【9/8】モーゼスの「霊訓」(下)第23節 イエスに至る霊的系譜

[1873年11月2日。私から提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の、“神”の啓示の発達のあとを本格的に解説してきた。これが、並行して進行している多くの啓示のうちのひとつであることは、以前から予告されていた。]

メルキゼデクからモーセへ

これよりわれわれは、太古において同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされたその過程について述べたいと思います。バイブルに記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大な霊の数々が存在する。彼らは地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきました。

そのひとり – 神が人間に直接的に働きかけるという信仰が今より強く支配していた初期の時代のひとりに、メルキゼデク(1)の名で知られる人物がいました。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴としての印章を譲りました。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味します。

当時においては、まだ霊との交わりの信仰が残っていたのです。彼は民にとっては暗闇に輝く光であり、神にとっては、その民のために送った神託の代弁者でした。

ここで、今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておきますが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現にすぎないものとを截然と区別せねばなりません。

初期の時代の歴史にはつじつまの合わない言説が豊富に見うけられます。それらは、伝えられるような秀でた人間の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じり合い、単なる世間一般の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めにすぎません。

それゆえ、確かにそなたらのバイブルと同様に、その中に幾つかの事実も無きにしもあらずですが、その言説のひとつひとつに無条件の信頼を置くことは用心せねばなりません。

これまでのそなたは、それらの説話を絶対的同意の立場から読んできました。これからは新しい光より有益で興味ぶかい見地から見る必要があります。

神は“創世記”に述べられているような、神人同形同性説的な存在ではありません。また、その支配はそれに相応しい霊を通して行なわれてきたのであり、けっして神みずからが特別に選んだ民のみを愛されたのではありません。

神と人間との結びつきは、いつの時代にも一様にして不変です。すなわち人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的ならびに物質的本能の為すがままとなります。

かの初期の時代において、選ばれたアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクです。が、キリスト教徒もマホメット教徒もこぞって称えるそのアブラムは、メルキゼデクのような直接の霊的啓示には与(あずか)らなかった。

アブラムはその死とともに影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響といえるほどのものは及ぼしていません。そなたには不審に思われることかも知れませんが、地上にその名を馳せた霊の中にも、同じような例が数多くあるのです。

地上での仕事が終ってのち、地上と関わった新たな仕事を授からないことがあるのです。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れません。そして、死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てるのです。

「十戒」の価値

メルキゼデクは死後ふたたび地上圏へ戻り、当時の最大の改革者 – イスラエルの民をエジプトから救い出し、独自の律法と政体を確立した指導者モーセを導きました。霊力の媒介者として、彼は心身ともに発達した強大な人物でした。

当時すでに、同時代の最高の学派において、すばらしい知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していました。人を引きつける彼の強烈な意志が、支配者としての地位にふさわしい人物としました。

彼を通じて強力な霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界へと広がっていきました。大民族の歴史的大危機に際して、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定しました。

その時代はユダヤ民族にとって、のちに他の民族も同様に体験した段階、すなわち古きものが消えてゆき、霊的創造力によってすべてのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのです。

ここにおいても又、推理を誤ってはなりません。モーセの制定した法律は、そなたたち説教者が説いているような、いつの時代にも適用されるべき普遍的なものではありません。

その遠く古き時代にのみ適応したものが授けられたのです。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであったように、神の使徒によって霊的能力を持つ者を通して授けられたのです。

当時のイスラエルの民にとって第1に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対の神であるということでした。エジプトの多神教的教義に毒され、至純な真理の宿る霊的恩義を知らない民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのです。

今日なお存続している例の「十戒」は、変転きわまりない時代のために説かれた真理の一端にすぎません。もとより、そこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真実です。が、その段階を超えている者に字句どおりに適用すべきものではありません。

あの「十戒」は、イスラエルの騒乱から隔絶し、地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団から授けられました。

霊団は、今日の人間が忘れているもの – 完全な交霊のためには完全な隔離が必要であること、純粋無垢の霊訓を授けるには、低次元の煩雑な外部的影響、懸念、取り越し苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのです。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実をもって聞き届けることができるのです。

モーセは、その支配力を徹底させ民衆に影響力を行きわたらせる通路として、70人もの長老 – 高い霊性をそなえた者 – を選び出さねばなりませんでした。当時は霊性の高い者が役職を与えられたのです。モーセはそのための律法を入念に仕上げ、実行に移しました。

