WordPress霊関連書籍ヘッダーイエスの少年時代Amazon

現在「イエスの少年時代」校正刷り再注文中ですが、この書籍の復刊が実現するとしても15年後となります。その絶望的書籍の復刊者コメントを(復刊されなければ読まれずじまいとなってしまいますので)WordPressにUPする事とします。コチラです↓

復刊者コメント

「イエスの少年時代」「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」この3冊は霊界通信の中でも特別な意味を持つ書籍群だと思いますので「物質界から消滅させてはいけない」「何としても復刊させなければ」と思っていました。ようやくこのようにカタチにする事ができました。本当に長い道のりでしたが…。

※このコメント執筆時点で2024年5月、復刊実現は2039年の予定です。

では、この書籍の中で僕が特にお話したい章として「18 最初の受難」「35 自然を我が家に」「41 慈悲の父ヨセフ」「48 汚れた町の塵を足から払い落とす時」この4つを取り上げさせて頂きます。

まず「18 最初の受難」これは本当にヒドイお話ですが、この内容を読んで僕が真っ先に思いつく言葉は「洗脳」および「脅迫」です。律法学者は知恵のある学者で尊敬できる人なんだ、だから律法学者の言う事なら間違いないんだと、当時の人間たちは何の疑いもなく妄信していた(させられていた)のです。

遥か太古はこのように洗脳、脅迫が横行していましたが21世紀の現代はこのような古代の蛮行はすっかり消滅している、と言いたいところなのですがイヤイヤ、まるっきり残されています。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁がまさに古代の遺物であり洗脳の権化と言っていいでしょう。

コイツらは邸内地下に奴隷の女の子を大勢閉じ込めて「処刑遊び」と称して日常的に四肢切断、強姦殺人し、死肉を食べて遊んでいる人類史上最大級の犯罪者です。しかしいったい日本のどこからコイツらの犯罪行為を糾弾する声が上がっているでしょうか。国を挙げて国民を洗脳し事実を隠ぺいしているのです。

僕たちはコイツらに関するニュースを見たいなどとはひとことも言ってない、しかし日々メディアにコイツらに関する洗脳ニュースが徹底的に、ガンガン流されてきて強制的に見せられて、その洗脳ニュースに日本国民の大半がすっかりやられてしまっており、この強姦殺人魔どもを善人と完全に勘違いさせられながら生活しています。

コイツらの邪悪の正体を公言しようものならたちまち変人扱いを受け、過去そのような勇気ある行為に出た勇者の方々は投獄されたり暗殺されたりしてきたのです。物質界はずっとこの邪悪の歴史の繰り返しですよね。本当に頭にきます。

僕も霊性発現(2012年6月)以来、霊団の導きを受けて天皇一族の邪悪の正体を公言する活動を続けてきましたが、断じて鼻歌まじりの年月ではありませんでした。何度も暗殺の危機に直面させられながら、そのつど霊団の保護を受けてピンチを回避しつつ使命遂行を続けてきたのです。

少年期のイエス様も正しいおこないをして大いに変人扱いを受けていました。(成年期にそれが極みに達して磔刑“はりつけ”にされる訳ですが…)当時の洗脳と脅迫の悪辣の程度は現代の比ではなかったでしょうから、イエス様の受けた精神的ダメージは相当のものだったでしょう。

このイエス様の勇気あるおこないを僕たちは見習って、現代の邪悪「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳と脅迫を撃ち破り、滅亡に追い込まねばなりません。現在僕に付いて下さっているのは「100の光の霊団」と言いまして、過去、一死奉公を遂げた方々が多数メンバーに含まれているのだそうです。その方々が僕にこういうムチャクチャな霊的仕事をやらせているのです。

※が、しかし霊団はもう全然やる気がないようなのです。僕にこの仕事をやらせたのはあんたたちだろう、やらせておいてやる気ゼロとは一体どういう事なんだ。宇宙最大級に首を傾げます。(危険回避という事のようですが僕的には釈然としません)これは2024年5月時点のお話です。この書籍の復刊が実現した時には状況が変わっている事を信じたいですが。

続いて「35 自然を我が家に」ですが、この中で夜明けに小屋を発見した時のイエス様の「孤独な生活ほど此の世で素晴らしいものはないと思った」の一文が僕は大好きなのです。

これは霊的活動をする人間にとって大切な意味が込められていまして「霊力に感応するには隔絶が必要」という事を言っているのです。インスピレーションを受け取れるようになるためには人々の喧騒から離れなければなりません。しかしだいたいの人は孤独を恐れ、ひとりでいる事を毛嫌いして人の集まる所へ赴こうとします。

しかしそうしている限り霊的な事は感知できません。自身の背後霊とやりとりするためにはひとりにならねばなりません。静寂に身を浸さねばなりません。僕はもうだいぶ長い年月にわたって山での修行を続けています。もちろん単独行です。誰かと組んで山に入った事は1度もありません。

その山での修行によって霊性発現に到達した経験がありますので、このイエス様のセリフは身に染みてよく分かるのです。他人との良好な関係を維持する「コミュニケーション能力」はとても重要ですが、しかし時にはひとりの静寂の時間を大事にして頂きたいと思うのです。

本人はそうだと気付かなくても、そうやってひとりで心を静かにしている時に限って「良いひらめき」が湧いてきたりするものです。それがあなたの守護霊からのインスピレーションなのです。あなたはその時、自分のチカラで良い考えを思いついたと考えるでしょう。イエイエそうではありません、人間とはインスピレーション受信器でしかありません。そのアイデアはあなたの守護霊が教えてくれているのです。

シルバーバーチ霊も「人間の人生の目的は霊性の発現を促す事です」みたいな事を確か仰っていました。物的な事のみに終始し霊的な事に1ミリも興味関心を抱く事なく物質界人生を終えた人は「物質界人生失敗」と言えるでしょう。霊性発現までは到達できないとしても最低限の霊的知識は獲得した状態で帰幽しなければ、帰幽後の霊界人生で大変な後悔をする事になるからです。

まぁ僕みたいに極端な単独行まではしなくても、ぜひ皆さまも「ひとりの静かな瞑想の時間」を持って頂きたいと思うのです。そうする事によってあなたの守護霊を大いに助ける事になり、あなた自身も導きによって助けられる事になるのです。

