[旧約聖書の時代と新約聖書の時代との間に記録のない時代があることについて尋ねてみた。]
霊力の満ち引き
その時期の記録は何ひとつ残っていません。その期間は、霊界からの働きかけが、特殊な場合を除いて、控えられたからです。そのことについては今は詳説しません。われわれが今目的としているのは、メルキゼデクに始まりイエスに至る大いなる霊力の流れを指摘することにあるからです。
取りあえずそなたとしては、その期間は暗黒と荒廃と霊的飢饉の時代であったこと、そしてその時代が終ったのち、ようやくわれわれが再び人間の心に黎明への希望を目覚めさせることを得たところであると理解すればよい。
今その最初の光が射し込んだ – その光の中のささやかな一部をわれわれの霊団が受け持っているのです。人間がようやく辺りの暗黒に気づき、その帷(とばり)が取り除かれて光が射し込むことを待ち望んだからです。
同じことがすべての民族についても言えます。時として地上的・物質的要素があまりに強く蔓延し、霊的なものが完全に地上から消滅したかに思える時期がありますが、実際にはそうではありません。
暗黒の時期が去り黎明の時が到れば、潜んでいた霊的胚芽が芽を出しはじめます。再び霊力の流れが起こり、人間はかつての真理より一段と高い霊的真理に目覚めます。その過程はあたかも、その日の仕事に疲れた者が休息を求めて横になるのにも似ているでしょう。
あたりのことが皆目わからない。精神は心労で擦り減り、身体も疲労困ぱいです。内外ともに陰うつな空気が漂っている。やがて寝入ってしまう。そして睡眠によって身体は元気を取り戻し、精神は立ち直り、太陽が再びその温かい光を注いでくれていることを知ります。その時、夜明けに味わう、あの躍動する喜びが蘇ります。
人類はその長い歴史において同様の体験を繰り返してきたのです。その時まで満足していた古い霊的教訓に知性がうんざりしはじめます。と同時に、物的要素が勢力を揮いはじめ、疑念と仲違いが生じ、根を張り、その影響が出はじめます。
それまでの真理がひとつまたひとつと疑いの目で見られるようになり、ひとつまたひとつと否定されていきます。そして、ついに神の真理の光が人間の目から被い隠されたことを自覚します。
太陽は霊的地平線の彼方へと沈み、不活発と陰うつと暗黒の夜が始まります。神の使者も活動を手控えます。地上を無知と絶望の夜が支配するにまかせ、眠れる魂が目を覚まして光を求める時期の到来を待ち望みつつ、ひたすらに耐え忍びます。
魂は死んだのではなく、ただ眠っているにすぎません。いつかは必ず訪れる覚醒の時期が到来します。そして、その夜明けの黎明の中において神の使者は、暗黒と絶望の中に光と喜びをもたらしてくれた神への讃歌を、高らかに謳(うた)うのです。
旧約聖書の最後の記録とともに終息した霊的期間と、新たに黎明期を迎えた霊的期間との間には、このような暗黒の時代があったのです。そなたたちの時代のすぐ前に、その黎明期があったのです。今こそわれわれは、そなたを霊的黎明に向けて導かんとしているのです。
疑ってはなりません。そなたにとっては今こそ黎明期となるべき時期であり、その夜明けは新たなる知識の夜明けであり、より広き知識の夜明けであり、より確信に満ちた信仰の夜明けとなることを疑ってはなりません。
その夜明けの光は前期の黄昏どきの薄明かりよりはるかに強く、かつ鮮明であることでしょう。ひたすらに待ち望むことです。その夜明けの光を見落とし、再び寝入り、折角の好機を見失うことのないよう、啓示への備えを怠ってはなりません。
啓示の需要と供給
[そうした暗黒の時期はかならず啓示の時代の前後に訪れるものなのかとの問いに – ]
用語が少しばかり適切さを欠いております。その時期はかならずしも“暗黒”の時期とはかぎりません。動揺と内的興奮のあとの休息と安らぎの時期であることもあります。地上生活に譬えてみれば、身体が栄養補給のために休息の時を必要とするのと同じです。
地上人類が摂取しうるだけの真理はすでに十分に与えられています。さらに多くを必要とする時期までは、それまでの過程が継続されます。真理が啓示されるには、それに先立って真理への渇望がなければなりません。
– ということは、啓示はまず内部から発するもの – つまり主観的ということでしょうか。
内部的希求と外部的啓示とが一致するということです。さきにも述べたように、人間は受け入れる能力にあまるものは授かりません。背後霊の指導のもとに徐々に意識を広げつつ、ある段階に至れば一段と次元の高い知識の必要を痛感します。その時こそ新たなる啓示が与えられる時です。
神学者の中には、人間みずからがその内的思考力によって論理的ないし思索的思想体系を生み出すのではないかと弁ずる者がいるようですが、彼らは神の使者たる背後霊というものの存在を知りません。
この通信が始まった当初われわれは、人間は霊的指導の媒体にすぎないと述べました。自分の思考の産物と思い込んでいるものも、実は背後霊の働きかけの結果なのです。
