【8/25】モーゼスの「霊訓」(中)第15節 スピリチュアリズムの宗教的教訓
[こうした議論がこの後もひじょうな迫力と強力な影響力のもとに、ほとんど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたその影響力がいかに強烈にして崇高なものであったか、それを正しく伝えることは、拙い私の筆ではとてもできない。]
そなたはわれわれの教説が理神論であるか、純粋な有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで思いめぐらしているが、普段は正確な思考と知識とに事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本をみる思いがします。
すべての人間の心に通じる神、いかに堕落した人間の魂でさえ感応しうる神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しいかぎりの不毛な思想について、われわれはもはや言うべき言葉を知りません。
人間というものがみずからの目を被い隠すことすらするものであることを万一知らずにいれば、われわれは人間が一体なぜこうまで愚かなことを考えるのか、理解に苦しむところでしょう。
地上世界には絶対的真理は存在しない
申すまでもなく、われわれはすべての存在を支配する絶対神の存在を説きます。それは、人間が勝手に想像しているような気まぐれな顕現の仕方はしません。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在 – もっと厳密に言うならば、神の概念とその働きについての、より真実に近い見解を植えつけるべく働きかけてきた存在です。
イエスと同じくわれわれは、宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純の神を説きます。人間が想像するような人格神ではありません。真の意味における父なる存在です。エネルギーの化身でも具現でもありません。真に生ける実在です。
ただし、その本質と属性は、その働きと、人間が心に描く概念としてしか捉えることはできません。そなたの抱いている概念の中から全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつ又、さし当たって問題とするに足らない神学的教説を一応残しつつ、われわれは神について以上のごとく説いてきたのです。
われわれの教説を読んで、そこに絶対的真理が見当たらないと言うのであれば、われわれはむしろ、われわれの教説がそこまで理解してもらえるに至ったことを有り難く思うくらいです。絶対的完全性が有りえないように、今の未完成の状態においては、絶対的真理などというものは望むべくもありません。
最高級の霊にしてもなお目を眩まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届けられるようになることを期待してはなりません。限りあるその精神で、無限なるもの、不可知なるもの – 地上よりはるかに懸け離れたわれわれにとってもなお遠くより拝(おろが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が今すぐ理解できると思うのは、とんでもないことです。
万一できると思うようであれば、それこそそなたの置かれている発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかありません。
そなたにとっては真理はまだまだ断片的であり、決して全体像を捉えうるものではなく、また細目まで行きわたることは叶わず、あくまでもベールを通して大まかな輪郭を垣間見る程度にすぎません。われわれとしても決して真理のすべてをそなたに啓示してあげようなどとは思いも寄りません。
われわれみずからがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われた多くのものを少しでも深く理解したいと願っているところなのです。われわれに為しうることは、せいぜい、その神の概念 – これまでキリスト教において絶対的啓示として罷(まか)り通ってきた概念よりは、幾分か真実に近いものを仄(ほのめか)す程度にすぎません。
これまでのところわれわれは、そなたも筋の通った崇高なものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功したと見ております。今のところそれ以上のものを求めてはおりません。
神についても、そなたにとって崇拝と敬意の対象となりうる神を啓示しました。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露しました。道徳的規範として、そなたが聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理じいせず自然に理解できる、しかも説得力のある見解を確立しました。
罪はみずから償うべきもの
われわれの教説を根拠のない宗教と決めつけるに至っては、奇々怪々な誤解というほかはありません。地上生活というこのタネ蒔きの時期のひとつひとつの行為が、それ相当の実りをもたらすとの教え – 悪と知りつつ犯した故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならないという教え – 過ちを犯した魂が、それがいかに遠い昔のことであろうと、その自分の過ちゆえに生じた縺(もつ)れを、必ず“みずからの手で”解(ほど)かねばならないという教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説というのであろうか!
