ベールの彼方の生活 4巻
霊界通信 ベールの彼方の生活 4巻 「天界の大軍」篇
G・V・オーエン著
近藤千雄訳
The Life Beyond the Veil
Vol.4 The Battalions of Heaven
by G.V.Owen
The Greater World Association
London, England
【目次】
1章 測りがたき神慮
2章 聖なる山の大聖堂
3章 霊の親族(アフィニティ)
4章 天界の大学
5章 造化の原理
6章 創造界の深奥
7章 天界の大軍、地球へ
8章 地球浄化の大事業
9章 男性原理と女性原理
10章 天上、地上、地下のものすべて
推薦の言葉 ノースクリッフ卿
私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。
こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有(も)ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。
ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。出来るだけ名前は知られたくないとの気持を披歴され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。
(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe – 本名ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail(デイリーメール)の創刊者。死後、“フリート街の法王”と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還』Northcliffe’s Return と題して出版、大反響を呼んだ。 – 訳者)
序 アーサー・コナン・ドイル
永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。
新らしい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。
今そのうちの1つ – 至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源(えんげん)をもつ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。
それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭(へきとう)から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。
一字一句に捉(とら)われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新らしいものだから、珍らしいから、ということで無闇に有難がってもいけない。
地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、“霊的”であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分有りうることを銘記すべきである。
この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。神は2000年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。
それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応(ふさわ)しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。
驚異的と言われ不可思議とされた過去70年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手をもって目を蔽(おお)う者のみと言ってよいほどである。現象のものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。
がそれは実は吾々人間の注意を引きつけるための信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。
啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。
完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。
その内容は古き信仰を覆(くつがえ)すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘(こだ)わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。
真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味をもつに至った部分が幾つあることであろうか。
たとえば「父の家には住処(すみか)多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。
それはもはや捉え難き遠い世界の“まぼろし”ではなく、この“時”にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己(おの)れの道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ちうけるとの確信を植えつけてくれることによって、よろこびの時にはより一層そのよろこびを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。
言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。
筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を2冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。
オーエン氏の通信が私の2冊とは無関係に綴られたのと同じである。どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、このたび読み返してみて、私のものより遙かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは1つも見当たらない。
もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろか。
今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新らしい機関車が必要なのである。
もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず – 例えば第1次大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応(こた)え得た教会が有ったであろうか。今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。
新らしい時代が始まりつつある。これまで貢献して来た者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚(うぬぼ)れの誘因とはならない。目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。
しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持を抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。
(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle – 言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは“スピリチュアリズムのパウロ”の異名を取るほど、その普及に献身した。 – 訳者)
まえがき G・V・オーエン
この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では4部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送って来た霊団が予(あらかじ)め計画したものであることは明白である。
母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。
それが一応軌道に乗った頃、新らしくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学者的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。
母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第1巻『天界の低地』を構成している。
この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(さすが)に高等である。第2巻『天界の高地』は全部このザプディエル霊からの通信で占められている。
第3巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。
その名のもとで綴られたのが第4巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前3巻のいずれにも増して充実しており、結局前3巻はこの第4巻のための手馴らしであったとみても差し支えない。
内容的にみて本通信が第1部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。
本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと –
私の母は1909年に63歳で他界している。アストリエルは18世紀半ばごろ、英国ウォーリック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。
アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが1896年に僅か15ヶ月で他界するその3年前に28歳で他界している。
さて、“聖職者というのは何んでもすぐに信じてしまう”というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど“信仰”というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。
が、私は声を大にして断言しておくが、“新らしい真理”を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。
因(ちなみ)に私が本通信を“信ずるに足るもの”と認めるまでにちょうど4分の1世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに10年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適(かな)っていることをはっきりと得心するのに15年かかった。
そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じて、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。
正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持にもだいぶ変化が起き始めた。
こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが…。
が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、そのうち注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課(ばんか)が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。
最初の4、5節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、そのうち次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。
1925年秋
1章 測りがたき神慮
1 大聖堂への帰還
1918年1月21日 月曜日
これからは光明界へ向けての旅となります。例の“光のかけ橋”の下の谷の暗さは地上の夜の暗さであったと私が言えば、これまでいた暗黒界の都市の暗さの程度(ほど)がご想像いただけるであろう。漆黒(しっこく)の闇は何も見えない暗さのことです。が、こちらにはそれよりさらに濃い闇が存在する。
地上では闇はただ暗いだけのことですが、暗黒界の闇には“実体”があり、上層界からの保護を受けていない者にとっては、まさに“恐怖”なのです。哀れにもその濃厚なる闇へと引き寄せられた者は、あたかも水に溺(おぼ)れるのにも似た窒息せんばかりの苦しみを覚えます。
しかもそこには沈みゆく身を支えてくれる板切れ1枚ない。苦しみの極みにやがて逆上と絶望が忍び寄り、冒涜(ぼうとく)の地獄を次から次へとさ迷い歩きながら、いつになっても、光明界へと向かうきっかけが己れの心1つに掛かっていることに気づかないのです。
さよう、その奥深き暗黒界の闇には確かに一種の“濃度”があるのです。ただし、そこに住む者には薄ぼんやりと見透す視力が具わっています。もっとも、それが何らかの恩恵をもたらすわけでもありません。それどころか、その視力に映じるものは身の毛もよだつものや悪意に満ちばかりであり、それが彼らの苦しみを一段と辛辣(しんらつ)なものにしていくのです。
彼らの中にはかつてこの地上に生活し地上社会で交わった者もいる。生まれながらにして邪悪だった者もいれば名声と地位を誇った者もいる。このようなことを述べるのは、死後の真相を貴殿を通じて地上の人々に伝えたいと思うからです。
と言うのも、地上には、絶対神は愛そのものであるが故に地獄は存在しないと論ずる者がいます。確かに神は愛そのものです。が、そう述べる者がどこまでその絶対愛を理解しているか – ほんの初歩的なものでしかない。一方こうして貴殿に語りかけている吾々霊団の者はどうかと言えば、これまでの永き道程にもかかわらず未だに究極には到達できずにいます。
が、神がまさしく愛であるとの確信を抱くに十分なだけの – と言ってもまだかけらほどでしかないが – 神の叡智(摂理)を理解することを得ております。完全なる理解はできません。しかしこれまで得た知識が“神は叡智において完全であり完全なる愛そのものである”との信仰をますます拡大し、より確固たるものにしてくれたことは確かです。
– リーダーさん、お聞きしたいことがあります。いつでしたか、睡眠中に私も暗黒の地下の仕事場を訪れたことがあるのですが、そのことをあなたはご存知でしたか。もしご存知でしたら、私が訪れたのはあなたが奴隷を救出された鉱山と同じところだったのでしょうか。どこか似通ったところもありましたが、違うところもありました。
貴殿の睡眠中の体験のことはもちろんよく存じております。と言うのも、こうして貴殿を使って通信を送る作業を準備するに当たって吾々は貴殿の生活について総合的に検討してあるのです。貴殿の扱い方に粗相があってはならないからです。
この種の仕事に抜擢(ばってき)される人間は、目的はそれぞれ違っていても、こちらで徹底的に調べ上げており、その生活ぶりは1つとして見落とされることがないものと思われて結構です。
さてご質問の件ですが、あの場所は例の都市から数マイルほど離れた位置にある別の鉱山で吾々がお話したボスの子分によって支配されております。そこは、ボスに対して反抗的態度をとった者が連れていかれるところで、そこで徹底的にしごかれながら、吾々が訪れた鉱山よりもさらに厳しい監視下で働かされています。
それに比べれば吾々が訪ねた鉱山の奴隷は挫折感が強いだけに誰かにすがりつこうとする傾向があり、その意味で割合自由にされているところがあるわけです。貴殿が行かれた場所はその地域へ初めて送り込まれた者がいったん置かれるところで、それだけにまだそこでの仕打ちの残酷さの程度を知らず、そのしごき方も知らずにおります。
– 動物がいましたが、あれは何の用があるのでしょう。
その者たちを威嚇し見張るように訓練してあるのです。
– でも動物がそんな地獄に落ちるようなことをしでかすはずがないし、そんな用事に使われるいわれもないと思うのですが…
貴殿が見られた動物は1度も地上に生を享(う)けたことのない動物たちです。地上に生を享けた動物は明るい界層へ向かいますが、あそこの動物たちは悪の勢力によって創造されたもので、彼らにはそこまでは創造できても、地上へ誕生させるほどの力はありません。
そこで暗黒界の環境を形成している成分によって形態だけは立派な動物の姿をしておりますが進化はせず、これからもずっとあのままです。貴殿があの境涯での動物の存在を不審に思われたのも無理はありません。あの種の動物は地上の動物的生命の秩序の中に組み込まれていないのです。
地上の動物種族の進化に関与できる能力を有するのは創造界においてもよほど高い界層まで到達した測神霊にかぎられます。以上、非地上的真理を地上の言語で述べてみましたが、ご理解いただけましたか。
– 一応わかりました。どうも。大へん謎めいた話で私には思いも寄らないことです。が、これ以後じっくり時間をかけて考えていけば、他の謎を解くカギにもなりそうです。
いかにも。そういう姿勢で取り組めばきっと役に立ちます。その際に次のことを念頭に置いていただきたい。
すなわち宇宙を善と美のみの光で照らして考察すると、当然、悪は否定的な要素でしかないことになりますが、それを逆さまに考える – つまり反対の端から出発して善のみの生命の流れに逆らって進めていけば、暗黒界にも光明界の大天使や中天使や小天使に相当する強力な悪の存在がいるということです。ただし1つだけ大きな相違点がある。それはこういうことです。
天界の進化の階梯を下から上へ登っていくと次第に崇高さを増し、ついには究極的存在に至ることになりますが、暗黒界においては完成の極地というものがない – 絶対的存在はいないということです。
すべての点で言えることですが、この点においても暗黒界の勢力には完成というものがなく、神性に欠けるが故に秩序もない。もしそうでなかったら暗黒の勢力が光明の勢力と対等となり、そのうち光明界が侵略され、愛と美がその反対の憎と魏に取って代られ存在の場を失うことにもなりかねない。
そうなると最高神の目的が歪められ、宇宙が進化の道を踏みはずし、脇道へ外れて遭難し、幾星霜を経るうちに大混乱が生じ、ついにはその目的を成就できずに終ることになるでしょう。
そこで、いかに暗黒の勢力が強力とはいえ“全能”ではないようにできているのです。全能は唯一絶対の宇宙神のみの大権なのです。神は全知全能であるが故に、たとえ我が子が反逆して横道へ外れても、その我儘の程度を知悉(ちしつ)しているが故に、いずれは自らの意志により無条件に抵抗を止め、神の愛の絶対性を認めるに至るようにと、数世紀にも及ぶ放浪の旅をもお許しになるのです。
その時点においてはじめて宇宙の初めと終りの謎が明確に理解され、神の叡知を悟るのです。吾々が知り得たかぎりの神の御国 – それとて程度は知れているが – について地上の言語で語れるのはこれまでです。
吾々は吾々なりにもっと表現力に富む言語があるのですが…地上の言語ではこれ以上は語れません。もっとも、貴殿の方にご質問があれば別ですが…
– どうも。その件に関してはありません。
では今回はこれで一応終りとしましょう。どうやらカスリーンが貴殿にひとこと告げたいことがあるようなので、吾々の固苦しい影響力を引き上げて彼女自身の心根(こころね)のやさしい思念にゆずることにしましょう。彼女の魅力ある性格から出るものをそのまま言わせてあげたいのです。
彼女は実に心優しい性格で、吾々の書記として辛抱強く頑張ってくれております。その献身的な協力に対して吾々は心から感謝いたしております。貴殿とはまた機会を得てお会いしましょう。
お寝みなさい。神の明るき光が貴殿ならびに教会の信者の方々とともにありますように。みなさんは自覚なさっている以上に光輝に包まれておられます。いつの日かそれを目(ま)のあたりにされる日も来ることでしょう。
訳者注 – 多分このあとすぐカスリーンからのメッセージがあったのであろう。それが載せられていないのは多分その内容がプライベートなものだったからであろう。
2 静寂の極致
1918年1月25日 金曜日
吾々はついに光の橋にたどり着きました。上り傾斜になっているその橋を暗黒側の端から登って光明界側の端まで来ると、そこでしばし休憩して、それまでの仕事の成果を振り返っておりました。そこへ吾々の界からの使者がやってきて、吾々の使命の進行過程での神庁における配慮の様子を語ってくれました。
と言うのも、第10界を離れて以来このかた、神庁においては片時も吾々との霊的接触をゆるめることはなかったのです。彼はその具体的な例として吾々が重大な事態に立ち至り火急の援助と導きを必要とした時に神庁において打たれた手段の幾つかを語ってくれました。
そのうちの幾つかは吾々にもその時点ではっきりと分かっていたものや何となく感づいていたものもありましたが、大部分はその時の抜きさしならぬ状態の中で全神経を集中していたために、外部から援助されている事実すら気づいておりませんでした。
それというのも、そうした暗黒界においてはその界層特有の環境条件に身体の波長を合わせるために、霊的な感覚がある程度制限されるのはやむを得ないことなのです。
その点は地上界に身を置く貴殿も同じです。たとえ吾々による手助けに気づかれなくても貴殿はいつも見守られており、必要なときには然るべき援助を授かっておられます。
さて途中の界でのことは省略して、一気に第10界に帰ってからの話に入りましょう。第10界を取り囲むように連なる丘の上で吾々は一団の出迎えを受けました。みんな大よろこびで吾々の帰還を待ちわびており、吾々のみやげ話を熱心に聞きたがりました。
そこで吾々はいっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ“聖なる山”の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて“聖なる山”を登り、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。
そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来てみると、そこに大群集が集まっており、跪(ひざまず)いて姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。吾々はそこを通り抜けて最後部で待機したのですが、吾々の動きに一瞥(べつ)すらくれる者は1人もいませんでした。
地上の人間は真の静寂を知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。第十界のあの大聖堂での讃仰の祈りの時はまさしく静寂そのもので、崇厳さと畏敬の念に満ちておりました。
かりに貴殿がはるか上空へ地上を離れれば、次第に地上の騒音から遠ざかることができるであろう。が、それでもなお空気との摩擦があり、微(かす)かとはいえ一種の音によって完全な静寂は破られるであろう。さらに大気圏を離れても、惑星間の引力作用による潜在的な音の要素がエーテルに響いている。
太陽系を離れて別の太陽系との間の虚空まで行けば、幾百万光年の彼方の地球はもはや見ることも感知することもできず、ほとんどその存在は知られなくなることであろう。
しかしエーテルが存在する。たとえ貴殿の耳には何の音も届かなくても、エーテルを応接間に譬(たと)えれば空気はその控えの間のような存在であるから、音と隣り合わせていることになり、両者は言わば親戚関係にあることになる。
ところがこの第10界までくると、そのエーテルを10倍も精妙化したような大気が存在する。ここでの静寂はそれに浸る者への影響の観点から言えば消極的なものではなく、むしろ能動的な“1つの存在”を有している。つまり“音が無い”という意味での静寂ではなく、静寂という実体があるのである。
それも一種のバイブレーションをもつ存在である。がその周波はきわめて緻密で、音の皆無の状態と同じなのである。私にはこれ以上の説明はできかねます。肉体という鈍重な物質に宿っている貴殿には、吾々があの大ホールへ入った時に体験した状態は、その万分の1といえども想像できるものではありません。
最後部の座席で待機していると、前回吾々を見送ってくださった方が中央の通路を通って近づいてこられ、私の手を取って祭壇へと案内してくださった。その祭壇は例の玉座のある拝謁の間にあり、吾々が暗黒界への使命を給わったのもその部屋でした。
使命を終えて再びその部屋へ戻ってきた時の吾々は、あの暗黒界での辛酸をなめさせられて、いささかやつれぎみでした。顔の表情から数々の闘争のあとが窺(うかが)われました。というのも、私が貴殿にお話したのはほんの一部であって、決してあれがすべてではなかったのです。
善と悪との絶え間ない戦いをくぐり抜けてきた戦士のようなものでした。しかしその傷あともシワもいずれは霊格の一部として融合し、一段と品格を高めてくれることでしょう。吾らが主イエスも身をもってその模範を垂れ、聖なる美への道をお示しになられたのです。
実に、身にまとわれる衣にも犠牲の教訓が読み取れるほどの主の美しさは、地上の言語はおろか天界の言葉をもってしても、私には表現することはできません。
吾々一団は祭壇から少し離れた位置で足を止め、同じように跪(ひざまず)いて存在の根源すなわち絶対神への祈りを捧げた。むろん絶対神は顕現の形でしかその姿をお見せになることはないし、それも滅多にあることではない。それもほとんどが主イエスの形態で現れる。
その理由は地上人類の1人として降誕されたその体験ゆえに、その段階での吾々にとってより交わりを得やすいからです。やがて合図を感受して全員が頭を上げて祭壇へ目をやった。
合図といってもただ吾が身の内と外にある存在感を感じ取ったにすぎない。見ると祭壇の左手に主のお姿があった。主は2度と同じ姿をお見せになることはない。どこかに新らしいもの吾々の心を捉え教訓を物語る何ものかを備えておられる。
その頭部の上方に7人の尊い天使のお姿が1列に並んで見える。胸で両手を交叉させ、立ったまま黙しておられる。目は閉じてはいないが、瞼が下がり主の少し後方の床へ目線を落としているようであった。身には各種の色合いの混じったゴースの衣をまとっておられる。
外から色づけしたものではない。意識的に表現するのでなしに、自然にその色合いが出ているのである。地上にそれと同じ色合いを見つけることはできないが、そのほかにも地上のバイオレット、ゴールド、淡いクリムソン – ピンクとはちがいます。
今の貴殿には理解できないでしょうが、そのうち分かります – それにブルー等々が混じっている。ほぼそれに近いという程度ですが、実に美しいものです。ゴースの衣をまとっているとはいえ、身体そのものから出る美しさは譬えようもありません。
その至純さもまた譬えようもなく神々しく、それが衣に反映して放つ光輝は、それによって外から飾るのではなく、それがその存在の一部となり切って神々しさを引き立てている。
それぞれの頭部には光のベルトが輝いており、その生き生きとした様子は、心が讃仰へ、あるいは愛へ、あるいは慈悲心へと変わるごとに輝きが変化するほどでした。
7人の天使の心は完全なる調和と落着きを保っているために、わずかな心の動きでもすぐさま光のベルトに反応を示し、同時にブルーの衣を通してクリムソンのきらめきが、そしてバイオレットの衣を通してゴールドのきらめきが放たれるのでした。
祭壇のわきに立たれるキリストの容姿は7人の天使に比べて一だんと鮮明度が強烈で、容貌も細部までよく見ることができました。頭部には2重の冠をつけておられる。1つの冠の内側にもう1つ見える。外側の大きい方は紫色をしており、内側の小さい方はクリムソンの混った白色をしている。
その2つが幾本かの黄色の棒でつながれ、その間に実に可愛らしいサファイアの宝石が散りばめられ、冠全体から放たれる光輝が頭上で1つの固まりとなっています。身体全体がきらめく銀色の光に包まれ、クリムソンパープル(深紅と紫の混じったもの) – この色は地上には存在しません – のマントを羽織っておられる。
胴体の中ほどに金属性のベルトを締めておられ、銀と銅の中間の色をしている。私はいま主の容姿を私にできるかぎりに叙述しております。ときに地上の用語を妙な組み合わせで使わざるを得ませんが、それでも私の慮伝えたいこととは程遠いことばかりです。
胸もとにはルビーの首飾りがあり、それがマントを両肩のところで留めております。右手に色彩豊かな棒状のアラバスター(石膏の一種)を持ち、その先端を祭壇にそっと置いている。左手は腰のあたりに当てがい、親指をベルトの中に入れておられる。そのせいでそのあたりのマントが片側へ広がっている。そのお姿の優美さは仁愛に満ちたお顔と完全に調和しておりました。
– そのお顔は地上の絵画に見る例のお顔と似ていますか。
似ていますが、ほんの少しだけです。ただし、主のお顔は顕現のつど、どこかが少しずつ異なっていることを知っておかれたい。本質的には少しも変わりません。この度もそのお顔から受けた印象は王者のそれでした。悲哀(かなしみ)の人でありながら全体には王者の風格がみなぎっておりました。
その中に吾々は神の御国に到達された方のしるしを読み取りました。そこへ到達されるまでの葛藤の痕跡は、その成就とともに訪れる“のどかさ”の中に吸収されつくしておりました。
貴殿は今その時の主のお顔に地上の肖像画に見えるような“あごひげ”が付いていただろうかと思っておられますが、私が見かけたかぎりでは、ありません。実は私は主があごひげを付けておられるのを見かけたことがないのです。すでにに50回ないし60回はご尊顔を拝しているのですが…
もっともそれは否定する理由にはなりません。主があごひげを付けてはならない理由はありません。時にはお付けになって出られるのかも知れません。ただ私は見たことがないというまでです。それ以上のことは言えません。
さて吾々が主を見つめ、それから頭上の天使に目をやっていると、やおら主がお言葉を述べられた。貴殿にはその大ホールの全会衆へ向けて述べられたお言葉の意味は理解しかねるであろうから割愛するとして、いよいよ吾々帰還したばかりの15人に向けてとくに語られたお言葉は – 語るといっても貴殿らが語るのとは異なるのですが – およそ次のようなものでした。
「さて、暗黒の飛地(とびち)より帰られたそなたたち。実はその後私も同じ土地へ赴いていたことを知られたい。群より離れた彼の地の小羊たちには私の姿は幽(かす)かにしか、それも稀にしか見えないことであろうが、私は父がお造りになられた世界の最僻地までも赴き、そこから上層界へと向かいつつ、そなたたちと同じように彼の地の者たちに語りかけてきた。
数多くの者が私の声に目を覚まし、その顔を光明界へと向けてくれた。が、私に背を向けて暗黒界をさらに深く入り行く者もいた。彼らは私がそこに存在することそのことから受ける知覚に耐えかねたのである。その時はことさらに私の影響力が増幅されていた。今もそのまま残っていることと思う。
そなたたちはそのとき私に背を向けた者たちがその後たどりついた場所までは踏み込んでおられない。が、私は今なおその地で彼らと共にあり、いつの日かは彼らもこの地において私と共にあることになろう。
さて、私の忠実なる使者であるそなたたちは、よくぞ私の計画を推進なされた。私は私の本来の住処(すみか)よりそなたたちの仕事ぶりを注視していた。名誉の負傷なくして帰ることを得なかったことであろう。私も同じように傷を負いました。
彼の地の者をこの光明界へと誘(いざな)わんとするそなたたちの誠意ある意図は必ずしも妥当なる信任を得なかったが、それは私も同じである。余計なお世話と言われたこともある。そなたたちは彼の荒涼たる大地に住める同胞の苦悶の様子を見て、さぞ心を痛めたことであろう。
そして又、時には、これで果して神は父と呼ばれるべき存在であり得るのかとさえ思えたこともあろう。とくに彼らの苦しみを我が苦しみとして受けとめ我が身を滅ぼさんばかりになった時はなおのことだったであろう。
しかし我が親愛なる使者に申し上げよう。私も又、他のことと同様このたびのことにおいても、人間的苦悩の深奥を極める体験をさせられました。父が私から顔を背けられた時に私も暗黒の苦しみを味わったのです」
(訳者注 – 最後の一文は多分はりつけにされた時のことを指すのであろう。その直前イエスは窮地を救ってくれるよう父なる神に祈った – “父よ、御心ならば、何とぞこの苦しみの杯(さかずき)を取り除き給え。が、どうぞ私の願いでなく御心のままになされんことを”と。そして有名な最後の一句“エリ、エリ、レマ、サバクタニ” – 神よ、神よ、何ゆえに私を見捨て給うや – を唱えて息を引き取った)
主は静かに、穏やかに、そして抑揚の少ない調子で話されました。しかも話しておられるうちに、その目の表情がはるか遠くの眺望の中へ霧のごとく融け入るようにみえました。
それはあたかも今そうして話をされている最中も7人の神々(こうごう)しき天使と共に、そこの大聖堂にいるのではなく、彼の暗黒の地においてその土地の者たちと苦しみを共にされているごとく思えました。
しかしそのお言葉に苦の情感は感じられませんでした。感じたのは主みずから語られた邪悪への哀れみと支配力の尊厳でした。さて再び主のお言葉に戻って、私に可能なかぎり地上の言語に直してみましょう。
「そこで私はそなたたちが父の優しさと恩寵を求めて祈る際に身につけるべきものとして、このたびの旅と尽力と苦難のしるしを授けよう」
主が言われたのは新たに授かった宝石のことで、それが吾々の“礼拝の冠帯(ダイアデム)”に付け加えられたのです。主はそれから左手を高く上げられ、その手で、跪いている全会衆の頭上をゆっくりと円を画くように回され、そして最後の言葉を述べられました。
「私はこれにて去り、あとは私の代理の者が、そなたたちがこれより先この界において為すべき所用を申しつけることになろう。その仕事には私がいつでも援助すべく待機しているであろう。壮大なる計画のもとに行われる仕事だからです。急いで着手してはなりません。
が着手したら総力をあげて忍耐づよく取り組み、知識と力とにおいてそなたたちに優る上層界の者による修正を必要とせぬよう、首尾よく仕上げてもらいたい。必要なときは私を呼ぶがよい。それなりの援助はいたそう。が必要以上に求めてはならぬ。
その仕事は下層界の向上のためであると同時に、そなたたち自身の向上のためでもある。そのことを銘記して、これまでに身につけた力を精一杯駆使して成就されよ。
ただ、しかし、私の援助を求めることを怠ったがために支障をきたすことがあってはならぬ。そなたたちの力にて見事に成し遂げるということの方が、いたずらに仕事を進行せしめることよりも大切である。何となれば、その仕事は私の父のためであり、そして私のためでもあるからである」
そう述べられてから祝福と祈りをこめて再び手を上げられ、非常にゆっくりとした口調で“神ぞ在(ま)します”と言われました。
そう述べているうちに主と七人の天使は本来の界へ戻るべくゆっくりと視界から姿を消され、吾々一同は静寂の中に残されました。が、その静寂の中に主の存在感がなおも感じ取られ、その静寂に包まれて吾は、その静寂そのものが主の御声であり、吾々のために語りかけてくださっていることを知りました。そうと気づいて吾々は一瞬ためらいを覚えましたが、ためらいつつも再びそれに耳を傾けて礼拝したのでした。
3 コロニーのその後
1918年1月28日 月曜日
かくして吾々の旅と使命はこれまで叙述したごとくにして終了しました。吾々の話について何かご質問があれば…実はさきほどから貴殿の精神の中にいくつか質問が形成されつつあるのが見えるのです。今お答えしておいた方が都合がよいでしょう。
– ええ、2、3お尋ねしたいことがあります。まず第1は、前回の通信で“礼拝の冠”でしたか、何かそんな用語を使っておられましたが、あれはどんなものでしょう。
こちらの世界では情緒も思念も、何ひとつとして外部に形体をとって現れないものはありません。貴殿が身のまわりにご覧になる地上のものも、元はといえばすべて思念の表現体です。思念はことごとく、全生命の根源である究極の実在すなわち神に発しています。
現象界の思念はすべてその神という焦点へ向けて内向していきます。つまり、すべての思念の根源は神で、そこから発したものが再び神に回帰していくという、果てしない循環運動をしております。
その途中の過程において思念の流れはさまざまな序列の権威、忠誠心、ないしは神との一体性を有する存在の精神的操作を経てゆく。つまり大天使、中天使、小天使、そして普通のスピリットの影響を受けて、あるものは天国、あるものは地獄、あるものは星雲、あるものは太陽系、その他、民族、国家、動物、植物、要するに貴殿らが“もの”と呼ぶものすべてとなって顕現されている。
それらはみな個性を具えた存在による外部へ向けての思念操作によって“生産”され、その想念が同じ界に住む者ないしは連絡を取り合っている界の住民の感覚に反応する表現慮形態を取ります。
それのみではありません。あらゆる界層の想念は、地上であろうと地獄であろうと天国であろうと、それなりの能力を有する者には明瞭に感得することができます。
ですから、たとえば測貴殿のすべての思念は吾々が住んでいる言わば天国の下層界においても、至聖至高の絶対神の心臓の鼓動の中に存在する実在界においても感識されているといっても決して過言ではありません。
壮厳をきわめる事柄においても、些細な事柄においても、原理は同じということです。かくして吾々の界層の一団が発する思念は、その大気の温度にも色合いにも反映します。(地上的用語を用いていますが、それ以外に表現方法がないのです)
それで1人物の性格と霊格は衣服の生地、形、色彩、身体の姿かたち、背丈、肌ざわり、身につけている宝石の色彩と光沢等々、さまざまな形で顕現されていることになります。
そういう次第で彼の地での使命を終えて帰ってきたときの吾々は以前には欠けていた性質を個性の中に吸収していたために、冠帯に宝石が1つ加えられていたのです。
主お1人の独断でおやりになったのではありません。こちらの世界ではすべてが厳正にして精密な理法の働きによって決定され、しかも神の恵みにあふれた形で実施されます。私があの頭飾りを“礼拝の冠帯”と呼んだのは、それがいつも目に見えているわけではなくて、吾々の思念が礼拝に集中している時にのみ目に映じるからです。
その時になると吾々の頭髪の上に形体を現し、髪を束ねて耳の後ろで留めてくれるのです。それを飾っている数々の宝石は吾々に相応しいものとして選んで付けられたのではなくて、吾々が1界また1界と降りていきながら身につけた資質が自然に生み出したものです。
今それに加えてもう1つの宝石が、最終的使命を託されていた暗黒界での功績のしるしとして与えられたという次第です。そうした宝石や珠玉に関しては、たとえ私には何とか意味だけは言葉に移し得ても、貴殿に理解していただけそうにないことが多々あります。
貴殿もいつの日かその美しさ、それが象徴しているもの、そしてそれに生命を賦与しているもの、さらにはその威力について知ることになるでしょうが、今はまだ無理です。一応この程度にさせていただいて、次の質問に移りましょうか。
– どうも。ではあなたが大ぜいの人を救出して小キリスト(とお呼びしたい方)に預けたというコロニーについて、何かお話しねがえませんか。
あの方を小キリストとお呼びになられて結構です。そうお呼びするに相応しい方ですから。よろしい。ではお話いたしましょう。あのとき私に同行した一団のうちの2、3名とともに、私はあのコロニーをその後数回にわたって訪ねております。小キリスト殿にそう約束してあったのです。
そして彼が私の期待に背かずよくやってくれていることを知りました。まずその点をよく銘記しておかれたいのです。私は彼の仕事ぶりに100パーセント満足しております。が、実はそれがある意味で彼にとっての試金石となりました。最終的には私が期待していたとおりにならなかったからです。
そのコロニーを時おり訪問したり、私の名代として派遣した者から報告を聞いたりすることは私にとってきわめて興味ぶかいことです。最初に訪ねたとき市街はなかなか整然としておりました。しかし、その境涯で手に入れる材料ではやむを得ないのでしょうが、建物そのものが粗末で優美さに欠けておりました。完全性に欠けているようでした。
でも私は称賛と激励の言葉を述べ、さらに一層の計画の推進に邁進するように言い残して帰りました。そうやって何度か訪ねているうちに私は、小キリスト殿 – この呼び方では不便ですから名前を付けましょう。取りあえずバーナバス(※)と呼んでおきましょう – そのバーナバス殿が“指導性をもった”人物ではあっても“指揮命令を下す”タイプではないことが判ってきたのです。
彼の場合は愛によって説得するタイプでした。それはそれなりに影響力はありました。理解する者が増え、成長とともにその愛に応えることができるようになっていったからです。彼は叡智に富んだ人物ですが指揮統率力に欠けるのです。
そのうち彼自身もそのことに気づきはじめ、例の謙虚さから素直に、そして何の恥じらいもなく、それを認めることができました。そういう次第で、内面的に深い問題や霊的なことがらに関しては彼が指導し、今も指導に当たっておりますが、組織全体の管理の面では、少しずつでしたが、例のキャプテンに譲っていきました。
この男は実に強力な個性の持ち主で、いつの日か光明界においてもきらびやかな存在、強力な指導者となって、果敢に大きな仕事を成し遂げていくことになるでしょう。なかなか豪胆な人物です。
(※ Barnabas は聖書の使徒行伝4・36その他数か所でバルナバという呼び方で登場する人物と綴りが同じで“慰めの子”“訓戒”などの意味があるという。パウロの友人で使徒の1人に数えられており、断定はできないが、これが小キリストと同一人物であってもおかしくはない – 訳者)
彼は徐々に住民たちの閉ざされた記憶の層から地上での曽ての自分の仕事で使用した技能(うで)を思い出させ、それを今の仕事に使用させていきました。金細工人だった者、木細工人だった者、彫り師だった者、石工だった者、建築家だった者、画家だった者、音楽家だった者等、それぞれの仕事に従事させたのです。
私が訪ねる毎にその都市が秩序と外観に改善のあとが窺われ住民が一段と明るくなっておりました。そしてそれ以外にもう1つ別のことを発見しました。私があの鉱山から彼らを連れ出してその土地へ来た当初、そこに見られた明りはせいぜい“薄明り”といったところで、およそ“光”と言えるものではありませんでした。
ところが私が訪れる毎に一段と“光”と言えるものに近づいていき、可視性の度合がその市街全体に行きわたり、さらに広がって周辺の土地一帯にも微光が射しておりました。これは1つにはバーナバス殿の地道な精神的指導の結果です。と言うのも、各自に本来の正しい精神的方向づけをしたのは彼なのです。
つまり愛の力によって強烈な霊的憧憬を抱かせ、それが真剣味を帯びるにつれ慮てまず内部の光が増し、それが次第に外部へと放散されて、結果的にその土地の大気が明るさを増していったのです。
かくして2人はそれぞれの特質を発揮して忠実に協力し合いながら、これまで立派な仕事を為しとげ、これからもなお為しとげていくことでしょう。それは私にとって大いなるよろこびであると同時に、道を見失える魂を求めて私と共に暗黒の道なき道を分け入って苦を共にした霊団の者たちすべてにとってもよろこびでした」
– 周辺の土地にいる者は何も悪いことはしないのですか。
その問いに対してのみ答えれば「ノー」です。今はしなくなりました。しようとする様子もありません。が、心身とも弱り果て、とても敵と戦えない状態でそこへきた当初は大いに悩まされました。
その前に大事なことをお話しましょう。まずはじめに多分貴殿が不思議に思うであろうことをお話しましょう。貴殿はヨハネが(黙示録に)書いている12の部族から12000人ずつ(計144000人)の者が救われた話を憶えておられるであろう。
さよう、吾々が救出し人数もそれと同じだったのです。なぜ、どうしてそうなったのかと聞かれることでしょう。それは、あの仕事を計画された上層界の方々が目論(もくろ)まれたことです。吾々よりはるか高い世界のことなので、なぜかということは私にも分かりません。
ただ、これから先の永い進化の道程に関わることであることは確かです。いま貴殿は吾々の救出した数とヨハネの記録にある数字とが何か関係があるのだろうかと考えておられる。少なくとも“明瞭な”関係はありません。が、暗示的な意味はあります。
それは、あの集団の発達していく過程の中に具体化されていくことでしょう。そして、いずれ彼らは天界において新しい、そして自己充足の – どう言えば貴殿に分かっていただけようか – そういう領域を形成することでしょう。“新しい界層”ではありません。天界の中の“新しい領域”です。
さてご質問の件ですが、初めのうちは周辺の部族の者がやってきて、真面目に働いている者たちに侮辱的な言葉を吐き棄てては去っていくということを繰りかえすので大いに困りました。彼らは別の部族にも通報するので、そういう嫌がらせがひんぱんになりました。そのうち嫌がらせが当分なくなりました。
が、キャプテンはかつての用心深さと才覚を取り戻していて、周辺の丘や見張所に見張番を置いて警戒させました。そのうち分かったことは、周辺の部族が一団となって軍隊を組織し、あれやこれやと隊員たちの士気をあおるようなことをやりながら教練をしているということでした。こうした、言うなれば似非実在界ではよくあることなのです。
しかし、そうするうちにも吾々の救出した者たちは力と光輝とを増していき、いよいよ彼らが攻めてきた時にはどうにか撃退することができました。戦力と意志の総力をあげた長く烈しい戦いでしたが、ついに撃退しました。
それは彼らが – 奇妙で矛盾しているように聞こえるかも知れませんが – 真実の戦いとなったら絶対に負けないだけのものをすでに身につけていたからです。その最大の武器となったのは身体と大気から出る光輝でした。
今なお暗黒の闇の中に浸っている敵にとってはそれが大変な苦痛なのです。その光輝の届く範囲に入った敵はコロニー全体のオーラのもつ進歩性に富んだ性質が苦痛に感じられ、身を悶えて叫び声を上げるのでした。
その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難 – 否、不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします。
かくして敵はますます近づき難さを覚えるようになっていき、一方、コロニーの住民は敵が攻めてくる毎に危険に対する抵抗力が増していることを知るようになりました。敵が立ち往生する位置が次第に遠くになっていったのです。
こうして領域が広がってきたコロニーでは、小集団を周辺の土地に住まわせて農耕に従事させ、さらに植林と鉱石の採掘をさせました。鉱山の仕事の着手は最後になりました。かつての苦しい記憶からみんながしり込みしたからです。
しかし鋼鉄の必要性に迫られて、大胆で思い切りのいい男たちが掘りはじめました。やり始めてみると、奴隷として働くのと自由の身で働くのとではまったく違うことが分かり、そのうち志願者にこと欠かなくなりました。
このように、善性の増加が住居と市街全体の光輝を増していきます。それが力となるのです。なぜなら光輝の増加は霊格の向上のしるしであり、それは霊的な力が増加したことを意味します。従って敵も彼らに対してまったく無力となっていくのです。
どうぞ貴殿もこの点によく注目してください。と言うのも、地上の巡礼の旅において敵に囲まれている者にとっても、この事実は有難いことに違いないからです。その敵は地上の人間であっても霊であっても、いいですか、バーナバス殿のコロニーの周辺にいる敵と少しも変わらないのです。コロニーが光明界へ近づくにつれて敵は遠く離れていき、下層の暗黒界に取り残されていくのです。
貴殿へ私より愛と祝福を。
4 バーナバスの民へ支援の祈りを
1918年2月1日 金曜日
カスリーンが貴殿に伝えたいことがあるようです。吾々は彼女の話が終わったあとにしましょう。
– ほう、カスリーンが?
