まずは昨日のシリセードしながらの撮影の画像をUPですが、ハァァ、かなりの量のインスピレーションを削除して、気が重い状態でテキスト撃つ事になります。今回のインスピレーションの説明に際して、過去僕の身に起きた忌まわしい出来事の説明もしなければいけないような状況なのですが、まぁそれはサラッと流すつもりです。いつか機会があればお話するかも知れません。
今回はいつもよりテキスト量が多くなる事が予測されるのでさっそく取り掛かります(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
まずは昨日のシリセードしながらの撮影の画像をUPですが、ハァァ、かなりの量のインスピレーションを削除して、気が重い状態でテキスト撃つ事になります。今回のインスピレーションの説明に際して、過去僕の身に起きた忌まわしい出来事の説明もしなければいけないような状況なのですが、まぁそれはサラッと流すつもりです。いつか機会があればお話するかも知れません。
今回はいつもよりテキスト量が多くなる事が予測されるのでさっそく取り掛かります(祈)†
スタート予定の駐車場に向かう林道がゲートが閉じられて通行止めになっていて、仕方なく手前の別の駐車場に止めてそこからスタート。標高を上げるほどに残雪の量にビックリ。軽アイゼンのみではチョトあぶなかったです、ピッケルがあっても全然オケーなレベルの雪の残り方でした。下りでシリセードとかするくらいでしたから。
今日は撮影予定のポイントに行けませんでしたがそれはそれ、グラデーションは撮れませんでしたが置かれた環境で撮れる限りのモノを撮って帰ってきました。ひとりの人間が山に入ってできる事はそれだけですので。今回行った山域は厳冬期には赴かない方がイイという事が分かりました。今後気を付けないと。
雪の登攀をしながら頭の中ではずっと「間もなく脱出できる、間もなく出られる」と心で唱え続けていました。何としても脱出を完了させるために全力を尽くしていますが、まずは明日の長文ブログに集中しないといけません。気が重くなる事を霊団に言われていまして、どう撃ったらいいものか頭を抱えています。
雪の影響で足回りにまぁまぁのダメージがありますのでまずは回復に集中中。明日のテキスト撃ちにさらに集中中(祈)†
最悪を極めています。本当に最低最悪の状況に閉じ込められています。が、間もなくその場所から離れられると信じます、いくら何でもそこまでヒドイ事はしないだろうと思うからです。そろそろ脱出できる、絶対脱出できる、そう思わなければ生きられない。
明日はまた新たな撮影ポイントの偵察に行ってくるつもりです、天候は微妙なのでグラデーション撮影はたぶんムリでしょうが、山の撮影画像は書籍にも使用します、もはや山の撮影は仕事ですのでどういう状況だろうと撮れる限りのモノを撮ってこなければなりません。
あとモチョトだけ表紙のカラーリングを続行して、それで今日は止めて明日の準備に入りましょう。新規のザックの事も考えないと。不具合があって撮影できないなんて事になったらシャレならん。背負い心地はイイですけど使い込んでみないとまだ分からない。まずはココまで(祈)†
1913年11月26日 水曜日
語りたいことは数多くある。霊界の組織、霊力の働き – それが最上界より発し吾々の界層を通過して地球へ至るまでに及ぼす影響と効果、等々。その中には人間に理解できないものがある。また、たとえ理解はできても信じてもらえそうにないものもある。
それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その1
つがいわゆるインスピレーションの問題である。それが吾々と人間との間でどのように作用しているかを述べよう。
ところで、このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。
それ以外のもの – 向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就のための叡智(愛と渾然一体となった知識)等々をも吹き込んでいるからである。
故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは1つの種類に限られたことではなく、また例外的なものでもない。いかに生きるべきかを考えつつ生きている者 – まったく考えぬ者はまずいないであろうが – は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。
が、その方法を呼吸運動に譬えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしもよい。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。人間は山頂において深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。
が、これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られたことと思ってはならない。病いを得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他にもろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、あるいは補足している。
たとえ当人は気づかなくともよい。大体において気づいていない。が、吾々は出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬかぎりそれが可能なのである。
その邪魔にも数多くある。頑(かたくな)な心の持ち主には無理して助言を押しつけようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、吾々も手出しが出来ないことがある。悪に陥(おとしい)れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。
それぞれの人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。当人が、吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在していること、つまり目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。
それが完全な障害となる気遣いは無用である。吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう – いずれ遠からぬ日に。
ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏でなかったということに過ぎない。人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解されることはよくあることである。
水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆つけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸の磨耗が大きくなり、動きも重い。又、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知り尽くした船長であれば、たとえ嵐の夜であっても命令の意味をいち速く理解してテキパキと動くであろう。
互いに心を知り尽くしている故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近かに自覚してくれている者の方が、吾々の意図をより正しく把握してくれるものである。
それ故ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は – 今日でもそうであるが – その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。
また直感的印象で受けた者もいる。吾々がそうした方法および他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ1つ – 人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいる吾々が理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。
もとより吾々の教えも最高ではなく、また絶対に誤りが無いとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持と大いなる愛念をもって求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。そしてそれを吾ら神の使徒は大いなる喜びとして受け止めるのである。
またそれを求めて遠くまで出向くことも不要である。なぜなら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そしてその善と悪の程度次第で大いに援助できることもあれば、行使能力が制限されることもある。
故に人間は、各自、次の2つのことを心しなければならない。1つは、天界にて神に仕える者の如くに地上にありても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのために吾々が携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。
人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。
実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、またゲッセマネにおける最大の苦境にあった時に援助に赴いた霊団に属していたのである。(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私よりは遥かに霊格の高きお方であるが。)
もう1つ心しなければならないことは、常に“動機”を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。吾々にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。
吾々は施すことによって授かる。人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものは無いのである。
イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの生命(いのち)を捨てるに吝(やぶさ)かではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもな潔(いさぎよ)く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命をもって蘇られた。
ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も“我”を捨てることである。そうすれば、施すことの中にも授かることの中にも喜びを味わうことであろう。これを完全に遂行することは確かに至難のわざである。が、それが本来の正しい道であり、ぜひ歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身をもって示されたのである。
花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。かくして2人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。
又、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛とともに喜びと安らぎとが訪れる。また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。†
まずは「ベールの彼方の生活4巻」の表紙カラーリングを超特急でおこなっています。60%完成中といったところ、明日中はムリかも知れませんが間もなくUP予定。あとは復刊者コメントを撃って書籍データ完成となりますが、AffinityPublisherの「セクションマネージャ」がどうしても使いこなせずにいるのでもう一度お勉強してみようかなと考えています。
その他の書籍のOCR変換テキストの見直しを急ピッチで進めますが、霊団が気になる事、キビシイ事、僕がこれまでお勉強を続けてきて獲得した認識が間違いなかったと思える事を言ってきてます。それは受け入れるのが難しい内容ですが次回長文ブログのタイミングで説明するかも知れません。
ちなみにビリビリボロボログチャグチャのザックをずっと耐えて使い続けていましたが、ようやく新規のザックが到着、今後コレを最低5年、できれば7年使い続けなければなりませんが、新たなメーカーのザックを導入したのでつくりがこれまでと全然違って慣れるまで相当戸惑いそうです。
これにてボロボロの山の道具を新調する作業はほぼ完了中、いよいよ復刊に向けて具体的に動いていく事になりますが、殺人的にメンドクサイ作業なので何も嬉しい事はありませんウンザリ感がハンパないです。霊団からのインスピレーション量はまぁまぁの量、どれもこれもイヤな意味のモノばかり。いつまでやらされるんだこの人生。
詳細説明はのちほど。まずは眼前の作業に集中中(祈)†
表紙のカラーリングを怒涛におこなっています、できるだけ早く完成させて次の書籍のデータ作成に移りつつ、いよいよ出版社設立、復刊に向けた具体的行動に移っていきます。このまま閉じ込められるのが死んでも許せない、何が何でも脱出するために全力を尽くしています。この反逆だけは絶対に達成してみせる。
現存するシルバーバーチ霊の書籍も全て復刊させるつもりでいます。って、物的障壁が立ちはだかってたぶん全ては叶わないのでしょうがテキストだけは揃えます。何としてもやってやる。
どうしても閉じ込められるのがイヤなんです。霊団が何と言おうとこれだけは死んでも譲らない。帰幽後にこの反逆の罰でもペナルティでも勝手にやればいいだろ、そうと分かっていてもこの反逆はやめない、死んでも脱出を完了させる。
↑この表札(出版社名が書いてあります)現在は部屋に立て掛けてありますが、これを外に貼れるように全力を尽くすしかありません。書籍データ作成を急ぎつつ「自動書記の嘆願の祈り」も続行させます。もし自動書記で新規の霊言が降って来たら年4回くらいの季刊誌というカタチでガンガン書籍化していくつもりでいるのです。僕はやる気満々なのです、霊団はやる気ゼロ。
インスピレーションについてお話したい事がありますがそれはのちほど。まずは表紙カラーリングに集中中(祈)†
1913年11月25日 火曜日
人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しる者は多くは見当らない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。
それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。その時代においては吾々と人間とがいかに身近かな関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。
差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望みどおりの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳(よ)きに計られているとの確信を抱くのである。
さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの“昼”の時代に大いに進行させたい。何となれば“夜”の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異る。
いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々2人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。
人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌(き)を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。
吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。
このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信をもって歩ませてくれる。吾々は人間はきっと付いて来てくれるとの確信をもっており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。
さて私はこれより、人間が“種の起原”と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起原は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。
こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。
その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させて行くことに決定が下された。そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。
なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。
かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風にいえば神がそれを“なかなか結構である”と仰せられたのである。
が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸(けいりん)の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。
それが単純な知能、とくに人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を摑みかねるのである。
が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。
海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。
それは一向に構わない。魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他ともに認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置づけたのである。
が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。
これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。
その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。
人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。
なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないではないかと思う者もいるであろう。
が、その考えは誤りである。その理由は今のべたことにある。すなわち人間は自由意志をもつ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。
それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が“愛”であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。“威力”というものを“圧力”と並べて考えるのは地上での話である。
天界にあっては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。更に申せば、悪との闘いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。
何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびゃく)当初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証(あかし)が秘められているからである。
その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。
そうと知ればさぞ心躍(おど)ることであろうし、意を強くすることであろう。更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心をもって援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。
吾々はそういう人間 – 悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志 – を援助することに最大の喜びを覚えるからである。この真理の大道を惜しくも踏みはずせる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多くを見ている。が、吾らは絶望はしない。
この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。その視野から眺めるに、人間もいつの日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。
