ガリラヤの喜びの歌声は飢えに苦しむ叫び声に変わり、笛やコーラスはすすり泣きに変わってしまった。熱病が猛威をふるった夏が過ぎ、きびしい冬がやってきた。いたる所大飢饉にみまわれた。外国から役人が食糧を買いあさりにやってきて、ほんの僅かな収穫でも多額の金で買いとった。
町中の欲ばり連中は、畑の隅から隅まで血まなこになって落穂を拾い集めた。貧乏人は寒さと飢えで次から次へと死んでいった。まことにひどい冬が荒れまくったのである。
ヨセフには沢山の仕事が舞いこみ、金持ちになっていった。飢えた羊飼いや農民がやせおとろえているのに、ヨセフは豊かであった。しかし彼は稼いだ金を貯めようとはせず、穀物や無花果を高い金を出して買い求めては、常時彼を頼ってくる旅人や孤児たちに与えていた。親戚の者がそんな鷹揚なふるまいを諌めようとすると、ヨセフは反論するのであった。
「貧しい隣人たちを忘れてはならない。もしも母子だけの家庭や孤児が困っているのを忘れるくらいなら、小麦のかわりに薊が生え、大麦のかわりに麦撫子が生えればよいさ。もしも飢えている旅人を見て彼を入口からしめ出すくらいなら、私の鋸の歯がまるくなり、のみが錆びつき、プラタナスの木々が倒れ、斧の刃が私や息子たちを切りきざむほうがましだよ」
ヨセフの親戚たちは呆れかえり黙って立ち去った。しかし陰では<あんなことしていると、いつかは乞食みたいになるさ!あのお人よしには全くあきれたもんだ>とささやいていた。
ヨセフは息子のトマスやイエスと一緒に金持ちの農夫のために、夜中まで働いていた。その日の仕事が終るとき、賃金を受けとるのであった。マリヤは、山から訪ねてくる飢えた人々や、困っている子供、さらに漁師の家族たちに食物を与えていた。その冬は特に不漁が続き、小さな魚さえとれず漁師たちは毎晩空っぽの網を浜辺に広げ、腹をすかせていたのである。
春がやっときて悪夢のような飢饉も去っていった。ヨセフは過労がたたり、重い病気にかかってしまった。昔うけた背中の傷が痛みだし、腰の痛みも劇しかった。やはり井戸に落ちて重傷を負ってからは、彼の体は完全ではなかった。
今度ばかりは余りの痛さのために、遂に寝こんでしまい、立ち上ることができなかった。そこで風在のよい若者、トマスが父の代りに親方になり、木工技術に関するすべての采配を振るった。もちろん兄であるイエスも彼に従った。
しかしイエスの技巧は未熟で、どちらかといえば木工作業には余りむいていなかった。鋸で真っすぐに切ったり、鎚を上手にかけることができなかった。弟であるトマスには彼がグズで、頓馬に思えた。トマスは口の悪い礁たちと付き合っていたので、心の底までひねくれていた。
トマスは兄に向かってどなるのであった。「このうす馬鹿者めが、鋸の背中で木が切れるとでも思うのかよ!おめえがそれを使うと、歯がボロボロになっちまうよ」こんなふうにイエスに八つ当りしていることを聞いたヨセフは、床の中からトマスに言った。
「トマス、そんなふうに兄を責めないでおくれ。彼は母さんの若いときに似ていて、いつも夢を見ているので、手の方がうまく働かないんだ。そこへ行くとお前は本当に私の子だ。わしに似て手先きも器用だし、大工として立派な才能も備わっている。わたしは本当にうれしいよ。
お前がそうやって働いてくれるので私の唯一の慰めであり、弱っている私の支えになっているんだ。だからお前も、もっと賢くなって、その熟練の腕をふるい、イエスには優しくしてやってくれないか。
これでも母さんがやっきになってイエスの腕を磨こうとしているんだが、あまり効果がないとは思うがね。兄をいたわってあげなさい。彼は商売の経験もないし、腕もないから、きっとこの家の家長にはなれないだろうな。なにしろ家長は、一家を支えていかねばならんからねえ」
ヨセフの忠告があってから、トマスはますますつけあがってしまった。彼は公然とイエスを軽蔑し、彼の弟たち、ヤコブ、セツ、ユダをひきこんで、彼を嘲った。遂にイエスの仕事といえば、材木はもとより、ときには重い石材を運ばせるようになった。それを弟たちは手伝おうとはしなかった。
ヘリが立ち去って1年が過ぎた頃、イエスは母に言った。「冬の間中お世話してあげた羊飼いが僕に山へ来ないかと誘って下さるんです。僕を1人前の羊飼いにしてやるというのです。お母さんが許して下さるのなら僕は喜んで彼の言う通りにしたいんですが。山は僕にとって本当に良い友達ですし、空の星は人の手で作った屋根よりもずっと親切なんです」
