後に書き添えられた。図らずもそれが最大の広告となったのである。
さらに、そのことが他の新聞社の目にとまったらしい。翌週さっそく私の土地の地方新聞のミッド・サセックス・タイムズが私に関する記事を載せ、それにも心霊治療家として紹介してあった。それを見たのであろう。ブライトンの夕刊紙アーガスの記者がその週の土曜日にカメラマンを連れてやって来た。
翌週その夕刊はほぼ1ページを使って私を紹介し、妻と私が並び子供たちがプールで遊んでいる写真が載っていた。さらにその翌週には英国全土に購読者をもつ日曜新聞ピープルが半ページにわたって私の紹介記事を載せた。さらに雑誌イングリッシュダイジェストが紹介してくれた。米国の雑誌にも載った。
かくして心霊治療家M・H・テスターの名が英国全土に知れわたった。治療日の月曜日になると患者が続々とやってくる。次第に1日ではさばき切れなくなってきた。
待合室はすぐに1ぱいになる。外の車の中で待っている人もいる仕末だ。果たして満足のいく治療がしてあげられるか – 月曜日は心霊治療家としての私にとって試練の1日である。
患者は大半が医学から見放された人たちである。医薬品ですぐ治るような病気でやってくる人は皆無とはいわないが、ほとんど無いと言ってよい。ほとんど全部の人が“慢性的不治”の病人である。闘病生活で疲れ切っている。衰弱し、やつれ切った表情をしている。
腰は曲り、まともに歩けない。私の治療室まで辿り着くのがやっとという状態の人が多い。が、その治療室から、ある人は希望に目を輝やかせながら帰っていく。ある人は霊的真理に目覚めて帰っていく。そして奇蹟的に全快して帰っていく人がいるのだ。
(10)治療家としての1日
治療日である月曜日の午後2時から6時まで、私の家の門は開けっ放しになる。妻が細かい準備を手伝ってくれる。ペルシャ絨緞を敷いた応接室の中央にピアノ用の椅子を置いたり、水鉢と石けんとタオルをのせたワゴンを運んだりしてくれる。
が、これ以外にすることと言えばテープレコーダーの用意くらいのものだ。大きなハイファイのスピーカーがある。聖なる曲を想像されるかも知れないが、私は何でもかける。シベリウスだったりチャイコフスキーのバレー音楽だったり、時にはシャレたジャズ音楽を流すこともある。
患者が大挙してやって来た時は入口の広間を待合室に使う。その入口のところに献金箱が置いてある。私は治療代を取らない。どうしても礼をしたい人はその箱へ思っただけのものを入れていただく。それを集めて恵まれない人々のための寄付金にする。治癒能力は神から預かったものだ。それは必要な人には無料で与えられるべきだというのが私の信念なのである。
昼食はいたって質素なものにする。ご馳走は治療効果を妨げるからであるが、それは別にしても、大体私は菜食主義である。大体といったのは、お付き合いでたまには魚貝類をいただくことがあるからだ。
昼食が済むと読書と書きものをする。2時前からたいてい1人2人と患者が見えているが、よほどの痛みでも訴えないかぎり2時まで治療にかからない。
さて、いよいよ2時が来て私が広間を通って治療室へ足を運ぶと、広間にいた1人の女性が立ち上がって私のあとに付いて来た。初めての方で、手紙による申込みだった。中央の椅子に腰掛けると正面の窓ごしに妻の自慢の庭が見える。
上着を取っていただき、私は手を洗う。それから「どうなさいました」と尋ねる。が、その時すでに私はその人のもつ雰囲気の中に、不幸感と自己憐憫の情とうつ病に近い深い悲しみを察している。その奥に罪の意識もある。女性はハンカチを取り出してから語り始める。
患者の話はきまって支離滅裂である。そこで私のほうから適当に質問をはさんで急所を押さえなくてはならない。その女性の場合は肩から首筋にかけて激しい痛みを覚え、それが頭痛や時として頬の痛みにまでなる。歯痛のようにも感じて歯医者に診てもらったら歯には何の異常もないと言われた。
始終痛むというわけではなく、痛んでは消えるのを繰り返している。昨年ご主人を亡くしたが、それまでの結婚生活は幸せだったとは言えず、夫に忠実でなかったと語る。子供もなく、寂しくて、何やら世間から見捨てられたような気持がして、罪悪感にも苛(さいな)まれている。痛みは半年まえから出はじめたという。
話を聞き終るとテープレコーダーのスイッチを入れる。その日はジョージ・シヤリングの「夜の霧」がセットしてあった。私は立ったまま右手を額に当て左手を後頭部に当てる。
その姿勢のまま真っすぐに目をやると、レコードプレーヤーの上にガレンの肖像画が見える。紀元2世紀ごろのギリシアの医学者で、私の心霊治療の第1支配霊である。私は目を閉じて音楽に耳を傾ける。
すると突然右手の指先から一種の“診察力”のようなものが出て病気の真因を探りはじめる。激しく震動しながら肩から首筋にかけて動いていく。ひどい凝りだ。私の手が優しく、しかし、しっかりとさすりながら、急所へ来ると止まる。次第に凝りが取れはじめ、緊張がほぐれていくのがわかる。
治療が終ると、夫人は何か月ぶりかで爽やかな気分を味わいましたと言う。が私からみると、この人に今いちばん必要なのは霊的真理の理解である。私は本を1冊プレゼントして、是非読んで来週もう1度いらっしゃいと言っておいた。
次は男性である。この人も今日が初めてである。年の頃は40。細身で背が高いが、ひどく歩きにくそうで、性格が極端に内気である。私と同じヘルニアを患い、すでに1年以上も病院通いをしている。例の牽引療法も試みている。激痛と不快感が続いている。ヘルニアの典型的な症状 – 背中と坐骨神経系統に激痛が走るのだ。
テープレコーダーのスイッチを入れる。ガレンの肖像に黙礼してから右手を腰のくびれの部分に当て、左手をかるく腹部に当てる。反応は確かだ。間違いなく椎間板ヘルニアだ。第4腰椎と第5腰椎の間の円盤が脱出している。右手に激しいバイブレーションを感じる。それが次第に激しさを増し、私の身体がほてって来た。そして突如として消えた。
音楽を止め、窓のところまで歩いてみなさいと言うと、実に足取りも軽やかに歩いて行って戻ってきた。ぎこちなさが全くない。腰を曲げてつま先に手をやってごらんなさいと言うと、冗談じゃないと言わんばかりのイヤな顔をしながらも曲げてみると、ラクラクと出来る。とたんに顔に笑いが戻った。痛みがない。完治したのだ。
しばらくは後遺症が出るだろうから2週間後にもう1度来てみるようにと言って手を洗っていると、代わって牛乳配達人が入って来た。手首の関節リューマチで1か月前に1度治療してあげたことがある。その時は手首が腫れ上がり、牛乳ビンがまともに握れなくて何本も落としたことがあったらしいが、今日見ると腫れもひいて握力もだいぶ回復している。
完全ではないが、ビンを握るのには差し支えないという。診察してみると筋肉にまだ弱さが残っているが、関節炎はほとんど消えている。治療したあと、2週間後にもう1度来るように言った。明るい表情で部屋を出て行った。
広間をのぞくと誰もいない。テープをシベリウスに代えてオフにし、手紙の返事を書くことにする。手紙での相談や治療依頼もよく来る。長々と書いて寄こす人もいる。私は同情を込めて簡潔に返事を書く。治療の申込みには日時を指定しておく。距離的な事情その他でどうしても来れない人には近くの心霊治療家を紹介してあげる。
4通目の返事を書き終える頃、玄関のチャイムが鳴った。新しい患者らしい。ドアを開けると、年の頃34、5の背の低い、でっぷりと肥った金髪の男性が入って来た。
まるで少女のように頬を赤くしながら恥ずかしそうに椅子に腰かける。実に、その赤面することがその人の悩みだった。職業は歌手で、オペラにも出ることがあるが、舞台に立つと赤面症が出て歌えなくなるという。
私はセットしておいたシベリウスの曲をオンにして、キャビネットの上のガレンの肖像画に目をやる。
この肖像画を手に入れるのに一苦労した。この“近代医学の父”の胸像が1つだけ残っていると聞いているが、どこにあるかは分からない。探しているうちに1枚の肖像画を発見し、それをコピーしたのがそれだ。ガレンは201年に他界し、今、私の背後霊となって病気を治している。
さて赤面症の男性は診察したところ身体には何の異常も見られない。私は両手を頭部に当てがって静かに精神を統一した。治癒エネルギーが患者に流れ込む。手応えがある。「治りますよ」と言ってあげると、来週の月曜日にもう1度来ますと言って帰っていった。
手を洗っていると次の患者が入って来た。見たところ6フィートはありそうな背の高い男性で、しかも横幅もある。2週間前に1度来て手応えのあった人であることを思い出した。第2と第3の腰椎の間の円盤が損傷していた。
シベリウスが終ったのでムード音楽のサイ・グラントに替える。クラシックしか聞かない固物と思われたくないからだ。ガレンが心なしか苦笑しているように見える。
その男性はもうすっかり良くなったと語った。まったく痛みを感じないという。そして今日やって来たのは2週間してもう1度来いとおっしゃったからだ、と言った。念のため右手で脊柱にそって撫で下ろしてみたが完全に良くなっている。
私は治ってますねと言って、後遺症が出るかも知れないから1か月ほどしてから来てみて下さいと言っておいたが、多分もう来ないだろうと私は推察した。それほど良くなっていたのである。
また広間が空っぽになった。そこで私はまた手紙の返事書きに戻る。妻が紅茶を入れてくれた。いい気分転換になる。そして最後の手紙を読みかけたらドアが開いて、若い女性が入って来た。温かく迎えて腰かけに案内する。
年齢は28歳だが、どうも今1つ明るさが感じられない。実を言うとこの人は半年前から毎週通っている人である。ご主人に先立たれ、母親とうまくいかず、近所の人からも好かれていない。神経科に通っているが、どうも自殺しそうな気がする、と自分で言っていたのを思い出す。
今では明るさも出て自殺の心配はなくなった。もっとも、時おり自殺をほのめかす時がある。それは、私がもう来ないでもよろしいと言った時だ。彼女は今では私のところに来るのを何よりの心の拠り所にしているのだ。
私のところに来たところで、ただサイ・グラントを聞かせ手を当ててあげるだけだ。私はイカサマ師なのだろうか。父親の理想像を抱かせているだけではなかろうか。それとも経験豊かな心理学者なのだろうか。そんなことを考えたりもする。
次の患者は難物だ。珍しい眼病で、視力が極端に落ちている。すでに4回の治療を施しているが何の反応もない。ついに本人も他の治療家へ行ってみましょうかと言ってくれる。私も自信がないから、英国心霊治療家連盟の住所と事務局長の名前を教えてあげた。
英国内の心霊治療家はほとんどがこの連盟に加入しており、地方に支部が置いてある。もしかしたらその中にこの眼病が治せる人がいるかも知れない。私は、いつでも力になってあげるから来たくなったらいつでも来て下さい、と言ってあげた。
その日も何の変化も見られなかった。気落ちした様子で帰って行った。治りますよ、と言ってあげたいところだが、私にはその自信がない。自信がないものを、口先だけで希望をもたせるわけにはいかない。私は黙って見送った。
次の患者は慢性蓄膿症である。3年間あれこれ治療しても一時的に少し回復するだけで、今では精神的に参ってきており、全体の健康状態も芳しくない。テープを再びシアリングに替える。神経を鎮める雰囲気が必要だ。
私は両手を頭部に置き、動くにまかせる。すると右手がやはり鼻腔の上あたりに来る。充血が感じられる。内腔が拡張し病原菌が感染している。そのうちその右手が震動しはじめる。そして震動が次第に指先に集中してきた。かなりのエネルギーが患部へ流れ込む。患者が汗をかき始めた。
すると徐々に震動がおさまり、私も我に帰る。ティッシュペーパーを箱ごと渡して、思い切って鼻をかんでみなさいと言っておいて、テープを止める。手を洗っていると鼻をかむ音が1、2度した。どろっとした鼻汁が多量に出た感じだ。
案の定「何か月ぶりかで頭がすっきりし呼吸もラクになりました」と言う。まだ細菌の感染が残っているが、もう大丈夫だという感触を得た。来週もう1度来て貰うことにした。
入れ替って、艶めかしい香水の匂いと共にミロのビーナスを思わせる中年の美人が入って来た。美事な肢体を少し小さめのドレスで包んでいるので、起伏のすべてが際立って見える。しかし、その人が乳ガンだという。私はさっそく妻のジーンを立会人として呼び入れた。
心霊治療というのはうっかり出来ない仕事である。これといって公式の資格はない。英国医療審議会は心霊治療家の存在を認めていない。いかなる主張をしても好意的な態度を見せてくれない。治った体験のある人は大いに敬意を払ってくれるが、体験のない人は頭から偏見をもっている。
大体、心霊治療家は“病気を治す”という表現を使ってはいけないことになっている。子供を治療する時は両親の承諾を得なくてはいけない。妊婦も治療してはいけない。もしも本人からの依頼があった時は立会人を必要とする。
新しく来た患者に私は必ず次のように言うことにしている。「私は医学的資格は何一つ持ち合わせません。私が治療を施すのは私に病気を治す能力があることがわかり、それを人に施すべきだと考えるからです。
どなたにでも施してあげるし、お金も、いかなる形での礼も戴きません。従って今日の治療も1つの試みと考えて下さい。それで治れば私もうれしいし、たとえ治らなくても、あなたにとって何の損もないはずですから。」
女性特有の器管の病気の治療には立会人がいる。妻が入って来てにこやかにビーナスに挨拶し、私のすぐそばに腰かける。音楽を流す。まずビーナスの額に手を当てる。何の異常反応もない。健康である。私は1つ深呼吸してから両手を広げてビーナスの胸のふくらみに当てる。
もうその時の私には、触わっている相手が肉体美人なのか痩せぎすなのか、それとも馬なのか、そんな意識はまるでない。不思議に何の反応もない。明らかにガンではない。ふと目を妻の方へやると、タカのような鋭い目で私を見つめている。
肩から首筋へと手を動かしてみたが、どこも悪くない。確かにいい体をしている。ほとんど申し分のない健康体である。私は、1度医者に診て貰ってその結果をもって2週間後に来てほしいと言っておいた。私には筋肉のコリにすぎないと思われるのだが、敢えて言わずにおいた。
そこでいったん患者がいなくなった。15分ほど返事書きに費し、書き終えて切手を貼ったところへ3人の患者が連れだって到着した。駅からタクシーに乗り合わせたらしい。
最初に診た人は脊椎の骨関節炎で、かなり悪化していた。もう15年にもなるという。医学的にはまったく絶望的で、医者から「生涯この病を背負って生きる方法を考えるように」と言われているが、とてもそんな気にはなれないという。
曲をチャイコフスキーに替える。右手を脊柱にそって下ろしていくと全体に反応がある。かなり悪い。手がしきりに上下する。終ると背中が温くて気持ちがいいという。まだ痛みはあるが、ずいぶん和らいだという。
ロンドン市内に住んでいるというので私の事務所の住所と電話番号を教え、1週間後に電話をくれるように言っておいた。絶対治るという確信を得た。ただし治り方はゆっくりかも知れない。
2人目は見るも気の毒な患者だった。青年だが、衰弱しきっていて、今にも崩れそうな体を松葉杖で必死に支えている。リンパ腫の1種だ。恐しい消耗性疾患で、医学的には末期的症状だ。私は曲をグノーの“アベマリア”に替え、背後霊のガレンに援助を祈る。治療にはずいぶん時間がかかった。全身から病的な反応がある。
治療が終わってから私はその人に、これからも出来るかぎりのことをするつもりだから、治療してほしい時はいつでも電話するようにと言って番号を教えてあげた。私はこの人はもうすぐ死ぬと直感したのである。
握手をしながら目を見た時、自分でもそれを覚悟していることが読み取れた。できるだけ安らかな死を迎えさせてあげたい。私はそう願うほかない。心霊関係の著書で有名なポール・ビアード氏にいつか「私は生涯の大半を人が安らかに死ねるようお伝いしているみたいだ」と、その辛い心境を打ち開けた時、氏は「それも治療家の大切な役目ですよ」と言ってくれたのを思い出す。
3番目の人はもう患者と呼ぶべきでない健康な人だ。3週間前に来た時は背骨が曲がっていて、何年もの間激しい痛みに苦しんでいた。左右の脚の長さが違うほど体がよじれていた。それが今見ると健康そのもので、事実、今日はお礼に来たのだという。
が私は感謝してくれては困ると言った。いい曲を聞いてレコードプレーヤーに感謝する人がいますかと私は言うのである。作曲した人、または演奏している人、もっと言えば、作曲家にインスピレーションを吹き込んだ霊に感謝すべきである。
3人が終わると5時15分前だった。子供たちも学校から帰っている。妻がサンドイッチとケーキと菓子パンをのせたワゴンを押して遊び部屋へ運んでいく。私も加わって紅茶を飲んだりしながら寛ぐ。10分ほどして来客があった。
難病人の1人だった。年の頃55歳。感じのいい教養人だが慢性の不眠症で、それが原因でいろいろと余病が出ている。痙れん、頭痛、筋肉痛、麻痺。すでに何度も治療に来てもらっているのだが、一向に好転の兆しがない。
それでもこの人は私とおしゃべりし、一緒に音楽を聴き、治療を受け、しばし語り合って帰っていく。見送りながら、この方は今夜も一晩中眠れないに違いない、と気の毒に思いながら、ガレンの肖像画に向って「時おり己の無力を痛感します」と心で語る。
最後の客が来たのは6時近くだった。奥さんが脳出血で入院中である。その病院の担当医の許可を得て往診に行く約束になっていた。が、その前にご本人にも治療を施してあげなければならない。泌尿器の疾患で偏頭痛もある。それにもう1つ、病的な自己憐憫の気がある。前の2つは手を当てて治療し、後の1つは霊的真理を説いて聞かせる。終わって病院へと向かった。
病室へ入ってみると、奥さんは目を見開いたまま身動き1つせず、口も利けない状態で複雑な医療器と管でつながれている。私の目には奥さんの霊は完全に肉体に閉じ込められたまま身動きできなくなっている。
その肉体はもはや正常な機能を失っている。こんな時は2つに1つしか道はない。肉体機能を回復させて霊の働きを取り戻すか、肉体を捨てて霊を解放してやるかだ。
が治療家としての私には勝手な選択は許されない。私にはただ手を当てて背後霊の判断を待つよりほかはない。私は精神統一をして一心に治療エネルギーを送ろうとするが反応がない。しばらくその状態を続けてから引き揚げた。
その日はもう1人往診の約束をした人がいた。4マイル先の村の老婆である。明るい立派な部屋の豪華なベッドで私を迎えてくれた。めったに見かけない筋肉の病気で、16年間も寝たきりである。
痛みもあるし不愉快である。私は温かく挨拶して、しばらくおしゃべりしてから治療に入った。手応えがある。治療後、痛みがずっと和らいだと言う。これでこの老婆もよく寝られるようになるだろう。
家に帰ったのは7時半だった。すでに治療室は妻が片付けてくれて、夕食の用意も出来ていた。手を洗い、衣服を着替えてからテーブルにつく。かくして私の治療日が終わった。
第2章 心霊治療とは何か
心霊治療はたしかに効く。心身症的なものだけでなく、機能上の欠陥も治る。むしろ機能的な病気の方が治りやすい。
G・スミス夫人はイタリア系の英国人で、大柄の、なかなかの美人だ。ある日曜日の昼食後に突如訪ねてきた。私は日曜日はふつう治療しない。別に安息日だからという宗教上の意味からではない。せいぜい日曜くらいは家族へのサービスの日にしたいというだけである。がスミス夫人は激痛で自殺をほのめかす言動が見られた。絶望の淵のすぐそこまで来ているのだった。
椅子に掛けてもらってから感情の鎮まるのを待った。やがてハンカチで涙を拭うと語り始めた。話がしどろもどろで要領を得なくて何度かこちらから質して話をもとへ戻さねばならなかった。が、どうにか筋は呑み込めた。
彼女は学校の先生である。英国人と結婚して2人の子供がいるが、2人目を出産した際に右の股関節がはずれた。4年半も前のことである。麻酔をかけた上で処置してもらったが、すぐまたはずれる。
これを何度か繰り返しているうちに次第に悪化し、痛みが激しくなり、医学的には手の施せない状態になった。この4年余り、彼女はその激痛との死闘に明け暮れていたわけである。私は何とか治してあげたいと思った。
彼女はイタリア南部の出身で、大柄で、その地方特有の雄大なヒップをしている。手を当てがっても骨の感触はまるで無い。が治癒の反応が強く出た。「痛みが和らいだようです」と言う。
私は2、3分静かに座らせておいてから「歩いてみて下さい」と言った。すると最初恐る恐る歩き始めた。やがて痛みがないことがわかると、さっと顔の表情が明るくなり、しっかりとした足取りで歩き始めた。首筋を真っすぐにして目を輝かせ、例の雄大なヒップを左右にゆすりながら堂々と歩いた。
心霊治療で治せない病気があるか – 私の知るかぎりでは治せないものはない。但し、そこに存在しないものは治療できない。事故で失った足とか、手術で取ってしまった臓器はどうしようもない。手術後の経過が思わしくなくて来る人が多いが、そこに無いものは治療の施しようがない。
が、そうした特殊なケースを除けば、どんな病気でも欠陥でも奇形でも治せる。では心霊治療というのはどういう具合に作用するのだろうか。私は心霊治療の専門家である。ということは、音楽家や画家や詩人が天性的にその才能を具えているのと同じく、霊的に病気を治す才能を天性的に具えているということである。
同時に芸術家が外部からのインスピレーションによって作品を生み出すように、私も外部からの治癒エネルギーによって仕事をする。私は単なる受信器にすぎない。強力な霊的エネルギーが流れ込む通路にすぎない。
だから、逆説的な言い方になるが、私の場合は治そうという意識を持たないほどよく治る。つまり全てを背後霊にまかせるのである。背後霊というのは、かつて地上で生活した人間があの世へ行ってから、もう1度地上生活との関わりをもつために、地上の人間の仕事を手伝っている霊である。
このことについてはのちに詳しく述べるが、私の場合はガレンというギリシアの医学者が中心となって、ほかにガレンほど有名ではないが、やはり地上で医学を修めた専門家が何人か働いてくれている。
治療に入る時はその背後霊団に波長を合わせる。もっとも、波長を合わせるというのは非常に説明の難しい状態である。入神状態になるわけではない。また特殊な宗教的な儀式をしたり九字を切ったりするわけでもない。
言ってみれば白日夢の状態で、自分のいる部屋の様子、流れている曲、自分が今やっていることなどがみな私自身にも一応わかっている。意識を失ってしまうわけではないのである。が、それでもなおかつ、なんとなくふわっとして、何か自分とは別のものを意識する。
“何か自分とは別のもの”というのも実に曖昧な言い方である。が、そうとしか言い表しようがないのである。これでも精一杯正確に表現しようと努力しているつもりである。これを“誰かがいる”と表現したら事実とズレてくる。人間や霊的存在を意識するのではない。患者と私が2人きりでなくなる、と表現するのがいちばん正確かも知れない。
その状態に入る前に私はすでに患者から病歴について語ってもらっている。その話には注意深く耳を傾け、筋の通らないことは質問して病気の全体像を適確につかんでおく。これは非常に大切である。
その理由の1つは、治癒エネルギーは豊富に存在するが、それを私を通して患者のどこに集中すべきかの判断は私が下さなくてはならない。それは患者自身にもわからないことが多い。脚の神経が痛むといっても、原因は腰椎にあることもある。そんな場合にいくら脚を治療しても効果はない。
もう1つの理由は、その話をガレンが背後でいっしょに聞いているということである。ガレンは私の背後に控える治療団のリーダーで、患者の話をもとに霊団の中からその患者に合った専門霊を選んで治療に当らせる。私はその霊団の道具にすぎないのである。私があまり出しゃばらないほうが好結果が得られるのはそのためである。
私の果たすべき責任はいたって単純である。治療の道具としていつ使われてもいいように準備し、身を清潔に保つということである。だから私は心身ともに衛生に気を配る。食事を質素にし、たばこを吸わず、アルコール類も一切口にしない。
特に治療日には本職(コンサルタント)のことや家庭的なイザコザを忘れ、ご馳走を控え、タバコ、薬品類、アルコールは絶対口にしない。そういう状態を保つことが、背後霊が私をもっとも効果的に使う最高の条件と心得ている。今後もずっとこうありたいと願っている。
40に手の届きそうな女性が来た。色浅黒く、およそ美人の形容詞からは縁遠い。しかし背が高くスリムで、ドレスを美事に着こなしていた。スツールに掛けると、もじもじしながら何やら小声で言った。
よく聞き取れないので、もっと大きな声で、と言うと、しきりに咳払いした。私は何も言わずに、彼女が語りやすい雰囲気に心を配った。やがてもじもじした態度が消えて、私を真っすぐに見つめて語り始めた。
話によると、ここ2年近く十二指腸潰瘍を患い、時おり強い痛みを覚える。薬も食事療法も効果がない。精神安定剤をかなり服用しており、その上、いずれは手術しなければならないという見通しを聞かされて、それに怯えてもいる。
