本書は、形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えない知的存在が人間のすべてがたどる死後の道程を啓示したものである。

しかしその内容は、モーゼスが幼少時から教え込まれ、大学でも徹底的に研究し、唯一絶対と信じ、かつ、卒業後は牧師として誇りをもって説いてきたキリスト教信仰を根底から覆し、代って真実の霊的真理を説くもので、その働きかけに対してモーゼスがあくまでも人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。

モーゼス自身が再三断わっているように、本書に収められたのは、ほぼ10年間にわたって送られてきた厖大な量の通信のホンの一部である。主としてインペレーターと名のる最高指揮霊が、右に述べたモーゼスの霊的革新の目的にそって啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合からいうと、プライベートなこと、些細なこと、他愛もないことの方が圧倒的に多いようである。

が、それはモーゼスの意志で公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことの方が、科学的ないし論理的なものよりもむしろ人間の心に訴える、という点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。

通読されて実感されたことであろうが、モーゼスにとって、その10年間の顕幽にまたがる論争は人生のすべてを賭けた、正に真剣勝負そのものだった。一切の見栄と打算を排した、赤裸々な真理探求心のほとばしりが随所にうかがわれて、私も訳していきながら、つい訳者としての立場を忘れてその激流に呑み込まれ、ある時は同じ人間としてモーゼスの苦衷に同情の涙を流し、またある時はそうした人間的な情に超然としたインペレーターの凜然とした、それでいて懐の深い、愛の配慮を忘れない態度に、思わず感動の涙を流したことも一再ではなかった。

とくに圧巻といえる“最後通告”をめぐる白熱の攻防のあたりを訳す時は、和服の懐に“タオル”をしのばせて机に向かう毎日だった。“ハンカチ”では間に合わなかったのである。

このたびの改訳のための読み直しに際しても、それは変らなかった。それは、ひとつには高校時代にこのスピリチュアリズムとの出会いがあって以来30年余り、目に見えず耳にも聞こえない、それでいて強烈に魂を揺さぶる影響力によってぐいぐいとこの道一筋を歩まされてきた自分自身が、モーゼスと重ね合って見えたからかも知れない。

ひとつだけドラマチックな例をあげれば、20代半ばに経済上の理由からこの翻訳の仕事に見切りをつけ、大阪のある商社に入社することになって、下宿先まで決まり、荷物をほどいてから、晴ればれした気分で社長宅へ挨拶に伺ったところ、なんと、その前日に思いがけない事情から会社が倒産したことを知らされた。社長の詫びの言葉を聞きながら私は、心の奥で背後霊団の影響力の物すごさと自分の宿命のようなものを思い知らされた。

この道一筋の覚悟はその時決まった。(むろん、いくら大義のためとはいえ、霊団が一個の会社をつぶすようなことをするわけはない。私の“凡夫の迷い”を覚まさせるために、倒産の運命にある会社を選んで、そういうきわどい体験をさせたのであろう。)

モーゼスの苦悩に秘められた教訓

さて、モーゼスは生涯独身だった。求道に生きる人間にとって、“食”を断つには限界があっても、“性”を超越することは大して困難なことではない。そんなことよりモーゼスにとって耐え難かったのは、宗教的信仰の根本的転換だった。

しかもそれが、目に見えず耳にも聞こえない、得体の知れない影響力が自分の手を使って書き綴る通信文によって強要されたのである。それに応じるのは確かに抵抗があったことであろう。よほどの霊的理解力がなくてはできないことであろう。

これほどの大事業のためにあれほどの霊団が霊媒として選んだのであるから、モーゼスは本来よほど霊格の高い霊の降誕だったはずである。それほどの人物にして、なおかつあれほどの精神的葛藤を余儀なくされたのである。この事実から私は、次のふたつのことを推察している。

ひとつは、物的身体に宿って地上に誕生するということは、人間の自覚や想像をはるかに超えて、本来の霊的感覚を大きく鈍化(マヒ)させるということである。

われわれは生まれてこの方、脳を中枢とした意識的生活に馴染み、これを当たり前と思っている。確かに、赤ん坊の時から幼児期、思春期、青年期、そして成人という過程における意識の発達と拡張のパターンは、それ自体、一応完成されたものであり、そのパターンを順調にたどる場合と、それが狂う場合、つまり正常と異常とがあることを考えると、正常に発達した場合にそれがすべてであると思うようになるのは、当然の成り行きであろう。だからこそ霊的意識というものが別個に存在することの理解が困難となるわけである。

しかし、近代スピリチュアリズムによって、それが一種の錯覚であることがわかってきた。われわれも本来は霊的存在であり、霊としての前世(先在)がある。それがこの物的分子で構成された肉体 – といっても実質的には脳髄と連結することによって、本来の霊的波動が物的波動に転換されてしまう。

ここで霊的感覚の鈍化が生じ、それまでの記憶のすべて – 霊としての先在のことも、それ以前の地上での前世のことも – 忘れてしまう。ある霊はこれを“ベールで閉ざされてしまう”と表現している。

高級霊の降誕は国籍離脱の大冒険

シルバーバーチ霊が語ったところによると、霊媒のバーバネルが母胎に宿る以前から英語の勉強をし、母胎に宿った瞬間からその育成に関与し、18歳に初めてその発声管を使用して地上界へ語りかけるようになるまで、ずっとその準備をしたという。ということは、バーバネルの先在つまり霊界における意識的生活においては、シルバーバーチ霊をはじめとする霊団との打ち合わせが出来ていたはずである。

ところが18歳になるまでのバーバネルは霊的なことに関心もなければ体験もなく、ビジネスマンになって大きな仕事をする野心を抱いていたという。18歳になって間もなくいきなりトランス状態にされた時は、そのことに大変な反発を覚えたほどである。肉体に宿るまでの霊的意識と、誕生後の肉体的意識とは、それほど違うものなのである。

本巻にも“地上の救済のために遣わされる霊は、そのほとんどが肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されてしまうのが常です。が、イエスは例外でした”とあり、続編の More Spirit Teachings の中でもインペレーターが霊言で“高級霊といえども、肉体に宿ることによって先在の記憶を失うものです。この種の降誕は一種の自己滅却です。もしくは国籍離脱にも似た行為です”と述べている。

犠牲とか自己滅却とかいうといかにも立派そうに響くが、実は大変な危険を伴う冒険なのである。中には俗世的煩悩に負けて本来の使命を忘れ、とんでもない過ちを犯してしまう高級霊もいる。そういう霊の死後の苦痛は並大抵のものではないらしい。

地上世界は監獄ではない

こうした事実を短絡的に捉えて“地上は監獄だ”などと説くご仁がいるが、とんでもない幼雅な考えである。物質という、波動的にもっとも鈍重な環境で意識的生活を送るためには、それなりの防備機能をそなえなくてはならず、そのために霊的意識が芽生えにくくなるのはやむを得ないことである。

それをもって、バチが当たった者ばかりが送り込まれるところのように思う、そのいじけた考えの方が、私に言わせれば、むしろ“座敷牢的”発想である。

地上世界が、全体としてきわめて閉ざされた世界であることは事実であるが、それゆえにこそ地上特有の生活条件が生じ、そこで、前世で偉かった者も卑しかった者も、聖人も罪人も、その記憶をいったんおあずけにして、初めての地上人生の気持で生きるところに意義がある。前世のことが事細かに簡単に思い出されるようになったら大変である。

重ねて言うが、地上生活はきわめて貴重なのである。死後、霊界へ戻ってから掛けがえのない意義をもつことになる。ある霊界通信によると、霊格と純粋性は高くても、霊力が弱いために、ある界層から上へ突入することができずにいる高級霊が多いという。そういう霊が霊力強化のために地上へ降誕する例はいくらもあるのである。その地上に、われわれは今まさに生をうけている。有り難いと思い、大切に生きねばならない。

霊能者といえども前世の回想は不可能

少し本題からそれるが、最近、米国を中心に、前世へのチャネリングとかがまことしやかに語られ、著書が出版され、それが映画化までされて日本でも話題になっているようである。

が、右に述べたことからも容易に察しがつくように、イエスのような、ごく稀れなケースを例外として、前世をまるでビデオテープを再生するように回想できる人間はまずいないと思ってよい。むろん、瞬間的に垣間見たり直感したりする人は多いであろう。が、そうした体験とビデオ的回想とは次元が異なる。

それをあたかも、瞑目するだけで簡単に見て取れるかの態度で語って聞かせて大金を取る悪徳霊能者がいる。あえて“悪徳”と言ったのは、大金を取るからだけではない。分りもしないものを、いかにも分ったような態度で、いい加減な作り話を聞かせることで余計な先入観念を植えつけてしまい、その後の人生に後遺症のようなものを残してしまうからである。

再生とか前世といった、何の証拠もなく、どこまで本当かの判断もできず、したがって責任も取ってもらえないものは、人間はあまりあげつらうべきではないというのが、私の持論である。原理的に考えても、そんなことが分る人がいるわけがないのであるから、甘言に誘われて、ムダなカネを払ってまで、いい加減な情報を聞かされることのないよう、用心が肝要である。

人類の最大の過ち – 暗黒時代

本題に戻って – では、それほどまでの危険性をはらむ地上への降誕を果たしたモーゼスに、なぜ霊団側は、キリスト教という“誤謬だらけ”と非難する宗教をまっ先に学ばせたのであろうか。

これがもうひとつの重大なテーマであり、本稿の主題でもある。その背景には、地球を霊的に浄化する、つまりスピリチュアライズする(これがスピリチュアリズムの語原)ための大事業の発端となった事情の縮図があるものと私は推察している。

続編に次のようなインペレーターの霊言がある。“イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数がたってからのことでした。そしてそのことは、イエスご自身にとっては迷惑千万なことでした。”

これは中巻で紹介したニケア会議でのキリスト教のでっち上げを示唆しているのであるが、私は、他の数多くの霊界通信を参考にした上での結論として、どうやら地球圏の上層界においては、ニケア会議後ほどなくして到来した“暗黒時代”を予測し、その反動として生じる数々の不幸な出来事に対処する手段を講じた – それが近代スピリチュアリズムであるとみている。(“近代”を付した理由については後で述べる。)

その“不幸な出来事”を具体的に言えば、西洋史に有名な“暗黒時代”は、一口で言えば人間の霊性の抑圧と封殺の時代といえる。キリスト教という人工の宗教の権威を楯に、これと対立するものはもとよりのこと、これとソリの合わないもの、異質のものをことごとく排除していった。

宗教はもとよりのこと、教育、芸術、文化、その他ありとあらゆる面にわたって拘束し、とくに霊的能力をもった者、ならびにこれを信じる者は、悪魔の使いとして拷問・火あぶり・斬首等で片っぱしから処刑してしまった。

まさに血も凍るような時代だった。インペレーターもシルバーバーチも口を揃えて、キリスト教を“呪うべき宗教”と言うが、その背景にはそうした狂った所業があるからであることは言うまでもないが、同時に、それが生み出す後世への悪影響がまた由々しきものだったからでもある。

その暗黒時代は歴史的には一応西暦1000年ごろまでとされているが、実質的にはルネッサンス末期(16世期)まで続き、その余波は現代にまで及んでいると私は見ている。それを如実に物語る格好の例が最近のニュースにあった。

ガリレオがコペルニクスの地動説を支持した“かど”で宗教裁判にかけられたのが17世紀半ばのことで、ガリレオは目が見えなくなったまま獄死している。そのことを“間違ったことだった”と、ローマカトリック教会が正式に認める“法王の声明”が出されたのがつい先頃のことで、ほぼ350年もたっている。

