1918年1月25日 金曜日
吾々はついに光の橋にたどり着きました。上り傾斜になっているその橋を暗黒側の端から登って光明界側の端まで来ると、そこでしばし休憩して、それまでの仕事の成果を振り返っておりました。そこへ吾々の界からの使者がやってきて、吾々の使命の進行過程での神庁における配慮の様子を語ってくれました。
と言うのも、第10界を離れて以来このかた、神庁においては片時も吾々との霊的接触をゆるめることはなかったのです。彼はその具体的な例として吾々が重大な事態に立ち至り火急の援助と導きを必要とした時に神庁において打たれた手段の幾つかを語ってくれました。
そのうちの幾つかは吾々にもその時点ではっきりと分かっていたものや何となく感づいていたものもありましたが、大部分はその時の抜きさしならぬ状態の中で全神経を集中していたために、外部から援助されている事実すら気づいておりませんでした。
それというのも、そうした暗黒界においてはその界層特有の環境条件に身体の波長を合わせるために、霊的な感覚がある程度制限されるのはやむを得ないことなのです。
その点は地上界に身を置く貴殿も同じです。たとえ吾々による手助けに気づかれなくても貴殿はいつも見守られており、必要なときには然るべき援助を授かっておられます。
さて途中の界でのことは省略して、一気に第10界に帰ってからの話に入りましょう。第10界を取り囲むように連なる丘の上で吾々は一団の出迎えを受けました。みんな大よろこびで吾々の帰還を待ちわびており、吾々のみやげ話を熱心に聞きたがりました。
そこで吾々はいっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ“聖なる山”の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて“聖なる山”を登り、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。
そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来てみると、そこに大群集が集まっており、跪(ひざまず)いて姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。吾々はそこを通り抜けて最後部で待機したのですが、吾々の動きに一瞥(べつ)すらくれる者は1人もいませんでした。
地上の人間は真の静寂を知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。第10界のあの大聖堂での讃仰の祈りの時はまさしく静寂そのもので、崇厳さと畏敬の念に満ちておりました。
かりに貴殿がはるか上空へ地上を離れれば、次第に地上の騒音から遠ざかることができるであろう。が、それでもなお空気との摩擦があり、微(かす)かとはいえ一種の音によって完全な静寂は破られるであろう。さらに大気圏を離れても、惑星間の引力作用による潜在的な音の要素がエーテルに響いている。
太陽系を離れて別の太陽系との間の虚空まで行けば、幾百万光年の彼方の地球はもはや見ることも感知することもできず、ほとんどその存在は知られなくなることであろう。
しかしエーテルが存在する。たとえ貴殿の耳には何の音も届かなくても、エーテルを応接間に譬(たと)えれば空気はその控えの間のような存在であるから、音と隣り合わせていることになり、両者は言わば親戚関係にあることになる。
ところがこの第10界までくると、そのエーテルを10倍も精妙化したような大気が存在する。ここでの静寂はそれに浸る者への影響の観点から言えば消極的なものではなく、むしろ能動的な“1つの存在”を有している。つまり“音が無い”という意味での静寂ではなく、静寂という実体があるのである。
それも一種のバイブレーションをもつ存在である。がその周波はきわめて緻密で、音の皆無の状態と同じなのである。私にはこれ以上の説明はできかねます。肉体という鈍重な物質に宿っている貴殿には、吾々があの大ホールへ入った時に体験した状態は、その万分の1といえども想像できるものではありません。
最後部の座席で待機していると、前回吾々を見送ってくださった方が中央の通路を通って近づいてこられ、私の手を取って祭壇へと案内してくださった。その祭壇は例の玉座のある拝謁の間にあり、吾々が暗黒界への使命を給わったのもその部屋でした。
使命を終えて再びその部屋へ戻ってきた時の吾々は、あの暗黒界での辛酸をなめさせられて、いささかやつれぎみでした。顔の表情から数々の闘争のあとが窺(うかが)われました。というのも、私が貴殿にお話したのはほんの一部であって、決してあれがすべてではなかったのです。
善と悪との絶え間ない戦いをくぐり抜けてきた戦士のようなものでした。しかしその傷あともシワもいずれは霊格の一部として融合し、一段と品格を高めてくれることでしょう。吾らが主イエスも身をもってその模範を垂れ、聖なる美への道をお示しになられたのです。
実に、身にまとわれる衣にも犠牲の教訓が読み取れるほどの主の美しさは、地上の言語はおろか天界の言葉をもってしても、私には表現することはできません。
