数年前、私は『死とは何か – 悩める人へのガイドブック』という短い記事を書いたことがある。長年の治療体験から、人間が「死」についてあまりに間違った観念を抱いていることを痛感していたので、それを簡潔にまとめたものだった。
それを第1章で紹介した私の恩人であるモーリス・パーパネル氏のもとに送った。短いものではあるが、1度に出す記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバネル氏の返答は簡潔にして明快であった。氏の編集している心霊誌の連載記事を全部休んで、私の記事を一挙に掲載したのだった。
これにはすごい反響があり、抜き刷り(リプリント)の要求が次々と来た。はじめのうち丁寧に応じていた出版社も、あまりの多さに手を焼き、それを24ページほどの小冊子として出版した。その時バーバネル氏による次のような「まえがき」をいただいた。
死とは何か – これがわからないようでは人生の意味を理解したとは言えない。この小冊子はその生と死の全体像を見事に明らかにしている。原稿に目を通した私はさっそく著者に賛辞を送った。長年の編集者としての経験から、こうした心霊問題を簡潔でコクのある生き生きとした文章で無駄なく描写することの難しさを熟知している。そのたいへんな仕事をテスター氏は見事にやってのけてくれたからだ。
小冊子とは言え、著者は長年にわたる世界の宗教の比較研究の成果をこれに注ぎ込んでいる。そもそも氏をその研究に駆り立てたのは、キリスト教神学のお粗末きわまる教義に満足しきれなかったことで、結局著者の知性がそれを容認できなかったということである。
深い洞察力と鋭敏な感受性の持主であるテスター氏は、この道に入る以前も、専門的知識はもちろん豊かな才能と鋭い知性を必要とする仕事で成功の道を歩んでおられた。それが思わぬ病魔によって廃業の危機に瀕した。英国一流の専門医も始めてというほどの重症の腰椎ヘルニアで激痛との闘いの毎日となったのである。
それが心霊治療家フリッカー氏のたった1回の手当てで全快し、専門医から“絶対必要だが成功の保証はできない”と宣告されていた手術も避けられた。その奇蹟の体験のあと、フリッカー氏から治療能力があることを教えられ、その後急速にその能力が開発されて今日なお治療の毎日を送っておられる。
かくして運命の紡ぎ車がまわり、治された患者が治す側にまわった。この事実は、霊的エネルギーが聖書の時代と同じく今日もなおこの世に顕現しつつあることを物語っている。テスター氏にとってはそれが日常茶飯事となっている。面会依頼の電話があっても、その要件が本職のコンサルタントとしてなのか治療家としてなのか、直接会うまではわからないと、氏は笑いながら語っていた。
人生の暗闇の中で苦しみつつ生きている人々に救いの手を差しのべる人として、テスター氏はうってつけの人である。氏みずからが激痛と煩悶と不信の嵐の中をくぐり抜けた人だからだ。
この小冊子は米国でも出版され、今なお両国でよく売れている。その根強い需要が何を意味するかは容易に察しがつく。われわれは、よく「もしも私が死んだら」という言い方をする。この“もしも”という言い方が現実にそぐわないことは誰もが知っている。
“もしも”ではなく“かならず“死ぬのである。死は例外なく全ての人に訪れる。なのに死についての権威ある解説書は1冊もない。その辺に私の小冊子がよく出る理由がある。
今かりに大きな図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されるとよい。そこには出産についての書物がところ狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。われわれ門外漢 – 門外婦人と言うべきか – のための本も大変な数である。
それに加えて最近では至るところで婦人のための講演会があり、テレビ番組がある。人間の誕生については驚くべき段階まで進んでいるといえる。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。
さて無事出産の過程をへてこの世に出てくると、こんどはいかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく目にも見せてくれる。生理学についての本は無数にあり、食事や運動、その他、健康管理全般にまで及んでいる。
スリムになりたい人、豊かなバストになりたい人、あるいは円満な夫婦生活の秘訣を知りたい人は、それぞれの分野の専門書を簡単に手に入れることが出来る。
人生に関する書物も同じように十分揃っている。とくにこの10年ばかりは如何に生きるべきか、幸福になるにはどうすればよいか、金を貯める秘訣は何か、といったことについての指南書が洪水のように出版されている。
地球を破壊するか、それとも物欲と快楽の場にするかに躍気になっているかに思える今の時代に、こうしたとかく無視されがちな問題を扱う本が続々と出ていることは注目に値することではある。
もっとも“どう生きればいいか”についての本は文字というものが生まれた頭初からあった。ただそれは“人生哲学”と呼ばれて、大体において宗教家か学者の専売特許とされていた。
そのほかにも、たとえば聖書(バイブル)などが一種の道しるべとして、模範とすべき人物や説話がそこから引用されてきた。かつてはそれが牧師や一家の父親がお説教の材料として使用された時代があった。
このように、出産についての心がけから、その後の生き方についての知識だけは十分に揃っている。が、いかにして死を迎えるべきかについての本は1冊もない。
