「スピリチュアリズムの真髄」より→「霊界に来た霊は各々が地上で積み重ねた善性または邪性に応じた環境に置かれる。それは信仰の如何に係わらないがその信仰が深く性格に刻み込まれている場合は別である。単に口先だけで何らかの教義への帰依を誓った所で何の意味もない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「十字を切っても教義を称えても霊はいささかも救われるものではない。いくら祈っても信仰の告白をしても救いにはならない。真に魂を救うのは正しい、純粋な、そして高潔な生活しかないという事を私はこちらへ来て学びました」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「私が地上で帰依していた主教制教会も何の役にも立ちませんでした。それより私が悩みを聞いてあげた人々、励ましてあげた人々、救いの手を差し延べた貧しい人達、そういう人達がこぞって私の死に際して集まり、私の霊界入りを歓迎してくれました」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「言うまでもなくスピリチュアリズムでは道徳律の存在を信じる。それは宇宙全体を支配する神的法則であり、あらゆる有機体と人間の魂を通じて作用していると考える」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間より下等な生物においてはいわゆる本能と無意識の欲望として表現され、人間においては良心、道義心として意識される。これは神の意志であり、あらゆる有機的生物の中に湧き出で、それが発達と完成への衝動を生む」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「実はこの道義心は人間とは別個の存在、つまり外部から注ぎ込まれたものではなく、霊そのものに潜在する本性は欲求であり意志なのである。言い換えれば神そのものなのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「常にその声に耳を傾け、それと一体になって行動する時、キリストが“わたしと神は一体である”と言った時と同じ悟りの意識に到達する。キリストは自分が神だと言ったのではない。しばしの間神の意志と融合したという意味でそう言ったのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間が永遠に向上進化するという事実はスピリチュアリズムでもとりわけ崇高な真理である。この進化とは顕幽両宇宙を舞台としてありとあらゆる有機体が完成へ向けて一歩一歩向上していくというもので、究極においては神の意志の顕現にほかならないのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「その進化の原理は創造的活力として全有機体に潜在的に組み込まれており、従って“進化せずにはいられない”のである。つまり進化とは宿命的に組み込まれた目的に向かって活動していく過程に過ぎないと言ってよい」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「全ての有機体は、形体の大小にかかわらず、その存在の意義と完遂に必要なあらゆる原理と能力とを潜在的に具えている。その完遂に向けての行為がほかならぬ進化なのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「潜在的に具わったエネルギーは、その個体なりに理想的に構成されているのであるから、これを正しく発現させてやらねばならない。完全に発現された個体の姿は種子に宿された神の意志の完成された姿にほかならないのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「同じく人間もその魂に宿された潜在能力を円満に発達させねばならない。それが神性を正しく発現する事に他ならないからである。神は自然界の全ての有機体に、それに必要な創造的エネルギーを賦与してくれている。人間のみが例外である訳ではない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「無限にその神性を発現するために人間は永遠に向上進化を続けるのである。スピリチュアリズムにおいてはその向上進化の証拠を他界した無数の人霊に見る事ができる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「この地上生活はその第一歩、いわば宇宙学校の幼稚園に過ぎず、肉体の死によってこの世の生活を終えると霊界の下層界での生活が始まる。いや、正常な知識人は三界ないしこれより上の界へ行く」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「が、どこに落着くにせよ、そこでも進化の法則が一瞬の切れ目もなく働き、一界また一界と向上の階段を登って行かねばならない。そしていつしか一切の地上臭が消えた崇高な世界へと至る。その向上進化の過程は厳格な規律によって支配されている」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「時間的経過から言えばスピリットにとっては速い遅いの差があり、下層界で長々と道草を食う者もいるがいつかは正しい向上の道に立ち戻り、着実に上層界へ上がっていく。そこに神の意志としての向上進化の法則の確実な働きを見る事ができる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムの真理が人間生活に現実的利益をもたらす事に疑問の余地はない。人間は死という関門を通過した後も生き続け、それまでの性格をそのまま携えて死後の世界へ行くという事実はどう考えても人類にとって重大で素晴らしい発見であるに相違ない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「そうあってこそ人生に目的と意義を見出せるのであり、人生が六、七〇年の短い地上生活で終わるのではなく、この地上生活はホンの出発点であって、その間に身につけた知識と経験を携えて一段と高い世界へと進んで行く事を教えてくれたのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間は食べて飲んで寝てヒマになれば愚にもつかぬ事に打ち興じるこの世限りのお粗末な存在ではなく、これから先も死を超えて永遠に生き続けていく霊的存在なのだという自覚は、人間にとってかけがえのない福音である」