えー「41 慈悲の父ヨセフ」このストーリーですごく語りたい事がありまして、この中でイエス様が荒野を9日間さまよって全く家に帰ってこなかったというエピソードが紹介されていますが、イエス様が荒野をさすらった理由は書籍内で説明されていません。

しかし僕は猛烈強烈にこう思うのです「イエス様は“ヘリ”を追いかけて荒野をさまよったんだ。荒野でヘリを見つけて、そのままヘリについていくつもりだった、もう家には帰らないつもりだった」という事です。

しかし、これも書籍にそのような記述はありませんので詳細は分からないのですが、ヘリを探して荒野を進み続けているイエス様に霊団(イエス様の霊団は1度も物質界に降下した事のない天使たちによって構成された霊団だったそうです)が「そろそろ戻りなさい」とそっと注意し、イエス様は空腹と疲労、ヘリを見つけられない絶望感もあって仕方なく霊団の言う通りに家に戻った、という事なのではないか。僕はスゴクそう思うのです。(霊団がヘリを見つけられないようなルートを歩かせた、という事もあるかも知れません)

イエス様が普段霊団と話している霊的内容は、当時の人間たちに全く理解されませんでしたから(現在も理解されないのかな)エルサレムの神殿で老パリサイ人シケム等のラビたちを前に語っていた時も、関心はされたが真の霊的意味は理解されなかったのではないでしょうか。シケムのイエス様への返答は徹頭徹尾物的返答ですからね。

そんな中にあって“ヘリ”だけはど真ん中で霊的お話ができる数少ない理解者だった。少年期のイエス様にとってヘリは父のような、兄のような存在だったのではないか、僕はそう思ったりするのです。ヘリのおかげで心霊治療能力を開発できたという事もありますし、信頼し慕うのが当然でしょう。

自分の話がまるっきり理解されない場所で、明けても暮れても実の父および兄弟たちからイジメ嫌がらせを受ける、そんなところに残っていたいなどと思う訳がありませんからね。山の羊飼いになって家を出ようとしたりもしてましたよね。家を離れたくてしょうがなかったという事だと僕は思うのです。

砂漠でも、砂漠でなく異国でも、どこでもいいからヘリについていくつもりだった、家を出るつもりだった、僕はそう予測するのです。

※先ほど霊団が「違う」と霊聴に言ってきました。僕のこの予測は間違っているそうです、あぁそぉぉですか、それは失礼致しましたね。一応「僕の小我の考え」という事で書き残しておく事にします。

最後に「48 汚れた町の塵を足から払い落とす時」ですが、この中でイエス様はいよいよ窮地に追い詰められます。実の母マリヤも含めた家族全員からつまはじきにされ、エルサレムにひとりで出稼ぎに行かされる寸前まで追い詰められてイエス様は下を向いてしょぼんとしています。

そこに突如ヘリが口笛を吹きながらやってきて助けてくれる、僕はこのシーンが大好きなのです。イエス様の救助の思念が異国生活中のヘリにしっかり届いていて、はるばる助けに来てくれる、すばらしいストーリーです。そして僕はこの霊的やり取りは未来的だと思います。古臭いなどとんでもない。

「ベールの彼方の生活4巻」の中に「地球の未来像の顕現」というものがありますが、その中で未来の人類たちは現代の人間に比べて内省の時間を多く持つようになって霊的生活をしているといった記述があります。

はるか未来には現在では想像もつかないような物的通信手段が開発されていて、霊能を駆使しなくても誰とでもコミュニケートできる時代になっているものと思われますが、それは物質界の人間同士のコミュニケーションには当てはまりますが、自身の守護霊の援助を受けたいと思うなら霊的手段を講じなければなりません。

その霊的知識が未来にはだいぶ浸透していて、多くの人が能力に差がありつつもトランスによる霊交を日常的行為として実践しているという事なのだそうです。イエス様とヘリの霊的やり取りはその先駆けと言えるのではないでしょうか。

ちなみに僕のお話ですが、僕はスマホが大キライで、常時電源OFFにしていて全く使用していないのですが、僕に用がある人はテレパシーを使用して下さい、物的手段を使用して連絡して来ないで下さい、とか言ってみたりなんかして。

まぁ日常的にインスピレーションを受け取りながら生活している僕としては、ぜひそういう霊的方法で交信しながら生活したいと実際思いますね。その方がはるかにまどろっこしさがありませんので。ストレスなし、スムーズで直接的ですからね。

※ひとつ霊的知識のお話ですが、インスピレーションは霊界の人間(霊団)が霊的意図をもっておこなう通信(スピリチュアルといいます)ですが、テレパシーは「サイキック」の範疇に入る霊能で、霊界の人間は一切関与しておらず、物質界の人間のみの閉じた能力で五感の延長なのだそうです。

この「スピリチュアル」と「サイキック」の違いは理解しておいた方がいいかも知れません。ちなみに僕はスピリチュアルのみの霊能者です。サイキック能力は一切ありません。つまり自分の意思でアレを霊視してやろうとか、アレを予知してやろうとか、そういった霊能は一切ないという事です。霊団が見せてくるものを見て、霊団が聞かせてくるものを聞く、ただそれだけです。

はい、この書籍は「美しい」と紹介されていますが、僕的にはイエス様の苦しいシーンがたくさんありますので読んでいてツライ部分もあります。そしてイエス様の1億分の1ではありますが僕も霊性発現した事によって苦難の人生をやらされる事に(やらされるハメに)なってしまいました。

霊的仕事をする者は例外なくそういう苦難の人生をやらされるそうですが、その苦難を乗り越えて帰幽した先に霊的栄光が待ち受けていますので、苦難を与えられた事を神に感謝しなければいけないのですが、僕はそういう宗教臭の漂う考え方がどうにも身に付かなくて、それで霊団を本気で憎んでいるという未熟さをWordPressで公言してしまっています。

まぁそれが僕の霊格の程度を表していると思いますので、聖人ぶってもすぐ化けの皮が剥がれますからWordPressでは正直な気持ちを書いているのです。そしてイエス様は苦難の幼少期を経て砂漠で成人し「イエスの成年時代」にて書かれている人生に突入していきます。