そうです。私です。最近ザブディエル霊団との接触があって、あなたへの伝言を授かりましたので、そのことでお話したかったのです。霊団の方たちから何も心配することはないからそう伝えてほしいとのことです。
私たちが奥さんに通信を送っているときに霊団の方たちが近くに来てメッセージを伝えたことがありましたが、あなたはそれをザブディエル様ご自身が送られたのか、それとも霊団の1人がザブディエル様の名前で送ってきたのかと思っておられますが、あのときはザブディエル様が直々(じきじき)に – といっても霊団の方が付き添っておられましたが – お伝えになりました。
霊団のメンバーの1人ではありません。ご自身です。ザブディエル様はそのことを知ってほしく思っておられるのです。
– 2、3日前の夜に出られた方が私の妻に、霊団の方たちはみなザブディエルというネームを付けているのを見たとおっしゃってましたが、それはベルトにでも書かれていたのでしょうか。
そうです。はい。
– ザブディエル殿が霊団を率いておられることをその時まで知りませんでした。それで私はあの時に出られた方をザブディエル殿と勘違いしたのではないかと思ったわけです。と言うのは、霊はよく所属する霊団の指揮者の名前を使用することがあると聞いていましたので…
よくあることです。ちゃんとした規律のもとに行われる慣習です。ですが、あの時はザブディエル様ご自身が出られて話されたのです。
– ありがとう、カスリーン。おっしゃりたいことはそれだけですか。
そうです。どうぞリーダーさんへ質問なさってください。あなたが質問を用意されていることをご存知で、さきほどから待っておられます。
– 分かりました。ではリーダーさん、まず最初に前回の話題に戻って次のことをお聞きしたいのです。救出された144000人によるコロニーがいずれ天界で新しい領域を形成するとおっしゃいましたが、そうなった時にあなたはどんな役目をなさるのでしょうか。何らかの形で関与なさるであろうという感じを抱いているのですが、いかがですか?
あのようにきちんとした数の者が選ばれて新しい領域を形成することになったことには意味があります。実は私自身はバーナバス殿にあずけたあと2度目に訪ねた時にはじめてそれを知ったのです。それ以来私も、いま貴殿が察しておられることが有り得ないことでもないと感じております。
まだ具体的なことは何も聞かされておりません。まだ貴殿のおっしゃるような時期には至っておりませんので…今あの都市の者たちが目指している光明に首尾よく融合できるようになるには、まだまだ準備が要ります。その上、彼らの進歩はためらいながらの遅々としたものなのです。
そうでないと丹念な注意と計画のもとに選ばれたあの人数の意味が崩れる恐れがあるのです。というのは、万一進歩性の高い者から次々と独自の歩調で進歩していったら、全体の団結に分裂が生じ、みんなで申し合わせたことが無に帰するからです。
今も申したとおり、私はあのコロニーについて何の指示も受けておりませんし、今後いかなるコースを辿るかも聞かされておりません。現在の進歩を見守るだけで満足し、そこによろこびを見出しているところです。それ以外のことは吾々を指揮してくださっている神庁の方々の決定に俟(ま)つのみです。
しかし次のことだけは言えるかも知れません。まえに吾々霊団の数のことをお話しました。15名でした。あのとき私は7の倍数にリーダーとしての私という言い方をしました。それは6人ずつ2つの班になっていて各班に1人ずつ班長を加え、さらに全体を統率する者として私を加えれば、これで15名となります。
そういう見方でこの新しいコロニーを見ると興味がありそうです。実はそのコロニーの発端、少なくとも初期の発展には貴殿も寄与しておられます。その意味でも、その進歩ぶりに興味をもたれるに相違ありません。
– この私が寄与するなんて考えられませんが…
でも、立派に寄与しておられます。貴殿はあの部族の様子がこちらから地上へ届けられた、その媒体です。心ある人々はそれを読まれて彼らの発展を祈り、善意の思いを寄せ、吾々援助者のことも思ってくださることでしょう。それが彼らの発展に寄与することになるのです。
– 私はこれまで彼らのために祈ることなど思ってもみませんでした。
それは貴殿が吾々の指示で書いたことの現実味を理解するだけの時間的余裕がなかったからです。理解がいけば祈る気持になられるでしょう。そうでなかったら私は貴殿を見損(みそこな)ったことになります…いや、ぜひ祈るようにお願いします。
– きっと祈ります。
そうです。祈るのです。そして貴殿がこちらへお出でになればご自分の目でその部族をご覧になり、貴殿のそうした祈りが彼らの力となっていることを知って、うれしく思われることでしょう。彼らの進歩は遅々としていますから、貴殿がお出でになってからでも十分に間に合います(※)。
ですから、彼らのために祈るのです。こちらでお会いになったとき貴殿に愛と感謝を捧げる人が少なくないはずです。それは気の毒な人への同情と同じです。彼らが今まさにその状態にあるのです。“バーナバスの民”と呼んであげてください。そう心の中で念じてやってください。
(※ちなみにオーエン氏は1931年に他界している – 訳者)
– あなたの民と考えても良いのではないですか。
それはいけません。私の民ではありません。貴殿は先走りしすぎます。いつかは私の民となるかも知れませんし、私もそう望んでおります。というのも、あの者たちは私にとって我が子、可愛い我が子も同然だからです。言わば死者も同然の者の中から救い出した、いたいけない子供なのです。
私にとって何を意味するかは貴殿の胸の中での想像におまかせします。どうカバーナバス殿とキャプテンと同様に彼らのためにも祈り、そして愛念を送ってやっていただきたい。彼らはみな貴殿の同胞でもあるのです。そして吾々を通じて実質的なつながりをもっているのです。他の人々にも祈ってくださるようお願いしてください。
– 私がうっかり見落していたことをお教えいただいて、お礼を申し上げます。
それに、吾々の話に出た他の人たちのためにも祈ってやっていただきたいのです。彼らも向上のための祈りと支援を大いに必要としておりますお – 話したあの暗黒の都市のかつてのボスとその配下の者たちのことです。
地上の人でも、地獄にいる者のためにしてあげられることがあることを理解してくだされば、地上にまで及んでいる彼らによる禍(わざわい)を減らすことにもなるのです。
つまり、その気の毒な霊たちを少しでも光明へ近づけ、その苦しみを和らげてやることによって、地上へ大挙して押し寄せては霊的に同質の人間、ひいては人類全体の邪悪性を煽(あお)っている霊たちの数とその悪念を減らすことにもなるのです。
人間は上へ目をやって光明を求めて努力することはもとより結構なことです。が、下へ目を向けて、苦悶の淵にあえいでいる霊がその淵から脱け出るように手助けすることはそれ以上に徳のあることです。思い出していただきたい。その昔、主みずからがそれを実践なさったのです。そして今日なお主の配下の者たちがなさっていることなのです。
神は、その昔、主に託して地上へもたらした恩寵を今なおふんだんに授けてくださっています。願わくは貴殿の霊と行為において、神が貴殿をその恩寵をもたらした主と1つになさしめ給わんことを祈るものです。
父の恩寵です。それをその子イエスに託して地上という暗黒の世界の人間にもたらしたのです。そして今なお途絶えることなくもたらしてくださっているのです。
このことを篤と銘記していただきたい。そうすれば貴殿が授かったように他の人々にも授けずにはいられなくなることでしょう。そしてそれが貴殿の魂の安らぎとよろこびとを増すことにもなるのです。
– 私の母からの通信に“アーノル”という名前の方が出てきましたが…
地上には天上の名前をうまく表現する文字の配列も語句もありません。ご母堂が紹介されたのはこの私です。どちらでもお好きなようにお呼びください。いずれにせよ、これからはその名前でいきましょう。その名前でよろしいか – いや、貴殿に“感心”していただけるであろうか?
– これは1本やられました。結構です。そうお呼びすることにしましょう。
ぜひそうしていただきましょう。何しろ今までの名前では貴殿に耐え難い思いをさせ、あまり好意をもっていただけなかったのですから。ではお寝(やす)みを申し上げましょう。
アーネル†
原著者注 – アーネル霊が署名したのはこの日が最初で、それ以後はかならず署名し、さらに十字の記号を付した。(見慣れない記号であるが、その象徴的意味を3章の終りのところで説明している – 訳者)
2章 聖なる山の大聖堂
1 起源
1918年2月5日 火曜日
貴殿はかの“聖なる山の大聖堂”の起源と構造について語ってほしがっておられる。それは第10界と第11界の中間に位置している。という事は両方の界から見る事ができるという事であり、どちらにも属していないという事です。
その起源はこうです。ずいぶん昔の事ですが、試練の末に首尾よく第10界から第11界へと向上していく者が大勢いた時代がありました。しかし第10界は下層界での修行の旅の中で身につけた霊力と霊性の全属性が仕上げられ、まとめ上げられる界であると言えない事もありません。
つまりここで雄大な旅程の1段階を終え、次からはそれまでとは次元の異なる進化と発達の段階が始まる、その大きな節目に当たる界なのです。
そうしたスピリットが向上の過程において果たしてきた仕事はおおむね守護と強化の目的を帯びていた。たぶん貴殿は守護霊と呼びたいであろう。その任務は確かに発達を促進するし、向上するにつれてますます崇高性を帯びていきます。
が、地上ならびにその後に続く下層界において見守られ援助を受けている者との関係においては、様々な様相を呈していても、本質においては同じ次元に属する事です。しかしこの第11界に突入するスピリットには別の次元の仕事が待ち受けております。
いよいよ“創造性”を帯びたものとなっていきます。同じく宇宙の大いなる神秘を学ぶにしても現象として顕現しているところの“動”のエネルギーではなく、“父の館”に住める大天使のもとに近づくにつれて見出されるところの潜在的創造エネルギーについて学ぶのです。
そうする事によって彼らはそれまで身につけた霊性に加えて、より高い霊性を身につけ1界また1界と上の界へ融合していき“創造”の神秘の巨大さを崇高なる美しさの中で明かされる境涯への突入に備えるのです。
それが聖堂の使用目的の1つであり、実はそれが最大の目的でもあります。その他はここで述べるほどのものではありません。それよりは貴殿は聖堂の建物の平面図と立面図を描写してほしがっておられるようです。
吾々もそのつもりでおりますが、それに先立ってぜひ心しておいて頂きたい事があります。それは今述べた使用目的の叙述においてもそうなのですが、その様相についての吾々の叙述は不完全を免れないという事です。
それというのも聖堂は物質ではなく霊質によって出来上がっているのみならず、その霊的大気と環境が昇華作用によって“強烈さを”測り知れないほど増しております。それを力学ないしエネルギーの潜在力の用語に置き換えて何と呼ぶべきか – 吾々はいい加減な当てずっぽうは控えたい。
何となれば地上の言語ではとても当を得た表現は不可能だからです。聖堂建立の目的を一言にして言えば、様々な異質の様相をもつ2つの界の融和です。
つまり第10界を去って第11界へと突入する段階に至ったスピリットたちがここに集結し、かなりの期間滞在しながら折ある毎に第10界ないしそれ以下の界へ降りては、それまでと同じようにその界の住民の援助と守護と指導と啓発に従事する。
しかしそれと同時に上層界のスピリットに付き添って第11界へと足を踏み入れる事も始める。初めのうちはあまり深く入りません。またあまり長く滞在しません。霊力を強化し、その界の精妙なバイブレーションに慣れるにつれて少しずつ奥へ踏み入り、かつ又、滞在期間を長くしていきます。
戻ってくるとその聖堂で休息をとります。と言っても多分その間に下層界への任務を言いつけられて降りていく事になろう。現に貴殿はそうした任務の1つとして私が霊団と共に下層界、それも地獄とも言うべき境涯まで降りていった話を受け取っておられる。あの任務は吾々にとって実に厳しい試練でした。
何しろ吾々が足を踏み入れた界は1つや2つではなく、地上からこの界に至るまでの全域に亘った上に、さらに地上より低い界までも踏み込んだのです。忍耐力と環境への適応能力と、霊団全体が身体的ならびに精神的に一丸となって吾々の通常の生活環境と気候とは全く懸け離れた条件下での問題を処理していく能力をこうまで厳しくテストされた事は、それなりの意図がありました。
聖堂の居住者であり、第11界への突入の段階を迎えた私にとってはそれが最終的な試練であり、私に付き添った霊団のうち12名にとっては第9界より第10界への向上のための試練であり、残りの2名にとっては第10界よりこの聖堂へ入ってそこの居住者となるための試練でした。また私が例の一団を暗黒界から救出し光明界へ向けて導く任務を与えられた事には特別の意味があった事に気づかれるでしょう。
いよいよ創造的能力が威力を増し鍛えられていく上層界へ召される前の、私にとっての最終的な試練だったのです。その時はそれが理解できず、今なお本当に理解しているとは言えませんが、こうした中にも私の最終的な啓発はすでに始まっているらしく、かつてあれほどの苦界に身を沈めていたのが今はどうにか寛ぎを見出し、少なくとも約束した道に励む者にとって幸せとは何かを知る事ができるまでになったあの者達を待受けている栄光が、私にも少しばかり見通す事ができるように思えるのです。
– ではあなたはすでに第10界から第11界へ入られた訳ですか。
まだ恒久的に第11界の住民になった訳ではありません。今の所まだ聖堂の住民の1人です。ですが次第に第11界の環境条件に調和していきつつあります。
そうした生活を構成する要素は数限りなく、しかもそのうちどれ1つを取ってみても極めて重要な事ばかりなので、そのうちの1つでも見逃さずにお伝えしたいと思う一方、その1000分の1を語るにしても貴殿にはその時間も用語もないという情況なのです。
聖堂での滞在はまず必ずと言ってよいほど長期間に及びます。私の場合は格別に永くなる事でしょう。その理由はこうです。私には監督し援助し向上の道から外(そ)れないようにしてやらねばならない大事な預かりものがあります。バーナバスの民の事です。
今でも私は時おり彼らの目に映じる身体をまとって自ら訪ねなければなりません。ですから、いつ何時でもその状態になれるよう体調を整えておかねばなりません。それも現在の界層から1つや2つ下がった境涯ならまだしも、遥か下界の言うなれば宇宙の暗い果てに降りていかねばならないのです。
従って今の私には2重の仕事がある訳です。この聖堂のある台地へ立って一方の手は天上へ向けて“何ものかを得んとし”もう一方の手は下界へ下ろして“何ものかを与えん”としている。そうです。そういう訳です。どうやら分って頂けたようですので、これ以上駄弁は要らないですね。私の言わんとするところはお分りでしょう。
– ザブディエル霊は第11界へ入られたのでしたね。
いかにも。重要な任務は11界へ移った訳です。ですが時おり聖堂へ立寄られ、そこで曽ての身体的条件をまとわれて下界へ降りていかれる。戻られるとやはり聖堂を通過して本来の任務地へと向かわれる。
さて、聖堂の様子や環境についてはこの度はこれまでとしよう。引き続き聖堂の内部を紹介する事にしようと思います。が、今回はこれにて終りとします。貴殿は力を使い果たしておられる。
– 最後に一言お名前の事でお聞かせ下さい。“リーダー”というのが唯一私が存じ上げてるお名前ですが、これが私はどうも感心しません。
これは恐れ入りました。しかし地上の聖賢がいかなる名言を吐こうと(※)名前というものにはある種の力があるものです。私は聖堂より上の界においては別の名で知られておりますが、下層界では“アーネル”の名で呼ばれております。宜しかったら貴殿もそうお呼び下さって結構です。
(※どの名言をさすのかは心当たりがないが、私の知る限りではシェークスピアの「ロメオとジュリエット」にこんな1節がある。
いったい名前に何の意味があるというのか
バラと呼んでいるあの花、
あれをどう呼びかえようと
あの美しさに何の変りもあるまいに – 訳者)
– 私の母からの通信に“アーノル”という名前の方が出てきましたが…
地上には天上の名前をうまく表現する文字の配列も語句もありません。ご母堂が紹介されたのはこの私です。どちらでもお好きなようにお呼び下さい。いずれにせよこれからはその名前でいきましょう。その名前で宜しいか – いや貴殿に“感心”して頂けるであろうか?
– これは1本やられました。結構です。そうお呼びする事にしましょう。
ぜひそうして頂きましょう。何しろ今までの名前では貴殿に耐え難い思いをさせ、あまり好意をもって頂けなかったのですから。ではお寝(やす)みを申し上げましょう。アーネル†
原著者注 – アーネル霊が署名したのはこの日が最初で、それ以降は必ず署名し、さらに十字の記号を付した。(見慣れない記号であるが、その象徴的意味を3章のところで説明している – 訳者)
2 構造
1918年2月8日 金曜日
“聖なる山の大聖堂”の使用目的についてはすでに述べました。こんどはその構造そのものについて少しばかり述べてみましょう。と言っても、詳しいことは説明しません。不可能だからです
。
広大な草原に切り立った崖が聳えております。その頂上の台地に聖堂が建っております。草原から目に入る部分は小さな翼廊だけで、本館は見えません。何千何万もの大群集が集結して見上げた時にまず目に入るのは、こちら側に面した翼廊のポーチとその側壁のアーチ型の窓である。
高々と聳えるその位置、雄大な規模、均整のとれた建築様式は、その位置から見上げただけでも実に堂々としていて、且つまた美しいものです。そのポーチから入り、それを通り抜けて中へ入ると、吾々は右へ折れ、天蓋はあっても側壁のない柱廊(コロネード)を通って進みます。
そのコロネードは、通路と交叉する幾つかの箇所を除いては、本館全体をかなりの距離を置いて取り囲むように走っており、吾々の位置から左手へ行くと中央聖堂へ至り、右手へ行くと別のいくつかの翼廊へ至る。その翼廊の1つひとつにポーチが付いている。
しかしそれは全部第11界の方角へ向いており、吾々が通った翼廊だけが第10界へ向いている。翼廊は全部で11個あり、その1つひとつに特殊な使用目的がある。その“10”という数字は下界の10の界層とは関係ありません。それから上の10の界層と関連しているのです。
– その“10”という数字には第10界の方を向いているポーチも含まれているのですか。
いえ、あれはあれのみの独立した存在で、関係するのは下界のことのみです。10個の翼廊は第11界およびその後に続く10の界層と関連しております。それぞれの翼廊に大きなホールがあります。翼廊は1つひとつ形が違っており、2つとして同じものはありません。
貴殿には理解しかねることかも知れませんが、各翼廊はそれと関連した界を構成する要素の特質を帯びており、常にその界と連絡が取れております。上層界の情報はぜんぶそこの翼廊に集められ、第11界の言語に翻訳された上で、その場で処理されるか、必要とあれば関連した地域へ発信される。
また、聖堂内の住民が上層界へ赴いている間もこの翼廊と間断なく連絡が維持され、1界又1界と上昇していくのを追いながら絶えず連絡を取っている。
吾々はコロネードと交叉している通路の1つを左へ折れます。その通路は中庭を通り、庭園を過(よぎ)り、そして森を突き抜けています。いずれも美しく手入れされ、噴水あり、彫像あり、池あり、色とりどりの玉じゃりを敷きつめた小道、あずまや、寺院 – その幾つかは上層界の寺院の複製ですが実物ほど雄大ではない – があります。
そしてついに(複数の建物から成る)本館へたどり着きました。本館にも10個のポーチがついています。ただしここのポーチは通路とは連絡されておらず1つひとつが2本の通路から等間隔の位置にあり、通路はすべて本館と直接つながっております。
つまりポーチは通路にはさまれた地域に立っており、各地域がかなりの広さをもっております。地上ならさしずめ公園(パーク)と呼ぶところでしょう。何しろ聖堂全体は途方もなく広く、各地域に常時何万を数える住民が住んでいるのです。それほど一つひとつの地域は広く、そこに家屋と庭園が点在しているのです。
さて吾々は第12界の翼廊と第13界の翼廊 – こういう呼び方をしているわけではありませんが、貴殿の頭の混乱を避けるために便宜上そう呼ぶまでのことです – の中間に位置するポーチの前まで来て足を止めました。その一帯に広大なテラスが広がっています。
ポーチとつながっていて、美しい土地を次第に上昇しながら、はるか地平線の彼方に見える山々の方へ向けて広がっている。実はそこから本来の第11界が始まります。大聖堂は第11界の一ばん端に位置していることになります。つまりポーチからいきなりテラスとなり、それがその地域全体に広がっているわけです。
目も眩(くら)まんばかりの琥珀色の石段があってそれを登っていくのですが、足もとを照らす光が外の光と融合し、それが登りゆく人の霊的性格によって輝きを変えます。
ここで銘記していただきたいのは、貴殿らが死物ないし無生物と呼んでいるものも、ここでは他の存在に対して反応を示すのです。石は緑草や木々に影響を及ぼすと同時に、自分も影響を受けます。
木々のすぐそばに人間が立つと、お互いの性質によってさまざまな影響を及ぼし合います。家屋や建造物のすべてについて同じことが言えます。
ポーチそのものがまた実に美しいのです。形はまるくもなく角ばってもおらず、ちょっと人間には想像できない形をしております。私がもしこれを“形というよりは芸術的情感”とでも表現したら、貴殿はそれを比喩として受け取ることでしょう。
しかしその情感に地上のいかなる建造物よりもしっかりとした永続性が具わっているのです。その成分を真珠層のようだと言ってもよろしい。液晶ガラスのようであると言ってもよろしい。そんなものと思っていただけば結構です。
さて、中へ入ると大きな楕円状の空間があります。天井は植物と花をあしらった格子細工がほどこしてあり、それらの植物はポーチの外側に根をはっているものと内側に根を下ろしているものとがあります。しかしこんな話はやめて先へ進みましょう。吾々はついに聖堂の大ホールへと入っていくことになります。
– 暗黒界からお帰りになってすぐにキリストをご覧になったホールですか。
同じホールです。地上で屋根と呼んでいるのと同じ意味での屋根は付いておりません。といって青空天井でもありません。屋根のあるべきところに堂々たるアーチ形をした天蓋が高く聳えており、色とりどりの液晶の柱によって支えられております。
しかし天蓋のへりは流動する線状を呈し、光の固まりのようなものとつながっております。と言ってもその固まりは普段そこに参集する者にも貫通できない性質をしております。しかも、いっときとして同じ色を呈しておらず、下のホールで催される儀式の内容によってさまざまな変化をしております。
そこの祭壇、それとその背後にある“謁見の間”についてはすでに述べました。大ホールに隣接して、そうした“間”がまわりに幾つもあります。その1つが“式服着用の間”です。いかにも地上的感じがするかも知れませんが、そこで行われるのは単なるコートやマントの着更えだけでなく、実に重大な儀式が行われることを知っていただきたいと思います。それについて述べてみましょう。
その大ホールにおいて、時おり、はるか上層界から送られてくる電気性を帯びた霊力の充満する中で厳かな儀式が行われることがあります。その際、その霊力を帯びる第11界を最低界とする下層界の者は、各々その霊力によって傷つくことなく吾が身にとって益となるように身仕度を整える必要があります。
そこで“式服着用の間”において着更えの作業が真剣に行われることになります。その行事は神聖さと霊力とを具えた専門の霊が立ち会い、式服が儀式に要求される色合いと生地と様式を整えるように、こまごまと指導します。
そのすべてに、着用する当人の霊的本性が影響します。つまり当人の内的資質が式服の外観に出てくるわけです。そうなってはじめて大ホールへの入場を許され、やがて行われる儀式に参列することになるのです。
その儀式はある一団が使命を帯びて他の界層へ赴くに際しての“送の儀”であることもありましょう。その場合は参列した者が霊力を1つにまとめて、送られる者へ与えることが目的となります。従ってすべてが完璧な融合・調和の中で行う必要があります。
そこで霊格の劣る者、ないしは新参の者は、その目的で着用の間において周到な調整をしておかねばなりません。さらには、大ホールでの“顕現”が近づいていることもありましょう。キリストと同等の神格を具えた方かも知れませんし、大天使のお1人かも知れませんし、もしかしたらキリストご自身かも知れません。そんな時は式服の着用も入念に行われます。
さもないと益を受けるどころか、反対に害をこうむることにもなりかねません。もっとも、私が聞いたかぎりでは、1度もそのような例はありません。しかし理屈の上では十分に有りうることなのです。
しかし、この界へ来たばかりの霊が、強烈な霊力を具えた神霊の顕現ないし何らかの強烈な影響力が充満しているホールに近づくと、次第に衰弱を覚えるということは往々にしてあることです。
そこでその人はいったん引き返すことになりますが、それは実は霊力が試されているのです。その体験に基づいて自分にいかなる鍛錬が欠けているかを認識することになります。それはそれで恩恵を受けたことになります。
この大聖堂をさきに述べた山の頂(いただき)から眺めれば、おびただしい数の塔とアーチ道とドームと樹木と風致地区(家屋を建ててはいけない土地)を具えた1つの都市のように見えることでしょう。その中央の宝石からあふれ出る光輝は遠く彼方まで届き、言うに言われぬ美しさです。
宝石と言ったのは、ドームあるいは尖塔の1つひとつが宝石のような造形をしており、それが天上的な光と言葉となって光り輝いているのです。言葉と言ったのは、1個の建物、1個の色彩、または一群の色彩が、そこの住民には1個の“意味”として読み取れるからです。
また住民が柱廊玄関、バルコニー、屋上、あるいは公園を往き来する姿もまた実に美しいものです。あたりの美観や壮観とほどよく調和し、その輝きと同時に安らぎをも増しています。
と言うのも、住民と聖堂とは完全に一体関係にある – 言いかえれば、以前に述べたように一種の“呼応関係”にありますから、そこには不調和の要素はいささかも存在せず、配置具合もすべて完璧な調和を保っております。
もしもこの聖堂都市を一語にして命名するとしたら、私は“調和の王国” Kingdom of Harmony とでも呼びたいということです。そこにおいて音と色と形、それに住民の気質とが和合の極致を見せているからです。
アーネル†
3章 霊の親族(アフィニティ)
(アフィニティという用語はいわゆる類魂(グループソウル)よりも親和性の強い間柄に使用される – 訳者)
1 2人の天使
1918年2月11日月曜日
では今夜もまた貴殿の精神をお借りして、前回私が“歓送の儀”ならびに“顕現”と呼んだところの行事を叙述してみたいと思います。このたびの行事にはその両方がいっしょに取り行われたのです。
今しも中央大ホールには大聖堂の総監からの召集で第11界の各地から晴れやかな面持の群集が列をなして集まっていました。が、面持は晴れやかでも、全体にどこか緊張感が漂っています。
というのも、彼らにはこれより厳粛な儀式が行われることが分かっており、この機会に自分の進歩を促進させるものを出来るかぎり摂取しておこうという心構えで来ているのです。
その儀式には神秘的かつサクラメント的な性格があり、吾々はその意味を理解し、意図されている恩恵のすべてを身に受けるべく、上層界より届けられる高き波長に合わせる修行を存分に積んでいるのです。
全員が集合したとき、前回申し上げた天井の雲状のものを見上げたところ、その色彩が変化しつつあるのが分かりました。私がそのホールへ入ったときは青い筋の入った黄金色をしていました。それが今は次々と入場する群集が携えてくる色調を吸収し融合していき、数が増えるにつれて色彩が変化し、そしてついに全員が集結したときは濃い深紅のビロードの色調となっていました。
地上の色彩の用語で説明すれば以上が精一杯です。実際にはその色彩の“表情”に上層界からの高度なエネルギーの影響が加わっており、すでに何かの顕現が行われる準備ができていることを窺わせておりました。
そう見ているうちに、その雲状のものからあたかも蒸溜されたエッセンスのようなものが霧状となって降下し、甘美な香気と囁きの音楽とともに個々の列席者にふりそそぎ、心に歓喜と安らぎの高まりを引きおこし、やがて吾々全員が完全なる融和状態へと導かれていきました。
その状態はあたかも細胞のすべてが一体となって1個の人体を構成しているごとくに、出席者全員がもはや個人としてでなく全体として1つの存在となっているのでした。それほどまで愛と目的とが親和性において1つになり切っていたのです。
やがて謁見の間へ通じる道路の前に1個の雲状の固まりが現れ、凝縮しつつ形体を整えはじめました。さて私はこれより展開することを精一杯描写するつもりですが、貴殿によくよく留意しておいていただきたいのは、かりに貴殿がその通りを私と同じ界の他の者に語って聞かせたら、その人は確かにそういう現象があったことは認めても、言い落していること、用語の不適切さ等のために、実際に起きたものとは違うことを指摘するであろうということです。
その雲状の固まりは表面は緑色で、内側に琥珀色の渦巻状の筋が入っており、それに青色の天蓋がかぶさっておりました。それが休みなくうごめいており、やがてどっしりとしたパビリオ濃い青紫色の天井と半透明の緑と琥珀色の柱をした館(やかた)の姿を見せました。
半円形をした周囲に全部で7本の柱が並び、さらに正面玄関の両わきに2本見えます。この2本は全体が濃紫色で、白の縁どりのある深紅の渦巻状の帯が巻いています。
パビリオン全体がその創造に携わる神霊の意念によって息づき、その構造から得も言われねメロディの囁きが伝わってくるのが感じ取れました – 聞くというよりは感じ取ったのです。こちらでは貴殿らのように聞くよりも感じ取る方がいっそう実感があるのです。
やがて天蓋の下、7七本の柱のちょうど中央にあたる位置に1台の4輪馬車が出現しました。後部をこちらへ向けております。5頭の美しい馬が頭を上げ、その厳かなドラマに一役買っていることをさも喜ぶかのような仕草をするのが見えます。
肌はほのかな黄金色に輝き、たてがみと尾はそれより濃い黄金色をしております。見るからに美しく、胴を飾る糯子(サテン)の掛けものもパビリオンの色彩を反映してうつすらと輝いております。
続いてその馬車の中に現れたのは美しい若い女性の姿でした。吾々の方を向いておられ、私の目にはその美しさのすべてを見ることができました。見れば見るほど、ただただ美しいの一語に尽きます。全身が地上に存在しない色合いをしております。琥珀色といってもよろしい。
が、同じ琥珀でもパビリオンの柱のそれとは感じが異なります。もっと光輝が強く、もっと透明ですが、柱には見られない実在感と永続性を具えております。上腕部には紫の金属でできた腕輪(バンド)をつけ、手首のところにルビーの金属の輪が見えます。
頭部には白と黄色の筋の入った真っ赤な小さい帽子をつけておられ、髪はあたかも沈みかかった太陽の光を受けているような、オレンジ色の光沢をした茶褐色をしております。目は濃紫に青の混った色をしておられます。
さて、そうしたお姿に見入っているうちに突如として私は天上界からお出ましになられたこの女神が…いけません。そのかたが吾々にとっていかなる意味をもつのか、本来の界においていかなるお立場にあるのかをお伝えしたいのですが、それを適確に言い表わす用語が思い当たりません。しばらく間を置かせてください。それからにしましょう。
では、こう綴ってください。母なる女王。処女性。一民族を懐に抱きつつ、進歩と善へ向けての力として、その民族の存在目的の成就へと導く守護神。
一方において惰眠をむさぼり進歩性を失える民族に啓示をもらしてカツを入れ、騒乱の危険を冒してでも活動へとかきたて、他において、永遠の時がこのいっときに集約され、すべてが安寧の尊厳の中に融和し吸収され尽したかの感覚をすべての者に降り注ぐ。
すべてを曝しても恥じることなく、美への誘惑がことごとく聖(きよ)さと哀れみと愛へ向かうところの、怖れることを知らぬ心と純粋性。以上のものをひとまとめにして、これを“女王”という一語で表してみてください。その時のお姿から吾々が得たものをお伝えするにはそれが精一杯です。
さて、その女王が後ろを振り向いて一ばん近い2頭の馬に軽く手を触れられると、馬車はくるりと向きを変えて吾々の方へ向きました。するとそこへホールの反対側の2階の回廊から1人の若者が降りてきて、中央の通路を通って馬車の近くで歩を止められました。
そこで女王がにっこりと笑みを送ると、若者は後部から馬車に乗り、女王のそばに立ちました。そのお2人が立ち並んでいる時の愛と聖なる憧憬の中の、得も言われぬ睦(むつ)み合い互いが己れの美を与え合って互いの麗しさを増しております。
– その若者の様子を述べていただけませんか。
若者は右に立たれる女王をそのまま男性としたようなものです。両者は互いに補足し合うもの、言わば“対”の存在です。ただし1つだけ異なるところがありました。身にまとわれた衣装がわずかながら女王のそれより赤味がかっていたことです。それ以外にお2人を見分けるものはとくにありませんでした。
性別も身体上ではなく霊性に表われているだけでした。にもかかわらず、一方はあくまで女性であり、他方はあくまで男性でした。ですが、お2人には役割があります。
お2人は、これより、ある雄大な構想をもつ画期的な計画を推進する大役を仰せつかった一団の指揮者として参られたのです。その計画の推進には卓越した才能と多大な力とを要するために、一団はそれまでに大聖堂を中心とした聖域において準備を整えてきたのでした。その計画というのはこうです。
現在ある天体上の生命がようやく“知性”が芽生えはじめる進化の階梯に到達していて、その生命を動物的段階からヒトの段階へと引き上げ、人類としての種を確立させるためにその天体へ赴くというものです。
人類といっても、現在の地上人類のタイプと同一のものとはならないでしょうが、大きく異なるものでもなく、本質においては同種です。一団はその人類のこの画期的段階における進化を指導する仕事を引き受けることになっているわけです。
計画のすべてを受けもつのではありません。また今ただちに引き受けるのではありません。今回は彼らの前任者としてその天体を現在の段階にまで導いてきた“創造の天使たち”と初めて面会することになっております。彼らは時おり休息と指示を仰ぎに帰ってきます。
その間、一部の者が残留して仕事を続行し、休息を得た者は再びその天体へ赴いて、残留組と交替し、そうやって徐々に仕事を広げていきつつありますが、他方では(今回の一団のように)この界または他の界において、次の新たな進化の段階を迎える時に備えて、さらに多くの天使からなる霊団を組織して鍛錬を積んでいるのです。
彼らはその天体が天界の虚空を旅しながら首尾よくモヤの状態から組織体へ、単なる組織体から生ける生命体へ、そして単なる生命体から知性を具えた存在へ – これを地上に擬(なぞら)えて言えば、動物的段階から人間的存在を経て神格を具えた存在へと進化していくのを陰から援助・促進するのです。
間もなく吾々の見送りを受ける一団は、これから最初の試練を受けることになります。といって、いきなり創造に携わるのではなく – それはずっと先の話です – 創造的大業の末端ともいうべき作業、すなわち、すでに創造された生命を別の形体へと発展させる仕事を割り当てられます。
それも、原理的には創造性を帯びておりますが、まったく新しい根源的な創造ではなく、低級な創造物の分野にかかわる仕事です。
ここで注目していただきたいのは、お2人が出現なさった時、順序としてまず女性の方が馬車の中に姿をお見せになり、それから男性が姿を見せたことです。この王国においては女性原理が優位を占めているからです。が、お2人は並んでお立ちになり、肩を並べて歩まれます。そこに謎が秘められているのです。
つまり一方が主であり他方が従であるはずのお2人がなぜ等位の形で一体となることができるかということです。現実にそうなっているのです。しかし私からはこれ以上話さないことにします。あなたご自身でお考えいただくことにいたしましょう。理屈でなしに、真実性を“直感”していただけると思うのです。(章末にその謎を解くカギが出てくる – 訳者)
いよいよその厳粛なる使命のために選ばれた霊団 – 遠く深い暗黒の虚空の最果てへ赴く霊団がやってまいりました。彼らが赴くところは霊質に代って物質が支配する世界です。
ああ、光明の天界より果てしなく濃密な暗黒の世界へ – 環境はもとより、吾々と同じ根源を有する生命の火花を宿す身体も物質でできている奈落の底へと一気に下って行くことが吾々にとっていかなることを意味するか、貴殿にはまず推し測ることはできないであろう。
かつて私も霊団を従えて同じような境涯へ赴いたのです。不思議といえば不思議、その私と霊団が今こうして物的身体に閉じ込められた貴殿に語りかけているとは。もっとも、吾々の目には貴殿の霊的身体しか映じません。
それに向けて語りかけているのです。が、可憐なるカスリーン嬢が彼女特有の不思議な魔力を駆使して吾々よりさらに踏み込み、直接貴殿の物的脳髄と接触してくれております。
さて今回はこれ以上述べることはありません。質問が幾つかおありのようですね。私にはそれが見て取れます。お書きになってください。次の機会にお答えしましょう。
アーネル†
訳者注 – ここには記載されていないが、実際にはこのあと質問事項を筒条書きにしたことが4日後の次の通信の冒頭から窺われる。
2 双子の霊
1918年2月15日 金曜日
– 前回お話しくださった儀式のことは、あれでおしまいですか。まだお話しくださることがあるのでしたら、私の質問に対する答えはあとまわしにしてくださっても結構です。そちらのご都合に合わせます。
どちらでも結構ですが、(前回のおしまいのところで)お書き留めになった質問の中に今ここでお答えしておいた方がよいものがあるようです。
– “2人の天使は地上ではどこの民族に属していたか” – この質問のことでしょうか。
それです。そのことに関連してまずご承知おき願いたいのは、あの2人の若い天使の誕生は実に太古にまでさかのぼるということです。あれほどの霊力と権威とを悠久の鍛練と進化の過程を経ずして獲得し、それをあのような任務に行使するに至るという例はそう滅多にないことです。
お2人は双子霊なのです(※)。地球がまだ現在のような環境となっておらず、人類がまだこれからお2人が霊団を率いて赴く天体上の人種と同じ発達段階にあったころに地上で生活なされました。その段階の期間はずいぶん永く続きました。その間にお2人は知性の黎明期を卒業し、それから霊界入りしました。
その時点から本格的な試練がはじまり、同じ人種の中でも格別に進歩性の高いお2人は、各種の天体を低いものから高いものへと遍歴しながら、最後は再び地上圏へ戻ってきて、さらに進化を遂げられました。そのころは地球も合理的思考の段階、ほぼ今日の人類と同じ発達段階に到達しておりました。
(※ Twin souls シルバーバーチはこれを1つの霊の半分ずつが同時に物質界に誕生した場合のことで、典型的なアフィニティであるという – 訳者)
– 青銅器時代、それとも石器時代、どっちですか。
同じ人類でも今おっしゃった青銅器時代にある人種もいれば鉄器時代にある人種もおり、石器時代にある人種もいます。人類全体が同じ歩調で進化しているのではありません。それくらいのことはご存知でしょう。いまの質問は少し軽卒です。
地上人類が知性的発達段階にあった時期 – こう言えば一ばん正確でしょう。それは歴史的に言えばアトランティスよりもずっと前、あるいはレムリアと呼ばれている文明が登場するより前のことです(※)。
お2人は地上近くの界層まで降りて強力な霊力を身につけ、さらに知識も身につけ、もともと霊性の高いお方でしたから、一気に地球圏を卒業して惑星間の界層へと進まれ、さらには恒星間の界層へと進まれたものと想像されます(第1巻6章参照)。
と言うのも、敢えて断言しますが、それほどの使命を仰せつかる方が、自転・公転の運動と相互作用を続ける星雲の世界を統率する途方もない高級エネルギーに通暁していないはずはないからです。(※アトランティス大陸もレムリア大陸もともに伝説上のものとする説があるが、実際に存在していたことがこれで知れる – 訳者)
お2人が自分たちがアフィニティであることを悟ったのはそのあと霊界へ戻ってからのことで、霊的親和力によって自然に引き寄せられ、以来ずっと天界の階梯を向上し続けておられるのです。
– 地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。
再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう1度宿るということを意味するものと思われます。もしそうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を“再生”と呼ぶのは適切ではありません。
というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、まったく同じ素材でできている天体は2つとなく、まったく異なるものもあります。
それ故、貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則とまっ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質のものでないとして否定されることでしょう。
そうではなくて、お2人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも地上の場合と同じように、いま私が行っている方法で訪れたのです。
私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物質的身体をまとうことは致しません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。
私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく判ります。物的世界のことはそこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。
魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです。お2人の体験を私自身の体験を通してお答えしてみたのですが、これでお分かりいただけたでしょうか。
– どうも恐縮です。よく分かりました。
結構です。お気づきでしょうが、創造全体としては1つでも、崇高なる喜悦の境涯にまでも“多様性”が存在し、その究極の彼方において成就される“統一性”の中においてはじめて自我についての悟りに到達する。
それまでは神の時計の振子が永遠から永遠へと振り、その調べのリズムがダイナミックな創造の大オーケストラの演奏の中で完全に融合し全体がたった1つの節(ふし)となってしまう。その崇高なる境涯へ向けて1日1日を数えながら辿(たど)った来(こ)し方を振り返るごとに、それまでの道のりが何と短かいものであるかを痛感させられるものです。
私がいま置かれているところもやはり学校のようなところです。この界へ上がり聖堂へ入ることでようやく卒業した試錬の境涯から、ほんの1段階うえの学校の低学年生というところです。
お2人の天使もここを通過されてさらに高い学校へと進級して行かれました。そしてこのたびのように、かつてのご自分と同じ鍛錬の途上にある者の教師として、あるいは指導者として戻って来られるのです。
– お2人のお名前を伺いたいと思っていたのですが…
思ってはいたが前と同じように断られるのではないかと思って躊躇された…のですね?さてさて、困りました。やはり(アルファベッドで)書き表せる名前ではないのです。こうしましょう。貴殿の思いつくままの名前をおっしゃってみてください。それを差し当たってのお名前といたしましょう。
– これはまた思いも寄らなかったことです。
いやいや、今お考えになって書いてくださればよろしい。本当の名前を知っていながらそれが書き表せない私よりも(何もご存知でない)貴殿が適当に付けてくださる方がいいう。本当のお名前はアルファベッドでは書こうにも書けないのです。さ、どう呼ばれますか。
– マリヤとヨセフではいかがでしょう。
これはまた謎めいたことをなさいました。その謎は貴殿にはよくお判りにならないでしょうが、ま、その名前で結構です。いけないと言っているのではありません。結構ですとも。お2人をお呼びするにふさわしい意味をもつ名前を歴史上に求めれば、それしかないでしょうから。
その意味については述べないでおきます。“聞く耳ある者は聞くべし”(マルコ4・9)です。ではその名前で話を進めましょう。マリヤにヨセフ。貴殿はその順序で述べられました。その順序でまいりましょう。ぜひそうしてください。それにも意味があるのです。
– 地上時代の名前や年代はとても伝えにくいようですね。そちらからの通信を受けている者には一様にそう感じられます。どうしてなのでしょう?
