死後の世界も自然界である
〈あの世〉からの現地報告[3部作]その(1)死後の世界も自然界である 付 : ウィリアム・ティンダル 新約聖書を英語に翻訳して火刑に処せられた男
アンソニー・ボージャ[著]
近藤千雄[訳編]
【目次】
第2章 死後の界層 – 本格的な人生は死後から始まる
- 訳者まえがき
- 訳者による解説(6) – 予言と預言
- 訳者による解説(7) – 「因果律」「最後の審判」
- 訳者による解説(8) – 霊的向上にいそしむ。究極
- 訳者による解説(9) – ホログラム
- 訳者による解説(10) – 霊の向上の妨げになる
第3章 死後の世界も自然界の一部
《参考資料集》
- 《資料(1)》C・L・トウィーデール著『あの世からの便り』より
- 《資料(2)》「生命の行程表」 – フレデリック・マイヤース著『永遠の大道』より
- 《資料(3)》「霊界の光景」 – 『シルバーバーチの霊訓』より
- 《資料(4)》「類魂」 – フレデリック・マイヤース著『永遠の大道』より
《参考文献》ウイリアム・ティンダル – 新約聖書を英語に翻訳して火刑に処せられた男
本書について 訳編者 近藤千雄
著者であり受信者でもあるアンソニー・ボージャ Anthony Borgia には、本書 Here and Hereafter published by Psychic Press Ltd.(1986年)のほかに2冊の著作がある。いずれも死後の世界ないしは死後の生活を扱ったもので、第1作の Life In The World Unseen が1954年に、その続編の More About the Life In The World Unseen が2年後の1956年に出版されている。
2冊ともボージャ氏が他界した親友(複数)から届けられた霊界通信で、とくに英国内で大きな反響を呼んだ。「通信はもうないのか」という読者からの要望に応えて書き下ろしたのが本書で、前2著を基盤にして死後の世界をわかりやすく解説したものである。順序からいえば本書は最後になるはずのものであるが、内容のわかりやすさから本書を真っ先にもってきた。
私は前2著とも発売当初から入手していたが、その頃はすでに同じ出版社からシルバーバーチの霊言集(巻末「近藤千雄主要著作」参照)が次々と出版されていた時期で、その内容の奥の深さ、簡潔で流麗な英文が欧米の識者の間でも話題となっていて、大学の英文科生だった私も「大学を出てどんな道へ進んでもこれを座右の書とするぞ」と、宝物を手にしたような気分になったものだった。
結果的にはそれを翻訳するのがライフワークとなり、そのまま古稀を迎えてしまったが…
さて、シルバーバーチ関係のものをすべて訳し終えて、何気なしに書棚の奥で眠っているボージャの3冊を引っ張り出してページをめくって行くうちに、折に触れて気になっていた読者の反応や講演会での質問の意外性に、ボージャ氏と共通するものが少なくないことを知って、考えさせられた。
このあと紹介する「まえがき」の冒頭の一節がそのよい例である。あえて「憎まれ口」を言わせていただけば、シルバーバーチこそ最高と惚れ込んで愛読してくださっている方ほど、どこかで勘違いをされているように思われるのである。
その原因はメッセージの発信者とそれを読む者の霊的次元の違いにあるように思われる。シルバーバーチ霊はすでにこの地上生活を何度も体験し、辛酸を嘗め尽くし、霊性を磨き上げ、そろそろ地球圏(40ページの「コナン・ドイルが死後まとめて送ってきた死後の界層のイラスト」参照)を脱して宇宙規模の旅路に出発する準備を整えつつあった時に声を掛けられ、「霊的ルネッサンス」とでも言うべきスピリチュアリズム Spiritualism の仕事(「地上界の霊的浄化運動」と訳しているが、具体的には折に触れて解説していく)に、最後のご奉公のつもりで参加を引き受けたという経緯がある。
その準備に地上の時間にして4分の1世紀を費やしたという。例えば英語という地上の言語を習得することなどに…
その頃地上界は第1次世界大戦の真っ最中で、いよいよ使命の実践に入って間もなく第2次世界大戦が勃発している。戦乱による波動のひどさに使命を断念しようとしたこともあったが、こういう地上界だからこそ霊的摂理が必要なのだと思い直し、仲間を励まし続けたという。
シルバーバーチは「私もまだまだ人間味を残しており神格をそなえた存在から程遠い存在です」と言い、さらには「究極の実在については私はまだ何も知りません」とまで言っているが、実際は地球圏の神界に所属する最高級の存在である。
それは、自分は「光り輝ける存在」つまり形態を振り落とした存在となっていることを暗に示唆しているところから窺い知ることができる。
その点ボージャ氏が受け取った通信は、生前「勉強会」で語り合った平凡な仲間が死後の「現地」へ来て「取材」したままをボージャ氏にインスピレーション式に発信し、それをボージャ氏が文章に転換したもので、われわれがどこかへ旅行して、その土地の様子を文章にまとめて書き送るのと、どこか似たところがある。
「現地報告」としたのはそのためである。何年かかるか分からないが、シルバーバーチと並ぶ霊界通信3部作としてまとめたいと考えている。
本書は100ページあまりの小冊子で、内容的にも平易で、述べられている点に限っていえば、すべてシルバーバーチが述べていることばかりである。そこで私は、霊的なものを初めて読まれる方にも配慮して、深く考えずに読み飛ばして行きそうな所で注釈を入れて、全体を膨らませて行きたいと考えている。
今は亡きさる大漢文学者が息を引き取る直前に「やっぱり漢文はよくわからん」と言ったという逸話を読んだことがあるが、この「よくわからん」を文字通りに受け止めてはならないであろう。同じく「わからん」でも、われわれ凡人が「チンプンカンプン」とうそぶくのとは次元が異なる。シルバーバーチの表現にはそういうところが多いのである。
また、シルバーバーチを訳しながら、「愛読者」と自称する方々からの質問を受けて「おや」と思ったことが少なくない。それも本書の中で指摘したいと考えている。さきの漢文の大家の臨終のひとことを思い出していただきたい。「わかる」ということにも幾つもの次元があるということである。
さて、参考文献として聖書を英語に翻訳したことで火刑に処された聖職者 W・ティンダルの生涯を紹介したが、それについて訳者(近藤)の意図を簡単に紹介しておきたい。
本書は原著者ボージャの知人からの通信(メッセージ)であり、その大半は3部作の残り2冊で紹介されるが、この第1作では「原著者まえがき」で、また残り2冊でも著者が繰り返し指摘するのが〈牧師の無知〉である。
といっても、これは「あの世」「死後の世界」「霊界」についての無知であり、残り2冊中でもボージャはその〈聖職者の無知〉を細かく指摘している。
ティンダルを紹介したのは、彼以前の長きにわたって英国の多くの牧師たちがきわめて根本的な無知 – すなわち、〈聖書自体についての無知〉 – に陥っていたことをお伝えし、またキリスト教が一般にいかに歪んだ歩みをたどってきたかを知っていただくためである。
ティンダルが立ち向かったのはまさにそうした無知に対してだったが、ただしそれは〈やむを得ない無知〉であり、〈責められるべき無知〉とは言えない性質のものだった。
つまり初期の聖書はラテン語やギリシャ語その他の古典語で書かれていたために、自由に読みこなせる聖職者は少なく、理解しないまま儀式や形式のみを身に付けていたので、キリスト教の根幹である教説について無知であった。そのことに気づいたティンダルは英語への翻訳を思い立った。
そしてティンダルよりはるか後のボージャの時代には牧師あるいは聖職者たちがそれとは別の無知に陥っていたわけだが、ティンダルの時代までさかのぼって、別の根本的な無知に陥っていたという事実をつかんでおくことは、より広い歴史的展望を踏まえてボージャの3部作を理解する一助になると思われる。
続編の刊行に先立って本書であらかじめティンダルを紹介しておいたのはそのためである。
訳者による解説(1) – 霊界通信の種類
死後の世界から届けられる情報をスピリチュアリズムでは「霊界通信」(英語では単に「メッセージ messages」)と呼んでいるが、これには3通りの種類ないしは方法がある。
ひとつは筆記用具を手にした霊媒が強制的に(霊媒自身は無意識の状態で)書かされるもので、自動書記通信 Automatic writing と呼ばれている。世界的に知られた文学者だったフレデリック・マイヤースからのメッセージを、アイルランドの女流文学者 G・カミンズが受け取った『永遠の大道』『個人的存在の彼方』と題するふたつの霊界通信は学術的な香りのする絶品で、「マイヤースの通信」と呼ばれて、今もなおその価値をて失っていない。(巻末「近藤千雄主要著作」リスト参照)
文章を綴るという操作はだれしも幼いころから繰り返してきているので、脳の「書く」機能がスムーズに働いてほとんど自動的に行なわれる。もうひとつの「語る」のも同じで、霊媒の発声器官を使用するだけなので、霊媒と同じ国籍の霊であれば容易に語ることができる。
国籍が違っていてもその霊の地上時代の言語でしゃべらせることができる霊媒もいるが、モーリス・バーバネルの場合は言わばシルバーバーチの専属霊媒で、許可なしには他の霊には語らせなかった。
3つ目の霊感書記の場合は「聴く」と「書く」の2種類の操作が同時進行することになる。実は「マイヤースの通信」の場合も表向きは自動書記通信ということになっているが、マイヤース自身が本文中で述べているところによると、自分は用意した原稿を霊媒のカミンズ女史の脳に向かって語り聞かせているだけだという。
ところで、私のもとに「こんなものを受け取りました」といってメッセージが書かれたものが送られてくることが多い。ほんの短いものもあれば1冊の本になるほど長文のものもある。講演会などの集りでは直接手渡して得意そうに説明してくれる。そうした場合、私は一切コメントしないことにしている。
私がそれを本物としてお墨付きを与えたと受け止められても困るし、ただのイタズラ書き程度のものと切って捨てたように受け止められてもいけないからである。
こうした霊的産物を評価する時の心構えとして大切なことは、それだけのことで自分が、あるいは当人が、特別な人間であるかに錯覚しないことである。このことについては次の「原著者まえがき」に付した「訳者による解説(2)」とあわせてお読みいただきたい。
原著者まえがき アンソニー・ボージャ
キリスト教界では「天国」という言葉がよく使用われるが、そこがどういう所で、どういう生活が営まれているかについては、なぜか教えてくれない。私にはそれが不思議でならない。
牧師をしている知人からの手紙に「10人の牧師のうち9人までが、そんなものの存在すら信じていません」と手紙に書いてよこしたことがあるが、これまた私には信じられないことである。
一方天国の反対の「地獄」についてはいろんなことがわかっているかに説かれている。その地獄の最大の特長は、いったん地獄へ落ちたら2度と出られないということのようである。
ある時、その教会の信者のひとりが「牧師さんもそれを信じておられるのですか」と尋ねたら、「もちろんですとも。ただ、はたしてそんな所へ行く者がいるかどうかも疑問に思っていますけど…」と答えたという。
こうしてキリスト教界では死後の世界を言わばミステリーの世界、つまり前人未踏の「秘境」のように柵(さく)をめぐらしてしまい、恐怖と懐疑、ときに嘲笑とホラーの題材とされ、生まれ育ちや人生体験の違いによって、各自が複雑な感情を持って受け止めるようになってしまったようである。
若くして死ぬ人もいれば長寿をまっとうする人もいるが、いずれにせよ、人間はいつかは死ぬ。死は誰にも避けられない。貧富の差、身分の上下に関係なく、死はすべての人間に必ず訪れる。生れた瞬間から死へ向かって歩み始めていると言っても過言ではない。
これは厳然たる事実である以上、一体死んでからどうなるのか – 存在が消えてしまうのか、それとも今と同じ意識と個性のまま何らかの形での生活があるのか – 要するに「死後の世界」というものがあるのかないのか、もしあればいかなる所なのかについて、実際にそこへ行った人たちから、たとえ概略でもいいから情報を得ることができれば、そしてそれが真実であれば、それは多くの人にとって「血湧き肉躍る」という表現が決して大げさではないほどの「天啓」となるのではなかろうか。
そういう情報を届けてくれたのが、かつてのカンタベリ大主教 [訳者による解説(2)] を父親にもつロバート・ベンソンで、文筆家として、また説教者として、名声をほしいままにしていた時に私と親交があり、他の数人の仲間と共に「勉強会」で人生や宗教について語り合ったものだった。
父親が国教会の最高位にあるために、我々仲間との宗教観の違いは大きく、そのミゾは埋まることなく、「先に死んだ者が現地から通信を送ろうじゃないか」と冗談まぎれに約束していた。
そしてやがて3人は他界し、霊界で再会したらしい。そして、「現地」へ来て初めて知ったことを約束通り私に何とかして教えてやろうじゃないか、ということになったらしいのである。それが前2著で、本書はそれを改めて私が分かり易くまとめたもので、まさに「現地からの報告」のエッセンスである。
訳者による解説(2) – カンタベリ大主教
英国のキリスト教会はヘンリー8世の時代(16世紀初頭)にローマ・カトリック教会から独立し「英国国教会(聖公会とも)The Church of England」として確立されたもので、そこに至る歴史は世俗以上に泥臭い、宗教界の出来事としてはお世辞にも褒められない愛憎と欲望の絡んだものだった。
その全貌を綴ると1冊の書物になってしまうので、ここでは、その歴史の裏側で重大な働きをしながら、当時の権威によって亡き者(焚刑)にされた人物を紹介するにとどめておく(詳細は、本書に収録した文献「ウィリアム・ティンダル – 新約聖書を英訳して火刑に処せられた男」参照)。
その名をウィリアム・ティンダル William Tyndale といい、ラテン語、ギリシャ語はもとよりアラム語(イエスがしゃべっていたとされる日常語)、ヘブライ語(旧約聖書が書かれている文語体語)、その他の古代語を読みこなせる語学の天才だった。
それほどの才能に恵まれながら性格は至って純真素朴で、聖職者絶対の気風の時代にあっても常に庶民の立場に身を置いて考える人間だった。
そのティンダルが、オックスフォード大学を出て聖職に携わるようになってから、ひとつの疑問を抱くようになった。教会で牧師が説いているキリスト教の根本教義、例えば贖罪説、すなわちイエスが人間の罪を代わりに償ってくれるという教えはバイブルのどこにも見当たらない(イエスはそんなことは言っていない)ことだった。
当時の一般庶民は英語すら読み書きできないのが普通で、ましてやラテン語など目にすることもなかったから、ラテン語やヘブライ語で書かれたバイブルの教えだと言われれば、素直にそう信じるしかなかったのである。
といってティンダルはその疑問をあからさまに口にしたわけではない。教会で説かれている教えでバイブルに出ていないものが他にもあるので、いっそのことバイブル全部を英語に翻訳して一般庶民が家庭でも読めるようにしてあげたいという(当時としては)とんでもない願望を抱くようになった。
ここでいう「とんでもない」とは既成権力の側にとっての話であって、ティンダル自身は少しも悪いこととは思っていない。だから、そのことを平気で口にする。が、それを漏れ聞いた既成権力の側に身を置く者は「これは大変なことになる」と危惧する。それがやがて上層部の耳に入る。しかし同時に「そんなことをしたら消されてしまうぞ」と忠告する者もいた。
折しもヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き始めていて、ローマ・カトリック教に敵対する運動が盛んになりつつあった。ティンダルは数少ない理解者の庇護のもとにヨーロッパへ亡命する。
教会側も2重3重の網を張ってその動向に神経を尖らせるが、ティンダル自身は亡命生活の中でもバイブルの(英語への)翻訳を続けた。やがて新約聖書を訳了し、旧約へと進んだ頃に教会側の巧みな計略にはまって拘束され、投獄される。
その間のストーリーはスリラーもどきで、息も切らさぬ緊迫感にあふれ、自分は何ひとつ悪いことはしていないと信じ切っているティンダルの無邪気そのものの心情には心を打たれる。審問でも余りに素直にありのままを述べるので拷問も受けなかったといわれる。
が、教会には面子(めんつ)がある。英国王ヘンリー8世もジレンマの中で全てをローマ・カトリック教会に任せて、死刑に処すことを許した。当時としてはそれが最も面倒の少ない、自分の手を汚さずに済む手口だったのである。正確な日付は記録に無いそうであるが、1535年、アントワープの広場で焚刑に処されている。
そもそもキリスト教が「神学」の名のもとに制定した教義は、ローマ帝国がキリスト教を国教として容認した西暦325年のニケーアにおける第1回総会に始まって、政治権力を強化することを目的として、事ある毎に追加して行ったもので、これをシルバーバーチは man – made superstructure(人工の上部構造)と呼び、そこにキリスト教の致命的な過ちがあったと断じている。
私の手もとに The History of The First Council of Nice(第1回ニケーア総会の真相)by Dean Dudley というのがある。「会議」といえば常識的には1~2日ないしは5日~1週間を思い浮かべるが、このニケーア会議は実に足掛け5ヶ月も続き、その間に手の込んだ改竄(かいざん)が行なわれていたのであった。
英国の知性を代表するミル John Stuart Mill が、その古典的名著「自由論 On Liberty』の中で、キリスト教を容認したのが悪名高いコンスタンティヌス大帝であったことが、キリスト教を堕落させたのだと、無念残念の思いを吐露しているくだりがある。
「知らしむべからず、拠(よ)らしむべし」の典型であるが、「総会」と呼ばれている大規模な公会議は1870年のヴァチカンでの第20回までにリヨン、コンスタンチノープル、ウィーンなどで開催されている。
このダドレーの原書は断片的な資料の寄せ集めの短いもので、あまり面白くはないが貴重なものなので、前著の『シルバーバーチに最敬礼』にほぼ全訳を掲載してあるので、関心のある方は1度目を通していただきたい。
国教会がローマ・カトリック教会から離反していった理由は、奇しくもティンダルが亡命生活を余儀なくさせられた時期、ヨーロッパで宗教改革の嵐が吹き荒れた時期と一致するが、話の筋が全く異なるので、この注釈では触れない。
皮肉この上ないのはティンダルの処刑もローマ・カトリック教会からの離脱もヘンリー8世の身勝手な打算からでありながら、国教会の発展のためにティンダル訳の英語版バイブルを authorized、つまり「帝王お墨付き」と称して印刷を許可していることである。
原著者によると、現行の英文『欽定訳聖書 Authorized Version』の90%がティンダル訳のままであるという。
とまれかくまれ、英国国教会はローマ・カトリックから離脱してヴァチカン宮殿に相当するランベス宮殿 Lambeth Palace をカンタベリに置き、宗教改革で生れたプロテスタント派の一翼を担うことになった。カンタベリ大主教はその最高権威を意味する。
さて、モーリス・バーバネルが心霊週刊紙「サイキック・ニューズ Psychic News」の編集主幹を務めると同時にシルバーバーチ霊の専属霊媒として八面六臂(はちめんろっぴ)の活動を繰り広げていた頃の大主教はラング Cosmo Lang で、司教職の中にもスピリチュアリズムに関心を持つ者が多くなってきたことから、国教会でも独自の研究チームを結成して、2年間にわたって実験調査をすることにした。
この企画を容認したところまではラング大司教の見識の高さを物語っており、国教会が革命的進歩を遂げる絶好の機会だった。が、真実を目の前にした時ほど人間性(霊格)が試されると言われる。つまり全ての打算と見栄を排して真理の命じる道を歩めるか否かであろう。
公約した2年が過ぎても公式の声明がないことに、スピリチュアリズム関係者だけでなく司教たちの間でも不満が募り始めた。サイキックニューズのスタッフはバーバネルの指示で研究チームのメンバーを探り出して研究成果の報告書 Majority Report を入手し、それをサイキックニューズ紙上に掲載した。それはスピリチュアリズムを全面的に肯定するものだった。
自分の許可なしに極秘文書が公表されたことに烈火の如く怒ったラングは抗議の手紙文を送った。待ってましたとばかりにバーバネルはそれを次週のサイキックニューズ紙に掲載すると同時に痛烈な反論をした。こうした形での紙上論争が延々と続き、英国中をその渦に巻きこんだ。
仲裁に入る神父まで出たが、報告書そのものの内容がスピリチュアリズムを肯定しているのだから、大主教がどう弁明しようが、教会側に勝ち目はなかった。このことがあってからバーバネルに Mr. Spiritualism「ミスター・スピリチュアリズム」というニックネームがついたほどである。
主教は、1945年に、1個の人間として霊界入りした。そして否応(いやおう)なしに死後の現実に直面する。地上時代の肩書きも人気も関係なく、魂の霊性がありのままに曝け出される。
一時代を画した米国の霊媒にレスリー・フリント Leslie Flint がいる。バーバネルと同じく霊言霊媒であったが、バーバネルがシルバーバーチという1個の古代霊の専属だったのと違って、毎回(の交霊会に)誰が出現するかわからないという特徴があった。
Voices In the Dark – My Life as a Medium という自伝の最後の章にかつてのカンタベリ大主教コスモ・ラングが死後1年経ってから出現して語った示唆に富んだ懺悔と警告の言葉が紹介されている。
さきに述べた報告書問題で仲裁に入ったシャープ神父が出席していることが出現の大きなきっかけとなったであろうことは容易に推測できるが、霊的なことに関心を持ち始めた者が大いに心しなければならないことが述べられていて参考になるであろう。
「(この1年で)私も死後の世界についての真実を目(ま)の当たりにしてきましたが、これだけの知識を携えてもう1度地上人生を1からやり直すことができたら、どれほど有意義なことができただろうかと思うと無念でなりません。私は弱虫でした(報告書を正直に公表しなかったこと)」
と述べてから、さらに、第2次大戦で次々と霊界へ送り込まれてくる若者たちが死後の真実を知って、教会が「死」について何も教えてくれなかったこと、つまり死は生命の終わりではなく、ただの懸け橋に過ぎないことをなぜ教えてくれなかったのかと不平を言われて申し訳なく思った、とも述べ、さらに続けた –
「私はスピリチュアリズムは絶対に必要なもので、その価値は計り知れないものであることを認める点では、今は人後に落ちませんが、同時にその扱い方(理解)を誤ると危険この上ない要素を含んでいることも声高(こわだか)に述べておきたいと思います。
霊媒は手厚く保護し、その機能について正しく理解した上で、牧師と同じように敬虔な職業として、世俗的な打算を排除して生きていけるようにしてあげるべきです。
この道(スピリチュアリズム)は地球圏最高の次元(神界)が関わっております。地球人類を霊的に向上させることを目的としていますから、その道具である霊媒がまず霊性を磨かないといけません。残念ながら現状の霊媒(霊能者を自認している人すべて)は次元が低すぎます。
私はけっして蔑(さげす)んでいるわけではありません。それどころか、何とかしてレベルを高めてあげたいという願いを込めて申し上げているのです。今のレベルの地上のスピリチュアリズムは、神界はおろか、その下の霊界の、否、さらにその下の幽界の表面を引っ掻いている程度の事しかしておりません。このままではとても危険です…」(後略)
第1章 死の直後の様子
地上の人間の抱く考えや強く発する思念は、ひっきりなしに霊の世界へ届いているものです。私の前2著がベストセラーとなって数えきれないほどの人々に読まれていた時、送信者の霊界の3人(エドウィン・ロバート・ルース)も、信仰や生活環境の違いによって受け止め方に違いがあることを、ひしひしと感じ取っていたようです。
読者にとって何よりも驚きだったのは、述べられている死後の世界があまりにも地上界と似ていて信じられないということだったようですが、実は地上を去って死後の世界へ次々と到着する人々、いわゆる「死者」の大半が、自分が置かれている環境のあまりの自然さに戸惑うようです。
少なくとも死後自我意識が戻って周囲の環境の自然さ、つまり地上と全く変わらないことに気付いた時の喜びは大変なものです。反対にそれを喜ばずに、どこか間違っているのではないか、自分の方がどうかしているのではないのか、という捉え方をした者は、その後の霊性の進化[訳者による解説(3)]が大きく阻害されます。そしてその不信が地上界に反響します。
「死後の世界」の存在がとかく否定的に受け止められるのは、「肉体」中心の生活をしているその肉体がなくなったのに意識的生活があるはずがないと短絡的に考えるからで、霊性の未熟さに加えて、そうした地上界の人間の否定的な想念(不信感)が大きく影響しているようです。
具体的に言うと、人間は肉体と精神と霊から構成されている、という言い方をされています。では精神とは何か、霊とは何かと問われてきちんと答えられる人はまれで、大半の人が、肉体こそが自分で、霊も精神もそこから派生していると思っています。
過去数世紀における人類の発明・発見の業績を見ると、そう思うのも無理はないかもしれません。中世のあの暗黒時代を乗り切って獲得した科学的文明を誇るのも無理はありません。
が、公正に見てその文明の中には自分自身、つまり「人間と何か」という命題への答えは見当たりません。便利文化を求める余り「死」および「死後」の問題をなおざりにしてきたということです。
人間は肉体と精神と霊からなるというのが一般的な解釈です。肉体は日々なじんでいるので問題ありませんが、では精神と霊はどう違うのでしょうか。これに明確に答えられる人はまずいないでしょう。
が、知っていただきたいのは、人間も本来は霊的存在であることです。肉体に宿っていても「霊」なのです。肉体は地上という物的世界で生活するための道具に過ぎません。
訳者による解説(3) – 「霊性」「霊格」「霊的進化」「守護霊」
最近は「スピリチュアリティ spirituality」という用語が散見されるようになってきた。これを日本語でどう訳すかが新たな問題となっているとの新聞記事を読んだことがある。その記事では「霊性」に落ち着きそうな書きぶりだったが、使う人によって意図が異なるので、一語で片付けるわけにはいかないであろう。
日本古来の宗教的思想体系である「神道」(しんとう・かんながら)の根本概念に「一霊四魂」というのがあうのがある。「一霊」とは「自我意識」のことで、それが「四魂」つまり肉体・幽体・霊体・本体の4つの媒体(表現機関)を備えていて、今この地上では主として肉体を通して自我を表現しているわけである。
それを形式的に図解すると次の第1図・第2図となる。これは米国の女性霊能者ルース・ウェルチの霊性開発の手引書 Expanding Your Psychic Consciousness(日本語版『霊性を開く』潮文社)から転載したもので、あわせてウェルチの解説も付しておく。
第1図 MAN’S BODIES(人間の身体)(《》内は神道の四魂説による対応魂)
本体 Causal 《奇魂(くしみたま)》
霊体 Mental 《幸魂(さきみたま)》
幽体 Astral 《和魂(にぎみたま)》
肉体 Physical 《荒魂(あらみたま)》
第2図 オーラ
(A)健康時の放射状態 RADIATIONS From Skin – NORMAL
(B)不健康時の放射状態 RADIATIONS From Skin – DEVITALIZED
ルース・ウェルチは米国人で、夫のバートと共に CHIMES というスピリチュアリズムのしっかりとした月刊誌を発行していた。直接お会いしたことはないが頻繁に文通し、それが日本のスピリチュアリズムの情報源として CHIMES 誌によく掲載された。
「貴国(日本)とは大変な戦争をしてしまいましたが、スピリチュアリズム思想でこうして交流することができてうれしい限りです。」という一文には胸をうたれた。残念ながら後継者が無いまま夫妻が霊界へ赴いたあと、月刊誌も廃刊となっている。
《ルース・ウェルチによる解説》
生物であろうと無生物であろうと、およそ形あるものは肉眼に映じない稀薄な光輝性の物質によって包まれている。これをオーラといい、霊視してみると物体によってそれぞれ異なった色彩を帯びていることが分かる。
また機能が単純なものは色も単純であり、機能が複雑になればなるほど色も複雑になってくる。したがって当然、無生物より生物の方が複雑であり、中でも人間が最も複雑である。ここでは人間にかぎって勉強することにする。
心霊学で人間を説明するとき、ごく大ざっぱに肉体とエーテル体と精神とで構成されているというが、このエーテル体というのはごく大まかな概称であって、これを科学的にさらに細かく分析すると、幽体、霊体、本体の3つに分類することができる。
したがって、人間の構成要素を心霊学的に説明するならば、肉体・幽体・霊体・本体の4つの機関と、これを使用する精神(自我)から成っているということができるわけである。
オーラはその4つのエーテル体の皮膚だと思えばよい。それが心の変化に応じてさまざまな色を呈する。肉体の皮膚はあまりはっきりとした色は示さないが、他のエーテル体の示す色彩は顕著で、しかも千種万様である。
ではその4つの身体について説明すると –
(1)肉体 – これは日常使用しているものだから説明しない。皮膚が言わば肉体のオーラである。
(2)幽体 – これには次の2種類のオーラがある。
○磁気性オーラ(第2図中の(A))
やや青味がかった白色をしており、心臓の鼓動とともに常に皮膚に沿って静かな波を打っている。このオーラは防弾チョッキのような働きをもっていて、常に身体の保護に当たっているが、いったん怒りや悲しみ、あるいは精神上の悩みなどで心が乱れると、抵抗力を失って細菌や病毒の侵入を許すことになる。
しかし回復力も旺盛で、いわゆる心霊治療家の中には自分の磁気力によって患者の回復力を増進させている人もいる。それともうひとつの働きは、自分と質の違ったオーラからも身を守ることである。
○電気性オーラ(第2図中の(B))
真夏の野のかげろうのように、右の磁気性オーラの中からニョキニョキと伸びているのが電気性オーラである。同じく青白い光を放ち、健康な時には元気よく真っすぐに伸びているが、具合の悪い時に霊視してみると、いかにも元気なさそうに萎びている。このオーラの働きはその触手で生命のカロリーを摂取することである。
幽体は肉体の健康と密接な関係があり、したがって幽体の皮膚ともいうべきオーラには直接肉体に関係した欲望、たとえば食欲とか性欲などが強く反映している。肉体の皮膚を霊視すると、その穴からさかんにオーラが放射されているのが見られる。
(3)霊体 – 第1図ではきれいな卵形をしているが、これは円満に発達した時の形であって、実際は人によっていろいろである。
主に欲望や思念がよく現われるところで、したがって霊体を見れば大体その人の性格と、ふだんどんなことを考えているかが分る。ただ人間の思念や欲求は常に変化しているので、このオーラが2度と同じ色彩を呈することはないといってよい。
(4)本体 – このエーテル体はとくに偉大な人格者や霊覚者にかぎって見られるもので、その色は夜空のあの澄み切った青色に似ていると言うよりほかに説明のしようがない。ふつうの平凡人はほとんどこの機関を使用していない。イラストの形はすぐれた霊覚者の例であって、平凡人のはもっと貧弱である。《ルース・ウェルチによる解説、了》
「霊性」とは自我の本体のことで「個性」の根源と考えてもよい。そもそも人類がこの地球という物質界に生活の場を求めて降誕してくる目的は物質界ならではの体験、仏教で言う生・老・病・死・苦・喜・怒・哀・楽などを通して霊性を磨き霊力をつけることにある。
霊にとって物質界は「修行場」としての価値が大きいようである。その霊性の高さ・程度のことを「霊格」という。各自はその霊格に応じた波動の中で生活している。
物質界への降誕に際しては類魂(グループソウル : 解説(5))のひとりが守護霊として、さらに複数が指導霊として付けられる。指導霊は生長に応じて交代があるが、守護霊は終生替わらず、苦楽を共には、しながら、死後も案内役となってくれることが多い。
ついでに付言すると、守護霊のことを英語で Guardian 、Guardian Spirit 、ないしは Guardian Angel などと言うが、いずれも日本語同様に「守る」という意味が込められているので、とかく苦難や病気や災害から救ってくれるかのように思われがちであるが、これは地上の人間的誤解である。
苦難には「苦難の法則」というのがあり、原因と結果の法則 – 「因果律」 – によって裏打ちされている。必ずしも意識的な悟りを伴わずに、霊性を高め霊力を強めるように配慮されている。「天の配剤」というのがそれである。
なぜあれほど残酷なことが起きるのだろうと、理解に苦しむことがあるが、そういう体験をさせられる人は、それに相当する業(ごう)を背負っているに違いないのである。前世の因縁というのがそれであろう。
それは必ずしも当人の犯した罪の報いとは限らない。類魂のひとりである守護霊のものかもしれない。だからこそ手出しができないのである。そういう時は守護霊も共に苦しみ悲しんでいると思うべきである。
「神とは法則である God is the Law 」というのがスピリチュアリズムの大原則である。法則とは因果律つまり原因と結果の法則 the Law of Cause and Effect のことで、霊性の進化を促すことを目的としては最後の小数点まで計算され、その結果には寸分の狂いもないというのが、高等な霊界通信の一致した表現である。
所詮、物質界は過酷なトレーニングセンターであるから、病苦や悲劇は覚悟しなければならない。
よく奇跡的な治病体験が語られるが、それは法則を超えて治ったのではなく、その体験によって罪障が消滅して、そこに霊的次元の法則が働く条件が整ったことを意味するのであって、同じ不治の病の別の患者が同じ治療家の所へ行っても、その条件が整っていない場合、つまり機が熟していないかぎりは、何の反応も見られないことになる。物理的法則が絶対であるように、霊的因果律もまた絶対なのである。
あなたも今この時点において霊的存在であるから、ものを思い、心配し、喜び、あるいは悲しむといった心の働きは、肉体はもとより霊体にも幽体にも共鳴し、あなたという1個の人格(個性)を形成していく。
ここで改めて指摘しておきたいのは、人の道に反したこと、つまり良心が痛むようなことは、たとえ第3者に知られなくても、その事実そのものが精神体つまり魂に刻み込まれるということである。
「神は木の葉1枚が落ちるのもご存じ」という先人の言葉はそういう意味である。この精神体つまり魂のことを近代の心理学では「潜在意識」と呼んでいる。人間はこれを死後にそっくりそのまま持ち越す。(訳者による解説(3)、了)
物質界(物的波動の世界)から脱け出て行く過程 – これを「死」と呼んでいますが – は至って自然です。痛みも苦しみもともないません。人間はその表向きの現象だけを見て、ただただ悲しみ、慟哭(どうこく)します。その死者の霊を見送る儀式も、言葉も、そして服装までもが、陰湿なものとなります。
しかし、そうしたものは死んでいった者にとっては何の益にもなりません。本当はその逆のほうがプラスになるのです。あとで詳しく述べますが、死んで霊の世界へ行くこと – 俗に言う「昇天すること」 – はいたって自然で健全な現象であって、決して悲しみ、忌(い)むべきことではないのです。
精神構造はこちらへ来てからも容易に消えるものではありません。置かれた環境、つまり意識が戻ってから見るものが地上とまったく変わらないことに驚き、自分はどうかしているのではないかと思う者もいるほどです。
これは地上時代に培(つちか)った精神構造に起因しているようです。つまり人間は、肉体こそが自分であり、その肉体が病気や事故や老化によって心臓や脳が停止すると「死んだ」と診断します。
しかし人体の構成図を改めてご覧いただけば分かるように、人間は地上生活を送っている間に肉体のほかに感情や情緒をつかさどる幽体、知性や理性をつかさどる霊体、さらには叡知や善悪の判断力をつかさどる本体を備えており、さまざまな生活体験のなかで生長しています。
人体が精子と卵子の結合に始まって脳髄、五官、四肢が生長していくように、死後に使用する霊的機能と霊的感覚も幽体の組織の中で生長し、発達しているのです。
現代の心理学ではこれを「潜在意識」ないしは「識域下意識」と呼んでいますが、母胎の中の胎児のように幽体の中で肉体とともに成長しています。肉体にある全組織が幽体に具わっていると思ってもよろしい。
本当はその生長が完成して、熟した果実のように自然に肉体から離れる – つまり自然死を遂げる – のが理想ですが、病死や事故死などで熟し切らないうちに肉体から切り離されてしまうのが圧倒的に多いようです。いわば「霊的未熟児」が霊界側にとって厄介な問題となっているのが正直なところです。
そうした霊界側にとっての厄介な問題は別として、死んで霊界で目覚め、自我意識が活性化してくると、自分の置かれた環境が何もかもうまくできていることに驚き、そしてうれしさを覚え始めます。顔見知りの親族・知人・友人の出迎えを受けて、地上時代と同じ再会の喜びに浸ります。何もかもが自然に出来上がっているのです。
訳者による解説(4) – 死後の環境
死後に落ち着く環境はその人の地上時代の霊的次元と等しい波動で出来上がっているので、誰しもしっくりくるという点では一致しているが、これは平凡な人生を送った平均的な人間を対象としたものと考えるべきである。
例えば筆者は昭和10年、1935年生れであるから、太平洋戦争の戦前、戦中、戦後を生きてきたわけであるが、幼かった私の体験と両親の大変さとは比べものにならないであろう。戦後ようやく落ち着きを取り戻してから両親から聞かされた話も私には実感が伴わない。
軍関係の要職にあった父は、当時としては名誉この上ない毎日を送っていた。終戦が近づいた頃、つまり日本の敗色が濃くなってきた頃は父は帰宅せずに指揮に当たっていた。
そして、皮肉にも、天皇の玉音放送(連合軍に降伏するとの宣言)のあった日に、学徒隊に狩り出されていた15歳の長男が事故死するという不幸が重なった。これは近藤家にとって人生のどん底であると同時に、間部詮敦(まなべあきあつ)という、人格・識見・霊能の三拍子揃った指導者との出会いへ向けて歯車が回転し始める大きな転機でもあった。
これについては拙著『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』(ハート出版)で詳しく披露したので、ここではこれ以上は述べない。ただ父も母も、そして長男も死後再会して、それぞれが担わされた使命について指導霊、とくに類魂団(次ページの「訳者による解説(5)参照)から説明を受け、それぞれにとった態度、心に抱いた醜さを指摘されたことであろう。
敗戦と同時に長男を奪われてしまった母は長兄とどのような再会をしたであろうか。天皇とほぼ同時代に生き同じ年齢で他界した父は「ワシの人生は天皇によってむちゃくちゃにされた」とうそぶいたことがあるが、類魂団から説き聞かされた因果律に得心したであろうか。私自身がいつしか古稀を迎え、霊界へいつ召されてもおかしくない年になった今、そうした思いが脳裏をよぎる。
訳者による解説(5) – 「類魂」「類魂団」付 : 『幽顕問答』について
新オックスフォード大学出身の文学者で生前も死後もスピリチュアリズムの発展と普及に多大の貢献をしたマイヤース(前出「訳者による解説(1) – 霊界通信の種類」参照)の有名な説に「類魂(るいこん)説」(グループソウル)Group – Soul というのがある(《資料(4)》参照)。
死後霊界で学んだ事を自動書記で書き送ってきた通信(『永遠の大道』『個人的存在の彼方』)の中で披露したもので、その学術性に富んだ叙述はスピリチュアリズム思想に学術性を付与し、大きな発展をもたらしている。
が、心霊家や霊能者の中にはこれを誤解ないしは曲解している人が少なくないので、ここで改めて日本人向けに解説しておきたい。
類魂は強いて譬えれば霊的な血族関係の集団とでもいうべきもので、1個の神格をそなえた高級と霊、神道でいう産土神(うぶすなのかみ)(氏神(うじがみ)とも)の分霊によって構成されている。
ちょうど地球を含む幾つかの惑星によって太陽系が構成され、太陽系が幾つか集まって太陽系団を構成し、さらに太陽系団が幾つくか集まって星雲(地球が属しているのは銀河系星雲)を構成しているのと同じと思えばよい。
さて個々の類魂どうしは同じ霊的親和力で結ばれているが、置かれた環境による違いによって霊的進化の程度も違ってくる。「解説(3)」と重複するが、いかなる霊も自分の霊的進化が至上目的であるが、仲間の進化を促進させる責任もあるので、守護霊としての仕事を仰せつかった場合に甘い態度は絶対にとらないと思ってよい。
地上界は霊性を磨くにもってこいのトレーニングセンターであるらしく、霊格の高い霊ほど修行を目的として何度でも物的生活の体験を求めて降誕してくる。いわゆる再生である。別の天体へ生れ出ることもあるらしい。そうやって類魂が持ち帰る体験は、一定以上の霊性を身に付けた段階から互いに共有できるようになるという。
余談になるが、筆者はこのマイヤースの類魂説を浅野和三郎氏の抄訳で初めて読んだ時になぜか嬉し涙があふれ、原書を取り寄せて読んだ時にもまた涙があふれ、自分で全訳した時にも類魂の章で何度も滂沱(ぼうだ)の涙に暮れたのを思い出す。この果てしない宇宙にも無数の仲間がいると知って、そこに一種のロマンを覚えたのであろう。
「霊的進化の旅は孤独です」 – これはシルバーバーチの言葉であるが、私のその感激の涙は、もしかしたら、その孤独感 – 地上界へ送り出され、世俗に身を置きながらも俗世的欲望を控えながらスピリチュアリズムの導入にひとり悪戦苦闘してきた半世紀の私にしか分からない苦悶 – が癒される思いがしたのかも知れない。
スピリチュアリズムは米国の怪奇現象がきっかけで1848年に勃興し、すぐに英国へわたってマイヤースなど第1級の学者による(生前と死後にわたる)活躍で飛躍的に発達した近代的霊魂思想であるが、同じ頃に日本にも『幽顕問答』という貴重な古文書が書き残されていた。
これも怪奇現象がきっかけとなっており、私はこれを現代風に書き改めて『古武士霊は語る』と題して潮文社から出した。最近刊の平凡社別冊「太陽」 – 平田篤胤特集号 – によると、どうやら篤胤はスピリチュアリズムにも通じていたらしいふしがある。
門下生の数が2万を数えたというから、何やら怪しいことを企んでいるのではないかと幕府に睨まれて弾圧されたらしい。いかにも日本の幕府のやりそうなことであるが、篤胤が秋田藩の脱藩者だったことが格好の口実にされたらしい。
この出来事については前著『日本人の心のふるさと《かんながら》と近代の霊魂学《スピリチュアリズム》』でもかなり詳しく触れたが、重要なので改めてここで紹介させていただく。
筆録者の宮崎大門の審神者(さにわ)ぶりを絶賛している浅野和三郎氏はこれを「幽魂問答」として紹介しているが、私はこれには原典があるはずで是非ともそれを自分の目で確認したいと思い、現地の福岡県立図書館へ赴いて郷土史家の紹介で福岡県立文化会館に保存されている原典を見せていただいた。
A3判大の和紙44枚をふたつ折りにして紐で綴じたもので、私は特別にお願いして全部をコピーさせていただいた。さらにその翌日には現地を尋ねて、大門が宮司を務めていた生松天神社と、怪奇現象が発生した岡崎家に挨拶に伺った。
現代風にアレンジして出版することを了承していただくためだった。両家は小さな湾を挟んだ位置にあって、両方ともすぐに見つかった。
浅野氏が何かの本の中で「欧米の怪奇現象は一見すると目を見張るものであっても、奥行きは大して深くはないが、わが国の怪奇現象は一見すると大したことはなさそうに思えるが、奥を覗いてみると実に奥行きがあって興味が尽きないものが多い」といった意味のことをおっしゃっているが、この実話がその格好の例で、出現した数100年前に割腹自殺した加賀出身の若き武士が宮崎大門との対話の中で口にしたことの中に実に意味深長な霊界の秘め事が見え隠れして、興味が尽きない。
『幽顕問答』で語られている現象は時代でいえば鎌倉時代のものと推察されるが – 断定的に言えないのは、主人公の加賀武士が割腹自殺をするに至った原因のお家騒動の経緯もその時の殿の名前も「家臣のひとりとして殿に申し訳がたたないから」と、いかにも武士らしい言い訳で最後まで口を割らなかったからであるが – 武士道が男子の本懐とされ「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった悲壮感の漂う言葉に生き甲斐を覚える風潮さえ生むに至った時代で、他方、鎌倉幕府が生まれたことに象徴されるように、天皇を中心とした政治に武士が口を挟むようにもなったのもこの頃からといわれるが、この青年武士の話をここで持ち出したのは、割腹自殺を遂げてから宮崎大門によって浄霊されるまでの実に数100年間にわたって武士は地上界と霊界の中間界を「無念」を抱きつつさ迷い続けていたという、この信じられないような事実を知っていただきたかったからである。
大名の後継ぎとして幼いころから武芸百般を身に付け、父も殿から三振りの刀を授かるほど藩のために尽くしてきた。そうした殿の寵愛が妬みを買ったのであろう。
ふと持ち上がったお家騒動で父親があらぬ疑いをかけられ、殿の怒りを買って「お国払い」、今日でいう国外追放処分を言い渡される。弁明など絶対に許されなかった封建時代であるから、父親はその夜のうちに加賀を離れる。
息子が父の事情を母親から聞かされ、あまつさえ、そなたは後継ぎの身の上なれば軽はずみな行動はきっと慎むように、との父上のお言葉なるぞ、ときつくたしなめられて、息子ははやる気持を何とか抑えるが、何日か後についに母親の目を盗んで、伝家の宝刀と黄金11枚を携えて出奔する。
元服は終えたといっても、まだ17歳である。父がどっちへ向かったかは皆目見当がつかない。多分旅籠(はたご)を1軒1軒回りながら姿格好を述べて訪ね歩いたのであろう。
それでも、何と出奔して6年目に広島の小さな港で父の姿を見つける。「父上!」と言って近づく息子に父親は厳しいとも冷たいとも言い難い言葉を浴びせる。
要するに我が家を継ぐのはお前しかいないのだから、父について来ることは孝ではあっても真の孝ではない、と言って立ち去ってしまう。理屈はそうであっても、なぜどこかで食事でもしながら語り合わなかったのであろうか。旅籠を確認しておいた息子は翌朝早く行ってみると、もう出立したという。港へ行ってみると、そういう身なりの方なら博多行きの船に乗ったという。
武士はそれまでの6年ばかりの間に黄金6枚を使用したと述べているから、まだ十分な路銀が残っていたようで、父が博多へ向かったと聞いて早速自分で一艘雇って博多へ向かっている。が、それが「死」へ向かっての最期の船出となるとは知る由もない。博多の港で再び姿を見かけて駆け寄ると、広島の時よりさら厳しく引きつった顔でこう言い放った –
「汝は是非ともこのまま国へ帰れ。1歩たりとも余について来ることはならぬ。どうしても帰国せぬとならば、もはや吾が子にあらず。」と。
そう述べてから武士の霊は大門に向かって言う –
「かくまで厳しく言われては子たる身の腸(はらわた)に徹して、その言に従うこととなれり。さりとて、本国には帰り難き仔細あり。父が(唐津へ向けて出船しのち、取り残されたる我が身はひとり思い巡らせど、義に詰まり理に逼(せま)りて、ついに切腹してあい果て、以来数100年の間ただ無念の月日を送りたり。吾が死骸は切腹したるまま土中に埋められ、人知れず朽ち果てたり…」
こうした幽(武士)と顕(大門)の問答は延べにして22時間ばかりで、市次郎の容体を気遣って医者がしばしの休養を頼み、武士も了承して数10分間だけ市次郎の身体を離れている。その間の市次郎はまさに重病人で、ただただ寝入るばかりだったが、約束の時間が来るとがばっと元気よく起き上がって問答を続けたという。
さてボージャの原書の第1章は死の直後の様子がテーマであるが、この武士の実話を持ち出したのは、すでにお気づきと思うが、自殺行為がいかに強く死後の精神状態に悪影響を及ぼすかを知っていただきたかったからである。
この青年は罪悪と言えるほどのものは何ひとつ犯していない。少なくとも当時の概念で「悪いこと」「良心に反すること」はしていない。むしろその逆で、武士道絶対の時代の模範青年だったと言えるであろう。
最初に父を見つけた沼田は瀬戸内に面した港町で、保元・平治の乱で囚われの身となって伊豆へ幽閉された源頼朝が態勢を立て直して平家を滅ぼすきっかけとなった大きな拠点のひとつであるが、その頃は政治的にも社会的にも大混乱の時期で、この加賀武士も京、大阪、神戸(当時は福原といった)を旅しながら目のあたりにし、旅籠に宿を取って宿の人や投宿客から聞く話に、武芸と学問に明け暮れていた藩内での生活との落差にいろいろな想いに駆られていたことであろう。当然のことながら「生と死」について煩悶したことであろう。
筆者が浅野氏の『幽魂問答』を最初に読んだのは高校3年の時で、受験勉強で真夜中まで机に向かっていて、ふと、何の為に生きているのだろうという想いに耽ることがよくあった。
と同時に、このまま寝ると何時間か意識が消えるのにあす朝起きるとなぜ同じ意識の自分が甦るのだろうか、という疑問も毎日のように湧いて出た。もしも死が睡眠と同じだったら、死ぬということは少しも恐くないな、とも思ったりした。
そんな中で華厳の滝での投身自殺の古いニュースを何かで読んだ。旧制一高(現・東大)の藤村操が「人生不可解」云々…の一文を近くの木の皮を削り取ってナイフで彫り刻み、そのまま滝へ飛び込んだという。
この事件が新聞報道で大きく取り上げられた為に、悩み多き青春時代の若者が、一種のロマンチシズムに駆られたのであろう、全国で100人以上が一種の「後追い自殺」をして、大きな社会問題となったようである。
当時の私にも、この操の「人生不可解」は実によく理解できた。が、それだけで自殺するものか…純粋に哲学的な要因だけだったのだろうか、と思ったりした。
現に、当時のマスコミも、操の周辺を洗っていろんなことを報じている。失恋、交友関係、勉学上の行き詰まり等々、今日のマスコミと大して変らない。その点私の場合は今自分として意識している存在は睡眠中は何処へ行っているのだろうという、いたって現実的なもので、強いて言えば「生」と「死」の問題と言えた。そこへ『幽魂問答』の加賀武士が入り込んできた。
繰り返しになるが、この武士は、生前、加賀藩の大名の御曹司として何不自由なく勉学と武芸に明け暮れていたのが、17歳の時に父親がお家騒動で無実の罪を着せられて加賀から追放される。
父を尊敬していた武士は伝家の宝刀を携えて父の跡を追う。そして実に6年後に父との再会を遂げるが、父は喜ぶどころか「国へ帰れ」と冷たくあしらう。あまりの冷厳さに青年は「義に詰まり理に逼りて」(本人の言葉)伝家の宝刀で割腹自殺を遂げる。そして遺骸はそのまま土中に埋もれていく。
武士道では切腹がもっとも名誉ある死に方とされていたらしいが、それには介錯人と呼ばれる首切り役人がつくのが正式だったらしい。この武士は勿論そのことは知っていたであろうから、この死に方にも屈辱と無念を感じていたことであろう。
が、肉体の死とともに武士は否応なしに幽体に存在の焦点を移すことになる。その時の目覚めの感じをマイヤースは次のように述べている。
肉体が死滅した直後に何やら自分がバラバラになったような、あるいは関節という関節が全部はずされてしまったような感じになる。これは一種の休息状態の反応である。
私は大好きだったイタリアで他界したのであるが、その頃は全身に倦怠感を覚えていた。その私にとってその中間境は半醒半夢の薄ぼんやりとした絶好の保養の地で、ちょうど長い熟睡によって体力を回復するように、私は当分の間、必要とするだけの霊的ならびに知的エネルギーを回復した。
地球からやってくる旅人はひとりひとりがその人特有の性質と精神構造をしている。それがこのふたつの階層の中間地帯のもつ特質によって、その人なりの影響を受けるのである。
これはごく平均的な死後の覚醒であり、決して天国ないしは極楽浄土への目覚めではない。マイヤースは別のところで「ああ、ついに極楽に来た」と思う者が多い、と述べている。
実際は疾風怒濤(しっぷうどとう)あるいは波乱万丈の人生を送った後の一服の安らぎの場である。寝たきりの長い闘病生活からの解放である場合もあるであろう。事故で、あるいは自然災害であっという間もなく意識を失ってしまった人もいるであろう。
問題は、それでもなお死の自覚が得られないまま、霊界の迷子になってしまう人がいる – 大勢いる – ことである。この問題の解決には「死」のメカニズムについての理解が先決である。
このあとボージャの本文に戻って、本格的な霊界の実生活を紹介してもらうが、ここでとりあえず死の直後の目覚め及びその後の実生活にとって障害となるもの、面倒を見なければならない霊界側がこれだけはやめて欲しいと言ってくるものを2、3挙げておくと –
(1)自ら命を絶つ行為、すなわち自殺、切腹等。
(2)国家の権力や法律、宗教的戒律等によって行なう殺人 すなわち死刑、戦争、人身御供(ひとみごくう)、等
(1)の典型的な例が「幽顕問答」の主人公の加賀武士である。無実の罪でお国払いとなった父を求めて、17歳の若さで伝家の宝刀を携えて家を飛び出し、(多分)日本海沿いに旅籠を改めながら京都、奈良、大阪を通り、中国路をたどる旅を続けて、実に6年後に広島の港町沼田で父の姿を見つける。
潜在意識に刻み込まれたその間の想いはいかばかりであったろうか。その想いが全て裏切られ、絶望の中で割腹自殺する。博多湾を臨む一隅においてのことだった。
そして、その後実に数100年もの間自分の遺骸の埋もれた場所を住処として地上と同じ波動の中でうろうろしていた。「わが身切腹したるゆえにや人並みの場所には居苦しく…」という言葉には切実さがこもっている。
ちょうどこの項目を執筆中(2006年5月)に太平洋戦争の激戦地フィリッピン群島のひとつミンダナオ島で旧日本兵がふたり、ジャングルの中で生き延びているらしいとの報道があった。
敗戦の確実な証拠が得られないまま生き続けているわけで、死の自覚が得られないまま地上と霊界の中間境をさ迷い続けている霊と実に良く似ている。恋に落ちたふたりの心中が、よく「天国に結ぶ恋」などと呼ばれてロマンチックな語り草とされるが、死後はそうロマンチックにはいかない。
