【8/15】モーゼスの「霊訓」(上)第9節 キリスト教神学の誤り

[前節で紹介した説には当時の私に訴えるものがまったく見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説とまったく相容れないものであること、しかも、畏(おそ)れ多くも、キリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。

そして、あの通信には途中で不純なものが混入しているのではないか、それに、私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあの程度のもので人生の指針として完ぺきだというのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた – ]

破邪は顕正(けんしょう)に先立つべきもの

前回述べたところはおよその指針にすぎないが、それなりに真実です。ただし、すべてを尽くしているとは言いません。きわめて大まかな原則であり、不鮮明な点、欠落していることが少なからずあります。が、本質的には間違っておりません。

確かに、そなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれた教義を、多くの点で侵していることは認めます。また、何の予備知識もない者には新しい説のように聞こえ、古い信仰形体を破壊するもののごとく思われるかも知れません。

が、実際はそういうものではありません。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ、新たな心理探求に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれわれの霊的教訓を受け入れることができるはずです。

古い偏見によって足枷(かせ)をはめられることさえなければ、すべての人間に薦められる性質のものであると信じます。さきにわれわれは、まず夾雑物を取り除かねばならないと述べました。

破邪が顕正に先立たねばならないと述べました。古いもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べました。要するに、建設のためにはまず地ならしが必要であることを述べたのです。

– その通りですが、私から見て、あなたが取り払おうとなさっている夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にもわたって信仰の絶対的基盤としてきたものです。

違います。かならずしもそうではありません。そなたの言い分には、いささか誇張があります。イエスの地上生活についての記録はきわめて不完全です。その記録を見ても、キリスト教会が無理やりに押しつけてきたイエスの位置、立場について、イエス本人は一言も語っていないことがおわかりになるはずです。

真実のイエスは、その名を戴く教会の説く人物より、はるかにわれわれの説く人物に近い存在だったのです。

– そんなはずはありません。それに、例の贖罪説、あれをどう思われますか。

贖罪説はこじつけ

ある意味では間違っておりません。それ自体は否定しません。われわれからみて許せないのは、神を見下げ果てた存在 – わが子の死によってご機嫌を取らねばならない残忍非情な暴君に仕立てあげている、幼稚きわまる言説です。

イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話 – そのためにかえってイエスの生涯の素朴な偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となっている誤ったドグマを否定したからとて、それは、いささかもイエスの偉大さを減じることにはなりません。

そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、あげくの果てに、それを否定あるいは拒絶することが大罪とされるに至った過程については、いずれ詳(くわ)しく語る時節も到来するでしょう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、すべてを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深い人間のためにわが子イエスに大権をゆだねて地上へ派遣した事実を否定することが、永遠の火刑もやむを得ない大罪とされても致し方ないかも知れません。

キリスト教のある大きな教派は、その最高位の座にある者の絶対的不謬性を主張し(1)、それを受け入れない者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説きます。

これなどはキリスト教会においても比較的新しい説です。が、すべてのドグマはこうして作られてきたのです。かくして人間の理性のみでは、神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となります。

同時にまた、その夾雑物を取り除こうとする勇気ある者が、攻撃の的とされます。いつの時代にもそうでした。われわれがより高い視点から人間的爽雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤った行為であると非難される筋合いはないのです。

– そうかも知れません。しかし、キリストの神性と贖罪の信仰は、人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも、署名の頭にかならず十字(クロス)を冠しておられます(†Imperator)。私の推測では、あなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。

通信者のレクターも同じように署名に十字を冠しています(†Rector)。あの方などは、絶対とは言いませんが、おそらくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。

つまり、もしもその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの、もしくは完全な誤りであるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後、ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。

もしそうでなかったのなら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしもクリスチャンだったのなら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それひとつに関わっています。

現在のあなたの言説と、地上時代に抱いておられた信仰とが、どこでどうつながるのか、そこがわからないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。また、どうみても、署名に十字を付ける人の説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きにすぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私には、あなたの言葉と態度以外に判断の拠(よ)り所がないのです。

私に判断しうるかぎりにおいて、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理性もあります。しかし、キリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示しねがいたいと申し上げるのみです。

いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとしたい。

[私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようとしたが、6月20日まで何も来なかった。右の通信は16日に来たものである。そして、ようやく届けられた返答は次のようなものだった – ]

バイブルの字句にこだわることが生む弊害

友よ、これより、そなたを悩ませてきた問題について述べることにしよう。十字架がわれわれの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしましょう。