「レッドマンのこころ」より→「“死の歌” われはうたう  わが亡骸がいずこに横たわることになろうと構わぬ。 わが魂は死後も行進を続ける。 わが亡骸がいずこに横たわることになろうとも構わぬ。 わが魂は行進を続ける。 」

「レッドマンのこころ」より→「1832年に酋長ブラック・ホーク率いる40名のインディアンが270名のアメリカ人銃兵を蹴散らした話。1877年に酋長ジョーゼフが大勢の婦女子を従えながらわずかな武器でそれに倍する兵を擁するアメリカ軍を壊滅させた話」

「レッドマンのこころ」より→「1885年から翌年にかけてアパッチの大酋長ジェロニモが、わずか35名で5000名のアメリカ正規兵と500名の予備軍それに国境警備隊の一団を加えた大軍団と1年半も闘って失った兵士わずかに6名、対するアメリカ軍の損失は200名に及んだ」

「レッドマンのこころ」より→「200年に及ぶ西部開拓におけるアメリカ・インディアンの英雄的行為と不屈の精神に匹敵するものは人類史にその例を見出せません。その間、彼らは先祖伝来の土地を1インチたりとも譲るまいと、装備と物量において比較にならない敵軍を相手に戦ってきました」

「レッドマンのこころ」より→「インディアンが無口で笑う事を知らない人種であるという誤解ほど彼らを怒らせる見方はない。一度でもインディアンの村に入った事のある人ならば、インディアンの生活の中にいかに多くの楽しさと陽気さがあふれているかを知っているであろう」

「レッドマンのこころ」より→「集まりがあると必ずその中に一人は笑わせ上手がいて、冗談やシャレを言ってはみんなを笑いの渦に巻き込む。インディアンの歌にも、説話にも、おとぎ話にも、ユーモアと明るい風刺がこめられている」

「レッドマンのこころ」より→「私の体験では、インディアンの炉辺で湧き起こる腹の底からの笑いは、他の人種では見かけないように思います。お腹が痛くなってこれ以上笑えないというほど笑う事が何度もあります」

「レッドマンのこころ」より→「インディアンが禁欲主義者で神経にどこか欠けた所があり、ムッツリして面白くない人種、という意見ほど事実とかけ離れた見方もない。実際はいたって陽気で明るくおどけた所もあって、ちょっとした面白い出来事や冗談にもまるで子供のように無邪気に笑う」

「レッドマンのこころ」より→「インディアンの正直さと尊敬の念の強さの証拠として、私がこの6、7年間に3、40万人にも及ぶインディアンとの交流の中で、インディアンが一度たりとも私を裏切ったり、集団で襲ったり、こっそり盗んだりした事はない」

「レッドマンのこころ」より→「インディアンは私との約束を素晴らしい忠誠心で果たしてくれた。彼らはそのために大変な努力、時には危険すら冒す事もあった。インディアンがいったん「やります」と約束したら必ずそれを実行してくれるものと受け止めて大丈夫である」

1ぺージ
シルキー「アキト、いつからフラーデッキにBGMが流れるようになったの?」フラー11と12のマニュアルに目を通しておかないと
僕「いや、そんな話は聞いてないわよ…」シルキーはお勉強好きねぇ
♪~♪~♪~♪~♪~
僕「…あぁ!」

2ぺージ
僕「ももちゃんとセンナちゃんだ!」
シルキー「ももちゃん上手♪いつのまに?」
ももちゃん「おねえちゃんが教えてくれたの♪」
センナちゃん「あっという間に覚えちゃったのよ♪ももちゃんセンスあるわね♪」
センナちゃん「はい☆これがシルキーちゃんのフルートよ♪」
シルキー「ありがとぉ!おねえちゃん♪」
僕「……」

3ぺージ
ももちゃん「あたしコレ好き♪吹くのチョー楽しい♪」スゴクキレイな音が出るから
僕「!!」
シルキー「あたしもやってみる♪」
ももちゃん「うんうん♪」
僕「ももちゃんスゴイ喜んでる☆センナちゃん、クレスに来てくれてホントありがとう☆」僕にはフルート教えてあげられないもんなぁ
センナちゃん「おにいちゃんおもしろーい♪」
—–

