モーゼスが低級霊に悩まされていた時にこう注意された。
「交信のための条件が充分に整っていない時にしつこく交信を求めすぎるからそういうことになるのである。警告したように、それでは必ず災いが生じる。心身が衰弱している時は信頼のおける通信は得られぬものと思うがよい。
しばしの間われわれとの交信は中止されよ。ぜひ中止されよ。と申すのも、貴殿の交信能力をわれわれの方でしばし預ることにしたのである。今の状態でわれわれの交信を求め続ければ、その能力が敵対勢力に乗っ取られ、憑依される危険性があるからである。貴殿もその可能性をいくらか感じているであろう。ただ、その危険性がいかに深刻なものであるかが分かっていないようである。われわれがその危険から救っておこう。貴殿はそうとは気づかぬであろうが……」
交霊会に関する心得。
「満腹の食事をした直後、あるいは精神的ないし肉体的に疲れがひどい時、または、会の雰囲気が調和に欠ける時は開かないこと。
会に先立って言い争いのような会話、あるいは心理的にエネルギーを消耗するようなことをしないこと。精神は受身的に、そして身体はラクにする。
部屋の空気がムンムンする状態で開かないこと。会に先立って新鮮な空気を通しておくこと。
なるべくなら開会する前に3、4時間ほど明かりを遮断しておく。ドアを閉じる前に芳香性の樹脂をほんの少量だけ焚くとよい。
開会中は物珍しさから勝手な要求をしてはならない。霊側で用意している計画を台無しにするからである。真剣で用心深い精神的態度を維持すること。とくに、まじめで祈りに満ちた心で、より高い知識を求めて素直に耳を傾けること。つねに霊的なものを求め、俗世間的なものは求めぬこと。
霊媒は自分の身を隔離してオーラへの影響を断った方がよいことがある。キャビネットを設けるのもひとつの方法である」
音楽の効用について尋ねると –
「良い音楽であれば使用しても結構であるが、無くてはならぬというものではない。われわれにとっては音楽よりもむしろ静粛と集中心の方が大切である。どちらかといえば音楽は低次元の現象や未熟な霊にとって有効なだけであって、われわれにとっては、いつも聞かされている音楽(サウンド)は何の効用もない。逆効果である場合すらある」
ある日の交霊会のあと不快な臭気が漂ったので、そのことを尋ねると –
「会の霊的状態が悪かったためである。これで出席者の方に分かっていただけると思うが、会に先立っての会話は議論になったりケンカ腰になったり興奮させるようなものは遅けるべきである。高級な交霊を求めるためには隔離された状態と瞑想と断食と祈りとが不可欠であるとされるのはそうした理由による。昔から霊覚者や霊能者はそれに気づいていた。われわれも貴殿にしばしば身体をじっと静かに保つこと、精神を安らかに保つことの大切さを説いてきた。それを欠くと交霊会は危険である」
「交霊現象においてわれわれが使用するエネルギーは、身体機能が(受身的状態であっても)正常に働いている時にのみ利用できるのである。(激論などしたあと)脳が活発に働いていると、エネルギーは脳へ動員されてしまうが、受け身の状態になるとそれが神経組織の方へ流れるので、われわれはそれを利用する。消化器官が活動している時はエネルギーはそこへ集中されてしまう。突然のショックを受けると神経のバランスが崩れ、エネルギーはしばらく散逸状態となる。
といって、受け身の状態が無活動・無関心の状態になってしまうと、それもまた困る。目の前で進行中のことへの関心を持続させること(集中力)が磁気性オーラ(後注)の流れを軽快で規則正しいものにし、それが霊側と人間側との連絡を完璧なものにする。公開交霊会で入神演説をする場合も、聴衆が一心に聞き入ることが、そうした磁気的調和状態を保たせることになる。
心配の念も禁物である。これには侵食する性質があり、受身的状態とは相反するものだからである。
(注) – 人体から発するオーラには磁気性のものと電気性のものの2種類がある。具体的なことは『母と子の心霊教室』(潮文社)を参照されたい。☆
2つの埋葬地の中間に位置する家に滞在したことを咎められたモーゼスが「それがなぜいけないのですか」と尋ねたのに対してレクター Rector と名のる霊が –