貴殿は少し問題を取り違えてますね。今おっしゃったのはかつての地上での名前と生活した時代のことでしょう。
– そうです。
そうでしょう。では名前のことからお話しましょう。これは死後しばらくは記憶しています。しかしそのうち新しい名前をもらってそれをいつも使用するので、地上時代の名前は次第に使わなくなります。すると記憶が薄れ、おぼろげとなり、ついにはほとんど、ないしは完全に記憶が消滅してしまいます。
地上に親族がいる間はさほどでもありませんが、全員がこちらへ来てしまうと、その傾向が促進されます。やがて何世紀もの時の流れの中で他の血族との境界線がぼやけて混り合い、1つの血族だけの間のつながりも薄れて、最後は完全に消滅します。
例外もあるにはあります。が、それもわずかです。それと同時に少しずつ名前の綴りと発音の形態が変っていき、そのうちまったく別の形態の名前になります。しかし何といっても進化に伴って地上圏との距離が大きくなるにつれて地上時代への関心が薄れていくことが最大の要因でしょう。
霊界でのその後の無数の体験をへるうちに、すっかり忘れ去られていきます。記録を調べればいつでも知ることはできます。が、その必要性もめったに生ずるものではありません。
地上時代の年代が思い出しにくいのも似たような理由によります。吾々の関心は未来にありますので、この問題はさしあたっての仕事にとっても無意味です。もう1つの事情として、地上時代のことが刻々と遠ざかり、一方では次々と新しい出来ごとがつながっていくために、今ただちに地上時代のことを拾い出してそれが地上の年代でいつだったかを特定するのはとても困難となります。
もっとも地上の人間からのそうした問い合わせに熱心に応じる霊がいるものでして、そうした霊にとっては簡単に知ることができます。が吾々のように他に大切な用件があり、今という時間に生きている者にとっては、急に航行先の変更を命じられて回れ右をし、すでに波がおさまってしまった航行跡を引き返して、その中の1地点を探せと言われても困るのです。
その間も船は大波をけって猛スピードで前進しているのです。その大波の1つ1つが地上の1世紀にも相当すると思ってください。そうすれば私の言わんとしていることが幾らかでもお分かりいただけるでしょう。
では今回はこの辺で打ち切って、次の機会に同じ話題を取り上げ、神の名代である2人の天使、マリヤとヨセフについて今少し述べることにしましょう。
アーネル†
3 水子の霊の発育
1918年2月22日 金曜日
今夜お話することは多分貴殿には本題から外れているように思えるかも知れません。が地上で当たり前と思われている生活とは異なる要素を正しく理解する上で大切なことがらについて貴殿の認識を改めておく必要があるのでお話します。
それは、同じく地上から霊界へ誕生してくる者の中でも、地上で個的存在としての生活を1日も体験せずにやってくる、いわゆる死産児のことです。そういう子供は眠ったままの状態でこちらへやってまいります。その子たちにとってのこちらでの最初の目覚めは、地上での誕生時と同じ過程であることは理解していただけるでしょう。
ただ、地上の空気を吸ったことがなく、光を見たこともなく、音を聞いたこともありません。要するに五感のどれ1つとして母胎内での自然な過程の中で準備してきた、その本来の形で使用されたことがありません。従ってそれぞれの器官はほぼ“完全に近い状態”であっても“完全にでき上がって”はいません。
その上、脳髄が五官からのメッセージを処理する操作をしたことがありません。そういうわけで、死産児としてこちらへ来た子供は潜在的には地上的素質を具えてはいても、経験的にはそれが欠けています。ただ、たとえ数分間にせよ、あるいはそれ以下にせよ、実際に生きて地上に誕生したあと他界した子供はまた事情が異なります。
こういう次第ですから、死産児の霊の世話に当たる人たちが解決しなければならない問題はけっして小さいものではないのです。まずその霊が自然な発育をするように霊的感覚器官を発達させてやらねばなりません。それから霊的脳髄にその器官からの情報を処理する訓練をさせてやらねばなりません。
数分間でも生きていた子の場合であれば脳と器官との連絡がわずかながらも出来ておりますから、その経験をその後の発育の土台として使用することができます。が、死産児にはそれが欠けていますから、こちらの世界でそれをこしらえてやる必要があります。それが確立されさえすれば、あとは普通の子供と同じように、発育の段階を1つ1つ重ねていくだけとなります。
この段階での育児には、たとえ面倒でも、さまざまな手段が講じられます。たとえばその子供と地上の両親との間、とくに母親との間には特殊なつながりがあります。
そこで、できるだ母胎からの出産に似た体験をその子にさせて、その体験を通じて母胎からの肉体的分離つまり独立した個体となったという感触を味わわせます。むろんこれは肉体ではできませんから、子供の霊的身体と母親の霊的身体とを使って行います。
これによって自然な出産がもたらすほどの密接な脳と器官との連絡関係が得られるわけではありませんが、一応、地上の親との関係は確立されます。そしてその時点からその子供は地上の母親とのつながりを保ち、可能なかぎり普通の子供と同じような発育をするよう配慮されます。
それでもやはり、地上に誕生した体験をもつ子供との間にある種の相違点がどうしてもあります。地上体験から得られるきびしさに欠けている面がある一方、地上体験のある子供よりも性格と考え方に霊性が見られます。
しかし、成長とともに地上体験のある子供は霊性を身につけ、死産児は母親とのつながりを通じて、さらに成長してからは他の家族とのつながりを通じて、地上の知識を身につけていきますから、その相違点は次第に小さくなり、ついにはほぼ同等の友情関係までもてるようになり、互いに自分に欠けているものを補い合えるようになります。
かくして一方は柔らかさを身につけ、他方は力強さを身につけ、1つの共同体の中で、有益であると同時に楽しい“多様性”の要素をもたらすことになります。
以上の話から貴殿も、地上の両親の責任が死後の世界の子孫にとっていかに大きいかがお分かりになるでしょう。死後の育児にとっても両親との接触が必要だからです。地上の血縁関係の人との接触のない子供は正常な発育が得られない他の何ものによっても補えない、欠落した要素があるのです。
かりに両親が邪悪な生活を送っている場合は、地上の時間にして何年もの間その両親に近づかないようにしておいて、そうした子供の保育に当たっている人たち(※)からみて大丈夫と思えるだけの体力と意志力と叡智を身につけるように指導する必要があります。
(※地上において子宝に恵まれず母性本能が満たされないまま他界した女性であることがこのあとに出てくる – 訳者)
ところが、子供が地上的影響力にさらされても安全という段階に至らないうちに、親の方が地上の寿命が尽きてこちらの世界へ来るというケースがよくあります。そうなった場合子供は祈りを頼りとするほかなくなります。
その場合の親にはもはや地上で乳房をふくませた子供に対する情愛は持ちあわせません。あるいは自分にそんな子がいたことすら知らないでしょう。ですから、二人の間の絆(きずな)は – かりに残っていても弱いものですが – 子供が向上していくにつれてますます薄れていき、一方母親の方は浄化のための境涯へと下りて行きます。
その浄化のための期間を終えて再び戻ってきた頃には、子供の方はすでに母親の手の届かない高い境涯へと進化していることでしょう。子供の方では母親を認識しております。そして母親の気づかないうちにもいろいろと援助しております。
しかし親と子を結びつける本来の温かい情愛の絆は、向上進化を基調とした天界での通常の生活では存在しないし、有り得ないことになります。
この話を持ち出したのは、吾々からみると地上にはこうした(水子の)問題において母性がもつ重責があまりに無視されているからです。地上にて花開くことなく蕾(つぼみ)のうちにむしり取られた、そうしたやさしい花はあまりにも可憐であり、親を知らないことからくる物憂げな表情が歴然としているために、それを見る者は悲痛な思いをさせられるものです。
といって今のその子たちが不幸だと言っているのではありません。およそ不幸といえるものとは縁遠いものです。ただ、さきも言った通り、他の何ものによっても補えない欠落した要素があり、これは地上で母性本能を満たされなかった女性が母親代りに世話してあげても、ほんの部分的に補えるだけです。
そこで(永い永い進化の旅の中で)一方が他方の欠けているものを与え、また自分に欠けているものを受け取っていくということになるのです。その関係は見ていて実に美しいものです。
– お伺いしますが、このような話をなぜここに挿入されたのでしょうか。これまでの話題と何の関係もなさそうですが…
それが実は、あるのです。今お書きになった質問が貴殿の精神の中で形成されていくのが私には分かっておりました。そしていずれお聞きになるものと思っておりました。
今夜この話題を持ち出したことには、れっきとした意図がありました。こうしたことを知っていただかないことには、貴殿がマリヤとヨセフと名付けられたあの女王とその配偶者についての理解は不可能だからです。
実は遠い昔、お2人は今夜お話したような関係にあったのです。それで初めにお2人の話をしておいたのです。お2人はついにあのような形で愛の絆を成就されたのです。
追伸 – この十字のしるしに注目されたい。いろいろと大切な意味がこめられていますが、その1つが“両性の一体化”です。ここではその意味で記しております。
アーネル†
4章 天界の大学
1 五つの塔
1918年3月18日 金曜日
第10界の森林地帯の真っ直中に広大な空地があります。周囲を林に囲まれたその土地から四方へ数多くの道が伸びており、その道からさらに枝分かれして第10界の隅々まで連絡が取れております。
その連絡網は、瞑想と他の界層との通信を求めてその空地へ集まってくる人々によく利用されています。その一帯を支配する静穏の美しいこと。茂る樹木、咲き乱れる花々、そこここを流れる小川、点在する池、群がる小鳥や動物たちが、修養を心がける者たちを自然に引きつけ、その静穏の雰囲気に浸らせます。
が、これから述べるのはその中心にある空地の事です。空地といっても地上ならさしずめ平野と呼ばれそうな広大な広さがあります。そこには庭園あり、噴水あり、寺院あり、建物あり。それらがみな研究と分析・調査の目的に使用されています。
そこは一種の大学ですが、その性格は“美の都市”とでも呼ぶにふさわしいものを具えております。というのは、そこでは美と知識とが全く同等の意図をもつに至っているかに思えるのです。
形は長円形をしています。その片方の端には森の縁から巾の広い背の高いポーチが突き出ており、その両側に木が立ち並び、その樹木の上空に建物の翼廊が姿を見せています。その翼廊の壁の高い位置にバルコニーが付いていて、そこから空地全体を見晴らす事ができます。
建物の残りの部分はすっぽり森林に包まれており、塔とドームだけがポーチより遙かに高く聳え立っております。それが無かったら森林の中に一群の建造物が存在する事に誰も気づかないでしょう。それほど周囲に樹木が密生しているのです。
塔は5つあります。うち4つは型は違っていても大きさは同じで、その4つにかぶさるようにドームが付いています。残りの1つは巨大なものです。あくまでも高く聳え、その先端が美しいデザインの帽子のようになっています。
あたかも天界のヤシの木のようで、その葉で王冠の形に線条細工が施され、それに宝石が散りばめてあり、さらにその上は銀河に似たものが同じく宝石をふんだんに散りばめて広がっております。
これら4つの塔とドームと大塔には神秘的な意味が込められており、その意味は例の大聖堂を通過した者でなければ完全な理解はできません。それが大きな儀式の際に理解力に応じた分だけが明かされる。その幾つかは“顕現”の形で説明される事もあります。
そのうちの1つをこれからお話するつもりですが、その前にそこの建物そのものについてもう少し述べておきましょう。
ポーチの前方に左右に広がる池があり、その池に至る道は段々になっています。大学の本館はその水面から聳え立っており(※)、周辺の庭園と群立する他の小館とは橋でつながっており、その大部分に天蓋が付いています。ドームのあるホールは観察に使用されています。
観察といっても大聖堂の翼廊での観察とは趣が異なり、援助を送ったり連絡を維持するためではなく、他の界層の研究が目的です。そこでの研究は精細を極めており、1つの体系の中で類別されています。
それというのも、天界においては他の界との関連性によって常に情況が変化しているからです。ですから、こうした界層についての知識の探求には際限がありません。
(※霊界の情況は地上の情況になぞらえて描写されるのが常であるが、地上圏から遠ざかるにつれてそれも困難となる。この部分もその1つで、一応文章のままに訳しておいたが、これでは地上の人間には具体的なイメージが湧いて来ないであろう。が、私の勝手な想像的解釈も許されないので、やむを得ずこのままに留めておいた – 訳者)
4つの小塔にはそれぞれ幾つかの建物が付属しています。それぞれに名称がありますが、地上の言語では表現できないので、取りあえずここでは“眠れる生命の塔” – 鉱物を扱う部門、“夢見る生命の塔” – 植物を扱う部門、“目覚める生命の塔” – 動物を扱う部門、そして“自我意識の塔” – 人間を扱う部門、と呼んでおいて下さい。
大塔は“天使的生命の塔”です。ここはさきの4つの生命形態を見下ろす立場にあり、その頂点に君臨している訳です。その階段へ向けて全生命が向上進化しつつあるのです。それらの塔全体を管理しているのが“ドームの館”で、各塔での研究と分析調査の仕事に必要な知識はそこから得ます。
つまりその館の中で創造・生産されるものを各分野に活用しています。4つの小塔は1つ1つデザインが異なり、平地から4つを一望するとすぐに、全体としていかなる創造の序列になっているかが知れます。そういう目的をもってデザインされているのです。
内部で行われる仕事によって各塔にそれ特有の性格がみなぎり、それが滲み出て外形をこしらえているのです。大塔は見るからに美しい姿をしております。その色彩は地上に見出す事はできません。が、取りあえず黄金のアラバスターとでも表現しておきましょう。それにパールを散りばめた様子を想像して頂ければ、およその見当がつくでしょう。
それは言うなれば液晶宝石の巨大にして華麗な噴水塔という感じです。水が噴き出る代わりに囁(ささや)くようなハーモニーが溢れ出て、近づく者に恍惚状態(エクスタシー)に近い感動を覚えさせずにはおきません。
周辺の水がまた美しいのです。花園をうねりながら流れるせせらぎもあれば大きな池もあり、その水面(みなも)に5つの塔やドーム、あるいは他の美しい建物が映っており、静かな、落着いた美しさを見せています。その感じを貴殿に分かりやすく表現すれば、揺りかごの中の天使の子供のようです。
では、これより貴殿を大塔の中にご案内して、その特徴を2、3ご紹介しましょう。この塔は何かの建物の上にあるのではなく、基礎からいきなり聳え立っております。その内部に立って見上げたら、貴殿は唖然とされるでしょう。
階が1つもなく、屋根のようなものもなく、ただ虚空へ向けて壁(四方にあります)が山の絶壁のように上へ上へと伸びているだけです。そしてその頂上は星辰の世界のど真ん中へ突き刺さっているかの如くです。
その遙か遙か遠くにその塔の先端の縁が、あたかも塔そのものから離れてさらにその上にあるかのように見えます。それほど高いのです。その壁がまた決してのっぺりとしたものではないのです。四方の壁が2重になっていて、間が仕切ってあり、各種のホールや天使の住居(すまい)となっております。
外部を見ると通路あり、バルコニーあり、張り出し窓あり、さらには住居から住居へと橋がループ条につながっております。壁の上に対角線状に見えるものは、そこの部屋から部屋へ、あるいは楽しみのための施設から別の施設へとつなぐ階段です。
庭園もあります。塔の側壁から棚状に突き出た広大な敷地にしつらえてあります。この方尖塔は実に高くそして広大なので、そうした付属の施設 – 中へ入ってみるとそれぞれに結構大きなものなのですが – 少しも上空を見上げた時の妨げにならず、また1番先端の輪郭を歪める事もありません。
また、よく見ると光が上昇しながら各部屋を通過していく際に変化したり溶け合ったり、輝きを増すかと思えば消滅していったりしております。例えば塔の吹き抜けに面したある住居のところでは真夏の太陽に照らされている如くに輝き、別の住居のところでは沈みゆく夕日が庭を照らし、夕焼空を背景にして緑の木々やあずま屋が美しく輝いて見えます。
さらに別のところでは春のさわやかな朝の日の出の様相、さよう、そんな感じを呈しております。小鳥がさえずり、小川がさざ波を立てて草原へ流れていきます。この驚異の世界にも“流れる水”は存在するのです。
音楽も流れています。あの部屋から1曲、この部屋から1曲と聞こえてきます。時には数ヶ所から同時に聞こえてくる事もありますが、塔の広さのせいでお互いに他のメロディの邪魔になる事はありません。
さて、以上お話した事 – 全体のほんのひとかけらほどでしかありませんが – を読まれて貴殿はもしかしたら、その大塔の中がひどく活気のないところのように思えて、建立(こんりゅう)の動機に疑問をもたれるかも知れません。が、先ほど私が各塔に名付けた名称を思い出して頂けば決してそうではない事が分かって頂けるでしょう。
この大塔は4つの小塔を指揮・監督する機能を有し、そのためのエネルギーを例のドームから抽(ひ)き出すのです。そこには極めて霊格の高い天使が強烈な霊力と巾広い経験を携えて往き来し、かつて自らが辿った道をいま歩みつつある者たちの援助に当たります。
すなわち測り知れぬ過去において自分が行った事を、4つの小塔とドームの館に住む者が永遠の時の流れの中の今という時点において励んでいるという事です。進化の循環(サイクル)の中で、先輩の種族が去って新しい種族が今そこに住まっているのです。
これでお気づきと思いますが、そこでの仕事がいかに高度なものであるとはいえ、そこはあくまでも第10界であり、従ってあくまでも物事の“育成”の場であって“創造”の界ではないのです。
でも、創造へ向かいつつある事に間違いはなく、第10界では最高の位置にある施設の1つです。
– アーネルさんご自身もその大学を卒業されたのですか。
しました。4つの塔を全部通過するコースを終えました。それが普通のコースです。
– ドームの館もですか。
学徒として入った事はありません。別の形で同じ事を終了しておりましたから。実は私は4番目の塔を終えたのちに大塔直属の天使のおひとりに仕える身となったのです。大聖堂へ行けるまでに修行できたのもその方のお陰です。
例の暗黒界への旅の間にずっと力をお貸し下さったのもその方で、その事は旅から帰って初めて知りました。その方はそうした援助の仕事を他の者にもしておられました。それがその方の本来の仕事だったのです。(※)神の祝福を。
アーネル†
(※過去形になっているのは現在は別の仕事に携わっているからであろう。“その方”について何も述べていないが、同じ霊系の1人、つまり類魂の1人であるに違いなく、こうした関係は地上に限らず上級界へ行っても同じである事が分かる – 訳者)
2 摂理(ことば)が物質となる
1918年3月4日 月曜日
5つの塔から成る大学の構内は常時様々な活動に溢れていますが“せわしさ”はありません。中央水路へ通じる数々の小水路を幾艘もの舟が往き来して、次々と渡航者を舟着場へ下ろしています。
その水辺近くまで延びているテラスや上り段には幾千ともつかぬ参列者が群がっており、新しい一団がその明るいにぎわいを増しています。いずれもある大きな顕現を期待してやって来るからです。参加者はそれぞれ個人としての招待にあずかった人ばかりです。
その地域の者なら誰でも参加できるのではありません。ある一定の霊格以上の者に限られています。招待者が全員集合したところで天使の塔から旋律が流れてきました。続いて何が起きるのであろうかと一斉に注目しています。ではそのあとの顕現の様子を順を追って叙述しましょう。
音楽がボリュームを増すにつれて、その塔を包む大気が一種の霞を帯び始めました。しかし輪郭が変わって見えるほどではありません。そして塔は次第に透明度を増し、それが上下に揺れて見えるのです。つまり色彩に富んだ液晶ガラスのように、外側へ盛り上がったかと思うと内側へのめり込んでいくのです。
やがて吾々の耳にその音楽よりさらに大きな歌声が聞こえてきました。それは絶対神とその顕現であるキリストへの讃歌(テデウム)でした。そのキリストの1つの側面がこれより顕現されるのです。
– そのテデウムの歌詞を教えて頂けませんか。
いえ、それは不可能です。その内容だけを可能な限り地上の言語に移しかえてみましょう。こうです –
「遠き彼方より御声に聞き入っております私どもは、メロディの源であるキリストこそあなたであると理解しております。あなたの“みことば”を聞いて無窮が美をもたらしたのでございます。
あなたの直接の表現であらせられるキリストの目にあなたのお顔を拝している私どもは、あなたは本来無形なる存在であり、その御心より形態を生じ、美がむき出しのままである事を好まず、光を緯(よこ)糸とし影を経(たて)糸として編まれた衣にて包まれていると理解しております。
あなたの御胸の鼓動を感じ取っております私どもは、美がそのように包まれているのはあなたが愛の全てであり、あなたの愛でないものは存在しないからでございます。
あなたのその美を私どもはキリストの美によって知り得るのみであり、そのキリストはあなたが私どもに与え給うたのと同じ形態をまとって顕現される事でございましょう。私どもはあなたを讃えて頭(こうべ)を垂れます。私どもはあなたのものであり、あなたを生命と存在の源として永遠におすがり致します。
この顕現せる生命の背後に恵み深き光輝が隠されております。キリストの顕現とその安らぎを待ち望む私どもにお与え下さるのは、御身みずからの事に、ほーかーなーりーまーせーぬー」
最後の歌詞はゆっくりと下り調子で歌われ、そして終わった。そして吾々は頭を垂れたまま待機していました。次に聞こえたのは“ようこそ”という主の御声でした。その声に吾々が一斉に顔を上げると、主は天使の塔の入り口の前に立っておられます。その前には長いそして広い階段が水際まで続いています。
その階段上には無数の天使がひざまずいています。その塔に所属する天使の一団です。総勢幾千もの数です。主は塔へ通じる大きなアーチ道から遠く離れた位置におひとりだけ立っておられます。が、その背後には階段上の天使よりさらに霊格の高い天使の別の一群が立ち並んでいます。主の降臨に付き添ってきた天使団です。
今や天使の塔は躍動する大きな炎の如く輝き、大気を朱に染めてそれがさらに水面に反映し、灼熱に燃え上がるようにさえ思えるのです。
その時です。主がまず片足をお上げになり、続いてもう一方の足をお上げになって宙に立たれました。塔の頂上を見上げると、その先端に載っている王冠状のものが変化し始めているのが分かります。あたかも美しい生き物のように見えます。
レース状の線状細工がみな躍動しており、さらによく見ると、そのヤシの葉状の冠には数々の天使の群れが宝石を散りばめたように光って見えます。ある群れは葉に沿って列をなして座し、ある群れは基底の環状部に曲線をなして立ち、またある群れは宝石の飾り鋲に寄りかかっています。
王冠を構成しているあらゆる部分が天使の集団であり、宝石の1つ1つがセラピム(※)の一団であり、炎のごとく輝き燃え上がっているのでした。(※キリスト教で最高神に直接仕える第1級の天使 – 訳者)
やがてその塔の頂上部分がゆっくりと塔から離れて主ならびに付き添いの天使団が立ち並ぶ位置の上空高く上昇し、それからゆっくりと下降してテラスに着地しました。内部にはすでに千の単位で数えるほどの天使がいます。
そして吾々も水路を横切ってその内部へ入るよう命じられました。(その大塔は湖の中央に聳えている – 訳者)私が階段の頂上まで来て見下ろすと、滔々(とうとう)とした人の流れが、喜びの極みの風情で、新しくしつらえた宮殿の中へ入っていくのが見えました。
私もその流れに加わって何の恐れの情もなく中へ入りました。全てが静寂、全てが安らぎと喜びに溢れておりました。入ってみると、その王冠の内側は広く広大なホールとなっており、天井が実に高く、下から上まで宝石と宝玉に輝いておりました。
透し細工に光のみなぎった薄もやが充満し、それがそのままホールの照明となっておりました。壁は少し垂直に伸びてからアーチを描いて穹陵(きゅうりょう、西洋建築における天井の1形式)となり、その稜線がサファイア色をした大きな宝玉のところで合流しています。
壁の材質は透明なクリスタルで、外側の天界の様子を映し出す性質をしており、どの天使が飛来しどの天使が去って行ったかが、いながらにして分かるようになっています。この王冠はテラスへ下降してくる間にそのように模様替えされたに相違ありません。ふだんは完全に青空天井になっておりますから。
– 出席者は全部で何名だったのでしょうか。
私には分かりません。でも主のお供をした霊は少なくとも1500名を数えたに相違ありません。そして吾々招待を受けた者はその6倍を下りませんでした。それに塔の直属の霊がおよそ3000名はいました。大変な集会だったのです。このたびの顕現はその大学における科学に関する指導の一環として行われたものです。
それがどんなものであるかは既にお話しました。それまで吾々は研究を重ね、資料を豊富に蓄積しておりました。そこへ主が訪れてそうした知識がそれより上の境涯へ進化して行きながら獲得される神についての知識といかに調和したものであるかをお示しになられたのです。
– もう少し詳しくお話願えませんか。今のでは大ざっぱすぎます。
そうでしょう。私もそれを残念に思っているのですが、といってこれ以上わかりやすくといっても私には出来そうにありません。でも何とか努力してみましょう。冗漫(じょうまん)な前置きは抜きにして一気に本論へ入りましょう。あのとき主は神のことばがそのまま顕現したのでした。
既に(第2巻で述べたので)ご承知の通り、宇宙創造の当初、神の生命のエネルギーが乳状の星雲となり、それが攪拌されて物質となり、その、その物質から無数の星が形成されるに至った時の媒介役となったのが、他ならぬ“ことば”でした。
ことばこそ創造の実行者だったのです。すなわち神がそのことばを通して思惟し、その思念がことばを通過しながら物質という形態をとったという事です。(※ Word は聖書などで“ことば”と訳されているので一応それに倣(なら)ったが、シルバーバーチのいう宇宙の摂理、自然法則の事である – 訳者)
この問題は永い間の吾々の研究課題でした。主が降臨されて宇宙の創造における父なる神の仕事との関連においてのことばの意味について吾々が学んだ事に、さらに深い事を説明なさったのは上層界における同種の、しかしさらに深い研究につなげていくためでした。残念ながらこれ以上の事は伝達しかねます。
– このたび主がお出でになられた時の容姿を説明して頂けませんか。
主は大ホールの中空に立っておられ、最後まで床へ下りられませんでした。最初私はそれがなぜだか分かりませんでした。が、顕現が進行するにつれて、その位置がこのたびの主の意図に最も相応しい事が分ってきました。視覚を使って教育するためだけではありません。
中空に立たれたのは、その時の主の意図が自然にそのような作用をしたのです。そしてお話をされている間も少しずつ上昇して、最後は床と天井の中間あたりに位置しておられました。それはその界層における力学のせいなのです。そう望まれたのではなく、科学的法則のせいだったのです。
さらに、冠の外側に群がっていた天使が今は内側の壁とドームの双方に、あたかも生きた宝石の如く綴れ織り(タペストリ)模様に群がって飾っているのでした。
さて貴殿は主の容姿を知りたがっておられる。衣装は膝までのチュニックだけでした。澄んだ緑色をしており、腕には何も – 衣服も宝石も – 付けておられませんでした。宝石はただ1つだけ身につけておられました。胴のベルトが留め金でとめてあり、その留め金が鮮血の輝くような赤色をした宝石でした。
腰の中央に位置しており、その事は、よく考えて頂くと大きな意味があります。と言うのは、主は父なる神と決して断絶する事はありませんが、この界層における仕事に携わるために下りてこられるという事は確かに一種の分離を意味します。
造化の活動のために自ら出陣し、そのために父より顔を背けざるを得ません。意念を“霊”より“物質”へと放射しなければならないのです。その秘密が宝石の位置に秘められているのです。この事は語るつもりはなかったのですが、貴殿の精神の中にその質問が見えたものですから、ついでに添えておきます。
マントは付けておられませんでした。膝から下は何も付けておられませんでした。両手両足とお顔は若さ溢れる元気盛りのプリンスのそれでした。頭髪にも何も付けておられず、中央で左右に分けておられ、茶色の巻き毛が首のあたりまで下がっておりました。
いえ、目の色は表現できません – 貴殿の知らない色ばかりです。それにしても貴殿の精神は主についての質問でいっぱいですね。これでも精一杯お答えしてあげてるつもりです。
– 主についてのお話を読むといつもその時のお姿はどうだったのかが知りたくなります。私にとっても他の人たちにとっても、それが主をいっそう深く理解する手掛かりになると思うからです。主そのものをです。
お気持ちはよく分かります。しかし残念ながら貴殿が地上界にいるかぎり主の真相はほとんど理解し得ないでしょう。現在の吾々の位置に立たれてもなお、そう多くを知る事はできません。それほど主は偉大なのです。それほど地上のキリスト教界が説くような窮屈な神学からはほど遠いものなのです。
キリスト者は主を勝手に捉えて小さな用語や文句の中に閉じこめようとしてきました。主はそんなもので表現できるものではないのです。天界においてすら融通無碍であり、物的宇宙に至っては主の館の床に落ちている“ほこり1つ”ほどにしか相当しません。
にもかかわらずキリスト者の中には主にその小さなほこりの中においてすら自由を与えようとしない人がいます。この話はこれ以上進めるのは止めましょう。
– それにしても、アーネルさん、あなたは地上では何を信仰しておられたのでしょうか。今お書きになられた事を私は信じます。が、あなたは地上におられた時もそう信じておられたのですか。
恥ずかしながら信じていませんでした。と言うのも、当時は今日に較べてもなお用語に囚われていたのです。しかし正直のところ私は神の愛について当時の人たちには許しがたい広い視野から説いていました。それが私に災いをもたらす事になりました。
殺されこそしませんでしたが、悪(あ)しざまに言われ大いに孤独を味わわされました。今日の貴殿よりも孤独な事がありました。貴殿は当時の私よりは味方が多くいます。貴殿ほど進歩的ではありませんでしたが、当時の暗い時代にあっては、私はかなり進んでいた方です。現代は太陽が地平線を暖め始めております。当時はまさに冬の時代でした。
– それはいつの時代で、どこだったのでしょう?
イタリアです。美しいフローレンスでした。いつだったかは憶えていません。が神が物事を刷新し始めた時代で、人々はそれまでになかった大胆な発想をするようになり、教会が一方の眉をひそめ国家がもう一方の眉をひそめたものです。そして – そうでした。私は人生半ばにして他界し、それ以上の敵意を受けずに済みました。
– 何をなさっていたのでしょう。牧師ですか?
いえ、いえ、牧師ではありません。音楽と絵画を教えておりました。当時はよく1人の先生が両方を教えたものです。
– ルネッサンスの初期の事ですね?
吾々の間ではそういう呼び方はしませんでした。でも、その時代に相当しましょう。そうです!今日と同じように神がその頃から物事を刷新し始めたのです。(それが何を意味するかがこれからあとの通信の主なテーマとなる – 訳者)
そして神がそのための手を差しのべるという事は、それに応えて人間もそれに協力しなければならない事になります。大いに苦しみも伴います。が刷新の仕事は人間ひとり苦しむのではありません。主のベルトのルビーの宝石を思い出して、主がいつもお供をして下さっていると信じて勇気を出して頂きたいのです。
アーネル†
3 マンダラ模様の顕現
1918年3月8日 金曜日
吾々招待にあずかった者が全員集合すると、主のお伴をしてきた天使群が声高らかに讃美の聖歌を先導し、吾々もそれに加わりました。貴殿はその聖歌の主旨(モチーフ)を知りたがっておられる。それはおよそ次のようなものでした。
「初めに実在があり、その実在の核心から神が生まれた。
神が思惟し、その心からことばが生まれた。
ことばが遠く行きわたり、それに伴って神も行きわたった。神はことばの生命(いのち)にして、その生命がことばをへて形態をもつに至った。
そこに人間(ひと)の本質が誕生し、それが無窮の時を閲(けみ)して神の心による創造物となった。さらにことばがそれに天使の心と人間の形体とを与えた。
顕現のキリストはこの上なく尊い。ことばをへて神より出て来るものだからである。そして神の意図を宣言し、その生命がキリストをへて家族としての天使と人間に注がれる。
これがまさしくキリストによることばを通しての天使ならびに人間における神の顕現である。神の身体にほかならない。
ことばが神の意志と意図を語ったとき虚空が物質に近い性質を帯び、それより物質が生じた。そして神より届けられる光をことばを通して反射した。
これぞ神のマントであり、神のことばのマントであり、キリストのマントである。
そして無数の天体がことばの音楽に合わせて踊った。その声を聞いてよろこびを覚えたのである。なぜならば、天体が創造主の愛を知るのはことばを通して語るその声によるのみだからである。
その天体はまさに神のマントを飾る宝石である。
かくして実在より神が生まれ、神よりことばが生じ、そのことばより宇宙の王としてその救済者に任じられたキリストが生まれた。
人間は永遠にキリストに倣う。永遠の1日の黄昏(たそがれ)どきに、見知らぬ土地、ときには荒れ果てた土地を、わが家へ向けて、神へ向けて長き旅を続けるのである。今はまさにその真昼どきである。
ここが神とそのキリストの王国となるであろう」
こう歌っているうちにホール全体にまず震動がはじまり、やがて分解しはじめ、そして消滅した。そしてそれまで壁とアーチに散らばっていた天使が幾つかのグループを形成し、それぞれの霊格の順に全群集の前に整列しました。
その列は主の背後の天空はるか彼方へと続いていました。さらに全天にはさまざまな民族の数え切れないほどの人間と動物が満ちておりました。全創造物が吾々のまわりに集結したのです。
動物的段階にあった時代の人間の霊も見えます。さまざまな段階をへて今や天体の中でも最も進化した段階に到達した人種もいます。さらには動物的生命 – 陸上動物と鳥類 – のあらゆる種類、それに、あらゆる発達段階にある海洋生物が、単純な形態と器官をしたものから複雑なものまで勢揃いしていたのです。
さらには、そうした人類と動物と植物を管理する、これ又さまざまな段階の光輝をもつ天使的存在も見えました。その秩序整然たる天使団はこの上ない崇高性にあふれていました。
それと言うのも、ただでさえ荘厳なる存在が群れを成して集まっていたからであり、王冠のまわりに位置していた天使団も今ではそれぞれに所属すべきグループのメンバーとしての所定の位置を得ておりました。
全創造物と、中央高く立てるキリスト、そしてそのまわりを森羅万象が車輪のごとく回転する光景は、魂を畏敬と崇拝の念で満たさずにはおかない荘厳そのものでした。
私がその時はじめて悟ったことですが、顕現されるキリストは、地上においてであれ天界においてであれ、キリストという全存在のほんの小さな影、その神性の光によって宇宙の壁に映し出されたほのかな影にすぎないこと、そしてその壁がまた巨大な虚空の中にばらまかれたチリの粒から出来ている程度のものであり、その粒の1つ1つが惑星を従えた恒星であるということです。
それにしても、その時に顕現された主の何とお美しかったこと、そしてまた何という素朴な威厳に満ちておられたことでしょう。全創造物の動きの1つ1つが主のチュニック、目、あるいは胴体に反映しておりました。主の肌の気孔の1つ1つ、細胞の1つ1つ、髪の毛の1本1本が、吾々のまわりに展開される美事な創造物のどれかに反映しているように思えるほどでした。
– あなたが見たとおっしゃる創造物の中にはすでに地上から絶滅したものやグロテスクなもの、どう猛な動物、吐き気を催すような生物 – トラ、クモ、ヘビの類 – もいたのでしょうか。
ご注意申し上げておきますが、いかなる存在もその内側を見るまでは見苦しいものと決めつけてはいけません。バラのつぼみも身をもちくずすとトゲになる、などという人がいますが、そのトゲも神が存在を許したからこそ存在するわけで、活用の仕方次第では美しき女王のボディガードのようにバラの花を護る役目にもなるわけです。
そうです、その中にはそういう種類のものもいました。バラとトゲといった程度のものだけでなく、人間に嫌われているあらゆる生物がいました。神はそれらをお捨てにならず、活(い)かしてお使いになるのです。
もっとも吾々は、そうした貴殿がグロテスクだとか吐き気を催するようなものと呼んだものを、地上にいた時のような観方はせず、こちらへ来て教わった観方で見ております。その内面を見るのです。
すると少しもグロテスクでも吐き気を催すようなものでもなく、自然の秩序正しい進化の中の1本の大きな樹木の枝分かれとして見ます。邪悪なものとしてではなく、完成度の低いものとして見ます。どの種類もある高級霊とその霊団が神の本性の何らかの細かい要素を具体的に表現しようとする努力の産物なのです。
その努力の成果の完成度が高いものと低いものとがあるというまでのことで、神の大業が完成の域に達するまでは、いかなる天使といえども、ましてや人間はなおのこと、これは善であり、これは邪性から生じたものであるなどと宣言することは許されません。
内側から見る吾々は汚れなき主のマントの美しさに固唾(かたず)をのみます。中心に立たれたそのお姿は森羅万象の純化されつくしたエッセンスに包まれ、それが讃仰と崇敬の香りとなって主に降りそそいでいるように思えるのでした。
その時の吾々はもはや第10界の住民ではなく全宇宙の住民であり、広大なる星辰の世界を流浪(さすら)い、無限の時を眺望し、ついにそれを計画した存在、さらには神の作業場においてその創造に従事した存在と語り合ったのです。
そして新しいことを数多く学びました。その1つひとつが、今こうしてこちらの大学において高等な叡智を学びつつある吾々のように創造界のすぐ近くまでたどり着いた者のみが味わえる喜びであるのです。
かくして吾々はかの偉大なる天使群に倣(なら)い、その素晴らしい成果 – さよう、虫けらやトゲをこしらえたその仕事にも劣らぬものを為すべく邁進しなければならないのです。
それらを軽視した言い方をされた貴殿が、そのいずれをこしらえようとしても大変な苦労をなさるでしょう。そう思われませんか。ま、叡智は多くの月数を重ねてようやく身につくものであり、さらに大きな叡智は無限の時を必要とするものなのです。
そこで吾々大学で学んでいた者がこうして探求の旅から呼び戻されて一堂に招集され、いよいよホールの中心に集結したところで突如としてホール全体が消滅し、気がつくと吾々は天使の塔のポーチの前に立っているのでした。
見上げると王冠はもとの位置に戻っており、すべてがその儀式が始まる前と同じになっておりました。ただ一つだけ異なっているものがありました。こうした来訪があった時は何かその永遠の記念になるものを残していくのが通例で、この度はそれは塔の前の湖に浮かぶ小さな建物でした。
ドームの形をしており、水面からそう高くは聳えておりません。水晶で出来ており、それを通して内部の光が輝き、それが水面に落ちて漂っております。反射ではありません。光そのものなのです。かくしてその湖にそれまでにない新しいエネルギーの要素が加えられたことになります。
– どんなものか説明していただけませんか。
それは無理です。これ以上どうにもなりません。地上の人間の知性では理解できない性質のものだからです。それは惑星と恒星のまわりに瀰漫(びまん)するエネルギーについての吾々の研究にとっては新たな一助となりました。
そのエネルギーが天体を包む鈍重な大気との摩擦によっていわゆる“光”となるのです。吾々はこの課題を第11界においてさらに詳しく研究しなければなりません。新しい建造物はその点における吾々への一助としての意味がこめられていたのです。
アーネル†
– カスリーン、何か話したいことがありますか。
あります。こうして地上へ戻ってきてアーネルさんとその霊団の思念をあなたが受け取るのをお手伝いするのがとても楽しいことをお伝えしたいのです。みなさん、とても美しい方たちばかりで、私にとても親切にしてくださるので、ここでこうして間に立ってその方たちの思念を受信し、それをあなたに中継するのが私の楽しみなのです。
– アーネルさんはフローレンスに住んでおられた方なのに古いイタリヤ語でなく古い英語で語られるのはどうしてでしょう?
