【9/1】モーゼスの「霊訓」(中)第20節 懐疑と猜疑

[この時点でいろんな霊からの通信が届けられた。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて、私の心に確信を植えつけるためということだった。その中のひとりに、著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実をその人の身内の人に知らせてもよいかと尋ねた。すると – ]

他界直後の通信は不可能

それは無駄であり、賢明でもありません。彼の身内の者は交霊の事実を知らないし、われわれが知らしめようとしても不可能でしょう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山でしょう。

とにかく今は身内の者に近づくことはできないでしょう。これは、後に残した地上の肉親と何とかして連絡したいと思う、他界したばかりの霊が味わう試練のひとつなのです。

大体において他界してすぐは、身内の者に近づくことはできません。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのです。自分からのメッセージが何よりも証拠として効果があり、かつ望ましかろうと思いすごし、その強い波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破ろうとしても破れない強い障壁をこしらえるのです。

霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時にはじめて、霊は地上へ近づくことが可能となります。このことに関しては、このあと改めて述べることもあるでしょう。

さて、そういう次第で、そなたの知人は今は血縁関係の者との連絡を断たれております。受け入れる用意のない者に押しつけてみても有害無益です。これは、われわれにもどうしようもない不変の摂理のひとつなのです。

理解力のない者に霊的知識を押しつけるわけにはまいりません。哲人でさえなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を、3歳の童子に説いてみたところで無意味でしょう。

もっとも、童子には実害はないかも知れません。が、不用意に押しつけることによって、われわれの本来の目的達成が阻害され、真理を授かるべき者が授からずに終ることにもなりかねません。賢明な者はそのような愚は犯しません。

受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りです。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試そうとする者たちの、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるでしょう。そのような法の逆進は許されません。そう心得ていただきたい。

直接書記の演出

[ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記(1)によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合、霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信用するわけにはいかない、と強く抗議した。するとインペレーターが答えた – ]

今ここで身元確認の問題について議論しようとは思わないが、そなたが指摘していることは容易に説明のつくことです。あの霊の身元についてはこのわたしが保証し、そなたも、少なくともわたしの言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記した霊が犯したものです。

そなたらが直接書記と呼んでいる現象は、今回はそなたのたっての要請に応じて行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはいません。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊の、いわば代書のような役をするのが通例です。

これには、多くの場合、数人の霊が携わります。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったとみえる。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回のように容易に説明のつくものばかりであることがわかるであろう。

[私の精神状態の乱れのせいで、交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかし時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしいと、それから出る音も調子はずれで、軋(きし)むのです”と言ってきた。

が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に、神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。1873年9月30日に次のような通信が届けられた。]

霊的向上を妨げようとする邪霊の存在

神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もありますが、神経の1本1本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶いません。

われわれとしてはほとんど手の施しょうがなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯となります。そのような状態の時は、われわれの世界との交信は求めぬよう忠告します。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。

そなたはこれより急速に進歩し、それが、あらゆる種類の霊的影響を受けやすくします。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企(たくら)みます。悪そのものは恐れるに足りませんが、それによる混乱は避けられません。

高度に発達した霊媒(霊能者)は、指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会への出席は避ける用心が肝要です。交霊会に危険はつきものですが、今のそなたの精神状態では2重の危険性に身をさらすことになります。催す時は忍耐づよく、かつ受け身の精神で臨んでもらいたい。そうすれば、そなたの望む証拠も得やすいでしょう。

[私は、たとえそういう態度で臨んだところで、結局は私自身の判断力で判断するほかはないのではないか、と述べた。さらに私は、疑問を解くカギになると思える事柄を2、3指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信 – それも私をただ惑わせるだけだったこれまでの通信よりも、その方がよほど決定的な重要性をもっているように思えたのである。

どう考えても、世界的な大人物が、私ごとき一介の人間のために、人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやってくるとは思えなかった。そこで、むしろ最近他界したばかりの、生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす、何か良い証拠を出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。

さらに私は、スピリチュアリズム思想の拠(よ)ってきたる淵源と規模との問題点、とくに霊の身元の問題について、明快にして総合的な説明を切望した。私は、これまでの言説のすべてを真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を、完ぺきで間違いないものにしてくれないと困る、と述べた。

その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいる、といった程度のこと以外には、証言らしい証言は何ひとつ見当たらなかったのである。

それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力してみても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して、10月1日に次のような通信が届けられた – ]S

懐疑心と猜疑心とは違う

全能の神の御恵みの多からんことを!

