本当にこの長文テキスト撃ちが苦痛で苦痛でどうしようもありませんが、僕なりの使命感みたいなものがありまして、かろうじて撃ち続ける事ができている、イヤ、心は折れまくってますね。
しかしやる、何が何でもやる、物質界生活中に結果らしい結果に到達できないとしても、僕の人生目標は帰幽後の霊的褒章です、そこに向かって努力しないといけません。2度と物質界に戻って来なくてすむように、今自分にできる事を全力でやるのです。
間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
本当にこの長文テキスト撃ちが苦痛で苦痛でどうしようもありませんが、僕なりの使命感みたいなものがありまして、かろうじて撃ち続ける事ができている、イヤ、心は折れまくってますね。
しかしやる、何が何でもやる、物質界生活中に結果らしい結果に到達できないとしても、僕の人生目標は帰幽後の霊的褒章です、そこに向かって努力しないといけません。2度と物質界に戻って来なくてすむように、今自分にできる事を全力でやるのです。
間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†
まずは昨日のレインアタック時の撮影画像をUPですが、幽体離脱時映像が鮮明なのに全く意味不明、何が言いたいのかサッパリ分かりません。ムカつくから無視してクロッキーにメモしないんじゃなくて、意味不明なのでメモできないという状態が続いています。
フラー26、書籍復刊に向けた作業、書籍スキャン、やるべき作業が殺人的にありますのでできるだけ早く撃ち切ってそちらに移行しなければなりません。いつまで続くんだこの人生、いつになったら結果らしい結果に到達するんだ、人生破壊の限度をとっくの昔に突破してるんだぞ、本気であんたたち(霊団)を憎んでるんだぞ、いい加減にしてくれよ。
さぁ止まっているヒマはありませんテキスト撃ちに突入しましょう。もぉヤダ、この人生ヤダ、しかし撃つ(祈)†
過去に数えきれないほど低温レインアタックの失敗を繰り返してきて十分対策をしているのですが、今日は僕の考えが甘く、下半身の装備が不十分で、その部分が低温にやられてしまっていつもより早く引き返すハメになってしまいました。
まぁどのみち今日は撮影らしい撮影はできませんでしたので、予備の防水コンデジで撮れる限りのモノを撮って戻ってきました。明日画像をUPさせて頂くとして、さぁ長文ブログが困りました。書けない事はないのですがインスピレーションは少なめです。イヤ、これくらいの量の方が撃ちやすくてイイという考え方もあるかも知れません。いつも撃ち切れなくて削除しているくらいですから。
身体のダメージは少なめですがしっかり休んで回復させ、明日の作業に備えます。まずはココまで(祈)†
現在書籍のページをスキャン中、スキャンしたtiffを即AffinityPhotoで原寸jpgに書き出してGoogleドライブにUP、右クリックでGoogleドキュメントを選択してOCR変換という手順を踏みます。その中の一節を抜粋してみましょう↓
暴君の運命
想像力というものは無限に多様である。それ故死後の世界における経験の種類も多様で尽きることがない。実際のところ、魂の世界へ導く怪奇な入口などというものがあるわけではない。われわれはいわば、過去の人生の様々な情景の絵を飾りたてた長い画廊をさまよっていく。
独り独りが他の画廊には掛かっていない肖像画や思い出の幻想画を見つつ進む。各人がその性情に応じて、自分の生み出した作品に反応しなければならない。最後に、エーテルの世界に入ったときには、死のすぐ向こうに横たわっているこの大広間の中に彼の経験の大部分が吐き出されている。
最初は他の人々の助けも借りて、彼は本能的に地上時代の様々な場面を絵に描き、また親しかった人々と一緒になって、かつてと同じ情景や舞台を自分の周囲に築き上げる。もちろんそれらは空想によって理想化されていたり逆に暗黒化されたりしている。そしてここにこそ、植物的満足があるかと思えば幸福や歓喜があり、また奇妙で不吉で時としては戦慄すべきドラマの演ぜられる原因があるのである。