そもそも、主イエス・キリストの教えとして今地上に流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実を、まず述べたいと思います。各派の狂信家はその字句にのみこだわり、意味をおろそかにする傾向があります。

執筆者1人ひとりの用語に拘泥(こうでい)し、その教えの全体の流れをおろそかにしています。真理の探求と言いつつも実は、あらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを“真理”と銘うっているにすぎません。

そなたたちのいう“聖なる書”(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中から断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図していない意味をもつに至っています。

またある者は、いささかの真理探求心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルの用語や文句を借用します。それはそれなりに目的を達するであろう。

が、そうすることによって徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立て、それをこじつけることをもって良しとする者たちによって、ひとつの体系が作り上げられていきます。いずれも、バイブルというテクストから1歩も踏み出してはいないのです。

さきにわれわれは、これから説くべく用意している教えは多くの点において、キリスト教でいう“神の啓示”と真っ向から対立すると述べました。

正統派のキリスト者たちは、1人の神秘的人物 – “完全なる三位一体”を構成する1人 – が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理のすべてを地上にもたらしたと説きます。それが全真理であり、完全であり、永遠の力を有するといいます。

神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されません。神の語った言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも、全真理がその語句と言い回しの中に収められているといいます。

ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の教えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであるといいます。

要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのです。英語に訳されたものであっても、やはりその一言一句が神の言葉であり、そのつもりで細かく分析・解釈するに値するものとされています。

なぜなら、その翻訳にたずさわった者もまた、その驚異的大事業の完成のために神の命を受けた者であると信じられているからです。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もない結論が打ち出されることになります。無理もないことかも知れません。なぜなら、彼らにとっては、その一言一句が人間的謬見(びゅうけん)に侵されることのない“聖なる啓示”だからです。

しかるに、その実彼らの為せることは、自分に都合のよい文句のみを引用し、不都合なところは無視して、勝手なドグマを打ち立てているにすぎません。が、ともあれ、彼らにとってはバイブルは神の言葉そのものなのです。

啓示は時代とともに変化する

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く捨てた者がいます。彼らは、バイブルの絶対性を打ち砕くことから出発し、ついにたどり着いたところが、ほかならぬ、われわれの説くところと同じ見解です。

彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意は払います。しかし同時に、それはその時代に相応しいものが啓示されたものであり、ゆえに今なお現代に相応しい啓示が与えられつつあると見ます。

バイブルは、神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとして読みます。無知と野蛮の時代には、神はアブラハムの友人であり、テントの入口でともに食し、ともに語り合った。次の時代には民族を支配する士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦った王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なった暴君であった。

それが時代の進歩とともに、優しさと愛と父性的慈悲心をそなえた存在となっていった…心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、真摯な探求の末に、その成長は決して終息することがないこと、神の進歩的啓示が閉ざされたことは1度もないこと、たとえ神についての知識が完全よりほど遠くても、それを求める人間の理解力が、その渇望を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着きます。

ゆえに真理を求める者は、少なくともその点についてのわれわれの教えを受け入れる用意はあるはずなのです。われわれが求めるのはそういう人物なのです。すでに完全な知識を手にしたと自負する者に、われわれは言うべき言葉を知りません。

彼らにとっては、まず神と啓示に関わる問題についての無知を悟ることが先決です。それなくしては、われわれが何と説こうと、彼らは固く閉じ込められた、無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることはできません。

彼らとしては、これまで彼らの霊的成長を遅らせ、未来の霊的進歩の恐ろしい障害となる、その信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされるほかに残された道はありません。以上のことをそなたが正しく理解してくれれば、さらに1歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べるとしましょう。

啓示に霊媒の主観の混入は不可避

われわれに言わせれば、バイブルを構成している数々の書、およびその中に含まれていない他のもろもろの書はみな、神が人間に啓示してきた神自身についての知識の、段階的発達の記録にすぎません。その底流にある原理はみな同じであり、ひとつなのです。

それと同じ原理が、そなたとのこうした交わりをも支配しているのです。人間に与えられる真理は、人間の理解力の及ぶ範囲のものに限られます。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられません。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのです。

さて、その真理は1個の人間を媒体として届けられます。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れることはできません。絶対にできません。通信霊は、必然的に、霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ないからです。

つまり所期の目的にそって、その素材に新たな形体を加えるのです。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになりますが、元になる材料は、霊媒が以前から宿していたものです。したがって通信の純粋性は、霊媒の受容性と、通信が送られる際の条件が大いに関わることになります。