そなたが提出した問題についてわれわれがそのすべてに対応せず、また議論しようともしないのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完ぺきな証拠を持ち出すことが不可能だからに過ぎません。

もっとも、多くの点においてそなたが率直で汚れのない真情を吐露してくれたことには、感謝の意を表したい。が、それでもなおかつ、そなたの心の奥底にわれわれの言説に対する不信と、われわれの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけにはいきません。

これは、われわれにとって大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられます。疑うこと自体は決して罪ではありません。ある言説が知的に受け入れられないことは、決して咎められるべきことではありません。

が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物にすぎない勝手な判断基準に照らそうとする態度は、悲しむべき結果に終るであろうし、そこに、われわれの不満の根源があるのです。

そなたの疑念にはわれわれも敬意は払います。そして、それが取り除かれた時はそなたとともに喜ぶことでしょう。が、それを取り除こうとするわれわれの努力を“あたら”無駄に終らせる態度は、われわれとしても咎めずにはいられないところであり、非難するところです。

その態度はそなたを氷のような障壁の中に閉じ込め、われわれの接近を阻みます。またそれは、率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄ともいうべき暗黒地帯へと引きずり込みます。

そうした意固地な心の姿勢は邪霊による破壊的影響力のせいであり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねません。

われわれは、そなたからそのような態度で臨まれるのはご免こうむります。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれわれの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪(たま)りません。

そなたは何かといえばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭におき、その視点から現在を見ようとする傾向がありますが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉が、われわれの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。

イエスが最後まで自分の言葉以外のしるしは与えなかったことは、そなたもご存知であろう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索しないでおきましょう。不可能だったのかも知れません。不必要とみたのかも知れません。

精神的土壌がそれを受け入れない状態にあったのかも知れません。今のそなたがまさにそれと同じ状態です。議論を強要する時の、その荒れた気性そのものが、われわれの適切な返答を阻んでしまうのです。

イエスの純心さ

イエスの場合も多分それと同じ事情があったのでしょう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、おのれの知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順な、心のか弱い人々、真理ひとつ拾うにも、おどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態でもたらされるものであるかも詮索しない、忠実にして真っ正直な人たちでした。

イエスのその態度は生涯変わりませんでした。その姿勢は、まさに父なる神が人間に対するのと同じでした。神の真実の恩寵に浴するのは、おのれの我が儘を押しつけておいてそれがすぐに満たされないと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってもなお“父よ、どうか私の望みよりも、あなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを!”(2)と祈る、謙虚にして疑うことを知らない、敬虔な平凡人です。

霊団としての最後の弁明

これが神の御業(みわざ)のすべてを支配する摂理です。それを具体的にキリスト教界に見ることは、今は控えます。ただ、ここで指摘しておきたいことは、そなたの頑固(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら1歩も退こうとしない独善的議論の態度は、そなたにとって何の益にもならないということです。

不本意ながらも、われわれはその姿勢を譴責(けんせき)せねばなりません。過ぎこし方を振り返ってみるがよい。われわれとの関わり合いの中で体験したもろもろの出来事を思い返してみるがよい。

そなたの生活全体に行きわたっている背後霊の配慮について、そなたは何ひとつ知りません。

そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響から守り通すための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解から救うための配慮 – – こうした目に見えない配慮について、そなたは何ひとつ知りません。しかし、その努力の証は決して秘密にしてきたわけではありません。

このところ、そなたのもとを離れたことは一日とてありません。われわれの言葉、われわれの働きかけは、そなたの知るとおりです。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺(あざむ)いた言葉があったであろうか。

われわれの態度に、卑劣なもの、利己的なもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われわれにとって不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対して侮辱的な言葉、愚かしい言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣な策略、浅ましい動機によってそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道から引きずり下ろすような行為をしたであろうか。

要するに、われわれがもたらした成果から判断して、果たしてわれわれの影響は“善”を志向するものだったであろうか、“悪”を志向するものだったであろうか。神を志向するものだったであろうか、その逆を志向していたであろうか。

そなた自身は、それによって“改善”されたと思えるであろうか、それとも“改悪”されたと思えるであろうか。無知が深まったように思えるであろうか、無知から救われたように思えるであろうか。少しでも“まし”な人間になったように思えるであろうか、“つまらぬ”人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じなくなったであろうか。

われわれの存在そのものについて、あるいはわれわれの教説について、誰が何と言おうと、筋の通ったものであれば、われわれは少しも苦にはしません。聞く耳をもつ者すべてに、われわれは公然と主張します – われわれの教説は神の教えであり、われわれの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

われわれは、イエスがそうであり、みずからもそう述べているように、公言した教説については、必ずその証となるべき“しるし”を提供してきました。当然納得してしかるべき一連の証拠を提供しました。これ以上付け加えようにも、もはや困難なところまで来ています。