例えば、犠牲者に残酷な拷問を加えていた暴君は、魂のうちに同じ苦しみを味わうことになろう。彼の想像力は苦痛の醜さにスリルを覚えたり喜びを見出していたのであるから、その結果、彼の創造物たる闇の世界には醜悪さがあたり一面を覆いつくすようになる。
勿論こうした熱病的な幻想にひたるのも一時のことである。良心の呵責に責められつづけ自己が進歩への飛躍を熱望する時がやってくる。そこで彼は幻想的世界に深く入り込んで全存在を暗黒と孤独のうちに叩き直すか、さもなければ地上に戻ることを選択するようになる。普通の人は暗黒と孤独になど一瞬たりとも耐えうるものではないので、後者を選ぶことになる。
もし彼が地上に帰るならば、多くの場合挫折と失望と無力の一生を送ることとなろう。しかし、かくしてこそ彼は徐々に進歩し、恐らくはこの新しい一生での悲惨な自己の運命の教訓から、憐れみということの必要を学ぶであろう。
歴史に登場する悪役たちはこのような段階を経てそれぞれに異なった反応をする。或る者は速やかに想像力の用いかたの誤りを正すことを学び取り、一生の間にすっかり変わってしまう。或る者は殆ど進歩せずにいるが、たまたま同じ類魂の他の魂に助けられて、自性の燃やす悪の炎の災いの及ばぬ所まで導かれることもある。
或る場合には魂の想像力から、現実に悪しき想像力の原因となる部分、つまりサディスティックな面を新たに掻き立てて人間の性情を暗くするような邪悪な場面(シーン)を破壊してしまうことによって初めて救済されることもある。
以上で各人間のうちに働く想像作用がいかに重要であり、自我の本質をなすものであるかが分かったであろう。それは、死を超えた世界かこの世かのどちらかにこれから生まれてく赤子のために、生のかなたの生を準備し、彼らの環境や運命を築き上げてくれるものなのである。
んー、モチョト具体的な事を書いて欲しかったところです。その点「ベールの彼方の生活 3巻8章 暗黒界の探訪」は大変すばらしいと思います。↓
はい、明日はスーパーレインアタックの予報です、撮影らしい撮影はできないでしょうが、全身ずぶ濡れで登攀をしてくるつもりです。霊団のインスピレーションを思いっきりムカついて無視した関係でブログネタが枯渇しています。このまま行くとアタック帰還後の長文ブログは長文ではなく短文になる可能性が濃厚ですが、まぁた例のアレ(寸前ドッカーン)やってくるんだろうなぁ。
書きたい事はいろいろあるのですが長文ブログのタイミングに譲りましょう。フラー26キャラ線画、80%完成中、間もなく設定資料としてUPできます。その後すぐにフラー26本体のデザインに着手するのですが、書籍「インペレーターの霊訓」の表紙の線画を描いてみるつもりです。
既に完成させてある表紙と、これから描く表紙、どちらか気に入った方を採用して復刊に向けた作業に突入していきます。さらにフラーを描きつつも次の書籍データ制作にも取り掛かります。止まっているヒマなどない、やるしかないんだ、やるしか。忙しすぎる、この人生本当にいい加減にしてもらうぞ(祈)†
私はよく本を読む。これまでも随分読んできた。少年の頃は学校のカバンにたいてい1冊は冒険物語を忍ばせていたものだ。最近は旅行することが多いが、近代的な乗り物は確かに快適かも知れないが面白味がない。だから乗り物の中では読書が多くなる。
英国人というのは概してはにかみ屋が多い。私もその1人で、その性格の延長で私は自分の読んでいるものを人からのぞき見されるのが大嫌いである。そこで、対策として一計を案じた。専用のカバーを2枚用意したのである。
1枚は「核代数の2元方式」と題してあり、もう1枚は「誰にでもわかる神経外科」と題してある。何を読む際にも、どちらか大きさの合うほうを使うことにしたのである。
その反応を見るのもまた一興だった。代数のカバーをしていると、それを見た人の反応はたいてい同じで、まず溜め息をもらし、よくもこんな難しい本を…といった感心の表情をみせる。神経外科の方だと、驚きと同時に不審そうな表情をみせる。「面白いですか」と聞いてみる人すらいなかった。
はにかみ、遠慮、無ロ – こうした一連の性向は英国民の特質である。英国人は何でも自分の中に仕舞い込んでおこうとする傾向がある。つまり内向的なのだ。これは健全な精神とは言い難い。といって私は今日から外向的になれと言うつもりはない。
