私と心霊との関わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→その交霊会において『サイキック・ニューズ』紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、今度生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束をしたそうである。私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→始めて知ったのはロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた18歳の時の事で、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。クラブでの私の役目は2つあった。1つは著名な文人や芸術家を招待し、様々な話題について→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→無報酬で講演してもらう事で、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンでも最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがある事に興味をそそられたからであろう。私のもう1つの役目は、講演の内容いかんに係わらず、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→私がそれに反論する事によってディスカッションへと発展させてゆく事で、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと、私の事を褒めてくれていた。実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれた事があった。もちろん始めての事で、私は大真面目で出席した。
『シルバーバーチの霊訓⑩』ところが終わって始めて、それが私をからかうための悪ふざけであった事を知らされた。そんな事もあって、たとえ冗談とは言え、10代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。
『シルバーバーチの霊訓⑩』同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に1人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。
『シルバーバーチの霊訓⑩』2人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。こうした事を述べたのは、次に述べるその社交クラブでの→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→出来事を理解して頂く上で、その背景として必要だと考えたからである。ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべる事になった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。
『シルバーバーチの霊訓⑩』終わると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験が無くてはならないと→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→述べ、従ってそれを全く持ち合わせていない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然の事ながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、“調査研究の体験のない人間には”→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→“意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もし本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか”と尋ねた。“ええ”私はついそう返事をしてしまった。
『シルバーバーチの霊訓⑩』しかし“結論を出すまで6ヶ月の期間がいると思います”と付け加えた。日記をめくってみると、その6ヶ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが…。その事がきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれている→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→ホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。若い者も老人もいる。あまり好感はもてなかったが、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→まじめな集会である事は確かだった。霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。
『シルバーバーチの霊訓⑩』少なくとも私の見る限りでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが“死者”である、という事を得心させる証拠は何一つ見当たらなかった。しかし私には6ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。
『シルバーバーチの霊訓⑩』ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり“居眠り”をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いた事に“居眠り”をしている間、私がレッドインディアンになっていた事を聞かされた。それが私の最初の霊媒的入神だった。
『シルバーバーチの霊訓⑩』何をしゃべったかは自分には全く分からない。が、聞いたところでは、シルバーバーチと名のる霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いて頂いている。地味ながら人の心に訴える→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→(と皆さんが言って下さる)響きとは似ても似つかぬものだったらしい。しかし、その事がきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバーバーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。コントロールするということは、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→シルバーバーチの個性と私の個性とが融合する事であるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。初めのうち私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身に分からないのは不当だ、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→という生意気な考えのせいであったろう。ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベッドに横になっていた時の事である。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言と共に、ビデオのように→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→映し出されたのである。そんな事がその後もしばしば起きた。が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と3年ばかり、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→週末を利用して英国中を講演して回った事がある。延べにして25万人に講演した計算になる。1日に3回も講演した事もある。こうした事で2人の間は密接不離なものになっていった。2人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜の早朝に帰る事もしばしばだった
『シルバーバーチの霊訓⑩』私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も、1932年に心霊新聞『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別の形を取り始めた。彼は私の入神現象に非常な関心を→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→示すようになり、シルバーバーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊言をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝好きの男なので、それをできるだけ大勢の人に“分けてあげる”べきだと考え、『サイキック・ニューズ』紙に→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→連載するのが一番得策だという考えを示した。初め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒である事を公表しない事を条件に、私もついに同意した。
『シルバーバーチの霊訓⑩』が、もう1つ問題があった。現在シルバーバーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。そこで選ばれたのが→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→「シルバーバーチ」(Silver Birch)だった。不思議な事に、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない1通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバー・バーチ)の絵はがきが入っていた。その頃から私の交霊会は、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が『サイキック・ニューズ』紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然の事ながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→為されたが、かなりの期間秘密にされていた。しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。
『シルバーバーチの霊訓⑩』ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長い間編集の仕事をしていると、名前が知れるという事について、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。シルバーバーチの霊言は、2人の速記者によって記録された。
『シルバーバーチの霊訓⑩』最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバーバーチは彼女の事をいつもthe scribe(書記)と呼んでいた。
『シルバーバーチの霊訓⑩』テープにも何回か収録された事がある。今でもカセットが発売されている。1度レコード盤が発売された事もあった。いずれにせよ会の全てが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→とのシルバーバーチからの要請があり、私もそれに同意した。私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバーバーチが私の肌にピンを突き刺してみるように言った事がある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。心霊研究家と称する人の中には→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→我々が背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)の事を、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多い事は百も承知している。問題の生じる根本原因はスピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならない事にある。
『シルバーバーチの霊訓⑩』霊媒は機能的には電話器のようなものかも知れないが、電話器と違ってこちらは生きものなのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色される事は避けられない。霊媒現象が発達するという事は、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→支配できるようになる事を意味するのである。仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバーバーチの霊言にはそれがない。
『シルバーバーチの霊訓⑩』コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、1点の非のうちどころもないのである。それに加えてもう1つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっている事である。シルバーバーチが(霊的な繋がりはあっても)→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→私と全くの別人である事を、私と妻のシルビアに対して証明してくれた事が何度かあった。中でも1番歴然としたものが初期の頃にあった。ある時シルバーバーチがシルビアに向かって“あなたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう”と→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→約束した事があった。当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバーバーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→と言ったのである。むろんロバーツ女史はその事については何も知らない。どんな事になるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭の挨拶の中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→言及した事から、レッドクラウドはすでに事情を知っているとの察しがついた。交霊会の演出に天才的なうまさを発揮するレッドクラウドは、その事を交霊会の終わるぎりぎりまで隠しておいて、わざと我々夫婦を焦らさせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向かい→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた。そしてその奥から、紛れもないシルバーバーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。もう1人、これは職業霊媒ではないが、→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→同じく直接談話を得意とするニーナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバーバーチが出現して、独立した存在である事を証明してくれた。私の身体を使ってしゃべったシルバーバーチが、今度はメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→興味ある体験だった。他にも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと1つで十分であろう。私の知り合いのある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会に招待してあげて欲しいとお願いした。
『シルバーバーチの霊訓⑩』名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですがレッドクラウドの許可を得て欲しいと言う。そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバーバーチが現れて、是非その編集者を→
『シルバーバーチの霊訓⑩』→招待してやって欲しいと頼んだというのである。ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と“声の対面”をした事は言うまでもない。
『シルバーバーチの霊訓⑩』【訳者付記】ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊紙『サイキック・ニューズ』の1981年7月下旬号、及び月刊誌『ツー・ワールズ』の8月号に掲載された。