いかなる形にせよ死刑の執行ないしは戦争中の突然の死も、死後の覚醒を著しく阻害する。その原因・理由は本文から読み取っていただきたい。
第2章 死後の界層 – 本格的な人生は死後から始まる
訳者まえがき
本章は死の直後の「中間境」で一服したあとから始まる本格的な霊界生活についての現地報告である。この分野はスピリチュアリズムが最も得意とする分野、言い換えれば入手した文献が豊富な分野であるが、低劣なものから高級なものまで存在するので、その見極めに細心の注意が必要である。
次頁に紹介するのは人体の多次元的構成図で、R. Gerber 著 A Practical Guide to the Vibrational Medicine(『バイプレーション医療』)で初めて披露された。
最近医学でX線に代わって盛んに用いられているMRIによるもので、人体を取り囲むように霊的身体が存在するのがわかる。ゲアバー氏はこれを「多次元のエネルギー層」と呼んでいる。
私がこれを躊躇なしに紹介できるのは、スピリチュアリズムで入手している霊視能力による観察結果と完全に一致するからである。なお肉体以外の霊的身体、つまり幽体、霊体、本体ないしは神体などの名称はまだ学術的に定まっていない。英語でも同様である。
ここで付した日本語訳は、古神道(かんながら)の四魂説にならって日本的スピリチュアリズムで自然に定着しているものである。これを、本書第1章の19~20頁に掲載したルース・ウェルチによるふたつの図と対比させながらご覧いただきたい。
第1図 多くのエネルギー層から成る多次元的人間像(Richard Gerber : A Practical Guide to the Vibrational Medicine より)
正中線
第8チャクラ→他の存在との連絡の中継点(肉体と4個の霊的身体との連絡を受け持つ)
頭頂チャクラ
眉間チャクラ / 第3の目
咽頭チャクラ
心臓チャクラ
太陽神経叢チャクラ
仙骨チャクラ
基幹チャクラ
物的身体 : 生化学的衣服をまとった魂(Soul)
幽的鋳型 : 物的エネルギーを生み出す基盤(ダブル Double と呼ぶこともある)
幽体 : 低級な感情や欲望の媒体
霊体 : 思考力・抽象概念の媒体
本体・根元体 : 過去世のすべてを記憶
大地(soul – star)チャクラ : 大地のエネルギーの通路
第2図は聖公会の牧師 C・L・トウィーデール C. L. Tweedale 著『あの世からの便り The News from the Next World 』(《資料》参照)からの転載で、この特徴は幽界と霊界、霊界と神界との間にも中間境があり、それをパラダイスと呼んでいることであるが、この図で見る限り神界 Sphere 3 が宇宙の極限であることになり、少なくとも哲学的に矛盾する。
その点、次頁の第3図は「超越界」として人間の理知では知りえない次元の世界の存在を指摘している。
第2図 地球を取り巻く3つの界層
Sphere 3 神界
Between stage, or space
Sphere 2 霊界
Between stage, or space
Sphere 1 幽界
Between stage. Earth’s atmosphere. Paradise region
中間境・パラダイス
EARTH
Earth’s atmosphere. Paradise region
1 幽界
2 霊界
3 神界
これは The Return of Arthur Conan Doyle, Edited by Ivan Cooke に掲載されているが、この通りのものがドイルから送られてきたわけではない。説明文はドイルの通信文を私が咀嚼した上でまとめたもので、マイヤースの通信やシルバーバーチの霊訓も参考にして、自信をもって筆を入れた。
このイラストで私が最も注目すべきであると見ているのは、幽界を地球とともに「虚相」の世界としていることである。仏教哲理の名文句「色則是空・空即是色」の「色」は「形ある存在」という意味で、その形体もいずれは崩れて存在を失ってしまう。
人間の自我は誕生時(厳密にいうと子宮内で精子と卵子が合体して着床した瞬間)から肉体の成長とともに脳というコンピュータの操作を開始し、誕生後から徐々に自我意識に目覚めて行く。
そのコンピュータの故障や老化によって肉体の操作が思うように行かなくなったり事故や自然災害や戦争によって「死」を迎えたりして霊界入りする。
第3図 コナン・ドイルが死後まとめて送ってきた死後の界層のイラスト(Ivan Cooke : The Return of Arthur Conan Doyle より)
超越界(人間的理知では知り得ない)
神界 Celestial
3 ニルバーナ・涅槃
2 宇宙的存在としての普遍的愛の活動
1 宇宙の造化活動への参加の初期
再生の手続が行なわれる
霊界 Mental
3 形体なき存在への準備。神界へ上がる 資質の不足する者は再生する。
2 直覚的悟りの世界
1 知的理解の世界
第2の死・無意識状態を体験する。
実相の世界
幽界 Astral
3 何ごとも思うがままに叶えられる世界(サマーランド・ブルーアイランド・極楽)
2 邪悪性はないが低級な煩悩から脱け切れない者が集まっている。
1 邪悪で自己中心的な欲望しか持たない。
虚相の世界
地球
本文でボージャ氏はこう述べる –
幽体の形体は肉体とまったく同じで、覚醒中は肉体と一体となって活動しています。両者は写真(第4図)で見る通り、胎児のへその緒とよく似たベルト状の帯でつながっています。
(日本では、古来、「魂の緒」または「玉の緒」と呼ばれており、英語では霊視すると銀色に輝いて見えるところからシルバーコード Silver cord と呼ぶ人が多いが、ボージャ氏は Magnetic cord (磁気性コード)と呼んでいる。磁気を帯びているからであろう。)
第4図 玉の緒(通夜における写真)
[露出15秒]
[露出12秒]
これは霊的生命線ともいうべきもので、肉体が地上生活を営む限り不可欠なものです。睡眠中は幽体が脱け出て、このコードで肉体とつながったまま東西南北どこへでも、海外へでも、自由に行くことができます。
その時コードは延びるほど細くなり、髪の毛ほどの細さになることもありますが、切れることもありませんし、外部の力で故意に切断されることもありません。
その睡眠中の体験は肉体に戻った時点で、次元のスイッチが切り替わるために途切れて消去されますが、消去される直前の残像が残っていることがあります。それがよくある「わけの分からない夢」です。
しかし記憶そのものは幽体に保存されているので、それが日中にひょっこり思い出されることもあります。その中に予言[訳者による解説(6)]めいたものが含まれていることもあります。
訳者による解説(6) – 予言と預言
(予言といえば『ノストラダムスの大予言』を想起される方が多いのではなかろうか。結局は「地球最後の日」と予言されていた日も何ごともなく過ぎ去って行ったが、スピリチュアリズムでは予言は悪、とまでは言わないが、悲劇や不幸の予言はいけないという認識が一般的である。
もちろん落雷や突風の恐れがあるとか寒気団や台風が近づいているといった天気予報ていどのものは、注意を喚起する意味で問題ないであろうが、不安がらせるだけのものは、高い鑑定料を取るための脅しに過ぎないことが多いから注意が肝要である。この問題にはふたつの側面からの認識が必要であるというのが訳者の見解である。
ひとつは、高級霊ほど不幸や災害の情報は流さないということ。霊的に進化するほど、宇宙のすみずみまで因果律が支配していて、何ごとも起きるべくして起きていることを悟るからである。
もうひとつは、現在の地上人類の霊的進化の程度では、いかに優れた霊能者といえども、高級霊からの情報を受け取ることは出来ないということである。過去世についての情報も同じで、シルバーバーチなどは、霊能者を自認する者の勝手な作り話か低級霊によるイタズラに過ぎません、と手厳しい。
過去世はすでに3次元世界で発生したものの記録、言うなれば録画を読み取るのであるからまだしも、予言はまだ発生していないもの(人間で言えばDNAに暗号(コード)の形でプログラミングされているもの)から例えば誕生後の人相などを3次元に転換して読み取る、というのである。それほどの芸当ができるほどの霊能者はまずいないと思ったほうがよい。
以上は「予言」についての注釈であるが、同じく「よげん」でも「預言」と綴るとまったく異なることを知っておいていただきたい。聖書には「予言」「預言」「予言者」「預言者」が混同して用いられている。
もともと聖書の日本語訳は「新約」も「旧約」も霊的なことに造詣のない人によるものらしく、現代語訳の日本語にいたっては稚拙すぎて読むに耐えないし、誤訳も少なくない。文語訳はまだしもであるが、「予言」と「預言」を混同している点は同じである。
さて「預言」の「預」は「あずかる」という意味であるから「あずかったことば」は「霊的啓示」を意味し、それを託されて地上に降誕した人物を「預言者」と呼ぶ。拙著『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版)
ではその預言者の系譜にも大河と支流があり、大河の系譜の最後を飾ったのがイエス・キリストであるとの持論を展開した。
そうした人物は暗黒勢力(低級霊集団)の攻撃にさらされることが多く、苦難の人生を送り悲劇的最期を遂げることが多い。イエスの生涯がその格好の例である。訳者の私が100%納得して翻訳したイエスの生涯の霊界通信が『イエス・キリスト失われた物語』のタイトルでハート出版から出ている。
このコードが幽体とつながっているかぎり、たとえ意識を失っても、死んではいません。このコードを通して本来の霊的生命力(プラーナ)を供給されているからです。これが切れた時が本当の意味で「寿命が切れた時」です。その瞬間から肉体は崩壊の一途をたどります。
そうなると、見方を変えれば「死」は睡眠と同じで、意識の中枢が肉体から幽体へ移行するだけの現象にすぎないことになります。痛みも不快感も伴いません。
私(エドワード・ベンソン)の場合も何の苦痛も不快感も感じませんでした。その後多くの他界者に確認してみましたが、肉体から離れる時に苦痛を覚えたという人はひとりもいません。
死の直前の苦悶の様子や事故死した人の遺体の惨(むご)さを目の当たりにすると堪(たま)りませんが、実際は意識はすでに肉体から幽体に移行しているので、見た目ほど苦痛に悶えているわけではないことを知ってください。「死」そのものには苦痛は少しも伴いません。
さて、そうやって肉体から完全に分離した幽体は、地上生活中の言動によって自然に定まった環境へ落ち着きます。大自然の絶対的法則すなわち因果律[訳者による解説(7)]の働きによって自動的に算出される結果に相当する環境へ引きつけられて行くのです。
キリスト教の重要な教義のひとつである「最後の審判」[同(7)]などというものはありません。因果律という大自然の摂理によってそうなるのです。
訳者による解説(7) – 「因果律」「最後の審判」
スピリチュアリズムの中心的思想のひとつに、神とは摂理(法則)である、というのがある。そしてその摂理のひとつに「因果律」というのがある。英語でも the law of cause and effect といい、まったく同じである。
日本人には「因果応報」が馴染み深いであろう。行為はもとより心の働きのひとつひとつが原因となってそれ相当の結果を生み出すという意味で、下世話にいう「バチが当たる」と言うのとは異なり、その行為者の霊性の進化を促すという目的にそった形で報われる。
しかもそれは、死後にまとめて裁かれるのではなく、行為と同時に自動的に行なわれる。これを「罪には罰が内蔵されている」と表現している通信霊もいる。
キリスト教の重大教義のひとつである「最後の審判」説、すなわち地球の最後の日に全ての死者が墓地から呼び起こされて大天使の前に呼び出され、書き留められている悪行や過ち、その反対の徳行や信仰の深さを読み上げられて、それ相当の場所へ送られる、というのは人工の教義であって、人間が多次元的存在で死後の世界も無限の次元であることが明らかになった以上、天国と地獄という単純な2極構造は卒業しなければならない。
これは「場所」という平面的(2次元的)感覚から抜けきっていない幼稚な発想である。
言い換えれば、死後に落ち着く環境は地上時代に築き上げた霊性のレベルに応じて自然に定まるもので、善かれ悪しかれ、その環境に違和感を覚える者はいません。
さらに進化した次元の目には薄暗く陰気に見えても、当人はそうは思っていません。仮にそれを指摘してあげたら、ここの何処が陰気なのだと、怪訝(けげん)な顔で見返されるかもしれません。
こうして類は類をもって集まるの譬えの通り、そこに霊性の同じ次元の者ばかりが集まって市町村のようなものを形成しています。そして霊性の変動がなく環境に違和感を覚えない限り、その界層に留まります。
が、類魂の中の指導者格の霊は下層界の仲間の霊性の動きに一瞬の油断もなく通じていて、ホンの一瞬でも変化の兆しが見えると、それを増幅するように働きかけて、向上を促します。本人は気付かなくても、霊的進化の陰にはそうした類魂の働きかけがあることを知ってください。これには例外はありません。
比較的明るく美しい境涯で霊的進化に勤しんでいる[訳者による解説(8)]我々仲間も同じです。上には上があり、どこまで行っても究極[同(8)]というものはありません。
その逆も同じで、暗黒の中で永遠に刑罰を受ける境涯はありません。これは政治の手段となってしまった宗教が用いる便法のひとつに過ぎません。悪徳の限りを尽くした極悪人にも向上の道はあるのです。
訳者による解説(8) – 霊的向上にいそしむ。究極。
第1章の解説(3)(18頁)で「霊性の進化」に言及したが、「進化」ないしは「向上」とはいったい何ぞやと問われると、言語では説明のしようがない。ましてや「何の目的で進化するのか」となると、その質問をされたシルバーバーチでさえ「私にも分かりません。同僚やさらに高い界層の方から説明してもらったことがありますが、納得のいく回答が得られませんでした」と答えている。
額面どおりに受け止めてよいか、何か意図があってそう言ったのかは分からないが…40頁に掲げた第3図にある、人間の理知では知りえない「超越界」まで向上すれば理解がいく、ということにしておこう。
冒頭の「本書について」の中で大漢文学者が臨終の床で「漢文はよく分からん」と述べたエピソードを紹介したが、このシルバーバーチの言葉も同じ視点から受け止めるべきであろう。
さらに余談になるが、上記のシルバーバーチの返答を読んだどこかの宗教の熱烈な信者が訳者の私に電話をしてきて「シルバーバーチもまだまだですね。ウチの教祖様は宇宙のすみずみまでご存知で「すよ」と得意げに言った。
私が「どこの宗教の教組もみなそうおっしゃってるようですよ」と言うと「いえいえ、ウチの教祖様だけがご存知なのです」と言うので「どこの宗教の方もそうおっしゃってますよ」と私が言うと、いきなりガチャンと電話を切った。
究極の界層がわかるということ、否、その前に「究極」が存在するということ自体が哲学的に有り得ないことで、もしも「究極」があれば、そこで無限が有限となってしまい、ではその先はどうなっているのかという問いが延々と続くことになる。
シルバーバーチは「完全」というものは(哲学的に)有り得ないことで、それに向かって永遠に進化しつづけるということが納得できないと言っているのである。
こうした難しい哲学的な話は別として、現実問題として死後の生活はどのように営まれているか – 平たく言えば何をして時を過ごしているのか – と言えば、ある霊界通信によれば、宇宙学校小学生(の自分)がいきなり大学のキャンパスの真っ只中に置いてきぼりにされたようなもの、という分かりやすい比喩で語っている。
右を向いても左を向いても聡明そうな人たちが三三五五愉快そうに語らいながら行き来していて、地上時代を無為にすごした自分が恥ずかしく思えたという。
そうした死後の営みを具体的に綴ったのが V・オーエンの『ベールの彼方の生活』全4巻(潮文社)で、第1巻は実の母親からの通信で、母親らしい、ないしは女性らしい視点から綴っている。
第2巻はオーエン氏の守護霊からの通信で、英国国教会の牧師だったオーエン氏に、守護霊らしい厳しい態度で説いている。第3巻と第4巻はその守護霊と同じ次元の高級霊で、宇宙科学に通じた霊が綴っている。
訳者個人として最大の関心を持って訳した。とくに宇宙の造化と進化をつかさどる次元の一部を描写する部分では「なるほど」とひざを叩いて納得することが何度もあった。
例えば地球上の自然界の生命の環、食物連鎖、弱肉強食、天敵の存在、ホログラム[訳者による解説(9)]等々がすべてその創造界で工夫されて、DNAのようなデジタルの暗号となって種子や精子や卵子にインプットされているということであるらしい。
ただ、次元の異なる世界の叙述なので私も訳出に苦労した。読者からの感想でも一致していたのが「とても理解しづらかった」「しかし間を置いて読み返してみたら、なるほど、と得心した」というのが多かった。
人間の数だけ異なった次元と生活の場があるのであるから「読書百篇、意おのずから通ず」の譬えに暗示されている直観的理解にまたねばならないのかもしれない。
訳者による解説(9) – ホログラム
1個のリンゴにせよ人体にせよ、そのどの一部を取り出してレーザー光を当てても、そこに全体像が存在する、という事実。
『バイブレーション医療』のゲアバー教授や「神」の存在を認めながら科学者らしくそれを Something Great(何か偉大なるもの)と表現している、さる生命科学者その他の勇気ある学者の今後の活躍に期待したい。
訳者の恩師である間部詮敦氏が「宗教家がぐずぐずしていたら科学者から神の存在を指摘される時代が来ますぞ」とおっしゃったのを思い出す。
さて、幽体と肉体とをつないでいた生命の糸(シルバーコード)が切れれば幽体は完全に独立しますが、何年、何10年にもわたって相互関係を続けてきた両者の間には無形の繋がりが残っているものです。
それがどの程度の期間かは人によって異なります。何日も何週間も、時には何年もかかる人がいますが、それは例外的で、平均して4、5日前後です。
このことに関連してぜひ訴えたいのは、「死」を不幸なこと、「悲劇」として必要以上に嘆き悲しみ、長期間「喪」に服する風習は無意味であると同時に、新しい生活をはじめようとしている霊を地上次元に引き止め、向上を妨げることになるということです。[訳者による解説(10)]
訳者による解説(10) – 霊の向上の妨げになる
霊界で待ち受ける指導霊や知人・友人・親戚の霊による救いの意念よりも地上に残された親戚や知人・友人が発する哀悼の念に引かれて、懐かしい地上の雰囲気から脱け出られなくなるのである。
第3章 死後の世界も自然界の一部
訳者まえがき
原典では本章はいきなり霊界通信で始まり最後までボージャ氏のコメントも解説もない。たとえば誰からの通信であるかも述べられていない。エドィウン、ルース、ロバーツの名前が出てくるが、〈私〉と言っているのが誰であるかが曖昧なので、特定する必要がある場合は訳者の判断で特定した。
ボージャ氏は本書は前2著の続編ではないと断り、第1章と2章で死後の世界についての基本的な知識を述べて、それに適切な解説を施しており、私もそれを補足する形で幾つかの資料を添付したが、本章に入ると一転して自動書記通信だけとなって、訳者の私も戸惑った。
戸惑ったわけは、第1作と第2作がすべて通信だけで構成されていて、それも私の見るところ他の霊界通信と違ったユニークな内容なので、なぜこの程度の断片的な通信を何の解説もなしに紹介したかが測り知れなかったからであるが、いっそのこと訳者の私がボージャ氏に代わって解説を施すということで体裁を整えることにした。
死後の世界についてよく用いられる表現に「思念の世界」ないしは「想念の世界」というのがあります。つまり想念に強力な創造力があり、また創造されたものに実体感があるという事実をふまえた表現です。この表現に間違いはないのですが、「思念」ないしは「想念」という用語にまつわる人間的な先入観が災いして、ずいぶん過った想像の翼を広げている人が少なくないようです。
地上の人間[訳者による解説(11)]にとって思念とか想念は実体のない観念的な実体のないものですから、当然の帰結として死後の世界はふわふわしたとらえどころのない世界であるかのような印象を抱いている人が多いようです。
訳者による解(11) – 地上の人間 付 : 生命力の中枢「チャクラ」について
ここで「地上の人間」と訳したのは英語では the incarnate となっている。肉体をまとったもの、つまり〈化身〉が本来の意味であるが、本章の通信者は物的身体をまとった人間を総合的にさしている。
そして、この調子で地上の人間の先入観ないしは錯覚を指摘しているが、これはスピリチュアリズムが先鞭をつけた分野であって「いまさら」という印象がぬぐえない。
そこで私はここで、セオソフィー Theosophy という、スピリチュアリズムと非常に良く似た、古くからある東洋の人間思想を紹介しておきたい。これにも幾つかの派があるらしいが、私がいちばん共鳴するリードビーター氏の著書から引用させていただく。
こうして紹介できるのもゲアバー氏(『バイブレーション医療」の著者)が純粋な科学的研究成果を公表して、学習のためなら自由に使用してよい、という大らかな態度を表明しているからである。
以下は、拙著『スピリチュアリズムと宇宙哲学』(現代書林、1998年)からの転載である。
生命力の中枢「チャクラ」
◆セオソフィーとスピリチュアリズム
●スピリチュアリズムから生まれたセオソフィー
本項ではサンスクリットでチャクラまたはチャクラムと呼ばれている生命力の中枢を紹介する。これは、もともとインドのヨガ僧が体験的に、ないしは直観的にその存在に気付いていたもので、その後スピリチュアリズムから派生したセオソフィーの思想体系のなかで論理的かつ実際的に(霊視力で確認するなどして)説かれるようになった。
セオソフィーというのは「神」を意味する「セオ」と「智」を意味する「ソフィア」とを組み合わせた新造語で、日本では「神智学」ないしは「霊智学」と呼ばれている。今では独立した学派として扱われているが、元来はスピリチュアリズムの範疇に属していた。では、その誕生のいきさつから述べてみよう。
「19世紀の最も不可解な人物のひとり」と評された霊媒 – 完璧な現象を見せたかと思うと次はトリックを使ったりして科学者たちを困惑させた、通称マダム・プラバツキー、本名ヘレナ・ペトローワ・ブラバツキーが、そのセオソフィーの生みの親である。
生まれつき奔放な性格で、霊媒という影の存在に甘んじることができなかったブラバツキーは、古代インドのオカルト的宗教思想に目をつけ、これを発掘して集大成することを思い付く。
『霊訓』の中でインペレーター霊は古代インドを「宗教思想の揺籃(ようらん
)の地」と呼び、イエスも若いころに訪れて勉強と修行をしている – そなたもしっかり勉強するがよい、とモーゼスに言っているほどで、その思想を近代的な形で集大成したことはブラバツキーの功績と言ってよいであろう。
それは『秘密の教理 Secret Doctrine』のタイトルで出版された。そしてスピリチュアリストで軍人でもあったヘンリー・オルコットを会長とする協会『神智学協会」を設立し、大々的に宣伝活動を展開する。1875年12月、ニューヨークでのことだった。
ウィリアム・クルックス(1832~1919)
イギリスが生んだ世界的化学者・物理学者。心霊現象についての論争に決着をつける目的で本格的に研究し、その真実性を確信、それを学会で発表して一大センセーションをまきおこした。
上下2巻、1300頁にもおよぶ著書の魅力も手伝って、この協会には多くの知識人が入会している。物質化霊ケーティ・キングの研究で有名なウィリアム・クルックスもそのひとりであるが、不思議なことに霊視能力者の名前が多く見られる。実はこの協会の存在価値は彼ら霊視能力者の霊視記録にある、というのが筆者の見解である。
ベサント女史、リードビーター、パウエル、ガードナー、ホドソン等々、いずれも能力だけでなく人格・識見においても第1級の人物だった。この後で紹介するチャクラの解説は、彼らの霊視能力による観察結果を参考にしている。
●両者の長所と欠点
今日ではセオソフィーは世界各地に支部を置き、スピリチュアリズムとは無縁の存在となっているが、設立当初の会員は、クルックスに代表されるように、セオソフィーはスピリチュアリズムから派生した部門であるとの認識があった。
リードビーターなどはその著『内なる生命』の中でスピリチュアリズムはセオソフィーとまったく同じだと述べ、唯一異なる点は、スピリチュアリストの中には再生説(生まれ変わり)を認めない者がいることであるが、それは、いい加減な交霊会で低級霊がそう言っているからであって、要するに霊媒の無教養の反映だと、手厳しいが、しかし実に的を射た批判をしている。
これには私も全く同感で、霊能者の大半が持って生まれた能力だけで全てを片付けようとするあまり、分かりもしないことを、いかにも分かったような態度で述べ、それ以上の勉強をせず、一方、自分の書いたもの以外読むことを禁じたりする。いかにも日本人らしい狭量の島国根性をむきだしにして平気でいる者が多いことを、かねがね不愉快に思っているところである。
しかし一方、セオソフィーの思想書を数冊の原書で読んで感じることは、スピリチュアリズムが〈実証〉というものを重んじて、知り得ないことは知り得ないこととして無理にあげつらわないのに対して、セオソフィーでは、果たしてそのようなことが分かるのか、たとえ分かったとしてもそれが実生活に何の役に立つのか、と思われるものが少なからず見受けられることである。
その辺がオカルト的(神秘的・密教的)と言われるゆえんであるが、総合的に見てスピリチュアリズムに取り入れるべき要素が多分にあることは否めない事実で、チャクラなども心霊治療に係わっている人は、ある程度は知っておくべきであろう。本項を設けた意図もそこにある。
◆3種類のエネルギー – フォハット、プラーナ、クンダリニー
「チャクラ」という用語は、古代インドの文章語であるサンスクリットで「車輪」を意味する。つまり風車にようにクルクル回転しながら生命力を吸入するところから来ているのであるが、ではその生命力とは何なのか。
古代インド哲学では、大陽から地球へ届けられているエネルギーには3種あるという。即ちフォファット、プラーナ、クンダリニーである。
●フォハット
これは電気に喩えれば分かり易い。ご存知の通り電気は冷暖房器具によって熱や冷気に、照明器具によって明かりに、さらには電車や機械の動力源として利用されている。毎日ふんだんに馴染んでいるエネルギーで、それと同じものが人体に吸入されて変化するのである。
●クンダリニー
話の都合上、プラーナを後回しにしてクンダリニーを説明する。これは原語で「蛇火」を意味し、又の名を「大地の母」という。全てを産み出す大地の奥にあるマグマのようなもので、それがそのまま内部に潜在していれば問題ないのであるが、地表に溢れ出ると大災害をもたらす。その恐ろしさを蛇に喩えて蛇火と呼ぶ。
その恐ろしさを格別に強調するのはリードビーターで、彼の著書のどれを見てもその事に言及している。その概略を私なりに咀嚼してまとめてみよう。
●オカルト的超能力開発の危険性の根拠
電気は今も述べたように数え切れないほどの用途に使用され、便利この上ないが、それは電気の性質をよく研究して正しく応用しているからであって、いい加減な知識でいじくると感電したり火傷をしたり死ぬことさえある。クンダリニーについても同じことが言えるのである。
ヨガ思想の根本であるヒンズー教典によると、クンダリニーは尾骶骨(びていこつ)のあたりに伏在していて、普通一般の人間においては静止状態にあるという。本来は善でも悪でもなく、地上人生を送る上でこれを使用することは皆無といってよい。
しかし、これが発現するケースが3通りある。事故に遭ったことがきっかけで突如として発現するケースもあり、その処置を誤ると人生を台無しにしてしまう可能性を秘めているので、参考までにその3種について述べておきたい。
まず「事故」で誘発されるケースであるが、よく車にはねられたり高い所から落下した後から、霊視や霊聴、つまりこの世には存在しないものが見えたり声が聞こえたりするようになったという話を聞く。
これはその時のショックでクンダリニーが誘発されて上昇し、大小幾つかあるチャクラ(そのうちの主要なものをこの後紹介する)に強い衝撃を与えた場合が考えられる。
このように「上昇」した場合は、そのうちチャクラを通って体外へ発散されて行くので問題ないが、その能力に付随して自惚れや野心、尊大な重いが芽生えると、クンダリニーが「下降」して、つまり内向して、幽体の低級な感情や霊体の尊大な知性、肉体的には異常な性欲や食欲が誘発されて、抑制が利かなくなる。この「抑制が利かない」というのがクンダリニーの最大の特徴である。
歴史を見ても、特に宗教家や為政者で権力や支配欲に狂った者が異常な淫欲に耽ったり野獣のような残虐性を見せながら平然としていられるタイプが少なくないが、そうした人間は間違いなくクンダリニーによって駆り立てられていたと見てよい。
無論それを増幅する要素として、暗黒界の邪霊集団が加担していることは、高等な霊界通信が指摘するところである。
次のケースはそうしたクンダリニーの性質を意図的に悪用する魔術的行為によるもので、「黒魔術」とか「妖術」と呼ばれているものである。
分かり易い喩えで説明すれば、物質科学の発達によって物質の本性の解明が原子にまで達し、「核」の秘密を突き止めたのはよいが、それが戦争という破壊行為のために利用されて原子爆弾が拵えられてしまった。
クンダリニーはその核エネルギーと同じで、本来は善でも悪でもないが、黒魔術ではそれを呪詛(じゅそ)のような邪悪な目的のために利用しているのである。
その背後には悪の権化のような悪魔的存在が控えているはずであるが、それも宇宙神の支配下にあり、絶対的摂理の外に出られるものではない。そうした分野のことはオーエンの『ベールの彼方の生活』第3巻が参考になるであろう。
3番目のケースは無知が生み出すタイプである。宗教的な目的、例えば宇宙意識と一体となるとか、小我を超越して大我に没入するといった目的のために荒行や苦行を修することは結構なことのように思えるが、その裏には思わぬ危険が潜んでいることを知らねばならない。低級霊による憑依がそのひとつであるが、もうひとつがこのクンダリニーの誘発である。
そうした危険から身を守る方策はただひとつ、優れた指導者のもとで修行することで、ひとりで興味本位で行なうのは極めて危険であることを知っていただきたい。瞑想も座禅も例外ではない。もしも自分ひとりで行なうのであれば、時間を10分から長くても15分程度に止めるように、というのが私の師匠の忠言であった。
核エネルギーと同じで、正しく活用すれば驚異的なエネルギー源となることは確かで、ヨガの教典にも「クンダリニーは、解脱者には自由を与え、凡人には束縛を与える」とある。要は霊性の開発程度の問題となる。
シルバーバーチ霊はエネルギーの問題に触れて、戦争という危機に触発されて人類の知性が急速に発達したが、それに霊性の発達が伴わなかったところに問題があるのであり、人類にとって核の秘密の発見は100年早すぎた、と言っている。同じ意味で、今の段階の人類にとっては、クンダリニーの開発はまだ危険である。
●プラーナ
これは英語のバイタリティに相当し、日本語でもそのまま用いることもあるほど馴染んでいるが、サンスクリットの語源を解剖すると「前へ」「外へ」といった意味を持つ「プラ」と「息をする」「動く」といった意味を持つ「ナ」とが繋がってできたという。つまり、元気よく動く、その原動力ということである。
さて、このプラーナは、もしこれが存在しなかったら地上のあらゆる生物の身体はひとつにまとまった組織体とならず、ただの細胞の寄せ集めにすぎないものになってしまうと言われる。細胞の原形質(プロトプラズム)の生理化学的変化をコントロールしているのが、このプラーナだからである。
私はかねてから人体が皮膚で被われているのが不思議でならなかったが、これもプラーナのお蔭であることが分かった。植物も動物も人間もみな同じであるという。
このプラーナが幽体の成分とブレンドすることによって神経の素材ができる。それが感覚を伝達する役目をするのであるが、実はその神経組織は、性質上肉体には属していない。
肉体はただの鞘(さや)に過ぎず、それ自体には感覚はない。外部からの刺激を受けるだけで、それに反応するのは神経組織である。肉体そのものにそれらしきものがあるとすれば、例えば疲労感のような漠然としたものでしかない。
もうひとつ留意しなければならないのは、神経網を伝わって全身に行きわたるプラーナは、生体磁気(動物磁気)とは全く別種のものだということである。
生体磁気は神経をくるんでいる幽質の皮膜に沿って流れているもので、血液が流れるのと同じと思えばよい。血液が酸素を供給するように、生体磁気がプラーナを供給しているのである。
では、そのプラーナはどうやって外部から摂取されるのかということになるが、それがチャクラの働きに繋がってくる。
◆チャクラの種類と機能
●チャクラの種類
チャクラはもともとヨガ僧が直観的にその存在に気付いていたもので、従ってそのヨガ僧の能力次第でチャクラの数や位置、大きさ、機能についての見解が少しずつ異なる。
長い歴史の流れの中で大体の定説というものが出来上がっているが、民族によって、また個人によってもちょうど漢方医学でいうツボのように、その位置や数が少しずつ違ってもおかしくないというのが筆者の意見である。
ちなみにヨガにもラージャ派、カルマ派、マントラ派など7つの派があり、それぞれに教説も修行法も異なる。基本的認識としてはチャクラの数は7つというのが定説であるが、重点の置き所が違ったり、初めからその存在を数えないことにしているものもある。
例えば私が「基幹チャクラ」と訳した脊髄の先端にあるチャクラは、その辺にクンダリニーが潜伏していることから、指導者によっては教えないことにしている。するとその派では主要チャクラは6つという説を唱えることになる。
本書の執筆に当たって私は、念のため英国の医学者と心霊学者の著書を参照しながら、最も新しいチャクラ観をまとめたつもりである。
●チャクラの機能
次頁の図をご覧いただければ分かるように、チャクラのある位置は必ず大きな神経組織のある位置である。
チャクラの位置と神経組織
C. W. Leadbeater : The Chakras
頭頂チャクラ
前頭チャクラ
頸動脈神経叢
第一頸椎神経節
上頸部交感神経節
咽頭静脈叢
咽頭チャクラ
第一胸椎神経節
脊髄
交感神経幹
肺神経叢
心臓神経叢
心臓チャクラ
横隔膜
脾臓神経叢
第一腰椎神経節
第一仙骨神経節
太陽神経叢
太陽神経叢チャクラ
脾臓チャクラ
骨盤神經叢
尾骨神経叢
尾骨脊髄神経節
基幹チャクラ
まず基幹チャクラは副腎と直結しており、尾骨脊髄神経節と尾骨脊髄神経叢と深い係わりがある。脾臓チャクラは脾臓を中心として仙骨神経節や腰椎神経節と深く関わっている。
男女の性ホルモンの分泌にも関係があるという。ところが、実はこのチャクラはインドのどの学派も言及していない。リードビーターによると、エジプトの修行書には、その存在を指摘しながらも、開発するに当たっての注意が細かく述べられているという。
太陽神経叢チャクラは鳩尾(みぞおち)の辺りに位置している。大陽光線のように多くの神経が放射状に広がっているところからこの名称があり、これを最も重要視する指導者が多い。
西洋の学者の中には以上の4つを物的身体に係わるものとして、残りの3つと区別している人が多い。つまり心臓チャクラが「空気」、太陽神経叢チャクラが「火」、脾臓チャクラが「水」、そして基幹チャクラが「土」と関係していると説くのであるが、これを西洋の学者が言っているというところが興味深い。
次の咽頭チャクラは当然、甲状腺の機能をコントロールし、発声と聴力とも深い係わりがある。前の4つと異なり、霊的大気とも言うべきエーテルと関係している。
C. W. Leadbeater : The Chakras
松果体
脊椎
腦下垂体
延髄
脊椎
筆者は初め、なぜ喉が聴力と関係があるのかと訝(いぶか)っていたが、この度、角田忠信著『右脳と左脳』(小学館ライブラリー)を改めて読み直して、脳の聴覚野と咽喉頭とが接して存在しているのを知って納得が行った。
前頭チャクラは眉間のところにあり、当然、視力と関係があり、霊視力を司っている。〈第3の目〉と呼ばれるゆえんである。また脳下垂体とも繋がっていて、思考を司る重要なチャクラである。
最後は頭頂チャクラまたは冠頭チャクラで、図に見るように松果体と繋がっていて、霊的次元との交感の中枢の役目を果たしている。これは世界的なヒーラーのハリー・エドワーズが主張しているところである。
●西洋的解釈と東洋的解釈
以上はインド哲学に主眼を置いて、西洋医学(神経組織など)とつなげてみたものであるが、西洋と東洋とでは体質の違い、精神構造の違い、そして気候風土の違いなどから、同じ人体に関しての捉え方が異なっていて興味深い。
例えば脾臓(ひぞう)チャクラがヨガのどの教典にも見当たらないのもそのひとつで、これは漢方医学において脾臓への言及が見られないのと趣向が一脈通じているように思える。
クンダリニーについても、西洋人の解説書にはリードビーターのように危険性に言及したものは(私が入手した限りでは)見当たらない。しかしそれは、危険性がないということにはならない。気候風土から生ずる体質の違いによって、西洋人はクンダリニーの反応が出にくいのかも知れない。
分りや易い例で言えば、漢方医が使用するハリでも、本場の中国と、それを移入した日本とでは理論も実際もかなり違うし、さらに欧米人に使用するハリは、日本人にはとても耐えられないような太くて長いものでないと効かないという。
こうした事実を考え合わせると、気候的に見ると熱帯でもなく寒帯でもなく、その中間の温帯に属し、体質的にも陽性でもなく陰性でもなく、その中間の中性で、とかく陰性に傾き易い日本人には、古代インド哲学と西洋人の説とを折衷するのが最も穏当ではなかろうか。
私がリードビーターの説に注目するのは、彼が西洋人でありながらインドで修行しインドで活躍していたからである。両面を知っていたと見るのである。もちろん人格的にも高潔で高い霊性を感じさせるものがある。その禁欲的生活はつとに有名だった。
◆21世紀は「霊性の時代」
心霊月刊誌サイキック・ワールド〉の1995年5月号で、ビリー・ロバーツという心霊学者が「新しい時代の宇宙的子供たち」と題して、チャクラに言及しながら興味深い見解を述べている。その概略を紹介してみよう。
《占星術でアクエーリアス(水瓶座)という「ニューエイジ」に入るにつれて、地球上でさまざまな変動が生じつつある。過去10年間に生まれた子供たちは、これまでに例のない新たな資質をそなえている。霊的で創造的な感覚の持ち主で、いよいよ霊性豊かな時代到来の光が見えてきた。
地上生活で発揮する資質や能力は、善も悪も、吉も凶も、すでに魂というタネに宿されたものが発現するのであって、外部から新た付け加えられるものではないのである。
地上という物的環境には、霊的存在である自我が誕生してくる目的を果たす上で障害となるものが多過ぎる。それで神は防護用の鞘(さや)(ダブル)を用意してくださっている。その鞘にチャクラという宇宙エネルギーの流入口があって、脊椎と繋がっている。
それが変圧器に役目をしていて、吸入したエネルギーを肉体・幽体・霊体・本体へ、それぞれの波長に変換して送り届ける。肉体においてはサンスクリットで「ナディ」と呼ばれているネットワークを通して各種のホルモンの分泌と繋がっている。
チャクラは肉体と精神と霊の三位一体の調和を保つ役目のほかに、前世の体験を保存しておく役目をしている。言うなれば霊的貯蔵所ないし宇宙庫で、再生する度にその体験が持ち出されて、その生活模様の中に織り込まれて行く。それを受け持つのが守護霊を中心とする背後霊団(類魂)である。
主要なチャクラは7つある。誕生と同時に働き始めるのが基幹チャクラで、呼吸し、心臓が鼓動し、乳房を吸うという、生命活動の基本に係わっている。
2年目から脾臓チャクラが働き働き始める。これは物的環境に順応する機能を持ち、仙骨と繋がっている。(それで仙骨チャクラとも呼ばれる)
3年目から働き始めるのは太陽神経叢(たいようしんけいごう)チャクラで、本体の個性が出始める。(人体の中でも最大の神経叢で、心身ととに重大な働きをしている)
4年目から心臓チャクラが発現し、感情や情緒が出始める。この頃の幼児体験が生涯を決定づけると言ってもよい。特に両親の人間関係による影響が大きい。
5年目から発現するのが咽頭チャクラで、聴力が発達し、持って生まれた能力によっては霊聴力が発達することがある。
6年目に入るころから眉間チャクラが発現し始め、観察力や危険に対する察知力が鋭くなる。
最後に発現するのが頭頂チャクラで、知性・理性・思考力といったものが発達する一方で、霊的なバイブレーションがふんだんに流入するようになる。SF少年や夢見る乙女になるのはそのためで、本当は霊性の発達に好ましい徴候であるのに、現実にとっぷり浸っている親や、それを危険なこととして咎める。それが頭頂チャクラの発達を鈍らせることになる。
しかし、ここ10年間に生まれた子供たちはチャクラの組織がこれまでの人類とは違っており、主要チャクラは以上の7つより多いようだ。
「地球を大切に」とか「「地球に優しく」といった言葉によく表れているように、母なる大地に対する態度が変わりつつあるのは、霊性の進化を物語っているとみてよい。
それは、このニューエイジに生をうけた宇宙的感覚をもつ子供たちの影響であると私は確信している。(カッコ内、訳者)
◇◇◇◇◇
第2章の終わりで私の師匠(間部詮敦(まなべあきあつ)氏)が、宗教家がぐずぐずしていると科学者から神の存在を指摘される時代が来るといった趣旨のことを述べた話をした[訳者による解説(8) – ホログラム]の項を参照)。
先生はまた、そのカミとは法則のことで、従って神様という呼び方は必要でなくなった、といった趣旨のことをおっしゃった。
その後シルバーバーチを読むようになって God is the law という、まったく同じ表現を読んで驚いた。もっとも私は科学的なもの、ないしは物理的なものを「法則」と訳し、精神的なもの、ないしは倫理・道徳に関わるものを「摂理」と訳し分けた。
が、これは末節のことで、なんと言っても神を法則のことと表現するようになったのが世界中同時発生的であったことは、人類の霊性の進化の観点から大いに注目すべきことであろう。
参考資料集
《資料(1)》C・L・トウィーデール著『あの世からの便り』より
《資料(2)》「生命の行程表」 – フレデリック・マイヤース著『永遠の大道』より
《資料(3)》「霊界の光景」 – 『シルバーバーチの霊訓』より
《資料(4)》「類魂」 – フレデリック・マイヤース著『永遠の大道』より
《資料(1)》
C・L・トウィーデール著『あの世からの便り』より
From News from the Next World by the Rev. C. L. Tweedale
これは英国国教会の牧師のトウィーデール氏が、霊能者である奥さんを通じて起きた各種の心霊現象をまとめたもので、中でも注目されるのが自動書記通信である。
通信者はコナン・ドイルを始めとして、小説家のエミリー・ブロンテ、ピアニストのショパン、バイオリン製作者のストラドバーリ、天文学者のロバート・ボール等、世界的に著名だった人のほかに2、3の知人や縁者から成っていて、それぞれ個別に質問を書いて出し、その用紙に書かれた回答をまとめたもの。
なお Stradvari の日本語表記はストラドバリないしはストラドバリウスであるが、ストラドバーリが正式とのことなので、それにならった。
霊媒の先入観が入るのを防ぐ意味で、質問の内容は前もって奥さんに知らせず、入神してからさっと書いて出した。回答はすぐさま書かれ、またそのスピードがものすごくて、時には用紙が破れることもあったという。
その中から他界直後の様子や霊界の位置等に関する興味深い部分を訳出しておく。果たして本当にショパンなのかドイルなのかといった問題は、トウィーデール氏が徹底的に探りを入れている。
ここではあまり名前にこだわらずに、その内容に注目していただきたい。特に天孫降臨をズバリ指摘している箇所は日本人には興味津々である。
○死の過程と意識について
問「死んで霊界へ行くという現象は恐ろしいですか、苦痛ですか」
ストラドバーリ「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖をもった天使が見えました」
問「まだ肉体の意識のある間の話ですか」
ストラドバーリ「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い世界の方だそうで、多くの人のために尽した人に付き添うために派遣されているとのことです。当分の間付き添うことになるとのことでした」
問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」
ストラドバーリ「全然」(ストラドバーリは老衰死)
ショパン「死そのものは少しも苦痛でないし、恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方がつらかった」(ショパンは結核で死亡)
問「そうでしたね。で、実際に死ぬ時はどうでした」
ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もかもわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」
ドイル「私の場合は大変な激痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病のこと)
問「激痛はどこに感じましたか」
ドイル「全身を走り抜けたようです」
問「忘却というのは何のことですか」
ドイル「深い眠りです。眼が覚めたら川岸の土手の上にいました」
ブロック(トゥィーデール氏の知人)「そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ1時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることはできませんでした。晩年はつらかったから死ぬのはうれしかったです」
タビサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬということは私には何のことかわかりません。何も思い出せません。気がついたら椅子の上の方の高いところにいたということだけです」(霊視すると、今では17、8歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれる – 編者)
問「だからタビサちゃんにとっては、まだ死んだ記憶がないということね」
タビサ「そう、そうなの」
コナン・ドイル(1858~1930)
名探偵シャーロック・ホームズの生みの親であるが、そのシリーズで有名になったころにスピリチュアリズムを知り、その普及のために活躍した。
○死後の身体について
問「今あなたが使用している身体は形態、容貌、機能ともに地上時代の肉体とそっくりですか」
ストラドバーリ「今の身体はあなたの肉体とまったく同じで実感があります。実にラクです。目はちゃんと見えます。ただ心の方が地上より大きく作用します」
ドイル「地上時代の肉体よりはるかに美しいです。しかもこうして地上に降りて来られます。機能的にも霊体の方が具合がいい。有難いことに、痛みというものを感じません。地上の人生を終えたその場から今の人生が始まったわけです」
ブロック「このからだは地上の肉体と少しも変わりません。ただし、がっかりさせられることが多い。あれ持って来いこれ持って来いと、うまいものを注文するのだが、食べてみるとまったくうまくない」
タビサ「私はずっと今のままよ。そちらで私がどんなからだをしていたか知りません。ただこれだけは言えます。みんなの目には見えなくても、私はおうちの中をスキップしてまわったり歌ったりしているということ」
○飲食と睡眠について
問「エーテル体を養うために必要なものがありますか。食べるとか飲むとか寝るとか…」
ストラドバーリ「そうしたいと思わないかぎり飲むことも寝ることもしません。その気になれば何でもできますが…」
問「じゃ、あなたは食べることも寝ることも飲むこともしないわけですか」
ストラドバーリ「時にはすることがあります。寝ようと思えば寝られます」
ショパン「寝るのも飲むのも思いのまま」(ショパンはよく詩文で通信を書いているが、意味を伝える程度に訳しておく – 編者)
問「では呼吸もしているわけですか」
ショパン「然り」
ドイル「飲食の必要はありませんが、欲しいと思えば摂取できます。成長するにつれて地上的なものを欲しがらなくなり、求めなくなり、もっと高尚なものを求めるようになります」
ブロック「欲しいものは何でも手に入りますが、我慢もできます」
問「エーテル体を維持する上で必要ですか」
ブロック「必要です。ですが、摂取するものもみなエーテル質です。私は今もって幻影に悩まされております。これは、聞くところによると一種の罰だそうです。もっとも私の場合は地上の人のためになることもしているので、まだお手やわらかに扱ってくださっています」
ショパン「本当に欲しくなれば食事をすることもあります。が、欲しいだけ食べればそれでやめます」
タビサ「私はやりたいことは何でもします。食べるし、飲むし、寝ることもあります。でも、そうしなければならないことはありません。必要なものは全部空中(エーテル)から摂取していますから…」
○時間の感覚について
問「時間を意識することがありますか。たとえば記録したり約束したりする上で時間の経過を計るための尺度が必要ですか」
ストラドバーリ「地上の時間とは異なりますが、それに相当するものはあります。私たちの時間は大陽時間で、光の変化で判断します」
問「光の変化は何が原因で生じるのですか」
ストラドバーリ「あなたがたが見ている大陽です」
ショパン「時間はあります。さもないと大きな集会に参加する用意ができません。幽霊にも時間がわかることはあなたがたもよくご存知のはずです。だって必ず真夜中に出るでしょう」
問「地上へ来られる時はやはり地上の時計を見て準備をされるのですか」
ショパン「地上に来る時はそうしますが、それ以外の時は地上の時刻は知りません」
問「ストラドバーリは霊界では大陽光線の変化で時間を知ると言っていますが…」
ショパン「その通りです。大陽の光で動いています。時間が来ましたので失礼します」
ドイル「こちらでも大陽の光による時間があります。地上の時間も太陽の動きによっているわけですが、大陽に関する認識に大きな違いがあるのです。あなたがたにはちょっと理解できないことがあります。約束の時刻はちゃんと決められます」
問「地上の時間もわかりますか」
ドイル「わかります。地上に近いですから」
○霊界の位置について
問「いま現在どこに住んでおられますか。霊界というのは一体どこにあるのですか」
ストラドバーリ「地球と同じよな天体上にいます。私は今あなたのすぐ近くにいます。私にはあなたの姿がよく見えますが、そちらからは見えないでしょう。霊能者は別ですが。私たちも天体上にいます。大陽も見えます。あなたがたが見ている大陽と同じです」
問「界はいくつありますか」
ストラドバーリ「7つ」
問「その7つの世界はミカンのように、あるいは大気のように地球を取りまいているのですか」
ストラドバーリ「そうです。でも肉体をもった者はここには住めません。地球には、人間が住むようになる以前は高級な霊的存在、あなたがたの言う天使が居りました。(聖書の)創世記にある通りです」
問「ということは、当時の地球は高級霊の通う場所だったわけですか」
ストラドバーリ「その通りです。物質化した霊魂がそのまま居残ったのが最初の人類です」
問「あなたのいる界は地表からどの位の距離にありますか」
ストラドバーリ「それは私にはわかりませんが、かなり近いようです」
問「界と界との境はなにか“ゆか”floor のようなもので仕切られているのですか」
ストラドバーリ「空間 space によって仕切られています」
問「それらの界が地表の上空にあるとなると、人間の目には透明なわけですね。それを通して星と太陽とか惑星を見ているわけだから…」
ストラドバーリ「ご説明しましょう。人間の視力はある限られた範囲の光線しか受けとめることができません。霊的なものは人間の目には映らないのです。死んでこちらへ来ると、最初はどこへ行っても違和感があり新しいことばかりですが、感覚が慣れてくると、こちらの土地、海、草木なども地上とまったく同じように実感があることがわかり、しかもはるかに美しいことを知ります」
ショパン「私の住んでいるところは地球から遠く離れています。円周の外側にあります」
問「何の円周ですか。地球のことですか」
ショパン「地球から完全に離れています。こうして通信するために降りてきている間はあまり離れていません」
問「エベレスト(8848メートル)がひっかかりますか」
ショパン「いいえ」
問「どの位の距離がありそうですか」
ショパン「およそ5万メートルです。ですが、距離とか空間はわれわれが移動する際はまったく関係ないようです。心に思えばそれでもうそこへ行っています」
ドイル「難しい問題です。同じ国の人間でも、その国についての説明をさせればひとりひとり違ったことを言うでしょう。霊界についても同じで、霊によって言うことが違ってきます。私に言わせれば、私は今あなたの上の空中にいます」
問「距離は地表からどの位ですか」
ドイル「わかりません」
問「地表に近い大気圏のあたりが幽界より上の界へ行くための準備をするところ、いわゆるパラダイスですか」
ショパン「そうです。はじめは地上で過ごします。同じパラダイスでも地表から離れて第1界(幽界)に近い部分もあるわけです」
問「キリストも、それからキリストと一緒に処刑された例の盗っ人も、そこで目を覚ましたわけですか」
ショパン「そうです。キリストはそこから戻って来て姿を見せたわけです」
問「そこは地球の表面になるのですか」
ショパン「そうです。中間地帯です。界と界との間には必ずそういうものがあります。人間はみな地上にいた時と同じ状態でいったんそこに落着きます。が、そこで新しい体験をさせられます。
地上でも、九死に一生を得た人がその瞬間にまるでビデオを見るように自分の全生涯を眼前に見たという話がありますが、あれと同じで、地上生活の全てを、夢でも見るように、見せられます。犯した罪や過ちを反省し改めさせるためです。それをしないと先に行けないのです。反省しない人間は下降していきます」