吾々一団は祭壇から少し離れた位置で足を止め、同じように跪(ひざまず)いて存在の根源すなわち絶対神への祈りを捧げた。むろん絶対神は顕現の形でしかその姿をお見せになることはないし、それも滅多にあることではない。それもほとんどが主イエスの形態で現れる。
その理由は地上人類の1人として降誕されたその体験ゆえに、その段階での吾々にとってより交わりを得やすいからです。やがて合図を感受して全員が頭を上げて祭壇へ目をやった。
合図といってもただ吾が身の内と外にある存在感を感じ取ったにすぎない。見ると祭壇の左手に主のお姿があった。主は2度と同じ姿をお見せになることはない。どこかに新らしいもの吾々の心を捉え教訓を物語る何ものかを備えておられる。
その頭部の上方に7人の尊い天使のお姿が1列に並んで見える。胸で両手を交叉させ、立ったまま黙しておられる。目は閉じてはいないが、瞼が下がり主の少し後方の床へ目線を落としているようであった。身には各種の色合いの混じったゴースの衣をまとっておられる。
外から色づけしたものではない。意識的に表現するのでなしに、自然にその色合いが出ているのである。地上にそれと同じ色合いを見つけることはできないが、そのほかにも地上のバイオレット、ゴールド、淡いクリムソン – ピンクとはちがいます。
今の貴殿には理解できないでしょうが、そのうち分かります – それにブルー等々が混じっている。ほぼそれに近いという程度ですが、実に美しいものです。ゴースの衣をまとっているとはいえ、身体そのものから出る美しさは譬えようもありません。
その至純さもまた譬えようもなく神々しく、それが衣に反映して放つ光輝は、それによって外から飾るのではなく、それがその存在の一部となり切って神々しさを引き立てている。
それぞれの頭部には光のベルトが輝いており、その生き生きとした様子は、心が讃仰へ、あるいは愛へ、あるいは慈悲心へと変わるごとに輝きが変化するほどでした。
7人の天使の心は完全なる調和と落着きを保っているために、わずかな心の動きでもすぐさま光のベルトに反応を示し、同時にブルーの衣を通してクリムソンのきらめきが、そしてバイオレットの衣を通してゴールドのきらめきが放たれるのでした。
祭壇のわきに立たれるキリストの容姿は7人の天使に比べて一だんと鮮明度が強烈で、容貌も細部までよく見ることができました。頭部には2重の冠をつけておられる。1つの冠の内側にもう1つ見える。外側の大きい方は紫色をしており、内側の小さい方はクリムソンの混った白色をしている。
その2つが幾本かの黄色の棒でつながれ、その間に実に可愛らしいサファイアの宝石が散りばめられ、冠全体から放たれる光輝が頭上で1つの固まりとなっています。身体全体がきらめく銀色の光に包まれ、クリムソンパープル(深紅と紫の混じったもの) – この色は地上には存在しません – のマントを羽織っておられる。
胴体の中ほどに金属性のベルトを締めておられ、銀と銅の中間の色をしている。私はいま主の容姿を私にできるかぎりに叙述しております。ときに地上の用語を妙な組み合わせで使わざるを得ませんが、それでも私の慮伝えたいこととは程遠いことばかりです。
胸もとにはルビーの首飾りがあり、それがマントを両肩のところで留めております。右手に色彩豊かな棒状のアラバスター(石膏の一種)を持ち、その先端を祭壇にそっと置いている。左手は腰のあたりに当てがい、親指をベルトの中に入れておられる。そのせいでそのあたりのマントが片側へ広がっている。そのお姿の優美さは仁愛に満ちたお顔と完全に調和しておりました。
– そのお顔は地上の絵画に見る例のお顔と似ていますか。
似ていますが、ほんの少しだけです。ただし、主のお顔は顕現のつど、どこかが少しずつ異なっていることを知っておかれたい。本質的には少しも変わりません。この度もそのお顔から受けた印象は王者のそれでした。悲哀(かなしみ)の人でありながら全体には王者の風格がみなぎっておりました。
その中に吾々は神の御国に到達された方のしるしを読み取りました。そこへ到達されるまでの葛藤の痕跡は、その成就とともに訪れる“のどかさ”の中に吸収されつくしておりました。
貴殿は今その時の主のお顔に地上の肖像画に見えるような“あごひげ”が付いていただろうかと思っておられますが、私が見かけたかぎりでは、ありません。実は私は主があごひげを付けておられるのを見かけたことがないのです。すでにに50回ないし60回はご尊顔を拝しているのですが…
もっともそれは否定する理由にはなりません。主があごひげを付けてはならない理由はありません。時にはお付けになって出られるのかも知れません。ただ私は見たことがないというまでです。それ以上のことは言えません。
さて吾々が主を見つめ、それから頭上の天使に目をやっていると、やおら主がお言葉を述べられた。貴殿にはその大ホールの全会衆へ向けて述べられたお言葉の意味は理解しかねるであろうから割愛するとして、いよいよ吾々帰還したばかりの15人に向けてとくに語られたお言葉は – 語るといっても貴殿らが語るのとは異なるのですが – およそ次のようなものでした。