奥さんを撲りとばしたり、大酒を呑んで暴れまわるのが健全な発散方法だなどとは、さらさら思わない。そんなものよりもっと健全な発散方法、自然が用意してくれた安全弁がある。それを活用すれば英国人はもっと健康になれるのではないかと思う。ではその安全弁とは何か。
その1つは、素直に涙を流すということである。キッと歯を食いしばって強情を張るのがしっかりしているという考えはもう古い。頑(かたく)なに意地を張っていると、その意地で自分を損ねてしまう。
風に柳がなびくように、自然な情の流れに身をまかせることも時には必要である。英国人は泣かなすぎる。もっと涙を流すべきである。素直に泣いてみるとよい。緊張がほぐれて身も心もすっきりするはずである。
次に、怒りの発散が時として心の衛生になることがある。何かと腹を立てる、というのとは意味が違う。それはキリスト教でいうところの7つの大罪の1つであって、他人へ向けての敵意に満ちた怒りのことである。私のいう怒りは、過った心の姿勢から積もり積もった欲求不満を思い切って爆発させるという意味の怒りである。
あなたもイライラが堪まらなくなったら、どこか人気(ひとけ)のないところへ行き、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめてから、大股で歩きながら10分間ほど大声で怒鳴ってみるとよい。
気持ちがすっきりし、同時に、自分をイライラさせていたことが実はいたって他愛ないことだったことが分かって、バカバカしささえ覚えるであろう。それは、うっ積していた感情の発散によって心の姿勢が変わり、前とはまったく違った角度から物を見るようになったからである。
自分の悩みごとを心おきなく語れる相手をもつことも大切である。カトリックの教会には“告白室”というのがある。過去の罪を告白して神の許しを乞う部屋であるが、心理学的に言ってもこれは精神衛生上よい慣習である。
昨今は精神分析学の発達によってお株を奪われた恰好であるが、私に言わせれば、そういう“いかめしい”ものの世話にならなくても、心の中を曝け出せる人をもつことで十分目的は達せられる。
が、問題はどこまで自分に正直になれるかということである。私のもとに来る患者の大半が私から聞かなくても症状をいろいろと訴えてくれる。が、そのいちばん奥の本当の原因をつかむのにかなりの時間を要する。
たとえば偏頭痛を訴える人が実は性的不能者で、それが原因で奥さんに気兼ねし、それが偏頭痛を生んでいることが、3度目にやっと分かったというケースがある。ところが4度目に更にその奥の別の要因を発見した。
また、肥満に悩む女性が股関節の痛風を訴える。が問い質してみると何1つ心配することのない正常なわが子のことでアレコレと思い悩み、それが痛風を悪化させている。そのイライラが衝動食いをさせ、それが肥満を助長させている。
このように、次々と訪れる私の患者でさえ表面的な痛みや悩みは訴えても、心の奥まではなかなか曝け出してくれない。その心の奥をのぞいてみると、そこには内向した感情、挫折感、疑念、無知、等々が巣くっている。それがみな内側を向いていて本当の姿を見せようとしない。
ために実際とは無関係の想像上の過ち、悩み、取越苦労が渦巻くのである。人間が遠慮なく自由に手に入れることの出来る援助には3つある。霊的知識と、背後霊の指導と、他人からの好意である。
まず霊的知識であるが、人間は教育を受け理性が発達するにつれて、幼少時代に読んだ寓話やおとぎ話をばかばかしく思うようになる。それは一応当然の成り行きといえる。
が残念なことに、そうした一見他愛なく思える話の中に埋もれた貴重な真理まで捨て去ってはいないだろうか。世界のいずこの宗教も必ず黄金の真理というものが含まれているものである。みな霊界という同じ源に発しているからである。
あなたがいずこの国のどなたかは知る由もないが、あなたの手もとに何らかの宗教書、経典の類いの1冊や2冊はあるはずである。私はあなたの宗教を変えさせる立場にはないが、その宗教書や経典に盛り込まれている迷信やタブーの類いは無視し、基本的な霊的真理だけを求めるようにしてほしい。きっとあるはずである。