マリヤはそんな荒野に行かないでほしいとイエスに懇願した。「強盗にでも襲われたらどうするのかい。第一、羊の番なんかは、大工の息子が手がけるにはとても卑しい仕事じゃないのかい。お父さんだってきっと賛成しないと思うよ」それでイエスはその話は思い止まって、大工の仕事を続けていた。相変らず弟たちから馬鹿にされながら。
セツがトマスに言った。「お兄さん、イエスはあんなに馬鹿にされても、よくも毎日あんなに愉快そうにしていられるね」ヤコブが答えた。
「そうだとも。やっはいつも真理をまじめに追究し、自分の欠点なんか棚にあげてやっているんだから、ニコニコしていられるんだよ。第一、やっは安息日なんかそっちのけなんだ。仕事が終ると伯母さんの家に行って、従兄弟のヤコブやヨセフと一緒に働いて、クローパス家の手伝いなんかしているんだ。この3週間とも、やっは安息日に会堂の礼拝にも行かないで、日の出から夜まで山の中をほっつき歩いているんだからね」
弟たちは口を揃えて父の前でイエスのことを非難した。さき頃、貧しい農夫の山羊が病気で弱っているのを見て、ちょうど安息日というのに、薬草を煮出して山羊にのませていたとか、独り暮らしの老人のために、またもや安息日だというのに、林の中で木を伐り出し、重い材木を運んでいたことなどを話した。
この話を聞いた父はイエスを呼んで、どうしてそんなことをしたのかと尋ねた。イエスは答えて言った。「困っている人たちを悲しませたくないんです。与える喜びはどんな宝石にも及ばない値打ちがあるんですね」
ヨセフは頭ごなしに言い放った。「6日間働いて、7日目には必ず安息日を守りなさい。働いて休むんだ。モーセの十戒を大切に守って、変な噂をたてられないようにしなさい!お前は安息日の掟を破った罪がどんなに重いかを知っているだろう!」父はきびしい調子でイエスに説教した。彼は黙ってきいていた。それ以来、弟たちから直接非難されることはなくなった。
トマスとヤコブの2人の弟は、次第にまともな考え方をするようになった。彼らにはあるひとつの目標があり、それが1本のローソクの火のように彼らの心を照らしていた。トマスは自分の夢を実現させるために、稼いだ金を貯えていた。彼はナザレを離れエルサレムに行って職人の親方になりたいと思っていた。
ヤコブは一家の家長としてすばらしい家庭と財産を築き、衣食住を豊かに暮らす夢を描いていた。彼もまたエルサレムにあこがれてはいたが、トマスとは少しちがっていた。彼はとてもまじめな少年だったので、彼は神殿の中に住みこんで毎日エホバの神に祈りをささげ、イスラエルの救済をねがうことであった。
この2人の兄弟は1本の軛(くびき)につながれている2頭の雄牛のようであった。2人とも1日も早く重荷をおろして自分の夢が叶うことを望んでいたからである。しかしイエスはこんな軛(くびき)につながれてはいなかった。彼は心の中に光を持ち、働くことを喜び、弟たちから馬鹿にされてもユーモアで応対していた。
長い間病床にあったヨセフもイエスにはもう説教などはしなかった。弟たちは父をあきらめてナザレの律法学者に相談していた。律法学者は必ずイエスを見張っているように命じていた。そして彼は、そのうちイエスが大罪を犯して失脚するだろうと預言していた。
ある日のこと、母マリヤはイエスを呼びよせて言った。「この2年間、お父さんは病気で苦しみ、春がきたというのに痛みはますますひどくなってね、とても気の毒なのよ。お願いだから、レアを生き返らせたお前の秘密の力をかしておくれでないか」
イエスは母の要求をきいて悩み始めた。母を心から愛していただけに、断わるのがとても辛かった。ヘリからあれほど警告されていたにもかかわらず、彼はひき受けてしまったのである。週の始めの日(日曜日)の夕方、弟たちが仕事に出ている間に神癒を施すことになった。
病人の寝ている部屋では、マリヤとヨセフの姉の2人が準備をととのえていた。2人の敬虔な女が見守る中で、イエスは静かに祈っていた。イエスが口にする言葉は彼女たちには全く解らなかった。