優れた神学者の中には真相のかなり近くまで踏み込んでいる者も確かにいます。その者たちが、もしも背後霊の存在についての知識を持ち合わせていれば、バイブルが完全にして誤りのない啓示であり、一言一句たりとも付加あるいは削除は許されないものと思い込んでいる者よりも、さらにさらに真相に近づくことができるであろうに、と残念に思います。
地上の人間の実生活にとっては、人間の思考作用と啓示との関連性について、あまり細かく分析・検討する必要はありません。分離できないものを分離しようとしたり、断定できないものを断定しようとしてみても、しょせんは迷いを深めるばかりです。
そなたとしては、要するに霊的準備が知識に先行するものであること、霊的準備さえ整えば進取的精神は真理へのより高い見解を獲得するものであること、そしてその見解が実は背後霊の示唆にほかならないことを知れば足ります。啓示というものは人間の必要度と相関関係にあるのです。
人間の独自性の主張は愚か
真理普及の仕事において、人間がしきりに自分の存在価値を求めようとすることに、われわれは奇異の念さえ覚えます。いったい人間はどうありたいと望むのでしょうか。
背後から密かに操作せずに、直接五感に訴える手段で精神に働きかけ、思想を形成すればよいとでもいうのでしょうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせるように、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも思っているのでしょうか。
われわれが厳然たる独立性をもつ存在であることを示すに足るだけのものは、すでに十分に提供したつもりです。われわれの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われわれがそなたの精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしいと思います。
われわれはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなるのです。われわれの仕事にとって不必要なものまで取り除いているのではないかとの心配は無用です。
– そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確保しておきたいという気持はあります。また、偉大な思想家の中には、もっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者も大勢います。彼らが言うには、人間は自分に理解できないものを受け取るわけがないし、自分が考え出したはずもない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有りえないというのですが…。
そのことに関してはすでに述べてあります。それがいかに誤った結論であるかは、いずれ時がたてば、そなたにもわかるであろう。そなたはわれわれの仕事を何やら個性をもたない、自発性のない機械のように考えたがるようですが、それに対してわれわれは断固として異議を唱えるものです。
第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとで行なっていると思うこと自体が誤りです。そなたには単独的行為などといえるものは何ひとつない。常にわれわれによって導かれ、影響を受けていると思うがよい。
[右の通信から数日後に私は、この霊訓から得た新しい光に照らしながら福音書を読み直してみた上で結論を述べてみた。それまでとはまったく異なった角度から観たもので、それが正しいといえるかどうか、新しい解釈といえるかどうかを尋ねてみた。]
大体においてその結論が正しいといえよう。が、格別に新しいものではありません。これまでも神学的束縛から脱して障害もこだわりもなく真理を追求した者は、とうの昔にそうした結論に達しています。その啓示を得た者は大勢いるのです。
モーゼスの不満
– では、なぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのですか。面倒が省けるでしょうに…。
そなたはそなたなりの道をたどって結論に到達する方がよいからです。それから、それを他人の結論と比較すればよろしい。
– あなたの態度はいつもそうです。まわり道をさせられているように思えてなりません。仮りにあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに長い間、私を誤謬の中で生きさせてきたのですか。
それは、すでに述べたように、そなたがその真理を理解する状態になかったということです。これまでの人生は、そなたが思うほど長かったわけでもないが、進歩のための周到な準備期間でした。その時点においては有益であり、進歩を促進するものでした。