この成年時代の書籍の内容についても語りたい事が複数あります。ぜひひとりでも多くの方に書籍を手にして頂きたいですし、僕も何とか復刊させたいと思っていますので、古書でも僕の書籍でもどちらでも構いませんので、ぜひ「紙の書籍」を手元に持っておいて頂きたいと思うのです。コメントの続きは「イエスの成年時代」にて(祈)†

2024年6月吉日
山を愛する霊覚者 たきざわ彰人(祈)†

たきざわ彰人ブログ(2024年6月時点で1300日以上連続更新中)
akito-takizawa.com/

アナログ絵364line

オマケ – はい、表紙の線画をUPです。「イエスの少年時代」ですからイエス様の少年期のお姿を描かねばならないのですが、ググると宗教画がたくさん出てきて、幼少期のイエス様を描いた絵も複数存在するのですが、とにかく僕はデザインの人間であり「宗教臭の漂うモノが大キライ」ですので、どうしてもそれら宗教画をマネする気になれません。

それで、幼少期のイエス様はこんな容貌ではない事は分かっていながらも、僕のデザインの血がおかしな方向に働いてしまってこのようなキャラキャラした(アニメのような)事実に反する絵を描いてしまいました。ご覧の皆さま、この少年イエス様は僕の脳内だけに存在するファンタジーの絵となりますので信じないようにして下さい。

で、ももちゃんとシルキーは使命遂行メインキャラクターとして僕が描き続けているキャラで奴隷の女の子です。イエス様と全く時代が違いますのでこのように並んで撮影などありえないのですが、何しろファンタジーですので、そこもどうかご勘弁下さい。(※ももちゃん、シルキーのストーリーをWordPressにたくさんUPしていますので宜しければそちらもご覧下さい)

で、ファンタジーついでにもうひとつ、この「イエスの少年時代」の表紙として、僕的にはぜひ「ヘリ」を描きたかったのですが、何しろヘリは聖書に一切登場しない人物ですからどうググっても全く何の資料も出てきません。ですのでヘリの外見を想像する手がかりさえなく、それで無難なところでももちゃんシルキーを表紙に採用した、という流れだったのです。

しかし当時の成人男性はだいたいにおいてヒゲを長々と生やしていましたから、たぶんヘリもそういう容姿だったのだろうと推測されますが、ココでまた僕のデザインの血が宜しくない方向に働いてしまいまして…どうにもヒゲもじゃの絵を描きたくなかったので(ボツ絵として)このようなアニメの主人公のような絵を描いてしまいました。

アナログ絵374

このヘリも100%事実に反した絵となりますのでご覧の皆さま、どうか信じないで下さい。ただ、少年期のイエス様はヘリを超慕っていましたから、僕的にはこういうアニキ的な雰囲気に描きたかったんですよ。ファンタジーなんですからどうかご勘弁下さい。本当はこのヘリを表紙にしたかったのです。しかしできませんでした(祈)†


新装版発行にあたって

この世は愛によって創られ、愛によって支えられているにもかかわらず、人間だけが、この重大な真理を無視した生き方を続けている。この事実を最も露骨にえぐり出してくれたのが「イエスの少年時代」である。

テロや憎しみが世界中に広がっている今日、1人でも多くの人たちがイエスの生き様を知って、愛に目覚めた生き方を始めてほしいと願っている。「イエスの成年時代」と合わせて読んで頂きたい。

平成16年5月
山本貞彰


霊界通信 イエスの少年時代 – 貧窮の中の小さな王者 – 新装版 – <復刊>

山本貞彰(やまもと・さだあき)

昭和5年生まれ。昭和30年、立教大学英米文学科を卒業。昭和34年、英国教会系、聖公会の司祭に叙任され、沖縄伝道区を振り出しに諸教会を司牧。昭和60年、スピリチュアリズムとの出会いが起因となって牧師を引退。


復刊者 山を愛する霊覚者 たきざわ彰人(アキト)

元画家、漫画家。果てしない山へのアタックおよび高負荷の画家作品描画によって霊性発現となりました(2012年6月)イエス様の怒涛の連続顕現(2013年4月)に浴させて頂き、イエス様のご意志に従い霊的知識普及の使命遂行中です。イエス様ハンドリング(霊の導きに従う)により「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体および奴隷の女の子の存在を公言し続け、休みなく情報拡散を続けて現在に至る(祈)†

「イエスの少年時代」「インペレーターの霊訓」の校正刷り2冊を同梱した状態であるところに手紙を送付します、それは訳者、山本貞彰氏に関する情報を何とか得ようとしての事なのですが、近藤千雄先生の時以上に絶望的状況でしょう。結局おーふぁん的なモノを使用しての復刊となるでしょう。

そして事務作業を再開させています。あーヤダ、おーヤダ、本気でヤダ。いつまでこんな事をやらねばならないのか。で、先ほどの霊団からのインスピレーションが超ムカつく内容のオンパレードで、完全に無視して一切クロッキーにメモしませんでしたので何と言われたか忘れましたが、ひとつだけ許せる感じの事を言われてそれだけはメモしました。

そのインスピレーションはぜひその通りになって欲しい。しかし霊性発現して以来12年間、霊団があーなるこーなる言ってその通りになった事がひとつもありません。そのインスピレーションの通りになるとしたらおーふぁん的なモノをやらずに済むようになる可能性があるため、僕としてはぜひそうなって欲しいのです。

とにかく作業前進させるしかありません。事務作業を進めつつ復刊2冊目の準備に入りましょう。この最低最悪人生は一体いつになったら終わるんだ、いつになったら脱出できるんだ、脱出は死んでもあきらめないぞ、最後の1秒まで可能性を追求し続けるぞ(祈)†