はい、フラーが全然出てこないのに「フラーデッキ」の描写でかなりキビシイ作業となりました。動物、フルート等、普段描かないモノのオンパレードで資料を見ながら描きました。僕の妹センナちゃんが、僕が親代わりをしている奴隷の女の子ももちゃんとシルキーにフルートを教えてあげる、僕の妹ですからふたりにとってセンナちゃんはおねえちゃんという事になり、やさしいおねえちゃんとの出会いに喜びつつフルートを吹いて遊ぶ…そういう何でもないストーリーを表現してみました。しかしこのストーリーの中には僕の様々な思いが込められています。まず動物たちの描写ですが、こちらは霊関連書籍「スピリチュアルストーリーズ」の内容を参考にして描かせて頂いています。霊界では食べ物を得るために他の動物と争う必要がないため動物たちはみなおとなしく、このように子どもたちと仲良くしています。「私の霊界紀行」の中でも著者が幽体離脱中に出会ったうさちゃんについて「かわいがって欲しがるその愛念に圧倒される」と書いていました。フラーデッキは植物園でありお花畑であり動物園でありフラー格納庫でもありますので、今後何かと動物たちが登場してくる事でしょう、特にももちゃんは動物と関わりが増えてくるでしょう。※WordPress固定ページに霊関連書籍の内容をUPしたいと考えていますが作業量が尋常でないためどうにも実行できずにいます。「スピリチュアルストーリーズ」の中に描かれている霊界の動物たちの様子をぜひお読み頂きたいものです。

はい、そしてこのアナログ絵272も「ももちゃん、シルキーのストーリー」とさせて頂きました。ももちゃん、シルキーは「奴隷の女の子」として登場させているキャラクターです。僕を筆頭としてご覧の皆さまはどうしても強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の「洗脳」に毒されてしまっている関係で、邸内地下に閉じ込められ四肢切断、強姦殺人され続けている奴隷の女の子たちの存在に目が向かない傾向が強いのですが、僕はそこに何が何でも警鐘を鳴らし着目してもらわねばならないとの思いからこのふたりのストーリーを描き続けているのです。これまで幾度となくブログで書かせて頂いてきましたが、皆さまの愛する笑顔のカワイイ娘が、ある男に残虐極まりない方法で強姦殺人され、その犯人が善人を装いながら国民に向かって笑顔で手を振り、宮内庁職員に書かせた洗脳ウソ文章を読み上げる映像を見た時、どういう感情に包まれますか。どういう気持ちになりますか。霊団いわく「総殺害数487」信じられない人数の奴隷の女の子たちを明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」で殺しまくって遊んでいるのです。コイツらのウソニュース、ウソ映像を皆さまはどのようにご覧になるのですか。まさか「あぁ国民のために汗を流して下さっている素晴らしい方々なんだなぁ」などという寝ぼけた事を考える、そういう旧洗脳的、旧時代的、旧宗教的考えを心に宿してはおられないでしょうね。現代は21世紀ですよ、このような盲目の考えにまだ囚われているとしたら、その方はだいぶ残念かつおめでたい人物という事になります。

今回のアナログ絵272は、ももちゃんとシルキーの何でもないかわいらしい日常の1ページを切り抜いたちょっとしたストーリーです、わざとこういうほのぼのストーリーを描いているのです。こういう女の子たちの心、人格、人権、夢を強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は完全に無視して、少年が昆虫の足をちぎって遊ぶように女の子を四肢切断、強姦殺人して遊びまくっているのです。コイツらの未来は何だと思いますか。「死刑」以外の未来があるという方がいらっしゃいましたら公言してみて頂けますか。こういう女の子たちが「宇宙一のバカ」明仁、文仁、徳仁、悠仁の手によって殺され続けているという事、その大量強姦殺人犯が善人を装って日本の中心で罪にも問われずふんぞり返っている事に怒りを覚えないとしたら…その方は「心が無い、人間ではない」という事になるでしょう。この強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を許す事のできる人間はこの人間界に存在しません。この大量強姦殺人魔の大罪が許される世界は霊界、物質界、この全宇宙に存在しません。皆さま宜しいですか。明仁、文仁、徳仁、悠仁は「死刑」以外に有り得ないのです。それ以外にないのです。僕たち日本人のアイデンティティにかけて絶対にこの「宇宙一のバカ」「人類の恥」「人間のクズ」明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑にして滅ぼさなければならないのです。