もちろん死を主題とした話は多くの人が書いている。が、それらも分類すると2つに分けられる。1つはロマンチックに死を見つめる詩的人間で、死を悲しむ情で書く。いかに死を見つめるかを説くのではない。死に直面した人間の生への惜別の言葉にすぎない。
もう1つは例の神学者だ。彼らは伝統的信仰をバックにして死を説こうとするために、その教説は“しどろもどろ”で、何を言わんとしているのかよくわからない。
たいていの宗教、特に西洋の宗教は徹底した勧善懲悪説に基いているために、その論法は現実と矛盾したものにならざるを得ない。すなわち善いことをすれば – 教義に忠実に生きておれば – 幸福になり、悪いことをすれば – 教義からはずれたことをすると不幸になるというのであるが、実際にはまじめに教義に則(のっと)って生きている人がみじめな死に方をし、好きに生きている人が裕福で楽しい生活をエンジョイしている。
そこで彼らは、神の賞罰は死んだ後に与えられるのだと言い変える。善いことをしておれば天国へ行き、悪いことをすると地獄へ送られる、と。こんな子供だましの論法から、死についてまともな説が出るはずがない。
賞と罰、言いかえれば天国と地獄の説でしか生と死を説けないのだ。私に言わせれば、彼らは死をテーマにして頭の体操をしているにすぎない。そこから混乱が生じても別に不思議はない。
ほかにもう1つ問題がある。私は本を読んでいていつも感じるのであるが、本当によくわかった人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実にわかりやすいのである。
が、よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で勝手に用語をこしらえるので、ふだん理解している意味で読んでいくと理解できないところが出てくる。読み終ってみると、読み始める前よりもいっそうわからなくなっている、といったことになる。
死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が1度も死を体験したことがないということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。
これでは平凡人が死について迷うのも無理はない。年を取り、死が近づいてくると、おくればせながら何か“死後の保証”のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそと教会へ通いはじめるのもそのあらわれである。慈善事業に寄付したりするのもそのためである。
そして、いいおじいちゃん、いいおばあちゃんと言われるように努力しはじめる。それもこれも、6、70年にわたって人の迷惑も考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうしたわずか2、3年あるいは数年の“殊勝な行い”によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。
ある保険の外交員が言っていたことだが、見たところ迷信など信じそうにない教養ある人が死ぬ間際になるとカトリックの牧師を呼ぶケースがよくあるのも、別に不思議はないと言う。
洗礼を受け、信徒となり、罪を告白し、最後の聖油を注いでもらう(死の床でのカトリックの儀式)のは別に努力のいることではないし、費用もほとんどかからない。それだけで天国への約束が得られるのであるから、「いちばん安価な保険ですよ、まったく」とその外交員が言っていた。
もうそろそろ死への手引書があってもよい時代である。それも、お座なりの宗教的教説にしばられず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間つまり霊界のスピリットによって書かれた死の参考書が必要なのである。
“死ぬ”ということは“生きる”ということとまったく同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日1日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければ行かなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身でいたければそれでもよい。が死だけはそうはいかない。かならず通過しなければならない重大な関門である。ならば本書を読まれたことは決して無駄ではないであろう。
そこで、あなたがまず第1に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死について教え込まれてきた先入観を一切合切洗い落とすことである。
天国も地獄も忘れよう。天国へ行くとハープを弾きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたりいじめられたりするとか、そんな子供だましの観念を拭い去ってしまおう。
さらに“最後の審判”の教えも忘れてしまおう。要するに聖典教典の類いを忘れてしまうのである。そして死というものを1度も考えたことのない自分に戻ってみるのである。つまり赤ん坊の時代に戻るのである。さらにこんどはその前つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そしてさらにその前の、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。そして更に…。