手術を受けに病院へ行かなければならないという思いが頭から離れず、それがますます潰瘍を悪化させている。何とか手術をしなくても済むようになりませんかと言うのである。
医学的治療や医薬品、医療器具、手術等の是非について心霊治療家が相談を受けるのは珍しくないのであるが、医事法からいうと治療家にはその資格はない。だから、そんな場合、私はその質問には直接答えず、心霊治療というもののプロセスを説明し、そのウラにある霊的教訓を説くことにしている。その説明の中から患者自身が解答を引き出してくれる。
その女性はかなり落着きを見せはじめた。私は潰瘍はストレスのせいだと判断した。がそのストレスのそもそもの原因は何か、これもすぐに分かった。3年前に突然ご主人が他界し、10代の子供3人を抱えて途方に暮れた。ご主人の死というショックと3人の子供の養育という責任は女1人には重すぎた。それが潰瘍の原因だ。
モーツァルトの曲を流しながら私は右手を胃部に当てがい、左手を背中に当てて、顕在意識の流れを止めた。その間は時間の経過が意識できないので、どれほどその状態を続けたか分からない。がテープの進み具合から、かなりの時間だったことがわかった。
彼女は目を閉じたまま静かに座っている。神経質な様子が消えてリラックスしている。やがて目を開いた。穏やかな表情をしている。しばし何も言わない。やがてニッコリ笑った。始めて見せた笑顔だ。心のシコリが取れたのだ。まだ痛みますかと尋ねてみた。ぜんぜん痛まないという。気分もすっきりしている。治ったのである。
予定では10日後に病院でバリウム検査を受け、それから1週間後に手術前の検診がある。では1週間後にもう1度いらっしゃいと言うと、手術は受けなくて済むでしょうかと聞く。私はそれは私の口からは何とも言えないと答え、とにかく食事は粗食にするようにとだけ注意しておいた。
1週間後に訪れた時はすっかり別人になっていた。満面に笑みを浮かべ、うれしい知らせをいっぱい持ってきてくれた。この1週間というもの、痛みも不快感も感じなかったという。夜もぐっすり寝られる。そしてもりもり食べる。魚やチップスを何年ぶりかで食べたという。
バリウム検査では潰瘍は消えていた。傷痕がわずかながら残っているが、医師はこの程度なら手術の必要はないし治療もいらないと言い、病気のことは一切忘れて普通の生活をし、食べたいものは何でもおあがんなさいと言ってくれたそうである。
その報告に来てくれた時私はしばらく霊的な哲学について話をした。彼女のほうからもっと勉強したいと言うので2、3冊心霊書を紹介してあげた。身体のほうの回復も早かったが、霊的な回復もまた早かった。もう2度と潰瘍は出来まいと私は確信した。真の意味で彼女は“治った”のである。
心霊治療は魂の治癒までいかないと本物とは言えない。似たようなケースをもう1つ紹介しよう。大手の製造工場で働いているエンジニアが仕事でロンドンまで出て来たついでに私の事務所で治療を受けた。
私の場合と同じ腰椎のヘルニアで、背筋が痛む。坐骨神経がしびれる。股関節の異常でまともに歩けない。私の体験した苦痛を全部味わっていた。例の牽引療法もやってみたという。鎮痛剤を常時もち歩き、もちろんコルセットもしていた。仕事柄、車を運転することが多く、息も絶えだえの状態で帰宅することが多かった。
私は右手を腰椎に当てがい、左手を腹部に当てて精神を統一した。すると右手が背骨にそって首の付根のところまで上がっていき、こんどは下がりながら1つ1つの背骨、その中間にある円盤の1つ1つのところで止まって霊波を照射した。それでおしまいだった。が、それだけで彼の身体は柔軟になり、固さが取れていた。痛みも取れた。わずかばかり坐骨神経に後遺症があるだけだ。
彼はウェールズ州に住んでいてロンドンまで出るのは大変である。帰る時、次はいつ来れるか分からないと言ったが、次に来たのは実に1か月後のことだった。しかし片脚に坐骨神経痛の後遺症があるほかは何も異常はなく、もう全快したのも同然だった。ところが、それからさらに1か月あまり後になって、予約リストに同じ名前がのっているのでびっくりした。
その予約日が来た。会ってみるとやはり同じ男性だった。がどこをどうみても患者とは思えない。至って元気そうである。話を聞いてみると、今日は自分のからだをこんなに見事に回復させたエネルギーの秘密を教わりに来たという。
私は心霊治療の原理のあらましを話して聞かせ、私自身はエネルギーが通過する道具にすぎないことを強調しておいた。そして、前の女性の場合と同様に数冊の心霊書を紹介してあげた。さらに彼がエンジニアであることを考慮して、人体の構造について説明し、椎間板の異常によって生じるストレスや変形のメカニズムを説明した。
さすがにエンジニアらしく理解は早かったが、霊的なエネルギーのことが納得できない。本を読んでみますと言い残して帰っていった。普通ならこれでおしまいになるところである。ところが2か月後にまた予約リストに彼の名前が載っていた。
会ってみると全く健康そのものである。背骨にも異常はない。ぶり返しも1度もないという。そして今回訪ねてきたのは自分という人間が良い意味であまりに変ってしまったそのわけを知りたいからだと言う。
それまでの彼は向う意気が強かった。それが今は控え目な人間になった。よく乱暴な態度に出ることがあったが今は穏やかになった。カッとなりやすかったのがきわめて冷静沈着になった。人間がすっかり変わってしまった。なぜか。一体自分に何が起きたのか。それが知りたくて来たという。
実は心霊治療が効を奏するのは、治癒力が魂の奥底にある不健康な状態を改善するからである。言いかえれば、魂が真に目を覚ますのである。病気治療そのものは目的ではない。手段にすぎない。
彼もヘルニアという病気をキッカケに魂が目を覚まされたのである。真実の自分に目覚めたのである。彼はもう2度と昔の彼に戻ることはあるまい。私がそうであるように。
第3章 遠隔治療とは何か
南アフリカのケープタウンに住むデコック夫人は腹部の腫瘍に苦しんでいた。所用のためロンドンに滞在中に病院で診断を受けたところ、やはり悪性のものかどうかは今のところ判断できないとのことだった。
帰国すれば生体組織検査が待っている。その結果次第でそのまま治療を続けるか手術をするかの判断が下される。〇〇日にサウサンプトン港から帰国する予定だが、出来ればそれまでに心霊治療をお願いしたいのだが…というのが私へのデコック夫人の手紙のあらましである。
ところがその手紙の宛名書きの住所が間違っていたために、私のもとに届いた時はすでにロンドン滞在期間があと1日で切れるという日だった。今ごろは恐らくロンドンの宿泊先を引き払ってサウサンプトン市にいるはずだ。私はそう判断して、夫人が乗船することになっているユニオン・キャスル・ラインへ速達便を送り、遠隔治療を致します、と書いておいた。
それから3週間してケープタウンのデコック夫人から手紙が届いた。そのあらましを紹介すると、乗船してからもまだ腹部に痛みを覚えていたが、それが次第に消えていき、3、4日すると痛みを忘れるようになり、5日目の朝には腹部のしこりが失くなっていた。
おかげで残りの船旅がとても快適で、デッキでのゲームやスポーツを楽しんだ。ケープタウンに着いてからさっそく病院へ行って検査してもらったところ、腫瘍は影も形もなかったという。
このように、遠隔治療も確かに効く。今日では世界中で広く行われている。右の例のように治療家と患者とが顔を見合わせることなく、治療が遠方から治癒エネルギーを送って治療するやり方で、患者がそこにいないということから“不在治療”ともいう。
直接療法の場合は患者が目の前に存在し、その患者から病気の症状や病歴などについて細かく聞くことができる。事情をのみ込むと治療家は患者の身体に手を当てる。するとその手を通じて治癒エネルギーが流れ込む。患者は立ちどころに治る…といった調子に行けば言うことはないのだが、実は心霊治療もそう単純なものではない。
およそ半数以上の患者はその場では何の反応も変化も見せないのが普通である。ところが次に訪れた時には症状が大幅に改善されていたり全快していたりすることがよくある。聞いてみると、治療してもらった日は何ともなかったが、2、3日して朝目を覚ましてみたら痛みがすっかり消え症状が良くなっていたというのである。
なぜこういうパターンになるのだろうか。私は長年の経験からこう推理した。つまり治療を担当する霊は彼らなりの診断にもとづいて治療に当るのであるが、患者によっては精神的な歪みや緊張が障害となって治癒エネルギーを受けつけないことがある。
そこでその場ではいったん治療をあきらめ、その患者が帰宅してから寛いだ時、たとえば熟睡中などをねらって治癒エネルギーを注入する。翌朝目を覚ましてみると、すっかり良くなっているということになる。
この推理を背後霊に質してみたらその通りだとのことだった。実は遠隔治療もこれとまったく同じ原理なのである。距離の遠い近いは関係ない。霊界では時間と空間(距離)が地上とはまったく異る。大西洋のド真ん中を航行中の客船の中にいる患者を治すのも隣の家の患者を治すのも、霊にとっては同じことなのである。
今や、地球の反対側で行われているオリンピック競技が地球をまわっている人工衛星を中継してテレビの画面に映し出される時代である。こうした遠隔治療の原理も別段不可思議なことではなかろう。
ただ遠隔治療には1つだけ欠かせない条件がある。治療家と患者は“直接”の接触は必要ないが“間接的”な接触は絶対必要だということである。それはふつう手紙を媒体にして行われる。
本人の書いた手紙を私が手に持つことによって患者とのつながりが出来る。さらにそれを読むことによっておよその症状がのみ込める。それが背後霊に伝わる。背後霊はそれに基いて準備を開始する。
私のほうでは何月何日から治療を始める旨を患者に連絡し、症状に変化が出れば、どこがどうなったということを知らせてほしい。何の変化もない時もその旨を連絡してくれるようにと書き添える。間隔は患者によって1週間に1回の時もあれば2週間に1回の時もあり、1か月に1回の時もある。
この患者からの経過報告は非常に大切である。症状の変化によって治療箇所を変えたり打ち切ったりしなければならない。たとえば椎間板ヘルニアの場合だと、ヘルニアそのものは正常に復していても、坐骨神経の後遺症が残っていることがある。それが脚に残っている時は脚に治療を集中しなければならない。
このことに関連して、よく次のような面白いことが起きる。手紙が届く。読んでみると「昨年あなたの遠隔治療のおかげで肺ガンを治していただいた者です。つきましては…」と、知人や親戚の者への治療を依頼してくるのである。
文面から察するに、遠隔治療で自分が治ったことがこの私にも手応えでわかっていると思い込んでいるらしいのである。私にもそこまでは分からない。治ったか治ってないかは報告していただかないと分からない。
その連絡の間隔はさっきも言ったとおり1週間だったり2週間だったり1か月だったりする。危篤状態の時は1時間ごとになり、そうなると手紙ではなく電話連絡になる。本人はだめだから看病している人に報告してもらう。
こうした治療法を祈りによる信仰療法と同じと思ってくれては困る。遠隔治療を施す時の治療家の心理状態は祈りではない。一種の思念操作である。それは直接治療の時も同じである。
遠隔治療を施す時、私は直接治療の時と同じく背後霊との一体化を求める。そして患者の住所と氏名を述べ、心の中に症状を思い浮かべて、実際にその患者に手を当てて治療している様子を“映像化”する。
治療に当る霊との一体化 – これがカギである。人間と霊との間にも親和力というのがある。心霊治療家の特性は結局霊医との親和力とそれを意識的に誘導する能力にある、と言える。
祈りとは言わば神への語りかけである。そして、その祈りの内容の大半は利己心に発していると言ってよい。そんなもので事が成就されるはずはない。成就されるのは、せいぜい、ひと通りの文句を口にしたことによる気休め程度でしかない。
真の祈りの言葉は実は1つしかない。「御心の成就されんことを」 – これだけである。こちらから、ああしてほしい、こうしてほしいと頼んでみても仕方がない。神には全てが知れている。あなたにとって今何がいちばん大切かは神には分かっている。
だから、ひたすらに神の恵みに感謝し、御心の命ずるがままに生き、置かれた境遇の自分にとっての意義を理解しようと努力することである。そのためには特別仕立ての建造物はいらない。仰々しい言葉もいらない。僧侶もいらない。儀式もいらない。時刻をきめる必要もない。あいた時間ならいつでもいい。1日の用事がすっかり終わってからでもいい。要するに“神を忘れない”ことだ。
思うに、在来の宗教が宗教としての存在意義を発揮できずにいる主な原因の1つは、聖職者が心霊能力をもち合わせず、政治的ないし宗教学的才覚によって地位を確保している点にある。
いかに立派そうな大聖堂で病気平癒の祈りを述べても、その僧侶に治癒能力がなかったら何の効果もない。もしも信仰心と祈りの言葉だけで病気が治るのなら、例のルルドでもっと多くの人が治ってもいいはずである。
(ルルド – フランスのピレネー山脈の麓にある洞窟に聖母マリヤが出現し、その命に従って少女が掘った泉の水で木コリの眼病が治った話がきっかけとなって、そこがカトリックの信仰治療の場となっている。(128頁参照)
今やルルドは信仰治療のメッカとしてカトリックの華やかさと威勢と信仰の権威が治療行為1つに集中されている。そこには枢機卿を始めとして何名かの主教、何十人もの牧師、何百人もの尼僧、そして何千という信者たちが1日中ほぼひっきりなしに祈りを捧げている。
カトリック教会の途轍もない大きい力が聖母マリヤへの盲目的信仰と相まって、そこに集中されている。ここ100年あまりにわたって何100万もの病弱者が訪れている。なのに、実際に治った者はホンのわずかにすぎない。もしも祈りと信仰心だけで治るのであれば、もっともっと多くの人が治ってもいいはずである。
そのルルドでの治療風景を8ミリ映画におさめた女性が私のところにそれを見せに来てくれたことがある。実は私は写真が趣味で、ある同好会に加入しており、その女性もその会員の1人なのである。彼女はボランティア活動の1つとして肢体不自由児を大勢連れてルルドへ行き、その時の様子をカメラにおさめたわけである。
カラーでナレーションも入り、宗教的な音楽をバックに流して、実に見事な出来ばえであった。とくに子供たちが不自由な体をある者は車イスで、ある者は松葉杖にすがりながらも明るく陽気にはしゃぎながらルルドの難路を進む様子、そして到着した聖地でそこかしこに立てられた聖像に感心したり、立ち並ぶみやげ店で思い思いに買い物をする風景は、同情心をさそうと同時に感心もさせられた。
特に夜になって無数のローソクが灯され、それがまるでホタルのように暗闇の中で光り輝く中を子供たちの聖歌が響くシーンは感激的だった。見終わって、私は「見事な出来ですね」と言ってから、うっかりこう聞いた。「で、どなたか治った人がいましたか。」
彼女はそれを冒瀆的な言葉と受け止めたらしい。一瞬表情をこわばらせたが、すぐに、「いいえ、1人も治りませんでした」と答えてから、こんどは笑顔を浮かべて「でも、あの子たちには良いことをしてあげたと思っています」と明るく言った。
果たしてそうだろうか。私の考えでは、そういう体験をしたことがその子たちにとっては却ってのちに本当の治せるチャンスを失わせることになりはしないかと気にかかるのである。つまり心霊治療のことを耳にしても、「心霊治療家なんかに何が出来るというのか。ルルドであれだけのカトリック教会の力でも治らなかったのに」と思うに違いない。現にそれに似たケースがあるのである。
ある時、近くの婦人が訪ねて来て娘の治療に来てほしいと言う。自殺もしかねない状態だというので私はさっそく行ってみた。見ると30に満たない女性で子供が3人おり、立派なモダンな家に住んでいる。
が、この4年ばかり脊椎のいちばん上の骨の脱臼で苦しみ、あれこれやってみたが一向に良くならず、神経が異常に興奮している。首は外科用の頸輪(カラー)で保護され、鎮痛剤と精神安定剤でどうにか保っているという感じである。
「どんな治療をして下さるんですか」と聞くので、私は心霊治療家だと答えると、「まず治せないでしょうよ。牧師さんがこの家まで来て下さって祈禱をして下さっても治らなかったんですから」と言う。私も、牧師は宗教家としては立派な方でも治癒力に関するかぎり近くの肉屋さんと少しも変わらないと言うわけにはいかなかった。
不愉快な思いをさせられながらも治療してみたら症状がずっと良くなった。が、この人は完治は難しいと思った。というのは宗教的偏見が魂の奥深くこびりついていて、それが治癒力の流れを阻害するのである。が彼女もまだ若い。そのうち目覚める日も来るだろう。私はそう期待したい。
第4章 奇蹟のメカニズム
奇怪なうめき声しか出せない患者が来た。目がしきりに何かを訴えるのだが言葉が出ない。まるで動物のような声を出すだけだ。年の頃40。身なりはきちんとして、一見健康そうである。通訳として付き添って来た女性から話を聞いた。
この人には子供がなかった。だから生活のすべてがご主人に向けられていた。家の中をピカピカに掃除し、おいしい料理を工夫し、きちんとアイロンがけをし、そのほか夫がよろこんでくれそうなことを色々と工夫しながら楽しい毎日を送っていた。彼女にとっては夫がすなわち生きがいであった。
その夫が急死した。この世から消えて失くなった。彼女は悲しみのドン底に突き落された。全身から力が抜けてしまった。そして、ようやく元気を取り戻した時は物が言えなくなっていた。
病院へ行ってみたが発声器官には何の異常もなかった。夫がいなくなった以上しゃべる必要はなくなったとでも決め込んでいるかのようだった。診断は「ヒステリー性失語症」だった。いつも紙と鉛筆を持ち歩き、ジェスチャーを交えながら用を足すという生活が始まった。
患者の中には同じような心身症的要因、とくに悲しみが原因で病気になった人が非常に多い。症状はいろいろである。潰瘍や関節炎をはじめ、部分的麻痺、大腸炎、不眠、偏頭痛、背痛、静脈洞炎、結合組織炎、乾癬等々。
がそういう症状が誘発されるパターンはだいたいきまっている。身近にいた人が死ぬ。悲しみの極に落とされる。葬儀、喪中と続いて全身の力が抜けてしまう。それがなかなか回復しない。よく眠れない。食欲が出ない。そうしているうちに右に列記したような症状が出はじめる。
こうした患者は同情と理解をもって胸のうちを聞いてあげる。すると不思議なほど似たようなケースが多いのに気づく。共通していることは、心の奥底に罪悪感にも似た後悔の念と自己隣憫の情が巣くっていることだ。
自分がもっと注意しておれば…もっと優しくしてあげておけば…もっと気持を理解してあげておれば…しかし、もう遅い。そう思っては自分を哀れに思い、悲しみがまた湧いてくる。その罪の償いのつもりで楽しみを控えようとする。こういう人には心霊治療よりもむしろ心霊知識のほうが必要である。
死んだ人はこの宇宙から消滅したのではない。次の世界へ旅立ったのである。その人にとってはこの地上での勉強が終り、次の勉強の世界へと進級して行ったのである。中には学生生活から社会生活へと入るのを恐れる者がいる。
学校は住み慣れていて気楽だが社会は未知の世界だ。行くのが怖いと思うのも無理はない。が、だからといって、いつまでも学校にいるわけにはいかない。いずれは卒業しなければならない。
この世は決して安楽ばかりの世界ではないが、住み慣れた世界であることは確かだ。勝手のわかった世界だ。この世がいちばん安心しておれる。死後の世界は知らないことばかりだ。だから怖い。おまけに子供の頃から誤った来世観を叩き込まれている。
地獄、永遠の刑罰、火あぶり、悪魔等々の観念が脳裏をかすめる。聖人君子のような生活でも送らないかぎり、そうした恐しいものが自分を待ちうけていると思い込んでいる。だから死ぬのが怖い。
もしもこうしたことが事実だったら、確かに死ぬのは怖い。私も怖いと思うだろう。が事実はそうではないのである。死後の世界は光と生命と幸福感にあふれた実に快適な世界なのだ。
死んであの世へ行った人は、よほどの事情でもないかぎり、この世へ戻ってきたいとは思わない。それは、あなたが2度と小学校へ戻りたいと思わないのといっしょである。
向うへ行くとあなたはこの世の人生のおさらいをさせられる。犯した過ちがある。やるべきでありながらやらずに終ったことがある。もちろん良いこともした。が言い難いことを人に言ったりもした。そうした体験からいろいろと学ぶことがある。そこであなたの人間性が問われる。
が判断するのはあなた自身である。自分で自分を裁くのである。気まぐれな神様から罰を受けたり、子供だましのせっかんを受けたりするのではない。霊界は責任と義務の世界であり、いわば大人の世界である。まわりには知人や友人、肉身がいる。痛みも苦しみもない。精神的にも安らかで幸福感にあふれている。
ふと地上を見ると、そこには喪服に身を包んだ家族や親戚縁者が自分の死を嘆き悲しんでいる。後悔と懺悔の念に胸を痛めている。自分の死を理由によろこびを控えている。何たる無知、何たる見当違いであろう。
その無知、その原始さながらの迷信、その愚かさにあなたは哀れさえ覚える。が、いずれ彼らもそれに気づく日も来るだろう – そう思って自らを慰める。
さて、その哀れな犠牲者の1人となったその物言わぬ女性を私はスツールに掛けさせ、ロッシーニの曲を流す。私はまず両手を夫人の頭部に当て、それから肩、そしてノドへと移動させる。曲の流れにのって私の手が激しく振動する。
やがて振動がストップする。気がつくと夫人は肩をゆするようにしながら激しく泣いている。涙が頬を伝って落ちていく。緊張がほぐれるとともに、抑えられていた情がせきを切って流れ出たのだ。
やがて平静を取り戻して涙を拭いた。私は夫人のアゴに手をもっていき、そっと持ち上げて私の目を真っすぐに直視させてから「何か歌をうたってごらんなさい」と言った。「話すのではなく歌うのです。さ、歌ってごらんなさい。ひと節でいいから歌ってごらんなさい。」
彼女は歌った。本当に歌った。立派に歌った。治ったのである。心の歪みが矯正されると同時に物が言えるようになったのである。
この例は確かに奇蹟的治癒と言えるかも知れない。が、瞬間的に治るものばかりが奇蹟ではない。時間はかかっても、心霊治療でしか治らないものがある。医学では絶対に治せないものがある。心霊治療は魂(こころ)を癒すからだ。そこに奇蹟の秘密がある。
政府の事務官の例がある。そう聞いただけで余り楽しい仕事ではなさそうな感じがする。おまけに彼は完璧主義者だ。いい加減なことが嫌いである。得てしてこうした完璧主義者は不幸になるケースが多い。どこかに無理があるからだ。
所詮人間生活に完璧は望めない。大自然の神の業と比べてみるがよい。人間のすることなどいい加減なものばかりである。いかなる名画も、本ものの夕焼空の美しさとは比べものにならない。無私無欲などと言っても、雪の如き純白な心は望むべくもない。
どんな見事な工学機械も、人体の構造に比べればオモチャのようなものだ。だから人間はいい加減なところでの妥協ということが大切になってくる。それが出来ない人間は不幸である。
その事務官にとっての唯一の気晴らしは社交ダンスである。ダンスの世界には身分階級がない。そこでは肩書きを忘れて仲間とダンスに興じることが出来る。奥さんとよく通った。
が心労が重なって、いい加減なことの出来ない彼はついに体調を崩しはじめた。やがて胃潰瘍と診断された。さっそく入院して手術を受けた。そして、ベッド数が足らないことを理由に予定より早く退院させられた。経済的に余裕のない彼は間もなく仕事に復帰した。
しかし、そこに少し無理があった。2、3日して石の階段を下りる途中で目まいがして転倒し、足首を骨折した。X線写真で重症と診断され、数週間、石膏で固められた状態で入院生活を送った。
そしていったん退院したのであるが、2週間後の定期検診で骨が正しくつながっていないことが分かり、再手術となった。そして今度は骨が鋼鉄製のクギで留められた。
数週間の療養生活ののちに仕事に再復帰したが、まだ痛みが残っていて、びっこを引いて歩いた。仕事がのろく、ほとんど毎日のように夜おそくまで残業せざるを得なかった。足首がいつまでも痛む。びっこがひどくなってきた。
杖を使って身体をよじるようにして歩く。1か月もしないうちに脚の坐骨神経と背中に激しい痛みを覚えるようになった。病院へ行ってX線検査をしてもらったところ、腰椎のヘルニアと診断されコルセットをはめられた。
足首が腫れ上がり熱をもっている。胸からヒップまでコルセットがはめられている。背中と脚に激しい痛みが走る。必死にこらえるのだが、それだけ仕事に支障を来す。一向に渉らない。気分がすぐれず、食事が進まなくなってきた。そしてついに激しく吐いた。診察の結果は恐れていた通りだった。再び胃潰瘍になっていた。
もう死んだほうがましだと思うようになった。痛みと不快感と生涯治るまいという絶望感もそろそろ限界がきた。そんな時1人の友人から私の話を耳にし、ロンドンの事務所を訪ねて来た。