ブロック「私がここで見たものは、実にきれいな青色でした。どう呼べばいいのでしょうか。何か島みたいで、青色をしていて、いかにも健康に良さそうな感じでした。私は自分がどこにいるのか心細くなって、付き添っていた人(指導霊)に“ここは一体どこですか”と聞いてみました。
すると“ここはふたつの界の中間境だ。そのうち慣れるだろう。大体ここに来る人間は仕事仕事で生涯を送った者ばかりだ”という返事でした。さらにそのあと出会った人はこんな風に話してくれました。
“心配しないでよろしい。大丈夫ですよ。あなたはどうも宗教心が足らなかったようだが、心がけはまずまずだった。ここではその心がけが大切だ。生まれた環境は自分の責任じゃあない。宗教的でない環境に生をうければ宗教心は芽生えにくいのは当然だが、そうした逆境の中にあって良い行いをすれば、その価値も一層増すというものだ。何事もその時の条件を考慮して評価されるわけだ”と。
これでおわかりでしょう。ドイルも言っていたように、要するに大切なのは教義ではなく行いです。地上の人間が Love(愛、慈しみ、思いやり)の真の意味を理解すれば、戦争など起こらないのですが…」
編者注 – 浅野和三郎氏の著書の引用文の中に“ステッドの通信”というのがある。これは The Blue Island by W. T. Stead のことで、文字通りに訳せば“青い島”で、仏教でいう極楽浄土、西洋でいうパラダイスに相当する。
ここは地上生活での疲れや病いを癒す一時休憩所のような場所であって、天国 Heaven とは違う。天国と呼ぶにふさわしい界は浅野氏のいう神界、マイヤースのいう超越界。
さてトウィーデール氏はパラダイスについてドイルに尋ねる。
問「あなたは全ての霊はいったんここに来るとおっしゃいましたね」
ドイル「言いました」
問「ということは善人も悪人もみなここに来るということですか」
ドイル「その通りです。キリストが刑場で隣の盗っ人にこう言っているでしょう – “今日この日に再び汝とパラダイスにて相見(あいまみ)えん”と」
問「そうするとパラダイスも善人の行く場所と悪人の行く場所とに別れているわけですか」
ドイル「地上に善人と悪人がいて、悪いことをした人間は刑罰を受けるように、パラダイスでも善人は幸せを味わい、悪人はよろこびとか幸福感を奪われるという形での刑罰を受けます。
さらに刑罰を犯した人間はその現場に引きつけられていきます。故意の殺人者は例外なく自縛霊になります。罪を悔い改める心が芽生えるまでは、いつまでもその状態から抜け出られません(そういう霊を「自縛霊」と呼ぶ)。それはそれは長い間その状態のままでいる人間が大勢います」
問「そちらで見たり聞いたり触ったりする感覚は地上と同じですか」
ドイル「肉体よりずっと鋭敏です」
問「今この部屋にいますか、それとも遠く離れたところにいるのですか」
ドイル「あなたのすぐうしろにいます」
問「私と同じように実体がありますか」
ドイル「ありますとも、立派に実体があります」
問「何百マイルも何千マイルも遠くから通信を送っているわけではないのですね」
ドイル(皮肉たっぷりに)「火星から通信しているわけではありませんよ」
問「部屋にあるものが全部見えますか」
ドイル「見えます。あなたがたよりもよく見えます。視力が肉眼より鋭いですから」
問「霊魂は霊能者の肉眼を通じてしか地上のものが見えないのだという人がいますが」
ドイル「とんでもない!あなたがたと同じように、いやそれ以上に、私たちにとって地上のものはきわめて自然に見えます」
最後に、英国の著名な天文学者だったロバート・ボール卿 Sir Robert Ball の学者らしい回答を紹介する。
問「天文学者であられた卿にお伺いしますが、霊の世界は地球の近くにあるのでしょうか」
ボール「地球の外側をぐるりと取り巻いています」
問「地球からの距離はどのくらいでしょうか」
ボール「これは難しい問題です。30キロ程度の近いものもあれば、100キロほど離れているものもあり、遠いものになれば何千、何万キロも離れています」
問「人間の肉眼には透けて見えるわけですか」
ボール「肉眼は限られたものしか見えません。霊の世界は肉眼にも天体望遠鏡にも映りません」
問「たとえばガラスのコップのようなものを考えてもいいでしょうか。実体があり固いけど、透明であるという…」
ボール「なかなかいい譬えです」
問「そうした世界はどの天体にもありますか」
La
ボール「あります。どの恒星にも惑星があるように、どの天体にもそれなりの霊の世界があり、同時にそれぞれの守護神がいます。秘密はエーテルにあります」
問「大気圏を30キロの高さまで上昇していったら霊の世界に触れることができますか」
ボール「それは不可能です」
問「ということは霊の世界は透明であるだけでなく、身体に触れることもできないということですか」
ボール「その通りです」
問「本質はエーテルでできているのですか」
ボール「そうです」
問「霊界の秘密はエーテルにあるとおっしゃったのはその意味ですか」
ボール「さよう」
問「そのエーテル界の生活や存在は地上生活と同じく実感がありますか。そして楽しいですか」
ボール「はい、楽しくて実感があります。但し善人 the good にとってのみの話です」(善人の文字に2本下線が施されている)
問「地球の霊魂が太陽系の他の惑星、たとえば火星や金星のエーテル界を訪れることが可能ですか」
ボール「高級霊になれば可能です」
間「たとえばオリオン座のペテルギウス星(地球から5670000000000000キロ)のような遠い星でも同じですか」
ボール「同じです」
問「普通の霊魂は行けませんか」
ボール「行けません」
問「ではこういうことですか。つまり普通の人間は死後その天体のエーテル界で生活し、高級になると他の天体のエーテル界を訪れることができるようになる」
ボール「その通りです」
ボールはこのあと「この章は実に重要ですよ」と付け加え、署名して終りにしているが、高級霊になれば他の天体のエーテル界に行けるようになるということは、要するにエーテル界の上層部が他の天体の上層部と合流しているということを意味している。ヴェール・オーエン氏の『ベールの彼方の生活』に次のような箇所がある。
以上のことからおわかりのように、吾々が第1界から上層部へと進んでいくと、他の惑星の霊界と合流している界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり大陽の霊界がふたつも3つも合流している世界に到達する。
そこにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと霊力を備えた高級神霊が存在し、下層霊界から末端の物質界に至るすべてに影響を及ぼしている。
かくして吾々はようやく惑星から恒星へ、そしてひとつの惑星から複数の恒星の集団へと進んできた。が、その先にもまだまだもっと驚くべき世界がいくつも存在する。が、第10界の住民である吾々には、それらの世界のことはホンのわずかしかわからないし、確実なことは何ひとつわからない。
※レナードの『スピリチュアリズムの真髄』はこうした死後の世界の区分の問題を実に詳しく扱っており、是非とも参考にしていただきたい。ここであえてトウィーデールの著書から引用したのは、本書が非常にいい内容をもちながら一般に知られておらず、引用されることもないので、この機会にと思ったからである。
特に天孫降臨を髣髴(ほうふつ)とさせる言説を霊界側から述べているのは、私の知るかぎり西洋では他に見当たらない。
もっとも人類誕生の問題はまだスピリチュアリズムもそれを論じるに足るだけの十分な資料を積み重ねていない。しかしこれがスピリチュアリズムでないと絶対に解けない謎であることだけは断言できる。
ダーウィンの進化論はいま学界でも集中放火を浴びている。あまりに唯物的すぎ、あまりに単純すぎたところに原因があるが、といってスピリチュアリズム的要素を取り入れた説が受け入れられる時機はまだまだ遠い先のようである。
かつてダーウィンと同時代の自然科学者で心霊学者でもあったA・R・ウォーレスが“霊的流入”Spiritual in – flux という用語を用いた説を発表したことがあるが、まともに取りあってもらえないまま眠り続けている。当時としてはあまりに飛躍的すぎたからであろう。
A・R・ウォーレス(1823~1913)
ダーウィンとならび称せられる世界的博物学者。心霊現象は実在すると発表したために学者仲間から非難されたが、「事実はがんこである」という名言をはいて、最後までスピリチュアリズムの真実性を信じた。
ちなみに霊的流人というのは、(『シルバーバーチに最敬礼』で解説したが)ダーウィンの言うように人類がアメーバから進化して動物的段階に至ったその最終段階で、神的属性をもった人間の霊魂が宿ったという説で、シルバーバーチも同じようなことを述べている。
が、私はこの説と、さきの天孫降臨の説の双方とも真実であると考えている。つまり、一方に動物的進化の過程でウォーレスのいう霊的流入を受けて人間へと跳躍した系統があり、他方に、高級霊の物質的進化によるもうひとつの系統があったとみる。
思うにその物質化現象は霊界あげての大事業だったことであろう。数え切れないほどの失敗の繰り返しがあったことであろう。時間もかかったであろう。日本の古典はその辺の事情を象徴的に物語っていて興味がある。
これには異論もあろう。が、真相はどうであれ、今までに得た霊的知識を土台にして、そうした問題に想像の翼を広げていくのは実に楽しいことである。
《資料(2)》
「生命の行程表」 – フレデリック・マイヤース著『永遠の大道』より
From The Road to Immortality by F. W. H. Myers
《資料(1)》に続き、マイヤースの通信から死後の世界に関する箇所を紹介する。例によって The Road to Immortality からで、ここでは第3章を浅野和三郎訳『永遠の大道』を下敷にしながら紹介する。
人間がその魂の巡礼において辿るべき行程をまとめればおよそ次のようになる。
【1】物質界
【2】冥府、又は中間境
【3】夢幻界
【4】色彩界
【5】光焰界
【6】光明界
【7】超越界
(編者注 – 浅野氏の4界説にあてはめれば、【3】【4】【5】が幽界、【6】が霊界、【7】が神界となる)
各界の中間には冥府又は中間境があり、各霊はここでそれまでの行為と経験を振り返って点検し、上昇すべきか下降すべきかの判断を下す。
【1】の物質界は地上の人間が馴染んでいるような物質的形体に宿って経験を積む世界である。これは必ずしも地上生活のみに限られない。遠い星辰の世界にも似たような物的条件をもった天体がいくらもある。
またその中には人体よりも振動数の多いものもあれば少ないものもあり、まったく同じというわけではないが、本質的にこれを“物質的”と表現しても差支えない性格を具えているのである。
【3】の夢幻界というのは物質界で送った生活と関連した仮相の世界である。
【4】の色彩界ではもはや五感の束縛から脱し、意念による生活が勝ってくる。まだ形態が付随しており、従って一種の物的存在には相違ないが、しかしそれかは非常に稀薄精妙なる物体で、「気」と呼よんだ方が適当かも知れない。この界はまだ地球又は各天体の圏内に属している。
【5】の光焔界において各自の霊魂ははじめて永遠の生命における自己の存在の意義を自覚しはじめ、ひとつのスピリット(本霊)によって養われている同系の類魂たちの精神的生活に通暁するようになる。
【6】の光明界において各自の霊魂はこんどはその類魂たちの知的生活に通暁できるようになり、仲間の全前世を知的に理解することになる。同時に物的天体上に生活している類魂の精神的生活にも通暁する。
【7】最後の超越界は本霊並びに本霊の分霊である類魂の全てが融合一体となって宇宙の大霊である神の意志の中に入り込む。そこには過去、現在、未来の区別がなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり実相である。
マイヤースの説明はあまりに抽象的で簡単すぎるが、これはあくまでも死後の世界の図表のようなものであるからやむを得ない。マイヤースもこのあと順を追って詳しく説明していく。
そしてついに「類魂」の章に至るわけであるが、これは、この「参考資料集」の最後に《資料(4)》として紹介してある。これをお読みくださった方には右の箇条書だけで人間の辿るべき旅路が髣髴(ほうふつ)としてくることと信じる。
こう観て来ると、人間がいかに小さな存在であるかを痛感させられる。言ってみれば地上生活は宇宙学校のホンの幼稚園、イヤ保育園程度のものかも知れない。その程度の人間のすることであれば、良い事にせよ悪い事にせよ、程度はおのずから知れている。
浅野和三郎はよく「人間はいい加減ということがいちばん大事じゃ」と言われたそうであるが、これは己れの小ささに気づいた、真に悟った人間にしてはじめて口に出来る言葉であろう。
浅野氏はまたその著『心霊学より日本神道を観る』の中で「人間味のない人間は畢竟(ひっきょう)この世の片輪者(かたわもの)で…」と述べているが、無理な禁欲や荒行で五官を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めているのである。
私自身も精神的にまた肉体的にかなり無理な修行を心がけた時期があったが、その挙句に悟ったことは、結局神は人間にとって五官でもって生活するのが適切だから五官を与えてくださったのであり、要は節度 moderation を守ることに尽きるということだった。
むろん人それぞれに地上生活の目的と使命があり、禁欲がその人にとって大切な意味をもつことがあり、それがいわゆる業(カルマ)のあらわれである場合もあろう。
が、シルバーバーチも繰り返し述べているが、物事には必ずプラス面とマイナス面とがあり、禁欲生活によって得るものがある一方には、それ故に失わざるを得ないものが必ずあるわけで、それはまた別の機会に補わなければならない。
こうした禁欲とか行(ぎょう)、戒律といったものは、その土台となるべき霊的知識が過っているととんでもない方向へ走ってしまう危険性があり、スピリチュアリズムの真理に照らしてみると滑稽でさえある場合が少なくない。
またそれ故に何千年何万年と、想像を絶する長い年月にわたって、自分が拵えた殻の中で無意味な、しかし本人は大マジメな暮らしを続けている霊が大勢いるようである。
そういった既成宗教の過った教義についてはここではひとまず措いて、次の《資料(3)》でシルバーバーチに死後の世界と生活ぶり、そしてこの世との関わり合いについて語ってもらうことにする。
《資料(3)》
「霊界の光景」 – 『シルバーバーチの霊訓』より
From Teachings of Silver Birch
私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことがわかっていただけるはずです。
素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰が、ダテや酔狂で降りてまいりましょう。あなた方はまだ霊の世界のよろこびを知りません。
肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなた方にはわかっていただけません。
肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存知ない、そして、なお、死を恐れる。
人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が、実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。
なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。ただし、徐々にではあっても成長はしています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば、当然暗やみが後退していきます。
霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が“死んだ”といって片づけている者の方が、実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。
この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることができます。画家も詩人も思い通りのことができます。天才を存分に発揮することができます。
地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思う事がすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。
金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。
失業などといもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。
地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。
死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。
死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。
天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのですか。
地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることはできないでしょう。
そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。いま地球はまさに5月。木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造花の美を見て“何とすばらしいこと!”と感嘆します。
が、その美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色あせた模作ていどしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり、色彩があります。そのほか小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれひとつとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。
そのうちあなた方もその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。
実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。
来てみると、1度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることができます。その時すべての記憶がよみがえります。
一問一答
問「死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと – 多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか」
シルバーバーチ「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、そういう人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが細かくなります」
問「朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか」
シルバーバーチ「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界に縛りつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。
その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻って来ると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと、脳があまりにも狭いからです。小は大を兼ねることができません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。
袋にはおのずから容量というものがあります。ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。
実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのですが。私は“地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですヨ”と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。
皆さんおひとりおひとりにお会いしているのですヨ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから…」
問「死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか」
シルバーバーチ「そうです。何ひとつ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間ほど己れの愚かさをさらけ出すのです」
問「睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか」
シルバーバーチ「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。
そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのは、その辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。
ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐ慣れるかどうかの問題です。闇の中にいて光を見ていない人は、慣れるのにずいぶん時間がかかります。地上での体験も、こちらでの体験も、何ひとつ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいてください」
問「霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くでしょうか」
ルバーバーチ「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と過った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。それが霊界での目覚めの妨げになるからです。
そうした障害物が取り除かれないかぎり、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。また、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に、人のためによく尽した人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」
シルバーバーチ「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。霊格が高ければ、死後の存続の知識がなくても、死後の世界に早く順応します」
問「そういう人、つまり死んだらそれでおしまいと思っている人の死には苦痛が伴いますか」
シルバーバーチ「それも霊格の程度次第です。一般的に言って、死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」
問「善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎めを受けますか」
シルバーバーチ「私にはその善人と悪人とかの意味がわかりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。が、その人の真の価値は毎日をどう生きてきたかに尽きます」
問「愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが…」
シルバーバーチ「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、ふたりの結びつきは地上より一層強くなります。
が、ふたりの男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差があるときは、死とともに両者は離れていきます。それぞれの界へ引かれていくからです。
若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことではなく、成長、進化、発達という形で現われます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。
男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの2元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」
問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪がいちばん多いですか」
シルバーバーチ「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。
従って、醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に現われて、霊格が下がるのがわかります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、さきほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」
問「死後の世界が地球に比べて実感があり、立派な支配者、君主、または神が支配する世界であることはわかりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか」
シルバーバーチ「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。
また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体がひとつに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」
問「地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか」
シルバーバーチ「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります。神の摂理はうまく出来ております」
問「シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことができるでしょうか」
シルバーバーチ「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大ていの場合会うことができるでしょう。共感のきずな a natural bond of sympathy が両者を引き寄せるのです」
問「この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか」
シルバーバーチ「地上よりはるかに実感があり、しっかりしてます。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」
問「ということは、地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか」
シルバーバーチ「だから言っているでしょう。地上よりもっと実感がある、と。こちらの方が実在なのですから…。あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外を覗いてるだけです。地上では本当に自分のホンの一部分しか意識していないのです」
問「霊界では意志で通じ合うのですか、それとも地上の言語のようなものがあるのですか」
シルバーバーチ「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」
問「急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか」
シルバーバーチ「魂の進化の程度によって違います」
問「呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか」
シルバーバーチ「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりには自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。
そしてすぐそのまま新しい生活が始まります(『シルバーバーチに最敬礼』に《資料(3)》として収録した「「死」の現象とその過程」参照)。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所 – 病院なり休息所なり – に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」
問「愛し合いながら宗教的因襲などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか」
シルバーバーチ「愛をいつまでも妨げることはできません」
問「肉親や親戚の者とも会えますか」
シルバーバーチ「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」
問「死後の生命は永遠ですか」
シルバーバーチ「生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」
問「霊界はたったひとつだけですか」
シルバーバーチ「霊の世界はひとつです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側にはかならず霊的表現があるのです。
その無限の霊的世界が2重、3重に入り組みながら全体としてひとつにまとまっているのが宇宙なのです。あなた方が知っているのはそのうちのごく一部です。知らない世界がまだまだいくらでも存在します」
問「その分布状態は地理的なものですか」
シルバーバーチ「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」
問「ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか」
シルバーバーチ「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような“地域”とか“層”が存在します」
問「たとえば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっていた人は霊界でどんな裁きを受けるのでしょうか」
シルバーバーチ「もしその人がいけないことだ、罪深いことだと知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたなら咎めは受けません」
問「動物の肉を食べるということについてはどうでしょうか」
シルバーバーチ「動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何事であれ許されないことでから、やはりそれなりの報いを受けます。その段階まで進化しておらず、いけないとも何と感じない人は、別に罰は受けません。知識にはかならず代償が伴います。責任という代償です」
《資料(4)》
「類魂」 – フレデリック・マイヤース著『永遠の大道』より
“The Group – Soul”from The Road to Immortality by F. W. H. Myers
霊的意識の集団
類魂は、見方によっては単数でもあり複数でもある。1個の高級霊が複数の霊をひとつにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、霊的生活においても、1個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊から貰うのである。
地上時代の私もあるひとつの類魂団に属していた。が、自分以外の類魂と、その全てを養う統括霊 – これらは根に相当すると考えればよい – は超物質界にいた。霊的進化の真相を理解せんとする者はぜひともこの類魂の原理を研究し、また理解しなくてはならない。これによって、例えば従来の再生説だけでは説明のつかない難問の多くが見事に片づく。
私はこの説を決して安直に述べているわけではない。例えば人間が地上に生をうけるのは、前世での罪の代価を払うためであるというのは、ある意味では真実である。が、その前世とは、自分の生涯といえると同時に自分の生涯でないともいえる。
つまり、前世とは自分と同じ霊系の魂のひとつが、私が誕生する以前に地上で送った生涯をさすもので、それが現在の自分の地上生活の型をこしらえているのである。
現在私が居住している超物質世界には無限に近いほどの生活状態があるので、私はただ私の知っているかぎりのことしか述べられない。断じて誤ってはいないとは言わないが、大体これから述べるところをひとつの定理と考えていただきたい。
さて、ソウル・マンとなると、大部分は2度と地上に戻りたいとは思わない。が、彼らを統括している霊は幾度でも地上生活を求める。そして、その統括霊が類魂どうしの強い絆となって、進化向上の過程において互いに反応し合い、刺激し合うのである。
従って私が霊的祖先という時、それは肉体上の祖先のことではなく、そうした1個の霊によって私と結びついている類魂の先輩たちのことをいうのである。
1個の統括霊の中に含まれる魂の数は20の場合もあれば100の場合もあり、また1000の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの宿業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂のひとつが残していった型のことをさすことがある。
同様に私も、自分が送った地上生活によって類魂の他のひとりに型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら、同時にまた、いろいろな界で生活している霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。
仏教が唱道する再生輪廻説、すなわち何度も地上生活を繰り返すという説明は、半面の真理しか述べていない。この半面の真理というのは往々にして完全な誤謬よりも悪影響を及ぼすことがある。
私自身は2度と地上に現れることはないであろう。が、自分と同系の他の魂は、私がかつてこしらえたカルマの中に入ることになる。ただし私がカルマという用語を用いる時、それは従来のカルマと同じものではない。私は私としての王国を持っている。が、それすら大きな連邦の1単位に過ぎないのである。
こう述べると、中にはソウル・マンにとっても1回の地上生活では十分ではないのではないかと言う人がいるかも知れない。が、こちらで進化を遂げると、同一の霊系の魂の記憶と経験の中へ入り込むことができるようになるのである。
私はこの類魂説が一般通則として規定されるべきであるとは言わない。が、私の知るかぎり、私の経験したかぎりにおいて、断じて正しいと信じる。
この試論 – そう呼ぶ人が多分いると思う – は、天才のケースに適用した時に極めて興味深い。我々以前に地上に出現した魂は精神的にも道徳的にも、当然、我々に何らかの影響を与えるに相違ない。
従ってある特殊な類魂の内部で、ある特殊な能力、例えば、音楽的才能が連続的に開拓されたら、最後にはその特殊な能力が地上の代表者に顕著に現われるはずである。即ち、幾つかの前世中に蓄積された傾向が驚くべき無意識の情報となって、ひとりの地上の代表者の所有物となるのである。
我々は、この死後の世界へ来て霊的に向上して行くにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げて類魂の中に没入し、仲間たちの経験までも我が物としてしまう。
と言うことは、結局人間の存在にはふたつの面があると理解していただきたいのである。即ち、ひとつは形態に宿っての客観的存在であり、もうひとつは類魂の一員としての主観的存在である。
地上の人間は私のこの類魂説をすぐには受け入れてくれないかも知れない。多分死後においての不変の独立性に憧れるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。
が、私の類魂説の中にはそのふたつの要素が含まれている。即ち、我々は立派な個性をもった存在であり続けると同時に、全体の中の不可欠な一員でもあり続けるのである。
私のいう色彩界、とくに次の光焔界まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、またいかに美しいかがしみじみと分かってくる。“存在”の意義がここに来て一段と深まり、そして強くなる。
また、ここに来て初めて地上生活では免れない自己中心性、つまり自分の物的生命を維持するために絶え間なく他の物的生命を破壊して行かねばならないという、地上的必要悪から完全に解脱する。
類魂の真相が分り始めるのは色彩界に到達してからで、そこから一大変革を遂げることになる。各自は1歩1歩に経験の性質、精神の威力を探り始める。その際、もしも彼がソウル・マンであれば、時としてとんでもない過ちを犯す危険性がある。
類魂たちの知的ならび情緒的経験に通暁して行くうちに、時として類魂中のある部分に“作りつけの雛形”に逢着することがある。うっかりすると彼はその雛形にはまり込んでしまい、幾1000年にもわたって1歩も歩み出せなくなることがあるのである。
右の雛形というのは地上生活中に作り上げられた宗教的信条といった類(たぐ)いのもので、例えば狂信的仏教徒や敬虔この上ないキリスト教徒が地上時代の信仰の轍(わだち)にはまり込んでしまう。そこでは恐らく同系統の仲間も同じ教説によって足枷をはめられていることであろう。
1歩も向上しないまま、キリスト教的な無想は仏教的な幻想をこしらえた想念や記憶の中に留まり続けるのである。言うなればタコの触手に引っかかったようなものであろう。その“タコ”が地上でこしらえた“死後”に関する想念であり宇宙観なのである。
そうした境涯が進歩を阻害することは理解できるであろう。別の譬えで言えば、それは一種の“知的さなぎ”のようなもので、そこでは過去の地上での考えのままの生活が延々と営まれている。
向上の道にある者が客観的にその境涯を考察するのは結構であり必要でもあろう。しかし断じてその中に引きずり込まれたり、狭い牢獄に閉じ込められたりしてはならない。
スピリット・マン
私のいうスピリット・マン、つまり霊性に目覚めた高僧・哲人になると、そうした地上時代の思想信仰の鳥もちに引っかかることはない。
例えば神の子とまで呼ばれたイエス・キリストは、いったん冥府から一気に超越界へと上昇して行った。それほどイエスの身体は、地上時代の肉体からして、神の思念の純粋な具現そのものだった。
まさしくイエスは大霊が局部的に顕現したものだった。地上においても常に大霊と直接のつながりを保っていた。それに引き替え、聖人の位に列せられているクリスチャンは高級な個霊(統括霊)とつながっていた。
私が“個”と呼ぶ時、それは神の思念のひとつということで、従って全生命の源である大霊の直接の顕現ではない。
その辺の理解を誤った狂信的クリスチャンの中には、確かにクリスチャンとして実直な地上生活を送ったかも知れないが、ある種の“知的罪悪”を犯している者が多い。
一言にして尽くせば、“思想的硬直”あるいは“狂信による視野の狭窄”とでも言えようか。要するに、狭い概念に執着しているのである。
第4界まで来た者がさらなる進化を望むならば、そうした牢獄から抜け出る方法を学ばなくてはならない。クリスチャンに限らない。仏教徒やマホメット教徒、その他、ありとあらゆる宗教の熱烈な信者や、近代の科学的発達によって生まれた学問的思想家についても同じことが言える。科学が一種の宗教的様相を呈してきているのである。
そういう次第で、第4界から第5界へと向上するには、まず宗教的および学問的ドグマ、つまり地上時代の精神構造を作り上げていた特殊な概念をかなぐり棄てなくてはならない。
それが魂を縛りつけているからである。それによって視野が狭められ、それによって体験も限られ、かくして存在の認識が制約されているのである。
参考文献
ブルース・デュロスト・フィッシュ
ベッキー・デュロスト・フィッシュ[共著]
ウィリアム・ティンダル 新約聖書を英語に翻訳して火刑に処せられた男
William Tyndale
Bible Translator and Martyr
by Bruce & Becky Durost Fish
訳者まえがき
ミッション系の英文科で学んだ私にとってキリスト教は4年間ずっと必修科目で、半世紀にわたって続けてきた翻訳の仕事でも不可欠の要素として、英文・和文の新旧両聖書をひもとかない日はないと言ってよいほど親しんできた。
そんな私も、本書の原書を手にして初めて、新約聖書が英語に訳されたのが1500年代であったことを知って、今さらのように無明を恥じた。が、それ以上に驚いたのは、その翻訳者のウィリアム・ティンダルがローマ・カトリック教会による異端審問で火刑に処せられたという事実だった。
なぜ英語に翻訳したことで死罪となるのか – それを知るために真剣な気持で読んだ。1回では物足りず、2度、3度と読んだ。
そして結局、英国のバラ戦争と英国国教会の成立、さらにはヨーロッパの宗教改革と農民戦争が絡んだ、激しい動乱が終息へ向かう夜明け前の出来事で、時代を隔てて「読む」だけでは理解できない要素があることに気づいた。2度、3度と読まねばならない事情があったということである。
その事情には必ずキリスト教が絡んでいるというのも、その特有の事情のひとつである。そして、本書を翻訳してつぶさに知ったことは、キリスト教がいかに歪んだ歴史をたどってきているかということだった。
その歪みの発端がコンスタンティヌス大帝がキリスト教をローマの国教とするために開いた、第1回ニケーア会議にさかのぼることは最早や常識である。(詳細については、前著『シルバーバーチに最敬礼』に収録した「西暦325年のキリスト教総会『第1回ニケーア公会議』の真相」を参照)
西暦325年のことで、足掛け4か月にも及んだ会議において、イエスの他界直後に記されたという聖書の原典 – イエスにじかに接し「不思議としるし」を目の当たりにした者たちによる、ごく簡単な寄せ書きのようなもの – に大幅な改竄(かいざん)が施され、さらにその聖書とは別に「ドグマ」を呼ばれる独断的教義がこしらえられて、いわゆる「上部構造 Superstructure」が構築され、それが1世紀以上にもわたって絶対的支配を続けることになる。
「三位一体説」「天国地獄説」「贖罪説」「処女懐胎説」等々は新約聖書のどこにも出てこない。英国の知性を代表するジョン・スチュアート・ミル J. S. Mill は、古典的名著『自由論 On Liberty』の中でこう慨嘆している。
キリスト教を容認した最初のローマ皇帝がマルクス・アウレリウスでなくコンスタンティヌスだったことは、世界のあらゆる歴史の中でも最大の悲劇のひとつであろう。
もしもそれがコンスタンティヌスの治世下でなくマルクス・アウレリウスの治世下であったなら、世界のキリスト教はどれほど違ったものとなっていただろうかと思うと、胸の痛む思いがする。
当時、そうしたドグマは新旧両聖書と同じくギリシャ語とヘブライ語で書かれていて、それがのちにラテン語に訳されている。従って、教会での礼拝も儀式典礼もドグマの引用も主としてギリシャ語とラテン語で行なわれていた。
困ったことに、英国の聖職者はラテン語やギリシャ語を学んだ者は極めて少なかったから、結局聖書の内容が分かっていない牧師によって形式だけの礼拝を行なっていたことになる。
語学の天才だったティンダルがラテン語とギリシャ語をマスターしてから不審に思ったのは、教会で説かれている教義が原典の新約聖書に出ていないという事実だった。
英国の教会に通う善男善女は英語以外は一切理解できない商人や農民だったから、わけが分からないまま、ただ有り難い気持になって帰宅するだけだった。
これではいけないと思ったティンダルはぜひとも一般庶民、とくに自分が親しくしている農民にも新約聖書を読ませてあげたいという願望を抱くようになった。
しかし、1000年以上にもわたって続いた既得権力による「知らしむべからず由(よ)らしむべし」の支配体制に安住してきた為政者側はそれを面白く思うはずはなく、それを阻止すべく、総力を挙げてティンダルの逮捕を画策する。
危険を感じて英国から脱出したティンダルは、ルーテルを中心とする宗教改革運動による混乱に紛れて10年あまりをヨーロッパで逃避行を続けながら、新約と旧約聖書の翻訳に執念を燃やす。そしてその間にヘブライ語もマスターしている。
本書は、その10年あまりのティンダルの足跡を追いながら、最後に英国とヨーロッパのローマ・カトリック派がもくろんだ巧みな罠にはまって逮捕され、異端審問に掛けられ、1年半の獄中生活の末に火刑に処せられるまでを綴ったものである。
中世ヨーロッパの暗い陰謀の渦巻く世相の中にあって、愚直なまでに真摯で、イエスの教えを体しながら同胞への善意のみに生きたウィリアム・ティンダルの壮絶な生きざまは、キリスト教の真髄を会得した人間の信仰の凄さを寡黙な中に見せつけていると私は受け止めている。
もっとも本書は、私のようにキリスト教と聖書に深く関わってきた者には興味津々(しんしん)であっても、普通一般の人々、とくに日本人には 〈 あきれる 〉 以外に大した反応は期待できないので、本書の参考文献としては、訳者の一存で思い切って枝葉を削除して、要所のみをまとめておくことにした。
なお、原書は2000年に米国の Barbour Publishing Inc., Uhrichsville, Ohio から刊行されたものである。
序章 ティンダルが生をうけた時代
ティンダルが生をうけたころの英国は、戦争に次ぐ戦争で人心は荒廃しきっていた。宗教と政治が絡んで戦争と迫害が幾世紀にもわたって頻発し、このまま果てしなく続くかに思えた。
英国史に有名な「バラ戦争」もそのひとつで、ティンダル家が英国南西部のグロスターシャー(次頁の英国州区分図参照)に移り住むようになったのも、多分、その戦争の影響ではないかと思われる。1400年代後半のことだった。
1455年から30年間にわたって続いた「バラ戦争」は英国の王位を我がものにしようとするランカスター家とヨーク家の確執であり、ヨーク家が白バラ、ランカスター家が赤バラをシンボルとしていたことから「バラ」の名が冠せれるようになった。
戦場はその呼び名とは裏腹に血を血で洗うむごたらしいもので、捕らえた敵兵への仕打ちは残虐を極め、逃げ場のない貴族階級や上流階級の者は容赦なく虐殺された。
しかし、平民の多くは危険を察知すると家族連れで逃亡し、姓を変えてどこかの土地に移り住んだ。そこがどっちの王室の支配下にあるかなどはどうでもよかった。ティンダル家もそのひとつだったらしく、グロスターシャーに移り住んでからはハッチンス Hutchins またはヒッチンス Hytchyns と名乗った。
後のウィリアム・ティンダル、当時のウィリアム・ヒッチンスがこの世に生をうけたころの英国は、比較的平和を取り戻した時代だった。
バラ戦争は1485年にランカスター家のヘンリー・チューダー Henry Tudor がヘンリー7世として王位についたことで、一応の終息をみた。しかも、翌年にはそのヘンリー7世がヨーク家の故エドワード4世の息女エリザベスを王妃として迎えた。
両家の婚姻によって30年に及ぶ戦争にひとまず終止符が打たれた。確かに戦闘行為は見られなくなった。しかし庶民は、いつまた戦争になるかも知れないという不安を拭い切れなかった。ティンダル家がその後30年間にわたってヒッチンスと名乗り続けた理由のひとつがそれだった。
ティンダルの幼少時代は経済的にはまずまず恵まれていて、身の危険性も、当時のどの一般家庭とも同じく、まず不安はなかった。唯一の恐怖は病気だった。
衛生状態は今日に比べると信じられないほど悪く、道路や裏通りは動物の糞だらけ。そこへ各家庭の窓からゴミが放り投げられ、それが腐敗して悪臭を放つ。それに昆虫やネズミがたかって、ますます不潔になる。
今日では信じられないことだが、当時は入浴すると肌から病原菌が入るのではないかと恐れられ、なるべく入らないようにしていた。寝具を取り替えることもなく、フロアに敷かれたイグサも年じゅう敷かれたままだった。
そんな衛生状態だったから、1300年代に猛威をふるった疫病(ペスト)は英国の人口の3分の1から2分の1に近い命を奪った。1400年代の後半には失われた人口のほとんどを回復していたが、衛生状態は相変わらずだったために、いつまた疫病に襲われてもおかしくはなかった。
ティンダルの家族については詳しくは分かっていない。遺されている記録から推察して、ティンダルが生まれたのは1492年であろうということになっているが、正確な年月日は分かっていない。
父親は自作農だった。当時の厳しい階級制度の中で貴族に準ずる Gentry という階級のその下に位置し、大きくはないにしても自分の農地を所有し、食べていくには困らない生活が出来ていたと信じられている。
またティンダルには少なくともふたりの兄弟 Edward と John がいたことは確かだが、それ以外にもかなりの数の兄弟姉妹がいたと信じられている。というのも、当時は病気や事故による子供の死亡率が異常に高い上に、激しい肉体労働で早死にする者が多かったので、子供をなるべく多く産んでおく必要があったのである。
当時の英国人の主食はパンとチーズで、ティンダル家でも同じだった。違いがあるとすれば、それは量ではなく質で、パンの場合だとライ麦と小麦粉で出来ている点は同じでも、その砕き具合と精白度に差があり、白いパンを食したのは貴族だけだった。
野菜と果物は種類も量も豊富だったようである。豆類、にんじん、たまねぎ、リンゴ、プラム、サクランボなど。鶏や豚、牛なども大抵の家庭で飼っていたようで、風習として金曜日には干し魚を食べていた。
ティンダルという姓の家はグロスターシャーに何軒もあり、みな裕福で影響力も大きかったことが記録から推察される。大きな商売をしている者もいればロンドンの政界とつながりを持つ者もいたようである。
ウィリアム・ティンダルの家は当時にぎわいを見せていたブリストル港から30キロばかりのところにあり、セバン川が流れる低地に位置していたために農業にも牧畜にも商売にも適していて、羊の飼育からウールの製造まで行なっていたほどである。
英国の中心地域とウェールズからの通商ルートがセバン川流域を経てブリストルへと至る。そこから大型船で英国の他の地域やアイルランド、ヨーロッパの西海岸、さらにその先までもつながっていた。
ブリストルに人々が集まるのは商売ばかりが目的ではなかった。ここはローマ最盛期の時代から温泉が多く、鉱物を含んだいわゆる鉱泉が病気に利くということで、湯治客も少なくなかった。もちろんカネとヒマを持て余した者たちもいたことであろう。
幼い頃のティンダルは教育環境には恵まれていたようである。近くに1384年に設立されたグラマースクールがあり、英国でたったふたつしかなかったオックスフォード大学とケンブリッジ大学へ進学するための教育を受けることが出来た。
さらに外国語の才能に恵まれている生徒は校長から特別の指導を受けることも出来た。ティンダルも多分そのひとりであったろうことは、その後の語学の天才ぶりから想像に難くない。
グラマースクールではラテン語をとくに重要視した。指名されて起立して英語に訳すだけでなく、自分で詩や散文をラテン語で書くことまで出来なければならなかった。
当時の英国ではまだラテン語の書類が日常茶飯事に用いられていたので、聖職者や外交官、弁護士、役人、医者、会計士、書記などになるためにはラテン語の素養が不可欠だったのである。生徒たちは厳しい学習を強いられ、怠けたり規律を破ったりした生徒は鞭打ちの罰をうけた。
といって、勉強ばかりしていれば良いわけではなかった。家に帰れば畑の仕事が待っていた。市場への買出しについて行かされることもあった。そうした賑やかな通りでウィリアムがしばしば目にしたのは、罪人が公衆の面前で処罰される風景だった。
当時の英国の処罰の特徴は、公衆の面前で行なわれることと体罰が多いことだった。いちばん多い犯罪は盗みと強盗で、3分の2から4分の3を占めていたという。ただ信じられないのは、盗んだのがある一定額以上だと、殺人罪と同じ絞首刑に処せられ、それも公衆の面前で行なわれたことである。
一定額以下の場合は、柱に結びつけられてムチで打たれるか、馬車につながれて町じゅうを引き回され、その間、誰でもムチで打つことを許された。最後にはシャツがずたずたに裂けて、上半身がはだけてしまうことは珍しくなかったらしい。
さらに信じられないのは、口汚くののしったり根も葉もない噂を流した者(ほとんどが女性)は「猿ぐつわ」の刑に処せられたことである。
頭から器具をすっぽり被せられ、薄い鉄板を口に入れられて、舌を押さえつけられた。その状態で役人が鎖でつないで市中を引き回し、群集は好き放題の悪口雑言を浴びせることを許されたという。
当時の処罰の道具でもっとも多く用いられたのは「さらし台」だった。小銭(こぜに)を盗んだ者、パンの重量をごまかした者、腐りかけの肉を売った者、姦淫を犯した者、安い金属を黄金と偽って売った者、名誉毀損罪を犯した者などが、両手と首を穴から出したまま群衆にさらされる刑だった。
同じ「さらし台」でも両足首から先だけを出す刑もあった。これは前後不覚に酔っ払った者のような、いわば「だらしないことをしでかした者」への処罰で、時には裁判が始まるまで繋いでおくためにも用いられた。
