本書は、形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えない知的存在が人間のすべてがたどる死後の道程を啓示したものである。
しかしその内容は、モーゼスが幼少時から教え込まれ、大学でも徹底的に研究し、唯一絶対と信じ、かつ、卒業後は牧師として誇りをもって説いてきたキリスト教信仰を根底から覆し、代って真実の霊的真理を説くもので、その働きかけに対してモーゼスがあくまでも人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。
モーゼス自身が再三断わっているように、本書に収められたのは、ほぼ10年間にわたって送られてきた厖大な量の通信のホンの一部である。主としてインペレーターと名のる最高指揮霊が、右に述べたモーゼスの霊的革新の目的にそって啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合からいうと、プライベートなこと、些細なこと、他愛もないことの方が圧倒的に多いようである。
が、それはモーゼスの意志で公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことの方が、科学的ないし論理的なものよりもむしろ人間の心に訴える、という点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。
通読されて実感されたことであろうが、モーゼスにとって、その10年間の顕幽にまたがる論争は人生のすべてを賭けた、正に真剣勝負そのものだった。一切の見栄と打算を排した、赤裸々な真理探求心のほとばしりが随所にうかがわれて、私も訳していきながら、つい訳者としての立場を忘れてその激流に呑み込まれ、ある時は同じ人間としてモーゼスの苦衷に同情の涙を流し、またある時はそうした人間的な情に超然としたインペレーターの凜然とした、それでいて懐の深い、愛の配慮を忘れない態度に、思わず感動の涙を流したことも一再ではなかった。
とくに圧巻といえる“最後通告”をめぐる白熱の攻防のあたりを訳す時は、和服の懐に“タオル”をしのばせて机に向かう毎日だった。“ハンカチ”では間に合わなかったのである。
このたびの改訳のための読み直しに際しても、それは変らなかった。それは、ひとつには高校時代にこのスピリチュアリズムとの出会いがあって以来30年余り、目に見えず耳にも聞こえない、それでいて強烈に魂を揺さぶる影響力によってぐいぐいとこの道一筋を歩まされてきた自分自身が、モーゼスと重ね合って見えたからかも知れない。
ひとつだけドラマチックな例をあげれば、20代半ばに経済上の理由からこの翻訳の仕事に見切りをつけ、大阪のある商社に入社することになって、下宿先まで決まり、荷物をほどいてから、晴ればれした気分で社長宅へ挨拶に伺ったところ、なんと、その前日に思いがけない事情から会社が倒産したことを知らされた。社長の詫びの言葉を聞きながら私は、心の奥で背後霊団の影響力の物すごさと自分の宿命のようなものを思い知らされた。
この道一筋の覚悟はその時決まった。(むろん、いくら大義のためとはいえ、霊団が一個の会社をつぶすようなことをするわけはない。私の“凡夫の迷い”を覚まさせるために、倒産の運命にある会社を選んで、そういうきわどい体験をさせたのであろう。)
モーゼスの苦悩に秘められた教訓
さて、モーゼスは生涯独身だった。求道に生きる人間にとって、“食”を断つには限界があっても、“性”を超越することは大して困難なことではない。そんなことよりモーゼスにとって耐え難かったのは、宗教的信仰の根本的転換だった。
しかもそれが、目に見えず耳にも聞こえない、得体の知れない影響力が自分の手を使って書き綴る通信文によって強要されたのである。それに応じるのは確かに抵抗があったことであろう。よほどの霊的理解力がなくてはできないことであろう。
これほどの大事業のためにあれほどの霊団が霊媒として選んだのであるから、モーゼスは本来よほど霊格の高い霊の降誕だったはずである。それほどの人物にして、なおかつあれほどの精神的葛藤を余儀なくされたのである。この事実から私は、次のふたつのことを推察している。
ひとつは、物的身体に宿って地上に誕生するということは、人間の自覚や想像をはるかに超えて、本来の霊的感覚を大きく鈍化(マヒ)させるということである。
