「スピリチュアリズムの真髄」より→「その宇宙が有限でどこかに中心があると考えるのは決して行き過ぎではない。というのは太陽系の組織構成を見ると宇宙もどこかに中心がある事を想像させるのである。何事も中心がなくては秩序ある活動は保てない」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「宇宙のあの秩序整然たる活動はどこかにある中心から指揮されているに相違ない。デービスも霊視能力による観察記録の中でハッキリと宇宙には中心があり、それは大太陽ともいえる巨大な物的太陽で、内奥に霊的な太陽即ち宇宙神の意識の中枢があると述べている」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「さらにその霊的太陽から物的大太陽が誕生し、その大太陽から他の全ての太陽系が誕生した。大太陽からの放射物が凝結してできたのであるが、数にして6個、それが大太陽を中心にして同心円を画いて回転しているという」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「わが太陽はその中の5番目の集団に属し、そのホンの一部が天の川として認められる。従って我々は物的大宇宙の外側近くに位置する事になる。6番目つまり一番外側の集団はまだ完全に凝結しきっておらず巨大な彗星状の星雲として虚空を回転しているという」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「推論の原則に従って考察すれば神とは何ぞや、そして又いずこに如何なる形で存在するかを理解する事は決して難しくない。神とはあらゆる物質、エッセンス、要素、原素が極限まで昇華された完全な統一体である」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「すなわち、あくまで清浄あくまで純粋、永遠にして無限、言語に絶する神々しさと不滅の輝きを具え、雄大でありながらしかも完全に調和がとれている。その中枢は果てしなき大宇宙の脳髄にも相当する、大宇宙の渦巻きの中心である」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「従って宇宙と宇宙神との関係は、人体と霊との関係と完全に一致する。霊が肉体という限られた器官の中で機能している如く、神は宇宙という広大無辺の器官を通じて機能しているのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「人間の感情や愛情、情緒、意志、知性などが脳髄によってその活動を意識される如く、神的属性、神的原理、全知全能の威力は、渦巻く大宇宙の感覚中枢脳に秘められているのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「全存在の根源であり宇宙に偏在する絶対的存在は、物的宇宙を外郭としてその中央に中枢を置き、そこを中心として星辰が荘厳と調和のうちに回転している」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「それこそがわれわれが神と呼ぶものであり、その属性は愛と叡智、それが人間界では男性と女性、積極性と消極性、創造性と持続性となって表現されているのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「様々な天体、太陽系、星雲等の見事な調和はそのまま神の表現である。大太陽はその内側にある霊的大太陽の表現であり、霊的大太陽は神の御心即ち愛の表現なのである。かくして霊的大太陽は全ての物的存在の中心であり根源なのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「物的宇宙は霊的宇宙の完璧な再現である。言い換えれば物的宇宙は創造的大霊の身体であり、その霊的要素が開闢して物的天体ともなったのである。その形体は正に神の秩序と叡智の表現である」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「霊的太陽の最初は光と愛として顕現した。人間の想像する光と愛を遥かに超える。それが空間そのものとなった。とは言え空間には限界がない。そしてそれは霊的大太陽の照明の拡張力を超えるものではない。宇宙が顕現を完了した時秩序と形式が絶対的に支配した」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「これぞ霊的太陽の荘厳にして限りを知らぬ威力。それが物的太陽を生みそして宇宙を生んだ。故に無数の星辰の遥か彼方の何処かで生命と活動の心臓部が脈打っているのだ。その脈拍が全ての惑星的存在にまで届く。その心臓部こそ神であり、全存在の中心なのだ」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神は無論全てに宿り給う。が宇宙の霊的大太陽により強く顕現し給う。そこはいわば神の身体であり、そこに完全に神が表現されているのだ。それは人体が内部の魂の完全なる表現体であるのと軌を一にする」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「かくして宇宙神が宇宙の霊魂であり、その宇宙に時間と空間という制限があるとなれば、既に述べたように宇宙神として顕現している神にも、宇宙という物的条件によってその活動におのずと制約が生じる事になる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「むろん宇宙の内奥には宇宙を超越した絶対無の神が存在する。その意味での神はむろん無限であり無始無終である。がそれが宇宙として顕現しその大中心を中枢脳として創造と進化の活動に入った瞬間から有限になったのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「そもそも私が神の存在を云々する時は宇宙という相対世界を支配する中枢すなわち宇宙の脳髄の事を言っているのである。