【8/3】モーゼスの「霊訓」(上)第1節 神と啓示
(原典では各節に番号がふってあるだけで見出しの語句がないが、理解の便を考慮して訳者が付した。)
霊的新時代の幕開け
[世界の歴史においても特異な意味をもつ今の時期とその特質についての対話が交わされたあと、次のように綴られた。]
今まさに、新しい真理の普及のための特別の努力が払われつつあるところです。神の使徒による働きかけです。それが敵対者の大軍による、かつてない抵抗に遭遇しております。世界の歴史はつねに善と悪との闘争の物語でした。
一方に神と善、もう一方に無知と悪徳と邪悪 – 霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪です。そこで、時として – 今がまさにその時期のひとつなのですが – いつもとは異なる努力が払われることがあります。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、霊的知識を広めます。目的達成の時も近づいております。
油断ならないのは真理からの逃亡者であり、生半可(なまはんか)者であり、日和見(ひよりみ)主義者です。そうした人種に惑わされてはなりません。しかし、神の真理のために惑わされることがあってもなりません。
– おっしゃることはわかります。しかし、何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう?真剣に求めながら、なお見出せない者が多いのです。
切に求める者にして、最後まで見出せぬ者はいません。その道のりが遠く久しい者はいるでしょう。地上を去り、高い界へ至ってようやく見出す者もあるやも知れません。
神はすべての者を試されます。そして相応(ふさわ)しい者にのみ、真理を授けられます。一歩進むにも、それ相当の備えがなくてはなりません。それが進歩の鉄則です。適性あっての前進です。忍耐が必要であるゆえんはそこにあります。
– それはわかるのですが、教会内部の意見の衝突、証拠が納得してもらえないこと、偏見、その他もろもろの要因からくる障害はどうしようもないように思えます。
それは、“あなたにそう思える”というに過ぎません。いったい何ゆえに神の仕事に抵抗するのでしょう?もろもろの障害とおっしゃるが、われらが過去において遭遇した障害にくらべれば、現在の障害など、ものの数でないことをそなたはご存知ない。
あのローマ帝政の末期、放蕩(ほうとう)と肉欲と卑俗と悪徳とにひたりきった地域から、聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしもそなたが生をうけておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことでしょう。
その非常さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれでした。肉欲 – ただ肉欲のみでした。天使はその光景を正視できずにその場を去り、その喘(あえ)ぎを和らげてやることなどは及びもつきませんでした。
信心などは思いもよらず、それよりさらに悪質でした。世をあげて霊的なものを侮蔑(ぶべつ)し、われわれの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄(ぐろう)し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んでの放蕩三昧(ざんまい)の日を送るのみでした。まさしく、堕落しきった動物同然の生活でした。
それほどの悪の巣窟(そうくつ)さえ、神とその使徒は見事に掃(は)き清められたのです。それをあなたは、わずかな障害を前にして、“どうしようもない”と嘆くとは、情けないことです!
啓示は時代とともに変わる
[このあとも、地上人類のための計画が、人間の無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯(いきさつ)が述べられた。そこで私は、この度も失敗に終りそうなのかと尋ねた。すると – ]
神はそなたの想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇(かわ)きを潤(うるお)し、知性を納得させるような真理が、ふんだんに地上へ注がれています。
むろん、中には古い教えのみにて足れりとし、新たな真理を受け入れようとしない者もいることでしょう。われわれは、そうした人種をかまうつもりはありません。しかし、古い啓示を十分に学び尽くし、さらに深い真理を渇望している者が大勢いるのです。
そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられます。それが彼らを通じて縁ある人へと波及し、やがて全人類へ向けて公然と啓示を垂れる日も来ることでしょう。
見るがよい!神の隠密は地上の低い階層にあって研鑽(さん)を重ね、その知識と体験とによって確信した真理を唱道します。その隠れた小さな泉がやがて多くの流れを集めて大河を成すのです。
測り知れないエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、今そなたを悩ませている、無知も不信も愚かな思想も罪も、一気に押し流してしまうことでしょう。
– その“新しい啓示”ですが、それは“古い啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが…
啓示は神から授けられます。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有りえません。ただし、その真理は、かならず時代の要請と、同時代の人間の受け入れ能力に応じたものとなります。一見すると矛盾するかに映じるのは真理そのものではなく、人間の側に原因があります。
人間は単純・素朴では満足せず、何やら複雑なものを混入しては、せっかくの品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをしてしまいます。そして時の経過とともに、いつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものになりはてます。矛盾するばかりでなく、もはや不純であり、“この世”的なものとなりはてています。
そこでまた新しい啓示が与えられます。しかしその時はもはや、それをそのまま当てはめる環境ではなくなっています。そこで、古い啓示の上に築き上げられている迷信のかずかずをまず取り崩さねばなりません。新しいものを加える前に異物を取り除かねばならないのです。
