【9/21】モーゼスの「霊訓」(下)第32節 真理

[その後に届けられたインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的にいっそう崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで綴られたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に泌みわたるのを感じていた。]

真理の理解に試練は不可欠

イエス・キリストの祝福のあらんことを。この度は、2度と訪れぬかも知れないこの機に、そなたの疑問に答え、必須の真理を授けておきたく思います。

このところ、そなたのもとに届けられた何通かの手紙によって、われわれが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来が、われわれのみならず、他の霊団によっても予期されていることがわかるであろう(1)。

備えを怠らないでもらいたい。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのです。イエスもそう悟り、そう説いている。魂には鍛練が必要なのです。身体に鍛練が必要なのと同じです。

鍛練なくして深い真理は悟れません。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されません。真理へのカギは霊の世界にあるのです。試練によって鍛えられていない魂が勝手に真理をもぎ取ることは許されません。よくよく心されたい。

安逸と放縦の道は、夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れません。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道は、茨と岩だらけの上り坂です。が、それが悟りと霊力の頂上へたどり着く道なのです。イエスの生涯をよく吟味し、そこから教訓を学び取るがよい。

さらに、今こそわれわれと邪霊集団との熾烈な闘争の時期でもある。その煽りがそなたにも感じ取れるであろうことを述べたことがありますが、神の摂理の大いなる発展の時期には、それは付きものなのです。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件としての憂うつの体験であり、真摯な魂が浄化される試練の時期なのです。

イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やあなたがたの時、そして暗黒の時(2)”と述べました。今こそ、その時です。しかも容易には過ぎ去らないでしょう。辛酸をなめ尽くさねばならないのです。

それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れとともに人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加されていく。それが時とともに生気を失い、訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬がひとつまたひとつと暴かれ、信仰の基盤が揺さぶられ、人間はついに大声をあげて叫ぶ – 真理とは何ぞや!と。

それに答えて新たな、より崇高な真理の誕生となります。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺りかごのまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに強烈です。

理解の仕方は各人各様

その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高い塔から眺める霊的洞察力に富む者は、いち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎します。“喜びは暁とともに来らん(3)”“悲しみと嘆きは消えゆかん(4)”かくして夜の恐怖、“暗黒の力”が過ぎ去ります。

しかしそれは、すべての者にとっての話ではありません。相も変らず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかない者が圧倒的多数を占めます。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続けます。

こういう次第で、すべての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れないのです。いつの時代にも、真理に対して何の魅力も感じない者、なまじ上り坂を行くことが危険を伴う者、古い時代から多くの者によって踏みならされてきた道を好む者が数多くいるものです。

暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる一方には、そうした人種もいつの時代にもいるものです。ゆえに、すべての者に同じ視野が開かれることを期待してはなりません。そのような夢のごとき同等性は有り得べくもないのです。有り得ないだけでなく、望ましくもありません。

神秘の奥義を詮索するに足る力を授かっている者がいる一方には、極力それを避けねばならない者もいるものなのです。そこで大衆を導く指導者と先達(せんだつ)が必要となるわけです。そ

の任に当たる者は、それなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請されます。それを理性によって律し、我欲を抑え、魂が一切の囚われを捨てて自由に振舞えるようであらねばなりません。そのことに関しては、とうに述べてある。心するがよい。

大方の者がこれぞ真理なりと信じていることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるには及びません。そういうものなのです。真理にもさまざまな段階があります。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられています。

その光の一条(ひとすじ)たりとて、すべての魂によって曇りのない目で受け止められるとはかぎりません。わずかな人間、ごく一握りの者に、その無数の光の中からはぐれた一条、あるいは二条三条、もしかしてそれ以上の光が届くにすぎません。それも、多くの媒体を通して届けられるために、ようやく届いた時は、すでにその透明度が曇らされています。

これはいかんともし難いことです。それゆえにこそ、さまざまな真理の見方が生じるのです。それゆえにこそ、さまざまな見解・誤解・誤謬・錯誤が罷り通ることにもなるのです。真理を豁然として大悟したと豪語しても、その多くは、束の間の真理を垣間見たにすぎません。

それに自己流の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重な真理の光が歪められ、破壊されます。かくして真理が台なしにされて行きます。咎められるべきは、真理の中継者の不完全さです。