ピーチピチ(佳子)の協力を絶対に取り付けて奴隷の女の子たちを救出してみせますが、もしピーチピチが奴隷の女の子たちを見殺しにして彼氏とフェードアウトしたら、僕は使命遂行者として物質界に残されていますので残念ながらそのピーチピチの「強姦殺人ほう助」の様子も国民の皆さまにご紹介し続ける事になります。奴隷の女の子たちを助けてあげられるのに見殺しにした残念な女性として世界の歴史に登録される事になります。僕としても不本意ではありますが奴隷の女の子たちの救出のためには致し方ないでしょう。まさかピーチピチ(佳子)が奴隷の女の子たちを見殺しにする事がないよう、僕としても自分にできる全パワーを注ぐつもりですが、願わくば皆さまも他人事と思わずに奴隷の女の子たちの救出にご協力を願いたいところです。ピーチピチ(佳子)の背中を僕と一緒に押してあげて欲しいものです。さぁここのところ霊団から幽体離脱時に特にメッセージ性のある映像が降ってきません。まぁ僕の作業量を鑑みての配慮と思われるのですが、霊団ブログネタ降らせろ。僕はスタミナに絶対の自信がある、アナログ絵も描き続けて長文ブログも書き続けるからインスピレーション降らせて来い。使命遂行スピードダウンするな。常にMAXで行け。絶対に導きの手を抜くな。強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を1秒でも早く死刑にするために死力を尽くせ(祈)†

[ditty_news_ticker id="9497″]

スキャン完了中、フォトショ上での作業に入ってますが、UPにあたりテキストを付加させたいので今日中のUPはムズカシイかも知れませんができるだけ急ぎます。間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†