次に背後霊の指導がある。自分にも背後霊がいるのだろうか – そう思われるのかも知れない。その通り、ちゃんといるのである。これについては後章で詳しく述べることにして、ここではその指導の受け方だけを簡単に述べておこう。
今夜、床に着く前に“魂の静寂”の時をもってみよう。まず寝間着に着替えるか、あるいはそのままの服でベルトとネクタイをゆるめる。女性であれば肌をしめつけるようなものは取る。もちろん靴も脱ぐ。
次に部屋を薄暗くする。明りは音と同じく神経を刺激する。それから、ラクに座れるイスに腰かけ、両足首を軽く交叉させ、両手を軽く組む。その姿勢で目を閉じる。目に力を入れてはいけない。眼球は動くにまかせる。そして頭の中を空っぽにする。
始めのうちは考えまいとする意思が邪魔をして、色々と雑念が湧いてくる。が、それにこだわってはいけない。1つの方法として、日常生活に関係のない単純なもの、たとえば花を思いうかべて、それに意念を集中するのもよい。
そうやっているうちに心身ともにリラックスしてくる。そこで親友にでも話しかける気分で、今あなたが抱えている問題を口に出して述べる。問題を述べるだけである。こうしてほしいと勝手な要求を出してはいけない。特に欲の絡んだ手前勝手な欲求を持ち出してはいけない。
問題を述べて、どうしたらよいかをご指導ねがいますと言う。言ったあと静かにしていると、ふっと軽い無意識状態に入ることもある。目が覚めるとスッキリした気分になっている。
これを毎晩くり返す。大切なのはその日その日を新たな気分で始めることで、慣れっこになって形どおりのことを機械的に繰り返すようになってはいけない。場所や時間は特にきめる必要はない。いつでもどこでもよい。車の中でもよい。大切なのは静寂の時をもつということである。
それを続けているうちに、ある朝ふと、いい解決策が浮かぶ。あるいは問題そのものが問題でなくなっている時もある。もしかしたら、思いがけない人がひょっこり訪ねて来て、それが問題解決の糸口になったりするかも知れない。どういう形で成果が現われるかは予断できない。
援助の3つ目は他人からの好意である。人間は困った時にはとかく遠慮と羞恥心から家族や友人、知人等に相談することをためらうものである。が実際には、思い切って打ち開けてみると、一見気むずかしそうな人が思いのほか積極的によろこんで援助の手を差しのべてくれるものである。
もっともっと人間はお互いに援助し合えるように心の中を遠慮なく打ち開け合うべきである。1人で悩みをかこっていてはいけない。旧約聖書の箴言集の中に次のような言葉がある。「友をもつ者はみずからよき友であるべく心がけねばならない。身内以上に親身になってくれる友がいるものだ」と。
私は最近例の2枚のニセのカバーがいらなくなったことを自分でよろこんでいる。このことに関連して考えさせられる治療例を紹介してみよう。
電話でヒステリックな女性の声が往診を依頼してきた。実はこの女性は看護婦なのだが、ご主人の危篤で気が動転してしまっている。肺の疾患で総合病院へ運び込まれて酸素テントの中に入れられているが、重態だという。
心霊治療家にとって病院は苦手である。英国の登録医のすべてを監督する立場にある英国医療審議会は、心霊治療を公認していないだけでなく、心霊治療家に協力する行為をした医師は登録抹消という懲戒処分に出る。私は医学界の独善的態度と、そこから生まれる不幸な結果についてはすでに言及した。
病院では運営委員会が許可した患者についてのみ心霊治療が許されるが、それる、患者側からの要請と担当医の許可を必要とする。担当医はたいていの場合患者が死にかかっていて手の施せない状態になるまで許可しない。その態度は牧師に最後の別れの祈りを許すのと少しも変わらない。
さて奥さんの強い要請と、しぶしぶながらも担当医の許可を得て私が病院へ行ってみると、ご主人はものものしくスクリーンで被われたベッドの中で、酸素吸入装置につながれて、文字どおり生きんが為の呼吸に必死になっていた。
その呼吸も一定していない。1つ1つの呼吸が最後かと思われるほどだった。その目はちょうどワナにかかった動物が見せる、恐怖におののいた目だった。私はベッドのわきに腰かけ、手を取った。まるで完全に電池の切れたバッテリーに充電するみたいだ。反応がまるでない。が、間に合ったと私は感じた。
