【9/14】モーゼスの「霊訓」(下)第27節 古代インドの霊的思想

[ある書物でインドが人種と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でも、その問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと、プルーデンスがこう綴った – ]

救世主信仰は太古からある

その通りです。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くは、インドにその源流を発しています。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきています。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものでしたが、それにインドに由来する神話が付加されていったのです。

たとえば救世主出現の伝説は太古からあります。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像しました。キリスト教の救世主信仰も、もとをたどればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことができます。

インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は、今の貴殿にとって必要欠くべからざるものです。関心を向けていた
だきたい。援助する霊を幾人か用意してあります。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ – これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて、今こそ学ぶべきです。ジャイミニー Djeminy(1)とヴェーダ・ヴァーサ Veda Vyasa(2)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばなりません。

そのことに関しては、その時代に地上生活を送りその事実に詳しい者が、いずれ教えることになるでしょう。が、その前に、地上に残る資料をみずからの手で蒐集する努力を積まねばなりません。指導はそれが終了したのちのことになります。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分たちを救ってくれる者の存在の必要性を痛感してきたこと、そして又、そうした救世主にまつわる伝説が太古から繰り返されてきている事実を見出さねばなりません。

数多くの伝説を生んだ神話のひとつが、純潔の処女デーヴァキ- Devaki の奇跡の子クリシュナ Chrishna(3)の物語であることもわかるであろうし、そうした事実が、これまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなるでしょう。

もっとも、われわれはこの事実を重大なものとして、早くから指摘しております。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する無知と相まって、われわれに手控えざるを得なくさせてきたのです。

このほかにも、まだまだ取り除かねばならない夾雑物があります。これを取り除かないかぎり、正しい思想体系の構築は望めません。大まかな荒筋においてさえ、貴殿にはまだ奇異に思えるものが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ、細部へ入ることはできません。

たとえば、古代の4大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教は、その大半がインドから摂り入れたものです。インドの大革命家であり説教者であったマヌ Manou(4)がエジプトではマーニー Manes となり、ギリシャではミノス Minos となり、ヘブライ伝説ではモーセ Moses となった。

いずれも固有名詞ではなく“人間”Man を意味する普通名詞でした。偉大な真理の開拓者は、その顕著な徳ゆえに民衆から The Man と呼ばれたのです。(5)民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけです。

大思想家マヌ

インドのマヌはイエスより3000年も前の博学な学識者であり、卓越した哲学者でした。いや実は、そのマヌでさえ、それよりさらに何千年も前の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者にすぎません。

ペルシャのゾロアスター(6)が説いた真理も、すべてマヌから学んだものでした。神に関する崇高な概念は、元をたどればマヌに帰します。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同じであることが事実であるのと同様に、間違いない事実であるとの得心がいくでしょう。

近代に至ってからの混ぜものがその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿は類似点を見出し得ないかも知れませんが、博学な言語学者ならば、その同一性を認めることでしょう。

一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せないように思えますが、実はマヌが体系づけ、マーニーがエジプトに摂り入れ、モーセがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取してきたのです。哲学および神学のあらゆる体系にヒンズー(インド)的思想が行きわたっています。

たとえば古代インドの寺院において、絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー Devadassi と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス Osiris の神殿に捧げられる処女の形をとり、古代ギリシャではデルポイ Delphi の神殿における巫女(みこ)となり、古代ローマではケレース神 Ceres の女司祭となり、のちに、かの女神ウェスタ Vesta に身を捧げた処女となって引き継がれていったのです。

こうしたことは、われわれが教えたいことの一例にすぎません。ともかく貴殿の注意をその方向へ向けてもらいたい。われわれはきわめて大まかな概略を述べたにすぎません。細かい点は、これから後に埋め合わせることにしましょう。貴殿はまだ概略以上のことは無理です。

– 確かに私は知らないことばかりです。それにしても、あなたは人間がまるで霊の道具にすぎないような言い方をされます。できのいい道具、お粗末な道具、物わかりのいい道具、悪い道具…。

これまでもしばしば述べてきたとおり、知識はすべて霊界からもたらされます。実質はわれわれの側にあり、人間はその影にすぎません。地上世界でも、教えやすい者ほど多くを学ぶことになるのと同じく、われわれとの交わりにおいても、素直な者ほど多くを学ぶことになります。貴殿に学ぶ心さえあれば、いくらでも教える用意があります。

真理は常に相対的

– 人間には大して取り柄はないということですか?