「最近の貴殿(あなた)は墓地に漂う臭気に一段と影響を受けやすくなっているからです。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、貴殿ほどに発達してくると有害です」
– でも、すぐ近くではありません。
「2つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気には貴殿の身体に有害なものが充満しています。
肉体が腐敗していく時に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに引かれて地縛霊がうろつきます。どこからどうみても感心しないものであるが、霊的感受性が過敏な人間にとっては尚さら有害です」
– 墓地を嫌っておられるようですが、埋葬より火葬の方が良いというお考えですか。
「朽ちて行く肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が毒されてしまいます。もう少し進歩すれば、生きた人間に害になるようなことはしなくなるでしょう」
モーゼスの知人が霊にまんまと騙されたことについてインペレーターが –
「その知人に、ひとりで勝手に霊と交信することを中止させないといけません。このままでは邪霊集団の餌食にされてしまう。われわれ(組織的計画に基づいて働いている霊団の者)は所属するサークル以外のことには関与しません。それぞれのサークルに支配霊がおり、その指示のもとに行動している。われわれとしては低級霊との交霊は絶対に避けるべきであると述べるのみです。危険に満ちています。その危険にわざわざこちらから近づくことはあるまい。ウソとごまかしばかりしている集団に関わりあってはなりません」
– 最近他界したばかりの人が2、3年で第7界(現象界の最高界)まで到達したというケースをご存知ですか。(多分どこかの交霊会に出席したら得体の知れない霊が2、3年前に他界したモーゼスの知人の名を騙って、もう最高界まで到達した、と自慢げに言ったのであろう。日本でもよくあるケースである – 訳者)
「知りません。そういうことは有り得ぬことです。何もかもデタラメです。そのようなことを言う霊と関わり合ってはなりません」
– 霊能が悪霊によって邪悪な目的のために開発されるということは有り得ますか。
「ある。大いにある。地上との関わりにおいては高級霊よりも低級霊の方が強力であるという事実から考えても、それが分かるはずである。彼らはその霊力を善のためには使おうとはし ません。逆に、いずれは霊媒にとって害になるようなことをして、われわれの本来の仕事に対する不信感を誘おうと企む。危険です。実に危険です」
「ベンジャミン・フランクリンが叩音(ラップ)現象による通信手段を発見していたこと、スエーデンボルグのおかげで霊側が地上との交信の可能性を知り、関心をもつようになったことは事実です。その当時は地上と霊界のすべての住民がいつでも交信ができるようになると信じられたのである。しかし人間側の無知と、霊側にすぐに著名人の名前を騙りたがる者が多すぎることで、その可能性が大巾に縮少されました。さらには、指導に当たる霊の間で、たとえば貴殿の知人のように、地上に戻ることを許すと忘れかけていた快楽を思い出させることになって必ずしも為にならないという認識が行きわたりました。そこでそういう霊は他の天体ないしは他の境涯へ連れて行かれており、したがって地上との交信には出ません」
– その発見はこちらより先にそちらの世界でなされていたわけですね。
「すべてこちら側でなされたことで、地上では何ひとつなされておりません。霊が発見して地上へ伝えられたものです。古代においてはラップのような手段は知られておりませんでした。これは現代特有のものです。古い時代においてはもっと物質性の少ない手段で交信が行われていたものです。珍しいケースを除いては物的手段を通す必要がなかったのです。霊と霊との直接の交信でした。が、人間が物質的になるにつれてその種の交信が減少し、ほんのわずかな人に限られることになりました。そこで信号による物的手段が発明されたのです」(この通信にはレクターとフランクリンの2人の署名がついている)
(注) – フランクリンの没年は1790年であるから、スピリチュアリズムの発端とされるフォックス家におけるラップ現象より半世紀以上も前のことになる。が、その頃から霊界では着々と準備をしていたことがこれで分かる。☆
