【9/12】モーゼスの「霊訓」(下)第25節 旧約聖書の実像

[これまでに得た新たな観点からモーセ関係の記録の本質を検討してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることができ、結局“モーセ五書”はひとりの作者によるものではなく、数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると – ]

われわれの手引きによるバイブルの再検討において、そなたは正しい結論に達した。そなたその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものにすぎず、いかに信の置けぬものであるかを知ってもらうためです。そのカギを知らない者には見分けのつかないものなのです。この点は、われわれとしても、とくと訴えたいところです。

古代の宗教書から引用した言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時にその引用した書の実像と、その言説のもつ特殊な意味にもよります。

最古の書の中にも崇高な神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出た新しい書の中に、この上なく冒瀆的で、きわめて人間的な、不愉快千万な概念を見出すこともできます。

たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する神への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し、敵の血をすすって満腹する残忍至極の怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。

その説くところはひとつひとつ質が異なり、それをいくら集めたとて、正しい理性でもって判断すれば個々の話以上のものとはなり得ません。そなたは、無知ゆえに真相を捉えそこねて過ちへと迷い込むことのないよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要です。

啓示の質は霊媒で決まる

重ねて言うが、啓示とは時代によって“種類”を異にするのではなく“程度”を異にするのみです。

その言葉は、しょせん、人間的媒体を通して霊界から届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけその霊媒を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになります。

要するに霊媒の知識の水準がすなわち啓示の水準ということになるわけです。ゆえに、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の古記録に見られる時代においては、その知識水準はきわめて低く、特殊な例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではありませんでした。

人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しんですべてをご破算にするような、情けない神を想像した時代から、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきました。

より崇高にして真実に近い概念を探ろうとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、それを改め、野蛮的想像力と未熟な知性の生み出した神の概念に満足できなくなった段階に到達した時代にまで下らねばなりません。野蛮な時代は崇高なものは理解し得ず、したがってより崇高なものは何ひとつ啓示されませんでした。

それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものです。人間のそもそもの過ちの根元は、その愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いできたことにあります。神学者がそれをすべての時代に適用さるべき神の啓示であるとしたことにあります。その過ちをわれわれは根底から改めたいと願っているのです。

もうひとつ、それよりさらに真理を台なしにするものとして、神は全真理をバイブルの全筆録者を通じて余すところなく啓示し、したがって根元的作者は神であるがゆえに、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するという信仰があります。この誤りはそなたの頭からはすでに取り除かれています。

その証拠に、もはやそなたは、神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるはずはなく、時代によって相反することを述べたはずもないということを理解してい
ます。霊界からの光が無知蒙昧な霊媒を通じて送られ、その途中で歪められたために、そういう事態になったのです。

そうした誤った言説に代ってわれわれは、啓示というものがそれを送り届ける霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性に、その霊による“程度”が生じると説きます。

またそれゆえに、そのひとつひとつについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋な人間的産物を批判し評価するのと同じ態度で判断すべきであると説くのです。そうなれば、聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるでしょう。

すべての聖典を1個の資料として提供されたものとして取り扱うことになるでしょう。そうした批判的精神でもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられてきたものの多くを否定せねばならないことに気づくはずです。

モーセ五書

さて、そなたは“モーセ五書”について問うている。これは、前にも少し触れたように、何代にもわたって語り伝えられた伝説と口承(こうしょう)が散逸するのを防ぐ目的で、エズラが集成したものです。

その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は、記述者が伝説にさらに想像を加えたものにすぎません。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られます。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものです。

その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全な資料によってなされたものであり、それが又、さらにそれ以前の伝説と口承にすぎなかったのです。いずれの場合も、モーセ自身の言葉ではありません。また律法に関する部分の扱いにおいても、真正な原典からの引用部分は例外として、他に真正なものはひとつも存在しません。

いずれバイブルの初期の書に見られる神の概念について詳しく述べることになりましょうが、今は、そうした書が引用している話や伝説は、他の資料によってその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も、一顧の価値もないものであることを指摘するに止めます。

[この通信は結果的に私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)のふたりの記録までたどることができると考えた。

それは例えば“創世記”第1章および第2章の[3]と第2章の[4]の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第20章)と同第12章の[10]~[19]および第26章の[1]~[2]の対比に見られる。この見解が正しいか否かを尋ねた。]

それも数多い例証の中のひとつにすぎません。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身辺にいくらでも存在することに気づくでしょう。問題の書はエズラのふたりの書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用した伝説的資料です。

数が多く、サウル王(5)の時代に蒐集されたものもあれば、さらに前の、いわゆる“イスラエルの士師”(6)の時代に蒐集されたものもあり、またソロモン(7)とヘゼキア(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたものもある。いずれも口承で伝えられた伝説に格好をつけたものにすぎません。

啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘しました。それ以前のものはどれも信が置けません。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしもすべてが正確とはいえません。が、全体としての啓示の流れは、これまでわれわれが述べてきた通りであったと思えばよろしい。

[旧約聖書の聖典がそのような形で決められたとなると、“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるのかを尋ねた。]

預言者

あの預言の書はすべて、エズラ王の権威のもとに、現存していた資料を加え配列したにすぎません。そのうちのハガイ書(10)、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)は、その後に付け加えられたものです。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキとともにその後の書を付加して、ついに旧約聖書なるものを完成させました。

このふたりとゼカリアの3人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を予言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時に、その場に居合わせる栄誉に浴しています。予言者ダニエルは実に優れた霊覚者でした。

有り難きかな神の慈悲。有り難きかなその御力の証。

– “ダニエル書”第10章にある“幻(まぼろし)”の話ですか。

ヒデケル(16)の土手のそばでの出来事でした。

– 同じものです。ということは、予言者の言葉からの抜粋にすぎないということでしょうか。

抜粋にすぎません。それには、もともと隠された意味があり、表面には出ておりません。霊現象の多発する時代が過ぎ去ろうとする時に、過去の予言の記録から抜粋されたのです。そして再び霊の声の聞かれる時代まで、聖典も閉じられたままになったのです。

– ダニエルは大予言者、つまり霊覚者であったと言われますが、当時は霊的能力は珍しくなかったのでしょうか。

ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えておりました。霊的時代の幕が閉じられるころは、霊的能力も滅多に見られなくなっていきました。が、今の時代に比べれば霊力の開発に熱心でした。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解しておりました。

– となると、旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。

まさしくその通りです。記録する必要もなかったのです。記録されていたものでも、そなたたちのバイブルから除外されたものもまた多くあります。

[それから2、3日後の11月16日に、かねてより約束の、神の概念についての通信を要求したところ – ]

神の概念の発達

聖書に見られる神の概念については、これまでにも折にふれて述べてまいりました。このたびは次の諸点、すなわち神の概念が徐々に進歩してきていること、ゆえにアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われわれが常に指摘している基本的真理 – 神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは、バイブルの至るところに見られることなどを、さらに明確に致したく思います。

その基本的概念を念頭に置いた上で、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めば、われわれの指摘する通りであることが一目瞭然となるでしょう。

初期の族長時代においては、絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていました。アブラハム、イサク、ヤコブの親子3代にわたる神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れませんが、近隣の族長の神よりも優れていたというにすぎません。

アブラハムの父は、そなたも知るとおり、変った神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていました。いや、実は当時はそれが当たり前のことだったのです。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのです。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えるでしょう。(17)

さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し脅迫までしている。そのラバンはある時、家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根もとに埋めて隠したりしている。こうした事実を見ても、エホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのです。つまり唯一絶対の神ではなく、一家族の神にすぎなかったのです。

そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことでした。モーセでさえ、その絶対神の概念においてまだ、“他の神より優れた神”といった観念から完全に抜け切っていたとは言えません。

そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはいないという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られます。

かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べたりしています。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも、“他の神よりも優れた神”の観念を見ることができるでしょう。

真の意味での絶対神に近い観念が一般的になってきたのは、そうした人間神の観念に反発を覚えるまでに成長してからのことでした。“預言書”ならびに“詩篇”を見れば、神の観念がそれ以前の書にくらべてはるかに崇高さを増していることに気づくはずです。

この事実に疑問の余地はありません。神はバイブルの中においてさまざまな形で啓示されています。崇高にして高邁(まい)なものもあります。“ヨブ記”と“ダニエルの書”がそれです。

一方、卑俗にして下品なものもあります。歴史書と呼ばれているものがそれです。が、全体としてみた時、そこに神が人間の理解力にふさわしい形で啓示されてきていることを窺うことができるでしょう。

また、それは必ずしも直線的に進歩の道をたどって来たともかぎりません。傑出した人物が輩出した時は、神の概念も洗練され品格あるものとなりました。必ずそうなっております。ことにイエスが絶対神を説いた時がきわだってそうでした。

今なお優れた霊が霊覚者を通じて、その崇高なる神の観念を伝え、より明るい真理の光を地上にもたらしつつあります。そなたが生きてきた全世代を通してその働きは続いており、かつてよりはるかに明るい神の観念が啓示されつつあります。

備えのない者は見慣れない眩(まぶ)しさに目をしばたかせ、目を被い、暗闇へと逃げ込みます。神の真理を正視しうるまでに魂の準備ができていなかったからにほかなりません。

– 聖火の伝達者ということになると思います。確かに歴史を見れば時代より1歩先んじた人物がいたことは容易に知ることができます。思うに、人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことがわかります。

