来世に関する信仰の歴史をたどれば遠く太古にまで遡(さかのぼ)る。“神”の観念をもたなかった原始人でさえ“幽霊”というものの存在は信じていた。人間が霊的存在である以上それはごく自然なことであろう。

心霊研究というものに携わってみると尚更その感を深くする。つまり実験室で起きる心霊現象の原理を研究してみると全てが自然法則の原理に基いており、従ってそれと同じものが自然界に起きても少しも不思議ではないのである。

それがあくまでも自然現象であることは人間の歴史をみてもわかる。どんなものでもよいから、ちょっと歴史の本を開いてみるがよい。そこに、独りで物が宙を飛んだとか、死んだはずの人間が現われたとか、或いは不思議な声を聞いたとか、もっとありふれたものでは、手を触れただけで病気が治った、といったような現象の記事を数多く発見されるに違いない。実際そこには今日心霊現象と呼ばれているものの全てを見出すことが出来る。

ところが、そういった歴史上の不可思議な現象の存在は信じていながら、今日の実験室内の心霊現象は詐欺扱いにして、まるで信じようとしない人がいるから奇妙である。そういう人は、実験室で起きる現象とまったく同じものが、いつの時代、どの民族にも発生している事実を一体どう観るのであろうか。

彼らはある意味では懐疑論者と言えるかも知れない。が研究も検討もせずに頭から信じようとしない人が本当の懐疑論者と言えるだろうか。本当の懐疑論者とは、どう研究しても納得がいかないから信じないという人のことである。

心霊現象は原始時代から今日に至るまでの人類の歴史を通じて絶えず起きているという事実そのものが、その真実性のあかしであると私は思う。人間が死後の生命を信じるようになったのは、ほかならぬその現象のせいであることは間違いない。

決して、自然界の物理現象、たとえば独りで動くものや風にそよぐものは生命があるという考えや、地面や水面に映る自分の影が自分の身体が太陽に照らされたために起る現象だということからそう信じるに至ったわけではあるまい。

夢も心霊現象と隣接した要素をもつ現象には違いないが、別の範疇に入れるべきであろう。というのは、確かに夢には真実性のあるものや予言的要素をもつものもあるが、また一方他愛ない幻影にすぎないものもあるからである。

「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
「中止します」地球圏霊界は大量強姦殺人魔を容認し放置するという意味です(祈)†■2023年4月26日UP■
「中止します」地球圏霊界は大量強姦殺人魔を容認し放置するという意味です(祈)†
僕を苦しめる事そのものが当初からの目的だったのではないか。僕に物質界の邪悪の情報拡散をさせる事によって、邪悪の滅亡時期を若干早める事はできるだろうが、僕一代で目的達成させようとは考えていない。で、霊界側としては僕の物質界生活中にできる限りの仕事をさせつつ、僕の霊格も可能な限り高めさせておいて、帰幽後も僕を仕事(物質界浄化活動)に活用し続けるつもり。そういう長いスパンで僕という霊の道具を使い倒すというのが当初からの(もっと言えばイエス様の)計画で、それで助けられないのに奴隷の女の子の事を延々と僕に教えてきて苦しみを倍加させる事で(苦難を与えるという意味)僕の霊格を高めさせたという事なのではないか)…続きを読む→
「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†■2023年6月14日UP■
「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†
現在の苦難を耐え抜かなければその罪障消滅が達成されず、キミはまた物質界に再降下しなければならなくなるんだよ。我々はキミのためを思ってキミをその苦しみの中に閉じ込めているんだよ。罪障消滅が達成されなかったらキミがまた苦しい思いをする事になるんだよ。これで終わりにするためにその苦しみに耐えるんだ。という意味で霊団が僕を脅し続けているのかも知れません。イヤ、僕のこれまでの人生をよくよく振り返ってみた時に、僕はそういう理由で物質界に降下した人間じゃないと思う。幼少の頃から絵を描き続け、マンガ家も経験し、Dreamworkに突入して死ぬまで絵を描き続ける事を固く固く決断していた。僕はそういう罪障消滅目的の人間ではないと思う、そうだったら絵の才能を賦与されていないと思う。僕に関してはそれはちょっと違うと思う。現在の僕の状況は霊性発現によって「後説」で賜ってしまった追加試練だと思う。守護霊様の管轄内で生活していた時はこんな状況には全くならなかった。「100の光の霊団」の管轄に切り替わってから僕の人生が一気におかしくなった…続きを読む→

描いても描いても終わりが見えないとはこの事で「無間地獄」という表現がピッタリきます。しかし現時点の僕の考え得る限り「読みやすくしよう」という事で、できる限り絵を入れていこうと思っているのです。

もうココまで着手しているのですから本として完成させるところまでやり切らねばなりません。僕はコレまでの使命遂行人生で、いろんな事をやろうとしてきましたが、その中で霊団に「ヤメレ」言われて頓挫させられたモノがいくつもあります。

たとえばタブレット用の壁紙ダウンロードとか、スタバタンブラーの壁紙ダウンロードとか、ティラノビルダーナンチャラカンチャラを使用しての読書アプリ制作とか。細かく言うとまだあると思いますが。あ、最大のモノは「トレイルムービー」か。

どれもノリノリで始めたのですが、霊団にダメ出しを喰らってやめさせられたり、あとは僕が苦しくて続けられなかったという事もありますが、今回の自伝書籍はそういう事にならないようにしないといけません。何しろずっと「いつかはやらなきゃいけない」と思って心の中でくすぶっていたモノですので。

イヤー苦しい作業で完全にマイッテますが、僕が画家時代から掲げている言葉に「感情と手は別レイヤー」というモノがありますから、とにかく手だけは機械的にサクサク動かし続けないといけません。永遠じゃない、続けていれば必ず終わる、という事ですね。

あ、自伝書籍を無事カタチにできたら「PRムービー」も作りましょうか、トレイルムービーみたいな感じで。トレイルムービーもハッキシ言って復活させたいです。霊団もトレイルムービーは推してましたからね。作り続けるのが地獄だったんですよ。長文テキスト撃ちと共存させられなかったんですよ…。

さぁとにかく続けましょう。UP目標の期限を早めます、7月末までに原稿と絵はUPさせる、そこからAffinityPublisherの作業に移行して出版社めぐりをやります。ボケっとしているヒマはない、脱出がかかっているんだ。命をかけてやれ(祈)†

「無色で味はない、マヒして殺す」これはフグ毒「テトロドトキシン」の事では?(祈)†■2022年5月25日UP■
「無色で味はない、マヒして殺す」これはフグ毒「テトロドトキシン」の事では?(祈)†
そのフグを3千余年の人類創世の歴史始まって以来の究極無二のバカ、大量強姦殺人魔、秋篠宮文仁が僕に食べさせて殺す事を画策しているという意味なのですが、そもそも食べられないのにどうやって食べさせるつもりなのか、という事になります。それについても霊団は何度となくインスピレーションを降らせているのです、そしてそれは皆さまにお話できない内容なのです。が、今回は少しだけ書かせて頂きます。こういう事です。奴隷の女の子を使って僕を殺す、となります。霊団から相当に具体的な事を言われていますが、とにかくその説明はできないのです。どうかご了承下さい。「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、特に文仁が最も積極的に僕を殺そうとしています。その殺す手段、手法について霊団からかなり深い部分まで情報を得ています。が、お話はできないのです…続きを読む→
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†■2022年9月28日UP■
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†
奴隷の女の子たちを助けてあげてしまったら、その人間の「罪障消滅」を遅らせる事になり、永遠の視点で考えた時、必ずしもその人間を助けてあげる事にはならないのだ。これは霊的知識としては理解しても、どうにもこうにも釈然としません。奴隷の女の子の存在を知らされずにいたのであれば「知らなかったのだから助けてあげられるはずもなかった」と言い訳もできますが、僕は霊団に奴隷の女の子の存在を徹底的に教えられてここまで使命遂行してきたのです。知らずに犯す罪より知っていて犯す罪の方が何倍も重い、と霊的知識にあります。奴隷の女の子たちが今こうしている間も「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に四肢切断、強姦殺人され続けている事を知っていながら、助けようともせずその悪行を黙って見ているという霊団の考えには、何をどう頭をひっくり返しても賛同する訳にはいきません…続きを読む→
「霊体で会議に参加し続けてるんですよ」物的脳髄でその様子を全く反芻できません(祈)†■2023年1月25日UP■
「霊体で会議に参加し続けてるんですよ」物的脳髄でその様子を全く反芻できません(祈)†
どの人間も例外なく物質界に降下するにあたり、指導霊と相談したうえで「こういう試練を体験すればこれだけ向上を果たせる」と考え、自分でその人生を選択して降下してくるのだそうで、つまり奴隷の女の子たちも「殺される人生をあえて選択して降下してきた人間たち」という事になるのですが、僕はそう言われて奴隷の女の子たちを見殺しにする気にはどうしてもなれません。これは僕の個人的意見ですが、物質界に降下するにあたり、基本的には「こういう人生を送る事になる」という概要は決まっているのでしょうが、中には例外もあるのではないかと思っているのです。僕の「霊性発現」はその例外に当たるのではないかと思っているからです…続きを読む→