ど
われわれは、人間の言動は池に投げ入れた小石のごとく、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には“最後まで自分が”責任を負わねばならないこと、ゆえに、ひとつの言葉、ひとつの行為には、その結果と影響とに計り知れない重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのですが、これが果たして下らぬ教説でしょうか。
また、その賞罰は、はるか遠い未来の、死にも似た休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によってその行為の直後から始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのですが、これも愚にもつかぬ言説でしょうか。これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならないのであろうか。
そうしたわれわれの教説と、そなたたちの信じている教説、すなわち自分の思うがままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずか)しめた人物が、たった1度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変節によって、一気に、眠けを催すような天国への資格を獲得するとのキリスト教の説、しかもその天国での唯一の楽しみが、魂の本性が忌々しく思うはずのものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よい仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。
堕落した魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られないにお構いなく、いつかは悔い改めねばならない時がくること、そして、他力ではなく自力で償わねばならないこと、それによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえないとの教えの方であろうか。
それとも、何をしでかそうと、天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか1度の叫び声によって魔法のごとく魂が清められ、遠い未来に訪れる審判の日をへて神の御前に召され、そこで、今なら退屈この上なく思うはずの、礼拝三昧(ざんまい)の生活を送るとの教えの方であろうか。
そのいずれが人間の理性と判断力に訴えるか、どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか、それはわれわれとしても、そしてそなたにとっても、明々白々のことです。
なのにそなたは、われわれの説くところが確固たるものを曖昧なものに、明確な賞罰の体系を何の特色もないものに置き替えようとするものであると言う。
否!否!われわれこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしのような天国や、残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはしません。
キリスト教こそ、いつのことやら知れない遠い未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の者でも、その者自身が信仰も有り難味も見出しえない教義に合意することによって、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得るなどと、不合理きわまることを説いている。
スピリチュアリズムは地球規模の啓示
あえて言おう。われわれの説く信仰の方がはるかに罪を抑制すべく計算され、人間に受け入れやすく説かれています。人間の死後についても、はるかに合理的な希望を与え、人類史上かつてない現実性に富む包括的信仰を説いています。
くり返しますが、これぞ神の教えです。神の啓示として今そなたに授けているのです。われわれは、これが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待も希望もしません。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢ができていないかぎり、それは叶わぬことです。その時節の到来を、われわれは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。
いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間はかつてのような、ケチ臭い救済を当てにしたがために犯す罪も減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいてその動機の源は、甘い天国と恐ろしい地獄などというケチ臭い体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言します。
子供だましの地獄極楽説は、まともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠のない、非合理で愚劣なものとして、灰燼に帰されることでしょう。
[総体的にみてスピリチュアリズムの影響は好ましくない – 少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して、1873年7月10日に次のような回答が届けられた – ]
スピリチュアリズムにも多くの側面がある
その点については、われわれの側にも述べたいことが多々あり、そなたが陥っている誤解を解くべく努力してみたく思います。まず第1に、そなたは人間の宿命ともいうべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映った限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムのすべてであると思い込んでいます。
その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムのすべてであると見なす一部の連中と同類です。
見よ、彼らは結果によってのみ知られる静かな流れが、その見えざる底流を音もなく進行していることに気づきません。そなたの耳に入るのは騒々しい無秩序な連中のみです。さして多くはないが、よく目立つのです。