■アナログ絵364「イエスの少年時代」表紙UPですが復刊できない可能性が濃厚(祈)†■2024年5月5日UP■
■アナログ絵364「イエスの少年時代」表紙UPですが復刊できない可能性が濃厚(祈)†
「イエスの少年時代」「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」の3冊は、あと15年くらいしたら復刊できるかも知れません。僕は基本的に超健康体ですので「トリカブトちゃん作戦」を実行に移しでもしない限りは、たぶんその時も(もちろんジイサンにはなっていますが)元気で生きているものと予測しますので、物質界を離れる(帰幽)前にこの3冊を復刊させるかも知れません。で、表紙の絵ですが、僕はぜひとも「ヘリ」を描きたかったのですが、ヘリの資料なんてググりましたが全くありません。それでもどうしても描くとなれば完全に僕の想像のあてずっぽうの絵になってしまいますので「それは宜しくないだろう」という事で泣く泣くヘリをやめて無難なところで、ももちゃん、シルキーと少年期のイエス様、という絵にしました…続きを読む→
■アナログ絵363「インペレーターの霊訓」表紙のカラーリングをやり直しました(祈)†■2024年3月24日UP■
■アナログ絵363「インペレーターの霊訓」表紙のカラーリングをやり直しました(祈)†
インペレーター霊の霊視スケッチを元にして僕なりに描いた絵とはいえ、このインペレーター霊はほぼ僕の創作となります。実際とは違うという事を改めて強調させて頂きます。詳細についてはアナログ絵358の時に説明していますのでそちらをご覧下さい(復刊者コメントもUPしてあります)せっかくこのように塗り直しましたので電子書籍のみ、などと言わずペーパーバックでもこちらの表紙を使用しましょう。で、この「インペレーターの霊訓」は副題「続・霊訓」とありますように、この書籍の前に本編ともいうべき「霊訓」があります。もちろんそちらも復刊させるつもりでいるのですが「霊訓」はまた別のハードルがありまして、復刊実現はさらに難しい事が予測されます。しかし「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は滅亡させるつもりはない、奴隷の女の子たちはひとりたりとも助けてあげるつもりがない、僕という霊媒から新規の霊言を降らせるつもりも全く無い(自動書記テスト、現在も続行中なのですが全く霊言が綴られる事はありません)この状況であと僕がやれる事は、もう「絶版状態の霊関連書籍の復刊」これしかないのです…続きを読む→
■アナログ絵362「ベールの彼方の生活4巻」表紙UP。全4巻書籍データ化完了中(祈)†■2024年3月23日UP■
■アナログ絵362「ベールの彼方の生活4巻」表紙UP。全4巻書籍データ化完了中(祈)†
オマケ – はい、今回の4巻は著者であり霊感書記霊媒であるオーエン氏の絵を描かせて頂きましたが、実は当初は別の表紙にするつもりだったのです。しかしその表紙の線画を描きながら「コリャどう考えてもマズいよなぁ」という事でボツにしたのです。そのボツの線画をせっかくですのでUPしてみましょうコチラです↓事実に反した絵という事が1発でお分かり頂けると思うのですがいかがでしょうか。霊体の僕がイエス様に怒られて泣いて逃げようとしてます。なぜこういう絵を描こうと思ったのかというと、僕なりに「霊的使命遂行のキビシさ」を表現しようと思っての事だったのですが、にしてもこれは宜しくないだろう、という事でボツにしたのです。何しろ僕は本気の本気で霊団に反逆しまくっていますので、その反逆をイエス様が怒っているという表現だったのですが、これは事実ではありません。高級霊であればあるほど、アタリがやわらかくなるはずです。心の中で僕の反逆に呆れ返っていたとしてもこのような叱責はしないはずです。僕の未熟をそっと悟らせるような手法を取ってくるはずです…続きを読む→

「イエスの少年時代」のAmazon校正刷りを再注文しました。これは大失敗、焦ってデータ作成してろくに確認もせずに校正刷りを注文したからこういう事になったのです。ただ、明けても暮れてもテキストと格闘する日々を送っていますから「そろそろいい加減にしてくれこの人生」というやけっぱちな気持ちにもなるんですよ。

とにかく僕はデザインの作業に集中したい、復刊にまつわる事務作業は誰かにやってもらいたい気持ちでイッパイですが、そんな人間はどこにもいない、僕ひとりで全部やるしかない。手紙テキストも完成中。さんざん見直しました。

そして「イエスの少年時代」修正版校正刷りと、既に所持している「インペレーターの霊訓」の校正刷り、この2冊を同梱して手紙を出すつもりです。「持ってる武器は使え、僕ひとりの閉じた空間で持っててもしょうがないだろ」という事です。僕の復刊への本気度を理解してもらうためです。自分のぶんはまたAmazonで校正刷りを注文すればいいのですから。

で、2通目のメールの返信はもうきません、完全に無視されたという事が決定ですので、またイヤでしょうがない復刊事務作業に戻らないといけません、本当に本当にヤダこの作業。このハードルを根性で突破すればようやく復刊1冊目として「インペレーターの霊訓」を販売状態にできます。承認されなかったら笑いますけどねこんだけやってるのに。

「モーゼスの霊訓 上」テキスト見直し60%完成中。この上中下巻は復刊させるつもりでいますのでテキストを早く揃えないといけません。そして「ベールの彼方の生活 全4巻」の書籍データは既に完成していますが、これをAmazon用に多少作り変えて復刊の作業に突入させます。

苦しい作業がいつまでもどこまでも続く、そしてどれだけやっても全く脱出できない、正真正銘の無間地獄に突入中ですが、最後の1秒まで脱出の可能性を捨てない。捨てたらもう生きていけないからです。間違いなく今まで生きてきて最大級の絶望感と言っていいでしょう。

さぁいま目の前にある作業をガンガンこなしていきましょう、そうするより他にどうしようもないのですから。霊団は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させる気ゼロ、僕という霊媒を使用する気ゼロなのですから(祈)†