何を今さら勿体ぶって、と言いたくなるが、こうした事実は、巨象のごとく太った人工的宗教組織の病的体質を垣間見せていると言えよう。

霊性を何よりも重んずべき宗教が、その霊を封殺することによって権力組織を構築し維持せんとしたことは、狂気の沙汰としか言いようがないが、この『霊訓』の全3巻を通してインペレーターが繰り返し警告している邪霊集団の存在を考慮すれば、それも納得がいく。要するに邪霊集団がやりたい放題のことをやったということであろう。

知性と霊性のアンバランスが生んだ世界大戦

が、やがて物質科学が急速に発達し、科学万能の時代が訪れる。19世紀にはダイナマイトが、そして20世紀には原子爆弾が発明され、いずれも大規模な殺戮に使用されたと – いうよりは、それが戦争を大規模なものにしていった。ダイナマイトが発明されなかったら、第1次大戦も第2次大戦も起きなかったであろうし、そうなると原子爆弾も発明されなかったはずである。

ダイナマイトを発明したノーベルの遺言によって、それによる莫大な収入を基金とした“ノーベル賞”が創設されたというのは、なんとも皮肉な話ではある。ノーベルの痛恨の償いの気持がそうさせたのであろう。こう述べる私には、ノーベルを批難する気持は毛頭ない。

シルバーバーチによると、知性の発達に霊性の発達が伴わなかったことに、地上人類の悲劇の原因があるというのであるが、そうした原因を生み出したさらに奥の原因を探れば、良きにつけ悪しきにつけ世界をリードしている西欧において、暗黒時代という長期間の霊性封殺の時代があったことに行き着くと私は見ている。

さきに私は、地球圏の上層界において、こうした事態に対処するための方策が検討されたと述べたのは、そうした知性と霊性とのアンバランスを是正するための方策が検討されたと言い変えてもよいもので、まず幽界の上層部から浄化活動が開始された。

というのは、人間の発する悪想念は、ちょうど排気ガスが大気圏に漂いフロンガスがオゾン層を破壊するように、地球の霊的大気圏を汚染しているのである。それを浄化することから始めて、1848年に至ってようやく地上界に直接働きかけるところまで来た。それがハイズビル事件だったのである。

このように、スピリチュアリズムつまり地球浄化のための働きかけは、イエスの死後ほどなくして開始され、それが物質界に及んだのが19世紀半ばだった。そのころはすでに“科学時代”に入っており、欧米諸国の第1級の科学者が心霊現象の研究に熱中した。

これを英国の博物学者アルフレッド・ウォーレスが“近代スピリチュアリズム”と呼んだ。言うなれば科学的スピリチュアリズム – “科学の洗礼を受けたスピリチュアリズム”ということである。

モーゼスは人類の代弁者

モーゼスの『霊訓』はそうしたさ中に届けられた。さきに述べたように、霊媒とされたモーゼスは、地上への降誕に先立つ“先在”の時代に、インペレーターを直接の責任者とする霊団との“打ち合わせ”ができていたはずである。

しかし、いよいよ肉体に宿ってしまうと、少なくとも脳を中枢とする意識には、その打ち合わせのことが蘇ってこない。それが結果的にはモーゼスを、徹頭徹尾キリスト教の擁護者としての立場を固持させることになった。が、私はそこにこそ大きな意義があったと見るのである。

つまりモーゼスをキリスト教の代弁者としての立場に立たせ、呪うべき暗黒時代の産物であるキリスト教神学の誤りと過ちとを説き聞かせた。それにモーゼスが激しく抗弁し、スピリチュアリズムを批判し、かつ嫌悪感をあらわにした。それを受けて立ったインペレーターが懇切丁寧に真実の霊的教義を説いて聞かせた。

読者も同感なさることと思うが、その内容は理路整然として知性と良識にあふれており、霊界側で用意周到な準備がなされていたことを窺わせるものである。が、それでもなおモーゼスは、それをあくまでもキリスト教的観点からしか見ようとしなかった。あまりのしつこさに一時は総引き上げの警告まで出すに至るが、折よく(?)そのさ中に他界した友人の取りなしによって事無きを得る。

危険をはらんだギリギリの選択

そうした、芝居じみたところがみじんもない、魂と魂との真剣勝負の熾烈(しれつ)さがこの『霊訓』の最大の特徴であり、読む者をして、ひとりキリスト教にかぎらず、宗教的教義というものの功罪についての認識を改めさせずにはおかない。

が、それは、ひとつ間違えば取り返しのつかない悲劇に終る危険と背中合わせの、ギリギリの選択だったのである。その大冒険の地上の主役として選ばれたモーゼスは、よほど霊格の高い霊であったことは間違いない。

現今の既成宗教の堕落と逸脱ぶりは、常識をモノサシとして見ても、度が過ぎていることは誰の目にも明らかである。宗教は組織化するときまって堕落する。組織化がすなわち堕落というわけではない。宗教の本来の使命は霊的真理の普及にあるのに、肝心のその霊的真理をおろそかにして、営利追求と権力の座の奪い合いに明け暮れているところに堕落の要因がある。

真実の宗教的生活に組織は無用である。私はよく読者から“面会”の要請を受けるが、すべてお断わりしている。その必要性を認めないからである。

私という1個の人間に会う前に、こうした人類史上永遠に残るであろう高級霊からの教えとの出会いがあったのであるから、もうそれで十分なはずである。ひとり静かに高級霊の言葉を繰り返し味わうことは、その霊と対峙することであり、それこそ最高の宗教的生活なのである。

訳者の立場から言うのはどうかと思いながらも、あえて言わせていただけば、インペレーターやシルバーバーチといった高級霊の教えがこうして日本にも紹介されることになったのも、霊界側の計画の中に組み込まれていたはずである。

高級霊が働きかける時のビジョンは、人間の想像をはるかに超えて遠大であり緻密である。私はその紹介者のひとりにすぎない。その使命をこうして曲りなりにも果たすことができて、私は厳粛な気持の中に喜びを噛みしめているところである。

ついでに申せば、私が紹介したこれらの霊的啓示に匹敵するものは、これ以後、百年単位でなく千年単位の将来にかけて、まず地上世界へはもたらされないであろうと確信する。それほど、その淵源も内容も崇高なのである。

今こそ迫られている人類の課題

人類は、この地上に誕生してからまだ日が浅い。青二歳といってよい程度の年令であろう。その若さゆえに犯してきた数々の過ちや愚行のツケが、今、地球環境の破壊という形で回ってきている。

メルキゼデクに始まった高級神霊の降誕という形での霊力の流入はイエスをもって終了し、今、スピリチュアリズムという名のもとに、霊界からの働きかけとなって進展している。

そうした中にあって、皮肉にもイエスの名のもとにこの地上に呪うべき害毒を残したキリスト教を俎上にのせて、地上という物質界に身を置く人間としての正しい生き方を説いたこの『霊訓』は、人類にとって計り知れない意義をもつものと信じる。

モーリス・バーバネルがその全生涯を入神霊媒(トランスミーディアム)として、シルバーバーチの叡智あふれる教訓の通路となったように、ステイントン・モーゼスも、主として自動書記霊媒(ライティングミーディアム)として、インペレーターの峻厳な教訓の通路としての生涯を終えた53歳の若さだった。

そうした犠牲的生涯を送った“使者”の労苦に報いる道は、ひたすらその教えを日常生活の中で実践・体得していく以外にないであろう。

平成2年6月

近藤 千雄


謝辞

本書の翻訳に当たって、キリスト教関係の用語については鎌倉の元牧師・山本貞彰氏に、インド思想関係の用語についてはインド哲学ご専門の東京外語大学教授・奈良毅氏に校閲していただいた。といって、最終責任は、むろん、私・近藤にある。ここに記して感謝の意を表する次第である。

「地上にいる時間はもうそんなに長くない」だったらやるべき事をやり切れよ(祈)†■2024年2月28日UP■
「地上にいる時間はもうそんなに長くない」だったらやるべき事をやり切れよ(祈)†
例えば守護霊は自分が守護を命ぜられた人間が物質界降下の目的を達成できずに(カルマの解消、罪障消滅等)下層界に落ちる事になったら、守護霊側もその責任を負う事になるのだそうです。今回の僕という霊の道具を使用しての霊的使命遂行の霊団(100の光の霊団)も、ここまで事態を悪化させるに至った責任を霊界側で取らされる事になるのかも知れません。そしてそれはもちろん僕にも当てはまり、僕も帰幽後にキビシイ状態にさせられるのは明白です。(反逆の責任を取らされるという事)で、僕はその覚悟で反逆していますから自業自得という事でヨシとして、とにかく仕事は前進させてくれよ。全部とは言わない、何なら少しでもいいよ。とにかく肉眼に映じる結果を出してくれよ。僕は復刊というカタチで肉眼に映じるアウトプットをしようとしている。それの何が悪いって言うんだよ。僕という霊媒が機能しないんだからこうするより他にどうしようもないだろ。僕が単純に思う事は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁をもっと霊的に攻撃しろよ、という事です。霊障の嵐をコイツらに降らせて震え上がらせるなど理想的だと思うのですが、そういう事も一切やろうとしない。僕の事は「愛の試練、霊障イペルマルシェ」でチクチクいじりまわしてきやがるくせに…続きを読む→
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†■2024年2月21日UP■
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†
しかし僕の心が完全に霊団に対する怒り憎しみに包まれてしまっていて(絶対ムリと分かっていますが)地球圏を離れたいと切望するほどになっています。つまり僕は帰幽後に地球圏の仕事をやるのに適さない人間になってしまったという事になり、それで霊団がしょっちゅう「ゴメンね」とか「残念だ」とか言ってくるのではないか、という予測もあったりなかったり。ただ、仮にこの最後の予測が正解だったとしても、僕をそうさせたのは他でもないあんたたちだろ。守護霊様の管轄内で生活していた時は僕は現在のような精神状態には全くならなかった。Dreamwork一直線で迷いなど全くなく、山に行き続けてはシカちゃん鳥ちゃんに話しかけるような人間でしたので(純粋だったという事)100の光の霊団も守護霊様と同じような導き方をしていれば僕をこんな精神状態にしてしまう事もなかったはずなのです。100の光の霊団、特に支配霊バーバネル氏に僕が言いたい事は「守護霊様を見習えよ」という事です。霊性発現前は全てがうまくいっていた。そして超速的に霊性発現に到達した。守護霊様の導きは空前絶後の大成功だったと僕は思うのです。…続きを読む→

Dreamwork(画家の夢)を破壊するに飽き足らず人生そのものも完璧に破壊して、ひとりの人間の意思を完全に無視してここまでメチャクチャな事をやらせておいて、さらに僕の心が1ミリも望んでいない、僕の意思と正反対の状況に行けと言ってくるのです。僕が霊団の導きをどれだけイヤがっているか皆さまにご理解頂けない事と思われますが…。

もうイヤだ、本当にイヤだ、あ、ちなみに現在描いていますアナログ絵379、380は僕のそういう心境を表したストーリーとなります。できるだけ早く描き上げるとして(5ページゴミ取り実行中)人生破壊以外の事を何もやってこない霊団と縁を切りたい、もう本気でコイツらやだ。

物質界の邪悪を滅ぼすという結果に到達させるならまだ許せる部分がありますが、もはやそれすら全くやる気なし、邪悪をホッポラカシにして僕をイジメる事にのみ霊力を駆使している始末。地球圏霊界の人間の仕事とはこんなにもチャランポランなモノなのか。アゴが外れる。

