【8/23】モーゼスの「霊訓」(中)第13節 神と祈り
[これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考もないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに、全編を通じて一箇所の挿入も訂正もなされていないことなどを考え合わせると、ただただ、その美しさに驚きを覚えるばかった。
が、その主題の問題となると、私は相変らず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたら、キリスト教会の信仰が根底から覆えされることになるという危惧は拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは日を見るよりも明らかである。
用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを、数多く捨て去らねばならなくなる。とくに、その中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。
各種の神学上の著作 – ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタンとくに近代ドイツ神学 – に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備はできていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。
また、神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大して価値はないことも認識していた。要するに私は、この種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備はできているつもりでいたのである。
ところが、インペレーターの言葉はまったく問題が別だった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に関わることばかりだった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的な解釈を施すということは、私の信じているいかなる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。
じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない、知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならないと考えた。
とにかく、たとえ内容的にどんなに美しかろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると、次のような通信が届けられた – ]
背後霊の存在の認識がカギ
良いことを述べてくれました。こうした重大な問題については、深く考えるための十二分な時間を掛ける必要があります。われわれは、いずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説を、そなたの熟考にまかせるつもりです。
疑問があれば何なりと尋ねるがよい。われわれも喜んで答えよう。が、これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信はあえて押しつけないことにします。すべからく忍耐と真摯な祈りが肝要です。
寒々として霊性を寄せつけない地上生活にあっては、人間の魂と、その欲求を叶えてあげようとして待機している背後霊との間の磁気的霊交が、真摯な祈りによってどれほど強く促進されるものであるか、そなたはご存知ない。
使うほどにその絆は強化され、交わるほどにその親密度を増すものです。祈りというものがどれほど豊かな霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることでしょう。
博学な神学者たちは、祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けております。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ちうける背後霊の存在を知りません。無理からぬことではあります。現時点における科学では立証できない性質のものだからです。
そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとします。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのです。
が、それでもなお、彼らは迷路をさ迷い続けております。何となれば、そうした努力によって摑みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らないからです。祈りの結果は、そのようなことで計れるものではありません。
人間の科学では捉えられない性質のものなのです。あくまでも霊的なものであり、個々の祈りによって結果もまたさまざまな形式をとります。背後霊が異なるように、祈りの結果の表れ方も異なるのです。
無言の願いが叶えられないままであることが、実は魂にとって最高の恵みであることが往々にしてあるものです。虚空に向けて発せられた悩める魂の叫び – 悲しみから絞り出される叫び – それが、それ自体が魂の救済となることがあります。
当人にはなぜかがわかりません。が、待機している背後霊が、その重荷に苦しんでいる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂がふと覚える何とも不思議な安らぎと、神へ確信がいずこから来るかが理解できるでしょう。
それをもって祈りが叶えられたというのです。魂の奥底からの叫びが背後霊団とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶(もだ)える心が慰められるのです。
緊密な関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実な叫びがもたらす恩恵のひとつなのです。真の霊交はそれ以外の条件下では実現しません。
天使が住まわれる“神秘の間”に入る者は、よほどの霊性を開いた者にかぎられます。同時に、われわれの側から最も近づきやすい魂は、日ごろから霊的交わりを重ねている者です。
友よ、これ以外にはないのです。それが、人間の世界とのつながりを支配する不変の法則のひとつなのです。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのです。
願いごとと祈りとは別
願いごとへの回答は、かならずしも人間が無知ゆえに勝手に期待しているとおりになるとはかぎりません。往々にして、その願いごとを叶えてやることが、当人に悲しむべき害を及ぼすことにもなりかねないのです。
当人は真相を知らないまま、せっかちに愚かな願いごとをします。当然その祈りは無視されます。が、切実に祈るその心の姿勢が、待機している背後霊との連絡路を開き、その必要性にかんがみて、力と慰めを授けてくれます。
人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思います。もっとも、その祈りは、為すべき義務を怠り、貴重な試練の生活を病的ともいうべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰な瞑想、あるいは無理じい的かつ非現実的哀願のみに費す、礼拝一途(いちず)の生活のことではありません。
それは真の礼拝とはいえません。真実の祈りの生活はそれとはまったく別のものです。真実の祈りとは、守護せんとして待機している背後霊への魂の奥底からの叫びの直情的発露でなくてはなりません。
気まぐれな要求に応えて、変えられるはずもない法則をよろこんで変えてくれるかに期待する神への他愛ない幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっております。そのようなことは断じて信じてはなりません!