バイブルのところどころに、執筆者の個性と、霊的支配の不完全さと、執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためです。それとは別に、その通信が授けられる民族の特殊な必要性による、独特の色彩が見られます。もともと“その民族のために”意図されたものだからです。

そうした例ならば、そなたにも幾らでも見出せるはずです。イザヤがその民に霊の言葉を告げた時、彼はその言葉に自分の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのでした。

申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念がありました。しかし、それを詩歌(しいか)と比喩(ひゆ)によって綴った時、それはエゼキエル(2)がその独特の隠喩(いんゆ)でもって語ったものとは、はるかに異なったものとなりました。

ダニエル(2)にはダニエル独自の神の栄光の心象がありました。エレミヤ(2)にはエレミヤを通じて語った“主”の観念がありました。ホセア(2)には神秘的象徴性がありました。そのいずれも同じ神エホバを説いていたのであり、知り得た通りを説いていたのです。ただ、その説き方が違っていただけなのです。

のちの時代の聖なる記録にも、同じく執筆者の個性が色濃く残されています。パウロ(3)しかリ。ペテロ(3)しかり。同一の真理をまったく異なった角度から見ているのも、やむを得ないことです。

真理というものは、2人の人間が異なる視点からそれぞれの手法によって説いても、いささかもその価値を減ずるものではありません。相違といっても、それは霊感の本質ではなく、その叙述の方法の違いにすぎないからです。霊感はすべて神より発せられます。が、受け取る霊能者は、あくまでも(肉体に宿った)人間なのです。

読む者は自分の心の投影しか読み取らない

ゆえに、バイブルを読む者は、その中に自分自身の心の投影を読み取るということになります。いかなる気質の人間でも同じです。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解があまりに乏しいゆえに、過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さないことになります。

彼はバイブルに自分の理想を見出さんとします。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神程度の者のための知識のみです。1人の予言者の言葉で満足しない時は、他の予言者の言葉の中から気に入った箇所を選び出し、他を捨て、その断片的知識をつなぎ合わせて、“自分自身の”啓示を作り上げていきます。

同じことがどの教派についても言えます。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証するためにバイブルから“都合のよい箇所”のみを抜き出します。もとより、バイブルのすべてをそのまま受け入れられる者は皆無です。

何となれば、すべてが同質のものとは限らないからです。各自が自分の主観にとって都合のよい箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって“啓示”と称します。

他の箇所を抜き出した者の啓示(と称するもの)と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易な意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図しなかった意味に解釈されていることが明らかとなります。

こうし折角の霊感の産物が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは、好みの武器を取り出す重宝(ちょうほう)な兵器庫とされ、神学は、誤った手前勝手な解釈によって都合よく裏づけされた、個人的見解となり果てたのです。

こうして組み立てられた独りよがりの神学に照らして、われわれの説くところがそれに相反していると非難されています。確かに違うでしょう。われわれはそのような神学とは一切無縁なのです。それはあくまでも地上の神学であり、俗世のものです。

その神の概念は卑俗であり低俗です。魂を堕落させ、“神の啓示”を標榜(ひょうぼう)しつつ、その実、神を冒潰しています。そのような神学とは、われわれは何の関わりも持ちません。

矛盾するのは当然至極であり、むしろ、こちらから関わり合いを拒否します。その歪んだ教えを修正し、代って神と聖霊について、より真実味のある、より高尚な見解を述べることこそ、われわれの使命なのです。

神の概念は言語を超越する

バイブルから出た神の概念がこうまではびこるに至ったもうひとつの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているにすぎないものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにあります。

人間の理解の及ばない観念を伝えるに当たっても、われわれは、人間の思考形式を借りて表現せざるを得ないことがあります。

正直のところ、その表現の選択においてわれわれもしばしば誤りを犯します。表現の不適切なところもあります。霊的通信のほとんどすべてが象徴性を帯びており、とくに人間がほとんど理解していない神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤る場合が生じるのは、やむを得ないことです。

いずれにせよ、しょせん象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈していただかねばなりません。神についての霊信を“字句どおり”に解釈するのは愚かです。

さらに留意すべきことは、それを授かる者の理解力の程度に合わせた表現方法で授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならないということです。

バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は、その一字一句を字句どおりに受け止め、その結果、誤った結論を下すことになります。

衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(4)の信者に説き聞かせた誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉とにおいて大いに、あるいは完全に異質の他民族に、その字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、いたずらに惑わせることになりかねません。