山に向かうロングドライブ用の眠気防止アイテムを複数用意しました。スゴクたくさんあるので1日で作業しきれないのです。次回長文ブログネタとなるインスピレーションまたしても枯渇。霊団のやる気のなさからして、もう使命遂行終わりにしても何ら問題ないんじゃネィのかとかなり本気で思います。

本当にハッキシ言って霊団を憎んでます。何が悲しくてこんな最悪人生をやらされねばならなかったのか。お前らがちょっかい出してこなければ僕は全然別の人生を歩んでいたんだよ。フゥゥゥゥ、作業続行中(祈)†

「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†■2023年12月13日UP■
「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†
私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち – その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。全能の父なる神の祝福のあらんことを…続きを読む→
「最後まで完成してる」僕から降らせる霊言の原稿が霊界側で既に完成しているそうです(祈)†■2024年1月3日UP■
「最後まで完成してる」僕から降らせる霊言の原稿が霊界側で既に完成しているそうです(祈)†
「霊的知識普及のための客寄せパンダ」というもので、霊団は試練の境涯である物質界から苦難の元凶(「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁)を取り除く事はしない。取り除いてしまったら物質界の存在意義(刑務所としての機能)が果たせなくなってしまうので邪悪は残し続けるが、霊的知識拡散のための「客寄せパンダ」としてこの強姦殺人魔どもを最大活用した、という事なのではないか。さらに言うと「神の因果律」の一環として、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらに徹底的に恥をかかせるという目的も含まれていたのではないかと僕は思っているのです。僕はこのバカヤロウどもはインペレーター霊の仰る「個的存在消滅」でイイと思っていますが霊界上層界の方々はそうは思っていなくて、何とかコイツらに反省させて進歩向上の糸口をつかませようとしているのかも知れない、それで大恥をかかせて心変わりをさせようとしているのかも知れない、なんて思ってみたりもするのです。そんなムダな努力する必要ネィだろ、コイツら(明仁、文仁、徳仁、悠仁)は絶対反省なんかできネィよ、人間失格なんだよ、霊の海に埋没して存在消滅すればイイんだよ(地獄より下という事)と僕は思うのですが上層界の方々は憐れみをもって眺めますのでそういう視点なのかも知れない…続きを読む→
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†■2024年2月7日UP■
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†
コイツらが僕を憎もうが憎むまいが、奴隷の女の子を信じられない人数、強姦殺人しまくって遊んできたコイツらは「神の因果律」によって自動的機械的に帰幽後、暗黒の底の底に落ちていく事になります。そこに僕の裁量などありません。自分のおこないによって自分を地獄に落としている、ただそれだけの事です。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分たちが1番偉いと本気で信じ込んでいます、この宇宙、上には上がいる事を全く理解できません、物質界生活中、生まれてから死ぬまでワガママ放題、自分の全人生をウソで塗り固め、国民を虐げて私腹を肥やし続けてきた奴らですから人格が全く形成されていません、幼稚極まるガキという事です。そんな奴らが反省などできる訳がありませんからいつまでもどこまでも暗黒の底の底でのたうち回りながら僕に対する憎しみを燃やし続ける事になるでしょう。しかしその憎しみの念は上層界で進歩向上の生活を送る僕には全く届きません。霊界は思念フィルタリングという機能がありますので下層界の邪念は上層界に届かないのです。(※「ベールの彼方の生活2巻」7章 天界の高地 3 霊界の情報処理センター 参照)…続きを読む→

同僚の方が教えて下さった件は一旦保留と言いましたが、やはりその話に乗っかるべきではと気持ちが揺れてます。というのも本当に言語に絶するヒドイ扱いを受けているからです。もうとてもじゃないがあのような常軌を逸したところには残れない、脱出する以外の選択肢は絶対にない。訴えられるモノなら訴えたい気分です。とにかくヒドすぎる。あの場所はもう完全に破滅してます。

“ある脱出アイデア”を実行に移すために(このアイデアには初期投資がかかります)徹底的に節約していますが、同僚の話に乗っかるとその節約がパーになって“ある脱出アイデア”の実行が遅らされる可能性があるため「それは認められない」という事で一旦保留と考えを固めたのですが、どうも霊団が行けと言っているような感じで、かなり首を傾げています。

要するに“ある脱出アイデア”をボツにするために僕にそこに行けと言っているような気がすごくする。イヤそれは認められない、このアイデアは作業時間を増やせる可能性がある、僕はこのアイデアは捨てない。同僚の方の話はただ場所が変わるだけで作業時間は今と一緒、増やす事はできない、ですので“ある脱出アイデア”の方がプライオリティが上なのです。

ある有名事件のムービーを観て情報を脳内にインプットし、インスピレーションを降らせる環境を整えても、霊団は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体についてひとことも言ってこない。もうコイツらは物質界の邪悪をどうするつもりもない。完全にホッポラカシにするつもりでいやがる。

地球圏霊界とは何と美しいところなのだ。もう全く何の興味もない。シャレじゃなく本気で帰幽後は地球圏の仕事はもう絶対にやりたくない。何か全く別のカテゴリに進みたい。もっともその資格なしと判断されるに決まってますが。

アナログ絵380、5ページ線画完成中スキャン完了中AffinityPhoto上でのゴミ取りに入ってます、4ページのゴミ取り終了中、少しベタを塗ったりしてますが間もなく4ページは完成中。6ページまで一気に仕上げましょう。作業時間を増やしたい、やるべき作業なら一生かかっても終わらないくらいあるんだから。

あの破滅の場所にこれ以上残されるのはもう絶対にムリ、死んでも脱出します。同僚の方の話に乗っかるべきか、当初の計画通りに“ある脱出アイデア”を実行に移すか、さぁどうするか。イヤ計画通りに行くべきだと思う。脱出もそうだけど作業時間を増やさないといけませんので。全然使命遂行の内容が書けない。僕の残された人生は一体何がどうなってるんだ(祈)†

「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†■2023年6月14日UP■
「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†
現在の苦難を耐え抜かなければその罪障消滅が達成されず、キミはまた物質界に再降下しなければならなくなるんだよ。我々はキミのためを思ってキミをその苦しみの中に閉じ込めているんだよ。罪障消滅が達成されなかったらキミがまた苦しい思いをする事になるんだよ。これで終わりにするためにその苦しみに耐えるんだ。という意味で霊団が僕を脅し続けているのかも知れません。イヤ、僕のこれまでの人生をよくよく振り返ってみた時に、僕はそういう理由で物質界に降下した人間じゃないと思う。幼少の頃から絵を描き続け、マンガ家も経験し、Dreamworkに突入して死ぬまで絵を描き続ける事を固く固く決断していた。僕はそういう罪障消滅目的の人間ではないと思う、そうだったら絵の才能を賦与されていないと思う。僕に関してはそれはちょっと違うと思う。現在の僕の状況は霊性発現によって「後説」で賜ってしまった追加試練だと思う。守護霊様の管轄内で生活していた時はこんな状況には全くならなかった。「100の光の霊団」の管轄に切り替わってから僕の人生が一気におかしくなった…続きを読む→
「死刑台確定」これ以上最悪のインスピレーションがあるでしょうか、永遠に許さぬ(祈)†■2023年8月2日UP■
「死刑台確定」これ以上最悪のインスピレーションがあるでしょうか、永遠に許さぬ(祈)†
あなたは自分の心を偽っています。霊界には「ウソ」というものが存在しません。ありのままの自分の姿が衆目に晒され、その人の霊体、オーラを見ればその人がどういう人物なのかが一目瞭然で分かるのだそうです。物質界でウソをつき通して偽善者のフリをし続ける事ができたとしても、その物質界生活時のウソを帰幽後の霊界人生で恥辱という名のもとに存分に清算させられるのです。そしてたぶん物質界に再降下させられる事になるでしょう。物質界人生を正直に生きる事と、物質界での失敗の清算で何度もやり直しをさせられるのと、どっちが効率的進歩向上の道だと思いますか。正直に生きた者が最後は必ず勝利者となります。なぜならこの全宇宙が【神の絶対的公平、公正】によって経綸されているからです。ですので僕はたとえこの使命遂行の先に死刑台が待ち受けているとしても、僕が画家時代から大好きだったシルバーバーチ霊の言葉の通り「真一文字に突き進みます」そして帰幽します。皆さまはその時「正直者がバカを見る」とお思いになる事でしょうが、それは永遠の人生の中のホンの一瞬である物質界の事しか見つめる事ができない近視眼的視点から導き出される回答です…続きを読む→
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†■2023年10月4日UP■
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†
【神】が経綸するこの全宇宙には目的があり、それは「進化」の一語に尽きると思います。全天体、全存在(生命)が進化を目的として永遠とも思える霊的向上の旅を続けています。霊的進化のゴールと言える至福の境涯ニルバーナは存在せず、神の御胸に向けての永遠の進化の旅が続くのですが、僕たちが現在在籍している地球圏は神が経綸する全宇宙の中のほぼ最低ランクの存在の場であり全く進化が足りません。イエス様を最高指揮官とした地球圏経綸の任に当たる天使の方々は、物質界の知的暗黒時代(特に中世ヨーロッパ)を打破して霊的知識を普及させるべく「スピリチュアリズム」を勃興させました。これまでの地球圏霊界でこれほど大々的な計画が実行に移された事はないそうです。イエス様がそこまでしなければならなかった理由は、物質界で学ぶべき事を何も学ばずに無知のまま帰幽して下層界にたむろする、シルバーバーチ霊の言葉を借りれば「難破貨物」ともいうべき低級霊があふれかえってそれがいよいよ上層界にまで悪影響を及ぼし始めてきた事が一因だそうです…続きを読む→

[第4節で作曲家アーンの生涯について綴られた細かい事実を紹介したが、1873年9月12日には他に3人の作曲家、ベンジャミン・クック Benjamin Cooke ヨハン・ペプシュ Johann Pepusch ウェレスリー・アール Wellesley Earl sの生前の事実や日時についても、同じように細かく、かつ正確な言及がなされた。

3人とも私の知らない名前だった。まるで人名辞典のような簡略な記述で、内容的には他愛もない些細なこともあった。いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も“実に下らぬ内容です。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれわれの目的です。地上生活のこまごましたことは今のわれわれには興味はない”と述べている。

1874年7月16日。病気で部屋に籠っていたところ、右の3人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていたひとりの人物と密接な関連のある内容だった。

この度の霊はジョン・ブロウ John Blow といい、“クリストファー・ギボン Christopher Gibbon の教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・パーセル Henry Purcell の後継者。少年時代からすでに作曲家だった”と書かれた。

生没年を質すと1648年~1768年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態で“たまたま”部屋に引き籠っていたから得られた情報である。

実はそれよりもっとプライベートな証拠が、1873年10月5日に届けられていた。4節で書物からの“読み取り”ができる霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは、およそのことは私も不案内というわけではなかった。

と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは、私には付いていけないものだった。私はこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手なタチなのである。

生まれつきそうした細かいことを扱いきれないのと、幅広い視野で物事を総合的に把握することの方が実際的であるという信念から、私は常日頃からそういう習慣をつけるべく努力してきた。

その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんどすべてが顕微鏡的な細かさをもち、インペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。

同じ頃、中世の錬金術学者ノートン Norton の著書からの26行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書き出された。その抜粋をあとで校合(きょうごう)しようとしたが、困難をきわめた。と言うのは、関係書が乏しく、ノートンに関しては生没年すら曖昧なほどで、ほとんど知られていないからである。

通信によると古代のオカルト学者で霊媒的素質があり、それで地上へ戻りやすいということだった。そして彼の著作に、詩文で書かれた The Ordinal or Manual of Chemical Art(1)というのがあり、ヨーク大主教のネビル Richard Neville(2)に捧げられたものだった。

他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。

が、もうひとつだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊がみずからその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は、出席していた者の誰ひとりとして知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。

1874年3月25日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。すると – ]

無名の女性の出現

あの霊はシャーロット・バックワースと名のっていたが、その通りです。われわれとは特に関係はないのであるが、たまたまあの場に居合わせ、貴殿にとって証拠になると考えて、通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはありませんでした。

それをわれわれの手で改善することはできませんでした。非常に乱れていました。あのような日の後はえてしてそういうものです。貴殿が巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気が、われわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘い込んだのです。

– 霊媒能力をもつ4人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。

貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようです。あの時に通信した女性霊は100年以上も前に地上を去った者で、1773年に急死し、何の備えもないまま霊界へ来た。

ジャーミン通りの友人の家で他界している。そこで娯楽パーティに出席していた。たぶん彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもありません。

[ここへ連れてきてほしいと言ったところ、それは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何かほかに知っていることがあるかと尋ねた。]

あります。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めて、しばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで、地上への雰囲気に近づいておりません。

雰囲気が調和性のある場所に引かれています。それは彼女の性格に愛らしさがあるからです。他界のしかたは急死だった。娯楽パーティで倒れ、その場で肉体から離れた。

– 死因は?

