【12/16】コナン・ドイルの心霊学 生命躍如たる活動の世界

こうした境涯での生活は、刑罰というよりは一種の修養ないし鍛練(トレーニング)であり、病的に歪んでいる魂にとっては“療養”の性格も持つであろう。が、いずれにせよ、それは死後の世界の一側面であって、全体としては死後の生活は地上生活とは比較にならないほど明るく愉しいものであるらしく、それはすべての通信が一致して述べているところである。

“類は類をもって集まる”で、似た性格の者、趣味の共通した者、同じ才能をもつ者が集まって都生き生きとした時を過ごしており、地上に戻りたいとは、さらさら思わないという。こうした情第報を大いなる喜びとして受け止めない人がいるであろうか。

しかも、繰り返すが、これは単なる信仰や願望から生まれたものではないのである。ひとつやふたつではない、実に多くの証人が、たったひとつの、まったく同じ事実を証言しているのである。

その証言の内容が、もし仮に、全知全能の神の玉座にかしずいている仰々しい神話の登場人物からのものだというのであれば、それはもしかしたら、その霊媒が幼少時代に教え込まれた神学の反映かも知れないと考えられないこともないであろう。ところが、これまでにスピリチュアリズムの霊媒を通して得られた通信内容は、従来のどの宗教の信仰や教義とも異なるものばかりなのである。

しかも、その“通路”となった霊媒についても、世界的に著名な学者が数多く参加して徹底した研究・調査がなされ、“霊媒現象”というものが間違いなく実在することが証明しつくされているのである。しかも、その霊媒を通して得られた死後の世界の情報が基本的にピタリ一致を見ているのである。

信仰から事実へ

ところで、死後の生命の問題は“信仰”の領域に属しているという認識が一般的であろう。しかし、信仰というものは、本来、個々人の主観的なものであり、それなりに敬意を払うべきものではあっても、それが集団体制のもとで強制されると、両刃の剣となる。人類の直感力が均一で、すべての人間の信仰が一致するものであればよいが、そうはいかないことは誰しも知るところである。

もともと“信仰”というのは、証明はできないが自分はこう信じる、という意味である。したがって、ひとりは“こう信じる”と言い、もうひとりも“こう信じる”と、ふたりがまったく違うことを言う。しかもふたりとも証明はできないから、そこに“争い”が生じる。“口”だけの争いならまだよいが、“からだ”を張っての争いとなることもある。

これが権力のある者と無い者との間だと、一方が力ずくで信じさせようとする。フィリップ2世は、スコットランド低地人に自分の信仰を押しつけようとして、抵抗する者を1万人も殺している。彼にしてみれば、こんなに素晴らしい信仰を信じようとしない者は生きる資格はないと思うほどに、その信念が強かったということである。

しかし、今は時代が違う。証拠のないものを押しつけることは良識が許さなくなった以上は、現象をよく観察し、理性的に判断して、誰しもが得心する共通の結論に到達しなくてはならない。スピリチュアリズムの良いところはそこにある。

その主張の根拠が教本だの伝説だの直感だのといったあやふやなものではなく、交霊会や実験会で得た科学的資料だからである。そこは言わばこの世とあの世の交流点であり、古い伝統的信仰とはまったく別の、しかも最新の、ふたつの世界の協力による情報と現象を根拠としたものなのである。

「何とでも作って頂いて結構です」絶版した霊関連書籍の復刊を許可する思念ですが…(祈)†■2022年8月3日UP■
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霊団は僕が殺されないように防御しているようだが、それはつまり「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させる事に全然本気ではないという事になる。奴隷の女の子の存在を「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁と同じ「視点外し」という手段を駆使してまで忘れさせようとしている、つまり女の子たちを完全に見殺しにするつもりでいる。支配霊バーバネル氏は僕という霊媒を使うつもりでいるようだが、僕はもう全く信用しておらず「絶版した霊関連書籍の復刊」の作業に本腰を入れる事となった。復刊が霊的知識普及のベストルートだと信じる。…続きを読む→
「コッチの方が幸せだった」そう言われてもなお僕は閉じ込められるのを拒絶します(祈)†■2024年11月20日UP■
「コッチの方が幸せだった」そう言われてもなお僕は閉じ込められるのを拒絶します(祈)†
物質界で赤ちゃんが生まれた時、家族の方々は大喜びしますが、その赤ちゃん(として物質界に降下した人間)の縁故の方々は霊界で泣いて別れを惜しんでいるのです。「あぁ、あの人も陰鬱極まる物質界に降下してしまった」と嘆いているのです。そしてその赤ちゃんが成長し、物質界人生を全うして死ぬ時、家族、友人の方々は泣いて別れを惜しみますが、霊界の縁故の方々は大喜びでその人間を霊界に迎え入れます。「やっと最低界(物質界)の試練を終えましたね、さぁ我々とともに美しい世界(霊界)で共に生活を送りましょう」と、その死者を大歓迎します。(もっともこれは人によってだいぶ差があるようですが)物質界の誕生日を祝うというのは「私は霊的知識を理解していない」と公言しているようなものであり、このような習慣は即刻やめるべきなのですが、残念ながら物質界は無知がはびこっていますのでいまだに霊的な事が全く理解されず、誕生日に「ハッピバースデートゥーユー♪」と歌ってはしゃいでいるのが現状です。物質界に残される事は断じてハッピーなどではなく、帰幽して霊界生活に帰る事が真のハッピーであり、その霊的知識を多くの方が理解し、物質界の誕生日を祝うという間違った習慣を改め、むしろ物質界を去る事になった人間(つまり死んだ人間)を祝うという習慣が根付く日が1日も早く来る事を僕は願わずにいられないのです…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†