病歴を全部聞くのにかなりの時間を要した。が私は親身になって聞いてあげた。大体呑み込めた私は両手を肩に当てて精神を統一した。これだけ込み入った病状がある時は、どこから始めようという考えなしに精神を統一する。すると右手がひとりでに動いて胃の上に来て、そこで激しく震動しはじめた。やがて肩に戻り、そこから脊椎へと移行した。体力の消耗が著しい。
治癒エネルギーの回路には自動バルブ装置のようなものがある。つまり患者に必要なだけ注入すると自動的にストップする。この人は生命力をほとんど消耗していたらしく、私の身体を通してエネルギーがふんだんに流れ込むのがわかった。が、それでも通常の体力に戻るまで3回の治療を要した。局部の本格的な治療に入ったのはそれからである。
まず胃潰瘍、次にくるぶし、それから腰椎、そして坐骨神経という順序だった。日を追うごとに目に見えて回復していき、3か月後には潰瘍が消え、食欲も旺盛になった。
坐骨神経のほうも夜分に時おり憧れんすることはあったが、痛みは消えた。くるぶしの腫れも退いた。時おりぎこちなさを感じることはあったがビッコをひかなくなり、杖も捨てた。ヘルニアも正常に復し、自由な動きが出来るようになった。
この段階まで来て私は人生哲学の話を持ち出して魂の再教育を始めた。人生の意義と目的、死後の存在、心の持ち方等々を語って聞かせ、書物を貸してあげた。今日かぎり取越苦労をやめて、のびのびと生きるよう論(さと)した。
私が奇蹟的治癒の1ケースとしてこの患者を紹介したのは、奇蹟というと一般に瞬間的に治った場合を想像する傾向があるからである。確かにそういうケースも私は数多く体験している。自分で歩けずに人に運んで貰って治療室まで来た人が、10分後には1人で歩いて帰ったなどとということも珍しいことではない。
がこの例のように、ゆっくりと時間をかけて1つ1つ病状を取り除いていく場合もよくある。それには治療家と患者の双方が自然の流れに根気よく順応していく努力を必要とする。つまり治癒というのはあくまでも“自然の摂理”であって、個々の条件次第でそれが早い場合と遅い場合とがあるということである。治療家はそこを読み取って、それに順応して行かねばならない。
この患者の場合、もしも私が魔法の杖でも使って一瞬のうちに全快させてあげれば、本人はもとより私にとっても読者にとっても魂をゆさぶる感激的な話になっていたかも知れない。が3か月も4か月もかかった治療の末に、ある日、「実は昨晩家内とダンスに行ってワルツを2度踊ったんですよ」と聞かされた時、私は言うに言われぬ感激を覚えたものである。
病気というものには患者1人1人にその人だけの特殊な背景がある。従って“不治の病”とされているものにも色んな症状がある。その症状と背景との関係を全部探り出すことは私には到底むりである。
そこには宗教的先入観、学校教育、個人的対人関係、環境等が複雑に絡み合っている。その全てに通じようとすれば何か月も調査と分析が必要であろう。実地に治療に携わっている私にはそのような時間も経験もない。
が幸いなことに、心霊治療家にはそんなことをしなくてもいい立場にあることも事実である。というのは、全ての治療に共通したパターンがあって、それが2つの段階で進行する。
まず手を当てがうことによって痛みそのものが大幅に、時には完全に、消える。これが第1段階である。次の第2段階では患者に心身の調和状態をもたらす。この心身の調和というのは説明が実に難しい。そこで具体的な譬え話で説明してみよう。
あなたが真夜中にふと目を覚ましたとする。カーテンを通して入ってくるかすかな月明りで時計を見ると3時である。もうひと寝入りしようと思いながら目を部屋の隅にやると、そこにピストルを手にした人影が立っている。
一瞬、電気仕掛けにあったようにギクッとする。心臓が早鐘のように打つ。ノドが乾く。助けを呼ぼうとするが声が出ない。こんな時あなたの血液中にはアドレナリンというホルモンがどんどん流れ込む。血圧が上がる。血がのぼって頭が破裂しそうだ。身体の防御機能に警戒警報が鳴りわたる。出血した時に備えて血液の凝固力が増す。全身が汗でびっしょりになる。
あなたは賊に気づかれないように、そっと手を伸ばして電灯のスイッチを入れる。パッと部屋が明るくなった。見るとその人影があったと思われるところに見えるのは椅子だけである。その椅子に無雑作に黒のコートが掛けてある。
そのコートの腕のあたりに傘が置いてあり、その置き方がちょうど銃身をこっちへ向けているような恰好に見える。あなたは苦笑とともにホッと安堵の溜め息をもらす。水を1杯飲んでから枕の位置をなおし、やがて深い睡りに入る。
その間何分とたっていない。ふと目が覚めて危険を感じ、恐怖心で全身が汗びっしょりになり、それが目の錯覚とわかって安心し、そして再び眠りに入った。その間あなたはずっとベッドの上にいて何1つ行動らしい行動はしていない。動いたのは心だけだった。
なのに1マイルもジョギングしてきたか、ボクシングでもしてきたかと思うほどの汗をかき、ぐったりと疲労を覚えた。全身の防御機能に「警戒警報」を発令したのも「警戒警報解除」を出したのも、あなた自身の心である。あなたの“心の姿勢”がそういう反応を生んだのである。
そうした人体の機能は意識的にコントロールすることが出来ない。カッとなって人を撲ろうとした時、自制心さえあれば振り上げた手を下ろすことも出来る。が人体のいわゆる自律神経だけは、いけないと思っても抑えることが出来ない。
アドレナリンの分泌を止めたり血液の凝固力を下げたり脈拍や血圧をコントロールすることは出来ない。意識的に操作することは出来ないのである。それは“心の姿勢”の反応だからである。
つまり、前の晩ベッドに入る前に“意識して”椅子にコートと傘を置いていたら、真夜中に目が覚めてそっちへ目が行っても、何の動揺もなくすぐまた寝入ったはずである。それがなぜあれほどの動揺を生んだか。それはあなたの心が早合点から危険を感じ恐怖心を抱いたからである。ただそれだけのことである。
人体は間断なく化学物質と分泌物を製造している。そしてそれをバランスよく各器官に送って健康を保っている。しかも、事態の変化に応じて多く出したり止めたりする。
問題はその調節機能が間違った心の姿勢によって過労ぎみになったり混乱したり酷使されたりすることである。病気の大半はそれが原因となっている。つまり間違った感情によって調節機能が傷めつけられたその結果が病気という形で表われているわけである。
一般の病院を訪れる患者の半数以上がそうした悪感情によって病気を誘発されているという調査結果が出ている。医学生が使うテキストには1000を数える病名が記載されているが、その大半が感情が原因となっているというわけである。
首すじの痛み、ノドの腫瘍、潰瘍、胆のう炎、げっぷ、めまい、便秘、疲労感、神経痛、頭痛、背痛、坐骨神経痛、視覚異常、結合組織炎、食欲不振、肥満、こうしたものがその代表的なものといえる。
感情によって誘発されたからといって、実在しないものを病気と錯覚しているという意味ではない。現実に痛むのである。立派に病気なのである。決して想像上のものではないのである。
ではその調節機能を正常に保つにはどうすればいいかということになるが、それは、生きる姿勢を正すことに尽きる。感情を無理やり抑えつけようとしてもダメである。日常生活における心の持ち方を根本から改めることである。
それには先ず何のために生きているのかという人生の原点に立ち帰らなくてはいけない。それについては後章で改めて説くことにしよう。私は患者が痛みや不自由さから解放されると、かならず人生の霊的真理の話をする。そして生きる姿勢を根本から改めさせる。そうすることによって、さきに述べた“心身の調和”が成就される。これで本本の健康が得られることになる。
霊的真理を知ることによって、あなたは健康といっしょに人生まで建て直すことが出来る。ドロドロしたこの世的な問題に対してまったく新たな視点から対処できるようになる。いわば達観できるようになる。
取越苦労、怒り、恨み、物欲、色欲、強情、こうしたものが消えて、愛とよろこびと理解と霊的価値を求めるようになる。つまりあなたの心の姿勢が冷静、平穏、人のため、という姿勢になる。
すると身体機能もそれに呼応する。そこには病気の入る余地がなくなり、いつの間にか病気をしなくなる。同じ人生を、かつてのあなたは下ばかり向いて歩いていたのが、今や上を向いて歩くことになる。
ところで心霊治療に信仰心というものがどの程度必要かという問題がある。これは大切な問題である。多くの患者が私のところへ来てまっ先に言いたがるのが、私の治癒力を信じてやってまいりました、ということである。
これには言葉どおりに受け取れない要素がありそうである。というのは、何が何でも治してもらいたいという願望から、その時だけ私を信じる場合と、大して期待はしていないが私の前では大げさに表現する場合とがあるように見受けられるのである。
そこで私は「無理して私を信じなくてもいいんですよ」と言い、こうして不自由なからだでわざわざ私を頼って来られたという事実だけで私には十分ですと説明してあげる。そして、私の治癒エネルギーを誤解も偏見もなく素直に受け入れて下さいとお願いする。
同じ治癒エネルギーを注入してあげても、その受け入れ方の度合は患者によってまちまちである。霊的進化の程度の違い、症状の違い、環境の違い等が関わっているからである。
霊的真理を理解している人は素直な心で治療を受けてくれる。そういう人は病院でも間に合うような単純な異常でも私のところに来る。そして素早く直ってしまう。
これと対照的なのが、心霊治療の何たるかを知らずに、それまで続けてきた一連の医学的治療行為の1つのつもりで、興味本位で来る人である。こういう人は物の考え方が異常で、従って生活も異常なことが多い。
病気もその異常な生活の反映にすぎないのだが、本人は“何でも1度試してみるに限る”といった態度でやってくるから、霊的な反省はとても望むべくもない。要するに私を祈禱師か妖術師かまじない師程度にしか見ていないのである。もっともこの種の人は例外に属するが。
私が心霊治療家であることを強調するのは、病気が縁で私のもとを訪ねる人は“霊的体験”をしに来るのだという認識があるからである。といっても、真から健康を求めてやって来る人はなかなかいないものだ。いろんな魂胆でやってくる。
心霊治療とはどんなものかを試してやろうといった好奇心から来る人もいる。が私はそれも縁だと思って、それを機会にその人の誤った考えを正してあげたり、2度とこんなマネはしないようにと諭してあげたりする。
要するに心霊治療は治すこと自体が目的ではなく手段なのである。病気をかかえて私を訪ねて来た人が、病気の回復といっしょに霊的自我に目覚める。あの医者この病院とさんざん迷い歩いて、やっと今、これまで思いもよらなかった道があることを知る。その自覚と霊的知識はこの地上生活を導くだけでなく、死の彼方に待ち受けている次の生活へも自信をもって案内してくれる。
あなたもいずれ“死”という大きな関門にさしかかる時が来る。私はこれまで自分自身の奇蹟的体験を紹介し、さらに治療家となってからの、私を訪れる人について参考になると思われる話をした。
さ、こんどはあなたの番である。あなたは霊的真理にどれだけ目覚めておられるだろうか。死をどう認識しておられるだろうか。それをこれから見ていこう。それが本書のいちばん大切なところでもあるのである。
第5章 自分の健康は自分で管理できる
毎週火曜日はロンドンの私の会社の事務所で治療する日である。主にロンドン市内で働くビジネスマンが多い。1週のうちわずか1日だけであるから予約が多く、私はそれを30分刻みで片づけていく。その中へ急患の飛び込みもある。そうなると治療時間が15分しかない時もあるが、それでも結構みな顕著な効果をみせている。
実は心霊治療家に腕のいいも悪いもない。患者の側に治る人と治らない人がいるだけである。ある時期、私は治療成績の因果関係を分析してみたことがあるが、病気にまつわる要素があまりに多くて全てに通じることが出来ず、また治癒エネルギーの働きに人間の理解を超えた部分が多すぎて諦めた。
しかし、その調査をしていくうちに1つだけ顕著な事実が浮かび上がってきた。それは私の治療で奇蹟的に全治した人、そしてその後2度とぶり返さない人というのは、10人中9人までが長期間にわたって苦しみ抜いた、つまり絶望の寸前にやっとの思いで私のもとに辿り着いた人だということである。
私は誰かれの区別なく、全ての人に治療を施してあげる。がこの治療がどの程度効くかは患者によって違ってくる。1回の治療で奇蹟的に治る人もおれば、何回か治療を重ねて少しずつ治っていく人もいる。
治療した時は効果が見えず、それきり来なくなった人が実は治療後2、3日して突如全快していたというケースもある。が、長い長い闘病生活で疲れ果て、身も心も荒廃しきった人ほど目を見張るような効果を見せるというのが、偽らざる事実なのである。
譬えてみれば、すっかり飲みほされたグラスほどたっぷり注ぐことが出来るということかも知れない。つまり病気で苦労しただけ、それだけ真理を受け入れやすくなっているのかも知れない。
というのは、前章で述べた通り、心霊治療は目的ではなく人間的成長のための手段なのである。肉体的病気も長期間続くと精神まで荒廃させる。仕事は失う。能力は衰える。再就職の道は閉ざされる。医者からは“生涯このからだで生きる方法をお考えになったほうがよろしい”と、死刑にも似た宣告をうける。
この絶望の淵から、ワラをもつかむ思いで心霊治療家を訪れる。治療家がその病に傷めつけられた身体にそっと手を当てる。すーっと痛みが消える。曲っていた腰がしゃんとする。一瞬のうちに、そして完全に、その人は治る。
その時、患者の魂が目を覚ます。霊性が開発される。生まれて始めて、見つめるべき方向へ目が向く。神の啓示にふれたのである。人生に大革命が起きる。そして2度と後戻りしない。心霊治療はその道案内の手段なのだ。
ここで私は声を大にして言いたい – 苦しみと病に疲れ果てた人たち、人生に迷い生きる勇気を失った人たち、そのからだで生涯を送れと宣告された人たち、人生の歯車を狂わされてしまった人たちに言いたい。
どうか希望を失わないでほしい。落ちるところまで落ちたら、あとは道は1つしかない – 上昇するのだ。あなたのグラスには1滴もなくなった。さ、これで、こんどはなみなみと注がれる準備が整ったのだ。
現代の人間はどこかが悪いと10人中9人までがまず薬にたよる。マスコミを通じて莫大な種類と量の薬が宣伝されているから無理もない。製薬業界は笑いが止まらない。
しかしいったん薬の習慣がついてしまうと、人体の自然治癒力が機能しなくなる。私のもとに来た時はもう身も心もすっかり貧しくなっている。中には見るからに裕福さを物語る服装をした人もいるが、霊的にはまさに貧困の極みにある。
が私は、はなから法を説くことはしない。まずは病気を治療してあげなくてはならない。そのために来られたのだ。そして治るべき人が治る。治った人がなぜこう簡単に治ったのかと聞いてくれたら、しめたものだ。私は、待ってましたとばかりに道を説く。
が、こうして大勢の人を治せば治すほど、人間の病気というのは心の姿勢さえ正せば自分で治せるものだということを痛感させられるのである。そのことを私は声を大にして強調したい。
自分の健康は自分で管理できる。それが実は昔からの健康管理の常道なのだ。心理学者のウィリアム・ジェームズは「現代の最大の発見は心の姿勢1つで人生を変えることができるということだ」と述べているが、現代だけではない、いつの時代にもそうだったのであり、あなたにもそれが出来るのである。
言葉だけでは納得できないであろうから、実際に自分で試してみることだ。その方法はあとで述べることにして、その前に、特に西洋人にありがちな悪い生き方のパターンを実例で紹介してみよう。
サム・スローン氏は中年の男性である。が、ずいぶん老けて見える。髪の毛に白いものが目立つ。身体が前かがみで、目に元気がなく、態度が遠慮がちである。そのからだはまるで病気の問屋である。
潰瘍に背痛に偏頭痛に心臓病ときている。常にからだ中のどこかが痛む。それに加えて不眠症である。痛みも不眠も現実の事実であるが、いずれも心身症つまり精神的ストレスから生まれたものばかりなのである。
病歴を辿っていくと、きっかけは事業の失敗にあった。そして、失敗したあと就職した仕事がイヤでイヤでたまらなかった。が8年間やめる勇気もなく勤務した。そこに不幸の根があった。本人は家族のためと思って我慢して働くのだが、本人が発散する不満と陰気さが逆に家族に不幸の雰囲気を撒き散らすだけだった。
もちろん私は治療を施してあげた。がスローン氏にとって本当に必要なのは病気治療よりも心の教育なのだ。私のもとに来る人には同じような人が多い。そういう人は人生を金儲けとしか考えない。心にゆとりというものがない。真も善も美もない。金と物と地位のことしか頭になく、愛も、よろこびも、しあわせもない。
西洋人の健康を蝕む最大の要因はそこにある。金を稼ぎ、老後の年金を得ようと、少々の病気や痛みや異常を我慢してでも金儲けに奔走する。そして寿命を縮めていく。自分1人ならそれでもいい。が妻がいる。子供がいる。休む暇もない生存競争のために家族みんなが犠牲になっていく。
が、人生とはそんな息苦しいものではない。心の持ち方1つで楽しい充実した人生が送れる。あなたの宗教や思想まで変えろとは言わない。それはそれでいい。西洋人の大半はキリスト教という立派な宗教をもっている。それなのになぜこうも不幸や悲劇が多いのか。
それは、いかに宗教は立派でも、いかに人生哲学が高尚でも、それが日常生活に反映しなくては何にもならないということである。要は日頃の心の持ち方を正しくすることだ。
私が治療する病気は頭痛からガンに至る内科的なもの、骨の異常から先天的不自由といった整形外科的なものなど、実に広範囲にわたる。そして患者はありとあらゆる階層の人たちである。
お金持ちもいれば貧しい人もいる。教養人もいれば小学校しか出ていない人もいる。宗教心のある人もいればゼロの人もいる。しかし、そうした違いがあるにもかかわらず病気の型はいつも1つなのである。つまり心の姿勢の歪みから来ている。
その1つのパターンにも2種類の人間がいる。生き甲斐を求めようとする心のゆとりのある人と、そのゆとりをすっかり失ってしまった人。前者は大てい良くなるが、後者は私の説教が効を奏さないかぎりは治らない。
もっとも、治療に当たる私にも、その人が良くなるか否かは実際に治療してみないと分からない。だから私としては治療効果が最大限に発揮されるよう条件を整える必要がある。その1つをこれから披露してみようと思う。披露するといっても、すでに“どこかの誰か”によって“いつの時代か”に説かれているに違いない。が私は私なりに長い体験の中で発見したものである。
すでに述べたように、人間のからだの調節機能はその人の心の姿勢に反応する。たとえば腹を立てたり恐怖心を抱いたりすると、血圧が上がり脈拍が増え凝血度が高まり筋肉が緊張し、時には発声器管の筋肉が麻痺して声が出なくなることさえある。
肉体的には、そんな生理状態を必要とすることは何も起きていない。その状態を惹き起こしたのは怒りや恐怖心という“心の状態”であり、その怒りや恐怖心が消えると生理状態も正常に戻る。こうして、調節機能にまったく余計な仕事をさせているのは、肉体的なものではなくて心の姿勢なのである。
そこで私の持論になる。心の姿勢を“意識的”に変えることによって、その調節機能を正常に戻すことが出来るということである。怒りと恐怖心が緊張と病的状態を惹き起こすように、その反対のよろこびと呑気さが健康と冷静を呼ぶ。
これくらいの理屈なら誰にでもわかるが、私の持論は、そのよろこびや呑気さは本ものでなくてもいい。見せかけであってもいい。自分にそう言って聞かせればいい。つまり自分はしあわせなのだ、心配事は何1つない、全てうまくいくのだと言って聞かせ、意識的に自己暗示にかけるのである。
ウソだと決めつける前に、今すぐ試してみることだ。これから1時間、幸福な人間の1人を演じてみることだ。笑顔を作り、声に出して笑い、鼻歌をうたう。誰に会っても明るく挨拶し、今日がとてもいい日で、気分も爽快で快調であることを口に出して言う。
ウソでもいい。たとえ調子が悪くても明るく振舞うのである。すると、からだの調節機能がその暗示にかかる。警戒警報が解除される。調節機能は血圧を上げる必要も余分なアドレナリンも酸も緊急の防御体制も必要なしと判断し、自動的にスイッチを切り換える。
1時間もしないうちに、あなたはきっと何か変化を自覚するはずである。健康の兆候がどこかに何らかの形で出てくるはずである。オヤ、と思うことが出てくるはずである。
繰り返して言おう。あなたの健康を支配しているのは心の姿勢である。だから心の姿勢を健全な状態になおせば、からだも健全な状態に戻る。その心の姿勢はニセモノでもいい。見せかけだけでもいい。その姿勢を持続するのである。
すると、からだの調節機能がそれに反応するようになる。人間のからだの仕組みがそうなるように出来ているのである。私はそれを長年の治療体験から発見したのである。
第6章 子供はどう育てたらいいか
たいていの親は自分に出来なかったことを子供に叶えさせてやりたいと思うものである。より立派な教育を受けさせてやりたいと生活費を切りつめ節約する。大学へ行かせてやろうと、何かと心を砕き努力する。
卒業と同時にこんどはいい職業に就かせようと、あの手この手の策をめぐらす。いよいよ一人前の社会人になると、こんどは“わが子に相応(ふさわ)しい”結婚相手を探し求める。そして晩年は全ての財産を子供に譲って自分たちは質素でつつましい生活に甘んじる。
私の治療室にはこの種の親が大勢やって来る。訴える病気は関節炎、動脈硬化、不眠症、潰瘍、偏頭痛、背痛。ちょっと拾っただけでもこんなにある。このうちのどれかをかかえた人を毎日のように治療している。一見したところ、そんな病気で苦しんでいるとはとても見えない。
ローザ夫人の例をみてみよう。年齢は38歳。きちんとした身なりで、なかなか魅力ある婦人である。自分が素敵なご主人と快適な家に恵まれていることを自ら認める。経済的には何の苦労もないことを認める。そして3人の子供も健康であるという。なのに自分は重症の病気をかかえている。なぜか。
夫人としては3人の子供にぜひ大学まで行ってもらいたい。ところが長男は女の子に、娘はドレスのことで夢中である。そのことがまず夫人の頭痛のタネである。しっかり勉強してくれないと大学へ行っても奨学資金が貰えないかも知れないのです、と言う。
それがなぜ悩みなのだろう。何が何でも大学へ行ってくれなくては、と思うこと自体がおかしい。大学を出なくても立派に成功した人は幾らでもいる。息子が女の子ばかり追っかけているというが、それがなぜいけないのだろうか。
男の子が女の子を好きになるのは当たり前ではないか。息子に好きな男が出来たというなら、これは大変である。親は大いに心配していい。娘がドレスにあれこれやかましくなったと言う。
着るものに夢中というのであれば、あのココ・シャネルだって服装に夢中になっていたではないか。(ココ・シャネル – フランスの世界的な女性服飾デザイナー。香水でも有名)
親は子供の人生にまで関与してはならない。自分に叶えられなかったことを子供にさせようとする考えも許されない。子供には子供の人生がある。その人生には成功もあれば失敗もある。がそれも子供にとって大切である。伸び行く人間には苦痛も必要である。よろこびと挫折、勝利と敗北、成功と失敗、こうした体験が養分となって子供は成熟していくのである。
もう1人紹介しよう。スミザスン夫人は肩の結合組織炎を患い、激しい痛みに苦しめられている。始終イライラし、カッとなり易く、たまらなくなるとベッドに横になる。それほどの激痛を伴う病気が実は心因性だった。
その原因というのは2人の息子を父親の出身校のパブリックスクールに行かせるための学費のやりくりだった。(英国のパブリックスクールは莫大な学費がかかる。パブリックといっても公立ではない)
そこで私は尋ねてみた。「息子さん自身は次のどっちをよろこぶと思いますか。いつも金がない金がないとグチをこぼす病気の親のもとでストレスを背負いながら名門のパブリックスクールに通うほうがいいか、それとも、いつも笑顔の絶えない両親のもとで金銭の苦労もなく気楽に近くの公立へ通うほうがいいか」答えは明白である。
では親は子供に何をしてやればよいのだろうか。親の責任とは何だろうか。親はまず物質的に適当な充足感を与えてやらねばなるまい。まず家がいる。冬は暖房設備もいるだろう。食べものを用意してやらねばならない。身体をいつも清潔に保ってやらねばならない。人並みの衣服がいる。そして大切なのは、家の中に家族の一体感を味わわせる雰囲気が漂うことである。
が、これだけではまだ十分ではない。愛情がいる。問題児が生まれる最大の原因は愛情の欠如である。最近では医学的にも子供の成長にとって愛情が最大の、そして唯一の刺激となっていることがわかってきた。
赤ん坊は抱っこされ、頬ずりをされ、あやされることによって成長を促進されている。スキンシップの重要性が見直されているわけである。その因果関係はまだ十分には解明されていないが、人間は、互いに合わずにいるより日に何回も顔を見合わせる間柄のほうが人間関係に親しみが増すということは紛れもない事実である。