「スピリチュアリズムの真髄」より→「そもそも私が神の存在を云々する時は宇宙という相対世界を支配する中枢すなわち宇宙の脳髄の事を言っているのである。そして神にもし個性的意識が無いとしたら、存在というものを意識する事は不可能なはずである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「我々人間が自分の存在を認識できるのは他の存在との対比と相違があるからである。あなたが自分の個性的存在を意識できるのは自分というものを自分を取りまく無数の個的存在と比較できるからである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「神も同じである。無限絶対の神でもそれだけでは存在は意識できない。相対的存在の世界があってこそ絶対的存在が意識され体験されるのである。従って神は顕幽両界のあらゆる存在に内在している」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「それはちょうど人間の霊が全ての骨、筋肉、神経、粘膜、繊維、体液等々ありとあらゆるものに染み渡っているのと同じである。がしかし、どこに一番自我意識を意識するかといえば、手でもない、足でもない、やはり頭である。神も同じである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「神は宇宙のすみずみまで行き渡っている。植物にも動物にも人間にも、そして日、月、星辰にも存在する。が神自身も自意識を一番強く意識する場所がある。それが宇宙の脳髄に相当する部分だというのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「神にも有限性と人間性があるという概念は、当然、神というものが人間生活と無縁の存在ではなく何らかの形で結ばれているのだという理論を生む。そしてそこから神は“天にましますわれらが父”であり宇宙の支配者であるという思想が出てくる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでは人間は神の分霊を受けて生まれ、従って全ての人間には神性が宿されていると主張する。その意味で人間は実に神そのものであり、ただそれが肉体という限りある器官を通じて顕現しているに過ぎないのだという」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「その神性、その偉大さを人間が悟り得ないのは肉体という物的器官によって感覚が鈍化されているからである。その肉体という被いが取り除かれた時、はじめて人間は自己の神性を悟り体験する事ができるのだというのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムではその神性において人間に一切の差異を認めない。全ての人間が神の分霊を宿しており、その原理においてみな平等であると主張する。全ては神の子であり“特に選ばれた神の子”というのは絶対にないのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「むろん、ある者が他の者より神性を多く発揮するという事は有得るが神性を宿しているという事実においては全ての人間は平等である。またその神性に高いも低いもなく、その他一切の差異差別はない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「“人間は生まれながらにして平等である”という言葉はよく誤解されるが、人間は真実生まれながらにして平等なのである。気質や知識、知恵、財産等においては各人みな差はあるが、神性の原理においては人類はみな平等なのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでも例えばイエスが神性を宿していた事を認めるが、我々一般の人間も神性を宿すのと同じ意味でそう認めるのである。現にイエス自身は自分が特別な神の生まれ変わりであるとは言っていないし自分でもそう信じていた訳ではない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「イエスは全ての人間が神の子であると教え人類は兄弟であると説いた。「いずれ諸君も私以上の業をなす日が来るであろう」と言ったその言葉の中にイエスが全ての人間に偉大さと神性が潜在している事を認めていたと理解する事ができる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「キリスト教は人類を罪悪視する事でイエスの神性を高揚せんとするが、イエス自身の真の喜びとする事ではなかろう。むしろ人類全体に神性を認め賛美し、イエスとの同質性に喜びを見出す方が真理を知る者の取るべき正しい道だと信じるのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムは来世の存在を説き地上生活を終えると人間は一段高い世界へ行きそこで地上と同じように個体として生活を続ける。死後の存続はスピリチュアリズムの中核をなす思想であり既に主観客観の両面、現象的、哲学的にも十分な根拠を備えた」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムの説は何と美しく合理的であろう。死は肉体という衣服を脱ぎ捨てる事であり、人間は一人の例外もなく地上時代の体験と記憶と性格を携えて霊体という新しい身体で新しい次元の生活を始めるというのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「この説が哲学的科学的に納得できれば人類にとってこれ以上の福音はない。人類は死の恐怖から完全に解放され死を不幸と見なくなる。身内や友人の死を嘆き悲しまなくなる。冷静に死を見つめ表面上の惨さ哀れさに捉われる事も無くなるであろう」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「死ぬのは肉体だけなのだ。その人自身、その人の魂は、より自由でより明るい世界へ旅立ったのだ。そう理解すれば、悲しむよりむしろ喜ぶのが正しいのだと悟れる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでは死後に存続するのは地上生活を送っていたその人そのものであり善性も邪性も全部そのまま携帯して行くと説く。死はその人の真の個性をいささかも変える事なく、肉体という外形が変化して霊体になるだけである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「その人自身、霊も精神も霊体も欠点も特性も個性も死の直前までと変わらない。この事からこの世における行為に対する因果応報は自然の因果律に則してその人の個性及び精神構造の中に留められているものについて行われるという事になる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「善行はその当然の報いとして地上時代と同様、霊性の向上という結果を生み、悪行は霊性の低さ不完全さの当然の結果として不幸あるいは苦痛という形での報いを受ける。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」この言葉は地上生活、死後の生活、ともに当てはまる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「そこには怒り狂った神が人間を待ち受け、裁きそして体罰を与えるといった子供だましの思想は微塵もない。罪を裁くのは他ならぬ自分自身の道義心であり、その裁きの結果が自動的に苦痛なり幸福感となって意識されるのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「道義心及び性格に刻み込まれた悪徳ほど人を裁くのに効果的なものはない。罪の意識とその罪に歪められた精神構造は必然的に善と幸福に満ちた霊達との接触を妨げ、似たような精神構造をした霊との交際を余儀なくさせる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「その状態は罪を悔い精神構造がより高いものを求めるようになるまで続く事になる。それが“界”の意味なのである。そこに固定した境界がある訳ではなく、似たような精神構造と霊格を具えた者が集まって、そこに一つの生活の場を構成する訳である」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「その一番高い界を天国と呼び、最下層を地獄と呼んでも差し支えないが、それはあくまでも霊的発達程度の両極端を示しているのであって、下層界は努力と反省と高級霊の援助によって、いつでも抜け出せる流動的な一つの“状態”にすぎないのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「下層界にいつまでも留まっている者は少ない。炎の中から燃えさしを引き出す様に地獄の中から次々と霊が引き上げられ代って地上から送られてきた新入の霊と入れ替わる。いつまでたっても救われぬほど程度の低い霊というのは決していないのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「“悪”というものは単なる“未完成”“不完全”の別名であり、その意味で宇宙には本質的に悪なるもの、罪なる者は存在しない。いわゆる悪も究極においては善の中に融合されていく。根っからの悪人がいないように、根っからの罪人もいない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間は過ちを犯す。神の法則に違反したという意味では罪だが決してその人の罪深き本性、悪の本性がそうさせたのではない。人間的未熟さと無知の結果である。修行と知識によってその原因が取り除かれれば必然的に悪も罪も取り除かれる訳である」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「キリストを救世主と信じる事によって自分の悪事に対する懲罰から免れて天国へ行けるなどという説はスピリチュアリズムからみれば全く意味のないドグマにすぎない。何を信じようが人間は全て霊界へ行くのである。それが自然の法則なのである」

