【8/30】モーゼスの「霊訓」(中)第18節 信仰と自由
[8月26日。私はこれまでの通信を読み返し、そこに象徴されている意味について、あれこれと思いをめぐらした。自分の解釈が字句にこだわりすぎているのだろうかと考えて、この点を霊側に質(ただ)してみた。すると、まだ私の精神状態は通信をするのに相応(ふさわ)しい状態になっていないという返事だった。
このように、交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。気分の転換が必要であることも指摘された。あいにくその日は空模様のうっ陶しい、憂うつな日だった。
私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと、机に向かった。すると、初めのうちは少し書きづらく速度もゆっくりだったが、やがてラクに筆が運ぶようになった。]
大切な日常生活での健康管理
状態はまだ十分とはいえないが、前よりは良好となってきました。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要です。満腹状態の身体が操作しにくいことは前に述べましたが、逆に機能の低下した弱々しい身体もまた、われわれの目的に適さないことをここに指摘しておきます。
飽食と泥酔はもとより感心しませんが、度の過ぎた節制による体力の低下も感心しません。われわれは全てにおいて中庸を説きます。極端な節制も、節度を失った放縦(ほうしょう)も、ともに好ましからぬ結果を招きます。中庸こそ身体機能を自由に働かせ、一方、精神的能力を曇りなく、かつ激することなく自在に発揮させます。
われわれが求めるのは、明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することのない精神と、活力に溢れ、その活力を使いすぎもせず欠乏もしない身体です。
各自がこの思慮分別に基づいて、おのれに課せられた地上の仕事に勤しむ上でよりいっそう適切な身体をそなえ、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えることが大切です。日常生活における習慣はとかく感心しないものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいきます。
われわれは、一般原則としての注意と節制を説く以上のことはしません。当人にとって何がもっとも適切であるかは、当人と深く関わってみなければわからないものです。自分のことは自分で判断して、もっとも適切と思うものを決めることです。
われわれの使命は、もとより魂の宗教を説くことにありますが、その一部として、身体の宗教も説かねばなりません。そなたに、そして全ての人間に宣言しますが、身体の健康管理は魂の成長にとって不可欠の要件です。
魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿っているかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けないよう、これを正しく管理していくことが必須です。
ところが現実には、衣食の選択と日常の生活習慣に賢明な配慮がなされることは、実に稀れです。現在の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものはすべて、真の霊的生活にとっては障害であり妨害となります。
教義に縛られた信仰の弊害
そなたの質問であるが、これまで幾度も述べたように、われわれはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付着した夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なもの、真実でないものは放棄します。古い言説については、イエスがユダヤの律法を扱ったのと同じ扱い方をします。
すなわちイエスは、この字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たな意味、崇高な意味を賦与しました。われわれが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、ならびにラビ(1)的学説を扱ったごとくに扱います。
イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説きました。これはいつの時代にも同じであり、われわれもバイブルの言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておきましょう。
律法の字句にあまり厳格にこだわることは、肝心の精神をおろそかにするのと同じ、というよりは、次第におろそかにさせていくものです。儀文のひとつひとつを几帳面に守る信仰態度は、高慢不遜にして鼻もちならない独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に呑み込まれて、自分は他の連中とは違うのだという特殊意識を抱き、その意識の中で神に感謝するようになります。
われわれが断固たる闘いを挑むのは、こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対してです。人間の勝手な産物である神学に束縛されて生きるよりは、たとえ迷い多くとも、きっと神を見出してみせるとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求める魂にとってどれほど良いか知れません。
神学は神への道を規定してしまいます。その道へ入る狭き門は神学という名のカギがなくては開かないことになっています。それのみではない。神学が神そのものを規定するのです。
かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もない機械的信仰生活へと落ちぶれ果ててまいります。そんな、霊性豊かな宗教の猿真似(パロディ)のようなものよりは、自由な魂の葛藤の方がはるかにましであることを断言します。
確かに、キリスト教の高位高階の者の中にさえ、宗教の深い思想に関しては“出来合い”の信仰教義でなければならない者がいます。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いをめぐらすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味します。
目も眩(くら)む高所に登り、隠された秘密をのぞき込み、曇りない“真理の太陽”の輝きを目(ま)のあたりにすることなど、思いもよりません。
“永遠の真理”の横たわる深い谷間を見下ろす高い峰に登ることは、彼らにはできません。落ちることを恐れて、のぞき込むことができないのです。否、その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのです。
そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通ったより安全な常道を選ぶことになります。その道は両側に高い壁がそそり立ち、その外側は見ることができません。油断なく1歩1歩、転ばぬように、あらゆる起伏を避けつつ進みます。頑強な教会が規定するドグマにすがるのです。
そうするようにと、教会の浅はかな知恵が主教たちを通して説いているのです。疑うことは破滅を意味するのです。思考することは結局は迷いに終るのです。信じることが唯一の安全策なのです。
ゆえに、信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい – そう説くのですが、彼らには、内心では、それが素直に受け入れられません。そんなものが、どうして受け入れられましょう。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解できないのです。ならば、真理を秘納せる奥の院まで、どうして入ることを得ましょう。
先祖からの習慣としての信仰
中にはまた、これが神の真理のすべてである、と教え込まれた古来の神学と相容れない教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばない者もいます。
キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分でした。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得てきました。それは今も昔も変わりません。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音でした。
それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、ぜひとも自分たちが子供たちに譲渡していかねばならないものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいきます。
そうなれば当然、彼らの心はその信仰、それほどの伝統的なつながりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには、目もくれぬことになります。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのです。
その心の中には殉教者の情熱が燃えつづけております。われわれの語りかける言葉は、彼らの耳には届きません。われわれとしても、それほどまで居心地のよい安住の世界にあえて踏み込もうとは思いません。
万一踏み込むとなれば、彼らが作りあげた信仰の殿堂を根底から突き崩さねばならないでしょう。それほどまで大切にされている信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならないことになるでしょう。
彼らにとっての絶対神、型にはまった宗教 – それは幾世紀にもわたっていささかも変わらず、また変わりようもないのですが – これに攻撃をかけ、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し、過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばなりません。
さらに彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うって崇めている、おびただしい量の人間的創作に反省を迫ることになるでしょう。
が、それも所詮は徒労に終ることでしょう。われわれは、そうと知りつつあえて試みるほど愚かではありません。彼らは、地上とは別の世界(死後)において必要な知識を得るほかはありますまい。
世間体(てい)としての信仰
これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考をめぐらさない者もいます。宗教とは名ばかりで、一種の世間体としての意味しか持たない者たちです。
ゆえにその信仰心はきわめて薄く、慣習としての場(教会など)を除いては意識することもありません。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではありません。遠くから見て“それらしく”見えれば、それでいいのです。
こうした人種、およびこれに類する人々は、われわれにとって難敵です。彼らにとっては宗教について思索を強いられること自体が退屈であり迷惑なのです。不愉快きわまる問題であり、慣習により、やむを得ず、軽く体裁(ていさい)をつくろう程度にしか関わろうとしません。人間としての正しい道は牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信じるのみなのです。
ましてや、古い信仰の欠点を指摘され、新しい信仰の美点を説き聞かされることは、彼らにとっては二度手間(でま)であり、有り難迷惑なのです。そのいずれも理解できないのです。
相変わらず古いものにすがり、その中で生き永らえるのみです。今のままで結構なのです。進歩はご免こうむりたいのです。自由など思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にありません。