われわれは生まれてこの方、脳を中枢とした意識的生活に馴染み、これを当たり前と思っている。確かに、赤ん坊の時から幼児期、思春期、青年期、そして成人という過程における意識の発達と拡張のパターンは、それ自体、一応完成されたものであり、そのパターンを順調にたどる場合と、それが狂う場合、つまり正常と異常とがあることを考えると、正常に発達した場合にそれがすべてであると思うようになるのは、当然の成り行きであろう。だからこそ霊的意識というものが別個に存在することの理解が困難となるわけである。
しかし、近代スピリチュアリズムによって、それが一種の錯覚であることがわかってきた。われわれも本来は霊的存在であり、霊としての前世(先在)がある。それがこの物的分子で構成された肉体 – といっても実質的には脳髄と連結することによって、本来の霊的波動が物的波動に転換されてしまう。
ここで霊的感覚の鈍化が生じ、それまでの記憶のすべて – 霊としての先在のことも、それ以前の地上での前世のことも – 忘れてしまう。ある霊はこれを“ベールで閉ざされてしまう”と表現している。
高級霊の降誕は国籍離脱の大冒険
シルバーバーチ霊が語ったところによると、霊媒のバーバネルが母胎に宿る以前から英語の勉強をし、母胎に宿った瞬間からその育成に関与し、18歳に初めてその発声管を使用して地上界へ語りかけるようになるまで、ずっとその準備をしたという。ということは、バーバネルの先在つまり霊界における意識的生活においては、シルバーバーチ霊をはじめとする霊団との打ち合わせが出来ていたはずである。
ところが18歳になるまでのバーバネルは霊的なことに関心もなければ体験もなく、ビジネスマンになって大きな仕事をする野心を抱いていたという。18歳になって間もなくいきなりトランス状態にされた時は、そのことに大変な反発を覚えたほどである。肉体に宿るまでの霊的意識と、誕生後の肉体的意識とは、それほど違うものなのである。
本巻にも“地上の救済のために遣わされる霊は、そのほとんどが肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されてしまうのが常です。が、イエスは例外でした”とあり、続編の More Spirit Teachings の中でもインペレーターが霊言で“高級霊といえども、肉体に宿ることによって先在の記憶を失うものです。この種の降誕は一種の自己滅却です。もしくは国籍離脱にも似た行為です”と述べている。
犠牲とか自己滅却とかいうといかにも立派そうに響くが、実は大変な危険を伴う冒険なのである。中には俗世的煩悩に負けて本来の使命を忘れ、とんでもない過ちを犯してしまう高級霊もいる。そういう霊の死後の苦痛は並大抵のものではないらしい。
地上世界は監獄ではない
こうした事実を短絡的に捉えて“地上は監獄だ”などと説くご仁がいるが、とんでもない幼雅な考えである。物質という、波動的にもっとも鈍重な環境で意識的生活を送るためには、それなりの防備機能をそなえなくてはならず、そのために霊的意識が芽生えにくくなるのはやむを得ないことである。
それをもって、バチが当たった者ばかりが送り込まれるところのように思う、そのいじけた考えの方が、私に言わせれば、むしろ“座敷牢的”発想である。
地上世界が、全体としてきわめて閉ざされた世界であることは事実であるが、それゆえにこそ地上特有の生活条件が生じ、そこで、前世で偉かった者も卑しかった者も、聖人も罪人も、その記憶をいったんおあずけにして、初めての地上人生の気持で生きるところに意義がある。前世のことが事細かに簡単に思い出されるようになったら大変である。
重ねて言うが、地上生活はきわめて貴重なのである。死後、霊界へ戻ってから掛けがえのない意義をもつことになる。ある霊界通信によると、霊格と純粋性は高くても、霊力が弱いために、ある界層から上へ突入することができずにいる高級霊が多いという。そういう霊が霊力強化のために地上へ降誕する例はいくらもあるのである。その地上に、われわれは今まさに生をうけている。有り難いと思い、大切に生きねばならない。
霊能者といえども前世の回想は不可能
少し本題からそれるが、最近、米国を中心に、前世へのチャネリングとかがまことしやかに語られ、著書が出版され、それが映画化までされて日本でも話題になっているようである。
が、右に述べたことからも容易に察しがつくように、イエスのような、ごく稀れなケースを例外として、前世をまるでビデオテープを再生するように回想できる人間はまずいないと思ってよい。むろん、瞬間的に垣間見たり直感したりする人は多いであろう。が、そうした体験とビデオ的回想とは次元が異なる。