現在3ページ目を描いてます。明日には線画完了、スキャンしてフォトショ上での作業に移ります。とにかくボケっとしているヒマなど1ミリたりともありません。強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を許すという選択肢はこの全宇宙に存在しません。なんとしても死刑にしなければならないのです(祈)†

今回はフラーのストーリーじゃないのにメチャ時間かかってます。こういう事ではいけません、ペース上げて一気に行きます。強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑、滅亡させるためにやらねばならない作業がまだまだ鬼のようにあります。絶対に決着をつけるのです、このままでは済まさない(祈)†

「スピリチュアリズムの真髄」より→「宇宙の原初は燃えさかる火の海であった。そしてその中から無数の太陽や太陽系の星が誕生し、あるものは今なお燃えさかりあるものは冷却していった。スピリチュアリズムでは全過程を通じて神の意志が働き、今なお宇宙を支えていると説く」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「神は無限、永遠であり時間と空間を超越する。時間も空間も神の内側、神のふところの中での存在形式であって神そのものを測る尺度ではない。あくまでも創造されたもの即ち現象界にのみ適用されるものであり創造主である神そのものにとって時空は実在ではない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「実在ではないという事は存在しないという事ではない。存在はするがそれに支配されないという意味である。つまり時空を超越しているという事である」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「神を無時間、無空間と考えてはいけない。それは神を虚無としてしまう事である。神は内部に現象的条件を設ける事によって時間と空間を抱えつつ、なおそれを超越した存在なのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「物的宇宙という現象との関係において、つまりその根源的創造力としては神にも有限の要素が出てくる。それはちょうど無限性を持つスピリットも人間の肉体に宿る事によって有限の要素が出てくるのと同じであろう」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでは物的宇宙は有限であり太陽系と同じく一定の限界と境界がありそれがいわば神の身体に相当すると説く。そうなると神も有限という事になる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「そうなると、同じく神と言っても不変絶対の「無の神」Divine Spiritと、宇宙という現象界に顕現している「顕の神」Divine Mindとを区別して考えねばならなくなる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「無の神は宇宙の背後、内面に遍在する実在そのものをさし、顕の神は無の神が静から動へ転じたもので時間と空間の要素の中で物的宇宙を支える法則として顕現している。時間と空間の条件下では神の働きも相対的となり無限でなくなる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「この事は人間を例にとれば明瞭となる。即ち神の分霊である人間は本質において無限の可能性を持っているが、これが肉体という物質器官に宿れば当然その活動は有限となる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「つまり無限絶対の静の神が宇宙という動の世界へ活動の中枢を無数に設けた、その一番小さいのが人間であり、一番大きく崇高なのが宇宙神で、これが宇宙を支えているからである」

【過去コメ】「スピリチュアリズムの真髄」の“神”についての項目に目を通してる時、僕の脳に強烈に霊力がキィィンって降ってくるのです「そこ重要!そこ正しく理解して!」みたいな感じだったのかも知れません。はい、もちろん正しく理解したいです。和訳された書籍の中でこの本はある意味最強かも