その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材 – その者たちが今その立場にあるのだが – を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。
キリストはかく述べている – “悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに”(黙示録3)と。
心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。以上である。この度はこれにて終りとする。
が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取りあげるとしよう。では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。
このことを篤と銘記されたい。そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足もとを照らし給わんことを祈る。†
以前霊団に対しておこなっていた「自動書記の嘆願の祈り」はまるっきり無視されていたためそのままになっていたのですが、また少し復活させています。自動書記で新規の霊言が降ってきてそれを書籍化できるようになれば一気に活路が開けるからです。しかし霊団は僕のこの祈りを取り合うつもりは全くないようです。
「ベールの彼方の生活4巻」の表紙のカラーリングを大急ぎでおこなっています、AffinityPhotoのアドオンをさらにひとつ追加入手しています、それも駆使して表紙を完成させ、あとは「復刊者コメント」を撃って書籍データ完成となります。止まらず印刷テストに回して次の書籍制作に入ります。電子書籍データも作らないと。忙しすぎる。
久々に幽体離脱時に香世子さんが登場してくれました、感謝なのですが申し訳ありません、意味はよく分かりませんでした。あまりメッセージ性はなかったようです。止まる理由がない、止まるイコール閉じ込められるという事になりますので何としても動き続ける。カラーリング続行中(祈)†
採用版表紙とボツ版表紙、両方のゴミ取り完了中、ボツ版はこのままで採用版のカラーリングをおこないます。何が何でも霊団に閉じ込められた場所から脱出しようとしてもがき続けていますが、さらにその場所を離れたい気持ちが加速しています。どうしても脱出してみせる、これ以上閉じ込められるのは死んでも有り得ない。
しかしPythonを扱えるようになったとして、そのスキルを駆使した仕事を探そうとすると、どう探しても「使命遂行をやめなければできない仕事ばかり」だったため(お勉強そのものはそんなにイヤではなかったのですが)それで泣く泣くプログラマ系スキルを駆使しての脱出をあきらめざるを得なかった、という事がありました。
「ベールの彼方の生活4巻」は表紙と復刊者コメントで完成、即印刷テストをおこない、止まらず次の書籍データの作成に入りつつ(現在“私の霊界紀行”テキスト見直し80%完了中)いよいよ復刊に向けての具体的事務作業にも取り掛かります。
ポーランド(ワルシャワ)からの異常な機械的アクセスはなくなりました。世界中で同じ案件が発生していたようですがすっかりなくなりましたね。ボロボログチャグチャの山の道具を新調する件ですが、最後にザックが残されていたのですが先ほどタイムセールで安くなっていたので思い切って入手しました。コレをもってボロボロ新調計画はほぼ完了となります。
1913年11月24日 月曜日
更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合が良い。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。
距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。
吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。
こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないよう警戒を怠らない。それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。
更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任にある者が本来の界に留まったまま、或る手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。
宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは1つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。
されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることの出来る人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそ出来ないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大なる影響を及ぼすからである。
それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当る霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは7の70倍の勢い(※)をもって天界に知れ亘る、とでも答えておこう。
その行き着く先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。何となれば、その行き着くところが神の御胸であることに疑いの余地はないからである。(※マタイ18・22。計り知れない勢いの意 – 訳者)
故に、常に完全を心がけよ。何となれば天に坐(ましま)す吾らが父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。
では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。
縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い – ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。
人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差しのべる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第1巻3章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。
すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾らは使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。
そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。そうではなく暗黒の度合の薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増し世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。
暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿り着いた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。
やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。
それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光からより大いなる栄光へと進むのである。ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでに如何に長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。
そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しないかぎり再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。
が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じて無い。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈り入れを司(つかさど)る因果律によって定められるのである。
吾々の界 – 驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。全ての摂理が“愛”に発するものであることは、地上時代とは異り、今の吾々には痛いほどよく解る。
曽てはただ信ずるのみであったことを今は心ゆくまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。が、吾々はそれが少しずつ明かされて行くのを待つことで満足している。
それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。
そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。
そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信をもって言える。
そして私もその救済に当たる神の使者の1人なのである。私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験のない吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。
と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。そこで思わず、私もそれにあやかりたいものと望みかけて、ようやく思い止まったことであった。
それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納(かのう)されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美しく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。
神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何1つ恐れるものはない。†