心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しくて愛らしい性格ではあったが、いたって無頓着な娘だった。

– 何という人の家で、どこにありましたか。

われわれには分りません。彼女自身から告げることになろう。

[このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信が届けられた。私は忙しくて寛いだ気分になれないので、ペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされた。]

シャーロットが他界したのはドクター・ベーカー Dr.Baker とかいう人の家であったことを確認しました。12月5日です。それ以上のことは分りません。が、以上で十分であろう。

レクター

身元を確認

[通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で叶えられた。当初右の事実を確認する手掛かりはまず無いとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れていた。その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた3人で談笑したことがあった。

その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。話の途中でスピーア博士の友人 – A氏と呼んでおく – が1番上の棚の本を取り出すためにイスを運んでいった。

そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。A氏はほこりの中から1冊を取り出し“1年1年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載ってないことは無いほどですよ”と言った。

それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。インスピレーションの経験のある方ならよくご存知の、いわく言い難い閃きだった。内的感覚に語りかけられた声のようなもの、と言ってもよい。

そこで私は、1773年版の年鑑を探り出して、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。

その本は厚くほこりを被り、5年ほど前にそこに置かれてから1度も動かされた形跡がなかった。私の記憶では、その年鑑はきちんと配列されていた。そして1度も手を触れた跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰ひとりとして取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。

このことに関してひとつだけ付け加えておくと、1874年3月29日にあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じだった。

署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは、私には読めなかった。結局それは私の知らない老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くない所にある家で、100歳近い高齢で他界していることが分った。

姓名も住所も公表できない。理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージの通りであったとだけ述べておく。

メッセージを伝えたそもそもの日付(と思われるもの)は、その婦人が1872年12月に他界しているという注目すべき事実を伝えることで、“天寿を完うして、地上生活の疲れを癒やしてきた”ということであった。目覚めると同時にかつての家に引き寄せられ、それからすぐ近くのわれわれのサークルに引き寄せられたという次第である。(3)

通信の終息

この件にかぎらず、霊の身元に関するものはすべてインペレーターが指示しており、私がしつこく要求してきた身元の確認、というよりは、死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったものと信じている。

そのいずれも、明らかに計画性をもって運ばれていることがわかる。私からの勝手な要求が容(い)れられたことは1度もなく、その計画を変更させることは、ついに出来なかった。通信の連続性がこの頃から途切れている。このあたりで一応区切りをつけるのが妥当であると考える。

時たま思い出したように通信が出ることはあっても、この厖大な量の“霊訓”を一貫して支えてきた強烈なエネルギーは見られなくなった。所期の目的が達成され、その後も通信はあっても間隔が開くようになり、やがて1879年(4)ごろを境に、この自動書記による通信は事実上終りを告げ、もっと容易で単純なものに代ってしまった。

私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な個所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取り掛かることになろう。が、取りあえず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。

本書を締めくくるに当たってあえて言わせていただきたいのは、この“霊訓”は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかも知れないし、受け入れられるかも知れない。

しかし、真摯に、そして死に物狂いで真実を求めてきた一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在がたゆむことなく働きかけ、そしてついに成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は、本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。](完)

[注釈]

(1)直訳すれば「化学的技法の手引き」

(2)15世紀の英国の貴族・政治家。

(3)震える文字で書かれたということは、晩年はそういう症状が出ていたことを示唆しているが、それは必ずしも、霊界で今も震えているということではない。地上界に戻ると、なぜか、死に際の身体的ならびに精神的な特徴が再現されるというのが一般的な傾向である。

(4)インペレーター霊団による通信が終ったということで、その後も残り火のような形で断片的な通信があったようである。幼児の落書きのようなもので始まってからの年数はほぼ十年にわたっていることは事実であるが、『霊訓』のエッセンス、つまりインペレーター霊団が意図したものが届けられたのは一九七三年から七五年にかけての三年間に集中している。それをモーゼスがすんなりと受け入れなかったというだけである。

なお本節に出てくる日付を見ると、モーゼスは必ずしも古いものから新しいものへという順序にこだわらずに、内容を中心にして編集していることがわかる。

「片手落ちというものがありません」あくまでも霊界側の視点でのお話です(祈)†■2022年6月1日UP■
「片手落ちというものがありません」あくまでも霊界側の視点でのお話です(祈)†
僕の物質界生活中に結果が出るとは言っていない、僕の帰幽後に霊界側が計画した通りの結果に到達する。「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡も、僕の物質界生活中には達成できないとしても、僕の帰幽後にそのようになる。奴隷の女の子たちの救出も、僕の物質界生活中には実現できない、しかし女の子たちは強姦殺人されて以降に霊界で十分すぎる埋め合わせがあるのだから何も心配する必要はない。だいたいこういう意味でいいでしょう。大俯瞰的視点で永遠という時間の尺度で全体を眺めれば「素晴らしい結果に到達した」と言えるのでしょうが…続きを読む→
「続けられなくさせられる」霊的使命遂行を続けられなくさせられるという意味です(祈)†■2022年11月16日UP■
「続けられなくさせられる」霊的使命遂行を続けられなくさせられるという意味です(祈)†
人の夢を破壊して、全然違う人生をやらせて、あげくの果てに何の結果にも到達せず元に戻れだと?だったら時間を返せ。お前らのちょっかいのせいで描けるはずだったのに描けなくさせられた作品の責任を取れ。何より奴隷の女の子を見殺しにする事を決定した、それを納得させる説明をしてみろ、できるものならやってみろ。おかしい、コイツら(霊団)完全におかしい。しかし霊団がこれほどおかしい事を言ってくるその理由は、それくらい僕に危機が迫っているという事の裏返しでもあるのです。普通なら自分を守ってくれているのですから感謝すべきなのでしょうが、僕は「帰幽カモン」です。この狂った腐った物質界に1秒たりとも残っていたくない男です。僕の生き死にはどうでもいいから仕事を達成させろよ!…続きを読む→
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→

「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に関するある有名事件のムービーを観て、その情報がまぁまぁ僕の脳内にインプットされました、つまり霊団がその気であれば僕にインスピレーションを降らせる準備が整ったという図式になるのですが、しかし霊団はその事件について影もカタチも言ってきません。幽体離脱時映像も全く記憶にすら残らないモノで霊団の逆説的意図が読み取れます。

多くの方がその有名事件に関して書き込みをおこなっておられます、僕もその方々の勇気にならってぜひアレコレ書きたかったのですが、僕は霊団が降らせる霊的情報に基づいてブログを書かねばならないポジションの人間ですので、霊団が言ってこないモノは勝手に書けないのです。悔しいですが今はスルーしましょう。いつかきっと書ける日が来ると信じましょう。

で、ある同僚が脱出に直結する情報提供をして下さって、それに関する応募寸前まで行ったのですが思うところがあって一旦止めました。というのも、この応募をしてしまうと、この数ヶ月“ある脱出アイデア”を実行するために徹底的に節約してきたその努力がパーになる可能性があると読んだからです。

その同僚の話に乗れば確かにイヤでどうしようもないところからは脱出できるかも知れない、しかし“ある脱出アイデア”は実現できずじまいとなり、新し環境の事で頭がイッパイになっていつしかその脱出アイデアの事が頭から消えていくというストーリーで霊団が同僚を利用して僕にそういう情報をインプットさせたのではないか、そう読んだのです。

同僚の話に乗る、イコール職場が変わるだけで生活時間は現在と変わらず、つまり作業時間を増やす事ができません。が、“ある脱出アイデア”の方は作業時間を増やせる可能性があります。僕としてはコチラの方がプライオリティは上であり、同僚の話は正直イイ案件でしたのでぜひ乗っかりたいのですが、このまま節約を続行して“ある脱出アイデア”を実行に移した方が長期的に見ると作業時間の捻出につながる、と考えたのです。

つまり霊団は“ある脱出アイデア”を何が何でも頓挫させようとして同僚を使用したのではないか。(ある脱出アイデア実行日程を決めていて、その日程前にこの話が飛び込んできたのがタイミング的におかしい、霊団の意図が伺える)

それは逆説的に言えば“ある脱出アイデア”が“有効”だから頓挫させようとしているとも読めます。ならこの同僚の話は一旦保留してまずは節約を続けて“ある脱出アイデア”を実行に移した方がイイのでは、と思ったのです。

かなり裏読みであり、ぜひ脱出したかったのですが、長期的に作業時間を捻出できる方に僕はかけようと思い、この話にすぐ乗っかる事は保留し、状況を見てから機会があれば乗っかる事にします。しかし現在の最悪の場所に結局残される事になってしまうのが残念の極致で、できるだけ早く最善のカタチで脱出を実現させようとさらに意気込みを高めています。

ある有名事件についていつか詳しく書けるとイイですが。もっとも勇者の方々が十分な情報を書き込んでおられますのでその方々のSNSをご覧になった方がよほど真実の理解につながるでしょう(祈)†

■2019年9月11日UP■
「文仁、悠仁の逃亡」秋篠宮の最後とも言える映像を霊団が降らせてきました。逃がす訳ないだろ(祈)†
この映像の最大の特長はとにかく「身内」だけでワイワイ騒いでいたという事です。大勢の男子たち、宮内庁職員、皇宮警察等の人間だと思われるのですが、大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に対して反省を促したり出頭を切り出したり、そういう様子が全くなく、強姦殺人魔どもと一緒に逃げ通そうとしている、そういう頭にくる映像でした…続きを読む→
■2021年9月11日UP■
「イエス様を最大の信奉とせず」これはスピリチュアリズム底流の大原則です(祈)†
これまで人類はイエス様はじめ世界中の宗教の創始者等を超人的ポジションに祭り上げおかしなラベル、呼び名を付けてその人物やラベルばかりを崇めて肝心の霊的知識つまり中身をなおざりにしてきました「キリスト教の2000年の長きに亘る人類の呪い」がまさにその典型であり、その失敗を2度と繰り返さないために霊界側は「スピリチュアリズム」を勃興させ、人々の関心の対象を「人物やラベル」から「霊的知識そのもの」へとシフトさせたという事。もし霊団側が僕という霊の道具を使用して霊的知識普及の仕事をする事があるのであれば、僕という霊媒から降る霊言は今回のインスピレーション「イエス様を最大の信奉とせず」にありますようにイエス様に注目を集めさせるのではなく霊的知識そのものに関心を集めさせるという意味…続きを読む→
「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†■2021年12月10日UP■
「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†
とにかく(人生の)破壊の程度がひどすぎる。この一言に完全に集約されます。僕の人生を犠牲にしてでも何が何でも達成したい悲願があった、やってもらいたい仕事があった、僕はそう理解しているからこそここまで歯をくいしばって耐えてきた訳ですが、どうもこいつらの真の目的は「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡つまり物質界の邪悪の討伐ではなくて、僕の人生の破壊そのものがそもそもの目的だったのではないかという気さえしてきました。奴隷の女の子の存在を教えてきておいて全く助ける気がないというのが最大級に理性を反駁させるのです。どう考えてもおかしい…続きを読む→