従順さと謙虚さの取り柄があります。従順にして謙虚な者ほど進歩します。

– 万一霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります?

すべての真理には大なり小なりの誤りは免れません。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれます。

– 霊によって言うことがことごとく違う場合があります。どれが正しいのでしょう?真実とはいったい何なのでしょう?

言うことが違っているわけではありません。各霊が自分なりの説き方をしているまでです。ゆえに細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことです。そのうち貴殿も、“悪”と呼んでいるものが実は“善”の裏側にすぎないことがわかるようになるでしょう。

地上では混じり気のない善というものは絶対に有り得ません。それは空しい夢想というものです。人間にとって真理はあくまでも相対的なものであり、死後も長期間にわたって相対的であることは免れません。

歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければなりません。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければなりません。高く舞い上がれるまでは走るだけで我慢しなければなりません。

プルーデンス

事故死者の霊がモーゼスに憑依

[私が『霊の身元』と題する記事で紹介した、例の他界したばかりの霊による不気味な影響力を受けたのはこの頃だった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。

そのとき私はその事故のことは知らなかった。そしてその夜、グレゴリー夫人宅でデュポテ男爵による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。2月23日(1874年)にその件について尋ねると、その霊の述べた通りであることがインペレーターからの通信で確認された。]

その霊がそなたに取り憑くことができたこと自体が驚きである。そなたがその男の死の現場の近くを通りかかったからです。そのことはあまり気にせぬ方がよい。心を乱される恐れがあります。

– (最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないでいるのに、なぜその男はすぐに目を覚ましたのでしょう?

非業の死を遂げたあとの休眠を取っていないまでのことです。本当は休眠した方がよいのです。休眠しないと、そのままいつまでも地縛の霊となります。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となります。未熟な霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかないことが望ましいのです。

– あのような、想像するだけでぞっとするような死に方をして、霊は傷つかないのでしょうか。

肉体がひどい傷を受けても、霊まで傷つくことはありません。ただし、激しいショックは受けます。それがために休息できず、うろつきまわることになるのです。

– あの霊は死の現場をうろつきまわっていた?それがどんな具合でこの私に取り憑いたのでしょうか。

あのような死に方をした霊は、よく現場をいつまでもうろつきまわるものです。そこをそなたが通りかかった。そなたは極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつけるように、霊的影響を何でも引き寄せてしまうのです。

この種の霊的引力は、そなたにはまだ理解できないであろう。が、それではいけない。地上では低い次元での霊的引力の作用が現実にあるのです。日々の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用しています。

大半の人間は気づいていませんが、すべての人間、とくに霊感の鋭い者は、その作用を受けております。肉体が無くなれば、いっそうその作用は強烈となります。五感を通して伝達されていたものが、親和力と、それと相関関係にある排斥力の直覚的作用に代るのです。

が、この件に関してはあまり気にせぬがよい。あまり気にしていると、ふたたび親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになります。彼には特別の思いがあってのことではありません。そのことは、あの気の毒な霊も、そなたに取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れます。

†インペレーター

[注釈]

(1)インド哲学のご専門の方の助言によれば、Jaimini が正式の綴りであるという。モーゼスの記憶の層にある英語の知識が外来語の綴りの邪魔をしたのかも知れない。

(2)ジャイミニーの師

(3)Krishna と綴られることもある。

(4)原文の綴りのままであるが、同じインド哲学のご専門の方の助言によれば、Manu が正しく Manou という綴りは有り得ないという。訳者の推測では、英語の母音は長音化する傾向があるので、マヌがマヌーとなり、しかも語尾がuで終ってウーと発音する単語は純粋の英語には存在しないので、モーゼスの英語感覚の影響を受けてouとなったのであろう。

ouをウーと発音するものならsoup(スープ),group(グループ),route(ルート)など、いくらでもある。

(5)現在でも、その年で最も活躍の目覚ましかった人を The Man of the Year などと呼ぶ。

(6)Zoroaster 紀元前600年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。Zarathustra とも。

