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「イエスの弟子達」より→22 サウロの回心「さて、私は暗黒と冷酷のうちに閉ざされていたサウロの魂が、主イエスの教えによって息を吹き返した事をお伝えしよう。これはまさに全人類にとって有益であるからである」
「イエスの弟子達」より→「この話は、人間がどんなに多くの罪を犯しても、どんなに邪悪な事をしても、精霊のお恵みによって清められれば、予言者、教師となり、異邦人に真理を伝える器に選ばれる事を示すものである」
「イエスの弟子達」より→「サウロと数人の者がダマスコに向かって出発した。旅行の季節ではなかったので沿道に人影は少なかった。サウロは太陽の暑さにヘトヘトになっていた。何日も眠らずに歩きとおしたからである。その上、出がけには長老達からエルサレムでの失敗を責められて頭にきていた」
「イエスの弟子達」より→「ガマリエルも彼に言った“お前はキリストを根絶しているどころか信奉者があちこちにうろついているではないか。急いで手を打たなければお前の方がやられてしまうぞ!”そんな訳でサウロはくさりきっていた。まるで嵐で折れ曲がった樹の枝の様に彼の魂は参っていた」
「イエスの弟子達」より→「彼に殺された四人の若者が彼のために祈っている姿が目に焼き付いて離れなかった。彼も同行の者も一口も口をきかず目だけが血走っていた。ダマスコに近付いた時、同行の者が殆ど同時に地上に倒れてしまった。彼らは大きな叫び声を聞いた」
「イエスの弟子達」より→「見ると、サウロは両手を挙げ体は地上に倒れていた。サウロの周りには誰もいなかったので同行の者が救助しようと近付くと、穏やかな声が響いてきた“サウロよ!お前はどうして私を迫害するのか”この様な声が三度繰り返された。そして三度目にようやくサウロは答えた」
「イエスの弟子達」より→「しかし彼の言う事は支離滅裂で、何を言っているのか分からなかった。そして再び穏やかな声が響いているのを同行の者が耳にした。彼らは一体誰がサウロに話しかけているのか辺りを探したがそのような者は見当たらなかった」
「イエスの弟子達」より→「周辺には一本の樹もなく視野を遮る物もなく、ただ一本の道路が走っているだけであった。それで彼らは恐怖に襲われサウロを起き上がらせながら言った“先生、一体どうなさったのですか。あの変な声は何者なんですか。先生!私達に教えて下さい!”」
「イエスの弟子達」より→「サウロは目を開いて彼らを見上げながら叫んだ“真っ暗だ!お前達の声は聞こえるが何も見えないんだ!主が私に話しかけたのだ。私は、私が迫害しているキリストをこの目で見たのだ!”彼は今見たばかりの幻について語って聞かせた。同行の者は言った」
「イエスの弟子達」より→「“先生は頭がいかれちまったんじゃないか、ともかくご機嫌を損ねないようにしようぜ”彼らはダマスコのユダスの家にサウロを運んだ。彼らはとにかく数時間か、あるいは一晩過ぎれば良くなると思っていた。次の日になってもサウロの目には何も見えなかった」
「イエスの弟子達」より→「急に襲った暗黒の世界は何よりも恐ろしいものであった。彼の霊性は健全でなかった上に良心の戦いをあまりしなかったので、常に怒りの感情に支配されていた。三日間の間彼は暗黒の世界に横たわったままで、食物は一切のどを通らなかった」
「イエスの弟子達」より→「その間彼は人間の存在の深さをずっしりと感じ取っている。この苦難に耐える事によって少しでも主イエスに償いが出来るならば、たといこのまま死んでもよいと考えるようになった。しかし時として彼に襲い掛かるものは絶望であった」
「イエスの弟子達」より→「彼は自分が犯した悪事を何とか払いのけたいと強く願っていたからである。彼が迫害した人々は皆この世を去っていった。今一番恐ろしい事は、イエス・キリストを信ずる言葉を表明できずに死んでしまうのではないかという事であった。三日目に変化が現れた」
「イエスの弟子達」より→「彼の耳元で再びあの声が響いてきた。その声は彼が異邦人のために主の福音を伝える道を選ぶか、それとも彼のために備えられている道を拒むか、どちらかを選ぶようにとの事であった。彼の霊は躍った。受け入れる用意はできていると叫んだ」
「イエスの弟子達」より→「再び見えるようになるならば、声の命ずる使命を果たすために地の果てにまで参りますと答えたのである“お前が私の重荷を背負って行こうというのなら、お前の行くべき道を指示しよう。それまでは誰とも口をきいてはならない!”」