疑問に思われる方は実際に試してみられるとよい。身近な人の誰かの肩でもどこでもよいから、顔を見合わせるごとに軽く手を触れてみることである。触れずにいる時よりはずっと親しみを覚えるはずである。
そのほかにも愛情の表現方法はいくらでもある。子供の悩みごとに理解を示し、同情し、親身になって一緒に考えてやるのも愛情だ。さらに親は子に教育の機会を与えてやらねばならない。だから学校へ行かせる。
それはいいのだが、学校へ行ったからといって全てを学んで帰るわけではない。親から学ばねばならないことも沢山ある。人を思いやり親切を施すこと、人の欠点を見ずに善い面だけを見るようにすること、妬みや怒り、憎しみ、怨み等は相手だけでなく自分も傷つけること等々を教えてやらねばならない。
人間はどこからこの世にやって来たのか。何のために生まれて来たのか。そして死んだらどうなるのか。こうしたことも教えてやらねばならない。正しい霊的真理を教えてやらねばならない。背後霊の存在、心霊治療、健康の本質、それに清く正しい生き方とその価値を教えてやらねばならない。
善悪のけじめも教えてやらねばならない。自分が人からして貰いたいと思うように人にしてあげることの大切さも教えてやらねばならない。動物と人間との密接なつながりを教え、生命や愛情や笑いのほうが物質的財産よりはるかに価値があることを教えてやる必要がある。
それだけ教えたら、あとは好きに生きさせることだ。余計な口を出さず、求められた時だけ援助の手を差しのべればよい。それが親としての責任の限界である。それ以上のものを押しつけてはいけない。余計なおせっかいは却って障害となる。これであなたの家庭の平和は盤石のものとなるはずである。
第7章 感情を抑えすぎてはいけない
私はよく本を読む。これまでも随分読んできた。少年の頃は学校のカバンにたいてい1冊は冒険物語を忍ばせていたものだ。最近は旅行することが多いが、近代的な乗り物は確かに快適かも知れないが面白味がない。だから乗り物の中では読書が多くなる。
英国人というのは概してはにかみ屋が多い。私もその1人で、その性格の延長で私は自分の読んでいるものを人からのぞき見されるのが大嫌いである。そこで、対策として一計を案じた。専用のカバーを2枚用意したのである。
1枚は「核代数の2元方式」と題してあり、もう1枚は「誰にでもわかる神経外科」と題してある。何を読む際にも、どちらか大きさの合うほうを使うことにしたのである。
その反応を見るのもまた一興だった。代数のカバーをしていると、それを見た人の反応はたいてい同じで、まず溜め息をもらし、よくもこんな難しい本を…といった感心の表情をみせる。神経外科の方だと、驚きと同時に不審そうな表情をみせる。「面白いですか」と聞いてみる人すらいなかった。
はにかみ、遠慮、無ロ – こうした一連の性向は英国民の特質である。英国人は何でも自分の中に仕舞い込んでおこうとする傾向がある。つまり内向的なのだ。これは健全な精神とは言い難い。といって私は今日から外向的になれと言うつもりはない。
奥さんを撲りとばしたり、大酒を呑んで暴れまわるのが健全な発散方法だなどとは、さらさら思わない。そんなものよりもっと健全な発散方法、自然が用意してくれた安全弁がある。それを活用すれば英国人はもっと健康になれるのではないかと思う。ではその安全弁とは何か。
その1つは、素直に涙を流すということである。キッと歯を食いしばって強情を張るのがしっかりしているという考えはもう古い。頑(かたく)なに意地を張っていると、その意地で自分を損ねてしまう。
風に柳がなびくように、自然な情の流れに身をまかせることも時には必要である。英国人は泣かなすぎる。もっと涙を流すべきである。素直に泣いてみるとよい。緊張がほぐれて身も心もすっきりするはずである。
次に、怒りの発散が時として心の衛生になることがある。何かと腹を立てる、というのとは意味が違う。それはキリスト教でいうところの7つの大罪の1つであって、他人へ向けての敵意に満ちた怒りのことである。私のいう怒りは、過った心の姿勢から積もり積もった欲求不満を思い切って爆発させるという意味の怒りである。
あなたもイライラが堪まらなくなったら、どこか人気(ひとけ)のないところへ行き、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめてから、大股で歩きながら10分間ほど大声で怒鳴ってみるとよい。
気持ちがすっきりし、同時に、自分をイライラさせていたことが実はいたって他愛ないことだったことが分かって、バカバカしささえ覚えるであろう。それは、うっ積していた感情の発散によって心の姿勢が変わり、前とはまったく違った角度から物を見るようになったからである。
自分の悩みごとを心おきなく語れる相手をもつことも大切である。カトリックの教会には“告白室”というのがある。過去の罪を告白して神の許しを乞う部屋であるが、心理学的に言ってもこれは精神衛生上よい慣習である。
昨今は精神分析学の発達によってお株を奪われた恰好であるが、私に言わせれば、そういう“いかめしい”ものの世話にならなくても、心の中を曝け出せる人をもつことで十分目的は達せられる。
が、問題はどこまで自分に正直になれるかということである。私のもとに来る患者の大半が私から聞かなくても症状をいろいろと訴えてくれる。が、そのいちばん奥の本当の原因をつかむのにかなりの時間を要する。
たとえば偏頭痛を訴える人が実は性的不能者で、それが原因で奥さんに気兼ねし、それが偏頭痛を生んでいることが、3度目にやっと分かったというケースがある。ところが4度目に更にその奥の別の要因を発見した。
また、肥満に悩む女性が股関節の痛風を訴える。が問い質してみると何1つ心配することのない正常なわが子のことでアレコレと思い悩み、それが痛風を悪化させている。そのイライラが衝動食いをさせ、それが肥満を助長させている。
このように、次々と訪れる私の患者でさえ表面的な痛みや悩みは訴えても、心の奥まではなかなか曝け出してくれない。その心の奥をのぞいてみると、そこには内向した感情、挫折感、疑念、無知、等々が巣くっている。それがみな内側を向いていて本当の姿を見せようとしない。
ために実際とは無関係の想像上の過ち、悩み、取越苦労が渦巻くのである。人間が遠慮なく自由に手に入れることの出来る援助には3つある。霊的知識と、背後霊の指導と、他人からの好意である。
まず霊的知識であるが、人間は教育を受け理性が発達するにつれて、幼少時代に読んだ寓話やおとぎ話をばかばかしく思うようになる。それは一応当然の成り行きといえる。
が残念なことに、そうした一見他愛なく思える話の中に埋もれた貴重な真理まで捨て去ってはいないだろうか。世界のいずこの宗教も必ず黄金の真理というものが含まれているものである。みな霊界という同じ源に発しているからである。
あなたがいずこの国のどなたかは知る由もないが、あなたの手もとに何らかの宗教書、経典の類いの1冊や2冊はあるはずである。私はあなたの宗教を変えさせる立場にはないが、その宗教書や経典に盛り込まれている迷信やタブーの類いは無視し、基本的な霊的真理だけを求めるようにしてほしい。きっとあるはずである。
次に背後霊の指導がある。自分にも背後霊がいるのだろうか – そう思われるのかも知れない。その通り、ちゃんといるのである。これについては後章で詳しく述べることにして、ここではその指導の受け方だけを簡単に述べておこう。
今夜、床に着く前に“魂の静寂”の時をもってみよう。まず寝間着に着替えるか、あるいはそのままの服でベルトとネクタイをゆるめる。女性であれば肌をしめつけるようなものは取る。もちろん靴も脱ぐ。
次に部屋を薄暗くする。明りは音と同じく神経を刺激する。それから、ラクに座れるイスに腰かけ、両足首を軽く交叉させ、両手を軽く組む。その姿勢で目を閉じる。目に力を入れてはいけない。眼球は動くにまかせる。そして頭の中を空っぽにする。
始めのうちは考えまいとする意思が邪魔をして、色々と雑念が湧いてくる。が、それにこだわってはいけない。1つの方法として、日常生活に関係のない単純なもの、たとえば花を思いうかべて、それに意念を集中するのもよい。
そうやっているうちに心身ともにリラックスしてくる。そこで親友にでも話しかける気分で、今あなたが抱えている問題を口に出して述べる。問題を述べるだけである。こうしてほしいと勝手な要求を出してはいけない。特に欲の絡んだ手前勝手な欲求を持ち出してはいけない。
問題を述べて、どうしたらよいかをご指導ねがいますと言う。言ったあと静かにしていると、ふっと軽い無意識状態に入ることもある。目が覚めるとスッキリした気分になっている。
これを毎晩くり返す。大切なのはその日その日を新たな気分で始めることで、慣れっこになって形どおりのことを機械的に繰り返すようになってはいけない。場所や時間は特にきめる必要はない。いつでもどこでもよい。車の中でもよい。大切なのは静寂の時をもつということである。
それを続けているうちに、ある朝ふと、いい解決策が浮かぶ。あるいは問題そのものが問題でなくなっている時もある。もしかしたら、思いがけない人がひょっこり訪ねて来て、それが問題解決の糸口になったりするかも知れない。どういう形で成果が現われるかは予断できない。
援助の3つ目は他人からの好意である。人間は困った時にはとかく遠慮と羞恥心から家族や友人、知人等に相談することをためらうものである。が実際には、思い切って打ち開けてみると、一見気むずかしそうな人が思いのほか積極的によろこんで援助の手を差しのべてくれるものである。
もっともっと人間はお互いに援助し合えるように心の中を遠慮なく打ち開け合うべきである。1人で悩みをかこっていてはいけない。旧約聖書の箴言集の中に次のような言葉がある。「友をもつ者はみずからよき友であるべく心がけねばならない。身内以上に親身になってくれる友がいるものだ」と。
私は最近例の2枚のニセのカバーがいらなくなったことを自分でよろこんでいる。このことに関連して考えさせられる治療例を紹介してみよう。
電話でヒステリックな女性の声が往診を依頼してきた。実はこの女性は看護婦なのだが、ご主人の危篤で気が動転してしまっている。肺の疾患で総合病院へ運び込まれて酸素テントの中に入れられているが、重態だという。
心霊治療家にとって病院は苦手である。英国の登録医のすべてを監督する立場にある英国医療審議会は、心霊治療を公認していないだけでなく、心霊治療家に協力する行為をした医師は登録抹消という懲戒処分に出る。私は医学界の独善的態度と、そこから生まれる不幸な結果についてはすでに言及した。
病院では運営委員会が許可した患者についてのみ心霊治療が許されるが、それる、患者側からの要請と担当医の許可を必要とする。担当医はたいていの場合患者が死にかかっていて手の施せない状態になるまで許可しない。その態度は牧師に最後の別れの祈りを許すのと少しも変わらない。
さて奥さんの強い要請と、しぶしぶながらも担当医の許可を得て私が病院へ行ってみると、ご主人はものものしくスクリーンで被われたベッドの中で、酸素吸入装置につながれて、文字どおり生きんが為の呼吸に必死になっていた。
その呼吸も一定していない。1つ1つの呼吸が最後かと思われるほどだった。その目はちょうどワナにかかった動物が見せる、恐怖におののいた目だった。私はベッドのわきに腰かけ、手を取った。まるで完全に電池の切れたバッテリーに充電するみたいだ。反応がまるでない。が、間に合ったと私は感じた。
翌週は奥さんから毎日のように電話で容態を連絡してもらって遠隔治療を施した。そして翌々週の月曜日に、平常どおりの治療を終えたあと病院へ行ってみた。まだベッドはスクリーンで被われていたが、患者はそのベッドの上で起き上がっていた。酸素テントはもう取り払われている。
1本のチューブが左の鼻の穴から差し込まれ、テープで留めてある。それが酸素吸入装置につながれている。顔色はまだ血色はないが、異常さは消えている。話をすることも出来た。それから1週間後にスクリーンも取り払われた。血色も出て来た。
異常事態に備えて酸素マスクがそばに置いてあるが、用はなかった。それから1週間にも満たないうちに退院できた。退院後2、3度治療に見えた。まだ元気とまではいかず、すぐ疲れ易かったが、なんとか平常どおりの生活に戻ることが出来た。
ところが、それから3年後にその人は別の病気で他界した。そのことを私は妻とその奥さんとの偶然の出会いから知った。が奥さんの話では、その3年間は2人の生涯でいちばん幸せな時期だったという。その思い出を宝物のように大切にしているというのである。
人生というのはピクチャーパズルのようなものだ。バラバラにされた断片をあれこれと組み合わせて全体の絵を完成させようとするのだが、悲しいかな、人間にはその断片のすべてを手にすることが出来ない。わずかばかりの体験から人生の全体像をつかまなくてはならない。
だから、往々にしてその全体像が見当違いのものになってしまうことがある。ある人が静かな田園風景の中に足を踏み入れて心の安らぎを得ている。がそのはるか彼方では血なまぐさい殺戮が行われているということだってあるのだ。
同じ地上にありながら、その体験が個人によってあまりに違いすぎる。そのわずかばかりの体験から、この複雑な人生の全体像を勝手に描きながら生きている。それが現実だ。
19世紀半ば頃、1人のフランスの少女に治病能力があることがわかった。家族や友人に治療を施していたが、世間一般から中傷と嘲笑と疑惑を浴びせられた。その治癒能力と善意が高い評価を受けるようになったのは後世のことである。その少女の名はベルナデット。ピレネー山脈の麓のルルドに住んでいた。いわゆる“ルルドの奇蹟”のヒロインである。
ベルナデットがもしも霊的真理の普及した時代に生を享けていたら、頭初からその能力と功績は高く評価されていたであろう。が不幸にして彼女が生きた時代はカトリック的ドグマへの忠誠が最高の敬虔の表われと見なされた時代だった。
今では彼女が聖母マリヤを見たという洞窟の周辺はまるでサーカスの興行にも似た狂騒の場と化している。みやげ店、ホテル、彫像が立ち並び、商売根性むき出しの呼び込みをやる。そこへ観光客が群がる。
そしておしまいはカトリックによる病気平癒の祈禱(ミサ)がヒステリックな雰囲気の中で行われる。が、これまでの100年余りで本当に治った人の数は、私のような個人の治療家が1か月で治している数にも及ばない。
このように霊的事象の正しい解釈はなかなか容易でない。体験した当人にしてみれば、まさかと思っていたことが現実に起きたのであるから、その興奮は抑え難いものがある。が、この場合のいちばんの正解はまずその体験を神の啓示として感謝し、啓示を授かった身の上を有難き幸せと思い、その上でその体験が自分の人生でいかなる意義をもつか、その片鱗でも理解しようと努めることである。
啓示を授かるということは真理の花園への扉が開かれたということである。それだけは間違いない。自分を取り囲んでいた高い塀に扉があることをこれまで知らずにいた。それを誰かが教えてくれた。
扉を開けると素晴らしい花園が見える。やがてそこへ誰かがやって来て手を取って案内してくれる。別に「ガイド」の腕章はつけていない。が、あなたには直感的にそれとわかる。
花園は素晴らしい。心が安まり和(なご)ませてくれる。と同時にカラフルで生きる意欲をかき立ててくれる。しかしその花園にもまた迷路がある。わき道へそれる危険性がある。人類が長年にわたって拵えてきた迷路でありわき道である。そこへ足を踏み込むともう行き詰まりだ。
間違った信仰、ドグマ、戒律のために人類はがんじがらめにされている。「立入禁止」「芝生に入るべからず」「無断侵入者は告発されます」こうした掲示はみな人間が勝手に立てたものだ。そんなものは無視してかまわない。神の言葉ではないのだ。
あなたの歩む道はあなたの背後霊(ガイド)が教えてくれる。それは1人1人違う。万人に一律のガイドブックというものはない。あなたにはあなたのガイドブックがある。それはあなたの背後霊がもっている。しかも、過ちは赦されるのだ。永遠に罰せられる罪などこの世にはないのだ。
第8章 いつも希望を抱く
私は学生時代のことはよく覚えていない。もちろん学校へは通ったのだが、何だか当時のことが夢のような、あるいは何かの本で読んだ物語のような、他人事に思えてならない。もちろん当時もAとかBとかの評価はあったが、最終的には大学進学ということが教師たちの“目標”だった。要するに受験である。
学課の中では国語(英語)が得意だった。国語の入試問題はいつも出典がきまっていて、私の時はミルトンの『失楽園』とシェークスピアの『あらし』だった。私はもともとシェークスピアは好きだったが、ミルトンは苦手で、意味のわからないところが多かった。
でも入試ではスラスラと暗誦できて、今でも屋根裏部屋には国語だけは抜群の成績でパスした証状が残っている。そのためには私もミルトンを必死になって暗記したものである。今でもその中からところどころの文章がふっと口をついて出てくることがある。学生時代の勉強が無駄でなかったことを証明するために1、2節紹介してみよう。
人の心は、今おかれたその場で、
それみずから地獄を天国となし、
天国を地獄となす。
これは女性患者を治療した際に浮かんだ一節である。その人は腰のあたりに激痛を覚える。1か月間入院してX線検査をはじめとする徹底的な診察を受けたが、どこにも異常は見当らなかった。が痛みは本ものである。本当に痛いのであるが、原因は精神的なものだったのである。
この方はお子さんにも恵まれ、経済的にも困ってはいない。本人も「うちは決してお金持ではありませんが、要るだけのお金はあります」と述べているほどである。なのに一体何が不満なのか。
それは、家事に追われ、家に縛りつけられていることが不満なのである。本当は外に出て働きたい。大勢の人と触れ合いたい。が、ご主人がそれを許してくれない。「家を守るのが女の仕事だ」 – そう言われて仕方なく買物と料理と掃除と洗濯と育児の毎日を送っている。その欲求不満が痛みを惹き起こしているのだった。
私のところへ来て治療を受けると、その時は完全とまではいかないが殆んど痛みらしい痛みを感じないまでになる。が帰宅して2日もするとまた痛みがぶり返す。ミルトンが言うように彼女の心が“それみずから天国を地獄となし”ているのだった。
こうしたケースは決して珍しくない。少なく見ても訪れる人の半数が、自分の置かれた環境に対する不平不満からどこかに痛みを覚えている。それを助長するのが取越苦労と罪悪感である。
既成宗教のほとんどが罪と罰の恐ろしさを説いている。善い行いは報われ、悪いことをすると神が罰を与えると説き、その原理に基いて善と悪の基準をこしらえている。ところが実際にはその掟に背いた者が必ずしも不幸になっていない。
中にはむしろのびのびと生き甲斐ある人生を送っている者がいる。そこで宗教家は因果応報は死後に清算されるのだという言い逃れをする。教義に忠実に従っておれば死後に永遠の生命を授かり、背いた者は永遠の天罰を受けると説く。
英国ではこれが子供時代に教え込まれる。公立小学校の教科書には聖者や祈祷書からのそれに関する引用が盛り込まれている。「ですから、皆さんも良い行いをしましょう。そうすれば死んだ時に天国に召されます。もし悪いことをしたら罰として地獄へ送られ、永遠の苦しみを受けることになるのです」という結論となる。
むろん生長するにつれて理性的判断力が出てくる。もっとあか抜けした哲学に触れるチャンスもある。死後について、永遠の生命について、あるいは因果律について、その真相に目覚める人もいる。
が大半の人は心の奥に子供時代に吹き込まれた永遠の罰に対する恐怖と罪の意識と、それはどうしても避けられないのだという観念が巣くっているのである。家庭の主婦がもしも自分の生涯の仕事は家事だと思い、夫に尽くすことだと思い、それ以外のことをすることは悪であると思い込んでいるとしたら、その観念はやがて心理学でいう罪責複合(無意識の罪責感)を生む。
これは魂を蝕む恐ろしい観念である。みずからの心に地獄をこしらえる。それがまず心の病を生み、それが身体の病気へと発展していく。その病気の種類は数え切れないほどである。
患者を1、2度治療して何の変化も見られない時は、私はその人の置かれた環境について質問してみる。すると挫折感、不満のタネ、憤満、取越苦労、罪責感、等々が浮かび上ってくる。これだ、と私は睨む。本当の治療はこれらの心理的要因を取り除くことにある。つまりその患者にとって本当に必要なのは人生哲学であり、霊的真理の理解なのだ。
そこで私は霊の世界の話を持ち出す。そういう世界、そういう真理があることを指摘したあと、その世界の存在を明らかにしてくれた先覚者、書物、道標を紹介する。患者は人生に希望の灯を見出す。その灯が迷信を生んだ他愛ないタブーや罪の意識を駆逐していく。
されど若し希望と恐怖が
等しく事を調停するのであれば、
私の性質(こころ)は恐怖より希望を選ぶ。
ミルトンは苦手だが、こうした小さな珠玉を数多く発見する。この一節はまさしくスピリチュアリストとして私がいちばん患者に授けてやらねばならないものだ。すなわち希望である。
希望こそ環境に打ち克ち、無用の罪責感と死後への恐怖を取り除き、噴満と挫折感を和らげてくれる。無知と迷信に代って、正しい知識と理解に基いた未来への希望があなたを救う。
私は患者からいろいろと教えられる。心とからだの病に苦しむ男女に毎日のように接するということは、私にとって計り知れない価値ある体験である。患者が病院を訪れる時、病気を治してくれる – 少なくとも症状を和らげてくれる薬または治療を期待する。
その心理は私のような心霊治療家を訪れる時でも同じである。病気そのものが少しでも良くなることを期待する。つまり痛みが和らぎ、苦しい症状が何とか耐えしのげる程度になってくれることだけを期待する。
これは多分に、それまでの病院通いの体験から生まれる心理だと思われる。一時しのぎでもいいからラクになりたいという心理である。なぜその程度のことしか期待しないのだろうか。なぜ逞(たくま)しい健康を要求しないのだろうか。
健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということである。そうでない状態はみな不自然なのである。そして、他の多くの不自然なものと同様に、不健康状態は法則からの逸脱を意味する。宇宙はきわめて単純な法則によって営まれている。その法則から逸脱すると、そこに不幸と病が生じる。
だから病気も苦悩も神が授けるのではない。人間の誤った生き方の産物なのである。ところが人間は余りに多くの病苦を見慣れてしまったために、われわれはそれを人間生活につきものの、ごく当り前で正常なことのように錯覚している。
赤ん坊を見るがよい。健康でしあわせな生活を送る上で必要な能力と機能を十分に具えて生まれてくる。それを誕生の瞬間から、いや、厳密に言えば胎内にいる時からすでに生理的にその正常な機能が歪められていることがある。サリドマイド児がその最も恐ろしい例だ。世界中で問題となったのも当然と言ってよい大変な問題である。
が、その他にも、あまり問題にされてないが恐ろしい不自然な行為が数多く横行している。母乳で育てることを拒否する母親の出現がその1つである。体形が崩れるとか、面倒だからとか、いろいろと理屈を言う。理屈は一応筋が通るかに思えるが、そのもとを正せば、みな母親のエゴイズムから発したことばかりだ。
が、百歩譲ってそれを一応許すとしよう。すると赤ん坊は本来は仔牛が飲むべきミルクで育てられることになる。その乳牛が食べる牧草には殺虫剤が使われている。もしかしたら放射性物質によって汚染されているかも知れない。
あるいは乳牛には各種のホルモン剤や病気予防のための薬品類が多量に投与されていることだろう。人間の赤ん坊がそのいちばん大切な時期を、そうした環境のもとで搾られたミルクによって育てられることの危険性を、その母親たちはどこまで認識しているのだろうか。
赤ん坊だけではない。その後の離乳期から大人になるまでの食生活も恐ろしいほど不自然となり品質が低下している。肉類は何年も前に冷凍されたものが解凍され、着色され、化学的添加物で加工され、見た目には新鮮で赤身が多そうに見え、しかも柔らかそうである。
その肉のもとになる食肉牛も恐らく不自然な環境で飼育されているに違いない。薬と化学的添加物によって不健康に肥(ふと)らされているに相違ない。そんなものを食して、果たしてあなたの身体にもそれらの不自然な物質が入らないと言えるだろうか。
小麦粉も、栄養よりもパンの製造の便利さを優先させて、徹底的に精白され漂白される。天然の栄養は完全に取り除かれてしまっている。(最近では無精白粉も多く使用されている – 訳者)
食料品は着色料、香料、その他の化学的添加物を使用し、乾燥冷凍などもする。20世紀の人類は、愚かにも、自分の胃袋に入れる食料よりも、車に入れる燃料の品質向上のほうに一生けんめいである。
頑健であるのが人間として自然であり、それを成就し維持するためには自然な食事を摂取しなければならない。それに新鮮な空気と適度の運動と日光がいる。さらに常に身体を清潔に保つ必要がある。
