まずは昨日の山の撮影画像をUPですが、ホントにねぇ、あんたたちは人を何だと思ってるんですか。コッチは物質界に身を置いてるんだよ。あんたたちみたいに思念で全て拵えられる世界じゃないんだよ。心に思っただけでテキストが書かれるんじゃないんだよ、手で撃たないといけないんだよ。

あんたたちは人の霊聴にピーチクパーチクしゃべくればそれで仕事終わり、コッチはそれをテキストに落とし込まなきゃいけないんだよ。軽々しく大量に降らせてくるんじゃネィよ。考えてから行動してくれよ。ムカムカムカムカ…まぁまた大量にインスピレーションを削除して撃ち始める事になります、どう考えても撃ち切れる訳ないので。さっそく行きましょう(祈)†

標高を上げての撮影時の気温3℃、しかし風がほとんどなかったので撮影はやりやすかったですが雲が多く、完全なグラデーションとはなりませんでした。しかしひとりの人間が山でできる事は与えられた環境で撮れる限りのモノを撮るだけです。余裕のないギリギリの行動時間の中で連続撮影してきました。

そして明日の長文ブログは一応書けるのですが、最悪にも限度がある。しかし先週ムカついて説明をキャンセルした事もありますので今回はガンバってテキスト撃つしかないでしょう。もぉぉやだこの人生。使命遂行やる気がないなら…っとと、明日書きましょう。

明日の自分を助けるためにもう少し作業をしてからダメージの回復に入ります。ロングドライブをやめたい、山の麓に移住したい。しかしそれも霊団に阻止されています。んんん絶望感がスゴイ(祈)†

もう明日の山の準備です、明日はたぶんグラデーション撮影ができると思いますのでそこに集中しないといけません、今日の作業はココまで、アナログ絵375のUPは長文ブログUP後とさせて頂きます。

で、次回長文ブログネタとなるインスピレーションが降っているのですが、本当に人生最悪と言っていいほどのヒドイ事を言われていまして、これをどう表現、説明すればいいんだろうと途方に暮れています。もうヤダ、物質界に残っていたくない、終わりにしてくれ、試練にもほどがある、ヒドすぎる。

この気持ちをいったいどう表現したらいいのでしょうか。まさに「殺されるよりヒドイ」状況です。そこまでしてイジメなきゃいけない特別な理由が僕の前世にでもあるというのか。そんな覚えは一切ない。

んー実は近藤千雄先生からインスピレーションが降ってまして、それ自体は感謝なのですが、言われた事は最悪で、ひょっとしたら先生は「100の光の霊団」のメンバーなのかも知れません。チョチョチョこのタイミングでは説明できませんのでアタック帰還後に。まずは山の撮影に集中中(祈)†

「我が身を疑うな」僕という霊媒が機能する事を疑うなという意味、もうウンザリだよ(祈)†■2023年8月23日UP■
「我が身を疑うな」僕という霊媒が機能する事を疑うなという意味、もうウンザリだよ(祈)†
僕の正直な所感としては、その大キライで全力で離れようとしている場所に留まる事が僕の霊媒発動につながるとは全く思えません。まるっきり関連性がないと思っています。もしその場所に留まる事で僕という霊媒が機能して新規の霊言が降ってくるというのなら、あんたたち(霊団)はこの11年間なにをすっとぼけて見てやがったんだよ、という事になるからです。僕が全力で脱出しようとして霊団に最大級に反逆しているその場所が、霊的仕事に適した場所だというのなら、この11年、なぜオメィラは1度たりとも僕という霊媒を使おうとしなかったんだよ、僕を脅してずっとそこに閉じ込める事に成功してただろ、いくらでもチャンスがあったはずだろ、なぜ今をもってしても交霊会をやろうとしないんだよ、そこがどう考えてもおかしいのです。どうやっても納得できません。あげくの果てに「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させるつもりがない、奴隷の女の子たちは完全に見殺しにするつもり…続きを読む→
「身の安全」とにかく僕の身に危機が迫っていて霊団はそれを回避させるつもりのようですが(祈)†■2023年10月11日UP■
「身の安全」とにかく僕の身に危機が迫っていて霊団はそれを回避させるつもりのようですが(祈)†
どんな死に方をしても霊体には一切ダメージはありません。飛行機事故だろうと爆死だろうと溺死だろうと。そもそも肉体と霊体では振動数が違いますので。しかし、いわゆる自然ではない急激な死に方をすると、もともと人間は肉体からそういう急激な離れ方をしないようになっているので、帰幽後に霊体(幽体)の調整が必要になり、場合によってはそれが長くかかる事があるそうです。つまり日航ジャンボ機墜落テロで500人もの国民が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁(美智子)の手によって殺されましたが、それと同じようにこの強姦殺人魔どもは僕、たきざわ彰人の事もだまし討ちで飛行機に乗せて墜落死させようと画策している事は十分に考えられる事です。そうなった時、僕は肉体から自然ではない急激な離れ方をする事になり(かといって霊体になんのダメージもありませんが)調整が長くかかってしまって霊団が僕の帰幽後にやらせようとしている指導霊の仕事に支障が出てしまうから結果殺されるとしてもそういう急激な殺され方にはならないようにしている、という事かも知れません…続きを読む→

