【8/9】モーゼスの「霊訓」(上)第5節 霊媒の条件
[その翌日、私は現在地上にはびこっているといわれる邪霊の存在について長々と議論した。それが個人へ及ぼす影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つかあげた。
また、そうした力が広がりつつあるので、誠実で叡知に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。
さらに、霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって、善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは、その人の心がけひとつに掛かっていると述べた。そこで私は、では、どういう心がけがいちばん望ましいかと尋ねた – ]
霊的能力の目的と手段
霊的現象に多くの種類があることはご存知の通りですが、霊力の行使にもさまざまな方法があります。ある者は身体的特質のゆえに、身体そのものが霊力の支配を受けます。その人の身体的機能が、目に見える最も単純な形での霊力の証を提供するのに適しているのです。
この種の霊媒は知的な支配は受けません。よって彼らを通じて届けられる“情報”は取るに足らぬもの、あるいは、愚(ぐ)にもつかぬものさえあり、信頼性に欠けます。彼らはあくまで客観的現象を演出のさえあり、信頼性に欠けます。彼らはあくまで客観的現象を演出する霊力を立証する手段として使用されるのです。
要するに初歩的現象の演出のための道具であると認識してよろしいが、だからといって、その現象が他の種類の霊能力を通じて現われる霊能と比較して重要性が劣るわけではありません。霊力の存在を信じさせるための基盤を築くことが、その目的なのです。
一方、情愛に満ちた優しい性格ゆえに選ばれる者もいます。彼らは物的現象の道具とは違います。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらあります。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しい魂は、天使の監督のもとに、ますます洗練され向上していきます。
そうするうちに徐々に天使からの霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは又、霊視能力によって死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもあります。
霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもあります。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂います。実に、地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によって培われた霊性をそなえて、それに相応しい平和な境涯へと旅立ちます。
これとは別に、知的能力に優れているがゆえに、幅広い知識と奥深い真理の通路として訓練される者もいます。高級な霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意します。その働きかけの方法は実に複雑多岐をきわめます。初期の目的達成のために仕組む手順の配慮には、人間の想像も及ばない手段を行使することがあります。
理想的霊媒の条件
われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受けるに相応(ふさわ)しい霊媒を見出すことです。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければなりません。受容性の限度以上のものは、しょせん伝え得ないのが道理だからです。
次に、愚かな地上的偏見に囚われることのない者でなければなりません。若い時代の誤った思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間一般に受け入れられないものであっても、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばなりません。
まだあります。独断(ドグマ)主義から解放されねばなりません。“この世的”思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断主義と派閥主義と偏狭な教義から解放されねばなりません。自分の無知に気づかない、一知半解の弊に陥ってはなりません。
つねに囚われのない、探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧(あこが)れる者、洞察力に富んだ者であらねばなりません。つねに、より多い真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。つまり真理の吸収に飽くことを知らない者でなければならないのです。
また、われわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では、われわれは仕事らしい仕事はできませんし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことで精いっぱいということになります。
われわれが求めるのは、有能にして真摯、そして飽くことのない探求心に燃えた、無欲の精神の持ち主です。そのような人材が発見困難であると述べたわけが、これで理解していただけるでしょう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近いといえます。
そこでわれわれは、見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用します。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、自分の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養います。そうすることで独断的偏見から超脱させ、真理が多面性を有するものであり、一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行います。
その上で、魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえできあがれば、安心して上部構造を築きあげていくことができます。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの所期の目標に調和させていくわけです。
ここに至って多くが、実に多くの人材が、脱落していきます。そしてわれわれも、彼らは地上では真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭(ぬぐ)えないものであること、それゆえ、時の流れに任せるほかはなく、われわれにとって用のない存在であることを悟って、諦(あきら)めるのです。
さらに、真理への完全な忠実性と、恐怖も不安も宿さない信念は、われわれの教化によって着実に培われていくものです。われわれは、神とその使者である背後霊への全幅の信頼へ向けて、霊媒を導いていきます。
そして、われわれが神より許されている範囲での行為と霊的教訓を忍耐づよく待つ心構えを培っていきます。こうした心構えは、多くの霊媒にありがちな、苛立(いらだ)った、落着きのない不満とは正反対のものです。
この段階において、また多くの者が脱落していきます。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われます。古来の神学の説く神は自分のような人間の破滅を今か今かと見守っている – 悪魔が自分のような人間を罠(わな)にかけようと油断なく見張っていると説いていることが心をかすめます。