自由な思索は、彼らにとっては懐疑と不信と無信仰を意味します。そのいずれも有り難からぬものであり、一種の社交上の誤りを犯すことになります。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのです。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑をもって自由を見つめます。
彼らの理想はすべて古き良き時代に大切に仕舞い込まれています。その古き良き時代には、自由だの進歩だのという問題は一切語られていません。ゆえに、それは彼らにとっては邪悪なものであり、避けねばならぬものなのです。
以上の3種の人間にわれわれが一切の関わりをもたないことは、そなたにも明白であることを疑いません。同時にこの中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にも、われわれは関知しません。それがわれわれの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにもわかる時がくるでしょう。たとえ手を出したくても、“出せない”のです。
信仰に恐怖と束縛は禁物
神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件のひとつを犯していること、こうしたことをわれわれは教えんとしているのです。神への道を閉ざし、この門戸にカギをかけ、おのれの説く道へ強要する権利を有する者はひとりもいないと言っているのです。
硬直化した神学、人間が発明した用語で勝手に規定した頑固(かたくな)な信仰、その道から外れた者は神から見放されると説き、一字一句たりとも動かせないという教説 – これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたこうとする魂を引きとめ、地上にクギづけにする拘束物であるということです。
そのような宗教を教え込まれるまま受け入れて自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として、みずから迷い、みずから祈り、みずから思考し、みずから道を切り開くことによって真理の日の出を拝むにいたる方が、よほど立派であることを改めて述べておきます。
その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、また、心を満たしてくれなくてもよい。冷たい風に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく、風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても与えられるのは石ころのごとき古い教説であり、化石のごとき人間的無知の産物でしかない生活よりは、はるかに、はるかによい。
複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴ではあっても、背後霊の直接の働きかけによって自分なりの“大いなる父”たる神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方が、どれほどよいか知れません。
自分に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第1の条件です。これなくしては魂は羽ばたくことができません。そして、これさえあれば必ず進歩します。
イエスが人類最高の模範
このことを、主イエスの生活に示された模範的な生きざまの中に、今少し見てみる必要があります。
霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについては、すでに述べました。幸にして勇気をもって因習から脱け出し、神を求める旅に発った者は、必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代って、われわれが説くところの崇高な霊的信仰へと導かれます。
霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に、霊的意味も含まれているからです。物的傾向の色濃い時代には、この霊的解釈が完全におろそかにされます。
かくして人間は、イエスの教説のまわりに推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁を張りめぐらしました。それは、パリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに張りめぐらした壁と同じです。
こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなります。かくして今やわれわれの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説から導かれた、硬直化した冷ややかな物質偏重の教説です。
われわれの任務は、イエスがユダヤ教のために行なったのと同じことを、そなたたちのキリスト教のために行なうことです。すなわち古い霊的意義を賦与し、新しい生命を吹き込むことです。
排除しようというのではありません。復活させることこそわれわれの望むところなのです。くり返しますが、イエスが地上にもたらした教えの一かけらたりとも、われわれは排除しません。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見えなくなっている霊的な意味を表に出してみせるためです。
われわれはそなたを肉体的支配下の日常生活から少しでも救い出し、そこに浸透している霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めているところです。字句にこだわって非難する者は、われわれの教説の皮相的解釈しかできない人種です。