神についての誤った冒瀆的概念も、多くはそこに起因しているとわれわれは見るのです。そもそも言語なるものが不備だったのです。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く外れます。

それが、われわれが指摘したように、後世の者によって字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着します。そうなってはもはや神の啓示とは言えません。それは神について人間が勝手にこしらえた概念であり、しかも、未開人が物神に対して抱いた概念と同じく、彼らにとってはきわめて真実味をもっているのです。

繰り返しますが、そのような概念にわれわれは同意できません。それどころか、あえてその誤りを告発するものです。それに代わる、より真実にしてより崇高な知識を授けることが、われわれの使命なのです。またその使命の遂行に当たっては、われわれは一つの協調的態勢で臨みます。

まず1人の霊媒に神の真理の一端を授けます。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をします。正しく発展する箇所もあれば、誤った方向へ発展する箇所もあります。若き日に培われた偏見と躾(しつけ)の影響によって歪められ曇らされる部分もありましょう。

では、より正しい真理を植えつけるに当たって、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか、精神から一切の先入観念を払拭(ふっしょく)すべきか – それはなりません。

われわれはそうした手段は取りません。万一その手段を取ろうとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛のまま放置することになりかねません。

新しい啓示も霊媒の潜在意識を利用する

そのようなことはできません。あらかじめ存在している概念を利用し、それを少しでも真理に近いものに形作っていくのです。いかなるものにも“真理の芽”が包蔵されているものです。

もしそうでなければ、一挙に破壊してしまうところです。が、われわれはそうしたささやかな真理の芽を大切にし、それを成長させ発達させようとします。人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なものかが、われわれにはよくわかっています。

それはわれわれが導く真理の光を当てれば自然崩壊していくものと信じて、他の重要な問題についての知識を提供していきます。取り除かねばならないのは排他的独断主義です。これが何より重大です。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、あえて取り合いません。

そういう次第ですから、在来の信仰のトゲトゲしさが和らげられてはいるものの、きわめて似た形で残っているものが多々あります。そこで人は言います – 霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎないではないか、と。

そうではありません。今こうしてそなたに説いていることが、その何よりの証拠です。

たしかに、われわれは霊媒の精神に以前から存在するものを利用します。が、そのまま使用するのではありません。それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的にそったものに適合させます。

しかも、それを目立たないように行ないます。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにドグマ的で、そのままでは使いものにならない時です。

かりにここに、神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めない者がいるとしましょう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信じると言い出せば、そなたもその変わりように目を見張ることでしょう。

それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しい信仰が色調を穏やかなものに塗り変えられていった場合、人間はその変化に気づかないでしょう。徐々に行なわれ、かつ微妙だからです。が、実はわれわれにとっては、着々と重ねた努力の輝かしい成果なのです。

荒々しさが和らげられた。頑固で冷酷、かつ陰湿なところが温められ、愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さがいっそう輝きを増し、善性が威力を増した。かくし真理を求める心が、神と死後の世界について、より豊かな知識を授けられることになるのです。

人間的見解を頭ごなしに押さえつけたのではありません。それに修辞を施し、変化を与えただけです。その霊的影響力は、現実にそなたのまわりに存在しているのです。そなたはまったくそれに気づいていませんが、われわれに課せられた霊的使命の中でも、もっとも実感のある、有り難い仕事なのです。

ですから、霊は人間の先入観を繰り返すだけではないかと人が言う時、それは、あながち誤りとも言えないのです。その先入観は、害を及ぼさないものであるかぎり、そのまま使用されているからです。ただ、気づかれない程度の修飾を施してあります。有害とみたものは取り除いて、抹消してしまいます。

信仰は形式より中身が大切

とくに神学上の教義の中でも特殊なものを扱うに当たっては、可能なかぎり除去せずに、新しい意義を吹き込むように努力します。なぜならば、そなたには理解できないかも知れませんが、信仰というものは、それが霊的であり生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたないものだからです。それゆえわれわれは、すでに存在している基盤の上に新たなものを築こうとするのです。

とは言え、その目的の達成のためには、今も述べたように真理の芽を留めている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存するものの、他方、ぜひ取り除かねばならない誤った知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なくありませんから、建設の仕事に先立って破壊の仕事もしなければならないことになります。

魂にこびり付いた誤った垢(あか)を拭い落とし、できうるかぎり正しい真理に磨きをかけ、純正なものにします。われわれが頼りとする人間に、まずその者が抱いている信仰の修正を説くのはそのためです。

さて、ここまで述べれば、今のそなたの苦悶のいわれが分かるはずです。われわれはそなたが抱いている神学上の見解を根こそぎにしようというのではありません。それに修正を加えようとしているのです。振り返ってみていただきたい。

かつての狭隘(きょうあい)な信仰基盤が、徐々に抱括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が分かるはずです。われわれの指導のもとに、そなたは数多くの教派の神学に触れてきました。そしてそれぞれに、程度こそ違え、真理の芽を見てこられました。ただ、その芽が人間的偏見によって被い隠されているに過ぎません。

またキリスト教世界の多くの著書を、みずからの意志で念入りに読んでこられました。そこにさまざまな形態の信仰を発見して、そなたの信仰の偏りが是正され、荒々しさが和らげられました。太古の思想の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこから自分に理解しうるものを吸収するまで、実に長く、そして遅々とした道程でした。

すでに生命を失い、呼吸することのないドグマで固められた東方正教会の硬直した教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に、待望久しい痛撃を浴びせてくれたドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思策の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々 – そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なものを身につけてこられた。

長く、そして遅々とした道程ではありましたが、われわれはこれよりさらに歩を進め、いよいよ理想の真理 – 霊的で捉えどころはなくても魂にとっては実感のあるものであり、これまでにそなたが学んできたものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思うのです。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在をお見せしたいと思うのです。

そこで、まずそなたに知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的思想は、神との和解だの、贖罪(しょくざい)だのという付帯的俗説も含めて、そなたの考えているものとは、およそ本質を異にするものであるということです。

それはあたかも古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ています。われわれはそなたの理解しうるかぎりにおいて、“救い主”“贖(あがな)い主”“神の子”として崇めるイエスの生涯の奥に秘められた霊的真実を知らしめたいと思います。

イエスがその地上生活で身をもって示そうとした真の意義を教え、われわれが取り除こうとする俗説がいかに愚劣で卑劣であるかを明らかにしたいと思うのです。

十字架が象徴するもの

そなたは、そうしたわれわれの教えがキリストの十字架の印とどう関わりがあるのかと尋ねられた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われわれが普及を宣言するところの根本的真理なのです。

自分の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛、これぞ純粋なキリストの精神であり、これこそわれわれが神のごとき心であると宣言するものです。

その心こそ、卑劣さと権力欲、そして身勝手な驕(おご)りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いです。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめるのです。

これこそ真実の贖罪(しょくざい)なのです。罪なき御子を犠牲(いけにえ)にして、怒れる神に和解を求めるのではありません。霊的本性を高め、魂を浄化する行為の中で償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(5) – 身は地上にあっても魂をよりいっそう神に近づけていくこと、これぞ真実の贖罪なのです。

キリストの使命も、その率先垂範にありました。その意味において、確かにキリストは神性のひとつの発現であり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主でした。

が、同じ意味においてわれわれもキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行してまいります。十字架の旗印のもとに働き続けます。キリストの敵 – たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとではあっても、無明(むみょう)のゆえに、あるいは強情のゆえに、キリストの名を汚す者には、われわれは敢然と闘いを挑みます。

ある程度まで霊的真理に目覚めた者にとっても、われわれの説くところには新しく、かつ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像されます。が、いずれは、キリストの教えがわれの説くところと、本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れることでしょう。

その暁には、それまで真実を被い隠していた愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中で崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳な真実の姿を見ることになりましょう。

その時のイエスへの崇敬の念はいささかも真実味を減ずるどころか、より正しい認識によって裏づけられることになります。すなわち、われわれが印す十字架は不変の純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのです。その認識をそなたに得さしめることこそ、われわれの真摯な願いです。

願わくばこれを基準としてわれわれの使命を裁いてもらいたい。われわれは神の使命をおびて参りました。その使命は神のごとく崇高であり、神のごとく純粋であり、神のごとく真実です。人類を地上的俗信の迷いから救い出し、汚れを清め、霊性と神性とにあふれた雰囲気へと導いていくことでしょう。

われわれの述べたところをよく吟味されたい。そして、導きを求めよ。われわれでなくともよい。その昔、神がかのイエスという名の、無垢と慈悲と滅私の霊を地上へ送られたように、今われわれを地上へ送られたイエスを通して祈るがよい。

イエスを今なおわれわれは崇める。
その御名をわれわれは敬う。
その御言葉をわれわれは繰り返す。
その御教えが再びわれわれの中に蘇(よみがえ)る。
イエスもわれわれも神の使いである。
そして、その御名のもとにわれわれは参る。

