【5/12】霊界通信 ベールの彼方の生活 3巻 「天界の政庁」篇 3 究極の実在
1917年12月14日 金曜日
前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。
今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが“父の住処(すみか)”と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。
それに、こちらへ来てみて吾々も霊というものが本質はたしかに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。
物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至聖を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、霊のみの存在にあらずして、霊たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。
(訳者注 – モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試錬と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の1歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)
惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しずつ貢献している。
がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、霊の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう1つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。
そして星雲もさらに広大な規模の集合体の1単位にすぎない – これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。
それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側に侍(はべ)ることを夢みて、幾百億と知れぬ同志とともに数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。
無窮の過去より無窮の未来へと時が閲(けみ)するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。なんとなれば天界の大軍に1人加わるごとに王国の輝きにさらに1個の光輝を添えることになるからです。
吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩(くら)まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに1点の光として映じるという。
爛漫(びまん)する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は1個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。
地上から太陽系全体を1つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部にすぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の1つ)より眺めれば太陽系全体が1つの小さな光球として見えることであろう。
その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。同じように、そのアークツルスと他の無数の恒星を1個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。
そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。つまり私は霊的宇宙全体を1つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる“無”の中の存在と見なすのです。
その超越界と吾々第10界まで向上した者との隔(へだ)たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。
が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。
その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れをとらぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。
– 1つよく理解できないことがあります。吾らが主は幼な子の純心さについて語ってから“神の御国はかくの如き者のものなり”と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。
たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。
子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれて来ます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居眠りをしているわけです。それが精神的機能の発達とともに1つ1つ開発され使用されるようになる。
そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新らしいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。
私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力を秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか – 霊的存在としての人間の発達はそれに掛かっています。
幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しないかぎりにおいてのことです。人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。
が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦(まさつ)にも似た軋(きし)みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。
一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となっていく。ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なる神の御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。
少年時代にあってもその心を占めていたのは父なる神についてのことばかりであった。(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)。ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心との一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。
しかしそのお顔は地上世界の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否や神へ向けて一気に旅立っていった。
さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日を神への旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。
パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて、天界にても地上と同じように、霊力とともに最高の権威を委(ゆだ)ねられたと述べた。
吾々のごとく地上にてはささやかな記録(バイブル)を通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性を主に見出して何の不思議があろう。
さよう。友よ、父の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。
(* モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は1度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道でいう“自然霊”によって構成され、イエスも自分が出生前その霊団の最高の地位(くらい)にあったことを自覚し、1人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。
(** ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される“父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを。”)
(*** マルコ16・9~11。訳者)
「メッセージだけを見て欲しい」霊団が物質界の邪悪に目をつぶろうとしているのです(祈)†
しかしそれは「順番が逆だろ」まず奴隷の女の子たちを助けてあげて、それから交霊会だろ、と僕は思うのです。というのも、奴隷の女の子たちを完全に見殺しにした状態で僕という霊媒を霊団が使用して霊言を降らせたとしましょう。その降ってきた内容がさながら「シルバーバーチの霊訓」を彷彿とさせるような高尚な内容だったとしましょう。その霊団が降らせてきた内容が、人類を救うとか、世界を救うとか、人間は国家も肌の色も関係なく全員が神から神性の火花を賜って個的存在を与えられた、神を共通の親とした霊的兄弟、霊的大家族であり、戦争で敵国の兵士を撃ち殺す事は自分の家族を殺す事と同義であり愚かな事であり、したがって全世界が助け合っていかなければならないとか、そういう心を撃つ美しい内容だったとしましょう…続きを読む→
「巻は続くと」これはシルバーバーチの霊訓が続くという意味、そうあって欲しいですが(祈)†
僕はこの「カミンズ方式」で霊媒の仕事をするつもりでいるのです。僕の意見などどうでもいい、それより霊団が降らせるつもりで準備してきたテキストを滞りなく全て降らせる事に集中するという事です。仮にその僕の姿勢が功を奏して霊団側の仕事がスムーズに進み、予定時間より早く降らせる分のテキストを降らせ切ってしまい時間が余ったとしましょう。それでも僕は口を挟まないつもりで、その余った時間で霊団が個別に言いたい事があるかも知れませんので、それも紙にしっかり書いてもらう事に集中し、僕からは何も言わない、要求しないつもりなのです。というのも、僕の場合は何も自動書記のジャマなどしなくても日常的にインスピレーションというカタチで霊団と意思疎通、やり取りをしているからです。僕の生活に孤独というものは存在しません、来る日も来る日も霊団が霊聴にピーチクパーチクしゃべくってきてムカつかされていますので自動書記というカタチでやり取りしなくても別にいいのです…続きを読む→
「進化とはなかよしの事」深いインスピレーションですが僕には耳が痛いですね(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体の情報拡散だけは徹底的に僕にやらせて、僕の次の世代の使命遂行者が仕事をやりやすいように畑だけは耕しておくが、滅ぼす事は僕の代ではやらない。霊団はタダ僕にその苦しいタネ蒔きを続けさせて霊的に向上させて帰幽させる事だけを考えていたのではないか。交霊会やるやるとずっと言い続けてまるっきりやろうともしない、サークルメンバー問題も全く解決させようともせず交霊会をおこなう環境など全然整っていないのに、ただ口だけ延々とやるやる言い続けてくる。これもどう考えてもおかしい。バーバネル氏が支配霊というのもおかしい。物質界生活中に僕にできるだけ霊的知識を獲得させておくために交霊会交霊会言い続けてお勉強させるのが真の目的だったのではないか。つまり僕の仕事の本当の舞台は霊界であって、帰幽後にイエス様(さすがに直で仕事を賜る事はないと思いますが間接的にはあるかも知れません)から言いつけられる仕事をおこなう事の出来る霊的知識および霊格を物質界生活中に身につけさせるためにムチャクチャな試練を浴びせられているという事なのではないか…続きを読む→
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