【12/14】コナン・ドイルの心霊学 キリスト教の検証
では、ここでキリスト教を例にして、ぜひとも修正すべき教義をいくつか挙げて検討してみよう。
キリスト教徒には申しわけないが、ズバリ言って、教会がその体質をよほど思いきって改めないかぎり、キリスト教は地上から姿を消すことになろう。真実にはこちらから適応するしかない – さもなければ自分が滅びる、というのが存在の大原則である。
ところが教会は科学的常識の発達をよそに、一向に体質を改めようとせず、そのうち信者が半減して日曜集会もガラガラとなり、残ったのは女性ばかり。ついには、都会でも田舎でも、有識者層と極貧層から完全に見放されるに至っている。
なぜそうなってしまったのか、ここでその原因を検討してみよう。これはキリスト教のすべての宗派に共通した傾向であるから、そこに何か共通した深い原因があるはずなのである。
大衆が教会に背を向けていく最大の理由は、正直いって、牧師の説くことを信じなくなったということである。理性と良識が等しく反撥するからである。イエスによる身代りの犠牲そのものの概念が納得できないし、そんなことで宥(なだ)めすかされる神の概念がさらに納得がいかないのである。
さらに、“罪の贖(あがな)い”だの“小羊の血によって潔められる”などといった表現が理解できない。“人類の堕落”だの“原罪”だのを口にする以上は、そのいわれについての説明が学問的にきちんとできていなければならない。
それができずにいるうちに、進化論の発達によって、穴居生活や漂流生活をしていた時代、さらにさかのぼって“類人猿”から“類猿人”へと進化してきた、はるか遠い時代について学び、連綿とした途方もない規模の生命の進化のあとを振り返ってみると、人類は一度も“堕落”などしていない – ひたすら1歩1歩、向上進化を続けてきている事実が明らかとなった。
となると、いったい贖罪(しょくざい)だの救いだの原罪だの、その他、キリスト教の謎めいた思想の大部分はどうなるのか、ということになる。神学大系の中ではいかようにも理屈づけはできようが、“事実”ということからは懸け離れている – そこに問題がある。
また、イエスの死についても大ゲサに扱いすぎている。信仰のために死ぬことは別に珍しいことではない。どの宗教にも殉教者というのがいるものだ。いつの時代にも信念のために死んでいった人がいる。今この時点(第1次大戦中)でも、祖国イギリスのために何万という若者がフランスで死んでいる。
したがってバイブルの中のイエスの死は、たしかに美しくはあるが、それが革命のための、他に類のない特別な出来事であったかのような、必要以上の重大性を謳(うた)いすぎているように思えるのである。
私に言わせれば、死よりも、むしろイエスの“生きざま”の素晴らしさについての言及が少なすぎると思う。イエスの偉大さと本当の教訓は、その日常生活にあったと思う。バイブルという限られた記録の中で見るかぎりでも、イエスの取った態度に見苦しいものは何ひとつない。
人への思いやり、やさしい慈悲心、ゆとりのある中庸性、穏やかな勇気、つねに進歩的で新しいものを受け入れていく態度、それでいて自分が改めさせようとしている旧式の考えに対しても必ずしも辛辣(しんらつ)ではなかった点など…。
もちろん、時としてあまりに頑迷で量見の狭い聖職者に対しては、激しい不快感を露(あら)わにしたことはある。とくに宗教の本質を説き、教理や儀式にこだわることの非を説いているところなどは共感を覚える。
イエスほどの逞(たくま)しい良識と人間の弱みへの同情心をそなえた人物は、まずいない。このように、キリスト教の本当の核心はイエスの死ではなく、生きざまの中で見せたその“素晴らしい非凡さ”でなければならないと私は考えるのである。
イエスの実像
では次に、その点について霊界通信はどう述べているかを見てみよう。高級霊が述べていることも、必ずしも完全に一致しているわけではない。が、数多くのスピリットからの通信を検討した結果、およそ次のようなことが言えそうである。
