一旦テキストの作業から離れて線画に集中しています。圧倒的絶対的に時間が足りない。霊団はそうは思っていないでしょうが僕的にはどうしても作業時間を増やしたい。そのためには脱出が不可欠となり、それを何としても実現させための手段として節約を開始しました。

生活のありとあらゆる部分を徹底的に見直して少しでも数字を減らせるところはすぐ実行して実際に浪費を抑えられているか経過を見てその節約アイデアが有効かどうかを見る、という事をやっています。間もなく複数の節約アイデアの結果が数字として表れてくると思うので、それをもって脱出アイデアを実行に移すつもりでいますが、まだ脱出できる保証はどこにもありません。

これまでといちばん変わったところは、普段の買いもので生鮮食料品しか買わなくなった、それ以外のモノはほとんどお店で買わなくなったという事です。お買いもの時の数字の消費が以前と比べて明らかに減りました。そのぶん別のところでまとめ買いをして、長期的に消費を抑えようとしています。買う前に必ず計算機でシミュレーションをして、数字を減らせる事を確認してから買うようにしています。

そこまでしなくても、というくらい徹底的に細かいところまでそれを実行しています。全ては脱出を実現させるためです。本気中の本気だからココまでやっているという事なのですが、霊団は何が何でも僕を最悪に閉じ込めようとしてきます。どうしてもその導きに従う事ができません。

こんなお話はともかくとしてまずはストーリーを完成させましょう。作業時間を増やしてみせる、そしてできれば移住も決行したい。もちろんこんなモノは霊団の導きの中に一切含まれていません僕の小我の独断です。地名には旧地名というモノがあって、その意味を調べるとその土地の危険性を知る事ができるという事もあります。一応その方向でも調べています。移住するつもりでいるからこういう事も調べているのです。

さぁ作業続行中、イヤでどうしようもないところに延々閉じ込められるのはどうやっても認められない。死んでも受け入れられない。必ず脱出してみせる。もうこれに関しては霊団が何を言ってこようと僕の意思を書き換えるのは不可能だと思います(祈)†
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†■2022年12月7日UP■
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†
心臓が鼓動しているのが、血液が全身を循環しているのが、脳髄でアレコレ思索を巡らせる事ができるのが霊のチカラのおかげだというこの単純な真理が理解されるのにあと何千年かかるというのか。2000年前にイエス様が同じ事を言っていたじゃないか、まだ分からないのか。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体にも、自分が霊的存在であるという事実にも、一体人々はいつになったら気が付くというのか。この狂った腐った物質界は、あと何千年、正しいおこないをする者を磔刑(はりつけ)にし続けるというのか。そんなに洗脳が好きなのか、そんなに帰幽後に地獄に落ちたいのか。ステキな境涯に案内してあげようと大切な事を教えるために物質圏に犠牲的降下をして下さっている高級霊の方々の愛を、あと何千年裏切り続ければ気が済むのか…続きを読む→
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†■2023年5月3日UP■
「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†
イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました…続きを読む→

[くり返し反論したきた問題 – これまで再三にわたって言及してきたものが、8月31日になってようやく本格的な回答を得た。]

これまでにも何度か言及しながら本格的に扱わずにおいた問題について述べたく思います。そなたは、われわれの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めがなく、実体が感じられないという主張を固持し、それを再三にわたって表明してきました。

その主張によれば、われわれの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代る新たな合理的信仰を持ち合わせないという。その点に関しては、これまでも散発的には述べることがありましたが、大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に解説したことはありませんでした。それを、これより可能なかぎり述べることとします。

全知全能の神は御業(みわざ)によって知るのみ

まず、われわれは全創造物の指揮者であり審判者であるところの宇宙神 – 永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしましょう。その至高の尊厳の前にわれわれは厳粛な崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものです。

その御姿を拝したことはありません。また、御前に今すぐ近づこうなどとも思いません。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることでしょう。それはもはや限りある数字で表わせるものではありません。

が、たとえ拝したことはなくとも、われわれはその御業を通して奥知れぬ完ぺきさをますます認識しております。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりなのです。それはそなたには叶わぬことですが、われわれは無数の方法によって、その存在を認識することができます。

地上という低い界層には届かない無数の形で認識しております。哀れにもそ
なたたちは、神の属性を独断し、愚かにも、人間と同じ形態をそなえた神を想像していますが、われわれにはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し、感受しております。われわれとの関係(つながり)の中に優しさと愛とを感受するのです。

過去を振り返っても、慈悲と思いやりに満ちあふれていることを知ります。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われております。未来は…これは、われわれも余計な憶測はいたしません。これまでに身をもって味わってきた力と愛の御手に、すべてを託します。

詮索好きな人間がするような、おのれの乏しい知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯しません。神への信頼があまりに実感あふれるものであるがゆえに、あえて思案をめぐらす必要を感じないのです。

われわれは神のために生き、神に向かって生きてまいります。神の意志を知り、それを実践せんと心がけております。そうすることが、自分のみならず全創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信じるからです。

また、そうすることが、神に対する人間的存在としての当然の敬意を表明するゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのです。われわれは神を敬愛します。神を崇拝します。神を敬慕します。神に絶対的に従います。が、神の御計画に疑念をはさみ、あるいは神の秘奥をのぞき見するような無礼はいたしません。

人間に明かすことを許されていない神秘もある

次に人間についてですが、われわれはまだ、知っていることのすべてを語ることを許されておりません。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、そなたの精神を惑わせることにしかならない知識を明かすことも、許されておりません。

人間の霊性の起原と宿命 – いずこより来ていずこへ行くのか – については、いずれそのすべてを語るべき時期が到来することを信じるに留めてもらいたい。さし当たっては、神学が事細かに語り広く受け入れられているところの“アダムとイブの堕罪”の物語は、根拠のない作り話であることを知られたい。

恐らくそなたたちキリスト者においても、これにまともな思考をめぐらせたならば、あのような伝説には理性がついていけないのが正直な事実でしょう。取りあえず人間が物質をまとった霊魂であることを認識し、支配する神の摂理にしたがって進歩していくことこそが、地上での幸せと死後の向上を導くものであることを理解すべく努力をすることです。

はるか遠く高き世界 – 洗練され浄化されつくした霊のみが入ることを許される天上界のことは、ひとまず脇へ置いておくことです。その秘奥は、限りある人間の目には見ることはできません。

天上界への門扉(もんぴ)は聖なる神霊にのみ開かれます。そして、いつの日かそなたにも、十分な試練と進化の暁にその列に加えられる時がきっと訪れることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたにとっては、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要でしょう。人間は、そなたも知るごとく、一時期を肉体に宿っている“霊魂”なのです。霊的身体を具えており、それは肉体の死後もなお生きつづけます。そのことについてはバイブルでも述べられています。

仔細の点では誤りも見られますが、一応正しいとみてよいでしょう。その霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばなりません。死後の生活は、人間の知性の届くかぎりにおいて無限です。

こういう言い方をするのは、人間には“無限”の意味は理解できないからです。さし当たってそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておきましょう。

その霊的存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿って生活するにすぎないとはいえ、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なされております。

肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心 – 往々にして粗末であり未熟ではあるが – を先天的にそなえております。各自、その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請がありしだい与えられる援助の手段も用意されています。

こうした事実についてはすでに述べました。こののちもさらに述べることもありましょうが、取りあえず地上という試練の場における人間の義務について述べたいと思います。

地上の人間としての理想の資質

人間は責任ある霊的存在として、自分と同胞と神に対する義務を有します。その昔、そなたたちの先師たちは、その時代の知識の及ぶかぎり、そして表現しうる能力のかぎりにおいて、霊的生活にとって適切な道徳的規範を説きました。

しかし、彼らの知識の及ばぬところ、そして彼らには伝え得ないところにも、まだまだ広く深い真理の領域が存在します。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によって理解され始めたところです。

が、この事実によって、人間の向上進化を促す勢力と妨害する勢力とが存在することを窺い知ることができるでしょう。このことに関しては、こののちさらに述べる機会もあることでしょう。

それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は“向上進化”の一語 – おのれに関する知識をはじめとして、霊的成長を促すあらゆる体験を積むことに要約されましょう。

次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は“教養”の一語に要約されましょう。ひとつの枠に限られない幅広い教養を積むことです。地上生活のみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動です。

そして肉体に宿る一個の霊としての自分に対する義務は、思念と言葉と行為における“純粋”の一語に要約されましょう。以上の“進歩”と“教養”と“純粋”の3つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そして肉体的存在としての人間の、自己に対する義務が要約されていると言えるでしょう。

次に一単位として生をうけた民族、所属する共同社会の一員としての義務についてですが、これを強いて一語で表現するとすれば、その中心となるべき心掛けは“慈悲心”に要約されましょう。

意見の相違に対しては寛容心を、それを是正する時の言葉には同情心を、交わりには優しさをもって臨み、援助には見返りを求めず、日常の品行に礼儀と穏やかさを心掛け、誤解をうけても我慢し、正直で一途(ず)な目的意識に情愛と寛容を加味し、同情と哀れみと優しさに満ちた心をもち、所属する社会の公的義務は遵守し、同時に弱き者、意志薄弱なる者の権利も尊重する。

以上の、そしてこれに類する資質これぞまさしく“キリスト”(1)の名にふさわしい性格のエッセンスです – を、われわれは慈悲心もしくは能動的な愛の一語に要約します。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは、いかに低い界層の者といえども、“無始の光の泉”“万物の創造者”であり、“父”であるところの大神に近づく可能性をもつものであらねばなりません。

大神を目の前にした時の人間にふさわしい態度は、そなたたちのいう聖なる記録の中で“天使もその翼もて顔を被う”(2)と表現されていますが、まさにその通りです。それは人間の霊にとって最もふさわしい畏敬と崇拝の念を象徴しているのです。

敬(うやま)い畏(おそ)れるのです。奴隷的恐怖心ではありません。崇(あが)め拝(おろが)むのであって、屈従的恐怖心に身をすくめるのではありません。神と人とを隔てる計り知れない距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、かりそめにもその御前に今すぐ侍(はベ)ることを求めてはなりません。

ましてや、天使にしてなお知り得ない深い神秘をのぞき見せんとする傲慢(ごうまん)な態度は慎まなければなりません。“畏敬”と“崇拝”と“愛”、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性です。

きわめて大まかですが、以上が自分と同胞と神に対する人間の義務です。枝葉の点については追って付け加えることになりましょうが、以上の中に人間が知識を広め、良き住民となり、すべての階層の人間の手本となるべき資質が述べられております。