1917年12月17日 日曜日

これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解したかぎりにおいて述べました。そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて1歩1歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。

吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。

流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れをも摂り入れていく。人間の生命も同じです。その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。

川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。

が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるにすぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変らず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終りであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。

また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力をもつ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。

それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。

生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へと届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽(さわ)やかに、そして充実させて、次なる仕事に取りかかるのです。

– どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。

それは大変です。数も多いし内容も複雑なので…。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。吾々の本来の界(第10界)の丘の上に聖堂が聳(そび)えています。

– それはザブディエル霊の話に出た聖堂“聖なる山”の寺院のことですか。(第2巻8章4参照)

同じものです。“聖なる山”に聳(そび)える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その10界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りてこられる霊が格別に神聖だからであり、又、10界の住民の中で次の11界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。

それには長い修行と同時に、11界と同じ大気の漂うその聖堂と麓(ふもと)の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処(すみか)となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。

吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。

– 向上するための資格を身につけるためですか。

今のべた目的のためではありません。そうではない。11界の大気は“いつも”そこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節にかぎってのことです。

さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお1人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分といっしょに中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰1人として中に入ったことのある者はいなかったからです。

するとその方がにっこりと微笑(ほほえ)まれ、その笑顔の中に“大丈夫”という安心感を読み取り、何の不安もなく後について入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。

入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの – 貴殿らのいう青空天井になってる。

柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載(の)っている梁(はり)には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが1つだけある。

それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が1つも付いていないことで、これは、その聖堂全体が1つの界と次の界との通路にすぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。その長くて広い柱廊を一ばん奥まで行くとカーテンが下りていた。

そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控の間にたどりついたばかりだった。

その控の間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。

吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。

「皆さん、この度あなたがた霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界のための仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫(しばら)くお待ちください」

言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。さきほどの方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイアを散りばめたように漂っていた。やがて吾々に近づかれると手を差し出され、1人ひとりと握手をされた。

そのとき(あとで互いに語り合ったことですが)吾々は身は第10界にありながら、第11界への近親感のようなものを感じ取った。それは第11界の凝縮(ぎょうしゅく)されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。

吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。

秘密というのではありません。人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。

お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。

– 生身の人間ですか。

さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく“悲哀(かなしみ)の人”イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた –

“これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵(かな)わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しはできぬであろうよ”と。

その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて1度も安らぎの気持で見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。が、死に瀕(ひん)しているイエスの目はおぼろげであった。

もはやユダを見る力はない。唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気(ひとけ)のない場所でみずから命を捨てた。帯をはずして首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして2人は同じ日に同じ“木”で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。

さて、霊界へ赴いた2人は意識を取り戻した。そして再び相見(まみ)えた。が2人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして“赦”しを携えて再び訪れるべき時機(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身をゆだねさせた。

つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。

(* イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと“お前もイエスの一味であろう”と問われて“そんな人間は知らぬ”と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて“あなたは今夜鶏の鳴く前に3度わたしを知らないと言うだろう”と忠告しておいた。訳者)

しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)

以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ち帰って罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。

犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。

さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。

願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者と共にいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。