この地上を去って霊界入りしたスピリットよりさらに霊格の高いスピリットが存在する。それにもいくつかの界層がある。古い宗教用語を用いれば“天使(エンゼル)”である。その界層をのぼりつめたところに最高級のスピリットが存在する。絶対神ではない。絶対的存在ならば無限の普遍的存在であるから、1個の存在として認識することはできない。
その最高級霊はそれ以下の存在よりは絶対神に近い存在であるから、それだけ絶対神の属性を顕現していることになる。それが“キリストのスピリット(9)”である。
地球の守護の任をあずかる存在で、その高級霊が今日とあまり変らない邪悪に満ちた時代 – 腐敗と悪行で堕落しきった時代に、この地上に肉体をもって降誕した。目的は人間としての理想の生き方の範を示すためだった。そして、大きな足跡を残して地上を後にし、本来の所属界へと戻っていった。
以上が霊界から届けられた情報によるキリストの実像である。“贖罪”とか“救い”とかの概念はみじんもない。あるのは、われわれ凡人にも実行可能な、納得のいく生活教訓である。これなら私も信じられる。
もしもこうしたキリスト教観が一般に受け入れられ、さらに、次々と霊界から届けられている“新しい啓示”によって確信が得られ、さらに“しるし”によって確認が得られれば、キリスト教会をひとつにまとめる教義が生まれ、それは科学とも握手し、いかなる攻撃にも対処できる、無窮の未来までも永続する信仰体系が確立されるであろう。
理性と信仰がついに和解し、うなされ続けた悪夢から解放され、霊的な安らぎに満たされることになるであろう。もとより私は、それが一気呵成の征服や無謀な革命のような過程で成就されるとは考えていない。
永遠の地獄説のような幼稚な考えが薄れていくにつれて、徐々に参透していく性質のものであろう。が、それには、人間の魂が艱難によって培われ均(な)らされるということが先決であって、その時はじめて真理の種子が植えられ、それが霊的な実りをもたらすのであろう。
私はスピリチュアリズムの知識に照らしながら新約聖書を改めて読み直してみて、キリストの教えの肝心なところが、初期キリスト教時代にすでに失われてしまっていて、その後のキリスト教徒が、今日に至るまで、それについて何も知らずにいることを知り、深く考えさせられた。
現代に伝えられているキリスト教思想においては、スピリチュアリズムが扱っている“死”の真相を教える現象は大して意味をもたないようである。が、スピリチュアリズムの勃興以来、霊媒現象を通して得られたものによって死後の実相を垣間見た者にとっては、死の問題は完全にクリアされたといってよい。
心霊現象の原理は今も昔も同じ
バイブルの中には現代でいう浮揚現象、一陣の風、霊的能力、超常現象といったものが実に多く出ている。それを読んでいると、最も重大な中心的課題である死後の生命の存続と死者(スピリット)との交信は、当時から間違いなく知られていたのだと思う。
また“ここの者たちは信じる心を持たないから不思議現象は起こさなかった”という言葉に見られるキリストの考えは、心霊現象の研究によって分かった心霊法則と完全に一致してはいないだろうか。
また、病気の女性がキリストの身体に触れた時、“今わたしに誰か触わりましたね?わたしのからだから徳力が脱け出て行きました”と言ったというが、この“徳力”なるものは現代の心霊治療家が“霊力”と呼んでいるものと同じであろう。さらに、“まずそのスピリットの本性を試せよ”という戒めは、安直に霊能者を頼りにする無知な人間に対する絶好のアドバイスといえるであろう。(10)
こうした問題は私が扱うには大きすぎるが、ただはっきり言えることは、今キリスト教会内でも過激にスピリチュアリズムを批判している一派が否定しているそうした事実こそ、実は本来のキリスト教の中心的な教えであらねばならないということである。
このテーマについてもっと詳しく知りたい方はウォーレス博士の『ナザレのイエス(11)』をお読みになることをお薦めする。小冊子ではあるが、実に価値ある1冊で、絶版になっていなければ幸である。
その中でウォーレス博士は、キリストの奇跡がすべてスピリチュアリズムでいうところの心霊的法則の範囲内におさまるものであることを、説得力をもって論証している。右に挙げたものがその一例である。