深遠なる真理は独り静かに味わうべきもの

あるいは、こうも見ることができる。ひとりの向上心に燃える魂の熱望にこたえて授けられたものを、当人は万人に等しく分け与えられるべきであると思い込みます。そこで宝石が小箱から取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られるのと同じです。

とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとってあれほど美しく愛らしく思えた真理が、忙(せわ)しい生存競争の熱気と埃りの中で、あえなく新鮮味を失っているのを見て驚きます。おのれの隠れ処においてはあれほど純にして真なるものが、世に遺伝されると、見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けるのを知って驚異すら覚えます。

彼がもしも賢明であれば、こう悟るところです – ヘルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、すなわち至聖にして至純なる真理は霊感によって魂より魂へとひそかに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝されるべきものではないのだ、と。

むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石のごとき粗野なものもある。これは言わば、すべての建築者が等しく使用すべき土台石です。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに挑むべきものです。

ゆえに、ヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼はすべての者の目に映じるはずの真理の外形を物語ったのでした。ただし、彼がその奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエスの存在と栄光のみでした。

そなたがこうした事実を悟れずにいることこそ驚異と言わざるを得ません。そなたにとって絶対的真理と思えるものも、実はそなたの求めにこたえて、完全な真理の輪を構成する粒子のひとつ、ほんのひとかけらが授けられたにすぎません。

そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのです。そなたにとってはそれで完璧であり、言わば“神”であろう。が、別の者にとっては不可解なものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことはできません。

見せびらかしたくても、それは無駄です。すぐに生気を失い、その隠された魅力も、人の心を改めさせるだけの力は持たないでしょう。それはあくまでもそなた自身のものであり、そなたひとりのものなのです。そなたの魂の希求に応じて神から授けられた、特殊な需要に対する特殊な供給なのです。

真理というものには秘宝的要素があります。必然的にそうなるのです。何となれば、真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからです。日用品として使用するには、その香気があまりに儚(はか)なすぎます。その霊妙なる芳香は、魂の奥の院においてのみ発せられるべきものです。

このことを、とくと心に留めおかれたい。さらに又、受け入れる用意できていない者に押しつけることは、真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとっては天啓であっても、そうとは思えない者には取り返しのつかない害毒すら及ぼしかねないことも心されたい。

求道(ぐどう)の生活こそ人生の至高の目的

さらに忘れてならないことは、真理のための真理探求を人生の至高の目的として生きることこそ、地上にあっての最高の目標であり、いかなる地上的大望(たいもう)よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高いものであるということです。

人間生活に充満する俗悪な野心については今は取り上げません。虚栄から生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心 – これらは、紛(まご)うかたなき“ソドムの林檎(7)”です。

しかるに、他方には、目覚めた魂へのひそかな誘惑 – 同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げた石塚(ケルン)にもうひとつ石を積み上げんとする心があります。彼らは自分の生活を大きく変えた真理を熱誠をこめて広めようと、勇み立ちます。もうその真理に夢中です。胸に炎が燃え上がり、その教えを同胞に説きます。

その説くところは気高いかも知れません。そして、聞く者の欲求にかなえば、同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れません。が、その逆となるかも知れません。

ある者にとって真理と思えることは、“その者にとって”真実であるにすぎず、その声は荒野に呼ばわる者の声にすぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響きません。彼の殊勝な行為が無駄に終ります。それだけのエネルギーを真理のいっそうの探究のために温存し、人に説く前に、より多くを学ぶべきだったのです。

教えることは結構です。しかし、学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではありません。が、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはなりません。

そして、真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得られたい。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはなりません。その美しさは、つい語りたくなるでしょう。

自分が得た心の慰安を、聞く耳をもつ者に喧伝したく思うかも知れません。が、自分の魂の深奥に、神聖な控えの間、清き静寂、人に語るにはあまりに純粋にして、あまりに貴重な秘密の啓示を確保しておかねばなりません。

[ここで、大して重要でもない質問をしたのに対してこう綴られた – ]

違う。それについては、いずれ教えることになろう。われわれはそなた自身の試練のひとつであのを肩代りすることはできません。迷わずに、今歩んでいる道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道です。が、不安と苦痛の中を歩まねばならないことは必定です。