チョトこの忙しさを今後続けるのは肉体的精神的ともにマズいのではないかというくらいの忙しさになってしまっています。えっと、どういう事かと言いますと、僕は毎週“長文ブログ”を撃って(霊団に撃たされて)ますよね。

その週1の長文テキスト撃ちでさえツラくていつも「ボイコットしてやる」と本気で思いながらかろうじて撃っている状態なのです。その苦しい長文テキスト撃ちが週1ではなくて毎日になってしまっているという事です。

2項目めをほぼ撃ち終えて、さらに絵を描いてます。ちょ…っとこれはムリかも知んない、イヤ、今回はくじける訳にはいかない、ココでくじけたらもう2度とこの自伝に着手できなくなるかも知れない。このタイミングで撃ち切らないといけない。しかしキツイ。僕はなんて作業を始めてしまったんだ。

霊関連書籍のテキスト化の作業は完全にストップしてしまっています。それはそうです同時進行できる訳がありませんので。んー、こうなったら超集中して自伝書籍UPを9月初頭に設定しているのを早めて、7月末くらいに設定し直して一気に撃ち切るくらいの事をやった方がイイかも知んない。そうでもしないとくじけそう。

全然脱出につながらないのにこの殺人的作業負荷。チョト頭がクラクラしてきました。精神的にヤヴァイかも知んない。ココまでしないと書籍1冊出せないという事なのか。んー恐ろしい。しかしやる、自信なくなってきましたけど(祈)†

「霊的知識なんて知った事か」文仁が原始人である事を証明する思念となります(祈)†■2022年3月23日UP■
「霊的知識なんて知った事か」文仁が原始人である事を証明する思念となります(祈)†
宇宙一のバカ、文仁は肉体の死後にも人生がある事、地上時代の行いと帰幽後の霊界生活との因果関係を全く理解しておらず、自分のこれまでの大量強姦殺人の人生が自分の未来を地獄の底に落としている事を全く理解しておらず、ただ自分を嫌っている幼い女の子をレイプする事しか頭にない原始人、という事になります。僕から皆さまにぜひ強調したい事としましては「霊的な事を子バカにするという事は、この原始人、文仁と同レベルの人間である事の証明となり、大変な恥となりますよ」という事です。皆さまはそんなに強姦殺人魔が好きですか。そんなに霊的な事がキライですか。今あなたが生き、動き、呼吸し、考えを巡らせる事ができるのは全て霊の賦活作用があるからなんですよ…続きを読む→
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†■2022年5月18日UP■
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†
とにかく理不尽のレベルがタダ事ではない。努力すればするほどヒドイ状況にさせられていく。どれくらいのレベルの不自由な肉体をまとわされるのかは分かりませんが、義肢、義足ですからもちろん日常生活に支障が出るレベルでしょう。当然絵も描けない、そもそも絵の才能を剥奪され、現世での努力を全く無に帰せられる。そして使命遂行上必要と思われるテキスト撃ち、情報拡散等々の作業も満足にできない、そういう肉体をまとわされての再降下になるのかも知れません…続きを読む→

本書を恩師間部詮敦(まなべあきあつ)氏の霊に捧ぐ(訳者)

まえがき

私は、かねがね、今まで自分が読んだ霊界通信を1冊にまとめてみたいと思っていたのであるが、その望みがようやく本書となって実現した。引用したものには私なりの解説を加えてある。全般的に観たかぎりでは、これで死後に関する一通りの知識は得られるのではないかと自負している。

もちろん人によっては説明不足の感を抱かれる箇所が無きにしもあらずだろうと思う。私もその点は充分意識しており、もっと専門的なものを出さなくてはと思うのであるが、それには大変な時間と労力とを要する。そういった科学的あるいは分析的な仕事は後輩にゆずって、私としては、ひと先ず、そういった専門的な仕事の資料を提供するだけで満足させていただきたいと思う。

死後に関する資料はすでに相当な分量にのぼる。時間と労力と情熱のある若い学徒は霊界(注1)の社会制度、生活手段、教育、進化といった個々の問題について詳しく分析研究して、ひとつ霊界の百科辞典のようなものを拵えてもらいたいものである。私としては、本書が死後に関する一般的知識を得る上でお役に立てば、それで満足である。

これまで死後の問題は信仰の領域とされてきた。が19世紀半ばから霊媒の組織的調査研究が盛んになるにつれて、その霊媒を通じて死後の事情が次々と明るみになってきた。むろん、その内容において必ずしもすべてが一致しているわけではない。その矛盾については本文で取り上げるが、少なくとも死後の世界の存在は単なる“信仰”から“事実”となってきた。

今や問題は果たして死後はあるかではなくて、死後は一体いかなる世界かということである。本書は、私が入手し得たかぎりの資料に基いて、その大まかな全体像を紹介したものである。かくして明るみにされた世界は、人間の理性を納得させるだけの合理性に貫かれた、あくまでも明るく進歩的な“動”の世界である。

深遠なる生命哲学の問題はさておいて、少なくとも肉体の死後に、ひとりの例外もなく、生命躍如たる明るい世界が待ちうけているという知識は、この悩み多き人生を生き抜く上で大いなる励みになるに相違ない。

おしまいに、本書の編纂に当って次の著書のお世話になった。記して感謝の意を表したい。

W・H・エバンズ


Practical Occultism
by J.J.Morse
モールス「実用神秘学」

In the Dawn Beyond Death
by C.D.Thomas
トーマス「死の彼方の夜明けに」

Life Beyond Death with Evidence
by C.D.Thomas
トーマス「実証による死の彼方の生活」

They Survive
by G.Cummins
カミンズ「彼らは今も生きている」

The Life Beyond the Veil
by G.V.Owen
オーエン「ヴェールの彼方の生活」

Arcana of Spiritualism
by H.Tuttle
タトル「スピリチュアリズムの秘義」

Heaven and Hell
by E.Swedenborg
スエーデンボルグ「天国と地獄」

Great Harmonia
by A.J.Davis
デービス「偉大なる調和」

Views of our Heavenly Home
by A.J.Davis
デービス「天界の住処」

Nature’s Divine Revelations
by A.J.Davis
デービス「大自然の神的啓示録」

(日本語訳は便宜上の直訳に過ぎない – 訳者)

「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†■2023年12月27日UP■
「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†
霊的知識を獲得した人は、宜しくないおこないをして帰幽した先にどれだけの地獄が待ち受けているかを知っているので自動的に悪行にブレーキがかかるのです。シルバーバーチ霊も仰っていますように、邪悪な人間というのは霊的成長における「幼児」であり、霊的知識が全く頭に入っていないワガママのお子ちゃまであり、物的金銭を人より多く所有する事でしか自己表現ができない原初的人間という事になるのです。金銭など帰幽後、1円も霊界に持って行けません。そして霊界生活にお金など必要ありません。必要なものは全て思念で拵える事ができます。物質界生活中にお金をため込んでも自分の未来にとって全く無意味という事を悟れていない人間という事なのです。人間は本来が霊であり、その霊が修行のために一時的にトレーニングセンターである物質界に肉体という鈍重な衣服をまとって降下しているのであり、そのトレーニングセンターでのおこないが帰幽後の生活環境、霊界にて赴く境涯を高くしたり低くしたりするという霊的知識の基本中の基本さえ知らない人間が、その無知から邪悪なおこないをするのです…続きを読む→
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→

ひとつ「自分史」に関する書籍も入手しているのですが、これはいらなかった、失敗しました、役に立つ事など何も書いていない。まぁウソみたいに安かったですから最小ダメージで済んでいますが、コレならシナリオのお勉強をした方がはるかに自伝のクオリティUPにつなげられる。

確かにいま僕が撃っているのは「自分史」なのかも知れませんが、これは霊的使命遂行の一環として撃っているという側面の方が強く、自分の記録を残すというより「霊的知識に興味を持ってもらう人を増やすための架け橋のひとつ」そういう気持ちで撃っているのです。そもそも自分の物質界人生に何の興味もありませんからね。

しかし地獄の作業だ、先ほどようやく1項目撃ち終わりましたが、コレをあと90回近く繰り返さないと書籍1冊分撃ち終わらない。さらに絵も100枚近く描かないといけない。なんて作業を始めてしまったんだろう僕は。マイッタナァ。