(7)Spirit Identity 心霊誌 Light に連載されたもので、その後1冊にまとめられて1878年に出版されている。

それによると、実は“事故死”ではなく“自殺”である。また、デュポテ霊媒による交霊会となっているが、初めから交霊会を催す予定だったのではなく、会食のために集まった時の出来事である。

食事が終った直後にモーゼスが自動書記の衝動にかられ、あわてて紙とエンピツが用意された。すると“自殺した – 今日自殺した – ベーカー通り – 霊媒が通りかかった”と綴られた。

そのあとは乱れて読めなくなった。というのはモーゼスの興奮の度がひどくなり、やがて入神状態となって立ち上がり、こんどは霊言現象となって「そうだ!そうだ!自殺したんだ – 血だ、血だ、血の海だ!」

と叫んだ。憑依現象はそれだけで終ったのであるが、モーゼスはそれから数時間にわたってひどい不快感に悩まされ、完全に抜け切るまでに数日かかったという。

この事実で興味ぶかいのは、会食に集まった者の誰ひとりとしてその事故のニュースを知らなかったことである。みんな翌日の新聞でそれが事実であることを知ったのだった。

「地上にいる時間はもうそんなに長くない」だったらやるべき事をやり切れよ(祈)†■2024年2月28日UP■
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例えば守護霊は自分が守護を命ぜられた人間が物質界降下の目的を達成できずに(カルマの解消、罪障消滅等)下層界に落ちる事になったら、守護霊側もその責任を負う事になるのだそうです。今回の僕という霊の道具を使用しての霊的使命遂行の霊団(100の光の霊団)も、ここまで事態を悪化させるに至った責任を霊界側で取らされる事になるのかも知れません。そしてそれはもちろん僕にも当てはまり、僕も帰幽後にキビシイ状態にさせられるのは明白です。(反逆の責任を取らされるという事)で、僕はその覚悟で反逆していますから自業自得という事でヨシとして、とにかく仕事は前進させてくれよ。全部とは言わない、何なら少しでもいいよ。とにかく肉眼に映じる結果を出してくれよ。僕は復刊というカタチで肉眼に映じるアウトプットをしようとしている。それの何が悪いって言うんだよ。僕という霊媒が機能しないんだからこうするより他にどうしようもないだろ。僕が単純に思う事は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁をもっと霊的に攻撃しろよ、という事です。霊障の嵐をコイツらに降らせて震え上がらせるなど理想的だと思うのですが、そういう事も一切やろうとしない。僕の事は「愛の試練、霊障イペルマルシェ」でチクチクいじりまわしてきやがるくせに…続きを読む→
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†■2024年2月21日UP■
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しかし僕の心が完全に霊団に対する怒り憎しみに包まれてしまっていて(絶対ムリと分かっていますが)地球圏を離れたいと切望するほどになっています。つまり僕は帰幽後に地球圏の仕事をやるのに適さない人間になってしまったという事になり、それで霊団がしょっちゅう「ゴメンね」とか「残念だ」とか言ってくるのではないか、という予測もあったりなかったり。ただ、仮にこの最後の予測が正解だったとしても、僕をそうさせたのは他でもないあんたたちだろ。守護霊様の管轄内で生活していた時は僕は現在のような精神状態には全くならなかった。Dreamwork一直線で迷いなど全くなく、山に行き続けてはシカちゃん鳥ちゃんに話しかけるような人間でしたので(純粋だったという事)100の光の霊団も守護霊様と同じような導き方をしていれば僕をこんな精神状態にしてしまう事もなかったはずなのです。100の光の霊団、特に支配霊バーバネル氏に僕が言いたい事は「守護霊様を見習えよ」という事です。霊性発現前は全てがうまくいっていた。そして超速的に霊性発現に到達した。守護霊様の導きは空前絶後の大成功だったと僕は思うのです。…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†