※あ!「イエスの少年時代」の復刊者コメントをUPし忘れていますね。あとでUPさせて頂きます。

■アナログ絵375「ジェラルディン・カミンズ女史」を描きましたが復刊できないかも(祈)†■2024年5月15日UP■
■アナログ絵375「ジェラルディン・カミンズ女史」を描きましたが復刊できないかも(祈)†
「イエスの少年時代」「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」の3冊の復刊用に自動書記霊媒「ジェラルディン・カミンズ女史」の著作権および肖像権対策の絵を描きました。しかし、もし想像を絶する高いハードルを根性で突破して復刊を実現できたとしても、この3冊の復刊はカミンズ女史の没後70年が経過した15年後となります。努力してもしても全く結果に結びつかない、明けても暮れても自分が望まない状態に閉じ込められる、何をどうやっても脱出できない。なぜこんな状態にさせられなければならないのか、思い当たるフシが全くない。苦しい、苦しすぎる。本当に絶望感で心が撃ちのめされています。もうどうしようもない。どうやったらこの心を立て直す事ができるんだろう。イヤ方法はひとつしかない、霊団の言う通りにする事だ。しかしそれをやったら完全に閉じ込められる事が決定してしまう。イヤ、もう現時点で閉じ込められているんだから同じか、と開き直るしかないのかも知れない…続きを読む→
■アナログ絵374「イエスの少年時代」の表紙として描きたかった「ヘリ」です(祈)†■2024年5月12日UP■
■アナログ絵374「イエスの少年時代」の表紙として描きたかった「ヘリ」です(祈)†
はい、また事実に反する絵を描いてしまいました。ヘリについては何をどうググっても一切何の資料も出てきません。それはそうです聖書にも登場しない人物「イエスの少年時代」の中でのみ語られている人物ですから画像が残っている訳がありません。ですのでヘリの外見を想像する事は一切できないのですが、当時の成人男性は大抵ヒゲもじゃの感じでしょうから、たぶんヘリもそういう感じだったのだろうと予測しますが、どうにもそのヒゲもじゃが描きたくなかったので、僕の勝手なイメージでこのようなキャラに描かせて頂きました。少年期のイエス様の真実の兄貴、みたいなイメージです。本当はこのヘリを表紙に採用したかったのですが、事実に反する絵を表紙にする訳にはいかなかったので無難なところでももちゃん、シルキーの絵とし、ヘリはこのように「ボツ絵」というカタチで巻末に掲載する事としました…続きを読む→
■アナログ絵365~373、書籍復刊関連で描いた線画をまとめて一気にUPです(祈)†■2024年5月11日UP■
■アナログ絵365~373、書籍復刊関連で描いた線画をまとめて一気にUPです(祈)†
絶版状態の霊関連書籍復刊に向けた一連の作業の中で、書籍内で使用する画像の許諾がまず得られないだろうという事で(70年問題をクリアしている画像もありますが著作権とは別に肖像権というモノもありまして)安全策で全て自分で絵を描く事とし、このように一気に「似顔絵的な線画」を描きました。上記に描きました絵で「モーゼスの霊訓 上中下」「インペレーターの霊訓」「ベールの彼方の生活 全4巻」の8冊分の絵をカバーした事になりますが、まぁさらに追加で何か描く事もあるかも知れません。復刊に向けた作業の進捗ですが、当初は70冊以上の霊関連書籍全て復刊させると意気込んでいましたが、それが45冊程度に減り、さらに原著者の著作権70年問題等もあって、近々ですぐ復刊できそうな書籍は10冊程度となってしまっています。そしてあと数年待てば70年問題が解決される書籍が数冊ありますので、その時期を待ってそれらを復刊させる、それでも14~17冊ぐらいしか復刊できそうもありません…続きを読む→

1918年1月4日 金曜日

その集落を後にしてから吾々はさらに暗黒界の奥地へと足を踏み入れました。そこここに家屋が群がり、焚(た)き火が燃えている中を進みながら耳を貸す意志のある者に慰めの言葉や忠告を与えるべく吾々として最善の努力をしたつもりです。

が、残念な事にその大部分は受け入れる用意はできていませんでした。反省してすぐさま向上の道へ向かう者は極めて少ないものです。多くはまず強情がほぐれて絶望感を味わい、その絶望感が憧憬(どうけい)の念へと変わり、哀れなる迷える魂に微(かす)かな光が輝き始める。

そこでようやく悔恨の情が湧き、罪の償いの意識が芽生え、例の光の橋へ向けての辛い旅が始まります。が、この土地の者がその段階に至るのはまだまだ先の事と判断してその集落を後にしました。

吾々には使命があります。そして心の中にはその特別の仕事が待ち受けている土地への地図が刻み込まれています。決して足の向くまま気の向くままに暗黒界を旅しているのではありません。ただならぬ目的があって高き神霊の命によって派遣されているのです。

行くほどに邪悪性の雰囲気が次第に募(つの)るのを感じ取りました。銘記して頂きたいのは、地域によって同じ邪悪性にも“威力”に差があり、また“性質(たち)”が異なる事です。同時にまた、地上と同じくその作用にムラが見られます。邪悪も全てが1つの型にはまるとは限らないという事です。

そこにも自由意志と個性が認められるという事であり、どれだけ永い期間それに浸(ひた)るかによって強烈となっているものもあれば比較的弱いものもある。それは地上においても天界の上層界においても同じ事です。

やがて大きな都市にたどり着いた。守衛の一団が行進歩調で行き来する中を、どっしりとした大門を通り抜けて市内へ入った。それまでは姿を見せるために波長を下げていたのを、今度は反対に高めて彼らの目に映じない姿で通り抜けた訳です。

大門を通り抜けてすぐの大通りの両側には、まるで監獄の防壁のような、がっしりとした作りの大きな家屋が並んでいる。そのうちの何軒かの通風孔から毒々しい感じの明かりが洩れて通路を照らし、吾々の行く先を過(よ)ぎっている。そこを踏みしめて進むうちに大きな広場に来た。

そこに1つの彫像が高い台の上に立っている。広場の中央ではなく、やや片側に寄っており、そのすぐ側に、その辺りで1番大きい建物が立っていた。彫像はローマ貴族のトーガ(ウールのゆるやかな外衣)をまとった男性で、左手に鏡を持って自分の顔を映し、右手にフラゴン(聖餐(せいさん)用のぶどう酒ビン)を持ち、今まさに足もとの水だらいにドボドボとぶどう酒を注(そそ)いでいる – 崇高なる儀式の風刺(パロディ)です。

しかもその水だらいの縁には様々な人物像がこれまた皮肉たっぷりに刻まれている。子供が遊んでいる図があるが、そのゲームは生きた子羊のいじめっこである。別のところにはあられもない姿の女性が赤ん坊を“逆さ”に抱いている図が彫ってある。

全てがこうした調子でまじめなものを侮(あなど)っている – 童子性、母性、勇気、崇拝、愛、等々を冒涜(ぼうとく)し、吾々がその都市において崇高なるものへの憧憬(どうけい)を説かんとする気力を殺(そ)がせる。卑猥(ひわい)にして無節操きわまるものばかりである。

辺り一体が不潔と侮辱に満ちている。どの建物を見ても構造と装飾に唖然(あぜん)とさせられる。しかし初めに述べた如く吾々には目的がある。嫌な事を厭(いと)ってはならない。使命に向かって突き進まねばならない。