そして地上の役目を終えて高貴な霊となったのちも、人類の恩人として末永くその名を留めているのです。

モーセからエリヤへ、エリヤからエリシャへ

メルキゼデクがモーセの指導霊となったように、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼしました。断っておくが、今われわれは、メルキゼデクからイエスに至る連綿たる巨大な流れを明確に示すために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを、意図的に避けております。

その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去ったのちも、引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を指摘せんとしているところです。

また、他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理普及のための中枢が数多く存在しました。が、それは今のそなたには関わりはないでしょう。イエスに至る巨大な流れこそ、そなたにとって最大の関心事であろう。もっとも、それらをもって真理の独占的所有権を主張するような、愚かにして狭隘な宗閥心だけは捨ててもらわねばなりません。

偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族が授かった最高の霊は、かつての指導者モーセの霊的指揮下にありました。ユダヤ民族が誇るこのふたりの指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されています。(5)

崇敬の念のあまりの強さが、こうした死にまつわる奇怪な物語を生んだのです。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体をたずさえて霊の世界に生き続けるなどということは、絶対にありません。偉大な仕事を成し遂げた霊が次の世界から一段と強力に支配することを教えるための寓話にすぎません。

エリヤはその後継者エリシャ(6)に自分の霊を倍加して授けたという。が、それは、エリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有りえないことだからです。

そうではなく、エリヤの霊力による輝かしい業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味です。

そのエリヤもまた、のちの世に地上へ戻り、指導に当たりました。そなたも知っているように、かの“変容”の山上でモーセとともにイエスの側にその姿を見せました。ふたりはその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることがあることを告げたとあります。

[私はこの通信の書かれた11月2日の時点では、最後の一文にあるような、ふたりがのちに再び地上に戻ると述べたというくだりが理解できなかった。それがヨハネ黙示録11・3その他に出ている“ふたりの証人”のことであることが分ったのは最近のことで、それも、私の無名の友人が送ってきたヨハネ黙示録に関する小論文を読んで、はじめてそれと気づいた。

もしもその小論文を見なかったら、知らずじまいになるところだった。その小論文はたまたまそのふたりの証人とふたりの予言を扱ったもので、私にとっては実にタイミングよく届けられたのだった。

右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前後にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると – ]

知られざる霊覚者たち

無論です。われわれは今、最後にイエスに至る系譜の最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したにすぎません。その系譜の中にさえ名を挙げるのを控えた人物が大勢います。すでに述べたように、その多くが神の啓示を受けていたのです。エノク(8)がそのひとりでした。

彼は霊覚の鋭い人物でした。同じくノア(9)がそのひとりでした。もっとも、霊覚は十分ではありませんでした。デボラ(10)も霊覚の鋭い人物であり、歴史上で“イスラエルの士師”と呼ばれている行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊な資格をもって選ばれたのでした。

そのことについて詳しく述べている余裕はありません。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われ方については、こののち述べることもあるでしょう。今はまずその古い記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から、イエスに連なるひとつだけに絞っていることを承知されたい。

– あなたはそうした古い記録を文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書”(11)のことですが、あれはひとりの著者によるものでしょうか。

モーセ五書

あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものです。散逸の危険性のあったさらに太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もあります。モーセより前には生の記録は存在しません。「創世記」の記述も、想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もあります。

天地創造の記述や大洪水の物語は伝説にすぎません。エジプトの支配者ヨセフに関する記述も、他の記録からの転写です。ともあれ、現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではありません。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているにすぎません。

もっとも、モーセの律法に関する記述は他の部分にくらべて正確です。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中から詳細な引用がなされたからです。

こうした事実を述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用される際に、いちいちその点を指摘する面倒を省くためでもあります。記録そのものが字句どおりには正確でないのです。

ことに初めの部分などはまったく当てにならず、後半も、当てになるのは、わりに正確な記録が残されている、モーセの律法に関する部分のみです。

– 想像の産物だとおっしゃいましたが…..

散逸した書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したのです。

– アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが…。

そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たったモーセにくらべて、霊格の程度が低かったというにすぎません。こうした問題を扱うにおいて、われわれはいちいち人間界の概念にはこだわりません。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われわれにとっては、さして重要な人物ではない。

– エノクとエリヤの生身での昇天 – あれは何だったのでしょう?