もちろん当時の英国がこうした残酷なことばかりだったと想像するのは間違いである。愉快で楽しい催しも多かった。とくにグロスターシャーはブリストル港を中心とする交易の中心地であったことから、大規模な見本市やお祭りが催されることが多かった。
愉快で楽しい時期といえば今と同じくクリスマスとイースターで、ゲームや衣装パーティ、音楽会、芝居等々、ふだん教会では行なわれない種類のイベントが催された。
当時はギルド(同業組合)が組織されていて、織物職人、靴直し職人、鍛冶屋などが、労働組合とクラブと宗教団体を組み合わせたような組織を形成していたが、それらが独自のイベントを催していた。
ゲームは年じゅう何かが催されていた。子供の遊びといえば鬼ごっこ、目隠し遊び、おはじき、石けりなどで、中でも大勢の見物客を集めたのは、大人と子供が一緒になって競う、かけっこだった。
男女混合で同じ数のチームをいくつか結成し、各チームでいちばん幼い子をおんぶして競争し、折り返し点を回って帰って来ると、次の者が同じ子をおんぶして走る。
おんぶされた子がずり落ちて足が地面に着いたら、スタート地点に戻ってもう1度走り直さなければならない。全員が走り終えて最初にスタート地点に戻ったチームが優勝だった。
音楽の演奏やダンスも盛んだった。これには教会音楽や民間伝承の曲がよく演奏された。楽器は高価なものが多いので、大抵は裕福な家庭の者が出演した。もっともフルートは平均的な家庭の者でも持っていたようである。
こうした商業や娯楽が盛んな交通の要衝には、当然のことながら英国の他の地域や海外の出来事のニュースも頻繁にもたらされた。1494年のコロンブスによる新大陸発見のニュースは海運業にたずさわる者たちからもたらされ、揣摩臆測(しまおくそく)も手伝って、大変な話題となった。
続いて1500年までには別の隊が今の南アメリカの沿岸に沿って探検して、アマゾン川を発見したというニュースがもたらされた。さらにジョン・カボットがブリストル港から出発してニューファンドランドへ向かい、ラブラドール(カナダ)からデラウェア(アメリカ)までの沿岸を探検したとのニュースが入ったのもその頃だった。
英国の王位後継者だったアーサー王子の死の知らせがもたらされたのは1502年のことであるが、その時ティンダルは8歳だったと推察されている。その翌年にはヨークの女王エリザベスの死のニュースがもたらされた。
イングランド王ヘンリー7世との結婚がともかくも「バラ戦争」に休止をもたらしただけに、英国民の期待はアーサー王子の弟ヘンリー王子に注がれることになった。
父親のヘンリー7世がいつ亡くなっても、このヘンリー王子が無事王位を継承しないかぎり、内戦の終止符が打たれたという安心感は得られないというのが、当時の英国民の偽らざる気持だった。
第1章 当時の庶民の信仰
イギリスの国際港のブリストルは、そうした世界のニュースをもたらすと同時に、英語のほかにラテン語、フランス語、ドイツ語、さらにはスペイン語まで持ち込むことになった。ティンダルはのちに8ヵ国語が駆使できたというから、その素地は幼い頃のそうした国際的な環境の中で育まれていたものと思われる。
セバーン渓谷を通り抜ける旅行者の中には、イングランドやウェールズ一帯に多く存在した礼拝所の巡礼者も少なくなかった。巡礼者というと聞こえは良いが、その動機はさまざまだった。
神の愛の証(あかし)を求める純粋素朴な信仰心に動かされた者もいたが、病気の奇跡的治癒を求める者、不思議な体験を求める者、犯した罪を懺悔して回る者、単なる見栄や好奇心、立派なことに参加しているような気分に動かされている者もいた。
それはともかくとして、巡礼者には危険が付きまとっていた。いちばんの危険は伝染病だった。聖人の記念日や祝日には大変な人出になるので、人込みにもまれているうちに簡単に病気がうつる。はしか、百日咳、天然痘、肺炎、その他うっかりすると命にかかわる大病が大流行することがしばしばだった。
もうひとつの危険は、そうした疑うことを知らないタイプの人間を狙う悪党の存在だった。窃盗は言わずもがなで、なるべくグループで行動するように注意し合った。が、盗まれなくても、いかがわしい物売りに騙されて散財する者がいくらもいた。
聖人が身にまとっていた衣服の切れ端だとか骨だとかだとか聞かされて買ってしまう。中にはイエスのものだと宣伝する者もいたらしい。それを身に付けていれば病気が治るとか奇跡が起きるとか幸運を呼ぶとかの宣伝文句を素直に信じ、高価であるほど買いたくなる心理をうまく利用されて、つい買ってしまう。
よく名前の出る聖人でティンダルに比較的近い時代の人といえば、1170年にカンタベリー大聖堂で暗殺された聖トーマス・ベケットで、その遺骨が聖堂のどこかに安置されていることは間違いない事実であろう。
が、そのことと、売りに出されている遺品や遺骨が本物かどうかはまったく次元の違う話である。そうした巡礼者にまつわる話をテーマにしたのが、1300年末に書かれたチョーサーの『カンタベリー物語』[訳注(1)]である。
この物語に出てくるもっとも邪悪な人物は「免罪符売り」で、大きな罪を告白した者ほど高いカネを取って免罪符を売る。傑作なのは、マリアのヴェールでこしらえたという枕カバー、ペテロの漁船の帆だという布の切れ端、聖人の胸の骨だといいながら、実際は豚の骨でこしらえた品物なども売りつけていたことで、本当にその男が大事にしていたのは、騙して稼いだカネを入れる布袋だった。
こうした事態は英国に限ったことではなく、しかも、キリスト教が国教とされたローマ時代からあったようである。その事実を聖職者も「困ったこと」として、いろいろと批判している。
例えば聖アウグスティヌス[訳注2]は四〇1年に「聖人の模造品について」と題する一文を書き、「我々のもっとも狡猾な敵」である悪魔が、先輩の尊き御名を汚している行為を指摘して、「こうして悪魔は僧侶の衣服を着た偽善者を至るところに送り込んでいる」と述べている。
アウグスティヌスはさらに、そうした偽善者が全教区を回りながら殉教者の骨と称して売り歩き、疑うことを知らない善良な人々からカネをせしめている事実、およびそうしてことがキリスト教の説くところに背反することを力説し、その事実が一般に知れるごとに神の御業(みわざ)はもとより聖職者の品位が汚され「聖職という名のもとに、そなた達の聖なる信仰が冒涜されている」と結んでいる。
[訳注(1)] The Canterbury Tales by Geoffrey Chaucer : 未完の長編詩で、巡礼者のひとりひとりが1話ずつ語る内容になっている。
[訳注(2)] Saint Augustine : 4~5世紀の神学者で哲学者。キリスト教界最高の聖人のひとり。
同じ警告を発したのはオランダの学者エラスムス[訳注(3)]である。16世紀にヨーロッパで始まった宗教改革運動の先駆者であるエラスムスは、ティンダルより25歳から30歳ばかり年上だった。彼の手になる新約聖書のギリシャ語翻訳版は各所に傍注が施されていることで有名である。
そのひとつに、マタイ伝 23 : 25 の、イエスが律法学者とパリサイ人を厳しく諌める場面の余白にこう書き込んでいる。
[イエスの聖なる身体の一部だとか、マグダラのマリアがイエスの足を清めたオイルだとか、イエスが架けられた十字架の一部などと一緒に、聖母マリアの乳までが賽銭目当てに見せ物の台に載せられ、全部集めたら大きな舟一そう分にもなるかと思えるほどだが、もしもその現場をヒエロニムス[訳注(4)]が見たら何と言うだろうか。
アッシジの聖フランチェスコの僧衣のフードもあれば、聖母マリアのペティコートもある。聖アンナ(マリアの母)の櫛、カンタベリの聖トーマスの靴などなど。敬虔な宗教心などカケラもない。宗教を商売にした「物」ばかりだ]
[訳注(3)] Desiderius Erasmus : 16世紀の神学者。文芸復興の先導者。
[訳注(4)] Saint Hieronymus : 4~5世紀の修道士。宗教学者でもあり、新約聖書のラテン語訳「ウルガタ聖書 the Latin Vulgate」の完成者。別名ジェローム Jerome。
グロスターシャーで育ったティンダルがこうした問題を耳にしなかったはずはない。グロスターシャーこそ、そうした宗教心を餌とする商売人が100年以上にわたって跋扈(ばっこ)した、まさにその中心地で、14世紀中頃にウィクリフ[訳注(5)]が教会内部の改革に乗り出した。
彼はまず「化体説(かたいせつ)」に疑問を投げかけた。つまりパンとブドウ酒をイエスの肉と血に変化させるという聖餐の儀式はまやかしであると主張した。さらに彼は聖書の解釈に疑問を投げかけ、原始キリスト教の伝統的な教えに重きを置くべきで、聖書から勝手にドグマをこしらえるべきでないと主張した。
その意味でも英国の一般人すべてが聖書を直接読めるようにすべきだという考えから、ウィクリフはオックスフォード大学で教鞭を取るかたわら、ラテン語聖書を英語に訳すことに最大限の努力をした。これにはのちにニコラス・ヘレフォード Nicolas Hereford とジョン・パーヴェイ John Purvey の参加を得ている。
教会にとってウィクリフの存在は脅威だった。折しも英国を始めヨーロッパでは「黒死病」と呼ばれるペストが大流行し、聖職者にも多くの死者が出て、教会はやむを得ず正式の資格を持たない者を牧師として雇った。
当然のことながら彼らはラテン語が理解できない。理解はできなくても、儀式に立ち会って読み上げることだけはする。政局は相変わらず不安定で、100年以上にわたって戦乱が続き、ローマカトリック教会も分裂してふたりの教皇ができ、互に自分こそが正当なリーダーであると言い張った。
教会は即国家であり、全てを牛耳り、ウィクリフも自由を束縛されて、講演に出歩くことが禁じられた。教鞭を取っていたオックスフォード大学で盛んだった神学論争も下火となり、ウィクリフは失意のうちに1384年に他界する。
[訳注(5)] John Wycliffe : 宗教学者で改革派の中心人物。新約聖書の英語訳の先鞭をつけた人。
ウィクリフの支持者たちも、哀れな死に際を迎える者が多かった。1401年、異端者を火刑に処することを正当化する法案が議会を通過し、ウィクリフの説に加担する者たちは、その説を撤回するか、さもなくば火刑に甘んじるかの、いずれかを選択することを強要された。
大半の者が説を撤回した。ウィクリフはすでに他界していたが、異端者の烙印を押されて、英国の最初の印刷業者であるウィリアム・カックストンが印刷機を備えた時は、ウィクリフによる英語訳の聖書の印刷は許されず、ついに日の目を見ることはなかった。
宗教界と政界に席を置く者の中でウィクリフの説に賛同する者は、ただ声を潜めるしかなかった。うっかりそれが知れると、例外なく死刑に処せられた。しかし、ウィクリフの説に賛同する者は英国じゅうに散在し、ティンダルのいるグロスターシャーも例外ではなかった。
ウィクリフの信奉者は「ロラード Lollards」と呼ばれていた。この呼び名は mumbler(もぐもぐ言う人)を意味する中世オランダ語の lollaert から来た用語で、1400年代には身を隠して生活しなければならなかったが、世紀が変わる頃には勢力を盛り返し始めた。
ティンダルも「ロラード」の存在を知っていたことであろう。が、ウィクリフと違って彼らには学問的な素養はあまりなかった。ただ、当時の教会で説かれていた教義とは明快に異なるウィクリフの教説を信じていたことは事実である。
彼らはローマカトリック教会で行なわれている聖職授任式は聖書に基づいたものではないこと、聖職制度もイエスが確立したものとは違うことを信じていた。
また聖職にある者は独身でなければならないという掟がむしろ聖職者の不倫の原因となっているとし、さらに、「化体説」は主イエスとの交わりよりも偶像崇拝へと導いていると信じた。
さらに彼らは、死者や巡礼者のための特別な祈りの必要性を否定し、司祭への罪の告白は魂の救済とはならないと説いた。その根拠となる聖書についての知識を一般庶民に知らせまいと、政界と教会の指導層が躍起になっている時に、ロラードたちは聖書を自分たちの言語、すなわち英語で読む権利を熱心に説いて回ったのだった。
そうした時勢の中で、並外れた言語力を持つ一青年が、福音書のメッセージをたずさえてより広い世界へ羽ばたきたいとの憧れに燃えたのも、決して偶然ではなかった。
第2章 オックスフォード大学設立事情
ティンダルがウィリアム・ヒッチンスの名で故郷を離れ、50マイルも離れたオックスフォードへ向かったのが正確に何年だったかは分かっていない。が、ティンダルの学歴がほぼ12歳から始まっていることは研究者の間で一致しているので、およそ1506年頃ということになる。
われわれ21世紀の人間には12歳という年齢はずいぶん幼い感じがするが、当時ではごく普通のことだった。当時のオックスフォード大学は、当然のことながらいろんな面で現在とは違っていた。
通うのは裕福な家の子か、才能を認められてパトロンに学費を出してもらっていた子であった。男子ばかりである。最初の2年間は予備校的なもので、何よりもラテン語の習得に費やされた。ティンダルは多分マグダレン校 Magdalen Hall で学んだであろうと推察されている。
マグダレン校の生活はきちんとしたカリキュラムが組まれていたが、学業のほかに食費や被服費、その他の生活必需品の購入費を稼ぐためにアルバイトをする時間も十分にあった。
両親やパトロンは学費を仕送りしてくれるだけで、生活必需品や、当時の筆記用具だった羽ペンやインク、用紙、照明用のローソクなどの購入費は自分で賄わねばならなかった。
Hall や College [訳注(1)]の生徒の大半がいつも空腹と寒さを我慢していた。衣服は擦り切れ、ボロ靴を履き、暇があればその姿で市街地へ出て物乞いをしていた。といって、それは決して哀れを誘うものではなく、市民も将来のエリートを育てる気持で温かく見守り、また本人たちも、これもオックスフォードで学ぶ者の勲章なのだという意気込みがあり、いわば当時の英国の風物詩のひとつだった。
ホールでの授業は早朝の6時に始まり9時まで続く。それからやっと朝食である。9時45分になると次の授業が始まり、11時に終わる。それから1時まで休憩時間で、その間に昼食を取る。1時に始まった午後の授業は5時まで続く。
こうした時間割の日が週に4日ないし5日あり、まるまる1日休みの日もあれば半日だけ休みの日もある。カレッジになると終日ラテン語をしゃべらないといけなくなるが、ホールでは休憩時間は英語を使用することが許された。
生徒の中にはオックスフォードの住民も少なくなかった。もちろんオックスフォードに家をもつ家庭もあったが、わざわざ借家を見つけて住み込む家庭もあった。授業は年間9ヶ月で、夏休みになるとティンダルはグロスターシャーの我が家に帰省して、農仕事に精を出したことであろう。
[訳注(1)] College という用語は現在では University との区別がなくなりつつあるが、当時は Hall と University の中間に位置し、現在の Public School に相当する存在だった。
パブリックスクールというと米国では公立校を意味するが、英国の場合は私立校である。これには英国特有の設立の歴史がある。学校制度ができる前は、身分の高い階層ではヨーロッパから家庭教師を雇って、その家だけの、つまりプライベート private な形での教育を受けていた。
そのうち教育熱が庶民の間にも広がって、自分の家の子供も一緒に教えていただけないものかとの要望が強くなり、やがて近隣の家庭の子も参加が許されるようになった、つまり private なものが public なものになった。
やがてそういうものが集められて Public School ができた。現在でも1クラスの生徒数が10人前後という少数制であるのは、そういう経緯からである。
College が Public School に相当することは、現在でも Dover College のように College を学校名に使用したパブリックスクールがあることからも知れる。
マグダレン・ホールはマグダレン・カレッジの予備校で、すでにその名は英国じゅうに知れ渡っていた。英国には同じようなカレッジがいくつかあり、それらを総合してオックスフォード・ユニバーシティが構成された。
カレッジの起源は1300年代にさかのぼり、その世紀の末にはユニバーシティといえる大学が出来ていた。その大学設立のいわれは明確でないが、1167年ごろにパリ大学 University of Paris が英国からの留学生が多いのに困って受け入れを拒否したことが最大の要因であるとの説が有力である。
いわれはどうであれ、オックスフォード大学がパリ大学を始めとする中世のヨーロッパの学校制度にならったものであることは事実である。学習科目は神学と法律と医学と人文科学に重点が置かれていた。
初期の教師の中には今日でもその名が知られている者が少なくない。自然科学者のベーコン Roger Bacon もそのひとりで、1247年から1257年にかけて在職し、歴史に残る実験を行なっている。
同じ世紀の末には、スコットランドの神学者で、イタリアのスコラ哲学の神学者トーマス・アクィナス Thomas Aquinas と論争したことで有名な、ダンズ・スコタス John Duns Scotus が教えている。
そのスコタスの教え子のオッカム William of Ockham はやがて哲学上でスコタスのライバルとなっているし、同世紀の中頃から末期にかけて例のジョン・ウィクリフがオックスフォードで教鞭を取り博士号も取得している。
そうした話題も手伝って、オックスフォード大学は1400年代には宗教思想でヨーロッパでも主導的な地位を確立していた。神学部はいくつかの修道会、とくにドミニコ修道会とフランシスコ修道会がオックスフォード市内に拠点を置くようになってから大きな存在意義をもつようになった。
マグダレン・ホールとマグダレン・カレッジが設立されたのもその頃で、ウィンチェスター市の司祭ウェインフリート William of Waynflete の先見の明の産物だった。その経緯はこうである。
1441年、国王ヘンリー6世はウィンチェスターへ行幸した際にウェインフリート司祭の人物に感服し、国王が設立したばかりのイートン校の学長に任命した。
そして、丸2年後にはイートン市にかかわる一切のことを委任され、その地位を利用して教会と国家の双方に権力を行使できるようになった。頻繁にヘンリー国王のもとを訪れてイートンの事情を報告し、国王の結婚式にも招かれた。
1447年には国王が教皇に、次のウィンチェスター司祭はウェインフリートにするように進言し、九年後には国王みずからウェインフリートを大法官[訳注(2)]という、当時としては英国で2番目の権力者の地位に任命した。
時間は地かねてから教育の重要性を痛感していたウェインフリートは、国王に Hall と College の設立のための土地を提供して欲しいと申し出た。国王はすぐさま同意してくれた。
ウェインフリートはまず Hall を設立し、続いて壮大な構想のもとにカレッジの設立に取り掛かった。そこへ折悪しく、当時くすぶっていたバラ戦争が再燃して国王に不利な展開を見せ始めた。
その影響はてきめんで、ウェインフリートは教会内での地位を失うまでには至らなかったが、教会の基金を大学設立のために使用することが出来なくなった。為すすべもなく7年の歳月が流れた。
そのころから戦況が変わって国王の威信が回復し、カレッジ設立の仕事も再開され、どうにか校舎設立が進められたが、当初描いていた雄大な構想は実現できなかった。
それでも、宣伝が効を奏して1480年までにはマグダレン校の就学率100%が達成され、イートン校とともにウェインフリートの功績が高く評価され、新時代の教育改革者として称賛された。彼は当時ヨーロッパ大陸で盛んだったルネッサンスから生み出される新しい教育理念を取り入れるのに熱心だった。
オックスフォードではラテン語を英語で教えるだけでなくギリシャ語も教えることにした。ギリシャ語は中世のヨーロッパ、とくに西ヨーロッパの大半の地域で無視されていたのである。
[訳注(2)] Lord Chancellor または Chancellor of England : 大法官。上院議長を兼ねた最高司法官。
彼の改革は教育内容だけではなかった。オックスフォード大学を構成する他のカレッジでは、基礎コースを教えている卒業したばかりの教師の給料が惨めなほど低く、全体として教育の質も低いことが分かった。
オックスフォードとケンブリッジの両大学を視察したオランダの学者エラスムスは、英国の教師を「みんな粗末な服を着て、うだつが上がらず、中には神経がおかしいのではないかと思われる者もいる」と評したほどだった。
ウェインフリートはこれを改めて新米教師にも適切な給料を与え、カレッジの教育の質も、とくに主要科目を重点として、大幅に向上させた。が、そうしたルネッサンス的教育改革の急先鋒だったウェインフリートが1486年に没した。
するとマグダレン・カレッジの改革熱も急速に冷め、20年後、すなわちティンダルがオックスフォードへ出てきたと推察される年には、国から支給される奨学金が、とくにギリシャ語とヘブライ語の学部で、ヨーロッパの他のどの大学よりも少なくなりつつあった。
もともと英国ではドイツやイタリアなどの学者が唱道するギリシャ文学の重要性の認識が遅れていた。伝統を重んじる学者が多くいて、ルネッサンス運動の流れに乗って入ってくる新しい知識を取り入れることに反対していた。
中世時代に確立されたカリキュラムに固執し、ギリシャ語を教えることは非キリスト教的思想に触れさせ、それが伝統的キリスト教の教義に疑義を抱かせることにつながることを恐れたのである。
もともとオックスフォードは、ヨーロッパ大陸で芽生え始めていた急進的な宗教についての考え方、例えば聖書を一般庶民にも自国語で読めるようにすべきだという考えには、あまり積極的でなかった。
ウィクリフがラテン語聖書を英語に翻訳して以来、宗教界では個人的宗教観を排除できずにいたが、教会の指導者層には何とかしようとする機運が根強くあった。
例えば1408年のオックスフォード聖職会議 Oxford Convocation では、聖書の翻訳は英国カトリック教会の司教の許可なしに行なってはならないという禁止令を議決している。
これはウィクリフの英語訳やロラードたちの説が秘密裏に広まることを阻止する上では効力はなかったが、権威ある公式の英語訳を出版するための学問的な作業を始めることは難しくなった。
もっとも、ティンダルがオックスフォードへやって来た頃の教師は守旧派ばかりだったわけではない。例えば、のちに学長となるクレイモンド John Claymond は、ティンダルの生涯に決定的な影響を及ぼしたオランダの改革派の急先鋒エラスムスと親交があり、しかもすでに亡くなっていたとは言え、創立者ウェインフリートの影響力もまだマグダレンには残っていた。
ティンダルがそのウェインフリートの知的遺産の影響を最初に受けたのはラテン語の学習においてであった。マグダレンではラテン語の丸暗記ばかりという学習をさせず、キケロ[訳注(3)]、ホラティウス[訳注(3)]、オヴィディウス[訳注(3)]といったラテン語の文学作品を英語を通して学ばせていた。
こうしてティンダルは、一方では当時の少年としては格別に恵まれた教育環境に身を置きながら、他方では相変わらず、帰省すると農業の手伝いに精を出し、また階層に分け隔てなく、庶民との接触があった。このことが、その後のティンダルの思想形成に大きな意味をもつことになる。
マグダレン・カレッジの発展は目覚ましかった。ティンダルがホールとカレッジに通っていた時分に有名なマグダレン・タワーの建立が着工され、そして竣工された。着工に至るまでに10年あまりの年月をかけて設計と資金の準備を進めたという。
出来上がったタワーは高さ144フィート、豪華な彫刻がほどこされ、(複数の)小尖塔のニッチ(壁面のくぼみ)には洗礼者ヨハネとマグダラのマリアの彫像が飾られた。「マグダレン」は「マグダラのマリア」のことである。
完成時には旧校舎にも修復が加えられ、バトレス[訳注(4)]の内部には彫像が置かれ、会堂の内壁はパネル画で飾られた。熟練の職人と日雇い労働者が何年もの歳月をかけて仕上げたものだった。
ティンダルがマグダレン・ホールからマグダレン・カレッジへと進学したのは、たぶん1508年の秋だったとされている。いよいよ文学士号[訳注(5)]の取得へ向けての学習が始まったわけである。当時の学生は授業に使用するテキストを自分で購入することは強制されなかった。
1476年にカックストンが印刷機を輸入し、2年後にはオックスフォード市内にも印刷屋が出来たが、オックスフォード大学はまだ印刷所を備えるには至っていなかった。高価である上に需要も予測がつかず、市内の印刷屋も出来ては消えて行くことを繰り返していた。
[訳注(3)] Cicero, Horace, Ovid : いずれも紀元前末期のローマの人物。キケロは雄弁家として、ホラティウスとオヴィディウスは詩人として、その名を遺している。
[訳注(4)] buttress : 建物の壁を外側から支持する構造で、石やレンガを用いる。
[訳注(5)] Bachelor of Arts degree(B.A.): Bachelor の上が Master(修士)、その上が Doctor(博士)。
当時の書物は大半がヨーロッパから輸入されていた。学生は貴重な本は図書館でコピーし、授業中は教師が読み上げるのを書き取ることに終始した。当時は図書館から持ち出すことは禁じられていた、というより、現代のように自由に誰にも貸し出しが許される図書館の観念は、まだ芽生えていなかったのである。
また、蔵書のほとんどはラテン語で書かれており、ティンダルの時代から100年後でさえ、6000冊の蔵書のうち、英語で書かれた書物はわずかに60冊しかなかったほどである。
学生生活のスケジュールはたぶんホール時代と大して変わらなかったのではなかろうか。ただ、カリキュラム(履修教科)にはグラマー(文法)、数学、地理、天文学、音楽理論、レトリック(文章表現法)、論理学、哲学などが含まれていたが、意味深長なのは、修士号を取得するまで(大学を卒業するまで)、神学が教科の中に入っていなかったことである。
授業でラテン語やギリシャ語の詩歌が朗読されるのを聞くという体験は、ティンダルの内部に宿されていた言語感覚を刺激したことであろう。それはさらに強制実習として出席させられていた教会での儀式を見ることで増幅されていったことであろう。
マグダレン・カレッジは創立当初から音楽の重要性を教えることに力点を置いてきており、現在でも聖歌隊のレベルの高さは有名である。
オックスフォード時代はまた、ティンダルが当時の英国の政治情勢への関心を増した時代でもある。政治の中心地のロンドンからわずか50マイルしか離れていないという立地条件から、オックスフォード大学は早くから実業界と政界と宗教界とのつながりが出来ていた。
それだけに、1509年、たぶんティンダルがマグダレン・カレッジの1年次に在籍していた年に、国王ヘンリー7世が他界し18歳の次男(長男はすでに他界)がヘンリー8世として王位についたという政変は、すぐさまオックスフォードに大きな影響を及ぼした。
それにはふたつの理由があった。ひとつは、若き国王がすでに教会での行事に関して、オックスフォード大学の教会で徹底した教育を受けていたこと。トマス・モア[訳注(6)]もヘンリー8世は「それまでのいかなる英国王にも見られなかった教養を身につけている」と述べているほどで、大学の教師たちは王が自分たちに好意的な理解を見せてくれるものと期待したのも無理はなかった。
ふたつ目の理由は、新国王が側近の助言者として、マグダレン校の学長だった人物で、たぶん同校の卒業生だったと思われるトマス・ウルジー[訳注(7)]を指名したことだった。同窓の者たちがそのことを何かにつけて有利なことと受け止めたのも無理はなかった。
実はもうひとつ、オックスフォードの改革派の教師たちを喜ばせた理由があった。ルネッサンス運動を容認することを新国王が明らかにしたからである。守旧派は国王の意思にあからさまに反する言動が出来なくなった。
そうした事実を見たり聞いたりしているうちにティンダルは、大学でも政界でも宗教界でも、人それぞれに自分の権力基盤を強化するチャンスと見ていること、その一方ではそれを自分の地位にとっての脅威であり、それまでに築いてきた権力基盤を危うくする動きと見なす者もいることが分かってきた。
[訳注(6)] Sir Thomas More(1478~1535): 英国の政治家・人文学者。ラテン語で書かれた人文科学小説Utopiaの作者で、その中に出てくる理想の国が「ユートピア」と呼ばれていて、そこから理想郷のことをそう呼ぶようになった。
[訳注(7)] Thomas Wolsey(?~1530):枢機卿(すうきけい)(ローマ教皇の最高顧問)のひとりで政治家。のちにヘンリー8世の、アン・ブーリンをめぐる離婚問題で失脚する。
確かに、34歳のウルジーは権力基盤を急速に拡張しつつあった。ウルジーの目には、ヘンリー7世は英国をかつてなかったほど安全で安定した国にしたことは間違いないが、フランスやスペインがその気になれば、新国王の8世を食い物にすることくらい、赤子の手をひねるようなものであることは明らかだった。そこでウルジーはまずは自分と国王の安泰を図ろうと考えた。
即位して6週間後にヘンリー8世は長男の未亡人であるアラゴン(スペイン)のキャサリンを王妃として迎えた。これはウルジーの助言によるもので、政略婚の要素がたぶんにあったが、スペインとの関係が強化されたことは間違いなかった。
フランスとスペインの争いでは迷わずスペインの側に加担した。1512年、ティンダルがマグダレン・カレッジの文学士号を取得した年に、ウルジーの助言でヘンリー8世は教皇のユリウス2世とスペインの王フェルディナント[訳注(8)]に加勢する目的でフランスへ進軍した。
何としてもフランスの勢いを封じたかった。が、英国の兵力はフランスの敵ではなく、約束されていたスペインからの援軍もついに送られてこなかった。1512年の戦いは英国の惨敗に終わった。
朝から醸それはウルジーの惨敗を意味した。非難が沸き起こり、それを打ち消すべくウルジーは翌年、再びフランスに宣戦を布告した。ヘンリー8世は大軍を率いて英国海峡を渡り、ふたつの戦闘に打ち勝ち、もともと英国領だったフランスの北西部を奪回した。
が、そうしているうちにスコットランドのジェームズ4世が4000人の兵を率いて、イングランドとの国境を越えて進軍してきた。フランスに進軍している英国軍を引き上げさせるためだった。
が、若き国王に忠実なサレー(ドーバー海峡に面した州)の伯爵が軍隊を総動員してこれを迎え撃ち、12000人の兵士とともにスコットランド王も命を落とした。
[訳注(8)] Ferdinand 5世(1492~1516): スペイン王国を創建。コロンブスの新大陸発見を資金援助したことでも有名。
フランスに遠征中の若きヘンリー王はふたつの戦闘に勝利し、冬も近づいてきたので母国へ帰りたかった。テント暮らしは、いくら内装に贅を尽くしても居心地が良くないし、何といっても、寒い。国境で生じる小競り合いもいい加減イヤになってきた。そこでウルジーにフランスと和平協定を結ぶように命じた。
野心家のウルジーはフランスのルイ7世を説得してヘンリーの妹メアリと結婚させた。そしてさらに、英国がヨーロッパにおける覇権争いで中立を守ることを条件に、毎年ヘンリーに膨大な額の金を支払うとの契約をさせた。
一方、イタリアの教皇レオ10世はヘンリーの勲功を祝して、1514年にウルジーをヨーク大主教に任命し、翌年には枢機卿に任命している。またヘンリーもウルジーを大法官に任命した。かくしてウルジーは英国の政治および宗教の頂点を極めたのだった。
さて話をオックスフォードに戻して、そうした一連の事件はティンダルの耳にも入っていたことであろう。フランスとの戦争中で英国の物価が高騰し、学生は用紙やペン、インクなどを買いだめするために以前にましてアルバイトに精を出し、無駄遣いをしないように財布の紐を締めなければならなかった。
が、ティンダルの学習は順調に進み、1512年にマグダレン・カレッジを卒業している。これはオックスフォード大学の卒業者名簿に記載されており、ティンダルに関して残されている最初の記録である。
同じ年の夏、エラスムスがケンブリッジ大学で教鞭を執りながら新約聖書のギリシャ語訳を進めていた。その一方でエラスムスは言語による表現法を細かく説いた De Copia というタイトルの書物を出した。例えば「手紙が届いたことを嬉しく思う」という内容を150種類もの文章で表現してみせて、注釈を施している。
この本は教育関係者の間で大変な評判で、その後6年間で150版を重ねた。ティンダルがこの本を読んだかどうかを知る手掛かりはないが、ティンダルほどの勉強家がこの本の存在をまったく知らなかったはずはない。その後の翻訳の仕事の基本原則はその本から学んだに相違ない。
ティンダルはカレッジを卒業した同じ年の秋(新学期)に、同じカレッジで教鞭を取ったようで、アリストテレス哲学を講義したものと思われる。そして翌年の秋から、修士号取得へ向けての勉学を始めた。これには大変な費用が必要だった。
教会や政府や教育に関連した仕事に要する知識を得るための参考書はすべて自分で賄わねばならなかったのである。これは、たぶん、初めて教鞭を取ったカレッジでの3年間の給料で賄えたはずである。
その教師時代に聖職者としての資格を与えられている。1514年のことだった。これで英国じゅうのどの教会でも司牧することが許されたことになり、同じ資格を得た同時代の仲間の多くが司教として登録したが、ティンダルにはその意志はまったくなかった。
1515年の7月にティンダルは念願の修士号を取得した。21歳の年だったと推測される。たぶん彼はそのままオックスフォードに留まって神学の勉強に励んだものと思われる。姓を Hytchins から元の Tyndale に戻したのはこの頃である。
エラスムスによるギリシャ語新約聖書が発行になったのは、その翌年のことである。これは画期的な出来事だった。
エラスムスはもともとギリシャ語の教授で、他の学者の大半がラテン語を専門としていたこともあって、ギリシャ語の大家として知られるようになっていた。そうした学究的生活に明け暮れていたエラスムスも、若い頃はパーティにもよく顔を出し、女性関係もまんざらでもなかったようである。
先に触れたように、1499年には裕福な家庭の教え子に招かれて英国を訪れている。その時にトマス・モアとの出会いがあり、そのモアの口利きで、10年後に英国王となるヘンリー8世に謁見している。
またオックスフォード大学の教授だった神学者のコレット John Colet とも会っている。当時、コレットによるキリスト教講義は注目を集めていたのである。
英国旅行での体験はエラスムスに、その後の人類にとって掛け替えのない遺産となる学術的偉業の達成に専心させることになる。1年間の滞在を終えて翌年1月に英国を離れた時エラスムスは、当時としては途方もないことと思われていた、新約聖書をギリシャ語で新たに編纂しなおす決意を固めていた[次頁、訳注(9)]。
というのも、当時の良心的知識人や改革者の多くがそうであったように、エラスムスもキリスト教というものが何世紀もの時の流れの中で、確かな根拠もない説によって大きく歪められていることを確信したのだった。
このオランダの学者エラスムスの意図は、ラテン語の「ウルガタ聖書』を始めとするさまざまな資料をもとに聖書を編纂しなおし、それをギリシャ語に翻訳し、必要な箇所に自分自身のコメントラテン語で書き加えることだった。
ラテン語にしたのは、当時の大学の卒業生の多くがギリシャ語は読めなくてもラテン語は読めるからだった。
さらにもうひとつの意図があった。それまで1000年以上にもわたって教会で使用されてきた「ウルガタ聖書」をギリシャ語の原典と比較させ、その違いを理解させることだった。そのためにはギリシャ語が読めない人のためにラテン語で解説を加える必要があったわけである。
この大仕事にエラスムスは実に14年の年月をかけている。最後の5年間はヘンリー8世の招きで英国で過ごしている。もっとも、招きを受けて1509年に英国に到着してみると、なぜかヘンリー王は約束の資金援助に応じてくれない。
困惑したエラスムスは有力な知人に頼るしかなかった。トマス・モアの自宅に身を寄せたり、ケンブリッジ大学でギリシャ語を教えたりしたようである。
[訳注(9)]新約聖書は、仏教の経典が釈迦自身が書いたものでないのと同じように、イエス自身が書いたものではない。
これは周知の事実であるが、意外に知られていないのは、イエスの人柄や奇跡的事象、俗にいう「不思議としるし signs and wonders」を目の当たりにした信奉者たちが思い出すままに記したものが実在するという事実である。
それは古代ギリシャ語で書かれた、ごく簡単なものであり、今ではヴァチカン宮殿の書庫にしまい込まれたままであるという。
それが315年にコンスタンチヌス大帝の命令で開かれた第1回ニケーア公会議の開催中(足掛け4ヵ月間)に大幅な書き改めと書き加え、俗にいう「改竄(かいざん)」が施されたという。これはダドレーの『第1回ニケーア会議の真相 The History of the First Council of Nice by Dean Dudley』に詳しい。
それから半世紀後に、第1章に出てくる修道士の聖ヒエロニムスが、それまで幾人かの学者によって試みられてきたラテン語訳を完成させている。俗にいう「ウルガタ聖書」である。「ウルガタ」は英語の vulgate(通俗の、日常語の、といった意味)に相当し、学問性には欠けていた。
5年の滞在ののちエラスムスは、編纂の仕事を仕上げるとすぐ英国を離れて、スイスのバーゼルへ向かった。1514年の夏のことである。そのバーゼルで彼はフローベン Froben という名の印刷屋にそのギリシャ語新約聖書とラテン語訳、およびその膨大な注釈の原稿をあずけて印刷を頼んだ。
フローベンはその仕事を引き受けたものの、前途にふたつの大きな危険が待ち受けていることを覚悟していた。ひとつは、言うまでもなく時間と費用がケタ外れになるであろうこと。何しろ需要の予測がまったくつかないのである。フローベンは赤字覚悟で臨んだ。
もうひとつはローマ教会が発禁処分に出るかもしれないこと。それまで使用されてきた「ウルガタ聖書」に加筆訂正が施されるであろうことを教会側も予測しているはずである。そこでエラスムスは、その危険を避けるために、その新刊書の扉を「本書を教皇レオ10世に献(ささ)げる」という献辞で飾ることにした。
着手して2年後の1516年に、いよいよ全2巻となって出版された。1巻はギリシャ語訳とラテン語訳の本文、もう1巻はその注釈をまとめたものだった。驚いたことに、初版は3年で完売となった。その評判の秘密は実はエラスムス自身による注釈にあった。
結末をエラスムスはその注釈の中で自分が訳してみせた新約聖書の中のキリスト教と、その頃(16世紀)にヨーロッパで流布し実践されているキリスト教とが、まったく異なることを指摘した。
それは、聖遺物として売られている物品がまやかしものであること、独身主義を神に誓いながら愛人を何人も囲い子供までもうけている司教たちの偽善まで言及し、さらには教会内部での貪欲(どんよく)と腐敗ぶりを指摘して、手厳しく断罪している。
一例を挙げれば、マタイ伝 11 : 30 にイエスの言葉として「わが軛(くびき)は緩(ゆる)く、わが荷は軽ければなり」という一文が出ているが、これに次のような注釈を付している。
—–
なるほどイエスの軛は優しく、その荷は軽いかも知れない。しかしそれは、おのれ自身に課したものが人間が勝手にこしらえた下らぬ教義によって正当化されるようなことがなければのことである。
イエスは愛よりほかに何も要求していないし、また、いかなる苦しみも愛によって和らげられ軽減されないことはない。自然の摂理に適ったものは何ごとも耐えられるものだし、イエスの教えほど人間の本性に適(かな)ったものはない。
イエスの教えの目的は、ひとえに、堕落した人間性に無邪気さと誠実さを取り戻させることにある。なのに教会はそれに余計なものを付加してきた。その中には、無視しても信仰そのものに何の偏見も生じないものもある。
祭服に何という無意味な規則、何という愚かな迷信が横行していることであろうか!いったい断食をいくつ制定したら気が済むのであろうか!誓約についても、教会の権威についても、赦免と責任解除についても、もはや言うべき言葉を知らない。
願わくはイエスが福音書の教えにのっとって支配し、人間のこしらえた勝手な法令による暴政をこれ以上強めないでほしいものだ!
—–
その頃オックスフォードでは、ティンダルがそのエラスムスの翻訳に目を奪われていた。ギリシャ語とラテン語の本文もさることながら、今一例を挙げた、エラスムス自身のコメントに関心が集中した。
そこで指摘されている問題点と不条理が、生まれ育ったグロスターシャーと勉学に勤しんだオックスフォードで見聞きしていたこととマッチしたからである。
しかも、その出版からわずか1年後に、たったひとつの事件がヨーロッパ大陸と英国で宗教上の大論争を巻き起こした。現在ドイツ[訳注(10)]と呼ばれている国での出来事だった。
当時ローマ教皇レオ10世が、のちにカトリックの総本山となるサンピエトロ大聖堂建立の資金集めのために、信徒に「免罪符」を売らせていた。が。売るためには信徒自身が買わねばならない。
そこで教皇は、買わせるための口実として、罪の赦しと煉獄行きの免除が保証されると説いた。さらに、今煉獄で苦しんでいる亡き親族に代わって購入することも可能であると説いた。
これに異議を唱える者がまず現われた。当時ザクセン Saxony と呼ばれた地域の一部で、のちに宗教改革の発祥の地となるウィッテンベルグ Wittenburg の34歳の司教で、自分の教区民の信仰態度に悪影響を及ぼしていると訴えた。たかのいずれかであろう。
さらに1517年10月31日にマルティン・ルーテル Martin Luther が、かの有名な「95箇条の提題 the Ninety – five Theses」をローマ教会の扉に掲げた。
それがドイツ語でなくラテン語で書かれていたことからも分かるように、ルーテルは神学者や教会関係者の間に論議を巻き起こさせることを意図したものであって、決して新しく教会を設立するつもりはなかった。
ルーテルはローマ・カトリック教会に所属するれっきとした聖職者であり、免罪符売りを始めとする教会内部のさまざまな問題を教会の指導者層に指摘して、何とかしなければならないことを自覚させたいと、かねがね思っていた。
何しろ西ヨーロッパには過去1000年以上にもわたって、たったひとつの教会しかなかったので、古い因習や伝統的しきたりで硬直化していた。それを何とかしなければならないと思ったのであって、新しい教会をこしらえるなどという野心は毛頭なかった。
[訳注(10)] Germany : 古代にはゲルマン民族が割拠し、中世にいたって宗教改革や幾多の戦争をへて国民国家を形成し、第1次・第2次世界大戦をへて今日に至っている。
しかし、機を見るに敏な印刷業者たちは、そのルーテルの「95箇条の提題」を印刷すればカネになると考え、ヨーロッパじゅうで刷りまくり売りまくった。それを買って読んだ一般庶民は、教会内部の醜態を知って憤(いきどお)った。
かねてからローマ教会という1個の宗教機関によって支配されることに不満を抱き、自国の政治家による支配を求めていた国民国家が、その国家意識を一段と強めるところとなったのである。
ローマ教会の支配層はこぞってこれをローマによるヨーロッパ支配の危機と受け止め、レオ教皇を説得してルーテルを異端者として告発し、ローマに呼び寄せて訊問することにした。
通告を受けたルーテルは、自国の支配者で「賢公」として知られるフリードリッヒ3世に忠言を求めた。みずからも国民国家主義を宗としていた賢公は、審問は当事者の国で行なうのが筋であると忠言し、賢公みずから日時と場所を設定した。
そのことに始まってローマ・カトリック教会とルーテルとの溝は以後3年にわたって深まる一方だった。しかし、フリードリッヒの保護のもとでルーテルの身は安泰だった。
こうしたニュースは、当然のことながらルーテルの「提題」のパンフレットとともに英国にも流入してきた。ティンダルもそれを入手した。そして、エラスムスが「注釈」の中で指摘しているキリスト教の問題点とルーテルが提起した問題との間の鮮明な類似に驚かずにいられなかった。
さらにエラスムスによる翻訳聖書を細かく読んでいくうちに、ティンダルの脳裏にキリスト教会は一体いかなる体制のもとに運営されているのか、また本来のキリスト教とは何なのかという疑問が湧いてくるのを禁じえなかった。
英国の司教ジョン・フォックス[訳注(11)]の記述によると、ティンダルがオックスフォードを離れてケンブリッジへ向かったのはその頃となっている。
エラスムスはすでにケンブリッジを去っていたが、エラスムスによる影響はまだ根強く残っており、1518年に後継の教授としてリチャード・クローク Richard Croke がギリシャ語講座を始めているので、その意味でティンダルのケンブリッジ ルーテルが火をつけた聖書の解釈についての議論はケンブリッジ大学内でも盛んで、オックスフォード大学よりもはるかに自由な雰囲気があった。
それは決して批判する者がいなかったという意味ではない。1520年にはキャンパス内でルーテルの訳書が大学職員によって焼却されている。ティンダルは1517年から21年までケンブリッジにいたはずであるから、その焼却処分の現場を直接見たか、見た者から聞いたかのいずれかであろう。
いずれにせよ、ティンダルと同時代にケンブリッジに在籍した人物の中には、のちに英国の宗教改革の先導者として殉教することになる者が多かったのは奇遇である。
カヴァデール Miles Coverdale 、ラティマー Hugh Latimer 、クランマー Thomas Cranmer 、リドリー Nicholas Ridley 、ビルニー Thomas Bilney などで、とくにクランマーはカンタベリー大主教という最高の地位にありながら、火刑に処されている。
こうした人物が互いに顔見知りだったかどうかは定かでない。当時の英国には日記を書くという習慣がなく、またそうした個人的な記録はよほどのことでない限り遺されていない。が、周囲の騒然とした雰囲気の中で、彼らが寄ると触ると激論を闘わしたであろうことは想像に難くない。
ティンダルはそれを大いに愉しみ、また多くを学んだことであろう。が、根が学者であるティンダルは、ひとり静かにエラスムスの新約聖書をじっくりと読む時間も欲しかった。
というのも、エラスムスはティンダルが気づいている教会内の問題点を正確に指摘していながら、その解決策については何の言及もしていないからである。
[訳注(11)] John Foxe(1516~87): 英国の殉教史学者で、著書に The Book of Martyrs, Acts & Monuments 等がある。
オックスフォードとケンブリッジの両大学で15年以上もわたって真剣に学習と研究を続けてきたティンダルは、そうした解決策をたずさえて世に打って出るには、それを裏づける基盤をよほど堅固なものにしておく必要があることを十分に認識していた。同時に生活費を稼ぐ手段も考えないといけない。
हर
そのティンダルのもとに願ってもない話が舞い込んできた。1521年に、郷里のグロスターシャーの荘園領主ジョン・ウォルシュ卿 Sir John Walsh から、ふたりの息子の家庭教師になってくれるようにとの依頼があったのである。
ふたりともまだ7歳にも満たない年齢の子なので、教えるべきことについて改めて時間を割いて勉強する必要がない。またブリストルとオックスフォードに近いという地理的条件は、書店へ赴いてエラスムスを始めとするヨーロッパの思想家の書物に触れるチャンスを与えてくれる。
ティンダルの才能を知る仲間の中には、そんな田舎にこもることを勿体ないと残念がる者もいたが、当時のティンダルにとっては理想の条件が揃っていたのである。
第3章 家庭教師をしながら
荘園領主ジョン・ウォルシュ卿の館はリトル・ソッドベリ・マナー[訳注(1)]にあった。ティンダルが家庭教師としてそこへ住み込んだのは1521年の夏、27歳の時だったと推測されている。グロスターシャーでも指折りの豪邸だった。
領主のウォルシュは当時30歳から35歳の間であったと推測されている。ティンダルとの年齢差はわずか数年だったはずである。そのウォルシュがティンダルという人物の存在を知ったのは、ティンダルの兄のエドワードが、1519年に隣接する王室所有地の執事職をウォルシュに譲ったことで知己の間柄となっていたからである。
当時の教育水準がすれば、ティンダルほどの高等教育を受けた者の名前は指導者階層では広く知られていたから、引く手あまただったはずである。ウォルシュがエドワードを通して家庭教師の話を持ち込んできたのは、いかにも有りそうな自然な話で、先にも述べたとおりティンダル自身も好都合な話だったので、すんなりと決まったはずである。
もうひとつの可能性として、ウォルシュはティンダルの少年時代から言語の天才という噂を耳にしていて、その子がオックスフォード大学へ進学したとの話を聞いて、まだふたりの息子が幼なかった頃から、いずれは家庭教師として雇いたいと考えていたのではなかろうか。とくにラテン語を専攻したということは、ウォルシュにとって最大の魅力だったはずである。
[訳注(1)] Little Sodbury Manor : もともとは「ソッドベリの小さな荘園」という意味だったが、荘園制度が崩れてからそれがそのまま地名となった。
ウォルシュ家は代々グロスターシャーの広大な土地を所有していて、王家ともつながりが深く、王の手となり足となって仕え、税の徴収にも手を貸してきた。
ジョンはその後継者として、1509年のヘンリー8世の即位前もその後も近しい関係を維持していた。グロスターシャーの長官を2度も勤めている。そうした関係からジョンの影響力は州一帯に及んでいた。
ウォルシュ家の館は今も当時のまま建っている。ティンダルが宿泊していた3階の屋根裏部屋の窓を開けると、すぐ眼下に礼拝堂が見える。ティンダルも何度かその礼拝堂の祭壇に立ったことがあるが、それはまだ正式な職務ではなかった。
部屋を出て階段をのぼり、4つの踊り場をへてタレットと呼ばれる小塔に出て見晴らすと、セバーン渓谷と、さらにその先のウェールズの丘までが一望できる。まさに息を呑む絶景である。
ふたりの子息を教えるといっても、さほど長時間ではなかったはずであるから、オックスフォードから持ってきた聖書関係の書物を耽読しては、小塔にのぼって遠景を眺めて気分転換をするという生活の繰り返しだったことであろう。
ティンダルの部屋は屋根裏部屋だったが、われわれが想像するほどむさ苦しくはなく、ベッド、テーブル、イス、下着や身の回り品の収納棚も上等なものばかりだった。
当時はまだ造り付けのクローゼット(押し入れ)はなく、衣服用のタンス、飾り棚などが置かれていた。見上げると、廃船の巨木を使った天井が鋭い角度で伸びていて、いわば16世紀版のリサイクルといったところである。
石枠の窓は冬にはピッタリと閉められて、窓から入る日の光は遮られるが、石の暖炉の傍で何本ものローソクの明かりで読書をしたことであろう。真夏になれば窓を開け放って、涼しい風を浴びながら夕刻まで読書に耽ることが出来たことであろう。
言うまでもなく、そこをティンダルの部屋として選んだのは、台所の騒音も聞こえず家族や使用人たちの出入りもなくて、ティンダルが勉学に没頭できるようにとの配慮からであろう。
ただし食事はウォルシュ家の家族全員と一緒にとった。若いティンダルがそれほどの厚遇を受けたのは、司祭としての資格もさることながら、やはり当時としては珍しいほどの高等教育を受けていたからであった。
来客の時ウォルシュ夫妻が姿を見せるまで待機する応接の間は、広大な邸宅の数ある豪華な部屋のひとつに過ぎないのであるが、それでも見上げるような高い天井にはオーク材の梁(はり)が張り巡らされ、壁もオークの羽目板が使用されている。
北側の壁には大きな暖炉がしつらえてあり、床は白と黒のモザイク模様が施されていて、その中央に同じくオーク材でこしらえられた長くて重いテーブルが置かれている。
これとは対照的に、その周囲の一般農家の家は極端にお粗末だった。構造的にはテントと同じで、荒壁で囲い、ふたつの部屋に仕切られていて、床にはワラが敷かれていた。煙突のない家もあり、壁の隙間が煙突代わりになっていた。
ガラス窓などをしつらえる余裕などなく、その上、ブタを入れたり、冬の夜には牛まで入れてやるので、不潔そのものだった。突然の寒波で凍死することがあり、それは財産を失うことを意味した
テーブルといっても切り株を両端に置いて、1枚ないし2枚の板を載せただけのもので、イスのない家も珍しくなかった。料理用の鍋は大抵1個しかなく、あとは陶器が幾つかあるだけだった。
ローソクによる照明も贅沢のうちに入り、1日の生活は日の出と日の入りで区切られ、日が落ちてからは暖炉の火の明かりが唯一の照明だった。
そんな生活水準だったから、教育を受けることなど夢のような話で、働ける年齢に達すると家事の手伝いするか、どこかの裕福な家庭に奉公に出るか、商家に雇われるかの、いずれかだった。農耕に使う土地も自分のものではなかった。
領主からあてがわれて、いわば使わせていただいているだけで、天候に恵まれ、病害虫や疫病に見舞われない限りは、平均で35シリングを稼ぐほどの収穫があった。それでも1本の鋤と2頭の牛を購入するだけで少なくとも28シリングは必要で、さらにその牛を飼育するための費用が必要だった。
その上農民は、あてがわれた土地で働く以外に、領主の土地での仕事もあてがわれていた。むしろその時間の方が長かった。それも賃金が貰えるわけではなく、貰えるのは1回の食事だけで、それは言わば、領主の分け地をいただき、荒壁とはいえ雨露をしのぐ家屋を持たせていただいている恩恵への感謝としての奉公であった。
しかも、結婚まで領主の許可が必要だった。かくして当時農民として生まれた者[訳注(2)]は、豪壮な邸宅をもつ荘園領主の支配下で生涯を貧乏に生きるように宿命づけられていた。親も子もそういう轍(わだち)から1歩も抜け出せなかったのである。
そうした実情が、ティンダルにも少しずつ分かってきた。しかもティンダルが気がかりだったのは、自分が時おりチャペルやグロスターシャーの各地で説教している善良な信者の実態だった。
ウォルシュ家の家庭教師としての時間は知れたものだったので、15マイルも離れたブリストル市にも徒歩で赴き、教会だけでなく屋外の広場でも説教をしている。
[訳注(2)]小作農をさす一般語としては peasant であるが、「すき plough で生きる男」という意味で英国では ploughman という。米国では plowman と綴る。発音は同じで「プラウマン」