これほど有名な事件なのに霊性発現以来12年もの長きにわたり霊団が一言たりとも言及していないある有名事件。SNS等にその書き込みをしている方が多数おられますがそのアカウントはたちまちあんな状態こんな状態にさせられてしまうようです。

僕の過去Twitterアカウントはその事件にひとことも触れていなかった、名前の一文字も出していなかったのに凍結、ロックを徹底的にやられていました。要するに僕の使命遂行の内容とその事件が関係があったという事です。

もうこれ以上アカウントをやられる訳にはいきませんし、何より霊団が言ってこない事を勝手に拡散する訳にはいきませんのでその事件について書くつもりはありませんが(そもそも詳しくありませんので)ムービー等を観てまぁ大体の事件概要は分かりました。

その事件の当事者に対する怒りがもちろん湧き上がってきますが、僕はそれより霊団に怒りをぶつけたいです。まさかこのままホッポラカシにするつもりじゃネィだろうな。僕に画家の人生捨てさせてココまでやらせておいて何の結果にも到達させず何の事件解決もできないまま帰幽させるつもりじゃネィだろうな。

えー、ストップ。霊団が言ってこない事をベラベラ書く訳にはいかない。一旦止めて使命遂行の作業に戻りましょう。アナログ絵380、ストーリー後半4~6ページ中5ページ線画70%完成中。終わり次第スキャンして6ページの線画に突入します。この作業をしながらも心の中で「もっと核心に触れた作業をやらせろよ霊団」という怒りがこみ上げてきます。

しかしそれをやらせると僕の身に危険が迫るので霊団もこれ以上深く突っ込めないという事のようですが、じゅうぶん突っ込ませてるだろ。僕のWordPressのブログタイトルを見れば一目瞭然だろ。ここまで来たんだから行き着くところまで僕という道具を使って仕事しろよ。僕は帰幽カモンなんだからその先に死が待ち受けていてもやるんだよ。1秒も物質界に残っていたくないんだから。

フゥゥ、もっと書きたいですがチョト止めましょう。悶々としつつもアナログ絵380に集中中(祈)†

■2019年6月15日UP■
「まぁそうするしかないんだけどね」強姦殺人魔、天皇一族の邪悪の正体を知っている人の思念です。滅ぼすのが当然という事です(祈)†
「日航ジャンボ機墜落」にありますように、自分の事を皇族だの天皇だのと自称するこのバカヤロウどもは、ジャンボ機を爆破して一気に520人殺すテロを決行し、国民を脅して黙らせたのです。このテロを機にみんなビビッて強姦殺人魔どもに逆らえなくなってしまったそうなのですが、今回霊団は何とインスピレーションを降らせましたか。「まぁそうするしかないんだけどね」ですね…続きを読む→
■2019年6月16日UP■
幽体離脱時のピーチピチ(佳子)の映像が超超超鮮明だったのです。霊団側の強調を意味します(祈)†
聾の女の子にそのように言われてピーチピチは鮮明な青の絵の具で顔をペイントしたように真っ青の肌になります。そして涙をボトボト流しながら「あたしは勉強します」と言うのでした。えー霊団、この映像は一体どういう意味で降らせたのでしょうか。僕はまだ意味を理解しきれていません。ただピーチピチ(佳子)の顔が異常なまでに鮮明に反芻できたところを見ても霊団の強調がスゴイという事ですから何かしら重要な意味性…続きを読む→
■2019年6月22日UP■
「まだあきらめてないよ」僕の使命遂行をご覧の方の思念ですが、あきらめた先に一体何があるって言うんですか(祈)†
日々霊力に浴させて頂いているのにそれを無視して無意味な物的生活に溺れるなどと言う愚劣の極みの事をするはずがないじゃありませんか。何のために自分の身を修行に晒し、試練を克服して霊性発現したんですか僕は。なぜ霊団は毎日のようにインスピレーションを降らせてくるんですか。物質界は永遠の人生の中のホンの一瞬降下させられてくるだけのトレーニングセンターです。肉体は100%朽ち果てて人間全員が本来の生活の場、霊界に帰っていきます…続きを読む→

[その後に届けられたインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的にいっそう崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで綴られたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に泌みわたるのを感じていた。]

真理の理解に試練は不可欠

イエス・キリストの祝福のあらんことを。この度は、2度と訪れぬかも知れないこの機に、そなたの疑問に答え、必須の真理を授けておきたく思います。

このところ、そなたのもとに届けられた何通かの手紙によって、われわれが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来が、われわれのみならず、他の霊団によっても予期されていることがわかるであろう(1)。

備えを怠らないでもらいたい。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのです。イエスもそう悟り、そう説いている。魂には鍛練が必要なのです。身体に鍛練が必要なのと同じです。

鍛練なくして深い真理は悟れません。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されません。真理へのカギは霊の世界にあるのです。試練によって鍛えられていない魂が勝手に真理をもぎ取ることは許されません。よくよく心されたい。

安逸と放縦の道は、夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れません。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道は、茨と岩だらけの上り坂です。が、それが悟りと霊力の頂上へたどり着く道なのです。イエスの生涯をよく吟味し、そこから教訓を学び取るがよい。

さらに、今こそわれわれと邪霊集団との熾烈な闘争の時期でもある。その煽りがそなたにも感じ取れるであろうことを述べたことがありますが、神の摂理の大いなる発展の時期には、それは付きものなのです。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件としての憂うつの体験であり、真摯な魂が浄化される試練の時期なのです。

イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やあなたがたの時、そして暗黒の時(2)”と述べました。今こそ、その時です。しかも容易には過ぎ去らないでしょう。辛酸をなめ尽くさねばならないのです。

それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れとともに人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加されていく。それが時とともに生気を失い、訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬がひとつまたひとつと暴かれ、信仰の基盤が揺さぶられ、人間はついに大声をあげて叫ぶ – 真理とは何ぞや!と。

それに答えて新たな、より崇高な真理の誕生となります。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺りかごのまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに強烈です。

理解の仕方は各人各様

その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高い塔から眺める霊的洞察力に富む者は、いち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎します。“喜びは暁とともに来らん(3)”“悲しみと嘆きは消えゆかん(4)”かくして夜の恐怖、“暗黒の力”が過ぎ去ります。

しかしそれは、すべての者にとっての話ではありません。相も変らず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかない者が圧倒的多数を占めます。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続けます。

こういう次第で、すべての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れないのです。いつの時代にも、真理に対して何の魅力も感じない者、なまじ上り坂を行くことが危険を伴う者、古い時代から多くの者によって踏みならされてきた道を好む者が数多くいるものです。

暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる一方には、そうした人種もいつの時代にもいるものです。ゆえに、すべての者に同じ視野が開かれることを期待してはなりません。そのような夢のごとき同等性は有り得べくもないのです。有り得ないだけでなく、望ましくもありません。

神秘の奥義を詮索するに足る力を授かっている者がいる一方には、極力それを避けねばならない者もいるものなのです。そこで大衆を導く指導者と先達(せんだつ)が必要となるわけです。そ

の任に当たる者は、それなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請されます。それを理性によって律し、我欲を抑え、魂が一切の囚われを捨てて自由に振舞えるようであらねばなりません。そのことに関しては、とうに述べてある。心するがよい。

大方の者がこれぞ真理なりと信じていることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるには及びません。そういうものなのです。真理にもさまざまな段階があります。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられています。

その光の一条(ひとすじ)たりとて、すべての魂によって曇りのない目で受け止められるとはかぎりません。わずかな人間、ごく一握りの者に、その無数の光の中からはぐれた一条、あるいは二条三条、もしかしてそれ以上の光が届くにすぎません。それも、多くの媒体を通して届けられるために、ようやく届いた時は、すでにその透明度が曇らされています。

これはいかんともし難いことです。それゆえにこそ、さまざまな真理の見方が生じるのです。それゆえにこそ、さまざまな見解・誤解・誤謬・錯誤が罷り通ることにもなるのです。真理を豁然として大悟したと豪語しても、その多くは、束の間の真理を垣間見たにすぎません。

それに自己流の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重な真理の光が歪められ、破壊されます。かくして真理が台なしにされて行きます。咎められるべきは、真理の中継者の不完全さです。

深遠なる真理は独り静かに味わうべきもの

あるいは、こうも見ることができる。ひとりの向上心に燃える魂の熱望にこたえて授けられたものを、当人は万人に等しく分け与えられるべきであると思い込みます。そこで宝石が小箱から取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られるのと同じです。

とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとってあれほど美しく愛らしく思えた真理が、忙(せわ)しい生存競争の熱気と埃りの中で、あえなく新鮮味を失っているのを見て驚きます。おのれの隠れ処においてはあれほど純にして真なるものが、世に遺伝されると、見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けるのを知って驚異すら覚えます。

彼がもしも賢明であれば、こう悟るところです – ヘルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、すなわち至聖にして至純なる真理は霊感によって魂より魂へとひそかに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝されるべきものではないのだ、と。

むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石のごとき粗野なものもある。これは言わば、すべての建築者が等しく使用すべき土台石です。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに挑むべきものです。

ゆえに、ヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼はすべての者の目に映じるはずの真理の外形を物語ったのでした。ただし、彼がその奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエスの存在と栄光のみでした。

そなたがこうした事実を悟れずにいることこそ驚異と言わざるを得ません。そなたにとって絶対的真理と思えるものも、実はそなたの求めにこたえて、完全な真理の輪を構成する粒子のひとつ、ほんのひとかけらが授けられたにすぎません。

そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのです。そなたにとってはそれで完璧であり、言わば“神”であろう。が、別の者にとっては不可解なものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことはできません。

見せびらかしたくても、それは無駄です。すぐに生気を失い、その隠された魅力も、人の心を改めさせるだけの力は持たないでしょう。それはあくまでもそなた自身のものであり、そなたひとりのものなのです。そなたの魂の希求に応じて神から授けられた、特殊な需要に対する特殊な供給なのです。

真理というものには秘宝的要素があります。必然的にそうなるのです。何となれば、真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからです。日用品として使用するには、その香気があまりに儚(はか)なすぎます。その霊妙なる芳香は、魂の奥の院においてのみ発せられるべきものです。

このことを、とくと心に留めおかれたい。さらに又、受け入れる用意できていない者に押しつけることは、真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとっては天啓であっても、そうとは思えない者には取り返しのつかない害毒すら及ぼしかねないことも心されたい。

求道(ぐどう)の生活こそ人生の至高の目的

さらに忘れてならないことは、真理のための真理探求を人生の至高の目的として生きることこそ、地上にあっての最高の目標であり、いかなる地上的大望(たいもう)よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高いものであるということです。