生身の昇天は原始的迷信

伝説的迷信にすぎません。民衆の崇敬を得た人物の死には、とかく栄光の伝説がまとわりつのです。太古において民衆に崇(あが)められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものです。

霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセも、その死に神秘的な話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。

同様に、人間的法律を超越し、何ひとつ拘束力というものを知らず、あたかも風のごとく来り風のごとく去って行った神秘的な霊覚者エリヤ – 彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられました。いずれの場合も、その伝説の根底にある擬人的な神と物的天国の観念による産物でした。

前にも述べたように、人間は神と天国に関して、その霊的発達程度以上のものは受け入れることはできません。古代においては神を万能の人間 – すべての点で人間的であり、さらにその上にある種の特性、人間の自然の情として、かくありたい、と憧れる特質をそなえた“人間”として想像しました。

言い換えれば、人類の理想像にある特性を付加し、それを“神”と呼んだのです。これは決してあざ笑うべきことではありません。程度の差こそあれ、人類の歴史は同じことの繰り返しなのです。

啓示はすべて、元は神より出でても、生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならない以上、人間的愚昧の霧によって曇らされるのは必定です。それは地上という生活環境においては避けがたい自然の結果というべきです。

そこで、人間の知識が進歩し叡智が発達するにしたがい、当然、神の概念も改められることを要します。人間がその必要性を痛感してはじめて、新たな光が授けられるのです。

(そなたたちの中には、神と霊的生活と進歩に関して、われわれの教説からは何ひとつ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには、今述べたことが最良の回答となろう。)

天国についても同じです。そなたたちは前時代の者が想像していた天国の概念を大幅に改めてきました。今どき、生身のまま天国の館に赴くなどと信じる愚か者はいないはずです。地上で崇められた人物が生身をたずさえて擬人的な神のもとへ昇天していくなどと信じる時代は、もはや過去のものとなりました。

まさかそなたはその生身をたずさえて、全知全能の神のまわりで、あたかも教会でするように、讃美歌三昧に耽るなどとは想像しないでしょう。そのよう
な天国は根拠のない夢想にすぎません。霊の世界へ入るのは霊のみです。

肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというにすぎない神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはもう卒業しているはずです。

そのような天国は、予言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用にすぎません。そのような神が存在するわけがないことくらいは、そなたにもわかるはずです。死はすべての人間に訪れます。が、生身のままではありません。

地上の務めを終えた疲れ果てた身体から脱け出て、栄光ある魂として、より明るい世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのです。

– 伝説の中にも、あとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は、事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。

空想と誤謬と真実の選り分けが大切

それはその通りです。そなたたちが聖なる記録としているものの中に混入した伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰です。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実です。

これまでもたびたび指摘したことですが、人間はわれわれのような霊とその影響力と目的に関して、あまりに誤った概念を抱いてきました。その原因には人間としてやむを得ない要素もありますが、克服できる要素もあります。知性の幼稚な段階では、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できないのが道理です。

それはやむを得ないことです。それまで生きてきた環境、体験した唯一の環境とまったく異なる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはありません。そこで、図解と比喩をもって教えねばならないことになります。これもやむを得ないことです。

ところが人間は、比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集めて、そこからつじつまの合わない愚かな概念を築き上げます。これよりのち、そなたたちも知識の進歩とともに、その過程をよりいっそう明確に理解することになるでしょう。

また人間は、神の啓示はすべて普遍的適用性をもち、一字一句に文字どおりの意味があるものと思い込んできました。われわれの説き方がいわば親が子に教えるものと同じであることが分らなかった。

抽象的な真理の定義を説いても、子供の頭では理解できません。子供は教えられた事がらをそのまま受け止めます。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句を、あたかも数学的にそして論理的に正確なものとして受け止め、その上に愚かしい自己矛盾に満ちた説を打ち立てます。

子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とします。それが実は譬え話にすぎなかったことを知るのは、大人になってからのことです。人類は、神の啓示をそれと同じように扱ってきたのです。比喩的表現にすぎないものを言葉どおりに解釈してきました。間違いだらけの、しかも往々にして伝説的記録にすぎないものを、数学的正確さをもって扱ってきました。

かくして今なお、嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれた者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのといった愚かきわまる教説を信じつづけております。