が、もう1つ大切なことは、なるべく“健康のことを考えない”ことである。あまり健康に気を配りすぎるのも、これまた病気を招く原因になりかねない。あまり健康状態を口にしないほうがよい。少々の不調や不快は気にせず、そのうち良くなると思うことである。
類は類を生む。健康と幸せを心に思えば健康で幸せになる。不幸と病気を思えば、みじめになり病気になる。悪感情と悲観的な念は似たような感情を次々と生み出す。憎しみ、怒り、嫉妬、悪意、どん欲、仕返しの念は次から次へと子を生む。
その子の名前は悲劇であったり不気嫌であったり病気であったり悲観主義であったり失敗であったり落胆であったりする。からだの健康は心の健康と同じく生きる姿1つで変化する。
医学も、いずれは治療医学から予防医学へと進むであろうことは間違いない。身体を治療するのではなくて、心の姿勢を正すことが医者の役目になるであろう。
健全なる精神 – 常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なるからだを作る。本当の医者は教師でなければならない。健康を保つ秘訣を教えてあげるのである。病気になった身体を治すのではなく、病気にならないように指導することである。
今や知識は十分にある。無数の人生の指導書があり医学的知識がある。不足しているのは、それを実生活に応用する決意だ。それを私はまず子供の世代に要求したい。子供たちに死にまつわる愚かなタブーと病的思念と悪感情を持たせないようにしよう。
憎しみや敵意、妬み、偏狭の心を捨てさせよう。じめじめした考えを捨てて進取的かつ楽天的に物事を考え、同時に自然法則の存在を忘れず、いかなる形にせよ“不調和”というものに拒否反応を示す人間に育てよう。
また健康で幸せであることこそ人間として当然の遺産であることを自覚した人間に育てよう。そして各家庭に次の言葉を飾って、それを家族全員が心に刻み込むように心がけよう。「神の如く汝もまた幸いなり」
第9章 患者からよく受ける質問
私のところを訪れる人のほとんどが、どうしてよいのかわけがわからなくなっている。言うことが支離滅裂でつじつまが合わない。情緒が不安定である。その根源にあるものは、これまで度々指摘したとおり、幼少時代からの宗教的思想のゆがみである。
そこで私の治療によって痛みが取れてラクになると色々と質問しはじめる。次に紹介するのは私が患者からいちばんよく受ける質問とそれに対する私の答えである。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょう。」
こんな目に遭うという言い方のウラには、その災難を何かのバチと受けとめている心理が働いている。しかし事実はそうではなく、その原因はみずから呼び寄せている場合が多い。信念のない人間には迷いとイライラがつきまとう。それだけで潰瘍が生じることもある。
ではその潰瘍は迷いとイライラのバチかというと、それは観方1つだ。バチが当ったのではなく、イライラの心が潰瘍を生じることを知らずに間違った心の姿勢を続けたその結果にすぎないと受けとめれば、単なる因果律の働きにすぎない。
人間の悩みの大半は、存外、人間みずからが引き寄せているものだ。つまり悩みとして受けとめているにすぎない。実際は悩みでも何でもないことなのだ。といって私は人間に悩みや苦しみはないと言っているのではない。確かにある。がそれは悩みではなくて神が与える試練なのだ。つまりそれにどう対処するかであなたの真価が問われる重大な時なのだ。
神は人間を深みに連れて行くことがある
おぼれさせようとするのではない
魂の洗濯をさせるためだ
これは私がよく患者に引用して聞かせる言葉である。挫けてはいけない。勇気をもって事に当ることだ。なぜこんな目に、という疑問をもつということは、あなたが真理を求めようとしはじめた1つの表れでもあるのだ。
「癇癪をおこすのはいけないことでしょうか。」
怒りは神学でいう7つの大罪つまり致命的な罪悪の1つに数えられている。あなたにとって致命的という意味である。これは生理的にも致命的であることがわかっている。腹を立てるとアドレナリンというホルモンが多量に血液中に流れ込む。
すると脈拍が上がり、血圧が上がり、凝血度が上がる。そして、こんなことがあまりひんぱんに繰り返されると、あなた自身も天へ上がる – 血栓症か脳出血で。冷静を失うと運命のコントロールを失い、友を失い、健康を失い、そして生命まで失いかねない。癇癪の代償は少し高すぎないだろうか。
「菜食主義にすべきでしょうか。」
人間は動物ではない。動物以上の存在であり、動物を庇護すべき立場にある。人間のエゴイズムから動物を食糧とするのは間違っている。私はそう信じるのである。このことは同時に娯楽のための狩猟、医学の名のもとに行われる動物実験、食用のための飼育も許されるべきことでないということである。
もしもあなたが私のこの考えに賛成されるのであれば、あなたは肉食をやめて菜食中心にすべきである。もし賛成されなくても、霊的に成長された時になるほどと思われるはずである。どちらでもない、よく分からない状態であれば、1度屠殺場へ行って現場をご覧になることである。はっきりとお分かりになるはずである。
「神の存在を信じますか。」
私は信じる。どこを見ても自然界には見事な意匠(デザイン)がある。その全てを見ることは不可能であり、これからのちも不可能であるが、わずかではあっても、これまでに見ることを得たかぎりでも、ただただ驚異というほかはない。
その見事なデザインがあるからには、それを拵えたデザイナーがいるはずである。それをゴッドと呼んでもいいし、アラーと呼んでもいいし、大霊と呼んでもいいし、生命力と呼んでもいい。『ガリバー旅行記』で有名なスイフトの次の言葉に私も賛成である。
「アルファベットの寄せ集めによって哲学の大論文が出来るわけがないのと同様に、宇宙が原子の偶然の集合によって出来あがったとは信じられない。」
「心配することはいけないことですか。」
心配の程度があなたの信念の欠如の程度を表わす。心配の念は判断力を曇らせ、身体機能を鈍らせ、不審と不機嫌の雰囲気を作る。よく寝られない。寝起きが悪い。その不愉快の雰囲気はやがてまわりの人へも伝染していく。
問題が生じたらじっくりと考え、分析し、あなたなりに最善を尽くし、やるだけのことをやったら、あとは何も考えず全てを背後霊にまかせることだ。あとのことはあなたにはどうしようもないからだ。
「どこかの慈善団体に加入すべきでしょうか。」
慈善事業を目的とする団体に加入すればもう個人的な善意の行為をしなくてもいいということにはならない。確かに慈善団体はコンサート、舞踊会、宝くじ、等々の仕事を通じて大いに人の為に奉仕しているが、その組織力の威力が個人的な小さな善意の施しを無意味であるかに思わせている点も見逃せない。
どんな小さな施しでもよい。心のこもったものを寄付するということでよい。私はこの施しの精神は人生哲学の中において大切な意味をもっていると信じている。日常生活における“当然の行い”の一つとすべきだと思う。「施すは受くるより幸いなり」という聖書の言葉を知らぬ者はないが、自分みずから何かを人に施すべきであることを、みんな忘れてはいないだろうか。
「アルコールはいけないでしょうか。」
アルコールも一種の麻薬である。テレビのコマーシャルで宣伝されてるとか、自由に手に入るからといって、それで飲むことが正当化されると思ってはいけない。一種の麻薬であるから中毒になる危険性がある。
出来ることならアルコール類とは一切縁を切るほうがいいが、どうしてもダメという方は、ほどほどにということを心がけることである。本当の寛ぎとか気晴らしは霊的な修養から来るもので、麻薬や薬品、アルコール等にたよるのは邪道である。
「たばこはやめるべきでしょうか。」
もちろんである。たばこの害は科学的にもはっきりとした結果が出ていて、百害あって一利なしのいちばんの見本である。吸い込んだ煙が気管支から肺へかけてどんな影響を及ぼしているかを1度見たら、いっぺんに気分が悪くなり吸うのが怖くなるはずである。
そのことならよく知っている。命を縮めることも知っている。肺を傷めることも知っている。金のムダであることも知っている。でも、だからといってたばこをやめようとは思わないという方は、吸えばいいのである。知らずにやっているのならムリにも止めるが、百も承知の上なら自由にやるがよろしい。所詮は自分自身の問題なのだから。
「磁気療法や信仰療法は心霊治療とどこが違うのですか。」
治療法には大きく分けて磁気療法と心霊療法の2つがある。磁気療法は治療家自身の身体に蓄積している磁気エネルギーを注入することによって患者の衰弱した身体を回復させるもので、従ってあまり多くの患者を治療すると疲労を覚える。エネルギーの蓄えが無くなるわけである。
実はこの磁気による影響は一般の人もいろんな形で体験しているはずである。馬丁が興奮しているサラブレッドを鎮めるのも、看護婦が深夜に病棟をまわって患者に声をかけたり枕を直してあげたりしたあと、患者が心の落着きを感じてよく寝られるのも、あるいは、わいわい騒いでいる教室に先生が入ってくると水を打ったように静まり返るのも、医者が回診してベッドのわきに来ただけで病状が好転するといったことも、ある庭師が手入れすると不思議に生育がよくなるといったことも、あるいはその人に会っただけで心の重みが軽くなるといった体験も、みな、その人のもつ磁気力の影響である。
そういう人はみな例外なく強烈な個性の持ち主である。ただしその個性を支えるものとして、楽天的精神構造と信念がある。積極性と楽天性と信念とが相まって強力なオーラを作り出し、そのオーラが人間はもとより動物や植物、時には偶然と思われる出来ごとの展開にさえ影響を及ぼす。
その人に会うと、会っている間だけはその人の徳性を身にまとう。すると当然その徳性はその人の魂に影響を及ぼす。魂が洗われ、身体との自然な調和が取り戻され、不思議に元気が出てくる。一種の磁気治療を受けたのと同じことになる。
いわゆる信仰治療家も実はこの磁気の作用を大いに活用している。元来信仰治療家も強力な個性の持ち主である。そして人間の身体に自然治癒力つまり自分みずから治す力が具わっていることを知っているので、まず患者にそのことを認識させる。
さらにその強力な個性の力で患者を何となく良くなったような気持にさせ、その調子でどんどん良くなっていくという信念をもたせる。その信念が信仰心にも似た自信を生む。この自信というのが実はすごい威力を発揮するのである。
心身症なども改善し、あるいは完治させる。結局信仰治療家の武器はまず治療家自身の強烈な個性であり、次に患者にもたせる“治る”という自信であり、そしてその自信を生む温床となる感動的ムードである。
私は信仰治療家ではない。磁気療法も用いない。もちろん磁気が作用していないことはない。心理的な作用もあるだろう。私のところに来ただけで良くなったり、極端な場合は来る途中で治ったりすることがあるのをみても分る。
が私の場合の磁気作用は私の霊的エネルギーを受け易い状態に誘導する程度の作用であって、それ自体が治癒をもたらすことはない。私はあくまで心霊治療家なのである。
私たちの身のまわりには私が“生命エネルギー”と呼んでいる莫大なエネルギーが潜在している。私が、と言ったが、最初にその用語を用いたのはバーナード・ショウで、私はいい呼び方だと思う。特別なエネルギーではない。春になると木々が芽を出し花を咲かせるそのエネルギー。
四季をめぐらせ、秋になると作物や果物を実らせるエネルギー。精子と卵子の結合から赤ん坊となり1人前の成人へと成長させるエネルギー。そうした自然界の隅々まで動かしているエネルギーとまったく同じものが病気を治し元気を回復させるのである。
病気の人はそのエネルギーを必要としている。全身にまんべんなく注ぐ必要がある人もいるし、患部に集中的に注ぐ必要がある場合もある。いずれにせよ、その注入には道具がいる。コンデンサーのようにエネルギーを集積し、トランスのように波長を患者に応じて変化させ、それを患者の全身、時には器官や関節などに集中的に照射する。
その道具は機械ではなく、私のような人間である。生まれつきコンデンサーやトランスのような働きを具えた人間であり、そう多くはいない。それだけに極めて貴重であり、重大な任務を背負っていることになる。だから、こうした才能に恵まれた人はつとめて精進する必要があるが、同時にその人間を最大限有効に活用するために、それ専門の背後霊(スピリット)が付いている。
この場合のスピリットは、霊界での生活体験の中で病気に苦しむ地上の人間を救うという使命を帯びて一時的に私のような治療家を援助する。それがそのスピリットの霊的向上にとっての必須体験となるわけである。といっても、一時の思い付きでそうするのではない。
実際には治療家が地上に生を享ける以前から、あらかたの準備は出来ているのである。そしていよいよ地上へ生を享けた瞬間から人間としての生長を見守り、治療としての必要な体験を積ませ、これでよしとみた時期から治療力を発現させる。つまり指導霊(ガイド)なのである。
患者によってはいちばん悪い箇所をいきなり治療できないことがある。全身の衰弱がひどくて治療に耐え切れないからである。そこでスピリットは治療の手順を変え、患部はそのままにしておいて、まず全身にエネルギーを注入する。
これで新陳代謝が活発になり動きがラクになる。これを二、三回繰り返すうちにすっかり体力が回復してくる。その段階でいよいよ患部に向けて、ほんのわずかな時間だが、集中的にエネルギーを照射する。それであっさりと治る。
その点信仰治療家は患者自身の信念や自信で治すのであるから、そういう信念や自信をもたせるように、治療家自身をはじめとして治療室全体のムードを盛り上げるように飾り立てる必要がある。
たとえば治療室として教会のような“聖なる場所”を選び、香を焚き、大きなローソクを並べ立て、“聖なる音楽”を流し、治療家は何やら神秘的なムードのする衣服をまとい、九字を切ったりして仰々しい儀式を行う。
私はそうしたこととは一切無縁である。明るい普通の部屋でワイシャツ姿で治療する。私にとって場所はどこでもいいのである。請われれば病院でも自宅でも、その人の都合のいいところへ出向いて治療してあげる。
治癒エネルギーは私から出るのではない。霊界の医師が操作して、私の身体を通して患者へ注入する。私はその通路にすぎない。通路にすぎないから、治療によって私から奪われるものは何もない。
むしろ私の身体を通過する際に少しずつエネルギーの“おこぼれ”が残っていくらしく、1日の治療 – 20人も治療することがある – が終ったあと、疲れが残らないどころか、逆に元気はつらつとなるのだ。
第10章 人間とは何か
数年前、私は『死とは何か – 悩める人へのガイドブック』という短い記事を書いたことがある。長年の治療体験から、人間が「死」についてあまりに間違った観念を抱いていることを痛感していたので、それを簡潔にまとめたものだった。
それを第1章で紹介した私の恩人であるモーリス・パーパネル氏のもとに送った。短いものではあるが、1度に出す記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバネル氏の返答は簡潔にして明快であった。氏の編集している心霊誌の連載記事を全部休んで、私の記事を一挙に掲載したのだった。
これにはすごい反響があり、抜き刷り(リプリント)の要求が次々と来た。はじめのうち丁寧に応じていた出版社も、あまりの多さに手を焼き、それを24ページほどの小冊子として出版した。その時バーバネル氏による次のような「まえがき」をいただいた。
死とは何か – これがわからないようでは人生の意味を理解したとは言えない。この小冊子はその生と死の全体像を見事に明らかにしている。原稿に目を通した私はさっそく著者に賛辞を送った。長年の編集者としての経験から、こうした心霊問題を簡潔でコクのある生き生きとした文章で無駄なく描写することの難しさを熟知している。そのたいへんな仕事をテスター氏は見事にやってのけてくれたからだ。
小冊子とは言え、著者は長年にわたる世界の宗教の比較研究の成果をこれに注ぎ込んでいる。そもそも氏をその研究に駆り立てたのは、キリスト教神学のお粗末きわまる教義に満足しきれなかったことで、結局著者の知性がそれを容認できなかったということである。
深い洞察力と鋭敏な感受性の持主であるテスター氏は、この道に入る以前も、専門的知識はもちろん豊かな才能と鋭い知性を必要とする仕事で成功の道を歩んでおられた。それが思わぬ病魔によって廃業の危機に瀕した。英国一流の専門医も始めてというほどの重症の腰椎ヘルニアで激痛との闘いの毎日となったのである。
それが心霊治療家フリッカー氏のたった1回の手当てで全快し、専門医から“絶対必要だが成功の保証はできない”と宣告されていた手術も避けられた。その奇蹟の体験のあと、フリッカー氏から治療能力があることを教えられ、その後急速にその能力が開発されて今日なお治療の毎日を送っておられる。
かくして運命の紡ぎ車がまわり、治された患者が治す側にまわった。この事実は、霊的エネルギーが聖書の時代と同じく今日もなおこの世に顕現しつつあることを物語っている。テスター氏にとってはそれが日常茶飯事となっている。面会依頼の電話があっても、その要件が本職のコンサルタントとしてなのか治療家としてなのか、直接会うまではわからないと、氏は笑いながら語っていた。
人生の暗闇の中で苦しみつつ生きている人々に救いの手を差しのべる人として、テスター氏はうってつけの人である。氏みずからが激痛と煩悶と不信の嵐の中をくぐり抜けた人だからだ。
この小冊子は米国でも出版され、今なお両国でよく売れている。その根強い需要が何を意味するかは容易に察しがつく。われわれは、よく「もしも私が死んだら」という言い方をする。この“もしも”という言い方が現実にそぐわないことは誰もが知っている。
“もしも”ではなく“かならず“死ぬのである。死は例外なく全ての人に訪れる。なのに死についての権威ある解説書は1冊もない。その辺に私の小冊子がよく出る理由がある。
今かりに大きな図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されるとよい。そこには出産についての書物がところ狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。われわれ門外漢 – 門外婦人と言うべきか – のための本も大変な数である。
それに加えて最近では至るところで婦人のための講演会があり、テレビ番組がある。人間の誕生については驚くべき段階まで進んでいるといえる。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。
さて無事出産の過程をへてこの世に出てくると、こんどはいかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく目にも見せてくれる。生理学についての本は無数にあり、食事や運動、その他、健康管理全般にまで及んでいる。
スリムになりたい人、豊かなバストになりたい人、あるいは円満な夫婦生活の秘訣を知りたい人は、それぞれの分野の専門書を簡単に手に入れることが出来る。
人生に関する書物も同じように十分揃っている。とくにこの10年ばかりは如何に生きるべきか、幸福になるにはどうすればよいか、金を貯める秘訣は何か、といったことについての指南書が洪水のように出版されている。
地球を破壊するか、それとも物欲と快楽の場にするかに躍気になっているかに思える今の時代に、こうしたとかく無視されがちな問題を扱う本が続々と出ていることは注目に値することではある。
もっとも“どう生きればいいか”についての本は文字というものが生まれた頭初からあった。ただそれは“人生哲学”と呼ばれて、大体において宗教家か学者の専売特許とされていた。
そのほかにも、たとえば聖書(バイブル)などが一種の道しるべとして、模範とすべき人物や説話がそこから引用されてきた。かつてはそれが牧師や一家の父親がお説教の材料として使用された時代があった。
このように、出産についての心がけから、その後の生き方についての知識だけは十分に揃っている。が、いかにして死を迎えるべきかについての本は1冊もない。
もちろん死を主題とした話は多くの人が書いている。が、それらも分類すると2つに分けられる。1つはロマンチックに死を見つめる詩的人間で、死を悲しむ情で書く。いかに死を見つめるかを説くのではない。死に直面した人間の生への惜別の言葉にすぎない。
もう1つは例の神学者だ。彼らは伝統的信仰をバックにして死を説こうとするために、その教説は“しどろもどろ”で、何を言わんとしているのかよくわからない。
たいていの宗教、特に西洋の宗教は徹底した勧善懲悪説に基いているために、その論法は現実と矛盾したものにならざるを得ない。すなわち善いことをすれば – 教義に忠実に生きておれば – 幸福になり、悪いことをすれば – 教義からはずれたことをすると不幸になるというのであるが、実際にはまじめに教義に則(のっと)って生きている人がみじめな死に方をし、好きに生きている人が裕福で楽しい生活をエンジョイしている。
そこで彼らは、神の賞罰は死んだ後に与えられるのだと言い変える。善いことをしておれば天国へ行き、悪いことをすると地獄へ送られる、と。こんな子供だましの論法から、死についてまともな説が出るはずがない。
賞と罰、言いかえれば天国と地獄の説でしか生と死を説けないのだ。私に言わせれば、彼らは死をテーマにして頭の体操をしているにすぎない。そこから混乱が生じても別に不思議はない。
ほかにもう1つ問題がある。私は本を読んでいていつも感じるのであるが、本当によくわかった人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実にわかりやすいのである。
が、よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で勝手に用語をこしらえるので、ふだん理解している意味で読んでいくと理解できないところが出てくる。読み終ってみると、読み始める前よりもいっそうわからなくなっている、といったことになる。
死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が1度も死を体験したことがないということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。
これでは平凡人が死について迷うのも無理はない。年を取り、死が近づいてくると、おくればせながら何か“死後の保証”のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそと教会へ通いはじめるのもそのあらわれである。慈善事業に寄付したりするのもそのためである。
そして、いいおじいちゃん、いいおばあちゃんと言われるように努力しはじめる。それもこれも、6、70年にわたって人の迷惑も考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうしたわずか2、3年あるいは数年の“殊勝な行い”によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。
ある保険の外交員が言っていたことだが、見たところ迷信など信じそうにない教養ある人が死ぬ間際になるとカトリックの牧師を呼ぶケースがよくあるのも、別に不思議はないと言う。
洗礼を受け、信徒となり、罪を告白し、最後の聖油を注いでもらう(死の床でのカトリックの儀式)のは別に努力のいることではないし、費用もほとんどかからない。それだけで天国への約束が得られるのであるから、「いちばん安価な保険ですよ、まったく」とその外交員が言っていた。
もうそろそろ死への手引書があってもよい時代である。それも、お座なりの宗教的教説にしばられず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間つまり霊界のスピリットによって書かれた死の参考書が必要なのである。
“死ぬ”ということは“生きる”ということとまったく同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日1日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければ行かなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身でいたければそれでもよい。が死だけはそうはいかない。かならず通過しなければならない重大な関門である。ならば本書を読まれたことは決して無駄ではないであろう。
そこで、あなたがまず第1に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死について教え込まれてきた先入観を一切合切洗い落とすことである。
天国も地獄も忘れよう。天国へ行くとハープを弾きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたりいじめられたりするとか、そんな子供だましの観念を拭い去ってしまおう。