人間生活に充満する俗悪な野心については今は取り上げません。虚栄から生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心 – これらは、紛(まご)うかたなき“ソドムの林檎(7)”です。

しかるに、他方には、目覚めた魂へのひそかな誘惑 – 同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げた石塚(ケルン)にもうひとつ石を積み上げんとする心があります。彼らは自分の生活を大きく変えた真理を熱誠をこめて広めようと、勇み立ちます。もうその真理に夢中です。胸に炎が燃え上がり、その教えを同胞に説きます。

その説くところは気高いかも知れません。そして、聞く者の欲求にかなえば、同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れません。が、その逆となるかも知れません。

ある者にとって真理と思えることは、“その者にとって”真実であるにすぎず、その声は荒野に呼ばわる者の声にすぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響きません。彼の殊勝な行為が無駄に終ります。それだけのエネルギーを真理のいっそうの探究のために温存し、人に説く前に、より多くを学ぶべきだったのです。

教えることは結構です。しかし、学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではありません。が、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはなりません。

そして、真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得られたい。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはなりません。その美しさは、つい語りたくなるでしょう。

自分が得た心の慰安を、聞く耳をもつ者に喧伝したく思うかも知れません。が、自分の魂の深奥に、神聖な控えの間、清き静寂、人に語るにはあまりに純粋にして、あまりに貴重な秘密の啓示を確保しておかねばなりません。

[ここで、大して重要でもない質問をしたのに対してこう綴られた – ]

違う。それについては、いずれ教えることになろう。われわれはそなた自身の試練のひとつであのを肩代りすることはできません。迷わずに、今歩んでいる道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道です。が、不安と苦痛の中を歩まねばならないことは必定です。

これまで導いてきた道は、そなたには過去の叡智を摂取し、先駆者に学ぶ必要があると見た上でのことです。地上とわれわれの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によって痛撃を食らうであろうことは、早くから予期していたことです。

愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきました。この分野には過去の神秘学と同じくふたつの側面があり、またそうあらねばならないことを教えたく思います。ひとつの側面を卒業した今、そなたはもうひとつの側面を理解しなくてはなりません。

そのためには、人間と交信する霊がいかなる素性の者であるかを知らねばなりません。それをおいて他に、今そなたを悩ませている謎を正しく読み取る方法はありません。

真理というものが一体いかなる方法によっていかなる条件のもとに得られるものであるか、又いかにすれば誤謬と策謀、軽薄な行為と愚行とを避け得るかを知らねばなりません。

人間が安全な態勢でわれわれの世界との関わりを持つには、あらかじめこうしたことをすべて理解しておかねばなりません。しかも、それを学び終えた暁に、あるいは学びつつある時にも、その成功いかんは、ほとんど、あるいは全面的に、人間側にかかっていることを忘れてはなりません。

求道者たる者は我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純な心を悪疫として追い払い、目指す目的をできるかぎり崇高なものとしなくてはなりません。真理を、万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せねばなりません。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標としなければなりません。

その時はじめて神の使徒によって見守られ、魂の奥に真理の光を見出すことでしょう。

†インペレーター

[注釈]

(1)具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第1次大戦、さらには50年後の第2次大戦も含めてのことと推察される。

(2)ルカ22・53“あなたがた”とはイエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダのことであるが、それは同時に、背後の邪霊集団を意味していると解釈すべきであろう。

(3)詩篇30・5

(4)イザヤ書5・10

(5)Mount Herman シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。

(6)ヨハネ黙示録21・11~21

(7)Sodomapples 外観は美しいが、口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。

■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†■2024年1月27日UP■
■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†
ご母堂の言葉で僕が特に気に入っているのは「悲劇をただの不幸と受け止める事がいかに狭い量見であるか」(29ページ)という部分で、僕は霊性発現とともに使命遂行人生に突入させられ、人生を完全に破壊されて最悪の状態に閉じ込められ続けている関係で霊団を心の底から激しく憎んでおり、本当の本気で反逆しまくっていますが、その破壊された人生も「その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になる」の言葉のように、最終的には全て佳きようにおさまるのでしょう。使命遂行を最後までやり切れば、の話ですが。あともうひとつ、ご母堂の言葉で僕の胸に突き刺さるものとして「確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。」(72ページ)というものもあります。これはオーエン氏が教会長老から弾圧を受けて弱気になっていた事を受けて「勇気をもってこの使命に邁進(まいしん)しなさい」と、言わば母が息子の“おケツをひっぱたいた”という事だと思うのですが、イヤー僕もこういう母に恵まれたかったですね。っとと、僕には“真実の母”守護霊様がいましたね。僕の性格は守護霊様のデザインであり、現在このような使命遂行人生が送れるのも(苦しい事イヤな事ばかりで全然うれしくも何ともありませんが)守護霊様が“導きのプロ”だったおかげです…続きを読む→
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†■2024年2月14日UP■
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†
「ヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語」こちらは現代の人間にも広く知られているモチーフですよね。RPGゲーム等でよくみられる「剣と魔法のファンタジー」の世界観です。ファイ〇ルファン〇ジー等で多くの方がこのモチーフに親しんでいますが、この世界観も元はといえば過去の霊能者が見せてきた霊現象が元ネタなのだそうです。その霊能者の最大の人物がもちろん聖書に登場するイエス様、という事になります。RPGゲーム等で遊んでいる方がたくさんいらっしゃる事と思いますが、その時に頭のホンのかたすみにでも「あぁ、この剣と魔法の世界観は霊現象が元ネタなんだよなぁ」と思い出してもらえると、そして少しでも霊的なモノに興味を持ってもらえると僕的にはうれしいのですがどうでしょう。もっとも、歪められ具合がタダ事ではありません、長い世紀にわたって霊的な事を理解していない人間たちの手によって実際の霊的事象とは似ても似つかない物的商売臭の漂う世界観に完全に書き換えられてしまっており、もはや全く別物と言った方がいいのでしょう。「人間は本来が霊であり肉体はタダの衣服に過ぎない」という霊的真理などは完全に抜け落ちて形骸すら残っていません。だからこそ絶版状態の霊関連書籍の復刊が急務だと僕は思っているのですが……続きを読む→
■アナログ絵361「ベールの彼方の生活3巻」復刊書籍表紙UP。ヨハネ氏です(祈)†■2024年2月29日UP■
■アナログ絵361「ベールの彼方の生活3巻」復刊書籍表紙UP。ヨハネ氏です(祈)†
まず「5章 生前と死後 2 一牧師の場合(127ページ)」ですが、物質界で牧師をしていた男がネインという女性の忠告を受けて1界(これはかなりの下層界です)に赴くというお話ですが、皆さまはこのお話を「あぁ、霊的な事を正しく理解していない牧師の没落ストーリーだな」といった感じに読まれる事と思います。確かにその通りなのですが、どうかもう1レイヤー2レイヤー深いところまでお読み頂きたいのです。このネインという女性はわずか2、3歳で夭折した牧師の妹で、男はこの妹を大変可愛がっていたそうですが、霊格が低いこの男はその成人した姿の女性を自分の可愛がっていた妹だと気づく事ができません。しかし1界で辛酸を味わい尽くし霊的向上を果たした暁にはこの男の霊の眼が開かれ、ネインが自分の妹だと気づく日が(男の様子からするとそれは相当先の話になりそうですが)来ます。必ず来ます。その時にこの男は「あぁ!あれほど愛した妹の事が分からずにいたなんて、自分は何という愚か者だったのだ!」みたいな感じになって大いに涙を流して反省し、そこからこの男の「向上ストーリー」が一気に加速する事になります…続きを読む→

手は止めず作業してますが、このままあの最悪のところに閉じ込められる訳にはいきませんので同僚の方が教えて下さった情報を元にアレコレ調べています。成功確率0%を今度こそ打開できるのかどうか。ただしこの件とは別に“ある脱出アイデア”も実行します。僕的にはコチラがメインです。

霊団が「大後悔」と言ってきています。次回長文ブログのタイミングで意味の説明をするか、もしくはムカつくから削除するかも知れません。ヒドイ意味だからです。もっとも僕の未来を考えればこそこういう事を言ってきてくれていると言えるのですが。

とにかくもう肉体的精神的に完全に限界値である事は間違いない事実ですのでどのみち動かないといけません。このままっていうのは有り得ない。書籍スキャンが止まってしまっていますがまずはアナログ絵380に集中中、できるだけ早くUPさせましょう(祈)†

霊団は何が何でも僕を閉じ込めようと全力を投入していますが、今日同僚の方が思わぬ話をしてきてくれまして、それが脱出につながる(かなり直接的につながる)お話なのです。僕は同僚の話をウンウン聞きながら「これではまるで脱出しろと言っているようではないか、おかしい」と首を傾げていたのでした。

ハッキシ言ってイイ話なのでかなり前向きに考えていますが、要するに霊団がその同僚に働きかけて(同僚本人は全く自覚がなくても無意識のうちにそういう話を僕にするよう霊団に仕向けられているという事があるのです)霊団が僕に「ソッチ行け」と言っている可能性さえ感じます。

同僚からの話は脱出に直結する内容なので実行するつもりですが、それと僕がずっと言っている「ある脱出アイデア」とは別物です。この脱出アイデアの発動日程を既に決めていて、その日が来たら開始するつもりです。ココは変更なしです。

この数年、ありとあらゆる脱出を試みてきて成功確率0%です。今回こそ脱出なるのか。それとも“ある脱出アイデア”の方で脱出成功となるのか。どちらにしてもやります。本当にシャレじゃなくもうこれ以上閉じ込められるのは絶対にムリだからです。肉体的、精神的、ともにムリです。

アナログ絵380作業続行中。書籍のスキャンは一旦止めてます。何もかもいっぺんにできませんものね。イヤでどうしようもないから脱出したいというのが本音の理由ですが、使命遂行の作業時間を増やしたいという(霊団はそれを言い訳と言いたいのでしょうが)もうひとつの理由もあります。やらねばならない作業が恐ろしいほど殺人的にあって全く手が追いついていないからです。