啓示そのものに矛盾はありません。が、矛盾するかに思わせる古い夾雑物があります。まずそれを取り除き、その下に埋もれている真実の姿を顕(あらわ)す必要があります。
人間は自分に宿る理性の光によって物事を判断せねばなりません。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は、無知な者や偏見に固められた人間が拒絶するものを、喜んで受け入れます。
神はけっして真理の押し売りはいたしません。この度のわれらによる啓示も、地ならしとしての、限られた人間への特殊な啓示と思っていただきたい。これまでも常にそうでした。
モーゼは自国民のすべてから受け入れられたでしょうか。イエスはどうだったでしょう?パウロはどうだったでしょう?歴史上の改革者をごらんなさい。自国民のすべてに受け入れられた者が1人でもいたでしょうか。
神は常に変りません。神は啓示はしても、けっして押しつけはしません。用意ある者のみがそれを受け入れていきます。無知な者、備えのない者は拒絶します。そうでしか有りえないのです。あなたが嘆かれる意見の衝突も相違も、単なる正邪の選り分けの現われにすぎません。
しかも、取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽(あお)られています。結束した悪の勢力の働きかけも覚悟しなければなりません。しかし、足もとのみに囚われてはなりません。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことが大切です。
背後霊とは
– 背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。
背後霊は必ずしも“指導すること”を目的として付くのではありません。そういう場合(ケース)がいちばん多いことは事実ですが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともあります。
しかし、その場合でも、人間を導くという傾向は自然に出てきます。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともあります。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもあります。
反対に、霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当な人間を選ぶという場合もあります。これは高級霊が好む手段です。自分の霊的向上のために、あえて指導が困難で、不愉快な思いをさせられる可能性の大きい人間に付くことを、みずから希望するのです。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのです。
中には霊的親和力によって結ばれるケースもあります。地上的縁の名残りで引きつけられることもあります。そして、特別な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するにしたがい、しばしば入れ替わることがあります。
– そうやって地上へ戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。
主として、地球にもっとも近い下層の3界(2)の者たちです。地上の人間との連絡が取りやすいからです。高級霊の場合は、いわゆる霊媒的素質に似たものをもつ者に限られます。このことについては多くは語りません。
われらの通信を正しく伝えることのできる霊媒を見出すことは至難の業(わざ)であるということを申し上げるにとどめます。通信を望む霊は実に多いのです。しかし、適切な霊媒が見当たらないこと、それを求めて、あたら無駄な時を費すのを嫌うゆえに、彼らは地上との接触を断念するのです。
ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因があります。時おり発見される間違いは、必ずしもわれらの側の落度とは限りません。そのうち、通信に影響を及ぼす事情について、さらに多くを語る時期もくることでしょう。
悪魔と邪霊集団
– 神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。
われらの使命を阻止せんとする邪霊集団のことです。彼らは、いかにもわれわれと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装(よそお)いつつ、わざとしくじり、人間ならびに霊の、われらへの反抗心を煽ることをします。
悲しいかな、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込めてしまい、邪悪な道に快感を求め、とくに悪の要素の強烈な霊を首領として集結し、われわれに増悪を抱き、仕事を邪魔しようとします。
彼らは悪戯(いたずら)に長(た)け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれわれと同じ仲間であるかのごとく装いつつ、わざとヘマをやっては、半信半疑の真面目な人間を迷わせ、なかんずく、崇高にして高雅なものを授けんとするわれわれの努力の裏をかき、真摯(しんし)な学徒に、下劣にして卑俗なものを与えようと企(たくら)みます。神の敵であり、人間の敵というべきです。善の敵であり、悪の使者です。彼らに対して、われらは飽くなき闘いを挑むものです。
– そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、すべて善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいるのですが…。
ああ、哀(あわ)れなるかな!哀れなるかな!善なるものへ背を向け悪への道を選んだ者ほど哀れなものはありません。そなたは、その邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止しようとしていることが驚異だとおっしゃるが、それなど、まだまだ驚くには当たりません。実状はそれどころではないのです。
人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変るものではありません。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪(けんお)感をそのまま携(たずさ)えてくるのです。変るのは肉体を棄てたということだけです。低俗な趣味と不純な習性をもつ魂が、肉体を棄てたくらいでその本性が変るはずはありません。