ブリストルはブリストル湾に面して栄えた人口6000人の都市で、ロンドン、ヨーク、コベントリ、ノリッジと並んで、当時の5大都市のひとつに数えられていた。
中央の丘に聳える城を取り巻くように市街地が広がっていて、聖オーガスティン[訳注(3)]が建てた修道院があることでも有名だった。ティンダルの説教は、形式的には他の牧師の説教と変わらなかった。
即ちラテン語の教説を引用しては英語で解説するという手法だったが、際立った違いは、魂の救いは聖遺物を飾ったり免罪符を身に付けたりすることによるものではなく、信仰心こそが肝心で、それは所属する階級やたずさわる職業には関係ないとしたことだった。
広場での説教を聞きに集まったのは船員や商人、織工、農民、そしてオーガスティン派の修道士たちだった。修道士たちにとってティンダルの教えは聞き捨てならない。
魂の救済は信仰心によって神から無償で授かるものであるということを庶民が信じ始めたら、聖遺物や免罪符の販売、教会の土地を使用している者たちから徴収している税金で賄われている教会組織はどうなるか。
それだけに留まらない。教会は英国民をひとつにまとめる求心役のような機能を果たしてきた。たびたびの疫病、長年にわたるバラ戦争を克服できたのは教会の存在があってこそではなかったか。
教会は英国民の精神的支柱なのだ、と教会関係者は主張し、ティンダルの教えは教会の存続を危うくすると同時に、英国社会の統一を乱す危険な教説だと決めつけ始めた。
[訳注(3)] Saint Augustine : 7世紀に英国で布教したローマの修道士で、初代カンタベリー大主教。オースティンとも呼ぶ。5世紀の聖アウグスティヌスとは別。
それはブリストルの修道士たちに限らない。ウォルシュ夫妻がもつ政治的ならびに社会的影響力によって、リトル・ソッドベリ・マナーの豪邸には毎日のように高位高官の賓客が訪れ、夕食会が催される。当然のことながら宗教界の大物も少なくない。そして、よほどのことがないかぎりティンダルも出席する。
話題は大抵グロスターシャーや王室のゴシップから始まる。当時の最大のゴシップはやはり王位継承者がなかなか誕生しない、あるいは育たないことだった。王妃のキャサリンは最初の子を未熟児で流産し、1511年、1513年、1514年に続けて男子を産んだが、いずれも誕生後間もなく死亡した。
1516年には健康な子が生まれたが、女の子で、その後は子供に恵まれなかった。そのことがヘンリー8世と宮廷女官との間の艶聞(えんぶん)を生んだ。キャサリン王妃は王より8歳も年上だったのですでに40歳に近く、子供をもうけるのは肉体的に無理と見られた。
先帝はバラ戦争を終結させるために尽力し、若き王が平和の維持に尽力している。が、もしも継承者がいないまま不慮の死を遂げたらどうなるか。それまでの英国王はすべて男性だった。
かりに唯一の子メアリを王位につけても、スキあらば王位を奪還せんともくろむ他の王室を押さえつけることが果たして出来るだろうか、といったことが語られるのだった。
そうした話題が尽きると、王に次ぐ権力者となった枢機卿のウルジーのことがよく話題にのぼった。彼は王女のメアリがまだ2歳の時にフランス王の後継者であるわずか7か月のドーファン[訳注(4)]と婚約させるという離れ業をやってのけた。フランスとの同盟関係の一環であったが、それは神聖ローマ帝国、スペイン、そしてヴァチカンとの同盟をも意味した。
[訳注(4)] Dauphin : 1349年から1830年まで続いたフランス王統第1王子の称号。
これは一時的にせよ西ヨーロッパに和平の到来を予感させ、ウルジーの政敵でさえ快挙として賞賛した。が、和平は長続きしなかった。と言うのも、これまたウルジーの入れ知恵でヘンリー8世は、フランスと戦争状態に入った神聖ローマ皇帝のカルロス5世の側についたからである。1522年のことで、ティンダルがまだウォルシュ家で家庭教師をしていたころのことだった。
王の右腕として辣腕(らつわん)を振るっていたウルジーは次第に傲慢になって行きつつあった。その様子を、当時のヴェニスの英国大使ジュスティニャーニ Giustiniani はこう書き記している。
—–
私が英国に着任したころの枢機卿は「陛下はかくかくしかじかのことをなさるおつもりのようだ」と私に言ったものだが、やがて「私たちふたりはかくかくしかじかのことをしようと思う」という言い方に変わり、近頃は「私はこうするつもりだ」と言うようになっている。
—–
こうした傲慢さは政治力の劣る廷臣たちからも疎(うと)まれる原因となった。教会内部にも不満が募っていった。と言うのも、ウルジーは修道院を単なる富の要塞と決めつけ、国王のためにも教会のためにも役に立っていないと断じて、小さい順に閉鎖して行ったからである。
ウルジーの目には司教や修道僧は実際は一般庶民から好ましく思われていない。控え目に見積もっても教会は英国の国土の20%を所有し、一般信者が貧乏のどん底で生きているのに贅沢きわまる生活をしている。精神的な救いを求められている者がそんなことで良いのか、というのがウルジーの言い分だった。
こうした話題が出尽くすと、夕食会の話題はヨーロッパ大陸での異端者の処刑のニュースへと移る。当時その数はうなぎ登りに増えつつあり、その煽(あお)りを受けて、1521年には英国でも45人が審判にかけられ、英国教会の主教はそのうちの5人を火刑に処したというニュースが話題になった。
同席しているティンダルはその処置をラテン語とギリシャ語の聖書に照らして非難する意見を述べるが、居合わせるお偉方は30にも満たない若造が述べる意見など聞く耳をもたず、まして、ロスターシャーで最も影響力のある領主夫妻の前では、英国教会のすることに異議を唱えるはずはなかった。また夫妻も何の感慨もなく聞き入るだけだったという。
別の邸宅での夕食会に招かれたウォルシュ夫妻は、教会関係者から、「家庭教師として雇っておられる若い司教の説は間違っております」と、あからさまに言われた。帰宅するとすぐさまティンダルを呼びつけて、かくかくしかじかのことを言われたが、どう申し開きをするかと詰問された。
ティンダルは非難のひとつひとつを聖書の教えを引用しながら論駁した。英国の殉教史学者ジョン・フォックスJohnFoxeの『殉教者の書BookofMartyrs』によると、その時ウォルシュ夫人は吐き捨てるようにこう言ったという。
—–
学徳高い聖職者の中には1年で200ポンドを使う者、100ポンドを使う者、300ポンドを使う者がいる。地位が高く、学問を修め、しかもそれほどの縁をはむ者がいるという事実を、そなたは何と心得るか。分際を心得よ。
—–
この愚かしい叱責にティンダルは返す言葉もなかった。が、どうやらこの事があってからティンダルはエラスムスの小冊子 Enchidion militis Christiani 、英訳すれば The Christian Warrior’s Handbook (キリスト教勇士のハンドブック)の翻訳を始めたようである。
これはラテン語で書かれていて、1501年に出版されている。一般のキリスト教信者向けに、教義に忠実に生き誘惑に負けないためにはどうすれば良いかを説いたもので、基本的には新約聖書からの引用で構成されている。訳し終えると、ティンダルはそれをウォルシュ夫妻に献呈した。
ウォルシュ夫妻は若いティンダルがエラスムスという大家の本が訳せるという事実に驚くと同時に、綴られている英語そのものにも驚嘆した。家庭教師として雇っている聖職者の実力を改めて知った夫妻は、その後は他の聖職者を夕食会に招く回数が減っていき、それが却ってティンダルに対する敵意を増幅することになった。
彼らはブリストルのフランシスコ派の修道士たちと結託して、何かと面倒を起こす発言を繰り返している若い成り上がり者を懲らしめる手段に出た。英国教会の審問官で大執事でもあるジョン・ベル John Bell の次の訪問時に標的を置いて、さまざまな計画を練った。
ベルはほぼ定期的に英国教会の教区を回って、訴えのあった問題にはどんなに些細な事でも耳を傾けて審判を下していた。とくに異端者には厳しく、火刑に処せられた者も少なくなかった。その処刑の場には各教区の審問官はかならず立ち会って、刑が正当に執行されたかどうかを見届けることになっていた。
いよいよベルが到着した時、彼らはティンダルを異端者として訴えた。その証拠として、教会にとって脅威となるティンダルの言説を書き連ねると同時に、ティンダルが説いてもいない説をでっち上げて、ベルに差し出した。それに目を通したベルは、その司教たちと修道士、それに当のティンダルに、次の審問に立ち会うよう命令した。
その命令を聞いたティンダルは、いよいよ危機が迫ったことを知った。折りしもブリストルから北東100マイルほどの町コベントリーでひとりの女性と6人の労働者が火刑に処せられたというニュースが漏れ聞こえてきた。
罪状は自分の子供に「十戒」と「主の祈り」と「使徒信条」を“英語で教えた”という、ただそれだけのことだった。ティンダルは教会における自分の地位よりも先に、自分の命そのものが危機にさらされていることを感じた。
審問の当日ティンダルは、指定された場所への道すがら、信仰への忠誠心を授け給えと神に祈った。着いてみると告発者たちはすでに来ていた。告訴状には「詭弁における異端者、論理における異端者、神性における異端者」とあった。
審問中は告発者も発言を許されない。ベルが訊問し、ティンダルが新約聖書の文言(もんごん)を引用しながら返答をするという形で行なわれた。
が、ベルにはジレンマがあった。ひとつは、ティンダルの追放を望む聖職者は圧倒的に多いが、新約聖書の問題に自分が深く関わり合うことは得策ではないということ、そしてもうひとつは、その地万一帯で絶大な影響力をもつウォルシュ夫妻を敵に回したくない – それは同じく影響力の大きい王妃の里のポインツ家 the Poyntzes を敵に回すことになる – ということだった。
迷いに迷ったあげくにベルは、ティンダルを厳しく叱責すると同時に、教会の怒りはウォルシュ夫妻の影響力をもってしても抑えられない限度というものがあることを心得るように言いつけた。その時のベルの様子をティンダルはこう書き記している。
—–
審問官の前に進み出ると、彼は高圧的な言葉で脅し、悪口雑言のかぎりを尽くし、まるで犬のよう笑に叱りつけた。
—–
ティンダルを犬畜生のように扱いながらも、ベルはこれといった罪状を言い渡さず、またその後の行動を制約する「念書」を書かせるということもしていない。何ひとつ自由を束縛されることもなくティンダルは審問を終えている。
しかし、これですべてが落着したと見る者はひとりもいなかった。ジョン・ベルというキリスト教会の大物にティンダルを訴えたほどの司教たちが、そのままおとなしく引っ込んでいるはずはなかった。
まだ30歳に満たなかったティンダルも、自分が窮地に立たされていることを感じた。唯一の理解者であるウォルシュ夫妻も、学問的な難しいことは分かっていなかった。
彼が真剣に議論したであろうと察せられる司教たちもラテン語やギリシャが読めず、むしろそういう連中がティンダルの問題の核心を形成して行ったというのが実情だった。
カトリックの司教として資格を取ったティンダルは禁欲主義の誓いを立てているので、独身である。自室に戻るとたったひとりになる。すると突然孤独感に襲われる。いったい誰に理解を求めたらいいのか。
自分に全幅の信頼が置ける人がいないことを初めて知った。キリスト教の隠された問題点を知る者はほとんどいない。その陰謀の核心を知らない者にうっかり悩みを打ち明けると、それが敵側に流れて攻撃の材料にされてしまう。
ティンダルが「全幅の信頼を置ける」人物として選んだのは、20世紀初頭の伝記学者モズレー J. R. Mozley によると、当地で司教たちの相談相手をしている「さる老先生」で、多分それはエラスムスの友人でティンダルもオックスフォードで学んだことのあるウィリアム・ラティマー William Latimer ではないかと述べている。
ラティマーは1520年代に教授職を辞して、グロスターシャーに隠棲していた。この人なら自分の学問的なキリスト教観を理解し、秘密を打ち開けても危険のない人物として白羽の矢を立てた。
その「老先生」が実際に誰であったかは別として、その先生はティンダルに厳しい内容の忠告をしていることが、前出の殉教史学者ジョン・フォックスの次のような記述から窺われる。「老先生」はこう言ったという –
—–
知らないだろうが、実はローマ教皇みずからが、聖書が説いているキリスト教の敵なんだよ。が、言葉にはよくよく気をつけなさい。君がその事実に気づいていることが知れたら、命が危ないよ。
—–
審問でのベルの高圧的な態度と侮辱的な言葉、そして真実を知り尽くしている「老先生」の忠告を聞いてティンダルは、今自分が置かれている立場の深刻さを改めて知った。要するに教会の説く教えと聖書の説く教えとは別物であることが、いよいよ明白になった。
もしこのまま自分が、救いは信仰によって得られるのであって免罪符や聖遺物を購入したり献金をしたりすることとは無関係であることを説き続けたら、火刑は間違いない。
しかし、それを恐れて黙っていれば、自分が幼い時代から生活を共にしてきた愚直で文字の読めない人々、そして英国じゅうの無数の善良な庶民は、一生涯、真実を知らずに終わってしまう。
そうした理不尽な事実について思いを巡らしながら、ティンダルはその後数か月は表立った活動を控え、1日2時間ウォルシュ家の子息を教え、その他の時間はエラスムスやルーテルの原書、それにギリシャ語訳の新約聖書を読み返し、
疲れると散歩に出て、近郊の庶民や農民たちと語らい、ブリストルでは差し支えない程度の説教もした。
しかし、そうした生活の中でティンダルは、その後の人生を決定づけるひとつの決断を固めていた。ギリシャ語の新約聖書を読めば読むほど『ウルガタ聖書』[訳注(5)]と教会で教えられている教義の双方に誤りが多いことに気づいた。
なのに英国の司教の大半がそのことに無知である。それはひとつには、教会設立の初期に数10年にわたって疫病とバラ戦争で死者が相次ぎ、教会の聖職者にも多くの死者が出た。庶民は救いを求めて教会に通い、教会もまた自然な成り行きで組織力を強化して行ったという経緯がある。
ティンダルはのちに翻訳した『モーセ五書』(旧約聖書)の「まえがき」の中でこう述べている。
—–
私は内心こう考えた。これはやむを得なかったことかも知れない。なぜなら、英国じゅうの司教たちみずからが全く無知だからである。驚くなかれ、司教連中の大半がミサ典書や携帯用祈祷書のラテン語しか見たことがないというし、目にしていてもほとんど読めないというのだから。
—–
英国の司教連中のそうした体(てい)たらくを嘆いていたのはティンダルだけではなかった。
同じころカンタベリー大主教も修道士たちが教会での儀式や礼拝の時に「自分が朗読している内容について全く無知である」と嘆いているし、それから30年後にグロスターシャーの主教となったフーパー Bishop Hooper は、聖職者達の悪徳と淫乱と呑んだくれの生活を嘆き、聖職者としての不勉強振りを具体的な数値をあげて指摘している。
[訳注5]theVulgate:4世紀に修道士のヒエロニムス(ジェロームとも)St.Jeromeによって翻訳された教会公認のラテン語聖書。
それによると「モーセの十戒」[訳注(6)]が幾つあるかを知らなかった者が9人、それが聖書のどこにあるかを知らなかった者が実に33人、それを全部そらんじていなかった者は、驚くなかれ、168人にも上ったという。
そうした当時の聖職者の退廃ぶりと、そうとは知らずに魂の救済を求めて教会に赴く善良な市民たちへの裏切りを思うと、ティンダルの失望と落胆は募る一方だった。
イエスは魂の救済のための神の配剤を説いているのに、それを知らないまま死んで行く英国の善男善女の魂のことを、彼らは全く考えていない。こんな状態をいつまでも放置しておいて良いのだろうか – そう思ってティンダルは苦悶した。
ティンダルの伝記学者ブライアン・エドワーズ[訳注(7)]によると、1523年のいつ頃だったかははっきりしないが、ティンダルがさる教養ある人物と激論を交わしいる。
多分ウォルシュ家での晩餐会でのこととされているが、教会の教義を弁護するその賓客が、ティンダルが新約聖書からイエスの言葉を引用してことごとく論駁するのに狼狽し、イライラを募らせて行った。
多分その客は教会の教義に精通していて、いかなる議論にも負けたことがなかったのであろう。それが自分よりも若い新米司教にことごとく論駁されて腹の虫がおさまらず、ついにこう言い放って席を立った –
—–
神の御心なんかどうでもいいのだ。教皇の掟(おきて)のお陰で我々の今日があるのだ。
—–
これに対してティンダルは、それまでの勉学と祈りと瞑想の結論を激しい反駁の言葉で思いきり噴出させた –
—–
私は教皇も彼の説く掟もすべて拒絶する。もしも神が私にあとわずかでも命を永らえさせてくださるなら、鋤(すき)で畑を耕している幼い少年に、新約聖書について、あなたより多くのことを知らしめてやりたい。
—–
これは事実上のティンダルの命をかけた使命の宣言であった。新約聖書を英語に翻訳しよう…そう意を決した。それによって英国民の誰もがバイブル成立の「過程と秩序と意義」を自分で読んで自分で理解できることになる。しかし、前途にふたつの大きな障害があることも忘れていなかった。
ひとつは、ウォルシュ夫妻の面前であれほどの高位の聖職者との間であれほどの激論を交わした以上、もはやこのリトル・ソッドベリ・マナーに留まり続けることは出来ないということ。自分の身の上の危険もさることながら、ウォルシュ夫妻の立場にも迷惑が及ぶことは必定である。
[訳注(6)]現代では Ten Commandments と“ten”(10)が付いているから誰にでも分かるが、ギリシャ語では Decalogue といった。接頭語の“deca”は英語の“ten”を意味するので、ギリシャ語の基礎知識があれば分かったはずだが、その程度のギリシャ語すら知らない司教がいたということである。
[訳注(7)] Brian Edwards : William Tyndale – The Father of the English Bible
もうひとつは、バイブルを英語に翻訳するには、誰か高位の司教の許可を得なくてはならないこと。そのように英国法で定められているのである。許可なくして行なった場合は異端者として告訴される。
どの主教にお願いするかでティンダルは迷った。ともかくもウォルシュ家の家庭教師は辞退せざるを得ないが、その前に翻訳の許可を得るための根回しをするべく智恵をしぼった。
そこで思いついたのは、エラスムスがその著書の中で、前年の1522年にロンドンの司教に任ぜられたタンストール Cuthert Tunstall のことを賞賛していることだった。タンストールもオックスフォードの出身で数年先輩に当たる。同じく卒業後タンストールもケンブリッジで学んでいる。
しかもタンストールは、ティンダルがベルによる審問のあと訊ねた「老先生」のラティマーとも親しかった。そしてエラスムスのギリシャ語訳聖書の第2版の校正を手伝うほど、ギリシャ語学者としても知られていた。
これだけの条件が整えば、ティンダルがこの人こそ聖書翻訳の許可を願う最も適切な人物として白羽の矢を立ててロンドン行きを決意したのは、決して間違ってはいなかった。
好条件はそれだけではなかった。ロンドンは印刷業の盛んな土地で、商業と通信の中心地として活発であることは、翻訳した新約聖書を売りさばくには絶好の条件だった。
ティンダルはいよいよ領主のジョン・ウォルシュに家庭教師を辞したいとの意向を打ち明けた。ティンダルの才能を高く評価していた領主は残念がったが、同時に、晩餐会での激論を目の当たりにしていたこともあって、グロスターシャーに居続けるのは得策でないことも理解した。
そしてウォルシュはティンダルを取りあえず英国王室に勤める親友のギルフォード卿 Sir Henry Guildford に預けることにして、卿に宛てて紹介状を書いてやった。
ふたりはヘンリー8世が1509年に王位についた時からの親しい間柄で、ティンダルが王室関係者の世話になるに当たって面倒のないようにと気遣ったのは、極めて自然なことだった。
1523年夏、ティンダルは夢と希望に胸をふくらませ、ウォルシュ家全員の祝福を受けながらロンドンへ向けて出発した – 当時のチューダー王朝[訳注(8)]がすでに醜い政治的陰謀のさなかにあることを、露ほども知らずに…
[訳注(8)]ランカスター家とヨーク家の王位継承権争いがいわゆる「バラ戦争」で、それが1485年、ヘンリー7世の時にランカスター家が勝利して「チューダー王朝」が始まり、1603年のエリザベス1世の死とともに途絶えた。
ここでいう政治的陰謀というのは、男性の王位継承者がいないことに発したもので、ヘンリー8世は王妃を離縁して侍女のひとりアン・ブーリン Anne Boleyn を王妃としたいとの意向を公表する。が、ローマ・カトリック教会では離婚を認めない。
そこでヘンリー王は、それならローマ・カトリック教会から離脱するという手段に出る。大変な内紛となったが、ヘンリー王は反対派を処刑するという強引かつ悪逆な方法でその考えを貫き、ついに「英国国教会 the Church of England」ないしは Anglican Church として独立を宣言する。
奇しくもティンダルの悲劇は、この国教会独立へ向けての英国王室の内紛とともに推移している。その経緯は後章で徐々に展開されていく。
第4章 ロンドンの喧騒のさなかで
ロンドンに近づくにつれて、ティンダルはブリストル市とは比較にならない大きさに圧倒された。まず人間の数が桁外れに違う。ブリストルは千人単位だったが、ロンドンは万人単位のようだ。見慣れた港町ブリストルとよく似たところもあるが、違うのはスケールだった。
都市全体が巨大な壁で囲まれていて、小塔や大きなゲート(門 gate)が目につく。Bishopgate 、Cripplegate 、Aldergate 、Newgate といった“gate”のついた町の名が今も残っている。
ティンダルが来る200年ほど前にはテムズ川を横切る木造の橋が幾つかあったが、その頃はすでに石で出来たあの有名な跳ね橋「ロンドンブリッジ London Bridge」となっていた。
そのテムズ川の沿岸には途切れることなく家屋が連なっており、中には見ているとハラハラするほど川の上まで突き出ているものもある。多分ティンダルは南側からロンドンブリッジに入り、暗い中央の通路を通って、すぐ下をボートで行き来する人たちの声を耳にしながらテムズ川を横切ったことであろう。
市の東端にはロンドン塔が聳えている。もともと30マイル先の北海からテムズ川を登ってやってくる敵軍から守るためにこしらえられたものだったが、ティンダルが来た頃は牢獄として使われていた。
中には歴史に名を遺した著名人も少なくなかった。白状させるための拷問や情報を強要するために使用した責め具は、今となっては英国の不名誉を物語るものでしかない。
ティンダルがやって来るちょうど3年前の1520年に、ヘンリー8世はそのロンドン塔内に囚人用の礼拝堂を建て、聖ペテロ・アドヴィンキュラ St. Peter Advincula と命名した。処刑された遺体の多くがそこに埋葬されているという。
ヘンリー8世が王位につく前のロンドンの通りのひどさは筆舌に尽くし難いほどで、記録によると「穴ぼこやぬかるみが多くて、歩行者や手綱(たずな)を引く従者はもちろんのこと、馬にまたがった重臣たちにとっても危険で、いつも悪臭が漂っていた」という。
通りの名前はそこに軒を並べる店の商売を物語っていた。Bread Street(パン)、Ironmonger(金物)、Milk Street(乳製品)、Poultry Street(肉類)、Wood Street(薪)、などなど。
面白いのは Friday Street(金曜通り)で、ローマ・カトリック教の国では「精進の日」なので、魚を買う客でごった返したという。道路を整備し、通りの名前を分かりやすくしたのは確かにヘンリー8世の功績だったが、悪臭だけは変わらなかったという。
大通りはすべて Cheap と呼ばれる広大な市場につながるように出来ていた。そして、それを囲むように裕福な商人の家や庭園があった。罪人の処罰はブリストルと同じように人通りの多いその市場で行なわれるのが慣例で、法律を犯すとこうなるという、見せしめの意味からだった。
ロンドンも海に近いという立地条件から、ティンダルが想像していた以上に、港町のブリストルよりも自然な形で商業の中心地となっていることを知った。活気とスケールの点ではむしろブリストルを上回っていた。
何しろ北海を横切って、現在スカンジナビア、ロシア、ドイツ、オランダ、ベルギーと呼ばれている国々から貿易船が入ってくる。時には英国では禁じられている密輸品や書物も入っていた。世界各国の船乗りや商人たちと出会って話を交わすことで、ティンダルはさぞかし大きな夢に胸をふくらませたことであろう。
ロンドンにはブリストルにない大きな特徴が幾つもあったが、その中でも最大のものは、何といっても英国の首都であり政治の中心地であることだった。国王の命令で宮中会議が開かれ、議会が召集される。国王の宮殿がロンドンのいたるところにあり、その維持に何千人もの召使いが雇われている。
ロンドンの次の特徴は宗教的権力の中心地であることだった。ブリストルにはアウグスティノ修道会 the Augustinians しかなかったが、ロンドンには幾つもの宗派があり、中でもドミニコ修道会 the Dominicans 、フランシスコ修道会 the Franciscans 、カルメル会 the Calmelites 、そしてアウグスティノ修道会などが大きな勢力をもっていた。
各派がロンドンに拠点を置く理由のひとつは、枢機卿のウルジーを初めとするローマ教皇の側近との縁をつなぐためであった。そのすべてがロンドンに住まっていたのである。その権威の象徴がセント・ポール寺院 St. Paul Cathedral で、ヨーロッパでも最大の規模を誇り、500フィートの高さの木造の尖塔を特徴としていた。
そのセント・ポール寺院のすぐ近くにセント・ポール・クロス St. Paul Cross という野外の説教壇があり、教会からの重大な通達がそこで発表された。国王と同じように、各派のリーダーたちもロンドンの各所に宮殿のような別荘を所有していたが、そのいずれも枢機卿ウルジーの大邸宅 Hampton Court に匹敵し得るものはなかった。
その邸宅と公舎の双方で雇っている人数は、高位の者も入れて実に500名にものぼったという。そこまで豪奢にした理由のひとつは、外国からの賓客の目をまず圧倒しようという意図があった。さらにウルジーは自分の権威の大きさを見せつけるために、儀式や礼儀を重んじた。
例えば晩餐会の時でも、自分が姿を見せる時は使用人のすべてが跪(ひざまず)いて迎えることになっていた。公衆の面前に姿をあらわす時、あるいは公式の儀式に臨む時は、真っ赤な枢機卿の帽子と真っ赤な手袋、緋色または深紅色のローブを身に着け、銀色また金箔の靴には宝石や真珠をはめ込んであった。
ウルジーは英国でシルクの衣服を着た最初の聖職者と言われる。中国からの輸入品で、目が飛び出るほど高価だった。彼の謁見を賜るには、前もって貴族と外交官が3度、日時を変えてお伺いを立てなければならなかったほど、そのもったいぶった態度は徹底していた。
ティンダルはオックスフォードとグロスターシャーでの体験で、高貴な階級の者がその目的を達成する手段として権力とカネに物を言わせるやり方には驚かなかったが、ウルジーのやり方には、そのスケールに度肝を抜かれた。
が、王室内での顔が利くヘンリー・ギルフォード卿への紹介状を手にしている以上は、新約聖書の英語訳という大仕事を成就するためのパトロンを得ることは、まず不可能ということは有り得ないと踏んでいた。
新あせ中のそこで彼はウォルシュ卿直筆の紹介状を手にし、さらに自分の語学力を証明するためにギリシャの名演説家イソクラテスの演説の英訳を添えて、ギルフォード卿を訪ねた。
卿自身もエラスムスと文通を交わしたことがあるほどのギリシャ語通だったので、きっと高く評価してくれると信じていた。その時の心境を『モーセ五書 the Pentateuch』の英訳の冒頭でこう述べている。
—–
私はギルフォード卿に面会した時、ロンドン市長への口利きをお願いしたところ喜んで請け合ってくれて、市長への挨拶状を書くように言われた。言われた通りに書くと、自分で持っていきなさいと言われた。言われるまま伺って、ヘビルスウェイト William Hebilthwayte という、どこかで1度会ったことのある執事のひとりに手渡した。
—–
ここでいう「市長」というのはカスバット・タンストール Cuthbert Tunstall というロンドン司教のことで、ヘビルスウェイトというのはティンダルがオックスフォード時代に会った人物であろう。
が、すでにティンダルが学位を取得してから数年が経っており、その間にヘビルスウェイトの身の上にもいろいろと変化が生じていたことは容易に想像できる。
「しかし、市長の口利きもむなしく彼は私に何もしてくれなかった」とティンダルは綴っている。何年も口を利いていない人物に期待を掛けすぎていたのである。
悪意があったか否かは別として、ヘビルスウェイトは何の役にも立たず、ロンドン司教も「ウチも手一杯で、これ以上面倒が見きれない。どこか他の宗教施設に当たってみてはどうか」と言って断わったという。これは体(てい)の良い言い訳であろう。
というのは、ティンダルが「トラブルメーカー」であるとの噂はグロスターシャーからロンドンにも届いていたであろうし、当時のロンドンの政治情勢は、聖書を英訳するなどという論争のタネになることを許すには最悪だったからである。
何しろ、ヨーロッパ全土が寄ると触るとルーテルの反乱の話で持ちきりだった。『95箇条提題』は6年間にもわたって印刷され続けていた。その内容は単に免罪符売りを非難しているだけではなかった。宗教のみならず政治にまでローマ教皇が絶対的権限を有することも非難していた。
教皇によって叙階を受けた者のみが「聖職者」となるのではない – 主イエスの教えを信じる者すべてが「聖なる者」であると主張した。
従って当然サクラメント[訳注(1)]も純粋に聖書を起源とするもの、言い換えれば「神によって定められた」もとして、「洗礼」と「聖餐」のふたつしか認めなかった。
そしてドイツ各州の全枢機卿に向けて、ローマの軛(くびき)をかなぐり捨てよと叱咤激励する内容になっていた。その騒然とした改革の嵐は戦争への発展を危惧させるほどだった。
ルーテルはティンダルがロンドンに出てくる2年前の1521年に、現在のドイツ南西部の都市ウォルムスで開かれた神聖ローマ帝国の会議、いわゆる「ウォルムス国会 the Diet of Worms」に出頭している。
時の皇帝カール5世 Charles V は神聖ローマ・ローマ・カトリック教会の教皇レオ10世 Leo X から、ルーテルを破門にしたいので国会でも法的に圧力をかけて欲しいとの要請を受けていた。皇帝が国会を召集してルーテルを召喚したことには、その要請を巧みにかわす目的があった。
ルーテルが出頭してみると、目の前のテーブルの上に書籍と書類がうずたかく積まれている。カール5世が訊問する –
「まず訊ねるが、それらの書類その他のもの全てにその方の名が記されているが、全てその方が書いたものか否か。次に、その方はそれらをすべて撤回する意志があるか、それとも、あくまでも主張を固持するか」
ルーテルは最初の質問には簡単に「自分が書いたもの」であることを認めたが、もうひとつの質問には当日は答えず、翌日になって長時間にわたり、聖書の言葉を引用しながら返答している。
[訳注(1)] Sacraments : 神の恩寵のしるしとしての聖なる儀式で、ローマ・カトリック教会では7つあるが、英国国教会のようなプロテスタント系の教会では、ルーテルが主張した通りふたつしか認めていない。
皇帝がルーテルに「自己矛盾のない明快な返答を求める」と述べると、「では、陛下のお求めに従って矛盾撞着のない返答を申し上げさせていただきます」と述べて、用意した回答文を読み上げた。そしてその長文の回答をこう閉めくくった。
—–
教会の〈信仰告白〉によっても理性によっても得心しない以上、私は、私みずからが聖書から引用する言葉によって束縛され、また私の良心は神の言葉の虜(とりこ)になっており、主張を撤回することは不可能であると同時に、撤回する気にもなれません。
—–
聞き終わった皇帝が席を立って退場しようとした時、ルーテルはこう叫んだと伝えられる – 「これ以外に選択の余地はないのです。これが私が拠って立つ主張です。神よ、御力を!アーメン」
カール5世の臣下たちは、それから2週間にわたって、ルーテルと教会との和解を何とかして達成すべく苦慮したが、ついに実らなかった。ルーテルはウォルムスを去って居所のあるウィッテンベルグ Wittenberg への帰途についた。
が、その途中で「誘拐」されてヴァルトブルク城 Wartburg へ連れて行かれる。実はこれはルーテルの身の安全と、これ以上皇帝の感情をいらだたせないことを考慮しての王子の配慮で、臣下たちに命じて実行させたのだった。
ルーテルはその城で1年間、ユンカー・ゲオルグ Yunker Georg の偽名を使って過ごし、エラスムスのギリシャ語聖書のドイツ語訳に精魂を傾けた。これは結果的には、それまで各地で使われていた統一性のないドイツ語に標準を定めることになったとされる。出版後わずか2ヶ月で5000部が売れたという。
が、一方、皇帝は「トラブルメーカー」のルーテルに手を焼き、ついに教皇の命令を受け入れて「破門」の採決文にサインしてしまう。これでルーテルは法的には「異端者」であり、キリスト教の掟に拠れば、逮捕されれば即刻死刑に処せられることになった。
そんな中、ティンダルがロンドンへ出てくる年の前年に当たる1522年に、ルーテルは意を決してウィッテンベルグへ戻ってきた。宗教改革の過激派が偶像を焼き、教会への冒涜行為を働き、大騒動へ発展しかねない情勢となって来たために、それに歯止めをかけなければと思ったからである。
が、彼の信仰の自由の主張は少しも変わらなかった。ある集会でこう述べている – 「私はこれからもそれを説くし、教えるし、書きもする。が、私はそれを力で押しつけることは絶対にしない。なぜなら、信仰はみずからの自由意志で生み出すべきものであり、外部から無理やり押しつけるべきものではないからである」
それまで無理やりに押しつけられ、拒否することは死を意味するほどの拘束された精神世界で生きてきた一般人民にとっては、このルーテルの言葉は不思議な響きをもって聞こえたことであろう。ところが教皇や教会にとってはルーテルこそ「人民の敵の最たる者」だった。
英国のヘンリー8世もルーテルの言葉の意味が理解できなかった。彼は1521年に小冊子《マルティン・ルーテルに対抗した7項目のサクラメントの主張》を発刊、喜んだ教皇レオから「信仰の擁護者」と称賛された。
ヘンリーがそうした行為に出たのは無論ローマ・カトリック教会へのおべっかもあるが、ルーテルという「異端者」の影響が英国へ及ぶことを懸念したからであったことは明らかである。
そのルーテルのギリシャ語聖書の評判は日増しに高まり、さすがのロンドン司教のタンストールもティンダルの英語訳聖書を擁護するわけには行かなくなっていた。
対策のルーテルの信仰自由思想は、国王のヘンリーにとっても枢機卿のウルジーにとっても、何にもまして忌々しい思想で、従って基本的にそれとつながる聖書の英語訳も、人民が自分の判断力で信仰を批判するよすがとされる危険があると危惧された。信仰の自由は政治の世界での自由思想を生み出し、それはさらに国王の権威を弱めることになることは明らかだったからである。
タンストールから擁護を断わられたティンダルは、だからといって、あっさりとロンドンを離れるわけにも行かなかった。何とかしてロンドンに拠点を置くための活動をしなければならない。
実はタンストールからの返事を待っている間にもティンダルはフリート街の教会で何度か説教をしている。それが救いの縁を取り持つことになる。
集まった聴衆の中にモンマス Humphrey Monmouth という実業家がいた。ロンドンの実業界を取りしきっている大物で、ルーテルの教えに共感し、従ってティンダルの説教にも心を打たれるものがあった。
モンマスは説教後ティンダルに近づいて挨拶して話を交わしているうちに、まだロンドンに出てきたばかりでパトロンが決まっていないことを知った。
ではそれが決まるまでウチにいらっしゃい、というモンマスの招きを受けて、ティンダルは取りあえずモンマスの家に厄介になることになった。モンマスの日記にこう出ている。
—–
それから半年間ティンダル氏は私の家で過ごされることになった。思った通り真面目な牧師で、昼も夜も、ほとんど机に向かって本を読んでおられた。食されるものも身に付けられるものも質素で、高位の聖職者が賛のかぎりを尽くしているロンドンでそれは際立っていた。
—–
仕事柄モンマスはヨーロッパじゅうを飛び回っていて、パレスチナを初めとする聖地にも足を運んでいる。ルーテルの思想と出会うまではカトリックの免罪符を授かっている。その富と支配力がいかに大きかったかを物語っていよう。
その大きさはロンドンに留まらなかった。モンマスという姓はグロスターシャーに多いので、当然そこまで影響力が及んでいたことであろうし、ウォルシュ夫人の出であるポインツ家とも親しかった。
モンマス家に厄介になっていた6か月間にティンダルはタンストールの勧めで何人かの司教の官舎を訪ねているが、前述の通りの政情の中では、聖書の英語訳を進めるための便宜を提供してくれる司教はいなかった。英国の法律では司教の許可と推薦がなければならない。『モーセ五書」の注釈の中でティンダルは当時の世情をこう述懐している –
—–
そういうわけで私は、1年ばかりロンドンに滞在している間に世の移り変わりを目の当たりにし、またおしゃべり屋たちの噂を耳にして、牧師たちがいかに生意気で権威をかさに着ているか、高位の聖職者たちがいかに豪奢な生活をしているか、今と同様、騒ぎを鎮め秩序を保つためにいかに忙しくと立ち回っているか、そして、ここでは具体的な理由の広言は控えるが、なるほどこれではロンドンの大物(タンストール)といえども聖書の翻訳をする人物に部屋を貸すわけには行かない、いや、英国じゅうどこを探してもそういう場所はないことを悟ったということを、実際にそこで生活してみて断言できる。
—–
ティンダルは社会の現実を体験し始めたのである。リトル・ソッドベリー・マナーでも政治や宗教界の情勢は耳にしていた。が、それはウォルシュ家での賓客とのディナーの席で耳にしたものであって、聞くと見るとは大違いであることを、その時から認識し始めたのだった。
「豪奢な生活をしている」連中とはウルジーなどの最高権力者たちのことで、ティンダルは彼等が宗教家であるにも関わらず、宗教家としての仕事よりも「騒ぎを鎮め秩序を保つ」ことに、より忙しくしている現実を見ている。
有名な話として、ウルジーが教会で儀式を行なったことは滅多になく、たまに行なう時でも、本来は年少の下級聖職者が立ち会う「侍者」の役を司教などの上級教会役員に頼んだという。
農民の赤貧と無知が手に取るようにわかる環境で育った人間にとって、富と権力をむさぼることにばかり現(うつつ)を抜かし、国民の霊的欲求をはぐらかそうとする聖職者に取り囲まれた生活は、暗然とした気分にさせられるものがあった。
それに加えて、聖書がすでにドイツ語をはじめフランス語、イタリア語(ラテン語ではなく通俗語としてのイタリア語)、カタロニア語、スペイン語、ポルトガル語、チェコ語、そしてオランダ語など、多くのヨーロッパの言語に訳されていて、デンマーク語とスウェーデン語の訳もかなり進んでいるという事実も、ティンダルにとってはショッキングだった。
なぜ英語訳だけが取り残されているのか。ティンダルはエラスムスのギリシャ語訳の新約聖書を読めば読むほど、教会で説かれている教えは絶対に間違っていること、一般の老若男女も自国の言語で神の言葉を読む必要があるという思いが募る一方だった。
その思いは、ルーテルの著作を読むことでさらに増幅された。ルーテルの著作はウルジーの命令で英国への輸入はすべて禁じられていたが、ロンドンにはハンザ同盟の本拠地である「スティールヤード Steelyard」を通してこっそりと持ち込まれていたのである。
Steelyard という名称は steel(鋼鉄)から来たように思われやすいが、そうではない。もちろん鋼鉄も貿易品のひとつであったが、元来は「交易をする所」を意味する古いドイツ語の Stapel – hoff が語源である。
木造時代のロンドンブリッジの西、テムズ川の北に位置するところにあって、ほぼ五100年間にわたってドイツの商人や船主が集まっていた。ロンドンの商品のほとんどがここに運び込まれた。
小麦やライ麦をはじめとする穀類、ケーブル、マスト、タール、亜麻、大麻、リンネル、ワックス(ろう)などを運ぶ海運労働者が忙しく働いていた。その裏には、司教たちの目こぼしをいただくための、貿易商人による手練手管があったことは言うまでもない。
ハンフリー・モンマスがこのスティールヤードの人間と接触するようになったのは、リンネルの交易がきっかけだった。当然のことながら、交易が盛んになるにつれて、モンマスの目は他のヨーロッパからの輸入品にも移ったことであろう。
それは多くのヨーロッパ人との接触を生み、その結果わかってきたことは、スティールヤードで働くヨーロッパ人のほとんどがマルティン・ルーテルの人物とその教説に親近感を抱いていることだった。
一方ヨーロッパ人たちの方も、たびたびモンマスの家に招かれてご馳走になっているうちに親近感を抱いたのであろう、ドイツからの輸入品の中にルーテルの小冊子や著書をもぐり込ませてあることを口にした。
同席していたティンダルは、初めのうちはヨーロッパ各国の言葉に興味深く聞き入っていたが、その事実を耳にした時は、ただならぬ秘密を知った気分になった。
当時、英国当局は輸入禁止の品に鋭い警戒の目を向けていた。もし見つかったら交易の許可だけでなく命までも奪われてしまう。しかも、それを購入した者も逮捕され、それを輸出した国の関係者までもが処罰される。
かつては、宗教改革の研究者はティンダルの宗教観はルーテルに感化されたものとの見方をしていたが、今日ではティンダルはティンダル独自の発想によるものであるとの見方で一致している。影響は受けたであろう。
が、ルーテルも同じ考え方をしていることに力づけられた – つまり聖書に述べられていることと教会で説かれていることとの間に矛盾があること、それを知らせるためには各自が自分の言語で聖書が読めるようにしてあげたい、という願望に発していたということである。
モンマスの家で厄介になっている間、ティンダルはルーテルのドイツ語訳の読解に没頭した。もはやパトロンとなってくれる司教を求めることを諦めたティンダルは、許可を得る得ないに関わらず英語訳を進める覚悟を決めて、その準備に入った。
それが発覚して逮捕されれば死刑に処せられることを十分承知の上での結論だった。難解な部分はルーテルの訳を参考にし、ルーテルの訳でも納得が行かない場合は、独自の解釈で英訳することにした。
ティンダルの目にはルーテルとエラスムスの間にも違いがあることが次第に明確になってきた。ルーテルの著作の内容も行動も教会との対決の姿勢がますます尖鋭化して行くのとは対照的に、エラスムスは良く言えば中道的、悪く言えばローマ教皇と枢機卿たちを遠ざけない程度に改革派と妥協しようとするところが伺えた。
学者としてのティンダルにはエラスムスの理知的で温和な文章に共鳴するところがあったが、説教者としてのティンダルには、知らしむべからず依らしむべしといった態度を取りながら無意味な教義論争に明け暮れている教会の中枢連中には我慢ならなかった。
モンマス家に厄介になっている時でも、ティンダルと同じ考えを抱いている人とディスカッションをする機会がないわけでもなかった。その中でも傑出した人物にケンブリッジ大学出身の数学者のジョン・フリス John Frith がいて、いかにして英訳本を出すかで語り合った。
問題のひとつは、どこで印刷してもらうかだった。当時のロンドンには多くて5軒の印刷屋しかなかった。しかも常時印刷機を運転させているのは2軒だけで、その2軒も学校の教科書や音楽の教則本程度のものが精いっぱいで、ヨーロッパで印刷されているものに比べて、用紙の質もイラストもデザインも、その足元にも及ばなかった。
次の問題は、たとえヨーロッパの技術に引けを取らない印刷屋がいたとしても、教会の許可を得ていない聖書の英訳書を引き受けてくれるところはないということだった。うっかり許可を申請したら、とんでもない嫌疑をかけられるに決まっている。
そうこうしているうちに、1524年の春になって、聖書の英語訳の許可は下りないことが明確となった。いかなる形にせよ、聖書を英語に直すことをした者、およびそれに手を貸した者は、危険に身をさらすことになる。
たとえ訳しても印刷もしてもらえず配布もできないことになったからには、これ以上英国にいても無意味である。そう悟ったティンダルは思い切ってヨーロッパへの渡航を考えるようになる。
今でこそ英国からドイツへ行くのは簡単だが、ティンダルの時代には国王の許可証が必要だった。思想の統制をするには渡航を厳しく取り締まるのがいちばんだからである。が、今となってはティンダルにそんな許可が下りるはずはない。
そこで考えたのはスティールヤードとのコネである。モンマスをはじめ、密かに応援してくれている者たちによる資金援助を得て、彼は難なく英国を離れてルーテルの国ドイツへと渡る。これで自由に勉強し自由に翻訳に没頭できるとの確信に胸を膨らませながら…
ロンドンでもティンダルは当局から四六時中その動きを監視されていたわけではなかった。が、聖書の翻訳許可の申請が宗教界に知れ渡っていたので、その所在は知られていた。
となると、ヨーロッパに渡ったあとティンダルがいなくなったことも、いずれは知れるであろう。そして、ヨーロッパに逃げたことが知れると、当局は捜査員を派遣して所在を突き止める手段を講じるであろう。捕まると英国へ連れ戻されるに決まっている。
そこでティンダルがドイツへ来て真っ先にやったことは、偽名を使うことだった。
第5章 宗教改革と農民戦争の嵐の中で
貿易船で英国を密かに脱出したティンダルがヨーロッパのどの港で下船したかは推測の域を出ない。その推測からすれば、まず北海を航行したことは間違いないから、ヨーロッパの北東に位置する当時の3大貿易港、すなわちハンブルグかアントワープかケルンのいずれかであることは間違いないであろう。
この3つの都市はいずれも印刷業者が多く、またアントワープとケルンには大きな英国の商業共同体が存在していた。確実な証拠はないが、まずハンブルグで下船してから真っ直ぐにウィッテベルグへ向かったというのが、大方の研究者の一致した見方である。革命的宗教思想の発祥の地であり、ルーテルもそこの大学で教えていたからである。
そのウィッテンベルグ大学の記録簿の1524年5月27日の欄に変わった名前が出ている。 Guillelmus Daltici ex Anglia 、英語に直すと William Daltici of England となる。
当時の慣習として、名ないし変名を用いる時は姓の音節を逆さにすることが多かったから、Tyndale を Daltin とした。それを後世の者が写し書きする時に、語尾の n を ci と書き間違えたのであろう。
かくしてティンダルはヨーロッパで、英国およびローマのカトリック教会から派遣される秘密情報員の捜査の目をくましながら所期の目的を果たす準備を始めた。
ウィッテンベルグを最初の定住地として選んだのは、無論、ルーテルが大学で教えているからであるが、それだけではなかった。ウィッテンベルグ大学が学問の中心地であり、図書館も充実していることも理由のひとつだった。しかも、嬉しいことに、そこでティンダルは同じ宗教思想をもつ仲間を大ぜい見出すことになる。
ウィッテンベルグ市はエルベ川が西へ急カーブするその曲がり角に位置している。かつては「賢公」の誉れ高いフリードリッヒ3世 Frederick the Wise の支配下にあった王国ザクセン Saxony の一都市で、フリードリッヒが神聖ローマ皇帝の選挙候[訳注(1)]のひとりであったため、カール5世はローマ・カトリック教会に盾突くマルティン・ルーテルや、その後知られるようになるウィリアム・ティフリードリッヒ3世が「賢公」と呼ばれるには、それにふさわしいことをウィッテンベルグ市のために行なっている。
王宮およびそれに付属する教会を大改築し、3つの大衆浴場をこしらえ、そして例の大学を創立している。1502年のことで、ティンダルがやってきた1524年にはその壮大な計画はほぼ完了し、ウィッテンベルグ市は学問の中心地として、ヨーロッパじゅうにその名を知られつつあった。
新約聖書の英語訳を進めるティンダルにとって、どう訳すべきかで周囲の者たちと議論することが出来るということは、この上なく嬉しいことであったと思われる。差し当たって逮捕される危険性を心配する必要もない。が、英国での当局の動きがまったく耳に入ってこないことは、一抹の不安の材料ではあった。
[訳注(1)] Elector「選帝候」ともいい、6人いて、962年から1806年まで続いた神聖ローマ帝国の国王を選出していた。
ウィッテンベルグは港町ハンブルグから100マイルほどのところにあって、エルベ川を下れば簡単にその港へ行けるのであるが、それは距離上の話であって、ウィッテンベルグという都市の性格はある面では閉鎖的なところがあり、それが有利に働くこともあれば不利に働くこともあった。
ウィッテンベルグ大学にも問題が生じ始めていた。ルーテルがローマ・カトリック教会から破門されたことがきっかけで入学者の数が激減し、1524年度は200人に満たなかった。
その年からルーテルは司祭の制服の着用を止めている。たまには教師としてのガウンを着用することはあっても、普段はジャケットとズボンで教壇に立っていたという。
それはまだ良いとしても、地方の尼僧院を出た女性と、司教職を辞した男性との結婚を次々と認めたことで、そうでなくても教会内での権威を失墜したルーテルのその行為は、大きな物議をかもすこととなった。
他方、農民の不満と各州での反乱もウィッテンベルグに波及してきた。2年前ルーテルがウォルムスの隠れ家(ヴァルトブルク城)から急きょウィッテンベルグへ引き返すことになった騒ぎは農民戦争の序の口で、1524年には南ドイツとエルベ川東部一帯が大混乱に陥った。
当時の農民、いわゆる農奴と呼ばれていた人々には、領主の扱い方に不平不満を抱いてもムリはないと思われるものが確かにあった。
賢公フリードリッヒのように公平で思いやりのある支配者がいる一方には、農民を人間扱いせず、苦しめることに快感を覚えるような冷酷な支配者もいて、自分が通る時に帽子を取らなかったといいうだけで、その男を投獄した伯爵がいたという。
それだけではない。領主と教会へ納める税の重圧は尋常ではなかった。農民はそうした階層に生をうけたことを宿命として諦めて、ただただ無力をかこつしかなかった。
そこへルーテルのドイツ語訳の新約聖書や『95箇条提題』などの小冊子が出版された。それは明らかに司教や諸侯たちの間違いを指摘するものだった。読んだ者は一般庶民の決起を促すものと受け止めた。
司教の中の急進派には、これを1516年に出たトマス・モアの小説『ユートピア』と結び付けて、これで理想的社会が実現するのだと息巻いた。司教のひとりブルンフェルス Otto Brunfels は農民に納めさせている教会への税は聖書の教えに反すると宣言した。
さらに別の司教は、聖書に説かれている天国は農民に開かれているものであって、貴族や聖職者には閉ざされているとまで説いた。アールシュテットの司教ミュンツァー Thomas Munzer は、すべての財産は国民に平等に分けられるべきだと主張し、こう宣言した。
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この真理の正しさを正直に認めながら実行に移せない王子も公爵も男爵もすべて打ち首か絞首刑にすべきだ。
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これに呼応してハンス・ミュラー Hans Muller が、1524年8月24日に、少数の農民で「福音主義同盟 Evangelical Brotherhood」という名称のグループを組織して、全ドイツの農民の解放を目指す大運動を開始した。
大地主の貴族や聖職者に苦しめられていた農民がこれに加盟し、その年の終わりにはドイツ南部だけで3万人に達した。彼らは国税はおろか教会と領主への税を払うことも拒否し、自由解放を求め、それが達成されなければ死も厭わぬ覚悟を誓い合った。
1525年3月、彼らは窮状と要求をまとめた『12箇条 the Twelve Articles」をルーテルに送り、それを裏書きする署名を求めた。が、ルーテルはその回答として『和平への訓戒』と題する小冊子を印刷して公表した。
その冒頭でルーテルは、今回の農民の反乱は自分の教説によってそそのかされたものでないことを主張し、その根源的責任はひとえに聖職者と貴族諸侯にあると述べて、厳しい調子でこう断罪した。
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このたびの反乱を“したり顔”で眺めているのは、そなたたち王侯貴族、さらには目の眩んだ司教と分別心を失った牧師・修道士たち以外にはいない。彼らの心は聖なる福音に逆らって硬直化し、しかも、そうと自覚しつつも、それを正当化するすべを知らぬ。
それのみに留まらぬ。政府の役人はおのれの贅と高慢の生活を維持せんがために臣民から巻き上げられるだけ巻き上げ、彼らはもはや忍耐の限界に至っている…この反乱は神の憤りにほかならぬ。そなたたちこそその張本人である以上
は、その禍(わざわい)はやがてそなたたちに振り掛かることであろう…
農民はすでに決起し始めている。このまま進めば残虐なる殺戮と流血によってわが国ドイツは破滅と破壊と荒廃へと向うであろう。人間が過ちを悔い改め、神がそれをよしとされて御心を動かし給わぬ限りは…
—–
ルーテルは農民たちにも武器を捨てるよう説得し、両者は話し合いによる解決を求めるべきであるとの意見を陳述したが、反乱の勢いは言葉による説得では制しきれなかった。
農民はルーテルに裏切られたと受け止めて、キリスト受難の聖金曜日 Good Friday を期して悪名高い伯爵フォン・ヘルフェンシュタイン Ludwig von Helfenstein が支配するワインズベルグ市を包囲した。そして複数の代表が交渉を求めて防壁まで歩を進めたが、全員が伯爵と騎士たちによって虐殺された。