この通信ならびにこれまでの通信の中に、パリサイ派の学者が重んじた儀式的ないし形式的義務に関しての叙述が見られないのは、われわれがその必要性を認めないからではありません。人間が物的存在である以上、物的行事も当然大切です。

われわれがその点について詳しく言及しないのは、その重大性について、あえてわれわれが述べずとも事足りているとみたからです。われわれの中心的関心は霊性にあります。すべてを生み出すところの霊性です。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為もおのずと正しく行なわれるはずのものです。

われわれはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱ってまいりました。その原則とは、そなたの関心を真の自我であるところの“霊”に向けさせ、すべての行為をその内的自我の発現として捉えさせることです。その霊性こそが、地上を去ったのちの霊界生活のすべてを決定づけるからです。

そこに真の叡智が存在します。すべてを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移りゆく姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えます。現時点においてわれわれがそなたに示しうる義務は以上のごときものですが、次に、その義務を果たした時と怠った時にもたらされる結果について述べねばなりません。

満足は堕落の始まり

自己の能力のかぎりにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして、生き甲斐と向上が得られます。あえて“向上”を強調するのは人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すという不変の真理を見失いがちだからです。

“これでよし”との満足は、真の自我(魂)にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかありません。魂は過ぎ去ったものの中に腰を下ろすことは許されません。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかもちません。

過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向かう態度は一層の向上を求める、希望と期待の表われです。満足感に浸り、それで目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、その時の魂は退歩の危機にあります。

霊的存在としての正しい姿勢は、常により高い目標に向かって努力し続けることです。その絶え間のない向上の中にこそ真の幸せを見出すのです。これで終りという時は来ません。絶対に来ません。

永遠の刑罰はない

このことは、人間が人生と呼んでいる地上の一時期のみに限りません。生命の全存在に関しても言えることです。そうです、肉体に宿って行なった行為は、肉体を捨てたのちの霊界の生活にも関わりをもつものです。その因果関係は、人間が死と呼んでいる境界には縛られません。

それどころか、霊界へ来て落着く最初の境涯は、地上の行為がもたらす結果によって定まるのです。怠惰と不純の生活に浸っていた霊は、当然の成り行きとして、霊界でそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになります。

犯した罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、1歩また1歩と高い境涯へと向上して行く – これが神の摂理を犯した者に与えられる罰です。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではありません。意識的生活の中で犯した違反が招来する不可避の悔恨と自責の念と懲罰です。

これは懲らしめのムチと言えなくもないでしょう。が、それは復讐心に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではありません。愛の神が我が子にその過ちを悟らせるために用意した因果律の働きなのです。

天国での安逸的生活もない

同様に、善行の報いは天国における“永遠の休息”などという、感覚的な安逸ではありません。神の玉座のまわりで讃美歌三昧に耽ることでもありません。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によって安易に得られる退屈きわまる、白日夢のような無為の生活でもありません。

義務を果たした充足感、向上した喜び、さらに向上できる可能性を得たという確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持したという自信 – こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に初めて味わえるものです。

休息の喜びは働かずしては味わえないように、食事の美味(おい)しさは空腹の者にしか味わえないように、一杯の水の有り難さは渇いた者にしか味わえないように、そして、我が家を目の前にした時の胸の高まりは、久しく家を離れていた者にして初めて味わえるように、善の報酬は、生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇いた者にして初めて、その真の味が賞味できるのです。

怠惰な感覚的満足は、われわれの望むところではありません。あくまでも全身全霊を込めて努力したのちにようやく得られる心の充足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのです。

贖罪(しょくざい)説は卑怯(ひきょう)な考えの産物

以上に見られるように、われわれは人間というものを、果たすべき義務と数かぎりない闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱っております。別の要素として背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もありますが、ここでその問題を取り上げる必要性を認めません。

取りあえずそなたの視野に映り、そなたみずから検討しうる範囲内の事柄にかぎって述べてきました。又、われわれとしては罪なき神の御子、というよりは、神との共同責任者としてのイエスにおのれの足らざるところをすべて償わせるような、都合のよい言説は説きません。

1度の信仰告白によって魔法のごとく罪を消すという、かの贖罪説は説きません。卑しい邪悪な魂も、死の床にて懺悔(ざんげ)すればイエスがその罪のすべてを背負ってくれて、立ちどころに“選ばれし者”の中に列せられ、神の国へ召されるなどという説は、とても認めるわけにはいきません。

われわれは、そのような卑屈にして愚劣な想像の産物に類することは一切述べたことはありません。援助はあります。常に身近かにあり、いつでも活用できる強力な霊力が控えております。

しかし、放蕩と貪欲と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くした人間が、その最期の一瞬に、聖者のひとりとして神の聖域に列せられるために自由に引き出せる、そのような都合のよい徳の貯えなどは、どこにも存在しません。

臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼びおこす死後の苦しみに怯(おび)えるあまりにすがろうとする身代りの犠牲など、どこにも存在しません。そのような卑怯な目的のためには、神の使者は訪れません。そのような者に慰めを
与えに参る霊など、ひとりもいません。

幸にしておのれの罪深さに気づいて後悔することになれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるでしょう。神の愛のムチを当てられるままに放置することでしょう。何となその苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからです。

しかるに神学者は、そのような者のために神は御子を遣わし、そしてすべての罪を背負って非業(ひごう)の死を遂げさせたのである!と説きます。それをもって最高の情けある処置である!神の慈悲の最高の表現である!と説きます。

そのような作り話は、われわれの知識の中には存在しません。徳の貯えは自分みずからひとつひとつ刻苦勉励の中に積み重ねたもの以外には存在しません。至福の境涯に至る道は、かつて聖者たちがたどった苦難の道と同じ道以外にはありません。

一瞬にして罪深い人間を聖者に変え、したたかな無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたたちのいう天国にふさわしい霊に変えてしまう魔法の呪文など、われわれは知りません。そのような冒瀆的想像の産物は、およそわれわれとは縁はありません。

霊的援助は身近かにある

人間は一方においてそのような無知が生み出す、到底あり得ない空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻くせっかくの霊的援助と加護にはまったく気づかずにいます。われわれは人間みずから果たすべきことを代って果たしてあげる力は持ち合わせません。

が、援助はできます。慰めることはできます。心の支えとなることはできます。われわれは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっているところです。

時として、あまりにあくどく、あまりに物質かぶれしすぎて、われわれの霊力に感応せず、霊的なものを求めようとしない者に手こずり、あるいは愚弄されることもありますが、霊的援助は常に用意されており、真摯な祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによって結びつきを強化することが可能なのです。

ああ!何たる無知でしょうか。至純・至聖・至善なる霊が常に援助の手を差しのべんと待機しているものを、祈ることを疎(おろそ)かにするために、その霊との交わりを得ることができないのです。

魂を神に近づける崇拝の心、そして天使を動かす祈りの心、この二つはいつでも実行可能な行為です。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手な信仰、教義、宣誓、身代り等々、事実とはほど遠い、根拠のない作り話に託しております。

信条より行為が大切

われわれは、そうした個々の信仰は意に介しません。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩、改められていくものだからです。狂気のごとき熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体から解放されれば、一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられます。

生涯抱きつづけた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散します。いかに誠意をこめて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われわれは“信条”にはさしてこだわりません。それよりもわれわれは、“行為”を重要視します。何を信じていたかは問いません。何を為したかを問います。

なぜなら、人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解しているからです。そうした性格は長い苦難の過程をへてようやく改められるものであり、それゆえにわれわれは、言葉より行ないに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのです。

われわれの説く宗教は、行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれな信仰の宗教ではありません。身体の宗教でもあり、魂の宗教でもあります。打算のない、進歩性に富む真実の宗教です。

その教えには終局というものはありません。信奉者は数知れない年月を掛けてひたすら向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨きつくされた霊 – 苦しみと闘争と経験によって磨き上げられた霊 – が、その純真無垢の姿で大神の足もとに跪(ひざまず)くのです。

この宗教には怠惰も安逸も見出せません。霊の教育の基調は真摯と熱意です。そこには、おのれの行為がもたらす結果からの逃避は見出せません。不可能なのです。罪科はそれみずからの中に罰を含むものだからです。

また、おのれの罪を背負ってもらう都合のよい身代わりも見出せません。みずからの背に負い、その重圧にみずから苦悶せねばならないからです。

神のお情けはない

さらに又、われわれの宗教には、これさえ信ずれば堕落した生活がごまかせるとか、これさえ信ずれば魂の汚れが覆い被せるなどという、卑怯な期待をもたせて動物的貪欲と利己主義を煽(あお)るような要素も、いずこにも見出せません。

われわれが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではありません。そのような気まぐれな隠れ蓑(みの)は死とともに一気にはぎ取られ、汚れた生活が白日のもとにさらされ、魂はそのみすぼらしい姿を衆目にさらします。

また、われわれの説く宗教には、そのうち神は情けを垂れて、すべての罪に恩赦を下さるであろうなどという、けちくさいお情けを求める余地など、さらさら見出せません。そのような人間的想像は、真理の光の前に呆気なく存在を失います。

神の情けは、それを受けるにふさわしい者のみが受けるのです。言いかえるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進歩がおのずとその報酬をもたらすのです。そこにはもはや情けも哀れみも必要としません。

以上が、われわれの説く霊と身体の宗教です。神の真理の宗教です。そして、人類がこれを理解する日も、ようやく近づきつつあります。(3)

[注釈]

(1)the Christ(ザ・クライスト)というのは語原からいうと“聖油を注がれた人”という意味の称号で、スピリチュアリズム的にいえば霊的真理を理解した人、すなわち“霊覚者”ということである。17節[注釈](5)参照。

(2)この引用句どおりの言葉は新約聖書・旧約聖書のいずれにも見当たらない。その前で“バイブル”と言わず“聖なる記録”と言っているところをみると、古代インドかどこかの聖典の中にあるのであろう。

(3)本節はタイトルどおりスピリチュアリズムの真髄を説いたもので、ほぼ半世紀後に出現したシルバーバーチ霊の教えと完全に付節を合している。これによっても、スピリチュアリズムの名のもとにおける地球浄化のためのさまざまな事業 – 物理的ならびに精神的心霊現象、奇跡的心霊現象、独裁者の失脚と自由思想の発展等々 – が、地上でイエスと呼ばれた霊を最高指揮者とする地球規模の霊団によるものであることが肯(うなず)かれる。その最大の基盤となるのが、本節で説かれている霊的真理である。

インペレーターとシルバーバーチの相違点を強いて指摘すれば、再生(生まれ変り)について双方ともその事実は認めながら、インペレーターは“人間が考えているようなものとは違う”と言うに留まっているのに対し、シルバーバーチは因果律を基本とした魂の向上進化にとって不可欠の要素として、思い切って前面に押し出して説いている点であろう。