訳者注 – ここに言う“赦し”とはいわゆる“罪を憎んで人を憎まず”の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。

因果律は絶対であり“自分が蒔いたタネは自分で刈り取る”のが絶対的原則であることには変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の1つであろう。

「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†■2023年7月5日UP■
「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†
物質界の評価に1ミリも興味はありませんので僕が物質界レベルで軽蔑嘲笑を受ける事になろうと知った事ではないのですが、ただ悲しいのは「僕が自分の人生を犠牲にしてこれほどの活動をしても、それでも皆さまの眼は開かれないのか」という事です。僕が殺されたあと、僕という人間を侮辱する、僕の人格を全く別物に書き換えるインチキ書籍が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の手により複数出回ったとして、それをアッサリコロッと皆さまは信じてしまうというのでしょうか。物質界に興味がないと言っている僕でさえ悲しくなる眼の閉じっぷりです。僕の事は何とでも思って頂いて構わないとして、少なくとも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳だけは撃ち破ってもらわないと皆さまが帰幽後に恥ずかしくて居たたまれなくなると思うのですがいかがでしょう。帰幽後の霊界人生が人間の本当の人生です。そちらに照準を合わせて日々の生活を送らないといけないんですよ…続きを読む→

アナログ絵374

はい、また事実に反する絵を描いてしまいました。ヘリについては何をどうググっても一切何の資料も出てきません。それはそうです聖書にも登場しない人物「イエスの少年時代」の中でのみ語られている人物ですから画像が残っている訳がありません。

ですのでヘリの外見を想像する事は一切できないのですが、当時の成人男性は大抵ヒゲもじゃの感じでしょうから、たぶんヘリもそういう感じだったのだろうと予測しますが、どうにもそのヒゲもじゃが描きたくなかったので、僕の勝手なイメージでこのようなキャラに描かせて頂きました。少年期のイエス様の真実の兄貴、みたいなイメージです。

本当はこのヘリを表紙に採用したかったのですが、事実に反する絵を表紙にする訳にはいかなかったので無難なところでももちゃん、シルキーの絵とし、ヘリはこのように「ボツ絵」というカタチで巻末に掲載する事としました。

さぁこの絵を追加して「イエスの少年時代」の書籍データを完成させて、校正刷りを同梱してあるところに手紙を送付するつもりですが、その手紙が功を奏しても復刊を実現させられるのは15年後になります。つまり現在のこの努力は全く脱出につながらないという意味で、それで絶望感が拭えなくて困っているという事になるのです。

あ!いま気付いた、もう1枚絵を描く必要がありました。これから描きます、それをアナログ絵375としてUPしましょう。そしてこの使命遂行12年で最大級と言っていいくらいの恐るべき脅しを霊団から受けていまして、それを受けて今日は何と近藤千雄先生がインスピレーション、幽体離脱ともに終始登場して下さり、僕に思いっきり警告をして下さいました。

霊団の言う事を聞きなさい、本当に取り返しのつかない事になるよ、という事なのだそうです。反逆の代償は恐るべき暗黒という事のようです。「導きに従う事」と「抑圧に屈する」事とは同義という事か。この件はまたお話させて頂きます。まずはヘリを(事実ではない宜しくない絵を)描かせて頂きました。もう1枚描きます。急がないと。この努力の先に想像を絶する絶望と暗黒が待ち受けている(祈)†

間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†

ヘリに関するデータは一切なし、まるっきり僕の想像、あてずっぽうの絵となるため躊躇があったのですが、あるところに手紙を出すにあたって校正刷り書籍を同梱するつもりで、僕の復刊に向けた本気度を理解してもらうためにあえて本編書籍にはない絵を追加で描きました。

線画完成中スキャン完了中、AffinityPhotoでのゴミ取りに入ってます。この絵は線画のみ、カラーリングはしませんので間もなくUP予定。そのまま最終校正、復刊者コメントを終わらせて一気に校正刷りまでもっていきます。「イエスの少年時代」のテスト印刷書籍が、手紙を送付する方の心を動かす事ができるのか、少しでも心の琴線に触れるようにと思って追加の作業をしているのです。