それをあたかも、瞑目するだけで簡単に見て取れるかの態度で語って聞かせて大金を取る悪徳霊能者がいる。あえて“悪徳”と言ったのは、大金を取るからだけではない。分りもしないものを、いかにも分ったような態度で、いい加減な作り話を聞かせることで余計な先入観念を植えつけてしまい、その後の人生に後遺症のようなものを残してしまうからである。
再生とか前世といった、何の証拠もなく、どこまで本当かの判断もできず、したがって責任も取ってもらえないものは、人間はあまりあげつらうべきではないというのが、私の持論である。原理的に考えても、そんなことが分る人がいるわけがないのであるから、甘言に誘われて、ムダなカネを払ってまで、いい加減な情報を聞かされることのないよう、用心が肝要である。
人類の最大の過ち – 暗黒時代
本題に戻って – では、それほどまでの危険性をはらむ地上への降誕を果たしたモーゼスに、なぜ霊団側は、キリスト教という“誤謬だらけ”と非難する宗教をまっ先に学ばせたのであろうか。
これがもうひとつの重大なテーマであり、本稿の主題でもある。その背景には、地球を霊的に浄化する、つまりスピリチュアライズする(これがスピリチュアリズムの語原)ための大事業の発端となった事情の縮図があるものと私は推察している。
続編に次のようなインペレーターの霊言がある。“イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数がたってからのことでした。そしてそのことは、イエスご自身にとっては迷惑千万なことでした。”
これは中巻で紹介したニケア会議でのキリスト教のでっち上げを示唆しているのであるが、私は、他の数多くの霊界通信を参考にした上での結論として、どうやら地球圏の上層界においては、ニケア会議後ほどなくして到来した“暗黒時代”を予測し、その反動として生じる数々の不幸な出来事に対処する手段を講じた – それが近代スピリチュアリズムであるとみている。(“近代”を付した理由については後で述べる。)
その“不幸な出来事”を具体的に言えば、西洋史に有名な“暗黒時代”は、一口で言えば人間の霊性の抑圧と封殺の時代といえる。キリスト教という人工の宗教の権威を楯に、これと対立するものはもとよりのこと、これとソリの合わないもの、異質のものをことごとく排除していった。
宗教はもとよりのこと、教育、芸術、文化、その他ありとあらゆる面にわたって拘束し、とくに霊的能力をもった者、ならびにこれを信じる者は、悪魔の使いとして拷問・火あぶり・斬首等で片っぱしから処刑してしまった。
まさに血も凍るような時代だった。インペレーターもシルバーバーチも口を揃えて、キリスト教を“呪うべき宗教”と言うが、その背景にはそうした狂った所業があるからであることは言うまでもないが、同時に、それが生み出す後世への悪影響がまた由々しきものだったからでもある。
その暗黒時代は歴史的には一応西暦1000年ごろまでとされているが、実質的にはルネッサンス末期(16世期)まで続き、その余波は現代にまで及んでいると私は見ている。それを如実に物語る格好の例が最近のニュースにあった。
ガリレオがコペルニクスの地動説を支持した“かど”で宗教裁判にかけられたのが17世紀半ばのことで、ガリレオは目が見えなくなったまま獄死している。そのことを“間違ったことだった”と、ローマカトリック教会が正式に認める“法王の声明”が出されたのがつい先頃のことで、ほぼ350年もたっている。
何を今さら勿体ぶって、と言いたくなるが、こうした事実は、巨象のごとく太った人工的宗教組織の病的体質を垣間見せていると言えよう。
霊性を何よりも重んずべき宗教が、その霊を封殺することによって権力組織を構築し維持せんとしたことは、狂気の沙汰としか言いようがないが、この『霊訓』の全3巻を通してインペレーターが繰り返し警告している邪霊集団の存在を考慮すれば、それも納得がいく。要するに邪霊集団がやりたい放題のことをやったということであろう。
知性と霊性のアンバランスが生んだ世界大戦
が、やがて物質科学が急速に発達し、科学万能の時代が訪れる。19世紀にはダイナマイトが、そして20世紀には原子爆弾が発明され、いずれも大規模な殺戮に使用されたと – いうよりは、それが戦争を大規模なものにしていった。ダイナマイトが発明されなかったら、第1次大戦も第2次大戦も起きなかったであろうし、そうなると原子爆弾も発明されなかったはずである。
ダイナマイトを発明したノーベルの遺言によって、それによる莫大な収入を基金とした“ノーベル賞”が創設されたというのは、なんとも皮肉な話ではある。ノーベルの痛恨の償いの気持がそうさせたのであろう。こう述べる私には、ノーベルを批難する気持は毛頭ない。
