■霊界通信 『イエスの成年時代 神と人間のはざまで』 求道者としての極限を生きた“人の子”イエスの実像  近藤千雄

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『イエスの成年時代』【求道者としての極限を生きた“人の子”イエスの実像  近藤千雄】前巻の『イエスの少年時代』のあと、待望久しかった本書がついに刊行の運びとなって慶賀に堪えない。同時に、前巻に引き続いてこの私がその巻頭を飾る一文を訳者の山本貞彰氏から依頼されて、→
『イエスの成年時代』→それをこの上ない光栄に思いつつ筆を執った次第である。本書のもつ意義については2つの視点があるように思う。1つは、従来の聖書(バイブル)の記述を絶対としてそれのみに頼ってきたイエスの実像とその行跡を見直すという視点である。
『イエスの成年時代』が、これについては山本氏が“訳者あとがき”でご専門の立場から述べておられるので駄弁は控えたい。『主の祈り』についての“訳者メモ”などは永年の体験があって初めて気づかれるところであろう。これは在来の聖書が、インペレーターやシルバーバーチその他の高級通信霊が→
『イエスの成年時代』→異口同音に指摘しているように“人為的な意図に基づく寄せ集め”である事を“語るに落ちる”式に、はしなくも露呈されている興味深い証拠と言えよう。もう1つの視点は、そうした通信霊が述べているイエス像とその行跡との比較という視点である。
『イエスの成年時代』キリスト教の専門家でない私はどうしてもそこに視点を置いて読むところとなった。私が“3大霊訓”と称しているモーゼスの『霊訓』(正続)、オーエンの『ベールの彼方の生活』(全4巻)、そして『シルバーバーチの霊訓』(全12巻)が申し合わせたように強調している事は、→
『イエスの成年時代』→“スピリチュアリズム”の名のもとに進められている現代の啓示と人類の霊的覚醒事業の中心的指導霊が、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物だという事である。これをすぐに“同一人物”とするのは早計である。
『イエスの成年時代』1個の高級霊が幾段階にもわたる“波長低下”の操作の末に母マリヤの胎内に宿り、誕生後それが肉体的機能の発達とともに本来の霊的資質を発揮して、そこに人間性をそなえた“ナザレ人イエス”という地上的人物像をこしらえた。
『イエスの成年時代』その幼少時の“生い立ちの記”が前巻であり、いよいよ使命を自覚して当時のユダヤの既成宗教の誤りと、その既得権にあぐらをかいている聖職者の堕落ぶりを糾弾していく“闘争の記”が本巻である。こうした救世主的人物の生い立ちや霊的悟りへの道程はとかく超人化され、→
『イエスの成年時代』→凡人とはどこか違う扱いをされがちであるが“十字架の使者”と名のる通信霊の叙述するイエスの生涯は、どこの誰にでもあるような、いや、それ以上に人間臭い俗世的喧騒に満ちており、また苦難の連続であった。
『イエスの成年時代』兄弟間のいさかい、親の無理解、律法学者やパリサイ人による怒りと軽蔑、同郷の者による白眼視―最後は“浮浪者”扱いにされるまでに至っている。「イエスの成年時代はこのようにして孤独の体験から始まった。イエスは故郷の人々に心を傾けて天の宝を与えようとしたのであるが」→
『イエスの成年時代』→「彼らはそれを拒絶したのである」という一文には胸をしめつけられる思いがする。しかしイエスはそうしたものを全て“魂のこやし”として霊性を発揮していき、愚鈍で気のきかない平凡な少年から“威厳、あたりを払う”風格をそなえた成年へと成長していく。
『イエスの成年時代』そこには求道者としての極致を生き抜いた姿が彷彿として甦り、2千年後の今、こうして活字で読むだけでも、その意気込み、精神力、使命への忠誠心に圧倒される思いがする。シルバーバーチが、人間的産物である“教義”を棄ててイエスの生きざまそのものを模範とするように→
『イエスの成年時代』→ならない限り人類の霊的新生は望めないと述べている言葉が思い出される。そのイエスが死後、物質化現象でその姿を弟子たちに見せて死後の存在を立証してみせたあと、地上的なほこりを払い落として本来の所属界へと帰って行った。
『イエスの成年時代』マイヤースは『個人的存在の彼方』の中でイエスの死後に言及してこう述べている。「ナザレ人イエスにとって中途の界層での生活は必要でなかった。彼は一気に創造主と一体となった。彼は地上に生きながら既に神だった―全宇宙をその意識、その愛の中に包摂するだけの」→
『イエスの成年時代』→「霊力をそなえていたのである」そのイエスが“私はまた戻ってくる”の預言どおりに、人類浄化の大事業の総指揮者として今その霊的影響力を全世界に行使しつつある。それが各種の霊界通信、奇跡的心霊治療、自由解放の運動となって現われているのである。