これに怒った農民側は、市民の加勢を得て復活祭の日に防壁を切り崩し、伯爵とその妻および側近の騎士たちを捕縛し、夫人の腕をふたりの農民が左右から抑えておいて、その夫人の見ている前で、伯爵と騎士を、武装して2列に並んだ農民の間をひとりずつ走らせ、槍や短剣で刺したり切りつけたりして惨殺した。夫人だけは、せめてもの情けということで尼僧院へ送ったという。
こうした無残な殺し合いがドイツのいたるところで発生していた。何百という城や修道院が農民の襲撃を受け、強盗と略奪は日常茶飯事をなっていた。教会の指導者や政治家を捕まえて『12箇条』を突きつけ、これを認めない者はその場で容赦なく殺された。
やがてそれが一般民衆にまで及び、ローマ・カトリック教会の信者も危険となってきた。完全な無政府状態である。
これにはさすがのルーテルも黙っていられなくなり、『略奪と殺戮を繰り返す農民に告ぐ』と題したパンフレットを発行した。その中でルーテルは、暴徒と化した農民の行為のあまりの酷さに動揺し、ドイツの国政と宗教的権威までが破壊しかねないことを憂慮して、前月の『和平への訓戒』のなだめるような調子を撤回して、厳しい調子でこう述べた。
—–
前回の書では、私はあえて農民を断罪することは控えた。私の支持どおりに節度を保つことを約束したからだ…ところが彼等は、その舌の根も乾かぬうちに暴力に訴え、強奪し、荒れ狂い、あたかも狂犬のごとき振る舞いをほしいままにしている…こうした事態に至ったからには、支配者たちはいかに対処すべきかを、ここで教示しておきたい。
暴力的行為を扇動したことが明らかな者は、すでに神と帝国の法の支配下にないものとして命を奪われてしかるべきであり、その者を殺(あや)めた者に罪はない…
それゆえ、反乱ほど有毒にして有害であり悪魔的であるものはないとの認識の上に立って、無分別な殺戮行為に出る者を、密かにであろうと人前であろうと、打ちのめしても切り殺しても刺し殺しても構わぬ。それは、まさしく狂犬を殺すのと同じである。やらなければやられる。自分だけではない。祖国全体が滅びるのである。
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これではルーテルは政治家や教会指導者に反乱者を殺してもよいと宣言しているようなものである。これが、折悪しく、農民戦争の大きな曲がり角で出された。ルーテルの宣言が出されようと出されまいと、兵力を備えた貴族側は大々的な反撃に出たに違いない。
もともと彼等には慈悲心などはカケラもない。そこへルーテルのこの宣言である。彼等にとってはタイミングが良かったし、農民たちにとってはタイミングが悪かった。その後の農民たちの悲惨な末路は、ルーテルのこの宣言のせいにされることになる。
貴族側は兵士とともに反乱分子の中心的な勢力を襲った。双方とも8000人を数える大集団である。が、貴族側の兵士は重装備をしている上に鍛錬されている。最初の一撃で数百名の農民が殺された。逃げ惑う農民が近くの町に逃げ込んだところをさらに追撃され、数千人が虐殺された。
こうした殺し合いがドイツじゅうで繰り返された。いくつもの村が焼き討ちに遭い、死臭が絶えないほどになった。復讐が繰り返されるごとに残虐さが増して行った。
そしてついには、これ以上農民を殺したら税を払ってくれる者がいなくなるから、という布告を出して中止を訴える侯爵が出るほどになった。反乱が収束した時、一連の戦闘と復讐による農民の死者は13万人にものぼった。さらに家を失って野宿する農民が5万人を超えた。
それからというもの、教会はカトリックもプロテスタントも、印刷物の検閲を厳しくするようになった。また、ルーテルの思想に同調していた司教の中にローマ・カトリック教への忠誠を改めて誓う者が相次いだ。
農民戦争はとどのつまりはルーテルの教えが扇動したとの結論に達したからだった。ルーテルも身の危険を感じ、その後何年もウィッテンベルグから離れることはなかった。
ティンダルはこうした背景の中で新約聖書の英語訳に取り掛かった。賢公フリードリッヒの足元ということで、ザクセン地方はウィッテンベルグとともに農民戦争による最悪の事態は免れた。
周囲が無政府状態となったことで、ティンダルは大学に留まって翻訳に没頭する良い言い訳になった。川を隔てただけの周辺地域での出来事は逐一ルーテルの耳にもティンダルの耳にも入っていたのである。
当然のことながらティンダルは、農民の反乱が及ぼす宗教改革への影響について大学の仲間たちと語り合ったことであろう。反乱のそもそもの発端がルーテルとその教えに無関係でない以上、そのことを口実に、これまで改革に同調していた諸侯が反対派に回ったらどうなるか。
ルーテルとその一派が攻撃の標的にされることは容易に想像できる。発行したパンフレットを回収するだけでは、単にルーテルの教えが広まるのを抑える、ないしは払拭するに過ぎない。
そうした不安の中にあっても、ティンダルは大学で自分と同等ないしは自分をしのぐほどの語学力をもつ学者との交わりが楽しくて仕方なかった。中でも抜きん出ていたのはメランクソン Philip Melancthon という学者だった。
15歳でBAの学士号を取得し、その2年後にはMAの修士号を取得したという。フリードリッヒ3世の指名を受けて1518年にギリシャ語の教授になった時は、まだ21歳で、その時すでにギリシャ語の文法書を出版していた。「エラスムス2世」と呼ばれたのも無理はなかった。
実はメランクソンは小柄で、脆弱で、見てくれは貧相で、しかも片方の足を引きずるような歩き方をしていた。が、彼のギリシャ語講座の人気は一通りのものではなく、多い時は500人を超える生徒でぎっしり埋まったという。しかもルーテルまでも生徒として全講座に出席したという。そのルーテルが自分と比較してメランクトンのことをこう評している。
—–
私は戦闘的人間として生まれついている。派閥と闘い、悪魔たちと闘うように生まれついている。それは私の著述を見ればお分かりであろう。中身が嵐のようであり戦争のようである。切り株を掘り起こし、いばらや垣根を切り払い、溝を埋めるようなことばかりやってきた。
言ってみれば荒っぽい森林業者のようなものだ。道を切り開き、あとから来る者のために万端を整えてあげた。それに引きかえメランクトン先生は悠然と、そして静かに歩き、楽しむかのように耕し、植樹し、種子を蒔き、水をやる。まさしく神の寵児である。
—–
気質的にはティンダルはルーテルよりもメランクトンの方が性に合っていたであろう。物静かで奢らないメランクトンとは対照的に、ルーテルは傲慢で、ズケズケと物を言うところがあった。が、それは別としても、ティンダルはメランクトンに接することによってギリシャ語の理解を深めたいという考えがあったに違いない。
ティンダルの英語訳は着実に進行して行った。膨大な量に最初は気の遠くなる思いがしていたが、どうやら現実のものとなるメドがついてきた。ルーテルが聖書をドイツ語に訳すに当たっては19種類もの他のドイツ語訳を参考にしたというが、ティンダルには参考にしようにも参考にする英語訳はないし、ウィクリフの手書きの英語訳[訳注(2])すら手に入らなかった。
彼が参考にできたのは、エラスムスのギリシャ語訳とヒエロニムスのウルガタ聖書、そして多分ルーテルのドイツ語訳くらいのものだったであろう。
だからといってティンダルはルーテルのドイツ語訳をそのまま英語に置き換えるということはしていない。ちなみにマタイ伝 5 の冒頭の文を両者がどう訳しているかを比較してみよう。まずルーテルの訳をそのまま英語に置き換えるとこうなる。
But when he the people saw, ascended he up a mountain, and sat himself, and his disciples stepped to him, and he opened his mouth, taught them, and said, Blessed are, they that spiritually poor are, because the heavenly kingdom is theirs. Blessed are, they that grief carry, because they shall consoled be…
この部分をティンダルは次のように訳している。
When he saw the people, he went up into a mountain, and when he was set, his disciples came unto him, and he opened his mouth, and taught them saying : Blessed are the poor in spirit : for theirs is the kingdom of heaven. Blessed are they that mourn: for they shall be comforted…[訳注(3)]
[訳注(2)] 14世紀中葉の宗教改革者で聖書学者だった John Wycliffe が門下生を指導して英語に訳させたもので、Wycliffite Bible ないしは Wycliffite Version と呼ぶ。
ティンダルの訳でもうひとつ指摘しておきたいのは、神学と言語との取り組みの中にあっても彼は常に農民や市民のことを念頭においていたことである。つまり、教会で教えられている神学との比較もさることながら、今までこういうものの存在すら知らなかった一般庶民や農民が誤解しないようにとの気配りをしながら正確を期したということである。
さて1525年の夏が近づいたころは、ティンダルの翻訳も脱稿に近づいていた。農民戦争も終息してウィッテンベルグから外出することがさほど危険でなくなってきた。そろそろ印刷のことを考えなければならない時期に入って来た。
が、どこを見渡しても英国人は自分ひとりである。確かに当時の大学の記録簿を見ても、ティンダル以外に英国人らしき学生の氏名は見当たらない。と同時に、祖国についての情報も何ひとつ入っていなかったようである。
[訳注(3)] 同じゲルマン系とはいえドイツ語をそのまま英文に置き換えることにはムリがあるが、文章の構成要素から見れば、ほぼ同じとみてよいであろう。ちなみにこの部分の日本語訳を、あえて古いものの中から紹介しておく。昭和26年発行の『英和対照・新約聖書』にはこうある。
—–
イエス群集を見て、山に登り、座したまへば、弟子たち御許に来る。イエス口開き、教へて言いたまふ、「幸ひなるかな、心貧しき者。天国はその人のものなり。幸ひなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」
—–
なお、ティンダル訳の when he was set…の set は誤植ではなく、現代語では sat となるところである。しかし、全体としては500年以上も前の英文とは思えないほど現代英語に近い。
ルーテルが聖書のドイツ語訳によってドイツ語を標準化したと言われるように、ティンダルも聖書の英語訳によって英語を標準化したと言われている。言語の天才シェークスピアが生まれたのは1564年であり、あの名作の数々が出たのは1600年頃のことであるから、シェークスピアもティンダルの英文に大いに影響されたはずだと専門家は見ている。
そのティンダルもそろそろウィッテンブルグを去らねばならない状況となってきた。実はルーテルは1525年6月27日に、尼僧院をやめたフォン・ボーラと結婚式を挙げているのであるが、ちょうどその頃 – その直前か直後に – ティンダルはウィッテンベルグをあとにしてハンブルグへ向い、エマソン家 the Emmerson family の厄介になっている。
詳しい事情は明らかでないが、エマソン氏は多分ロンドンのスティールヤードの仲間からティンダルの話を耳にし、農民戦争で荒れた年の前年に交誼を結んでいたのであろう。ともかくもティンダルにとっては巻町のハンブルグに滞在することは願ってもない好条件だった。
ティンダルはそこから英国の知人へ宛てて手紙をしたため、預けてある金を送り届けて欲しいと頼んだ。さらにティンダルは、いよいよ印刷する段階になった時には出版費用を援助すると約束してくれている何人かの商人にも連絡を取っているはずである。
預けてある金だけではとても出版は不可能だったからである。むろん彼等にしてみれば単なる投資に過ぎなかったであろう。たとえ密輪という危険を冒しても、聖書の英語訳はカネになると計算していたに違いない。
ティンダルが待ち望んでいたもうひとりの人物がいた。ロイ William Roye という、グリニッジのフランシスコ修道会出身の聖職者である。
ティンダルは自分の原稿のゲラ刷りの校正をする上で、自分以外の第3者で、ラテン語と英語、できればドイツも読める、教養ある人物がぜひとも必要であることをよく口にしていた。そこでロンドンの大物商人モンマスが、付き合いのある修道士の中からロイを選んだようである。
確かにロイは学識の上では文句のつけようのない人物だったが、性格に問題があった。すぐにカッとなることと、カネがあると遊びに浪費してしまうことだった。「彼の口の利き方は無教養の人間を激昂させ、人のよい人間を騙してしまう – 会ってすぐに、知り合ってすぐにである」とティンダルも書いている。
そうと知りつつも彼を雇ったのは、教養の面でほかに適切な人物がいなかったからである。そのロイを手紙で呼び寄せた。
しかし、イザ仕事に取り掛かろうとすると、ふたつの問題が立ちはだかった。ひとつは、ハンブルグには確かに印刷業者は多いが、ケルンやアントワープの業者ほど上質な印刷技術を備えた業者がいないこと。
もうひとつは、農民戦争の煽りでローマ・カトリック教会の警戒の目が厳しくなり、英語訳を出すということはきわめて危険であることだった。ロイと相談の結果、ハンブルグは避けてケルンで印刷することに決めた。ふたりはティンダルの書物や原稿その他の重要書類をまとめてケルンへ向かった。8月のことである。
ケルンは新約聖書の英語訳を出版するにはお誂え向きの条件が揃っていた。ドイツ最大の都市であると同時に貿易港でもあり、貿易商やそれに関連した商売人にあふれていた。
ライン川に面し、当時も今も世界最大の書籍見本市が開かれるフランクフルトの北に位置し、英国との貿易量も膨大な量にのぼっていた。
農民戦争の時はさすがに影響を受けたが、ふたりが訪れた夏ごろはすでに危機的状況は脱していた。まだその余波は残っていたが、ケルンの印刷業者はカネになると見ると喜んで引き受けてくれた。
ふたりが選んだ印刷業者はクウェンテル Peter Quentel であるという点でティンダルの研究家は一致している。熱心なローマ・カトリック教信者であったが、かなりの高齢で世慣れており、ルーテルという人物とその教義を支持する者がケルンで多くなっていることもあって、ふたりの依頼に応じたものと思われる。
1500年代の印刷技術は日数もかかり複雑を極めた。今と違って大半が手仕事で、1日で原稿用紙にして8ページ分を刷るのが精いっぱいだった。それも、折丁(おりちょう)[訳注(4)]にした時にページが順序よくつながるように注意深く印刷しなければならない。
その何10冊もの折丁を合本して、ようやく1冊の本に仕上がる。無論その前のゲラ刷り(校正刷り)の段階で誤植の有無を確かめなければならない。それはティンダルとロイの仕事だった。
手仕事だったことが時間と手間を取ったことは事実だが、ティンダルは各章の初めのデザインやイラストに工夫を凝らし、その仕上がりは芸術作品の趣が感じられた。
内側の余白には他の箇所の参考すべき箇所を記し、外側の余白にはティンダル自身のコメントを書き込んだ。それでも、ラテン語とギリシャ語を併記したルーテルのドイツ語訳に比べれば、かなりページ数は少なかった。
ティンダルとロイは毎日のように校正のためにクウェンテルの印刷工場へ通った。すべては順調に進んでいるかに思えた。英国の農民にも読んでもらえる新約聖書というティンダルの夢が刻一刻と実現に向かっていた。
その完成も間近いある日のこと、その工場によく出入りしているひとりの男が、ふとふたりの会話を漏れ聞いて不審に思う。それがきっかけで形勢がまた一変していく。
[訳注(4)] signature : 8ページ分を刷って、それをふたつ折りにしたもの。この製本方法は今も同じで、折丁1冊が18ページないし32ページが基本という。
第6章 ついに出版
クウェンテルの印刷所をよく利用していた男に、セント・メリーズ教会の主席司教ジョン・ドブネック、別名コウクレイアス John Cochlaeus がいた。
農民戦争をルーテルの教義とその一派の責任として非難していたために、フランクフルトにいたたまれずマインツ Mainz に逃れたが、そこでも暴動が起きてケルンにやってきたのだった。
そこでも教会への反乱が散発していたが、それもやがて主教の説得で収まり、コウクレイアスはフランクフルトに戻ってセント・メリーズ教会の司教の職につくようにとの要請を受けた。
が、フランクフルトでの体験がよほど不愉快だったのか、彼はそれを断わってケルンに留まり、ルーテル攻撃の急先鋒として活動していた。そのひとつがルーテルを非難するパンフレットをヨーロッパじゅうにばらまくことで、その印刷を同じクウェンテル印刷所に頼んでいたのだった。
ある日、印刷所に来て原稿に目を通していた時に、「英語聖書 English Bible」という聞き慣れない言葉を耳にした。不審に思ったコウクレイアスは、その日の仕事が終わったあと、従業員たちを飲み屋に誘った。その時の経緯をコウクレイアスは、のちに自分を第3者にしてこう綴っている。
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こうしてケルンの印刷屋の従業員と親しくなると、その酔いに任せて、英国の国王や枢機卿がどうあがいても、そのうち英国の人間もみんなルーテル派になることを確信に満ちた響きで断言するようになった。
さらには、自分たちが働いている印刷屋にふたりの英国人がこっそりやって来て、何やら奥でこそこそやっている – 教養もあり何か国語を流暢にしゃべる、とのことであるが、彼は見かけたことはないし、もちろん話を交わしたこともない。
そこで彼は、こんどは自分の家に従業員たちを呼んでワインを振る舞った。するとひとりが上機嫌になって、さらに奥の秘密を漏らした。ルーテルの新約聖書と同じものが英語になって、今3000冊が印刷中で、アルファベットの“K”のところ(聖書の「マルコ伝」あたり)まで進んでいるという。
その費用は英国商人がまかなっており、仕上がったらその商人たちが密かに英国へ持ち込んで、国や枢機卿による禁止措置が取られる前に英国中にばらまかれるだろうという。
コウクレイアスは内心これはただごとではないと思ったが、表向きはいかにも感心した振りをしておいた。そして翌日、その危険性に重苦しい気分になりながらも、これを阻止するにはどうすべきかを考えた末に、ケルンの国会議員でナイトの称号をもち、相談役で、ドイツ皇帝とも英国王とも親しいハーマン・リンク Hermann Rinck のもとを訊ねて、一部始終を打ち明けた。
リンクは酔っ払いの言ったことをそのまま信じるわけにも行かないので、事実を確認するために密かに別の人間を送り込んだ。すると、なんとコウクレイアスが言う通りの印刷が進行中で、しかも大量の用紙が山積みになっていることが判明した。コウクレイアスはその印刷を差し止める令状をリンクから出してもらってクウェンテルのもとを訪れた。
怪しい雰囲気をいち早く察したふたりは、その日の真夜中、印刷の済んだものだけを抱え持って船でライン川を上ってウォルムスへ向かった。その頃のウォルムスはルーテル派の運動が最高に盛り上がっていた時期で、そこで別の印刷屋を探して残りの印刷を完成させる考えだった。
一方リンクとコウクレイアスは英国王と枢機卿とロチェスター州の主教に宛てて、その有毒きわまる密輸品の侵入を絶対に阻止せよとの戒厳令を、英国のすべての港に発するように要請した。
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つまりコウクレイアスは、フランクフルトでの苦い経験から、ルーテル派による改革の波を水際で阻止することに躍起になっていた。
ただ、彼の行動はすべて隠密裏に進められていたにもかかわらず、ふたりはそれを察知して、出来上がった折丁と原稿と書物を持ち出して、125マイルも離れたウォルムス市へ向けてライン川を上っている。いったいどうやって察知したのか、誰か耳打ちした者がいたのか、その辺は今でも謎である。
ともかくもふたりは逮捕を免れたが、英語版新約聖書の出版がもくろまれているという事実が白日のもとに晒されてしまった。当然のことながらヘンリー8世とウルジーの耳にも入った。さらに、ローマ・カトリック教会派にも知れ渡って、かりに英語版が印刷されても英国へ持ち込むのは至難と思われた。
が、当のティンダルは、とにもかくにも「本」という形にすることだけに必死になっていた。新たに印刷業者を見つけないといけない。出費もかさんで、そろそろ貯えも心細くなってきた。
といって、ロイの手助けはぜひとも必要だった。彼の自慢話のクセは相変わらずで、どうやら出版の秘密が漏れたのも彼のせいではないかとの猜疑心も沸いたが、教養ある英国人として校正を託せる人間はほかに見当たらなかった。
つい4年前にはマルティン・ルーテルが国会での聴聞会に引っ張り出されたウォルムスは、今では改革派の牙城になっていた。当然のことながらティンダルとロイは大歓迎された。ショーファー Peter Shoeffer という印刷屋が仕事を引き受けてくれて、1526年の初め頃には出版にこぎつけたようである。
ただ、予算が残り少なくなっていたことと、印刷機のタイプがケルンの工場と違っていたこともあって、出来上がった英語版聖書は、最後に仕上がった時は今日の賛美歌集ていどの、こじんまりとしたものになっていた。
具体的に言うと、ティンダルのプロローグ(序文)と左右の余白の書き込みが削除された。各章の始まりの彩色のイラストも削除され、各書の扉のイラストだけが、予定より小さい形で印刷された。ただ、ティンダルは予定していなかった3ページのエピローグ(後書き)を付け足して、不本意ながらこういう形で出さざるをえなかった事情があるが、
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それを述べると弁解じみて聞こえるので、ここでは述べない。足らざるところは、いずれ補う時期も来るであろう。であるから、月満ちずして生まれた赤子のようなもので、これで終わったのではなく、これから成長していく、その始まりと思っていただきたい
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と述べ、いつかきっと改訂版を出すと約束し、最後に3ページに及ぶ正誤表を付している。植字工が英語を知らない者ばかりであったことを思えば、ふたりで必死に校正してその程度の誤植ですんだのは上々というべきであろう。
もうひとつ付け加えれば、ティンダルはその英語訳聖書のどこにも自分の氏名を記していない。それは、イエスの「徳積みは密かに行い、良心の満足にてよしとすべし」に倣(なら)った、と述べている。
この、言うなれば『ウォルムス版新約聖書』はそれから1ヶ月もしないうちに、つまり1526年2月の初め頃には、ロンドンの副司祭ギャレット Master Garrett によって英国で公然と売られていた。
なぜか?一体どういう経緯でそんなことが可能になったのか?それを詳しく述べると1冊の本になるほどの、ヨーロッパ全土を巻き込んだ政治的混乱と飢饉が絡んでいる。ざっと述べると –
前年から始まっていた旱魃(かんばつ)に近い天候でロンドンは食糧不足に瀕していた。枢機卿のウルジーは穀物の保存のために各州の農民に命じて穀物を供出させないことにした。ところが皮肉なことに、そうなるとロンドンに穀物が配給されないことになった。
そして遂には餓死者も出かねない状態となり、栄養不足から病気が蔓延し始めた。ロンドン市長はこのままでは暴動が起きかねないと案じ、ウルジーに向かって「このままでは市民は餓死するか、さもなくば強権を発動して、穀物を輸入するしかない」と警告した。
ウルジーとの間でどのような取り引きがあったかは定かでないが、結果的にはスティールヤードの貿易業者はヨーロッパから公然と多量の穀物を輸入するようになり、ロンドン市民は餓死を免れ、健康状態も回復していった。
が実は、その穀物の中にティンダル訳の新約聖書が埋められていた。それをスティールヤードの業者たちがドックから倉庫へと密かに持ち込み、待ち受けていたロンドンの書店経営者がそれを受け取り、さらに英国の他の地域へも持ち運ばれた、という次第だった。
実はそれ以外にも巧みな方法があったようである。エイヴィス F. C. Avis の記述によると「見かけはワインかオイルの樽だが、その中に完全防水の箱に入れた危険な布教用の聖書が忍ばせてあった。
各種の穀類や皮類のラベルが貼ってある船荷も中身は聖書を初めとする禁制(きんぜい)の書物だった。小麦粉の中にも入念に梱包された禁制品が忍ばせてあった」という。
製本される前の印刷された用紙も「布地」というラベルを貼った船荷の箱に忍ばせてあり、印刷所へ持ち込んで折丁にし、綴じて裁断し装丁する、ということまでしたようである。ローマ・カトリック教の歴史家シュースターL.A.Schusterはその時の様子をこう述べている。
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すでに1526年の3月の終わりごろには、ロンドンに通じる大動脈に沿って東部の海岸線の港や川、入江を通り、東部アングリア(イングランド東部のノーフォーク、サフォーク、アイル・オブ・イーリなどの州 – 訳者)のヒース荒野や沼地を越えて、英語訳新約聖書の初版本という名の一触即発の爆薬が密かに持ち込まれていた。
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ついに入ってきた
この乱れた王国にもあの恐るべき力が。
我々が現(うつつ)を抜かしている間に、
監視の厳しい貿易港から密かに上陸し、
今まさにその姿を見せんとしているのだ」(シェークスピア『リア王』)
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反カトリックの英国の宗教改革は激烈な新しい局面に入りつつあった。ラテン系の民族集団や辺地拳」の聖職者たちによる懸命の阻止行動を跳ね除けて、改革の奔流は商業の世界にまで押し寄せ、宗教改革の不朽の武器である聖書が一般市民の手に渡るのも、もはや時間の問題となっていた。
その英語訳聖書の価格は労働者の1週間の平均賃金のほぼ半分で、低賃金の労働者には大金だったが、一般庶民には決して手の届かない価格ではなかった。近所の者と出し合って1冊を買う人たちもいた。その中で文字の読める者が声に出して読んで聞かせるということが、各地で行なわれた。
物々交換もやっている。例えば山ほどの干し草と1冊という具合である。こうして農民からあらゆる階級の英国民が、初めて聖書を自国語で読み、あるいは聞くことになった。まさに「天の声」を聞く思いだった。それだけに、それを阻止せんとする動きもまた激しくなって行った。
密輸業者の立場からすれば、禁制の新約聖書の初版がロンドンに運び入れられた時期が願ってもないタイミングだった。ロンドンの大物司教のタンストールは8月まで国外にいたし、ウルジーと国王もヨーロッパとの軋轢(あつれき)の処理で手いっぱいだった。
フランスとの和平も心もとなく、それに加えて1526年にはオスマントルコのスレイマン1世 Suleiman 'the Magnificent’ の侵略に戦々恐々となっていた。
そのころ神聖ローマ帝国のカール5世はフランス王のフランソワ1世を捕虜にしていた。が、フランソワはスレイマンに復讐を要請する手紙をしたためて、それが首尾よくスレイマンの手にわたった。
スレイマンがそれに応えて戦略を練っている時、獄中のフランソワは解放の条件としてカール5世が出した幾つかの条件を呑む契約書にサインをしていた。実はこのウラには巧妙なカラクリがあった。フランソワはそれより先に密かに別の法的契約書にサインをしていたのである。
その内容は、自分が幽閉中にサインした契約はすべて無効とする、というものだった。その事実は巧妙な手段で獄中からフランスに伝わっていた。かくしてフランソワはカール5世の出した条件をすべて呑むという契約のおかげで、無事フランスへ帰ることが出来た。が、その時はすでにスレイマンはフランソワの要請を受けてハンガリーを攻撃中だった。
時のローマ・カトリック教会の教皇クレメンス7世 Clement VII はヨーロッパ全土のキリスト教指導者にハンガリーの救援に出撃するよう指令を出した。
が、ルーテル派の指導者たちはスレイマンによる侵略は神が裁可なさったものとの判断のもとに、ドイツ諸侯にその要請に応じないようにとの指令を出した。スレイマンに敵対する者は神に敵対するのも同然であると説得されて、諸侯は行動を控えざるを得なかった。
神聖ローマ帝国のカール5世はその頃ローマから搾取し教皇クレメンスを捕虜にすることに躍起だった。フランス王フランソワの解放の条件が明るみになった時にクレメンスがフランソワに味方したことに対する報復だった。かくして敵の抵抗の手薄さに乗じて、スレイマンは簡単にハンガリーを制圧した。
このスレイマンという「不信心者」が、ただ単にルーテル派のドイツ諸州が救援に赴かなかったためにヨーロッパの一部(ハンガリー)を征服したことに腹を立てた英国のヘンリー8世は、プロテスタントの教義に対する敵意を増幅させた。
一方の改革派は、ローマ教皇の言うなりになるくらいならイスラムの侵略に甘んじる方がましだと考えるほどになっていた。
ヘンリーにはもうひとつの悩みがあった。妻のキャサリンに子どもを産む可能性が絶望的になっていたことである。当時は41歳という年齢で子ども産むこと自体が有り得ないことだったが、キャサリンは幾度となく流産し病気がちだったので、なおさらのことだった。姿を目にした庶民は、その老けた容貌に驚いたという。
さらに言えば、当時は噂に上らなかったが、ヘンリーの日記によると、1524年にはすでに夫婦の営みは絶無だった。それより10年前にすでにヘンリーは離婚の許可を教皇に要望する考えを抱いていたようであるが、王女のメアリーが誕生してからは、いったんそれを胸に仕舞い込んでいた。
しかし、もはやキャサリンが男児を出産する可能性が絶望的となってから、再びその考えを密かに抱いていたようである。
ヘンリー自身、決してキャサリンを嫌っていたわけではなかった。教養もあり洗練されていて、信仰心も厚かった。人間的には心から愛していたし、キャサリンもまたヘンリーを愛していた。
が、男児の後継者がいないということが彼を不安にしていた。王位を狙う各王家による抗争が激化して、王国の存続が危ぶまれる事態になるのではないか…それを食い止めるためにも、なんとしても男児が欲しかった。
ヘンリーに1519年生まれの嫡出でない男児がいたことは事実である。君主の中には嫡出でない子を後継者にした例は少なくない。ヘンリーもその子をリッチモンドとサマーセットの公爵にしていたが、その後、バラ戦争の悲惨さを見てからは、英国を2度と分裂させないためには嫡出の男児に王位を継がせるべきだという考えを固めていた。
ヘンリーはチューダー王朝となってわずか2番目の国王で、まだ地盤は堅固ではないことを自覚しており、もしも非嫡出の子に王位を継がせたら、チューダー王家の他の嫡子から正当な権利の主張が出てくることは間違いないと踏んでいた。
どうやらヘンリーが例のアン・ブーリン Anne Boleyn に目をつけたのはこの頃であろうという歴史家が多い。ブーリンはその4年前にキャサリンの侍女として王室に勤めるようになっている。
当時まだ15歳だった。とくに美人というわけでもなかったが、輝くような目、長い黒髪、優雅さとウィットに富んだ性格は、ひとりヘンリーのみならず、宮廷内の男達をとりこにしていた。
残された記録や手紙から推察すると、ヘンリーは1527年頃にはすっかりブーリンに魅せられていたようである。確かに、その1年前から他の女性がヘンリーと親しくしている現場を見た者がいない。国王が1年間も寝室に女性を入れないということは、まず考えられないことだった。
そうした英国王室内のプライベートな問題を抱えている中で、降ってわいたように英語訳新約聖書が出回り始めて、政界も教会も上を下への大騒ぎとなった。
それを、事もあろうに、ロンドンの副司祭が先頭きって売りさばいている。ヨーロッパから帰国したタンストールもその英語訳を手にして驚いた。タンストールといえば、3年前にティンダルがロンドンへ出てきて聖書を英語に訳す許可を得ようとした、その人である。
その時は誰かほかの司教に頼んでみてくれないかと体(てい)よく断わったのであるが、3年後の今、それが立派な書物となって出版されている。
タンストールは激怒した。教会組織の屋台骨を揺るがしかねないと同時に、英語に訳すこと自体が英国法を犯している。さっそく全司教を召集し、枢機卿のウルジーにも参加してもらって対策を論じ合った。結論はいたって常識的な手段に落ち着いた。
出回っている英語版新約聖書を片っ端から買いあさり、破棄することだった。もちろん港という港に政府の役人を配置して、荷揚げされる貨物を徹底的に監視して、国内に持ち込まれるのを阻む。また、売買は言うに及ばず、ただ所有しているだけでも厳罰に処することになった。
さらにタンストールは、1526年10月24日付けで、配下の副司祭に宛てて指令を発した。その趣旨は要するにウィリアム・ティンダルとウィリアム・ロイによって新約聖書が日常英語に翻訳されたことは遺憾であることを述べたもので、その翻訳文についてこう述べている。
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その中には異端的な堕落や有毒な誤り、純心な心を迷わす、疫病にも似た有害な記述が見られる…日常語に翻訳されたために疫病的な有害性が含まれており、それが今われわれの教区に大量にばら撒かれつつある。
げに、由々しき一大事であり、早めに処置を施さないと、われわれの信徒に異端的堕落という疫病が蔓延することは必定である。
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これは、教会内の、あまり気乗りがしない連中を意図していることは明らかである。それから30日もしないうちにタンストールは二の矢を放って一層の注意を喚起している。それは、発見した英訳本はすぐさま教会当局へ提出すること – そのまま所持していることが判明した時は厳罰に処す、というものだった。
その一方でタンストールは、翌日、ロンドン市内の書店経営者を呼び集めて、彼らにも警告を発している。ティンダルの新約聖書はもとよりルーテルのラテン語の書物も置いてはならぬというもので、それに従わなかった者は命の保証はないと警告したことは言うまでもない。
もっとも、こうしたタンストールの矢継ぎ早の処置はフラストレーションから来ているという見方もある。つまり、自分こそロンドン司教であるのに枢機卿のウルジーが何かと出しゃばって、自分がやるべきことを勝手にやってしまうことに不快感を抱いていたという見方である。
その2日後には、セントポール寺院の西の入り口に面したセント・ポール・クロスと呼ばれる広場で説教をしている。言うまでもなくティンダルとその英訳聖書を非難する内容で、その中でタンストールは、ティンダルの訳には2000箇所もの誤りがあると述べたという。
それをヨーロッパで聞いたティンダルは、たぶん彼は“i”の点が落ちていたらそれを異端の証拠とするのだろうな、と皮肉たっぷりに言ったという。もっとも現代でも2000箇所の誤植を発見した学者はいない。
すら肉その説教のあと、タンストールは強烈な演出を行なっている。ティンダルの英訳新約聖書を取り出してみんなに見せ、それを燃えさかる炎の中に放り投げた。
いわゆる焚書(ふんしょ)は英国では珍しいことではなかったが、その書物が異端者を象徴していたことは言うまでもない。そのタンストールの行為をヨーロッパで聞いたティンダルはこう言ったという。
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新約聖書を焼き捨てるという行為は私が予測していたことなので、少しも驚かない。こんどはこの私を焼き殺せば満足なのだろう。それが神の御心であればそれでよい。が、断言するが、新約聖書を翻訳することで私は神から授かった義務を果たしたのだ。
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文字だけ読むとティンダルは平然とそう述べたかの印象を受けるが、内心はそうではなかったであろう。聖職者ならみな同じであろうが、ティンダルにとっては尚のこと、ただの焚書とバイブルの焚書は意味が異なる。
たとえ一部分であってもバイブルが焼き捨てられるということは耐え難いことであるはずだ。こともあろうにロンドンの司教が神の言葉を焼き捨てるとは…
それは、タンストールがギリシャ語の学者でもありエラスムスと親交があったことと考え合わせれば尚のこと、ティンダルに計り知れない心の痛みを与えたことであろう。
あれほどの学者なら、自分の訳文にギリシャ語聖書の言葉と精神がいかに反映しているかくらいは一読して分かったはずである。それをなぜ大勢の聖職者を前にしてそのような非道な演出までして、英語訳聖書の普及を阻止しようとするのか…
こうした疑念はひとりティンダルに留まらなかった。ケンブリッジ出身の学者ジョン・ランバート John Lambert もこう書き残している。
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それのみに留まらない。私もそのセント・ポール・クロスに居合わせて、海の向こうで印刷された新約聖書が司教によってこっ酷く非難されるのをまず聞いた。ロンドンの最高位の司教がなぜそうまとで悪しざまに言うのだろうと、私は情けなくて仕方がなかった。
その英語訳には酷い誤り山ほどあるかに言っていたが、私だけでなく他のどの学者も1箇所の誤りも見出していないのだ。ああ、情けなや。これは、ただの怨恨で片づけられる性質のものではないように思う。神よ、救いたまえ。
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こうしたタンストールの必死の策謀もむなしく、英語訳聖書は英国内でますます広まって行った。そして同じ年の11月には海賊版が出回るようになった。
ベルギー北部の都市アントワープの印刷業者クリストファー・フォン・エンドフォーベンが3000冊を印刷している。ウォルムスで印刷されたものよりかなり小さい判で、校正も十分でなかったが、小型判であったことが輸入をたやすくしたのだった。
その海賊版とウォルムス版とで約6000部が出回った。これは当時としてはとてつもない部数であろう。16世紀のヨーロッパでの発行部数は1000部から1500部が普通で、ルーテルのドイツ語訳の初版でさえ4000部止まりだった。
ティンダルの英語訳がわずか数か月で海賊版と併せて6000部にも達したということは、ティンダル自身が考えていた通り、英国民が自国語で聖書を読みたがっていたことの証左であると言えよう。
立場こそ違え、事態を正しく認識していたのはウルジーである。庶民が自分で読める聖書を手にしたらどうなるかをウルジーは早くから恐れていた。そして、その事態が次第に収拾がつかなくなって行きつつあることを認識し始めた。
彼は低地三国(ベルギー・ルクセンブルク・オランダ)の英国大使ハケット Sir John Hackett に指令を出して、その地方の印刷業者、書籍販売者、その他、英語訳新約聖書の製本と販売にかかわる者を徹底的に取り締まらせた。枝を切るよりも根を断つのが最善の策であると考えたのである。
ハケットもこれを深刻に受け止め、1527年1月中頃までにアントワープと、今日のオランダの西海岸の都市ベルゲン・オプ・ズーム Bergen – op – Zoom で大々的な「聖書焼き」を行なっている。
さらにハケットはウルジーから、低地三国の摂政王女マーガレットと、アントワープの英国貿易商会の会長へ宛てた手紙を受け取り、それぞれに届けている。そうした工作が実ってフォン・エンドフォーベンは逮捕され、彼の印刷した海賊版は没収され、その印刷機も破壊された。
ハケットの役目はそれで終わったわけではなかった。隠れた英語訳聖書と印刷業者の発見のためにアントワープ、フランクフルト、バーロウ、ゼーラントその他の低地帯都市を往復することになった。が、それは、出し抜かれることの連続でもあった。
ゼーラントの港に着いた時は、その前日にスコットランド向けの書物を積んだ船が出港したばかりだった。また、1527年4月にフランクフルトで開かれた書籍見本市には2000冊以上の英語の本が出品され、その中にはティンダルの英訳新約聖書が含まれていたということも聞かされた。
ハケットはそれなりの仕事はしたものの、結局はひとりの英国の大使にとってヨーロッパがあまりに広すぎることを思い知らされることになった。
さて本国の英国では、ヘンリー王までがこの問題に頭を悩ましていた。1527年の2月には
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枢機卿(ウルジー)を初めとする霊験あらたかなる長老諸兄の忠言を尊重いたし、問題の、誤りだらけの英訳聖書は焼却処分とすることに決した。そしてその所持者ならびに読者には厳しき叱責と処罰しを科すこととする
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との宣言を公布した。が、こうした政教が一丸となって英訳新約聖書を根絶やしにせんとする努力も、商売人のたくましい商魂には適わなかった。
1527年5月、大司教ウォーラム Archbishop Warham が、発行された英訳新約聖書を買い取るための資金を提供すると提言した。これを聞いてさっそくノリッジの司教ニックス Nix は賛意を表して献金し、「閣下の神聖にして恵み深き行為は神の大いなる報いにあずかることでございましょう」との親書を添えた。
ところが、その金が巡りめぐってどこに落ち着くかは、ふたりとも分かっていなかった。司教連中がこぞってその英訳聖書を買って焼却する。それで商売人が儲ける。儲かった金でまた聖書を購入する。それをまた司教連中が買ってくれる。印刷屋は儲かるし、ティンダルのもとにも印税が入る。ティンダルはそれを印刷費に回して増刷してもらう…といった具合だった。
しかし、その頃ウォルムスのティンダルは別の幾つかの問題で頭を痛めていた。そのうちの最大のものは、案の定、助手のロイのおしゃべり癖だった。ティンダルにとっては得難い助っ人としてこれほど感謝しながら、これほど不愉快な思いをさせられる男も珍しかった。
ルーテル派が牛耳っているウォルムスでは、その影響は深刻な事態は招かなかったが、それでも何か月にも及んだ校正と印刷の仕事が予定通りに終了した時は、ティンダルは安堵の胸を撫で下ろした。
ロイは友人と新しい仕事を始めて、そこそこの金を儲けた。そしてウォルムスから350マイルほど離れたストラスブルクへ向けて発った。これでこいつとの縁も切れる…ティンダルはそう思った。
が、その安堵も束の間だった。程なくして、ロイが赴いた先々で、英語約聖書の出版で自分が果たした役割について針小棒大の自慢話をしている噂が耳に入るようになった。
さらに1527年5月、つまりジョン・ハケットがウルジーの命令で北部ヨーロッパを回ってティンダルの英訳聖書を探索し、見つけ次第没収し所持者を投獄することに躍起になっていた頃、修道士ジェローム・バーロー Jerome Barlow がティンダルのもとを訪ねてきた。
バーローはロイと同じグリニッジのフランシスコ修道会に所属し、やはりローマ・カトリック教会の有り方に疑念を抱いていた。これからストラスブルクへ行ってロイと会うことになっているという。
ティンダルはバーローにロイと仕事をすることには賛成できないことを率直に述べ、その理由としてロイの自己顕示欲が尋常なものでないこと、この(宗教改革)の仕事は黙々と、そして忍耐強く進める必要があることを説いた。が、バーローはその忠告を無視してロイと仕事を始めている。
ふたりがどういう仕事をしているかが分かったのはそれから1年後のことで、ラテン語の対話文を英語に翻訳しているという。そして、それが巡りめぐってティンダルの身の上にも不利となる情報をもたらすことになる。ウォルムスに潜伏していることが知れたのである。
ハケットが英語聖書を没収して焼却し、所有者を投獄していることは数か月前から耳にしていたが、自分の所在だけは知られていないようだった。が、それを口の軽いロイがしゃべったのであろう。ハケットがウォルムスに探索の手を延ばすであろうことはもはや時間の問題となった。
確かにウォルムスはルーテルとその一派の拠点であり、思想的には居心地がいいが、ティングルは英国人である。英国王の命令を受けた大使が逮捕に来れば、引き渡さないわけには行かないであろう。もはやウォルムスも安住の地でないと悟ったティンダルは、一刻も早くその地を去ることにした。
ティンダルが次の潜伏地として選んだのは、ウォルムスから北西へ80マイル、フランクフルトから北へ100キロのところにあるマールブルク Marburg だった。小さな都市で、ハケットが探索を続けている地域から遠く離れているとはいえ、その歴史的な知名度から、決して安泰とは言えなかった。
マールブルクは今では普通の都市であるが、当時はドイツ中部の洲ヘッセン Hessen の首都だった。ティンダルの目にはマールブルクは歴史ある中世の都市として映ったことであろう。丘陵地に位置し、土地の諸侯(伯爵)によって政治が行なわれ、フィリップ方伯[訳注(1)]によって支配されていた。
フィリップ王は1524年にルーテル派に宗旨替えをしていた。農民戦争の時は「賢公」フリードリッヒ3世の味方をし、諸侯に命じて農民の反乱を抑えさせ、ドイツの中心都市を破壊から救った功績は高く評価されていた。
公爵たちはみなルーテル派で、その後もそれは変わらなかった。そういう都市や支配者が南部のローマ・カトリック派の諸侯による画策に負けないよう団結させたのも彼で、ルーテル派の政治家としてそこまで力を発揮したのは、彼が初めてであろう。
[訳注(1)] Landgrave Phillip the Magnanimous :「方伯」という呼称は中国から来たもので、伯爵の中の最高位。 the Magnanimous は「高潔なる王」といった意味。
1527年、すなわちティンダルがマールブルクに到着した年に、フィリップはヨーロッパで最初のプロテスタント系の大学を創立している。校名に自分の名を冠して Phillips University とした。
創立の目的は言うまでもなく次世代の聖職者および国家の役人にルーテル神学を教えることで、入学者はうなぎのぼりで増加していったが、ティンダルが到着した頃は創立されて間もない頃だった。
そうした事実からも想像がつくように、マールブルクでのティンダルは比較的のんびりとした空気を満喫していたことであろう。新しい大学の資料も閲覧できたし、ケルンやウォルムスで自分の翻訳した聖書のことで侃侃諤諤(かんかんがくがく)の論争が続いている、その喧騒も耳に入らなかった。
そのマールブルクでやりたかったのは旧約・新約聖書の研究と翻訳だった。が、外界の激動はそうした隠遁者的生活を許さなかった。ティンダルは再びその激流に呑みこまれて行く。
第7章 3冊の著作と『モーセ五書』の翻訳
1527年の夏の終わりごろまでには、数千冊にも及ぶティンダルの英訳聖書が英国へ流入していた。没収されて焼却処分になったものものも少なくなかったが、枢機卿のウルジーはただの没収と焼却では生ぬるいとみて、その温床とみられるルーテル派の指導者を直撃することにした。
その最初の標的とされたのはケンブリッジ大学系の学者たちだった。その中にトマス・ビルニー Thomas Bilney 、愛称リトル・ビルニーがいた。
伝記作家のジョン・フォックス John Foxe によると、トリニティ・カレッジの教師だったビルニーは当時30歳を超えたばかりで –
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法学士の資格をもつ信仰深き人物で、小柄で、しかも節制した食生活を厳格に守っていたからか、ほっそりとしていた。文学に親しみ、聖書の研究に熱心で造詣が深かった。
それは彼の説教の内容によく出ていて、不信心者を改心させ、業病者(ハンセン病患者)のもとを訪れて教えを説き、その身体をシーツでくるんでやり、欲しいものを恵んであげ、キリストの教えを信じるように勧めた。
自暴自棄に陥っている者を根気よく説教し、獄中にいる者や救い難い境遇に喘いでいる者にも教えを説いた。ケンブリッジ大学の模範的実践家であると同時に、サフォークとノフォークの模範的牧師でもあった。
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ビルニー自身の信仰革命はエラスムスのラテン語の著書で「信仰義認」[訳注(1)]の教義と出会った時に始まる。その時のことをビルニーは「私は自分でも信じられないような内的安らぎと静けさを覚えた。傷ついた体が喜びのあまり飛び上がらんばかりの衝撃だった」と記している。
こうしたビルニーの体験と生きざまは同じケンブリッジ系のふたりの指導者、即ちロバート・バーンズとヒュー・ラティマーに大きな衝撃を与えている。ただしビルニーは、儀式や典礼を第一に優先する在来の宗教の有り方を非難する点ではルーテルに賛成だったが、教皇制度とローマ・カトリック教会の権威の絶対性は認めていた。
ビルニーが説教師としてのライセンスを得たのは1525年であるが、その説教の内容のことで、出向いた土地の修道士とよく衝突している。説教壇から無理やり引き下ろされたことが2度ある。
ノリッジでのことで、会衆が騒ぎ出した時が1回、もう1回は1526年のことで、ウルジーの訊問を受けて、2度とルーテルの教義のことは口にしませんと誓っている。
しかし同じく1527年の11月に、また逮捕されてロンドンへ連行されている。この時は以前より事態が深刻だった。「異端者」のレッテルを貼られて、タンストールを初めとする司教連中の前に引き出された。
ルーテルの説を異端とし、その教説を説かないようにしていたビルニーは、なぜ逮捕されるのか理解に苦しむと弁明したが許されず、そのまま、あのロンドン塔に投獄されている。
訊問のためにしょっ引かれたのはビルニーだけではなかった。翌年の2月にはタンストールが大々的なキャンペーンに出て、ルーテルの支持者やロラード(第1章で出た14世紀中期の宗教改革者ウィクリフの信奉者)、その他、教会にとって脅威となる者たちの一斉検挙を強行した。
ために3月の中頃には監獄が満杯になってしまった。この事実を見てもティンダルの英訳聖書がいかに多くの英国民の手に渡っていたかが知れるであろう。
[訳注(1)] Justification by Faith : 罪を犯した人が信仰によってその罪と罰を免れるという教説。
ヨーロッパへ逃れる直前まで半年間にわたってティンダルに部屋を提供していた実業家ハンフリー・モンマスも投獄された。モンマスは獄中から枢機卿ウルジーを通じてヘンリー王宛てに嘆願書を書き送って寛大な処置を求めた。
確かにティンダルは半年にわたって自分の家に居候をしたが、その間のティンダルの生活ぶりは極めて真面目な聖職者で、1日じゅう読書に耽っていて、何ひとつ怪しい行動はしていないと弁明したが、聞き入れてもらえなかった。
正確にいつ頃からかは断定できないが、どうやら自分が怪しまれ始めていることを感じたモンマスは、ティンダルが残していった説教集を全部焼却していたので、家宅捜査をされた時は何ひとつ証拠となるものは出てこなかったが…
そうした検挙と投獄のニュースはドイツにいるティンダルの耳にも入っていた。その頃ティンダルは新約聖書の改訳と旧約聖書の英訳に取り掛かっていた。それと同時に〈ウィリアム・ティンダル著〉と明記した最初の著書の執筆にも苦心していた。
せっかくの協力者でありながらトラブルのタネを蒔き続けているウィリアム・ロイに突きつけた、言わば絶縁状のようなものだった。題して The Parable of the Wicked Mammon(邪悪な神の物語)、1528年5月8日に出版された。
ロイがジェローム・バーローとともに出版物を手がけたのは、枢機卿のウルジーを風刺した英語の押韻詩で、Rede me and be not wroth [訳注(2)]というタイトルだった。内容は当時の英国の常軌を逸した信仰統制ないしは思想統制の事例を並べて風刺したものであった。
例えばセント・ポール・クロスでタンストールがティンダルの英訳聖書を悪しざまに攻撃したことや、ウルジーをローマ総督のピラトになぞらえ、英訳聖書の焚書はイエスを磔刑にしたのと同じであり「神のことば、神と人との新たなる約束を灰にした」と風刺した。
当時は風刺の風潮が盛んで、社会風刺は珍しくなかったが、個人攻撃は見られなかった。その点これは徹底した個人攻撃で、ウルジーとタンストールを標的にし、トゲのある言葉で皮肉っている。
しかも表紙を開いた最初のページには赤い帽子をかぶって6本の斧を手にしたウルジーが描いてあり、その6本の斧から鮮血がしたたり落ちている。これには著者名が印刷されていなかったが、大方の人間はティンダルとロイの名を想起する。
これを入手したティンダルは身の毛のよだつ思いがした。こんなものが自分の著作であると思われることは、神のことばにもプロテスタントの理念にも悖(もと)ることであり、自分の訳した英訳聖書も訳し始めたばかりの旧約聖書も、その信頼性を失うことにもなりかねない。
これは一刻も早くロイとの縁を切らなくてはならないと思い、苦心の末に書いたのが『邪悪な神の物語』だった。表紙にあえて〈ウィリアム・ティンダル著〉と印刷したのはそのためだった。
その中でティンダルは、ルーテルの説話に出てくるのと同じ悪徳執事を設定し、同じくルーテルの説教を大まかに借用し、さらに新約聖書から幾つかの文章を引用して、儀式典礼よりも信仰こそが大切であるとする改革派の教えを説いた。
[訳注(2)]‘rede’は「説明する」、‘wroth’は「激怒する」で、いずれも古語。しいて訳せば「そんなに怒らないで、なぜだかを教えてくれ」といったところであろうか。
また〈ウィリアム・ティンダルまたはヒッチンスから読者へ〉と題したプロローグではウィリアム・ロイのことに言及し、彼はかつての協力者であるが問題の多い人物で、その後ロイと仕事をした修道士のジェロームには一緒に仕事をしないほうが良いと忠告したほどであることを正直に述べてから、問題の風刺詩を痛烈に批判してこう述べている。
—–