そなたが、あのような連中に世の中の再生ができるはずはないと言うのも、もっともなのです。そなたの知性はそうした無責任な言説にしりごみし、果たしてこんな程度のものが神のものであり善の味方であろうかと訝(いぶか)るのですが、実はそなたの目にはそうした一部のみが映り、しかもその一部についても明確な理解ができているとは言えません。
そうした連中にも彼らなりに必要な要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解しやすい手段によって神から授けられている – そうした表に出ない静かな支持者たちの存在については、そなたは何も知りません。そなたの視界に入らないのです。
が、入らなくても現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに、彼らもまた霊界からこのスピリチュアリズムの普及のために一役買う日が来るのを待ち望んでいるのです。
このように、そなたは一方に喧騒、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会ゆえに、狭隘(きょうあい)な見解しか持ちえず、およそ見本とはいえない小さな断片をもって全体と思い違いをしています。
これよりわれわれは、そなたが下したスピリチュアリズムの影響についての結論を、細かく取りあげていきたいと思います。そうすることによって、そなたがその究極の問題について断定的な意見を述べる立場にないことを指摘したいと思います。
“真実”はひとりひとり異なるもの
と申すのも、そもそも“真実”とは何かということです。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず、他のすべての分野においても、不偏平等です。地上には善と悪とが混在しています。平凡な霊で事足りる仕事に偉大な霊を派遣するような愚は、神はなさいません。
未発達の地縛霊の説得に神々しい高級霊を当てたりはなさいません。絶対にしません。自然界の成り行きには、それ相当の原因があります。巨大な原因から無意味な結果が出るようなことはありません。
霊的関係においても同じことです。知能程度が低く、その求めるところが幼稚で、高尚なものを求めようとしない魂の持ち主には、その種の者にいちばん接触しやすい霊が割り当てられます。
彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟な知性に訴えるために物理的手段を講じます。精神的・霊的に無教養で未発達な者には、その程度に応じた、最もわかりやすい言葉によって語りかけます。死後の生活の存在を得心させるためには、目に見える手段でないとだめな者がかなり、いや、大勢いるのです。
この種の人間は、高級な天使の声 – いつの時代にもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高な霊の声 – によって導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち – その欲求と性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に訴え、最も受け入れやすい証拠を提供することのできる霊によって導かれます。
さらに、そなたによくよく心得ておいてほしいことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることです。本来は進歩性に富める魂が、その宿った肉体によって進歩を阻害され、歪んだ精神的教育によって拘束を受けることも有りえます。
同じ啓示がすべての魂の耳に届くとはかぎりません。同じ証拠がすべての魂の目に見えるとはかぎりません。肉体的性向と精神的発達の欠陥によって、地上生活における発達を阻害された霊が、死後、その不利な条件が取り除かれた後に、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくありません。
目的に応じて手段が講じられる
というのも、本性は魔法の杖によって1度に変えるわけにはいかないものなのです。性癖というものは徐々に改められ、1歩1歩向上していくものなのです。ゆえに、生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積んだ者の目には、当然のことながら、無教養で無修養の者のために用意された手段はあまりに粗野で愚劣に映じるでしょう。
否、その前に、彼らが問題としているもの自体が無意味に思えるでしょう。その声は耳障りでしょう。その熱意は分別に欠けるかも知れません。が、彼らは彼らなりに、その本性が他愛ない唯物主義、あるいはそれ以上に救い難い無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感じる新たな視野に、一種の情熱さえ覚えるようになります。
彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けしませんが、彼らなりに真実の喜びの声なのです。批判的なそなたの耳には不愉快に響くかも知れませんが、父なる神の耳には、親を棄てて家出した息子が放浪の末に戻ってきて発する喜びの声にも劣らず、心地よいものなのです。
その声には真実味がこもっています。その真実の声こそ、われわれの、そして神の期待するところなのです。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われわれの耳には届きません。
このように、霊的に未発達な者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではありません。それでは無駄に終ります。まず霊的事象に目を向けさせる手段を用い、それを霊的に鑑識するように指導します。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのです。
物理的現象についてはそなたもすでに馴染んでいる。そして、そうした物的手段が不要となる日は決して来ないでしょう。いつの時代にも、そうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからです。目的にはそれなりの手段を選ばなくてはなりません。
そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く、視野の狭い者です。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことです。それはあくまでも“手段”にすぎません。霊的発達への足がかりとして用意され、ある者にとっては価値ある不可欠の手段であるということです。
