【8/11】モーゼスの「霊訓」(上)第7節 宗教と理性

[新プラトン主義思想(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊の写真も撮れたが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対して、心霊写真に写るためには、ある程度の物質化が必要で、霊視能力に写る映像とは違うとのことだった。

新プラトン主義の特徴的な教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないことばかりだった。忘我の状態で神性に背くものすべて排除し、ひたすら神との合一を求めるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明してから、その理想的人物として1人の名前を挙げた。

そのとき教わったもの、とくにその理想的新プラトン主義者の教説については、その後なるほどと思わせるものがある。もっとも、私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合が和らげられてはいるが…。

その後、短期間ではあったが、通信が途絶えた。その間に出席してみたある交霊会でイタズラ霊による偽名行為がまた発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信で、よその交霊会には絶対に出席しないようにとの忠告があった。

霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出ると、私の磁力がそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒どうしの接触は絶対避けるようにとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見ごとで特徴があった。

その後1873年6月13日に開かれた交霊会で、神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神談話の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆跡しか残されていない。が、その翌日、その入神談話をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような通信を送ってきた。]

真理の受け入れを妨げるもの

昨夜述べたことの中には、先を急ぐあまり、十分に意をつくさなかったことが多く、筆録も正確とはいえません。あのような重大な問題は十分に念を入れ、ぜひとも正しく理解していただかないといけません。

そこで、意をつくせなかったことを、ここでより解り易く述べておきたいと思います。交霊会であなたの口を借りて語るのは、必ずしも、こうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することはできません。完全に隔離された状態のほうが、緻密(ちみつ)さと正確さの得られる状態に入るのが容易です(4)。

昨夜は、われわれが神から託された使命について述べたつもりです。その使命の前途をさえぎる多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれわれが何よりも頼りとしている気心の合った同志が、あまりに神学的先入観に囚われ、あるいは、それまで説き聞かされてきた信仰と相容(あいい)れないことに恐怖を覚えるために、われわれとしても為すすべがなく、あげくの果ては、悲しいかな、われわれの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後で操る強力な悪魔のさしがねと決めつけられてしまうことです。

われわれに敵対する者の中でも、こうした種類ほど嘆かわしいものはありません。

勝手に定めた条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとしない似非科学者たち – われわれを、単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとしない科学者たち – 彼らは、われわれにとってまず用はありません。

その曇った目には真理は見えず、長年の偏見によって包まれ束縛された知性は、われわれにとって何の役にも立ちません。どう気張ったところで、霊界との交信の真相を垣間(かいま)見ることすらできません。

彼らが獲得する知識は、たとえそれ自身は有用であり、価値のあるものであっても、われわれの特殊な使命には、まずもって役に立ちません。われわれが目指しているものは、われわれの使命の一側面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が違うのです。

永いあいだ物理学的観察に馴らされてきた知能は、その分野の解明に向けるのが無難でしょう。われわれの分野はそれとはまた異なるのです。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命についての知識を扱うのです。

さらに、われわれが述べんとする真理についての知識をまったく持ち合わせず、その理解には、こののち長年にわたる人生の試練を必要とする、無知にして未熟な者たち – この種の者は、いずれは理解できる段階にまで向上してくることでしょうが、今の段階では用はありません。

いわんや高慢にして傲(ごう)慢な知識人、自分の世界でしか通用しない説を振り回す道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家 – 彼らについては言葉もありません。

彼らを納得させるには、さらに多くの物的証拠を必要とします。今の段階では、われわれが述べる言葉は、たわごとにしか聞こえないでしょう。

最大の障害 – 神学的ドグマ

が真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に自分がおもむく境涯について知りたいと思う人物です。が、悲しいかな、神によって植えつけられ、霊によって育(はぐく)まれた天賦の宗教的本能が、人間の勝手な宗教的教義―幾世紀にもわたって知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によって、がんじがらめにされております。

どこをどう突ついても、返ってくるのはおよそ真理から外れたことばかりです。父なる神の啓示を説き聞かせれば、神の啓示はすでにその全てを手にしていると言います。

そこでその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬(ふびゅう)性もないことを説けば、教会がこしらえた取りとめもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることのない人”として選んだ人物の言葉を引用するのみです。

つまり彼らは、一時期・一地方の特殊な必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを唯一のものさしとして、われわれを裁こうとするのです。

また、古代において霊覚者を通じて行なったように、われわれが信頼に値する神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみである、と主張します。