パウロは「主に仕える者は争ってはならぬ。すべての人々と仲むつまじくし、いつでも人に教えを説け」と言っておられる。悪をなす者にも優しく接し、反抗する者にも、いつの日か反省して真理に目覚める日を神が用意してくださると信じて、教えを説けとおっしゃっている。
ののしるような韻文で人を悪しざまに言うのは神に仕える者のすべきことではない。神のことばで諌めるべきであり、神のことばこそ罪と悪徳とあらゆる不正をなくする武器である。
—–
ではティンダル自身は人を悪しざまに言わなかったかというと、決してそうではない。同じプロローグの最後のところで彼は、キリストがパリサイ人を偽善者と決めつけたことに言及してからこう述べている。
—–
教皇だの、枢機卿だの、司教だのといった呼び名や、律法学者だとかパリサイ人だとか長老だとかいっても、みな同じなのだ…かつて反キリストの長老たちがイエスをピラトの前に突き出し、ユダヤの法によりて死刑に処すべきであると述べた…現今の教会の指導者たちも真剣なのだ。
お前たちを愛すればこそ、(新約聖書の中の)キリストに従う[訳注(3)]よりも良かろうと思って焚刑に処するのだ、と彼らは言う。
—–
言いたいことを存分に書いてからティンダルは〈信仰義認〉の教義の解説へと筆を進める。エラスムスの著書で初めて知って跳び上がらんばかりの感動を覚えただけに、その叙述は激烈である。彼は言う。
—–
たとえ1000本のキャンドルを灯しても、100トンの聖水を浴びても、船一艘の免罪符を買いあさっても、修道士の衣服を布袋いっぱいに詰め込むほど買い求めても、さらにまた、ありとあらゆる儀式典礼を行い、行事に参加し、いかなる功労への褒賞を受けても、世界じゅうの功徳を集めても、イエスが流された血に勝る聖なる救いはないのだ。
—–
さらに言う。
—–
キリストこそわれ等が救い主であり、救世主であり、安らぎであり、贖(あがな)い主であり、神に誓いなあがらも罪を犯す者、すでに犯せる者、これから犯すであろう者にとりての魂の拠り所なのだ。
それゆえ、脆さゆえにたとえ1日に1000回過ちを犯そうと、悔い改めさえすれば、主イエス・キリストの御胸のには常に慈悲が用意されているということなのだ。
—–
書き上げると、ティンダルは印刷をアントワープのヨハネス・フークストラーテン Johannes Hoochstraten に依頼した。酸いも甘いも知り尽くしたこの印刷屋は、英国と低地国の当局が英語で書かれた改革派の文献を血眼(ちまなこ)になって探していることを知っていて、その著書の出版社名を〈マール
ブルクのハンス・ルフト〉という偽名を使った。
ハンス・ルフトは実在の人物であったが、本人はウィッテンベルクで印刷業を営んでいた。
さらにフークストラーテンは活字そのものまで細工を施した。フークストラーテン印刷所の字体は垢抜けしていることで有名だった。だから同じ字体でティンダルの本を印刷すればすぐにバレる。
そこで彼は大抵の印刷所で使っている字体を用いた。アントワープでは当時から印刷業は巨大な産業になっていて、業者はカネになることならどんなことでもやっていた。
そうしたティンダルの用心は正解だった。ロイとバーローによる風刺詩が英国で売られるようになると、すぐに指導者層の手にも入って、ウルジーやタンストールを初めとする上層部の者はカンカンに怒った。
ティンダルの新著も6月には英国に流入し、その〈プロローグ〉でティンダルがふたりとの縁を打ち切ったという弁明も読んだが、もはや彼には聞く耳を持たなかった。
時の大司教のウォーラムはこれを読んで30箇所に異端の言説があると述べ、『ユートピア』の作者トマス・モアも〈多くの者を騙し邪悪な異端の言説に染まらせる悪書〉であると論断している。
[訳注(3)]カッコの中の「新約聖書の中の」というのは訳者が挿入した。同じく「キリスト教」といっても、325年にローマのコンスタンチヌス大帝が召集した第1回キリスト教公会議、いわゆる「ニケーア会議」ででっち上げられた独断的教義、いわゆる「ドグマ」で構築された上部構造は、新約聖書の中で語られているイエスの教えとはまったく関係のないもので、それが「キリスト」の名のもとに説かれていることにティンダルが疑問を抱いたわけである。
「ニケーア会議」についてティンダルがその真相をどこまで知っていたかは不明(少なくとも本書ではそのことに言及していない)であるが、ダドレーの History of the First Council of Nice by Dean Dudley(第1回ニケーア公会議の真相)には断片的ながら、強引とも言うべきコンスタンチヌス一派による政治的陰謀が明らかになっている。
キリスト教指導層がなぜこうまで執拗にティンダルの新約聖書の翻訳を阻止しようとしたかは、そのニケーア会議の真相を知って初めて納得が行く。その意味でダドレーの書は本書と対(つい)の形で読まれるべきものとの考えから、前著『シルバーバーチに最敬礼』に文献として収録した。
そしてウルジーは6月18日に海外のルーテル派英国人の首謀者と見られる者の一斉検挙に着手した。ジョン・ハケット卿 Sir John Hackett に命じて、摂政王妃で神聖ローマ帝国皇帝カール5世のおばに当たるマーガレットに、ティンダルとロイと英国商人ハーマン Richard Herman の3人を逮捕して引き渡すよう説得に当たらせた。
マーガレットと議会は、カール5世でさえ公聴会なしには英国への送還をしていないから、3人の捜索はするが、必ず公聴会を開いた上で、その罪状次第では直ちに処分するか、英国へ送還するかの判断をするとの返答を伝えた。
ハケットの報告によると、7月までに身柄を拘束したのはハーマンだけで、入牢するところまで見届けている。(その後ハケット自身がアントワープの英国人異端者に便宜を図ってやった事実が明るみになって、当局に逮捕されている)
いらだちを募らせたウルジーは、ティンダルとロイの捜索に当たる役人の数を増やすことにして、8月にロイとバーローをよく知るグリニッジ出身の修道士ウェスト John West を任命し、さらに翌月には Flegh [訳注(4)]を追加任命して、ケルンへ派遣した。
が、何も手掛かりが得られないので、ふたりはフランクフルトでの書籍見本市へ向かっている。その間の本国への報告書を見ると、ふたりはティンダルとロイはずっと一緒に行動を共にしているものと思い込んでいて、2年半も前に袂(たもと)を別っている事実を知らなかったようである。
[訳注(4)]この人名の読み方はどの人名辞典にも英語辞典にも見当たらない。英語の特徴から類推すれば「フレイ」または「フレッグ」であろう。呼び名が記されてないところから、原著者もそのアイデンティティを確認していないようである。
さてハーマンの身柄を拘束した低地三国の議会は、アントワープで公聴会を開いてハーマンを訊問した。が、ハーマンは、自分がそそのかしたとされるルーテル派と反乱分子の氏名と、いつどこでいかなる手段でそそのかしたかを、確たる証拠のもとに明示して欲しいと要求した。
ハケットはすぐさまそれをウルジーに伝達した。が、いつになっても返答がない。そして、ようやく翌年1月になってふたりの人物の氏名が提出された。裁判官はさらに日時と場所と手段の明示を求めたが、2月5日になっても提出されないので、ついにハーマンの釈放が言い渡された。
ウルジーはなぜ証拠を提出しなかったのか?そういう事実が見当たらなかったのか、それとも当時の英国がやがて「英国国教会 The Church of England 」としてローマ・カトリック教会から独立するきっかけとなる王妃キャサリンとの離婚問題などで、それどころではないほど忙殺されていたからなのか、その辺のことは確かでない。
が、異端者的な「もの」または「信仰」を所有していることが明るみになった者の検挙の手だけは緩めていなかった。
例えば1528年の夏の終わりごろ、オックスフォード大学カーディナル校の生徒数人が検挙されて投獄されている。その生徒たちはウルジー自身がその才能を認めて推薦入学させたものばかりだった。
その中のひとりにティンダルのロンドン時代からの友人のフリス John Frith がいた。そのフリスは思わぬことで牢から脱出することに成功し、ヨーロッパ大陸へ逃れている。他の学生のうちの3人は非衛生がもとで獄死している。
本章の冒頭で紹介したトマス・ビルニーは、ロンドン塔に幽閉されてから1年後に釈放された。
信仰を撤回したことでウルジーが許し、ケンブリッジに帰任している。もちろん激しい訊問の末のことだったであろう。精神的にも肉体的にも疲弊しきったビルニーは自殺もしかねない状態だったので、友人たちは独っきりにしないように気遣ったという。
が、ウルジーにとっての最大の難問は、王妃のキャサリンを離縁する許可[訳注(5)]をローマ教皇に要請するようにとの、ヘンリー王からの勅命だった。
その命令を受けてはや1年が過ぎているが、まだ打開の糸口がつかめずにいた。その最大の要因は、キャサリンが、教皇のクレメンス7世を捕虜にしているカール5世のおばに当たることだった。
キャサリンは離婚を望まず、カール5世もおばに同情的だった。ヘンリー王に離婚の許可を与える権限を有するのはローマ教皇であるが、捕虜になっている手前、自分を捕虜にしているカール5世の機嫌を損ねるのは得策でない。離婚そのものなら、例えばキャサリンが不倫を働いたとの理由をでっち上げれば、簡単に出来ることだった。
ヘンリー自身はバイブルで兄弟の妻を娶ることを禁じていることを理由付けにしたい意向だった。確かにキャサリンはヘンリーの兄アーサーの未亡人である。
が、教皇の立場からすれば、もしそれを離婚の理由にすれば、ふたりの結婚を認めた前任者が過ちを犯したとの裁定を下すことになり、「教皇不可謬」[訳注6]の教義に悖ることになるので、それだけは絶対に認めるわけにはいかない。
一方、ヘンリー王は教皇の認可を得るための策として、フランス国王のフランソワ1世と誓約を結んで教皇の釈放を得る手段に出た。
1528年春、フランソワは特使として枢機卿カンペッジオ Cardinal Campeggio を英国へ派遣し、ウルジーと会見してヘンリー王の結婚が教義に悖るものでないことの証言を求めさせた。
そして非公式ながら教皇クレメンスからヘンリーとウルジー宛てに、ふたりの会見の結果には無条件で同意するとのメッセージが届いていた。これでヘンリー王の長年にわたる念願が保証されたも同然となった。
カンペッジオが英国へ派遣されたことに動揺したカール5世は、ヘンリー王とキャサリンの結婚を許可した前教皇レオの判断が教義に悖るものでないことを証明する文書を提出した。
これで現教皇のクレメンスは絶体絶命の窮地に陥った。そこでクレメンスが取った手段は、歴代のリーダーが同じような窮地で取った手段、即ち「引き伸ばし作戦」だった。
1528年10月、彼はカンペッジオに、いかなる手段を用いてもいいから「婚姻無効宣言」の手続きを延ばせるだけ延ばせという命令を大慌てで書き送った。
それを受け取ったカンペッジオがまず最初に取った手段は、キャサリンに退位して尼僧になるように説得することだった。こういう形にすれば、カール5世におばが婚姻の自然解消に暗黙の同意をしたとのシグナルを送ることになり、公聴会を開く必要もなくなり、教皇の面目を保つことにもなると踏んでいた。
これには前例があり、フランスのルイ12世が最初の王妃を片付けるために取った手段だった。キャサリンもそれに同意した。が、キャサリンは条件をつけた。ヘンリーも禁欲生活の誓いを立てる、ということだった。
[訳注(5)]英語では annulment となっている。これは正式の訳語は「婚姻無効宣言」で、俗に言う「離婚 divorce」とはニュアンスが異なるが、実質的には同じである。
[訳注(6)] Infallibility 。教皇(法王)の言動には絶対に誤りがないという教義で、「三位一体説」や「贖罪説」などとともにローマ・カトリック教会が勝手にこしらえた教義。
新約聖書にはそういうものは見当たらないことに気付いたのことが、ティンダルが翻訳を決意したきっかけであり、教会側がそれを阻止しようとしたのは、一般信者にそのことを気付かれてはまずいということからだった。
「知らしむべからず拠らしむべし」が支配階層一貫した態度で、それが諸悪を生んだ。ティンダル以前にも断片的には英訳されていたようであるが、全注釈を施し、その9割が今日の標準英語 Standard English となっているほどの英文で書かれていることが、ティンダル訳を他の追随を許さないものにしている。
ほぼ30年後に誕生するシェークスピアもその英文に大きな影響を受けていると言われる。
ヘンリーにとって窮乏と忍従と禁欲を誓うことくらい面白くないことはなかった。英国を思うように支配し、アン・ブーリンを王妃に迎え、正当な男子の後継者をもうけることこそ彼の野心であったから、王妃の条件など眼中になかった。正直いって王妃もその辺のことは承知していた。
このように離婚のことで日増しにいらだちを増していく国王のもとで難渋し、その成否がすべて自分の双肩に掛かっているという責任感の重圧にいちばん苦しんでいたのはウルジーで、英国商人ハーマンの訊問で裁判所が要請した証拠の提出にウルジーが応じなかったのは、多分そうした内憂外患で時間も心の余裕もなかったからかも知れない。
その頃ティンダルは目立った行動を控えていた。といってブラブラしていたわけではない。それどころか、相変わらず執筆と翻訳に余念がなかった。1528年には、聖書関係の翻訳書は別格として、ティンダルの著書でもっとも影響力が大きかった The Obedience of Christian Man (キリスト者の遵守すべきこと)を書き上げている。
これはヨーロッパの農民戦争で見られたように、改革派は暴力行為を生み出しているとの批判に答えたものであることは明らかである。臣民は王侯に従うべきであり、改革派は人民を扇動しているわけではないことを明らかにしたかった。
この本は3部から構成されている。最初は36ページから成る前書きで、その中でティンダルは自分の翻訳に関わって獄につながれ拷問を受けている同志たちに激励のことばを贈っている。
続いて8ページから成るプロローグで、その本を書いた目的を述べ、それから本文に入り、神が定め給うた人間の遵守すべきこと、例えば子供は親に従い、使用人は主人に従い、妻は夫に従い、臣民は支配者に従う、といったさまざまな形の主従関係を説明してから、しかしその「主」の立場にある者は責任重大であり、物ごとの決断に当たっては神に対して責任を負わねばならない、と述べている。
注目すべきことは、その中でビルニー(本章の冒頭で紹介)のように獄中で信仰を撤回ないしは否定した同志へ向けて特別のメッセージを贈っていることである。
信仰は堅固であっても肉体の弱さ、拷問の恐ろしさから、ペテロのように心にもない返答をしてしまったり[訳注(7)]、英訳聖書を提出したり隠したりした者も、決して絶望してはいけない。神が一時的にお見捨てになったしるしと受け取るが良い。
神はよく人間を、たとえ選ばれし者でさえ、わざと御力を抜き取ることをなさるもの自分を過信したり、御力にすがることを怠ったりした場合だ。無念の業火の中において、御業(みわざ)のほかにすがるものがないことを悟らせるためである。祈るのだ。昼も夜も、ひたすらに祈るのだ、と。
この本もアントワープのフークストラーテンに出版を依頼している。そして同じようにマールブルクのハンス・ルフトが印刷したことになっている。出版と同時に英国へ向けて船積みされ、その1冊が、意外なことに、アン・ブーリンの手に渡り、巡りめぐってウルジーの手に渡っている。
[訳注(7)]最後の晩餐の時、イエスはペテロに向かって「そなたは(私が逮捕された後)私のことは知らないと言うだろう」と予言した。ペテロは「とんでもない!」と答えるが、イエスが逮捕されたあと「あんたはあの男(イエス)の仲間だろう?」と3度問われて3度とも否定している。
伝記作家のジョン・フォックスの記述によると、その経緯はこうだった。
一通り目を通してからブーリンはそれを侍女のアン・ゲインズフォードに貸した。が、日ごろからゲインズフォードに言い寄っているジョージ・ズーシュという男がそれを引ったくった。ただ単に気を引くためだったが、読んでみると面白い。
彼はゲインズフォードから催促されても返す気になれず、いつも持ち歩いて読んだ。そのうちキングヘンリー礼拝堂の主席司祭が、礼拝中もずっと何やらを読み続けているズーシュに気付いて、礼拝の終了後それを没収してウルジーに差し出した。怪しい本はすべて没収せよとウルジーから命じられていたからからである。
この時点でブーリンが侍女に例の本を返して欲しいと言った。困った侍女はその後の事情を正直に語って詫びた。ブーリンはそのことをヘンリー王に告げて、ウルジーから取り戻して欲しいと頼んだ。もちろんヘンリーは請け合ってすぐにウルジーから返してもらった。そしてそれを読んでみると、なかなか面白い。
これはじっくり読むに値すると思ったというが、それは多分ティンダルがその中で、王たる者が教皇の従者となるのは神の御意志ではない、と断言していることに気分をよくしたからではないだろうか。
キャサリンを離縁してでも男性の後継者を、というヘンリーの野望が教会勢力によって挫折しかねない情勢だったのである。
このエピソードがどこまで真実であるかは別として、ウルジーを初めとする教会側の上層部がティンダルの新著に、一致して「けしからん」と思ったことは事実である。英語訳聖書だけでなく、所有しているだけで「異端」と見なされる書物の1冊となった。
1529年1月には、英国での公開裁判で「異端者」「反逆者」としてティンダルの名前が読み上げられた。翌2月には彼を逮捕するための探索が改めて開始され、彼はいっそう身を潜めることを余儀なくさせられた。
アントワープはジョン・ハケットが探索を続けているし、マールブルクも2冊の新著がマールブルクで印刷されたことになっているので、探索が厳しくなっている。新たな指令を帯びたふたりの捜査員がアントワープとケルンとフランクフルトに派遣されている。
そこでティンダルはハンブルクへ向かったというのが、ティンダル研究家の一致した意見である。ジョン・フォックスもそう述べているし、それを裏付ける証拠もある。
その2冊の著作を進めながらティンダルは旧約聖書の『モーセ五書』と呼ばれている最初の五巻の翻訳も手がけていた。旧約聖書はヘブライ語で書かれていたので、ティンダルもヘブライ語を勉強したことになるが、それは多分ウィッテンベルクに滞在中だったと推察され、英国では学んでいないというのが専門家の一致した意見である。
なぜかと言えば、ヘブライ語の最初の教授が英国の大学に着任したのは1524年、即ちティンダルが英国を脱出した年で、それまでの200年以上にわたってユダヤ人は英国にはいなかったからである。
それはともかくとして、アントワープも危険と感じたティンダルは、完成した『モーセ五書』の翻訳原稿と参考書、書類その他をまとめて、エルベ川の河口の港町ハンブルクへ向けて船上の人となる。
が、その船がオランダの海岸沖で難破して、命以外のものすべてを失ってしまう。翻訳原稿はもとより、ヘブライ語と格闘する時に頼りにした参考書類のすべてが失われてしまい、ティンダルはまた一から始めなくてはならなくなった。
まずヘブライ語の原典を入手しなければならない。それを読むためにはヘブライ語辞典がいる。文法書もいる。「七十人訳聖書』訳注(8)]も要る。ラテン語訳とギリシャ語訳も欲しい。翻訳の意欲だけは少しも失っていないし、幸い金だけは肌身離さず持っていた。
ティンダルは船を乗りかえてハンブルクへ向かい、かねてから尊敬していた未亡人で、筋金入りのルーテル支持者ヴァン・エマソン Margaret van Emmerson の家を訪ねた。
女史の息子のひとりが1524年にティンダルがウィッテンベルク大学で教えていた時の生徒で、その頃に家族ぐるみの交際が始まっていたものと推察されている。翌年、新約聖書の翻訳が完成する直前にも世話になっている。
ヴァン・エマソン女史はティンダルだけでなく多くの改革派の人物を国籍に関係なく援助していて、活動の拠点となったことが一再ではなかった。
いやケ眠期また(のちに新約・旧約聖書の英訳を完全編集した)カヴァデール Miles Coverdale と再会したのもハンブルクだった。ティンダルより2、3歳年上の改革派聖職者で、ティンダルがケンブリッジ大学に在籍していた時に友好を深めたようである。
事情を聞いたカヴァデールは『モーセ五書』の再翻訳に喜んで協力する意志を表明した。ヘブライ語とギリシャ語はあまり得意でなかったが、ラテン語とドイツ語とフランス語に秀でていた。さらに有り難かったことは、訳文の微妙なニュアンスの違いについて、高度なレベルの意見の交換をすることが出来たことだった。
比較的安全なハンブルクでティンダルは3月から12月までの足掛け10か月で『モーセ五書』を再翻訳した。その間、港湾都市だったことから英国の政情もよく耳に入っていた。その1529年が去った頃には、ティンダルの捜索が一時的に弱まってきたように思えた。
その兆候のひとつがヘンリーとブーリンの問題の新たな展開だった。カンペッジオは教皇クレメンスの指示に従って「婚姻無効宣言」を審理するための公判の開催を延ばせるだけ延ばしてきたが、そろそろその口実も尽きた。
カンペッジオとウルジーはやむなく5月31日から公判を始めることにした。これを「教皇特命裁判」と呼んでいる。キャサリンはローマ教会に公判の無効を訴えたが、それに対する返答がないまま初日に入り、キャサリンはやむなく出廷した。そしてヘンリーとの間でドラマティックな場面が展開することになる。
[訳注(8)] the Septuagint : ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳。
入廷したキャサリンはヘンリーの前に倒れ込むように跪(ひざまず)き、どうかこのまま婚姻を続けてくださいと涙ながらに嘆願した。
ヘンリーはキャサリンに近づき、抱き起こして、「そなたに何ひとつ咎があるわけではない」と、改めて国王としての立場からのやむを得ぬ策であることを述べ、ローマ教会にキャサリンが出した「無効」の訴えは教皇がカール5世によって囚われの身になっているために拒否されたことを伝えた。
キャサリンは涙に暮れながら退廷し、以後、2度と法廷に姿を見せなかったという。
公判はカンペッジオの巧みな策略で数週間に渡ってダラダラと続けられ、そのうち7月23日には夏休暇に入ると宣言すると同時に、この件をローマに委譲することに決し、彼はすぐさまローマに帰って行った。
そして、ほぼ同じ頃にクレメンス教皇が「キャサリンの同意なしに「無効宣言」には同意しないとの条件のもとに自由解放を得る」という条約に6月29日にサインした、とのニュースが英国に届いた。
ヘンリーは激怒した。またアン・ブーリンも、ふたりの枢機卿がグズグズしているうちに青春が過ぎ去ってしまうと文句を言い、とくにウルジーがヘンリー王の味方になっていないことを咎めた。そしてヘンリーも、そう言えばそうだ、と猜疑心を抱き始めた。
ウルジーもそれに気付かないほど愚かではなかった。ブーリンは自分を嫌っているから、もしもブーリンが王妃になったら自分の権力のすべてが剥奪されるだろう。といって、「無効宣言」を獲得できなければヘンリーが激怒するに決まっている。
そればかりではない。司教連中も、その暴君的な支配に嫌気が募って離反しはじめている。修道士たちも、幾つかの修道院を潰されて憤っている。貴族たちも、自分たちから重税を取りながら贅を尽くした生活をしていることに不満を募らせている。
商人たちは度重なる戦争で貿易が阻害され、その背後でウルジーがヘンリーと結託しているとみて憤慨している。さらに一般市民はその無意味な戦争で息子たちが次々と戦死して行っていることに憤っている。
みんな自分が「ざまあみろ」と言って喜ぶような死に方をすることを望んでいることも分かっている。衣服商人たちが自分を穴の開いた船に乗せて沖へ流してやれと意気巻いていることも知っている。
1529年10月、ついにヘンリーはウルジーを、カンペッジオと画策して「特命裁判」を強行したことを英国法に違反するとして、複数の弁護士を使って告発させた。実際はヘンリーがウルジーに命じてキャサリンを裁判にかけさせたのであるが、そのことを口にする者はひとりもいなかった。
ウルジーはヘンリーのお情けにすがったが、猜疑心と憤懣を抱いているヘンリーは、ウルジーを大法官の職から解任し、ロンドンの宮殿も没収した。が、せめてもの情けとして、ヨークの大司教[訳注(9)]に地位に留まらせた。
[訳注(9)]この段階では英国はローマ・カトリック教会から脱会していないので、Archbishop を「大司教」と訳したが、このあと脱会して「英国国教会 The Church of England 」となってからはプロテスタントとなって、役職の日本語訳の呼称も「大司教」から「大主教」となる。教区もヨークとカンタベリの2大教区に分かれ、権威としてはカンタベリが上。
ヘンリーは新しい大法官にトマス・モアを任命した。モアはローマ・カトリック教会の熱烈な支持者で、15二九年の6月には Dialogue Concerning Heresies (異端者についての対話)という4巻の著書を出している。
その中でモアはルーテルとティンダルと英訳聖書を痛烈に批判している。そして、その年の11月には国王と新大法官の名で国会を開会している。
そうしたニュースはすべてティンダルの耳に入っていて、この調子なら自分の探索もさほど緊迫したものでないと判断し、2度目の英訳旧約聖書の印刷をやはりフークストラーテンに依頼し、同じくマールブルクのハンス・ルフトの偽名でまず「創世記』を1530年1月17日に出した。その後も順調に全5巻が印刷され、次々と英国へと輸出された。
が、当時の英国はますますルーテル派の教義を排斥する機運がエスカレートしていて、ちょうど第1巻の『創世記』が出版された頃にケント州のトマス・ヒットン Thomas Hitton という牧師が異端の教えを説いたかどで逮捕されている。
ヒットンはヨーロッパに滞在したことがあり、その時にティンダルを始め、多くの改革論者と会っている。
審問でヒットンは英語の新約聖書を大陸から持ち帰ったことを認めた。訊問した大司教のウォーラムとロチェスターの司教フィシャーはヒットンに有罪を宣告し、1530年2月23日に火あぶりの刑に処している。これが英国人改革論者として最初の殉教者である。
英国でも大陸でも改革論者への態度は日増しに厳しくなって行った。5月25日にはヘンリー王みずからがティンダルの2著、すなわち The Parable of the Wicked Mammon と The Obedience of the Christian Man を厳しく非難する声明を出し、所有している者は15日以内で提出するように命じた。
その結果、セント・ポール・クロスではまたまた大々的な焚書が行なわれ、前回と同じくタンストールが監視に当たったが、その直後にタンストールは別の管轄区へ配転され、代わって、残忍さでタンストールをしのぐストークスレー司教 John Stokesley がその任に当たった。
神聖ローマ帝国のカール5世も、英訳に限らず新約聖書はすべて提出し、新たな印刷を禁ずるという勅命を発し、異端者と断じられた者は例外なしに斬首、火あぶり、ないしは生き埋めの刑に処すると宣告した。
異端者と断じるにはこれといった証拠は必要でなかった。例えばジョン・イートンとセシル・イートンいう名の夫婦は、教会でのミサの最中に顔を上げなかったという理由で拷問を受けた。
顔を上げていなかったと証言した者が複数いたことになっているが、どこの誰であるかは記載されていない。また1530年8月には、ある男が教会の儀式はラテン語でなく英語ですべきだと信じているという理由で逮捕されている。妻も姉妹も父親も、本人がそんな考えを口にするのを1度も聞いたことがないと証言している。
こうした情勢ではティンダルにとって絶対に安全な場所はなくなってきた。1529年12月7日付けで次のような勅令が出されていたことも分かった。
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上記の期日以降に、当局の許可なしに書いたり印刷したり、あるいは書かせたり印刷させたりした者は、その主題のいかんに拘わらず、灼熱の鉄で焼印を押された上でさらし台にさらされ、あるいは目をえぐり取られるか手を切断されるか、裁判官の裁量によって決せられ、延期も情状もなく執行されるものとする。
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一連の深刻な事態に黙っていられなくなったティンダルは The Practice of Prelates. Whether the King’s grace may be separated from his queen because she was his brother’s wife. (高位聖職者たちの陰謀 – 果たして国王は、かつての兄の未亡人だからという理由で女王と離別されてよいのか)という小冊子を書いた。
その中で「婚姻無効宣言」の問題にも言及しており、結論として国王と女王は切っても切れない縁(えにし)で結ばれているのだ、と主張しているが、ティンダルはさらにウルジーを初めとする教会の指導層が何とかふたりを離婚させることで自分たちの権威をさらに高めようと画策していることを指摘し、これは聖職者と教皇制度が腐敗の極に達していることの格好の例であり、神に仕えるべき者が政治的陰謀にうつつを抜かしていると断じている。
“practice”という単語は現在では「実行・慣習・練習」といった意味で使われているが、当時は「陰謀・策略」という意味で用いられていた。従って The Practice of Prelates というタイトルを見た読者はすぐに教会上層部の陰険な策略のことだと直観したはずである。
本書が世に出たのは1530年の秋のことで、やはりマールブルクのハンス・ルフト印刷所で印刷されたことになっている。それが英国に流入し始めたのはその年の終わりごろで、これが火に油を注ぐことになる。
第8章 英国国教会の誕生
『高位聖職者たちの陰謀』はロンドンの市民生活に大きなインパクトを与えた。その影響のあまりの大きさにミラノと神聖ローマ帝国の駐英大使は1530年12月に、それぞれ自国に報告書を送っている。
もっとも、かりに市民が騒がなくても、その著書の内容がヘンリー王とキャサリン王妃の結婚の是非という大問題に言及し、結論としてカール5世の立場を擁護する見解だっただけに、やはりその著書の件は報告書で大きく取り上げられていたことであろう。
ミラノの大使は、その著書は3000部が出回っていて、著者は大変な教養の持ち主のティンダロ Tindaro という人物、と報告している。また、両大使ともロンドン市内にはいたるところに張り紙がしてあって、その著書が悪書であること、そして英国の大学当局のすべてがヘンリーとキャサリンの離婚を支持していると書いている旨を報告している。
さらに神聖ローマ帝国の大使の報告書には、その張り紙は2、3日で剥ぎ取られた多分ヘンリー王がティンダルの反駁を恐れたか、それがかえってPRになって読者が爆発的に増えることを恐れたかの、どちらかであろうと述べている。
神聖ローマ帝国の大使はさらに、ティンダルの弟のジョンを含む商人が売る目的でその著書を何冊も所持していたかどで逮捕されたニュースを伝えている。11月中旬のことで、市(いち)の日に市中引き回しにされている。
その時商人たちは厚紙でできたリボン付きの帽子を被せられ、それに「この者は王の命令に背いた」との罪状が書いてあり、さらに首の周囲にその著書を何冊も結び付けて、市中引き回しが終わると〈チープ Cheap 〉と呼ばれる中心の広場で焚かれている火の中にそれを自分で投げ入れさせられた、という。
が大使は、このやり方は、目の敵(かたき)にしているその本への関心を増幅するだけではないかと述べている。
さらに大使は次のようなことまで述べている。即ちヘンリー王は
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ティンダルがこれ以上自分への敵対的態度を強めないように、またこれまでに書いたことをすべて撤回するよう説得するために、彼を英国に呼び戻して丁重に扱い、言い分を聞いてやり、最高顧問として迎えることにした
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というのであるが、こんな途方もないアイディアは一体どこから出たのであろうか。最も可能性のある見方は、ウルジーの右腕として頭角を現していたトマス・クロムウェル Thomas Cromwell であろう。
クロムウェルは一介のビール醸造人で鍛冶屋の息子から身を興した立志伝中の人物で、ウルジーが1529年に逮捕された時にも王にうまく取り入って連座を免れ、翌30年にウルジーが失脚したあと、最高顧問のイスを獲得している。そのウルジーは裁判のためにロンドンに送還される途中、赤痢で死亡している。
クロムウェルは才覚が優れていると同時に実行力もあった。英国の将来についてのヘンリーのビジョンをよく理解し、それを実現する力があった。つまり現状をよく認識した上で将来像を描き、それを実現して行った。
風向きを見るのにも敏で、大法官のトマス・モアがキャサリンとの離婚問題でヘンリーよりも教会側に傾いていることも、いち早く見抜いていた。ヘンリーにしてみればトマス・モアのように頑固に原則にこだわる側近よりも柔軟な脳の持ち主のクロムウェルのような側近の方が有り難かった。
ティンダルの扱いに方に関する先のアイディアがヘンリーとクロムウェルのどちらから出たかは別として、海外に潜んで扇動的なことを書くに任せておくよりは、身近に置いて警戒の目を光らせておく方が安全という考えでふたりが一致したことは間違いないであろう。
1530年11月の終わりごろクロムウェルはヴォーン Stephen Vaughan という人物を大陸へ派遣し、ウィリアム・ティンダルなる人物を探し出して英国へ穏やかに連れ戻すように命令した。
ヴォーンは低地三国の英国王の代理人、いわば貿易相で、過去にもクロムウェルから特殊な任務を言いつけられたことがあり、今回の命令もすぐに引き受けた。まずティンダル宛の手紙をしたため、フランクフルト、ハンブルク、マールブルクの3都市に送った。
噂から判断してこの3都市がティンダルが潜伏している可能性が高いと見てのことだった。その内容は言うまでもなく英国王からの寛大な提案だった。
1531年1月26日付けでヴォーンは、ヘンリー宛てに次のような内容の書信を送っている。即ち、ティンダルの居所(いどころ)はつかめなかったが、こちらからの手紙は本人に届いたようで、申し出は拒絶するとの返事を書いてよこした。
その理由として、ひとつには英国は自分にとって安全なところとは思えないこと、もうひとつの理由は、この申し出はワナであろうと察せられる、ということだった。これは根拠のある理由で、それまでの過去100年間に同じような「安全護送」の約束で英国へ向かう途中で「事故死」している例が幾つもあったのである。
1531年4月18日、ヴォーンはヘンリー王宛てに次のような信じられないような内容の書簡を送っている。
ある日、ヴォーンの知人の使いの者と名乗る人物がやってきて、その知人の名前は知らないが、その方がお会いしたいとのことなので、自分についてきていただきたいという。
不審に思いながらも、王からの使命を帯びている以上は危険を避けてはいけないと覚悟してその使者について行くと、アントワープの門のすぐ外の広場に案内された。するとそこへひとりの男が現われ、「私をご存じですか?」と問いかけてきた。「知らない」と答えると「ティンダルと申す者です」と言う。
ヴォーンは一瞬呆然としたが、気を取り直して「これはこれは、ティンダルさん!お会いできて幸運です」と挨拶を述べた。それからふたりはいろいろな話題について語りあったが、その中でティンダルはヘンリー王が『高位聖職者たちの陰謀」を非難していることが何よりも残念であると言い、そのわけを次のように説明したという。
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あの本で私は聖職者たちが王に対する狡猾な陰謀と恥ずべき権力の乱用に腐心していること、それがいずれは王ご自身と王国の不幸を少なからず脅かすことになることを警告したのです。
臣民のひとりとしての衷心からの叫びなのです。国王の安全と臣民の幸せを思えばこそなのです。それを知っていただくことこそ、聖職者連中が密かに夢見ている悪巧みの実現を未然に防ぐことになるのです。
—–
ヴォーンはさらにティンダルに祖国への帰還を説得した時のことに言及し、次のように述べている。
しかしティンダルは、たとえ国王が安全を保証してくれてもその気にならないし、そういう危険を冒すつもりもないこと、前にも述べていますように、異端者との約束は守るべきでないとの聖職者連中の説得に負けて、王はその約束を破るに決まっている、と答えております。
確かにティンダルは、トマス・モアの『異端者についての対話』が出版されてから2年後に出した『T・モア卿の対話への回答 Answer unto Sir T. More’s Dialogue 』のプロローグの中で、教会の教理も実践も(人工のドグマではなく)聖書を基準に判定すべきであることを主張して、こう述べている。
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それゆえ読者は、そもそも教皇が教会そのものなのか、その権威は聖書を超えるものなのか、聖書を手にせずして説かれるものが聖書と同一と言えるのか、絶対に誤ることはないの…等々を判断されよ。黙って行なわれる祭礼やサクラメントから魂に役に立つものが得られるか否かを判断されよ。
難行苦行、巡礼、免罪符、煉獄、黙したままの祝福、黙したままの許し、早口の祈りの文句、訳の分からないジェスチャーをしながらのわめき…すべてが偽りであり、自己満足であり、身勝手な正当化であることを、しかと見届けられよ。
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ヴォーンの報告によると、ティンダルはそういう人気(ひとけ)のない場所で王の代理人とふたりきりで語り合うのが心細くなってきたようで、日が沈みかけると「失礼する」と言って、アントワープとは逆の方向へ向かって帰って行った。
ヴォーンもまた会うことを約束してアントワープの方へ向けて帰って行った。ヴォーンはティンダルも実際はアントワープへ帰ったのであるが、わざと回り道をしたのだろうと察した。その報告にティンダルの『T・モア卿の対話への回答』を1冊添えて王に送っている。
その後ふたりは2度会っている。5月20日付けのクロムウェルへの報告の中でヴォーンは、再度ティンダルに英国へ帰るよう説得したと述べている。が、ティンダルは自分の英訳聖書を一般庶民へ解禁してくれさえすればいつでも帰るし、これ以上著書を書くつもりもないし、いかなる処罰も甘んじて受ける用意があると答えたという。
それほどまでにティンダルは新約聖書の教えを祖国の農民にもじかに英語で聞かせてやりたいという願いが強く、それは自分の訳でなくてもいいし、聖書の本文だけでも良い – つまり自分が書き込んだ注釈を削除してもかまわない、とまで述べている。
そして、これはカール5世が神聖ローマ帝国全土で実施していることにほかならない、と指摘している。
ヴォーンがティンダルと最後に会ったのは6月だった。正確な日時は分かっていない。が、クロムウェルに宛てた6月十九日付けの報告によると、ティンダルはヘンリー王が英訳新約聖書を認可しないかぎり英国へは帰らないとの決意を表明したという。この報告書を発送して間もなく、ヴォーンは帰国の途についている。
ティンダルがヘンリーの提案に飛びつかなかったのは賢明だった。1530年からエスカレートし始めた改革論者の弾圧は翌年も激しさを増し、その報告は逐一ティンダルのもとに届いていた。
ロンドン時代に知り合った数学者のフリスからも直接聞いている。フリスは1528年に検挙されながら、運良く脱獄できてヨーロッパに逃れていた。そして1531年に英国へ密かに帰国し、情報を入手してアントワープに戻り、ティンダルに伝えたのだった。
新任のロンドン司教ストークスリーは前任者のタンストール以上に改革論者の弾圧を強めた。聖職者は言うに及ばず、革職人だろうがガラス職人だろうが、ただの使用人だろうが仕立屋だろうが、鍛冶屋だろうが織物職人だろうが、新約聖書を所持していた場合はむろんのこと、アントワープで印刷された書物を置いていたというだけで逮捕されるようになった。
1531年の春にはビルニーとラティマー、それにケンブリッジ大学出身のベイフィールド Richard Bayfield が逮捕された。ラティマーは釈放されたが、ビルニーとベイフィールドはロンドン塔に幽閉された。
ベイフィールドは1度逮捕されたことがあるが、信仰を撤回したことで釈放された。が、その後ヨーロッパへ逃亡し、そこから英国へ異端の書を送りつづけたかどで逮捕されたのだった。
ビルニーが1度逮捕されて信仰を撤回したことで釈放されたことはすでに述べたが、その後良心の呵責に悩まされた末に、1530年からノーフォークで再びプロテスタント的説教を開始した。そしてノルビッチの女性隠者にティンダルの英訳聖書を与えたかどで、再び逮捕されたのだった。
フリスが大陸へ逃れてティンダルと会っていた頃、ビルニーはロンドン塔の中で刑の執行を待っていた。そのフリスもティンダルと別れたあと英国へ戻っている。何の目的で戻ったかは不明であるが、やがて逮捕されて、ロンドン塔に幽閉された。
幽閉中の扱いはさまざまで、例えばフリスは手かせも足かせも取り付けられなかったが、ベイフィールドは独房の壁に首を腰と両脚を固定されたまま、真っ暗闇の中で何日も放置された。
フリスは5か月間も塔に幽閉されたあとセントポール寺院での異端審問にかけられ、ストークスリーから有罪判決を言い渡され、1532年7月4日に焚刑に処せられている。ビルニーはそれより早く1531年8月に、同じく生きたまま焚刑に処せられている。
こうしたニュースを耳にしたティンダルは、さぞかし、ヘンリー王からの条件付提案を拒否して良かったと思ったことであろう。その提案も取り下げられ、替わって王は、神聖ローマ皇帝のカルロス5世にティンダルを逮捕して英国へ引き渡して欲しいと要請した。
しかし、おばに当たる女王キャサリンを英国王室から除籍し、宝石類を強引に返還させたことも知っているカルロスは、いかなる形にせよヘンリーの依頼に応じる気はなかった。
しかもティンダルが『高位聖職者たちの陰謀』の中でキャサリンとヘンリーの結婚の正当性を弁護してくれている。カルロスはヘンリーに丁重な書簡を送り、ティンダルが英国の法も帝国の法も犯していない以上、閣下の要請には応じられないと述べた。
焦ったヘンリーはエリオット卿[訳注(1)]にティンダルを誘拐してカルロス政権に気付かれないように英国へ連れ戻すよう命じた。エリオットは困った。それまでに同じようなケースがあったが、前任者はことごとく失敗している。
15三2年三月十四付けのノーフォーク公爵宛ての書簡で「身柄を拘束できるかどうか確たる見通しはありません」と述べている。
難しさを承知の上ながらもエリオットは、秘密情報員を使って懸命に努力している。王からの資金をふんだんに買収に使って情報提供を依頼し、印刷屋を1軒1軒回って従業員から噂を聞き出そうとした。耳にした手掛かりはきちんと押さえた。が、6月には完全に断念し、辞表を書き送ってから英国へ帰っている。
[訳注(1)] Sir Thomas Elyot(1490~1546): 外交官で人文学者。ラテン語辞典を編纂した。
ティンダルはそうした動きも察知し、行動には細心の注意を払いながら、隠れ家では新約聖書の改訳と旧約聖書の他の文書、即ち『ヨナ書』『ヨシュア記』『士師記』『ルツ記』『サムエル記上下』『列王記上下』『歴代志上下』などの翻訳に心血を注いだ。
その間にトマス・モアの Confutation(論駁)が出版され、またもやティンダルの教説を論駁(ろんばく)したが、危険が迫っていることを直感していたティンダルは、1個の人間を相手にするよりも、祖国の農民たちのためにという一念で、聖書の全訳に持てるエネルギーのすべてを傾けた。
そうした中でティンダルは、ヘンリーがローマ教皇による英国教会への権力支配からの脱却を図りつつあることを風の便りで知った。確かに1532年のいわゆる《革命議会》で新法が成立した。それには長年にわたる慣例を破る、英国からの一方的な通告が含まれていた。
例えば特免状や免罪符といった教皇が権限を有する儀式への献金、毎年新司教など新たに高位の聖職についた者がローマ教会に支払う《聖職禄取得納金》の制度も廃絶するというものだった。
同じ年の《聖職者会議》でも、英国教会はいつでもローマ・カトリック教会と絶縁する用意があることを宣言する文書を、国王に宛てて次のようにしたためた。
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上記のごとき不当なる(金品の)取り立てをこれ以降なきものとしていただきたい…またもし教皇が我が王国に対して強行手段に出た時は…現国会において、閣下および英国民をローマの司教区から脱退させるとの命令を裁可願いたい。
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さらに《聖職者会議》は、それからほぼ2か月後に、今後の法律の制定にあたっては、委員の半分が平民からなる委員会にかける、との決定を下している。そしてその委員会は、王国に害が及ぶと判断されたローマ教会からの規制に対して拒否権を有するとした。
かくして《革命議会》と《聖職者会議》は英国議会の一翼として『英国国教会 The Church of England 』を誕生させ、ローマカトリック教会よりも英国そのものに従属するものとした。カトリック教会を絶対的存在としてきたトマス・モアはその翌日辞任して自宅に引っ込んだ。
それは同時に、ヘンリー王にとって「姻婚無効宣言」を強行する条件が整ったことになる。国民には知られていなかったが、その時すでにアン・ブーリンはヘンリーの子を宿していた。
ヘンリーは1533年1月15日に一方的に婚姻手続きを済ませ、教皇のクレメンスに「無効宣言」を送りつけた。クレメンスはそれを拒絶した。が、ヘンリーはすぐさま《聖職者会議》を開催してキャサリンとの離婚を認可させた。
4月のことで、翌5月にはカンタベリ大主教のトマス・クランマーが「5月23日をもってヘンリー王とキャサリンとの結婚を無効とする」と宣言すると同時に、アン・ブーリンがヘンリーの合法的妻であることも宣言した。
それから1週間後には錦織の衣装に宝石で飾ったアン・ブーリンの戴冠式が挙行されたが、沿道を埋め尽くした民衆は黙って見つめるだけだったという。民衆の心にはキャサリン女王への同情が渦巻いていたわけである。
クレメンスは予想通りふたりの結婚を無効で違法、ふたりの間にできる子は嫡子とは認められないと宣告し、ヘンリーをローマ・カトリック教会から破門した。もっとも、こうしたローマとの断絶は文書上のことであって、宗教的には深刻な影響は生じなかった。
神学上から言えばヘンリーは相変わらずローマ・カトリック教徒であり、カトリック教義を批判する者とヘンリーが英国国教会の首長であることを批判するカトリック教徒を処罰した。
従ってローマ・カトリック教会から離脱したからといってティンダルの英訳新約聖書がそのまま「欽定訳(きんていやく)Authorized Version 」のお墨付きをもらうわけではなかった。そうした中でアン・ブーリンが赤毛の王女を出産した。1533年9月7日のことで、エリザベスと名づけられた。
1533年も押し詰まった頃、ティンダルは(読者に)約束していた新約聖書の改訳版の脱稿を間近にひかえていた。そして翌年早々、アントワープのマルティン・ドゥ・カイザーという印刷屋から、タテ6インチ、ヨコ4インチ、厚さ1.5インチ、ページ数400という立派なものが出た。
が、その少し前から思いもよらなかった問題に遭遇していた。同じアントワープの印刷屋で1526年に海賊版を出していたクリストファー・フォン・エンドフォーベンが1531年に逮捕されて獄中で死亡したあと、その未亡人がケンブリッジ大学出身のジョイ George Joye という男に、海賊版の第4版を出すに当たって監修を依頼したという。
改訂版でティンダルは5000箇所以上の書き換えを行ない、印刷ミスもすべて訂正したという。1526年のウォルムス版から8年が経過し、その間にティンダルはギリシャ語とヘブライ語に磨きをかけ、『モーセ五書』その他の旧約聖書も訳して、その関連から新約聖書の訳を改めた箇所もある。
そのティンダルにしてみれば、ジョイがどの程度の学識の持ち主であるかは知らないが、そうした訂正箇所は知る由もないし、当時はいわゆる著作権法も存在しなかったので、今日でいう出版差し止めも出来ない。彼はやむを得ずその改訂版に事情を説明した一文を添えるだけで我慢するしかなかった。
それにしても改訂版は豪華な装丁だった。金箔で縁取りし、カラーのイラストを挿入し、しかも〈アン女王に捧ぐ〉という献呈文で飾られていた。アン・ブーリンは改革派に理解があることで知られていたからである。
しかし、それが英国へ輸送されて英国の港に荷揚げされた時、そこは8年前に初版本が荷揚げされた時とは完全に様変わりしていた。枢機卿のウルジーは他界し、跡を継いだトマス・モアは引退して、王の結婚問題で逮捕される危険性にさらされていた。
キャサリンはロンドンから追放され、新しい女王が君臨していた。王女のメアリは不義の子として父母のどちらからも遠く離れた城に閉じ込められていた。幼いエリザベスは、いずれ自分を英国女王の座とロンドン塔の牢へと送り込むことになる政治的激流を知らぬまま、天真爛漫に遊び戯れていた。
英国中の聖職者は宗教的リーダーシップの本尊をローマ教皇から国王へと替えつつあった。そうした流れを見て、ティンダルの英訳聖書の禁制が解かれる日も遠くないと思う者もいた。
が、ティンダル自身は自分の仕事はまだ道半ば(みちなかば)と見ていた。旧約聖書の翻訳がまだ半分にも到達していない。神が命をつないでくださる限り、その完訳に精魂を傾ける覚悟でいた。
第9章 ついに奸計(かんけい)にはまる
1535年の春、ティンダルはアントワープで比較的安全で満足のいく暮らしをしていた。ほぼ半年ほど、かつてリトル・ソッドベリ・マナーで家庭教師をしていたウォルシュ家の夫人の親戚でビジネスマンとして財をなしたトマス・ポインツ氏の家に厄介になっていた。
「英国商会」として知られていた貿易商社で、ポインツ氏の家族以外にも、ヨーロッパじゅうで幅広く商売をやっている実業家が何人も同居していた。
英国との貿易がアントワープに膨大な利益をもたらしていたので、市の政治家たちは、近くのブリュッセルやルーヴァンのローマ・カトリック系のリーダーたちが反英国・反改革の敵意を募らせているにも拘わらず、英国商社の住人だけは手厚く匿(かくま)っていた。
ティンダルの仕事に理解のある実業家は惜しげもなく資金を提供してくれた。多分この頃が、成人してからのティンダルにとって金銭にもっとも不自由しなかった時期であろう。
書物を買うにも、用紙や羽根ペン、インクなどの材料を買うにも、最も大切なものであるキャンドルを買うにも、お金にはまったく不自由しなかった。それどころか、翻訳の仕事で雑用を手伝ってくれた人には礼金を渡し、原稿を印刷屋にまわす時は、請求された額に上乗せして、その分だけ多くの部数を刷ってもらうことも出来たという。
それだけではなかった。週に2日を貧しい人々に生活費を恵んで回るために使った。とくに月曜日には、自分と同じように信仰上のことで追われて身を隠している人々のところを訪れていた。
そんな次第で、アントワープの英国人共同体や宗教改革の理念を支持する人々の間では、ティンダルはちょっとした名士となっていた。食事に招かれることもよくあった。
英国商会の知人から、アントワープの改革論者たちから、さらに新約聖書を英語に訳してくれた人はどんな人なのか、ぜひ会いたいたいという人たちからだった。
日曜日にはティンダルの先導でそういう人たちと略式の礼拝を行い、英訳聖書から文章を読み上げて解説を加えてあげた。その他いろいろと忙しくしていたが、最も力を入れたのはやはり聖書の翻訳で、旧約聖書の翻訳のかたわら、改定版を出したばかりの新約聖書にもさらに改定を加えるという熱の入れ方だった。
『モーセ五書』はすでに訳了していたが、その間の勉学でティンダルはすでにヨーロッパで指折りのヘブライ語の大家の仲間入りをしていた。ポインツ家の厄介になっている間に、旧約聖書の訳は『ヨシュア記』と『歴代志上下』を訳了し、多分『エズラ記』『ネヘミア記』『エステル記』へと筆を進めていたものと察せられる。
その頃のティンダルは、多分、旧約聖書の中でも難解な予言の書、即ち『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『ダニエル書』はもとより、最大の量の『詩篇』と『ヨブ記』への挑戦に胸の高まりを覚えていたことであろう。
こうした状況下でも、英国商会の誰ひとりとして絶対的安全を信じている者はなく、常に警戒を怠らなかった。ポインツ氏を初めとしてそこで共同体を形成している者たちは、ヨーロッパを中心として世界をまたにかけた実業家であっただけに、世界の潮流を適確に把握していなければならなかった。
中でも注目していたのは、改革的教義の信仰が激しい勢いでヨーロッパを席巻しつつあることで、仕事で出張した先でカトリックとプロテスタントの抗争を目の当たりにすることは珍しくなかった。
ティンダルはとかく世情に疎いナイープな聖書学者と思われがちであるが、そうして宗教的抗争の政治的ならびにティンダル個人にかかわる意味を十分に理解していた。端的にいえばティンダルの人生は「聖書」と関わった人生だった。
旧約聖書で語られているイスラエル民族の虐げられた歴史、そして新約聖書で語られているイエスとその弟子たちが遭遇した宗教的な悪逆非道は、ティンダルに大きな教訓を教えた。既成宗教の伝統的権威は、神への忠誠という名のもとにでも、真理の挑戦を跳ね除けるということである。
リトル・ソッドベリ・マナーのウォルシュ家を去る原因となった、あの応接室での激論やロンドンで翻訳許可の後ろ盾が得られなかったことも含めて、オックスフォードとケンブリッジでのさまざまな体験も、そうしたティンダルの教訓を深めた。
とどのつまりは英国の宗教的抗争がティンダルに政治的亡命を余儀なくさせたのだった。
それでも、ヨーロッパのどこかで、例えばウィッテンベルクのようなルーテル派の拠点で静かに学究的生活に甘んじて宗教的趨勢が変化するのを待つという生き方も、選択肢として十分に考えられたのであるが、ティンダルは聖書を英語に翻訳することで伝統的教義の欺瞞を暴くという、ローマ・カトリック教にとっては不倶戴天の敵になってしまった。