そうでなければ、永遠の成長ということが言えなくなるわけですから…。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。

自分の無知に気づかれたことは結構なことです。それが向上の第1歩なのです。そなたは今やっと真理の神殿のいちばん外側の境内に立ったようなものであり、奥の院にはほど遠い距離にあります。

まず外庭を幾度も回って知り尽くしたのちに初めて中庭に入ることを許されるのです。まして奥の院を拝するにふさわしい時が到来するまでには、永く苦しい努力を積まねばなりません。

が、それでよいのです。焦らぬことです。祈ることです。静かに、忍耐づよく待つことです。

†インペレーター

[注釈]

(1)Elohist 旧約聖書の最初の6書の中で神のことを Elohim と呼んでいる部分の編者のこと。注(17)も参照。

(2)Yahwist 旧約聖書の最初の六書の中で神のことをYahwehと呼んでいる部分の編者のこと。

(3)Elnathan

(4)Joiarib

(5)Saul イスラエル第1代の王。

(6)Judges of Israel 裁き人、執権者。

(7)Solomon 紀元前10世紀のイスラエルの王で、ダビデの子。

(8)Hezekiah 紀元前8~7世紀のユダ王国の王。

(9)Joshia 紀元前7世紀のユダ王国の王。

(10)Haggai 紀元前5世紀のヘブライの予言者。

(11)Zechariah 紀元前6世紀ごろのヘブライの予言者。

(12)Malachi 紀元前5世紀のユダヤの予言者で、これは本書でインペレーターと名のっている霊であるという。

(13)Gabriel バイブルにいう7大天使のひとりで、宇宙経綸をあずかる神庁の最高位の霊であるとされている。

(14)Michael バイブルにいう4大天使のひとりで、悪の勢力との対抗をあずかる霊団の最高位の霊であるとされている。

(15)Daniel 紀元前6世紀のヘブライの予言者。

(16)Hiddekel チグリス川のこと。トルコ、イラクを通り、ユーフラテス川と合流してペルシャ湾に注ぐ。

(17)エロヒムというのはイスラエル民族の神の呼称で、それもモーセ以降に生まれた概念であるから、エホバ・エロヒムといえば限られた特殊な神ということになり、絶対神ではないことになる。

「成長している」霊団が僕を最悪の中に閉じ込める理由がコレなのだそうですが(祈)†■2024年9月11日UP■
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僕はずっと「反逆」という表現を用いていますが、これは反逆ではなく正当防衛だ、僕が脱出しようとしているのは人間として至極当然の事だと、かなり本気で思います。理不尽にもほどがあるだろ、全く何の結果にも到達させないつもり、ただ苦しみだけを延々味わわせると言われて誰がそれに従うか?んんん要するに「視点の置きどころ」が僕たち物質界生活者と霊界生活者とでは根本的に違うという事ですね。霊界には時間の概念がありませんし、物質界で学ぶべきを学ばずに下層界でたむろしている大量の低級霊に長年悩まされている事情もありますから、地球圏を経綸している方々としては強姦殺人魔の問題のみならず地球圏が抱えている問題も解決させたいという願望もあるのでしょう。で、悔しいですがこういう風にまとめるしかないでしょう。僕は霊団の仕事の進め方に超超超ムカついています。しかし現在僕を導く仕事をしている「100の光の霊団」のメンバー達も、かつて物質界生活中に現在の僕と同じような目に遭わされてそれを耐え抜いた方々であるという事です。でなければこの仕事を与えられませんので。できない人間にやらせる訳がありませんからね…続きを読む→
「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†■2024年8月29日UP■
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やはり「海割り」のシーンは何度見ても爽快ですね。この紀元前12世紀のモーセ氏が僕の「100の光の霊団」に協力して下さっているなどという事がどうして信じられるでしょう。霊団にそのような事を言われてもまるで絵空事のように聞こえます。よほど強烈な霊現象か何かでもこの眼で見ない限りそんな事は信じられるはずもありません。しかし霊団は「私を信じて欲しい」と言ってきてます。このインスピレーションがモーセ氏の思念という根拠はどこにもありませんので、まずは静観しておきましょう。これまでの霊団の動きからして、何もなく素通りしていくに決まってますので。ひとつたりとも言った通りになった事がありませんからね。しかし久々にムービーの作業をやってみて、やはりムービーは大事だなぁと改めて思ったりもします。僕はYouTubeにムービーをUPしても100%消されますから「消されると分かっているモノに対してパワーはかけられない」という気持ちが働いてトレイルムービーを作り続けられなくなったという経緯がありますが、このようにWordPress上にUPする事も一応できます…続きを見る→
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†■2024年7月24日UP■
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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†