暫くしてイエスがヨセフの方に近寄り、ヨセフにとり憑いている悪魔に向かって、<出て行け!!もう2度とこの肉体に入るな!>と言った。2人の女は、そのときイエスの体から太陽の光線のようなものが発射されるのを見た。イエスは体をかがめながら、その光を懸命にヨセフの体に注ぎこんだ。
暫くすると姉のマリヤ・クローパスは、弟の体の上に雲のようなものが覆ってイエスの発射した光を呑みこんでしまうのを目撃した。折角の光が、その雲にさえぎられて患部に届かないのである。ヨセフの心の中に、イエスに対する信頼が失せていたからであった。
トマスやヤコブから散々イエスの悪口をきかされていたので、ヨセフの心は疑惑の重みにあえいでいたのである。イエスは烈しく呼吸をしながらもう1度悪魔払いを試みた。汗と涙がイエスの頬を伝わり、彼の顔面は蒼白となった。いかなる努力も空しく、ヨセフは横たわったまま苦痛の声をあげ、不信の目でイエスを見上げていた。
「僕には出来ません。父と私をつなぐ橋がどうしてもかからないんです」イエスは呟きながら炉端のそばにうずくまり、べたんと座りこんでしまった。戸口には、トマスやヤコブが立っていた。彼らは2度目にイエスが試みた悪魔払いを目撃した。天界よりの恵みの光をイエスが発射したにもかかわらず、父の不信によって悲しくも神癒は成功しなかったのである。
(註1)週の7日目(土曜日)のことを“サバト”(安息の意)と称し、ユダヤ人はこの日に一切の労働を休み、会堂に集まって神に礼拝をささげることが義務づけられていた。携帯する重量や歩行距離にも厳格な制限が加えられ、殊にパリサイ派の人々はこれらの掟を重視し実践に努力した。
従ってこれを破る者は重罪のひとつとみなされ、厳罰に処せられた。新約聖書の福音書では、イエスが十字架刑に処せられた最大の根拠として、安息日の掟を破ったことが直接の引き金となったと記されている。
■2023年5月10日UP■「基礎を積み上げる者ほどその後の進歩が速い」帰幽後の話かよ使命遂行終了か?(祈)†ん?今軽くトランスに入った時に「そんな事ない」って言ってきました。という事は物質界生活中に結果に到達できるのか。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させられるのか。奴隷の女の子たちを助けてあげられるのか。イヤ、これまでの霊団の動きを見ればそんな一言は信じられない。甘いな。んんん、僕の人生目標は「帰幽後に霊界で賜る霊的褒章」であり、物質界でああなろうとかこうなろうとは夢にも思ってませんから(2度と物質界に戻るつもりはありませんので)帰幽後の明るい人生を連想させるこのインスピレーションは、僕個人としては喜ぶべき意味なのですが、霊界の仕事とはそんなにもいい加減なものなのか。そんな事でいいのか。一体いつになったら物質界の邪悪を本腰を入れて滅ぼすつもりなんだ。僕が1代目だとして、一体何代目で滅亡を完了させる計画なんだ、どんだけ悠長なんだ…続きを読む→ ■2023年5月3日UP■「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました…続きを読む→ ■2023年4月19日UP■「この窓から神秘に入る」帰幽後、僕が突入する状況について霊団が言ってきましたが(祈)†インペレーターの霊訓より抜粋 私がこの地上を去ったのは遙か遠い昔のことになりますが、このたび戻ってまいりましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻ってくる霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣(つか)わされたのです。天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました。 – あなたは神の僕(しもべ)ですか。いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えたのちは2度と個的身体をまとって戻ることのできない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる…(とくに厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して……続きを読む→