「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†■2022年4月27日UP■
「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は、自身の大犯罪を隠し通さなければ本当に逮捕になってしまうため、いつまでもどこまでもウソ洗脳ニュースをメディアに流し続けて国民をダマし続けなければならない。つまり「明仁、文仁、徳仁、悠仁にはウソをつき続けなければならない理由、動機、必要性がある」僕、たきざわ彰人には、これほど長い年月にわたって画家の夢Dreamworkを捨てさせられてブログでウソの内容を書き続けるなどという行為をしなければならない必要性が全くない。そもそも僕の人生の目的は全く別のところにある。「僕にはウソを公言する理由、動機、必要性がない」そんな事しても別に何にもならない…続きを読む→
「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†■2022年5月4日UP■
「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†
僕が本当にこういうヒドイ状況にさせられても全く誰の目も開かないというのか。誰ひとりとして真実に目覚めないというのか。僕の人生がこれだけ破壊されても日本国民の洗脳が1ミリたりとも破られないというのか。物質界はここまで腐りきっているのか。この期に及んでもまだ「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を陛下だの殿下だのと呼び続け笑顔で手を振り続け、奴隷の女の子を強姦殺人する手助けを続けるつもりなのか。「無知ほどこわいものはない」この言葉に帰着します…続きを読む→
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†■2022年8月24日UP■
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†
僕も神に反逆するほどバカではありません。ぜひ皆さまにも「インペレーターの霊訓」をお読み頂きたいですが、霊的知識を獲得しておきながら神の意に反する行いをした者がどういう状態にさせられるかをインペレーター霊が語っておられます。僕はその知識がありますのでそこまでバカな事をするつもりはありません。ただとにかく「物事には限度というモノがある」これを強調して終わりとさせて頂きます。キビシすぎ、苦難、試練を降らせすぎ、僕ひとりに何もかもやらせすぎ、本気でいい加減にしてくれ、という事です…続きを読む→

100%殺されるから行くなと霊団はずっと言い続けてきました、その旨のブログも何度も書き続けてきました。しかしその僕が殺されるところに行け、と意味を受け取れそうな感じの事を言い始めています。なぁーにがどぉぉなってるんだよ。殺されに行けってか。僕の反逆がそういう宜しくない方向に飛び火していると言いたいのか。

アナログ絵379、前半3ページ線画15%完成中、複数作業を同時進行したり節約のためのテストをおこなったりしている関係で進行が遅くなってしまっていますが何とか描いてます。霊団がああなるこうなると言ってその通りになった事が霊性発現以来1度たりともない異常人生をやらされていますので、今日霊団が言ってきた事もスルーしますが、作業時間は増やしたい、それは切実に思っているのです。

全作業を完了させられずに帰幽するのはもちろん悔しいですので(かといって帰幽を遅らせる事もおもしろくない、できるなら今すぐにでも帰幽実行して欲しい)帰幽1秒前までできる限りの作業を続行するつもりでいますが、本当にこの物質界というところは一体何なんだろうとつくづく思うのです。

問題の改善なんて夢のまた夢、洗脳と誤解と堕落と怠惰が大手を振ってのさばっており、さらに悲しい事はほとんどの人間がその悲劇的状況に気付きもしない、何も知らない、霊的な事も何も理解しないまま無知の状態で帰幽して下層界にたむろするばかり。っとと、長くなりますので一旦切りましょう。作業続行中。僕はやる、今できる事を全力でやる、周りは関係ない(祈)†

英文の一部が抜け落ちていて全然別のところに記述されていたりして、それを見つけて元のところに挿入したりしているので恐ろしく時間がかかっています。現在7%終了中といったところ、いつになったら全文UPできるのか、テキスト化を開始して以来最大級の絶望感と言ってイイかも知れません。

先ほど霊団が「導き…(聞き取れなかった)」みたいな事を言ってきましたが、たぶん導きに従えと言っているのでしょう。閉じ込められるのは死んでもイヤですが、この絶望的作業を思うと従うより他にどうしようもないのかも知れないと思ったりもします。導きに従うのがベストルートだという事は分かってますがどうしてもあの場所に閉じ込められるのだけはイヤなんです。

アナログ絵379、380の6ページストーリーですが今回もフラーは登場しませんので描くのは早いです。できるだけ早く描き上げて次の作業に移行しなければなりません。僕としてはどうしても脱出して作業時間を増やしたい。そうすればテキストも撃てる絵も描ける、ムービーも作れる、良い事だらけなのです。

トレイルムービー以来久々に動画編集をやった勢いを止めずに「十戒」DVDの中の霊的シーンをもう少し抜き出してみましょうか。小さな霊的シーンが数個残されていますので。実は以前から「アクションカメラ」の入手を企んでいるのですが、これが僕には数字的ハードルが高くて入手できずにいまして、もし入手できればもちろん山での撮影を再開させるのですが、なかなかそういう風になりません。

使命遂行をやめるつもりは毛頭ない、しかし閉じ込められるのは死んでもガマンできない。イヤでどうしようもないところからは脱出し、その脱出実現によって作業時間を増やして使命遂行を前進させると、僕なりの正当化をしてますが、もちろん霊団は僕の言い分など認めません。やはり僕が望まない状況に強行突入させられるのだろうか。いちばん望まないのはこのまま閉じ込められ続ける事。

ハァァ「感情と手は別レイヤー」ですから作業は何が何でも進めないといけません。今できる事をひとつずつこなしていきましょう(祈)†

■2021年8月4日UP■
「彼らも悪しざまに言われました」シルバーバーチ霊の言葉をタイトルに冠させて頂きました(祈)†
彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲(なげう)ったのでした。彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力が再び地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしてもその潮流をせき止める事はできません…続きを読む→
「どんなに隠しても表に出てくる」真実は絶対隠し通せないという意味です(祈)†■2022年1月5日UP■
「どんなに隠しても表に出てくる」真実は絶対隠し通せないという意味です(祈)†
国民の同情を誘う美しいスローな楽曲がバックに流され、かわいそうな人たちに文仁がやさしく声をかけてその人たちを笑顔にさせる映像が、柔らかい暖色系のフィルターをかけた状態でキラキラと光のモーションエフェクトをちりばめて再生スピードを若干落としたスローペースで流され、文仁にやさしく声をかけてもらった国民(もちろんさくら)が感動の涙を流しながら文仁を賛美するコメントの映像が流され、それを見た皆さまはその洗脳演出にアッサリコロっとダマされて「あぁこの人はイイ人なんだ」などとは死んでも思わないようにして下さい…続きを読む→

[8月26日。私はこれまでの通信を読み返し、そこに象徴されている意味について、あれこれと思いをめぐらした。自分の解釈が字句にこだわりすぎているのだろうかと考えて、この点を霊側に質(ただ)してみた。すると、まだ私の精神状態は通信をするのに相応(ふさわ)しい状態になっていないという返事だった。

このように、交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。気分の転換が必要であることも指摘された。あいにくその日は空模様のうっ陶しい、憂うつな日だった。

私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと、机に向かった。すると、初めのうちは少し書きづらく速度もゆっくりだったが、やがてラクに筆が運ぶようになった。]

大切な日常生活での健康管理

状態はまだ十分とはいえないが、前よりは良好となってきました。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要です。満腹状態の身体が操作しにくいことは前に述べましたが、逆に機能の低下した弱々しい身体もまた、われわれの目的に適さないことをここに指摘しておきます。

飽食と泥酔はもとより感心しませんが、度の過ぎた節制による体力の低下も感心しません。われわれは全てにおいて中庸を説きます。極端な節制も、節度を失った放縦(ほうしょう)も、ともに好ましからぬ結果を招きます。中庸こそ身体機能を自由に働かせ、一方、精神的能力を曇りなく、かつ激することなく自在に発揮させます。

われわれが求めるのは、明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することのない精神と、活力に溢れ、その活力を使いすぎもせず欠乏もしない身体です。

各自がこの思慮分別に基づいて、おのれに課せられた地上の仕事に勤しむ上でよりいっそう適切な身体をそなえ、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えることが大切です。日常生活における習慣はとかく感心しないものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいきます。

われわれは、一般原則としての注意と節制を説く以上のことはしません。当人にとって何がもっとも適切であるかは、当人と深く関わってみなければわからないものです。自分のことは自分で判断して、もっとも適切と思うものを決めることです。

われわれの使命は、もとより魂の宗教を説くことにありますが、その一部として、身体の宗教も説かねばなりません。そなたに、そして全ての人間に宣言しますが、身体の健康管理は魂の成長にとって不可欠の要件です。

魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿っているかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けないよう、これを正しく管理していくことが必須です。

ところが現実には、衣食の選択と日常の生活習慣に賢明な配慮がなされることは、実に稀れです。現在の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものはすべて、真の霊的生活にとっては障害であり妨害となります。

教義に縛られた信仰の弊害

そなたの質問であるが、これまで幾度も述べたように、われわれはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付着した夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なもの、真実でないものは放棄します。古い言説については、イエスがユダヤの律法を扱ったのと同じ扱い方をします。

すなわちイエスは、この字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たな意味、崇高な意味を賦与しました。われわれが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、ならびにラビ(1)的学説を扱ったごとくに扱います。

イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説きました。これはいつの時代にも同じであり、われわれもバイブルの言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておきましょう。

律法の字句にあまり厳格にこだわることは、肝心の精神をおろそかにするのと同じ、というよりは、次第におろそかにさせていくものです。儀文のひとつひとつを几帳面に守る信仰態度は、高慢不遜にして鼻もちならない独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に呑み込まれて、自分は他の連中とは違うのだという特殊意識を抱き、その意識の中で神に感謝するようになります。

われわれが断固たる闘いを挑むのは、こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対してです。人間の勝手な産物である神学に束縛されて生きるよりは、たとえ迷い多くとも、きっと神を見出してみせるとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求める魂にとってどれほど良いか知れません。

神学は神への道を規定してしまいます。その道へ入る狭き門は神学という名のカギがなくては開かないことになっています。それのみではない。神学が神そのものを規定するのです。

かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もない機械的信仰生活へと落ちぶれ果ててまいります。そんな、霊性豊かな宗教の猿真似(パロディ)のようなものよりは、自由な魂の葛藤の方がはるかにましであることを断言します。

確かに、キリスト教の高位高階の者の中にさえ、宗教の深い思想に関しては“出来合い”の信仰教義でなければならない者がいます。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いをめぐらすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味します。

目も眩(くら)む高所に登り、隠された秘密をのぞき込み、曇りない“真理の太陽”の輝きを目(ま)のあたりにすることなど、思いもよりません。

“永遠の真理”の横たわる深い谷間を見下ろす高い峰に登ることは、彼らにはできません。落ちることを恐れて、のぞき込むことができないのです。否、その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのです。

そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通ったより安全な常道を選ぶことになります。その道は両側に高い壁がそそり立ち、その外側は見ることができません。油断なく1歩1歩、転ばぬように、あらゆる起伏を避けつつ進みます。頑強な教会が規定するドグマにすがるのです。

そうするようにと、教会の浅はかな知恵が主教たちを通して説いているのです。疑うことは破滅を意味するのです。思考することは結局は迷いに終るのです。信じることが唯一の安全策なのです。

ゆえに、信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい – そう説くのですが、彼らには、内心では、それが素直に受け入れられません。そんなものが、どうして受け入れられましょう。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解できないのです。ならば、真理を秘納せる奥の院まで、どうして入ることを得ましょう。

先祖からの習慣としての信仰

中にはまた、これが神の真理のすべてである、と教え込まれた古来の神学と相容れない教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばない者もいます。

キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分でした。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得てきました。それは今も昔も変わりません。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音でした。

それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、ぜひとも自分たちが子供たちに譲渡していかねばならないものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいきます。

そうなれば当然、彼らの心はその信仰、それほどの伝統的なつながりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには、目もくれぬことになります。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのです。

その心の中には殉教者の情熱が燃えつづけております。われわれの語りかける言葉は、彼らの耳には届きません。われわれとしても、それほどまで居心地のよい安住の世界にあえて踏み込もうとは思いません。

万一踏み込むとなれば、彼らが作りあげた信仰の殿堂を根底から突き崩さねばならないでしょう。それほどまで大切にされている信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならないことになるでしょう。

彼らにとっての絶対神、型にはまった宗教 – それは幾世紀にもわたっていささかも変わらず、また変わりようもないのですが – これに攻撃をかけ、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し、過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばなりません。

さらに彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うって崇めている、おびただしい量の人間的創作に反省を迫ることになるでしょう。

が、それも所詮は徒労に終ることでしょう。われわれは、そうと知りつつあえて試みるほど愚かではありません。彼らは、地上とは別の世界(死後)において必要な知識を得るほかはありますまい。

世間体(てい)としての信仰

これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考をめぐらさない者もいます。宗教とは名ばかりで、一種の世間体としての意味しか持たない者たちです。

ゆえにその信仰心はきわめて薄く、慣習としての場(教会など)を除いては意識することもありません。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではありません。遠くから見て“それらしく”見えれば、それでいいのです。

こうした人種、およびこれに類する人々は、われわれにとって難敵です。彼らにとっては宗教について思索を強いられること自体が退屈であり迷惑なのです。不愉快きわまる問題であり、慣習により、やむを得ず、軽く体裁(ていさい)をつくろう程度にしか関わろうとしません。人間としての正しい道は牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信じるのみなのです。

ましてや、古い信仰の欠点を指摘され、新しい信仰の美点を説き聞かされることは、彼らにとっては二度手間(でま)であり、有り難迷惑なのです。そのいずれも理解できないのです。

相変わらず古いものにすがり、その中で生き永らえるのみです。今のままで結構なのです。進歩はご免こうむりたいのです。自由など思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にありません。

自由な思索は、彼らにとっては懐疑と不信と無信仰を意味します。そのいずれも有り難からぬものであり、一種の社交上の誤りを犯すことになります。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのです。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑をもって自由を見つめます。

彼らの理想はすべて古き良き時代に大切に仕舞い込まれています。その古き良き時代には、自由だの進歩だのという問題は一切語られていません。ゆえに、それは彼らにとっては邪悪なものであり、避けねばならぬものなのです。

以上の3種の人間にわれわれが一切の関わりをもたないことは、そなたにも明白であることを疑いません。同時にこの中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にも、われわれは関知しません。それがわれわれの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにもわかる時がくるでしょう。たとえ手を出したくても、“出せない”のです。

信仰に恐怖と束縛は禁物

神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件のひとつを犯していること、こうしたことをわれわれは教えんとしているのです。神への道を閉ざし、この門戸にカギをかけ、おのれの説く道へ強要する権利を有する者はひとりもいないと言っているのです。

硬直化した神学、人間が発明した用語で勝手に規定した頑固(かたくな)な信仰、その道から外れた者は神から見放されると説き、一字一句たりとも動かせないという教説 – これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたこうとする魂を引きとめ、地上にクギづけにする拘束物であるということです。

そのような宗教を教え込まれるまま受け入れて自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として、みずから迷い、みずから祈り、みずから思考し、みずから道を切り開くことによって真理の日の出を拝むにいたる方が、よほど立派であることを改めて述べておきます。

その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、また、心を満たしてくれなくてもよい。冷たい風に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく、風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても与えられるのは石ころのごとき古い教説であり、化石のごとき人間的無知の産物でしかない生活よりは、はるかに、はるかによい。

複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴ではあっても、背後霊の直接の働きかけによって自分なりの“大いなる父”たる神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方が、どれほどよいか知れません。

自分に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第1の条件です。これなくしては魂は羽ばたくことができません。そして、これさえあれば必ず進歩します。

イエスが人類最高の模範

このことを、主イエスの生活に示された模範的な生きざまの中に、今少し見てみる必要があります。

霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについては、すでに述べました。幸にして勇気をもって因習から脱け出し、神を求める旅に発った者は、必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代って、われわれが説くところの崇高な霊的信仰へと導かれます。

霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に、霊的意味も含まれているからです。物的傾向の色濃い時代には、この霊的解釈が完全におろそかにされます。

かくして人間は、イエスの教説のまわりに推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁を張りめぐらしました。それは、パリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに張りめぐらした壁と同じです。

こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなります。かくして今やわれわれの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説から導かれた、硬直化した冷ややかな物質偏重の教説です。

われわれの任務は、イエスがユダヤ教のために行なったのと同じことを、そなたたちのキリスト教のために行なうことです。すなわち古い霊的意義を賦与し、新しい生命を吹き込むことです。

排除しようというのではありません。復活させることこそわれわれの望むところなのです。くり返しますが、イエスが地上にもたらした教えの一かけらたりとも、われわれは排除しません。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見えなくなっている霊的な意味を表に出してみせるためです。

われわれはそなたを肉体的支配下の日常生活から少しでも救い出し、そこに浸透している霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めているところです。字句にこだわって非難する者は、われわれの教説の皮相的解釈しかできない人種です。

われわれはそなたを身体中心の生活から引き上げ、肉体を棄てたのちの生活にとって意義のある生き方へ導かんと願っているのです。目下のところ、それにはまだほど遠い状態です。

が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ちあふれる隠れた神秘を見ることができる日も到来するでしょう。それは、今のそなたの精神状態では、われわれも説明することは困難です。

その時節が到来するまでは、何ごとにも霊的な意義が秘められていること、バイブルもその霊的意義にあふれていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵している形而下的な“殻”にすぎないことを知るだけで、よしとしなければなりません。

もしもわれわれがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心は萎(しお)れ、生命を失うでしょう。そこでわれわれとしても、そなたの理解力の届く範囲において、そなたが長いあいだ親しんできた形而下的教説の下に隠れている生きた真相を指摘する程度で満足しなければなりません。

イエスは人間生活の改革者

イエスの使命もそこにありました。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就させることこそ使命であると公言したのです。モーセの戒律の根底にひそむ真理を指摘しました。

パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理埋葬されかかっていた崇高な原理を白日のもとにさらしました。イエスは宗教改革者であると同時に、社会改革者でもあったのです。

その生涯の大事業は、人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面をはぎ取ることであり、暴君から逃れんとしてあがく魂を、その魔手から救い出すことであり、そして神から託された真理の力によって人間を解放することでした。イエスはいみじくもこう述べています –

「私は真理を教えてあげようとしているのです。その真理こそ魂の束縛を解いてくれるのです。そのとき真の意味であなた方は自由の身となるのです」(ヨハネ8・32)(3)

イエスは生と死と永遠の生命について説きました。人間の真の尊厳を説きました。神についての進歩的知識を得る方法を説きました。摂理の偉大な体現者として地上へ降りたのでした。摂理が意図としている真の目的、すなわち人類の霊的改革を身をもって実践する人間のひとりとして地上へ来たのです。

心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして宗教的行為のすべてを唯一の尺度つまり、それがもたらす結果によって価値判断をするよう、民衆に説きました。

常に謙虚に、慈悲心を忘れず、誠実で純心で私心なく、自分に正直であれと説きました。そして、みずからそれを実践してみせたのでした。

イエスは偉大な社会改革者でした。その目的は死後の幸せを説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することでした。

言うなれば、イエスは日常の宗教を説いたのです。より高い真理を求める日々の生活においての、霊性の道徳的向上の必要性を説いたのです。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する – そこにイエスの教えのほぼすべてが要約されています。

イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にありました。そこでイエスは、信仰と政治の双方の自由を説きました。が、その自由とは気ままな自由ではありません。

神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由でした。人間の真の尊厳を示さんとしたのです。摂理の尊厳 – 人間性を束縛から解き放す霊的摂理の偉大さを民衆に知らしめんとしたのです。

身分にはこだわりませんでした。同志も伝道者も、身分の低い貧しい階層の者の中から選びました。そして庶民と共に生きました。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとりました。そして、人間として必須の、しかも彼らに理解できる素朴な教えを説きました。

伝統的信仰と高貴な社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には、滅多に足を運びませんでした。慣習的に教え込まれた信仰から少しでも気高く、少しでも崇高な真理を求めんとする情熱を、庶民の心に湧かしめたのです。そして、その真理を手にする方法をも説いたのでした。

人類にとって真の福音というべきはイエスの福音です。それこそ人間にとって唯一にして必須の真理です。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音です。

われわれはイエスから引き継いで同じ福音を説くものです。イエスを地上へ送った神と同じ神の命令を受け、同じ神の権能と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのです。イエスが説いたのと同じ真理をわれわれも説きます。

人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説きます。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものです。墓場へ葬られてしまった霊的真理を掘り起こし、それが今も生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えてあげたいと願っているのです。

人間の進歩性と、人間への神の絶え間ない関わり、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳な真理を教えてあげたいと願っているのです。

独善的宗教家集団が背負わせた荷は、われわれが風に吹き飛ばさせましょう。魂の生長を妨げ、向上心の足を引っぱるドグマは、われわれが引き裂いて、魂を解き放してあげましょう。

われわれの使命は、人間があまりに歪めすぎた古い教えの真実の姿を継承することです。その源は同一であり、そのたどる道も同じであり、その向かうところもまた同じです。

“イエスの再臨”の真意

[インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化活動は、イエスの命令によるものと理解してよいかとの問いに対して – ]