その他にも数多くの例が細かく論証されているが、その中でも私が最高に得心がいったのは、キリストがペテロとヤコブとヨハネの3人を“変容の丘”へ連れて行ったのは3人を霊媒として使用するためで、高い山を選んだのは清浄な雰囲気を求めてのことだったということである。
3人が眠気を催したのも、イエスの容姿が変化したのも、光の雲が現われたのも、みな心霊実験会で生じているのと同じ現象ばかりである。
“われわれは3つの幕屋を建てましょう”というペテロのセリフの中の“幕屋”とはキャビネットに相当する。あれだけの現象を起こすには3人もの霊媒が必要だったのである。このように、すべてが心霊科学によって説明がつく。
その他、たとえばパウロのいう“キリストの弟子としての資質”というのも、霊視や予知能力、霊的治癒能力、物理現象のための霊媒能力を含む、強力な霊的能力のことを言ったのである。
初期のキリスト教会にはスピリチュアリズムと少しも変らない“しるしと不思議”があふれていた。しかも、“聖職者の便益以外の目的には使用してはならない”などという旧約聖書の“禁”をものともしていなかったようである。
訳註
【1】霊界から地上界へ通信が届けられる方法には大きく分けて次の3つがある。
(1)スピリットが“語る”場合 –
【霊言現象】スピリットが霊媒に乗り移ってしゃべる場合で、日本で“お告げ”とか“口寄せ”と呼ばれているものがこの部類に入る。交霊会の場合は主として中心的支配霊がしゃべり、その支配霊の許しを得て親族の者や知人などがしゃべるという形を取るので、騙される心配がない。
このほかに“招霊会”といって、人間に害を及ぼしているスピリット(日本では“因縁霊(いんねんれい)”と呼ぶことが多い)を霊媒の背後霊団が強制的に乗り移らせて司会者が“諭(さと)す”ことを目的とする会もある。
【直接談話現象】霊媒から出るエクトプラズムという特殊物質で人間の発声器官と同じものをこしらえて、スピリットがしゃべるもので、霊媒から離れた空中から直接声がするのでそう呼ばれている。
(2)スピリットが“書く”場合 –
【自動書記現象】通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合で、“おふでさき”と呼ばれているものはこれに属する。スピリットが高級になると直接乗り移らずに、テレビその他のリモコン操作と同じように霊波によって操る場合と、インスピレーション式に思想波だけを送り、それを霊媒がキャッチして綴る場合とがある。これを霊感書記と呼ぶ。
【直接書記現象】紙と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもので、絵画や記号、暗号などの場合もある。大変なエネルギーを要するので、長文のものは書かれない。
(3)幽体離脱(体外遊離)による旅行体験記の場合 –
霊的身体で体験したことや教わったことを肉体に戻ってから自分で綴るもので、次元の異なる世界の事情を、脳を中枢とした意識でどこまで正確に再現できるかが問題である。
【2】英国の著名なジャーナリストでスピリチュアリズムにも熱心だったウィリアム・ステッドの自動書記によって、生前の仕事仲間だったジュリア・エイムズから届けられた通信が After Death – or Letters from Julia(死後 – ジュリアからの便り)として出版され、反響を呼んだ。
【3】Stainton Moses(1839~1892)
キリスト教神学の中でも最も厳格といわれるオックスフォード大学神学部の出身で、最初の赴任地であるマン島での司牧生活は、牧師の鑑としてその土地の語り草になっているほどであるが、30歳ごろから体調を崩し、S・T・スピーア博士の病院に入院した。
病気の回復が思わしくなく入院加療が永びいているうちに、スピーア家との家族ぐるみの縁が濃くなり、スピリチュアリズムに関心のあったスピーア夫人に誘われて交霊会に出席するうちに、モーゼス自身の身のまわりに驚異的な現象が起きはじめた。