「スピリチュアリズムの真髄」より→「その宇宙が有限でどこかに中心があると考えるのは決して行き過ぎではない。というのは太陽系の組織構成を見ると宇宙もどこかに中心がある事を想像させるのである。何事も中心がなくては秩序ある活動は保てない」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「宇宙のあの秩序整然たる活動はどこかにある中心から指揮されているに相違ない。デービスも霊視能力による観察記録の中でハッキリと宇宙には中心があり、それは大太陽ともいえる巨大な物的太陽で、内奥に霊的な太陽即ち宇宙神の意識の中枢があると述べている」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「さらにその霊的太陽から物的大太陽が誕生し、その大太陽から他の全ての太陽系が誕生した。大太陽からの放射物が凝結してできたのであるが、数にして6個、それが大太陽を中心にして同心円を画いて回転しているという」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「わが太陽はその中の5番目の集団に属し、そのホンの一部が天の川として認められる。従って我々は物的大宇宙の外側近くに位置する事になる。6番目つまり一番外側の集団はまだ完全に凝結しきっておらず巨大な彗星状の星雲として虚空を回転しているという」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「推論の原則に従って考察すれば神とは何ぞや、そして又いずこに如何なる形で存在するかを理解する事は決して難しくない。神とはあらゆる物質、エッセンス、要素、原素が極限まで昇華された完全な統一体である」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「すなわち、あくまで清浄あくまで純粋、永遠にして無限、言語に絶する神々しさと不滅の輝きを具え、雄大でありながらしかも完全に調和がとれている。その中枢は果てしなき大宇宙の脳髄にも相当する、大宇宙の渦巻きの中心である」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「従って宇宙と宇宙神との関係は、人体と霊との関係と完全に一致する。霊が肉体という限られた器官の中で機能している如く、神は宇宙という広大無辺の器官を通じて機能しているのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間の感情や愛情、情緒、意志、知性などが脳髄によってその活動を意識される如く、神的属性、神的原理、全知全能の威力は、渦巻く大宇宙の感覚中枢脳に秘められているのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「全存在の根源であり宇宙に偏在する絶対的存在は、物的宇宙を外郭としてその中央に中枢を置き、そこを中心として星辰が荘厳と調和のうちに回転している」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「それこそがわれわれが神と呼ぶものであり、その属性は愛と叡智、それが人間界では男性と女性、積極性と消極性、創造性と持続性となって表現されているのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「様々な天体、太陽系、星雲等の見事な調和はそのまま神の表現である。大太陽はその内側にある霊的大太陽の表現であり、霊的大太陽は神の御心即ち愛の表現なのである。かくして霊的大太陽は全ての物的存在の中心であり根源なのである」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「物的宇宙は霊的宇宙の完璧な再現である。言い換えれば物的宇宙は創造的大霊の身体であり、その霊的要素が開闢して物的天体ともなったのである。その形体は正に神の秩序と叡智の表現である」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「霊的太陽の最初は光と愛として顕現した。人間の想像する光と愛を遥かに超える。それが空間そのものとなった。とは言え空間には限界がない。そしてそれは霊的大太陽の照明の拡張力を超えるものではない。宇宙が顕現を完了した時秩序と形式が絶対的に支配した」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「これぞ霊的太陽の荘厳にして限りを知らぬ威力。それが物的太陽を生みそして宇宙を生んだ。故に無数の星辰の遥か彼方の何処かで生命と活動の心臓部が脈打っているのだ。その脈拍が全ての惑星的存在にまで届く。その心臓部こそ神であり、全存在の中心なのだ」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「神は無論全てに宿り給う。が宇宙の霊的大太陽により強く顕現し給う。そこはいわば神の身体であり、そこに完全に神が表現されているのだ。それは人体が内部の魂の完全なる表現体であるのと軌を一にする」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「かくして宇宙神が宇宙の霊魂であり、その宇宙に時間と空間という制限があるとなれば、既に述べたように宇宙神として顕現している神にも、宇宙という物的条件によってその活動におのずと制約が生じる事になる」

「スピリチュアリズムの真髄」より→「むろん宇宙の内奥には宇宙を超越した絶対無の神が存在する。その意味での神はむろん無限であり無始無終である。がそれが宇宙として顕現しその大中心を中枢脳として創造と進化の活動に入った瞬間から有限になったのである」

今回の短いストーリーは「フラーデッキ」 wp.me/pa9cvW-1Sz が舞台です。フラーデッキは絵として描く時、一言「混沌」です笑。植物園でありお花畑であり動物園でありフラー格納庫でもあります、全部入りのグチャグチャなんですね。とはいえそこまで詳細には描きませんが、そういうストーリーではありませんので。とにかく急ぎましょう、フラー13の新規デザイン、そしてまだ皆さまにお話していない新たなデザインをやります。以前からアイデアにはあったものでついにデザインに着手します。全ての作業が強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑、滅亡させるための作業である事をご理解頂けると幸いです(祈)†

2020年7月5日

何度もしつこくて申し訳ありませんが、アナログ絵123をご覧頂きたいと思うのです。この絵は僕が想像で適当に描いた絵ではなく、守護霊様の導きの威力によって得る事ができた「霊的知識」に基いて描いたものです。イエス様、守護霊様はじめ霊界上層界の高級霊の方々には僕たち地上人の心の中が丸見えでありプライバシーは存在しないという事、これはシルバーバーチ霊も書籍の中で何度も語っている事です。つまり物質界の人間は肉体という鈍重な牢獄に閉じ込められているために霊の能力を全くと言っていいほど認識できず自ら行使する事もできないために、悪の洗脳にあっさりコロッとやられてしまう訳ですが、霊界の方々の目にはその悪人どもの心の中のたくらみが全部見えている訳ですから、その邪悪を滅ぼすための作戦を簡単に作成する事ができるのです。