そこで吾々は意念を操作して姿をそこの住民の目に映じる波長に落としてから、右の彫像のすぐ後ろの大きな建物 – 悪の宮殿 – の門をくぐった。土牢に似た大きな入り口を通り抜けて進むと、バルコニーに通じる戸口まで来た。

バルコニーは見上げるようなホールの床と天井の中間を巻くようにしつらえてあり、所々に昇降階段が付いている。吾々はその手すりの所まで近づいてホールの中をのぞいた。

そこから耳をつんざくような強烈な声が聞こえてくるが、しばらくはそれを発している人物が見えなかった。そうして吾々の目が辺りを照らす毒々しい赤っぽい光に慣れてくると、どうやら中の様子が判ってきた。すぐ正面に見えるホールの中央にバルコニーへ出る大きな階段がらせん状に付いている。

それを取り囲むようにして聴衆が群がり、階段もその中程まで男女がすずなりになっている。が、その身なりはだらしなく粗末である。そのくせ豪華に見せようとする意図が見られる。

例えば黄金や銀のベルトに首飾り、銀のブローチ、宝石をあしらったバックルや留め金を身に付けている者がそこら中にいる。が、全部模造品である事は一目で判る。黄金に見えるのもただの安ピカの金属片であり、宝石も模造品である。

その階段の上段に演説者が立っている。大きな図体(ずうたい)をしており、邪悪性が他を威圧する如くにその図体が他の誰よりも大きい。頭部にはトゲのある冠をつけ、汚らしい灰色をしたマントを羽織っている。

かつては白かったのが性質(がら)が反映して煤(すす)けてしまったのであろう。胸の辺りにニセの黄金で作った2本の帯が交叉し、腰の辺りで革紐(かわひも)で留めてある。足にはサンダルを履き、その足もとに牧羊者の(先の曲がった)杖(つえ)が置いてある。

が、見ている吾々に思わず溜(た)め息をつかせたのは冠であった。トゲはいばらのトゲを黄金であしらい、陰気な眉(まゆ)の辺りを巻いていた。帰れるものなら今すぐにも帰りたい心境であった。が、吾々には目的がある。

どうしても演説者の話を最後まで聞いてやらねばならなかった。その時の演説の中身を伝えるのは私にとって苦痛です。貴殿が書き取るのも苦痛であろうと思います。が、地上にいる間にこうした暗黒界の実情を知っておく事です。

なぜなら、こちらの世界にはもはや地上のような善と悪の混在の生活がない。善は高く上がり悪は低く下がり、この恐ろしい暗黒界に至っては、善による悪の中和というものは有り得ない。悪が悪と共に存在して、地上では考えられないような冒涜(ぼうとく)行為が横行する事になります。

なんと、彼が説いていたのは“平和の福音”だった。そのごく一部だけを紹介して、あとはご想像にお任せする事にしたい。

「そこでじゃ、諸君、吾々はその子羊を惨殺した獣を崇拝するために、素直な気持ちでここに参集した。子羊が殺害されたという事は、吾々が幸福な身の上となり呪(のろ)われし者の忌(い)まわしき苦しみを乗り越えて生きていこうとする目的にとっては、その殺害者は事実上の吾々の恩人という事である。

それ故、諸君、その獣が子羊を真剣に求めそして見出し、その無害の役立たず者から生命(いのち)の血液と贖(あがな)いをもたらしてくれた如くに、諸君も、常に品性高き行為にご熱心であるからには、その子羊に相当するものを見つけ出し、かの牧羊者が教え給うた如くに行うべきである。

諸君の抜け目なき沈着さをもって、子羊のごとき惰性の中から歓喜の情熱と興奮に燃える生命をもたらすべきである…そして女性諸君、“げす”な優美さに毒されたその耳に私より一服の清涼剤を吹き込んで差し上げよう。私を総督に選出してくれたこの偉大なる境涯に幼児はやって参らぬ。

がしかし、諸君に申し上げよう。どうか優しさをモットーとするこの私と、私が手にしているこの杖(つえ)をとくと見て欲しい。そして私を諸君の牧羊者と考えて欲しい。これより諸君を、多すぎるほどの子供を抱えている者の所へこの私がご案内しよう。

その者たちは、かつてせっかく生命を孕(はら)みながら、余りに深き慈悲ゆえに、その生命を地上に送って苦をなめさせるに忍びず、生け贄(にえ)としてモロック(※)の祭壇に捧げた如く、その母なる胸より放り棄てるほど多くの子供を抱えている。

さ、諸君、生け贄とされた子をいとおしみつつも、その子の余りに生々しき記憶に怯え、それを棄て去らんと望む者の所へ私が連れて参ろう」(※子供を人身御供(ひとみごくう)として祭ったセム族の神。レビ記18・21、列王記23・10。訳者)

こうした調子で彼は演説を続けたが、その余りの冒涜(ぼうとく)性の故に私はこれ以上述べる気がしません。カスリーンに中継させるのも忍びないし、貴殿に聞かせるのも気が引けます。

それを敢えて以上だけでも述べたのは、貴殿ならびに他の人々にこの男の善性への冷笑と愚弄(ぐろう)的従順さの一端を知って頂きたかったからであり、しかも彼がこの境涯にいる無数の同類の1つのタイプにすぎない事を知って頂くためです。

いかにも心優しい人物を装い、いかにも遠慮がちに述べつつも、実はこの男はこの界層でも名うての獰猛さと残忍さを具えた暴君の1人なのです。確かに彼はその国の総督に選ばれた事は事実ですが、それは彼の邪悪性を恐れての事だった。

その彼が、見るも哀れな半狂乱の聴衆を“品性高き者”と述べたものだから、彼らは同じ恐怖心にお追従(ついしょう)も手伝って彼の演説に大いなる拍手を送った。彼はまた聴衆の中の毒々しく飾った醜女たちを“貴婦人”と呼び、羊飼いに羊が従う如くに自分に付いて来るがよいと命じた。

するとこれまた恐怖心から彼女たちは拍手喝采(かっさい)をもって同意し、彼に従うべく全員が起立した。彼はくるりと向きを変えて、その巨大な階段を登ろうとした。彼は次の段に杖をついて、やおら1歩踏み出そうとして、ふとその足を引いて逆に1歩2歩と後ずさりし、ついに床の上に降りた。