で、とにかく霊団から絶望の極致の事を言われていまして、僕の帰幽後の霊的進歩向上の道はどうやらもう断たれたようで、だったらもうガンバル必要もないのではという気持ちにさせられますが、イヤそれは僕の性格に反する、いま僕にできる限りの事をやるのが僕の性格ですので、努力の先に絶望が待ち受けているとしても作業続行させます。

たぶん次回長文ブログにて霊団が降らせてきた絶望のインスピレーション群について説明する事になるでしょう。12年もの長きにわたって本来の自分の作業を殺して耐えて使命遂行を続けてきた僕が、なぜそこまでヒドイ目に遭わされねばならないのかがどうしても理解できませんが、残念ながら思い当たるフシはありまして、それについてたぶん書く事になるでしょう、身から出たサビという事です。

まずはゴミ取りを終わらせる事に集中中 ※そろそろストーリーが描きたい…(祈)†

「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†■2023年12月6日UP■
「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†
2000年前のイエス様の磔刑を思い出してみて下さい。この物質界はとにかく嫉妬、嫉妬、嫉妬であふれかえっています。イエス様も多くの霊能を発揮した事によって当時の律法学者どもの嫉妬をかって磔刑にされて殺されました。この地球圏物質界は一見進歩が進んでいるように見えますが、それは物質面のみが異常に発達しているだけであり、精神面はまだ全然進歩していないと思います。霊的知識がまるっきり理解されていない事がその証左といえるでしょう。僕がある状態になる事をおもしろくなく思っている人間がそれはそれはたくさんいるのです、そいつらが僕をそういう状態にさせないよう陰湿極まる妨害をしてくるに決まっています。それが世の常です。僕に関する言われなき悪い噂をメディアを駆使して広めたりして国民に僕という人間の悪印象を植え付けようとイメージ操作をしてくるでしょう。(例えば守護霊様の背の低さを悪用するなどして)そういう事を絶対にやってくるはずです…続きを読む→
「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†■2023年12月13日UP■
「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†
私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち – その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。全能の父なる神の祝福のあらんことを…続きを読む→

1917年12月14日 金曜日

前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。

今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが“父の住処(すみか)”と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。

それに、こちらへ来てみて吾々も霊というものが本質はたしかに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。

物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至聖を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、霊のみの存在にあらずして、霊たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。

(訳者注 – モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試錬と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の1歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)

惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しずつ貢献している。

がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、霊の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう1つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。

そして星雲もさらに広大な規模の集合体の1単位にすぎない – これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。

それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側に侍(はべ)ることを夢みて、幾百億と知れぬ同志とともに数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。

無窮の過去より無窮の未来へと時が閲(けみ)するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。なんとなれば天界の大軍に1人加わるごとに王国の輝きにさらに1個の光輝を添えることになるからです。

吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩(くら)まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに1点の光として映じるという。

爛漫(びまん)する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は1個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。

地上から太陽系全体を1つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部にすぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の1つ)より眺めれば太陽系全体が1つの小さな光球として見えることであろう。

その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。同じように、そのアークツルスと他の無数の恒星を1個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。

そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。つまり私は霊的宇宙全体を1つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる“無”の中の存在と見なすのです。

その超越界と吾々第10界まで向上した者との隔(へだ)たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。

が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。

その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れをとらぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。

– 1つよく理解できないことがあります。吾らが主は幼な子の純心さについて語ってから“神の御国はかくの如き者のものなり”と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。

たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。

子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれて来ます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居眠りをしているわけです。それが精神的機能の発達とともに1つ1つ開発され使用されるようになる。

そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新らしいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。

私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力を秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか – 霊的存在としての人間の発達はそれに掛かっています。

幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しないかぎりにおいてのことです。人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。

が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦(まさつ)にも似た軋(きし)みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。

一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となっていく。ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なる神の御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。

少年時代にあってもその心を占めていたのは父なる神についてのことばかりであった。(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)。ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心との一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。

しかしそのお顔は地上世界の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否や神へ向けて一気に旅立っていった。

さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日を神への旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。

パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて、天界にても地上と同じように、霊力とともに最高の権威を委(ゆだ)ねられたと述べた。

吾々のごとく地上にてはささやかな記録(バイブル)を通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性を主に見出して何の不思議があろう。