物体が部屋から部屋へと飛んで移動することがたびたびあり、そのうちモーゼス自身が宙を運ばれて、ソファの上に放り投げられるという現象が起きた。楽器類は何ひとつ置いていない部屋で音楽が演奏されることも一再ではなかった。
モーゼス自身はそうした現象が大嫌いで、それを死者のスピリットとする考えを拒否し続けていたが、1871年、32歳の頃から右腕がひとりでに動いて文章を綴るようになり(自動書記現象)、やがて左手でも書くようになり、さらには両足でも書けるようになった。
両手両足で同時に綴ったものが、つないでみると一貫した意味のある見事な文章を構成していることを何度も確かめている。ただ、内容そのものは大した意味のないものばかりだった。が、そのうちキリスト教の信仰と真っ向から対立する内容のものが、整然とした形で現われはじめた。
キリスト教を唯一絶対のものと信じていたモーゼスは、そのことに反撥して“一体あなたは何者なのか”との問いを綴ると、“大神の使者として、地上に流布している神の概念を正し、新しい霊的真理を説くために来た”といった趣旨の返答が綴られた。
そうした形で始まった問答は回を追うごとにキリスト教の根幹にかかわる問題へと発展し、“問答”が“議論”の様相を呈し、さらには“論争”へと発展し、動揺したモーゼスは体調を崩し、スピリットの側はモーゼスのあまりの頑固さに手を焼いて“総引き揚げ”の最後通告を突きつけるといった迫真の展開を見せる。
通信はひとりではなく、インペレーター(仮名)と名のる、紀元前に地上生活をしたという古代霊を中心とした、総勢49名から成る大霊団が組織されていたという。
モーゼスは最終的にはスピリチュアリズムを全面的に受け入れることになるが、それは必ずしも“教え”に納得したというだけのものではなかった。最も大切な点は、インペレーターからの通信を受け取る時の強烈にして崇高な雰囲気によって啓発されたことにゼある。そこが肝心である。
霊的な通信を読む際に大切なのは、そこに何が書いてあるかではなく、それをどういう態度ないし雰囲気で説いているかである。“良いことを言ってる”だけでは意味がない。第一、新しい霊的真理を“いい”とか“間違ってる”とかの判断は人間にはできない。
“いいことを言ってる”というだけなら、何もスピリットの言ってることに限られたことではない。人間の書いたものでも、いいことを言ってるものは幾らでもある。イエスが“まずスピリットを試せよ”と述べたのは、そのことだったのである。
さてモーゼスは、延べにして10年にわたる自動書記通信を Spirit Teachings と題して「ライト」という月刊誌に連載し、それが1冊にまとめられて1883年に出版された。連載中から反響を呼び、単行本となってから今日に至るまで、1世紀以上にわたってロングセラーを続け、今なお“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて愛読されている。
内容はきわめて重厚で、中心的通信霊が紀元前の人物であることもあって表現に古風な傾向が見られる。それを忠実に日本語に反映させた翻訳が国書刊行会から『霊訓』と題して出ている。それを現代風に平易にアレンジしたものとしては、太陽出版から『モーゼスの霊訓』(上)(中)(下)3巻として刊行されている。
なお、モーゼスの死後、スピーア夫人が“追補”の形で編纂したものに More Spirit Teachings という小冊子があり、これには霊言通信も含まれていて興味ぶかい。日本語訳は『インペレーターの霊訓』と題されて潮文社から出ている。(いずれも近藤千雄訳)
【4】霊媒が入神(トランス)状態に入って意識を引っ込め、代ってスピリットがその言語中枢を使用して語る現象のこと。
入神と睡眠との違いは、睡眠の場合は本人のスピリット自体が肉体から離れてしまい、身体は電源を切られた機械のようになって機能を停止してしまうのに対して、入神の場合は、霊媒のスピリットは肉体にとどまったまま意識をオーラの中に引っ込めて、無意識状態のままバッテリーのような役割を果たしている。