全会衆は希望と恐怖の入り混じった驚きで、息を呑(の)んで身を屈(かが)めていた。その理由は他ならぬ階段の上段に現れた吾々の姿だったのです。吾々はその環境において発揮できる限りの本来の光輝を身にまとって1番上段に立ち、さらに霊団の1人である女性が5、6段下がったところに立っていました。

エメラルドの玉飾りで茶色がかった金色の髪を眉(まゆ)の上あたりでしばり、霊格を示す宝石が肩のあたりで輝いており、その徳の高さを有りのままに表している。胴の中ほどを銀のベルトでしばっている。こうした飾りが目の前の群集の安ピカの宝石と際だった対照を見せている。

両手で白ゆりの花束を抱えているその姿は、まさしく愛らしい女性像の極致で、先ほどの演説者の卑猥(ひわい)な冒涜(ぼうとく)に対する挑戦でした。男性も女性もしばしその姿に見とれていたが、そのうち1人の女性が思わずすすり泣きを始め、まとっていたマントでその声を抑えようとした。

が、他の女性たちも甦(よみがえ)ってくるかつての女性らしさに抗しきれずに泣き崩れ、ホールは女性の号泣で満たされてしまった。そうして、見よ、その悲劇と屈従の境涯においては久しく聞く事のなかった純情の泣き声に男たちまで思わず手で顔を覆い、地面に身を伏せ、厚い埃(ほこ)りも構わず床に額(ひたい)をすりつけるのであった。

が、総督は引っ込んでいなかった。自分の権威に脅威が迫ったと感じたのである。全身に怒りを露(あらわ)にしながら、ひれ伏す女性たちの体を踏みつけながら、大股で、最初に泣き出した女性のところへ歩み寄った。

それを見て私は急いで階段の1番下まで降りて一喝した – 「待たれよ!私のところへ来なされ!」私の声に彼は振り返り、ニヤリとしてこう述べた。

「貴殿は歓迎いたそう。どうぞお出でなされ。我輩はここにいる臆病な女どもが貴殿の後ろのあのご婦人の光に目が眩(くら)んだようなので正気づかせようとしているまでじゃ。みんなして貴殿を丁重にお迎えするためにな…」

が、私は厳しい口調で言い放った。「お黙りなさい!ここへ来なされ!」すると彼は素直にやって来て私の前に立ったので、続けてこう言って聞かせた。

「あの演説といい、その虚飾といい、冒涜(ぼうとく)の度が過ぎますぞ!まずその冠を取りなさい。それからその牧羊者の杖(つえ)も手放しなさい。よくも主を冒涜し、主の子等を恐怖心で束縛してきたものです」

彼は私の言う通りにした。そこで私はすぐ側にいた側近の者に、先ほどよりは優しい口調でこう言って聞かせた。

「あなた達は余りに長い間臆病すぎました。この男によって身も心も奴隷にされてきました。この男はもっと邪悪性の強い者が支配する都市へ行かせる事にします。これまでこの男に仕えてきたあなた達にそれを命じます。そのマントを脱がせ、そのベルトを外(はず)させなさい。主を愚弄(ぐろう)するものです。彼もいつかはその主に恭順の意を表する事になるであろうが…」

そう言って私は待った。すると4人の男が進み出てベルトを外し始めた。男は怒って抵抗したが、私が杖(つえ)を取り上げてその先で肩を抑えると、その杖を伝って私の威力を感じておとなしくなった。これで私の意図が叶(かな)えられた。

私は彼にそのホールから出て外で待機している衛兵に連れられて遠い土地にある別の都市へ行き、そこでこれまで他人にしてきたのと同じ事を“とく”と味わってくるようにと言いつけた。

それからホールの会衆にきちんと座り直すように言いつけ、全員が落着いたところで最初に紹介した歌手に合図を送った。すると強烈な歌声がホール全体に響きわたった。その響きに会衆の心はさらに鼓舞され、そこにはもはやそれまで例の男によって抑えられてきた束縛の跡は見られなかった。

あたりの明かりから毒々しい赤みが消え、柔らかな明るさが増し、安らかさが会場にみなぎり、興奮と感激に震える身体を爽(さわ)やかに包むのでした。

– どんな事を歌って聞かせたのでしょうか。

活発な喜びと陽気さにあふれた歌 – 春の気分、夜の牢獄が破られて訪れる朝の気分に満ち、魂を解放する歌、小鳥や木々、せせらぎが奏でるようなメロディを歌い上げました。聖とか神とかの用語は1語も使っておりません。少なくともその場、その時には一切口にしませんでした。

彼らにとって何よりも必要とした薬は、それまでの奴隷的状態からの解放感を味わうように個性に刺激(しげき)を与える事でした。そこで彼は生命と喜びと友愛の楽しさを歌い上げたのでした。と言って、それで彼らがいきなり陽気になった訳ではありません。言わば絶望感が薄らいだ程度でした。

そのあとは吾々が引き受け、訓戒を与えかくしてようやくそのホールが、かつては気の向かぬまま恐怖の中で聞かされていた冒涜(ぼうとく)の対象イエス・キリストの崇拝者によって満たされる日が来ました。

崇拝といっても、善性にあふれた上層界でのそれとは較べものになりませんが、調和の欠けた彼らの哀れな声の中にも、このたびの吾々のように猜疑(さいぎ)心と恐怖心に満ちた彼らの邪悪な感情のるつぼに飛び込んで苦心した者の耳には、どこか心を和ませる希望の響きが感じられるのでした。

それからあとは吾々に代わって訪れる別の霊団によって強化と鍛錬を受け、それから先の長くかつ苦しい、しかし刻一刻開けてゆく魂の夜明けへ向けての旅に備える事になっており、吾々は吾々で、さらに次の目的地へ向けて出発したのでした。

– そのホールに集まったのは同じ性質の者ばかりですか。

“ほぼ”同じです。大体において同質の者ばかりです。性格的に欠けたところのある者も少しはおりました。それよりも、貴殿には奇異で有り得ない事のように思える事実をお話しましょう。

彼らのうちの何名かがさきの総督の失脚のお伴をする事になった事です。彼の邪悪性の影響を受けて一心同体と言えるほどにまでなっていたために、彼らの個性には自主的に行動する独立性が欠けていた訳です。