インペレーターに代わる。
「地上で精神病者とされている者が実は低級霊の道具にされているに過ぎないことがよくある。その人間の身体を勝手に操作しようとしてそれがうまく行かず、支離滅裂な話をしたり辻褄の合わないことを言ったりすることをすることになる」
「交霊会の雰囲気が乱れる時は、その原因となる人間なり霊なりが必ずその場に存在していると考えるのは間違いである。とくに霊感の鋭い人間は単なる思念の放射だけで調子を狂わされることがよくある。われわれにとっては思念こそが強力なエンジンなのである。それをいろいろな形で道具として使用するのである。直感がわれわれの感覚であり、思念は道具である」
「霊が肉体から離れると思念の行使がずっとたやすくなる。こちらでは思念の投射が会話の通常の方法であり、地上との通信や連絡のあたりまえの手段である。人間のように身体をたずさえてその場におもむく必要はない。霊と霊との交信は時間と空間を超越して行われる。時間と空間は地上だけの条件である」
「高級霊がみずから出頭せずに下級霊を通じて働きかけることは、よくあることである。実によくあることで、支配霊として交霊の場にいなくても、指示だけが送られて、それに従って会が進行する。が、われわれのサークルにおいては、誰それの霊が来ていると述べた時には、実際にその場に来ていると思ってよい。同志を無防備のまま放置しておくようなことはしないと思われよ。が、それでもなお、思念の投射によって会の霊的雰囲気が乱されることがある。どうも思い通りに会が進行できない時は、それが原因であることが少なくない。そのような時は会の中止を命じる。
出席者が多い場合も雰囲気が乱れやすい。霊が出現したがるその情念の強さが原因となることもあるし、あたりに集結した邪霊集団の策謀である場合もある。
人間の大半がまだその事実を理解する水準に達していない。そのためにスピリチュアリズムは悪魔との交わりであるとか、特殊な精神的ないし身体的病気であるとか、幻覚であるとか、イカサマであるとかの見方をされることにもなるわけである。
それとは別に、霊的真理を正しく理解した少数の者による地道なサークルもある。高次元の交霊の崇高さの確証を手にして、わずか2人ないし3人が信念と誠実さをもって会合し、授かる言葉に耳を傾ける。その種のサークルにおいては精神は純粋にして真摯であり、崇高なる憧憬にあふれ、霊的思想に満ちあふれている。会に先立っての然るべき準備も整えられ、高級霊が訪れるための環境条件が揃っている。かようなサークルにおいては、成果もまたそれ相応に高尚なものとなる。
会の雰囲気が純朴な情愛に満ちたものであれば、先に他界した知人もしばしば訪れて身元を明かすことができよう。あるいは霊的親和性に富む(見知らぬ)霊が訪れて慰安と励ましのメッセージを語ることもある。さらには又、われわれ同様に、真理を希求する者のための啓発と向上を任務とする霊が訪れて、他の分野にも及ぶ知識を授けることもあろう。
こうしたサークルは、用意周到ささえ怠らなければ、人類の大いなる啓発のための貴重な機関となるところである。ところが悲しい哉、人間の使命感はもろいものである。支えとなるベきいちずな憧憬にやがて倦怠感が訪れる。俗世に心が奪われる。仕事に追いまくられる。取り越し苦労と悩みが入り込む。こうなると、われわれの目指すものにとってその霊媒はもはや無用のものとなる。あるいはサークルの同志の理解力いっぱいのところまで学んで、関心が衰えてくることもある。
こうした次第で、サークル活動はよほど稀有な条件が整っていないかぎり長続きしないものである。なかなか進歩が見られぬし、いろいろな障害が邪魔するからである」
「本来、霊の衣服は人間の目には映じないものであり、したがって霊姿というものは確認できぬものである。そこでわれわれは人間側が期待しているような形体を装うことになる。かりに霊が地上の友人に姿を見せたければ、たぶん地上時代によく着ていた衣服に似たものを着て出現するであろう。そして、確証として特徴ある身ぶり、衣装、あるいは表情をとくに誇張して注意を引くことであろう。そうやってせっかく確認してほしいと思って苦心したのに、友人が得心してくれなかった時の無念さと悲しみは一通りのものではない。