それはきっと、確かにフローレンスに住んでおられましたが、イタリヤ生まれではないからでしょう。私が思うにアーネルさんは英国人、少なくとも英国のいずれかの島(※)の生まれだったのが、若い時分に移住したか逃げなければならなかったかどちらであるかは定かでありませんがいずれにしても英国から出て、それからフローレンスへ行き、そこに定住されたのです。
その後ふたたび英国へ帰られたかどうかは知りません。当時はフローレンスに英国の植民地があったのです。(※英国は日本に似て大小さまざまな島から構成されているからこういう言い方になった – 訳者)
– 誰の治世下に生きておられたかご存知ですか。
知りません。でも、あなたがルネッサンスのことを口にされた時に想像されたほど古くはないと思います。どっちにしても確かなことは知りませんけど。
– どうも有難う。それだけですか。
これだけです。私たちのために書いてくださって有難う。
– これより先どれくらい続くのでしょう?
そんなに長くはないと思います。なぜかって?お止めになりたいのですか。
– とんでもない。私は楽しんでやってますよ。あなたと一緒の仕事を楽しんでますよ。それからアーネルさんとの仕事も。でも最後まで持つだろうかと心配なのです。つまり要求される感受性を維持できるだろうかということです。このところ動揺させられることが多いものですから。
お気持は分かります。でも力を貸してくださいますよ。そのことは気づいていらっしゃるでしょう?邪魔が入らなくなったことなどアーネルさんがこれから自分が引き受けるとおっしゃってからは1度も邪魔は入っていませんよ。
– まったくおっしゃる通りです。あの時までの邪魔がぴたっと入らなくなったのが明らかに分かりました。ま、あなたが“これまで”と言ってくれるまで続けるつもりです。神のみ恵みを。では又の機会まで、さようなら。
おやすみなさい。
カスリーン
5章 造化の原理
1 スパイラルの原理
1918年3月11日 月曜日
– 創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。
私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。すべてが整然と構成されているのです。
巨大な造化の序列の間には向こうの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの( avenues とあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない – 訳者)で仕切られています。と言っても、序列のどれ1つとして他から隔離されたものはないので、それはただの“仕切り”division ではなく、横切って通るための“路”road でもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能をそなえた“部門”department なのです。
そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則がいくつかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。
しかし最も進化せる界層に顕現されている叡知と巧みさに満ちた豪華けんらんたる多様性も、原初においては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲(けみ)しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき華麗な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。
私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。
その仕切りの1つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側は神の思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。
それを見ると“動き”の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、こんどは同じくスパイラル状に、しかしこんどは原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現にすぎないことをこのあと述べている訳者)。
空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら章内部を下向していきます。
原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。
お気づきと思いますが、先端とか“底部”とか“上昇”とか“下降”という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。
さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い性分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。
エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。同じスパイラルでも細長い形もあれば偏平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。
鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また1つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。
同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。
しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。
月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽のまわりで行っております。完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。
以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。
こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。
地上生活から霊界へと入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその“部門”から次の“部門”へと移行することになります。横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。
– さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理のほかにも何か観察されたのでしょうか。
しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから…いや多分基本的だから単純なのでしょう。では、もう1つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。
吾々が知ったことは造化の神々はさきに述べたエーテル原子よりさらに遡(さかのぼ)った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する“偉大なる神々”であるということです。
そこで吾々はずっと下って材質の密度が運動を鈍らせるにいたる段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの1つは、正しく思惟(しい)し正しく意志を働かせることだということです。
物質を創造していく上でまず第1にマスターしなければならないことは“スパイラル状に思惟する”ということです。これ以上の説明は私にはできません。スパイラルに思惟する – これを習慣的に身につけるのは実に困難な業(わざ)です。
しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物 – 植物的生命の創造を観てみましょう。例の“通り”の1つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。
それを観察して知ったことは、植物界の1つ1つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。そしてそれは樹皮、枝葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間(かいま)みることができます。
– どうもお話について行けないのですが…もう少し説明していただけますか。
では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう1度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。天界はさまざまな発達段階の存在 – 権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。
このことは地上に関しても言えることです。したがってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなりやすいですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。
さて、さきほど述べかけた類似の原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。
カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。
この“内部から外部へ”という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして破れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深くさかのぼっても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。
同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。
そのうちの1つが、まず外皮があってその内部の美がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また1つは2つの性 – 能動的と受動的 – であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系でいえば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。
これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
アーネル†
訳者注 – 最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。
しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。
2 文明の発達におけるスパイラル
1918年3月15日 金曜日
– 今夜はどういう目的でいらしたのでしょうか。
例の顕現で学んだ教訓についての叙述を続けたいと思います。
– 例の類似性についてのお話の最後の部分がよく理解できませんでした。私には今1つ要領を得ない感じがしました。私は正しく受けとめていたでしょうか。
結構でした。取り損ねられたのは応用についての部分です。あの時はすでに消耗が度を越していたようです。今夜はその補足説明をしようと思います。さて、物的世界を支配する原理、すなわち物質の形態による外部への生命の顕現は霊的世界にも当てはまります。
まずスパイラルですが、これはそれ自体まさしく霊的世界に見られる原理の物的類似物と言えます。それは当然のことで、物的原子のすべてが意念の操作による産物だからです。
その意念の大根源が神です。その神から湧(わ)き出た動的意念が中間の界層を整然たる順序をへて降下し、物質の中に究極の表現を見出しているのです。したがって物的世界に見られるものは、そうした中間層を通過してきたエネルギーの産物なのです。前の例ではそのエネルギーがスパイラル運動によって発せられているのが分かります。
これは、もしそのエネルギーが流れる霊的界層においてもスパイラルの原理が働いているからこそであって、もしそうでなかったら有り得ないことです。ではどういう具合に働いているかを述べてみたいと思います。
実はヤシの葉状の王冠がそのスパイラルの原理の1つの象徴でした。スパイラル状に編まれておりましたし、例の顕現の中で王冠のまわりに集結した天使群も当然スパイラル状に整列しておりました。それが彼らの仕事の象徴のようなもので、その位置の取り具合によって吾々に教訓を読み取らせる意図があったのです。
では次にこれを動物的生命の創造に見てみましょう。そもそも“感覚”による動作が最初に見られるのは植物です。そしてそこにもスパイラルの原理がはっきりとした形で現れているのが分かります。たとえば豆科の植物は他のつる科の植物もみなそうであるように、スパイラル状に伸びます。典型的なスパイラルを描くものもあれば、少し形の崩れたのもありますが…
樹液の流れも幹を上昇しながら直線から曲線へ移行しようとする傾向を見せます。巻きひげによって登っていく植物も、ひげをスパイラル状に巻きつけて支えています。空中を遠く飛び散る種子も同じような曲線を描きながら地面へ落下します。
こうしたことはすべてスパイラルの原理の働きの結果で、太陽から送られるバイブレーションが地上の植物にまで届くのにもそれが作用しています。つまり虚空を通過してくる際にはミニチュアの形でスパイラル運動が生じ、みずから天体の回転を真似ているのです。
さてこれを動物界に見てみると、やはり同じ原理が働いていることが分かります。たとえば、小鳥は空中を飛ぶのにも滑空するのにも決して一直線は描かずに曲線を描く傾向があり、長い距離を行くとやはりスパイラル運動をしていることが明らかになります。
同じことが海中の動物にも陸上の動物にも言えます。ただ、進化すると、高等なものほどそれが明確に認められなくなります。自由意志が行使されるようになるからで、それが中心的原則から外れた行動を生むようになります。逆に自由意志が少なくなるほどその原則が明確に見られます。
たとえばカタツムリの殻をごらんになればよく分かります。海の動物の殻にも同じものが数多く見られます。自由意志に代って本能が作用しているからです。
一方、人間に関して言えば、個々の人間の個性よりも各民族全体を指導する大精神(※)に関わる事象においてそれが顕著に見られます。
たとえば文明は東から西へと進行し、幾度か地球を循回しています。その地球は太陽を中心として動いている。しかし太陽の子午線は赤道に沿って直線上に走っているわけではなく、地球がどちらかに傾くたびに北に振れたり南に振れたりしている。
こうした地球の動きは太古における地球の動きの名残りであり、同じスパイラル運動が支配している星雲から誕生したことを示しております。こうして現在は顕著なスパイラル運動はしていないとはいえ、地球上の文明の進路が続けて2度同じコースをたどることは決してありません。
文明の波が前と同じ経線のところまで戻ってきた時には地球自身の両極が何度か – 北極が南へ、南極が北へ – 傾いております。かくして太陽からの地球へのエネルギーの放射の角度が変わると、文明の進路も変化します。
こうしてその文明は言うなれば地球にとっての“新たな発見”という形をとっていくわけです。(幻の大陸と言われている)レムリアとアトランティスの位置についての憶測を考えていただけば、私の言わんとするところがお分かりいただけるでしょう。
(※地球の守護神のこと。これを人間的容姿を具えた神さまのように想像してはならない。地球の魂そのものであり、無形の霊的存在であり、前巻で述べた通り、これがキリストの地球的顕現である。人間はすべてその分霊を受けて生まれる。それを最も多くそして強力に体現したのがイエス・キリストということである – 訳者)
それだけではありません。この原理は文明のたどるコースだけでなく文明の産物そのものをも支配しています。これは説明がさらに困難です。こちらの世界ではそれを鮮明に認識することができます。
と言うのも、人類の精神的活動の様子が地上より生き生きと見えるだけでなく、広範囲の年代のことを1度に見ることができるからです。そういう次第で私は、人類の歩みが着実に上へ向いていること、しかしそれは巨大なスパイラルを描いていると明言することができます。
その意味を分かっていただくには“太陽の下に新しいものなし”(旧約・伝道の書1・9)という言葉を思い出していただくのが1ばん良いでしょう。これは文字どおりの真理というわ章けではありませんが、ある程度は言い当てております。
貴殿は、新しい発見が為されたあとでそれに似たものがすでに何千年も前に予測されていたということを聞かされたことがあるでしょう。私は予測されていたという言い方は賛成できません。
そうではなくて、このたびの新しい発見はそれに先立つ発見が為された時に科学が通過しつつあったスパイラル状の発達過程の位置のすぐ上の時期に当たるということです。発明・発見のスパイラルはあくまでも上昇しながら循回しているわけです。ですから発明・発見が“新しい”というのは、前回の循回の時のものの“新しい翻案”という意味においてのみ言えることです。
– 例を挙げていただけませんか。
エーテル分子(※)の人類の福祉のための活用がそのよい例といえるでしょう。この分野の科学は実にゆっくりとした段階で研究されてきたことにお気づきでしょう。とりあえず“燃焼”の段階から始めてみましょう。燃焼によって固体が気化されました。
次に、これによって熱を発生させることを知り、さらに熱によって生産した蒸気を利用することを知りました。続いて同じ気化熱を蒸気を媒介とせずに利用することを知り、さらに繊細なバイブレーションを活用することを知り、今日では急速に蒸気が電気へと変りつつあります。
が、さらに次の段階への1歩がすでに踏み出されており、いわゆる無線の時代へ移行しつつあります。
(※エーテルの存在はかつてオリバー・ロッジなどが主張していたが今日の科学では否定される傾向にある。がこの通信霊アーネルは第3巻でも明らかにその存在を認めた説明をしている。
“エーテル”といい“霊”といい、地上の人間がそう呼ぶから霊の方でもそう呼んでいるまでのことで、科学が存在を認めようと認めまいと、あるいは、たとえ認めてそれをどう呼ぼうと、霊の方は存在の事実そのものを目(ま)のあたりにした上で語っているのであるから、現在の科学理論でもって通信の内容の是非を論じるのは主客転倒であろう。なおこの1節は過去1世紀間の科学の発達を念頭に置いてお読みいただけば理解がいくであろう – 訳者)
ところが実はこうした一連の発達は、完成の度合こそ違え、現代の人間にはほとんど神話の世界の話となっている遠い過去の文明の科学者によって為されたことがあるのです。そしてさらに次の段階の発達も見えているのです。
それは“エーテルの活動”に代わって“精神の波動”(※)の時代が来ているということです。このことも実はすでに優れた先駆者の中にはその先見の明によって捉らえた人がいたのです。
が、道徳的に十分に発達していない人間によって悪用されるといけないので、その発表を止められていたのです。現代の人類でもまだ科学として与えられるにはもう少し霊的進化が必要でしょう。今の段階で与えられたら、益になるより害になる方が大きいでしょう。
(※エーテルの波動は言わば物的科学の原理ということであり、精神の波動は霊的科学の原理のことと解釈できるが、ただ最近見られる程度のもので超能力の威力を予測してはならない。まだまだ幼稚すぎるからである – 訳者)
それは別として、現段階の科学の発達は、同じ分野に関して、前回の周期(サイクル)の時にストップしたままの段階よりはさらに発展することでしょう。
前回のサイクルにおいて科学の発達が下降しはじめ、それまでに成就されたものが霊界側に吸収されて、次のサイクルが巡ってきた時点で、それまでの休息の時代に霊界で担当の霊によってさらに弾(はず)みをつけられたものが、受け入れるだけの用意の出来た人類に授けられることになります。
霊界を内側と呼ぶならば地上界は外側ということになり、すでに述べたエーテル原子の動きと同じ原理が地上界に再現されていることになります。この問題にはまだまだ奥があるのですが、それを貴殿が理解できるように言語で述べることは不可能です。
要するにこれまで説明してきた原理がいま私が例を挙げたような力学においてだけでなく、政治においても、植物および動物の“種”の育成においても、天文学においても、化学においても働いていると理解していただけば結構です。
– 星術と錬金術とは現代の天文学と化学との関係と同じ類似性をもつものだったのでしょうか。
それは違います。断じてそうではありません。今夜の話は(人間の歴史の)世紀を単位としたものではなくて(地球の歴史の)代(エオン)を単位としています。占星術と錬金術はその二つの現代の科学の直接の生みの親であり、私のいう巨大なスパイラルの中の同じサイクルに属し、その距離はわずかしか離れておらず、少し傾斜した同じ平面にあります。
L
私のいう類似物とは違いますが、ただ、化学については一言だけ付け加えておきたいことがあります。それで今夜はおしまいにしましょう。
化学というのは高級神霊が中心的大精神に発したバイブレーションが多様性と変異性とへ向けての流れを統御していく活動の中でも最も外的な表現であるということです。すなわち神に発した生命の流れが霊の段階を通過して物質となって顕現する活動の中で、化学的物質が分化の過程によって細分化され、さらに分子となっていきます。
そして最低の次元に到達するとその衝動がこんどは逆方向へ向かい、上方へ、内部へと進行します。分析化学にたずさわる人はその統一性から多様性へと向かう衝動にしたがっているわけです。反対にそれを統合しようとする化学者はその流れに逆らっているわけですから、試行錯誤の多い、効率の悪い仕事にたずさわっていることになります。
多様性から統一性へと向かわせようとしているからです。言わば内部におけるコースがまだまだ外部へ向けてあくまでスパイラル状に行進を続けようとしているのに、その人だけは宇宙原子の1ばん外側のスパイラルで踵(きびす)を返してしまっているのです。
この通信は前回の通信と照らし合わせて検討してください。
アーネル†
3 2人3脚の原理
1918年3月22日 金曜日
今夜も例の顕現の場における宇宙創造に関する研究から得た原理をテーマとして述べてみたいと思います。エネルギー作用におけるスパイラルの原理についてはすでに述べました。そこでもう一つ吾々が学んだ原理をお教えしましょう。
創造的生命のあらゆる部門においてその発展を司(つかさど)る者がかならず遭遇し適応しなければならないものに、潜在的な反抗的衝動があります。その影響力が生ずるに至った始源をたどれば悠久の太古にさかのぼり、しかもそれは神の心を物質という形態での顕現を完遂させようとする天使群の努力の中から生じたものなのです。
当時 – はるか太古のことですが – その完遂へ向けての道程に関して天使群の間で意見が2つに分かれました。時間をかけるべきと主張する側と早く仕上げるべきと主張する側です。
と言っても真っ向から対立したわけではありません。その考え方には共通した部分がいろいろとありました。が、不一致から生じた混乱によって今日人間が“悪”と呼ぶ要素が生まれたのです。
今すべてが完成へ向けて進行していることは事実です。が、そのための活動の分野は無限といえるほど広大であり、当然それに要する期間は地上の年数で計算すれば無限といってもいいでしょう。
永遠の存在である神の目から見れば長いも短いもないのですが、川の流れと同じで、上から見下ろせば1つの流れであっても、これを始源からたどれば全体をカバーするに延々とした道のりとなります。
造化の進展におけるその多様性が現時点の地球意識が機能している外的界層にいかに顕現しているかは貴殿にもお分かりでしょう。
と言うのは、地球の表面には一方においては今なお発達途上にある才能の蓄積を生み、他方においては進化の大機構における目的に寄与して今や生命の質の向上によっていっそう入り組んだより敏感な媒体が必要となったために捨てられてしまった、かつての天使の叡智の試練の贈(たまもの)があふれている – 否、地球全体がそれによって構成されていると言えるほどだからです。
遠い太古の遺物にもそのことが言えますが、他方、発展せんとする衝動の強さにとって媒体が不適当であることが表面化し、窮屈となり、生命の鼓動が小さくなり、無力化し、ついにその系統の進化活動が停止するに至ったことを物語るものもあります。
現在化石として残っている巨大な哺乳動物や爬虫類は創造物としては高度の技術を要した素ばらしい産物でした。が、現時点から見るとお粗末で不格好な作品に見えます。
ただ見落としてならないのは、そうしたぎごちない創造物の中にも、今なお進化の過程にある生き生きとして進歩性に富む生命力の宿る神殿(媒体)の基礎を据える上で役に立ったものがあるということです。そうした基礎工事にくらべれば神殿のデザインがいかに改良されてきたかがお分かりになると思います。
いま貴殿らが立って眺めている階段の標高がいかに高いかもお分かりでしょう。その位置からは、今日の地上の生命の基礎が据えられた時の地球と同じ段階にある新しい天体の造化に当たっている他の天使群の作業場が、はるか虚空の彼方に見晴らせるのです。
そこで私のいうもう1つの原理はこうです。発展というのはかならず2重のコースが並行して進みます。1つはすでに述べた通りの統一性から多様性へ向けるのコースですが、それと並行してかならず、その対(つい)であるところの霊的なものから物的なものへのコースが伴うということです。
両者は常に並んで走る2人のランナーのようなものです。1人は“統一性から多様性へ”のランナー、もう1人は“霊から物質へ”のランナーです。2人は常に同じペースで走らなければなりません。一方が他方を追い越すことは許されません。競争ではなく、同時にゴールインしなければならないのです。
ところが、その造化の大業にたずさわる者の中にタイミングの読みを間違えて、まだゴールの標識に至らないうちに外部への進展を止め、その創造的生命力をふたたび霊の方向へ向かわせる操作をした者がいたのです。その標識とは地上の科学者が“宇宙”と呼んでいるところの、創造的活動の物質的表現のことです。
実はそれが宇宙のすべてではありません。もっと奥深い次元での内的顕現の物質的側面にすぎません。その背後には造化を司(つかさど)る天使群が控え、意念の活性化によって、銀河の世界の恒星の大艦隊が首尾よく物質の大海原を航海し、目指す港に到着すればくるりと向きを変えて帰路につけるように、たゆみなくその操作に当たっているのです。
しかし、帰路に着くといっても、来た時と同じ航路を逆戻りするのではありません。と言うのは、疾風怒濤の荒波を乗り越えてきた航路において生命の多彩な表現の豊かさを身につけて、最初に船出した時はただの漕(こ)ぎ手と荷上げ人足にすぎなかったのが今や1人ひとりが船長の資格をもち、指導者としての霊格を身につけていますから、来た時よりはるかに陽光にあふれた航路を進むことになるのです。
さて私がさきほど混乱を生じたと申し上げたのは、その進化の天使群のうちの一部が目指す港への到着を待ちきれずに旋回しようと企(くわだ)てたことです。艦隊はすでに悠久の時を閲(けみ)しながら航海してきて、その大海のど真ん中で帆をいっぱいに膨らませたまま旋回しようというのです。
疾風と怒濤の真っ只中です。各船体が大きく揺れ、激突し合って今にも沈没しかけるものもありました。そこに至って彼らもやはり順風を受けて進むべきであることを思い知らされ、ふたたび当初の目的地へ向きを戻したのでした。
そうしてようやく目指す港へ着いた時は船体は傷つき、帆は破れ、くぐり抜けてきた嵐の跡がそこかしこに見られるのでした。
以上の物語の意味を説明しましょう。大海は無限絶対の心すなわち神が外部へ向けて顕現していく“存在の場”です。艦隊は神の命を受けて造化に当たる天使群によって創造された“顕幽にまたがる宇宙”です。外部へ向けてのコースの目指す港は現在の地球が一部を占めている“物的宇宙”です。
帰路のコースは貴殿らがいま向かいつつあるものです。最も外側の地点までたどり着き、そこの標識を今まさに折り返しつつあるところです。今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、人類がその折り返し点に来ているから – 不活撥な物質の港から活磯な外洋へと船出せんとしている、その旋回が原因です。
そのうち帆に風をいっぱいに受けてぶじ帰路に着くことでしょう。そして土官も乗組員も上機嫌となり、艦隊が存在の場を波を切って進むにつれて、悠久の昔に船出した母港へと近づきます。すでに光が射しはじめ神の微笑が見えるはるか遠い東の空に待ちうける歓待へ向けて進むにつれて、喜びと安らぎが次第に増していくのです。
– 混乱が生じたのはいつ頃のことだったのでしょうか。つまり造化にたずさわる天使群が過ちを犯しはじめたのは進化のどの段階でのことだったのでしょうか。
私にもたどることができないほど遥か遠い昔のことでした。さらに言えば、地上の視点からすれば“読みを間違えた”ように思えるかも知れませんが、実際にはかならずしもそうではないのです。
私は貴殿からは見えない所に位置しておりますが、進歩の程度からいえば、ほんの1歩先を歩んでいるだけです。私およびここにいる私の仲間たちには、その“間違えた”と言っているものも、目指す港に着いてみれば現在の吾々が考えているものとは異なったものであるように思えるのです。
吾々が“悪”だとか“不完全”だとか決めつけ、そう思い込んでいるものも、そこへ行き着けばまるでミニチュアの小島の岩に打ち寄せる小さな波のようなもの – 無限なる大海の真っ只中の小さな1滴にすぎないのです。
その波が砕けて(大げさに)しぶきを上げているように思えます。が、落ちゆくところは母なる海であり、しょせん元の大海は増えてもいなければ減ってもいないのです。
吾々はその真っ只中の1点の島に当たって砕け散ったカップ1杯ほどの水でもって海の深さを測ってはならず、豊かなその懐(ふところ)の威厳を推し測ってもならないように、無限なるもののほんの1かけらを取りあげて神の偉大なる叡智に評価を下してはなりません。
ある時1匹のアリが仲間に言いました。「なあ、オレたちはアリマキよりは頭がいいんだよな。あいつらを働かせてオレたちが要るものを作らせてるんだから…」
「そりゃあそうさ」と仲間は答えました。ところがそこへアリ食いが現われて、そのアリたちの知恵も一瞬のうちに消えてしまいました。アリ食いは日なたで寝そべってこうつぶやきました。
「アリたちはあんなことを言ってやがったが、みろ、オレはその上を行ったじゃないか。だが、オレよりもっと大きな知恵をもったヤツがいるに違いないんだ…」
人間がアリと同じような考えでいても、宇宙にはもっと大きい、そしてそれに似合った力を具えた存在がいるのです。そういう大きな存在はせっかちな結論は下しません。それを知恵が足りないからだと考えてはなりません。
アーネル†
4 通信の中断
1918年3月25日 月曜日
吾々がこれまでに述べたことは、言ってみれば神の衣の“ふさべり”に触れた程度にすぎません。その衣は神の光と美をおおい隠すと同時に、それを明かすこともします。貴殿が精神をお貸しくだされば吾々はもう少し深入りできそうです。お伝えしたいことはいくらでもあります。貴殿の伝達能力の範囲で可能なかぎりのことをお話してみましょう。
そのことでお願いしておきたいのは、日常生活の身のまわりに生じる出来ごとの裏側に存在する神の意図を吾々が説き明かすのを、根気よく聞いていただきたいということです。霊界の者は人間の1人1人に生じる出来ごとに細かく通じております。
そこでこちらから手助けしょうとするのですが、さまざまな障害のために見過さざるを得ないことがあります。吾々霊団の者としても、際限なく広がり何1つ行く手を遮(さえぎ)るもののないエネルギーを秘めた生命の海の中にあっては、ほんの小さな存在にすぎません。
物質となって顕現している宇宙と、全存在の源であり、収穫の時期にはすべての稔りが取り入れられる大中心との因果関係については、すでにいくつか述べました。
ところで、吾々が例の王冠状の大ホールの中に立った時、大中心から流れくる強烈なエネルギーによる圧迫感を身辺に感じ取って、みな陶然となりました。そこには静寂と威厳と美の中にことばがキリストとなって顕現していたのです。
ここのところによく注目してください。そのとき吾々はキリストの霊と、そのキリストを通して奥深き未知なる存在から流れ来たったものを目(ま)のあたりにしていたのです。それはキリストを通して恒間(かいま)みる以外には吾々にとってまったく未知の世界なのです。
それが今キリストを通して吾々の同化吸収力を超えた重みとスケールをもって放射され、強烈なエネルギーの威圧を感じていたのです。しかもキリストがすぐ目の前におられてその個性の内部と背後の光のいくばくかを吾々の教化と高揚とより完全なる喜びを味わわせるために放射されていることだけは確実に理解することができました。
キリストは例の創造活動の大展覧が周囲に展開し終るまで完全な静止状態のまま立っておられました。その様子はあたかも創造の驚異を吾々に展示せんがために全能力を最高に緊張させておられるようでした。それが終り、雄大な展覧が完了すると、そこで一息入れられました。
するとその背後に玉座が出現し、同時に玉座の背後に得も言われぬ美しい天使の姿が次々と出現し、礼拝の姿勢でじっとしています。するとキリストがくるりと背をこちらへ向け、7つの階段を上がって玉座に腰かけられました。
するとその上がり段の前に通路が現われ、それが伸びて人類を展示してある区画を取り囲むように位置する天使群のところまで来ました。すると天使の群れはその通路を通って玉座の前まで足を運び、そこで全員が立ち止まり、視線を地面へ向けました。
するとその背後の人類の区画の方角から歌声が響いてきました。遠い遠い虚空の腹部から出てくる壮大なダイヤペーソン(音域の全てが1つになった音)のようなハミングで、あたかも天体と天体との間にハープの弦を張ったのかと思われるほどの壮大さでした。その低音のハミングの調和のとれた響きはキリストの前に整列した天使群の一体化を象徴しておりました。
そう見ていると、玉座の背後から1人の輝く大天使が現われ、キリストの右に立って、集結した天使群に語りかけました。その言葉は吾々にも鮮明に聞き取ることができました。
が、その間も遠き虚空の彼方から響いてくる歌声は止まず、その歌声の響く中でその大天使はキリストが全宇宙による愛を顕現されるために払われた犠牲が立証されたことを語って聞かされたのでした。
原著者注 – この時点で私の霊力が尽き、それ以後(まる1年間)交信が途絶えた。霊力が尽きたのは牧師としての仕事と第1次大戦に関連した仕事による私の過労のせいである。この2つの足枷(かせ)は私には大きすぎ、このように突然、通信がストップしてしまった。
(半月後の)4月10日の水曜日に妻がプランセットで通信していた中で父親にこう質問した。「ジョージ(オーエン)との通信はなぜストップしたのでしょうか」すると次のような返事が綴られた。
「説明しよう。あのころジョージは疲労がひどく、そのうえ夏も近づいていて、自分でも通信を中止したい気持になっていた。たしかに休息が必要な状態になっており、これで良くなるだろう。これで通信が終わってしまったと思ってはいけない」
訳者注 – その疲労のせいと思われるが、この第5章の通信はこれまでになく読みづらく、従って訳しにくかった。とくに最後の通信はオーエン自身のキリスト教的先入観がかなり混入しているのではないかと思われるふしがある。
が、かつてのナザレのイエスが死後その本来の霊的資質を取り戻し、地上経綸の主宰霊として大々的に活躍していることは、イムペレーターもシルバーバーチも異口同音に述べていることであり、本通信に出てくる“キリストの顕現”は、イムペレーターのいう“高級神霊による讃仰の祈りのための会合”、シルバーバーチのいう“指導霊ばかりの途方もない大集会”などの催しにおいてもそのイエスが主宰していることを考え合わせると、民族・国家の違いによって大小さまざまな形はあるにしても、今なおひんぱんに行われているものと私は信じている。
6章 創造界の深奥
1 人類の未来をのぞく
1919年2月19日 水曜日
今夜貴殿と共にいるのは、1年前に王冠状の大ホールにおける儀式についての通信を送っていた霊団の者です。ご記憶と思いますが、あの時は貴殿のエネルギーの消耗が激しかったために中止のやむなきに至りました。このたび再度あの時のテーマを取り上げて、今ここでその続きを述べたいと思います。
キリストと神への讃仰のために玉座に近づいたのは人類を担当する天使群でした。すると玉座の背後から使者が進み出て、幾つもの部門に大別されたその大群へ向けて言葉をかけられた。
天使とはいえその部門ごとに霊的発達程度は様々で、おのずから上下の差がありました。その部門の1つひとつに順々に声をかけて、これから先の進化へ向けて指導と激励の言葉をお与えになられたのでした。以上が前回までの要約です。
では儀式の次の段階に進みましょう。創造の主宰霊たるキリストが坐(ま)す玉座の周りに一郡の霧状の雲が出現しました。その中で無数の色彩がヨコ糸とタテ糸のように交錯している様子は見るからに美しい光景でした。
やがてその雲の、玉座の真後ろになる辺りから光輝が扇状に放射され、高くそして幅広く伸びていきます。主はその中央の下方に位置しておられます。その光は青と緑と琥珀色をしており、キリスト界の物的部門 – 地球や惑星や恒星をこれから構成していく基本成分から成る(天界の)現象界 – から生産されるエネルギーが放散されているのでした。
やがてその雲状のものが活発な動きを見せながら凝縮してマントの形態を整えたのを見ると、色彩の配置も美事な調和関係をみせたものになっておりました。それが恍惚たる風情(ふぜい)の中に座する主宰霊キリストに掛けられ身体にまとわれると、それがまた一段と美しく映えるのでした。
全体の色調は青です。深く濃い青ですが、それでいて明るいのです。縁取りは黄金色、その内側がボーダー(内べり)となっていて、それが舗道に広がり、上がり段にまで垂れております。ボーダーの部分が特に幅が広く、金と銀と緑の色調をしており、さらに内側へ向けて深紅と琥珀の2本の太い筋が走っております。
時おり永い間隔を置いてその青のマントの上に逆(さか)さまになった王冠(そのわけをあとでオーエン氏自身が尋ねる – 訳者)に似たものが現れます。冠の縁にパールの襟飾りが付いており、それが幾種類もの色彩を放っております。
パールグレー(淡灰色)ではなくて – 何と言えばよいのでしょうか。内部からの輝きがキリストの頭部のあたりに漂っております。といって、それによってお顔が霞むことなく、後光となってお顔を浮き出させておりました。
その後光に照らされた全体像を遠くより眺めると、お顔そのものがその光の出る“核”のように見えるのでした。しかし実際はそうではありません。“そう見えた”というまでの事です。頭部には王冠はなく、ただ白と赤の冠帯がつけられており、それが頭髪を両耳の後ろで留めております。前にお話した“祈りの冠帯(ダイアデム)”にどこか似ておりました。
– このたびは色彩を細かく説明なさっておられますが、それぞれにどんな意味があるのでしょうか。
吾々の目に映った色彩はグループ毎に実に美しく且つそれなりの意図のもとに配置されていたのですが、その意図を細かく説明する事は不可能です。が、大体の意味を、それも貴殿に理解できる範囲で述べてみましょう。
後光のように広がっていた光輝は物質界を象徴し、それを背景としてキリストの姿を明確に映し出し、その慈悲深い側面を浮き上がらせる意図がありました。頭部の冠帯は地上の人類ならびにすでに地上を去って霊界入りした人類の洗練浄化された精髄の象徴でした。
– 赤色と白色をしていたとおっしゃいましたが、それにも意味があったのでしょうか。
ありました。人類が強圧性と貪欲性と身勝手さの境涯から脱して、全てが一体となって調和し融合して1つの無色の光としての存在となっていく事を赤から白への転換として象徴していたのです。その光は完璧な白さをしていると同時に強烈な威力も秘めております。
外部から見る者には冷ややかさと静けさをもった雪のような白さの帯として映じますが、外側から見ると白い光は冷たく見えます。内側から見る者には愛と安らぎの輝きとして見えます。
– あなたもその内側へ入られた訳ですか。
いいえ、完全に内側まで入った事はありません。その神殿のほんの入口のところまでです。それも、勇気を奮いおこし意念を総結集して、ようやくそこまで近づけたのでした。しかもその時1回きりで、それもお許しを得た上での事でした。
自分で神殿の扉を開けたのではありません。創造界のキリストに仕える大天使のお1人が開けて下さったのでした。私の背後へ回って、私があまりの美しさに失神しないように配慮して下さったのです。
すなわち私の片方の肩の上から手を伸ばしてその方のマントで私の身体を覆い、扉をほんの少しだけ押し開けて、少しの間その状態を保って下さいました。かくして私は、目をかざされ身体を包み隠された状態の中でその内側の光輝を見、そして感じ取ったのでした。
それだけでも私は、キリストがその創造エネルギーを行使しつくし計画の全てを完了なされた暁に人類がどうなるかを十分に悟り知る事ができました。すなわち今はそのお顔を吾々低級なる霊の方へお向けになっておられる。吾々の背後には地上人類が控えている。吾々はその地上人類の前衛です。
が、計画完了の暁にはお顔を反対の方へ向けられ、無数の霊を従えて父の玉座へと向かわれ、そこで真の意味で全存在と一体になられる。その時には冠帯の赤は白と融合し、白も少しは温みを増している事でしょう。