その通りです。さきにわたしは、わたしの使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入した一柱の霊から授けられ、今なおその指揮下にある、と述べました。イエスは過去に蓄積された誤った信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めるために、天使を召集する計画を用意なさりつつあります。

– 他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“イエスの再来”ということでしょうか。

イエスの再来とは霊的再来のことです。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではありません。使徒を通じて、聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来です。イエス自身もこう述べております – 「聞く耳をもつ者が聞いてくれればよいのです。受け入れる用意のある者が受け入れてくれればよいのです」と。(4)

– こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。

さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを、大勢の人々に知らしめているところです。が、今はこれ以上のことは述べません。神の祝福のあらんことを。

†インペレータ

[注釈]

(1)ユダヤの律法学者。空理空論を振り回す人の意味にも用いる。

(2)コリント第2・3・6巻第11節参照。

(3)バイブルにくわしい方はすぐにお気づきと思うが、このヨハネ伝によると、最後の「そのとき…」の前に弟子たちの質問があって、それに答えた形となっている。が、インペレーターの引用文にはそれがなく、シルバーバーチも同様であることから、私はイエスは実際は一気にそうしゃべったのではないかと考えている。それを筆録者が加筆したのであろう。

また私の訳文がバイブルの文章とかなり違うこともお気づきであろう。が、その前後の文脈から考えて、私はイエスはそういう意味で語ったはずだと確信した上で、そう訳した。これが言わば、イエスの教えのエッセンスなのである。

(4)これもバイブルでは2つに分かれていて、前文がマタイ11・35、後文が同19・12に出ているが、原文ではひとつにまとめられている。便宜上そうしたにすぎないのかも知れないが…。

「とんでもない悲劇が」まだ試練を浴びせ足りないのか、地球圏霊界を脱出したい(祈)†■2024年6月12日UP■
「とんでもない悲劇が」まだ試練を浴びせ足りないのか、地球圏霊界を脱出したい(祈)†
どうもこのプレアデスの男性と霊団の動きが似ているような気がしてならない。これは霊界上層界の、守護を命じられた人間(霊)を進歩向上させるための厳格なルールみたいなものがあって、それを順守しているのでプレアデスの男性と僕の霊団の動きが似てくるのではないか、なんて思ってみたりみなかったり。で、エレナさんはその邪悪の宇宙人どもに「脳内にチップを埋め込まれている」そうですが、それを取り除くシーンも紹介されていて、そこでプレアデスの男性と女性クルーとの間でバトルがあって、結局チップを取り除かずエレナさんの脳内に残したのです。これもおかしいだろう、取ってやれよ。たぶんですが、霊格が高まった方々にとっては肉体に起こる出来事など「ホンの一瞬の過ぎ去っていく出来事」であり、エレナさんの脳内にチップが残されているか取り除くかが問題なのではなく、エレナさんが物質界人生で学ぶべき事をしっかり学びきる事をプレアデスの男性は優先してわざと取り除かなかったのではないか、なんて思ってみたりみなかったり。肉体などというモノは自動的に脱ぎ捨てるものであり、現在の肉体のエレナさんの姿がその女性本来の姿ではない、エレナさん本来の外郭(霊体?)はプレアデスに保管してあって、地球圏での仕事が終わったらエレナさんはその衣服に着替えて、肉体に埋め込まれたチップともども脱ぎ捨てて、そんな低次元のモノとはすっかり縁が切れるのだから、それよりも経験を積ませる事を男性は優先させたのではないか…続きを読む→
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†■2024年5月22日UP■
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†
実は何もやる気がないのではないか。この12年の霊団の動きを見ればおのずとそういう回答が導き出されるのではないか。僕は霊団の事を「口だけ霊団」と公言していますが、この言葉は実は大正解なのではないか。本当にこの霊団とか名乗っている奴らは最後まで口だけピーチクパーチク動かして何もやらずにボケっと見てるだけで終わらせるつもりなんじゃないのか。要するに「アキトくんの場合はインスピレーションで事足りているのでわざわざ低次元の霊媒現象をやらなくても我々の目的をだいたいにおいて達成している」という事なのかも知れません。インスピレーションが霊界側にとってもっとも自然な交信方法という事は霊的知識をお勉強して頂ければ分かります。霊媒現象というのは霊力に感応しない物質界の人間に霊的な事を理解させるために霊界側が物的次元まで波長を下げる犠牲的仕事ですが、物質界の人間がインスピレーションを受け取れるようになってくれれば、そしてさらにそのインスピレーションによる導きに従ってくれれば、霊界側はその犠牲的仕事をせずに済み、思念の送信だけで目的達成できますからこんな簡単な事はない、という事になります…続きを読む→
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→

霊団は全力で僕を現状の最悪に閉じ込めようとしていますが、僕を移動させるかのような事を言ってきてます。今までのかたくなな姿勢はどこに行ったんだ(僕の方がよほどかたくなな姿勢、導きに従えない分からず屋という事になるのですが…)イヤこれはおかしい、まぁた口だけピーチクパーチク言ってきてると考えるのが無難、実際は何もなくただ現状が続くのでしょう。

で、僕としては現状に閉じ込められるのがどうしても耐えられないという理由ももちろんありますが「作業時間を増やす」という使命遂行前進につながる目的も込めて脱出を実現させるつもりでいます。作業時間が増えればアレもできるコレもできる、間違いなく使命遂行を前進させる事ができるのです。反逆と言われるのは心外で、僕は何としてもやってやると思っているのです。

霊団が言ってきているのは僕が脱出しようとしているのとはまた別のところに僕を移動させるというお話で、これは長文ブログで何度も書いてきた事ですが詳細はなかなか話すのがムズカシイ内容でもあります。ま、そんな事になりやしませんので脱出に向けた作業を続行させます。

もし作業時間を増やす事ができて書籍のテキスト化が順調に進んだとしましょう。そうなれば今度は書籍の「ムービー化」もできるようになります。霊的知識普及に間違いなくプラスになるじゃないですか。脱出の何がいけないんですか、と僕は思う訳ですが霊団はそうは思っていないという事になります。

しかしインペレーター霊の言葉「小知を働かせてはならぬ」の言葉が思い出されて心に突き刺さりますが。導きに従う事がもちろんベストストーリーとなります、それは僕も分かってるんです。

まずは眼前の作業に集中中、それしかどうしようもないからです。「Spiritual Unfoldment Four」明日にはスキャン& OCR変換完了見込み。導きに従い切れないとしても僕レベルでできる限りの事をやる(祈)†

「オーバーステップ」霊界側の当初の予定から逸脱しているという事のようなのですが(祈)†■2024年8月14日UP■
「オーバーステップ」霊界側の当初の予定から逸脱しているという事のようなのですが(祈)†
要するに「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡に到達しかねないところまでオーバーステップしているという意味ももちろん含まれているでしょう。到達すればイイじゃネィか、それが目的で僕の霊的スイッチをONにしたんじゃネィのかよ。僕がどれだけ霊団の導きの方向性をイヤがっているか皆さまにご理解頂けるでしょうか。僕は反逆のペナルティで帰幽後にヒドイ状況に、イヤ物質界生活中の現在ですでにペナルティは発動しており、僕は徹底的に自分の心と正反対の状況に閉じ込められていますが、霊団は僕にはペナルティを課すが「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁には指1本触れようともしないこの宇宙最大級の理不尽。この状況を納得できる日はもう永遠に来ないでしょう。そんなに邪悪を守り通したいのか。地球圏霊界とは正しいおこないをする人間より邪悪の人間を守り通すというのか。ほぉー、これは何とも美しい世界だ、あこがれる、ぜひ住んでみたい。あー地球圏に生まれてよかったなぁ。正しいおこないをすればするほど苦しい状態にさせられ、邪悪なおこないをすればするほど守られる。本当に物質界なんて必要ネィんじゃネィのかと、かなり本気でそう思うに至っています…続きを読む→
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†■2024年7月24日UP■
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†
その男性が失われた良書を復活させようとしている事をシルバーバーチ霊が「真一文字に突き進みなさい」と言って鼓舞しているシーンがあります。僕はこのシルバーバーチ霊の「真一文字に突き進みなさい」の言葉が大好きで、画家時代から人生の指針としていたほどです。で、続いてシルバーバーチ霊が秘書の女性に話しかけ始めますが、ココで評価が一変します。シルバーバーチ霊はこの秘書の女性を「黄金の心を持つ女性」と言ってベタ褒めします。女性は赤面して「私は無力な人間です」と言いますがシルバーバーチ霊はこの女性をココぞとばかりに褒め続けます。この秘書の女性は出版業の男性を影で支えているのみで、実際の作業は男性がやっているのですが、霊界側では女性の方がこのように評価されるのです。これは物的成果を見ているのではなく“心の持ちよう”を見ているからこうなるのではないかと僕は思ったりするのです。つまりこの秘書の女性には私利私欲、自己主張のようなものが全然心の中になかった、献身的姿勢を貫いていたのではないか、それをシルバーバーチ霊が読み取っていたからベタ褒めしたのではないかと僕は予測するのです…続きを読む→

今できる事をやる、絵も描く、書籍テキスト化もやる、止まった先に何があるって言うんだ、動くしかないんだ。まずはアナログ絵379、380の6ページストーリーを描き上げましょう。そしてずっと御無沙汰になっていたフラーの新規デザインをぜひ復活させたい。

皆さまはもしかしたら「フラーはもうイイからトレイルムービーを復活させてくれ」と思っておられるかも知れません。僕ももちろんそうできるならしたいのですが、生活が変わって作業時間が増えないと、チョト今のままではムズカシイです。霊団は反対するでしょうが脱出を実行して作業時間を増やすつもりでいます。もっとも脱出できる可能性が極めて低いのが難点ですが…。

本当に猛烈に節約をおこなっています。何としてもある脱出アイデアを実行するためにここまで節約しまくっているのです。自分でもビックリするくらいあらゆる部分に切り込んで節約しています。やればココまでできるんだという事が逆に分かりました。さらに続行しましょう。

「Spiritual Unfoldment Four」スキャン& OCR変換続行中。英語書籍の翻訳は本当に地獄ですが近藤千雄先生の日本語書籍もまだテキスト化完了させていないモノが恐ろしいほど殺人的に残されていますので、そちらも順次やらねばなりません。作業時間を増やしたい。脱出の何がいけないって言うんだ使命遂行を前進させようとしてるんじゃないか、と僕は言いたいのです(祈)†