それは、誠実にして純真な向上心に燃える魂が、死と同時に俗悪な魂に一変することが有りえないのと同じです。そなたがそれくらいのことを知らずにいることこそ、われわれにとっては驚異です。
考えてもみられよ。純粋にして高潔な魂が、視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できるであろうか。しかるに、あなたがたキリスト者は、神を憎み、善に背を向け、肉欲に溺れた罪深い魂も、懺悔(ざんげ)ひとつで清められて天国へ召されると説かれる。前者が有りえないごとく後者も絶対に有りえません。
魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれるのです。すぐに剥(は)げ落ちる上塗(うわぬ)りではないのです。魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せない一部となりきること、それが向上であり成長というものです。
そうして築かれた本性がもしも崩れるとすれば、それは、長い年月にわたる誤った生活によって徐々に朽ちるのであって、織物を乱暴に切り裂くように、一夜にして崩れることはありません。
ありません!絶対にありません!習い性となり、魂に深く染み込んでいくのです。肉体の煩悩に負けた魂は、ついにはその奴隷となっていきます。そうなったが最後、純なるもの、聖なるものを嫌い、死後もなお、かつての地上の遊び場へ赴(おもむ)いて、肉の快楽に耽(ふけ)ります。魂の本性となり切っているからです。
これで納得がいかれるであろう。悪の軍団とは、そうした未発達・未熟の霊のことであり、それが、親和力の働きによって、善なるもの・聖なるものへの反抗心のもとに結束するのです。
彼らに残された更生への道はただひとつ、高級な霊の導きによって道義心が目覚め、懺悔のうちにひとつひとつ過去の罪を償(つぐな)いつつ、歪(ゆが)んだ心を正し、苦しみの中に1歩1歩向上することのみです。
こうした低級霊が実に多いのです。そのすべてがわれらの敵なのです。善に対抗し、真理の普及を妨げようとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、人間を迷わせようとする彼らの策謀(さくぼう)であることを心すべきです。
– その首謀者というべき“悪魔”がいるのでしょうか。
彼らを煽動する悪玉は沢山います。しかし、キリスト教神学で説くような“悪魔”は存在しません。善良な霊も邪悪な霊も、すべて、善悪を超越した宇宙の大霊の支配下にあります。
[注釈]
(1)地上に生をうけた霊(人間)の天命の成就と罪障消滅を目的として、陰から守護・指導・援助する霊(複数)を指す、総称的な用語。本人の魂の親に当たる守護霊(ガーディアン)を中心として、複数の指導霊(ガイド)と支配霊(コントロール)が含まれる。その意図するところは各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じ。したがって邪霊・因縁霊の類いは“背後霊”と呼ぶべきではない。
(2)インペレーターによると宇宙は大きく3階層に分かれていて、各階層がさらに7界ずつに分かれている。地球は最下層の階層の中の最上界に属するという。第3節でくわしい説明がでる。
「神は苦しみを用意して下さいました」んー試練にも限度があると思うのですが(祈)†
解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」 – こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。1つとして偶然というものが無いのです。偶発事故というものが無いのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分るようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委(ゆだ)ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです…続きを読む→
「認めてしまう」明仁、文仁、徳仁、悠仁が追及されて自身の大罪を認めてしまうというメセです(祈)†
美人の女性から盗んだ、もしくは「パレット」から買った幼い奴隷の女の子を「処刑遊び」と称して四肢切断、強姦殺人しまくって遊んでいる人類史上最大級の犯罪者「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が自分たちの邪悪の正体が徹底的に国民周知の事実となりゴマかし切れなくなり洗脳も通用しなくなり、いよいよ国民から追及を受けるシチュに突入してしまい、どうにも言い訳のしようがなくなってしまって思わず「はい、ブタ(奴隷の女の子)を殺すのが私たちの仕事ですから」と発言してしまうという意味です。絶対この通りに実現させなければならない霊団からのインスピレーションとなりますが、毎度の事で皆さまには大変申し訳ないのですが……続きを読む→
「実はもうハラールの準備が」意味不明の言い訳で自身の罪を回避しようとしているのです(祈)†
皆さま、真実を見つめる眼をお持ちになって下さい。それは【視点外し】と言います。ごまかしです。ペテンです。ウソです。コイツらがどのような言い訳をしてきたとしてもそれをもって大量強姦殺人の大罪が軽減されるという事は絶対にありません。コイツらの言い分に耳を傾けてはなりません。コイツらが何と言ってきてもその視点外しに踊らされる事なく「真実一点」を凝視して下さい。その真実とは「明仁、文仁、徳仁、悠仁が大量強姦殺人魔である」という真実です。その真実から眼をそらせようとするコイツらの作戦にまんまと引っかからないで下さい。そもそも根本的にお考え下さい。大量強姦殺人魔に弁明の機会を与える事自体がまずおかしいのです。発言そのものを許してはなりません、問答無用で独房に入れなければなりません。発言させるならまず逮捕して身柄をしっかり拘束した上で監視下でしゃべらせるべきであって、自由の状態でコイツらが語る内容には一切情報としての価値はないとみるべきです。自身の大罪をゴマかし通そうとしてくるに決まっているからです、それ以外の事を言う訳がないでしょう…続きを読む→
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