シルバーバーチによると、知性の発達に霊性の発達が伴わなかったことに、地上人類の悲劇の原因があるというのであるが、そうした原因を生み出したさらに奥の原因を探れば、良きにつけ悪しきにつけ世界をリードしている西欧において、暗黒時代という長期間の霊性封殺の時代があったことに行き着くと私は見ている。
さきに私は、地球圏の上層界において、こうした事態に対処するための方策が検討されたと述べたのは、そうした知性と霊性とのアンバランスを是正するための方策が検討されたと言い変えてもよいもので、まず幽界の上層部から浄化活動が開始された。
というのは、人間の発する悪想念は、ちょうど排気ガスが大気圏に漂いフロンガスがオゾン層を破壊するように、地球の霊的大気圏を汚染しているのである。それを浄化することから始めて、1848年に至ってようやく地上界に直接働きかけるところまで来た。それがハイズビル事件だったのである。
このように、スピリチュアリズムつまり地球浄化のための働きかけは、イエスの死後ほどなくして開始され、それが物質界に及んだのが19世紀半ばだった。そのころはすでに“科学時代”に入っており、欧米諸国の第1級の科学者が心霊現象の研究に熱中した。
これを英国の博物学者アルフレッド・ウォーレスが“近代スピリチュアリズム”と呼んだ。言うなれば科学的スピリチュアリズム – “科学の洗礼を受けたスピリチュアリズム”ということである。
モーゼスは人類の代弁者
モーゼスの『霊訓』はそうしたさ中に届けられた。さきに述べたように、霊媒とされたモーゼスは、地上への降誕に先立つ“先在”の時代に、インペレーターを直接の責任者とする霊団との“打ち合わせ”ができていたはずである。
しかし、いよいよ肉体に宿ってしまうと、少なくとも脳を中枢とする意識には、その打ち合わせのことが蘇ってこない。それが結果的にはモーゼスを、徹頭徹尾キリスト教の擁護者としての立場を固持させることになった。が、私はそこにこそ大きな意義があったと見るのである。
つまりモーゼスをキリスト教の代弁者としての立場に立たせ、呪うべき暗黒時代の産物であるキリスト教神学の誤りと過ちとを説き聞かせた。それにモーゼスが激しく抗弁し、スピリチュアリズムを批判し、かつ嫌悪感をあらわにした。それを受けて立ったインペレーターが懇切丁寧に真実の霊的教義を説いて聞かせた。
読者も同感なさることと思うが、その内容は理路整然として知性と良識にあふれており、霊界側で用意周到な準備がなされていたことを窺わせるものである。が、それでもなおモーゼスは、それをあくまでもキリスト教的観点からしか見ようとしなかった。あまりのしつこさに一時は総引き上げの警告まで出すに至るが、折よく(?)そのさ中に他界した友人の取りなしによって事無きを得る。
危険をはらんだギリギリの選択
そうした、芝居じみたところがみじんもない、魂と魂との真剣勝負の熾烈(しれつ)さがこの『霊訓』の最大の特徴であり、読む者をして、ひとりキリスト教にかぎらず、宗教的教義というものの功罪についての認識を改めさせずにはおかない。
が、それは、ひとつ間違えば取り返しのつかない悲劇に終る危険と背中合わせの、ギリギリの選択だったのである。その大冒険の地上の主役として選ばれたモーゼスは、よほど霊格の高い霊であったことは間違いない。
現今の既成宗教の堕落と逸脱ぶりは、常識をモノサシとして見ても、度が過ぎていることは誰の目にも明らかである。宗教は組織化するときまって堕落する。組織化がすなわち堕落というわけではない。宗教の本来の使命は霊的真理の普及にあるのに、肝心のその霊的真理をおろそかにして、営利追求と権力の座の奪い合いに明け暮れているところに堕落の要因がある。
真実の宗教的生活に組織は無用である。私はよく読者から“面会”の要請を受けるが、すべてお断わりしている。その必要性を認めないからである。
私という1個の人間に会う前に、こうした人類史上永遠に残るであろう高級霊からの教えとの出会いがあったのであるから、もうそれで十分なはずである。ひとり静かに高級霊の言葉を繰り返し味わうことは、その霊と対峙することであり、それこそ最高の宗教的生活なのである。
訳者の立場から言うのはどうかと思いながらも、あえて言わせていただけば、インペレーターやシルバーバーチといった高級霊の教えがこうして日本にも紹介されることになったのも、霊界側の計画の中に組み込まれていたはずである。
高級霊が働きかける時のビジョンは、人間の想像をはるかに超えて遠大であり緻密である。私はその紹介者のひとりにすぎない。その使命をこうして曲りなりにも果たすことができて、私は厳粛な気持の中に喜びを噛みしめているところである。