「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†■2024年8月29日UP■
「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†
やはり「海割り」のシーンは何度見ても爽快ですね。この紀元前12世紀のモーセ氏が僕の「100の光の霊団」に協力して下さっているなどという事がどうして信じられるでしょう。霊団にそのような事を言われてもまるで絵空事のように聞こえます。よほど強烈な霊現象か何かでもこの眼で見ない限りそんな事は信じられるはずもありません。しかし霊団は「私を信じて欲しい」と言ってきてます。このインスピレーションがモーセ氏の思念という根拠はどこにもありませんので、まずは静観しておきましょう。これまでの霊団の動きからして、何もなく素通りしていくに決まってますので。ひとつたりとも言った通りになった事がありませんからね。しかし久々にムービーの作業をやってみて、やはりムービーは大事だなぁと改めて思ったりもします。僕はYouTubeにムービーをUPしても100%消されますから「消されると分かっているモノに対してパワーはかけられない」という気持ちが働いてトレイルムービーを作り続けられなくなったという経緯がありますが、このようにWordPress上にUPする事も一応できます…続きを見る→
■アナログ絵378、ストーリー後半UP。宇宙関連で意見を述べさせて頂きました(祈)†■2024年8月1日UP■
■アナログ絵378、ストーリー後半UP。宇宙関連で意見を述べさせて頂きました(祈)†
僕「子供たちでモミクチャだからごあいさつはできそうもないね」香世子さん「クス♪」僕「アリ?フェアリーとお友達なんですか?」エゴンの女性「今回の私たちのクレス訪問の本当の目的は、ステラに会う事でした」僕「ステラ?」フェアリー「アキトさん、わたしです♪」僕「え゙っ!?」フェアリーがしゃべった??フェアリーから輝くステラが現れる 僕「あ、あなたがフェアリーの本体ですか?」フェアリー「あなたがた地球人がフラーという、花をモチーフとした乗り物を設計し始めた当初から、私たちはその開発に影ながら関わってきました」フェアリー「今や機種も増え、あなたをはじめ多くのクルーがフラーの事を好きになってくれているのを見て、私たちは大変満足しています」フェアリー「あなたと宇宙を飛ぶのはとても楽しいです♪まだ当分クレスにお世話になるつもりですので、アキトさん、今後ともよろしくね♪」僕「は、はるばるどうも…」フェアリーにはいつもお世話になっております 香世子さん「……」フェアリー「…ね♪」男性「…ニヤリ♪」女性「…ニコニコ♪」……イエス様「お久しぶりです♪」ヨハネ氏もいる男性「こ…このようなところにいらっしゃるのですか?」女性「お会いできて光栄ですわ♪」…続きを読む→

[思うに、私がこうして執拗に反抗しているのを、私の知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし、私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明する以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。

私はどうしても得心がいかないし、得心できないままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、2日後(1873年7月14日)に、その中でどうしても受け入れられない点について反論した。それは次の3点だった。

(1)インペレーターの地上時代の身元
(2)イエス・キリストの本質と使命
(3)通信の内容の真実性を示す証拠

私は以上の3点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を私の方から指定しようと思うがどうか、と述べた。同時に、これまでの通信の内容について幾つか反論したが、それは今ここで取りあげるほどのものではない。

とにかく私はその時点での私の確信を有りのままに表明したが、今にして思えば、私の反論は不十分な知識の上でなされていたことがわかる。それはその後順次解決されていき、解決されていないものも、やがて解決されるであろうとの確信がもてるようになった。

そうは言っても、当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚(きたん)なくその不満を打ち開けた。以下がそれに対する回答である – ]

人間的視野と霊的視野

友よ、そなたの述べることに率直さと明快さとがうかがえて喜ばしく思います。もっとも、そなたは、われわれの述べることにそれが欠けていると非難しておられるが…。

(われわれの身元についての)そなたの要求については、そう要求する心境はわからないわけではないが、それに応じるわけにはいかないし、たとえ応じても何の益にもなりません。

申し添えますが、そなたの要求のすべてにすぐに応じないからといって、われわれの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してありません。

われわれとしても、そなたの心に確信を植えつけたいと切に願っているのです。が、そうするためには、われわれの側にもその時期と手段とに条件があるのです。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われわれにとってこの上なく残念なことであり、遺憾に思います。そなたにとっても、われわれにとっても残念なことです。

が、結果としてこうなった以上は、致し方ないでしょう。われらとて全能ではありません。これまでどおりの論議と証言の過程による以外に対処する手段はありません。

その論議も証言も、今のところそなたの心に得心がいかぬとみえます。ということは、そなたにそれを受け入れる備えができていないということとみて、われわれは、それが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐づよく待つとしましょう。

そなたが提出した疑問については、そのほとんどに回答の必要を認めません。現時点で必要とみたものについては、すでに回答を与えてあるからです。すでに回答を与えてあるものについて改めて述べても、意義があるとは思えません。単なる見解の相違にすぎない問題について深入りするのは無意味でしょう。

われわれの述べたところが、これまでのわれわれの言動に照らしてみて果たして一致するか否かといったことは、些細(ささい)な問題です。そなたの今の心境は、そうした問題について冷静な判断を下せる状態ではありません。

また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれわれの言うとおりのものとなるか、それともそなたが主張するようなものとなるかは、こ
れ又どうでもよい問題です。

われわれはその問題について一段と高い視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところです。そなたの視野は限られており、それに較べてわれわれは、はるかに広い視野のもとに眺めています。

また、そなたがわれわれの教えをキリスト教の論理的展開のひとつとみるか否かも、取るに足らぬ問題です。その道徳的崇高性はそなたも認めております。その論理的根拠については、今ここで論じる必要を認めません。

そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ、感謝の念をもって人類に受け入れられていく教えなのです。そなたがわれわれの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく教えです。

われわれとしては、そなたのことを、良い霊媒を得たと喜んでいました。そして今もそう思っております。何となれば、そなたの今の混乱する心境は一過性のものにすぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことでしょう。

が、不幸にしてそうならずに、そなたの選択が失敗だったことになれば、われわれは再び神の命令を仰ぎ、われわれに託された使命達成のために、新たなる手段を見出さねばならないことになります。

もっとも、霊媒はわれわれの究極の目的にとって絶対不可欠というものでもありません。(1)が、使用する以上は良い霊媒であることが望ましいにきまっています。われわれがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなたが、そなた自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを拒否する態度に出ていることです。

が、それもわれわれの手の及ぶところではありません。自由意志による判断に基づいて、そなたがあくまでも拒否するというのであれば、われわれとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれわれが提供したものを受け入れる用意がなかったことを残念に思うほかはありません。

霊の身元の証明は無益

われわれの身元についてですが、そなたが要求するような押しつけがましい方法で証明せんとすることは無益、というよりは、いたずらに混迷を大きくするのみでしょう。そのような試みは失敗に終ります。そして絶対的確信を得ることはできないでしょう。

間接的証拠ならば折々に提供していくこともできないわけではありません。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではありません。われわれとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことでしょう。

が、われわれの教説は、もっと堅固(けんご)なものを基盤としなければなりません。そのような実体のない基盤(2)の上に成り立つものではありません。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れないでしょう。

われわれは、あくまでも精神的基盤の上に訴えます。地上的なものでは一時的で、およそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておきます。

とは言え、今のそなたの精神状態は、得心のいく証拠を要求できる状態ではありません。われわれは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかでしょう。もしもわれわれが、みずから公言しているごとく神の味方であるとすれば、そなたが言うような、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説を、わざわざでっち上げるはずはないでしょう。

一方、もしもわれわれが、そなたが思いたがるように悪魔の手先であるとすれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのはなぜか、みずから問い直してみられるがよろしい。われわれとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思いません。

これまでわれわれが述べてきたところを正しく吟味・検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ありません。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではありません。

メッセンジャーよりメッセージの方が大切

われわれ自身のことはどうでもよいことです。大事なのは神の仕事であり、神の真理です。今のそなたにとっても、未来のそなたにとっても、大切なのはメッセージそのものです。そのことを時間を掛けてじっくり考え、とくと反省されたい。

どうやら、そなたを中心として得られた啓示の顕(あらわ)れ方がいささか急激にすぎ、そなたの目を眩(くら)ませたようです。言いたいことも多々あることでしょうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考していただきたい。われわれも暫(しば)し身を引き、そなたにその沈思黙考のための余裕を与えたいと思います。

と言うことは、そなたひとりを置き去りにするということではありません。よりいっそうの警戒心をもつ複数の守護霊と、より経験豊かな複数の指導の霊がそばに待機することになりましょう。その方が、われわれにとっても得策であるように思えます。

事がこうなってしまった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきか否か、それとも、これまでの努力が無益であったと見なして改めて初めからやり直すべきか否かを“時”が判断してくれるかも知れないからです。

いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注した仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しい失望であることには相違ないでしょう。しかし、われわれもそなたも、あくまで内に宿された道義の光に照らして行動せねばなりません。

これまでの経緯(いきさつ)に関するかぎり、責任はすべてわれわれの側にあります。ゆえに、われわれは問題を解決すべく何らかの手を打たねばなりません。これまでよりさらに多くの祈りを、いっそうの熱意を込めてそなたに送ることにしましょう。きっと効果があるであろうことを確信します。

では、これにて失礼します。神の加護と導きのあらんことを。

†インペレーター

他の霊媒を通じての身元の確認の失敗

[このあと私は数回にわたって通信を試みた。また初めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして、私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、できるかぎりのことを試みてみた。が、無駄だった。

得られた情報は、私についている霊は Zoud と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると(インペレーターとは別の霊が)その霊媒の述べたことは間違いであると断言してから、こう綴った – ]

われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められません。信頼が置けないからです。忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信の置けない通信を受け取り、事態をますます混乱させることになります。

[この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば、わたしの合理的要求を満たすことは容易にできたはずだと述べた。すると同じ霊が – ]

それは違います。われわれの側としても、満足を与えてあげたい気持は山々です。が、あの会場への出現は頭(チーフ)(インペレーター)から止められたのです。しかも、われわれはあなたの出席は阻止できなかったのです。

あのような体験は今のあなたには毒になるだけです。禍いを招くことにしかならないので、今後は一切あのような招霊会には出席せぬよう、厳重に忠告しておきます。

今あなたにとって必要なのは“耐えること”です。性急に無理じいすることは、いたずらに迷惑と困惑をわれわれに与えるのみです。それよりも、静かに心を休め、待つことの方がはるかによろしい。すべてチーフが良きに計らってくださいます。早まった行動は誤りのもとです。

[しかし(と私は反抗的に述べた)、あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何ひとつ応じられないというのですか。]

友よ、そなたが要求するような数学的ともいうべき正確な証拠は、得ようとしても、所詮、無理です。われわれとしても、そなたが求める通りのものを授けることはできません。たとえできたとしても、それがそなたにとって益になるとは思えません。すべては、われわれの側で良きに計らってあります。

[これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信をいったん中止した。そして7月24日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。そのひとつは例の「私と父はひとつである(3)」という有名な文句に言及したものだった。

以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた – ]

“私と父はひとつである”の真意

そなたが引用した文句は前後の脈絡の中において理解しなければなりません。その時イエスは、エルサレムでハヌカー祭(4)に出席していました。その折、そこに集まった民衆が“もしもあなたがキリストだと言うのであれば、その明確な証(あかし)を見せてほしい”とイエスに迫ったのです。

彼らは今のそなたと同様に、疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのです。そこでイエスは、われわれと同じく、自分が説く教えと、その教えによってもたらされるものの中に神のしるしを見てほしいと述べました。

同時に、それを理解するだけの備えのある者 – イエスのいう“父のひつじたち” – は、その教えの中に父の声を聞き、それに答えたのと同じことであると述べました。

が、質問者たちはそのような回答を受け入れることができなかった。なぜなら、彼らにはイエスの言っていることが理解できず、信じる心の準備ができていなかったからです。備えのある者はイエスの言葉にしたがって永遠の生命と進歩と生き甲斐を得ました。

それが神の意図するところであり、それを妨げることは誰にもできません。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類のすべてに新たな息吹きを吹き込んだのです。すなわち、父なる神と、その真理の教師であるイエスとが一体となった – 「私と父はひとつである。」

イエスはそう述べたのです。が、ユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして、非難のつぶてを投げつけました。しかし、イエスの弁明は正しかったのです。どう正しかったか。おのれの神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのです。

同じことがこのわたしにも弁明できるかとおっしゃるか?(6)それはできません。が、その心に陰日向(ひなた)のひとかけらもないイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した – 自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのか、と。

非難者たちは答えました。奇跡のことを非難しているのではない。完全なる神と一体であるなどと公言するその傲慢(ごうまん)不遜の態度を非難するのである、と。

そう言われたイエスは、これを無視して取り合わなかった。なぜか。バイブルにもあるように、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからです。

ならば、イエスほどの特殊な使命を背負った人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれが不遜な言葉と言えるでしょうか。疑うのなら、私の為せる業(わざ)を見よ、とも言っております。そこには、自分こそ神であるなどという意味はひとかけらもありません。むしろその逆です。

モーゼス、旅に出る

[翌25日、私が霊媒となって交霊会を開き、インペレーターがしゃべった。(7)がこれといって私の精神状態に触れたものは出ていなかった。他の列席者は私の抱える事情にはまったく関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出して、それなりの解決を得た。

その間、私の意識は休止状態なので、霊言そのものには影響はなかった。そのあと、最近他界したばかりの知人が出て、私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

それから夏休暇(8)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味ぶかい通信を得たが、私の1番の悩みを解決するものではなかった。

アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして8月24日にインペレーターからの別の通信を受け取った。

これは披露しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私のかねてからの要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にならぬという警告を受けた。

その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えず、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。]

モーゼスの焦る心を諭(さと)す

これまでたどってきた道をよく振り返ってみることです。われわれに許された範囲でそなたのために尽くしてきた、もろもろのことを細かく吟味し直すことです。その上で今そなたが目の前にしているものの価値をくり返し検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われの言説の崇高性に着目してもらいたい。

われわれは、そなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めるつもりはありません。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ません。ただ、そなたの性急な性格があまりに結論を焦りすぎることを注意しているのです。精神的に混乱するのもそのせいです。何かと面倒が生じるのもそのせいです。

それを咎めているのではありません。われわれが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私な判断は下せないということです。その性急な態度を和らげ、結論を焦る気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われわれの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ、そなたはあまりに破壊的すぎます。

さらに友よ、そなたが抱いている疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われわれの今後の進展にとっても障害となることを忘れないでほしい。これまでも大いに障害となり、手控えざるをえないこともよくありました。が、それは、事の性質上やむをえなかったといえるでしょう。

が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。しばしの休息と隔離のあと、ぜひそうなってくれることを期待しています。

われわれが出る交霊会も、出席者が和気あいあいの精神に満ちていることが何より大切です。湧き出る疑念は、旅人を迷わせるモヤと同じく、われわれの行く手を阻みます。モヤの中では仕事はできません。ぜひとも取り除かねばなりません。

先入観を棄てて素直に過去を点検すれば、きっきっと取り除かれるであろうことを信じて疑いません。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅することでしょう。そして眼前に広がる新たな視野に驚くことでしょう。

ムキにならぬことです。そなたにとって目新しく聞き慣れないものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめていただきたい。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらば取りあえずそれは脇へ置き、もう1歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にしてまっ正直な心には、時が至ればすべてが叶えられます。

今のそなたにとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達します。ともかく、そなたの知らない新しい真理、これから学ばねばならない真理、改めねばならない古い誤りが、まだまだ幾らでも存在するという事実を忘れないことです。待つことです。そして、祈ることです。

†インペレーター

[注釈]

(1)1848年の“ハイズビル事件”を契機として始まった地上の霊的浄化運動、いわゆるスピリチュアリズムは、高級界からの霊力を地上に根づかせるための本格的な働きかけであると言われ、それが“究極の目的”であるが、たとえばシルバーバーチにとってはバーバネルの霊言能力を利用して平易な霊的真理を説くことが当面の目的であったように、インペレーターにとっては、モーゼスという一牧師の自動書記能力を利用して、キリスト教の誤りを指摘することによって正しい霊的真理を説くことが、直接の目的だった。

こうした霊言能力や自動書記能力は、最近はやりの超能力と同じく、人間の目には不思議に映るのでいかにも凄そうに思えるが、インペレーターもシルバーバーチも口を揃えて、こうした手段に出なければならないのは本当は地上人類がまだまだ霊的に未熟だからで、最高の指導は霊と霊との直接の感応、いわゆる以心伝心、テレパシー、ないしインスピレーションであると述べている。私はそれができる人物を“霊覚者”と呼んで、“霊能者”と区別している。

(2)地上の人物にとっては、霊が地上時代の氏名を明かし、その人物らしい内容の思想を述べ、その時代の歴史的事実を知っていたりすると、もうそれだけで、まさしくその人物と思いたくなるが、霊は名のろうと思えば何とでも名のれること、その人物に関する歴史的事実はまったく当てにならないこと、立派な霊ほど地上時代の自分が恥ずかしいほどつまらなく思えるものであること、歴史上の人物や神話・伝説上の神々や英雄の名をかたってそれらしくしゃべるのを得意とする低級霊のモノマネ集団がいること、こうした理由から、高級霊ほど地上時代の身元は絶対といってよいほど明かさない。

(3)ヨハネ福音書 10・30

(4)Hanukah 古代シリアのアンチオコス4世によって奪われたエルサレムの神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。

(5)the Christ 現在ではイエスの姓のような使われ方をしているが、もともとはメシヤ、いわゆる“救い主”の意味で、のちのイエスの“しるしと不思議”つまり奇跡的現象や病気治療のすごさを見て、この人こそユダヤの救い主だということで Jesus the Christ“救い主イエス”と呼んだ。それがいつしかイエス・キリストという固有名詞になっていった。

(6)この質問はモーゼスが書いたのではなく、モーゼスの心に湧いて出た疑問を読み取ったもの。

(7)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。

(8)当時モーゼスは学校の教師だった。

「いま目の前にある観念と混同してはいけません」霊的視点で物事を見ろという事です(祈)†■2024年5月1日UP■
「いま目の前にある観念と混同してはいけません」霊的視点で物事を見ろという事です(祈)†
そしてイエス様ですが、実の母を含めた家族全員からつまはじきにされ、ついにエルサレムにひとりで出稼ぎに出される寸前まで行きますが、そこでヘリが3年後にやってくるという約束を前倒しして2年でイエス様のもとにやってきて間一髪のところで助けてくれます。少年イエス様は家族から完全に離れてヘリとともに砂漠の流浪民族のもとに赴き、そこで成人します。このヘリとの生活の中で心霊治療能力等の霊能が完全の域を極めていきます。幼少期から成人するまでひたすら苦難、嫉妬、迫害の連続という事です。僕は霊能とは全く関係ない漫画家の人生を何の迷いもなく選び、そこから挫折と苦悩が始まりますが、僕が漫画界で味わった苦しみなどはイエス様が幼少期から受け続けた苦悩の1万分の1にも満たないでしょう。そして成人してからのイエス様は行く先々で病人を治しまくって「メシヤだ」と噂されて大騒ぎになりますが、慕ってくる人も多かったですが敵も多く、最後は皆さまご存じの通り嫉妬に駆られたバカども(律法学者、ローマの権力者等)によって磔刑(はりつけ)にされて殺されます…続きを読む→
「進化とはなかよしの事」深いインスピレーションですが僕には耳が痛いですね(祈)†■2023年10月18日UP■
「進化とはなかよしの事」深いインスピレーションですが僕には耳が痛いですね(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体の情報拡散だけは徹底的に僕にやらせて、僕の次の世代の使命遂行者が仕事をやりやすいように畑だけは耕しておくが、滅ぼす事は僕の代ではやらない。霊団はタダ僕にその苦しいタネ蒔きを続けさせて霊的に向上させて帰幽させる事だけを考えていたのではないか。交霊会やるやるとずっと言い続けてまるっきりやろうともしない、サークルメンバー問題も全く解決させようともせず交霊会をおこなう環境など全然整っていないのに、ただ口だけ延々とやるやる言い続けてくる。これもどう考えてもおかしい。バーバネル氏が支配霊というのもおかしい。物質界生活中に僕にできるだけ霊的知識を獲得させておくために交霊会交霊会言い続けてお勉強させるのが真の目的だったのではないか。つまり僕の仕事の本当の舞台は霊界であって、帰幽後にイエス様(さすがに直で仕事を賜る事はないと思いますが間接的にはあるかも知れません)から言いつけられる仕事をおこなう事の出来る霊的知識および霊格を物質界生活中に身につけさせるためにムチャクチャな試練を浴びせられているという事なのではないか…続きを読む→
「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†■2023年12月13日UP■
「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†
私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち – その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。全能の父なる神の祝福のあらんことを…続きを読む→

■モーセ「海割り」

■モーセ「十戒を授かる」

まぁどうしようかなぁとは思ったのですが、せっかくDVD入手したんですからキャプるくらいはやっといたほうがイインジャネ?という事でトレイルムービー以来久々に動画の作業をやりました。だいぶ忘れてるところがあったのでかなり苦戦しましたがようやくUPできました。