「イエスの弟子達」より→「一晩中これから起こる未来の幻が次々と与えられた。それはとても奇異なものではあったが今の彼にはその意味を十分に理解する事ができた。ところがある幻の中に、彼が十二使途殺害の密約を結んだ若者たちが出てきた。彼らは、一晩中サウロを呪い続けた」
「イエスの弟子達」より→「彼らはサウロを殺すまでは眠る事も食べる事もしないと誓い合っていた。サウロが多くの人々に、キリストこそ救世主であり死人から復活した事を懸命に教えているサウロに憤慨したからである。他の幻も次々と現れては消えていった」
「イエスの弟子達」より→「それらの幻は全部彼を責めるものであり、彼が縛られムチで打たれ唾を吐きかけられ叩かれるといったものばかりであった。更に幻はどんどん展開し、ついに荒野で飢えに苦しみ悶え、教会を敵視する者から死の苦しみを受けるのであった」
「イエスの弟子達」より→「自分の残酷な死に様が現れ、辺地で殉教の死をとげるのである。全ての苦悩や災難は主イエス・キリストのためにこそ身に負うものである事が示された。一連の幻が終わるとなおも暗闇が続き、再び例の声が響いてきた」
「イエスの弟子達」より→「“サウロよ!選びなさい!お前はこの重荷が背負えるか。お前を待ち受けているものを見たであろう。再び見えるようになった時、お前は課せられた人生を歩むか、それとも今の苦しみから逃げるために死の道を選ぶか”サウロは答えて言った」
「イエスの弟子達」より→「“主よ、私の心は定まっています。私に光を与えて下さい。そうすればあなたに従ってまいります”声は二度と聞かれなかった。その夜のうちにアナニヤという者がユダスの家へやってきて、サウロの顔と目の上に手を当て、見えるようになれと祈った。見よ!」
「イエスの弟子達」より→「たちどころに彼の目は開け、アナニヤの顔が目に映った。サウロは直ちに洗礼を受けたいと懇願した。自分は大罪を犯した人間である事を悔いており、主イエスに帰依したいと熱心に願った。昨日までのサウロは死んでしまった。彼の頑なな心は砕け、心に平和が訪れた」
「イエスの弟子達」より→「彼はキリストに仕える者となった。奉仕の中に真の自由を見出し、霊の憩いを得たのである。サウロが一心になって悔い改めている頃、主イエスはアナニヤに語りかけ、直ちにユダスの家に行ってサウロと名乗る人の目を開くように命じた。アナニヤは言葉通り実行したのだ」
「イエスの弟子達」より→「アナニヤを通して霊の力はサウロの両眼を開き、罪深い魂をすっかり癒してしまった。このようにしてキリストの教えに全く触れなくても一人の男が幼子のような単純な信仰によって救われたのである」
「イエスの弟子達」より→「昔、神殿で学び、パリサイ人としての学問を修めた者が、主イエスの教えの中に真の知恵を見出したのである。以上がサウロの心が癒された物語である。彼が洗礼を受けた時、周りの者がサウロにこれから何という名で呼んだらいいのかと訪ねた。彼は答えて言った」
「イエスの弟子達」より→「“私は卑しい人間です。名乗る値打ちもない男です。しいて名付けるとすれば若き日に私の魂が小さく臆病で愚かであった事を表すものにしたいのです”それで彼は自ら「パウロ」と名付けた。(“小さき者”“小柄な人”の意)」
「イエスの弟子達」より→「後に彼が異邦の地で布教に専念している時、みんなは彼の事を先生と呼んでいた。そう呼ばせる事によって彼は主イエスの前では小さな存在である事、そして兄弟の誰よりも最も卑しい者であろうと努力したのである」

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『イエスの弟子達』【模範とすべき霊界通信の白眉 近藤千雄】霊媒のジェラルディン・カミンズと訳者の山本貞彰氏については『イエスの少年時代』の冒頭で私が必要最小限の紹介をさせて頂いた。本書で、編纂者による<序文>と訳者による<あとがき>で霊媒カミンズについて必要かつ十分な紹介が→
『イエスの弟子達』→なされているので駄弁は控えたい。ただ、とかく死角となりがちな観点から一言述べさせて頂けば、カミンズがもしも心のどこかに慢心を宿し、名誉心と金銭欲に駆られていたら、きっと新興宗教の教祖となり下がって、きらびやかな神殿をうち建て、歯の浮くようなお説教を→
『イエスの弟子達』→のたまっていた事であろう。が、神の道具としての霊媒の身分を弁えていた女史は、終生その立場を忘れる事なく、神の僕としての使命に徹した。モーリス・バーバネル、ハリー・エドワーズ、エステル・ロバーツ、その他スピリチュアリズムの多くの霊媒・霊能者についても→
『イエスの弟子達』→同じ事が言えよう。こうした真の意味での“神の使者”はその謙虚さゆえに、とかく目立たぬ存在となりがちである。そして一部の理解者を除いて、その真価を知る者は極めて稀である。しかし真理とはそういう人たちの存在があって初めて地上に根づき、後生へと引き継がれて行く→