ついでに申せば、私が紹介したこれらの霊的啓示に匹敵するものは、これ以後、百年単位でなく千年単位の将来にかけて、まず地上世界へはもたらされないであろうと確信する。それほど、その淵源も内容も崇高なのである。
今こそ迫られている人類の課題
人類は、この地上に誕生してからまだ日が浅い。青二歳といってよい程度の年令であろう。その若さゆえに犯してきた数々の過ちや愚行のツケが、今、地球環境の破壊という形で回ってきている。
メルキゼデクに始まった高級神霊の降誕という形での霊力の流入はイエスをもって終了し、今、スピリチュアリズムという名のもとに、霊界からの働きかけとなって進展している。
そうした中にあって、皮肉にもイエスの名のもとにこの地上に呪うべき害毒を残したキリスト教を俎上にのせて、地上という物質界に身を置く人間としての正しい生き方を説いたこの『霊訓』は、人類にとって計り知れない意義をもつものと信じる。
モーリス・バーバネルがその全生涯を入神霊媒(トランスミーディアム)として、シルバーバーチの叡智あふれる教訓の通路となったように、ステイントン・モーゼスも、主として自動書記霊媒(ライティングミーディアム)として、インペレーターの峻厳な教訓の通路としての生涯を終えた53歳の若さだった。
そうした犠牲的生涯を送った“使者”の労苦に報いる道は、ひたすらその教えを日常生活の中で実践・体得していく以外にないであろう。
平成2年6月
近藤 千雄
謝辞
本書の翻訳に当たって、キリスト教関係の用語については鎌倉の元牧師・山本貞彰氏に、インド思想関係の用語についてはインド哲学ご専門の東京外語大学教授・奈良毅氏に校閲していただいた。といって、最終責任は、むろん、私・近藤にある。ここに記して感謝の意を表する次第である。
「地上にいる時間はもうそんなに長くない」だったらやるべき事をやり切れよ(祈)†
例えば守護霊は自分が守護を命ぜられた人間が物質界降下の目的を達成できずに(カルマの解消、罪障消滅等)下層界に落ちる事になったら、守護霊側もその責任を負う事になるのだそうです。今回の僕という霊の道具を使用しての霊的使命遂行の霊団(100の光の霊団)も、ここまで事態を悪化させるに至った責任を霊界側で取らされる事になるのかも知れません。そしてそれはもちろん僕にも当てはまり、僕も帰幽後にキビシイ状態にさせられるのは明白です。(反逆の責任を取らされるという事)で、僕はその覚悟で反逆していますから自業自得という事でヨシとして、とにかく仕事は前進させてくれよ。全部とは言わない、何なら少しでもいいよ。とにかく肉眼に映じる結果を出してくれよ。僕は復刊というカタチで肉眼に映じるアウトプットをしようとしている。それの何が悪いって言うんだよ。僕という霊媒が機能しないんだからこうするより他にどうしようもないだろ。僕が単純に思う事は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁をもっと霊的に攻撃しろよ、という事です。霊障の嵐をコイツらに降らせて震え上がらせるなど理想的だと思うのですが、そういう事も一切やろうとしない。僕の事は「愛の試練、霊障イペルマルシェ」でチクチクいじりまわしてきやがるくせに…続きを読む→
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†
しかし僕の心が完全に霊団に対する怒り憎しみに包まれてしまっていて(絶対ムリと分かっていますが)地球圏を離れたいと切望するほどになっています。つまり僕は帰幽後に地球圏の仕事をやるのに適さない人間になってしまったという事になり、それで霊団がしょっちゅう「ゴメンね」とか「残念だ」とか言ってくるのではないか、という予測もあったりなかったり。ただ、仮にこの最後の予測が正解だったとしても、僕をそうさせたのは他でもないあんたたちだろ。守護霊様の管轄内で生活していた時は僕は現在のような精神状態には全くならなかった。Dreamwork一直線で迷いなど全くなく、山に行き続けてはシカちゃん鳥ちゃんに話しかけるような人間でしたので(純粋だったという事)100の光の霊団も守護霊様と同じような導き方をしていれば僕をこんな精神状態にしてしまう事もなかったはずなのです。100の光の霊団、特に支配霊バーバネル氏に僕が言いたい事は「守護霊様を見習えよ」という事です。霊性発現前は全てがうまくいっていた。そして超速的に霊性発現に到達した。守護霊様の導きは空前絶後の大成功だったと僕は思うのです。…続きを読む→