そこで、これより、右の例以上にそなたが腹に据えかねているもの、すなわち粗野にして無教養な低級霊の仕業について述べるとします。そなたにとってそうまで耳障りで不快を覚えさせる霊を、そなたは“悪の声”であると想像しているようであるが、果たしていかがなものであろうか。
悪の問題についてはすでに取りあげましたが、また改めて説くこともあるでしょう。が、ここでわれわれは躊躇なく断言しますが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いて、大抵の場合、そなたが想像するような悪の仕業ではありません。
粗野な真実の叫びは厚化粧したお上品ぶりに勝る
悲しいかな、悪は多い。そして、善に敵対する者が一掃され、勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはないでしょう。ゆえにわれわれは、決してわれわれとそなたとを取り巻く危険性は否定しないし軽視もしません。が、それは、そなたが想像するような性質のものではありません。
見た目に常軌を逸するもの、垢抜けしないもの、粗野なものが、必ずしも不健全とは言えません。そうした見方は途方もない見当違いというべきです。真に不健全なものは、そう多くは存在しません。むしろ、そなたらの気づかないところに真の悪の要素が潜むものです。
霊的にはまだ未熟とはいえ、真剣に道を求める者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上は、この地上における精神的・身体的・霊的発達にかかっていることを理解しつつあります。それゆえ彼らは身体を大切にします。
酒びたりの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控えます。そしてその熱意のあまり、同じことをすべての者に強要します。彼らは、人それぞれに細かい個人差があることまでは気が回りません。そして、往々にしてその熱意が分別を凌駕(りょうが)してしまうのです。
しかし、洗練された者に反発を覚えさせる、そうした不条理さと誇大な言説を振り回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも、霊的に不健全であろうか。
そうでないことは、そなたにもわかるはずです。前者は少なくとも自分の義務と信念とに目覚めて、必死に生きています。今や、かつての希望も目的もない人間とはすっかり違っています。死者の中から蘇ったのです。
その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのです。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補って余りあるのではなかろうか。
その叫びは確信の声であり、死にもたとえるべき無気力状態からの目覚めた魂の叫びなのです。それは、生半可な信仰しか持たない者が紋切り型のキザな言い回しで厚化粧し、さらには、世間的に体裁の悪いことは、たとえささやき程度のものでも避けて通ろうとするお上品ぶりよりも、われわれにとって、また神にとって、はるかに価値あるものなのです。
何となればそれは、新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われわれの使命にとっても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかないからです。
そなたは、俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。きっぱり申し上げるが、それもまったくの見当違いです。的確さと上品さには欠けていても、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他のものよりも大衆に訴える力があります。
野蛮な投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石の方が、打算から慣習に
迎合し、体裁を繕(つくろ)う教養人の言説よりも、よほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのです。
現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのです。霊界から指導に当たる大軍には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されています。
“物”にしか反応を示さない唯物主義者には、物的法則を超越した目に見えない力の存在の証拠を提供します。固苦しい摂理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦(むつ)み合いの生活への信念を培(つちか)います。
筋の通った論証の過程を経なければ得心できない者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していきます。
さらに、そうした霊的心理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越した、より深い神秘への突入を欲する者には、神の深い真理に通暁した高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせます。
このように、人間にはその発達程度に応じた霊と、それにふさわしい情報とが提供されます。これまでも神は、それぞれの目的に応じて手段を用意してこられたのです。
スピリチュアリズムは霊界を総動員した働きかけ
今一度くり返しておきます。スピリチュアリズムはかつての福音のような散発性のものとは異なります。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教であり、救済の手段でもあります。それを総合したものがスピリチュアリズムなのです。
が、実は、それだけと見なすのも片手落ちです。そなたにとって、そして又、そなたと同じ観点から眺める者にとってはそれだけでよいかも知れません。が、他方には意識程度の低い者、苦しみにあえぐ者、悲しみに打ちひしがれている者、無知な者がいます。
そうした人たちにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもちます。それは、死後における肉身との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安です。実質的には、五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋です。