そして、悪魔は – といっても彼らの勝手な想像の産物にすぎないのですが – 神を装うことができるとし、われわれ及びわれわれの使命を、神と善に対抗する外敵、暗黒界の使者であると決めつけます。

また、こうも言います – できることなら力になってあげたい、なぜなら、言っていること自体はなるほどと思わせるものばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の常套(じょうとう)手段だから困るのだ、と。確かに、彼らがそう思うのも無理はありません。

なぜなら、やがて善を装った邪霊集団がやってくることをバイブルが予言しているからです。われわれこそその邪霊集団なのでしょう。彼らにとってはそうであるに違いありません。神聖にして犯すべからざる古(いにしえ)の神学が、神の子イエスを否定しようとする勢力の到来を予言しているではありませんか。

現にわれわれの説はキリスト神の定めたイエスの位置とその使命を根底から否定しています。また、われわれは理性を信仰の上に置いています。われわれの説く福音は、信仰よりも善行をすすめる福音であり、忠実な信仰でなく善の実践こそ佳(よ)しとする教えです。

彼らにとっては、こうした教えを説く霊はすべて、光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れようとする企(たくら)みにほかならないのです。

われわれにとっては、本来なら協力を期待したい真摯(しんし)な信心家からこうした態度に出られることこそ、痛恨のきわみなのです。彼らの多くは愛すべき真面目な人物です。ただ、その明るい魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、ぜひとも“進歩性”を必要とします。

われわれとしては、彼らにぜひとも友好のメッセージを贈りたいところです。しかし、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤に建て増しをするには、その前に、進歩を阻む夾雑(きょうざつ)物を取り除かねばなりません。

宗教にも理性が必要

宗教がその名に値するためには、2つの側面をもたねばなりません。ひとつは神への信仰であり、もうひとつは人間についての教えです。その道の専門家によって“正統”と呼ばれている伝来の信仰は、その2点についてどう説いているのでしょうか。

その教えとわれわれの教えとは、どこがどう違うのでしょうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるでしょうか。なぜそう問うかといえば、われわれは何よりもまず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するからです。

われわれは、あくまでも理性に訴えます。なぜなら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのです。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのです。ゆえにわれわれもまた理性に訴えます。

われわれ霊団の同志は、啓示の永遠不変の支柱とすべきものを“神みずから”規定されたと主張しているであろうか。われわれも又、“神の使者”にほかなりません。

かのヘブライの予言者たちを導いた霊たち、そしてその啓示を神の言葉と断定した者たちを指導した霊たちと同様、われわれも又、神によって導かれている霊なのです。(6)

われわれも、彼らと同じ神の使者なのです。たずさえてきたメッセージも同じです。ただ、より“進んでいる”というまでです。われわれの説く神も、彼らが説いた神と同一です。ただその神性をより明確に説いているまでです。つまり人間臭が減り、より神々(こうごう)しい存在となっているということです。

こうしたわれわれの訴えを、その言葉どおりに神聖なものと受け取るか否かは、そなたたちの理性(背後霊の指導を受けることは間違いないが理性であることに変わりはない)が最後の判断を下すことです。

それでもなお拒否する者は、みずからの理性の愚昧(ぐまい)さを証言する者にほかなりません。盲信を理性的信仰と同等に見なすわけにはまいりません。信仰にも根拠のある信仰と根拠のない信仰とがあるからです。根拠のある信仰は論理的裏づけが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下します。

後者は論理的裏づけのない信仰であり、これでは人を動かすことはできません。まして、まったく根拠のない盲信にいたっては、われわれもその頼りなさと信用のなさについて、これ以上論ずる必要さえ認めません。

われわれは理性に訴えるのです。理性的に判断して、どこまでわれわれの言うことが悪魔性を証しているのか、われわれの説く教義がどこまで邪霊的であるのか、何をもってわれわれを悪魔的と断ずるのか – こうした点については、これよりのちに改めて説くことにしましょう。

[注釈]

(1)Neoplatonism 3世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中核として、これに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家の1人が、第5節でプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus。

(2)Souffism

(3)John Lydgate(1370~1451?)