霊媒の場合は自我を引っ込める機能を先天的にそなえているために、その切り換えがうまく行くが、これが通常の人間の場合に別のスピリットが何らかの原因で憑依して、ひとつの意識中枢をふたりのスピリットが使用するような状態になると、支離滅裂なことを言うようになる。
これを心理学や精神医学では二重人格症ないし多重人格症といい、原因はスピリットの侵入にあるのであるから、霊的に処理する、つまりそのスピリットを排除する、ないしは出ていってもらうしかない。
これを心霊学では“除霊”という。米国の精神科医のカール・ウィックランド博士は19世紀末から20世紀初頭にかけての30余年間、ウィックランド夫人を霊媒として、この除霊によって数多くの精神疾患を奇跡的に治療し、その記録を Thirty Years Among the Dead と題する1冊の大著にまとめている。
【5】同じくスピリットが語る現象であるが、エクトプラズムという特殊物質によって人間の声帯と同じものをこしらえて語る現象で、霊媒から遠く離れた位置から声がするので、スピリットが直接しゃべっているような印象をうける。メガホンの中に声帯をこしらえて、列席者のひとりひとりに声をかけてまわることもある。
【6】英国の数学者で“デ・モーガンの法則”で知られる Augustus De Morgan の夫人。デ・モーガン教授自身も熱心な心霊研究家で、From Matter to Spirit – the Results of Ten Years’ Experiences in Spirit Manifestations(物質から霊へ – 10年にわたる霊現象の研究成果)という著書がある。未翻訳。
【7】Dark Ages
歴史上ではローマ・カトリック教会による知的弾圧、つまりキリスト教の教義にそぐわないものを徹底的に抑圧していった時代のことをいうが、その原因をさかのぼると325年の第1回ニケーア公会議において、コンスタンチヌス大帝の強引な独断によって“キリスト教”というものをでっち上げ、イエスの説いたものを大幅に改ざんし、その上に次々と新しくこしらえた教義を築き上げ、いわゆる“神学”なるものを作り上げたことにある。
宗教を政治の具に使用し、それに従わないものをことごとく抹殺し、それがのちに十字軍による暴虐、さらに陰惨きわまる“魔女狩り”へと発展していく。その後遺症は西洋文化に今なお色濃く残っている。スピリチュアリズムというのは、暗黒時代に失われた人類の霊性を取り戻すための地球規模の大事業なのである。
【8】このドイルの意見はスピリチュアリズムの真髄を理解した“卓見”というべきである。この時期までにドイルが目を通していた本格的な霊界通信はモーゼスの『霊訓』だけであるが、それから数年後には G・V・オーエンの The Life Beyond the Veil(拙訳『霊界通信・ベールの彼方の生活』全4巻・潮文社)が出て、スピリチュアリズムが紀元前から計画されたグローバルな地球浄化活動の一環であることを明かしている。
さらに、同じころから霊媒モーリス・バーバネルを通じて語り始めた古代霊シルバーバーチが、まったく同じ趣旨のことを述べている。この三者に共通しているのは、地球浄化の計画は、地上で“ナザレのイエス”と呼ばれた人物のスピリットが本来の所属界(地球神界)に戻ってから霊団を組織して、神界→霊界→幽界と押し進めてきたもので、それがいよいよ地球圏にたどりついたのが19世紀半ばのハイズビル事件だったとする点である。
当初は現象的なものが圧倒的に多かったが、次第に思想的なものへと移行し、さらにはハリー・エドワーズに代表されるように、霊的治療という形での霊力のデモンストレーションが主流となりつつある。
スピリチュアリズムというのは、地球人類の意識をスピリチュアライズ(霊的に改革)するための活動を総合したものをいい、組織をもったり信条を誓ったりする性質のものではない。ドイルの言うとおり、あくまで個々人の理解力によって人生に適用していくべきものである。
【9】The Christ Spirit