全4時間の中で主な霊的シーンはこのふたつだと思いますが、願わくはもっと霊的シーンてんこ盛りのストーリーにして欲しかった。しかしこのDVDはエンタテイメント作品ではないと考えるべきでしょうから、仕方ないと思うしかないでしょう。コチラで感想を述べたりしています↓

■2024年8月22日UP
「十戒」DVD観終わりました。フラストレーションの4時間、正直に感想を述べさせて頂きます(祈)†
wp.me/pa9cvW-8Kg

やはり「海割り」のシーンは何度見ても爽快ですね。この紀元前12世紀のモーセ氏が僕の「100の光の霊団」に協力して下さっているなどという事がどうして信じられるでしょう。霊団にそのような事を言われてもまるで絵空事のように聞こえます。よほど強烈な霊現象か何かでもこの眼で見ない限りそんな事は信じられるはずもありません。

しかし霊団は「私を信じて欲しい」と言ってきてます。このインスピレーションがモーセ氏の思念という根拠はどこにもありませんので、まずは静観しておきましょう。これまでの霊団の動きからして、何もなく素通りしていくに決まってますので。ひとつたりとも言った通りになった事がありませんからね。

しかし久々にムービーの作業をやってみて、やはりムービーは大事だなぁと改めて思ったりもします。僕はYouTubeにムービーをUPしても100%消されますから「消されると分かっているモノに対してパワーはかけられない」という気持ちが働いてトレイルムービーを作り続けられなくなったという経緯がありますが、このようにWordPress上にUPする事も一応できます。

YouTubeと違って多くの方にご覧頂く事はできないでしょうがムービー制作を続行する意義はあるかも知れません。が「長文テキスト撃ち」「アナログ絵描画」「ムービー制作」この3つのコンテンツを同時進行させる事は事実上不可能で、生活が根本的に変わって作業時間が増えでもしない限りトレイルムービーのように毎週ムービーをUPするというのはできそうもありません。あの時も地獄でしたからね。

さぁもう僕の予測では僕の物質界生活中に何も起こる事なくこのまま最悪のみをやらされて死ぬ事になる、何ひとつ成果らしきものを達成する事もなく死んでいくものと思われますが、この物質界に2度と戻ってこなくて済むようにする事を第1目標に据えるべきかも知れませんので、作業だけは何が何でも続行させましょう。

本当に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅ぼすつもりが全くない、奴隷の女の子を助けるつもりが全くない霊団が許せない気持ちでイッパイです。僕は一体何のために画家の人生を捨ててココまでやってきたというのか(祈)†
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†■2024年8月28日UP■
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†
僕たち人間は本体が霊で、その霊が肉体、幽体、霊体等の表現媒体をまとって自己表現をしていますが、この「霊」さえも【神】の生命表現のひとつでしかなく、この霊の先にさらに何かあるそうなのです。それは完全に次元が異なる問題ですので物的言語などでは全く説明不可能であり、どの霊関連書籍にも「霊の先にあるモノ」については一切叙述がありません。通信霊自体がその事を知らないからだそうです。例えばレッドインディアン、シルバーバーチ霊を霊界の霊媒として霊言を語っておられた3000年前に物質界人生を送っておられた高級霊(僕はこの方がエリヤ氏だと思っているのですが)この方は間もなく地球圏を脱出する寸前まで霊的に進歩しておられるそうですが、たぶんその先に「霊を超えた何か」が待ち受けているのではないでしょうか。僕は「地球圏霊界を脱出する」と公言していますが、エリヤ氏でさえ3000年経過してまだ脱出に至っていないのですから、反逆まみれのお子ちゃまの僕が地球圏を脱出して霊を超えたモノを理解するようになるのは1億年、100億年先となるでしょう。まさに「身の程を知らない恥さらし発言」という事になるのです…続きを読む→
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†■2024年7月24日UP■
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†
その男性が失われた良書を復活させようとしている事をシルバーバーチ霊が「真一文字に突き進みなさい」と言って鼓舞しているシーンがあります。僕はこのシルバーバーチ霊の「真一文字に突き進みなさい」の言葉が大好きで、画家時代から人生の指針としていたほどです。で、続いてシルバーバーチ霊が秘書の女性に話しかけ始めますが、ココで評価が一変します。シルバーバーチ霊はこの秘書の女性を「黄金の心を持つ女性」と言ってベタ褒めします。女性は赤面して「私は無力な人間です」と言いますがシルバーバーチ霊はこの女性をココぞとばかりに褒め続けます。この秘書の女性は出版業の男性を影で支えているのみで、実際の作業は男性がやっているのですが、霊界側では女性の方がこのように評価されるのです。これは物的成果を見ているのではなく“心の持ちよう”を見ているからこうなるのではないかと僕は思ったりするのです。つまりこの秘書の女性には私利私欲、自己主張のようなものが全然心の中になかった、献身的姿勢を貫いていたのではないか、それをシルバーバーチ霊が読み取っていたからベタ褒めしたのではないかと僕は予測するのです…続きを読む→

要するに霊団の言う通り現状に閉じ込められていればかわいそうにはならない、その導きに従わなければかわいそうになるという事のようです。ヒドイ、ヒドすぎる、本人がこれほど心の底からイヤがっているのにそこまで脅してまで閉じ込めようとしてくる。この使命遂行は完全に失敗だったと言い切っていいのではないでしょうか。

前から何度も書いている通り、失敗なら失敗で「責任問題」が出てくると思うのですが、僕の人生をここまで完全にブチ壊しておいて何の結果にも到達せず閉じ込め続けようとしているのですから、こんなヒドイ状況をやらされている僕としては当然「責任取ってくれよ」という心情になるのです。

しかし霊界側の回答は聞くまでもなくひとつで「埋め合わせは帰幽後に」という事になり、要するに物質界生活中にこの最悪の状況を改善させるつもりはない、このまま最悪の中に閉じ込めるつもり(それがいちばん安全なのだそうですが)そう言われてハイ分かりましたとは絶対にならないので(イヤでどうしようもないので)脱出だけは実行するつもりです。

ヒドイ、本当にヒドイ。だったら僕の画家の人生を返してくれ。もう霊能剥奪でもイイから僕の人生を返してくれと言いたいですが「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」というブログも書かされています。これは要するに「やめるな」とクギを刺されているという意味合いもあるのでしょう。

「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†■2024年8月21日UP■
「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†
もう僕という霊媒が機能するだの、新規の霊言が降るだの、そういう事を書くつもりは一切ありませんが、現存する正真正銘の霊関連書籍をテキスト化する作業は全力で続行するつもりでいるのです。その作業を続けるイコール「本を読み続ける」という事になり、さらに深く霊的知識を理解する事につながるので僕的に好都合ですし霊的知識拡散という意味でも大変重要なのです。なぜ霊団がそこまでしてあの無意味なところに僕を閉じ込め続けようとしているのかがどうしても分かりません。僕をあそこに閉じ込めてみたところで僕という霊媒は機能しない、新規の霊言は降らない、「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡にもつながらない、奴隷の女の子たちもひとりたりとも助けてあげられない。何ひとつイイ事ないじゃないですか。なのにそこに閉じ込められる事を耐え抜けば僕は霊的に向上を果たす事ができて明るい境涯に赴く事ができるのだそうです。邪悪を滅ぼす事より、殺される運命の女の子を救出する事より、仕事を前進させる要素ゼロの意味なしの場所に閉じ込められる事の方が霊的向上に寄与するとは、これは一体何がどうなっているのでしょうか。本気で意味不明なんですけども…続きを読む→

完全に失敗なんだから、だったらもう帰幽にしてくれと言いたいですがそれもさせない、使命遂行が進展しないのにただボケボケ物質界に閉じ込められる、もう最悪中の最悪人生です。猛烈に節約続行中、あとモチョトガンバったらある脱出アイデアを実行するつもりです。せめて脱出だけでも完了させてみせる。コイツら(霊団)の仕事は本当にヒドすぎる。地球圏霊界にもはや何の興味もない(祈)†

「あなたは黙々と作業をこなして下さい」そこまでして強姦殺人魔を守り通したいのか(祈)†■2024年6月5日UP■
「あなたは黙々と作業をこなして下さい」そこまでして強姦殺人魔を守り通したいのか(祈)†
そこまでして「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を守り通さねばならない理由は何なのか。物質界の邪悪にはそれなりに存在価値があって、その邪悪にヒドイ目に遭わされる事で霊格を高める事ができるので物質界が試練の境涯としての役目を果たす事ができるというのは、知識としては了解ですが、僕たち日本国民のすぐ目の前に大量強姦殺人魔が罪にも問われずふんぞり返っていて来る日も来る日も洗脳ニュースを流してきやがる、それを黙って見ていろというのか。シルバーバーチ霊も事ある事に「物質界の邪悪に敢然と立ち向かって下さい」と仰っているではありませんか。僕は僕なりにシルバーバーチ霊の言葉を実践しているつもりです。しかし霊団は正反対の事を言ってきやがる。出どころは同じ地球圏霊界のはずなのになぜ正反対になるんだ。どうやっても納得できない。ココまで霊団がやる気ゼロの態度を明確にしている以上、もう使命遂行をムキになって続けなくてもイインジャネ?、という気持ちが沸き上がってきます。今度の今度こそDreamwork(画家の人生)に戻ってやろうかと思ってみたりもします。何しろそれが僕の元々の道でしたので…続きを読む→
「既に授かりたるも同然と信じよ」新規の霊言が降ってくるという事だとイイのですが(祈)†■2024年5月29日UP■
「既に授かりたるも同然と信じよ」新規の霊言が降ってくるという事だとイイのですが(祈)†
僕の活動内容は徹頭徹尾霊的内容であり、インスピレーションに基いて怒涛の勢いでブログを更新し続けています、その教会とは情報量が圧倒的絶対的に違いますので、霊的能力のない牧師が僕のWordPressを見たら少なからず恐怖を感じるかも知れませんね。そういう意味で「奪われてしまう」と霊団が降らせてきたのかも知れません。「岩におじさんの顔が」コレなんですが昨日のスーパーレインアタック(山行)の時に、ふと道の岩に目をやった時に、その岩に知らないおじさんの顔が見えたのです。しかもかなりハッキリ見る事ができました。僕はサイキックではありませんので自分の意思で見たいモノを霊視したりする事はできません。今回の映像ももちろん霊団が見せてきたものとなります。で、今週の動きから推察するに、このおじさんもたぶんキリスト教関係者ではないかと予測します。もう帰幽している元牧師とか、そういう感じかも知れません、もしかしたら訳者、山本貞彰氏だったりなんかして。山本氏の画像がありませんので容姿を知りませんが、そういう可能性もなくもないです。山本氏が僕の復刊に向けた作業に対して感謝の念を抱いて下さっているという意味かも知れません…続きを読む→