さて、貴殿の質問で私は話をそらせて冠帯について語る事になってしまいましたが、例の青のマントについては次のように述べておきましょう。すなわち物質の精髄を背景としてキリスト及びマント、そして玉座の姿かたちを浮き上がらせた事。
冠帯は現時点の地上人類とこれ以後の天界への向上の可能性とを融合せしめ、一方マントは全創造物が父より出でて外部へと進化する時に通過したキリストの身体を覆っている事。
そのマントの中に物質と有機体を動かし機能させ活力を賦与しているところの全エネルギーが融合している、といったところです。その中には貴殿のご存じのものも幾つかあります。電気にエーテル。これは自動性はなくてもそれ自身のエネルギーを有しております。
それから磁気。そして推進力に富んだ光線のエネルギー。もっと高級なものもあります。それら全てがキリストのマントの中で融合してお姿を覆いつつ、しかもお姿と玉座の輪郭を際立たせているのです。
– “逆さま”の王冠は何を意味しているのでしょうか。なぜ“逆さま”になっているのでしょうか。
キリストは王冠の代りに例の赤と白の冠帯を付けておられました。そのうち冠帯が白1色となりキリストの純粋無垢の白さの中に融合してしまった時には王冠をお付けになられる事でしょう。
その時マントが上げられ広げられ天界へ向けて浮上し、今度はそのマントが反転してキリストとその玉座の背景として広がり、それまでの光輝による模様はもはや見られなくなる事でしょう。
又その時すなわち最終的な完成の暁に今1度お立ちになって総点検された時には、頭上と周囲に無数の王冠が、“逆さま”ではなく正しい形で見られる事でしょう。デザインは様々でしょう。が、それぞれの在るべき位置にあって、以後キリストがその救える勇敢なる大軍の先頭に立って率いて行く、その栄光への方向を指し示す事でしょう。
アーネル†
訳者注 – 王冠がなぜ逆さまかについては答えられていないが、それがどうであれ、霊界の情景描写は次元が異なるので本来は全く説明不可能のはずである。アーネル霊も“とても出来ない”と再三断りつつも何とか描写しようとする。すると当然、地上的なものになぞらえて地上的な言語で表現しなければならない。
しかもオーエンがキリスト教の概念しか持ち合わせていないためにそのなぞらえるものも用語も従来のキリスト教の色彩を帯びる事になる。例えば最後の部分で“最終的な完成の暁”とした部分は in that far Great Day となっていて、これを慣用的な訳語で表現すれば“かの遠い未来の最後の審判日”となるところである。
が“最後の審判日”の真意が直訳的に誤解されている今日では、それをそのまま用いたのでは読者の混乱を招くので私なりの配慮をした。マント、玉座等々についても地上のものと同じものを想像してはならない事は言うまでもないが、さりとて他に言い表しようがないので、そのまま用いた。
2 光沢のない王冠
1919年2月20日 木曜日
やがて青色のマントが気化するごとくに大気の中へ融け入ってしまいました。見ると主は相変わらず玉座の中に座しておられましたが、装束が変わっていました。両肩には同じ青色をしたケープ(外衣)を掛けておられ、それが両脇まで下り、その内側には黄金の長下着を付けておられるのが見えました。
座しておられるためにそれが膝の下まで垂れていました。それが黄金色の混った緑色の幅の広いベルトで締められており、縁取りはルビー色でした。冠帯は相変わらず頭部に付いていましたが、その内側には一群の星がきらめいてそれが主の周りに様々な色彩を漂わせておりました。
主は右手に“光沢のない”白の王冠を持っておられます。主の周りにあるもので光沢のないものとしては、それが唯一のものでした。それだけに一層吾々の目につくのでした。やがて主が腰をお上げになり、その王冠をすぐ前のあがり段に置かれ、吾々の方へ向いてお立ちになりました。それから次のようなお言葉を述べられました。
「そなたたちはたった今、私の王国の中をのぞかれ、これより先の事をご覧になられた。が、そなたたちのごとくその内部の美しさを見る事を得ぬ者もいる事を忘れてはならぬ。かの飛地にいる者たちは私の事を朧(おぼ)ろげにしか思う事ができぬ。まだ十分に意識が目覚めていないからである。ラメルよ、この者たちにこの遠く離れた者たちの現在の身の上と来るべき宿命について聞かせてあげよ」
すると、あがり段の両脇で静かに待機していた天使群の中のお1人が玉座のあがり段の1番下に立たれた。白装束をまとい、左肩から腰部へかけて銀のたすきを掛けておられました。
その方が主にうながされて語られたのですが、そのお声は一つの音声ではなく無数の和音(コード)でできているような響きがありました。共鳴度が高く、周りの空中に鳴り響き、上空高くあがって1つひとつの音がゴースの弦に触れて反響しているみたいでした。
1つ又1つと空中の弦が音を響かせていき、やがて、あたかも無数のハープがハーモニーを奏でるかの如くに、虚空全体が妙(たえ)なる震動に満ちるのでした。
その震動の中にあって、この方のお言葉は少しも鮮明度が失われず、ますます調子を上げ、描写性が増し、その意味する事柄の本性との一体性を増し、ますます具体性と実質性に富み、あたかも無地のキャンバスに黒の絵の具で描きそれに色彩を加えるような感じでした。従ってその言葉に生命がこもっており、ただの音声だけではありませんでした。こう語られたのです。 –
「主の顕現がはるか彼方の栄光の境涯にのみ行われているかに思えたとて、それは一向にかまわぬ事。主は同時にここにも坐(ま)します。われらは主の子孫。主の生命の中に生きるものなればなり。
われらがその光乏しき土地の者にとりて主がわれらに対するが如く懸け離れて見えたとて、それもかまわぬ事。彼らはわれらの同胞であり、われらも彼らの同胞なればなり。
彼らが生命の在り処(ありか)を知らぬとて – それにより生きて、しかも道を見失ったとて、いささかもかまわぬ事。手探りでそれを求め、やっとそのひとかけらを手にする。しかし少なくともその事において彼らの努力は正しく、分からぬながらもわれらの方へ向けて両手を差しのべる。
それでも暗闇の中で彼らは転びあるいは脇道へと迷い込む。向上の道が妨げられる。その中にあって少しでも先の見える者は何も見えずに迷える者が再び戻ってくるのを待ち、ゆっくりとした足取りで、しかし一団となりて、共に進む。
その道程がいかに長かろうと、それは一向にかまわぬ事。われらも彼らの到着を待ち、相互愛の中に大いなる祝福を得、互いに与え与えられつつ、手を取り合って向上しようぞ。途中にて躓(つまず)こうと、われらへ向けて歩を進める彼らを待たん。あくまでも待ち続けん。
あるいはわれらがキリストがかの昔、栄光の装束を脱ぎ棄てられ、みすぼらしく粗末な衣服をまとわれて、迷える子羊を求めて降りられ、地上に慰めの真理をもたらされた如くに、われらも下界へ赴きて彼らを手引きしようぞ。
主をしてそうなさしめた力が最高界の力であった事は驚異なり。われらのこの宇宙よりさらに大なる規模の宇宙に舞う存在とて、謙虚なるその神の子に敬意を表し深く頭を垂れ給うた。
なんとなれば、すでに叡智に富める彼らですら、宇宙を創造させる力が愛に他ならぬ事 – 全宇宙が愛に満ち愛によりて構成されている事を改めて、またいちだんと深く、思い知らされる事になったゆえである。
ゆえに、神が全てを超越した存在であっても一向にかまわぬ事。われらにはその子キリストが在(ま)しませばなり。
われらよりはるかに下界に神の子羊がいても一向にかまわぬ事。キリストはその子羊のもとにも赴かれたるなり。
彼らがたとえ手足は弱く視力はおぼろげであろうと一向にかまわぬ。キリストが彼らの力であり、道を大きく誤る事なく、あるいはまた完全に道を見失う事のなきよう、キリストが彼らへの灯火(ランプ)となる事であろう。
また、たとえ今はわれらが有難くも知る事を得たより高き光明界の存在を彼らが知らずとも、いつの日かわれらと共に喜びを分かち、われらも彼らと喜びを分かつ日が到来しよう – いつの日かきっと。
が、果たしてわれらのうちの誰が、このたびの戦いのために差し向けられる力を背に、かの冠を引き受けるのであろう。自らの頭に置く事を申し出る者はどなたであろうか。それは光沢を欠き肩に重くのしかかる事を覚悟せねばならぬが。信念強固にして一途なる者はここに立ち、その冠を受け取るがよい。
今こそ光沢を欠くが、それは一向にかまわぬ事。いずれ大事業の完遂の暁には、内に秘められた光により燦然と輝く事であろう」
語り終わると一場を沈黙が支配しました。ただ音楽のみが、いかにも自ら志願する者が出るまで終わるのを渋るが如くに、物欲しげに優しく吾々の周りに漂い続けるのでした。
その時です。誰1人として進み出てその大事業を買って出る者がいないと見て、キリスト自らが階段を下りてその冠を取り上げ、自らの頭(こうべ)に置かれたのです。それは深く眉のすぐ上まで被さりました。それほど重いという事を示しておりました。
そうです、今もその冠はキリストの頭上にあります。しかし、かつて見られなかった光沢が少し見え始めております。そこで主が吾々にこう述べられました –
「さて友よ、そなたたちの中で私について来てくれる者はいるであろうか」その御声に吾々全員がひざまずき、主の祝福を受けたのでした。
アーネル†
3 神々による廟議(びょうぎ)
1919年2月26日 水曜日
– その“尊き大事業”というのは何でしょうか。(訳者注 – 前回の通信との間に一週間の空白があるのに、いかにもすぐ続いているような言い方をしているのは多分その前に前回の通信についての簡単なやりとりがあったか、それともオーエンがそのように書き改めたかのいずれかであろう)
それについてこれから述べようと思っていたところです。貴殿も今夜は書き留める事ができます。この話題はここ何世紀かの出来事を理解して頂く上で大切な意味をもっております。
まず注目して頂きたいのは、その大事業は例の“天使の塔”で計画されたものではないという事です。これまでお話した界層よりさらに高い境涯において幾世紀も前からもくろまれていた事でした。
いつの世紀においても、その頭初に神界において審議会が催されると聞いております。まず過去が生み出す結果が計算されて披露されます。遠い過去の事は簡潔な図表の形で改めて披露され、比較的新しい世紀の事は詳しく披露されます。
前世紀までの2、3年の事は全項目が披露されます。それらがその時点で地上で進行中の出来事との関連性において検討されます。それから同族惑星の聴聞会を催し、さらに地球と同族惑星とを一緒にした聴聞会を催します。
それから審議会が開かれ、来るべき世紀に適用された場合に他の天体の経綸に当たっている天使群の行動と調和するような行動計画に関する結論が下されます。悠揚せまらぬ雰囲気の中に行われるとの事です。
– “同族惑星”という用語について説明してください。
これは発達の程度においても進化の方向においても地球によく似通った惑星の事です。つまり地球によく似た自由意志に基づく経路をたどり、知性と霊性において現段階の地球に極めて近い段階に達している天体の事です。
空間距離において地球に非常に近接していると同時に、知的ならびに霊的性向においても近いという事です。
– その天体の名前をいくつか挙げていただけますか。
挙げようと思えば挙げられますが、やめておきます。誰でも知っている事を知ったかぶりをして…などと言われるのはいやですから。貴殿の精神の中にそれにピッタリの成句(フレーズ)が見えます – to play to the gallery(大向うを喜ばせる、俗受けをねらう)。最もそれだけが理由ではありません。
同じ太陽“域”の中にありながら人間の肉眼に映じない天体もあるからです。それもその中に数えないといけません。さらには太陽域の1番端にあって事実上は他の恒星の引力作用を受けていながら、程度においては地球と同族になるものも、少ないながらあります。それから太陽“域”の中 –
– 太陽“系”の事ですか。
太陽系、そうです – その中にあってしかも成分が(肉眼に映じなくても)物質の範疇(はんちゅう)に入るものが2つあります。現在の地上の天文学ではまだ問題とされておりませんが、いずれ話題になるでしょう。しかしこんな予言はここでは関係ありません。
そうした審査結果がふるいに掛けられてから、いわば地球号の次の航海のための海図が用意され、ともづなが解かれて外洋へと船出します。
– それらの審議会においてキリストはいかなる位置を占めておられるのでしょうか。
“それら”ではなく“その”と単数形で書いて下さい。審議会はたった1つだけです。が会合は世紀ごとに催されます。出席者は絶対不同という訳ではありませんが、変わるとしても2、3エオン(※)の間にわずかな変動があるだけです。創造界の神格の高い天使ばかりです。その主催霊がキリストという訳です。(※EON 地質学的時代区分の最大の期間で、億単位で数える – 訳者)
– 王(キング)ですか。
そう書いてはなりますまい。違います。その審議会が開かれる界層より下の階層においては王ですが、その審議会においては“主宰霊”です。これは私が得た知識から述べているにすぎません。実際に見た訳ではなく、私および同じ界の仲間が上層界を通して得たものです。これでお分かりでしょうか。もっと話を進めましょうか。
– どうも有難うございました。私なりに分かったように思います。
それは結構な事です。そう聞いてうれしく思います。それというのも、私はもとより、私より幾らか上の界層の者でも、その審議会の実際の様子は象徴的にしか理解されていないのです。私も同じ手法でそれを貴殿に伝え、貴殿はそれに満足しておられる。結構に思います。
では先を続けさせて頂きます。以上でお分かりの通り、審議会の主宰霊たるキリスト自らが進んでその大事業を引き受けられたのです。それは私と共にこの仕事に携わっている者たちの目から見れば、そうあってしかるべき事でした。
すなわち、いかなる決断になるにせよ最後の責任を負うべき立場の者が自ら実践し目的を成就すべきであり、それをキリストがおやりになられたという事です。今日キリストはその任務を帯びて地上人類の真只中におられ、地球へ降下された後、既にその半ばを成就されて、方向を上へ転じて父の古里へと向かわれています。
この程度の事で驚かれてはなりません。もっと細かい事をお話する予定でおります。以上の事は雄牛に突き刺した矢印と思って下さい。抜き取らずにおきましょう。途中の多くの脇道にまぎれ込まずに無事にゴールへ導くための目印となるでしょう。
脇道にもいろいろと興味ぶかい事があり、勉強にもなり美しくもあるのですが、今の吾々にはそれは関係ありません。私がお伝えしたいのは地球に関わる大事業の事です。他の天体への影響の事は脇に置いて、地球の事に話題をしぼりましょう。少なくとも地球を主体に話を進めましょう。
ただ1つだけ例外があります。貴殿は地球以外の天体について知りたがっておられる様子なので、そのうちの火星について述べておきましょう。最近この孤独な天体に多くの関心が寄せられて、科学者よりも一般市民の間で大変な関心の的となっております。そうですね?
– そうです。ま、そう言っても構わないでしょう。
その原因は反射作用にあります。まず火星の住民の方から働きかけがあったのです。地球へ向けて厖大な思念を送り、地球人類がそれに反応を示した – という程度を超えて、もっと深い関係にあります。
そうした相互関係が生じる原因は地球人類と火星人類との近親関係にあります。天文学者の中には火星の住民の事を親しみを込めて火星人(マーシャン)と呼んでいる人がいますが、火星人がそれを聞いたら可笑(おか)しく思うかも知れません。
吾々もちょっぴり苦笑を誘われそうな愉快さを覚えます。火星人を研究している者は知性の点で地球人よりはるかに進んでいるように言います。そうでしょう?
– そうです。おっしゃる通りです。そう言ってます。
それは間違いです。火星人の方が地球人より進んでいる面もあります。しかし少なからぬ面において地球人より後れています。私も訪れてみた事があるのです。間違いありません。
いずれ地上の科学もその点について正確に捉える事になるでしょう。その時はより誇りに思って然るべきでしょう。吾々がしばしば明言を控え余計なおしゃべりを慎むのはそのためです。同じ理由でここでも控えましょう。
– 火星を訪れた事があるとおっしゃいましたが…
火星圏の者も吾々のところへ来たり地球を訪れたりしております。こうした事を吾々は効率よく行っております。私は例の塔においてキリストの霊団に志願した1人です。
他にもいくつかの霊団が編成されその後もさらに追加されました。幾百万とも知れぬ大軍の全てが各自の役目について特訓を受けた者ばかりです。その訓練に倣って今度は自ら組織した霊団を特訓します。各自に任務を与えます。私にとっては地球以外の天体上の住民について、その現状と進歩の様子を知っておく事が任務の遂行上不可欠だったのです。
大学を言うなれば“次々と転校”したのもそのためでした。とても勉強になりました。その1つが“聖なる山”の大聖堂であり、もう1つは“5つの塔の大学”であり、火星もその1つでした。
– あなたの任務は何だったのか、よろしかったら教えて下さい。
“何だったのか”と過去形をお使いになられました。私の任務は現在までつながっております。今夜、ここで、こうして貴殿と共にそれに携わっております。その進展のためのご援助に対してお礼申し上げます。
アーネル†
4 キリスト界
1919年2月27日 木曜日
– これまでお述べになった事は全て第11界で起きた事と理解しております。そうですね、アーネルさん?
ザブディエル殿がお示しになった界層の数え方に従えばそうです。私には貴殿の質問なさりたい事の主旨が目に見えます。精神の中で半ば形を整えつつあります。取りあえずそれを処理してから私の用意した話に移ります。既にお話したとおり、この大事業の構想は第11界で生まれたのではなく、はるかに上層の高級界です。
キリスト界については既に読まれたでしょう。そこが実在界なのですが、語る人によって様々に理解されております。そもそも界層というのは内情も境界も、地上の思想的慣習によって厳密に区分けする事は不可能なのです。しかし語るとなるとどうしても区分けし分類せざるを得ません。
吾々も貴殿の理解を助ける意味でそうしている訳ですが、普遍的なものでない事だけは承知しておいて下さい。吾々も絶対的と思っている訳ではありません。表面的な言い回しの裏にあるものに注目して下されば、数々の通信にもある種の共通したものがある事を発見される事でしょう。
界は7つあって7番目がキリスト界だと言う人がいます。それはそれで結構です。ザブディエル殿と私は第11界までの話をしました。これまでの吾々の区切り方でいけばキリスト界は7の倍に1を加えた数となるでしょう。つまりこういう事です。吾々の2つの界が7界説の1界に相当する訳です。
7界説の人も第7界をキリストのいる界とせずに、キリストが支配する界層の最高界をキリスト界とすべきであると考えます。吾々の数え方でいけば第14界つまり7の倍の界が吾々第11界の居住者にとって実感をもって感識できる最高の界です。
その界より上の界がどうなっているかについての情報を理解する事ができないのです。そこで吾々は、キリストがその界における絶対的支配者である以上は、キリスト自身はそれよりもう1つ上の界の存在であらねばならないと考えるのです。
その界のいずこにもキリストの存在しない場所は1かけらも無いのです。という事は、もしもその界全体がキリストの霊の中に包まれているとするならば、キリストご自身はさらにその上にいらっしゃらねばならない事になります。それで7界の倍に1界を加える訳です。
以上がこれまでに吾々が入手した情報に基づいて推理しうる限界です。そこで吾々はこう申し上げます。数字で言えばキリスト界は第15界で、その中に下の14界の全てが包含される、と。吾々に言えるのはそこまでで、その第15界がどうなっているのか、境界がどこにあるのかについても断言は控えます。
よく分からないのです。しかし限界がどこにあろうと – 限界があるとした上での話ですが – それより下の界層を支配する者に霊力と権能とが授けられるのはその界からである事は間違いありません。そこが吾々の想像の限界です。
『ベールの彼方の生活④』そこから先は“偉大なる未知”の世界です。ただ、あと1つだけ付け加えておきましょう。ここまで述べてもまだ用心を忘れていないと確信した上で申しましょう – 私は知ったかぶりをしていい加減な憶測で申し上げないように常に用心しております。それはこういう事です。
私がお話した神々による廟議と同じものが各世紀ごとに召集されているという事です。その際、受け入れる用意のある者のために啓示がなされる時期についての神々の議決は、地球の記録簿の中に記されております。かくして物的宇宙(コスモス)の創造計画もその廟議において作製されていた訳です。
アーネル†
5 物質科学から霊的科学へ
1919年2月28日 金曜日
人類が目覚めの遅い永い惰眠(だみん)を貪(むさぼ)る巨大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。
その会議の出席者は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代 – 人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていた事でしょう。後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達した事です。
人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。大いなる進化は今なお続いているのです。
目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。今度はそれを宝石細工人のもとへ持って行かねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。
細工人はそれを堂々たる王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれる事でしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。今人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。
そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引き連れて遙か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。
吾々はその後について歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。
– では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。
キリストからでないとしたら、他に誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにして下さい。地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。
』皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。今やしるしと不思議(霊的現象の事。ヨハネ4・48 – 訳者)が様々な形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。周囲に目をやってご覧なさい。
地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見える事であろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。
人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界を覆い人間のこしらえるパイ1つ1つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムを摘み取るような事はしません。絶対に致しません。むしろ吾々の味付けによって一段とおいしさを増しているはずです。
あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって1匹の年取ったネコが現れてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。
しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。翌朝、しろめの皿の事を思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。
「はて、不思議な事があるもの…」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたという事は“盗っ人”の仕業という事になるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは“良き友”に違いない。しかし待てよ。
そうだ。たぶんこういう事だろう – 肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星の事かなんか、高尚な事を考えながら1杯やっているうちに、自分のジャーキン(革製の短い上着)で磨いていたんだ」
この寓話の中のネコがあなたという訳ですね?
そのネコの毛1本という事です。ほんの1本にすぎず、それ以上のものではありません。
アーネル†
訳者注 – この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心な事は霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているという事であろう。
6 下層界の浄化活動
1919年3月3日 月曜日
大事業への参加を求められたあと私が最初に手がけたのは下層界の浄化活動でした。太古においては下層の3界(※)が地球と密接に関係しており、また指導もしておりました。その逆も言えます。
すなわち地球のもつ影響力を下層界が摂り入れていった事も事実です。これは当然の事です。なぜなら、そこの住民は地球からの渡来者であり、地球に近い界ほど直接的な影響力を受けていた訳です。(※いわゆる“4界説”に従えば“幽界”に相当すると考えていいであろう – 訳者)
死の港から上陸すると、ご承知の通り、指導霊に手引きされて人生についてより明確な視野をもつように指導されます。そうする事によって地上時代の誤った考えが正され、新しい光が受け入れられ吸収されていきます。
しかしこの問題で貴殿にぜひ心に留めておいて頂きたいのは、地上生活にせよ天界の生活にせよ、強圧的な規制によって縛る事は決してないという事です。自由意志の原則は神聖にして犯すべからざるものであり、間断なく、そして普遍的に作用しております。
実はこの要素、この絶対的な要素が存在している事による1つの結果として霊界入りした者の浄化の過程において、それに携わる者にもいつしかある程度の誤った認識が蔓延(まんえん)するようになったのです。霊界へ持ち込まれる誤った考えの大半は“変質”の過程を経て有益で価値ある要素に転換されていましたが、全部とはいきませんでした。
論理を寄せ付けず、あらゆる束縛を拒否するその自由意志の原理が、地上的な気まぐれな粒子の下層界への侵入を許し、それが大気中に漂うようになったのです。永い年月のうちにそれが蓄積しました。それは深刻な割合にまでは増えませんでした。そしてそのまま自然の成り行きに任せてもよい程度のものでした。
が、当時においては、それは“まずい”事だったのです。その理由はこうです。当時の人類の発達の流れは下流へ、外部へ、物質へ、と向かっていました。それが神の意志でした。すなわち神はご自身を物的形態の中に細かく顕現していく事を意図されたのです。
ところがその方向が下へ向かっていたために勢いが加速され、地上から侵入してくる誤謬の要素が、それを受け入れ変質させていく霊的要素をしのぐほどになったのです。そこで吾々が地上へ下降していくためには下層界を浄化する必要が生じました。地上への働きかけをさらに強化するための準備としてそれを行ったのです。
– なぜ“さらに強化する”のですか。
地球はそれらの界層からの働きかけを常に受けているのですが、それはその働きかけを強めるために行った – つまり、輪をうまく転がして谷を無事に下りきり、今度は峰へ向けて勢いよく上昇させるに足るだけの弾みをつける事が目的でした。
それはうまく行き、今その上昇過程が勢いよく始まっております。結局吾々には樽の中のワインにゼラチン状の化合物の膜が果たすような役割を果たしたのです。
知識欲にあふれ一瞬の油断もなくがっちりと手を取り合った雲なす大軍がゆっくりと下降していくと、そうした不純な要素をことごとく圧倒して地球へ向けて追い返しました。それが過去幾代にもわたって続けられたのです(この場合の“代”は3分の1世紀 – 訳者)
間断なくそして刃向う者なしの吾々の働きによって遠き天界と地上との間隔が縮まるにつれて、その不純要素が濃縮されていきました。そしてそれが次第に地球を濃霧の如く包みました。圧縮されていくその成分は場所を求めて狂乱状態となって押し合うのでした。
騒乱状態は吾々の軍勢がさらに地球圏へ接近するにつれて一段と激しくそして大きく広がり、次第に地上生活の中に混入し、ついにはエーテルの壁を突き破って激流の如く侵入し、人間世界の組織の一部となっていきました。
見上げれば、その長期にわたって上昇し続けていた霧状の不純要素をきれいに取り除かれた天界が、その分だけ一段と明るさを増し美しくなっているのが分かりました。下へ目をやればその取り除かれた不純なる霧が – いかがでしょう、この問題をまだ続ける必要がありましょうか。
地上の人間でも見る目をもつ者ならば、吾々の働きかけが過去2、3世紀の間に特に顕著になっているのを見て取る事ができるでしょう。今日もし当時の変動の中に吾々の働きを見抜けないという人がいれば、それはよほど血のめぐりの悪い人でしょう。
実はその恐ろしい勢力が大気層 – 地上の科学用語を拝借します – を突き破って侵入した時、吾々もまたすぐそのあとについてなだれ込んだのでした。そして今こうして地上という最前線にいたり、ついに占領したという次第です。
しかし、ああ、その戦いの長くかつ凄(すさ)まじかった事といったらありませんでした。そうです。長く、そして凄まじく、時として恐ろしくさえありました。しかし人類の男性をよき戦友として、吾々は首尾よく勝利を得ました – 女性もよき戦友であり、吾々はその気概を見て、喜びの中にも驚嘆の念を禁じ得ませんでした。
そうでした。そうでした。地上の人類も大いに苦しい思いをされました。それだけにいっそう人類の事を愛(いとお)しく思うのです。しかし忘れないで頂きたい。その戦いにおいて吾々が敵に深い痛手を負わせたからには、味方の方も少なからず、そして決して軽くない痛手を受けたのです。
人類と共に吾々も大いなる苦しみを味わったという事です。そして人類の苦しむ姿を近くで目(ま)の当たりにするにつけ、吾々がともに苦しんだ事をむしろ嬉しく思ったのです。吾々が地上の人々を助けたという事が吾々のためにもなったという事です。人類の窮状を見た事が吾々のために大いに役立ったのです。
– (第1次)世界大戦の事を言っておられるのですか。
そのクライマックスとしての大戦についてです。既に述べた通り、吾々の戦いは過去何代にもわたって続けられ、次第にその勢いを募らせておりました。そのために多くの人が尊い犠牲となり、様々な局面が展開しました。
今その全てを細かく述べれば恐らく貴殿はそんな事まで…と意外に思われる事でしょう。少しだけ挙げれば、宗教的ならびに神学的分野、芸術分野、政治的ならびに民主主義の分野、科学の分野 – 戦争は過去1千年の間に大変な勢いで蔓延し、ほとんど全てのエネルギーを奪い取ってしまいました。
しかし吾々は勝利を収めました。そして今や太陽をいっぱいに受けた峰へ向けて天界の道を揃って歩んでおります。かの谷間は眼下に暗く横たわっております。そこで吾々は杖をしっかりと手にして、顔を峰へ向けます。
するとその遠い峰から微(かす)かな光が射し、それが戦争の傷跡も生々しい手足に当たると、その傷が花輪となって吾々の胸を飾り、腕輪となって手首を飾り、破れ汚れた衣服が美しい透し細工のレースとなります。
何となれば吾々の傷は名誉の負傷であり、衣服がその武勲を物語っているからです。そして吾々の共通の偉大なるキャプテンが、その戦いの何たるかを理解し傷の何たるかもむろん理解しておられる、キリストに他ならないのです。では私より祝福を。今夜の私はいささかの悲しみの情も感じませんが、私にとってその戦いはまだ沈黙の記憶とはなっておりません。
私の内部には今なお天界の鬨(かちどき)の声が上がる事があり、また当時の戦いを思い出して吾々の為にした事、またそれ以上に、吾々が目にした事、そして地上の人々のために流した涙の事を思い起こすと、思わず手を握りしめる事すらあるのです。
もちろん吾々とて涙を流したのです。1度ならず流しました。何度も流しました。と言うのも、吾々には陣頭に立って指揮されるキリストのお姿が鮮明に見えても、人間の粗末な視力は霧が重くかかり、たとえ見えても、ほんの薄ぼんやりとしか見えませんでした。それがかえって吾々の哀れみの情を誘ったのでした。
しかしながら、自然にあふれ出る涙を通して、貴殿らの天晴れな戦いぶりを驚きと少なからぬ畏敬の念をもって眺めたものでした。よくぞ戦われました。美事な戦いぶりでした。吾々は驚きのあまり立ち尽くし、互いにこう言ったものでした – 吾々と同じく地上の人たちも同じ王、同じキャプテンの兵士だったのだと。
そこで全ての得心がいき、なおも涙を流しつつ喜び、それからキリストの方へ目をやりました。キリストは雄々しく指揮しておられました。そのお姿に吾々は貴殿らに代って讃仰の祈りを捧げたのでした。
アーネル†
7 人類の数をしのぐ天界の大軍
1919年3月5日 水曜日
これまでお話した事は天界の大事業について私が知り得た限り、そして私自身が体験した限りを叙述したものです。それを大ざっぱに申し上げたまでで、細かい点は申し上げておりません。
そこで私はこれより、吾々が地上へ向かって前進しそして到着するまでの途中でこの目で見た事柄をいくつかお伝えしようと思います。が、その前に申し上げておきたい事があります。それは –
作戦活動としての吾々の下降は休みなく続けられ、またそれには抗し難い勢いがありました。1度も休まず、また前進への抵抗が止んだ事も1度もありませんでした。吾々霊団の団結が崩された事も1度もありませんでした。下層界からのいかなる勢力も吾々の布陣を突破する事はできませんでした。
しかし個々の団員においては必ずしも確固不動とは言えませんでした。地上の概念に従って地上の言語で表現すれば、隊員の中には救助の必要のある者も時おり出ました。救助されるとしばし本来の住処で休息すべく上層界へと運ぶか、それとも天界の自由な境涯においてもっと気楽で激しさの少ない探検に従事する事になります。
それというのも、この度の大事業は地球だけに向けられたものではなく、地上に関係した事が占める度合いは全体としては極めて小さいものでした。吾々が参加した作戦計画の全体ですら、物的宇宙の遠い片隅の小さな1点にすぎませんでした。
大切なのは(そうした物的規模ではなく)霊的意義だったのです。既に申し上げた通り地上の情勢は地球よりかなり遠く離れた界層にも影響を及ぼしておりましたが、その勢いも次第に衰えはじめており、たとえその影響を感じても、一体それは何なのか、どこから来るのか分からずに困惑する者もいたほどです。
しかし他の惑星の住民はその原因を察知し、地球を“困った存在”と考えておりました。確かに彼らは地球人類より霊的には進化しています。ですから、この度の問題をもしも吾々のようにかつて地上に生活して地上の事情に通じている者が処理せずにいたら、恐らくそれらの惑星の者が手がけていた事でしょう。
霊的交信の技術を自在に使いこなすまでに進化している彼らは既に審議会においてその問題を議題にしておりました。彼らの動機は極めて純粋であり霊的に高度なものです。
しかし、手段は彼らが独自に考え出すものであり、それは多分、地球人類が理解できる性質のものではなかったでしょう。そのまま適用したら恐らく手荒にすぎて、神も仏もあるものかといった観念を地球人に抱かせ、今こそ飛躍を必要とする時期に2世紀ばかり後戻りさせる事になっていたでしょう。
過去2千年ばかりの間に地上人類を導き、今日なお導いている人々の苦難に心を痛められる時は、ぜひその事もお考えになって下さい。しかし、彼らもやがて、その問題をキリスト自らが引き受けられたとの情報がもたらされました。
すると即座に彼らから、及ばずながらご援助いたしましょうとの申し出がありました。キリストはそれを受け入れられ、言うなれば予備軍として使用する事になりました。彼ら固有のエネルギーが霊力の流れにのって送られてきて吾々のエネルギーが補強されました。
それで吾々は大いに威力を増し、その分だけ戦いが短くて済んだのでした。これより細かいお話をしていく上においては、ぜひそうした事情を念頭において下さい。これからの話は、過去の出来事の原因の観点から歴史を理解する上で参考になる事でしょう。
将来人間はもっと裏側から歴史を研究するようになり、地上の進歩の途上における様々な表面上の出来事を、これまでとはもっと分かり易い形でつなぎ合わせる事ができるようになるでしょう。人間が吾々霊的存在とその働きかけを軽く見くびっているのが不思議でなりません。
と言うのは、人類は地球上に広く分布して生活しており、その大半はまだ無人のままです。全体から言うとまだまだ極めて少数です。それに引きかえ吾々は地球の全域を取り囲み、さらに吾々の背後には天界の上層界にまで幾重にも大軍が控えております。
それは大変な数であり、またその1人ひとりが地上のいかなる威力の持ち主よりも強烈な威力を秘めているのです。ああ、いずれ黎明の光が訪れれば人類も吾々の存在に気づき、天界の光明と光輝を見出す事でしょう。そうなれば地球も虚空という名の草原をひとり運行(たび)する侘びしさを味わわなくてすむでしょう。
あたりを見渡せば妖精が楽しげに戯れている事を知り、もはや孤独なる存在ではなく、甦れる無数の他界者と一体であり、彼らは遙か彼方の天体上 – 夜空に見えるものもあれば地上からは見えないものもありますが – の生活者と結びつけてくれている事を知るでしょう。
しかしそれは低き岸辺の船を外洋へと押し出し、天界へ向けて大いなる飛躍をするまでは望めない事でしょう。
アーネル†
7章 天界の大軍、地球へ
1 キリストの軍勢
1919年3月6日 木曜日
天界の大草原のはるか上空へ向けてキリストの軍勢が勢揃いしておりました。上方へ向けて位階と霊格の順に1段また1段と階段状に台地(テラス)が連なり、私も仲間の隊員とともに、その上方でもなく下方でもなく、ほぼ中間に位置するあたりの台地に立っておりました。
雲なす軍勢の1人1人がそれぞれの任務を帯びていたのです。この度の戦いに赴くための準備が進行するうちに吾々に様々な変化が生じておりました。その1つは地球圏の上層界と前回の話に出た他の複数の惑星の経綸者の双方から霊力の援助を受けて吾々の磁気力が一段と増し、それにつれて視力も通常の限界を超えて広がり、それまで見る事を得なかった界層まで見通せるようになった事です。
その目的はエネルギーの調整 – 吾々より上の界と下の界の動きが等しく見えるようになる事で、言いかえれば視力の焦点を自在に切り換える事ができるようになったという事です。これで一層大きな貢献をするためにより完璧な協調体制で臨む事になります。
下の者は上の者の光輝と威力を見届ける事ができて勇気を鼓舞される事にもなり、さらに、戦いにおいて指揮と命令を受けやすくもなります。私はその視力でもって上方の光景と下方の光景、そしてあたり一面を見渡して、そこに見た驚異に畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。
それまで数々の美と驚異を見ておりましたが、その時に見た光景ほど驚異に満ちたものはありませんでした。地球の方角へ目をやると、様々な色彩が幾つもの層を成して連なっています。それは私の界と地上界との間の10の界層を象徴する色彩で、これより下降すべく整列している軍勢の装束から放たれているのでした。
その下方、ちょうどその軍勢の背景となる位置に、霧状のものが地球を取り巻いているのが見えました。そのどんよりとして部厚く、あたかも濃いゼリー状の物質を思わせるものがところどころで渦を巻いている中を、赤色と暗緑色の筋や舌状のものがまとわりついているさまは、邪悪の化身である蛇が身の毛もよだつ地獄の悪行に奔走しているさまを彷彿(ほうふつ)とさせ、見るからに無気味なものでした。
その光景に吾々は別にしりごみはしませんでした。恐怖心はいささかも抱きませんでした。それどころか、愛と僚友意識の中で互いに手を取り合い、しばし静粛な思いに浸りました。これからの吾々の旅はあの無気味な固まりと立ち向かい、しかもそれを通過しなければならないのです。
目指す地球はその中にあるのです。何としてでも突き抜けて地球まで至らねばなりません。陰鬱極まる地球は今こそ吾々の援助を必要としているのです。その無気味な光景を見つめている私の脳裏に次のような考えが浮かびました – “人間はよくもあの恐ろしい濃霧の中にあって呼吸し生きていられるものだ”と。
吾々自身について言えば、吾々の仕事は、既に述べた通り、質の転換作用によって少しでも多く吾々の組織体の中にそれを摂り入れていく事でした。どうしても消化不可能なものはさらに地獄の奥へと追いやり、言うなれば自然崩壊を待つほかはありません。大変な“食事”だと思われるでしょう。しかも大して“美味”ではありません。
それは確かですが、それほどの軍勢で、しかもキリストをリーダーとして、吾々はきっと成就できるとの確信がありました。続いて吾々は向きを変えて、今度は上方へ目をやりました。すると幾重にも連なる台地に光り輝く存在が、ある者は立ち並び、ある者は悠然と動き回っているのが見えました。
その台地の1つ1つが天界の1界であり、それがパノラマ式に巨大な階段状に連なって延々と目も眩まんばかりに上方へと伸び、ついに吾々の視力では突き通せない光輝の中へと突入し、その頂上が視界から消えました。その光輝を突き抜けて見届けうるのは吾々よりはるか上方の、光輝あふれる界層の存在のみでした。