が、それとても、より高い真理の理解へ導くための準備であったということです。今の段階についても同じことが言えます。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことがなぜあれほどまでに驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることでしょう。
そなたの全存在である霊的生命は、常に進歩を求めます。が、その初期は、その後の発達のための準備期間にすぎません。
神学もそなたの訓育の一環としてどうしても通過しなければならない必須段階のひとつだったのであり、われわれとしても、そなたがその誤った見解を摂取していくのをあえて阻止しなかったし、また阻止しようにも、できなかった。その誤った教義をそなたの精神から取り除くことが、これまでの仕事における最大の難題でした。
が、われわれはそれを着々と片付け、今やそなたの目にも、啓示の問題に関して、われわれをしてその誤った見解を取り除き正しい知識を吹き込むことを可能ならしめた数々の知識を見出すことができるでしょう。
神学の中にあってはいかに尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われわれは何も為し得ません。われわれとしては、人間を通して得られる啓示に、それがバイブルの中にあるなしに関わりなく、それなりの価値をそなたが見出せるようになるまで待つほかはありません。
議論に際して何かというとバイブルを持ち出すようでは、われわれは何も為し得ません。そのような者は理性的教育の及ぶところではありません。
イエスの生涯とその訓えの中には、われわれの側から照明を当てる前に、そなたみずからの判断で改めて検討し直すべきことが数多く存在します。その生涯に関する記録を検討すれば、多分そなたは、その信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されることでしょう。
イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説 – イエス自身が説いたものとイエスの御名のもとに説かれているもの – それから奇跡、磔刑(はりつけ)、そして復活へと目が向くであろう。
また神および同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれわれが説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子たちの見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懺悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目にとまることであろう。
真理の探求には勇気が必要
今やそなたも、そうした問題について正面から検討する用意ができた。これまでのそなたは、そうした問題については先入的結論をもって対応するのみでした。まずもって、その記録の信憑性を検討するがよい。
そこに記載されている言語のもつ正当な価値を検討することです。誇張的表現をそぎ落とし、事実そのものを直視されたい。神がかり的表現を冷静な理性の光に照らして検討されたい。
伝説・神話・因襲の類いにすぎないものを払いのけ、何ものにも拘束されずに、たどりつく結論を恐れることなく、勇気をもって自分の判断力ひとつで検討してみられよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求するのです。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考するのです。
そうした勇気ある真理探求は、それまで夢想だにしなかった知識と、いかなる在来の教義も与え得ない安らぎを与えてくれることでしょう。自分ひとりで求めたことのない者には知り得ない、神とその真理とを知ることでしょう。
はるか遠い他国をひとりで訪れそこに生活してみてはじめてその国の真実の姿を知り得るように、神の真理についてその実相に触れることでしょう。その者の背後には啓発の任務を帯びた霊団 – 人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することでしょう。
かくして旧(ふる)い偏見は崩れ去り、誤謬は新たな光に後じさりし、それ相応の暗闇の中へと消えて行き、魂は、何ものにも囚われない目で真理を見つめることになるでしょう。何ひとつ恐れることはありません。イエスもこう述べております – “真理こそ魂を解き放してくれるのです。その時、真実の意味であなた方は自由の身となるのです”(2)と。
[私はそれが現実に可能であるならば、何を犠牲にしても、ぜひそうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして自分ひとりであがくにまかされていることに不満を表明した。]
われわれは決してそなたを放置しておくわけではない。援助はします。が、そなたが為すべきことを肩代りすることはしません。それはそなた自身において為さねばなりません。そなたが努力していれば、われわれも真理へと手引きします。
われわれを信じて、ぜひとも実践されよ。それが最良の道であり、それ以外には真理を学ぶ道はありません。われわれが語って聞かせたところで、そなたは信じようとしないであろうし、理解しようともしないでしょう。
キリスト教の啓示の問題以外にも、そなたが目を向けねばならないものが数多くあります。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響力の流れ等々の課題があるのですが、今はまだその時期ではありません。
これにて止めよ。神の啓発のあらんことを。
[注釈]
(1)背後霊についてのくわしい解説は上巻第1節に出ているので参照していただくことにして、ここで一言だけ付け加えれば、“背後霊”という用語は善なる霊、つまりその人間のためを思っていてくれている霊のことを指しており、意識的にせよ、無意識的にせよ、何らかの障(さわ)りを起こしている霊は含まない。これは因縁霊とか憑依霊と呼ぶべきである。
(2)ヨハネ8・32ほか。中巻18節の後注(3)を参照。
「僕、たきざわ彰人はもう小我で先行してはいけません」交霊会の事を言っているのです(祈)†
自分という存在の根源についての疑問を心のホンの片隅にでも入れておく事で、いつかそのタネが花開くキッカケを掴みやすくなると思うのです。霊的なモノをお勉強すればするほど物質界にはびこる数々の邪悪な諸問題の根本原因が「霊的知識の無知」にある事がことごとく理解できるようになります。肉体の死後も霊的身体をまとって霊界で永遠に存在し続ける、物質界生活時の行為、思念が帰幽後の自分の生活環境を決定する、物質界の金銭は一時的預かりモノであって自分のモノではなく、帰幽と共に全てを物質界に残して心ひとつで霊界に出発する、つまり物的金銭を蓄積しても自分の未来に何のプラスにもならない、こういう事を理解していない人間が利己的動機で同胞を虐げて自分だけ物的利益を得ようとしている、それが邪悪の根本原因だと考えます…続きを読む→
「飴(あめ)ちゃん投げつける」僕の反逆に対して霊団が猛烈に不快感を示しています(祈)†
認めたくありませんが、まぁ脱出は結局実現しないでしょう。最後の最後まで閉じ込められる事になるでしょう。しかしそう思ってあきらめながら暮らすのは僕的には絶対に有り得ないのです。僕はいつでも全力です。自分にできる事を全力でやるのです。とにかく当分は絵を描き続けます。死んだ魚の眼をしながら無目的でただ物質界に残り続けるなんて死んでもガマンできない。何かに燃えなければ生きられない。霊団が使命遂行やる気なしの態度をこれほどハッキリ撃ち出しているんだから僕は僕本来の燃えるモノを追いかける以外にないだろう。いつかは反逆から手を引かざるを得なくさせられるだろうと容易に予測できますが、その「下を向きながら生きる」姿勢が許せないんだよ。最後の1秒まで全力でやるべき事をやれよ。人の人生これだけブチ壊してるんだから責任を果たせよ…続きを読む→
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†
僕に情報拡散をさせてきっかけを作るところまでは許されたが、それ以上の干渉は許されていないという事なのではないか。で「今回では達成されません」というインスピレーションもありますように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体に関する情報拡散は進み、人々の洗脳は相当に破られて真実の理解が浸透するが、僕の物質界生活中に邪悪の滅亡までは到達しない。その実現は僕の帰幽後に別の使命遂行者によっておこなわれるか、もしくは特定の人物によるものではなく人々の認識の広まりによって自動的にそういう風になっていくとか、そういう事を霊界側は考えているのかも知れません。平たく言うと「無血解決」1滴も血を流さずに邪悪を滅ぼすという事です。僕の物質界生活中に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅ぼそうとすると僕なり誰かなりの血が流されてしまうので霊界側はそこまでゴリ押ししようとしない。何しろ霊界には時間の概念がありませんので僕だろうが次の使命遂行者だろうがそんなモノは大した問題ではないはずです。が、僕から言わせてもらえればその生ぬるい考えがムカつくんだよ。決める時にバシッと決めろよ…続きを読む→