祈り – 魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして、はるか上界との連絡の労を取らんとして待機している背後霊を通じての、神への直情的叫び – これは形式の問題ではありません。言葉で述べる必要もありません。音節の区切り方をやかましくいう必要もありません。ましてや、宗教的慣習や紋切り型の用語等によって拘束する必要など、さらさらないのです。
真の祈りとは魂と魂との直接の交わりであり、日頃から交信している見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念のような速さでもって送り返される、その一連の営みをいうのです。
言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒やすことのできる霊の手にゆだねることです。それには言葉も身構えも形式も無用です。むしろそうしたものへの“こだわり”が消えて自然に発せられた時こそ、もっとも真実味を帯びるものです。
必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみです。そのためには、日頃の訓練が望まれます。さもないと、日頃の使用を怠っている手足のように、その衝動に反応を示さなくなるのです。
それゆえ、日頃から霊性に目覚めた生活を営む者ほど、霊的世界の深奥に入ることができるわけです。その種の者にはわれわれの方からも近づきやすいのです。
外界の喧騒に影響されることなく、その者のみが有するところの、われわれにのみ反応する奥深い琴線に触れることができるのです。そういう人は、身は地上にありながら、きわめて高い霊性を発揮します。何となれば、日頃から霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからです。
彼らには、物的生活に埋もれている者には閉ざされている霊的真理の秘密の扉が開かれていることになります。そして、不断の祈りによって、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができるのです。
動機の純粋性が大切
ああ、これほど素晴らしい摂理を地上の人間が知らずにいるとは、何と悲しいことでしょうか!この真相がより正しく理解されれば、人間は聖純にして気高い霊の雰囲気の中で暮らせるものを!
霊性の自覚によって、のぞき趣味的好奇心に駆られ、おのれの分際もかえりみずに心霊の世界に深入りする者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯な探究者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることもできるのです。(1)
たとえ完全には免れなくても、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間になしうる他のいかなる手段にもまして、われわれの力となってくれます。それはわれわれの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする、もっとも有効な力となるのです。
ゆえに、ひたすらに、祈られるがよい。ただし、心のこもらない紋切り型の嘆願とならぬよう心されたい。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めるのです。ひたすら魂に関わる問題にのみ心を向けるのです。他のことは収まるべくして収まります。神学上の難解にして煩わしい問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に関わる核心的真理に集中されよ。
単純素朴な霊的真理が、人間の無益な混沌によって幾重にも取り巻かれております。その収拾にそなたが関わる必要はありません。また、その中のいずれがそなたにとって不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今はそなたが関わる必要はありません。
今のそなたに絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用されるべき一面的教説にすぎなかったことを悟る日も来ることでしょう。
結論を焦るのは人間の弱点です。むしろ歩を緩(ゆる)めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階でじっくり時間を掛けねばなりません。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならないことは幾らでもあります。
このことについてはなお言うべきことがありますが、さし当たって必要なことは述べたつもりです。願わくば神がわれわれとそなたとを守り給い、われわれが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。
†インペレーター
[右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いをめぐらした。そして、やがて聞いてみたいことが浮かんだので、それを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。
そして、代ってその手が激しい勢いで別のことを書きはじめ、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間、ただの1度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は、書き終えるまで半入神状態になっていた。]
信仰はそれ自体に矛盾を含むもの
待たれよ!焦るでない!待つのです!今は議論の時ではない!真理をくり返し吟味するのです。そなたはせっかちに過ぎます。しかも、下らぬことばかり思いめぐらしている。
われわれの述べることが他の信仰と相容(あいい)れないからとて、それが一体そなたに何の意味があるというのであろうか。何ゆえに尻込みするのであろうか。信仰は大なり小なり他の信仰と相容れなくなるものではなかろうか。
否、信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではなかろうか。(2)それすら理解できぬようでは、先へ進む資格はない!