それは同時に、イエスが身をもって示した同胞の霊的救済ではなく、富と権力の拡大にばかり腐心する宗教組織を根本からの改革せんとする勢力の先頭に立っていたとも言える。
1525年にやっと初版の印刷に入ったと思ったら、捜査当局の手が回ったことを知って、慌ててケルンから脱出した。翌年どうにか出版できたが、それが彼への敵意を増幅させ、危険は彼ひとりに留まらず、翻訳聖書を所持していた者にまで広がった。
1528年には The Obedience of Christian Man を書いて、教会のドグマではなく聖書を道徳的生活と社会的秩序の規範にすべきであると激励した。
1530年に出した The Practice of Prelates では、彼が見たローマ・カトリック教会の腐敗をウルジーの権力欲と傲慢な贅沢を例に挙げて糾弾した。1531年にはトマス・モアの批判に対して Answer unto Sir T. More’s Dialogue を書いて痛烈に反論している。
彼はまたそれらの小冊子を積極的にばらまいた。その媒体となってくれたのがビジネスマンたちだった。生まれ育ったセバーン渓谷が西ヨーロッパでも指折りのマーケットであったことがビジネスマンへの理解を育(はぐく)み、アントワープでパトロンとなってくれたのがビジネスマンであったことは決して偶然ではなかった。
著作物を英国へ密輸するにあたって彼はいろんな商売をやっている人々を伝手(つて)に利用した。
英国はもとより大陸の改革派の人々とも盛んに文通で連絡しあったが、その仲立ちをしてくれたのも商人たちだった。そうした同志たちの多くが処刑されたことを知ったのも商人たちからだった。
英国商会の仲間たちも、そうやって積極的にティンダルをサポートすることの危険性を百も承知していた。それだけに、ブリュッセルやルーヴァンの当局からいつ魔の手が伸びてくるか、油断なく警戒を怠らなかった。その動きを察知したらすぐさまその土地の仲間から英国商会に連絡が入ることになっていた。
しかし、彼らが警戒の目を向けていたローマ・カトリック教会と神聖ローマ帝国とは別の第3の脅威が密かに近づいていることに、彼らは気づいていなかった。
宗教改革を面白く思わない英国のリーダー格の聖職者たちが、アントワープの英国人居住地区をターゲットとして、密かに戦略を練り資金を用意していたのである。その中心的人物は高貴な家柄で財産家の3男坊で、オックスフォード大学出のヘンリー・フィリップス Henry Phillips だった。
当時は長男が財産と地位を引き継ぐのが習わしだったが、幼少時代の育ちとオックスフォード大学まで行かせたという事実から、ヘンリーにも教会での高位の聖職に就かせたいという親の願望が読み取れる。
将来ヘンリーのパトロンになることを約束していた高位教会職員がいたという事実がそれを裏づけている。彼らは授任式の手ほどきから教会での最初の役目の準備、さらに財務の面倒まで見てくれる。
ところが、1533年の2月から翌年の春までの期間のどこかで、あることが原因で親子の縁が切れてしまう。親に頼まれて多額の金をロンドンのある人に届けに出かけた、その途中でギャンブルに手を出し、すっからかんになってしまう。
ヘンリー8世の王室に勤めている親の知人に救いを求めるが、うまく行かず、といって家に帰ってギャンブルの話を正直に打ち明ける勇気もない。ここに、彼が生涯で遭遇した幾つかの窮地の中でも、自分に正直になれなかった最大の過ちがある。その卑怯さが、その後の彼に非情な選択を強いることになる。
フィリップスが金に困っていることを知ったローマ・カトリック系の聖職者たちが、その弱みにつけこんで一計を案じた。
金を十分に持たせてルーヴァンに送り込み、当地で活躍している英国人改革者の氏名をピックアップして手渡し、所在を突き止めて拘束することに成功したらさらに大金をくれてやる、というもので、もちろんフィリップスはその話にのった。1535年の初め頃と推察されている。
このことに関して伝記作家のフォックスは至って簡略に述べている。つまり、英国商人を匿っているトマス・ポインツの家に、ある時ヘンリー・フィリップスをいう男がやって来て、商人たちと親しくなった。その中でもティンダルをよく食事に誘い出していた。
ティンダルも心を許して、書物を見せたり翻訳の仕事の話をしたりして、露ほどもフィリップスの奸計に気付かなかった。主人のポインツは何となく不安で、どういう経緯で知り合ったのかを訊ねたが、ティンダルは彼は正直な男で学もあり、ルーテル派の説に理解があるから心配いらないと答えたという。
フィリップスが改革派を装っていたのは当然としても、アントワープでの身の危険性を熟知して警戒を怠らなかったならば、見知らぬ人間と簡単に食事に出かけるという無謀なことはしなかったのではなかろうか。
ティンダルに同情できる点がないでもない。逃亡生活が長いだけに、祖国からやってきた一見すると品のいい人間からいろいろ聞き出したかったであろう。ましてフィリップス家の支配する土地はサマーセットとドーセットの南西部で、ティンダルの出身地と極めて近かったから、話が弾んでもおかしくはない。
もうひとつ言えることは、ふたりともオックスフォード大学の出身で、年齢的にさほど離れていなかったことである。長いこと学府の雰囲気から離れているティンダルにしてみれば、その後の母校についていろいろと聞きたかったことであろう。
在学中の自分はただの学生として学ぶ一方だったが、自分が訳した新約聖書などの影響でオックスフォードの神学はどう変わったかだろうかも知りたかったことであろう。あくまでもルーテル派を装って応対するフィリップスをティンダルが疑念を挟まなかったとしても不思議ではない。
しかし、その後同席したポインツは不審に思った。質問するのはほとんどフィリップスで、こちらからの質問に対しては生返事ばかりなのである。しかもフィリップスは、アントワープに高価な物品を持ち込む業者の名前のリストをポインツから執拗に聞き出そうとしながら、何ひとつ買う話はしないのである。
ポインツの身の上や他の商人たちのことをしきりに知りたがったが、こちらからの質問には奥歯に物の挟まったような返事しかしない。そしてポインツが最も不自然に思ったのは、一見すると金に不自由していないかに思える人間にしては、資金の調達先については話したがらなかったことだった。
しかしポインツも忙しい身の上である。ティンダルがそれほど信頼して親交を楽しんでいる以上は、これ以上余計なお節介は焼くまいと決めて、1か月以上も留守にする商用の旅に出た。その機を見てフィリップスは次の手段に着手した。フォックスはそれをおよそこう綴っている。
ポインツの留守中に再びフィリップスがやってきて、奥さんにティンダル先生がいらっしゃれば食事にお誘いしたいと言い、この辺りではどの店が美味しいかと訊ねた。
奥さんが良い店を教えてあげると、ブリュッセルから連れて来た役人も同席するので、その店のことを教えてきますと言って、いったん出て行ってから、昼頃にティンダルを迎えにもう1度訪れた。
ティンダルが出ると、今日は先生を賓客としてお食事に招待いたします、と言う。ティンダルが私の方こそあなたを招待させていただきたいと言ってから、食事の時間まで談笑したあと、ふたりで出て行った。
出てからの道はひとりしか通れない細道で、どうぞお先に、と言ってフィリップスに先を歩くようにいうと、いや、先生こそお先に、と言って道を譲った。ティンダルはあまり体格の良いほうではなく、反対にフィリップスは背の高いかっこいい男だったので、フィリップスがティンダルを見下ろすような格好で歩いて行った。
店に近づくと、入り口の両脇にふたりの男が待っていた。後ろを歩いているフィリップスが、この男だ、と言わんばかりにティンダルの頭部を指さした。その店の奥の席では皇帝の代理長官が待っていた。そこでティンダルは自分を逮捕にきた者と会食したわけである。
フィリップスが皇帝の筆頭部下まで臨席させた目的は明らかである。英国のローマ・カトリック教徒から資金を貰っているとはいえ、いよいよ逮捕の段階では神聖ローマ帝国のカール5世のお墨付きが物を言う。つまり誘拐の合法性の演出である。
それにしても、数は少ないとはいえ、役人たちは一体どうやって英国商人たちの警戒の目をくぐってアントワープに潜入できたのであろうか。代理長官といえば皇帝の部下の中でもナンバーワンの大物である。身元と目的を巧みに隠したとしか考えようがない。
食事が終わるとティンダルは身柄を拘束され、そのままアントワープから18マイル離れたヴィルフォルト城へ移された。ティンダルが逮捕されたという事実が明るみになったのは、そのあと代理長官が英国商会を訪れてティンダルの持ち物一切を差し押さえた時だった。それほど彼らの手順は用意周到だったのである。
ティンダルの身柄がヴィルフォルト城へ移された日が何日だったかは、正確には分かっていないが、1535年5月21日頃であろうということになっている。アントワープから20マイル足らずとはいえ、そこは新教の弾圧に躍起になっているブリュッセルとルーヴァンというローマ・カトリックの要塞のすぐ近くで、まったくの別世界であった。
その城は7つの塔と堀と3つの跳ね橋のある、見上げるような巨大なもので、1374年にパリのベルサイユ宮殿に模して建てられたという。ティンダルの時代には低地三国の刑務所として使用されていた。
当時の宗教的暴動の激しさを思えば、その城壁内には多くの改革論者が閉じ込められていたことであろうが、その中でもティンダルが最重要人物であったことは言うまでもない。
牢に閉じ込められたことでペンと用紙を奪われたティンダルは、もはや口を塞がれたも同然となった。ローマ・カトリック教会の支持者、とくに英国にいてヘンリー8世からハッパをかけられていた連中は、ホッと安堵の胸を撫で下ろした。が、それですべてが安泰というわけではなかった。
英国商会の住人たちはアントワープの身分保護法の違反であると息巻いた。中でも激怒したのはトマス・ポインツだった。彼はみんなに指示してティンダルの放免を求める手紙をブリュッセル当局に送らせ、英国当局には政府の後ろ盾を求める手紙を書かせた。
「ティンダル逮捕」のニュースがクロムウェルの耳に入ったのは、それから2、3週間後のことだった。その頃クロムウェルは王室評議会の一員で、ヘンリーの信任厚い側近であり、国務大臣の肩書きだった。前任者のウルジーが握っていた権力のほとんど全てを譲り受けていた。
彼はすぐさま、教え子でよく密使として使っているシオボルト Thomas Theobald をアントワープとブリュッセルとルーヴァンへ情報収集の目的で派遣した。7月の終わりごろにはクロムウェルに短い報告書が、それより少し長い報告書がクランマー大司教のもとに届けられた。
ポインツは、英国政府に出した要請の手紙に対する返事が1か月近く経っても届かないことにいらだち始めた。彼はアントワープの英国商人やヘンリー8世に忠実な英国教会のリーダーたち、そして王自身の援助で、ティンダルはきっと解放されると確信していた。
が、一方では英国教会の中のローマ・カトリック派の者が、手を変え品を替えてティンダルの釈放を遅らせようと画策するのではないかとも案じていた。
そこでポインツは、1535年8月25日付で、実兄でエセックスの荘園領主で王室にもコネをもつジョン・ポインツに宛てて請願の手紙を書いた。
—–
英国のためを思う愛国心と、わが荘園のためを思う義務感から、あえて申し上げさせていただきますが、いかにも国王の名誉を保つためであるかに装いながら実はおのれの損得のために動いている男たち、そうです、裏切り者たちです、その男たちが国王をうまく操って酷い目に遭わせようという魂胆でおります。ここでその奸臣たちの名前を挙げることは控えます。しかし、そいつらがローマ・カトリック教会派であることは明白です。
—–
次の一節にはポインツがティンダルの人物をどうみていたかが滲み出ている。
—–
一介の聖職者として、これまで1度の昇格もなく、またそれを求めようともせず、名誉を求めるような私心もなく、あるのはただ生まれながらの熱意と、神とその子イエスへの畏敬のみ。その御心にそって、たとえ生涯を乞食(こつじき)することさえ厭わず、危機に際しては死をも厭わず、おのれの栄達のためにイヤらしい目で媚びる奸臣たちとは、まったく異なります。
—–
書簡の終わり近くで、さらにこうも述べている。
—–
兄上、私はこの人物について知り得た限りでの知識から、良心の命ずるままに書かせていただきました。今という時代にかくのごとき高潔なる人物がいたことをお分かりいただきたのです。彼は掛け替えのない、国の宝なのです。
—–
この手紙を読んだ兄のジョンがどう受け止めたかは不明だが、ともかくもすぐさまそれを国務長官のクロムウェルに宛てて転送した。それが9月21日に届いているが、その時はすでに政府としての手を打ったあとだった。
即ち8月の末にクロムウェルはヘンリー国王と会ってティンダルの身の処置について協議し、9月の第1週にはブリュッセルのカール5世の政府に宛てて2通の手紙をしたためていた。
皮肉なことにその手紙を届ける役を、ほかならぬポインツが仰せつかっている。無論その内容は知る由もない。しかもポインツは、その手紙に対するカール5世政府の反応を見きわめてくるようにとの命令も仰せつかっていた。
が、その2通がしかるべき人物のもとに届けられるまでに10日以上も掛かっている。多分9月10日から22日の間であろうということになっている。その返事をポインツはブリュッセルでじっと待っていたことになる。
が、またもやポインツは、ヘンリー・フィリップスの狡猾な悪智恵を甘く見ていた。フィリップスは当初からポインツをティンダルの保護者でありルーテル派のサポーターとみて、しかるべき証拠も持ち帰っていた。
ある日、滞在先でいきなり逮捕されて連行され、フィリップスが提出していた証拠資料を見せつけられ、「異教徒」のかどで3か月にもわたって追及された。が、彼はきっと自国の英国かアントワープから救いの手が差し延べられると信じて、言を左右にして時を稼いだ。
しかし、2月も終わりごろになって、さすがの彼も生命の危険を感じるようになり、脱出を考える。そして、間もなく投獄先を移転するホンの数日前に脱出に成功してブリュッセルに逃亡する。
逃亡に成功したのはいいが、間もなく低地三国から追放令が出され、ポインツは本国へ帰らざるを得なくなった。すでにアントワープの家財産は全て没収され、大陸との貿易関係は、全てとまでは行かなくても、大きく途絶してしまっている。
それだけでは済まなかった。アントワープ生まれの妻までが愛想をつかし、子供たちとともに英国行きを拒否する。ポインツは大きな借財を抱えたままひとり寂しく祖国へ帰って行く。
ポインツが政府の援助でその借金の重みから解放されたのは、それから10数年のちの1551年のことで、たぶん貿易商として英国に多くの富をもたらした貢献に対して、国家として報いる意味が込められていたものと推察される。
そのポインツもそれから10年後の1562年に他界している。ティンダルの救済に心を砕き東奔西走した多くの人たちの中で、自分の身の危険を顧(かえり)みなかった人物は、このポインツただひとりだった。
そのポインツの名がティンダルの墓碑銘に出てこないのは、英国のプロテスタント革命史上最大の皮肉というべきである。
それにも無理からぬ事情があったという見方もできる。1536年4月13日付で、低地三国へ派遣されていたスティーヴン・ヴォーンがクロムウェルに宛てて、ティンダルの身柄を受け取って英国へ連れて帰る可能性はまだ消えていないとの報告書が届いている。
ところが不思議なことに、身柄引き渡しを求めた形跡がないのである。これほど重大な問題ならヘンリー王自身の働きかけがあってしかるべきであろう。王の「ツルの一声」で全てが決着する問題なのに、なぜそれが発せられなかったのであろうか。トマス・ポインツはすでに入牢させられているのであるから、次はティンダルの順番である。
もともとヘンリーという男は自分への侮辱的発言や行為に対する寛容性も欠けていたが、自分の計画を邪魔立てする者に対する仕打ちのむごさは、とくに恐れられていた人物である。
ブーリンの問題に端を発して彼がローマ・カトリック教会と神聖ローマ帝国を疎遠にするようになってからでも、ヨーロッパ大陸の関係者たちはヘンリーが危険人物であるとの見方を変えていなかった。
そんな次第で、どうやらヘンリーはティンダルを英国へ連れ戻すことを躊躇したと思われるフシがあるのである。ヘンリーにしてみれば自国の政治的・経済的・社会的安定を維持することが第一の関心事である。それを乱したのがルーテルの改革的教義であったことを思うと、宗教・信仰の国民的統一こそ最大の急務である。
英国内のローマ・カトリック教会の権力と富をほぼ手中に収めた今、ヘンリーはクロムウェルのような宗教的指導者の力を借りてそれを英国独自の宗教体制に変貌させたいと考えているところで、そのためにはティンダルの英訳聖書は不可欠であり、国民に英国国家への忠誠心を植え付けるには、これに勝る媒体はない。
しかし、問題はティンダル自身である。果たして自分の考える国教会にティンダルが忠誠を誓うかどうかである。マルティン・ルーテルの例を見ても明らかなように、1個の宗教的指導者が引き起こすトラブルには計り知れないものがある。
しかもティンダルが改革派の不敵な唱道者であることはすでに証明済みである。熱情的激しさと冷静な尊厳とをあわせ持つこの男には、賄賂も脅迫も通用しない。
そのティンダルをもしもローマ・カトリック教の手から奪い返し、英国へ迎え入れ、翻訳の仕事に没頭させれば、間違いなく彼は時代のヒーローとして英国民に賞賛されることであろう。すると多分ヘンリーは国教会内部の思想統制のために大いなる葛藤を余儀なくされるかも知れない。
と言うのも、同じ苦悩をトマス・モアによって味わわされてきたばかりでなのである。モアはアン・ブーリンを正式な王妃として認めることを「筋が通らない」として最後まで認めようとしなかった。困り果てたヘンリーは大法官としての職を解任したばかりか、1535年7月7日に断頭台に送った。
その後味の悪さから抜け切ってないヘンリーが、ティンダルのことで同じ轍(てつ)を踏むわけはない。狡猾さに長けたヘンリーのことであるから、こう考えたであろうことは容易に想像がつく。
即ち、どうせティンダルという男は国教会にとって厄介な脅威となろうから始末した方がいい – こんどは自分の命令によってではなく、ヨーロッパ大陸のカール5世とローマ・カトリックの組織に任せればよい、と。
そのヘンリーの思惑どおり、ウィリアム・ティンダルは異郷の地で悲惨な最期を迎えることになる。
第10章 終焉
ティンダルが巧妙な策略にはめられて身柄を拘束されたのは、前章でも述べたように正確な日付の記述はないが、多分1535年5月21日であろうということになっている。
カール皇帝の代理長官に「逮捕」を言い渡され役人によって拘束されたあと、低地三国政府の主任検事による取調べのためにヴィルホルト城へ連行された。
その主任検事は名前をピエール・デュフィエフ Pierre Dufief といい、ローマ・カトリック教会の権威に盾突く者への冷酷非情さで知られた人物だった。
「異端者」を見出して罰することにかけては情熱的でさえあった。
尋問では威嚇的な質問で追い詰め、それでも吐かない者、あるいは吐くまでに時間が掛かり過ぎる者は、記憶を取り戻させるという口実のもとに拷問室へ送った。宗教改革の歴史家の中にはデュフィエフのことを「この行政官」と呼ばずに、わざわざ「この鬼のような行政官」と呼んでいる者がいるほどである。
ヴィルホルト城に拘禁されるとすぐからティンダルはデュフィエフの執拗な取り調べを受けた。時間を決めて訪れ、必ず公証人を従えていて、取り調べの内容を逐一記録させた。質問は多岐にわたったが、目的とするところはただひとつ、カトリック教会の戒律のもとで「異端者」として告発するための証言を取ることだった。
尋問は2、3日で済む者もいれば2、3ヵ月にも及ぶ者もいた。その人物の重要性や容疑の複雑さによって異なったようであるが、ティンダルは最重要人物である上に、英国からヨーロッパ大陸にかけて行動し、さまざまな階層の人物との関わりがあったために、尋問は延々と続き、5月末に逮捕されてから6、7、8月の夏を過ぎ、秋に入ってもなお続いている。
唯一救いだったのは、ティンダルは何ひとつ隠し立てすることなく、信じること、行なったこと、話し合ったことなどをあからさまに語ったので、拷問の責め道具が使われなかったことである。
が、さすがに悪智恵に長けたデュフィエフらしく、奥の手を用意していた。ヘンリー・フィリップスである。
フィリップスはその後も Blood Money(通報や殺人の依頼に応じた者が授かる報奨金)を貰って雇われていた。毎回の尋問にかならず同伴し、独房の中から姿が見えない場所で問答を記録し、それをローマ・カトリック教会と法廷の専門用語であるラテン語に翻訳する役をしていた。英語が理解できる者は極めて少なかったのである。
もっとも、ティンダルの取り調べに当たったのはデュフィエフだけではなかった。その後カール5世の代理人によって指名された諮問委員会 – 神聖ローマ帝国からの4人、ルーヴァンからの神学者3人、法王の直属の部下ひとり、それに補佐の役人数名 – が取り調べに当たっている。
この諮問委員会の構成を見る限りでは、「異端者」の嫌疑をかけられた者を公平に裁く配慮がなされているかの印象を受ける。ローマ帝国からの4人はすべて法律学者であり、ルーヴァンからの3人のうちふたりは有名な神学者であり、偏見のない裁判官として知られていた。
その委員たちが聖書に関する膨大は知識と、過去1500年間の教会の教義と慣習に照らして採決に臨む。と言っても、その委員自身が採決を行なうのではない。あくまでもアドバイザーとして参考意見を述べるだけである。
被告の信仰が正しいか間違っているかの議論はただでさえも長引くものだが、ティンダルのように膨大な量の著作物がある場合には尚更である。ましてティンダルは当時としては最高の知性の持ち主であったから、その解釈をめぐって委員の間で侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が続いたであろうことは想像に難くない。
その上さらに、ティンダルの著作はすべて英語で書かれていたから、それをラテン語に翻訳するのに時間が掛かっている。多分フィリップスひとりでは間に合わなかったはずである。
しかし、いくら時間が掛かろうと、諮問委員会がいかなる意見を具申しようと、異端審問の結論は当初から決まっている。デュフィエフは最高検察官の地位と権限をフルに活用して、表向き然るべき手順を踏みながらも、ティンダルを異端者とするゴールへ向けてじっくりと進めて行く。
低地三国で検察官・裁判官・刑執行官を歴任してきたデュフィエフの手腕はすでに伝説的ですらあった。しかもデュフィエフは、そのティンダルの裁判で他の役人の倍の報酬を得ていた。
さらに、当時の慣習で、有罪と決まった異端者の財産の一部を報酬として貰い受けることになっていて、残りは裁判費用の調達のために売りに出されていた。「正義」の名のもとにもうけられたこうしたシステムによる腐敗は、常識による理解の域を超えていた。
ところで、その間獄中のティンダルはどうしていたのだろうか。むろん被告としての弁明の準備をしていたであろうことは間違いないが、伝説的な見方としては、旧約聖書の翻訳のために、ティンダルに同情する看守を通して資料を入手していたのではないかという。
それを裏づける証拠はないが、獄中でも翻訳を続けたはずだとする見方は、これまでたどってきたティンダルの生きざまから十分に有り得ることである。
彼は聖書の翻訳こそ神が自分に託した使命であるとの信念を最後まで捨てなかった。家庭教師として雇われたリトル・ソッドベリ・マナーの時代から、聖書の英語への翻訳は可能であること、そしてそれは自分にしか出来ないと信じて疑わなかった。
従って、翻訳を続ける条件がひとつでもあれば、それを最大限に活用して1ページでも、1行でも、否、たとえ1語でも訳そうとした。これだけは間違いない事実であると断言できる。
ティンダルが獄中から出した嘆願書が残っている。10月に入って寒さが応え始めたので冬用の衣類の差し入れを要求したものであるが、その中に次のようなまったく別の要望が書き添えてあった –
—–
しかし、とりわけ至急に代理長官様に寛大なるお許しを願いたいのは、ヘブライ語の聖書とヘブライ語の文法書、それにヘブライ語の辞典の差し入れです。獄中での時間つぶしに使用したいのです。
そのご恩の報いとして、閣下が最もお望みのもの、即ち魂の救いが得られるものと信じます。何とぞ冬に入る前に叶えられますよう、神のご意志を体して、主イエス・キリストの栄光のために私は辛抱強く待ちます。願わくは閣下もイエスの霊に心を向けられんことを。
アーメン
W・ティンダル
—–
実を言うと、この嘆願書が見つかったのはブリュッセルの公文書館で、つい近年になってのことである。ティンダルの研究家がまったく予期していなかった場所だっただけに、他の資料もヨーロッパのどこかのカビ臭い公文書館か、ティンダルにゆかりのある12の大学の、あまり利用されない図書館に眠っているのかもしれない。
さて、ティンダルに対する正式の告訴が伝えられたのは1536年初頭のことで、いよいよティンダルによる弁明が始まった。それはすべて文書の交換という形で行なわれ、何か月も続いた。
その論点は信仰のみによる救済が有り得るのか、教皇は絶対に誤ることがないのか、神との交わりとは何かといった、キリスト教の根幹にかかわる問題ばかりで、検察側もティンダルを、さすがに敬意をもって扱っている。
検察側としてはティンダルほどの学者を説き伏せて信仰を撤回させることに成功すれば、それはローマ・カトリック教の大勝利であり、一方ティンダルにしてみれば、そのやり取りで係官のひとりでも「神のことば」を新鮮な目で見せてやりたいという、彼らしい誠意を持って臨んだことであろう。
その論争の中心に、至って素朴な問題があった – 聖書には一体何が語られているのか、ということである。そんなことが今さらのように問題となったのである。
つまりヨーロッパの大半の人間は、1000年以上にもわたって聖書を自分で読んだことがなく、従って自分で判断して決めるということがなかったのである。それがエラスムスやルーテルやティンダルのお陰で叶えらることになって、彼らは深く感謝し、身震いするほどの興奮を覚えた。
獄中での論争の媒介役をした番人たちは、ティンダルの学問的業績にただただ驚嘆し、さらにその勇気と信念と礼儀正しさに深い感銘を受けたという。
つまり彼は聖書を英語に翻訳しただけでなく、その聖書の教えの基本理念を普段の生活に生かし、その穏やかな性格が伝えるメッセージは翻訳を必要としないほど素朴で明快だったということである。
フォックスの伝記によると、ティンダルの強烈な誠意にうたれて、1年半の獄中生活で、番人のひとりが娘や他の家族とともに信仰を変えたという。
また、他の番人の語ったところによると、もしもティンダルをもってクリスチャンと呼ぶのでなければ、いったい誰をもって真のクリスチャンと呼んだらいいのかと述べたという。デュフィエフでさえ、ティンダルの人格からほとばしり出る高潔にして物怖じしない雰囲気に圧倒されたという。
しかし、いかなる善意をもってしても、異端審問という情け容赦ない、そして一方的に都合の良い制度からティンダルを救うことは出来なかった。1536年8月初旬、ティンダルに「異端者」の判決が下され、聖職者としての地位の剥奪と死罪が言い渡された。それから後は告発者の側の好き放題となる。
処刑の場は見せしめのためにヴィルフォルト城の近くの広場に設けることになった。諮問委員会の全役員はもとより、ローマ教皇代理の高官、ローマ・カトリック教会の司教3人、それにずっと主役を務めてきたデュフィエフがこの儀式でも重要な役を務めることになった。
それ以外にも、ルーヴァンとブリュッセル、さらにヴィルフォルト城近郊の小さな市町村からも代表が参列することになったが、アントワープからの出席者の記録はない。
処刑の場がヴィルフォルト城の近くの広場であったことは間違いないが、正確な位置は今もって特定されていない。いずれにしても、その広場に一段高い座が設置され、その上に3人の司教が着席する。
すると、その3人の前に司教の衣装をまとったティンダルが連れてこられる。そして3人の前に跪(ひざまず)いて頭(こうべ)を垂れる。そのティンダルに向かって3人のうちの主宰者が、改めて異端者としての罪状を読み上げる。
それからティンダルが糾弾しつづけてきた子供騙しの儀式がはじまる。聖職授任式の時に注がれた清めの聖油を取り除くために、ナイフのようなもので両手の肌から削ぎ取るような仕草をする。続いて差し出した両手の上にパンとブドウ酒を置き、すぐさま取り去る。
さらに司教としての衣装を1枚1枚脱がせて、最後にただの一平民の姿にする。その間ずっと別の司教が司教としての不適格性を無気味な雰囲気を醸し出す調子で読み上げ、この儀式をもってこの者は信仰の仲間から離脱すると宣言して、身柄をデュフィエフに引き渡す。
これで「見せしめ」の最初のステージが終わり、本来ならその2、3日後に刑の執行となるのが通例であったが、ティンダルの場合は異例で、それから2か月間も牢に閉じ込められたままだった。
その理由は憶測の域を出ないが、そうした処刑の儀式をむしろローマ・カトリック教会の恥辱と受け止める司教が少なくなかったこと、また、神聖ローマ帝国のカール5世の公式の認可なしに行なったことへの反発が強かったためであろう。
その時カール5世はフランス南東部での戦闘に出陣していたのであるが、認可を求める公式の書類を急使に持たせてすぐに持ち帰らせることは容易だったはずである。さらに、英国やアントワープやドイツのどこかの州から「寛大の処置」を求める動きがあっても良さそうなものであったが、それもなかった。
第2のステージはティンダルに最後の改心(信仰の撤回)を求める働きかけであった。この方が処刑するよりも教会としての勝利の意味が大きかったのである。が、ティンダルにとっては大きなお世話でしかなかった。歴史家モズレーは次のように表現している –
—–
英司教や修道士が入れ替わり立ち代り訪れて、弱みと疲労につけ込んで説得する。静かにさせてくれと頼んでも、覚悟は出来ているからと嘆願してもムダだった。招かれざる客に情け容赦はなかった。
—–
が、そんなことで、いささかたりとも動揺するティンダルではなかった。彼の人生そのものが、そうした闘いの連続だったのだ。若き僚友ジョン・フリスが処刑される直前の1531年の夏に書き送った最後の手紙にも、ティンダルの不撓不屈の精神が滲み出ている文言がある –
—–
脅しをもって説教する者を恐れてはなりません。まことしやかな説教をする者を信じてはなりません。言葉にウラのない人間、約束をきちんと守る人間を信じなさい。
あなたの信念はキリストの福音にあります。信念の血をもって燃やし続けねばならない灯火です。信念のランプは日毎に芯の手入れを怠ってはなりません。炎が燃え尽きぬよう、朝に晩に油を注がねばなりません。
—–
1536年10月の初旬、ついにティンダルの処刑執行の日がやってきた。フォックスの記述はティンダルの覚悟のように淡々としている。
何か月にもわたる論証の末、いかなる論証も決定的でないまま – 従って死に値しないはずなのに – 皇帝の宣告ひとつで有罪とされ、同じく皇帝の宣告で処刑の場に連行され、火刑用の柱に縛りつけられ、まず絞首刑執行人によって首を絞められ、そのあと火に包まれて灰燼に帰した。
西暦1536年、ヴィルフォルトの町でのことで、首を絞められる直前にティンダルは、熱情のこもった声で「主よ、英国王の目を開かせ給え!」と絶叫したという。
エピローグ その後の余波
刑の執行直前に絶叫したティンダルの祈りは、その後1年もしないうちに叶えられることになる。ヘンリー王は『マシュー版 Mathew’s Bible 』と『カヴァデール版 Coverdale’s Bible 』の2種類の聖書の刊行を許可した。
『マシュー版』というのはティンダルがアントワープで身を寄せていた英国商会で司牧していたジョン・マシュー John Mathew が、また『カヴァデール版』はティンダルが親しくしていたマイルズ・カヴァデール Miles Coverdale が、ともにティンダル訳の新約聖書のほぼ全部と、旧約聖書の『モーセ五書』その他、ティンダルが訳したまでを編纂したものである。
カヴァデールはその後『大聖書 Great Bible 』と呼ばれる大型の聖書を編纂しているが、やはり大半がティンダルの訳で、「大」の字を冠したのはサイズが大きいからだった。
さらにその後2年もしないうちに、ヘンリー王は英国の全教会に『大聖書』を1冊ずつ常備するようにとの命令を発布した。すると皮肉なことに各教会から、礼拝中にその聖書の回りに大勢が集まって声に出して読もうとするために、まともに礼拝の儀式ができないとの苦情が寄せられるようになり、ヘンリー王は「礼拝中に聖書を朗読することを禁じる」という命令を出すほどだった。
英訳聖書の解禁は、宗教的な意味合いとは別に、英国民の識字率を急速に高めることになった。チョーサーとシェークスピアの間にあって目立たない存在であったが、英語 English という言語の完成に最大の貢献をしたのはティンダルであったと言っても過言ではない。
シェークスピアの作品に見られる詩的表現を可能にしたのは、紛れもなくティンダルの英訳聖書の影響であり、舞台で演じられるのを見ようと観客が殺到し、印刷された台本が飛ぶように売れたのも、見逃せない事実である。
ティンダルの影響はその後も続き、17世紀初頭のジェームズ1世の時代には『ジェームズ王版 the King James Version 』、今日でいう『欽定訳聖書』が刊行されている。
これもティンダルの英訳が80%以上を占めている。その英文の文学的表現力は、21世紀の今に至るも、他の翻訳家の追随を許さないものがある。
「農民にも聖書を読ませてあげたい」というティンダルの生涯にわたる願いは遂に叶えられた。それこそがティンダルが何よりも喜ぶ遺産ではなかろうか。
編訳者あとがき
霊界すなわち死後の世界から地上界へ情報を伝達しようとする働きかけは、洋の東西を問わず世界のどの民族においても太古から盛んだったようである。
〈神託〉〈お告げ〉〈天の声〉等々と称されているのがそれで、スピリチュアリズム以前はそれらをすべて〈神の言葉〉として有難がったところに間違いの元があった。
見えない世界から届けられるものは神聖で有難いものと受け取るのが人間界の常で、実際は人間界と同じく聖と邪、善と悪、高級と低級の入り混じった世界で用心が肝要であることがスピリチュアリズムの発達とともに明らかとなってきた。
私がスピリチュアリズムを〈近代の霊魂学〉と呼んで判断のものさしとしている理由はそこにある。
前著『日本人の心のふるさと《かんながら》と近代の霊魂学《スピリチュアリズム》』(以下『かんながらとスピリチュアリズム』)で私は日本の太古からの霊的思想である〈かんながら〉が世界の霊的思想の中でもっとも純粋で、その象徴というべき神社がスピリチュアリズムの観点から見て理想的であるとの見解を披瀝(ひれき)したが、現実には日本人のすべてがそれを正しく理解しているわけではなく、歴史的に見ても、仏教を初めとする外来思想という荒波にもまれ、さまざまな紆余曲折を経てほとんど形骸化した時期もあったようである。
そこへ日本のルネッサンスとも言うべき潮流が湧き起こる。神道国学の復古運動でのちに〈国学の四大人〉と呼ばれるようになる荷田春満(かだのあずまろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)の4人がそれぞれの分野で剋目(かつもく)すべき研究成果を発表する。
そのひとりひとりについてここで紹介する余裕はないが、平田篤胤だけはぜひとも紹介しておきたいことがある。
篤胤は秋田藩の出で、オランダ語、英語、ドイツ語、ロシア語に通じた語学の天才であったことは知られており、西洋事情に通じていたことはよく知られているが、最近になって(平凡社刊、別冊「太陽」2004年5月号で)平田家の末裔の方の証言で、篤胤が心霊学(私のいうスピリチュアリズム)にかなり深入りしていたことが明らかとなった。
米国でのスピリチュアリズムの発端は1848年で篤胤は1843年没であるから、スピリチュアリズムという用語を目にすることも耳にすることもなかったであろうが、生まれながら霊感があって、怪奇な現象、いわゆる心霊現象に関して正しい理解ができていたものと推察している。
私の勝手な推察ではない。『かんながらとスピリチュアリズム』で私は世界に誇れる古記録として『幽顕問答』を紹介したが、その筆録者で神職の宮崎大門が篤胤の門下生で、霊現象の扱い方が巧みで、近代的な審神者(さにわ)の浅野和三郎も感服するほどツボを押さえているからである。篤胤から正しい心霊知識を授かっていたに相違ないのである。
篤胤についてはいずれ私なりの視点から本格的に研究・調査して発表したいと考えている。とくに、それほどの人物がなぜ弾圧を受け志半(こころざしなか)ばにして世を去らねばならなかったのかについて、私には思い当たるフシがあるのである。
日本中に2万人の弟子がいた今風に言えば2万人の知的ネットワークができていたというが、それが支配力に陰りが見え始めた幕府に警戒心を抱かせることになったのではなかろうか…秋田藩の脱藩者という口実をでっち上げたのではないか等々…
しかしこうしたことは地上界の事情であって、その背後に霊界のあぶれ者、いわば反体制分子の暗躍があることを忘れてはならない。が、この問題にはここではこれ以上は踏み込まない。
それよりも、第3章の解説を執筆していて是非とも述べておきたいことが浮上したので、「あとがき」に代えてここで述べておきたい。
神道の〈四大人〉が掘り起こしたのは、太古から日本民族が霊的手段(霊言、自動書記、インスピレーション等々)によって霊界から入手してきながら埋もれてしまった情報遺産であり、それを私が『かんながらとスピリチュアリズム』でスピリチュアリズムと対比させたのは、スピリチュアリズムで科学的に証明された霊的真理に照らしてほぼ完璧といってよいもので、真の意味での〈宗教〉としての条件を具備していると見ているからである。
いま私は〈ほぼ完璧〉と、控えめな表現をした。神道の死後の世界に関する叙述が「神界」に偏っており、それも抽象的過ぎるからである。これは是非ともスピリチュアリズムによって是正しなくてはならない。
天地開闢(かいびゃく)について述べた「神代七世(かみよななよ)」はおとぎ話風に述べてあってそれなりに面白いが、理性の発達した現代人にはもはやアピールしない。
大和民族がいつどこから来てこの列島に住み着いたか、つまり大和民族の起源については未だに謎だらけであるが、おおざっぱに推定される数千年ないしは数万年の間に霊界入りし、また再生してきた者の中には、先ほど言いかけた反体制分子、いわば〈あぶれ者〉 – 仏教でいう〈成仏〉しない霊、審神者から見ると〈因縁霊〉 – 要するに死後の世界に馴染めずに良からぬ事ばかりをしている者もいることを忘れてはいけない。
とくに神職や仏道に携わっておられる方々にはこうしたスピリチュアリズムによって明るみになった霊的事実についての認識を改めていただきたい。スピリチュアリズムは霊的事実のグローバルなルネッサンスだからである。キリスト教の牧師の中にはスピリチュアリズムを知って牧師職を辞した人が少なくない。
自分が説いてきたことがあまりにも真実からかけ離れていることを知って自責の念を覚えるからであるが、シルバーバーチによると、そうした間違った教説によって死後迷っている霊のひとりひとりに会ってその迷いから救ってあげないと責任を果たしたとは言えないという。
もっとも、私の言う〈反体制分子〉の数は高が知れている。よほど不自然な死に方をするか、歴史に残るほどの極悪な生涯でも送らない限り、キリスト教や仏教でいう永遠の地獄の苦しみを受けることはない。
モーゼスの「霊訓』によると、それは霊性が萎縮していく反応であって、本人の意識が目覚めない限り第3者による救済は不可能であるらしい。
ではそういう霊は最後はどうなるのか、消滅してしまうのか、それともどこかの天体に生まれ変わるのか、という問いに対しては、究極のことはそこまで行ってみないとわかりません、とシルバーバーチと同じことを言っている。
ハート出版刊のCDブック『シルバーバーチは語る』の《迷える魂のゆくえ》の項目に注目すべき言葉がある。いわゆる「供養」についての司会者サムの質問に答えて、シルバーバーチはこう述べている。
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別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には、受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようとこちらでしようと、それは同じことです。
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近藤千雄主要著作(出版社別リスト)
◆ハート出版
(1)『古代霊シルバーバーチ・新たなる啓示』(翻訳)
Psychic News の編集部スタッフによる第1期の霊言集(『シルバーバーチの霊訓』全12・潮文社。後出)の完結の後、第2期の霊言集として、トニー・オーツセンが遺された録音と速記録から独自の視点で新たに編纂したもの。
(2)『古代霊シルバーバーチ・最後の啓示』(翻訳)
同じくオーツセンが新たに編纂したもので、これがシルバーバーチの霊言の最後の1冊となった。
(3)『古代霊シルバーバーチ・不滅の真理』(翻訳)
同じくオーツセンが第1期の12巻から珠玉の名言を抜粋してまとめたもの。原名が Silver Birch Companion(シルバーバーチの友)となっているように、どこへでも持ち歩き、何度でも読み返すべきものとして編纂してある。
なお平成14年(2002年)に『シルバーバーチのスピリチュアルメッセージ』と改題された新装版が出ている。
(4)『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』(翻訳)
英国の「勉強会」のテキストとしてふたりの編纂者がシルバーバーチの既刊の霊言集の中から Questions(質問)と Answers(シルバーバーチの答え)だけを集めたもの。人生のさまざまな問題をテーマ別に扱っていて、好評。
(5)『シルバーバーチは語る』(翻訳)
シルバーバーチの交霊会の様子を伝える唯一のカセット録音をCDに採録し、英語の全文と訳文を対照させ、絵本作家の葉祥明氏の装画で飾った美麗本。
(6)『タイタニック・沈没から始まった永遠の旅』(翻訳)
ジャーナリストとして第1線で活躍していたウィリアム・ステッドはカーネギーホールでのスピリチュアリズムの講演のためにタイタニック号で米国に向かった。そして歴史上最大の海難事故で他界するのであるが、死後まもなく自動書記でジャーナリストらしいタッチの通信を送ってきた。死の直後の様子、特に大惨事の時の霊界側の様子をニュース報道のように生々しく伝えていて、説得力がある。(『ブルーアイランド』改題)
(7)『迷える霊との対話』(翻訳・新装版)
精神科医のカール・ウィックランド博士が霊媒の妻アンに迷える地縛霊を乗り移らせて、直接の対話によって霊的真理を悟らせて向上の道へと導くという仕事を30年にわたって続け、それを Thirty Years Among the Dead(死者とともに30年)と題して公表し、大反響を呼んだ。西洋では「除霊」とか「浄霊」をしないという常識を打ち破る大著で、精神病や異常行動の根本的解明はスピリチュアリズムによるしかないことを雄弁に物語っている。
(8)『ペットが死ぬとき』(翻訳)
バーバネル夫人が豊富な資料で動物にも死後の生命があることを訴えた力作。人間と動物との愛が不滅であることを証明すると同時に、動物実験や過度の肉食への警告でもある。(「ペットは死後も生きている』改題)。
(9)『霊的人類史は夜明けを迎える』(書き下ろし)
半世紀にわたってスピリチュアリズムの文献を渉猟してきた著者が、メルキゼデクに始まった霊的潮流がイエスの処刑によって終焉を迎え、霊的な「夜の地代」へと突入し、西洋史を色濃く彩る「暗黒地代」に象徴される世紀と、ふたつの世界大戦に象徴される世紀を経て、もうすぐ「干るの時代」を迎えるとの持論を展開する。
(10)『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』(書き下ろし。『人生は霊的巡礼の旅』の改題新装版)
18歳の時の恩師とスピリチュアリズムとの出会いによって人生観にコペルニクス的転回を体験した著者が、その後の半世紀に及ぶスピリチュアリズムとの研究と翻訳・紹介のあとを振り返って、その起爆剤となった長兄の死と母親の嘆きを紹介し、シルバーバーチの「苦の哲学」即ち、価値あるものほど大きな犠牲を伴うという摂理の奥義を悟る。著者の人生観を語った自伝的回想録。
(11)『イエス・キリスト失われた物語』(翻訳)
小説的作法によって綴られた霊感的自動書記通信。キリストを神の申し子としてではなく、血と肉の人間イエスとして、高潔な人間性と霊的能力とによって大衆を魅了しながら、祖国をローマのくびきから解放せんとして立ち上がった革命家イエスの失われた実像が、ついに2000年後の今よみがえる。ウイーン国立音楽院の教授だったフォン・ロイターが、霊能者だった母親から受け継いだ自動書記能力によって綴った感動の1冊。
◆潮文社
(12)『シルバーバーチの霊訓』全12巻(翻訳)
3000年前、すなわちイエス・キリストよりも1000年も前に地上で生活したことがあるという古代霊が、シルバーバーチという仮名を使って、霊媒のバーバネルが他界するまでの60年間にわたって、その豊富な経験で身につけた深い叡智と高等な霊的真理を平易な言葉で説いた霊言集。世界10数ヶ国語に翻訳され、老若男女の別を問わず、地上生活を生き抜く叡智の宝庫として、圧倒的な愛読者を持つ。
(13)『古代霊は語る』(編訳)
右の『シルバーバーチの霊訓』のエッセンスと他の霊界通信を交えながら1冊にまとめたもの。
(14)『ベールの彼方の生活』全4巻(翻訳)
牧師だったジョージ・オーエンが霊感的自動書記 Inspirational Writing によって綴った膨大な霊界通信で、それを25年かけて検討し、真実性を確信して新聞に連載した。そのことで教会の長老の怒りを買い、連載を中止するよう圧力をかけられるが、自ら牧師職を辞して最後まで掲載し、その後全4巻として出版した。用語にはキリスト教的色彩が強いが、母親からの通信に始まっ守護霊からの通信と続き、最後はルネッサンス時代の人物がイエス・キリスト降誕にいたる霊界側の実況を象徴的表現で綴る。
(15)『母と子の心霊教室』(翻訳)
教育者だったチャールズ・パーマーがスピリチュアリズムを子供にも理解できるように懇切丁寧に解説したもので、大人の初心者にも最適である。
(16)『これが心霊(スピリチュアリズム)の世界だ』(翻訳)
シルバーバーチ霊の専属霊媒だったモーリス・バーバネルが、長年の体験と研究をもとにスピリチュアリズムの現象面と思想面とを総合的に解説したもの。キリスト教がまだ隠然たる影響力をもっていた時代に、英国国教会を向こうに回して1歩も退かなかった、その強固な闘争心に溢れた会心作。
(17)『霊力を呼ぶ本』(翻訳)
そのバーバネルがスピリチュアリズムの真理を日常生活に生かすための知恵を説いたもの。「精神一到何ごとか成らざらん」の霊的原理を解明したロングセラー。
(18)『背後霊の不思議』(翻訳)
心霊治療家のモーリス・テスターが治療家としての長年の体験をもとに説いた、生き甲斐ある人生への指南書。取り越し苦労の多い人にとっての必読書。
(19)『私は霊力の証を見た』(翻訳)
テスターが治療家として身を立てるに至るまでの言語に絶する闘病生活を中心に、それがテッド・フリッカーという治療家によって僅か数分で完治するという奇跡的な体験、そのフリッカーに紹介されたバーバネルとの出会い、そのバーバネルに招待されて出席した交霊会でのシルバーバーチとの出会いといった、まさにスピリチュアリズム的人生を地で行くような体験を、小気味よいタッチで綴った感動溢れる傑作。
(20)『古武士霊は語る』(編著)
天保10年、西暦1839年、数100年前に若くして割腹自殺した武士の霊がさる庄屋の長男に憑依して石碑の建立を頼む。その時に審神者(サニワ)をつとめた宮司が霊的知識に通じていて、巧みな誘導訊問で死後の世界について語らせ、それを逐一筆録した。
その内容が驚くほどスピリチュアリズムの説くところと合致し、しかも片言隻語(へんげんせきご)に武士の家柄や霊格の高さが伺える。筆者はその庄屋の現在の子孫を訪ねて書物として公表することの承諾を得て上梓した。
地上での生活感覚、死に際しての持ち方が死後にいかに影響するかを、これほど如実に示唆する実話も珍しい。英国の心霊紙 Psychic News に簡単に紹介したのがキッカケで1993年に A Samurai Speaks の夕イトルで Regency Press から発行された。
(21)『おもしろ日本語』(書き下ろし)
半世紀にわたる翻訳の仕事の中で出会った日本語らしい日本語を英語ではどう表現すればよいかという視点でまとめたもの。英語はさっぱりダメという方でも親しめるように工夫した、日本語を裏側から学びなおすための本。
(22)『コナン・ドイルの心霊学』(翻訳・新潮社刊の同名の訳書の復刻版)
シャーロック・ホームズ・シリーズで世界的に名を馳せたコナン・ドイルが、その著述以上に精魂を傾けたスピリチュアリズムの調査・研究を2冊の著書として発表。本書はその合本の翻訳で、死後の世界の実在に目覚めていく思考過程が、いまだに疑念から脱しきれない人に大きな手引きとなる。
◆心の道場(スピリチュアリズム・サークル)
(23)『スピリチュアリズムの真髄 – 思想編 – 』(翻訳)
ラテン系諸国でバイブルとされている、アラン・カルデックの The Spirits’ Book の編訳。
(24)『スピリチュアリズムの真髄 – 現象編 – 』(翻訳)
同じくカルデックの The Mediums’ Book を編訳したもの。
(25)『霊訓』上・下(翻訳・国書刊行会『霊訓』の復刻版)
新進気鋭の青年牧師として将来を嘱望されていたステイントン・モーゼスが病いを得て牧師職を辞した直後から自動書記能力が発揮され、オックスフォード大学で学んだ神学とは根本的に異なる教説が綴られるようになる。
不審でならないモーゼスがその身元を質すと、イエスを最高指揮者とする地球規模の霊的浄化運動に携わる一団であるという。その証拠は?と問うと、理性をもって判断せよという。
かくして始まった論争は熾烈を極め、モーゼスは体調を崩し、霊団側は総引き上げの最後通牒を突きつけるに至るが、10年に及ぶ論争の末にモーゼスはついにスピリチュアリズムの真実性に目覚める。その軌跡を綴ったのが本書で、スピリチュアリズム史上に燦然と輝く一大モニュメントである。
なおモーゼスの死後、続編として『インペレーターの霊訓』が発刊されている。霊団の最高指導霊インペレーターの霊言を中心に編纂されていて、『霊訓』とは別の側面を知ることができる。(潮文社刊)
(26)『永遠の大道』(浅野和三郎抄訳の全訳版)
生前からスピリチュアリズムの研究に携わっていたフレデリック・マイヤースが、死後、実際に霊界を探索したその成果を自動書記通信で送り届けてきた名品。その中で明かされた「類魂説」はスピリチュアリズムの思想に飛躍的な発展をもたらした。学術的な霊界通信の白眉。
(27)『個人的存在の彼方』(浅野和三郎抄訳の全訳版)
『永遠の大道』に続いてさらに詳しい解説を送り届けてきたもので、太陽をはじめとする他の天体上の生命活動、龍神をほうふつさせる自然霊の存在、イエスとブッダの比較、精神病のメカニズム等々、興味深い話題が満載されている。
(28)『シルバーバーチは語る』(翻訳)
1838年に出版された Teachings of Silver Birh edited by A. W. Austen の全訳版。別の訳者によるものが潮文社から出ているが、抄訳であるため、全訳を求める要望に応えて訳出したもの。
(29)『シルバーバーチの霊訓』(翻訳)
(株)コスモテン・パブリケーションから出版され、その後絶版となっていたトニー・オーツセン編の「愛」の3部作のうちの『シルバーバーチ・愛の摂理』を復刻したもの。
(30)「地上人類への最高の福音』(翻訳)
同じくオーツセン編の「愛」の3部作のうちの『シルバーバーチ・愛の力』を復刻したもの
◆北沢図書出版
(31)『レッドマンのこころ』(翻訳)
古典的名著のひとつ『動物記』の著者として知られるアーネスト・シートンがボーイスカウトの生みの親のひとりであることを知る人は少ない。それは後半生を妻ジュリアとともにネイティブ・アメリカン(北米インディアン)の伝統的慣習と信仰の収集に費やした結果から生まれたもので、全編にスピリチュアリズム的な思想と信仰が流れていて、現代の機械的物質文明の潮流への警告とも受け取れる。
◆コスモス・ライブラリー
(32)『日本人の心のふるさと《かんながら》と近代の霊魂学《スピリチュアリズム》』(書き下ろし)
(33)『シルバーバーチに最敬礼』(書き下ろし)
■著者 – 近藤千雄(こんどう・かずお)
昭和10年生。高校時代にスピリチュアリズム思想を知り心霊実験会(交霊会)にも出席して、死後の世界の実在を確信。
明治学院大学英文科に在学中から原典を読み、その翻訳を決意して4年次で翻訳論を専攻。これまでに数次渡英・渡米して著名霊媒・心霊治療家と親交を深めている。
『人生は霊的巡礼の旅』(ハート出版)、『シルバーバーチの霊訓』全12巻(潮文社)、『レッドマンのこころ』(北沢図書出版)、『日本人の心のふるさと《かんながら》と近代の霊魂学《スピリチュアリズム》』『シルバー
バーチに最敬礼』(コスモス・ライブラリー)など著訳書多数。
〈あの世〉からの現地報告[3部作]その(1)死後の世界も自然界である 付:ウィリアム・ティンダル – 新約聖書を英語に翻訳して火刑に処せられた男
アンソニー・ボージャ[著]/近藤千雄[訳編]
霊界便り3部作の序論ともいうべき本書には死の直後の様子、死後の界層、霊的身体のはたらきなどが平易な言葉で紹介され、それが訳編者による周到な解説と参考資料で補われている。
また、著者ボージャが「まえがき」で指摘している〈牧師の無知〉の背景を明らかにするため、参考文献として「ウィリアム・ティンダル – 新約聖書を英語に翻訳して火刑に処せられた男」が付され、キリスト教史の暗部に探りが入れられている。
「農民にも聖書を読ませてあげたい」と願ったウィリアム・ティンダルは、命と引き換えに新約聖書の原典を英訳した。彼こそは真の意味のクリスチャンであった。《訳編者》