しかしもうしょうがない、もうやるしかない、あきらめて苦しいテキストを撃ち続けましょう。とにかくまず本のカタチにするんだ。絶版状態の霊関連書籍の復刊を目指して書籍データを7冊作ったのに1冊も出せずにいる、その悔しさを忘れるな。まず1冊出すんだ。

このWordPressとは文章の表現を変えてます。今の僕に考えられる限りの方法を駆使して読みやすい、飽きさせない、サクサク読み進めてもらえるような文体を心掛けています。コレで終わりじゃないんだ、2冊3冊、何なら10冊50冊書き続けるつもりなんだからくじけているヒマなどない。イヤ心は十分くじけてますが。作業だけは続行中(祈)†

「きっての大事業」そう言うなら結果を出すところまで仕事をやり切ってくれよ(祈)†■2024年10月16日UP■
「きっての大事業」そう言うなら結果を出すところまで仕事をやり切ってくれよ(祈)†
「これに答え得た人間がいたであろうか」これは霊団が僕に課した霊的仕事の事で、過去、物質界の邪悪を攻撃する仕事を仰せつかった霊能者がそれを実行した事がほとんどない、みんなその仕事をやろうとしなかったという意味かも知れません。ハッキリ言いますが、僕もこの使命遂行、やんなきゃよかったとかなり本気でそう思っています。こんなヒドイ人生やらされる事になるとは夢にも思っていませんでしたからね。そうだと知っていれば絶対にやらなかった。僕の人生目標は「帰幽後に霊界で賜る霊的褒章」であり、物質界で仕事を果たし切って初めてその褒章に辿り着けるという事を僕は知識として知っていましたから、目標到達のためにはこの仕事を受けざるを得なかったのですが、にしてもここまで人生破壊が進行するとは思っていませんでしたよ。霊団がココまでヒドイ事をする人間だとは思っていませんでしたので。しかも現在の僕は反逆の度合いが尋常ではありませんので、もうガンバってみたところでどのみちあまり美しいところには赴けそうもない事が分かっていますので、それで余計心が腐ってしまうんですね「もうそこまでしてやる必要ネィんじゃネィのか」となってしまうのです…続きを読む→
「従ってもらう」恐ろしいインスピレーション、反逆を無に帰せられる可能性(祈)†■2025年1月22日UP■
「従ってもらう」恐ろしいインスピレーション、反逆を無に帰せられる可能性(祈)†
霊団がそのつど僕に書かせてきたブログひとつひとつはしょーもないものだったと思いますが、霊団は大局を見て僕にそれらブログを書かせてきたのであり、その大目的は他でもない、イエス様を総指揮官とした「スピリチュアリズム普及の大事業」の推進に他なりません。ごく初期の頃の無料ブログ時代には「ピーチピチ(佳子)骨肉腫で帰幽イイわぁぁぁ♪」というブログを霊団によって書かされた事もありました。そのブログをお読みになった多くの方々は「おぉぉ!これは正真正銘のヴァカが現れたな、このたきざわ彰人とかいうヤツは完全に頭がイッちゃってるな」と思った事でしょう。そのブログも、それ以外のブログも全て霊団が降らせるインスピレーションに基づいて書いた(書かされた)モノであり、僕だってテキスト撃ちながら「コレは何なんだろうなぁ」と思っていたのですよ。しかしインスピレーションに従わなければ霊性発現した意味が無くなってしまいますので「なんだかなぁ」と思いつつもあのようなブログを連発して書いていたのです。しかしそれらアフォブログのおかげというべきか、僕、たきざわ彰人の存在および「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体は年を追うごとに日本国民に知れ渡っていきました。全ては大計画「イエス様のご意志遂行、スピリチュアリズム普及」のためだったのです…続きを読む→

自伝書籍本文のテキスト撃ちを本格的に始めていますが、目次約90項目中ひとつめで既に苦しい。僕が自伝の原稿を撃つ事をずっとためらってきた理由がこのひとつめの項目でさっそく表れています。

それは「コレを説明しようと思ったらそれに付随してアレとかコレとかも説明しないといけなくなる」という理由で、いきなりこの壁にブチ当たってます。しかし、この「自伝」はずっとやらなきゃと思っていたモノで、設計図はだいぶ前に完成していてそこで止まっていたのです。

もう脱出の可能性を模索という宜しくない理由だとしても(何が宜しくないんだよ、正当な理由じゃネィか)この“火のついた”タイミングで着手すべきです、でなければもう書き上げる日は来ないかも知れないからです。ハッキシ言って苦しい作業ですが何とかふんばってみましょう。

シナリオの本も読み続けています、コチラは読み始めは苦しくなかったのですが途中から苦しくなってきました。しかし自伝のクオリティを上げるために必要ですので何とか読み進めて知識を得ましょう。苦しい事ばっかりだな、何なんだこの人生は。

自伝原稿を撃てずにいたもうひとつの理由「思い出したくもない苦しかった出来事についてアレコレほじくり返して説明しなければいけないのがイヤすぎる」コレも間もなくやらされるハメになります、ハッキシ言ってトラウマの作業となりますが、そのトラウマを精神的に克服する動機付けに「脱出」を使いましょうか。こうするととたんに脱出という響きが美しく聞こえますね。

霊関連書籍のテキスト化の作業が止まる事は僕には痛恨ですが、僕という人間はひとりしかいない、僕の残された物質界人生の時間はそんなに多くない、アレをやろうと思ったらアレを捨てるしかない。仕方ありません一旦開き直りましょう。書籍が完成したらすぐ戻る、そう固く心に誓って作業続行させましょう。

どうしても、どうしても、脱出できないというのか。それでも僕は脱出のための努力を続けるよ。死んでもあきらめないよ。とにかくまず1冊完成させる事に集中中。くじける可能性…何%と書きたくない…(祈)†

■2021年2月20日UP■
「どう考えてもダメだから」もちろん強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁がダメという意味です(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に対する国民の皆さまの正しい認識であると信じたいです。この大量強姦殺人魔どもの人生は生まれてから死ぬまで全てがウソです。皆さま、そんな人間に果たして「生きている意味」があると思われますか。口をついて出る言葉は全てウソ、全て国民をダマすセリフであり国民の目の届かない城の中でただひたすら奴隷の女の子をレイプし続けるだけの人生、そしてこいつらは「ニート」です、生まれて1度も仕事をした事がありません。皆さまが日々苦しい思いをしている仕事をコイツらは全く経験した事がないのです。そんな奴に一体人の心の苦しみの何が分かるというのです。自己鍛錬というものを一切せず自分を嫌っている幼い女の子をレイプするだけの奴に高潔な人格が培われる訳がない事は皆さまもお分かりの事と思います。コイツらが自演乙(じえんおつ)で流してくる、自分たちが善人で国民から親しまれていて何でもできる万能の天才であるというニュースが全てウソである事は、常識で考えればすぐに分かりますね。いい加減にこのバカヤロウどもの洗脳を撃ち破って下さい…続きを読む→
「何であたしがこんな重荷を背負わなきゃいけないの?」シルキーが悪用されるという意味です(祈)†■2021年11月24日UP■
「何であたしがこんな重荷を背負わなきゃいけないの?」シルキーが悪用されるという意味です(祈)†
僕を殺して口を利けないようにしてからシルキーを盗む、という意味で間違いないものと思われます。この「家族の一員に」というのは「デ〇〇ニー」の事を言っているような気がしてなりませんが。つまりデ〇〇ニーが僕の反論がない状態でシルキーのキャラクターを完全に書き換え霊的意味を完全に抜け落ちさせ、シルキーが我々のキャラであると世界中を洗脳する作品を発表する事によって僕、たきざわ彰人の存在を世界中の人間の脳内から消させる、という意味ではないかと思われます。そしてトランス時に霊団が見せてきた映像で、シルキーが「何であたしがこんな重荷を背負わなきゃいけないの?」とすごいイヤそうにしていたのです…続きを読む→
「タダ事じゃないんだからね」霊界側でさらに僕を閉じ込める作戦が進行中のようです(祈)†■2025年1月1日UP■
「タダ事じゃないんだからね」霊界側でさらに僕を閉じ込める作戦が進行中のようです(祈)†
帰幽後、ごく普通の善良な人間はたいてい2界か3界に赴きます。3界は幽界上層界に相当し霊界全体ではまだまだ下層界にあたりますが、それでも「サマーランド、パラダイス」と呼ばれたりするほど幸福な世界で、物質界で叶えられなかった夢が何でも叶う境涯と言われています。霊関連書籍によりますと物質界からいきなり4界に向上する人間は極めてまれであり、物質界在籍の人間の向上スピードとしてはこの4界到達というのが最高記録なのではないかと思われます。で、先ほど僕がその上の5界に既に到達していると書きましたよね。僕がこれまでお勉強してきた霊的知識に照らし合わせると、物質界からいきなり5界に到達できるというのは有り得ないと僕は思っていて、それで霊団の言う「アキトくん5界だよ」というのはウソだと思っている訳ですが、霊団はたびたび「霊界新記録」とかそういう事を言ってきたりしていましたから、もしかしたら僕は本当に5界に到達していたのかも知れません。しかし現在は霊団に対する反逆の影響で僕の霊格は相当に下がっているはずですから、もう帰幽後に5界に赴くという事はなくなったとみて間違いないでしょう。まさに自業自得という感じですが…続きを読む→