かつての古い教義や信仰 – 当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに、人間は慰めを求めてきた。自分に都合のよい言説を拾い求めてきた。あるはずもないものを、わざわざ求めに赴いたのです。なぜ無いのか。
魂がそうした古い言説 – 時代には生命を失ってしまった言説 – を超えて生長したからこそです。
それはもはやそなたにとって益にはなりません。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動しなくなっている。語りかける言葉を持ち合わせないのです。心を癒やす力を失っているのです。ある者にとっては生々しい声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかな“こだま”に過ぎません。
しかるに、何ゆえにそなたはそのようなものに心を煩わせるのであろうか。何ゆえにそなたは、すでにそなたにとって何の意味を持たないものから意義を見出そうと、無益な努力を続け、さ迷うのであろうか。
なぜ霊の世界から語りかけるわれわれの生々しい、燃えるような、真実味あふれる声に耳を傾けようとしないのであろうか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化しているものの代りに、真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれわれの声に、何ゆえに耳を傾けようとしないのであろうか。
一時の気まぐれとはいえ、何ゆえに生命なき過去の遺物を有り難がり、生々発展している“今”という時から絶縁し、霊との交わりとも絶縁し、神および人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁まで切らんとするのであろうか。
これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上次元へ引きずり下ろすことを愉(たの)しみとする邪霊の影響にほかなりません。われわれの啓示が古い啓示と相容れないからといって、一体それがそなたにとって何の関わりがあるというのであろうか。
われわれの啓示は生々しい響きをもってそなたの魂に訴えている – それはそなたにもわかるであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有り難い力に浴している。古い啓示はもはやそなたにとっては死物も同然です。
その生命なき形骸のまわりを、何ゆえにそなたはうろつきまわるのであろうか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在であったとしても、今や朽ち衰えんとしている死骸に、何ゆえにすがりつこうとするのであろうか。
バイブルにも、イエスの墓のまわりに集まった悲しみの者たちの霊耳に、霊がこう語りかけたことが記されています“何ゆえにあなたたちは死者の中に生者を求めるのか。彼はすでにここにはいない。蘇ったのです(3)”と。
そこでわれわれもそなたに言う – 何ゆえに死せる過去、埋葬された真理の墓をうろつきまわり、もはや存在しないものを無益に求めるのか、と。それはもはや、そこには存在しないのです。蘇ったのです。かつて、変転きわまりない時代に神の真理を包蔵したドグマのもとを去ったのです。
残っているのは空(うつ)ろな宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在しないのです。生命は蘇ったのです。そして、見よ!われわれはそなたにその蘇った崇高な真理、より気高い教義、より聖なる神を説いているではありませんか。
神は昔と同じく今も働きかけている
かの古き時代に神の命(めい)を担(にな)って地上へ下りた使者とその世代に語りかけたのと同じ声が、今そなたとそなたの世代に語りかけているのです。いつの時代も同じなのです。
神は今も昔もまったく同じように人間を扱われます。すなわち、より多くの光、より高き真理へ導こうとされているのです。その神の声にしたがうか否かは、人間の意志に任されます。
神を求める崇高な志をもつ者にとっても、古いもの、それまで親しんできたもの、歴史あるものには棄てがたい魅力があり、それがひとつの関所となります。その最初の迷いの中で、彼らは古いもの、大切にしてきたものを全て葬り、新しいもの、未知なるものを受け入れねばならないことを悟ります。
それはひとつの死を意味するかに思えます。しかも、人間は死を恐れます。確かに、それはまさに死です。しかし、生へ向けての死なのです。暗い墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路なのです。
肉体の死によって霊がその束縛から放たれて自由になるように、古い信仰の束縛から解放された魂は、自由の世界へと飛躍します。それはまさしくイエスの言える、唯ひとり間を自由にする“真理による自由(4)”です。今は理解できないかも知れませんが、そなたもいずれ悟る日も来ることでしょう。
これが、われわれの切なる声です。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束してくれているというのに、そなたは何ゆえに死せる過去へ目を向けるのであろうか。われわれの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の関係(かかわり)があるというのであろうか。
古い教えはすでにそなたにとって生命はなく、その失われた生命をふたたび吹き込むことはできません。それは、今なおその教えに意義を見出す者にあずけておけばよい。