翌週は奥さんから毎日のように電話で容態を連絡してもらって遠隔治療を施した。そして翌々週の月曜日に、平常どおりの治療を終えたあと病院へ行ってみた。まだベッドはスクリーンで被われていたが、患者はそのベッドの上で起き上がっていた。酸素テントはもう取り払われている。
1本のチューブが左の鼻の穴から差し込まれ、テープで留めてある。それが酸素吸入装置につながれている。顔色はまだ血色はないが、異常さは消えている。話をすることも出来た。それから1週間後にスクリーンも取り払われた。血色も出て来た。
異常事態に備えて酸素マスクがそばに置いてあるが、用はなかった。それから1週間にも満たないうちに退院できた。退院後2、3度治療に見えた。まだ元気とまではいかず、すぐ疲れ易かったが、なんとか平常どおりの生活に戻ることが出来た。
ところが、それから3年後にその人は別の病気で他界した。そのことを私は妻とその奥さんとの偶然の出会いから知った。が奥さんの話では、その3年間は2人の生涯でいちばん幸せな時期だったという。その思い出を宝物のように大切にしているというのである。
人生というのはピクチャーパズルのようなものだ。バラバラにされた断片をあれこれと組み合わせて全体の絵を完成させようとするのだが、悲しいかな、人間にはその断片のすべてを手にすることが出来ない。わずかばかりの体験から人生の全体像をつかまなくてはならない。
だから、往々にしてその全体像が見当違いのものになってしまうことがある。ある人が静かな田園風景の中に足を踏み入れて心の安らぎを得ている。がそのはるか彼方では血なまぐさい殺戮が行われているということだってあるのだ。
同じ地上にありながら、その体験が個人によってあまりに違いすぎる。そのわずかばかりの体験から、この複雑な人生の全体像を勝手に描きながら生きている。それが現実だ。
19世紀半ば頃、1人のフランスの少女に治病能力があることがわかった。家族や友人に治療を施していたが、世間一般から中傷と嘲笑と疑惑を浴びせられた。その治癒能力と善意が高い評価を受けるようになったのは後世のことである。その少女の名はベルナデット。ピレネー山脈の麓のルルドに住んでいた。いわゆる“ルルドの奇蹟”のヒロインである。
ベルナデットがもしも霊的真理の普及した時代に生を享けていたら、頭初からその能力と功績は高く評価されていたであろう。が不幸にして彼女が生きた時代はカトリック的ドグマへの忠誠が最高の敬虔の表われと見なされた時代だった。
今では彼女が聖母マリヤを見たという洞窟の周辺はまるでサーカスの興行にも似た狂騒の場と化している。みやげ店、ホテル、彫像が立ち並び、商売根性むき出しの呼び込みをやる。そこへ観光客が群がる。
そしておしまいはカトリックによる病気平癒の祈禱(ミサ)がヒステリックな雰囲気の中で行われる。が、これまでの100年余りで本当に治った人の数は、私のような個人の治療家が1か月で治している数にも及ばない。
このように霊的事象の正しい解釈はなかなか容易でない。体験した当人にしてみれば、まさかと思っていたことが現実に起きたのであるから、その興奮は抑え難いものがある。が、この場合のいちばんの正解はまずその体験を神の啓示として感謝し、啓示を授かった身の上を有難き幸せと思い、その上でその体験が自分の人生でいかなる意義をもつか、その片鱗でも理解しようと努めることである。
啓示を授かるということは真理の花園への扉が開かれたということである。それだけは間違いない。自分を取り囲んでいた高い塀に扉があることをこれまで知らずにいた。それを誰かが教えてくれた。
扉を開けると素晴らしい花園が見える。やがてそこへ誰かがやって来て手を取って案内してくれる。別に「ガイド」の腕章はつけていない。が、あなたには直感的にそれとわかる。
花園は素晴らしい。心が安まり和(なご)ませてくれる。と同時にカラフルで生きる意欲をかき立ててくれる。しかしその花園にもまた迷路がある。わき道へそれる危険性がある。人類が長年にわたって拵えてきた迷路でありわき道である。そこへ足を踏み込むともう行き詰まりだ。