さらに“最後の審判”の教えも忘れてしまおう。要するに聖典教典の類いを忘れてしまうのである。そして死というものを1度も考えたことのない自分に戻ってみるのである。つまり赤ん坊の時代に戻るのである。さらにこんどはその前つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そしてさらにその前の、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。そして更に…。
こうして原初に立ち帰るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く、しゃべる、歌う、車を運転する、が肉体そのものがそうしているのではない。そうさせる何かが内部にある。
その何かが“精神”である。ではその精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。精神は肉体を操るコントロールルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発している。
脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な器官である。まさしくコンピューターと言えよう。が、どこの医学校でもその脳を取り出してビンの中で保存している。やはり脳も身体の一部にすぎないことがこれでわかる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それをよろこんで買って食べる人もいるわけだ。
実はこうしたものとは全く別に第3の要素があって、それが肉体と精神とともに、あなたという1個の人間を構成しているのである。その第3の要素がスピリットである。スピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神をまとって生活しているのである。
ではその証拠を見せてくれ – あなたはそうおっしゃるかも知れない。スピリットを見せろとおっしゃるかも知れない。が、スピリットは残念ながら人間の目には見えないのである。ここに1人の人間がいる。衣服をはぎ取れば肉体が見える。頭にドリルで穴をあければ脳味噌が見える。がスピリットはどこにも見えない。
死体をごらんになったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうそこにはその人はいない。ただの脱け殻。肉と骨と繊維のかたまりにすぎない。放っておくとすぐに腐敗が始まるので、穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。
死体がその人そのものだったのだろうか。その肉のかたまりが愛し、よろこび、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、想像力を働かせ、理論を立て、異性に求愛したのだろうか。誰にもそうは思えない。何か大切なものが失くなっている。つまりスピリットが脱けているのである。つまりその肉体が死んだのである。
人間は肉体と精神とスピリットの3つの要素から出来あがっている。そのことをしっかりと認識していただきたい。この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、1個の生命体としての存在を与えているスピリット、この3つである。
死に際して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。“自分”は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたという存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質を通して6、70年あるいは8、90年の地上生活を自分で表現している。そのスピリットこそあなたなのである。
第11章 なぜこの世に生まれて来るのか
実はこの世とまったく別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやって来た。そして、またそこへ戻っていくのである。この世とは違うといっても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学でいうところの振動の波長が異るのである。
かりにリップ・ヴァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が100年後のいま戻って来たとしよう。あなたはさっそくリップにこう教えてあげる。
「あなたの身のまわりには無数の音楽が流れているんですヨ。交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり。歌もあるし、しゃべっている人もいるし、劇もやってますヨ」と。
それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いにするであろう。そこであなたは、やおらポケットからトランジスタラジオを取り出してスイッチを入れる。なるほど、いろんな声、いろんな音楽が聞こえる。リップはキツネにつままれたような気分になるであろう。
実はスピリットの世界もこれと同じなのである。われわれの身のまわりに常に存在している。ただ波長が異るために感応しないだけである。従ってその世界の実体を知ろうと思えばトランジスタラジオのような特殊な受信器が必要となる。それがいわゆる霊媒または霊能者と呼ばれている人たちである。
霊媒を通じてわれわれ人間も霊界のスピリットと交信することが出来る。もっとも、交信はできても、霊媒の身体をのぞいて霊界が見えるわけではない。ラジオをのぞいても放局のアナウンサーは見えないのと同じで、要するに霊媒も受信器にすぎないのである。それが、条件さえ整えば、霊界の波長をキャッチする。
そのとき霊媒は無意識の状態(入神状態)にあるかも知れないし、人によっては見たところ平常と変わらないこともある。その状態で霊媒はスピリットからの波長をとらえて地上の人間に感応する波長に変えてくれる。無線の波長をとらえて人間の耳に聞こえる波長に変えてくれるトランジスタラジオと本質的にはそう違わない。
こうした霊界との交信は交霊会という形ですでに確実に定着している。霊界との交信が始まると、もはや霊媒をラジオに譬えるのは事実にそぐわなくなる。なぜかと言えば、ラジオはこちらから放送することは出来ないが、霊媒の場合がそれが可能だからである。スピリットと会話を交えることが出来るのである。
かくしてわれわれはこうした交霊を通じて死と死後の世界についての驚くべき知識を手にすることを得ているのである。スピリットは常に進化を求めて活動している。このためには経験と教育と悟りが必要である。地上というところは地上でなければ得られない特殊な体験を提供するところである。
言ってみれば特別の教育施設、それも極めて基礎的な教育を授ける場である。あなたがこの地上に来たのはその教育を受けるためである。あなたの魂の進化の今の段階で必要とする苦難と挑戦のチャンスを求めてやって来たのである。
地上生活中は霊界から何人かのヘルパーが付く。いわゆる背後霊である。あなたと同じ霊系に属するスピリットで、困難や悩みに際してアドバイスしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。
実はあなたがこの世に来るに際しても、その背後霊(となるべき仲間)といっしょになって、地上で辿るべき行程と体験について検討し、最終的には、あなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。
その仲間たちはあらかじめ霊界から地上を調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間たちと別れを告げる。これは、あなたにとっても仲間たちにとっても悲しみであろう。
というのは、地上生活中も背後霊として援助するとはいっても、その意思の疎通は肉体によって大幅に制限されるからである。やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では、両親となるべき一対の男女が結ばれる。やがて女性の胎内で卵子が受精する。その瞬間をねらって、あなたというスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。
ここでいま世界中で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。いま言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、いわゆる産児制限は悪いことではない。受胎していない時はまだスピリットは宿っていないからである。が、いったん受精(妊娠)したら、すでにそこに生命が宿っていると考えねばならない。
それ故、堕胎(中絶)は一種の殺人行為と見なさねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は9ヶ月に亘って母体のぬくもりと気楽さの中で生長する。そして10ヵ月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間から地上へ移行するのである。
われわれ地上の人間は子供が生まれると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当り前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した時、霊界では悲しみを味わっている仲間がいる。なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。仲間との再会があるからである。
さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任はすべて自分にある。苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。私はまじめに生きて来たつもりです。人を傷つけるようなことは何1つした覚えはありません。なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。
実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかも知れない。が、そうやって鍛えられてはじめて立派な刀となるのである。苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。
不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受けとめて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。
要するに地上生活は勉強なのだ。人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。
人間にはある限られた範囲内での自由意志が許されている。が、この自由意志と宿命については、とんでもない説が行われている。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。
人生はすでに“書かれてしまっている” – つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。
もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも“自分”というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけていく連中である。物事の価値をすべて物質的にとらえ、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
両者とも真理をとらえそこねている。まず宿命について考えてみよう。あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。これもどうしようもない。
また、あなたはこの20世紀に生を享けた。できることなら16世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。が、それもどうしようもない。そうした条件のもとであなたは今という1つの時期にこの世に生を享けている。寿命の長さも定まっている。
どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。また苦難の中味 – 病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気 – こうしたこともみな、あらかじめわかっている。
あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。ただし地上生活中のある時期にかならず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。これもわかっている。そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意志がある。
宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意志はあっても、その因果律の支配からは逃れることは出来ない。水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。
科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為にはかならず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。その程度は人によって異るし、霊的進化の程度にもよる。
たとえば、ひどい痛みに苦しんでいるとする。かりに骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療家を知って奇蹟的に治った。嬉しい。涙が出る。感謝の念が湧く。
実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。この機に、その感謝とよろこびの気持でもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。
こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。
左をとれば確実に儲かるが、それは人間として2度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる、といった場合もあろう。神の啓示に耳に傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。
さらにもっと日常的な例では、自分自身には厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐心をもって臨む。その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
因果律は絶対に変えられない。歪げることも出来ない。無視することも出来ない。このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受けとめ、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶことである。
生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種 – こうしたワク組の中で、あなたにも自由意志が与えられているのである。この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。全部は無用だから、問題の箇所だけを引用しよう。
「87年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」
政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。霊的進化の程度において、われわれは1人1人みな違う。見た目には似通っていても、1人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう1人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。
2人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。1人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう1人は地上という幼稚園でさえまだ手に負えない“だだっ子”かも知れない。2人は断じて生まれつき平等ではないのである。
また、1人は五体満足で、もう1人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。絵を画かせると一方はすばらしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかも知れない。
一方はオーケストラの一員になり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかも知れない。1人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかも知れない。
英国の歴史家フルードは「人間は生まれつき不平等である。従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。その通りなのだ。完全な平等など絶対あり得ない。生まれついた環境が違い、遺伝因子が異り、霊的進化の到達度に差がある。
多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。だが、これとて現実とは違う。生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。
一方は屠殺場で働くことになり、本人も別にイヤとも思わないかも知れない。他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかも知れない。2人のどこに平等があろうか。
人間は決して生まれつき平等ではない。かつてもそうだったし、今でもそうである。それを、無理してあくまで平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。
人間は生まれつき平等ではない。また機会も均等ではない。となると、一体あとに残るものは何か。すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。このことを“しかと”認識していただきたい。
一度だけではない。すでに何度もこの世を経験している。その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。そこで必要な体験を得るためである。
地上の人間には2つの大きなハンディキャップがある。1つは無明または無知。要するに真理を悟れずにいることである。この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。無明から解脱するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。
もう1つは肉体的制約である。頑健で元気いっぱいの身体をもって生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。肌色も違えば背丈も違う。その身体をコンピュータのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。
が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと – 霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。
第12章 過ちを犯すとバチが当たるか
罰にもいろんな種類がある。のけ者にされるのも罰である。みんなアイスクリームをもらったのに自分だけもらえなかったら、それを罰と受けとめるであろう。みんなガールフレンドがいるのに自分だけ相手にされないと、何かバチでも当たったのかと思う人もいる。
良心の呵責によって罰を受けることもある。何か悪いことをしてずっと心にひっかかり、それが身体の病気にまで発展することがある。それはすでに説いた因果律の1つのパターンである。
たった1回の過ちで全人生を歪めてしまうことがある。何もかも狂ってしまう。悩みの絶えることがなく、常に気が気でない状態になり、生活が不自然になっていく。晩年になってわが人生がみじめで迷いの連続であったことを知る。生涯を振り返って、何のために生きて来たのかわからないということになる。これも又、罰である。
反対に良いことをすると気分が晴れやかになる。その気分がまわりの人にも好感を与え、何をやってもうまく行くようになる。晩年に振り返って充実した幸せな人生であったと満足する。
善行いとは何か、悪い行いとは何かについてはすでに述べた。精神科医はいろいろと理屈を言い患者の弁護をするが、善悪は厳然として存在し、霊的に成長するほど道義的感覚が鋭くなってくるものである。
人間は誰しも過ちを犯す。が置かれた条件下において、どうするのが善であるかを判断することは絶対に可能である。たとえば生体解剖と、毎年英国だけで500万回も行われている動物実験(うち80パーセントは麻酔なしで)は誰が何と言おうと悪である。
「その実験のおかげで英国人の健康が増進される」などという弁解は私には通じない。私自身がその結果を毎日この目で、この手で確かめている。英国は今や病人の国である。真に健康な人が実に少ない。大体道義的に許すべからざることをやっていて、それが医学的に正当化されるわけがない。
どう弁解しても正当化する答えにはならない。人をごまかし、ウソをつき、公私で二枚舌を使いわけるのも悪である。そのほうが儲かるからといっても、それで不道徳が是認されるはずがない。
商売においても、仕事においても、私生活においても、道徳の基準は1つでなければならない。人道的に不正なものが商道徳上で正しいはずがないのである。私は今どの行いが善でどの行いが悪だという厳密な法典を作るつもりはない。第一、すべてに適用できる定まった掟というものは有り得ないはずだ。
所詮あなたにとって正しいか否かは、あなたの霊的発達程度によって定まるからである。人喰人種はやっつけた相手を食べるが、これは彼ら人喰人種にとっては悪とは言えないかも知れない。それが彼らにとっての習慣なのであり、相手の肉を食べることによって相手のもつ力と徳を自分のものにできると信じているのである。
それが良いことであるか悪いことであるかは考えないのである。が、あなたがそんなことをしたら、それは悪である。なぜなら、あなたはそれがいけないことであることを道義的に知っているからである。
同じ意味で、動物を殺して食べることはいけないことだと思わない人はいくら肉を食べても悪くはないが、もしもあなたが人間は動物を保護する立場にあること、人間の得手勝手で無理やり飼育し、屠殺し、食卓にのぼせるべきではないと実感をもって信じているならば、あなたにとっては肉食は悪であることになる。
このように、万人に共通した善行とか悪行というものはない。では何を基準にして善悪を判断したらいいかということになるが、私は“あなたの動機に照らして判断せよ”と言いたい。そして、もちろん、その判断に際して自分に正直でなくてはいけない。動機さえ善であれば、あなたの行為は間違いなく善である。
もしも動機が自己中心で物欲的で権力欲に発しているとしたら、その行為は、それが何であろうと悪である。その分だけあなたの人生は無益で、無意味なものになる。たとえ一時的には利益を得ても、それはいずれあなたの人生を破綻へと導く。因果律が自動的に罰をもたらすのである。
そこであなたは尋ねるかも知れない。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうかと。