(4)霊界通信の難しさを正直に述べている。49名からなるインペレーター霊団は、周到な計画のもとに役割分担を決めて、予備練習を重ねた上で実行しているにもかかわらず、なおこの難しさである。

またシルバーバーチ霊は霊媒のバーバネルが誕生する前から英語を勉強し、誕生の時点から言語機能の発育をつぶさに見届けながら準備し、人間としてのバーバネルのクセを知り尽くした上で、18歳の時にはじめて霊言現象(雲媒をトランス状態にして自分が語る)を実行に移した。それでもなお当初はぎこちなくて、何と言っているのかが分からなかったという。

インペレーターの場合もシルバーバーチの場合も、中継役として“霊界”の“霊媒”を置いていたので、それだけ普通よりは複雑だったという要素はあるにしても、そもそも独立したひとつの個体が他の個体を、そう簡単に、そして自由に操れるはずがない。

そうした点から言っても、死んで間もない、霊的意識がまるで目覚めていない霊が、そう簡単にしゃべれるものではないのであるから、高級霊によるご託宣と同じく、他界したばかりの身内や有名人が出てきて、いかにもそれらしく語り、それを聞いて感涙にむせぶといったシーンは、まずもって低級なイタズラ霊のしわざと思って間違いない。

そういうことが得意で、霊界をドサ回りしている霊団もいるので、用心が肝要である。

(5)ローマ法王のこと。ローマ・カトリック教会では、1870年の第1回バチカン会議で、法王(正式には教皇)は聖霊に導かれたキリストの代表者であり、信仰と道徳に関して宣言することは絶対に間違いはないという“教皇不謬説”を教義として認めている。

(6)ここでいう“古の聖賢”“ヘブライの予言者”はみなインペレーター霊団に属していたとみてよい。

「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†■2023年7月5日UP■
「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†
物質界の評価に1ミリも興味はありませんので僕が物質界レベルで軽蔑嘲笑を受ける事になろうと知った事ではないのですが、ただ悲しいのは「僕が自分の人生を犠牲にしてこれほどの活動をしても、それでも皆さまの眼は開かれないのか」という事です。僕が殺されたあと、僕という人間を侮辱する、僕の人格を全く別物に書き換えるインチキ書籍が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の手により複数出回ったとして、それをアッサリコロッと皆さまは信じてしまうというのでしょうか。物質界に興味がないと言っている僕でさえ悲しくなる眼の閉じっぷりです。僕の事は何とでも思って頂いて構わないとして、少なくとも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳だけは撃ち破ってもらわないと皆さまが帰幽後に恥ずかしくて居たたまれなくなると思うのですがいかがでしょう。帰幽後の霊界人生が人間の本当の人生です。そちらに照準を合わせて日々の生活を送らないといけないんですよ…続きを読む→
■2020年11月18日UP■
TrailMovie「デマハウス」霊団は「皇居」の事をこのように表現しました。まさにピッタリの表現ですね(祈)†
「デマハウス」にありますようにコイツらが流し続けてくるウソ洗脳情報にいつまでもダマされ続けてあげてコイツらをおだて続けてあげるというのであれば、その人は「やさしい心の持ち主」という事ではなく「あたまカラッポのおめでたい人間」という事になります。皆さまは果たして自分の愛する笑顔のカワイイ愛娘が明仁、文仁、徳仁、悠仁にむごたらしい方法で強姦殺人されてもコイツらに笑顔で手を振って陛下殿下などと呼び頭を下げるでしょうか。僕は常にブログで【神の因果律】について、そして【神】が僕たち人間全員に与えて下さった【理性・良心】についてブログを書き続けてますが、皆さまにはそろそろ自分の理性、良心に背く行為をやめて頂かねばならないと全力で公言させて頂きます…動画を見る→
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†■2024年4月3日UP■
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†
僕に情報拡散をさせてきっかけを作るところまでは許されたが、それ以上の干渉は許されていないという事なのではないか。で「今回では達成されません」というインスピレーションもありますように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体に関する情報拡散は進み、人々の洗脳は相当に破られて真実の理解が浸透するが、僕の物質界生活中に邪悪の滅亡までは到達しない。その実現は僕の帰幽後に別の使命遂行者によっておこなわれるか、もしくは特定の人物によるものではなく人々の認識の広まりによって自動的にそういう風になっていくとか、そういう事を霊界側は考えているのかも知れません。平たく言うと「無血解決」1滴も血を流さずに邪悪を滅ぼすという事です。僕の物質界生活中に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅ぼそうとすると僕なり誰かなりの血が流されてしまうので霊界側はそこまでゴリ押ししようとしない。何しろ霊界には時間の概念がありませんので僕だろうが次の使命遂行者だろうがそんなモノは大した問題ではないはずです。が、僕から言わせてもらえればその生ぬるい考えがムカつくんだよ。決める時にバシッと決めろよ…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†