さよう。友よ、父の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。

(* モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は1度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道でいう“自然霊”によって構成され、イエスも自分が出生前その霊団の最高の地位(くらい)にあったことを自覚し、1人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。

(** ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される“父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを。”)

(*** マルコ16・9~11。訳者)

「メッセージだけを見て欲しい」霊団が物質界の邪悪に目をつぶろうとしているのです(祈)†■2023年3月15日UP■
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しかしそれは「順番が逆だろ」まず奴隷の女の子たちを助けてあげて、それから交霊会だろ、と僕は思うのです。というのも、奴隷の女の子たちを完全に見殺しにした状態で僕という霊媒を霊団が使用して霊言を降らせたとしましょう。その降ってきた内容がさながら「シルバーバーチの霊訓」を彷彿とさせるような高尚な内容だったとしましょう。その霊団が降らせてきた内容が、人類を救うとか、世界を救うとか、人間は国家も肌の色も関係なく全員が神から神性の火花を賜って個的存在を与えられた、神を共通の親とした霊的兄弟、霊的大家族であり、戦争で敵国の兵士を撃ち殺す事は自分の家族を殺す事と同義であり愚かな事であり、したがって全世界が助け合っていかなければならないとか、そういう心を撃つ美しい内容だったとしましょう…続きを読む→
「巻は続くと」これはシルバーバーチの霊訓が続くという意味、そうあって欲しいですが(祈)†■2023年7月12日UP■
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僕はこの「カミンズ方式」で霊媒の仕事をするつもりでいるのです。僕の意見などどうでもいい、それより霊団が降らせるつもりで準備してきたテキストを滞りなく全て降らせる事に集中するという事です。仮にその僕の姿勢が功を奏して霊団側の仕事がスムーズに進み、予定時間より早く降らせる分のテキストを降らせ切ってしまい時間が余ったとしましょう。それでも僕は口を挟まないつもりで、その余った時間で霊団が個別に言いたい事があるかも知れませんので、それも紙にしっかり書いてもらう事に集中し、僕からは何も言わない、要求しないつもりなのです。というのも、僕の場合は何も自動書記のジャマなどしなくても日常的にインスピレーションというカタチで霊団と意思疎通、やり取りをしているからです。僕の生活に孤独というものは存在しません、来る日も来る日も霊団が霊聴にピーチクパーチクしゃべくってきてムカつかされていますので自動書記というカタチでやり取りしなくても別にいいのです…続きを読む→
「進化とはなかよしの事」深いインスピレーションですが僕には耳が痛いですね(祈)†■2023年10月18日UP■
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「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体の情報拡散だけは徹底的に僕にやらせて、僕の次の世代の使命遂行者が仕事をやりやすいように畑だけは耕しておくが、滅ぼす事は僕の代ではやらない。霊団はタダ僕にその苦しいタネ蒔きを続けさせて霊的に向上させて帰幽させる事だけを考えていたのではないか。交霊会やるやるとずっと言い続けてまるっきりやろうともしない、サークルメンバー問題も全く解決させようともせず交霊会をおこなう環境など全然整っていないのに、ただ口だけ延々とやるやる言い続けてくる。これもどう考えてもおかしい。バーバネル氏が支配霊というのもおかしい。物質界生活中に僕にできるだけ霊的知識を獲得させておくために交霊会交霊会言い続けてお勉強させるのが真の目的だったのではないか。つまり僕の仕事の本当の舞台は霊界であって、帰幽後にイエス様(さすがに直で仕事を賜る事はないと思いますが間接的にはあるかも知れません)から言いつけられる仕事をおこなう事の出来る霊的知識および霊格を物質界生活中に身につけさせるためにムチャクチャな試練を浴びせられているという事なのではないか…続きを読む→

チョトこのタイミングでの詳細説明はできません。泣きっ面にハチ、骨折り損のくたびれ儲け、理不尽の究極形の事を霊団に言われています。もっとも霊的知識に照らして考察すれば「後なるものが先に」という意味になるのでしょうが、にしてもヒドすぎる。とても一言では説明できません。