そんなことは絶対にない。が次のようなことは必ず体験させられる。まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに、あなたの送った地上生活を振り返る。正しかったことも間違っていたことも、細大もらさずビデオを見るように再現され、この判断は正しかったが、あれはいけなかった。ここでこんなことをしたからああなった、といった調子で背後霊から説明をうける。
それが終ると、背後霊と相談の上で、もう1段高い世界へ挑戦するか、それとももう1度地上へ戻るかを判断する。もし地上へ戻ると決まったら、しばらく休息をとり精神統一をしながら調整する。
やがて霊的な準備が整う。指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。それまでに“何世紀”も経っていることもある。いよいよ機が熟すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の1女性の胎内へと入っていく。宇宙学校の第2学期が始まったのである。
第13章 自殺者や夭折した子はどうなるか
あなたの人生の長さ – 寿命 – は、あなたが地上へ再生する時点においてすでにわかっている。教育と同じで、学校を選んだ時点で、その学校の入学と卒業の時期があらかじめ定まっている。もしも寿命が来ないうちに切り上げたら、その分の埋め合わせにもう1度戻って来ないといけない。
教育のたとえで言えば、健康か何かの理由で長期欠席したとしよう。学ばねばならないことがたくさん残っている。そのままでは卒業させてもらえない。そこで欠席した分だけの期間を改めて学校へ通わなければならない。
自殺するのに勇気はいらない。自殺は実は臆病者の取る手段である。挫けず生き通すことこそ勇気がいるのである。しかも自殺は何の解決にもならない。霊界へ戻ってみると、地上でやることにしていた仕事が残っていることを知る。多分あなたが選んだコースは少しあなたには負担が大きすぎたのかも知れない。
が、それをあなたが自分で選んだのである。選んだ以上、あくまでやり通すべきだった。あなたはそれから逃避した。そのままでは霊的進化は達成されない。達成するには残して来た仕事をやり遂げねばならない。といって肉体はすでに無い。埋葬されて腐敗したかも知れないし焼却されたかも知れない。
あなたは指導霊と相談する。その結果もうあと2、3年で必要な体験が得られると判断する。そこでこんどは夭折する運命のコースを選ぶ。
これで死が罰でもなく、また全てを解決するものでもないことがおわかりであろう。もう1つ次元の違う世界へ行くだけの話である。学校を卒業して大人の世界へ入る、その卒業式のようなもので、あなたもいずれは死という卒業式を迎えて、より大きな人生へと進まねばならない。
今の例でもわかるように、ほんの短い地上生活しか必要でないスピリットがいる。それは、今の例のように完全に終了しなかった人生を完成するための場合もあれば、すでにかなり霊的進化を達成し、地上での勉強をあまり必要としないというケースもある。
とくに高級霊が幼児のうちに他界するというケースが多い。そういう運命を選んだ子供にあなたも会ったことがあるはずである。幼いうちからしっかりしており、しかも美しさと上品さが輝いてみえる。
だから、幼い子供を失った親は決して悲しむことはない。そういう子はその純粋さ故に、大人が大人であるが故にもつ数々の不純さを避けていると思われるふしもある。事実、死後地上と交信する上で子供のほうが大人より有利なのである。その子の死を悲しみ嘆くことは、その子にとってもあなた自信にとっても、何の益にもならない。
涙を拭って自分にこう言って聞かせることだ – わが子はいつも身近にいてくれている、と。きっとあなたの来るのを待っているはずである。『ピーターパン』の著者ジェームズ・バリーが「死ぬということは素晴らしい冒険である」と述べているが、まさにその通りだ。どんな楽しいことが待っているかわからないからである。
妊娠中の母親はいろいろと考える。かならずしも食べ物のことばかりではない。もっとも、食べることに関しては異常になるようだ。私の妻などは真夜中に起きてフライを山ほど揚げる。そしてイザ食べる段階になって気分が悪くなり、せっかく揚げたものを全部捨ててしまうといったことを何回かやった。
お腹に子供がいると母親はその子に夢を託し、いろいろと将来を思う。が予定日が近づくと考えが変わってくる。男の子でもいい。女の子でもいい。目は青でも茶色でもいい。背は高くても低くてもいい。色は白くても黒くてもいい。どうか五体満足の子であってほしいと思うようになるものだ。
その願いが必ずしも叶えられるとは限らないようだ。不具の子が生まれることが現実にあるからだ。この事実をどう受けとめるべきか。親はまず罪の意識にとらわれる。何がいけなかったのだろうか。
自分たち親に何か欠陥があるのだろうか。こうした意識を生涯抱き続けている親がいる。そしてその生涯は聞くも涙の物語となる。悔恨と過剰な罪の意識がそうさせるのである。
生命の誕生は実に驚異というべき現象である。私がそれを“驚異”という時、私の心にあるのは、よくも五体満足で次々と生まれてくるものだという感慨である。が中に五体満足でない子供がいる。次に紹介するのはその不幸な例である。
数年前、知人の家に女の子が生まれた。2人目の子である。最初の子は男で、頑健そのものだった。女の子も五体は満足で、青い目のブロンドだったが、脳に欠陥があった。出産の途中でほんのわずかな時間だったが酸素が不足し、それが原因で脳細胞の一部が死んだのである。
どうも反応の仕方がおかしいと気づいた親は小児科へ連れていった。小児科医は徹底した診察と検査を行い、さらに脳の専門家の意見も聞いた上で次のような気の毒な診断を下した。この子は身体的には正常に成育するが知能的にはこれ以上発達せず、恐らく植物人間としての生涯を余儀なくされるであろうと。
親にとってこれほど惨(むご)い話があるだろうか。その夫婦はその子を連れて私のところへ来た。さっそく霊的な診察に入ったが、とたんに私は「この子を大事にしなさい」と口走った。無意識のうちに出た言葉だったが、私には指導霊が言わせたものであることは分っていた。続けて私はこう言った。
「この子に愛情を注ぎなさい。存分に注いでやりなさい。心霊治療も定期的に受けさせてやって下さい。どの程度よくなるかは今の段階では言えませんが、知能をもった子になります。大切に、愛情をもって育てなさい。」
その子は名前をサラと言う。今では6歳になった。障害児施設に通っているが、愉快で愛らしい子である。その後もう1人の健康な男児を出産した母親は、3人のうちでサラがいちばん愛情を覚えるようですと語った。
母と娘の間に普通以上の縁が出来あがっているのである。恐らくサラはまともな成人にはなれないであろう。が、サラはサラなりに1個の立派な人格の持主なのだ。
もっとも、ここまで来るまでには、その子が深刻な悩みのタネとなった時期があった。サラが4歳を迎える頃には母親は心身ともに疲労の極にあった。痛々しいほど痩せ細り、食事がまともにノドを通らない。
確実に病身になりつつあった。医者の診察ではどこにも異常はなかった。ありとあらゆるテストと検査をしてもらったが、全てマイナスの反応だった。が、ついに入院のやむなきに至った。
その段階ではじめて私はご主人から奥さんの窮状を知らされた。依頼を受けて私はすぐさま病院へかけつけた。見ると痛々しいほど痩せて、気味悪ささえ感じるほどだった。まだ30代であったが、見た目にはまさに老婆だった。
が私の心霊治療を受けてから急速に快方に向かい1週間後には退院し、1か月後にはすっかり元気で明るくなり、食事も進み、体重も増えてきた。ここにも1つの人生がある。まだその全ては分らない。これからどうなるか分らない。が、そういう子にも、その子なりの人生があるのだ。意義ある人生が。
不具の子、障害をもった子にも例外なく完全なる霊が宿っている。ただ、宿った身体が不完全だったにすぎない。その子は、そういう不完全な身体に宿った人生を自ら選んだのである。自らこしらえた牢獄といえるかも知れない。そういう人生でないと得られない教訓があるのだ。
またその両親を始めとして兄弟、姉妹、その他その子と縁のある人々にとっては、そういう子との接触が必要だったのかも知れない。あるいは、高級霊がさらにいっそうの進化のために敢えて障害者としての人生という過酷な試練の道を選んだのかも知れない。
いずれにせよ、すべてに目的がある。時としてそれがわれわれ人間には分らないことがある。が、それでも全ての人生にそれなりの意義があるのだ。
第14章 背後霊とは
あなたにも指導霊がついている。人間のすべてに例外なくついている。たった1人でなく2人以上、5人も10人もついている人もいる。かつてはこれを守護の天使(ガーディアンエンゼル)と呼んでいた。知識と体験を積んだ霊で、地上生活を送る人間を背後から指導援助してくれる。
その中には地上時代にあなたを可愛がっていた親戚の人とか、数世紀も前に他界した霊が特殊な才能を生かして指導に当ることになったケースもある。この場合はあなたが今回の地上生活を選ぶに当ってその相談相手になった人であることが多い。地上生活中ずっと面倒を見て、あなたが地上を去った時は真っ先に出迎えてくれる。
そうした背後霊とあなたとは色んな形で連絡が取れているが、普通の言語による通信は出来ない。肉体に宿ったことによって、それだけ連絡網が決められているのである。
そこで背後霊は、たとえばあなたの脳裏にある考えを吹き込んだり、あなたの悩みを解決してくれそうな人のところへ案内したり、そのほかいろんな手段を講じて援助しようとする。どこでどういう援助があってこうなった、といったことは霊能のある人なら分るが、普通の人間には分らない。
その霊能者 – 時には霊媒と呼ぶべきケースもあるが – これはスピリットと直接交信する能力を具えた人のことである。霊界のスピリットにとって人間に意思を言語で伝えるのは至難のワザである。どうしてもそうしようと思えば、人間の耳に聞こえるレベルまで波長を変える(ラジオのように)だけでなく、それを“音波”に変えなくてはいけない。
このためには人間の発声器官に似たものが必要となる。交霊会では実際にボイスボックスという人間の発声器官と同じものをエクトプラズムという物質で拵えてしゃべるという現象(直接談話現象)があるが、いちばん手っ取り早いのは人間の生(なま)の発生器官つまり霊媒を使うことである(入神談話現象)。
入神というのは深い睡りの状態 – 昏睡とか人事不省の状態 – と同じと思えばよい。その状態の霊媒の身体にスピリットが一時的に宿ってしゃべるわけである。入神の深さにも程度がある。私のように治療しながらでもスピリットと一体関係になれる状態もある。暗闇または薄暗い部屋のほうが調子がいいという人もいる。反対に明るい照明のある部屋、あるいは日光の射し込むような部屋がいいという人もいる。
霊媒能力というのは一種の遺伝である。が、どの才能でも同じであるが、霊能も努力して養成しないといけない。その養成中にいきなりスピリットに身体を占領されてびっくりする人がいる。
いずれにせよ、1人前の霊能者になるには時間と忍耐力と鍛練と厳しい精神修養を必要とする。ある一流の霊媒が私に、自分の生涯は過去10年間の霊媒としての仕事のための修行だったように思う、と語っていたのを思い出す。
私はよく交霊会に出席して背後霊と会話を交わす。2、3か月毎にどこかの霊媒の交霊会に出席することにしている。どの霊媒という特定の人はいない。経験豊かな霊媒とみたら行ってみる。するとたいてい向うから話しかけてくる。背後霊の中にも私と話したがっているのがいて、それが真っ先に出てくる。
他の背後霊は簡単な挨拶程度だけで、あとはそばにいて会話を聞いているだけである。その様子はちょうど身内の者から久しぶりで電話が掛かってきて、家族全員が電話のそばに集まっても、実際に受話器を手にするのはその中の1人か2人で、あとはそばで話の内容に聞き耳を立てているというのと同じである。
入神している霊媒の口を使う場合もあれば、ボイスボックスを使って直接話しかけてくる場合もある。言うまでもなく霊媒にも背後霊がいる。その中に門番のような役をする霊がいて、スピリットが話に出る順番を整理して混乱が生じないようにしている。これは大切な役目なのである。
というのは、入神談話にせよ直接談話にせよ、霊媒自身は完全な無意識状態にあって、自分の身体の自由がきかないからである。交霊会はたいてい1時間近くかかる。もちろんそれをはるかにオーバーすることもある。通信にはたいへんなエネルギーを要するので、スピリットによっては長時間続けられないことがある。
全部話が終らないうちにエネルギーが切れて打ち切りになったことが何度かあった。ところがそれから2か月して別の霊媒のところへ行ったら同じ霊が出て来て、このあいだは途中で話が切れて申しわけない、と言って続きを話してくれた。ちょうど公衆電話で話をしていて、時間が来て途中で切れてしまったので、あとでもう1度掛け直すのと似ている。
“霊を呼び寄せる”(口寄せ)などということをやる人がいるが、交信は本来スピリットのほうの意思で行われるもので、人間としては時おり霊媒のところへ行って向うからの連絡を待つよりほかはない。
治療家として私は、肉身の死による悲しみのために病気になった人を数多く治療しているが、これほど野蛮な話はないと、いつも思う。悲哀を味わうということは、私に言わせれば一種の罰である。
無知だからそれほど悲しく思うわけである。自己憐憫も、悔恨も、自責の念も、あまりに大げさすぎるのだ。必要以上に自分を哀れに思い、悔み、そして責めたてるその余剰の念が身体を蝕むのである。
そうした哀れむべき人を治療する時、私はまず死についての再教育から始める。ある婦人が私に尋ねた。「夫はなぜ私に話しかけて来ないのでしょうか。あなたの言うように、もしもあの世に生き続けているのなら、なぜそうと教えてくれないのでしょうか」と。
夫の死で悲しみのドン底に落ち、自分1人の暗い世界に閉じ込もってしまったことが、まわりからの全ての援助の手をさえぎっていることに気づかない。自宅に電話を取り付けずにおいて、誰も電話を掛けてくれないと文句を言っているようなものだ。
霊媒を通じての直接の交信(コミュニケーション)が出来なければ、前に紹介した背後霊との触れ合い(コミューン)が出来る。これには“静寂の時”さえ確保できれば1人でも出来る。10分間あるいは15分間ほどやって何の変化も感じられなくてもよい。
うっかり寝入ってしまってもよい。それを折にふれて実行していくのである。いつでもどこでもよい。完全にリラックスして白日夢を見る状態でよい。ただ肝心なのは、煩わしい日常の雑念に邪魔されないようにすることである。
そのうち、ふと体が軽くなったような気分がしだす。心身ともに軽くなってくる。そんなに張りつめていたのかと思うほど気分が和らぎ、さっぱりとしてくる。と同時に、悩みのタネであったことが大したことではないような気分になったり、解決のためのいい方法が思い当ったりする。あなたは背後霊の援助を受けたのである。
第15章 死の眞相
寿命が尽き、いよいよ死期が近づくと、一種の緊張の強みを感じる。永遠なる生命の書の第1巻を閉じつつあることが分ってくる。
心霊治療家となって以来、私は大勢の人が死を迎えるのを手伝ってきた。安らかに死を迎えさせてあげるのも心霊治療家の重要な任務の1つと心得ているからである。
その一生は苦労と不愉快なことの連続だったのかも知れない。が、死期が近づくと誰しも安らかさと落着きを覚え、完全な無痛状態と快く運命に身をゆだねる心境になるもののようだ。
無論そうとはいえない死に方もある。戦場で死ぬ兵士がいる。自動車事故や飛行機事故で死ぬ人がいる。殺されて死ぬ人もいる。死刑によって死ぬ者もいる。また同じく死ぬ人でも、霊的に目覚めて死ぬ人と、目覚めないまま死ぬ人とがいる。
死にたくないと必死に抵抗しながら死んでいく人もいる。こういう人は死の自覚の芽生えが遅い。死んでから尚も自覚が芽生えずに、霊界の指導者による看護と再教育を要する人がいる。が数から言えばそういう人はそう多くはない。
大体において死を迎える直前には静寂が訪れる。やっと終った、地上での勉強が終った、これで試練と苦痛から解放される、という認識が、安らぎと受容の心境を生む。何となく身が軽くなってくる。
肉体感覚が薄らぎ、自分のものでないように思えてくる。やがてふわっと上昇しはじめる。アドバルーンのように浮いてくる感じがする。見下ろすと、1人の人間がベッドに横になっている。自分だ。自分のからだだ。
そのからだと本当の自分とが銀色をした細い紐のようなものでつながっている。その紐が光線を発しながら息づいているのが見える。これがいわゆる“生命の糸”(玉の緒)だ。自分が上昇するにつれてその紐が細く長く伸びている。次第に輝きが薄らぎ、やがて消える。と同時に紐も無くなっている。その時あなたは“死んだ”のである。
地上と縁の切れたあなたは、なおもしばらく生命の灯の消えた異様な姿の“なきがら”を見下ろしながら、その辺りを漂っている。すっかり寛ぎ、気分が爽快だ。からだが軽い。ちょうどぐっすりと寝て起きた時のあの気分だ。何やらいい夢を見ていたらしい。その1つ1つは思い出せないが、とにかく気分がいい。あなたは、しばし、その陶酔に身をまかせる。
やがてその気分のまま銀白色のモヤの中を上昇しはじめる。その動きはゆっくりとしていて、しかも快適である。上へ昇るというよりは、外へ出て行くと言ったほうが当っているかも知れない。
そのうち指導霊が姿を見せる。ニッコリと笑顔で迎えてくれる。その指導霊といっしょになおも上昇していく。いっしょに上昇しながら指導霊との再会のよろこびをしみじみと味わう。地上の苦労の数々も今では楽しい思い出だ。
やがてモヤが晴れる。気がつくと、そこには先立った肉親縁者や友人、知人がいる。みんなニコニコして労をねぎらうように温かく迎えてくれる。そこが霊界である。あなたはようやく故郷へ帰ってきたのだ。
みんなはつらつとして幸せそうだ。そしてそれぞれが最盛期の容姿をしている。1人1人みな違う。40代の働き盛りの姿をした者もいれば、20代の魅力あふれる女性もいる。死後彼らは老齢と病を象徴するあのみすぼらしい痛々しい特徴をかなぐり捨て、それぞれが最高の容姿に変わっていく。
老人は腰が真っすぐになり、顔のシワも消え、働き盛りの元気はつらつとした男性となる。そしてその相をその後もずっと維持する。変化するのは霊的成長とともにオーラの輝きが増すことである。
子供は霊界でも徐々に成長する。徐々にと言っても、その度合いは地上の時間的観念と同一ではない。だから、その子の幼少時代しか知らない肉身や友人は現在の成長した姿ではもう認識できないまでになっている。そこで一時的にかつての他界した当時の容姿をまとい、新参者がすっかり落着いてから、本来の容姿に戻していく。
こうして愛と輝きの雰囲気の中で、あなたは旧知を温め、友情を確かめ、再会のよろこびを心ゆくまで味わう。時の経過と共に、代ってこんどはあなたが新参者を迎え、新たな環境への適応を手助けしてあげることになる。
さらに時が経つ。どのくらいかは分らない。地球の長い歴史の観念をもってすれば、われわれにとって長いと思われる時間も、永遠の時を大海に譬えればその1滴にも相当しないであろう。
が、ともかく幾ばくかの時が経ち、あなたはすっかり新しい環境に馴染み、そろそろ地上生活のおさらいをしてもいい時期が来る。そこで指導霊といっしょに1つ1つ点検し反省する。
その結果さらに1段高い次元の世界へ進む資格があると判断するかも知れないし、まだまだ経験が足らないと判断するかも知れない。他人への思いやり、謙虚さ、奉仕の精神等が不足しているかも知れない。そうなると再び地上へ戻ったほうがよいという結論になるであろう。そしてその機の熟するのを待ちながら準備にかかる。
こんどの人生ではあなたは身障者としての生涯を選ぶかも知れない。れん性麻痺患者として生きることになるかも知れない。聾唖者となるかも知れない。あるいは億万長者となるかも知れないし、天才に生まれ変わるかも知れない。みんなそうやって自分で選んで生まれてくるのだ。
私の父は87歳で他界した。その日私は、ダブルベッドでようやく起き上がっている父のわきに腰かけ、妻のジーンが片手を握っていた。白髪の老紳士である。2週間前から病気が出て、私は直接と間接(遠隔)両方の治療を施した。がやはり寿命だった。死ぬ間際には痛みも消え、安らかに寝入ったまま静かに他界した。
父は自分でも死期が近づいていることを自覚していた。そして私と長々と最後の話をした。父はいい生涯だったと言い、何も思い残すことはないと言った。ただ、自分の葬儀について、人様に迷惑を掛けたくないから余計な儀式は一切やめにして密葬にし、死体は火葬にしてほしいと言った。自分の死を悲しんでほしくないとも言った。最後まで陽気で寛いだ雰囲気だった。
父はあまり口やかましい人間ではなかった。教育も普通教育だけだった。子供の頃から正統派のキリスト教で育てられ、その他のことは本で読むこともあまりしなかった。人生哲学などについては1冊も読んだことがないのではないかと思う。
しかし静かに物思いに耽るタイプで、時おりパイプを口にし、一言居士的なところもあったようだ。スピリチュアリズムには関心がなかった。1、2度誘ってみたが、どの宗教でも似たようなことを言ってるよ、といって取り合ってくれなかった。
その“宗教”に関しても、父は本を読んだわけでもなく、誰かと議論したわけでもなく、挑発されたわけでもなく、思い知らされるような体験をしたわけでもないのに、すでに40年以上も前からすべての伝統的教義をかなぐり捨てていた。
固苦しい掟やタブー、儀式、迷信の類いから完全に解脱していた。そして1日わずか2、3シリングで事足りる実に質素な生活に甘んじていた。心は優しくて思いやりがあり、他人の弱点に対して寛大だった。まさに「汝の人にせられんと思うところを人に施せ」というキリストの黄金律が父の唯一の人生哲学だったようだ。
父はどうやってそこまで辿り着いたのだろうか。心霊能力は何1つなかった。物が見えたとか声が聞こえたとかの体験もなかった。私の知るかぎりでは霊媒や心霊治療家のところへ行ったこともない。交友関係にも霊能者はいなかった。
多分どこかでうまく背後霊と連絡が取れていたに違いない。自分では自覚していなくても、外部から見る者には、父が人間的に成熟した人間であることは明白に読み取れた。
同じく霊的真実に目覚めるのにも、私のように心霊治療を施したり、私から治療を受けたり、交霊会で霊と会話を交わしたり、霊の姿を見たり手で物質化霊に触わったり、写真に撮ったりといった、いわゆる心霊的体験を通して目覚める人と、そうした体験を何1つせずに自然に目覚めている人とがいる。
前者にとってそれは当然の帰結といってよいが、後者にとっては余ほどの魂の純粋さを必要とすることではないかと思われるのである。
死の2時間前から父は軽い昏睡状態に陥った。その瞬間から生命力が次第に抜け始めた。と同時に、霊魂が身体から脱け出て、生命の系でつながったまま漂っていた。糸は霊が遠ざかるにつれて細くなっていった。が、まだ息づいている。
父がわれわれを見下ろしているのがわかる。妻は父の片手を握りしめ、私はそばで静かに腰かけている。安らかな死を迎えさせてあげるために、力と平静さとを与えたのである。
その間にも父の身体は急速に変化を見せていた。頰は落ち込み、目は無限の彼方を凝視しているかのようだった。そこにはもはや父の面影はなかった。やがて生命の糸の息づきが止まり分解しはじめた。父の霊魂は急速に上昇しはじめた。そして多分、大勢の縁者と再会することだろう。父はついに死んだ。
翌日、私は例の『死とは何か – 悩める人へのガイドブック』をもう1度始めから読み直してみた。20ページ余りの薄い本なので読み通すのに時間はかからなかった。読み終えた時、妻のジーンが「どこか書き直さなくてはいけない箇所がありますか」と尋ねた。
どこにも書き直すべきところはなかった。実は本書の第10章からはその小冊子を敷衍しながら書いている。言わんとしていることはまったく同じである。若い頃の私は父を“悩める人”と見ていた。確かにそういう時期もあったに違いない。
が大事な時期に多分父の背後霊が、“知識”によってではなく、霊的に悟らせる形でうまく指導したのだろう。その後私は交霊会で父と何度か話を交わし、今でも助言を求める時がある。新たな環境への適応の一時期を経て、今では背後から私を援助してくれている。
その雰囲気は地上時代と同じく優しさと純粋さにあふれている。私も父に見習わなくてはと思っている。私が地上を去って霊界で父と再会した時、父が誇りをもって私を迎えることが出来るように。
第16章 葬儀は本当に必要か
人間の死にまつわる儀式とタブーには民族によって色々とあって、見様によっては実に興味ぶかい。
たとえばタイのカレン族は葬儀の最中は子供たちを家の片隅に縛りつけておく。これは子供の魂が死者の肉体の中に入るといけないという信仰から来ているのであるが、そのためには特殊な紐で特定の場所に縛る必要がある。
オーストラリア東方のロイアルティ諸島の住民は死者が生者の魂を盗むという信仰がある。そこで、病人の死期が近づくと住民は埋葬予定地へ行っていっせいに口笛を鳴らし、病人の家まで列を作って口笛を鳴らしながら戻ってくる。これは、死ぬということはその人間の魂が死の世界へ誘惑されるということだから、口笛で呼び戻すことも出来るはずだという信仰から来ている。
