インスピレーションをクロッキーにメモするのをやめる事にしました(祈)†

皆さまは何でもない事と思うかも知れませんが、僕は霊性発現から13年間、休む事なくインスピレーションを受け取りながら生活してきました。その全てを脳内でくまなく記憶しておけると思いますか。それは絶対にムリで、クロッキーにメモしなければ聞いたそばから忘れていくのです。
それを「やめる」と僕は言っているのです。理由は「閉じ込め」「イジメ」です。もうムリ、もうこれ以上閉じ込められる事に耐えられないのです。霊団が降らせるインスピレーションは9割がムカつく内容です。そんなムカつくインスピレーションの意味を説明するブログを書くのがどれほどの苦痛か、なかなか皆さまにご理解頂けないのかも知れません。
悩みましたが次回長文ブログから「書かない事」になりました。毎週長文撃ちに約8時間を要していますが、今後はその8時間を「霊関連書籍のテキスト化」の作業に充てたいと思います。書いても書いても何の使命遂行の前進にならない長文ブログを撃ち続けるより、霊関連書籍の内容を誰にでもお読み頂ける環境を構築した方が、よほど霊的知識普及に役立つと思います。
さぁクルマの連絡が全く来ません、クルマがやってくるあてが全くありません。山に行けません。これが僕にとって命の危機と言ってイイくらい重大問題で、一刻も早く解決しないといけませんが自力ではどうしようもありません他力本願になってしまいます。
さぁ明日の準備をして、もう少しテキストと格闘しましょう。もうインスピレーションをメモしない。つまりブログネタがない事になりますので長文ブログのUPはしません。テキスト化が完了した書籍から順次WordPressにUPしていくつもりです。
■2024年11月6日UP■「味わいなさい」今の場所よりもっとヒドイ目を味わいなさいという意味、だからなぜ(祈)†
僕は霊的知識が頭に入っていますからエリヤ氏、モーセ氏の偉大さも知っていますし、このふたりに使われるという事がどれほどの霊的栄光であるかも理解しています。しかしあの最悪の場所にいる方々がそれを理解出来る訳がないじゃないですか、そもそも霊的知識が頭に入っていないのですから。つまりサークルメンバーにはなり得ないという事です。なのに全力で僕を閉じ込めようとしてくる、そこが矛盾しているので僕は「これはイジメだ」と公言するまでになっているのです。エリヤ氏、モーセ氏という大偉人が僕という霊の道具を介して霊言を降らせようとしている、それが実現したらもちろん素晴らしい事であり僕もそうなったら嬉しいのですが「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事はやはりホッポラカシか。物質界の邪悪には一切手を触れず、強姦殺人され続けている奴隷の女の子はひとりたりとも助けようとせず、僕という霊媒を介して人類を救う霊言を語る。幼い女の子ひとり救おうともしない人間が人類を救うと豪語する、皆さま、何かがおかしいと思いませんか。僕がこの霊団の話を信じない根本にはこういう想いがあるのです…続きを読む→
■2024年11月26日UP■「んーゴメンね面倒起こすわ」やればいい、ますます僕の心は霊団から離れていく(祈)†
要するに霊界生活とはひたすらに向上、向上の人生であり、上層界の天使から仕事を賜り、それを果たし切る事によってひとつ、またひとつと上の境涯へ赴き、ついには2度と物質圏付近に降下できなくなるまでに物質臭を脱ぎ捨てる時が来るのですが、霊団メンバーももちろん僕という霊の道具を使用しての仕事で自身の向上を目指している人間たちという事になります。そしてもちろん使われている僕も(仕事を果たし切れば)帰幽後に向上を果たす事ができる訳で、僕は人生目標を霊界に置いている人間ですから「だったらブーブー文句言ってないで仕事やればイイじゃネィか」となるのですが、あまりにも自分の心と正反対の状況に閉じ込められているために反逆せずにいられなくなっているという事なのです。で、霊団が言っているのは「この使命遂行を果たし切ればアキトくんも我々と一緒に上層界に召される事になるんだよ、しかしキミの反逆が度を越せばキミも向上できないし、我々も責任を取らされて向上できないという事になるんだよ」と言ってきている訳です。んーこれは心を締め付けられるインスピレーションですね。僕だってもちろん向上したいですよ、2度とイヤ永遠に物質界に降下したくないと思っていますし…続きを読む→
■2023年5月3日UP■「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†
イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました…続きを読む→


























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