われわれはそなたを身体中心の生活から引き上げ、肉体を棄てたのちの生活にとって意義のある生き方へ導かんと願っているのです。目下のところ、それにはまだほど遠い状態です。
が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ちあふれる隠れた神秘を見ることができる日も到来するでしょう。それは、今のそなたの精神状態では、われわれも説明することは困難です。
その時節が到来するまでは、何ごとにも霊的な意義が秘められていること、バイブルもその霊的意義にあふれていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵している形而下的な“殻”にすぎないことを知るだけで、よしとしなければなりません。
もしもわれわれがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心は萎(しお)れ、生命を失うでしょう。そこでわれわれとしても、そなたの理解力の届く範囲において、そなたが長いあいだ親しんできた形而下的教説の下に隠れている生きた真相を指摘する程度で満足しなければなりません。
イエスは人間生活の改革者
イエスの使命もそこにありました。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就させることこそ使命であると公言したのです。モーセの戒律の根底にひそむ真理を指摘しました。
パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理埋葬されかかっていた崇高な原理を白日のもとにさらしました。イエスは宗教改革者であると同時に、社会改革者でもあったのです。
その生涯の大事業は、人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面をはぎ取ることであり、暴君から逃れんとしてあがく魂を、その魔手から救い出すことであり、そして神から託された真理の力によって人間を解放することでした。イエスはいみじくもこう述べています –
「私は真理を教えてあげようとしているのです。その真理こそ魂の束縛を解いてくれるのです。そのとき真の意味であなた方は自由の身となるのです」(ヨハネ8・32)(3)
イエスは生と死と永遠の生命について説きました。人間の真の尊厳を説きました。神についての進歩的知識を得る方法を説きました。摂理の偉大な体現者として地上へ降りたのでした。摂理が意図としている真の目的、すなわち人類の霊的改革を身をもって実践する人間のひとりとして地上へ来たのです。
心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして宗教的行為のすべてを唯一の尺度つまり、それがもたらす結果によって価値判断をするよう、民衆に説きました。
常に謙虚に、慈悲心を忘れず、誠実で純心で私心なく、自分に正直であれと説きました。そして、みずからそれを実践してみせたのでした。
イエスは偉大な社会改革者でした。その目的は死後の幸せを説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することでした。
言うなれば、イエスは日常の宗教を説いたのです。より高い真理を求める日々の生活においての、霊性の道徳的向上の必要性を説いたのです。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する – そこにイエスの教えのほぼすべてが要約されています。
イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にありました。そこでイエスは、信仰と政治の双方の自由を説きました。が、その自由とは気ままな自由ではありません。
神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由でした。人間の真の尊厳を示さんとしたのです。摂理の尊厳 – 人間性を束縛から解き放す霊的摂理の偉大さを民衆に知らしめんとしたのです。
身分にはこだわりませんでした。同志も伝道者も、身分の低い貧しい階層の者の中から選びました。そして庶民と共に生きました。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとりました。そして、人間として必須の、しかも彼らに理解できる素朴な教えを説きました。
伝統的信仰と高貴な社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には、滅多に足を運びませんでした。慣習的に教え込まれた信仰から少しでも気高く、少しでも崇高な真理を求めんとする情熱を、庶民の心に湧かしめたのです。そして、その真理を手にする方法をも説いたのでした。
人類にとって真の福音というべきはイエスの福音です。それこそ人間にとって唯一にして必須の真理です。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音です。
われわれはイエスから引き継いで同じ福音を説くものです。イエスを地上へ送った神と同じ神の命令を受け、同じ神の権能と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのです。イエスが説いたのと同じ真理をわれわれも説きます。
人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説きます。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものです。墓場へ葬られてしまった霊的真理を掘り起こし、それが今も生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えてあげたいと願っているのです。
人間の進歩性と、人間への神の絶え間ない関わり、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳な真理を教えてあげたいと願っているのです。