さぁ霊団が同僚を使って手を回してきたとでもいうのか、だとしたら脱出しろと言っている事になる、イヤ、そんな甘い話はない、行った先でもっとヒドイ目に遭わされるという事かも知れません。因果律的に考えるとそのストーリーが濃厚です。もっとも蹴られて結局残される可能性が大ですが…(祈)†
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†■2023年9月20日UP■
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†
友人の守護霊は今ごろほくそ笑んでいるはずです。僕の守護霊様は今ごろ僕の霊団への反逆を見て困っている事と思われますが。人間とは霊界で永遠に生き続ける存在です。人間に死はありません。物質界とは修行のためにホンの一時期だけ降下させられるトレーニングセンターです。肉体は神の摂理で自動的に朽ち果てるようになっており、僕たちの本体(霊)はそれを脱いですみやかに霊的表現媒体に着替えて(幽体、霊体)霊界生活に突入します。この事実からも物質界が僕たちの永遠の住処でない事は明白です。そのホンの一時の束の間の場所についてお勉強する事と、永遠の住処である霊界についてお勉強する事と、どちらがプライオリティが上でしょうか。どちらが賢明かつ自分の霊的進歩向上に役立つでしょうか。そういう視点で自分の人生を考えられる人間こそ賢者と言えるのではないでしょうか…続きを読む→
「簡単に推し測ってはいけません」僕が殺されるのはほぼ決定的、問題はその先です(祈)†■2022年3月9日UP■
「簡単に推し測ってはいけません」僕が殺されるのはほぼ決定的、問題はその先です(祈)†
僕の物的肉眼では全体像が見えませんので、ごく一部だけを見ている僕の意見より全体を俯瞰で眺める事のできる霊団の判断の方が最終的に正しいという事を知識として理解していますので、現在の僕には使命遂行が成功していないように映るとしても、より長いスパンで見た時に、アキトくんの使命遂行によって、あの当時は動きがなかったが、あの活動によって十分に“タネ”が蒔かれ、そのタネがアキトくんの帰幽後に芽を出し花を咲かせ、結果的に「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡、物質界の邪悪の消滅、奴隷の女の子の強姦殺人容認システムの破壊へとつながったのだ。という風になるのかも知れません…続きを読む→
「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†■2023年12月27日UP■
「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†
霊的知識を獲得した人は、宜しくないおこないをして帰幽した先にどれだけの地獄が待ち受けているかを知っているので自動的に悪行にブレーキがかかるのです。シルバーバーチ霊も仰っていますように、邪悪な人間というのは霊的成長における「幼児」であり、霊的知識が全く頭に入っていないワガママのお子ちゃまであり、物的金銭を人より多く所有する事でしか自己表現ができない原初的人間という事になるのです。金銭など帰幽後、1円も霊界に持って行けません。そして霊界生活にお金など必要ありません。必要なものは全て思念で拵える事ができます。物質界生活中にお金をため込んでも自分の未来にとって全く無意味という事を悟れていない人間という事なのです。人間は本来が霊であり、その霊が修行のために一時的にトレーニングセンターである物質界に肉体という鈍重な衣服をまとって降下しているのであり、そのトレーニングセンターでのおこないが帰幽後の生活環境、霊界にて赴く境涯を高くしたり低くしたりするという霊的知識の基本中の基本さえ知らない人間が、その無知から邪悪なおこないをするのです…続きを読む→

[1876年4月26日。本節で紹介する通信は、通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。

数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙されやすく、かつその可能性が十分に有り得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完ぺきな一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、それはまず不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。

ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会で、その友人の映像が写真に写り、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真が撮られた時、私は入神していた。

撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の“面影”が容易に見て取れた。

実はこのケースにはもうひとつ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られた、と述べるに止めさせていただく。

この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真を霊界側がどうやってこしらえているかということだった。それによると、ひとりの霊が私のまわりで活発に動いて、複数の技術者に指示を与えていたという。

像のまわりのあの被(おお)いのようなものは、時間とエネルギーを節約するための処置だそうで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば”スケッチ”程度のものだったという。

そうした部分的物質化の作業にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者がたずさわるという。ひとりの心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似通った傾向が見られるのはそのためだという。

インペレーターとしては2度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力したのは、どうしても協力せざるを得ない時のみにかぎったもので、この度のこともインペレーターの意志にそったものではないとの説明があった。

その友人の霊は生前ずっと私の仲間だった人物で、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。したがって彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易だった。もっとも私はふたりの友人を伴っていて、そのふたりのための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。

そういうわけで、友人はM霊の世話でその交霊会に出席し、M霊が技術者を指示して顔を整え、被いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材でこしらえ、実際にポーズを取り、それから撮影したという。こうした通信のあと、インペレーターが次のように述べた – ]

これよりそなたの友人のことについて述べたいと思うが、その前に、われわれはそなたが再び物理的現象に関わるのを防ぐべく、出来るかぎりのことをしたことを一言申し添えておく。

ようやく落着いてきた正常なエネルギーが再びその方向へ駆り立てられるのを望まなかったからです。そこで、われわれはそなたがその気持にさせられるような環境に置かれるのを阻止せんとしました。

以前にも説明したが、われわれは、そなたがいつまでも物理的段階にとどまっているのを不可として、交霊会を中止させました。友人がそなたに付きまとうのも好ましくないと見ていました。彼は霊的状態が良くありません。ゆえに、なるべくなら彼のことを構わずにいてほしかったのです。

が、いったんこうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばなりません。M霊は、そなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りです。霊と霊との間の親和力の法則です。そなたも知っていよう。

自殺した者の身の上

– 知っています。ですが、親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろその通りの結果が現実に出るのは稀れのように見受けられます。で、彼は今、幸せではないのでしょうか。

どうして彼が幸せであり得よう。神が進歩と発展を願ってその魂を宿した聖なる神殿(肉体)に冒瀆行為(自殺)を働いたのです。霊的成長の機会を無駄にし、真の自我である神の火花の宿る聖殿を、思いのかぎりに破壊したのです。そして今、魂に何の用意も出来ていない見知らぬ土地へ、道連れもなしにひとりで旅立ったのです。

父なる神の前から逃亡したも同然です。その彼がどうして幸せであり得よう。死して不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、さらには、寿命を全うせずして他界することによって地上の縁故者に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。

無益に過ごした生活がその代償を求めます。永年にわたって培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せなくします。生活そのものが利己的であり、地上で目指したものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えていない。

哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚めて精神的再生に至るまで、心の安らぎは与えられません。彼は今、まさしく“宿無し”の身です。

– 向上の望みはあるのでしょうか。

ある。望みはあります。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつあります。霊的暗闇を通して、おぼろげながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつあります。かすかながらも、自分の置かれている荒廃した状態についての知識に目覚め、光を求めはじめています。そなたの近くに留まっているのはそのためです。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばなりません。

– それはもう喜んで…ですが、どういう具合にすればよいのでしょう?

まず祈ってあげることです。祈りの力によって、高い世界のあけぼのを招来してあげることです。不幸な魂に、働くことの楽しい雰囲気を味わわせてあげることです。彼の魂は、聖純にして爽快な雰囲気がどういうものであるかがわかりません。

そなたにとって彼の存在は不快かも知れませんが、そなたがそれを教えてやらねばなりません。そもそも彼を呼び寄せたのはそなた自身なのです。そして彼は、そなたの誘いに素直に従っています。

彼の存在は我慢してやらねばなりません。われわれの警告と願いを無視してやったことであり、もはや取り返しはつきません。せめてもの慰めは、そうした努力によって、そなたも神の聖なる仕事にたずさわることになるということです。

利己主義の罪悪

– 私が呼び寄せたというのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけにはいかないと思います。

責任に問われるべきであったし、今なお問われて然るべきです。彼自身も今そのことに気づきはじめています。彼がみずからを傷つけた最後の罪業の種子は、すでに怠惰な無為の生活の中で蒔かれていた。彼は病的ともいうべき内向的性癖を培い、助長していた。自己のみを考察していた。

それも進歩や発展のためにではなく、また欠点を反省し徳を養うためでもなく、利己的排他性の中で行なっていた。言わば、歪められた利己主義の暗闇に包まれていたのです。それが彼に病をもたらし、あげくには霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられたのです。霊界から鵜の目鷹の目で見張っている邪霊に身をさらしてしまったのです。

その意味において彼は、そなたの言うごとく“狂って”いました。が、その狂気の行為は、彼のそれまでの所業の結果にほかなりません。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に、同じ邪悪な影響を及ぼしています。自分自身への災禍(わざわい)が今や、他の愛する人たちへの災禍となっているのです。

– 本当に恐ろしいことです!天罰の厳しさを見せつけられる思いがします。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよくわかります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。

利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に、多くの魂がこれに蝕(むしば)まれております。まさしく魂を麻痺させるものです。その利己主義がさらに内向的となれば、いよいよもって致命的となります。利己主義にもきわめて毒性の少ないものがあります。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらあります。

たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。

余計な気遣いを避けるために、いかなる指図にも従うわけです。いずれも魂の進歩にとっては障害となるものであり褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とはいえない。

彼の場合は、いかなる善行も活動も伴わない卑劣な利己主義でした。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもありませんでした。いや、自己満足以上のものでさえあった。何となれば、全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が浸蝕されていたからです。

この種の利己主義は自己にとっても縁ある人にとっても残酷な影響を及ぼします。罪にも段階があります。彼の罪はとりわけ度が深かった。これは彼のことではあるが、他人事(ひとごと)としてではなく、そなた自身のこととして聞くがよい。

か、しばし休むがよい。その間にわれわれがそなたの心から邪気を取り除いておこう。

[私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間にある心なごむ光景を見せられ、目を覚ますと、すっかり気分が爽快になっていた。]

自殺は利己主義の極

今ここで彼の無益な人生を事細かに詮索する必要はないでしょう。魂が異常な利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊でした。そなたのいう意味では確かに狂っていた。が、その狂える精神が支配するかぎり、自殺の手を押し止めることは何者にもできなかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのです。

しかし、そなたの罪の評価は幼稚です。あの状態を誘発したのは彼自身なのです。魂そのものが自分を敵に売り渡し、破壊するに任せたのです。彼の場合は、遺伝的精神病が正しい判断と行為とを狂わせたのとは異なります。自殺は利己的怠惰の所産にほかなりません。

理性の力を奪い、自殺という行為へ追いやったのは、誘惑の魔手でした。その誘惑は人によって別の形を取ることもあります。が、自己破滅にせよ、他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足も、その根源においては同じです。

授かった才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛をみずから想像してそれに没入し病的快感を覚えるような魂は、間違いなく病を得ます。存在の原理は活動することにあります – 神のため、同胞のため、そして自己のためにです。

ひとりのためにでなくすべての人のためにです。その摂理を犯す時、必ず悪が生じます。停滞する生活は腐敗し、周囲へも腐敗をもたらします。邪悪であると同時に有害です。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢である堕落の素地を築いていきます。

悪がいかなる形態を取るかは問題ではありません。根源は同じなのです。彼の場合は個人的危害の形を取り、無益な生涯をご破算にしました。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心まで傷つけることになりました。

生命の糸(2)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることができなかった。みずから傷つけた魂の宮が墓地へ葬られたのちも、そのまわりを漂っていた。

無意識のまま、みずから動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる客には歓迎される場はないのです。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様みずから破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められている同類の霊が、次から次へと、薄ぼんやりとした姿を見せる。彼が近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていきます。

良心の目覚めが救済のカギ

その悲劇 – 本人は悲劇であることを半分も自覚していませんが – それを少しでも和らげ、魂を癒やすための手段が講じられることになったのは、初めて良心の心の呵責の身震いが、天使に届いた時でした。

暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいて、その麻痺した良心の回復を加速させ、悔恨の情を目覚めさせるべく、手段を講じたのです。はた目には残酷に映るかも知れませんが、天使はあえて彼の置かれた惨めな状態に気づかせ、その罪の深さを映像として眼前に映し出す手段に出たのです。

悔恨の門をくぐり抜けずして魂の安住の地へたどり着くことはできません。ゆえに苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならないのです。
その努力も、しばし効を奏しませんでした。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は、今や嫌悪感さえ覚えるようになったその悲劇から抜け出す道を手探りで求めはじめました。

が、しばしば元へ引き戻されもしました。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのです。が、実はそうした過程の中にも、彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのです。誘惑霊たちはそうとは気づきません。彼はただその低劣きわまる本能のおもむくままに動いているにすぎません。が、その実、彼らも又、因果律の行使者なのです。

彼が救出される道はただひとつ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じてみずからの救済に勤しむことです。そこにたどり着くまでには、悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばなりません。それをおいて他に魂の清められる手段はありません。利己主義の罪は自己犠牲によって拭わねばなりません。怠惰は労苦によって根絶せねばなりません。

彼の魂は苦難によって清められねばなりません。それが向上進歩の唯一の道です。その道が彼の場合は、過去の誤った生活によって歩行困難、いや、ほとんど不可能にされています。しかし、努力によってたとえ1歩でも進まねばなりません。