元来、“キリスト”という用語はヘブライ語“メシア”のギリシャ語訳“クリストス”から来たもので、その本来の意味は“油を注がれた人”、つまり偉大な人格をそなえた人物、ということだった。
流浪の民ユダヤ人は、イエスの驚異的な能力、いわゆる“しるしと不思議”を見て、この人こそわれわれが求めていた神の申し子だと信じて Jesus the Christ と呼んだ。そこから救世主の概念も生まれたのであるが、このパターンは太古においてはどの民族にもあったことである。
しかし、この“ナザレのイエス”にかぎって、それだけでは済まされない特殊な事情があったことが、新しい啓示によって明らかになってきた。つまりイエスは“スピリチュアリズム”という名称を旗印とする地球浄化の大事業の最高責任者で、本来の所属界は地球神界であり、その計画の推進にそなえて文字どおり“身”をもって地上界に降誕し、物的波動の環境での体験を積んで本来の所属界へ戻った。
33年の生涯はいわば“下見”と“霊力の増強”というふたつの目的があったと考えられる。その意味からも“はりつけ”による死をことさら意味ありげに説くのはおかしいのである。どういう死に方でもよかった。現に、イエスは実は十字架上では死なずに、その後何年かを生き延びたという説がいくつもあるのである。
大切なのは、大工の家に生をうけたイエスは、地球神界でも最高位に位置する大天使が自己を滅却し、波動を極度に下げて物的身体に宿ったもので、霊格は途方もなく高かったが、やはり一人間だったということである。
地上に降誕した高級霊の中でも、イエスほどの高い霊格をそなえたスピリットはそれ以前にもそれ以降にもいないし、これからも出ないというのが、高等霊界通信の一致した言い分である。
ドイルのいう“キリストのスピリット”とは、イエスの本来の霊的影響力のことであって、教会で見かけるような人間的形体をそなえた人物像を想像してはならない。
【10】“スピリットからの通信”と銘うったものを目の前にした時の人間の取るべき態度は、果たしてそれが“銘柄”どおりに純粋な霊的産物であるかを“疑ってかかる”ことである
その理由のひとつは、ただの霊媒の潜在意識から出たものにすぎないものが多いからである。通信の純粋さは、どこまで霊媒の潜在意識を排除できたかということにほかならない。いくら高級なスピリットからのものでも、人間の意識中枢を通過する以上は、100パーセントの純度はまず有り得ないことで、高級なスピリットほどそのことを正直に認めている。
ある交霊会で、入神した霊媒がいつもの霊言らしくないことをまくしたてるので、列席者が怪訝(けげん)に思っていると、続いて「実は今のべたことは私の考えではなく、この霊媒のものでして、潜在意識に強く残っていて邪魔になるので、一気に吐き出させました」と語った。
油断ならないものに、純度は百パーセントに近いのだが、乗り移っているのが極めて悪質な低級霊で、歴史上の著名人や神話上の神々の名を騙(かた)って、いかにもそれらしい態度を装って語る場合である。
こういう場合は、本当は失礼に当たるような質問をわざと投げかけてみることである。低級霊ならそのうち腹を立てて去ってしまう。高級霊はいかに試されても“絶対に”腹を立てない。
もうひとつ油断がならないのは、自称霊能者、つまり自分では霊能者であると自負していても、実際は一種の自己暗示にかかっているおめでたい人間が、大人物になったつもりで語る場合で、きまって大言壮語をする。それでいて読む人に少しも感動を与えない。最近は“語る”こともしないで、“ただ書いただけ”の霊言も多いようである。
では最終的に何を基準にして判断を下すかということになるが、実は具体的な基準になるものはないのである。霊言の現場に立ち合った時の雰囲気、印刷されたものであればそれを読んだ時の印象で、“直観的に”判断するしかない。現役の霊能者であれば招霊の“実演”を要請すべきであろう。
【11】Dr.A.Wallace: Jesus of Nazareth(絶版)