間違った信仰、ドグマ、戒律のために人類はがんじがらめにされている。「立入禁止」「芝生に入るべからず」「無断侵入者は告発されます」こうした掲示はみな人間が勝手に立てたものだ。そんなものは無視してかまわない。神の言葉ではないのだ。
あなたの歩む道はあなたの背後霊(ガイド)が教えてくれる。それは1人1人違う。万人に一律のガイドブックというものはない。あなたにはあなたのガイドブックがある。それはあなたの背後霊がもっている。しかも、過ちは赦されるのだ。永遠に罰せられる罪などこの世にはないのだ。
こちらの書籍が値段が下がるのをずっと待ち続けて全然下がらなくて泣く泣く入手した「個人的存在の彼方」となります。霊性発現初期の頃、たいじゅさんという若者に霊関連書籍50冊をプレゼントして、その時にこの書籍も手放してしまって、それ以来10年ぶりの入手となります。
何としてもテキスト化を完了させて、復刊はムリでしょうがWordPressにUPするところまではやりきるつもりです。
そして霊団から火山大爆発的にムカつく事を言われて、完全に無視して一切クロッキーにメモしませんでした。もう何て言われたか忘れてしまいました。しかし次回長文ブログネタとなるインスピレーションが極端に枯渇しています。ま、それならそれで反逆の内容を撃つつもりです、言いたい事は恐ろしいほどたくさんありますので。
フラー26キャラ線画、インペレーターの霊訓の表紙、書籍スキャンとOCR変換、忙しい、忙しすぎる。この人生は一体いつになったら終わるんだ、いつまでこの最悪状態をやらされなければならないんだ。Dreamwork(画家活動)を続ける事が、一体何がいけなかったのか、なぜ絵を描く事をやめさせられなければならなかったのか。まるっきり意味不明。
努力しても努力しても状況が一向に改善されない、悪化の一途をたどる、霊性発現以降、決して大げさな表現ではなく1度たりとも状況が好転した事がない。もうイヤだ、この人生もうイヤだ。って言いながら作業続行中(祈)†
表紙も既に完成しているのですが、インペレーター霊を僕が描くとキャラキャラするので宜しくないと言っていましたがやはり描くだけ描いてみようかなという事で、クロッキーに向かってインペレーター霊の設定資料を描いています。
そしてキンドルファイヤーを使用しての校正が大変間違いを発見しやすい、早いという事が分かりましたので、今後はキンドルファイヤーを多用してスピードアップを図りましょう。OCR変換テキストの見直しの段階からいきなりAffinityPublisherにテキストを流し込んでpdfに書き出してしまうのです。
霊団にかなり強烈な脅しを受けています。僕は何が何でも脱出しようとしている、霊団は何が何でも閉じ込めようとしている、その闘いで(闘いと思っているのは僕だけですが)閉じ込められる事をあきらめさせようとして脅しているのですが、閉じ込められる事を受け入れる訳がネィだろ、それだけは死んでも有り得ネィんだよ。
書籍を復刊させてみたところで間違いなく脱出にはつながらないでしょう。出版社設立しても同じ。しかし脱出の可能性のあるモノに賭けるしかないのです。そうしないと本当に一生閉じ込められる事が決定してしまうからです。とにかく全力、全力、全力で反逆します。脅しなんかクソ喰らえ。ただし最強レベルの脅し文句を言われています。長文ブログのタイミングで書けるようなら書きます。
たいていの親は自分に出来なかったことを子供に叶えさせてやりたいと思うものである。より立派な教育を受けさせてやりたいと生活費を切りつめ節約する。大学へ行かせてやろうと、何かと心を砕き努力する。
卒業と同時にこんどはいい職業に就かせようと、あの手この手の策をめぐらす。いよいよ一人前の社会人になると、こんどは“わが子に相応(ふさわ)しい”結婚相手を探し求める。そして晩年は全ての財産を子供に譲って自分たちは質素でつつましい生活に甘んじる。
私の治療室にはこの種の親が大勢やって来る。訴える病気は関節炎、動脈硬化、不眠症、潰瘍、偏頭痛、背痛。ちょっと拾っただけでもこんなにある。このうちのどれかをかかえた人を毎日のように治療している。一見したところ、そんな病気で苦しんでいるとはとても見えない。
