「スピリチュアリズムの真髄」より→「そもそも私が神の存在を云々する時は宇宙という相対世界を支配する中枢すなわち宇宙の脳髄の事を言っているのである。そして神にもし個性的意識が無いとしたら、存在というものを意識する事は不可能なはずである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「我々人間が自分の存在を認識できるのは他の存在との対比と相違があるからである。あなたが自分の個性的存在を意識できるのは自分というものを自分を取りまく無数の個的存在と比較できるからである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神も同じである。無限絶対の神でもそれだけでは存在は意識できない。相対的存在の世界があってこそ絶対的存在が意識され体験されるのである。従って神は顕幽両界のあらゆる存在に内在している」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「それはちょうど人間の霊が全ての骨、筋肉、神経、粘膜、繊維、体液等々ありとあらゆるものに染み渡っているのと同じである。がしかし、どこに一番自我意識を意識するかといえば、手でもない、足でもない、やはり頭である。神も同じである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神は宇宙のすみずみまで行き渡っている。植物にも動物にも人間にも、そして日、月、星辰にも存在する。が神自身も自意識を一番強く意識する場所がある。それが宇宙の脳髄に相当する部分だというのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神にも有限性と人間性があるという概念は、当然、神というものが人間生活と無縁の存在ではなく何らかの形で結ばれているのだという理論を生む。そしてそこから神は“天にましますわれらが父”であり宇宙の支配者であるという思想が出てくる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでは人間は神の分霊を受けて生まれ、従って全ての人間には神性が宿されていると主張する。その意味で人間は実に神そのものであり、ただそれが肉体という限りある器官を通じて顕現しているに過ぎないのだという」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「その神性、その偉大さを人間が悟り得ないのは肉体という物的器官によって感覚が鈍化されているからである。その肉体という被いが取り除かれた時、はじめて人間は自己の神性を悟り体験する事ができるのだというのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムではその神性において人間に一切の差異を認めない。全ての人間が神の分霊を宿しており、その原理においてみな平等であると主張する。全ては神の子であり“特に選ばれた神の子”というのは絶対にないのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「むろん、ある者が他の者より神性を多く発揮するという事は有得るが神性を宿しているという事実においては全ての人間は平等である。またその神性に高いも低いもなく、その他一切の差異差別はない」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「“人間は生まれながらにして平等である”という言葉はよく誤解されるが、人間は真実生まれながらにして平等なのである。気質や知識、知恵、財産等においては各人みな差はあるが、神性の原理においては人類はみな平等なのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでも例えばイエスが神性を宿していた事を認めるが、我々一般の人間も神性を宿すのと同じ意味でそう認めるのである。現にイエス自身は自分が特別な神の生まれ変わりであるとは言っていないし自分でもそう信じていた訳ではない」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「イエスは全ての人間が神の子であると教え人類は兄弟であると説いた。「いずれ諸君も私以上の業をなす日が来るであろう」と言ったその言葉の中にイエスが全ての人間に偉大さと神性が潜在している事を認めていたと理解する事ができる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「キリスト教は人類を罪悪視する事でイエスの神性を高揚せんとするが、イエス自身の真の喜びとする事ではなかろう。むしろ人類全体に神性を認め賛美し、イエスとの同質性に喜びを見出す方が真理を知る者の取るべき正しい道だと信じるのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムは来世の存在を説き地上生活を終えると人間は一段高い世界へ行きそこで地上と同じように個体として生活を続ける。死後の存続はスピリチュアリズムの中核をなす思想であり既に主観客観の両面、現象的、哲学的にも十分な根拠を備えた」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムの説は何と美しく合理的であろう。死は肉体という衣服を脱ぎ捨てる事であり、人間は一人の例外もなく地上時代の体験と記憶と性格を携えて霊体という新しい身体で新しい次元の生活を始めるというのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「この説が哲学的科学的に納得できれば人類にとってこれ以上の福音はない。人類は死の恐怖から完全に解放され死を不幸と見なくなる。身内や友人の死を嘆き悲しまなくなる。冷静に死を見つめ表面上の惨さ哀れさに捉われる事も無くなるであろう」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「死ぬのは肉体だけなのだ。その人自身、その人の魂は、より自由でより明るい世界へ旅立ったのだ。そう理解すれば、悲しむよりむしろ喜ぶのが正しいのだと悟れる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでは死後に存続するのは地上生活を送っていたその人そのものであり善性も邪性も全部そのまま携帯して行くと説く。死はその人の真の個性をいささかも変える事なく、肉体という外形が変化して霊体になるだけである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「その人自身、霊も精神も霊体も欠点も特性も個性も死の直前までと変わらない。この事からこの世における行為に対する因果応報は自然の因果律に則してその人の個性及び精神構造の中に留められているものについて行われるという事になる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「善行はその当然の報いとして地上時代と同様、霊性の向上という結果を生み、悪行は霊性の低さ不完全さの当然の結果として不幸あるいは苦痛という形での報いを受ける。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」この言葉は地上生活、死後の生活、ともに当てはまる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「そこには怒り狂った神が人間を待ち受け、裁きそして体罰を与えるといった子供だましの思想は微塵もない。罪を裁くのは他ならぬ自分自身の道義心であり、その裁きの結果が自動的に苦痛なり幸福感となって意識されるのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「道義心及び性格に刻み込まれた悪徳ほど人を裁くのに効果的なものはない。罪の意識とその罪に歪められた精神構造は必然的に善と幸福に満ちた霊達との接触を妨げ、似たような精神構造をした霊との交際を余儀なくさせる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「その状態は罪を悔い精神構造がより高いものを求めるようになるまで続く事になる。それが“界”の意味なのである。そこに固定した境界がある訳ではなく、似たような精神構造と霊格を具えた者が集まって、そこに一つの生活の場を構成する訳である」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「その一番高い界を天国と呼び、最下層を地獄と呼んでも差し支えないが、それはあくまでも霊的発達程度の両極端を示しているのであって、下層界は努力と反省と高級霊の援助によって、いつでも抜け出せる流動的な一つの“状態”にすぎないのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「下層界にいつまでも留まっている者は少ない。炎の中から燃えさしを引き出す様に地獄の中から次々と霊が引き上げられ代って地上から送られてきた新入の霊と入れ替わる。いつまでたっても救われぬほど程度の低い霊というのは決していないのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「“悪”というものは単なる“未完成”“不完全”の別名であり、その意味で宇宙には本質的に悪なるもの、罪なる者は存在しない。いわゆる悪も究極においては善の中に融合されていく。根っからの悪人がいないように、根っからの罪人もいない」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間は過ちを犯す。神の法則に違反したという意味では罪だが決してその人の罪深き本性、悪の本性がそうさせたのではない。人間的未熟さと無知の結果である。修行と知識によってその原因が取り除かれれば必然的に悪も罪も取り除かれる訳である」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「キリストを救世主と信じる事によって自分の悪事に対する懲罰から免れて天国へ行けるなどという説はスピリチュアリズムからみれば全く意味のないドグマにすぎない。何を信じようが人間は全て霊界へ行くのである。それが自然の法則なのである」