こうして原初に立ち帰るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く、しゃべる、歌う、車を運転する、が肉体そのものがそうしているのではない。そうさせる何かが内部にある。
その何かが“精神”である。ではその精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。精神は肉体を操るコントロールルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発している。
脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な器官である。まさしくコンピューターと言えよう。が、どこの医学校でもその脳を取り出してビンの中で保存している。やはり脳も身体の一部にすぎないことがこれでわかる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それをよろこんで買って食べる人もいるわけだ。
実はこうしたものとは全く別に第3の要素があって、それが肉体と精神とともに、あなたという1個の人間を構成しているのである。その第3の要素がスピリットである。スピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神をまとって生活しているのである。
ではその証拠を見せてくれ – あなたはそうおっしゃるかも知れない。スピリットを見せろとおっしゃるかも知れない。が、スピリットは残念ながら人間の目には見えないのである。ここに1人の人間がいる。衣服をはぎ取れば肉体が見える。頭にドリルで穴をあければ脳味噌が見える。がスピリットはどこにも見えない。
死体をごらんになったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうそこにはその人はいない。ただの脱け殻。肉と骨と繊維のかたまりにすぎない。放っておくとすぐに腐敗が始まるので、穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。
死体がその人そのものだったのだろうか。その肉のかたまりが愛し、よろこび、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、想像力を働かせ、理論を立て、異性に求愛したのだろうか。誰にもそうは思えない。何か大切なものが失くなっている。つまりスピリットが脱けているのである。つまりその肉体が死んだのである。
人間は肉体と精神とスピリットの3つの要素から出来あがっている。そのことをしっかりと認識していただきたい。この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、1個の生命体としての存在を与えているスピリット、この3つである。
死に際して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。“自分”は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたという存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質を通して6、70年あるいは8、90年の地上生活を自分で表現している。そのスピリットこそあなたなのである。
■2022年5月18日UP■「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†とにかく理不尽のレベルがタダ事ではない。努力すればするほどヒドイ状況にさせられていく。どれくらいのレベルの不自由な肉体をまとわされるのかは分かりませんが、義肢、義足ですからもちろん日常生活に支障が出るレベルでしょう。当然絵も描けない、そもそも絵の才能を剥奪され、現世での努力を全く無に帰せられる。そして使命遂行上必要と思われるテキスト撃ち、情報拡散等々の作業も満足にできない、そういう肉体をまとわされての再降下になるのかも知れません…続きを読む→ ■2022年5月11日UP■「進化が足りない」物質界の苦難の存在理由を僕は理解できていないという意味です(祈)†物質界で味わった苦しい思いは、帰幽後に霊界で存分にその埋め合わせが用意されており、苦難から逃げずに立ち向かった者には霊的褒章が、苦難から逃げて物的享楽に走った者には幽界下層界での反省の人生が待ち受けています。さらに同胞(他人)を虐げて(肉体的精神的に傷つけて)私腹を肥やした人間には暗黒、地獄とも表現できる低い境涯にて永遠とも思える長い年月にわたる大変キビシイ未来が待ち受けています…続きを読む→ ■2022年5月4日UP■「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†僕が本当にこういうヒドイ状況にさせられても全く誰の目も開かないというのか。誰ひとりとして真実に目覚めないというのか。僕の人生がこれだけ破壊されても日本国民の洗脳が1ミリたりとも破られないというのか。物質界はここまで腐りきっているのか。この期に及んでもまだ「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を陛下だの殿下だのと呼び続け笑顔で手を振り続け、奴隷の女の子を強姦殺人する手助けを続けるつもりなのか。「無知ほどこわいものはない」この言葉に帰着します…続きを読む→