『イエスの成年時代』この2巻に描かれたイエス像は、私が理解した限りでは、高級霊界通信が述べている事と完全に付節を合わしている。その1つ1つについて解説している余裕はないが、1つだけ誤解を解く目的で付言しておきたい事がある。それはマリヤの処女懐胎である。
『イエスの成年時代』前巻の8章で“神秘の受胎”として語られているが、私はこの章を読んだ時“やはり”という印象を受けた。私は生命の発生は、人類も含めて、どの種においても2つの性の生じない段階で行われたと考えている。それは物質化現象というものが実在する事を見れば明らかに可能な→
『イエスの成年時代』→事である。両性(男女・雌雄)による発生・誕生の仕組みは、それぞれの性がそれを可能とする段階まで発達したのちの事であって、それまでは幾通りかの“霊の物質界への顕現”の仕方があったはずである。少なくとも心霊学的には処女のまま懐妊するという事は有得るのである。
『イエスの成年時代』ではなぜシルバーバーチはイエスも普通の人間と同じように生まれたと言い、そこに奇跡はなかったと述べているのかと言えば、それは“処女懐胎だから聖純”とする誤った考え、言いかえれば性(セックス)を罪悪視する間違った認識を増幅させないための配慮があると→
『イエスの成年時代』→私は考えている。『霊訓』のインペレーターは“人間に知らせぬ方がよい事、知らせると害がある事”がたくさんあると言っている。人生学校の1年生、もしかしたら幼稚園児にすぎないかも知れない我々地上の人間の事であるから、そういう事は当然考えられる事である。
『イエスの成年時代』シルバーバーチもある日の交霊会で“イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか”と聞かれて次のように答えている。「そんな事について私の意見をご所望ですか。どうでもいい事ではないでしょうか。大切な事はイエスが何を説いたかです。(中略)」→
『イエスの成年時代』→「私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせる事です。人間はどうでもよい事にこだわり過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。(後略)」
『イエスの成年時代』さて最後に注意を促しておきたいのは、ギブス女史の存在である。モーゼスにはスピーア博士夫人、バーバネルにはシルビア夫人、イエスにはおばのマリヤ・クローパスの存在が大きな意義をもったように、このギブス夫人の理解と協力なくしては、こうした価値あるものは→
『イエスの成年時代』→生まれなかったであろう。表にこそ出ないが、中心的人物よりも往々にして側近の人物の方が大きな存在意義をもつ事があるものである。いくら偉くても人間は1人では何もなし得ないのである。本巻の最後にチラリと顔を出すクレオパスという弟子は、のちに“クレオパスの書”→
『イエスの成年時代』→の題で一連の通信を送ってくる事になる。その第1巻がすでに『イエスの弟子達』と題されて刊行されている。何だか2千年前の大きなドラマが今になってビデオテープを見るように再現される感じがして、心躍る思いがする。山本貞彰氏の一層のご健闘を祈りたい。
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-----序文
『イエスの成年時代』【序文】詩人のウイリアム・ブレイクは、いくつかの詩が『使者』からの口述である事を強く主張している。そして次のような言葉で語られている。「私は使者の秘書であり、真の作者は、永遠の大霊である」と。同じように『イエスの成年時代』も、→
『イエスの成年時代』→私の目の前で“十字架の使者”からジェラルディン・カミンズに口述されたものである。カミンズが、パレスチナ地方に行った事があるのではないかと尋ねられる事があるが、彼女は、一度もそんな経験はない事を、神名に誓って読者諸氏に言明しておく。 E・B・ギブス
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-----主な登場人物
『イエスの成年時代』【主な登場人物】エルダト…故郷を追われ失意のイエスを暖く迎え入れた農夫 アサフ…イエスを心から慕い続ける薄幸な障害者 ユダ…盗賊の首領に残された唯一の実弟、イエスの弟子 ヨハネ…イエスの最愛の弟子。稀にみるすぐれた霊覚者
『イエスの成年時代』ヨエル…人里はなれた山岳地帯に住む野人 ナタニエル…ヨエルの孫、ナタンの従兄弟。敬虔な信仰者で、後にバルトロマイと改名する シャンマイ…民衆の信望を集めていた、エッセネ派修道会の創設者 ヨナ…ペテロの従兄弟で、ユダの友人
『イエスの成年時代』マルコ…ペテロの親戚にあたる若者で、イエスを慕う ピラト…当時のユダヤを統治していたローマ総督 アリマタヤのヨセフ…ユダヤ国会議員の1人で、ピラトと親交があり、人目をしのんでイエスに師事していた人物
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