そしてそなたは、より高き真理へ向けて、神が植えつけ給うた真理探究心の衝動にしたがって、迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去は、たとえ新しい現代を通って未来へ進むその通路ではあったとしても、もう、ここできっぱりと訣別することです。
もっとも、今のそなたにとっては、そうとも言えぬように見うけられる。そなたにとってはその過去が今だに魅力があり、われわれの説く新しい教説は、古い信仰を根底から破壊するとの説に加担しておられる。イエスがそう述べているとでも言いたいのであろうか。
イエスはモーセの教えの全廃を説いたであろうか。前にも述べたように、イエスの教えがモーセの教えに比して取り立てて驚異的なものではなかったように、われわれの教説は、イエスの教えに比して取り立てて驚くほどのものではありません。
われわれが理解を求めているのは、古い教説との矛盾ではなく、その完成です。より完全に近づけることです。より広き知識への発展です。
昔は昔、今は今の発想の転換が必要
イエスがその新しい信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものが見出せるでしょう。
くり返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(5)の無関心主義に比して、イエスの教えが取り立てて驚くべきものではなかったように、れの説く教説は決して、今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではありません。
当時は当時なりに新しい啓示を必要とし、今日は今日なりの新しい啓示を必要としているのです。ただ、古いものを愛し、慣れ親しんだ道に波風が立つことを望まない者にとってはわれわれの言説が忌々しいものであるように、当時の宗教家にとっては、イエスの教えが怪(け)しからぬものであったまでのことです。
今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もない、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果ててしまいました。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望みました。今日とまさに同じです。
古い信仰は死物と化し、人間は新しい生きた神の声を欲したのです。それがイエスによってもたらされました。想像もしなかった人物 – およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、傲慢なサドカイ派に容れられる見込みのない人物から、神の声がもたらされたのです。
そして、それが全世界に広がり、1800年間にもわたってキリスト教界の宗教的生活を動かしてきたのです。しかるにその教義は、今や堕落し果てています。
ただ、イエスが身をもって示した犠牲的精神は今なお生きつづけております。今こそ要請されるのは、その精神に新たなる息吹きを吹き込むことです。そうすれば、金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた分だけ一層、真理の輝きを増すことでしょう。
われわれの説く神の真理は、あの時代 – 地位と身分のある教養人すなわちパリサイ派の支配階層の中にひとりでもお前の言うことを信じる者がいるか、と冷笑的に言われた時代 – そういう時代にイエスが説いたのと同じく、そなたたちにとっていささかも奇異なるものではないはずです。
どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているにすぎません。ニコデモ(6)の気持を察するがよい。そして、それをそなたらの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。
ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の概念をより鮮明に啓示した同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しい生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることができることを信じるがよい。
全知全能の神の導きと祝福のあらんことを。
†インペレーター
[注釈]
(1)ここでは祈りの功罪の“功(プラス)”の面が強調されているが、祈り方次第で“罪(マイナス)”となりかねない要素もあるので、それを指摘しておきたい。
これは“時間”が長すぎることから生じる人間特有の危険性で、グループで行なう場合はそれほどでもないが、ひとりで行なう場合はせいぜい20分から30分もすると心身ともに緊張度が衰えはじめる – 言いかえれば波動が乱れてくるために、そこに邪霊がつけ入るスキができる。
その単純な反応が手先のシビレ、全身の震動などで、霊能養成会などですぐにそうした動きをみせる人がいて、本人は得意になるが、実際は低級霊のしわざか、存外、本人の潜在意識による暗示の反応にすぎないことが多い。要するに自己顕示欲の強い人である。
同じ原理に基づくものとして、座禅とか瞑想とかがあるが、こうした行を頭から“立派なこと”と思い込んで1時間でも2時間でも、場合によっては1日中座っている人がいるが、それがやむにやまれぬ事情のもとでの、真剣な動機に発するものであればよいが、心のどこかにカッコ良さを求める安直さがあると、邪霊・悪霊の影響を免れるどころか、逆にその“えじき”となる危険性があることを指摘しておきたい。
憑依されて体調を崩したり、精神病的な症状を見せるようになった人が少なくないのである。
私の師の間部詮敦氏は、ひとりで精神統一をする時は15分程度を目安にして、気持が良ければもう少し延ばしてもよいが、落着かない時はすぐに止めるように、と忠告されていた。