吾々にとってはただの“光の空間”であり、それ以外の何ものにも見えませんでした。それでも、可能な限りの無数の輝く存在を目にする事だけでも吾々に大いなる力を与えてくれました。
最も近くの界層の存在でさえ何と素晴らしかった事でしょう。吾々より下層の者は見た事もない色調をした光輝を放つ素材でできた長衣(ローブ)に身を包んでおられました。
さらに上層界の存在はゴースのごときオーラに包まれ、身体はその形も実体も麗しさにあふれ、その1体1体が荘厳な1篇の詩であり、あるいは愛と憧憬の優しい歌であり、優雅にして均整の取れた神であり、同格の神々とともに整然たる容姿を完全に披露して下さっておりました。
その位置を貴殿なら多分“はるか彼方”と表現するところでしょう。確かにはるか彼方ではありました。が吾々の目にはその形体と衣装が – その形体を包む光輝を衣装と呼ぶならば – 全体と同時に細部まで見る事ができました。しかし、それとてまだ中間の界層の話です。そのまた先には吾々の視力の及ばない存在が無数に実在していたのです。
その事は知っておりました。が、知ってはいても見る事はできません。吾々の霊格にとってはあまりにも崇高すぎたのです。そしてその頂上には吾らがキリストが君臨している事も分かっておりました。その光景を見つめながら吾々仲間はこう語り合ったものです –
“目(ま)の当たりにできる光景にしてこの美しさであれば、吾らがキリストの本来の栄光はいかばかりであろうか”と。しかし吾々の感嘆もそこまでで、それから先へ進む事はできず、一応そこで打ち切りました。
と言うのも、間もなくそのキリスト自ら吾々の指揮のために降りて来られる事が判っていたからです。その折には地球へ向けて下降しつつ、各界の住民の能力に応じた波長の身体をまとわれるので、吾々の視力にも映じる可視性を身につけておられる事も知っておりました。
天界の大軍の最高位にあらせられるキリスト自らその大軍の中を通り抜けて、一気に地球の大気圏の中に身を置かれるという事だったのです。然り、然り。キリストほどのリーダーはいません。天使ならびに人類を導く者としてキリストに匹敵する霊は、神格を具えた無数の存在の中にさえ見出す事はできません。
私は厳粛なる気持でそう断言します。と申しますのも、天界の経綸に当たる神々といえども、その力量は一列平等ではなく、地上の人間と同じくその一柱一柱が独自の個性を表現しているのです。
平凡な天使の部類に属する吾々もそうであり、さらに神聖さを加えた階級の天使もそうであり、さらにその上の階級の天使もそうであり、かくして最高級の大天使ともなれば父なる神の最高の美質を表現しておりますが、それにも各々の個性があるのです。
そうした多種多様な神々の中にあっても、指導者としての資質においてキリストに匹敵する者はいないと申上げるのです。私が先ほど語り合ったと述べた仲間たちも同じ事を申しておりました。その事については改めて述べるつもりでおります。その時は以上の私の断言が正しいか否かがはっきりする事でしょう。
アーネル†
2 先発隊の到着
1919年3月7日 金曜日
十重二十重(とえはたえ)と上方へ延びている天界の界層を見上げつつ、吾々は今や遅しと(キリストの降臨を)お待ちしておりました。
その天界の連なる様子はあたかも巨大なシルクのカーペットが垂れ広がっているごとくで、全体にプリーツ(ひだ)とフラウンス(ひだべり飾り)が施された様子は天界の陽光を浴びてプリズムのごとく輝くカスケード(階段状の滝)を思わせます。
プリーツの1つ1つが界層であり、フラウンスの1つ1つが境界域であり、それが上下の2つの界をつなぎ、それぞれの特色ある色彩を1つに融合させておりました。その上方からきらめく波がその巨大なマントを洗うように落ちてきます。
色彩が天上的光輝を受けて、あたかも宝石のごとくきらめきます。その宝石の1つ1つが天使であり、それぞれに天上的光輝の美しさを一身に受け、そして反射しているのです。
そう見ているうちに、吾々の視力の届く限りの1番高い位置の色彩がゆっくりと変化し始めました。本来の色彩をとどめつつも別の要素、新たなきらめきがあふれております。それを見て吾々はキリストならびに従者の一行がようやく吾々の視界の範囲まで降下してこられた事を知りました。
シルクのプリーツの1つがすぐ下のプリーツへ重なり、あたかも次のプリーツに口づけし、そのプリーツが同じように頭を垂れて頬を次のプリーツの肩にそっと触れていくのにも似た光景は、何とも言えない美しさでした。
以上が吾々が見たキリスト降臨の最初の様子です。吾々には突き透せない光輝の中から今やっとお出ましになり、一歩一歩地球へ近づきつつもなおその間に広大な距離を控え、各界にその霊力を放散しつつ降りて来られるようでした。
流れ落ちる光の波はついに吾々の界より2、3手前の界層の境界域に打ち寄せてまいりました。そこまで来てさらに一段と理解がいきました。吾々が見ているのはキリストの近衛兵の大連隊が光輝を発しつつ前進してくる様子だったのです。しかしキリストのお姿はまだ見えませんでした。
その途方もない霊力と栄光の顕現にただただ感嘆と高揚にしばし浸っているうちに、今度は吾々自身の内部から、愛と慈悲の念と今まさに始まらんとしている大事業に全力を投入しようとの決意の激発による魂の興奮を覚え始めました。それは同時にいよいよキリストが近くまでお出でになられた事を告げるものでした。
いよいよお出でになられた時の様子、さらには吾々の界を通過して下界へ降りて行かれた時の様子それはとても言葉では尽くせません。あまりに荘厳すぎるのです。が、私にできる限り何とか表現してみましょう。
魂の興奮は次第に度合を増し、吾々はお出ましの瞬間を見届けんものと、身を乗り出し首を伸ばして見つめました。まず目に入ったのは側近の随行者の先遣隊でした。その一行は吾々にお迎えの準備を促す意味がありました。と言うのは、この度のお出ましはこれまで私がたびたび叙述した顕現とは異なるのです。
大事業の完遂のために幾千万とも知れぬ大軍を率いて、その本来の威力と栄光のままにお出ましになられるのです。吾々もそのご威光を少しでも多く摂取する必要があり、それにはゆっくりとした過程で順応しなければなりません。
そこでまず先発隊が派遣され、道中、必要とみた者には叡智を授け、ある者には祝福を与え、またある者には安らぎの口づけをするのです。いよいよその一行が悠揚迫らぬ態度で吾々のところまで来られました。いずれ劣らぬ尊い霊格を具えられた方ばかりです。
上空を飛翔(ひしょう)される方々と吾々の間を通り抜けて行かれる方々とがありました。そして吾々の誰かに目が行き、一瞬のうちにその足らざるところを察知して、必要なものを授け、そして先を急がれました。上空を行かれる方から指示が出される事もありました。全体が協調的態勢で行動し、それが吾々にとって大きな教訓となりました。
-あなたご自身は何かありましたか。
その一行の中には女性が混じっておりました。それは吾々の霊団も同じです。地上の戦争にも女性が派遣されるでしょう。吾々も女性ならではの救助の仕事のために女性を引き連れておりました。
その時私は仲間から離れて後方にいました。というのは、従者の一行に話しかけたい者が大勢の仲間とともに前の方へ出て来たからです。するとその私のところへ一対の男女が近づいて来られ、にっこりと微笑(ほほえ)まれて双方が私の手を片方ずつ握られました。
男性の方は私よりはるかに体格があり、女性の方は男性より少し小柄でした。いずれ劣らぬ端整な容姿と威厳を具えておられますが、そうした従者のいずれもがそうであるように、素朴な謙虚さと愛を感じさせました。男性の方はもう一方の手を私の肩に置いてこう言われるのです –
“アーネル殿、貴殿の事を吾々2人はよく存じ上げております。吾々は間断なく生じる仕事においていつも互いの資質を出し合って協力し合っている間柄です。実はこの度この界を通り過ぎる事になって2人して貴殿をお探ししておりました。このご婦人から貴殿に申し上げたい事があるようです。かねてよりその事を胸に秘めて機会をうかがっておられました”
さてその婦人は実にお美しい方で、男性の光輝と相まった眩(まぶ)しさに私はただただ狼狽するばかりで黙って見回すしか為すすべがありません。すると婦人はその握りしめていた手をさらに強く握られながら幾分高く持ち上げられました。続いて婦人の美しい頭にのっていた冠が私の目の前に下りて来ました。
私の手に口づけをされたのです。そしてしばしばその態勢を保たれ、私は婦人のしなやかな茶色がかった髪に目を落としました。まん中で分けられた髪が左右に垂れ、黄金のヘアバンドを付けておられました。私は一言も口が利けませんでした。高揚性と至純な聖(きよ)さに溢れた喜びが私を圧倒してしまったのです。それはとても筆舌に尽くせるものではありません。
それから私はおもむろに男性の方へ目をやって私の戸惑いの気持を訴えました。すると婦人がゆっくりと頭を上げ私の顔を見つめられ、それと時を同じくして男性の方がこう言われたのです – “アーネル殿、このご婦人は例の少女ミランヌの祖母に当たられる方です”
そう言われて婦人の方へ目を向けると、婦人はにっこりとされてこう言われたのです。
「お礼を申し上げます、アーネル様。あなた様は私が遠く離れ過ぎているために出来なかった事をして下さいました。実はその子が窮地におかれているのを見て私はあなたへ向けて送念いたしました。あなたは私の願いに敏感に反応して下さいました。間もなくその子も自分からお礼を申し上げに参る事でしょうが、私から一言お礼をと思いまして…」
そう言って私の額に口づけをされ、優しく私の身体をご自分のお身体の方に引き寄せられました。それからお2人そろって笑顔でその場を立ち去られました。その時の強烈な印象はその後いささかも消えやらず、霊的には常に接触が取れているように思います。今もそれを感じます。
貴殿はミランヌなる少女が何者であろうかと思っておられる。実は私もその時そう思ったのです。もっともその少女との係わり合いについてはよく覚えております。
古い話ではありません。ある時仕事をしていると、貴殿も体験があると思いますが、誰かが自分に注意を向けているような感じがしてふと仕事の手を休めました。そしてじっと受身の気持でいると、声ではなくて、ある種の衝動を覚え、すぐさまそれに従いました。私は急いで地上へ向かいました。
たどり着くとまたまた外部からの力で、今まさに地上を去って霊の世界へ入ろうとしている若い女性のところへ一直線に導かれていきました。最初は何のためなのかよく分かりませんでした。ただそこに臨終を迎えた人体が横たわっているというだけです。
が、間もなく分かりました。すぐ脇に男の霊が立っていて、その女性の霊が肉体から離れるのを待ちかまえております。その男こそ地上でずっと彼女に災いをもたらしてきた霊で、彼女が肉体から離れるとすぐに邪悪の道へ引きずり込もうと待ちかまえていたのでした。
その後の事をかいつまんで言えば、彼女が肉体から出ると私は身を挺してその男が近づくのをさえぎり、男の近づけない第3界の安全な場所へ運んだという事です。今ではさらに2界層向上しております。その間ずっと私が保護し介抱してきました。今でも私が保護者となってあげている霊の1人です。
これでお分かりでしょう。お2人にお会いして、あの時の要請の出どころが分かり、同時にその要請に応えて私が期待通りにお役に立っていた事を知って、とても嬉しく思った次第です。
そうした喜びは地上にいる間は理解できないでしょう。しかしイエスは施物分配の話と、首尾よく使命を全(まっと)うした者を待ち受ける歓迎の言葉の中に、その事をすでに暗示しておられます。こう言っておられます – “よくぞ果たされた。そなたたちの忠誠心を嬉しく思う。さ、私とともに喜びを分かち合おう”(※)
私もイエスとともに喜びを分かち合う光栄に浴したのです。ささやかながら私が首尾よくそれを全うして、今こうして一層大きな喜びの中に新たな大事業に参加する事を許されたのです。多分ご婦人の言葉はキリストがお述べになる言葉そのものだったのだと確信しました。キリストの喜びとは常に“献身の喜び”なのです。
アーネル†
(※マタイ25・21。この部分は聖書によって用語や文章に若干の違いが見られるが、そのいずれもこの通信の文章とはかなり異なっている。アーネル霊は霊界の記録を見ているのであるから、この方が実際のイエスの言葉に近いのであろう – 訳者)
3 お迎えのための最後の準備
1919年3月10日 月曜日
以上のような経緯(いきさつ)は地上的に表現すれば“永い歳月”に及んでいる事を知っておいて頂きたい。その間、吾々には吾々なりの為すべき事がありました。地上でも、1つの改革が進行している間も一般大衆にはそれぞれの日常生活があります。吾々もそれと同じでした。
しかし吾々の生活全体を支配している“思い” – 何に携わっていても片時も心から離れなかったのは、キリストの降臨と、そのための上層界の態勢づくりの事でした。いずこへ赴いてもそれが窺えました。時には仲間が集まってキリストの接近による光輝の変化の事を細かく語り合う事もありました。
特に上層界から使者が訪れ、吾々の界層の環境に合わせた身体をまとい、山の頂上とか中空に立って集合を命じた時はほとんど全員が集まりました。指定の場所に集まった者は何事であろうと期待に胸をふくらませるのでした。前回に述べたのもその1つでした。
しかしそうした時以外はいつもの生活に勤(いそ)しみ、時には領主からお呼びが掛かって将来の仕事のための特別の鍛錬を受け、また時には特別の使命を授かって他の界層へ赴いたりしていました。他の界層へ赴いている間は連絡関係がふだんより緻密(ちみつ)さを増します。急な用事で帰還命令が出された時に素早くそれをキャッチするためです。
そうしたふだんの体験にも貴殿に興味のありそうなもの、ためになるものがいろいろとあるのですが、それは今は措(お)いておき、将来その機会が巡ってくれば語る事にしましょう。さし当たっての私の目的はキリストその人の降臨について語る事です。
吾々キリストの軍勢の一員として選ばれた者は、例の天使の塔の聳える風致地区内に集合しました。待機しながらその塔の頂上にのっているヤシの葉状の王冠を見上げると、1人また1人と天使の姿が現れ、全部で大変な数になりました。
ひざまずいている者、座している者、立っている者、例のレース細工によりかかっている者など、様々でした。他の場所からその位置へ移動してきたのではありません。吾々の見ている前で、吾々の視力に映じる姿をまとったのです。最初は見えなかったのが見える形をまとったのです。
見えるようになると、どの天使も同じ位置に留まっていないであちらこちらへと動き回り、対話を交えておりました。霊格の高い、かつ美しい方ばかりです。同じ光景を前にも叙述した事があります。顔ぶれはかなり変わっておりましたが、同じ天使も多く見かけました。
さて全天使が揃うと新たな現象が見え始めました。それはこうです。王冠の中に初めて見るものが現れました。十字架の形をしており、中央から現れて上昇しました。そのヨコ棒の片側に最後に到着した天使が立ち、その左手をタテ棒の上部にあてています。他の天使に比べて1まわり光輝が広がっています。
身体も十分に吾々の界の環境条件に合わせ終わると左手をお上げになり、吾々を見下ろされながら祝福を与えて下さいました。それから鈴の音のような鮮明な声で話しかけられました。
大きな声ではありませんが、はるか下方に位置する吾々ならびにその地区一帯に立ち並ぶ者全員にまで届きました。遠くの丘や広い草原にいる者もあれば、屋上にいる者、湖のボートに乗っている者もいました。さてその天使はこう語られました。
「このたび貴殿たちを召集したのは、いよいよこの界へお近づきになられた主キリストについてのメッセージを伝え、ご到着とご通過に際してその意義を理解し、祝福を受け損なう事のないよう準備をして頂くためである。
貴殿たちはこれまで幾度か主をご覧になっておられるが、このたびのお出ましはそれとは全く異なるものである事をまず知られたい。これまでは限られた目的のために限られた必要性に従って限られた側面を顕現してこられた。が、このたびは、その全てではないが、これまでをはるかに凌ぐ王威をまとわれてお出ましになられる。
これまでは限られた所用のために降りてこられた。このたびは大事業への父なる大神の勅命を体して来られるのである。これはただならぬ大事業である。地球は今や貴殿らによる援助の必要性が切迫している。それ故、主が通過されるに際し貴殿ら1人1人が今の自分に最も欠けているものをお授け下さるようお願いするがよい。
それによってこれより始まる仕事に向けて体調を整え、完遂のための体力を増強する事ができるであろう。万遺漏(ばんいろう)なきを期さねばならない事は言うまでもないが、さりとて主のご威光を過度に畏(おそ)れる事も控えねばならない。主は貴殿らの必要なるものを携えて来られる。主ご自身はさような必要性はない。
貴殿らのために燦爛(さんらん)たる光輝をまとわれてお出ましになるのである。その光輝の全てが貴殿らのためである。それ故、遠慮なくそれに身を浸し、その磁気的エネルギーに秘められている力と高潔さとを己れのものとなさるがよい。
では、これより貴殿らの思うがままに少人数でグループを作り、私が今述べた事について語り合ってもらいたい。私が述べた言葉はわずかであるが、それを貴殿らが膨(ふく)らませてほしい。行き詰まった時は私の仲間がその解釈の手助けに参るであろう。
そうする事によって主が間もなくお出ましになられた時に慌(あわ)てずに済むであろうし、この界を通過される間にその目で見、その耳で聞き、その肌で感じて、さらに理解を深める事になるであろう。」
話が終わるとすぐ吾々は言われた通りにしました。例のヤシの葉状の王冠の中にいた天使たちはその間も姿をずっと消される事はありませんでした。それどころか、吾々の中に降りてこられて必要な援助を与えて下さいました。
その時の魂の安らぎの大きかった事。おかげでキリストがいつ通過されてもよいまでに全員がそれなりの準備を整える事ができました。キリストの生命力の尊い流れから汲み取って吾々のものとする事ができるのです。
それはキリストの内的叡智と決意の洗礼を受ける事に他なりません。以上がキリストの降臨までに開かれた数々の集会の最後となりました。終わるとキリストの霊との一体感をしみじみと味わい、静寂と充足感の中にそのご到着をお待ちしました。
アーネル†
4 第10界へのご到着
1919年3月11日 火曜日
吾々は第10界の高台に集合しました。人里離れた場所で、住居もまばらでした。建物はそのほとんどが中央の大塔との連絡のために使用されるものです。大塔は常時広大な地域にわたって眺望をきかせております。
– それは、もちろん、あなたが前にお話になった大聖堂の住民になられる以前の話ですね?
そうです。(これから語る)ご降臨に際してキリストを拝したのは、ご降臨全体としてはずっと後半の事です。当時の私は既に第10界まで向上しており、その界の住民としての期間はかなり長期間に及んでいました。キリストがようやく10界の境界域に到達されたのは私が10界にいた時の事です。
その時吾々は遠くの山脈に目をやっておりました。透き通るような光輝に映え、緑と黄金の色合いをしておりましたが、それに変化が生じ始めました。まず緑が琥珀色を通して見た赤いバラのように、赤みがかったピンクになりました。
それが次第に光沢を深めていき、ついに山並み全体が純金の炎のごとく輝きました。その中で従者が先頭をきって右へ左へと動き、それが光の波となってうねるのが見えます。のうちその従者の姿が吾々の方へ向けて進んでくるのが見え始めました。
キリストから放たれる光の雲を背景として、その輪郭をえどるように位置しております。それぞれに燦爛たる光輝を放ち、雄大な容姿とそれに似合った霊力を具えておられます。男性と女性です。
それに、そこここに、男女が一体となった天使がいます。2つにして1つ、1つにして2つ – この話はこれ以上は述べません。その神秘は貴殿には理解できないと思うからです。私も言語では表現しかねます。両性でもなければ中性(無性)でもありません。
この辺で止めておきましょう。見るからに美しい存在です。男性というには柔和さが強すぎ、女性というには威厳が強すぎる感じが致します。その一団が吾々の界の環境条件に波長を合わせつつ進入し、全天空を光輝と荘厳で満たしたのです。吾々の足もとまで降りてこられたのではありません。
上空を漂いつつ、あたかも愛のそよ風のごとく、それでいて力に溢れ、深遠にして神聖なる神秘への理解力を秘めた優しさと安らぎの雫を落として下さるのでした。その愛のしるしが降りそそがれる毎に吾々は、それまで理解の及ばなかった問題について啓発され、これから始まる仕事への力量を増す事になりました。
天使の中には、大気が稀薄で吾々住民のほんの少数の者にしか永住困難な(その時は1人の姿も見当たらなかった)高い峰に位置をとっておられる方がいました。あるグループは1つの峰に、もう1つのグループはそれより遠く離れた峰に、という具合に位置して、全域を円形に囲み、その区域内の山と山との間にさらに幾つかのグループが位置しておりました。
そのように位置を構えてからお互いに器楽と声楽による音楽で呼びかけ合い、それが1大ハーモニーとなって全天空に響きわたりました。その音楽がまた新たな影響を吾々に及ぼしました。さきの愛の雫とは別に、あたかも安らかに憩う吾が子をさらに深き憩いへと誘う母の甘いささやきのごとき優しさを加えたのでした。やがて地平線の色調が深まって深紅色と黄金色とになりました。
まだ黄金が主体でそれに深紅が混じっている程度でしたがこれでいよいよキリストが吾々の界のすぐそこまで来られた事を察知いたしました。そして、ついにお出ましになられました。そのお姿を現された時の様子、あるいはその顕現全体の壮観を私は一体どう表現すればよいでしょうか。
それを試みようとするだけで私は恐怖のあまり躊躇してしまうのです。それはあたかも宮廷の道化師に君主が戴冠に至る様子を演じさせ、その粗末な帽子でもって王冠を戴く様子を演じさせ、粗末な1本の棒切れでもって王笏(しゃく)を手にした様子を演じさせ、粗末な鈴でもって聖歌隊の音楽に似させる事を命じるようなもので、それは君主への不敬を働く事以外の何ものでもありません。
今私が試みようとして躊躇するのはそれを恐れるからです。しかしもしその道化師が君主をこよなく尊敬しておれば、持てる力を総動員して人民に対する君主の鼓舞を演じ、同時にそのパロディ(粗末な模倣)が演技力と道具の不足のためにいかに実際とは似ても似つかぬものであるかを正直に述べるであろう。私もそれに倣(なら)って、謙虚さと真摯な意図を唯一の弁明として語ってみましょう。
キリストを取り巻く光輝はますますその強さと広がりとを増し、ついに吾々の全てがその中に包み込まれてしまいました。私から最も遠く離れた位置にいる仲間の姿が明確に識別できるほどになりました。それでも全体の大気はバラ色がかった黄金色を帯びていました。
吾々の身体もその清澄な霊力の奔流に洗われていました。つまりキリストは吾々全体を包むと同時に1人1人をも包んでおられたのです。吾々はまさにキリストその人とその個性の中に立ちつくし、吾々の中にもまわりにもキリストの存在を感じていたのです。
その時の吾々はキリストの中に存在を保ちつつ、しかもキリストの一部となり切っておりました。しかし、それほどまで吾々にとって普遍的存在となっても、キリストは外形をまとって顕現なさろうとはしませんでした。私にはキリストが吾々の周辺や頭上にいらっしゃるのが分かるのです。
それは言葉ではとても表現が困難です。身体を具えた局所的存在として1度にあらゆる場所におられるようであり、それでいて1つの存在なのです。そう表現するほかに良い表現が思い当たりません。それも、およそうまい表現とは言えません。
私が思うに、キリストの全人格から全く同じものを感じ取った者は、吾々の中にはいなかったのではないでしょうか。私にとっては次に述べるようなお方でした。体格はとても大きな方で、人間2人ほどの高さがありました。“でっかいもの”という印象は与えません。
“巨人”のイメージとは違います。吾々と変わるところのない“人間”なのですが、体格だけでなく内面性において限りない高貴さを具えておられます。頭部に冠帯を付けておられましたが、紅玉(ルビー)と黄金(ゴールド)が交互に混ざり合った幅の広い、ただのバンドです。
両者が放つ光は融合する事なく、ルビーは赤を、ゴールドは黄金色を、それぞれに放っております。それが上空へ向けて上昇して天空いっぱいに広がり、虚空に舞う天使のローブに当たって一段とそのローブの美しさを増すのでした。
お身体は全身の素肌が輝いて見えましたが、といって一糸もまとっていないのでもありません。矛盾しているようですが、私が言わんとしているのは、まずその全身から放たれる光彩がその地域のすみずみにまで至り、全てを輝きの中に包みます。
するとその一部が吾々が抱いている畏敬の念というスクリーンに反射し、それが愛の返礼となってキリストのもとに返り、黄金の鎧のごとくお身体を包みます。その呼応関係は吾々にとってもキリストにとってもこの上なく快いものでした。キリストは惜しげもなくその本来の美しさの奥の院の扉を開いて下さる。
そこで吾々はその儀式にふさわしい唯一の衣服(畏敬の愛念)を脱ぎ、頭を垂れたままそれをキリストのお身体にお掛けする。そして優しさと崇敬の念に満ちた霊妙なる愛を込めてキリストへの絶対的信頼感を表明したのでした。
しかしそれ以前にもすでにキリストの栄光を垣間見ておりましたから(6章1その他)キリストの本来の力はそれでもなお控えめに抑えられ、いつでも出せる態勢にある事を知っておりました。キリストは何ひとつ身にまとわれなくても、吾々配下の軍勢からの(畏敬の念という)贈り物を金色(こんじき)の鎖帷子(くさりかたびら)としてまとっておられたのです。
贈り物とはいえ所詮は全てキリストのものである以上、キリストから頂いたものをお返ししたにすぎません。(ローブで隠されているはずの)おみ足がはだけておりました。と言うのは、吾々からの贈り物は吾々が頂いたものには及ばず、その足りない分だけローブの長さが短くなり、足首のところで終わっていたのです。
そのキリストがここの一団、そこの一団と次々と各軍団のもとをまわられる時のお顔はいやが上にも厳粛にして哀れみに満ちておりました。それでいて最初に姿を現された中心的位置を離れているようにも見えないのです。そのお顔の表情を私は、広げられた巻きものを見るように、明瞭に読み取る事ができました。
その厳粛さは、口にするのも恐れ多き天上界 – 罪と無縁ではないまでも知識として知るのみで体験として知る事のないキリスト界から携えて来られたものであり、一方哀れみはかのカルバリの丘での体験から来ておりました。その2つが神にして人の子たるキリストの手によって天と地の中間において結ばれているのです。
キリストは手をかざして遠く高き界層の天使へと目を向け、罪多き人間のために何を為さんとしているかを見届けながら、地球よりその罪の雫を自らの額に落とされ、その陰影によってお顔を一段と美しくされます。かくして崇高なる厳粛さと悲しみとが1つに融合し、そこから哀れみが生じ、以来、神的属性の1つとなったのです。さらには愛がありました。
与えたり与えられたりする愛ではありません。全てを己れの胸の中に収め、全てのものと一体となる愛。その時のキリストは吾々を包み込み、自らの中に収められたのでした。また頭上には威厳が漂っておりました。それはあたかも全天の星を腕輪(ブレスレット)に、惑星を従えた太陽を指輪(シグネット)にしてしまうほどの、大いなる威厳でした。
このようにしてキリストはお出ましになり、このような姿をお見せになったのです。それは今では過去のものとなりました。が、今なおその存在感は残り続けております。吾々が今拝するキリストはその時のキリストとは異なりますが、見ようと思えばいつでもそのシーンを再現し臨場感を味わう事ができます。これも神秘の1つです。
私は次のように考えております – 主は地上へと去って行かれた。が、そのマントのすそが伸びて、通過していった界層の全てを光で包まれた。さらに下へ下へと進まれ、ついにかの地球を取り囲む毒気に満ちた濃霧の如き大気の中へと入って行かれた…。
その威厳に満ちたご尊顔に哀れみの陰を見ている吾々の心に主を哀れむ情が湧くのを禁じ得ませんが、同時に敬愛と崇拝の念も禁じ得ません。なぜなら、汚れなき至純のキリストにとって、その恐怖の淵は見下ろすだに戦慄を覚えさせずにおかない事ですが、自ら担(にな)われた使命にしりごみされる事はありませんでした。
平静に、そして不敵の心をもって、浄化活動のための闘いに向かわれました。そのお姿を拝して吾々はキリストとともにある限り必ず勝利を収めるものと確信致しました。キリストはまさしく空前絶後のリーダーです。
真の意味でのキャプテンであり、その御心に母性的要素すら窺えるほどの優しさを秘めながらも、なお威厳あふれるキャプテンであられます。
アーネル†
8章 地球浄化の大事業
1 科学の浄化
1919年3月12日 水曜日
さて、今やキリストの軍勢に加わった吾々はキリストの後について降下しました。幾つかの序列に従った配置についたのですが、言葉による命令を受けてそうしたのではありません。
それまでの鍛錬によって、直接精神に感応する指示によって自分の持ち場が何であるか、何が要求されているかを理解する事ができます。それで、キリストとの交霊によって培われた霊感に従って各自が迷う事なくそれぞれの位置に付き、それぞれの役割に取りかかりました。
ではここで、地球への行軍の様子を簡単に説明しておきましょう。地球の全域を取り囲むと吾々は、その中心部へ向けて一斉に降下して行きました。こういう言い方は空間の感覚 – 3次元的空間の発想です。吾々の大計画の趣旨を少しでも理解して頂くには、こうするより他に方法がないのです。
キリストそのものは、既に述べましたように“偏在”しておりました。絶大な機能をもつ最高級の大天使から最下層の吾々一般兵士に至るまでの、巨万の大軍の1人1人の中に“同時に存在した”のです。
自己の責務について内部から霊感を受けていても、外部においては整然とした序列による戦闘隊形が整えられておりました。最高の位置にいてキリストに最も近い天使から(キリストからの)命が下り、次のランクの天使がそれを受けてさらに次のランクへと伝達されます。
その順序が次々と下降して、吾々はそれをすぐ上のランクの者から受け取る事になります。その天使たちは姿も見えます。姿だけでしたら大体3つ上の界層の者まで見えますが、指図を受けるのは、よくよくの例外を除けば、すぐ上の界層の者からに限られます。
さて吾々第10界の者がキリストの後について第9界までくると、吾々なりの活動を開始しました。まず9界全域にわたってその周囲を固め、徐々に内部へ向けて進入しました。するとキリストとその従者が吾々の界に到着された時と同じ情景がそこでも生じました。
9界に比べて幾分かでも高い霊性を駆使して吾々は、その界の弱い部分を補強したり、歪められた部分を正常に修復したりしました。それが終了すると、続いて第8界へと向かうのでした。それだけではありません。
9界での仕事が完了すると、ちょうど11界の者と吾々10界の者との関係と同じ関係が、吾々と9界の者との間に生じます。つまり9界の者は吾々10界の者の指図を受けながら、吾々の後について次の8界へ進みました。8界を過ぎると、8界の者は吾々から受けた指図をさらに次の7界の者へと順々に伝達していきます。
かくしてこの過程は延々と続けられて、吾々はついに地球圏に含まれる3つの界層を含む大気の中へと入って行きました。そこまでは各界から参加者を募り、1人1人をキリストの軍勢として補充していきました。しかしここまで来ていったんそれを中止しました。
と言うのは、地球に直接つながるこの3つの界層は、一応、1つの境涯として扱われます。なぜなら地球から発せられる鈍重な悪想念の濃霧に包まれており、吾々の周囲にもそれがひしひしと感じられるのです。黙示録にいう大ハルマゲドン(善と悪との大決戦 – 16・16)とは実にこの事です。吾々の戦場はこの3つの界層にまたがっていたのです。
そしてここで吾々はいよいよ敵からの攻撃を受ける事になりました。その間も地上の人間はそうした事に一向にお構いなく過ごし、自分たちを取り巻く陰湿な霊気を突き通せる人間は極めて稀にしかいませんでした。が、吾々の活動が進むにつれてようやく霊感によって吾々の存在を感じ取る者、あるいは霊視力によって吾々の先遣隊を垣間見る者がいるとの話題がささやかれるようになりました。
そうした噂を一笑に付す者もいました。吾々を取り巻く地上の大気に人間の堕落せる快楽の反応を感じ取る事ができるほどでしたから、多くの人間が霊的な事を嘲笑しても不思議ではありません。
そこで吾々は、この調子では人間の心にキリストへの畏敬の念とその従僕である吾々への敬意が芽生えるまでには、よくよく苦難を覚悟せねばなるまいと見て取りました。しかしその事は別問題として、先を急ぎましょう。
とは言え、吾々の作戦活動を一体どう説明すればよいのか迷います。もとより吾々は最近の地上の出来事について貴殿によく理解して頂きたいとは願っております。素晴らしい出来事、地獄さながらの出来事、さらには善悪入り乱れた霊の働きかけ – 目に見えず、従って顧みられる事もなく、信じられる事もなく、しかし何となく感じ取られながら、激しい闘争に巻き込まれている様子をお伝えしたいのです。
貴殿の精神の中の英単語と知識とを精一杯駆使して、それを“比喩的”に叙述してみます。それしか方法がないのです。が、せめてそれだけでも今ここで試してみましょう。
地球を取り巻く3層の領域まで来てみて吾々は、まず第1にしなければならない仕事は悪の想念を掃討してしまう事ではなく、善の想念へ変質させる事である事を知りました。そこでその霧状の想念を細かく分析して最初に処理すべき要素を見つけ出しました。
吾々より下層界からの先遣隊が何世紀も前に到着してその下準備をしてくれておりました。ここでは吾々第10界の者が到着してからの時期についてのみ述べます。地球の霊的大気には重々しくのしかかるような、どんよりとした成分がありました。
実はそれは地上の物質科学が生み出したもので、いったん上昇してから再び下降して地上の物質を包み、その地域に住む人々に重くのしかかっておりました。最も、それはたとえ未熟ではあっても真実の知識から生まれたものである事は確かで、その中に誠実さが多重に混じっておりました。
その誠実さがあったればこそ3つの界層にまで上昇できたのです。しかし所詮は物的現象についての知識です。いかに真実味があってもそれ以上に上昇させる霊性に欠けますから、再び物質界へと引き戻されるに決まっています。
そこで吾々はこれを“膨張”という手段で処理しました。つまり吾々は言わばその成分の中へ“飛び込んで”吾々の影響力を四方に放散し、その成分を限界ぎりぎりまで膨らませました。膨張した成分はついに物質界の外部いっぱいにまで到達しました。
が、吾々の影響力が与えた刺激はそこで停止せず、自らの弾みで次第に外へ外へと広がり、ついに物質界の限界を超えました。そのため物的と霊的との間を仕切っている明確な線 – 人間はずいぶんいい加減に仕切っておりますが – に凸凹が生じ始め、そしてついに、ところどころに小さなひび割れが発生しました – 最初は小さかったというまでで、その後次第に大きくなりました。
しかし大きいにせよ小さいにせよ、いったん生じたひび割れは2度と修復できません。たとえ小さくても、いったん堤防に割れ目ができれば、絶え間なく押し寄せていたまわりの圧力がその割れ目めがけて突入し、その時期を境に、霊性を帯びた成分が奔流となって地球の科学界に流れ込み、そして今なおその状態が続いております。
これでお分かりのように、吾々は地上の科学を激変によって破壊する事のないようにしました。過去においては一気に粉砕してしまった事が1度や2度でなくあったのです。確かに地上の科学はぎこちなく狭苦しいものではありますが、全体としての進歩にそれなりの寄与はしており、吾々もその限りにおいて敬意を払っていました。
それを吾々が膨張作用によって変質させ、今なおそれを続けているところです。カスリーン嬢の援助を得て私および私の霊団が行っているこの仕事は今お話した事と別に関係なさそうに思えるでしょうが、実は同じ大事業の一環なのです。
これまでの吾々の通信ならびに吾々の前の通信をご覧になれば、科学的内容のもので貴殿に受け取れる限りのものが伝えられている事に気づかれるでしょう。大した分量ではありません。それは事実ですが、貴殿がいくら望まれても、能力以上のものは授かりません。しかし、次の事実をお教えしておきましょう。
この種の特殊な啓示のために貴殿よりもっと有能で科学的資質を具えた男性たち、それにもちろん少ないながらも女性たちが、着々と研さんを重ねているという事です。道具として貴殿よりは扱いやすいでしょう。その者たちを全部この私が指導している訳ではありません。
それは違います。私にはそういう資格はあまりありませんので…。各自が霊的に共通性をもつ者のところへ赴くまでです。そこで私は貴殿の元を訪れている訳です。科学分野の事については私と同じ霊格の者でその分野での鍛錬によって技術を身につけている者ほどにはお伝えできませんが、私という存在をあるがままにさらけ出し、また私が身につけた知識は全てお授けします。
私が提供するものを貴殿は寛大なる心をもって受けて下さる。それを私は満足に思い、また嬉しく思っております。貴殿に神のより大きい恩寵のあらん事を。今回の話題については別の機会に改めて取り上げましょう。貴殿のエネルギーが少々不足してきたようです。
アーネル†
2 宗教界の浄化
1919年3月17日 月曜日
次に浄化しなければならない要素は宗教でした。これは専門家たちがいくら体系的知識であると誇り進歩性があると信じてはいても、各宗教の創始者の言説が束縛のロープとなって真実の理解の障害となっておりました。
分かりやすく言えば、私が地上時代にそうであったように(4章2参照)ある一定のワクを超える事を許されませんでした。そのワクを超えそうになるとロープが – 方向が逆であればなおのこと強烈に – その中心へつながれている事を教え絶対に勝手な行動が許されない事を思い知らされるのでした。
その中心が他でもない、“組織としての宗教の創始者”であると私は言っているのです。イスラム教がそうでしたし、仏教がそうでしたし、キリスト教もご多分にもれませんでした。
狂信的宗教家が口にする言葉はなかなか巧みであり、イエスの時代のユダヤ教のラビ(律法学者)の長老たちと同じ影響力を持っているだけに吾々は大いに手こずりました。吾々は各宗教のそうした問題点を細かく分析した結果、その誤りの生じる一大原因を突き止めました。
私は差し当たって金銭欲や権力欲、狂信という言わば“方向を間違えた真面目さ”、自分は誠実であると思い込んでいる者に盲目的信仰を吹き込んでいく偽善、こうした派生的な二次的問題は除外します。そうした事はイスラエルの庶民や初期の教会の信者たちによく見られた事ですし、さらに遠くさかのぼってもよくあった事です。
私はここではそうした小さな過ちは脇へ置いて、最大の根本的原因について語ろうと思います。吾々は地球浄化のための一大軍勢を組織しており、相互に連絡を取り合っております。が各小班にはそれぞれの持ち場があり、それに全力を投入する事になっております。
私はかつて地上でキリスト教国に生をうけましたので、キリスト教という宗教組織を私の担当として割り当てられました。それについて語ってみましょう。私のいう一大根本原因は次のような事です。地上ではキリストの事をキリスト教界という組織の創始者であるかのような言い方をします。
が、それはいわゆるキリスト紀元(西暦)の始まりの時期に人間が勝手にそう祭り上げたに過ぎず、以来今日までキリスト教の発達の頂点に立たされてきました。道を求める者がイエスの教えに忠実たらんとして教会へ赴き、あの悩みこの悩みについて指導を求めても、その答えはいつも“主のもとに帰り主に学びなさい”と聞かされるだけです。
そこで、ではその主の御心はどこに求めるべきかを問えば、その答えは決まって1冊の書物 – イエスの言行録であるバイブルを指摘するのみです。その中に書かれているもの以外は何1つ主の御心として信じる事を許されず、結局はそのバイブルの中に示されている限りの主の御心に沿ってキリスト教徒の行いが規制されていきました。かくしてキリスト教徒は1冊の書物に縛りつけられる事になりました。
なるほど教会へ行けばいかにもキリストの生命に満ち、キリストの霊が人体を血液がめぐるように教会いっぱいに行き渡っているかに思えますが、しかし実はその生命は(1冊の書物に閉じこめられて)窒息状態にあり、身体は動きを動きを停止し始め、ついにはその狭苦しい軌道範囲をめぐりながら次第に速度を弱めつつありました。
記録に残っているイエスの言行が貴重な遺産である事は確かです。それは教会にとって不毛の時代を導く一種のシェキーナ(ユダヤ教の神ヤハウェが玉座で見せた後光に包まれた姿 – 訳者)のごときものでした。
しかし、よく注意して頂きたいのは、例のシェキーナはヤコブの子ら(ユダヤ民族)の前方に現れて導いたのです。その点、新約聖書は前方に現れたのではなく、後になって崇(あが)められるようになったものです。それが放つ光は丘の上の灯台からの光にも似て確かに真実の光ではありましたが、それは後方から照らし、照らされた人間の影が前方に映りました。
光を見ようとすれば振り返って後方を見なければなりません。そこに躓(つまず)きのもとがありました。前方への道を求めて後方へ目をやるというのは正常なあり方ではありません。
そこに人間が自ら犯した過ちがありました。人間はこう考えたのです – 主イエスはわれらの指揮者(キャプテン)である。主がわれらの先頭に立って進まれ、われらはそのあとに付いて死と復活を通り抜けて主の御国へ入るのである、と。
が、そのキャプテンの姿を求めて彼らは回れ右をして後方へ目をやりました。それは私に言わせれば正常ではなく、また合理性にそぐわないものでした。そこで吾々は大胆不敵な人物に働きかけて援助しました。
ご承知の通りイエスは自分より大きい業(わざ)を為すように前向きの姿勢を説き、後ろから駆り立てるのではなく真理へ手引きする自分に付いてくるように言いました。(※)その事に着目し理解して、イエスの導きを信じて大胆に突き進んだ者がいました。
彼らは仲間のキリスト教者たちから迫害を受けました。しかし次の世代、さらにその次の世代になって、彼らの蒔(ま)いたタネが芽を出しそして実を結びました。(※ヨハ14・12)これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛した事です。生ける生命を1冊の書物によってがんじがらめにした事です。