これまで導いてきた道は、そなたには過去の叡智を摂取し、先駆者に学ぶ必要があると見た上でのことです。地上とわれわれの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によって痛撃を食らうであろうことは、早くから予期していたことです。

愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきました。この分野には過去の神秘学と同じくふたつの側面があり、またそうあらねばならないことを教えたく思います。ひとつの側面を卒業した今、そなたはもうひとつの側面を理解しなくてはなりません。

そのためには、人間と交信する霊がいかなる素性の者であるかを知らねばなりません。それをおいて他に、今そなたを悩ませている謎を正しく読み取る方法はありません。

真理というものが一体いかなる方法によっていかなる条件のもとに得られるものであるか、又いかにすれば誤謬と策謀、軽薄な行為と愚行とを避け得るかを知らねばなりません。

人間が安全な態勢でわれわれの世界との関わりを持つには、あらかじめこうしたことをすべて理解しておかねばなりません。しかも、それを学び終えた暁に、あるいは学びつつある時にも、その成功いかんは、ほとんど、あるいは全面的に、人間側にかかっていることを忘れてはなりません。

求道者たる者は我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純な心を悪疫として追い払い、目指す目的をできるかぎり崇高なものとしなくてはなりません。真理を、万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せねばなりません。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標としなければなりません。

その時はじめて神の使徒によって見守られ、魂の奥に真理の光を見出すことでしょう。

†インペレーター

[注釈]

(1)具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第1次大戦、さらには50年後の第2次大戦も含めてのことと推察される。

(2)ルカ22・53“あなたがた”とはイエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダのことであるが、それは同時に、背後の邪霊集団を意味していると解釈すべきであろう。

(3)詩篇30・5

(4)イザヤ書5・10

(5)Mount Herman シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。

(6)ヨハネ黙示録21・11~21

(7)Sodomapples 外観は美しいが、口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。

■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†■2024年1月27日UP■
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ご母堂の言葉で僕が特に気に入っているのは「悲劇をただの不幸と受け止める事がいかに狭い量見であるか」(29ページ)という部分で、僕は霊性発現とともに使命遂行人生に突入させられ、人生を完全に破壊されて最悪の状態に閉じ込められ続けている関係で霊団を心の底から激しく憎んでおり、本当の本気で反逆しまくっていますが、その破壊された人生も「その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になる」の言葉のように、最終的には全て佳きようにおさまるのでしょう。使命遂行を最後までやり切れば、の話ですが。あともうひとつ、ご母堂の言葉で僕の胸に突き刺さるものとして「確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。」(72ページ)というものもあります。これはオーエン氏が教会長老から弾圧を受けて弱気になっていた事を受けて「勇気をもってこの使命に邁進(まいしん)しなさい」と、言わば母が息子の“おケツをひっぱたいた”という事だと思うのですが、イヤー僕もこういう母に恵まれたかったですね。っとと、僕には“真実の母”守護霊様がいましたね。僕の性格は守護霊様のデザインであり、現在このような使命遂行人生が送れるのも(苦しい事イヤな事ばかりで全然うれしくも何ともありませんが)守護霊様が“導きのプロ”だったおかげです…続きを読む→
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まず「5章 生前と死後 2 一牧師の場合(127ページ)」ですが、物質界で牧師をしていた男がネインという女性の忠告を受けて1界(これはかなりの下層界です)に赴くというお話ですが、皆さまはこのお話を「あぁ、霊的な事を正しく理解していない牧師の没落ストーリーだな」といった感じに読まれる事と思います。確かにその通りなのですが、どうかもう1レイヤー2レイヤー深いところまでお読み頂きたいのです。このネインという女性はわずか2、3歳で夭折した牧師の妹で、男はこの妹を大変可愛がっていたそうですが、霊格が低いこの男はその成人した姿の女性を自分の可愛がっていた妹だと気づく事ができません。しかし1界で辛酸を味わい尽くし霊的向上を果たした暁にはこの男の霊の眼が開かれ、ネインが自分の妹だと気づく日が(男の様子からするとそれは相当先の話になりそうですが)来ます。必ず来ます。その時にこの男は「あぁ!あれほど愛した妹の事が分からずにいたなんて、自分は何という愚か者だったのだ!」みたいな感じになって大いに涙を流して反省し、そこからこの男の「向上ストーリー」が一気に加速する事になります…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†