霊力の証を求めるそなたの要求に対しては、決して労を惜しむことなく応じてきました。それどころか、よりいっそう顕著な現象を求める同志の要求を満たさんとして、そなたの健康を損ねることまで行ないました。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれわれの高い視野から判断して望ましいとみたものは、すべて、喜んで応じてきました。

確かに、要求を拒否してきたものもあることは事実です。が、それは、そなたが無理な要求をした場合、ないしは、そうすることがそなたにとって害になることを知らずに要求した場合にかぎられます。そなたとは視点が異なることを忘れてはなりません。

われわれはそなたよりはるかに高い視点から眺め、しかも、そなたよりはるかに鋭い洞察力をもって眺めている。ゆえに、人間の無知と愚かさから出た要求は拒否せざるを得ないことが、しばしばあります。もっとも、そうした正当な理由によってわれわれが拒否してきたものは、要求に応じて提供した証拠に比べれば、微々たるものにすぎません。

その証拠は、地球に属さないエネルギーの存在、慈悲ぶかく、崇高にして尊い霊力の存在を証し、それがほかならぬ神の御力であることを証すに十分です。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、かつ又、われわれの身元についての言説を真剣に疑(うたぐ)る…。

どうやら、そなたにとっては、これまで崇めてきた尊い歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが、よほど引っかかるのであろう。

そこでそなたは拒絶し、無知からとはいえ、無礼にもわれわれを詐称者である – 少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善人ぶったことをしているのである、と非難する。

が、そう批判しつつも、そなたは、われわれが詐称しなければならない根拠を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれわれが地上に派遣された動機を見出し得ず、人間にとっての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

モーゼスへの酷しい譴責と警告

そなたのそもそもの誤りはそこにある。われわれもその点は譴責せざるを得ません。あえて言おう。それはそなたにとって、もはや“罪”ともいうべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことは、われわれはご免こうむる。そのような視点から要求する証は提供するつもりはありません。

われわれは、もはやこれ以上1歩も譲歩できないギリギリの限界にきている。これまでそなたの前に披露してきたものを侮(あなど)るのは結構であるが、それによって危害をこうむるのはそなた自身にほかならないことを警告しておきます。

過ぎこし方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠を、ただの幻想として片づけることのないよう警告しておきます。

今はこれ以上は述べません。ともかくわれわれとしては、そなたのような判断を下されることだけはご免こうむります。われわれは当初、こうした霊的教訓の受信者として、そなたを最適任者として選んだ。

願わくば現在の無知と愚かさとから一刻も早く脱し、われわれがそなたを選んだ時の、あの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを切望する。そうしたわれわれの願いを、そなたが持てるかぎりの能力と率直さとをもって検討しなければなりません。

今後のそなたとの関係も、それによって決定されます。ぜひとも公正に、そして神に恥じぬ態度で判断してもらいたい。決して焦ってはなりません。早まってはなりません。事の重大性と、その決断のもつ責任の重大さを認識した上で決定されたく思います。

その間、新たな証を求めてはなりません。求めても与えられないと思っていただきたい。他のサークルとの交わりも避けるよう警告しておきます。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。いたずらに迷いを増幅させ、それがわれわれをいっそう手間どらせることになります。

やむなく生じた問題に関しては、われわれから情報を提供しよう。また、われわれのサークルでの交霊会は、決して勧めもしませんが、あえて禁止もしません。ただし、たとえ開いても、新たな証拠は出しません。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばなりません。

かつてわれわれは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがあります。このたびも、改めて同じことを述べておきます。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで、時には参加いたしましょう。その条件については後で述べます。が、なるべくならば当分は催さない方がよい。

こう申しても、決してそなたをひとりに放置しておくということではありません。そなたは常に2重3重に守られていると思うがよい。これにてひとまずそなたのもとを去りますが、祈によってそなたを守りつづけます。

みずからを律しきれずにいるそなたに、全能の神の導きのあらんことを!

†インペレーター

[注釈]

(1)モーゼスは“まえがき”の冒頭で自動書記のことを“直接書記”とは区別する必要があると述べたり、直接書記の専門霊媒ヘンリー・スレイドを引き合いに出したりしていることからも窺えるように、この現象には特別の関心を抱いていて、Direct Spirit Writing(霊による直接書記)という論文調の書物を出している(1878)ほどである。

その中にはいろんなタイプの例が紹介されているが、モーゼスらしく、自分自身の体験は述べていない。が、モーゼスの死後、スピーア夫人によって公表された本書の続篇 More Spirit Teachings の中に興味ぶかいモーゼス自身の体験が出ているので、それを《参考資料》として巻末に紹介しておく。

(2)ルカ22・42

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†