バイブルの由来と中身をあるがままに見つめずに – それはそれなりに素晴らしいものであり、美しいものであり、大体において間違ってはいないのですが – それが真理の全てであり、その中には何1つ誤りはないと思い込んだのです。しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いております。
4人の福音書著者(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)によって伝えられたバイブルの中のわずかな言行は、およそキリスト教という流れの始源などではあり得ません。その先の広い真理の海へと続く大きい流れの接点で立てている“さざ波”程度のものにすぎません。
その事に人間は今ようやく気づき始めています。そしてキリストは遠い昔の信心深き人々に語りかけたように今も語りかけて下さる事を理解し始めております。そう理解した人たちに申し上げたい – 迷わず前進されよ。
後方よりさす灯台の光を有り難く思いつつも、同時に前方にはより輝かしい光が待ち受けている事を、それ以上に有り難く思って前進されよ、と。なぜなら当時ナザレ人イエスがエルサレムにおられたと同じように今はキリストとして前方にいらっしゃるからです。(後方ではなく)前方を歩んでおられるのです。
恐れる事なくその後に付いて行かれる事です。手引きして下さる事を約束しておられるのです。後に付いて行かれよ。躊躇しても待っては下さらないであろう。福音書に記された事を読むのも結構であろう。が、前向きに馬を進めながら読まれるがよろしい。
“こうしてもよろしいか、ああしてもよろしいか”と、あたかもデルポイの巫女(みこ)に聞くが如くに、いちいち教会の許しを乞う事はお止めになる事です。そういう事ではなりません。人生の旅に案内の地図(バイブル)を携えて行かれるのは結構です。進みつつ馬上で開いてご覧になるがよろしい。
少なくとも地上を旅するのには間に合いましょう。細かい点においては時代遅れとなっているところがありますが、全体としてはなかなかうまく且つ大胆に描かれております。しかし新しい地図も出版されている事を忘れてはなりません。
ぜひそれを参照して、古いものに欠けているところを補って下さい。しかし、ひたすら前向きに馬を進める事です。そして、もしも再び自分を捕縛しようとする者がいたら、全身の筋肉を引き締め、膝(ひざ)をしっかりと馬の腹に当てて疾駆させつつ、後ろから投げてかかるロープを振り切るのです。
残念ながら、前進する勇気に欠け前を疾走した者たちが上げていったホコリにむせかえり、道を間違えて転倒し、そして死にも似た睡眠へと沈み込んで行く者がいます。その者たちに構っている余裕はありません。
なぜなら先頭を行くキャプテンはなおも先を急ぎつつ、雄々しく明快なる響きをもって義勇兵を募っておられるのです。その御声を無駄に終わらせてはなりません。その他の者たちの事は仲間が大勢いる事ですから同情するには及ばないでしょう。死者は死者に葬らせるがよろしい(マタイ8・22)
そして死せる過去が彼らを闇夜の奥深くへ埋葬するに任せるがよろしい。しかし前方には夜が明けつつあります。まだ地平線には暗雲が垂れ込めておりますが、それもやがて太陽がその光の中に溶け込ませてしまう事でしょう – すっかり太陽が上昇しきれば、そしてその時が至れば全ての人間は、父が子等をひとり残らず祝福すべくただ1個の太陽を天空に用意された事に気づく事でしょう。
その太陽を人間は、ある者は北から、ある者は南から、その置かれた場所によって異なる角度から眺め、従ってある者にとってはより明るく、ある者にとってはより暗く映じる事になります。しかし眺めているのは同じ太陽であり、地球への公平な恩寵として父が給わった唯一のものなのです。
また父は民族によって祝福を多くしたり少なくしたりする事もなさりません。地上の四方へ等しくその光を放ちます。それをどれだけ各民族が自分のものとするかは、それぞれの位置にあって各民族の自由意志による選択にかかった問題です。
以上の比喩を正しくお読み下されば、キリストがもし一宗教にとって太陽の如きものであるとすれば、それは全ての宗教にとっても必然的に同じものであらねばならない事に理解がいくでしょう。
なんとなれば太陽は少なくとも人間の方から目を背(そむ)けない限りは、地球全土から見えなくなる事は有り得ないからです。確かに時として陽の光が遮られる事はあります。しかし、それも一時(いっとき)の事です。
アーネル†
3 キリストについての認識の浄化
1919年3月18日 火曜日
前回はキリストについて語り、キリスト教徒がそうと思い込んでいるものより大きな視野を指摘しました。今回もその問題をもう少し進めてみたいと思います。実は吾々キリスト教界を担当する霊団はいよいよ地球に近づいた時点で一旦停止しました。
吾々の仕事の様々な側面をいっそう理解するために、全員に召集令が出されたのです。集合するとキリスト自らお出ましになり、吾々の面前でその形体をはっきりお見せになりました。中空に立たれて全身を現されました。
その時の吾々の身体的状態はそれまで何度かキリストが顕現された時よりも地上的状態に近く、それだけにその時のキリストのお姿も物的様相が濃く、また細かいところまで表に出ておりました。ですから吾々の目にキリストのローブがはっきりと映りました。
膝のところまで垂れておりましたが、腕は隠れておらず何も付けておられませんでした。吾々は一心にそのローブに注目しました。なぜかと言えば、そのローブに地上の人間が様々な形で抱いているキリストへの感情が反映していたからです。
それがどういう具合に吾々に示されたかと問われても、それは地上の宗教による崇拝の念と教理から放出される光が上昇してそのローブを染める、としか言いようがありません。言わば分光器のような働きをして、その光のもつ本質的要素を分類します。それを吾々が分析してみました。
その結果分かった事は、その光の中に真の無色の光線が1本も見当たらないという事でした。いずれもどこか汚れており、同時に不完全でした。吾々はその問題の原因を長期間かけて研究しました。それから、いかなる矯正法をもってそれに対処すべきかが明らかにされました。
それは荒療治を必要とするものでした。人間はキリストからその本来の栄光を奪い取り、代って本来のものでない別の栄光を加える事をしていたのです。が加えられた栄光はおよそキリストにふさわしからぬ“まがいもの”でした。
やたらと勿体(もったい)ぶったタイトルと属性ばかりが目につき、響きだけは大げさで仰々(ぎょうぎょう)しくても、内実はキリストの真の尊厳を損なうものでした。
– 例を挙げていただけませんか。
キリスト教ではキリストの事を神(ゴッド)と呼び、人間を超越した存在であると言います。これは言葉の上では言い過ぎでありながら、その意味においてはなお言い足りておりません。キリストについて2つの観点があります。
1つの観点からすれば、キリストは唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のおひとりです。父と呼んでいる存在はそれとは別です。それは人間が思考しうる限りの究極の実在の表現です。従って父はキリストより大であり、キリストは父に所属する存在であり神の子です。
しかし別の実際的観点からすれば、吾々にとってキリストは人間が父なる神に帰属させているいかなる権能、いかなる栄光よりも偉大なものを所有する存在です。キリスト教徒にとって最高の存在は全知全能なる父です。この全知全能という用語は響きだけは絶大です。
しかしその用語に含ませている観念は、今こうして貴殿に語っている吾々がこちらへ来て知るところとなったキリストの真の尊厳に比べれば貧弱であり矮小(わいしょう)です。その吾々ですらまだ地上界からわずか10界しか離れていません。本当のキリストの尊厳たるや、果たしていかばかりのものでしょうか。
キリスト教ではキリストは父と同格である、と簡単に言います。キリスト自身はそのような事は決して述べていないのですが、さらに続けてこう言います – しかるに父は全能の主である、と。ではキリストに帰属すべき権能はいったい何が残されているのでしょう。
人間はまた、キリストはその全存在をたずさえて地球上へ降誕されたのであると言います。そう言っておきながら、天国の全てをもってしてもキリストを包含する事はできないと言います。
こうした事をこれ以上あげつらうのは止めましょう。私にはキリストに対する敬愛の念があり、畏怖の念をもってその玉座の足台にひざまずく者であるからには、そのキリストに対して当てられるこうした歪められた光をかき集める事は不愉快なのです – たまらなく不愉快なのです。
そうした誤った認識のために主のローブは全く調和性のない色彩のつぎはぎで見苦しくなっております。もしも神威というものが外部から汚されるものであれば、その醜(みにく)い色彩で主を汚してしまった事でしょう。
が、その神聖なるローブが主の身体を守り醜い光をはね返し、それが地球を包む空間に戻されたのです。主を超えて天界へと進入する事態には至らなかったのです。下方へ向けて屈折させられたのです。それを吾々が読み取り、研究材料としたのです。
吾々に明かされた矯正法は、ほかでもない、“地上的キリストの取り壊し”でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆している事でもあります。説明しましょう。
建物を例にしてお話しすれば、腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建て直しのきく場合があります。全部取り壊さずに建ったまま修復できます。が一方、全部そっくり解体し、基礎だけを残して全く新しい材料で建て直さなければならないものもあります。
地上のキリスト観は後者に相当します。本来のキリストの事ではありません。神学的教義、キリスト教的ドグマによって“でっち上げられたキリスト”の事です。今日キリスト教徒が信じている教義の中のキリストは“本来のキリスト”とは似ても似つかぬものです。
ぜひとも解体し基礎だけを残して、残骸を片づけてしまう必要があります。それから新たな材料を用意し、光輝ある美しい神殿を建てるのです。キリストがその中に玉座を設けられるにふさわしい神殿、お座りになった時にその頭部をおおうにふさわしい神殿を建てるのです。
この事 – ほんの少し離れた位置から私が語りかけている事を、今さらの如く脅威に思われるには及びません。この事は既に幾世紀にもわたって進行してきている事です。ヨーロッパ諸国ではまだ解体が完了するに至っておりませんが、引き続き進行中です。
地上の織機によって織られた人間的産物としての神性のローブをお脱ぎになれば、天界の織機によって織られた王威にふさわしいローブ – 永遠の光がみなぎり、愛の絹糸によって柔らか味を加え、天使が人間の行状を見て落とされた涙を宝石として飾られたローブを用意しております。
その涙の宝石は父のパビリオンの上がり段の前の舗道に蒔(ま)かれておりました。それが愛の光輝によって美しさを増し、その子キリストのローブを飾るにふさわしくなるまでそこに置かれているのです。それは天使の大いなる愛の結晶だからです。
アーネル†
4 イエス・キリストとブッダ・キリスト
1919年3月19日 水曜日
キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。
しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。関連性があるといったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。
一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出す事でしょう。
しかし人間の心はいつの時代にあってもひとつの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取る事は普遍的必要性とは言えません。
イエスはただの人間にすぎなかったという事を教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改める事にしました。
でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。そして心を動揺させます。しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求める如くに、教会の権威にしがみつきます。
一方、大胆さが過ぎて、これで“キリストの謎”が全て解けたと豪語する者もいます。彼らは“キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった”というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。
教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、叡智に長(た)けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々に比べれば遙かに多くの事を知っておられながら、まだ全ては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。
地上の神学の大家たちは絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多い事は致しません。それはそうでしょう。
親羊は陽気にたわむれる子羊のように威勢よく突っ走る事は致しません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした人たちから生まれるのです。
前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに“キリスト人間説”を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。
実は私はこの問題を出すのに躊躇しておりました。キリスト教徒にとっては根幹に関わる重大性をもっていると見られるからです。他ならぬ“救世主”が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多い事でしょう。それはキリストに対する愛があればこそです。
それだけに私は躊躇するのですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが…。
と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物にすぎないモヤの中から生まれているからです。いかに真摯(しんし)であろうと、あくまでも想像的産物である事に変わりはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされる事になります。
その信仰の念もキリストに届く事は届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、キリストの真実について考えようとする者を、キリストはいささかも不快に思われる事はないとの確信が持てるまでに、キリストへの愛に燃えて頂きたいのです。
吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れる事はありません。なぜなら吾々は所詮キリストの全てを理解する力はない事、謙虚さと誠意をもって臨めばキリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも懲罰も有り得ぬ事を知っているからです。
同じ事を貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遙かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像を遙かに超えたものである事を確信なさるがよろしい。
– キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッダなどがそれだというのですが、本当でしょうか。
事実ではありません。そんなに、あれやこれやに生まれ変わってはおりません。その事を詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとっても未だに謎であると、さきほど述べました。
そういう次第ですから、せめて私の知る限りのことをお伝えしようとすると、どうしても自家撞着(パラドックス)に陥ってしまうのです。ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通して父を顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。
またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストは父の1つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。
人間も1人1人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかし全ての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさから言うとイエス・キリストの方がブッダ・キリストに優ります。
が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この2つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでの事で、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、その全てに右に述べた事が当てはまります。
貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に“兄貴として”また“友人として”の主イエスを見出されるがよろしい。その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出す事でしょう。
差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就する事ができれば、こちらへ来られた時に主はさらにその先を歩んでおられる事を知る事になります。天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは結構ですが、その時にも、すぐ身の回りも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれている事を忘れてはなりません。
ある夏の宵の事です。2人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母(ばあ)ちゃんがローソクの光で2人の長靴下を繕(つくろ)っておりました。そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。
「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」するとメアリが言いました。「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じがしないもの」
こうして2人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに2人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが1番素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。
「そんな暇はありませんよ。お前たちの長靴下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの1番好きな星に腰かけてるんだもの。これがあたしには1番重宝(ちょうほう)してるよ」
アーネル†
9章 男性原理と女性原理
1 キリストはなぜ男性として誕生したか
1919年3月21日 金曜日
貴殿に興味のありそうな話題は多々あるのですが、話が冗漫(じょうまん)になるといけませんので割愛させて頂き、兄弟(けいてい)かきにせめぐ今日の危機(第1次世界大戦 1914 – 18 – 訳者)に至らしめた大きな原因について述べようと思います。
それはつまるところ、霊的なそしてよりダイナミックな活動をさしおいて、外面的な物的側面を高揚する傾向であったと言えます。その傾向が西洋人のあらゆる側面に浸透し、それがいつしか東洋人の思想や行動意志まで色濃く染め始めました。
それは実際面にも表れるようになり、一般社会はもとより政治社会、さらには宗教界にも表れ、ついには芸術界すらその影響から逃れられなくなりました。すでにお話した物質と形態へ向けて“外部へ、下方へ”と進んできた宇宙(コスモス)の進化のコースを考え合わせて頂ければ、その事は別段不思議とは思えないでしょう。
顕現としてのキリストについてもすでに述べました。私はこう述べました – いかなる惑星に誕生しようと、言いかえれば、地上への降誕と同じ意味でいかなる形態に宿ろうと、キリストはその使命を託された惑星の住民固有の“形態”を具えた、と。
その事は降誕する“土地”についても言えますが、同時に降誕する“時代”についても言えます。ではこれより私は、ガリラヤのイエスとしての前回の地上への降誕について述べてみます。
人間は次の事実すなわち、少なくとも吾々が知る限り“神性”において性の区別はない事、男性も女性もない事、なのにイエスは、いつの時代においても、かのガリラヤにおいても“男性として降誕した”という事実のもつ重要性を見落としております。私はこれよりその謎について説明してみます。
これまでの全宇宙の進化は“自己主張”すなわち形体をもって自己を顕現する方向へ向かってまいりました。絶対的精髄である霊は、本来、人間が理解している意味での形体はありません。悠久の(形態上の)進化もようやく最終的段階を迎えておりますが、その間のリーダーシップを握ったのは男性であり、女性ではありませんでした。
それには必然性があったのです。自己主張は本来男性的な傾向であり、女性的ではないからです。男性は個性を主張し、その中に自分の選んだ女性を組み入れて行こうとします。その女性を他の女性から隔絶して保護し、育み、我がものとしていきます。
我が意志が彼女の意志 – つまり女性は自分の意志の全てを男性の意志に従わせます。その際、男性の性格の洗練度が高いか低いかによって女性に対する自己主張の仕方に優しさと愛が多くもなり少なくもなります。しかし、その洗練というものは男性的理想ではなく女性的理想へと向かうものです。この点をよく注意して下さい。大切な意味があるのです。
そこで地球について言えば – このたびは他の天体の事には言及しません – 悠久の進化の過程において、身体的にも知性的にも力による支配の原理が表現されてきました。この二元的な力の表現が政治、科学、社会その他あらゆる分野での進歩の推進的要素となってきました。
それが現代に至るまでの地上生活の主導的原理でした。人類の旗には“男性こそリーダー”の紋章が描かれておりました。キリストが女性としてでなく男性として地上へ誕生したのはそのためでした。
しかし、男性支配の時代はやっとそのクライマックスを過ぎたばかりです。と言うよりは、今まさにそれを越えつつあります。そのクライマックスが外部へ向けて表現されたのが前回の大戦でした。
– その大戦の事はすでに多くを語って頂いております。これからまたその話をなさるのではないでしょうね。
多くは語るつもりはありません。しかし私がその惨事について黙する事はその大戦で頂点を迎えた、人類の進化に集約される数々の重大な軌跡を語らずに終わる事になります。その軌跡が大戦という形で発現したのは当然の成り行きであり不可避の事だったのです。
冷静に見つめれば、自己主張の原理の良い面は男性的生活態度が“創造主”の面影をほうふつとさせる事ですが、それは反面において自分1人の独占・吸収という野蛮な側面ともなりかねない事が分かるでしょう。洗練された性格の男性は女性に対して敬意を抱きますが、野獣的男性は女性に対して優位のみを主張します。
同じ意味で、洗練された国家は他の国家に対して有益な存在である事を志向し、相手が弱小国であれば力を貸そうとするものです。が、野蛮な国家はそう考えず、弱小国を隷属させ自国へ吸収してしまおうとする態度に出ます。
しかし、程度が高いにせよ低いにせよ、その行為はあくまでも男性的であり、その違いは性質1つにかかっております。善性が強ければ与えようとし、邪性が強ければ奪おうとします。が、与える事も奪う事も男性的性向のしからしむるところであり、女性的性向ではありません。
与える事は男性においては美徳とされますが、女性においては至極当たり前の事です。男性は功徳を積む事になりますが、女性はもともとその性向を女性本能の構成要素の中に含んでおります。
キリストはこの自己主張の原理を自ら体現してみせました。それが人類救済の主導的原理だったのです。男性としてキリストも要求すべきものは要求し、我がものとすべきものは我がものとしました。これは女性のする事ではありません。
が、徹底的にその原理を主張してしまうと、今度は男性の義務として、全てを放棄し全てを与えました。が、その時のキリストは男性としての理想に従っているのではなく女性としての理想に従っているのです。しかも女性としての理想に従っていながら、いっそう完全なる男性でもあるのです。
このパラドックスはいずれ根拠を明らかにしますが、まずはイエス・キリストの言葉を2、3引用し、キリストが身体的には男性でありながら、男性と女性の双方の要素が連帯して発揮されている、完全なる“神性の顕現”である事をお示ししましょう。
「人、その友のために己れを棄つる、これに優る愛はなし」(ヨハネ15・13)確かにそうですが、それは男性的な愛です。それよりさらに大なる愛が存在します。それは敵のために己れの生命を棄てる事です。
自分を虐待する男になおもしがみつこうとする女性の姿を見ていて私は、そこに女性特有の(友のために捧げる愛よりも偉大な)憎き相手に捧げる愛を見るのです。イエスは自分を虐待する者たちのために自分の生命(いのち)を棄てました。私にはそれはイエスの本性に宿る男性的要素ではなく女性的要素が誘発したように思えるのです。
また、なぜ「奪うより与える方が幸福」(使徒行伝20・35)なのか。男性にとってはこの言葉は観念的にも実際的にも理解が困難ですが、女性にとっては容易にそして自然に理解がいきます。
男性はそれが真実である事に同意はしても、なお奪い続けようとするものです。女性は与えるという行為の中に喜びを求めます。受けたものを何倍にもして返さないと気が済まないのです。この事を考え合わせれば、今だに論争が続いている例の奇蹟に敬虔の念を覚えられる事でしょう。
つまり、僅かなパンを何十倍にも増やして飢えをしのがせた行為も同じ女性的愛から発していたのです。しかしこの問題はこれ以上深入りしないでおきましょう。私が言いたかった事をまとめると次のような事になります。
つまりこれまでの地上世界は全ての面において英雄的行為が求められる段階にあったという事。従って“雄々しい力”という言葉が誰の耳にも自然な響きをもって聞こえ、“女々(めめ)しい力”という言い方から受ける妙な響きはありません。
しかし男性は神威の“1つの側面” – 片面にすぎないのです。その側面がこれまでの永い地上の歴史の中で存分に発揮されてきました。が、これより人類が十全な体験を積むためには、もう一方の側面を発揮しなければなりません。
これまでは男性が先頭に立って引っぱってきました。そしてそれなりの所産を手にしました。これからの未来にはそれとは異質の、もっと愉(たの)しい資質が用意されております。
アーネル†
2 男性支配型から女性主導型へ
1919年3月24日 月曜日
吾々から送られるものをそのまま書き記し、疑問に思える事があってもいちいち質問しないで頂きたい。全部書き終ってから読み直し、全体として判断し、部分的な詮索はしないで頂きたい。
このような事を今になって改めて申し上げるのも、吾々が用意している通信は多くの人々にとって承服しかねるものであろうと思われるからです。ですが、とにかく書き留めて頂きたい。吾々も語るべき事は語らねばなりません。それをこれより簡略に述べてみましょう。
キリストがガリラヤのイエスとして地上に降誕するまでの人類の進化は、知性においても力においても、男性の“右腕”による支配の線を辿っておりました。それが人類進化における男性的要素でした。
他にも様々な要素があったにしても、それは本流に対する支流のようなもので進化の一般的潮流にとっては大して意味はありません。私はこれよりそうした細かい事は脇へ置いて、本流について語ります。
イエスは地上に降(お)り、人間社会の大混乱を鎮静させるためのオイルを注がれました。聞く耳をもつ者に、最後の勝利は腕力にせよ知力にせよ強き者の頭上に輝くのではなく、“柔和(にゅうわ)なる者が大地を受け継ぐ”(詩篇37・11)と説きました。“受け継ぐ”のです。“奪う”のではありません。お分りでしょう。イエスは人類の未来の事を語っていたのです。
この言葉を耳にした者は実際的であると同時に美しくかつ真実である事を認めました。そして以来2千年近くにわたって両者を融合させようと努力して参りました。すなわち支配力に柔和さを継ぎ木しようとし、国内問題、国際問題、社会問題その他あらゆる面で両者をミックスさせようとしたのです。
が両者は今なお融合するに至っておりません。そこである者はキリスト教は公共問題においては無能であると言います。その結論は間違っております。キリストの教えは地上の人生において唯一永続性のある不変の真理です。
人間は暴力と威圧による支配が誤りであった事を認識しました。が、それを改めるためにこれまでに行なってきた事は、その誤った要素はそのまま留めておいてそれを柔和さという穏かな要素によって柔らげる事でした。
つまり一方では男性が相変わらずその支配的立場を維持しつつ、他方では女性的要素である柔和さによってその支配に柔らかさを加味しようと努力したのです。結果は失敗でした。あとは貴殿にも推察がつくでしょう。唯一残されたコースはその誤った要素を棄て、女性的要素である柔和さを地上生活における第1位の要素としていく事です。
地球の過去は男性の過去でした。地球の未来は女性の未来です。女性は今、自分たちの性の保護のために何か新しいものの出現を期待する概念が体内から突き上げてくるのを感じております。それは感心しません。ひとりよがりの考えであり、従ってそうあってはならない事だからです。
かの昔、1人の女性が救世主を生みましたが、それは“女性の”救世主としてではなく“全人類”の救世主として誕生しました。現在の女性の陣痛から生まれるものも同じものとなるでしょう。
何か新しいものを求める気持の突き上げを感じて女性は子孫への準備に取りかかりました。男児のための衣服を作り始めております。私は今“男児”と言いました。女性が作りつつある衣服はやはり男性のためのものなのです。
そのための布を求めに女性は、男性だけが売買をしている市場へ行って物々交換を申し出ました。“私たち女性にだって男性の仕事はできます”と言います。そのとき女性は自分が新しいブドウ酒を古い皮袋に入れているにすぎない事に気付いていません。
いけません。女性が男性の立場に立つ事をしては両者とも滅びます。女性は男性がこれまでに学ばされてきた苦(にが)い体験から女性としての教訓を学び取らなくてはいけません。男性はどこに挫折の原因があったかを学びました。ではどうすべきかが分らぬまま迷っております。
片方の手で過去をしっかりと握り、もう一方の手を未来へ向けて差し出しています。が、その手にはいまだに何も握られていません。過去を握りしめている手を放さない限り空をつかむばかりでしょう。
女性は今、かつての男性が辿ったのと同じ道を辿ろうとしています。男性と対等に事を牛耳ろうとしています。しかし女性の未来はその方向にあるのではありません。女性が人類を支配する事にはなりません。単独ではもとより、男性と対等の立場でも支配する事にもなりません。
これからは女性が主導(リード)する時代です。支配するのではありません。前にも述べた通り、これまでの地球の進化は物的なものへ向けての下降線を辿ってきました。そこでは男性が先頭に立ち、荒々しい闘争のために必要な甲冑がよく似合いました。
が、その下降線も折り返し点に到達し、今まさにそこを後にして霊的発達へ向けて上昇を開始したところです。霊の世界には人間が考え出した(神学の)ような、ややこしい戒律(きまり)による規制はありません。あるのはただ愛による導きのみです。
地上にも、優位の立場からの支配は女性の性(さが)に不向きである事を悟った暁に女性が誘導(ガイダンス)によってリードしていく場があります。しかし、その女性主導の未来がどういうものであるかは、いかなる形にせよ説明するのはとても困難です。
と言うのも、これまでのそうした主導権の概念は支配する者と支配される者、抑える者と従わされる者、といった2者の対立関係を含んでおりますが、これからの主導権にはそうした対立関係は含まれていないからです。
この“主導”という用語からして既に一方が先を行き他方がその後に付いていくという感じ、一種の強制観念をもっています。これからの人類を待ち受けていると私が言っている主導はそれとは異なるものです。次のように説明すればどうでしょうか。それはイエス・キリストにおいて明白に体現されております。
男性としての美質が1かけらの不快さも醜(みにく)さも伴わずに体現されていると同時に、女性としての優しさが1かけらの弱々しさも伴わずに融合されております。未来は両者が、すなわち男性と女性とが、いかに完璧に一方が他方を吸収した形であっても、2つの性としてではなく、1つの性の2つの側面という形をとる事になります。
力の支配するところでは“オレが先だ。お前は後に付いてこい”という事になります。愛の支配するところでは言葉は不要です。以心伝心で“最愛なる者よ、共に歩こう”という事になります。私の言わんとする事がこれでお分りと思います。
– 分ります。ただ今日までの慣習に親しんできている者にとっては、一方が(優しく)手引きし他方が(素直に)付いて行くようでなければ進歩が得られないというのは、いささか理解が困難です。
おっしゃる通りです。今の言い回しにも苦心のあとが窺えます。今貴殿は地上でいう組織や整然とした規制、軍隊や大企業における上下の関係を思わせる語句を使用しておられます。もちろん天界においても整然たる序列が存在します。しかしそれは権力の大小ではなく、あらゆる力の背後に控えるもの – 愛がそうあらしめるのです。
実際においてそれが何を意味するかを次の事実から微(かす)かにでも心に描いてみて下さい。比喩的な意味ではなく実際の事実として、地上でいうところの高い者と低い者、偉大な者と劣等なる者は存在しません。
地上から来たばかりの霊と天使との間にも必ず共通した潜在的要素が存在します。その意味で、若い霊も潜在的には天使と同じであるのみならず、さらに上の大天使、力天使、能天使とも同じであると言えるのです。
(訳者注 – ここではオーエンがキリスト教の牧師である事から神学における天使の分類用語を使用しているまでの事で、実際にそういう名称で呼ばれている訳ではない。要するに造化の仕事に直接携わっている高級霊と考えればよい)
さらに、例えば天使と“父”との関係について言えば、地上的な観点からすれば当然天使の方が小さい存在ですが、天界全体として考えた時、両者の関係は1つの荘厳なる実在すなわち“絶対神”の中に吸収されてしまいます。そこにおいては天使も絶対神と一体となります。“より大きい”も“より小さい”もありません。
それは外部にまとう衣服については言えましょう。宝石の“枠飾り”のようなものです。が、内奥の“至聖所”ではその差別はありません。その事はキリストの顕現の度に思い知らされる事です。すなわちキリストは確かに王であり吾々はその従臣です。
しかしキリストはその王国全体と一体であり、その意味において従臣もその“王の座”を共有している事になるのです。キリストが命を下し、指揮し、吾々はその命に服し、指揮に従います。が、“命じられたから”そうするのではなく、キリストを“敬慕するから”であり、キリストもまた吾々を敬愛なさるからです。お分りでしょうか。
ともかく、こうした天上的な洞察力の光を幾ばくかでも人類の未来へ向けて照射して頂きたい。きっとそこに、こうして貴殿に語りかけている吾々に啓示されているものを垣間見る事ができるでしょう。また次の事も銘記して下さい。
理性というものは男性的資質に属し、従って私の言う未来を垣間見る手段としては不適当である事です。直感は女性的資質に属し、人間の携帯用望遠鏡のレンズとしては理性より上質です。
思うに女性がその直感力をもって未来をどう読まれるにしても、理性的に得心がいかないと満足しない男性よりは、私が言わんとする事を素直に理解して下さるでしょう。
女性は知的理解をしつこく求めようとしません。理屈にこだわらないのです。あまりその必要性がないとも言えます。直感力が具わっているからです。それで十分間に合いますし、これより先は女性と男性の双方にとってそれがさらに有益となっていく事でしょう。
– 例によって寓話をお願いしたいですね。
ある金細工人が王妃の腕輪(ブレスレット)に付ける宝石としてルビーとエメラルドのどちらにしようかと思案しました。彼は迷いました。ルビーは王様がお好みであり、エメラルドは王妃がお好みだったからです。思案にあまった彼は妻を呼んで、どう思うかと聞いてみました。
すると妻は“あたしだったらダイヤにする”と答えました。“なぜだ。ダイヤはどっちの色でもないぞ”と聞くと、“お持ちになってみられてはいかが?”と答えます。彼は言われた通りに持参してみる事にしました。
恐るおそる宮殿を訪れてまず王様にお見せしたところ、“でかしたぞ。このダイヤはなかなかの透明度をしている。ルビーの輝きがあふれんばかりじゃ。さっそく妃(きさき)のところへ持って行って見せてやってくれ”と言います。
そこで王妃のところへ持って行くと王妃もことのほか喜ばれ、“なかなか宝石に目が高いのお。このダイヤはエメラルドの輝きをしている。さっそくそれでブレスレットを仕上げておくれでないか”とおっしゃいます。訳が分らないまま帰ってきた金細工人は、妻になぜ王妃はこのダイヤが気に入られたのだろうかと聞いてみました。
すると妻は“お2人はどんなご様子だったのですか”と尋ねます。“お2人とも大そうお気に召されたんだ。王様はなかなか上質でルビーの色をしているとおっしゃり、王妃もなかなか上質でエメラルドの色をしているとおっしゃった”と彼は言いました。すると妻は答えました。
“でもお2人のおっしゃる通りですよ。ルビー色もエメラルド色も、砕いてみれば何もない無色の中から出ているのであり、他にも数多くの色が混ざり合っているのです。愛はその底に全ての徳を融合させて含んでおり、1つ1つの徳が愛の光線の一条(ひとすじ)なのです。
王様も王妃もその透明な輝きの中にお好みの色をご覧になられたのです。お2人が違う色をご覧になったからといって別に不思議に思われる事はありません。お互いの好みの色はその結晶体の中で融合し、自他の区別をなくして本来の輝きの中に埋没してしまっているのです。それはお2人が深く愛し合う仲だからですよ”
アーネル†
3 崇高なる法悦の境地
1919年3月25日 火曜日
さて、未来へ向けて矢が放たれたところで1たん出発点へ戻り、これまでお伝えしたメッセージを少しばかり手直しをしておきましょう。私が述べたのは人類の発達途上における目立った特徴を拾いながら大ざっぱな線について語ったまでです。
しかし人類が今入りかけた機構は単純ではなく複雑を極めております。次元の異なる界がいくつも浸透し合っているように、いくつもの発展の流れが合流して人類進化の大河をなしているのです。
私がこれからは男性支配が女性の柔和さにその場を譲ると言っても、男性支配という要素が完全に消滅するという意味ではありません。そういう事は有得ません。人類の物的形態へ向けての進化には創造主が意図した目的があるのであり、その目的は、成就されればすぐに廃棄されてしまう程度のものではありません。
ようやく最終段階を迎えつつある進化の現段階は、男性の霊的資質を高める上で不可欠だったのです。ですから、その段階で身につけた支配性は、未来の高揚のために今形成しつつある新しい資質の中に融合されていく事でしょう。
ダイヤからルビーの光が除去される事はありません。もしそうなればダイヤの燦然たる美しさが失われます。そうではなく、将来そのダイヤが新たな角度から光を当てられた時に、その輝きがこれまでよりは抑えられたものになるという事です。
かくしてこれからのある一定期間は、そのまたたきが最も顕著となるのはこれまでのルビーではなくエメラルドとなる事でしょう。(訳者注 – 前回の通信の最後の寓話になぞらえて、ルビーが男性的性格、エメラルドが女性的性格を象徴している)
また遠い過去においてそのルビーに先立って他の色彩が顕著であった時期がある如く、ダイヤの内奥には、このエメラルドの時代の終った後、永遠の時の中で然るべき環境を得て顕現するさらに別の色彩があるのです。
さらに言えば、私の言う女性の新時代は激流のごとく押し寄せるのではなく、地上の人間が進歩というものを表現する時によく使う言い方に従えば、“ゆっくりとした足取り”で訪れます。言っておきますが、その時代はまだ誕生しておりません。が、いずれ時が熟せば誕生します。
その時期が近づいた時は – イヤ(ここで寓話に変わる – 訳者)救世主は夜のうちに誕生し、ほとんど誰にも気づかれなかった。しかも新しい時代の泉となり源となった。それから世の中は平凡なコースを辿り、AUC(ローマ紀元。紀元前753年を元年とする)を使用している間は何の途切れもなく続いた。
が今日、かの素性の知れぬ赤子(イエス)の誕生がもとでキリスト教国の全てがDC(西暦紀元)を採用する事になり、AUCは地上から消えた。貴殿は私の寓話を気に入って下さるので、どうか以上の話から何かの意味を読み取って下さい。