コナン・ドイルが近代医学を修めて眼科医として開業したころは、折しも米国で勃興したスピリチュアリズムの潮流が英国へ流入して、第一線の科学者や知識人も黙視していられないほどに話題が沸騰していた。が、唯物的人間観で埋めつくされていた当時のドイルの頭には、霊的なものの入る余地はまったくなかった。

が、百の理論も1個の事実には敵わない。そのうち自分が主治医をしていた海軍将校に招かれて交霊会に出席し、物品引寄(アポーツ)という、物理法則を完全に無視した現象を目(ま)のあたりにして、それまでの唯物観に亀裂が生じた。ドイルにとっての人生の大転換はその時に始まり、スピリチュアリズムを真剣に勉強するようになっていった。

私事で恐縮であるが、私にとってのスピリチュアリズムとの出会いは18歳の時、高校3年生になりたての頃だった。

死とは何だろう、今なぜ自分はここにいるのだろうと、ひとり前に人生に疑問を抱き、当時人気の高かった『三太郎の日記』や『哲学入門』などを読みあさっていた時期に、本文の訳註でも述べたが、私の生涯を決定づけることになる間部詮敦(まなべあきあつ)という霊能者との出会いがあり、その直後にこんどは津田江山という、当時いちばん脂の乗り切っていた物理霊媒による実験会が福山市で開かれて、母の理解もあって、出席することができた。

百聞は一見に如(し)かず、とは言い古された諺であるが、やはり真理である。そのたった1回の心霊実験会での体験で、私は人間の能力をはるかに超えた目に見えない知的存在の実在を骨の髄まで思い知らされた。これまで世界の心霊現象に関する記録を読んできて、津田江山氏の能力は世界的にも遜色のないものだったことを知って、自分の幸運を感謝しているところである。

以来40年近い人生の中で、死後の実在を真剣に疑ったことは1度もない。20代にはふと疑念が頭をもたげかけたことがあったが、その実験会のことを思い起こすと、その疑念も立ちどころに消えた。それほど実験で見た心霊現象の印象が強烈だったのである。

しかし、今と同じ個性と意識をたずさえて死後にも存在し続けることは間違いない事実であるとしても、それで自分とは何か、人間とは何かという命題がすべて解決するわけではない。“生”と“死”の哲学が“生”のみの哲学となるだけのことである。

この“人間とは何か”という命題にはふたつのアプローチの仕方があるように思う。ひとつは、人間の構成要素はどうなっているのかという視点、もうひとつは、自我という意識の本体は何か、そしてどこにあるのか、という視点である。

このうち最初の構成要素の問題は訳註でイラストを掲げておいたのでご覧いただいたことと思う。スピリチュアリズムではこれが定説となっており、スピリチュアリズム以外の分野でも、霊視能力者は同じような説、いわゆる“四魂説”を説いている。私は、これはもはや間違いない確定的事実であると断定してよいと考えている。

が、誤解しないでいただきたいのは、この4つともあくまでも“媒体”であって“自我”そのものではないということである。では、その“自我”、こうして意識している“自分”とはいったい何なのであろうか。

生まれ出た時、われわれは泣くことと乳房に吸いつくこと以外、自力では何ひとつできなかった。それがやがて笑うようになり、寝返りをうつようになり、ハイハイができるようになり、お座わりができるようになり、やがてつかまり立ちができるようになって、親は大騒ぎをする。

大騒ぎして喜ぶということは、それが大変な日数と努力を要する、お目出たい、有り難いことであることを物語っている。確かに、不幸にして順調にそうは行かない子もいるのである。しかも、そうした一連の成長過程の何ひとつとして、親が教えたものはない – みな自然発生的にそうなった。一体その原動力となっているのは何なのであろうか。

さらにその後、まさに驚異といえる人間特有の才能が芽生えてくる。ことばが話せるようになる。文字が読めるようになる。数がかぞえられるようになる。絵をかき、歌をうたい、詩に感動し、恋を知り、理性に目覚める。

その反対の感情として、人を憎んだり怨んだり、怒ったり悲しんだりすることは、精神衛生上からいうと“不健康”なことかも知れないが、最初は目に見えないほど小さな精子と卵子の結合体にすぎなかったことを思うと、私にはそれも素晴らしいことに思えてくるのである。

一体どこからそういう意念や情念が湧いてくるのであろうか。自分の意識では抑え切れないことがあるところを見ると、どうやら今の意識そのものではなさそうである。

実はスピリチュアリズムとの出会いがあって間もないころに私は、日本におけるスピリチュアリズムの草分け的存在である浅野和三郎の著書で日本の古い資料を現代風にアレンジした『幽魂問答』というのを読み、それが“自我”に関する疑問にいろいろとヒントを与えてくれているような気がして、40年余り私の心の隅にひっかかっていた。それが4年前の昭和63年の春ごろから再び脳裏をかすめるようになった。


宮崎大門『幽顕問答』(表紙)

それまでの40年余り、スピリチュアリズム関係の著書を枚挙にいとまがないほど読んできて、私自身は、さきほども述べたように、“生と死”から“生”のみの生命観へと転換し、それを当たり前のように理幽解していたのであるが、なぜか『幽魂問答』だけは趣(おもむき)が違うような思いがしてならなかった。

それは多分、主人公の加賀武士の霊が由緒正しい大名の家柄で、武士道精神の固まりのような凜々(りり)しい青年であり、それが“数百年”もの歳月をかけて宿願を果たしたという、尋常な時間感覚を超えたドラマチックな物語だったからかも知れない。

ともかく私はそれを書棚の奥から引っぱり出して、もう1度読み直した。80ページばかりの短いもので、あっさりと読み通したが、読み終えて、ふと、浅野氏は何をネタにしてこれを書いたのだろうか – どこかに原典があって、それをアレンジしたに違いないから、その原典はどこかにあるに相違ないと思い、日本心霊科学協会をはじめとして、日本の心霊関係の機関に電話で問い合わせたが、そういうものはないし、もしあったらウチの方が欲しいくらいだといった返事ばかりだった。

そこで、そのドラマの舞台となった福岡県内の主な古書店に片っ端から電話で聞き合わせてみたが、見たことも聞いたこともないという返事ばかりなので、意を決して、五月の連休を利用して福岡の県立・市立両図書館を訪ねてみた。

そして、幸い郷土史家の協力もあって、それが、A3判ぐらいの和紙44枚をふたつ折にして綴じた、宮崎大門(おおかど)記『幽顕問答』であることが分かった。福岡県文化会館・太田資料No.281として保管されているもので、県立図書館の特別の厚意で全ページをコピーさせていただいた。

見出しは〈天保十年丁亥八月廿四夕陰靈出現發端之事〉となっていて、漢字とカタカナで綴られ、ところどころに小さい文字で“註”が施されている。

一種の憑依現象で、発端から一件落着までの時間は、延べにして20時間ほどにすぎないが、事の成り行き上“さにわ”の役をすることになった宮崎大門という宮司がよほど直観力の鋭い人だったらしく、最初からこれはただならぬ現象であると見抜いて細かくメモを取り、漢方医の吉富養貞にもメモを取らせておいて、帰宅してから徹夜でそれをつき合わせて整理し、清書したものだという。

概略を述べると、話は天保10年、西暦1839年のことで、米国におけるハイズビル事件の約10年前、ペリーが黒船来航する10数年前のことである。その7月4日のことであるが、筑前(福岡)の酒造家・岡崎伝四郎の若主人・市次郎が急に熱病にかかり、寝ついたきり2か月たっても一向に回復せず、からだはやせ衰える一方で、餓鬼のようになってしまった。

何人もの医者に診てもらったがまったく効果が見られないので、伝四郎は近くの神社の宮司で修法家の宮崎大門に依頼して、神道流の加持祈禱をしてもらうことにした。

その大門が訪れた時は、市次郎はもはや重態におちいっていて、数人の医者と家族・親戚、それに近所の人たち3、40人が集まって心配そうに見守っていた。

大門は急いで加特に取りかかることにして、まず祝詞を上げて祈念したあと、大刀を振りかざして呪文を唱えながら振り下ろすことを何度か繰り返すうちに、重態だったはずの市次郎がむっくと起き上がって布団の上に正座し、眼光鋭い眼差(まなざ)しで、大門が大刀を右へ振れば右へ左へ振れば左へと、油断なくその切っ先を見つめ、まばたきひとつしない。

その時の様子を大門は傍註で、《この時の趣はなかなか短筆にては書き取り難し。その座に居合わせたる3、40人の人々、それを見てよく知るところなり。面色みな青ざめ、身の毛もよだちしと、のちに言えり》(漢字・仮名づかいなどは修正。以下同じ)

と解説している。2か月近くも病床にあって髷(まげ)も解け、ざんばら髪となった上にひげも伸び放題だったので、そのものすごい形相が目に浮かぶようである。

さて大門の加持が終ると、市次郎は両手をひざの上にきちんと置いて一礼し、ついに口を開いてこう述べた。

「これほどまで懇(ねんご)ろに正しき道筋を立てて申される上は、もはや何をか包み隠さん。元は加賀の武士にて、故あって父とともにこの地に至り、無念のことありて割腹せし者の霊なり。これまで当家に祟(たた)りしが、いまだ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」いまだ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」

そこで大門が、何の目的あってこの地に来(きた)り、いかなる無念のことあってのことかと尋ねると、「余は父を慕いてはるばるこの地に来りし者なるが、父はこの地にて船を雇い、単身、肥前国(佐賀)唐津へ赴きたり。別れ際に父は余に向い、“汝は是非ともこのまま本国(加賀)へ帰れ。1歩たりとも余についてくることはならぬ”と言い放てり。このことには深きわけありて、今あからさまには告げ難し。さらに余が強いて乗船を乞うとも、父はさらに許さず、“どうしても帰国せぬとならば、もはや吾が子にあらず”と申せり。

かくまで厳しく言われては、子たる身の腸(はらわた)に徹して、その言に従うこととなれり。さりとて、本国へは帰り難き仔細あり。父が出船せしのち、取り残されたる吾が身はひとり思いを巡らせど、義に詰まり理に逼(せま)りて、ついに切腹して果て、以来数百年の間、ただ無念の月日を送りたり。吾が死骸は切腹したるまま土中に埋もれ、人知れず朽ち果てたり…」

そう述べた時には目に涙すら浮かべて、世にも悲しげな表情だったという。“国元へ帰り難き仔細”というのは、あとで武士みずから明かしたところによると、この武士の家は加賀の殿様から三振りの刀を下賜されたほどの誉(ほま)れ高い家柄だったのが、あるお家騒動で父親が濡れ衣を着せられ、殿の怒りを買って国外追放となったという。

その出国に際して当時17歳だったその武士も、ぜひお供をしたいと思い、再三そう申し出たのであるが、父親は断固としてそれを拒(こば)み、お前は我が家のたったひとりの男児なのだから居残っ家を再興してほしいと頼み、母親にもその旨を言い含めて出立したのだった。

が、その後も父を慕う思いを抑え切れないその武士は、ついに母親の制止を振り切って、伝家の宝刀を携えて出国し、諸国を訪ね歩いて、6年ぶりに父に再会した。右の話はその時のことである。そのあと大門と武士との間で次のような問答が続いている。

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泉熊太郎の霊を祀る祠(階段の上)

大門「何のためにそれほどまで人(市次郎)を悩ましむるや」

「ひとつの願望あり。その事を果たさんとてなり」

大門「ひとつの願望とは何のことぞ。切腹したる時は何歳なりしや。姓名は何と名のられしぞ」

「余の願望は一基の石碑を建てていただくことにて、その一事さえ叶えてくださらば今夕にも当家を立ち退く所存なり。その一念を抱きつつ時と人とを得ぬまま、ついに数百年の歳月をへて、今ようやくその機に臨むことを得たり。切腹したるは22歳の7月4日。次の姓名の一儀にいたりては、何分にも今さらあからさまに明かし難し」

大門「姓名を名のらずして石碑の一儀をたやすく受け合うわけには参らぬ。姓も名もなしに敢えてその事をなすは、道にあらず。よって、そこもとの望みは承諾できぬ」

「武士たる者、故ありて密かに国を退(ひ)きては、姓名を明かさぬが道なり。さりながら、名のらずしてはその一儀受け合い難しとの御意(ぎょい)、一応もっともなり。受け合わずばこれまで人を悩ましたること、その甲斐なし。

されど、石碑建立(こんりゅう)の一儀を叶えてくださらば、さきに申せしごとく即刻引き上げ、市次郎も平癒に及び、以後は人を悩まさず、また当家への祟りも止むべし。祟りを止め当人平癒しさえすれば、明かし難き姓名を明かさでもよろしきにあらずや。かくまで懇ろに取り計らっていただくからには、申してもよき事ならば何故に包み隠しましょうぞ。武士道に外(はず)ればこそ隠すなり」

大門「そこもとの申す筋合は一応もっともなれど、姓名を刻まぬ石碑を建立するは神道の方式に適わず。よってそれに背きてまで石碑を建つわけには参らぬ」

「是非にも姓名を明かさざれば受け合えぬとのことか…今となりては如何にせん。姓名を偽るはいと易けれど、吾が本意(ほい)にあらず。実名を明かさでは、また道にあらず。君に仕えし姓名を私事(わたくしごと)の願いのために明かさではならざる身となり果てたるは、さても吾が身ながら口惜(くちお)しき次第なり。打ち開けざれば願望ならず、願望ならざればこれまで人を悩ましたる事みな徒労となるなり…」

と言って大きく嘆息する。そして、しばし俯(うつむ)いていたが、やがて内心ついに観念したとみえ、近くの者に、「紙と硯(すずり)とを貸せよ」と言い、それを受け取ると静かに墨をすり、紙面に〈泉熊太郎〉と書き、それを手にして、「石碑は高さ一尺二寸にして、正面には七月四日と書けばよろし。この姓名は決して他に漏らすまじきぞ」

と言い、改めて筆をとって石碑の形まで書き記し、さらに〈七月四日〉と書き添えた。

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宮崎大門筆の“高峰大神”と熊太郎筆の“七月四日”が刻まれている

もっとも、最終的には写真でごらんの通りの大きなものとなり、祠(ほこら)までしつらえてもらっている。そして150年ほどたった今でも、7月4日には近隣の人々が集まってささやかな供養をしているという。

写真は私自身が現地を訪れて撮影したものである。武士特有の気概が全編にみなぎる、日本人にとって実に興味津々たる心霊譚で、その意味でも、世界に類を見ない貴重な資料であるといえる。同時に、焦点を“自我の本体”に置いて読むと、きわめて示唆に富む事実をいくつか見出すことができる稀有な資料であるとも言える。

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熊太郎自筆の「誓約書」

そのひとつは、加賀の武士と名のる霊の書いた毛筆の文字が、衰弱しきった重態の市次郎にはとても書けないほどの筆勢あふれる達筆であると同時に、近代では見かけない古書体も混じっていることである。ここに紹介したのは“2度と憑依はいたしません”という約束を書いた“誓約書”で、これを宮崎はこう書き下している。

《此の度大門御剣を以て拙者立ち退く様、心苦仕る趣に相見、天保十年八月二十四日夜、御剣を奉拝、此の上の仕合せ過分に存じ、同夕此の家を立ち退き、以来此の家(に限らず、人を悩まし候儀、急度相慎み候)》

この事実は、毛筆で書くという一種の技術的ないし芸術的才能は“脳”にあるのではないことを物語ってはいないだろうか。

次に、熊太郎が6年にわたって父を求めて尋ね歩き、ようやく芸州(広島)で出会うまでの道中のことは一切述べられていないが、それからのち、父親が夜のうちにこっそりと宿を出て小倉へ向かったことを知って、すぐにそのあとを追い、3か月後に小倉で再び父の姿を見つけるが、非情にも父親は息子に一瞥もくれずに、こんどは唐津へ向けて舟で行ってしまう。

この時点で熊太郎は絶望的になり、死に場所を求めて博多湾沿いの村をいくつか通りすぎるのであるが、大門の問いに対して、熊太郎はその村々の名をきちんと答えている。ということは、数百年たった今もその地名を記憶していたことになる。

私も念のためにそのいくつかを確認してまわったが、村のたたずまいや岸辺の風景は熊太郎の叙述とはかなり異なり、村が町になり、小さな港町が交通の要衝となったりしてはいるが、地名そのものは今もそのまま残っている。このことから、“記憶”も脳にあるのではないということが言えるのではなかろうか。

これに関連したことで実に興味ぶかいのは、在世中のおよその時代をつき止めようとして大門が出した質問に対する返答が、やはり市次郎の記憶では有り得ないことを物語っていることである。次がそれである。

大門「そこもとの在世中のことは極秘になされたき意向をくみて尋ねることを控えるが、当時の都(みやこ)は大和なるや山城なるや、はたまた近江なるや」

「すでに山城に定まりて後なり。延暦(えんりゃく)よりはるか隔ちたり」

大門「ご当代になりて後か」

「ご当代?」

大門「家康公ご治世の後か」

「家康公?さようなことはいまだ聞き申さず」

大門「頼朝公前後か」

「そのことはこれ以上お尋ねくださるな。年号と君父のことは決して語らずと、先夕申せしにあらずや」

脳が肉体の中枢器官であることに疑問の余地はないとしても、その奥に何かが存在して脳を操っていることになりそうである。それを宗教的には“霊(スピリット)”とか“魂(ソウル)”と呼び、心理学では“精神(マインド)”と呼んでいる。

これまではそれも脳の派生物として捉えようとしてきたが、右のいくつかの事実から明らかなように、脳や肉体とはまったく別個の意識体 – 本来の自我が存在するらしいのである。

もうひとつ指摘したい事実は – これは全編を通じて一貫して見られる特徴であるが – 熊太郎は“武士”であることに誇りを持ち、いずれは大名になる家柄であることを意識していた精神構造が随所に窺われることである。

たとえば、当時の加賀の殿様の名前を何度訊ねられても、自分のような恥さらしの人間の口から言うのは畏れ多いという一種の“主君への忠義”から、最後まで口を割らなかった。

現代人の常識からすれば、そもそも父親を国外追放処分にしたのはほかならぬ殿なのであるから、その殿に対して今さら忠義立てする必要はないのではないかと言いたくなるが、そこが武士道の世界なのであろう。

姿格好は病気でやせ細った市次郎でありながら、それが端座して、3、40人の者を前にして死後の世界についての人間の無知と誤解を諭(さと)す時などは、まるで大名が家臣の者たちに言って聞かせるような風情があり、家の者が湯茶などを差し出す時は思わず平伏してしまい、父親の伝四郎も、日頃息子に使用していた言葉がどうしても出なかったという。

こうした事実から、われわれが日頃の生活の中で身につけている精神上の性格や習性、教養、嗜(たしな)み、物の言い方なども、肉体が滅んだあともそっくりそのまま残っていることになりそうである。

ところで、この武士は自分が生きていた年代のことは“武士たる者の忠義”として最後まで明かさなかったが、問答の様子から判断して、どうやら源頼朝の時代(12世紀後半)より少しのちらしいことが推察される。

となると、少なくとも5、600年は経っていることになるが、本人が言うには、その間ずっと割腹自殺した場所にいて、時おり霊界を訪れたり地上界をのぞいたりしながらも、ひたすら石碑建立の願望の達成のために、岡崎家の親族・縁者に働きかけていたという。

れわれ生身の人間の時間感覚からすると、いい加減うんざりしそうなものだと言いたくなるこれは、肉体の生理的リズムと太陽の動きを基準にした地上の時間感覚がそう思わせるだけで、霊の世界には地上でいう時間は存在しないらしいのである。

さきにも述べたように、われわれは生まれ出た時から、否、母親の体内にいた時から地球という物理法則に支配された環境で生きていくための訓練をし、それが当たり前のこととなるまで体得してきている。従って、その感覚にそぐわないことは信じられないようになっている。

かといって、ではわれわれは人体のしくみ、たとえば“見える”とか“聞こえる”という現象のメカニズムが自分で理解できているかというと、一般の人間はおろか、専門に研究している人にとっても不思議なことだらけで、なぜそうなるのかとなるとひとつも分かっていないのが正直なところであろう。それでいてちゃんと“見え”、ちゃんと“聞こえて”いる。そこがまた不思議である。

そう考えてくると、人間がこの肉体以外に目に見えない身体をそなえていて、死後はその身体で生活すること、しかも地上で身につけた精神的なものは何ひとつ失われることがないこと、それどころか、思いもよらなかった能力や感覚が現われて、地上生活にくらべたら夢のような世界が展開していることを知る、といった事実を前にして、これを頭から否定すべき根拠はどこにもないことになる。

とは言うものの、やはり死後の世界の存在は容易には信じ難いことも事実である。そこで私は、こう考えたらよいのではないかという、ひとつの見方を提案してみたい。

私は原子エネルギーについては、自分の身体のしくみについて知らないのと同じくらい、専門的なことはまるで知らないし、その道の書物を読んでも理解できないのであるが、常識的な捉え方として、原子が物質を構成する極微の粒子であること、そしてその中心にある核を分裂させたり融合させたりすることによって、途方もないエネルギーを発生させることができる、といった程度に理解して間違いないであろう。

こうした図式を人間の“自我”ないし“意識体”についても当てはめてみてはどうであろうか。肉体のほかに幽体・霊体・本体という目に見えない身体があることはまず間違いない事実であるとしても、それらもあくまで自我が使用する媒体であって、自我そのものではない。

自我の本体は肉眼では見えないし、いかなる計量器でも捉えることはできない。が、それが地上生活のすべてを支配すると同時に、物的環境による制約を受け、われわれはそれを当たり前のこととして、慣れ切っている。

それが1848年のハイズビル事件以来、数多くの霊媒と学者による科学的な研究によって、人生の終りと思っていた墓場の向こうにも想像を絶した世界が広がっていて、肉体から脱け出た自我は、肉体という物的制約によって発現を抑えられていた霊的能力や感覚を発揮して、今もなお、その広大無辺の世界で躍動に満ちた生活を送っていることが分かってきた。

物質を分析しながらつき進んでいったら原子という目に見えない基本粒子に行きつき、その核に莫大なエネルギーが潜在していることを知った人類は、こんどは脳のしくみの奥に目に見えない自我の本体があって、それにも無限の可能性が秘められていることを知るところまで来た、ということである。

本書で紹介されたものはスピリチュアリズムのごく一部 – 大ざっぱなスケッチにすぎない。

が、願わくは読者が、ドイルほどの知性と教養と名声をそなえた人物が、存在の不思議を意識しはじめた青年時代から40年余りをかけて調査・探求した結果、“死後の世界”は間違いなく実在する – しかもそこは地上よりはるかに素晴らしい世界である、ということを確信するに至ったその経過を取りあえず紹介した“序説(プロローグ)”として、本書を、人間とは、自分とは、人生とはという古今の大問題を真剣にお考えいただく縁(よすが)としてくだされば、書物としては古いものではあっても、紹介しただけの価値があったと、訳者としてうれしく思う次第である。

平成4年1月

近藤千雄

※表紙テキスト

“電話のベルが鳴る仕掛けは他愛もないが、それが途方もない重大な知らせの到来を告げてくれることがある。心霊現象は電話のベルにすぎなかったのだ” – ドイルはそう述べて、大切なのは現象そのものではなく、それが示唆している死後の世界の実在と、それを土台とした霊的人生思想、すなわち近代スピリチュアリズムであると主張する。

霊性を失った既成宗教ではもはや、悩める魂も、病める地球も救えないと断ずるドイルが、その破天荒の処方箋を本書で提示する…

訳者

※裏表紙テキスト

スピリチュアリズムの夜明け

山本貞彰(元牧師 スピリチュアリズム研究家)

これはコナン・ドイルの真相について我が国で初めて紹介される画期的な著作である。著者ドイルが他界して60年以上も経過しているのに、本来の彼の姿がよく知られていないことに驚かされる。

ドイルはかなり若い頃からスピリチュアリズム(地球浄化の原理)に接近し、40年近い研究と検証を重ねた結果を本書に著した。これによって多くの読者は、ドイルがいかに霊的洞察力に秀でた人物であったかを識ることができるであろう。

この度、我が国に於けるスピリチュアリズム研究の第一人者、近藤千雄氏の手によって翻訳され、ドイルの真の心が伝えられることは実に意義深いことである。

世におもねる心霊関係図書が氾濫し、マスコミが人々の好奇心をあおる中で、スピリチュアリズムの正道を地道に歩まれてきた孤高の訳者の努力が日の目を見ることに快哉を叫ぶものである。本書によって、我が国にスピリチュアリズムの夜明けが到来する有力な契機となってほしいと心から念じる次第である。

※著者紹介テキスト

アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)

エジンバラ大学医学部卒。26歳で医学博士号を取得。32歳で眼科医院を開業するがその年のうちに廃業。“ホームズ”シリーズで生計を立てながら心霊現象に関心を抱き、死後の生命を確信。晩年には世界各地でスピリチュアリズム思想を講演。スピリチュアリズム関係の著書としては本書に収められた2編のほかに、大著『スピリチュアリズムの歴史』を含む10数冊がある。

※訳者紹介テキスト

近藤千雄(こんどうかずお)