バイブルをスピリチュアリズム的に解釈した霊界通信は少なくないが、キリスト教牧師が手がけたものとして、モーリス・エリオットの次の二著が最も詳しい。新約を扱ったものが The Psychic Life of Jesus で、日本語訳は同じくキリスト教の元牧師・山本貞彰氏による『聖書(バイブル)の実像』(太陽出版)が出ている。旧約を扱ったものは When Prophets Spoke で、日本語訳はまだ出ていないが、同氏によって進められていると聞く。
一方、現行のバイブルから離れて、イエスの生誕から生い立ち、修行時代、そして伝道時代について同時代のスピリットが送ってきた通信として最も興味深いのは、ジェラルディン・カミンズ女史の自動書記通信 The Childhood of Jesus, The Manhood of Jesus の二著で、いずれも山本貞彰氏による日本語訳が「霊界通信・イエスの少年時代』『霊界通信・イエスの成年時代』として潮文社から出ている。
【12】Cabinet
心霊実験を行なう際に霊媒を隔離しておく場所のことで、同時にそこは、霊界の技術者が現象を演出するため準備をする“控え室”のような役割も果たす。といって特別なものをしつらえるのではなく、部屋の片隅をカーテンで仕切っただけの三角形のものだったり、壁を背にして四角形に仕切ったものなど、さまざまで、霊媒によってはそういうものを必要としないこともある。
キャビネットの必要が生じた最大の理由は、現象に使用されるエクトプラズムが“光”を嫌う性質があるからであるが、霊媒によってはキャビネットを必要としないばかりでなく、白色光の電灯で部屋を明るくしてもよいこともある。ただし、赤色電灯ないし燐光ランプのような弱い光にした方が、現象が“長もち”することは事実である。
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†
【神】が経綸するこの全宇宙には目的があり、それは「進化」の一語に尽きると思います。全天体、全存在(生命)が進化を目的として永遠とも思える霊的向上の旅を続けています。霊的進化のゴールと言える至福の境涯ニルバーナは存在せず、神の御胸に向けての永遠の進化の旅が続くのですが、僕たちが現在在籍している地球圏は神が経綸する全宇宙の中のほぼ最低ランクの存在の場であり全く進化が足りません。イエス様を最高指揮官とした地球圏経綸の任に当たる天使の方々は、物質界の知的暗黒時代(特に中世ヨーロッパ)を打破して霊的知識を普及させるべく「スピリチュアリズム」を勃興させました。これまでの地球圏霊界でこれほど大々的な計画が実行に移された事はないそうです。イエス様がそこまでしなければならなかった理由は、物質界で学ぶべき事を何も学ばずに無知のまま帰幽して下層界にたむろする、シルバーバーチ霊の言葉を借りれば「難破貨物」ともいうべき低級霊があふれかえってそれがいよいよ上層界にまで悪影響を及ぼし始めてきた事が一因だそうです…続きを読む→
「ヒューマノイド同士で争ってる場合じゃない」イヤ、宇宙方向に舵を切らない方がイイと思うんだけど…(祈)†
「宇宙には現時点の地球人類が想像も及ばないほどの脅威(邪悪)が待ち受けている、その問題に対処できるようになるまで人類が進歩向上するのはまだずっと先の話だ。まず自分たちの問題を自分たちで解決できるようにならなければ宇宙に進出する資格はない」といった感じの意味ではないでしょうか。自分たちの惑星の問題すら解決できない未熟な状態で物的手段のみを駆使して宇宙に進出すれば(新スタートレックでいうヴォーグのような)自分たちが克服できない巨悪に遭遇するハメになり、5世紀も10世紀も後戻りさせられる事になる。霊団はそういう警告を発しているのではないでしょうか。これは僕も宇宙書籍を読んでみて大賛成です。まず大前提として自分が霊的存在であり生命が永遠である事、物質界人生の賞罰が霊界で清算される事、物的事象は低次元の現象であり、僕たちはより高次元のモノに目を向けねばならないという事、僕たち地球人類がまず到達しなければならない目標は宇宙進出ではなく「ベールの彼方の生活」にあるように「イエス様の顕現」であるという事…続きを読む→
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