中国ではいよいよ棺の蓋が閉められる時はまわりにいる人々が2、3歩棺から離れる。別の部屋に逃げ込む者もいる。これは、影が棺の中に入ると、この人も遠からず死ぬという信仰があるからである。葬儀屋は自分の影が墓穴の中に入らない位置に立つ。墓掘り人と棺をかつぐ人は、影が身体から離れないように、腰のまわりに特殊な布を巻きつける。
ベーリング海峡周辺のエスキモーは、死者の出た日はすべての仕事を休む。親戚縁者は3日間休む。その間はナイフのような刃物類は一切使用してはいけない。死者の魂を傷つけるという信仰から来ている。大声を出してもいけない。霊魂がびっくりするといけないからである。
ルーマニアにも似たようなタブーがある。死者が出たあとは鋭いナイフを使ってはいけないし、刃をむき出しのまま放っておいてもいけない。中国でも同じ信仰があり、ハシも使わない。7日間は手で食べることになる。
バルト海に臨むリトアニアの住民は死後3日目と6日目と9日目と40日目に死者に食事を用意し、入口のところに立って死者を呼び戻す。そして12分に食べ存分に飲んだと思う頃に帰ってもらう。その近くのプロイセン(プロシャ)にも似たような風習がある。
南インドのバタガス族には死者の罪を水牛の仔牛にのり移らせるという奇習がある。部族の長または長老の1人が死者の頭のそばに立って、その人間の犯した(と思われる)罪の数々を並べ立てる。
次にその死者の手を仔牛に当てがうとその罪のすべてが仔牛にのり移る。仔牛はその村から遠く離れたところに死ぬまで隔離される。その牛にはむやみに近づくことを禁じられる。ある意味では“神聖”と考えられるのである。
古代エジプト人の信仰は実に混み入っていた。彼らは“蘇生”ということを信じた。が、もともとは死を司る神オシリスの蘇生だった。つまりエジプト人はオシリスが蘇生することが自分たちの死後の存続の約束となると考え、神々がオシリスにしたのと同じことを死者にしてあげれば死者も永遠の生命を授かると信じたのである。
そこでオシリスの子アヌビスやホラスなどがオシリスにした葬儀と同じことを人間にもした。その結果がミイラの作製となった。ナイルの渓谷から発掘される無数の墓から蘇生のための秘法を記したものが出ている。
当時は1人1人の死者に同じことを行っていたことが明らかとなっている。彼らはオシリスが蘇生したように自分たちも蘇生し永遠の生命を得るのだと信じたのだった。
ひるがえって、われわれ英国人の葬儀はどうだろうか。私の手もとに『国教会祈祷書』というのがある。教会の儀式の文句や聖書からの抜粋をまとめたもので、一般の書店でも手に入るが、最も読まれていない本の部類に入るのではなかろうか。
それはともかくとして、その中に「死者埋葬次第」という項目がある。まず冒頭に「牧師心得」があって、本書の祈祷は「洗礼を受けざりし者、除名されし者、並びにこれに不自然なる行為をせし者(自殺者)には使用するべからず」とある。
いまその全てを紹介するわけにはいかない。非常に混みいっていて、しかも長い。ぜひ知りたい方は直接お読みいただくことにして、ここではその全体の主旨だけを述べておこう。といっても、それは私が改めて説くまでもなかろう。
死者の霊を安らかに眠りにつかせ、主イエス・キリストの仲介によって“復活の日”に無事永遠の生命を授かり神のみもとに行けるように、ということである。儀式には数曲の似通った讃美歌が伴う。祈祷も讃美歌も古めかしい言葉で表現されているが、言わんとしていることは明白である。
それは2種類に分類できる。1つは死者へのはなむけの言葉だ。この者は本当は悪い人間ではなかった。だから“われらの1人”として真摯に待遇してやるべきだ、と。“われらの1人”とは要するに“神の恩寵を受け永遠の生命を拾いし者”のことである。もう1つは直接神へ向かっての願いごとである。
儀式は死者が“選ばれし者”の1人として復活の日に神に見落されることのないようにとの配慮が見られる。これで大丈夫、といった感じである。すべてが規定どおりに行われると、教会の名簿の氏名の頭に印がつけられる。
もしもあなたが教会の会員でなかったら、つまり洗礼を受けていなかったら、あるいは、かつては会員だったが脱会していたら、その儀式は受けられない。自殺しても受けられない。他の宗派の会員でもいけない。この永遠の生命を給わるチャンスは“選ばれし少数”の者にしか与えられないのである。
さて、こうしたことは面白いと言えば面白いが、的はずれなことばかりである。死後への恐怖心と迷信から生まれることばかりである。水牛の仔牛へ人間の罪をのり移らせることなど出来るわけがないのと同様に、教会の手で洗礼を受け埋葬されたからといって永遠の生命を授かるわけがない。
すでに今日ではその理不尽さに気がついて教会に背を向ける風潮が出てきつつある。今どき永遠の断罪をまともに信じる人はほとんどいない。そして霊的な真理を求める人が増えている。霊的成熟のしるしである。そのうち全ての迷信が理性と置きかえられ、恐怖心が愛と置きかえられ、イエス・キリストの説いた本当の意味が理解される日が来よう。
これからは死者が出た時は葬儀屋を呼んでこう言えばよい。「この者の霊はいま身体だけを残してあの世へ逝った。このからだはよくこの者に尽くしたのだから手厚く葬ってほしい。儀式は何もしなくてよい。ただ、ていねいに焼却してくれればよい」と。
そう述べてから親族及び友人知人で簡単なパーティを開き、故人の生涯の労をねぎらい、最後にみんなで別れの挨拶をする。“さようなら”ではなく「ではまたね」の挨拶だ。出来ることなら霊能者を呼んで故人の霊が霊界で歓迎される様子を見届けてもらうのもいいだろう。喪服など着てはいけない。黒は禁物だ。あなたは今すばらしい第2の人生に旅立つ人を見送っているのだから。
第17章 夫婦は死後も夫婦のままか
死後の世界では肉体がなく、従って肉体的欲望つまり性欲はない。地上ではすばらしい快感を味わわせてくれたかも知れないが、それも所詮は肉体ゆえの原始的快楽にすぎなかった。死後ではその肉体はもうない。が残念がることはない。
それに代る楽しみ – 地上では想像も及ばなかった次元の高いよろこびが用意されている。肉体の死とともに官能その他の地上的性格の感覚を捨て去ったのであるから、死後も地上的意味での夫婦のままか否かは、もはや意味をもたなくなる。
霊界でも男女の結びつきはある。が、それは愛による結びつきである。愛という言葉は地上では肉体的表現を伴う。確かにそれも愛の一種かも知れないが、霊界でいう愛とは霊的親和性の働きの表現を意味する。
従ってもしも地上での結婚がその親和性を伴ったものであったなら – というよりは、その場合にのみ – 霊界でも夫婦のままでいられることになる。たいてい夫婦はどちらか一方が先立つ。
すると親和性で結ばれていた2人であれば、先立ったほうは地上に残された他方のその後の生活をずっと見守り、再会の日を待つ。やがて他方が地上を去って霊界へ来ると2人は再び結ばれ、こんどは2度と離ればなれになることはない。但し、繰り返すが、これは親和力という霊的な愛によって結ばれた夫婦にかぎっての話である。愛が、愛のみがすべての基準となる。
結婚式を教会で挙げようと回教の寺院で挙げようと、あるいはただの入籍だけで済まそうと、そんなことは何の関係もない。牧師や導師による祝福の言葉も、祈りの言葉も、誓いの言葉も、何の効力もない。
大聖堂での厳粛な挙式のほうがアマゾンの奥地での粗朴な儀式よりも幸福を約束してくれるかというと、そういうものでもない。2人の間の霊的親和力さえあれば、それが何よりも強く2人を結びつけ、それは死後にも続く。
もしもあなたの結婚がそのレベルのものでなければ、死後は夫婦でなくなることになる。よく知り合った2人にすぎないかも知れないし、新しい環境への順応の期間中は一緒にいるかも知れない。が時の経過とともに、いつかは別れる時が来る。そしてお互いがそれぞれに親和力の同じ相手を求めることになる。
真に結ばれるべき相手であるかどうかは簡単に知れる。霊界へ行くとそれが自然にわかるのである。なぜかと言えば、霊界にはウソも見せかけもない。邪魔もない。あなたはあなたそのものになり切るからである。すると自然に“わかる”のである。
2度3度と結婚した人も別に問題はない。親和力による真の結びつきは1度しか有り得ないし、相手は1人しかいないはずである。死後あなたは結ばれるべき人と結ばれるのである。
第18章 あなたがもしも今夜死ぬとしたら
かつて私は、ガンで死の宣告を受けた若者と1時間ばかり話をしたことがある。自分の病状についてすでに全部を知らされ、あと2か月の命であるとも言われていた。私は彼に、残された道は2つしかないと説いた。
私の治療によって治るか治らないかである。もし治らなかったら、2か月先の死という大冒険の準備に取りかからねばならない。いずれにしてもあと2か月すればその病気とは縁が切れる、と私は述べた。
もしあなたがこの青年と同じように余命いくばくもないと知らされたらどうされるだろうか。かりに今夜死ぬとわかったらどうされるだろうか。
物的準備は簡単である。財産家なら遺言状を整理することだ。財産という財産を残らず記録し、執行者が間違いを犯さないよう、出来るだけ多くの情報を用意しておくことだろう。もし財産がなければ、そんなつまらぬ面倒の手間も省けるというものである。
が霊的な準備はそう簡単にはいかない。死ぬということは大変な冒険だ。この世からあの世への旅立ちをあなたはどう準備するか。
仮りに火星へ旅行することになったとしよう。まず誰もがするであろうことは火星について出来るだけ多くの知識を集めることだ。図書館へ行って本を借りてくるかも知れない。ガイドブック、天体写真集、専門書などで火星の状態を勉強するだろう。あるいは火星へ行ったことのある人を探し出して、火星とは一体どんなところかを聞きたいと思うだろう。
が、火星へ行ったら2度と地球へ戻ってこれないと知ったらどうだろう。多分その勉強にいっそうの熱がこもるであろう。さらに、火星に着いた時から火星人になってしまうと知ったら、火星人とはいかなる人種かについても知ろうとするだろう。
実は、人間の全てが、こうした火星旅行など近くの海岸への日帰り旅行にしか匹敵しないほどの大旅行に向って日1日と近づきつつあるのだ。霊界への旅立ちである。われわれはその旅行への準備をしなければならない。
ではどう準備をしたらいいのか。一体何が準備なのか。実は「死」と呼ばれている旅立ちまでの「人生」こそが準備なのだ。その人生についてのガイドがほかならぬ霊的真理(スピリチュアリズム)だ。
これについては多くの本が出ている。霊界旅行から一時的に地上に戻って、霊媒を通じて、霊界とはどんなところか、死後どんなコースを辿るのか、どういう心がけで生きれば良いかについて語ってくれたことが本になってたくさん出ている。
但し1つだけ分らないことがある。“いつ死ぬか”ということである。実際には寿命は決まっている。霊的にはそれがわかっている。が脳を通じての意識(顕在意識)にはそれが分らないようになっている。100歳まで生きるかも知れないし、今日中に事故で死ぬかも知れない。霊界への旅立ちはいつ始まるか、誰にもわからない。
結局われわれが為すべきことは、いつ死んでもいいように心の準備をしておくことだ。毎日を今日が最後かも知れないという覚悟で生きることだ。
過去はもう過ぎ去ってしまった。過去に起きたことは何1つとして変えられない。愚かなこともし、バカなことも言い、過ちを犯し、しくじりもした。が今さらどうしようもない。出来ることは、そうした体験から教訓を学ぶことだ。悔んだり残念がったりして、あたら時間を費し心を痛める愚だけはやめることだ。教訓だけを学んであとは忘れてしまうことだ。
成功から学ぶことなら誰にでも出来る。難しいのは失敗から学ぶことだ。過去はいろいろと教えてくれている。過去の体験によってあなたは道徳的にも霊的にも成長した。同時にあなたの間違っている点も教えてくれた。因果律の働きも教えてくれた。
だから過去には大いに感謝しなければならない。過去がなかったら今のあなたも存在しないのだ。良いことや楽しいことも為になったが、失敗や不幸も為になっている。が、その過去の出来ごとは一切忘れて、教訓だけを忘れないようにすることだ。
未来はまだ来ない。どんなものをもたらしてくれるかは誰にも分らない。果たして自分に未来があるかどうかも分らない。未来についてはわれわれ人間はどうしようもないのだ。大いなる未知、すばらしき冒険、それが未来だ。そのどこかで死が待ちうけている。人生のどこかの曲り角であなたを待ちうけている。
わかっているのは現在だけだ。今日は正真正銘の今日だ。その今日という時を精一杯生きることだ。明日のことを思い煩ってはいけない。「神を信じ、1日1日を大切に生きよ」 – 死に備える現在の生き方の心得はこれしかない。過去の教訓のもとに現在に最善を尽くすのだ。
1日が終ったら、無事に終った1日を神に感謝する。2度と同じ日は来ないであろう。明日はまだ来ない。もしかしたら、あなたには明日という日はないかも知れない。今夜でおしまいかも知れない。それは分らない。はっきりしていることは、いつかは死ぬということだ。だから1日1日をこれが最後と思って大事に生きることだ。悔いなくこの世を後に出来るように。
人生を達観すると、あなたの心身を蝕んできた挫折も蓄財も欲望も嫉妬も後悔も、ことごとく無意味であることに気づく。今日かぎりそうした低級な感情と訣別し、平静と愛と同情心と理解と寛容と笑いの人生に置き替えることだ。
心霊治療家としての経験から私は、永遠の生命に目覚めることこそ人生の万能薬であることを知った。すべての心身の病いを癒やすだけでなく、予防にもなる。全人類がこの事実に目覚めた時、病院のベッドはガラガラになり、医者は時間にゆとりが出来、西洋社会の経済問題も解決されるであろう。
所詮、地上は宇宙学校の幼稚園にすぎない。せいぜい気ラクに明るく、心にゆとりをもって生きることだ。そう悟った今夜から、あなたの霊的成長の旅が始まる。
「供養」と「除霊」についての私見 – あとがきに代えて – 訳者
心霊治療に関する最も新しい本にD・ハーベイの『癒やすカ – 心霊治療とその実体験』というのがある。古代から現代までの奇蹟的治癒の事実を細かく分析・検討した力作であるが、その「序論」の冒頭を飾っているのが本書の著者モーリス・テスター氏の体験である。
この事実からも、奇蹟的治癒の体験後、自らが治療家となったテスター氏は西洋でも極めて異色の存在であることが窺える。第1章を読まれてこの劇的な体験に感激された方が多いのではなかろうか。まさに奇蹟と呼ぶに相応しい。私も訳しながら思わず涙のにじむのを感じたほどである。
テスター氏とは氏の第2著『背後霊の不思議』(潮文社刊)を、10年ほど前に日本心霊科学協会の月刊誌「心霊研究」に『こうすれば健康と富と成功が得られる』の題で連載した頃から文通があり、1981年の1月にはサセックス州の自宅にお邪魔した。
本書で紹介された劇的体験以来すでに20年近く経ち、人生体験はもとより治療家としての体験も十二分に積んで、実に落着いた老紳士の風貌をそなえておられた。氏が恩師と仰ぐモーリス・バーバネル氏にもその翌日お会いしたが、背恰好もよく似ていて、しかも不思議に2人とも東洋人的な雰囲気をもっており“親戚のおじさん”にでも会ったような親しみを覚えたものである。
バーパネル氏は面会してから半年後に急逝され、テスター氏も、本書(翻訳)が出版された時はまだお元気だったが、1986年の12月に、本書でも紹介されている氏の一生の恩人ともいうべきフリッカー氏と、たった1日違いで他界された。
ところで、読者の中には同じく心霊治療でも日本と西洋とで大きく違う点に気づかれた方、あるいは、かねてから疑問に思っている方が多いのではないかと思う。それは西洋の治療家が除霊とか供養のことを一切口にしない点である。
私にとってもこれは年来の疑問点の1つで、テスター氏と面会した時もこの点を質してみた。まだ最終的な結論を出すまでに至っていないが、差し当って私が確信をもって言える範囲のことを述べて参考に供したいと思う。知らぬふりの出来る問題ではないからである。
結論から言えば、それは“民族的習性”の違いに起因する。本書の第16章で葬儀の風習が民族によっていろいろ違うことが紹介されている。ばかばかしいと思われるものばかりで、テスター氏もすべてが“的はずれ”であると述べているが、たとえ的はずれであってもそれが習慣となって何百年も何千年も続けられると、霊魂のほうからそれを“絶対的なもの”として人間側に要求するようになる。
日本人が先祖の供養をおろそかにするとバチが当ると信じ、怪談ものを上演する時は、たとえばお岩ならお岩の霊前で出演者全員が手を合わせる、といった習慣があるのもその辺を物語っている。
視点を変えてみると、地上生活における人間関係、とくに家庭内の家族関係についても同じ要素を見ることが出来る。日本人の人間関係は古来きわめて情緒的である。それが母子(おやこ)関係となると尚更で、いわゆる母性原理的傾向が極端に出る。
かねてから日本人の母子関係を象徴する現象として子を道づれにした母子心中が世界から奇異の目で見られているが、昨今ではその異常さが受験勉強に必死になる母子の関係に見られるようになってきた。
心理学者はこれを山姥(やまんば)が人間を呑み込む昔話に譬えて、母親が子を私有物のごとく精神的に呑み込んでしまい、ために子がいつまでも大人になり切れない – 専門用語を用いれば親からの“分離個体化”が出来ていない人間にしてしまっていると説明する。単にペーパーの上での問題処理能力が優れているだけの一種の奇形児である。
私はこれも極めて日本民族らしい現象で、こういう関係を生む土壌が、霊界へ行ってもいつまでも自我に目覚めない人間、いわば地上からの分離個体化が出来ない霊を生み続ける素因になっていると観るのである。
日本人は、正確にいつの時代からか知らないが、死ねば墓に埋められるもの、戒名を付けてもらって仏壇で供養されるものと思っている。古来そういう習慣が続けられている。そして“習慣”は知らぬ間に“習性”をこしらえるものである。
だから、水子の霊に代表されるように死後何もされずに放っとかれると、やがて霊界で生長した霊は他の家族同様に祀られたい、つまり家族の一員として認められたいと家庭内をうろつきまわる。
人間側は一向に気づかない。霊はそのうち腹を立てて暴れるようになる。正常な家庭ならその影響も受けないが、似たような要素をもつ子供がいれば波長が合って、いわゆる家庭内暴力を揮うようになる。
心理学者は家庭内暴力は親が盲目(マイナス)の愛によって子の自由を奪い続けたことに対する子の反抗であると説明している。人間的要素に関するかぎりその通りに違いないが、それに霊的要素が加わってくるから解決が難しいのである。
反抗期はどの子にもある。単なる反抗心だけなら親を殺すようなことは勿論、暴力を揮うようなことにはならないはずである。こうした現象を生む土壌はさきにも言ったように日本人の母性原理的精神構造にある。
日本人は先祖を大切にすると言えば聞こえがいいが、私は少し大切にしすぎであり意識しすぎであると考える。これは是非とも正しい霊的真理を理解することによって徐々に改めていくべきであろう。そのためには今この世に生きているわれわれが霊的真理を知る必要がある。
その点、西洋人は先祖霊に対してはむろんのこと、そもそも人間関係において実にあっさりとしている。父性原理的なのである。日本人からみれば冷たく感じられる傾向があるが、見方を変えれば個人的自覚がしっかりしているということである。
霊的事実に照らしても霊界のほうがはるかに住み良い世界なのであるから、本来は霊界側から人間を導いてくれるべきところであり、人間のほうから死者を供養するのは“一般論”としては本末転倒なのである。
いま一般論としてはと断わったのは、どの民族にも人間側から供養してやらねばならない霊魂がいることも事実だからである。その原因にもいろいろあるが、地上的習慣や間違った思想信仰等があまりに強くて、人間的波長から脱し切れない場合や、事故死や自殺等によるショックから脱け切れない場合等が考えられる。
たとえば西洋人に多く見られる例として、最後の審判の日にガブリエルのラッパの合図と共にクリスチャンの霊のみがいっせいに神に召されるというキリスト教の復活の信仰によって、いつまでも睡眠状態から脱しきれない霊がいる。
たしかに死者は死の直後から一時期睡眠状態に入るものだが、右の信仰を強く信じている霊はいつになっても目が覚めず、指導霊が起こしても「まだラッパは鳴らんのか」と聞いて「まだだ」と言われるとまた眠り込むということを繰り返す。
供養を要求してくる日本人の霊とはタイプが異り、人間側への悪影響は少ないが、向上進化の観点からすると何とか供養して目を覚まさせてやらねばならない霊であることには違いない。そういう霊は根本的に人間的波長から脱し切れてないということであり、従って霊界の波長では感応しにくいのである。
供養の仕方については個々のケースによって異り、民族によっても当然異るが、いずれにせよ、今ここで論じるにはあまりに大きすぎ、またその場でもないので、これ以上深入りするのは控えたい。
次に“除霊”の問題であるが、実はテスター氏と面会した時、私のほうからその点を指摘してみた。つまり純粋に身体的ないし心身症的なものはよいとして、憑依されている場合はどうするかと質してみたところ、「私は放っときます」という返事だった。この辺に西洋人的思考の特徴が出ていると思う。
つまり放っておけばそのうち離れていくという考えである。またテスター氏は「憑依現象は確かにあるが、言われているほど多くはない。たいていは本人がそう思い込んでいる – つまり幻覚である場合が多い」と言って、幻覚が生じるケースを幾つか挙げて説明した。
霊が離れていくいきさつには2通り考えられる。テスター氏が患者に説く霊的真理をいっしょに聞いて目覚める場合と、背後霊団がうまく導く場合とがあろう。いずれにせよ、地上時代の習性から西洋人の霊は離れやすいということは言えよう。
勿論これだけでは済まされないケースが西洋にもある。精神異常者(発狂者等)の場合である。これについては米国のカール・ウィックランド博士が『迷える霊との対話』(近藤千雄訳。ハート出版)で西洋人らしい方法で見事に解明している。関心のある方はご一読ねがいたい。
私はいずれ西洋の霊能者が日本流の“人間側からの供養”の必要性を知る時代が来るとみている。現に死者に向って真理を語って聞かせるという意味での“リーディング”をやり始めた宗派も出て来ている。
が同時に日本の心霊治療家や霊能者は除霊という手段に頼りすぎる傾向を反省すべきであると考える。その傾向を改める方法は、究極的には治療家自身、霊能者自身が霊的真理を正しく理解する以外にはないであろう。
どの分野についても言えることであるが、日本人は民族的には実に優秀なものを持っていながら、異質のものの導入による刺載が足らないために、建前は立派でも、その実きわめて的はずれなことを大まじめにやっていることが多い。
たとえば宗教をみても、日本には神道と仏教という世界に類のない哲理と実践がありながら、今日ではそれがすべて“なきがら”に等しい。その奥義を霊的に理解している人が宗教家の中でも少なくなっている。葬式仏教などと陰口をたたかれるのもそのためである
一言にして言えば日本は相も変らぬ“鎖国”なのである。勇気をもって異質のものを摂り入れる努力をしないと、持てる良いものまで腐らせてしまう。そのことは文化にも宗教にも言える。
私がスピリチュアリズムという西洋の新しい霊的思想の紹介に専念するのもそのためである。決して西洋かぶれしているのではない。本当はその逆で、日本に古くからある良いものを再生させる、その刺戟剤となればと思えばこそなのである。
その意味で本書でテスター氏が紹介してくれた心霊治療の方法と、死の真相、死を境にした生前と死後との関係、再生、人生の意義等について氏の説くところが、心ある読者の参考になれば幸である。
私は霊力の証を見た 〈新装版〉
近藤千雄(こんどうかずお)
1935年生。高校時代からスピリチュアリズムに興味を抱き、明治学院大学英文科在学中、及び今日に至るまで英米のスピリチュアリズム関係の原典による探求とその翻訳に従事。1981年1月に英国を訪問して以来たびたび英米を訪れ、本書の著者テスター氏を初め著名霊媒並びに心霊治療家に出会う。
主な訳者『シルバーバーチの霊訓』(全12巻)M・Hテスター『背後霊の不思議』M・バーバネル『これが心霊の世界だ』M・バーバネル『霊力を呼ぶ本』(いずれも潮文社刊)その他、スピリチュアリズム関係の著訳書55冊を数える。
モーリス・テスター(Maurice H.Tester)
本業は経営コンサルタント。心霊治療は週3日を自宅で、1日をロンドンの事務所で行っていた。1986年没。本書の他にHow to be Healthy, Wealthy,and Wise(拙訳『背後霊の不思議』)とLearning to Live(拙訳『現代人の処方箋』潮文社刊)がある。