【10/30】シルバー・バーチの霊訓 2巻 3章 一教師の悩みに答える

「そうした奇特な望みは大いに叶えられるべきです。ただ、最初にお述べになったことは慎重におやりにならないといけません。教師という立場上、難しい問題があるからです。一般論としては若人にこうした霊的知識を教え込むことは可能です。が、あなたの場合は特殊なラベルは用いない方がよいでしょう。
しばしば申している通り、あなた方はスピリチュアリズムという言い方をされますが、これは地上でのラベルであって、私にとっては自然の法則そのものなのです。スピリチュアリズムという用語を用いると人によっては、とくにその真意を知らない人にとっては、何やら無気味な感じを与えます。
それよりも、大自然の法則 – 宇宙の物理的・精神的・霊的法則、まだまだ未開拓のままである人間の潜在的能力、表面下に存在する活動の世界、すなわち超自然界、人間のもつより繊細な能力 – こうした広大な分野は“スピリチュアリズム”とか“霊媒現像”といった、誤解されやすい用語を用いなくても教えることができます。
詭弁(きべん)を弄(ろう)しなさいと言っているのではありません。真理には多くの側面があり、したがって特別なラベルを貼らなくても表現できることを言っているのです。すでに他界した人にも、地上で幻滅を感じている人にも – そういう人が実に多いのです – 霊的知識を普及するチャンスを与えてあげることによって大いに助けになってあげられます。
今夜のこうした集会は私たち霊界での真理普及のためにもよく利用されています。(別のところで“本日の交霊会には5000人もの霊が集まっている”と述べている訳者)
そうした集会に集まる人々にあなた自身の体験 – どのようにして死んだはずの人々と交信できたか、どんなことを聞かされたかを話してあげることができます。そして、あなたの想像以上の多くの方々が聞く耳をもっていることを知ることでしょう。もちろん聞く耳をもたない人もいます。会をやめざるを得ないことになるかも知れません。あなたを変人と思う人もいることでしょう」
「耳を傾けた人は、あとになってそれが芽を出すことになるでしょう」
「かならず役に立ちます。魂に備えができるまでは側(はた)から手の施しようがありません。魂みずからが自分を発見しなければならないものだからです。が、実際にはちゃんと備えができている場合が多いものです。そういう人が啓発を求めてあなたのもとに連れて来られます」
■2025年7月30日UP■「信じなさい」信じたいですよ僕だって、信じさせてくれる導きをして下さいよ(祈)†
僕はもうジイサンですからあと物質界にせいぜい30~40年といったところで、そのあいだに「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁をしっかり滅ぼしてくれよ、と言いたいのですが、霊団はそういう時間軸でモノを考えていない可能性があるのです。僕的にややカチンとくるものの、僕は問題解決のためのパズルの1ピースでしかなく、僕が1ピース埋めて帰幽、次の使命遂行者がもう1ピース埋めて帰幽、そんな感じで何百年も経過し、ようやく邪悪を滅ぼす、という全体計画で霊界側は動いているモノと予測されます。その悠長な仕事の進め方についていけネィよとなるのですが、霊団を擁護するのはムカつきますが確かに急激に物事を進めようとすると、物質界生活者の価値観がまだそのレベルに到達していないために宜しくない事態を招き、進歩させるどころか数世紀後退させてしまう危険もあるのです。要するに物質界の人間がまだ洗脳にやられている状態で急激に邪悪を滅ぼそうとすると、核戦争とか壊滅的な事が起こってしまうかも知れないから、そういうモノを避けつつ問題を解決するためにはどうしても人々の心の覚醒を待たねばならないんだよ、という事だと思います…続きを読む→
■2025年7月9日UP■「とても理解できなかった」僕が語る霊的内容が理解できないという意味でしょう(祈)†
霊界生活の方が物質界生活よりはるかにはるかに快適であり幸福であり、事実、霊界で生活している人間のほとんどが物質界に再降下しようとは思っていないのです。しかし、物質界生活者のほとんどが、その事実を全く理解していません。で、僕はその霊的知識を獲得、理解していますので、物質界に必要以上に残されていたくない、やるべき仕事をやり切ってとっとと霊界に帰りたい、そう思っているのです。それで「帰幽カモン」つまり早く物質界人生終わってくれ、帰らせてくれ、という意味でこの言葉を公言するようになったのです。もうひとつ、この言葉に秘められた重要な意味があります。それは僕が「死の恐怖を克服している」という事です。皆さまはきっと「死」を怖いと思って恐れている事でしょうが、僕は霊的な事を知識としても、体験としても理解していますので「死」を恐れていません。霊関連書籍でお勉強して頂ければ分かりますが、死の瞬間、死ぬ本人は少しも苦痛を感じていません。「寝る事と死ぬ事は同じ」「人間は毎日寝る、つまり毎日死んでいるという事」という言葉もあるくらいで、死とはただ表現形式(振動数)が変わるだけで至って自然な過程なのです…続きを読む→























ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません