まずは昨日の山での撮影画像をUPですが、結局説明しきれないインスピレーション量となっていまして、相当量を削除してテキスト撃ち始める事になります。
できるだけ早くテキストを撃ち切って電子書籍の作業に戻らないといけません。何とも説明できない(説明したくない)インスピレーションばかりでウンザリさせられますが、そんな事は別に今に始まった事ではありませんので何とか耐えて撃ってみましょう(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
まずは昨日の山での撮影画像をUPですが、結局説明しきれないインスピレーション量となっていまして、相当量を削除してテキスト撃ち始める事になります。
できるだけ早くテキストを撃ち切って電子書籍の作業に戻らないといけません。何とも説明できない(説明したくない)インスピレーションばかりでウンザリさせられますが、そんな事は別に今に始まった事ではありませんので何とか耐えて撃ってみましょう(祈)†
途中からガスと雨になって天候は最悪でしたが撮影だけは強行してきました。画像は明日UPさせて頂くとして、出発直前に霊団が複数のインスピレーションを降らせていまして、それの意味を登攀しながらずっと考えていました。まだ頭の中でまとめきれていませんが明日のブログはそれについて書く事になるでしょう。
僕が危機に陥るという内容となります、そんな説明テキストを撃つのがおもしろい訳がありません。苦痛でしかありません。この最悪人生をいつまでやらされるというのか。帰幽するまでやらせるつもりなんだよコイツら、最後の最後までこき使うつもりなんだよ。
明日に備えてできるだけたくさん寝ておきます。んー、どう撃とうかな。ホントにこの人生いい加減にしてくれ。いつになったら結果らしい結果に到達するんだよ(祈)†
明日はあまり撮影はできそうもない天候、1日ずらすだけで一気にグラデ―ション撮影日和になるのに。そういう融通が利く生活にしたい。今の最悪の場所を離れる事ができれば天候に合わせてアタックの日程も調整できて撮影の成功率を格段に跳ね上げる事ができるのに。もう山の撮影は仕事ですのでこれは切実な願いでもあります。
今のところ長文ブログネタがほとんどなく頭の中がカラッポですが、もう降ってこないならそれでもいいよという気分です。毎週本当に長文を撃ち続けるのが苦しくてどうしようもないので、たまには短文で済ませて電子書籍の作業に戻ってやろうか、って思ったりもします。
僕はもうガンガン本を出していくつもりなのです、山での撮影画像を書籍内でガンガン使う事になるので撮影は必須中の必須なのです。もう使命遂行が完全にどこかに吹き飛んでいる事が頭にきてどうしようもありませんが、まずは明日の山に集中中(祈)†
1913年12月3日 水曜日
昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは“用語”の定義であり“本質”の説明ではないことをまず知って欲しい。
貴殿の身のまわりにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味ぶかいものが観察されるであろう。まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。
が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。
が、光が太陽を取りまく大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、一たん人間が“光”と呼ぶものでなくなる。その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、たとえば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び“光”に戻る。太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再びもとの性質に戻るということである。
「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を覚えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は1つであり、神の王国も又1つなのである。
光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。
これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整った時のみである。ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは"光"であることになる。
この比喩を更に応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の界層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。
が、更に目を別の方角へ向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星の更に向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。
と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。
天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を1つとして観察したことはない。
曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団 – 私もその一員であった – が近くの大きな湖まで同行した。
訪れた時もその湖から上陸したのである。いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。吾々の国の指導者格の天使の1人がお付きの者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回しはじめた。
私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら – というよりはその天使 – の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。この界においては来客に際して互いに身につけた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せあうのが慣習なのである。
見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異る、従って色彩も異るバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。
それを従者が珍らしい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。2本の糸が交叉する箇所は宝石のような強烈な光に輝いている。またその結び目は質の異る糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。
網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使1人が残った。そして、出来あがった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは“美しい”の一語につきた。
さてその網は数多くの性質をもつバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。
湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落着いた。そこで、その中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。
かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声とともに道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。
こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例にすぎないもので、それ以上の深い意味はない。
私がこれを紹介したのは実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが – 強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。
目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の1つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。
聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。†
画像の全画面表示はできない、ルビを振るとその文字が電子書籍上からは消滅する等々、いくつか分かった事があります。まずは「インペレーターの霊訓」の電子書籍データを完成させるプロセスの中でお勉強をしていくつもりですが、この表紙は最初に描いたものでカラーリングがイマイチなのでチョト塗り直します。
まぁた霊団がダンマリを決め込んでますが霊団がまるっきりやる気ゼロの態度を明確にしている以上、僕の残された人生は脱出以外にない。これ以上閉じ込められるのだけは死んでも認めない。結果脱出できないとしても最後の1秒まで脱出の努力を続ける。イヤなんだよ、絶対にイヤなんだよ。
あと、残念ながら自分で出版社を立ち上げてうんぬんというのはできそうもない事が分かってしまいましたので個人事業主という扱いでAmazonをメインに電子書籍、ペーパーバックをガンガン出していく事に当分集中する事になりますが、もっともおーふぁん的なモノが承認されないとそれも出せません。
自分の出版社であれば伏せ字なしで出せますが、Amazonですので残念ながら以前制作した「バキュンフォント」を使用せざるを得なくなるでしょう。まぁ脱出が最優先ですのでもうこれはしょうがない。
忙しい、苦しい、作業してもしても全然ゴールが見えない。が、まずはインペレーターの霊訓の表紙を塗り直しましょう。「シルバーバーチの霊訓3巻」のテキスト見直しもおこなっていますが、こちらはところどころ紙の書籍を見ながらの手撃ちが発生している関係で異常にスピードが遅いです。だからこそ日々少しずつ進める以外に方法がないとも言えます。
日本最安と思われる印刷会社で書籍のテスト印刷を繰り返しおこなっていましたが、もうAmazonで行く事に決定しましたので今回の「ベールの彼方の生活4巻」をもってこちらの印刷会社は利用終了となりそうです。今後はAmazon内で「校正刷り」を活用する事になるでしょう。
「自動書記テスト」も続行してますがまるっきり何もなし、しかしやるしかない。もうヤダこの人生、いつまでこの苦しみが続くんだ。試練にもほどがある。完全にやりすぎだ。帰幽したが最後、永遠に地球圏の仕事はやらないぞ。まずはAffinityPublisherと同レベルまで電子書籍を作り込めるようテンプレートを完成させないといけません(祈)†
先ほど「ベールの彼方の生活4巻」データアップロードを完了させ、全作業を終え、次の書籍の制作に入りたいところですがそろそろ電子書籍の制作方法をマスターしておかないといけませんので(霊関連書籍で電子書籍化されているものはほとんどありませんのでこの作業は重要と考えます)僕の苦手なOfficeソフトとkindleプレビューアを両方開いてアレコレテストしてます。
んんん、次回長文ブログの内容で語りたい事もありますが、電子書籍(リフロー)を問題なくサクサク作れるようになる事が先決です。チョトお勉強に集中しましょう。AffinityPublisherに対する苦手意識がだいぶ克服された今、Officeソフトの方が僕には難しく感じる。本来は逆のはずなのに。
1913年12月2日 火曜日
今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取りあげてみよう。ここでいうエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていくための媒体と理解していただきたい。
吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛練しているのである。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用のことである。
さて、こうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。
私がバイブレーションという用語を用いる時は、単なる往復振動のことではなく、時には楕円(だえん)運動、時には螺旋(らせん)運動、さらにはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。
この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の天体の組織と同一なのである。
太陽をめぐる地球の動きも原子内の素粒子の動きもともにバイブレーションである。その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異るのみである。
が、エネルギーの転換はいかなる組織にも運動の変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて吾々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に沿いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異るバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。
これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計算どおりの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすためである。吾々が人間の行為ならびに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。
それを受け持つ集団は鉱物・植物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星の世界全体を経綸する神庁が控えている。
混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命が誕生するに至るのも、全てこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。
この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある – 一定範囲の自由は許されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。
更に、物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今、地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものは無く、絶え間なく振動しているとの結論に到達している。これは正解である。
が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡しきってはいないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。
これで貴殿も、いよいよその肉体を捨てる時が到来したとき、何の不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のものではないのである。
有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションで出来た身体が具わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。
その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光より更に高き栄光へと進化してゆくのである。
そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は1界また1界と栄光への道を歩むのである。
まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今のべたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘わらず、その実相については皆目理解していないからである。
吾らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力に一体となって協力してくれることが望ましい。一丸となれば、善用も悪用もできるその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌(しの)ぐほどに。
吾々は、有難いことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することが出来る。完璧とは言えないが、ある範囲内 – 広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。
もしも可能でないとしたら地上は今日見るが如きものでは有り得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。もっとも、これも人類に対する吾々の仕事の一側面にすぎない。そして人類の未来に何が待ちうけているかは私にも何とも言えない。
霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のあるかぎり、万事うまく行くことであろう。†
まずブックカバーの注文を完了させました。書籍本体のデータも完成済みですので明日アップロードの作業をおこないます。止まらず次の作業に移行するつもりですが霊団がおかしな事を言ってきてます。
時間がありませんのでココで説明できませんがいよいよ僕の身に危機が迫ってくるので霊団があれほど僕を閉じこめていた場所から僕を離すといった趣旨の事を言ってきてます。つまりその閉じ込められている場所で危機が降ってくるという意味です。
誰それに嫌われてイヤガラセを受けるとか、そういうレベルのお話ではなく使命遂行にまつわる危機、生命の危機です。先週霊団が僕に書かせたブログによっておかしな攻撃ルートが構築されてしまって、そこから危険が流入してきて、まずは僕以外の人間が攻撃を浴びて、その攻撃が僕にも流れてくるといった感じの事を言われています。
ずっとその場所から脱出するためにあらゆる努力を重ねてきましたので、出られるというならもちろん出るつもりですが、霊団の事ですからもちろん出て新たに行く先はもっとヒドイところでしょう間違いなく。しかしもう危機回避で出るより他にどうしようもないと言ってきてます。それくらいあぶない状態なのだそうです。
だったら僕にあのブログ書かせなければよかっただろ。あんたたちのやってる事はこの11年間ずっと行き当たりバッタリだ。もうウンザリだよ。チョ時間がありませんので一旦切ります。残っても最悪、出ても最悪、もうヤダこの人生。本は作り続ける(祈)†
チョト集中して撃ってますのでサラッとご報告まで。お話したい事なら宇宙最大級にありますがまずは「ベールの彼方の生活4巻」を完成させます。止まらず次の作業に入ります、そろそろ電子書籍データの制作に入らないといけません、そちらをやるかも(祈)†
1913年12月1日 月曜日
暗黒の中にあって光明を見出す者は少なく、その暗黒の何たるかを理解する者もまた多くはない。暗黒は己れの魂の状態の反映に他ならない。その中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。
それは今に始まったことではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は1つだからである。本性において1つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても1つなのである。
神は、現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、計画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。
が、万物を支配する法則の1つとして、その託された能力の行使においての自由から生まれる細々(こまごま)とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても、統一性というものが主導的原理として全てを律し、究極において全てがその目的に沿わねばならないことになっている。
この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎(おろそ)かにされたことはない。それは今日においても同じである。
人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くという事実を否定し、それに関わる者を侮蔑する。
同時に又、これに携わる者が途中で躊躇し、霊と口を利くことは悪であると思い、救世主イエスの御心に背(そむ)くことになると恐れることこそ吾らには驚異に思える。
実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的も、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の2つの側面にすぎず両者は一体であることを示す為であったのだが…。
イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者たちがイエスを磔刑(はりつけ)に処したのもそこに理由があった。つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼ら敵対者たちの地上的野望も安逸と豪奢な生活も批難することはなかったであろう。
が、イエスは、神の国は天界にあり地上はそれに至る控えの間にすぎないことを説いた。そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じないことになる。
しかし人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、さきに述べたように、キリスト教会と一般社会の双方の中にそれに似通った侮蔑的感情を吾らは見ている。人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。
地上には盲目の指導者があまりに多すぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者たちは言う – 「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬ることはしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。
が、現実には葬ったではないか。同じく、そのように嘆く者たちが、もしも吾々のようにこうして地上へ降りて来る者が彼らのいう天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜く者との交霊を悪(あ)しざまに言うこともあるまいに、と思う。
しかし現実には、吾らと係わりをもつ者たちを悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者たちと同じ趣旨の申し開きをして、己れの無知と盲目を認めようとしないではないか。
– おっしゃることはまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃることに憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。
よくぞ言ってくれた。私は今たしかに怒りをこめて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされることがないかに思うのは誤りである。吾らとて時に怒りを覚えることがある。
が、その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪(よこしま)なものがあれば明晰な目をもって吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。このことだけはよく覚えておいて欲しく思う。
そしてまたよく理解しておいて欲しく思う。ただし、公正の立場、そして又、吾々の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課すことはある。が、どうやら貴殿は私の述べることに賛同しかねている様子が窺える。
そこで一応その気持を尊重し、この度はこの問題はおあずけと致そう。が、私が述べたことに些かの誤りもないし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。
ペテロの弁護の問題であるが、たしかに弁護したのはペテロであった。が、もう1つ次のことを忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いているということである。人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録 – ベールのこちら側の歴史 – があり、それは詳細をきわめている。
その記録より判断するに、彼らイエスを告発した者たちは、こちら側へ来てその迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明にはなっていない。光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。なぜなら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。
イエスの出現を光明と受け取れなかったのも同じ理由による。無理からぬことであった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断することによる結果ではなく、魂の内部に起因する。
外的でなく内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応しい境涯へと送られる – 暗闇と苦悶の境涯である。
今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて射し込みつつある。修養を心がける者にとっては大いに責任を問われる時代である。
すべからく旺盛な知識欲と勇気とをもってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。と申すのも、私が語ることの多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界という学校における豊富な体験を踏まえているからである。
この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探し出さねばならない。真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々は敢えて膝を屈してまで要求しようとは思わない。そのことも彼らに“しかと”伝えるがよい。
吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すがごとき態度で真理を授けることはしない。地上のいかなる金銀財宝によっても買うことのできない貴重な贈物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。
そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上あるいは死後の受難を恐れぬ勇気、そして天使との交わりと協調性を授ける。
本日はこれにて終りとする。これまでと比べて気の進まぬことを書かせたことについては、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があってのことだからである。又の機会に、より明るいメッセージを述べることでその穴埋めをすることにしよう。
心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン†