1913年11月10日 月曜日
今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延々と天界が存在するのが見える。私はすでにそのうちの幾つかを通過し、今は第10界に属している。
これらの界は地上の“場所”とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した“状態”である。貴殿は既にこうした界層についてある程度の教示を受けている(第1巻・6章)ので、ここではそれについて述べる事は控えたい。
それよりも私は別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。善なるものには2つの方法によって物事を成就する力が潜在している。
善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界の者を引き上げる事ができる。現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界の者を引き下ろす事も可能である。祈りによっても出来るが、自分自身の霊力によっても出来るという事である。
さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせる事が可能なだけ、それだけその環境を通して働く事ができる。つまり環境を活用して物事を成就する事が出来るという事である。
下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴しさに感心する。
例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。即ち植物を担当する霊の働きである。
その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。
今述べた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡(さかのぼ)れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿り着いた時は1つに統一されている事であろう。
その道を僅かに遡ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基いて論ずる他はないが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は“愛”と呼ぶのがもっとも相応しいものではないかと思う。
何となれば、吾らの理解の及ぶかぎりにおいて、愛と統一とは全く同一ではないにしても、さして相違がないと思えるからである。少なくとも吾々がこれまでに発見した事は、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において数々の地域と各種の境涯が生じていくそもそもの原因は、最も厳密な意味における“愛”が何らかの形で欠如していく事にある。
が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が大きすぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今述べた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚かつ素晴しくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。
それを愛の欠如という言い方をせず、統一性が1つ欠け2つ欠けして、次々と欠けて行くという言い方をすれば、統一性が多様性へと発展して行くとする吾々の哲学の一端を窺い知る事が出来るかも知れない。
こうした下層界の活動の全てが法則によって規制されているのであるが、それなりの枠内における自由はかなりの程度まで存在する。これ又吾々にとって魅力あることである。
何となれば、貴殿も同意することと思うが、その多様性に大いなる美が存在すると同時に、植物的生命を活動させる霊の巧みさにも大いなる美が存在するからである。
精霊界およびその上あたりの界を支配する法則には私に理解し難いものがまだまだ数多く存在する。中には理解し得るものもあるにはあるが、こんどはそれを言語で伝えることが至難のわざである。が少しばかり伝えることができるものがある。それ以上のことは貴殿自身こちらへ来てから、向上の道を歩みつつ学んで行ってもらうことになろう。
その1つは、一旦ある植物群の発達の計画を立てた以上は、その主要構成分子と本質的成分はあくまでも自然な発達のコースを辿らねばならないということである。群生する劣位種の影響もその不変の原則内に抑えなくてはならない。
たとえばカシの木が計画されると、あくまでもカシの木としての発達を遂げさせなくてはならない。亜種が発生することはあっても、カシとしての本性を失ったものであってはならない – シダになったり海草になったりしてはならないということである。この原則はこれまで大体において貫かれている。
もう1つの原則は、いかなる霊も他の部門の霊の働きに干渉し台無しにすることがあってはならないということである。足並みが揃わないことがあるかも知れない。現にしばしばそういうことがあるのであるが、なるべく一時的変異の範囲に留めるよう努力し、他種の発達を完全に無視することになってはならない。それは絶滅を意味することになるからである。
故に、同じ科の2つの植物を交配すると、雑種または混成種、あるいは変異種が出来るであろう。が別の科の植物と交配しようとしても成功しない。が、いずれにしても絶滅という結果にはならない。
また樹木に寄生植物がからみつくことがある。が、樹木はそれに抵抗し、そこに闘争が始まる。大抵の場合、樹木の方が傷(いた)められ敗北を喫する。が、簡単に敗けてはいない。
延々と闘いが続き、時には樹木の方が勝つこともある。が霊界において寄生植物の概念を発想し、そして実施した霊が大局においては競り勝っていることが認められる。
こうして植物の世界においても闘争が続けられているわけであるが、これをベールのこちら側から観察していると実に興味ぶかいものがある。
さて、ここで、さきに少し触れたことで貴殿には受け入れ難いとみたことについて述べておかねばならない。こうした生成造化における千変万化の活動の主な原則は全て私自身の界(第10界)よりなお高い界において、高い霊格と強力な霊力をもった神霊が、さらに高い界の神霊の指揮のもとに計画したものであり、その神霊も又更に高い界の神霊の支配下にあるということである。
私は今“千変万化”という言葉を用い“対立的”とは言わなかった。これは高い神霊界においては対立的関係というものが存在しないからである。存在するのは叡智の多様性であり、それが大自然の美事な多様性となって天界より下界へと下り、ついに人間の目に映じる物的自然となって顕現しているのである。
対立関係が生じるのは大源より発した叡智が自由意志をもつ無数の霊の存在する界層を通過する過程において弱められ、薄められ、屈折した界層においてのみである。
が、しかし、さまざまな容積を具え、幾つもの惑星を従えた星辰の世界を見てもらいたい。地球の自転と他の惑星の引力によって休みなく満ち引きする大海を見てほしい。また、その地表に押し寄せるエネルギーに反応してさらに重い流動体を動かすところの、より稀薄なエーテルの大気を見るがよい。
更には、無数の形体と色彩をもつ草、植物、樹木、花、昆虫類、さらに進化した小鳥や動物たちの絶え間ない活動 – 他の種属を餌食としながらも互いに絶滅しないように配慮され、各種属が地上での役目を全(まっと)うしていくその姿 –
こうしたことや他のもろもろの自然界のしくみに目をやる時、貴殿は創造神の配剤の妙に感嘆し、その感嘆は取りも直さずその配下の高い神霊の働きへの感嘆に他ならないことを認めずにはおれないであろう。
その神の御名において貴殿に祝福のあらんことを祈る。†
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