そのために、それまで総督の毒々しい威力の中で仕えてきた如くに、その失脚のお伴までする事になった。が、その数はわずかであり、別の事情で別の土地へ向かう事になった者も少しばかりいました。

しかし大多数は居残って、久しく忘れていた真理を改めて学び直す事になりました。遠い昔の話は今の彼らにとっては新鮮に響き、かつ素晴らしいものに思えるらしく、見ている吾々には可哀想ににさえ思えました。

– その後その総督はどうなりましたか。

今も衛兵が連れて行った遠い都市にいます。邪性と悪意は相も変わらずで、まだまだ戻っては来れません。この種の人間が高尚なものへ目を向けるようになるのは容易な事ではないのです。

– 衛兵が連れて行ったと言われましたが、それはどんな連中ですか。

これはまた難しい質問をなさいましたね。これは神について、その叡智(えいち)、その絶対的支配についてもっと深く悟るまでは、理解する事は困難な問題の1つです。一言で言えば神の支配は天国だけでなく地獄にも及んでいるという事で、地獄も神の国であり(悪魔ではなく)神のみが支配しているという事です。

さきの衛兵は実は総督を連れて行った都市の市民です。邪悪性の強い人間である事は確かであり、神への信仰などおよそ縁のない連中です。ですが総督を連行するよう命ぜられた時、誰がそう裁決したのか聞こうともせず、それが彼にとって最終的な救済手段である事も知らぬまま文句も言わずに命令に従った。

この辺の経緯の裏側を深く洞察なされば、地上で起きる不可解な出来事の多くを解くカギを見出す事ができるでしょう。大ていの人間は悪人は神の御国の範囲の外にいるもの – 罪悪や災害は神のエネルギーが誤って顕現(けんげん)したものと考えます。

しかし実は両者とも神の御手の中にあり、悪人さえも、本人はそうと知らずとも、究極においてはそれなりの計画と目的を成就させられているのです。この問題はしかし、今ここで扱うには少し大きすぎます。では、お寝みになられたい。吾々の安らぎが貴殿のものとなるよう祈ります。

■アナログ絵361「ベールの彼方の生活3巻」復刊書籍表紙UP。ヨハネ氏です(祈)†■2024年2月29日UP■
■アナログ絵361「ベールの彼方の生活3巻」復刊書籍表紙UP。ヨハネ氏です(祈)†
まず「5章 生前と死後 2 一牧師の場合(127ページ)」ですが、物質界で牧師をしていた男がネインという女性の忠告を受けて1界(これはかなりの下層界です)に赴くというお話ですが、皆さまはこのお話を「あぁ、霊的な事を正しく理解していない牧師の没落ストーリーだな」といった感じに読まれる事と思います。確かにその通りなのですが、どうかもう1レイヤー2レイヤー深いところまでお読み頂きたいのです。このネインという女性はわずか2、3歳で夭折した牧師の妹で、男はこの妹を大変可愛がっていたそうですが、霊格が低いこの男はその成人した姿の女性を自分の可愛がっていた妹だと気づく事ができません。しかし1界で辛酸を味わい尽くし霊的向上を果たした暁にはこの男の霊の眼が開かれ、ネインが自分の妹だと気づく日が(男の様子からするとそれは相当先の話になりそうですが)来ます。必ず来ます。その時にこの男は「あぁ!あれほど愛した妹の事が分からずにいたなんて、自分は何という愚か者だったのだ!」みたいな感じになって大いに涙を流して反省し、そこからこの男の「向上ストーリー」が一気に加速する事になります…続きを読む→
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†■2024年2月14日UP■
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†
「ヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語」こちらは現代の人間にも広く知られているモチーフですよね。RPGゲーム等でよくみられる「剣と魔法のファンタジー」の世界観です。ファイ〇ルファン〇ジー等で多くの方がこのモチーフに親しんでいますが、この世界観も元はといえば過去の霊能者が見せてきた霊現象が元ネタなのだそうです。その霊能者の最大の人物がもちろん聖書に登場するイエス様、という事になります。RPGゲーム等で遊んでいる方がたくさんいらっしゃる事と思いますが、その時に頭のホンのかたすみにでも「あぁ、この剣と魔法の世界観は霊現象が元ネタなんだよなぁ」と思い出してもらえると、そして少しでも霊的なモノに興味を持ってもらえると僕的にはうれしいのですがどうでしょう。もっとも、歪められ具合がタダ事ではありません、長い世紀にわたって霊的な事を理解していない人間たちの手によって実際の霊的事象とは似ても似つかない物的商売臭の漂う世界観に完全に書き換えられてしまっており、もはや全く別物と言った方がいいのでしょう。「人間は本来が霊であり肉体はタダの衣服に過ぎない」という霊的真理などは完全に抜け落ちて形骸すら残っていません。だからこそ絶版状態の霊関連書籍の復刊が急務だと僕は思っているのですが……続きを読む→
■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†■2024年1月27日UP■
■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†
ご母堂の言葉で僕が特に気に入っているのは「悲劇をただの不幸と受け止める事がいかに狭い量見であるか」(29ページ)という部分で、僕は霊性発現とともに使命遂行人生に突入させられ、人生を完全に破壊されて最悪の状態に閉じ込められ続けている関係で霊団を心の底から激しく憎んでおり、本当の本気で反逆しまくっていますが、その破壊された人生も「その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になる」の言葉のように、最終的には全て佳きようにおさまるのでしょう。使命遂行を最後までやり切れば、の話ですが。あともうひとつ、ご母堂の言葉で僕の胸に突き刺さるものとして「確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。」(72ページ)というものもあります。これはオーエン氏が教会長老から弾圧を受けて弱気になっていた事を受けて「勇気をもってこの使命に邁進(まいしん)しなさい」と、言わば母が息子の“おケツをひっぱたいた”という事だと思うのですが、イヤー僕もこういう母に恵まれたかったですね。っとと、僕には“真実の母”守護霊様がいましたね。僕の性格は守護霊様のデザインであり、現在このような使命遂行人生が送れるのも(苦しい事イヤな事ばかりで全然うれしくも何ともありませんが)守護霊様が“導きのプロ”だったおかげです…続きを読む→