ローザ夫人の例をみてみよう。年齢は38歳。きちんとした身なりで、なかなか魅力ある婦人である。自分が素敵なご主人と快適な家に恵まれていることを自ら認める。経済的には何の苦労もないことを認める。そして3人の子供も健康であるという。なのに自分は重症の病気をかかえている。なぜか。
夫人としては3人の子供にぜひ大学まで行ってもらいたい。ところが長男は女の子に、娘はドレスのことで夢中である。そのことがまず夫人の頭痛のタネである。しっかり勉強してくれないと大学へ行っても奨学資金が貰えないかも知れないのです、と言う。
それがなぜ悩みなのだろう。何が何でも大学へ行ってくれなくては、と思うこと自体がおかしい。大学を出なくても立派に成功した人は幾らでもいる。息子が女の子ばかり追っかけているというが、それがなぜいけないのだろうか。
男の子が女の子を好きになるのは当たり前ではないか。息子に好きな男が出来たというなら、これは大変である。親は大いに心配していい。娘がドレスにあれこれやかましくなったと言う。
着るものに夢中というのであれば、あのココ・シャネルだって服装に夢中になっていたではないか。(ココ・シャネル – フランスの世界的な女性服飾デザイナー。香水でも有名)
親は子供の人生にまで関与してはならない。自分に叶えられなかったことを子供にさせようとする考えも許されない。子供には子供の人生がある。その人生には成功もあれば失敗もある。がそれも子供にとって大切である。伸び行く人間には苦痛も必要である。よろこびと挫折、勝利と敗北、成功と失敗、こうした体験が養分となって子供は成熟していくのである。
もう1人紹介しよう。スミザスン夫人は肩の結合組織炎を患い、激しい痛みに苦しめられている。始終イライラし、カッとなり易く、たまらなくなるとベッドに横になる。それほどの激痛を伴う病気が実は心因性だった。
その原因というのは2人の息子を父親の出身校のパブリックスクールに行かせるための学費のやりくりだった。(英国のパブリックスクールは莫大な学費がかかる。パブリックといっても公立ではない)
そこで私は尋ねてみた。「息子さん自身は次のどっちをよろこぶと思いますか。いつも金がない金がないとグチをこぼす病気の親のもとでストレスを背負いながら名門のパブリックスクールに通うほうがいいか、それとも、いつも笑顔の絶えない両親のもとで金銭の苦労もなく気楽に近くの公立へ通うほうがいいか」答えは明白である。
では親は子供に何をしてやればよいのだろうか。親の責任とは何だろうか。親はまず物質的に適当な充足感を与えてやらねばなるまい。まず家がいる。冬は暖房設備もいるだろう。食べものを用意してやらねばならない。身体をいつも清潔に保ってやらねばならない。人並みの衣服がいる。そして大切なのは、家の中に家族の一体感を味わわせる雰囲気が漂うことである。
が、これだけではまだ十分ではない。愛情がいる。問題児が生まれる最大の原因は愛情の欠如である。最近では医学的にも子供の成長にとって愛情が最大の、そして唯一の刺激となっていることがわかってきた。
赤ん坊は抱っこされ、頬ずりをされ、あやされることによって成長を促進されている。スキンシップの重要性が見直されているわけである。その因果関係はまだ十分には解明されていないが、人間は、互いに合わずにいるより日に何回も顔を見合わせる間柄のほうが人間関係に親しみが増すということは紛れもない事実である。
疑問に思われる方は実際に試してみられるとよい。身近な人の誰かの肩でもどこでもよいから、顔を見合わせるごとに軽く手を触れてみることである。触れずにいる時よりはずっと親しみを覚えるはずである。
そのほかにも愛情の表現方法はいくらでもある。子供の悩みごとに理解を示し、同情し、親身になって一緒に考えてやるのも愛情だ。さらに親は子に教育の機会を与えてやらねばならない。だから学校へ行かせる。
それはいいのだが、学校へ行ったからといって全てを学んで帰るわけではない。親から学ばねばならないことも沢山ある。人を思いやり親切を施すこと、人の欠点を見ずに善い面だけを見るようにすること、妬みや怒り、憎しみ、怨み等は相手だけでなく自分も傷つけること等々を教えてやらねばならない。