†インペレーター

[注釈]

(1)ローマカトリック教会には“教皇不謬説”というのがある。1870年の第1回バチカン公会議で教義として決定されたもので、教皇(法王)はキリスト教の代表者として聖霊に導かれているので、信仰と道徳について宣言することに絶対に誤りはない、とされる。

(2)いずれも旧約聖書に出てくる予言者。

(3)いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。

(4)Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。

(5)“贖い”を意味する英語 atonement が語源的には at-one-ment すなわち“ひとつになること”を意味することを示唆しながら説いている。

(6)現在スピリチュアリズムの名称のもとに広がりつつある地上の霊的浄化活動 – その一環としこうした霊的真理が説かれているのであるが – その総指揮を取っているのが、地上で“ナザレのイエス”と呼ばれた人物であることは、西洋の高等霊界通信が異口同音に指摘していることである。

30有余にわたって東西の霊的資料を吟味・検討してきた訳者個人の直観的結論として、イエスは、地球神界の最高政庁(ヒエラルキー)の1人、言いかえれば地球の守護神直属の神霊の一柱、西洋でいう大天使の1人が降臨したものと信じている。

Spiritualism(スピリチュアリズム)とか Silver Birch(シルバーバーチ)とか Imperator(インペレーター)といった横文字を見て、古い国粋主義的排他根性を抱くのは禁物である。これは地球規模の問題なのである。

10年ぶりに霊団が「法悦の霊力」をごく弱く降らせてきました。説明してみましょう(祈)†■2022年8月31日UP■
10年ぶりに霊団が「法悦の霊力」をごく弱く降らせてきました。説明してみましょう(祈)†
霊関連書籍「コナンドイルの心霊学」の中で、物質界生活中のイエス様の事を「罪深き人間を赦し」と表現しています。霊団がやっているのはこれと同じだと言えなくもないのかも知れませんが、イヤやはりそれもおかしい、そもそもコイツら(霊団)が僕に教えてきたんだから。許すなら最初から教えてこなければよかっただろ、霊団は僕より僕の性格を知っています。僕の性格は「1歩も退く気はない」です。その僕の性格を計算に入れて僕に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体および、奴隷の女の子ももちゃんのSOSを教えてきたんじゃないのか。僕なら脅迫に屈せずにこの仕事をやり切ってくれると思ったから僕にコレをやらせたんじゃないのか…続きを読む→
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†■2021年11月10日UP■
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†
「この強姦殺人魔どもに対してこれ以外の感情が湧くというのであれば、どういう事なのか説明してもらいたい」という事になります。人間としてこれ以上当たり前の感情はないという意味です。その当たり前の感情がなぜこれほど長い年月にわたって公の場で語られる事が無かったのか、それが「洗脳」と「脅迫」と「視点外し」という事になると思います。まず「洗脳」ですが、世界中の強姦殺人魔は総じてメディアを牛耳っています。そのメディアを駆使して徹底的に自分が善人で国民に人気があって親しまれているという趣旨のニュースを休みなく流しまくり認識を捻じ曲げ続けてきます…続きを読む→
「地球圏霊界は強姦殺人魔を守り通す狂気の国」僕は帰幽後、地球圏を離れます(祈)†■2023年8月16日UP■
「地球圏霊界は強姦殺人魔を守り通す狂気の国」僕は帰幽後、地球圏を離れます(祈)†
この11年、霊団は「人生破壊」以外に何もやりませんでした。口だけをピーチクパーチク動かし、実際の行動は何ひとつ起こしませんでした。人の人生をブチ壊すだけブチ壊しておいて、その補填らしきものは一切なくホッポラカシ。あげくの果てに自分たちで言い出して僕にやらせた仕事を全力でやめさせようとしてくる始末。一体何がどうなってるんだよあんたたちの頭の中は。永遠に理解できない「※地球圏霊界は強姦殺人魔を守り通す狂気の国」霊関連書籍にはこのような記述は一切ありませんが、僕は自身の長きにわたる霊的体験から、絶対の自信をもってこの言葉を公言させて頂きます。地球圏霊界、おかしい、全てがおかしい。全宇宙最低ランクにもほどがある。いくら何でも最悪すぎる。僕は帰幽後、まず実現は不可能と思われますが、一応希望としては地球圏霊界と完全に縁を切るつもりでいます。少なくとも霊団とは縁を切ります。これは絶対です…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†