これが、あとに残した愛する人のためを思って戻ってくる霊につきまとう無念残念のひとつである。付き添って何とか面倒を見ようとするのであるが、どうしても通じない。そこでどこかの霊媒を見つけて、そこへ出席してくれるように誘導する。ようやく出席してくれたので、ここぞとばかりに苦心して生前の姿を見せ、死後の存続を証明し、変らぬ愛を示そうとする。が、悲しい哉、その誠意が空しく物笑いの対象とされ、自分の存在が認めてもらえなかった時の傷心の深さは測り知れないものがある。そして多分、霊界との交信の事実そのものが根拠のない愚かな幻想であると決めつけられる。首尾よく自分が確認してもらえて変らぬ愛を確かめることができた霊の測り知れないよろこびとは対照的に、それは霊にとっての測り知れない心の傷みとなる」
モーゼスが自分のサークルにおいてそうしたプライベートな交信が少ないことに残念を表明すると –
「貴殿にはそれとは別の使命があるのである。われわれとしてはそうしたプライベートな交信にサークルが利用されることは許すわけにはいかない。好奇心の満足、たとえ愛に発するものであっても私情の混じったことの満足のためには絶対に許すわけにはいかない。貴殿のサークルはその程度の目的のために利用してはならない。もっともっと高尚な目的をもったものなのである。貴殿に託された使命の崇高さについて十分な自覚が芽生えるまで待つほかはない。その時になればわれわれがプライベートなものを拒絶する理由が分かるであろう」
– 私の使命は主イエス直々(じきじき)のご計画によるものなのでしょうか。
「すでに述べた通り、このたびの大事業には2人の偉大なる霊、すなわちモーセとエリヤが密接にかかわっておられる。私が直接うけるインスピレーションは私の守護霊であるエリヤからのものである。私が地上にあった時も(紀元前5世紀)エリヤが私を鼓舞し、今は私を通じて貴殿に影響力を行使しておられる。が、彼をはじめ、われわれはすべて人間がイエスと呼ぶ崇高なる霊の配下にある」
– イエスにお会いになったことがありますか。それからモーセとエリヤにも。
「いかにも。私の守護霊たるエリヤと偉大なる霊モーセとは早くからお会いしている。会話も交わし、同時に指示を仰いできている。
が、イエスと直接の接触にあずかったのは、このたびの使命とのかかわりが出来てからのことである。遠大なる大事業の計画を目的とした高級神霊の大集会へのお召しにあずかった時にはじめてお姿を拝した。
私が知るかぎり、主がふたたび試練の現象界まで降りて来られたのはごく最近のことである。またその大集会で拝見した高級神霊もやはり最近になって降りて来られた。多分、主がこのたびと同じ目的をもって地上へ降誕されて以来、久しぶりのことであろう」
– どの集会のことでしょうか。確かあなたはイエスは1度も戻ってきていないとおっしゃいましたが……
「大集会というのは、貴殿も知っての通り、私がサークルを留守にしていた時に開かれたものである。それから、私は自分が定かでないことについて断定的な言い方をしたことはないつもりである。イエスは人間に直接働きかけられる境涯の彼方(超越界)へ行っておられたが、地上時代に肉体に宿って着手された大事業を一段と進める必要があり、ふたたび現象界へと帰ってこられたのである」
– 私と同じようにその大事業のために準備された者は他にもいるのでしょうか。あなたが関わっておられる霊媒は他にもいますか。
「私が直接かかわっている人間は貴殿以外にはいない。が、使命を担った霊の指導によって着々と研さんを重ねつつある者は大勢いる。これまでにわれわれは貴殿の中に高級界と地上界との間に開かれた通路として最も貴重な要素を開発することに成功している。貴殿の精神が冷静になるにつれて他の多くの霊が訪れるようになるであろう。そして貴殿の疑念も晴れることであろう。現在の精神状態ではまだ他の霊には近づくことができぬ。
それはともかくとして、霊界ではさまざまな知識を人類に授けるための適切な人材を見出すべく、今後とも努力するであろう」
マグナス Magnus と名のる霊からの通信。
「教育と養成を任務とする霊は、それを授かる人間と霊的な意味において一体です。教師の霊的知識源から生徒が吸収し、そこで一体となる。これが霊と霊との融合です」
– その関係は死後も続くのですか。