『イエスの弟子達』→ものなのである。さて本書を読んで、まず編纂者の顔ぶれとその格調高い「序文」に圧倒される。彼らはただの編纂者ではなく、この霊界通信の真実性の“証人”なのである。先入観をひとまず脇に置き、事実は事実として自動書記の行われる現場に立ち合い、綴られた文章の内容の→
『イエスの弟子達』→信憑性を学問的に徹底的に検討し、その上で“正真正銘”の折り紙をつけたのである。霊界通信はまさしくこうした率直さをもって理知的に分析する態度、俗な言い方をすれば“疑ってかかる”事が大切である。もとよりそこに偏見や邪心があってはならないが…。
『イエスの弟子達』それに加えてもう1つ大切なのは、その内容が果たして霊から教わるほどの価値のあるものかどうか、という判断である。その点においても本書は、編纂者にも訳者にも“なるほど”と思わせる圧倒的な説得力をもった事実の連続のようである。
『イエスの弟子達』謎とされてきた聖書の欠落部分がみごとに埋められているというのである。霊媒が勝手にそう主張しているのではない。キリスト教の牧師や聖書研究家、それに心霊研究家が、それもたった1人や2人ではなく実に20数名も証言しているのである。
『イエスの弟子達』こうした専門的な学識と良識とを兼ね備えた人たちによる鋭い分析と理解、そして山本氏の達意の訳文が、クレオパスという、一般の日本人には馴染みの薄い初期キリスト教時代の霊からの通信を、興味ぶかしくも信頼の置ける読み物としてくれている。
『イエスの弟子達』山本氏は大小あわせて数冊からなるクレオパスシリーズの中から3つの大きい通信を選び、その中でも最も大きい1冊を2巻に分けられた。本書はその前半である。その中で使徒パウロの回心に至るいきさつが語られ、後半でその後の伝道活動が語られる。
『イエスの弟子達』これが第2巻で、さらに第3巻でジュリアス・シーザーへの直訴がテーマとなって展開し、そして第4巻で暴君ネロの悪行とローマの大火というクライマックスを迎える。そこには映画化してもよさそうな人間味たっぷりのドラマチックなシーンが展開する。
『イエスの弟子達』訳者の山本氏は以上の4巻でイエスの弟子達の聖書時代の真実の行状をテーマとしたシリーズとし、他方、既刊の『イエスの少年時代』と、これから手掛けられる『イエスの成年時代』の2巻でイエスの実像に迫るという雄大な構想を立てておられる。
『イエスの弟子達』既に形骸化してしまった在来のキリスト教に訣別された山本氏が奇しくもこうした霊界通信の翻訳によって真実のキリスト像とその教え、及びその弟子達の行状を日本に紹介する事となった。
『イエスの弟子達』これはまさしく山本氏の信仰的復活というべきであり、氏の仕事がこれからさらに他の大勢の読者を霊的に蘇らせていく事であろう。この歴史に残る画期的な訳業の完成・成就の日の到来を、心から待ち望んでいる。
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『イエスの成年時代』【求道者としての極限を生きた“人の子”イエスの実像  近藤千雄】前巻の『イエスの少年時代』のあと、待望久しかった本書がついに刊行の運びとなって慶賀に堪えない。同時に、前巻に引き続いてこの私がその巻頭を飾る一文を訳者の山本貞彰氏から依頼されて、→
『イエスの成年時代』→それをこの上ない光栄に思いつつ筆を執った次第である。本書のもつ意義については2つの視点があるように思う。1つは、従来の聖書(バイブル)の記述を絶対としてそれのみに頼ってきたイエスの実像とその行跡を見直すという視点である。
『イエスの成年時代』が、これについては山本氏が“訳者あとがき”でご専門の立場から述べておられるので駄弁は控えたい。『主の祈り』についての“訳者メモ”などは永年の体験があって初めて気づかれるところであろう。これは在来の聖書が、インペレーターやシルバーバーチその他の高級通信霊が→
『イエスの成年時代』→異口同音に指摘しているように“人為的な意図に基づく寄せ集め”である事を“語るに落ちる”式に、はしなくも露呈されている興味深い証拠と言えよう。もう1つの視点は、そうした通信霊が述べているイエス像とその行跡との比較という視点である。
『イエスの成年時代』キリスト教の専門家でない私はどうしてもそこに視点を置いて読むところとなった。私が“3大霊訓”と称しているモーゼスの『霊訓』(正続)、オーエンの『ベールの彼方の生活』(全4巻)、そして『シルバーバーチの霊訓』(全12巻)が申し合わせたように強調している事は、→