しかし、しかし、その作戦(ブループリント)を実行に移すための「霊の道具」を物質界に見出すのが、これが本当に至難の業なのです。この部分に関しては「シルバーバーチの霊訓」等をどうしても熟読して頂きたいと願うばかりですが、「ホント長くて、長かったよ」 wp.me/pa9cvW-1Zk の霊団の言葉にもありますように、霊界側は強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑、滅亡させるブループリントを簡単に作成できますが、それを物質界において実行させる事ができずにここまで長い時間がかかってしまっていたという事です。えー今ブログのタイトルに冠しました「完全を実行しています」は、霊団が「我々の導きは完全だ」と仰っているという事になり、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡の実現に絶対の自信を持っているという言葉と言えますが、僕から霊団に絶対的に念押しせねばならないのは「発言に責任をもて」という事です。そう言うからには物的結果を出せ、奴隷の女の子たちの救出を完全に完了させることろまで仕事をやり切れ、この「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を完全に死刑、消滅させることろまで責任を果たし切れ、そうシャウトせずにはいられないのです。

「完全を実行しています」この霊団のメセが、強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑、滅亡させるための完全なる計画が実行中で、しかもほぼ導きは終了し9割方ゴールに到達しているという事を皆さまにご理解頂きたい事しきりです。とにかく明仁、文仁、徳仁、悠仁がメディアを駆使して長年にわたり自分たちが善人であると国民を洗脳し続けてきた事、その裏で女の子の赤ちゃんを盗み続け邸内地下に閉じ込めてレイプの限りを尽くし「処刑遊び」 wp.me/Pa9cvW-tV 「切断死体の撮影」 wp.me/Pa9cvW-qD にありますように、奴隷の女の子たちがオトナになる前に四肢切断、強姦殺人して死肉を食べまくって遊んでいるイルミナティのトップであり「地球ワースト1」この物質界で最も邪悪な人間であるという真実の正体を、日々メディアから流されてくる視点外しの雑多なニュースに断じて翻弄される事なくご理解頂かねばなりません。皆さまはいつまで洗脳にコロっとダマされ続けますか。ピーチピチ(佳子)の背中を押すのは今です。「宇宙一のバカ」明仁、文仁、徳仁、悠仁を確実に血祭りにあげ奴隷の女の子たちを救出してあげましょう(祈)†

[ditty_news_ticker id="7848″]

www.youtube.com/watch?v=QqJPejYHS_I&t=56s

ピーチピチ(佳子)(ピーチピチは文仁、紀子と全く血が繋がっていない赤の他人です)
wp.me/Pa9cvW-1uK
神(強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡を“神”に祈ります)
wp.me/Pa9cvW-1Ri
切断死体の撮影(明仁、文仁、徳仁、悠仁が奴隷の女の子を遊び殺す様子です)
wp.me/Pa9cvW-qD
僕(ちょっとした自己紹介です)
wp.me/Pa9cvW-qH
暗殺(徳仁はポリーチェPOLICEに命令して僕の暗殺を何度も画策しているのです)
wp.me/Pa9cvW-1vQ
コイツら死刑(明仁、文仁、徳仁、悠仁の未来は死刑以外に有り得ないのです)
wp.me/Pa9cvW-2
放火(徳仁は僕の放火暗殺を何度も画策しているのです)
wp.me/Pa9cvW-1WG
処刑遊び(明仁、文仁、徳仁、悠仁は奴隷の女の子を遊びで強姦殺人するのです)
wp.me/Pa9cvW-tV
Dreamwork(僕の生涯の夢のお話です)
wp.me/Pa9cvW-u7
画家作品(こういう絵を描いてたんです)
wp.me/Pa9cvW-15V
葛飾北斎の墓(画家時代の決意表明の様子です)
wp.me/Pa9cvW-16v
山駆けるヒカリ(画家時代に書こうとしていた小説です)
wp.me/Pa9cvW-18V
フラー(お花ちゃんが宇宙を飛んでロボに変形します)
wp.me/Pa9cvW-1s3
アナログ絵(現在271まで完成中)
wp.me/Pa9cvW-1Nu
霊関連書籍(人類の宝、珠玉の書籍群をぜひお手元に)
wp.me/Pa9cvW-1P1