人間はどこからこの世にやって来たのか。何のために生まれて来たのか。そして死んだらどうなるのか。こうしたことも教えてやらねばならない。正しい霊的真理を教えてやらねばならない。背後霊の存在、心霊治療、健康の本質、それに清く正しい生き方とその価値を教えてやらねばならない。
善悪のけじめも教えてやらねばならない。自分が人からして貰いたいと思うように人にしてあげることの大切さも教えてやらねばならない。動物と人間との密接なつながりを教え、生命や愛情や笑いのほうが物質的財産よりはるかに価値があることを教えてやる必要がある。
それだけ教えたら、あとは好きに生きさせることだ。余計な口を出さず、求められた時だけ援助の手を差しのべればよい。それが親としての責任の限界である。それ以上のものを押しつけてはいけない。余計なおせっかいは却って障害となる。これであなたの家庭の平和は盤石のものとなるはずである。
まず「インペレーターの霊訓」最終校正95%完成中。あとは「復刊者コメント」を清書すれば書籍データ完成となります。絵の1枚でも挿入しようかな、なんて思ったりもしますが、復刊できるあてが今のところ全くありませんし特に〆切も設定されていませんのでそれくらいの作業時間はあります。
先ほど書いた内容に霊団がダメ出ししてきました。まぁ言っている事は了解ですが、とにかく最悪の度合いがあまりにもヒドすぎるので脱出だけは霊団に何を言われようと達成させます、これだけは死んでも譲らない。長文ブログのタイミングで少しお話したい事もありますので詳細はのちほど。
ボロボロのグチャグチャ、やぶれまくっているザックをさすがに新調するつもりだったのですが、苦渋の選択でもう少し引っ張って使う事とし、そのぶん書籍を入手する事にしました。値段が下がるのを1年以上待っていたのですがどうやっても安くなりそうにないのであきらめて注文しました。明日到着予定です。
残された物質界生活も最悪を極める、状況が改善される事はなくこのまま帰幽まで最悪をやらされ続ける。さらに帰幽後に僕は物質界と完全に縁を切るつもりなのですが、その僕の意思は完全に無視されて降下の仕事を延々とやらされる、物質界生活中も帰幽後も徹底的にこき使われる事になるのは間違いないでしょう。ウンザリの究極形。まずは書籍データを完全な状態に仕上げましょう(祈)†
「インペレーターの霊訓」間もなく最終校正を完了中、いつでも印刷できる状態になりますが復刊できないというおかしな状況ですが、読み進める中で「交霊会の心得」のような部分があり、そこを読むほどに、霊団が僕を何が何でも閉じ込め続ける事に疑問を抱かずにはいられません。
こんな精神状態の人間が霊媒として機能して高尚な霊言が降ってくる訳がない事が、書籍を読むと良く分かります。つまり霊団が本当に僕という霊媒を使用して新規の霊言を降らせるつもりなら、怒りの大原因であるその場所から一刻も早く僕を撤退させるべきはずです。
交霊会をやるために僕を閉じ込めているのではなくて、交霊会をできなくさせるために(僕の心が怒りで満たされて霊媒として機能できないように)閉じ込め続けていると考えるのがもっともスマートではないでしょうか。
奴隷の女の子の存在を僕に教えてきたのは他でもない霊団です、教えてきておいてまるで助けようというそぶりさえない、完全に見殺しにする姿勢を貫いている。よくよく考えれば何もかも正反対の事ばかりしているという事が「インペレーターの霊訓」を読み進めていく中で改めて分かった気がするのです。僕が霊団に怒りを爆発させるのは当然中の当然と言えるのではないでしょうか。
書籍復刊に向けて努力する、これが霊的知識普及の最善ルートという事でイイのではないでしょうか。コイツら(霊団)の言ってる事はいよいよおかしい。距離を置いた方がイイかも知れない。獲得した霊的知識に基づいて自分レベルで霊的知識普及に役立つ事を考えて行動した方がよほど良い結果に到達するかも知れない。
最終校正続行中、フラー26キャラ線画描画続行中。とにかく僕はどんな手段に訴えてでも脱出を完了させます。あの場所を離れない事には僕の霊媒発動はありません。あの場所に残る事が交霊会開催の唯一の道だ、などという寝言は死んでも認めない。とにかく死んでも絶対に脱出する(祈)†