【8/16】モーゼスの「霊訓」(上)第10節 絶対にして不変の摂理の存在

[不服だったので、私は時間をかけて、書かれた通信の内容をじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立するものだったが、それが書かれている間じゅう私は、心を高揚させられる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に、私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教説はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、ふつうならキリスト教的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。

さらに又、そのような、何となく立派そうな見解 – 当時の私にはそう映った – は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といった主旨のものだった。すると次のような回答が来た – ]

イエスとその弟子たち

友よ、よい質問をしてくれたことを嬉しく思います。よろこんで論議するとしよう。

われわれがいかなる権能を有する者であるかについては、すでに述べました。われわれは神の使命をおびて参った者であることを公言します。そして時が熟せば、いずれその真実性が認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待ちます。

それまでに着実な準備をなさねばならないし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われわれの教えをすべて受け入れることのできる者はいないであろうことも、先刻覚悟はできております。それは、われわれにとって格別の驚きではないことを表明しておきます。

考えてもみられよ!より進歩的な啓示が1度に受け入れられた時代があったであろうか。いつの時代にも、知識の進歩にはそれを阻止せんとする勢力はつきものなのです。

愚かにも彼らは真理は古きもので事足れりとし、すべては試され証明されたと絶叫します。一方、新しいものについては、ただそれが新しいものであること、古いものと対立するものであること以外に、何ひとつ知らないのです。

イエスに向けられた非難もまさにそれでした。モーセの教えから難解きわまる神学を打ち立てた学者たち – その教えはその時代に相応しい、それなりの意義があったとはいえ、時代とともにより高い、より霊性のある宗教へと生長していくべきものであったのに、彼らは後生大事にその古い教えを微に入り細を穿(うが)って分析し、ついに、ただの儀式の寄せ集めとしてしまいました。

魂のない身体 – そうです!生命のない死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に、彼らの神の冒瀆者 – 不遜にも彼らは人類の宗教の“救い主”をそう呼んだのです – であるイエスはモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者である、と絶叫しました。

律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその教えを非難しました。かの偉大な人類の指導者を十字架にかけるに至らしめた、その怒号を真っ先に浴びせたのが彼らだったのです。

イエスが神の名誉を奪う者でなかったことは、今のそなたには明々白々のことです。イエスは神の摂理を至純なものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦(よみがえ)らせんがために、人間的虚飾を破壊しようとしたにすぎません。

親へのうわべだけの義務 – 愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務 – を説く、わびしい律法に代って、イエスは愛の心から湧き出る、子としての情愛、からだの授け親と、父なる神に対する無償の、惜しみない施しの精神を説きました。

うわべだけの慣例主義に代って、衷心からの施しを説きました。いずれが正しく、いずれがより美しいでしょうか。

後者は果たして前者を踏みにじるものだったでしょうか。むしろ前者の方が、生命のない死体が生きた人間に立ち向かうのにも似て、後者にむやみに抵抗したにすぎなかったのではないでしょうか。

にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れてよろこぶ卑しい連中が、イエスを、旧(ふる)い宗教を覆(くつがえ)そうと企(たくら)む不敬者として、十字架にかけたのでした。カルバリの丘での処刑シーンは、まさに堕落した宗教の絶好の象徴と言えます。

その新しい福音をよろこばず、かつ、それを受け入れる用意のできていなかった世に敢然と立ち向かったイエス、そのイエスの弟子たちにしつこく向けられた非難も、やはり、新しい教義をもって旧い信仰を覆さんとしている、というものでした。

そうして、何とかして彼らを告発するための罪状を見出さんと策を弄(ろう)しました。が、“四面楚歌”の、新しい信仰に対するいかなる非難をも甘受する、その弟子たちの説く教えには、何ひとつ不埒(ふらち)千万なものを見出すことができませんでした。

彼らは確かに非合法の集団でした。が、ユダヤ教信仰と”時の権力”には忠実に従っていたために、告発せんとして見守る者たちも、そのいわれを見出すことができませんでした。彼らは次々と新しい無垢の信者を集めていきました。

愛の心に満ちた、心優しいイエスの後継者である彼らの教えには、何ひとつ不埒千万なものはありませんでした。今、われわれの教えと使命の信頼性を失墜させるものならよろこんで信じたがる者も、当時のそうした反抗者と大して選ぶところはありません。

進歩に抵抗はつきもの

しかし、いつの時代でもそうだったのではないでしょうか。新しいものが非難され、信頼が得られないのは、宗教において、科学において、そして有限な人間の為すことのすべてにおいて、いつの時代にも変らぬ物語です。それが人間的知性の特性のひとつなのです。

すなわち見慣れたものが気に入られ、目新しくて見慣れないものが、懐疑と不信の目で眺められるのです。それゆえわれわれは、スピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たって、劈頭(へきとう)から懐疑の目をもって迎えられることに、いささかも驚きの念を感じません。いずれは、すべての人がその教えの美しさと神聖さを認める日が到来することでしょう。

われわれの説くところが人間のこしらえた教説と衝突することは、別に驚くには当たりません。否、むしろ、遠い太古において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた教えと矛盾しないことの方が不自然です。

バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの教えを融合し得ないものが見出されて当然であることを指摘せずにおくわけにはいかないのです。この点についてはすでに述べましたので、繰り返す必要は認めません。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られないわけでもありませんが、細部において不合理きわまる自家撞着(じかどうちゃく)を少なからず含んでいます。その上、霊媒を通過する際にまぎれ込んだ人間的誤謬もまた、少なくありません。

その中から真相を読み取るには、バイブル全体の流れを読むほかはありません。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、当人の個人的見解にすぎず、信仰の対象としての価値はいささかも認められません。

そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令のごとく考えること自体、愚かというほかはありません。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾します。

申すまでもなく、キリスト者が“神の声”と呼ぶ書を筆録者たちが記述した時代においては、“イエスは神なり”との信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられたものでした。また、そう信じた者たちは、同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議な方法で雲間に姿を現わす – それも、その世紀の人類が滅びる前である、と信じました。

どちらの信仰も間違いでした。そうして、その時以来、少なくとも1800年が過ぎ去りましたが、イエスは再臨しておりません。このことに関連して、今少し述べておく必要がありそうです。

ぜひともそなたに理解を望みたいことは、神の啓示といえども、人間にそなわっている“光”つまり理性によって判断しなければならないということです。説教者の言葉を鵜呑(うの)みにすることなく、それを全体像の中で捉え、一言一句の言いまわしにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばなりません。

われわれ自身、およびわれわれの教説について判断する際にも、得体の知れない古い予言に合うの合わぬだのといった観点からではなく、自分が真に求めるもの、自分と神とのつながり、そして自分の魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断しなければなりません。

つまるところ、一体われわれが何を説かんとしているのか、その説くところがどこまで理性を納得させているか、神について何と説いているか、自分の魂にとってそれがどこまで為になるか、そう問いかけなければなりません。

理性が承服しないキリスト教のドグマ

正統派の教会が説く教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中から選ばれた少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果てることもなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだといいます。

その“恩寵”にあずかられない他の人類は、すべて天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難い苦しみを永遠に受け続けるといいます。

この“至福”にあずかれない哀れな者たちは、ある者はそういう信仰を受け入れないからそうなるのであり、ある者は邪霊と環境によって堕落させられたためであり、ある者は恐ろしい煩悩の誘惑に負けて罪を犯したためであり、さらにある者は、多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗しきれなかったためです。

また、もし知っていれば喜んで努力したであろうに、何を為すべきかを知らなかったための者もいます。救われたくば信じよ、と説かれた教義が知性的にどうしても受け入れられなかった者もいます。そして、さきに述べたように、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意しなかった者もいます。

こうした者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れな者たちを、祝福された者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかな満足を得るのだといいます。その実、彼らの多くは、地上で悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白しただけで救われたというに過ぎません。

肉欲と怠惰の生活、あらゆる法に違反した生活も、信仰の告白というひとつの行為によって、すべてが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきました。

いかに粗暴で肉欲に狂った者でも、死の床でイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒瀆していたはずの神のもとへ一気に招かれるといいます。不純にして卑しい堕落者が、清純にして気高い聖人とともに、完全無垢の神のもとにかしずけるとは!

指摘すれば枚挙にいとまなしですが、われわれの説くところと比較対照するには、以上で十分でしょう。われわれは決してそのような神 – 理性が身ぶるいし、父性的本能が嫌悪の念を催すような神の概念は説きません。同じく愛の神とはいえ、そのような偏った愛の神をわれわれは知りません。

それは人間が発明した神であり、われわれは知りません。そのような人間的偶像は野蛮な精神の哀れな戯言(たわごと)にすぎないことは、われわれが指摘するまでもありますまい。

至純至聖の神を滑稽化する、その不敬きわまる無知と愚かさに、われわれとともにそなたも驚きを感じてほしく思います。

友よ、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われわれの説く福音を切望している者に相違ありません。

神は摂理を通して顕現する

われわれが知るところの神、そしてそなたたちに確信をもって説く神こそ、真の意味での愛の神 – その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲はすべての創造物に及び、尽きることを知りません。いかなる者にも分け隔てせず、すべてに絶対的公正をもって臨みます。

その神と人間との間には無数の天使が階悌をなして待機し、神の愛の言葉をたずさえ、神の意志を時に応じて啓示します。この天使の働きによって、神の慈悲は途切れることなく人類に及ぶのです。これぞわれわれが説く神 – 摂理によって顕現し、天使を通じて作用するところの神です。

では、人間についてわれわれはどう説くか。たった1度の改心の叫び声、たったひとつの懺悔(ざんげ)の言葉、節の通らぬ恐ろしい教義への信仰の告白行為ひとつで、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしい体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での“不滅の魂”なのか。

違います!断じて違います!人間はより高い霊的生活への鍛練を得るために、ほんのわずかな期間を、肉の衣に包まれて地上にいるにすぎません。その霊の世界にあっては、地上生活でみずから蒔(ま)いたタネが実をつけ、みずから育てた作物を刈り取るのです。

待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという、児戯(じぎ)に類する夢幻(ゆめまぼろし)のような世界ではなく、より価値ある存在を目ざし、絶え間なく向上進化を求める活動の世界なのです。

本当の意味での天国と地獄

その行為と活動の結果を支配するのは、絶対不変の因果律です。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は堕落させ進歩を遅らせます。真の幸福とは、向上進化の中、すなわち1歩1歩と神に近づく過程の中にこそ見出されるのです。

神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂のよろこびを味わいます。ものぐさな怠惰をむさぼる者など1人もいません。より深く、より高い真理への探究心を失う者もいません。人間的情欲・物欲・願望のすべてを肉体とともに捨て去り、純粋さと進歩と愛の生活に勤(いそ)しみます。これぞ真実の天国なのです。

地獄 – それは個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しません。いまだ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶(もだ)え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂の激痛にさいなまれる – これぞ地獄です。

その地獄から抜け出る道はただひとつ – たどってきた道を後戻りして、神についての正しい知識を求め、隣人への愛の心を培(つちか)う以外にはありません。

罪に対してはそれ相当の罰があることはもとよりですが、その罰とは、怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではありません。

悪と知りつつ犯した罪悪に対して、苦痛と恥辱の中にあって心の底から悔い改め、罪の償いの方向へと導くための、自然の仕組みにほかならないのであり、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしいドグマへの口先のみの忠誠を誓うような、そんな退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてありません。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間ない日々の生活において、理性にかない宗教心に発する行ないを為す者なら誰もが手にすることができるものです。

神の摂理を意識的に侵す者にかならず不幸が訪れるように、正しい理性的判断はかならずや幸福をもたらします。そこには、肉体に宿る人間と、肉体を捨てた霊との区別はありません。

霊的生命の究極の運命については、われわれも何とも言えません。何も知らないのです。が、現在までに知り得たかぎりで申せば、霊的生命は、肉体に宿る人間も、われわれ霊もともに、同じ神の因果律によって支配され、それを遵守(じゅんしゅ)する者は幸福と生き甲斐を味わい、それを侵した者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できます。

神への責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この3つの根本的責務については、すでにその大要を述べました。よってここでは詳説はしません。いずれ敷衍(ふえん)して説く日も到来するでしょう。

人知の限界を知ることが大切

以上述べたことを篤(とく)と吟味していただきたい。われわれが当初から宣言している主張、すなわち、われわれの教えが純粋にして神聖であり、イエスの教えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知っていただくには十分でしょう。

これが果たして正統派の教義と較べて明確さを欠き、曖昧でしょうか。たしかに、そなたに反発心を起こさせる箇所については詳細を欠いているかも知れません。

が、全体を通じて、より崇高にして清純な雰囲気が漂っているはずです。高尚にして神聖な宗教を説いているはずです。より神聖の高い神を説いているはずです。

実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもありません。そう映るのは、敬虔な心の持ち主ならば浅はかな詮索をしたがらないはずの課題を扱っているからにほかなりません。

知り得ないことは知り得ないこととしておき、決して勝手な憶測はしません。全知全能の神について、いい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのです。

もしも、人知を超えた神にベールを掛けることをもって曖昧と呼ぶのであれば、たしかにわれわれの教えは曖昧であり、明確さに欠けるでしょう。

しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得たかぎりのことしか述べないこと、憶測するより実践すること、盲目的に信じるより実行することの方が賢明な態度であるならば、われわれの態度こそ、叡智の命じるところに従い、理性を得心させ、神の霊感にあずかれるものであると言えましょう。

われわれの教えには、理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性があります。遠い未来においてもその価値をいささかも失わず、数知れない魂を鼓舞し続けることでしょう。

一方、これに異議を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ないことになりましょう。それは、その信念をたずさえて進んだ無数の霊を幸福と向上の道へ導き、他方、その導きを拒否し霊性を閉ざしてしまう者は、魂の抜けた肉体と同じ運命をたどることになりましょう。

愚かな無知からわれわれの教えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信じる者を悪魔の手先と非難しようとも、その教えは存続し続け、信じる者を祝福し続けることでしょう。

†インペレーター

– おっしゃることは筋が通っており、立派な教えだと思います。また、曖昧であるとの批判に対しても納得のいく回答をいただきました。しかし、一般の人は、あなたの説くところを事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。

そこでお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくにそれが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。

それについては、いずれ時機をみて説くとしましょう。今は控えます。先を求める前に、これまでわれわれが述べたところを篤と吟味してもらいたい。

そなたを導く御力をわれわれに給わんことを!

[注釈]

(1)Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。

(2)Pharisees 儀式・慣習等を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある。

(3)これは、第2節の注釈でも述べたように、イエスの死後、まだキリスト教という用語もできていない初期の時代のことで、その信仰に目をつけたローマ皇帝コンスタンチヌスによって例のニケーア会議(325年)が開かれ3か月に及んだ会期中に、その信仰を国策としての新しい宗教とするための大々的陰謀がなされ、そこから“キリスト教”と呼ばれるものが誕生した。

「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†■2021年12月10日UP■
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「ハァァよかったぁ、ってなります」耐え抜けば帰幽後にそのようになるという意味です(祈)†■2024年7月10日UP■
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僕は至ってまともな事を言っているだけだと思っていますが、帰幽後に僕に下される判断はそういうモノではないのでしょう、かなりキビシイ状態にさせられるのでしょう。それは了解してます、全てこの身に受けるつもりです。が、それでもなおあんたたちの導きに方向性はヒドすぎる、到底許容できないと思っているのです。「もうのむ訳にはいかない」「これしかないんだと」僕が強硬姿勢なら霊団も強硬姿勢で、もうアキトくんのワガママに折れる訳にはいかない、アキトくんの肉眼には全体像が映っていないから、この道の先にどれだけの悲劇が待ち受けているかを理解できない。我々の霊眼はアキトくんの未来の悲劇が見える。今はアキトくんは理解できなくてもいつかは必ず理解できる時が来るから、アキトくんがどんなに嫌がっているとしてももうこの道を進ませるしかないんだと、霊団がそのように言ってきてます。【い】【い】【か】【げ】【ん】【に】【し】【て】【く】【れ】【!】確か人間には「自由意思」というモノがあったはず。霊団はその自由意思を完全に無視する事を決定したとでもいうのか。それは霊界の決まりに完全に反する事なのではないか。そんな事が許されていいのか。ただ、裏返すとそれくらい僕の置かれている状況が危機的という事なのかも知れませんが…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†