独善的宗教家集団が背負わせた荷は、われわれが風に吹き飛ばさせましょう。魂の生長を妨げ、向上心の足を引っぱるドグマは、われわれが引き裂いて、魂を解き放してあげましょう。
われわれの使命は、人間があまりに歪めすぎた古い教えの真実の姿を継承することです。その源は同一であり、そのたどる道も同じであり、その向かうところもまた同じです。
“イエスの再臨”の真意
[インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化活動は、イエスの命令によるものと理解してよいかとの問いに対して – ]
その通りです。さきにわたしは、わたしの使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入した一柱の霊から授けられ、今なおその指揮下にある、と述べました。イエスは過去に蓄積された誤った信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めるために、天使を召集する計画を用意なさりつつあります。
– 他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“イエスの再来”ということでしょうか。
イエスの再来とは霊的再来のことです。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではありません。使徒を通じて、聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来です。イエス自身もこう述べております – 「聞く耳をもつ者が聞いてくれればよいのです。受け入れる用意のある者が受け入れてくれればよいのです」と。(4)
– こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。
さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを、大勢の人々に知らしめているところです。が、今はこれ以上のことは述べません。神の祝福のあらんことを。
†インペレータ
[注釈]
(1)ユダヤの律法学者。空理空論を振り回す人の意味にも用いる。
(2)コリント第2・3・6巻第11節参照。
(3)バイブルにくわしい方はすぐにお気づきと思うが、このヨハネ伝によると、最後の「そのとき…」の前に弟子たちの質問があって、それに答えた形となっている。が、インペレーターの引用文にはそれがなく、シルバーバーチも同様であることから、私はイエスは実際は一気にそうしゃべったのではないかと考えている。それを筆録者が加筆したのであろう。
また私の訳文がバイブルの文章とかなり違うこともお気づきであろう。が、その前後の文脈から考えて、私はイエスはそういう意味で語ったはずだと確信した上で、そう訳した。これが言わば、イエスの教えのエッセンスなのである。
(4)これもバイブルでは2つに分かれていて、前文がマタイ11・35、後文が同19・12に出ているが、原文ではひとつにまとめられている。便宜上そうしたにすぎないのかも知れないが…。
「とんでもない悲劇が」まだ試練を浴びせ足りないのか、地球圏霊界を脱出したい(祈)†
どうもこのプレアデスの男性と霊団の動きが似ているような気がしてならない。これは霊界上層界の、守護を命じられた人間(霊)を進歩向上させるための厳格なルールみたいなものがあって、それを順守しているのでプレアデスの男性と僕の霊団の動きが似てくるのではないか、なんて思ってみたりみなかったり。で、エレナさんはその邪悪の宇宙人どもに「脳内にチップを埋め込まれている」そうですが、それを取り除くシーンも紹介されていて、そこでプレアデスの男性と女性クルーとの間でバトルがあって、結局チップを取り除かずエレナさんの脳内に残したのです。これもおかしいだろう、取ってやれよ。たぶんですが、霊格が高まった方々にとっては肉体に起こる出来事など「ホンの一瞬の過ぎ去っていく出来事」であり、エレナさんの脳内にチップが残されているか取り除くかが問題なのではなく、エレナさんが物質界人生で学ぶべき事をしっかり学びきる事をプレアデスの男性は優先してわざと取り除かなかったのではないか、なんて思ってみたりみなかったり。肉体などというモノは自動的に脱ぎ捨てるものであり、現在の肉体のエレナさんの姿がその女性本来の姿ではない、エレナさん本来の外郭(霊体?)はプレアデスに保管してあって、地球圏での仕事が終わったらエレナさんはその衣服に着替えて、肉体に埋め込まれたチップともども脱ぎ捨てて、そんな低次元のモノとはすっかり縁が切れるのだから、それよりも経験を積ませる事を男性は優先させたのではないか…続きを読む→
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†
実は何もやる気がないのではないか。この12年の霊団の動きを見ればおのずとそういう回答が導き出されるのではないか。僕は霊団の事を「口だけ霊団」と公言していますが、この言葉は実は大正解なのではないか。本当にこの霊団とか名乗っている奴らは最後まで口だけピーチクパーチク動かして何もやらずにボケっと見てるだけで終わらせるつもりなんじゃないのか。要するに「アキトくんの場合はインスピレーションで事足りているのでわざわざ低次元の霊媒現象をやらなくても我々の目的をだいたいにおいて達成している」という事なのかも知れません。インスピレーションが霊界側にとってもっとも自然な交信方法という事は霊的知識をお勉強して頂ければ分かります。霊媒現象というのは霊力に感応しない物質界の人間に霊的な事を理解させるために霊界側が物的次元まで波長を下げる犠牲的仕事ですが、物質界の人間がインスピレーションを受け取れるようになってくれれば、そしてさらにそのインスピレーションによる導きに従ってくれれば、霊界側はその犠牲的仕事をせずに済み、思念の送信だけで目的達成できますからこんな簡単な事はない、という事になります…続きを読む→
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→
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