とにかくもう何もしない、僕の事も放任、放置、好きにやらせておくのだそうです。あんたたちがやり始めた仕事だろ、恐るべき言い分だな。「モーゼスの霊訓 下」スキャン60%完成中。

土日を挟んでいるので復刊事務作業のメールの返信は来ません。霊団に完全にホッポラカシにされているのでもうこれをやるしかない状態です。本気でDreamworkに戻りたい衝動に駆られる。仕事の本体がまるっきりやる気ゼロなんだからもう僕本来の作業に戻ってもいいんじゃないかという気がしてなりません。

到底納得、承諾できません。こんなアフォみたいな物質界人生を無意味にダラダラやらされてたまるか。トリカブトちゃんが咲くよう毎日祈ってます。このトリカブトちゃんを有効活用してみせる。こんな人生は絶対に有り得ない(祈)†

自伝の設計図を改めて見たりするのですが「こんなもの撃ってどうするんだよ」と、自分の人生について全然テキスト撃つ気になれません。しかし10~17冊しか復刊できないとなれば、書かない訳にはいかないと思ったりもするのですが(確か以前霊団も“書け”と言ってきたような気がする)

しかし何しろ物質界そのものに興味がないものですから、霊的知識を残す事はぜひやりたいと思うのですが自分の履歴を物質界に残す事に全然興味がなく、最終校正で書籍の内容を読み返していると「コッチは本にしたいけど僕の書く文章なんて誰も読みゃーしない」と思ったりするのです。

しかし、しかし、帰幽前に最低1冊は書き残した方がイイのかも知れない、んー、考えつつ「イエスの少年時代」キンドルファイヤーを使用しての最終校正に入ってます。これが終わったら復刊者コメントを撃って完成させ、AmazonにUP、即、校正刷りを注文します。それを同梱してあるところに手紙を出すのです。

それが終わったら「ベールの彼方の生活」1~4巻のAffinityPublisherデータをAmazon用に作り替える作業に入ります。脱出できないのに作業だけは殺人的にたくさんある。本当にこの絶望感をどう解消したらいいんだろう。

霊的知識的に考えれば「神に運命を委ねる」という事になるのですが、今の僕がそれをやると一生最悪の状況に閉じ込められる事が決定してしまうため、どうにもその心境になれません。

全て佳きように計らってくれる、それを信じ切っていればいい、それが霊的使命遂行者の取るべき態度だと分かっているのですが、それは霊団にとって“佳きよう”であって僕的には最悪にさせられる事が目に見えているのでどうにも身を委ねる気になれません困りました。

もうひとつ困った事が発生しています。新規に入手したレインパンツが山での使用わずか2回で破損しました。こんな強度ではたとえ交換してもらえたとしても使い続ける事はできませんのでメーカーに返金を申し込みました。が、使用済みパンツですのでたぶんムリでしょう。性能的、金額的に気に入っていただけにショックがデカいです。

ハァァ絶望感が加速していく…しかし「イエスの少年時代」最終校正を急ぎましょう(祈)†

■アナログ絵365~373、書籍復刊関連で描いた線画をまとめて一気にUPです(祈)†■2024年5月11日UP■
■アナログ絵365~373、書籍復刊関連で描いた線画をまとめて一気にUPです(祈)†
絶版状態の霊関連書籍復刊に向けた一連の作業の中で、書籍内で使用する画像の許諾がまず得られないだろうという事で(70年問題をクリアしている画像もありますが著作権とは別に肖像権というモノもありまして)安全策で全て自分で絵を描く事とし、このように一気に「似顔絵的な線画」を描きました。上記に描きました絵で「モーゼスの霊訓 上中下」「インペレーターの霊訓」「ベールの彼方の生活 全4巻」の8冊分の絵をカバーした事になりますが、まぁさらに追加で何か描く事もあるかも知れません。復刊に向けた作業の進捗ですが、当初は70冊以上の霊関連書籍全て復刊させると意気込んでいましたが、それが45冊程度に減り、さらに原著者の著作権70年問題等もあって、近々ですぐ復刊できそうな書籍は10冊程度となってしまっています。そしてあと数年待てば70年問題が解決される書籍が数冊ありますので、その時期を待ってそれらを復刊させる、それでも14~17冊ぐらいしか復刊できそうもありません…続きを読む→