「続きます。それは永遠の相互依存の法則です。霊の生活においては孤立という観念は存在しません。それは地上的錯誤です。霊は融和と共存の中で生活しており、互いに依存し合っております。教えた者と教えられた者とは親和関係で結ばれています」
モーゼスが“キリストの再臨”について尋ねたのに対してインペレーターが –
「聖書の記録の言いまわしにはあまりこだわらぬがよい。曖昧で、しかも誤って記されている場合が多いからである。つまりイエスが語った言葉の真意を理解できぬ者が、いい加減な印象を記録した。それがさらに拙劣な用語で(英語その他に)翻訳され、結局は間違った概念を伝えることになった。こうした制約を受けながらも、主イエスが地上時代に語ったことの中には、今まさに成就されつつあることが、とくに新たなる啓示について、概略ながら多く存在する。地上にありながら死後ふたたび地上世界へ帰ってくることについて語っていたのである」
– では帰ってくるというのは純粋に霊的な意味なのでしょうか。
「その通りである。今まさに主イエスが(新しい啓示をたずさえて)地上へ帰って来つつあるのである。それを、中継の霊団を通じて行っておられる。必要とあればみずから影響力を人間に行使されることもあるかも知れぬ。が、肉体に宿って再生されることは絶対にない。今はまさしく霊の時代であり、影響力も霊的である。その影響力は主が地上に降りられた時代のそれと類似している。
“変容の丘”(マタイ17ほか)において主は、影響力の通路となっていた2人の霊すなわちモーセとエリヤと“現実に”語り合った。その2人はこのたびのスピリチュアリズムおよび歴史上のいくつかの霊的活動に深く関わってきており、今なお関わっておられる。主イエスの指示のもとにこのたびの活動を鼓舞し指揮しておられる。これで、われわれがスピリチュアリズムの活動が宗教的なものであると述べた理由が分かるであろう」
レクター Rector、ドクター Doctor、プルーデンス Prudens の3人の署名のもとに次のように綴られた。
「ハルマゲドンと呼ばれている地上圏での善と悪との黙示的な戦いは今まさに進行中です。その真っ只中にキリストが立っておられる。われわれがこうして新しい霊的真理を告げに戻って来たのは、そのキリストのお出ましに備えるためです。と言っても、甦れるキリストが肉体をまとって出現なさるのではなく、霊的影響力としてのキリストの再来のための下準備です。
そこのところをよく理解してほしい。いま地上界に再生しつつあるのは、かの歴史上のイエスその人ではなく、“キリストの原理”なのである。これまでの物的概念を棄て去り、その黙示的な真理を学んでほしい。
地上の人間は“キリストの再臨”をイエスがもう1度肉体に宿って地上へ出現するかのごとく考えていますが、本当の意味はイエスが(2千年前に)地上へ降りて範を垂れた“キリストの原理”の甦りであり復興です。
さぁ物的雑務などが重なって次回トレイルムービーの準備をしていません。正直に言うと準備する気にならないんです。ハッキシ言ってトレイルムービーをやめたいですが、トレイルムービー継続の試金石になるかも知れないアイデアをひとつ思いついています。
それは2サイト(トレイルムービー特設サイト)を削除して、1サイト(このブログ)上で字幕.vttが表示されるようにし、さらに近々で「アナログ絵トップページ」「主なブログトップページ」を制作しましたが、これと同じような「動画まとめページ」のようなものを制作して、1サイト上で更新、管理等の全ての作業を完結させられるようにできれば、何とかトレイルムービーを続ける気にもなる…かも知れないと思っています。
が、このアイデア実行には1サイトでかなり大掛かりな作業をやらねばならず、もし失敗したりすると1サイトに多大なダメージが残る事になりかねないため、着手に勇気が必要なアイデアなのです。僕のWordPressはちょっと普通じゃないボリュームになっていますので(もちろんバックアップはスゴイ激しく取っていますので大丈夫ですが)何か不測の事態があったらシャレになりません。
さぁフラー関連の作業をやらないといけないのですが、霊団との確執でいろいろ複雑な想い(怒りといった方が表現的に正しいかも)があってなかなか着手できていません。そういう事ではいけません、手は感情と切り離して動かさないと。勇気を要求される1サイトの作業どうしようかな。考え中(祈)†