『イエスの成年時代』→“スピリチュアリズム”の名のもとに進められている現代の啓示と人類の霊的覚醒事業の中心的指導霊が、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物だという事である。これをすぐに“同一人物”とするのは早計である。
『イエスの成年時代』1個の高級霊が幾段階にもわたる“波長低下”の操作の末に母マリヤの胎内に宿り、誕生後それが肉体的機能の発達とともに本来の霊的資質を発揮して、そこに人間性をそなえた“ナザレ人イエス”という地上的人物像をこしらえた。
『イエスの成年時代』その幼少時の“生い立ちの記”が前巻であり、いよいよ使命を自覚して当時のユダヤの既成宗教の誤りと、その既得権にあぐらをかいている聖職者の堕落ぶりを糾弾していく“闘争の記”が本巻である。こうした救世主的人物の生い立ちや霊的悟りへの道程はとかく超人化され、→
『イエスの成年時代』→凡人とはどこか違う扱いをされがちであるが“十字架の使者”と名のる通信霊の叙述するイエスの生涯は、どこの誰にでもあるような、いや、それ以上に人間臭い俗世的喧騒に満ちており、また苦難の連続であった。
『イエスの成年時代』兄弟間のいさかい、親の無理解、律法学者やパリサイ人による怒りと軽蔑、同郷の者による白眼視―最後は“浮浪者”扱いにされるまでに至っている。「イエスの成年時代はこのようにして孤独の体験から始まった。イエスは故郷の人々に心を傾けて天の宝を与えようとしたのであるが」→
『イエスの成年時代』→「彼らはそれを拒絶したのである」という一文には胸をしめつけられる思いがする。しかしイエスはそうしたものを全て“魂のこやし”として霊性を発揮していき、愚鈍で気のきかない平凡な少年から“威厳、あたりを払う”風格をそなえた成年へと成長していく。
『イエスの成年時代』そこには求道者としての極致を生き抜いた姿が彷彿として甦り、2千年後の今、こうして活字で読むだけでも、その意気込み、精神力、使命への忠誠心に圧倒される思いがする。シルバーバーチが、人間的産物である“教義”を棄ててイエスの生きざまそのものを模範とするように→
『イエスの成年時代』→ならない限り人類の霊的新生は望めないと述べている言葉が思い出される。そのイエスが死後、物質化現象でその姿を弟子たちに見せて死後の存在を立証してみせたあと、地上的なほこりを払い落として本来の所属界へと帰って行った。
『イエスの成年時代』マイヤースは『個人的存在の彼方』の中でイエスの死後に言及してこう述べている。「ナザレ人イエスにとって中途の界層での生活は必要でなかった。彼は一気に創造主と一体となった。彼は地上に生きながら既に神だった―全宇宙をその意識、その愛の中に包摂するだけの」→
『イエスの成年時代』→「霊力をそなえていたのである」そのイエスが“私はまた戻ってくる”の預言どおりに、人類浄化の大事業の総指揮者として今その霊的影響力を全世界に行使しつつある。それが各種の霊界通信、奇跡的心霊治療、自由解放の運動となって現われているのである。
『イエスの成年時代』この2巻に描かれたイエス像は、私が理解した限りでは、高級霊界通信が述べている事と完全に付節を合わしている。その1つ1つについて解説している余裕はないが、1つだけ誤解を解く目的で付言しておきたい事がある。それはマリヤの処女懐胎である。
『イエスの成年時代』前巻の8章で“神秘の受胎”として語られているが、私はこの章を読んだ時“やはり”という印象を受けた。私は生命の発生は、人類も含めて、どの種においても2つの性の生じない段階で行われたと考えている。それは物質化現象というものが実在する事を見れば明らかに可能な→
『イエスの成年時代』→事である。両性(男女・雌雄)による発生・誕生の仕組みは、それぞれの性がそれを可能とする段階まで発達したのちの事であって、それまでは幾通りかの“霊の物質界への顕現”の仕方があったはずである。少なくとも心霊学的には処女のまま懐妊するという事は有得るのである。
『イエスの成年時代』ではなぜシルバーバーチはイエスも普通の人間と同じように生まれたと言い、そこに奇跡はなかったと述べているのかと言えば、それは“処女懐胎だから聖純”とする誤った考え、言いかえれば性(セックス)を罪悪視する間違った認識を増幅させないための配慮があると→
『イエスの成年時代』→私は考えている。『霊訓』のインペレーターは“人間に知らせぬ方がよい事、知らせると害がある事”がたくさんあると言っている。人生学校の1年生、もしかしたら幼稚園児にすぎないかも知れない我々地上の人間の事であるから、そういう事は当然考えられる事である。