肉体を棄てた者も、肉体に宿る者と同じく、その発達程度はさまざまです。そこで、地上の未熟な人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれます。ゆえに一口にスピリチュアリズムの事象といっても、程度と質を異にする種々様々なものが演出されることになります。
底辺の沈澱物が表面に浮き上がってくることもあり、それのみを見る者には、奥でひそかに進行しているものが見えないということにもなります。
今こそそなたも得心がいくことでしょうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生した“しるし”を見れば、その種の現象が決してこのたびの活動のみに限られたものとの誤解に陥ることもないでしょう。
それは、人間の魂を揺さぶるすべてのものに共通する、人間本来の性分が要求するのです。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせない要素でした。
人類の歴史において新しい時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに、霊的知識の発達にもそれが付随しているのです。が、それをもって神の働きかけのすべてであると受け取ってはなりません。
政治的暴動がその時代の政治的理念のすべてではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれわれの仕事の見本と考えてはなりません。
何事にも分別を働かさねばなりません。その渦中にある者にとっては、冷静な分別を働かせることは容易なことではないでしょう。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しい事情を振り返った時には、容易に得心がいくことでしょう。
そなたの提示した問題については、いずれ又の機会にさらに多くのことを述べるとしましょう。このたびは、ひとまずこれにて – ご機嫌よう。
†インペレーター
[注釈]
(1)死者はこの世の終末に神が下す“最後の審判”の日まで、休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰をさす。
死の直後は霊的調整のための無意識状態に入るのが通例であるが、この信仰を幼少時代から教え込まれ、そう信じきって死んでいった者は、やがて意識が戻っても、まだ最後の審判日は来ていないと知らされると、また眠りに落ちてしまうという。
西洋の高等な霊界通信はこの“最後の審判説”と“贖罪説”とを人間性を堕落させる最も悪質な教義として厳しくその間違いを指摘するが、これに似た弊害をもたらす教義ないし信仰としてすぐに私の念頭に浮かぶのが、仏教の“蓮のうてなの境涯” – いわゆる極楽浄土説である。
気候温暖、風光明美、病気も災害もなく、すべてが満ち足りた成果が存在することは事実で、これを西洋のある通信では“青い島”と呼んでいる。環境が青い色彩を帯びているのでそう呼ぶのであるが、実はそこは魂の慰安所ないしは療養所のような目的をもった世界で、そこで地上時代の悪戦苦闘の生活、胸をえぐられるような体験による魂の傷が癒やされる。
が、本来ならば、つまり地上時代に正しい霊的知識を身につけていれば、魂の自然な発露として、さらに向上進化を求めるようになる。その結果として、さらに次元の高い世界へと旅立つ者もいれば、指導霊として地上へ戻ってくる者もいる。それはひとりひとり事情が異なるので一概には言えないが、ともかく、そののんびりとした境涯からは去っていくべきところである。
問題は、地上時代の信仰の型から抜け切れずに、そこが自分が祈り求めていた極楽だと思い込み、半永久的に安住してしまう者が多いことである。それはそれで別に害はなさそうに思えるが、実は、霊的親和力によって結ばれている“類魂”に対してマイナスの影響を及ぼしていることを知らねばならない。つまり同じ霊系の地上の人間に無力感、非積極性、頑張りのなさとなって現れている。
おしなべて仏教には、キリスト教が“積極的”な害を及ぼす教義や信仰が多いのに対して、“消極的”な害を及ぼすものが多いようである。
「戦争」を正当化する理由などこの全宇宙に存在しない、という事を説明してみます(祈)†
ひょっとしたら本当に「視点外し戦争」が勃発して僕たちが戦地に赴かされそうになるかも知れません。その時は皆さま「霊的知識」を絶対的よりどころとして戦争参加を全力で拒否せねばなりません。僕たちにはそんなものやる必要性がないからです。やる必要性があるのは一部のワガママな人間たちだけであり、やりたいならそいつらが勝手にやって勝手に死ねばいいのです。僕たちがその無知な人間のワガママのために死ぬ必要は1ミリたりともありません…続きを読む→
「守護霊様が大ピンチ」何も知らない人間が守護霊様を侮辱するのだそうです(祈)†
あなたの愛する男性、女性は性格の優しい、正しい行いをする、あなたにとって愛すべき人物だとします。あなたはそれを長い年月にわたって共に生活してきた事によって知っており、その人物を愛するに至っています。また、あなたが師と仰ぎ尊敬する人物の、これまで歩んできた苦難の道のり、獲得してきた知識と叡智の深さ、経験から導き出される慈愛の態度を、これまでのお付き合いによって認識しており、あなたはその師に対して深い尊敬の念を覚えるに至っています。しかし、あなたの愛する人物、あなたが師と仰ぎ尊敬する人物の人格、性格、人となり、これまでの苦難の道程を全く理解していない赤の他人が、何も知らない分際であてずっぽうで「こいつはこういう最低の人間だ、こいつは頭の悪い、おかしな奴だ」と言いふらしたとしましょう。皆さまはそれをどのように受け止められますか…続きを読む→
「全目標達成」霊界から見るとそう見えるようですが肉眼には全くそうは見えません(祈)†
霊界側の真の目的は「霊的知識を物質界全土に普及させるためのインパクト」だったのではないかと思っているのです。確か以前どこかのブログで「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を霊団が「客寄せパンダ」として活用しているというのが真相なのではないか、といった趣旨の事を書きました。コチラ「ベールの彼方の生活 3巻8章 暗黒界の探訪」にありますように、霊界上層界の高級霊の方々は、圧倒的優位なポジションに立っている事を利用して下層界の低級霊の未熟さ、無能さ、愚かさを逆説的に自分たちの目的成就に活用する、といったお話が紹介されています。イエス様もこの暗黒界の探訪と同じように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を手玉に取って自分たちの目的成就つまりスピリチュアリズム普及に徹底的に活用した、という事なのではないかと思ったりもするのです…続きを読む→
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