「さて、暗黒の飛地(とびち)より帰られたそなたたち。実はその後私も同じ土地へ赴いていたことを知られたい。群より離れた彼の地の小羊たちには私の姿は幽(かす)かにしか、それも稀にしか見えないことであろうが、私は父がお造りになられた世界の最僻地までも赴き、そこから上層界へと向かいつつ、そなたたちと同じように彼の地の者たちに語りかけてきた。
数多くの者が私の声に目を覚まし、その顔を光明界へと向けてくれた。が、私に背を向けて暗黒界をさらに深く入り行く者もいた。彼らは私がそこに存在することそのことから受ける知覚に耐えかねたのである。その時はことさらに私の影響力が増幅されていた。今もそのまま残っていることと思う。
そなたたちはそのとき私に背を向けた者たちがその後たどりついた場所までは踏み込んでおられない。が、私は今なおその地で彼らと共にあり、いつの日かは彼らもこの地において私と共にあることになろう。
さて、私の忠実なる使者であるそなたたちは、よくぞ私の計画を推進なされた。私は私の本来の住処(すみか)よりそなたたちの仕事ぶりを注視していた。名誉の負傷なくして帰ることを得なかったことであろう。私も同じように傷を負いました。
彼の地の者をこの光明界へと誘(いざな)わんとするそなたたちの誠意ある意図は必ずしも妥当なる信任を得なかったが、それは私も同じである。余計なお世話と言われたこともある。そなたたちは彼の荒涼たる大地に住める同胞の苦悶の様子を見て、さぞ心を痛めたことであろう。
そして又、時には、これで果して神は父と呼ばれるべき存在であり得るのかとさえ思えたこともあろう。とくに彼らの苦しみを我が苦しみとして受けとめ我が身を滅ぼさんばかりになった時はなおのことだったであろう。
しかし我が親愛なる使者に申し上げよう。私も又、他のことと同様このたびのことにおいても、人間的苦悩の深奥を極める体験をさせられました。父が私から顔を背けられた時に私も暗黒の苦しみを味わったのです」
(訳者注 – 最後の一文は多分はりつけにされた時のことを指すのであろう。その直前イエスは窮地を救ってくれるよう父なる神に祈った – “父よ、御心ならば、何とぞこの苦しみの杯(さかずき)を取り除き給え。が、どうぞ私の願いでなく御心のままになされんことを”と。そして有名な最後の一句“エリ、エリ、レマ、サバクタニ” – 神よ、神よ、何ゆえに私を見捨て給うや – を唱えて息を引き取った)
主は静かに、穏やかに、そして抑揚の少ない調子で話されました。しかも話しておられるうちに、その目の表情がはるか遠くの眺望の中へ霧のごとく融け入るようにみえました。
それはあたかも今そうして話をされている最中も7人の神々(こうごう)しき天使と共に、そこの大聖堂にいるのではなく、彼の暗黒の地においてその土地の者たちと苦しみを共にされているごとく思えました。
しかしそのお言葉に苦の情感は感じられませんでした。感じたのは主みずから語られた邪悪への哀れみと支配力の尊厳でした。さて再び主のお言葉に戻って、私に可能なかぎり地上の言語に直してみましょう。
「そこで私はそなたたちが父の優しさと恩寵を求めて祈る際に身につけるべきものとして、このたびの旅と尽力と苦難のしるしを授けよう」
主が言われたのは新たに授かった宝石のことで、それが吾々の“礼拝の冠帯(ダイアデム)”に付け加えられたのです。主はそれから左手を高く上げられ、その手で、跪いている全会衆の頭上をゆっくりと円を画くように回され、そして最後の言葉を述べられました。
「私はこれにて去り、あとは私の代理の者が、そなたたちがこれより先この界において為すべき所用を申しつけることになろう。その仕事には私がいつでも援助すべく待機しているであろう。壮大なる計画のもとに行われる仕事だからです。急いで着手してはなりません。
が着手したら総力をあげて忍耐づよく取り組み、知識と力とにおいてそなたたちに優る上層界の者による修正を必要とせぬよう、首尾よく仕上げてもらいたい。必要なときは私を呼ぶがよい。それなりの援助はいたそう。が必要以上に求めてはならぬ。
その仕事は下層界の向上のためであると同時に、そなたたち自身の向上のためでもある。そのことを銘記して、これまでに身につけた力を精一杯駆使して成就されよ。
ただ、しかし、私の援助を求めることを怠ったがために支障をきたすことがあってはならぬ。そなたたちの力にて見事に成し遂げるということの方が、いたずらに仕事を進行せしめることよりも大切である。何となれば、その仕事は私の父のためであり、そして私のためでもあるからである」
そう述べられてから祝福と祈りをこめて再び手を上げられ、非常にゆっくりとした口調で“神ぞ在(ま)します”と言われました。
そう述べているうちに主と七人の天使は本来の界へ戻るべくゆっくりと視界から姿を消され、吾々一同は静寂の中に残されました。が、その静寂の中に主の存在感がなおも感じ取られ、その静寂に包まれて吾は、その静寂そのものが主の御声であり、吾々のために語りかけてくださっていることを知りました。そうと気づいて吾々は一瞬ためらいを覚えましたが、ためらいつつも再びそれに耳を傾けて礼拝したのでした。
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