シルバーバーチ霊は、祈る気がしない時は無理して祈らない方がよいとまで言っている。理由は同じである。ご承知の通りシルバーバーチは“日常の行ない”をいちばん重要視している。
インペレーターも同じである。その一方で両者とも祈りないしは瞑想の時をもつことの必要性を説くのは、人間があまりにも、ただ生きるための生活、つまりはカネ儲けのためだけに終始し、しかも、そのことから生じる“どうでもよいこと”にあくせくしているからである。
それで、1日のうち1度でよいから、そうした俗世のことを忘れて、本来の霊的存在としての自分に立ち帰りなさい、と言っているのである。
(2)シルバーバーチが“真理とは自己矛盾を含むもの”と表現しているのと相通じるもので、要するに“甲の薬は乙の毒”の例えの通り、同じものを万人に押しつけることはできないことを言っている。
われわれはお互いに異なる進化の段階を歩んでおり、それぞれに異なる環境のもとで生活しながら、その条件下で霊性の向上を目指す – それが宗教なのであるから、組織を作り、同じ規範のもとに生活する、いわゆる宗教団体というのは、霊性の進化にとって害にこそなれ益にはならないことになる。
考えてみると、われわれの生活にはまず家庭があり、市があり、県があり、国家がある。これは社会秩序を保つための不可欠の組織である。このほか、学校にしろ役所にしろ会社にしろ、すべて一種の組織であり、それなりの束縛がある。せめて魂の世界だけは自由闊達でありたいものである。
(3)ルカ 24・5
(4)ヨハネ 8・32
(5)the Saducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在は認めなかった。
(6)ユダヤ議会のメンバーでありながらイエスをひそかに信奉し、処刑後、没薬(もつやく)と香油を持ってきイエスの亡骸が野犬や禿げ鷹の餌食になるのを防ぐ処理を施したという。(G・M・エリオット著・山本貞彰訳「聖書(バイブル)の実像」)
「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†
まず僕はいつものようにインスピレーションに備えてトランスを維持しています。(目は閉じた状態)すると突然僕の左肩に誰かが手を置きます。ちょうど僕のうしろから肩を叩かれて呼び止められたような格好です。で、僕は左後方に振り向きます。するとそこには全く知らない女性が満面の笑顔で立っています。ヨーロッパ系の女性のような感じでした。カラーリングの基調はゴールドで超鮮明な容姿でした。(香世子さんではありません、それだけは間違いありません)はい、今のこのお話は肉体のお話ではありません。この時、僕はふとんの中で目を閉じ、身体(肉体)はピクリとも動かしていません。しかしハッキリ左肩を叩かれ、左後方を振り向き、超鮮明な女性の笑顔を見たのです。全ては霊体でのお話です。※僕がその女性に向かって「あなたはどちらさま?★」と言ったという事ですよ。そしてこの女性の件があった時、僕はトランスを維持しながら「自動書記の嘆願の祈り」を心の中で唱え続けていました。その僕の祈りを受けて女性が満面の笑顔で肩を叩いてきたのです。これはまるで「あたしが自動書記やるわよ」と言っているかのようなシチュエーションとなります…続きを読む→
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†
肉体は自動的に朽ち果てるようにできていますから、その肉体をまとっての人生で幸福を得ようと考える事がそもそも本末転倒であり近視眼の極致であり、歳をとる事もなく傷つく事もない永遠の若さを保っている霊体をまとっての霊界人生の方に真実の幸福があるのは至極当然の事であり、その霊界生活に備えて物質界で自分を鍛えなければならないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらはその「物質界の学び」を全てキャンセルしてワガママ放題で生活し、仕事もせず奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくって遊んでいます。つまり物質界で学ぶべき事を一切学ばずに帰幽する、霊界生活に何の備えもできていない人間という事になるのです。何の備えもできていませんからもちろん霊界生活に順応もできません、高級霊の方々から仕事を言いつけられる事もありません資格がないのですから。全く役立たずの人間、何の使い道もありませんから当然暗黒の底の底に落ちてそこで反省させられる訳です。それも物質界での苦しい期間をはるかに超える長い年月にわたって暗黒の中で悶絶する事になるので…続きを読む→
「何とも言えぬ光景だった」上層界から使命遂行を眺めての感想ですが、過去形で言うな(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に落ちるのは自己責任、アキトくんには何の責任もないし、キミが物質界生活中にこの者たちを滅ぼさなくても自動的に肉体が朽ちて帰幽して地獄に落ちるのだからどちらでも結果は同じである。奴隷の女の子たちに関しても自ら犯した過去の大罪の罪障消滅を目的として物質界に降下した人間なのだから、苦難の人生をやらされるのが当たり前(自己責任)それを助けてあげたら本人のためにならない、アキトくんの気持ちは分からないでもないが帰幽して我々(イエス様)と同じ視点から眺められるようになれば納得できるであろう。つまり「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を物質界生活中に滅ぼせなくてもそれは別にアキトくんの努力不足ではなく、奴隷の女の子を助けてあげられない事もキミのせいじゃない。我々(イエス様)は絶対的有利なポジションに立っているので、その人間たちをアキトくんの霊的進歩向上に大いに活用させてもらった…続きを読む→
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