また例の“天使の塔”における“キリストの顕現”の話を思い出して頂きたい。あれはこの地上への吾々の使命に備えるための学習の一環だったのです。私の叙述から、その学習がいかに徹底したものであったかを読み取って頂けるものと思います。
物的宇宙の創造を基盤とし、宇宙を構成する原子の構造を教えて下さったのです。それが鉱物、植物、動物、そして人間となっていく永くかつ荘厳な生命の進化の過程が啓示されたのです。さらに学習は続き、地球に限定して、その生命を構成する要素を分析して、種類別に十分な検討を加えました。
それから地球の未来を覗かせて頂き、それが終って今こうして貴殿にメッセージを送っている訳です。その人類の未来を覗かせて頂いた時の顕現の全てを叙述する事はとても出来ません。ダイヤモンド(※)の内奥には分光器にかからない性質の光線が秘められているからです。
ですが、その得も言われぬ美と秘密と吾々にとっての励ましに満ちた荘厳なるスペクタクルについて、貴殿にも理解し得る範囲の事を語ってみましょう。(※これも前回の通信の寓話になぞらえて、全ての色彩が完全に融合した時の無色透明な状態を象徴している – 訳者)
地球を取り巻く例の霧状の暗雲が天界の化学によって本来の要素に分析されました。それを個々に分離し、それぞれの専門家の手による作業に任されました。その作業によって質を転換され、一段と健康な要素に再調合する過程がほぼ完了の段階に近づいた時に、吾々は各自しばし休養せよとの伝達を受け、その間は他の霊団が引き受けてくれました。
そこで吾々は所定の場所へ集合しました。見ると天界のはるか上層へ向けて一段また一段と、無数の軍勢が幾重にも連なっておりました。得も言われぬ荘厳なる光景で、事業達成への一糸乱れぬ態勢に吾々は勇気百倍の思いが致しました。
その数知れぬ軍勢の1人1人が地球上の同胞の救済のために何らかの役割分担を持ち、その目的意識が総監督たるキリストにおいて具現されているのでした。それを内側から見上げれば、位階と霊格に従って弧を描いて整列している色彩が、あたかも無数の虹を見る如くに遥か遠くへと連なっておりました。
そしてその中間に広がる、1個の宇宙にも相当する大きさの空間の中へ、既にお話した事のある静寂という実体(1章2)が流れ込んできました。それはすなわち、そこに我らが王が実在されるという事です。
静寂の訪れを感じて吾々はいつもの如く讃仰のために頭(こうべ)を垂れました。崇高なる畏敬の念の中に法悦を味わい、目に見えざる来賓であるキリストを焦点とした愛の和合の中にあって吾々はただただ頭を垂れたまま待機しておりました。
アーネル†
4 地球の未来像の顕現
1919年3月28日 金曜日
この段階で吾々は既に、それぞれの天界の住処(すみか)にふさわしい本来の身体的条件を回復しておりました。それ故、吾々は実際は地球を中心としてそれを取囲むように位置しているのですが、地球の姿は既に吾々の目には映じませんでした。
もちろんこの事は私自身の境涯に視点を置いて述べたまでで、私より地球に接近した界層の者の事は知りません。多分彼らにはそれらしきものは見えた事でしょう。これから述べる事は私自身の視力で見た限りの事です。
私はその巨大な虚空の内部を凝視しました。全てが空(くう)です。その虚空が、それを取り巻くように存在する光輝によって明るく照らし出されているにもかかわらず、その内部の奥底に近づくにつれて次第に暗さが増していきます。そしてその中心部になるとまさに暗黒です。
そう見ているうちに、その暗黒の虚空の中心部から嘆き悲しむ声に似た音が聞こえてきました。それが空間的な“場”を形成している吾々の方角へ近づくにつれて“うねり”を増し四方へ広がっていきます。
が、その音が大きくなってくるといつしか新しい要素が加わり、さらにまた別の要素が加わり、次々と要素を増していって、ついに数々の音階からなる和音(コード)となりました。
初めのうちは不協和音でしたが吾々に近づくにつれて次第に整い、ついには虚空の全域に1つに調和した太く低い音が響き渡りました。そうなった時はもはや嘆き悲しむ響きではなく、雄々しいダイヤペーソンとなっておりました。
それがしばらく続きました。すると今度はそれに軽い音色が加わって全体がそれまでのバス(男性の最低音)からテノール(男性の最高音)へと変りました。変化はなおも続き、ついに吾々が取り囲む内部の空間が得も言われぬ色合いを見せる光輝に照らし出されました。
そしてその中央部、すなわち吾々の誰からも遠く離れた位置で“顕現”が始まっている事が分かりました。それは次のようなものでした。
まず地球が水晶球となって出現し、その上に1人の少年が立っています。やがてその横に少女が現れ、互いに手を取り合いました。そしてその優しいあどけない顔を上方へ向け、じっと見つめているうちに2人ともいつしか青年に変身し、一方、立っている地球が膨(ふく)れ出して、かなりの大きさになりました。
するとその1ばん上部に曲線上に天蓋のついた玉座が出現し、女性の方が男性の手を引いて上がり段のところへ案内し、そこで女性が跪(ひざまず)くと男性だけが上がり段をのぼって玉座の中へ入りました。
そこへ大勢の従臣が近づいて玉座の周りに立ち、青年に王冠と剣(つるぎ)を進呈し豊かな刺繍を施した深紅のマントを両肩にお掛けしました。それを合図に合唱隊が次のような主旨の祝福の歌を歌い上げました。
「あなたは地球の全生命の“主宰者”として、霊の世界よりお出ましになられました。あなたは形態の世界である外的宇宙の中へ踏み込まれ、あたりを見回されました。そして両足でしっかりと踏みしめられて、地球がどこかしら不安定なところを有しながらも、よき天体であるとお感じになられました。
それから勇を鼓して一方の足を踏み出し、さらにもう一方の足を踏み出され、かくして地球を征服なさいました。
そこで再び周囲を見渡されて、あなたのものとなったものを点検なさいました。それに機嫌をよくされたあなたはその中で最も麗しいものに愛をささやかれました。そのとき万物の“父”があなたのために宝庫よりお出しになられた全至宝の中でも、あなたにとっては女性が最愛の宝物となりました。
征服者としての権限により主宰者となられたあなたへの祝福として詠唱した以上の事は、その通りでございましょうか。」
青年は剣を膝の上に斜めに置いてこう答えました。
「地上での数々の闘いに明け暮れた私をご覧になってきたそなたたちが歌われた通りである。正しくご覧になり、それを正しく語られた。さすがに吾等の共通の“主”の家臣である。
さて私は所期の目的を果たし、それが正当であった事を宣言した。武勇において地上で私の右に出る者はおりませぬ。地球は私が譲り受ける。私みずからその正当性を主張し、今それを立証したところである。
しかし私にはまだ心にひっかかるものがある。これまでの荒々しい征服が終了した今、私は次の目標をいずこへ求めればよいのであろう。永きにわたって不穏であった地球もどうにか平穏を取り戻した。が、まだ真の平和とは言えぬ。地球は平穏な状態にうんざりし、明日の平和を求める今日の争いにこれきり永遠に別れを告げて、真の平和を求めている。
そこで、これまで私を補佐してこられたそなたたち天使の諸君にお願いしたい。幾度も耳打ちしてくれた助言を無視して私がこれまでとかく闘いへの道を選んできて、さぞ不快に思われた事であろう。それは私も心を痛めた事であった。
しかし今や私も高価な犠牲を払って叡智を獲得した。代償が大きかっただけ、それだけ身に沁みている。そこで、これより私はいかなる道を選ぶべきか、そなたたちの助言を頂きたい。
私もこれまでの私とは違う。助言を聞き入れる耳ができている。今や闘いも終り、この玉座へ向けて昇り続けたその荒々しさに、われながら嫌気がさしているところである。」
そう言い終ると従臣たちが玉座の上がり段を境にして両脇に分れて立ち並び、その中間に通路ができました。するとその中央にさきの女性が青の縁どりのある銀のローブで身を包んで現れました。清楚(せいそ)に両手を前で組み、柔和さをたたえた姿で立っておられます。が、その眼差しは玉座より見下ろしている若き王の顔へ一直線に向けられています。
やがて彼はおもむろに膝の上の剣を取り上げ、王冠を自分の頭から下ろして階段をおり、その女性のそばに立たれました。そして女性が差し出した両腕にその剣を置き、冠を頭上に置きました。それから一礼して女性の眉に口づけをしてから、こう告げました。
「そなたと私とで手を取り合って歩んで来た長い旅において私は、数々の危機に際してそなたの保護者となり力となってきました。嵐に際しては私のマントでそなたを包んであげました。急流を渡るに際しては身を挺して流れをさえぎってあげました。
が、行く手を阻(はば)む危険もなくなり、嵐も洪水も鎮まり、夏のそよ風の如き音楽と化しました。そして今、そなたは無事ここに私と共にあります。しかし、この機をもって私は剣をそなたに譲ります。その剣をもってその王冠を守ってきました。
ここにおいてその両者を揃えてそなたに譲ります。もはや私が所有しておくべき時代ではなくなりました。どうかお受け取り頂きたい。これは私のこれまでの業績を記念する卑(いや)しからぬ品であり、あくまで私のものではありますが、それが象徴する全てのものと共に、そなたにお預け致します。
どうかこれ以後もそなたの優しさを失う事なく、私が愛をもって授けるこの2つの品を愛をもって受け取って頂きたい。それが私より贈る事のできる唯一のもの – 地球とその2つの品のみです。」
青年がそう言い終ると女性は剣を胸に抱き抱え、右手を差しのべて彼の手を取り、玉座へ向かって階段を上がり玉座の前に並んでお立ちになりました。そこでわずかな間を置いたあと彼は気を利かして1歩わきへ寄り、女性に向かって一礼しました。すると女性はためらいもなく玉座に腰を下ろされました。彼の方は脇に立ったまま、これでよしといった表情で女性の方を見つめておりました。
ところが不思議な事に、私が改めて女性の方へ目をやると、左胸に抱(か)かえていた剣はもはや剣ではなく、虹の色をした宝石で飾られたヤシの葉と化しておりました。王冠も変化しており、黄金と鉄の重い輪が今はヒナギクの花輪となって、星のごとく輝く青と緑と白と濃い黄色の宝石で飾られた美しい茶色の髪の上に置かれていました。
その種の黄色は地上には見当たりません。若き王も変わっておりました。お顔には穏かさが加わり、お姿全体に落ち着きが加わっておりました。そして身につけておられるローブは旅行用でもなく戦争用でもなく、ゆったりとして長く垂れ下がり、うっすらとした黄金色に輝き、その“ひだ”に赤色が隠されておりました。
そこで青年が女性に向かってこう言いました。
「私からの贈りものを受け取ってくれた事に礼を申します。では、これより先、“私とそなた”ではなく、“そなたと私”となるべき時代の辿るべき道をお示し願いたい。」
これに答えて女性が言いました。
「それはなりませぬ。私とあなたさまの間柄は、あなたさまと私との間柄と同じだからでございます。これより先も幾久しく2人ともども歩みましょう。ただ、辿るべき道は私が決めましょう。しかるべき道を私が用意します。しかし、その道を先頭きって歩まれるのは、これからもあなたさまでございます。」
アーネル†
10章 天上、地上、地下のものすべて(ピリピ2・10、黙示録5・13)
1 地球進化の未来
1919年4月1日 火曜日
やがて吾々が取り囲む虚空全体に再び静寂が行きわたりました。見るとお2人は揃って玉座の中に座しておられます。女性の方から招き入れたのです。
すると第10界まで軍団を率いてこられた方で吾々の地球への旅の身支度を指導して下さった大天使のお1人の声が聞こえてきました。玉座より高く、その後方に位置しておられました。こうお述べになりました。
「余の軍団の者ならびに、この度の地球への降下に参加を命じられた者に告ぐ。ただ今の顕現はこれより後の仕事に理解をもって取り組んでもらうために催されたものである。その主旨については指揮を与える我らもあらかじめ知らされてはいたが、今あらためて諸君にお知らせした次第である。
よく銘記せられ、前途に横たわる道をたじろぐ事なく前進されたい。父なる神は吾らの最高指揮官たるキリストに託された仕事のための力をお授け下さる。キリストを通じてその霊力の流れがふんだんに注がれ、使命の達成を可能にして下さるであろう。我らが創造主への崇敬の念を片時も忘れまいぞ」
言い終わるのと時を同じくして燦然と輝く霧が玉座に漂い、やがて地球全体を覆い始め、もはや吾々の目に地球の姿は見えなくなりました。覆い尽くすと全体がゆっくりと膨張を始め、虚空の4分の1ほどにもなったところで膨張を止めました。
すると今度はそれが回転し始め、次第に固体性を帯びていくように見えてきました。固いといっても物質が固いというのとは異なります。物的地球が半透明になるまで精妙(エーテル)化した状態を想像されれば大体のイメージはつかめるでしょう。
地軸を中心にして回転していくうちに、今度はその表面に陸と海の形が現れました。今日の地形とは異なります。吾々は今、未来の仕事の場を見せられているのです。現在の地形が変化しているごとく、それも次第に変化していたのですが、変化のスピードは速められていました。
つまり来るべき時代が短縮されて眼前に展開し、吾々はそれを動くモデルとして読み取っていた訳です。さらにその上に都市、民族、動物、それに様々な用途の機械類が出現しました。かくして全表面を吾々の方角へ向けながら回転し続けているのを見ていると、その進化の様子が手にとるように分りました。
例えば貴殿の国を見てみましょう。最初は2、3年後の姿が目に入りました。やがてそれが視界から消え、そして次に見えた時は沿岸の形状や都市と住民の様子が少し変化しておりました。
こうして地球が回転するごとに陸地をはじめとして人類全体、建築物、交通機関、そのほか何万年、何十万年もの先までの人口の発達の様子が千年を数時間の単位に短縮されて出現しました。私の説明はこうして用語を貴殿の感覚に置き換えなくてはなりません。吾々にとって年数というのは、地上の人間とは感覚的に同じものではありません。
もっとも、こうした形で私が人類に代わって遠い未来という深海で漁をしてあげるのは許されない事でしょう。人類は自分の夕食の魚は自分の網で取らないといけません。それが筋というものです。もっとも、良い漁場を教えてあげるくらいの事は私にも許されています。
』この私を信頼のおける漁船団長と思って下さる方は、どうぞ私の海図に従って探求の旅へ船出して下さい。さて地球は永い年月に亘る航海を続けるうちに、ますます美しさを増してきました、表面の光が増し、大地そのものも内部からの輝きを増しておりました。
また人間は地球上でさほどせわしく東奔西走している様子は見えません。それというのも大自然の摂理との調和が一段と進み、その恩寵にますます敬服し、激情に振り回される事も少なくなり、内省的生活の占める割合が増えているからです。
かくして地球の全ての民族が協調性を増し、同時に霊力と安らかさとを送りやすくなった吾々との一体性も増しております。吾々はその一体性が進むのを見ていて、吾々がかつて数々の戦乱の末に獲得した豊かな幸福をこの人類の若き同胞達が享受してくれている事を知り、興奮さえ覚えるのでした。
やがて地球そのものも変化しておりました。それを述べてみましょう。貴殿をはじめ、最近の人間の精神の中に新しい用語が見られます。サイコメトリという言葉です。これは物体に刻み込まれた歴史を読み取る能力と私は理解しております。
実はそれには人間がエーテルと読んでいる成分の本性と、その原子に内在するエネルギーを知り尽くすまでは十分に理解できない真相が隠されております。いずれ人間がこのエーテルという宇宙的安定基材(コズミックバラスト)を分析的かつ統合的に扱う事ができる時代がきます – 地球が回転するのを見ていてそれを明瞭に観察したのです。
その時になれば今人間が液体やガス体を扱うようにエーテル成分を扱うようになるでしょう。しかしそれはまだまだ先の話です。現段階の人間の身体はまだまだ洗練が十分でなく、この強力なエネルギーを秘めた成分を扱うにはよほどの用心がいります。当分は科学者もそこに至るまでの下準備を続ける事になるでしょう。
アーネル†
2 宇宙的(コズミック)サイコメトリ
1919年4月2日 水曜日
それ故そうしたサイコメトリ的バイブレーションは – 吾々が物質を研究した上での結論ですが – 物質に瀰漫(びまん)するエーテルに書き込まれている、ないしは刻み込まれているのです。それだけではありません。エーテルが物質の成分に作用し、それによって活性化される度合によって、その物質の昇華の度合が決まっていきます。
つまり活性化された成分が外部からエーテルに働きかけ、浸透し、それを物質との媒介物として活用するのです。物質の成分は地上の化学者も指摘するとおりエーテルの中に溶解した状態で存在する訳です。
その点は地上の化学者の指摘は正しいのですが、その辺は大自然の秘奥の門口であって、その奥には“神殿”があり、さらにその先には“奥の院”が存在する。物質科学の範疇を超えてエーテル界の神殿に到着した時、その時初めて大自然のエネルギーの根源がその奥の院にある事を知る事になります。
その“奥の院”にこそ普遍的“霊”が存在するのです。これで大自然のカラクリがお分りになると思います。普遍的な“霊”が外部から、つまり基本的成分がエネルギーの量においても崇高性の度合においても全てを凌ぐ界層から活発にエーテルに働きかけます。
その作用でエーテルが活性化され、活性化されたエーテルがさらに物質の基本分子に作用し、そこに物質という成分が生まれます。ただし、この作用は機械的なものではありません。その背後に意思が働いているのです。意志のあるところには個性があります。
つまるところエーテルに性格を賦与(ふよ)するのは個性をもつ存在であり、その影響がそのまま物質に反映されていきます。それ故こういう事になります – エーテルを通して物質に働きかける霊的存在の崇高さの程度に応じて、物質の成分の洗練の度合が高くもなり低くもなる、という事です。(第1巻 P 217参照)
という事は地球そのもの、および地球上の全存在物を構成している物質の性質は、それに向けて意識的に働きかけている霊的存在の性格と共鳴関係にあるという事です。両者は物質に宿っているかいないかの違いがあるだけで、ともに霊(スピリット)なのです。
したがって地球人類が霊的に向上するにつれて(未来の)地球もそれを構成する成分に働きかける影響力に対して、徐々にではあっても着実に反応していきました。物質がより洗練され、より精妙化されていきました。内部からの輝きを増していったのはそのためです。
これは宇宙規模のサイコメトリにほかなりませんが、本質的には今地上に顕現されているものと同一です。地球ならびに地球人類の精妙化が進むにつれて霊界からの働きかけもいっそう容易になっていき、顕幽間の交信も今日より頻繁になると同時に、より開放的なものとなっていきました(※)。
そして、途中の段階を省いて結論を急げば、顕幽間の交信がごく当たり前のものとなり、且つ間断なく行なわれる時代にまで到達しました。そしてついにこれからお話する一大顕現が実現する事になります。(※シルバーバーチは霊格が向上するほど自由意志の行使範囲が広くなると述べている – 訳者)
が、それをお話する前に述べておきたい事があります。私の話は太陽およびその惑星系にしぼり、遠い銀河の世界の事は省きます。
地上の天文学者は自分達が確認した惑星を全て“物的天体”としております。さらに、それらの惑星を構成する物質がその成分の割合において地球を構成する物質と同一ではない事も発見しております。
しかしもう1歩進んで、物質の密度の差を生じさせる原因の1つとして、もう1つ別の要素が存在するところまでは気づいておりません。それが私がこれまで述べてきた霊的要素で、それが惑星系の進化の長旅において地球より先を歩んでいる天体の進化を促しているのです。
実はそれ以外に地上の人間の視力では捉える事の出来ない別の種類の惑星が存在するのです。精妙化が既に物質的段階を超えてエーテル的段階に至っているのです。霊的までは至っていません。物質的状態と霊的状態の中間です。
その種の天体の住民には地球を含む惑星系の全てが見えます。そして強力な影響力を行使する事ができます。それは、地球人類より進化はしていても、霊格においては霊界の住民よりはまだ地球人類に近いからです。それはそれなりに、れっきとした惑星なのです。
ところが、それとはまた別の意味でのエーテル的天体がいくつか存在します。その1つが地球を包み込むように重なっております。その天体の構成するエーテルの粗製状態のものが地球に瀰漫(びまん)しているのです。と言って、地球の為だけの存在ではありません。
また、のっぺらとしたベルト状のものではなく、表面には大陸もあれば海もあり、住民もいます。その大半はかつて地球上で生活した事のある者ですが、中には1度も地上生活の体験のない者もいます。血と肉とから成る身体としての顕現の段階まで達していないのです。
– いわゆる幽界の事でしょうか。
その名称は使用する人によって必ずしも同じように理解されておりませんが、貴殿の理解しているものに従って言えば、私の言うエーテル的天体は幽界とは違います。今お話した通りのものです。
聞くところによれば、そこに定住している人間に似た住民はみな、ずいぶん古くからの生活者で、これから先いつまでそこに住んでいられるか確かな事は不明であるとの事です。彼らは太古の地球人類の一種の副産物なのです。
– あなたがこの地球へ降りて来られる時はそのエーテル的天体を通過してくる訳ですか。
場所的に言えばそういう事になります。が通過する際にその環境に対して何の反応も感じません。感覚的にはその存在を感じていないという事です。
私がこれまで第1界、第2界、第3界と呼んできた界層とは何の関係もありません。造化の系列が別で、実に不可思議な存在です。吾々の行動の場から離れており、従って詳しい事はほとんど知りません。
先ほど申し上げた事は – あれ以外にもう少し多くの事が判っておりますが – これまでそうした別の要素の存在を知らなかったがために理解に苦しんでいた事を説明するために教えて頂いた事です。それでやっと得心がいった事でした。
アーネル†
3 精霊とその守護天使の群れ
1919年4月3日 木曜日
さて、地ならしができたところで、お約束の“顕現”の話に入りましょう。その主旨は吾々にこれから先のコースをいっそう自信をもって進ませるために、現在の地上人類の進化がいかなる目標に向かって進行しつつあるかを示すことにありました。
吾々の目の前に展開する地球はすでにエーテル的なものと物的なものとが実質的にほとんど同等の位置を占める段階に至っております。身体はあくまで物質なのですが、精妙化が一段と進んでかつての時代 – 貴殿の生きておられるこの時代の事です – よりも霊界との関係が活発となっております。
地球そのものが吾々の働きかけに反応して高揚性を発揮し、地上の植物が母親の胸に抱かれた赤子にも似た感性を持つに至っております。その地上にはもはや君主国は存在せず、肌の色が今日ほど違わない各種の民族が1つの連合体を組織しております。
科学も現在の西欧の科学とは異なり、エーテル力学が進んで人間生活が一変しております。もっともこの分野の事はこれ以上の事は述べないでおきましょう。私の分野ではないからです。以上の事はこれから顕現される吾々への教訓を貴殿にできるだけ明確に理解して頂くために申し上げているまでです。
さて地球は地軸上でゆっくりと回転を続けながら内部からの光輝をますます強め、それがついに吾々までも届くようになり、それだけ吾々も明るく照らし出されました。するとその地球の光の中から、地球の構成要素の中に宿る半理知的原始霊(いわゆる精霊の事で以下そう呼ぶ – 訳者)が雲霞のごとく出てきました。
奇妙な形態をし、その動きもまた奇妙です。その種のものを私はそれまで1度も見かけた事がなく、じっとその動きに見入っておりました。個性を持たない自然界の精霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。
鉱物の精霊はこの分野を担当する造化の天使によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚は持っておりません。が、植物の精霊になるとその分野の造化の天使から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物に比べて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。
同じ理由で人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ表れます。たとえば性質の相反する2つの鉱物、あるいは共通した性質を持つ2つの鉱物を、化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応も共に即座にそして明瞭な形ででます。感覚性が皆無に近いからです。
ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々(しぶしぶ)とした故意的な反応を示します。普段の発育状態を乱される事に対して潜在的な知覚が不満を持つからです。
しかしこれが動物界になると、その精霊も十分な知覚を有し、かつ又少量ながら個性も具えています。また造化の天使も整然とした態勢で臨んでおります。その精霊たちが地中から湧き出て上昇し、地球と吾々との中間に位置しました。
すると今度はその精霊と吾々との間の空間から造化の天使たちが姿を現しました。現実には常に人間界で活動しているのですが、地上にそれに似たものが存在しませんので、その形態を説明する事はできません。一見しただけで自然界のどの分野を担当しているかが判る、と言うに留めておきましょう。
大気層を担当しているか、黄金を扱っているか、カシの木か、それとも虎か – そうした区別が外観から明瞭に、しかも美事に窺えるのです。形、実質、表情、衣 – その全てに担当する世界が表現されております。もっとも衣は着けているのといないのとがあります。
いずれにせよ、その造化の天使たちの壮観には力量の点でも器量の点でも言語を絶した威厳が具わっております。それぞれに幾段階にも亘る霊格を具えた従者を従えております。その従者が細分化された分野を受持ち、最高位の大天使と、動物なり植物なり鉱物なりとの間をつないでおります。
さて、その天使群が地球の光輝の中から湧き出てきた精霊達と合流した時の様子は、一体どう叙述したらよいでしょうか。こう述べておきましょう。まず従者達が精霊へ向けて近づきながら最高位の大天使を取り囲みました。かくまうためではありません。ともかく包み込みました。
すると精霊達もその1番外側の従者たちと融合し、その結果、地球の周りに美しい飾りのようなものが出来あがりました。かくして地球はかつてない光輝を発しながら、あたかも玉座を納めたパビリオンのカーテンのごとく、上下四方を包むように飾る、生き生きとした精霊群の真っ只中にありました。
今や地球は1個の巨大な美しい真珠の如く輝き、その表面に緑と金色(こんじき)と深紅と琥珀色と青の縞模様が見えていました。そしてその内部の心臓部のあたりが崇敬の炎によって赤々と輝いて見え、造化の天使とその配下の無数の精霊に鼓舞されて生命力と幸福感に躍動し、その共鳴性に富む魅力を発散しておりました。
その時です。生き生きとしたその飾りの下からキリストの姿が出現しました。完成せるキリストです。かつてのキリストの叙述にも私は難儀しましたが、今出現したキリストを一体どう叙述したら良いでしょうか。途方に暮れる思いです。
お身体は半透明の成分で出来ており、地球ならびにそれを取り巻く無数の精霊の持つ全色彩を自らの体内で融合させ完全な調和を保っておりました。そのお姿で、煌々たる巨大な真珠の上に立っておられます。その真珠は足元でなおも回転し続けているのですが、キリストは不動の姿勢で立っておられます。地球の回転は何の影響も及ぼしませんでした。
衣服は何もつけておられませんでした。が、その身辺に漂う生命の全部門の栄光が、その造化に携わる大天使を通して澎湃(ほうはい)として押し寄せ、崇敬の念の流れとなって届けられ、それが衣服の代わりとしておからだを包み、お立ちになっている神殿に満ち渡るのでした。
お顔は穏かさと安らかさに満ちておりました。が、その眉にはお力の威厳が漂っておりました。神威がマントの如く両肩を包み、紫がかった光に輝く豊かな起伏を見せながら背後に垂れておりました。
かくして吾々は地球を囲みつつキリストの上下四方に位置していた事になります。もっともキリストにとっては前も後も上も下もありません。吾々の全てが、吾々の1人1人がキリストの“全て” – 前も後もなく、そっくりそのままを見ていたのです。
貴殿にはこの事が理解できないでしょう。でもそう述べる他に述べようがないのです。その時の吾々はキリストをそのように拝見したのです。そう見ているうちに無数の種類の創造物が各種族ごとに一大合唱団となってキリストへの讃仰の聖歌を斉唱する歌声が響いてきました。
それが創造的ハーモニーの一大和音(コード)となって全天界ならびに惑星間の虚空に響き渡り、各天体をあずかる守護の天使たちもそれに応唱するのでした。それほどの大讃歌を地上のたった1つの民族の言葉で表現できるはずがないのは判り切った事です。
でも宇宙の一大コンサートの雄大なハーモニーの流れに吾々の讃仰の祈りを融合させて、その聖歌の主旨だけでも私に出来る限りの範囲で表現してみましょう。
「蒼穹の彼方に果たして何が存在するか、私どもは存じませぬ。地球はあなたの天界の太陽が放つ光の中のチリほどの存在に過ぎぬからでございます。しかし父なる大神のキリストにあらせられるあなたの王国の中のこの領域を見てまいりました私どもは、この事だけは確信をもって信じます – 全ては佳(よ)きに計らわれている、と。
私達の進む道において、この先いかなる事が永却の彼方より私たちを出迎えてくれるや、いかなる人種が住む事になるや、いかなる天使の支配にあずかる事になるや – こうした事も私たちは今は存じませぬ。それでもなお私たちは恐れる事なく進み続けます。
ああ、主よ、私たちはあくまでもあなたの後に付いて参るからでございます。力と愛とが尊厳の絶頂の中で手に手を取ってあなたの両の肩に窺えます。父なる神がいかなるお方であるか – それは最愛の御子たるあなたを拝しお慕いしてきて私どもはよく理解できております。
あなたを逢瀬の場として私どもの愛が父の愛と交わります。私どもは父をあなたの中において知り、それに安じております。主よ、私どもの目に映じるあなたは驚異に満ち、かつこの上なくお美しい方であらせられます。
しかし、それでもなお、あなたの美の全ては顕現されておりませぬ。それほど偉大なお方であらせられます。未来の大事業において私どもは心強く、楽天的に、そして恐れる事なくこの身を危険に晒す覚悟でございます。
叡智と力と創造的愛の“完成せるキリスト”、私たちはあなたの導かれるところへ迷わず後に続いてまいります。私たちは霊格の序列と規律の中で、あなたへの崇敬の祈りを捧げます。何とぞあなたの安らぎの祝福を給わらん事を。」
アーネル†
(完)
訳者あとがき
前巻の“あとがき”の最後のところで私は“いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過(よぎ)り、恐れさえ覚えるものである”と述べた。結局4度この不安と恐れを味わい、今やっと全4巻を訳し終えた。
長い長いトンネルをやっと抜けたといもう事実は事実であるが、そこにホッとした安堵感も満足感もない。はたしてこんな訳でよかっただろうかという不安とも不満ともつかぬ複雑な感慨が過(よぎ)る。
とくにこの第4巻は訳が進むにつれて私の置かれている立場の厳粛さと責任を痛感させられることになった。単に英語を日本語に直す訳者としての責任を超えて、天界の大軍が一千有余年の歳月をかけた地球浄化の大事業に末端的ながらも自分も係わっているという自覚から遁(のが)れるわけにいかなくなった。
これは自惚れとか尊大とかの次元を超えた、いわく言い難い心境である。本通信の重大性を理解してくださった方ならば、そういう自覚と責任感なしに訳せるものではないことはご理解いただけるであろう。
この道の恩師である間部詮敦氏(まなべあきあつ氏、以下先生と言わせていただく)との出会いは私が18歳の高校生の時で、そのとき先生はすでに60の坂を越えておられた。
その先生がしみじみと私に語られたのが“この年になってやっと自分の使命が何であるかが判ってきました”という言葉であった。私は“先生ほどの霊覚をおもちの方でもそうなのか”といった意外な気持でそれを受けとめていたように思う。その私が50の坂を越えて同じ自覚をもつに至った。この心境に至るのに実に30年の歳月を要したことになる。
ここで改めて打ち開けておきたいことがある。実はその出会いから間もないころ先生が私の母に、私が将来どういう方面に進む考えであるかを非常に改まった態度でお聞きになられた。(そのとき先生は私の将来についての啓示を得ておられたらしい)
母が「なんでも英語の方に進みたいと言っておりますけど…」と答えたところ、ふだん物静かな先生が飛びあがらんばかりに喜ばれ、びっくりするような大きな声で、
「それはいい!ぜひその道に進ませてあげて下さい」とおっしゃって、私に課せられた使命を暗示することを母に語られた。何とおっしゃったかは控えさせていただく。ともかくそれが30年余りのちの今たしかに実現しつつあるとだけ述べるに留めたい。
母はそのことをすぐには私に聞かせなかった。教育的配慮の実によく行き届いた母で、その時の段階でそんなことを私の耳に入れるのは毒にこそなれ薬にはならないと判断したのであろう。私が大学を終えて先生の助手として本格的に翻訳の仕事を始めるようになってから「実は…」といって打ち開けてくれた。
母は生来霊感の鋭い人間であると同時に求道心の旺盛な人間でもあった。当市(福山)に先生が月1回(2日ないし3日間)訪れるようになって母が初めてお訪ねしたとき、座敷で先生のお姿をひと目見た瞬間“ああ、自分が求めてきた人はこの方だ”と感じ、“やっと川の向う岸にたどり着いた”という心境になったと語ったことがある。
それに引きかえ父は人間的には何もかも母と正反対だった。“この世的人間”という言葉がそのまま当てはまるタイプで、当然のことながら心霊的なことは大きらいであった。
それを承知の母はこっそり父の目を盗んで私たち子供5人(私は二男)を毎月先生のところへ連れていき、少しでも近藤家を霊的に浄化したいと一生けんめいだった。やがてそのことが父に知れた時の父の不機嫌な態度と、口をついて出た悪口雑言(あっこうぞうごん)は並大抵のものではなかったが、それでも母は自分の考えの正しいことを信じて連れて行くことを止めなかった。
そのころ運よく当市で催された津田江山(つだこうざん)霊媒による物理実験会に、それがいかなる意義があるかも知らないはずの母が兄と私の2人を当時としては安くない料金を払って出席させたのも、今にして思えば私の今日の使命を洞察した母の直感が働いたものと思う。
当時は津田霊媒も脂(あぶら)の乗り切った時期で、『ジャック・ウェバーの霊現象』に優るとも劣らぬ現象を見せつけられ、その衝撃は今もって消えていない。当時のエピソードは数多いが、その中から心霊的にも興味あるものを1つだけ紹介しておきたい。
当時の母は一方では近藤家のためだと自分に言い聞かせつつも、他方、そのために必要な費用はそのことを1ばん嫌っている主人が稼いでくれているものであり、しかもそれを内しょで使っているということに心の痛みを覚えていた。
そこである夜、先に寝入って横向きになっていびきをかいている父に向かって手を合わせ“いつも内しょで間部先生のところへ行って済みません。きっと近藤家のためになると思ってしていることですから、どうかお父さん許してくださいね”と心の中で言った。
すると不思議なことに、熟睡しているはずの父が寝返りをうちながら“ああ、いいよ”と言った。それを見て母は“ああ、今のは守護霊さんだ。守護霊さんは分かってくださってるんだ”と思って、それまでの胸のつかえがきれいに消えたという。
けだし母の判断は正解であった。私はこの話を母から2度も聞かされたが、この話には母の人間性のすべてが凝縮されているように思う。“苦”と“忍”の中にあってなお思いやりの心を忘れないというのは、宗教的な“行”の中よりもむしろこうした平凡な日常生活での実践の方がはるかに難しいものである。
シルバーバーチが“何を信じるかよりも日常生活において何を為すか – それが1ばん大切です”と述べているのはそこを言っているのである。
母はこうした心霊的なエピソードがいろいろとあるが、今そのすべてを語っている余裕はない。ともかくそれらのすべてが今私がたずさわっている英国の3大霊訓およびこれから発掘されていくであろう人類の霊的遺産の日本への紹介という仕事につながっていることを、今になってやっと痛感させられているところである。
私は最近その母のことを“生身の背後霊”だったとさえ思うようになった。母にも母なりの人生があったことであろうが、その中での最大の使命は私を間部先生と縁づけ、そして以後ずっと勇気づけ父から庇(かば)ってくれたことにあったように思う。
あるとき母が少しはにかみながら私に1通の封書を見せてくれた。間部先生からの達筆の手紙だった。読んでいくうちに次の1文があった“あなたのような方を真の意味での人生の勝利者というのです…”母にとってこれ以上の慰めとなる言葉はなかったであろう。
では父はどうかと言えば、最近になって私は、そういう父なかりせば果たして今日の私にこれだけの仕事ができたかどうか疑問に思うことがある。もしも父が俗にいう人格者(これは大巾に修正を必要とする言葉となってきたが)で聞き分けのいい人間だったら、こうまでこの道に私が情熱を燃やすことにはならなかったのではないかと思われるのである。
母は真の人生の指導者を求め続けてそれを間部先生に見出した。そしてそれを千載一遇の好機とみて、父から何と言われようと、何とかして子供を先生に近づけようとした。そして私が大学を終えたのち父の期待を裏切って何の定職にもつかずに先生のもとへ走ったことで父が激高し、その責任を母になすりつけても、母は口応えすることなくじっと我慢して耐えてくれた。
こうしたことの1つ1つが節目となって私はこの道にますます深入りしていった。そうした観点から見るとき、その父の存在もまた神の計画の中に組み込まれていたと考えることができる。今ではそう信じている。
その父がこの“あとがき”を書いている日からちょうど1か月前に83歳で他界した。母がいかにも母らしくあっさりと10年前に他界したのとは対象的に、父は2年間の辛い療養生活ののちに息を引き取った。
2年前、私の『古代霊は語る』が出て間もないころに脳こうそくで倒れたのであるが、その時はすでに私のその本をひと通り読み通していて、“すらすらと読めるからつい最後まで読んじゃった。もう1度読み直そうと思ってるよ”と語っていた。それから1週間もしないうちに倒れて長男の家で療養を続けていたのであった。
その父が1週間前にやっと私の夢に姿を見せてくれた。白装束に身を包み、元気だった頃とは見違えるほどアクの抜けた顔で立っていたが、私が顔を向けるとうつむき終始無言のままだった。
これから修行の旅にでも出かけるような出で立ちで、ひとこと私に言いたいことがあるような感じがした。それは口にこそ出さなかったが、かつての父に似合わず小さくなっている態度が私に言葉以上のものを物語っていた。私が他界した時はぜひ母とともに笑顔で迎えてくれることを祈っている。
父と母と私、それに間部先生の4人によるドラマはすでに終り、私は曲がりなりにも与えられた使命を果たしつつある。その間の数えきれないほどの不愉快な出来ごとも、終ってしまえばすべてが懐かしく、そして何1つ無駄ではなかったことを知らされる。
あとは、最初に述べたように、はたしてこんな訳でよかったのだろうかという責任感が残るばかりである。その重大性を知るからこそ責任感も痛切なものとなる。
が、シルバーバーチがよく言うように、人生は、この世にあろうとあの世にあろうと、すべてが途中の階梯である。この霊界通信は通信霊の古さのせいで原典そのものが古風な英語で書かれており、私はこれを原典のそれなりの味を損なわない程度に現代風にアレンジして訳したつもりであるが、それもいつかは古すぎる時代がくるであろう。
それは人間界の常としてやむを得ないことである。その時代にはその時代で有能な人材が用意されていることであろう。そう期待することで一応、訳者としての肩の荷を下ろさせていただきたい。
訳の是非は別として、この通信そのものは私が改めて解説するまでもなく、これまでの“死後の世界”についての概念に大巾な修正を迫る重大な事実を数多く含んでいると信じる。
日本の神ながらの思想をはじめとして世界各地の古代思想において神話風に語られてきている天地創造の真相を“霊”の“物質”への顕現としてとらえ、さらに宇宙のチリほどの存在にすぎない地球の過去一千有余年にわたる特殊事情を説き、それが現在のスピリチュアリズムの潮流につながっている事実を示唆している。
いずれ日本にも日本人に親しみやすい形での“新しい啓示”が与えられる日が到来することであろうが、私見によればそれは、こうした西洋的啓示によって日本人特有の“霊”についての曖昧かつ魔訶不思議的概念を改められ、“霊こそ実在”とした合理的かつ論理的概念を十分に摂取してからのちのことになるであろう。その辺に本通信の日本人にとっての意義があると私は観ている。
最後に、こうした特異な通信を快く出版してくださった潮文社に対して深い感謝の意を表したい。(1986年)
新装版発行にあたって
「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。
平成16年2月
近藤千雄
霊界通信 ベールの彼方の生活 第4巻「天界の大軍」篇 – 新装版 –
近藤 千雄(こんどう・かずお)
昭和10年生まれ。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英文の原典の研究と翻訳に従事。1981年1984年英国を訪問、著名霊媒、心霊治療家に会って親交を深める。主な訳書 M.バーバネル『これが心霊の世界』『霊力を呼ぶ本』、M.H.テスター『背後霊の不思議』『私は霊力の証を見た』、A.ウォーレス『心霊と進化と – 奇跡と近代スピリチュアリズム』、『古代霊は語る – シルバー・バーチ霊訓より』『シルバー・バーチの霊訓』(以上潮文社刊)、S.モーゼス『霊訓』、J.レナード『スピリチュアリズムの真髄』、H.エドワーズ『ジャック・ウェバーの霊現象』(以上国書刊行会刊)