『イエスの成年時代』シルバーバーチもある日の交霊会で“イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか”と聞かれて次のように答えている。「そんな事について私の意見をご所望ですか。どうでもいい事ではないでしょうか。大切な事はイエスが何を説いたかです。(中略)」→
『イエスの成年時代』→「私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせる事です。人間はどうでもよい事にこだわり過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。(後略)」
『イエスの成年時代』さて最後に注意を促しておきたいのは、ギブス女史の存在である。モーゼスにはスピーア博士夫人、バーバネルにはシルビア夫人、イエスにはおばのマリヤ・クローパスの存在が大きな意義をもったように、このギブス夫人の理解と協力なくしては、こうした価値あるものは→
『イエスの成年時代』→生まれなかったであろう。表にこそ出ないが、中心的人物よりも往々にして側近の人物の方が大きな存在意義をもつ事があるものである。いくら偉くても人間は1人では何もなし得ないのである。本巻の最後にチラリと顔を出すクレオパスという弟子は、のちに“クレオパスの書”→
『イエスの成年時代』→の題で一連の通信を送ってくる事になる。その第1巻がすでに『イエスの弟子達』と題されて刊行されている。何だか2千年前の大きなドラマが今になってビデオテープを見るように再現される感じがして、心躍る思いがする。山本貞彰氏の一層のご健闘を祈りたい。
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-----序文
『イエスの成年時代』【序文】詩人のウイリアム・ブレイクは、いくつかの詩が『使者』からの口述である事を強く主張している。そして次のような言葉で語られている。「私は使者の秘書であり、真の作者は、永遠の大霊である」と。同じように『イエスの成年時代』も、→
『イエスの成年時代』→私の目の前で“十字架の使者”からジェラルディン・カミンズに口述されたものである。カミンズが、パレスチナ地方に行った事があるのではないかと尋ねられる事があるが、彼女は、一度もそんな経験はない事を、神名に誓って読者諸氏に言明しておく。 E・B・ギブス
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-----主な登場人物
『イエスの成年時代』【主な登場人物】エルダト…故郷を追われ失意のイエスを暖く迎え入れた農夫 アサフ…イエスを心から慕い続ける薄幸な障害者 ユダ…盗賊の首領に残された唯一の実弟、イエスの弟子 ヨハネ…イエスの最愛の弟子。稀にみるすぐれた霊覚者
『イエスの成年時代』ヨエル…人里はなれた山岳地帯に住む野人 ナタニエル…ヨエルの孫、ナタンの従兄弟。敬虔な信仰者で、後にバルトロマイと改名する シャンマイ…民衆の信望を集めていた、エッセネ派修道会の創設者 ヨナ…ペテロの従兄弟で、ユダの友人
『イエスの成年時代』マルコ…ペテロの親戚にあたる若者で、イエスを慕う ピラト…当時のユダヤを統治していたローマ総督 アリマタヤのヨセフ…ユダヤ国会議員の1人で、ピラトと親交があり、人目をしのんでイエスに師事していた人物
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ar7_akito

幽体離脱から帰還後、トランスを維持して1番目に降ってくるインスピレーションがとても重要なのですが、昨日の1番目は「幽界K人」でした。これは僕が幽界K人されるという意味ではなく、僕のブログが相当の驚きをもって読まれ、ある女性の父親と兄、さらにその父に影響力を及ぼしたという事です。
01-26 15:11

昨日のトランス時、とにかく凄かった。休みなくインスピレーションが降りまくり、僕は忘れないよう必死にクロッキーにメモるのでした。特に幽体離脱が凄かったのです。少し幽体離脱して帰還、時計を見ると20分が経過してましたが、離脱中の体験は10時間とも言える膨大な内容だったのです(祈)
01-26 14:59

アタック帰還。出発前に受取らせた頂いたインスピレーション、情報量が膨大すぎて頭の中で整理するのが大変です。が、クロッキーを読返すほどに、ある女性の肯定的思念が溢れているのです。僕の事がイヤになって幽界K人しようとしたのではなく父親とその兄に言われて首をタテに振らされたんですね。
01-26 14:32