昭和10年生。高校時代にスピリチュアリズム思想を知り心霊実験会にも出席して、死後の世界の実在を確信。明治学院大学英文科に在学中から原典を読み、その翻訳を決意して4年次で“翻訳論”を専攻。これまで2度渡英して著名霊媒・心霊治療家と親交を深める。訳書44冊、編著書3冊。英語教室経営。

「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†■2023年11月29日UP■
「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†
間もなく僕が公言している内容を一般の方々が恐怖に縮こまる事もなく暗殺の危機におびえる事もなく当たり前のように公言する時代がやってきます。なぜなら人々を永遠に脅迫で押さえつける事は絶対にできないからです。最終的には正義が必ず勝利を収めるようになっているのです。なぜなら僕たちの心には【神】がプレゼントして下さった「理性、良心」が具わっているからです。その理性、良心がイヤでも人々を正しい行動に駆り立て、遅かれ早かれ邪悪は滅ぼされるのです、単なる時間の問題です。ただ僕の希望としては「いつか皆さまも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言するようになる」のではなく、できれば今すぐに公言して頂きたい気持ちです。僕の使命遂行をご覧の方々の多くが「たきざわ彰人ガンバレ、強姦殺人魔をやっつけてくれ」と他力本願的に思っておられるかも知れませんが、イエイエ僕という人間には全く何のチカラもありません。社会は個人が集まってできています。ひとりひとりが行動を起こす事によって大きなムーブメントになっていきます…続きを読む→
「小さな思い出」この苦しみも帰幽後に笑って懐かしむようになるという意味です(祈)†■2024年1月10日UP■
「小さな思い出」この苦しみも帰幽後に笑って懐かしむようになるという意味です(祈)†
僕は物的情報は専門外ですので詳細説明は控えますが、あの大震災もこの大震災もコイツらがやった事であり、罪もない大勢の国民を無差別殺害しているのです。(地球深部探査船ちきゅう号という船を使って人工地震を引き起こしているのです、詳細はぜひググって頂きたいです。第2次世界大戦時の関東大震災も、アメリカの手による人工地震です)「行動には動機がある」明仁、文仁、徳仁、悠仁が人工地震を引き起こして無関係の国民を大量殺害している理由は、使命遂行開始ごく初期の頃に霊団が降らせてきたインスピレーション「人生イコールS〇X」これに帰着します。全ては「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を強姦殺人する遊びを続けるためにおこなっている事なのです。イヤ他にもっと理由がある事と思いますが、物事というのは突き詰めていくとシンプルに行き着くというのが僕の持論です。コイツらの行動の動機の根源を辿るとS〇Xに行き着く、自分の日々のS〇Xを守るために国民を殺しまくっているという事になるのです。…続きを読む→

まだ変更があるでしょうが一応5社に絞りました。完成した書籍をAmazon校正刷りで本のカタチにしてその5社に「この本を出版して頂けませんか」とお願いするつもりです。さらにまだ1冊目も書いていないのに2冊目のアイデアもほぼ固まりました。もっとも変更があるでしょうけど。

ずっとやらなきゃと思っていた事です、もうやるしかない、突っ走るしかない。2サイトでの脱出アイデアが頓挫してしまった事は残念でしたが、今までの僕のテキストの撃ち方を考え直すイイ機会になりました。ずっと「小見出し書き出し」というモノをやっていたのもそれに関係がありまして、トコトン読みやすさにこだわった書き方をしようと思っての事なのです。

とにかく長文を避けて小見出しでバンバン切っていく、絵をガンガン挿入する、今の僕に考えられる限りの「読みやすさ」を追求した書籍にしてみるつもりです。書き進めていくうちに細かい変更が発生するでしょうけども。

霊関連書籍のテキスト化が止まってしまっています、それが悲しいですがまずは原稿を撃ちはじめます。何とかカタチにしてみましょう(祈)†

「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†■2022年8月24日UP■
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†
僕も神に反逆するほどバカではありません。ぜひ皆さまにも「インペレーターの霊訓」をお読み頂きたいですが、霊的知識を獲得しておきながら神の意に反する行いをした者がどういう状態にさせられるかをインペレーター霊が語っておられます。僕はその知識がありますのでそこまでバカな事をするつもりはありません。ただとにかく「物事には限度というモノがある」これを強調して終わりとさせて頂きます。キビシすぎ、苦難、試練を降らせすぎ、僕ひとりに何もかもやらせすぎ、本気でいい加減にしてくれ、という事です…続きを読む→
「神は苦しみを用意して下さいました」んー試練にも限度があると思うのですが(祈)†■2023年3月29日UP■
「神は苦しみを用意して下さいました」んー試練にも限度があると思うのですが(祈)†
解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」 – こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。1つとして偶然というものが無いのです。偶発事故というものが無いのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分るようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委(ゆだ)ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです…続きを読む→
「死刑台確定」これ以上最悪のインスピレーションがあるでしょうか、永遠に許さぬ(祈)†■2023年8月2日UP■
「死刑台確定」これ以上最悪のインスピレーションがあるでしょうか、永遠に許さぬ(祈)†
あなたは自分の心を偽っています。霊界には「ウソ」というものが存在しません。ありのままの自分の姿が衆目に晒され、その人の霊体、オーラを見ればその人がどういう人物なのかが一目瞭然で分かるのだそうです。物質界でウソをつき通して偽善者のフリをし続ける事ができたとしても、その物質界生活時のウソを帰幽後の霊界人生で恥辱という名のもとに存分に清算させられるのです。そしてたぶん物質界に再降下させられる事になるでしょう。物質界人生を正直に生きる事と、物質界での失敗の清算で何度もやり直しをさせられるのと、どっちが効率的進歩向上の道だと思いますか。正直に生きた者が最後は必ず勝利者となります。なぜならこの全宇宙が【神の絶対的公平、公正】によって経綸されているからです。ですので僕はたとえこの使命遂行の先に死刑台が待ち受けているとしても、僕が画家時代から大好きだったシルバーバーチ霊の言葉の通り「真一文字に突き進みます」そして帰幽します。皆さまはその時「正直者がバカを見る」とお思いになる事でしょうが、それは永遠の人生の中のホンの一瞬である物質界の事しか見つめる事ができない近視眼的視点から導き出される回答です…続きを読む→

イヤ、本当は自分で出版社を立ち上げたいんですよ、しかし何もかもひとりでこなすというのがどう考えてもムリだと思うので、僕はテキストと絵に集中して、それ以外の作業(流通、営業等)はおまかせできないかと思ってアチコチ見て回っているのですが、何しろ数が多すぎてとても判断できません。

これはまいりましたね、チョトこの作業は止めて自分の作業に集中しましょう。さっそく自伝書籍の原稿撃ちに入ってますが、霊関連書籍のテキスト化の作業が止まってしまっています(現在「The Scripts of Cleophas」作業中)使命遂行的にはこちらを優先せねばならないのですが、それでは脱出できないんですよ。

イヤ、自伝書いても脱出できない事は分かってますよ、しかしわずかでも可能性のある方向にパワーを向けないといけないんですよ今の僕は。本当はアナログ絵ストーリーも描きたいのですがそちらも止まっています。アレをやるとアレが止まる、同時にアレとコレはできないのです。僕はアレもコレも一気にやりたいのです。本当にもどかしい。

んんん、しかしこの自伝は、いつかは書かないといけないと思っていたモノですから、遅かれ早かれ着手していたはずで、もうここまで来たんだから一気にUPさせるべきと思います。2サイトでの脱出が事実上消滅したんだからそれ以外の方法に訴えるしかない。もうやるしかないんだ。

霊団に閉じ込められているあの場所にいる時の、あの無意味な時間をキャンセルしたい、あの何も生み出さない無の時間をクリエイティブの時間に転換したいのです。本当に閉じ込められている事が頭にきてどうしようもないのです。ま、これは物質界に籍を置く限り永遠のテーマなんでしょうけど。

あーもどかしい、しかし手だけは止めるな、何とか作業だけは続行しましょう。先ほど霊団があるダメ出し的な事を言ってきましたが、あぁそうですか、コッチは忙しんだよ。オメィらも口だけ動かしてネィでなんかやれよ、と言いたくて仕方ありません(祈)†
■2021年6月2日UP■
超久々に霊団最接近の「ブゥン!ブゥン!」という振動音を霊聴に聞きましたが、その意味は…(祈)†
霊団が犠牲を払って地上圏に降下するのには“理由”があります(祈)†だいぶ前にこのようなブログを書いた事がありますが、ここで説明している「ブゥン!ブゥン!」という、霊団が僕の肉体に最接近した時に聞こえる高速振動音を今日再び霊聴に聞きました。ずっとそれが霊聴に響き続けていたせいで寝不足にさせられて正直カチンと来ていますが、この霊団最接近の意味は過去ブログでも「祝福」か「慰め」だと書いていますが、今回は間違いなく悪い方の意味だと予測します…続きを読む→
「誰もいないカラッポ」帰幽後の僕が閉じ込められるところです、これはおもしろい(祈)†■2022年2月16日UP■
「誰もいないカラッポ」帰幽後の僕が閉じ込められるところです、これはおもしろい(祈)†
僕が閉じ込められる境涯に幽体離脱時に霊体にて訪れています。まぁまぁ明るい境涯でしたのでそんなに下層界という感じではなかったものの、ある団地の5階から7階へ引っ越しするのですが、その団地全体にひとりの人間もいません。7階の部屋の中ももぬけのから。そこが僕と2羽の住む部屋です。部屋のベランダから外の景色を見ます。どれだけ見まわしてもひとりの人間の姿も見えません。僕とユキ、ピー以外は全く誰もいない、そういうところに僕は帰幽後閉じ込められて生活する事になるのだそうです霊団によると。離脱中の霊体の僕は鼻で笑いました。「フフッ、10年の努力の結果がこれですか。コイツァーおもしろい。3人で仲良く楽しく暮らしていきますよ」と思念を抱くと…続きを読む→
「とにかく説明できません」もう霊団のインスピレーションを書く事ができません(祈)†■2022年4月13日UP■
「とにかく説明できません」もう霊団のインスピレーションを書く事ができません(祈)†
これほどの理不尽が存在する事を知った。人の長年の努力を無に帰して平然としていられる人間がいる事を知った。そもそも「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体、奴隷の女の子たちの悲劇の惨状を僕に怒涛に教えてきたのはコイツら(霊団)です。教えてきておいて全く実現させるつもりがない、奴隷の女の子たちを全く助けてあげるつもりがない、僕の人生を10年もの長きにわたって完璧に破壊し尽くしておいて悪びれる様子もないどころか、まるで僕が悪いかのような事を言ってくる。責任を取るつもりも全くない。…落ち着きましょう…続きを読む→

そろそろ各宗教団体は、それぞれの内部の頑固者や派閥第一主義者を説得して、すっかり隔絶してしまった一般の人心に訴える存在となるにはどうすべきかを深刻に考えるべき時期に来ているのではなかろうか。

一般の人たちのレベルで手をつなぎ合うだけでなく、彼らをリードするだけのものを持ち合わせていると私は思うのである。ただし、そのためには、まず第1に、その体制から見苦しいものや障害物を取り除く決意を固めねばならない。

第2に、理性が問いかける問題に正面から対処し、神学上の教義に対して自然な反撥を覚える人類の知性の要求に応じる用意をしなくてはならない。

そして最後に、これまで解説してきた通りの、霊界からの新しい啓示の波に乗って届けられる真理と霊力とを我がものとして行かねばならない。人類は一部の賢(さか)しらぶった人種の言説に幻惑されて、その真理をいかにつむじの曲った態度で受け止めてきたことであろうか。

以上の3つの点についてキリスト教会が真剣に取り組めば、リーダーシップを取るにふさわしい資格をもって人心を指導することになると同時に、それはすなわち、長いあいだ不当に扱ってきた“主”の教えそのものに、もう1度立ち返ることになるであろう。

訳註

【1】日本では知られていないようであるが、1886年に History of the First Council of Nice(第1回ニケーア公会議の歴史)というのが出版され、識者の間で大変な反響を呼んだ。私が入手したのはその第7版であるが、それによると、325年に開かれたその会議は足かけ4か月にも及び、新しい宗教をこしらえるための福音書の改ざんと教義の創作が進められた。

その第1回目の裁決で1800名の司教のうち1500名が反対したことに激怒した、時の皇帝コンスタンチヌスは、衛兵を呼び入れて反対派を連れ出させ、親皇帝派300名のみで“満場一致”で裁決し、ここに“その血をもって罪を洗い流し給う”イエスを救世主とする“キリスト教”なる宗教が誕生した。

それ以後コンスタンチヌスは、ローマ帝国の国威による弾圧と拷問によってローマ教会に絶対的権威をもたせ、それを盾に、世界史に悪名高い“暗黒時代”を招来することになる。

この真相が明らかになったのは、その会議で追放処分にされた司教たちの日記や書簡、告発しようとしてまとめた文書などが歴史家の手によって偶然発掘されたのがきっかけである。

歴史家ダドレーはそれを“告発”という形ではなく“史実”として淡々と綴っているが、冒頭の“コンスタンチヌスの生涯”の最後に引用してある、英国の大思想家ジョン・スチュアート・ミルの言葉は、ダドレーも含めて、西洋の有識者の気持を代弁しているとみてよさそうである。ミルは『自由論』の中でこう述べている。

《ローマ皇帝の中で最初のクリスチャンとなったのがマーカス・アウレリウスでなくコンスタンチヌスだったことは、全歴史の中の最大の悲劇である。もしもキリスト教がローマの国教となったのがコンスタンチヌスの治世下ではなく、マーカス・アウレリウスの治世下であったなら、全世界のキリスト教がどれほど違ったものになっていただろうと思うと、胸の痛む思いがする》

なお、ダドレーの書は山本貞彰氏によって全訳が進められている。

「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†■2024年3月6日UP■
「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†
まず僕はいつものようにインスピレーションに備えてトランスを維持しています。(目は閉じた状態)すると突然僕の左肩に誰かが手を置きます。ちょうど僕のうしろから肩を叩かれて呼び止められたような格好です。で、僕は左後方に振り向きます。するとそこには全く知らない女性が満面の笑顔で立っています。ヨーロッパ系の女性のような感じでした。カラーリングの基調はゴールドで超鮮明な容姿でした。(香世子さんではありません、それだけは間違いありません)はい、今のこのお話は肉体のお話ではありません。この時、僕はふとんの中で目を閉じ、身体(肉体)はピクリとも動かしていません。しかしハッキリ左肩を叩かれ、左後方を振り向き、超鮮明な女性の笑顔を見たのです。全ては霊体でのお話です。※僕がその女性に向かって「あなたはどちらさま?」と言ったという事ですよ。そしてこの女性の件があった時、僕はトランスを維持しながら「自動書記の嘆願の祈り」を心の中で唱え続けていました。その僕の祈りを受けて女性が満面の笑顔で肩を叩いてきたのです。これはまるで「あたしが自動書記やるわよ」と言っているかのようなシチュエーションとなります…続きを読む→
「言う事聞かないと危ないよ」霊団は僕を危機から保護しているという事なのですが(祈)†■2022年10月26日UP■
「言う事聞かないと危ないよ」霊団は僕を危機から保護しているという事なのですが(祈)†
守護霊様の導きがウマすぎて霊界側の予定に全く入っていなかった少年が霊性発現に到達してしまった。予定外の霊の道具が物質界に出現して霊界側はアラアラ、どぉしましょう、この道具に何の仕事をさせましょう、となって霊界側で緊急会議まで行われた(僕は幽体離脱にてその会議に出席しています、もっともその内容は全く反芻できませんでしたが)そして「イエス様ハンドリング」と題した霊的使命遂行が開始され「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体、奴隷の女の子たちの悲劇の惨状について霊団が果てしなく教えてきて僕は現在の理解に到達する事になる。SNS等で徹底的にヒドイ目に遭わされながらも僕は情報拡散を続け、現時点では「天皇一族が強姦殺人魔」という認識はゴマかし切れないレベルまで日本全土に浸透するに至っている…続きを読む→
「そう、バカだよ」これはもちろん僕の事、悔しいですが反論できません(祈)†■2025年3月19日UP■
「そう、バカだよ」これはもちろん僕の事、悔しいですが反論できません(祈)†
これまでの歴史で、現在の僕のように真実を公言してきた「勇者」の方々は、ことごとく暗殺されてきました。以前僕は「スナイパーチーム」とブログで書いていました。これは強姦殺人魔、天皇一族の命令を受けて真実を公言する人間を暗殺する事を仕事としているポリーチェ(POLICE)の事で、このスナイパーチームが多くの勇者を暗殺してきたのです。国民の安全を守るはずのポリーチェ(POLICE)が強姦殺人魔の忠実な子分であり、国民の暗殺を生業(なりわい)としている(していた、と過去形で言いたいのですが…僕も何度も暗殺の危機に直面してきました)これ以上の邪悪があるでしょうか。物質界がいかに腐りきっているか、いかにウソと洗脳に塗り固められているか、それを思い知らされます。しかし国民もヴァカではありません。分かっている人は分かっているのです、そして真実に目覚める人の割合が時代の進展とともにどんどん増えていて、もう邪悪の人間たちにも洗脳しきれなくなっているという意味で霊団がこのインスピレーションを降らせてきた…続きを読む→