しばしば転倒することでしょう。後戻りすることもあるでしょう。が、それによって、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのです。1歩1歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばなりません。

しかも、あちたりを取り巻く誘惑 – 向上せんとする魂を挫折させてやろうと企む邪霊たちのささやきと闘いつつ歩まねばなりません。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばなりません。これをもって“罰”というのです。それが、他のいかなる手段によっても得られない、天国への唯一の道なのです。

罪はみずから償うべきもの

むろん、天使の援助の手は片時たりとも控えられることはありません。向上心の芽生えた霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、天使にとって光栄ある使命なのです。

とは言え、たとえ慰めることはできても、当人の痛みひとつたりとも代りに贖(あがな)うことはできません。摂理への背反の天罰を、ひとつたりとも和らげてやるわけにはいきません。代償として支払うべき余徳などもありません。

友人といえども重荷を肩代りしてやることはできないし、疲れ果てた背中から、それを下ろしてやるわけにもいきません。衰えゆく精力を補い扶助するための補助的援助は許されても、重荷そのものは、あくまでも罪を犯した本人が背負わねばなりません。

それは、無為に過してきた人生が生む避け難い天罰です。それに耐えることによって半ば消えかかった火花がふたたび点火され、魂を導く灯火として、大きく燃え上がることになるかも知れない。

あるいは、そうした天使の声に耳を貸さず、相も変らず暗闇と孤独の中をさ迷い歩き、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛にさいなまれることによってのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れない。

そうした罪障消滅に費やされる期間(とき)は、そなたたちには永遠のごとく感じられるかも知れません。あるいは、状況が固定化する前に魂が目覚め、奮い立つこともあります。そして、必死の努力によって光明へと近づき、みずから進んで浄化のための苦難を求め、残った気力でもって地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れません。

それは有り得ることではあります。が、そう滅多にあるものではありません。性癖はそう簡単に変えられるものではないのです。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものではありません。利己主義や不徳の中で死を迎えた者は、往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境がすなわち地上生活の証にほかならないのです。

かすかながらも向上心の芽生えはじめた彼のために、援助の力が授けられることを祈ってやるがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによって慰められるよう、祈ってやるがよい。彼の病にとっては、そうした祈りこそ最高の良薬です。

[右の通信を読んで私は、これでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺(そ)ぐことになりはしないか – 人間にとっては理想があまりに高すぎる、と述べた。すると – ]

時々刻々の審判

とんでもない!われわれの述べたところでも、まだまだ実情のすべてではないのです。また、いささかの誇張も潤色も施しておりません。彼のような無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇的境遇の真の恐ろしさは、われわれにはとてもそのすべてを語ることはできません。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情がいかに痛烈なものであるかは、とても言葉で言い尽くせるものではありません。

その後に魂がたどる過程は、いかに立派な理想を言ってみたところで、われわれにも、いかんともし難いことです。ただ、永遠にして不変の因果律の働きを述べることしかできません。

身に染みた利己主義と犯した罪過が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることはできません。われわれがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる大神が定め給うた摂理なのです。そなたの身近かに証を見ることのできる法則の働きを指摘したまでです。

いつのことかもわからない死後の遠い遠い先のある日、全人類が招集されて“記録天使”とやらが“審判の書”を提出し、それを手にしたキリスト神がひとりひとりに判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられることなどということはありません。断じてありません。行為のひとつひとつが確実に魂に刻み込まれ、思念のひとつひとつが漏れなく記され、性癖のすべてが死後の性格的要素として持ち越されるという形での審判はあります。そのことを人間が忘れがちであるために指摘しておきたかったのです。

罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要りません。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えておきたいと思います。審判者は魂自身なのです。魂が自分と語り合い、おのれ自身の命運を読み取るのです。参考とすべき書類は、道義的分別の記録のみです。地獄とは、魂みずからが罪悪を焼き尽くそうとする悔恨の炎のことです。

しかもそれは、全人類が他界してしまった遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たな生命への蘇りと同時に始まるのです。気絶状態でもあるまいに、遠い彼方の、うっすらとしたモヤのような光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定(ひつじょう)なのです。

なぜこのようなことを申すかと言えば、われわれについて世間では、霊の教えは宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によってのみ支配され、いかなる行為をしようと、いかなる教義を信じようと、すべての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからです。

われわれはそのような無分別きわまる教理を説いているのではありません。そなたは、今はもうその点の理解ができていよう。が、そなたもそこに至るまでは、繰り返し繰り返し説き聞かさねばならなかった。

すなわち、人間は“みずから”の将来を“みずから”築き、“みずから”の性格に“みずから”押印し、“みずから”の罪悪の報いに“みずから”苦しみ、そして“みずから”救済していかねばならない、ということです。

われわれがこうした人生の暗黒面を取りあげたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからにすぎません。気品と美と天使の支配に満ちた明るい側面については、これまでたびたび言及してきました。

あふれんばかりの神の愛と慈悲、その神とそなたたちとの間を絶え間なく取りもつ天使の優しい心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗い側面 – 孤独と荒廃、邪悪による誘惑の存在について認識を改めておくのも無駄ではあるまい。

絶対的摂理の存在

理想が高すぎるとの意見であるが、そのようなことはない。もしも高すぎということになれば、高き理想は向上心に燃える魂を鼓舞するためにしか役に立たないことになります。

確かに向上心のない魂にとっては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪とによって蝕まれていない者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとっては決して高すぎることはない。

友よ、よくよく銘記されよ。人生には、いかなる者にも逃れ得ぬ摂理というものがある。人生とは旅であり、闘争であり、発展です。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨(いばら)に満ち、難路の連続です。

闘争は目的成就まで絶え間なく続きます。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格からキリスト的大人の霊格への発達です。この摂理だけは絶対に曲げられません。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は望めません。

自分を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されていくのが、永遠に変らぬ必然性です。神より放たれた火花が、その父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのです。

真の幸福は、最高の理想を目指して生きることによってのみ獲得されるものであることを、そなたは今さら説き聞かされるまでもないと思うが、いかがであろうか。

怠惰な者、無精者はそれを知らないこと、邪悪な者、みずから望んで悪事を働く者には縁のないものであることは、改めて説くには及ぶまいと思われるが、いかがであろうか。

地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出るものであり、その道程において克服した危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも、改めて述べるまでもなかろうと思われるが、いかがであろうか。

天使は常にそうした魂を補佐しようとして見守っていること、天使はそのことを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害はこうむらぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが、いかがであろうか。

たとえ勝利の宣言がなされても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えません。勝利は葛藤の末に得られるもの、平和は艱難(かんなん)ののちに得られるもの、そして、発展は着実な成長の末に得られるものです。

[私は、当然そうであると思うと答え、人生の準備期においてはなるべく多くの知識を蓄積し、できるだけ多くの仕事をし、その上で叶えられるかぎりの安らぎを享受すべきであると思うと述べた。しかし、仕事と知識(とくに神そのものと神の未来についての知識)が安らぎまたは安息に先立つものである以上、瞑想の余地がないことになると思うと付け加えた。]

人生の3要素

違う。人生には3つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして3種の敵(3)との葛藤です。瞑想の生活は自己の認識にとって必須のものです。着実な成長の重要素です。それには当然祈りが伴います。すなわち肉体に閉じ込められた魂と、父なる神およびわれわれ神の使徒との霊的交わりです。

次に、魂がおのれを見出していく無数の局面 – 神の声なき声に耳を傾けるための静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえた厳(おごそ)かな神殿にて神を恭々しく讃える聖なる歌の斉唱、さらに又、言葉に出ず、他人の耳にも届かない魂の奥底からの、やむにやまれぬ向上心、こうしたものを通じて、神によって植えつけられた讃仰の本能がそのはけ口を求めるのです。

これは、絶え間ない悪との闘いには欠くべからざるものです。われわれはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張するものです。そなたも今少し安らかな思索の時を持つよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いております。

– 彼の無節操な行為の中には必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことはお認めになるでしょう?

無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそれに宿る魂の意志に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合もよくある。そうした場合には、魂に責任はありません。事故による傷害によって精神に異常をきたすこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もあります。

そうした原因に由来する時は誰にも咎められるいわれはありません。ましてや、公正なる神による咎めは絶対にありません。神は霊的動機と意図によって審判を下されるからです。

われわれがそなたの友人を咎めたのは、あの不幸な結末が、生涯にわたる罪悪の生み出したものであるからにほかなりません。それに関しては彼に責任があったし、今なお責任がある。そして彼も今そのことに気づきはじめております。

全能なる神よ、叡智を育み、そして授け給え。

†インペレーター

[注釈]

(1)F.A.Hudson 英国初の心霊写真霊媒で、本巻ならびに中巻の口絵写真の説明文を参照。

(2)霊的身体と肉体とを結び付けている帯状の紐。日本では古来“玉の緒”と呼び“魂の緒”と綴ることもある。霊視すると銀色(シルバー)に輝いて見えるので、英語ではシルバーコードと呼ぶことが多い。

(3)第30節“イースターメッセージ、1876年”を参照。

「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†■2022年10月12日UP■
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霊格がある一定以上まで高まると物質圏付近に降下する事さえできなくなるそうで、影響力を行使しようにもできなくなる、それで霊力に感応する僕のような人間に対して働きかけて間接的に仕事を前進させようとする訳です。霊界高級霊の方々は自分で最低界に降下して仕事をする事は基本的にできない(ごくまれに使命に燃えて肉体をまとって降下する神霊も存在するそうです、イエス様がその代表ですね)ですので霊力に感応する物質界の人間に仕事をやってもらう事になる訳ですが、僕の霊団に対する反逆ぶりを見ればお分かりのように、ああでもないこうでもないと文句ばかり言って高級霊の言う通りには動いてくれないものです。それで霊界側で作成した使命遂行ブループリントの全てを達成できず霊媒は帰幽し、残りの仕事は次の霊媒を見出してその人物にやらせるという事になるのですが、その霊媒が物質界に全くいないのです…続きを読む→
「あなたを守りたい」これがつまり奴隷の女の子を助けないという意味なのです(祈)†■2022年10月5日UP■
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僕が奴隷の女の子を救出すると、その霊団が降らせて教えてきた物的攻撃に晒される事になり、霊団はその攻撃から僕を守るために奴隷の女の子の救出をあきらめざるを得ないといったような事を言っているのです。そして奴隷の女の子の事をあきらめさせるために交霊会の事をずっと言い続けてくるのです。「アキトくんの気持ちは分からないでもないが、奴隷の女の子たちは自らの罪障消滅のため、霊的向上のために自ら志願してその人生を選択し、奴隷の女の子として物質界に降下した人間なのだ。それよりキミは自分の使命遂行を成功させる事を考えなさい」とでも言っている霊団の声が聞こえてきそうです。要するに奴隷の女の子たちを見殺しにするのは非情というのとは違う、霊的視点に立って考えないと真実の理解には到達しない、という事なのですが、この心の中に渦巻く釈然としない気持ちはどうやっても拭う事ができません…続きを読む→
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†■2023年6月7日UP■
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†
実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えてくるのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたからとて、その本性が変わるものではない。それは誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死とともに俗悪なる魂に一変することがあり得ぬのと同じである。汝らがその事実を知らぬことこそわれらにとって驚異というべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。しかるに汝らは、神を憎み善に背を向けて肉欲に溺れた罪深き魂も、懺悔1つにて清められて天国へ召されると説く。前者があり得ぬごとく後者も絶対にあり得ぬ。魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれていくのである…続きを読む→