そして神にもし個性的意識が無いとしたら、存在というものを意識する事は不可能なはずである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「我々人間が自分の存在を認識できるのは他の存在との対比と相違があるからである。あなたが自分の個性的存在を意識できるのは自分というものを自分を取りまく無数の個的存在と比較できるからである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神も同じである。無限絶対の神でもそれだけでは存在は意識できない。相対的存在の世界があってこそ絶対的存在が意識され体験されるのである。従って神は顕幽両界のあらゆる存在に内在している」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「それはちょうど人間の霊が全ての骨、筋肉、神経、粘膜、繊維、体液等々ありとあらゆるものに染み渡っているのと同じである。がしかし、どこに一番自我意識を意識するかといえば、手でもない、足でもない、やはり頭である。神も同じである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神は宇宙のすみずみまで行き渡っている。植物にも動物にも人間にも、そして日、月、星辰にも存在する。が神自身も自意識を一番強く意識する場所がある。それが宇宙の脳髄に相当する部分だというのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「神にも有限性と人間性があるという概念は、当然、神というものが人間生活と無縁の存在ではなく何らかの形で結ばれているのだという理論を生む。そしてそこから神は“天にましますわれらが父”であり宇宙の支配者であるという思想が出てくる」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムでは人間は神の分霊を受けて生まれ、従って全ての人間には神性が宿されていると主張する。その意味で人間は実に神そのものであり、ただそれが肉体という限りある器官を通じて顕現しているに過ぎないのだという」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「その神性、その偉大さを人間が悟り得ないのは肉体という物的器官によって感覚が鈍化されているからである。その肉体という被いが取り除かれた時、はじめて人間は自己の神性を悟り体験する事ができるのだというのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「スピリチュアリズムではその神性において人間に一切の差異を認めない。全ての人間が神の分霊を宿しており、その原理においてみな平等であると主張する。全ては神の子であり“特に選ばれた神の子”というのは絶対にないのである」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「むろん、ある者が他の者より神性を多く発揮するという事は有得るが神性を宿しているという事実においては全ての人間は平等である。またその神性に高いも低いもなく、その他一切の差異差別はない」
「スピリチュアリズムの真髄」より→「“人間は生まれながらにして平等である”という言葉はよく誤解されるが、人間は真実生まれながらにして平等なのである。気質や知識、知恵、財産等においては各人みな差はあるが、神性の原理においては人類はみな平等なのである」
■2021年7月7日UP■「これから起こる事の大変さに比べれば」現在の僕の苦しみなど取るに足らないという意味です(祈)†実はバーバネル氏が1回だけ僕の肉の口を使って言葉を発した事があるのです。なぜ過去ブログでその事を書いていないのか、それは書きたくなかったからです。なぜならその時、僕は事情があって大泣きしていたのです。2014年1月だったかな。僕はあふれる涙を抑える事ができず号泣していました。その時です。僕の口から、思ってもいない、考えてもいない一言が飛び出したのです。最初はなぜ自分がそんな事を言ったのか理解できませんでしたが「あ!バーバネル氏が僕の肉の口を使って言わせたんだな!誰がそんな事言いたいって言った!チクショー!」と気付いて、それがショックでさらに号泣した、という事が1度だけあったのです。つまりバーバネル氏はたった1回ではあるものの僕の肉の口を使って日本語を発声する練習はしているという事になるのです…続きを読む→ ■2021年9月3日UP■「いい加減にしてくれジャマ」これはキリスト教の2000年の呪いという意味ではないでしょうか(祈)†インスピレーション「いい加減にしてくれジャマ」の説明に戻ってみましょう。これはつまり霊界サイドは物質界に正しい霊的知識を普及させようとして、それこそ2000年前のイエス様の犠牲の降誕の時からイヤそれ以前からずっと仕事をしている訳ですが、キリスト教という呪いが物質界に蔓延してしまった事で霊的知識普及の大事業が遅れに遅らされてしまった。それを受けての霊界高級霊の方々の「我々には成すべき仕事が山のようにあるんだよ、そろそろジャマも本気でいい加減にしてくれ」という意味が込められているのではないかと僕は思ったのです…続きを読む→ ■2021年9月11日UP■「イエス様を最大の信奉とせず」これはスピリチュアリズム底流の大原則です(祈)†これまで人類はイエス様はじめ世界中の宗教の創始者等を超人的ポジションに祭り上げおかしなラベル、呼び名を付けてその人物やラベルばかりを崇めて肝心の霊的知識つまり中身をなおざりにしてきました「キリスト教の2000年の長きに亘る人類の呪い」がまさにその典型であり、その失敗を2度と繰り返さないために霊界側は「スピリチュアリズム」を勃興させ、人々の関心の対象を「人物やラベル」から「霊的知識そのもの」へとシフトさせたという事。もし霊団側が僕という霊の道具を使用して霊的知識普及の仕事をする事があるのであれば、僕という霊媒から降る霊言は今回のインスピレーション「イエス様を最大の信奉とせず」にありますようにイエス様に注目を集めさせるのではなく霊的知識そのものに関心を集めさせるという意味…続きを読む→