これらは言わば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものです。霊性において成人した人間は、すべからくそうした幼稚な概念を振り棄てて、より高い真理へと進まねばなりません。

しかるに現実は、原始的迷信、愚かきわまる作り話がそのまま横行しております。想像力に富む民族が描いた誇張的映像がそのまま事実として受け入れられています。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆(こんこう)となり、より高い真理を理解した理知的人間にはとても付いて行けません。

そうした支離滅裂の寄せ集めをひとつに繋いでいるものは、ほかならぬ信仰心です。われわれはその信仰心を切断し、信仰心で無批判に受け入れてきたものを、理性でもって検討し直しなさいと言っているのです。きっとその中に、人類の幼児時代から受け継がれた人間的産物を多く見出すことでしょう。

煩わしく、かつ無益なものに反発を覚えることでしょう。が、同時に、その残りの中に、理性に訴えるもの、体験によって裏付けされたもの、そして神から出たものを発見することでしょう。父なる神が、子なる人間のために用意した計画の一端を暗示するものを手にすることでしょう。

しかし今のそなたには、それ以上のことは望めません。今のそなたの心にあまりに多く巣くっている愚かな誤謬と誤解とから解放された、新しい局面を切り開くことのみで良しとしなければなりません。

過去は、根本においては、現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らすほのかな光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことでしょう。

これで分ってくれるでしょうが、われわれの現在の仕事の目的もそこにあります。すなわち神と生命と進化についてそなたたちがこれまで抱いてきた思想をより純粋なものに近づけ、恥ずべき要素を排除することです。

そのためにはまずキリスト教の教義の誤りと、神の真理として罷り通ってきた人間的想像の産物と、理性的には反発を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実のごとく結晶してしまった伝説を指摘せねばならないのです。

われわれとしては、そなたに忍耐づよい真摯な思考を要求するほかはありません。また、われわれの為すことをすべて破壊的と受け取ってはなりません。夾雑物が取り除かれれば、建設も可能となるでしょう。

それまでは、もしもそなたの目にわれわれが破壊的思想をまき散らしていると見えるならば、それは、より神々しい神の、より崇高な神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているにすぎないと理解してもらいたい。

†インペレーター

[注釈]

(1)Melchizedek 旧約聖書「創世記」14・18

(2)Abram ユダヤ人の始祖

(3)聖なる仕事のために世俗から離す。

(4)Elijah 紀元前9世紀ごろのヘブライの予言者。

(5)旧約聖書はこのふたりにまつわる話が大半を占める。

(6)Elisha エリヤの後継者

(7)ある日イエスが弟子たちとともに高い山に登った時、イエスがこの世のものとも思えない神々しい姿に変わったという。マタイ17・1~13、マルコ9・2~13。

(8)Enoch(9)Noah(10)Deborah いずれも旧約聖書中の人物。

(11)旧約聖書の最初の五書 – 「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」

(12)Ezra 紀元前5世紀ごろのヘブライの律法学者で祭司。

(13)Joseph「創世記」30・22~24

(14)Abraham 前出のアブラムと同一人物。

(15)仏教でいう“成仏する”ということで、そこで霊的存在としての本来の自覚を取り戻すが、そのままそこの界層の住民となるわけではない。地上でいかに高潔と思われている人間でも、意識的・無意識的に何らかの罪過を犯しているもので、これは物質界に身を置く人間の宿命といえる。

その償い – 言うなれば“後片づけ”のために再び地上圏へ戻らねばならないのが通例である。それは誰かの背後霊となって生活を共にする方法を取る場合もあれば、もう1度肉体をまとう – いわゆる再生の形を取る場合もある。が、どういう霊がどういう手続きのもとにどういう経路で再生するかは、高級霊でも知り得ないものらしい。

いかにも知り尽くしているような再生論を述べたり、これまでの幾度かの再生の旅をさかのぼって調べてあげますなどと、高級霊でも知り得ないことをいかにも分った風な態度で述べて、高額な料金を取る自称霊能者がいるので、用心が肝要である。

私は、再生はあるかないかと問われれば“ある”と答えるが、それ以上のことは論じないことにしている。論じてみても何の益もないからである。インペレーターも“再生はあるが、地上の人間が考えているようなものとは違う”と述べている。しょせん肉体にくるまれた人間には理解できない性質のものなのである。

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†