確かに、古い信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その隙間に邪霊がつけ入り、動揺を誘発する。ついに、恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われわれにとって用のない者となっていきます。
それでもなお、われわれは人間のあらゆる利己心を払拭(ふっしょく)しなければならないのです。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。まずそれを取り除かないことには、われわれは何も為し得ないのです。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚(うぬぼ)れほど致命的なものはありません。
“小知”を働かせるようではいけないのです。われわれによる知的働きかけの妨げとなります。ドグマに偏った知性は使用しようにも使いものになりません。まして、それが高慢と自惚れに満ちていれば、近づくことすらできません。
最大の要素 – 無私と献身
いつの時代にも、自己犠牲こそが聖賢の最大の徳でした。その時代相応の進歩性に富む真理を旗印にした予言者たちは、みな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。バイブルにその名をとどめるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。
とくにイエスは、その地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高な模範でした。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることができます。(1)
地上的知識の誤りを駆遂して真理の光をもたらした人々は、みな、自分に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った人たちでした。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者は、無私無欲の人物 – 我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らない人たちでした。
いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ、等々の美徳を最高度に発揮した人たちです。それなくしては、彼らの使命が成就されることはなかったでしょう。もしも私欲に囚われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことでしょう。謙虚さと誠実さといちずさがあったればこそ、成就し得たのです。
われわれが求める人材とは、そのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実で、自分を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。このような麗しい魂の持ち主が稀れであることは確かです。
しかし、友よ、平静にしてしかも頼れる、誠実にしていちずな求道者の心をもってわが心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差しのべる、博愛主義者の心をもってわが心とされよ。さらに、報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心をもってわが心とされよ。
神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいないでしょう。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬようにします。神より遣わされた天使も、笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることでしょう。
– でも、これでは完全な人格を求めることになります。
何と!これをもって“完全”とおっしゃる?そなたは“完全なる魂”がいかなるものか、まったくご存知ない – 知ろうにも知り得ないのです。想像することすら不可能です。忠実な魂が霊の教えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程も、そなたには知り得ません。
われわれが植えつけ手をかけてきた種子が次第に成長していく様子は、人間の目には見えません。人間に知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となっていくことだけです。
さきに述べた人格の資質は、地上の用語で表現し得るかぎりのものを述べたにすぎず、まだまだ完全よりほど遠く、これより成就すべき完全さを思えば、漠然と“それらしき”程度のものにすぎません。
人間に“完全”は有り得ません。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けています。人間にとって完全と思えるものも、われわれの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのです。
– そうかも知れません。でも、それほどの人物は極めて少ないでしょう。
少ない。確かに少ない。それも、ようやく芽を出した程度のものにすぎません。が、われわれはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てます。われわれは決して完全を求めているのではありません。
誠実さといちずな向上心、囚われのない、受容性に富む精神、清純にして善良な心の持ち主です。忍耐づよく待つことです。性急は恐ろしい障害となります。しょせん手の届かぬものへの過度の用心と不安を捨てられよ。われわれに任せられたい。今は外部との接触を避け、忍耐づよく、われわれがこれまでに述べたことを吟味してもらいたい。
瞑想の効用
– 都会の喧噪から隔絶した生活の方が、あなたたちの影響を受け易いのでしょう。
[ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(2)と署名された。]
騒々しい世間はとかく霊的なものを拒絶するものです。人間は物的なもの、すなわち目に見え、手に触れ、貯えることのできるものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ちうけていることを知りません。
あまりに地上的になりすぎ、われわれの働きかけに無感覚になっています。あまりに地臭が強すぎて、われわれも近づくことすらできません。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているために、死後にも価値の残るものに心を配る余裕が持てなくなっています。
それだけではありません。心がいつもそうしたものに囚われ、心静かに瞑想する余裕を持たぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱しています。霊的雰囲気に力が見られません。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱気味です。これでは、われわれもほとんど近づくことすらできません。
さらに、いがみ合いの情念と不平不満、ねたみ合いと口論のために、その場が不快な重苦しい雰囲気に包まれています。ことごとくわれわれにとって障害となるものばかりです。
無数の悪徳の巣、忌(いま)わしい誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われた人間であふれる大都会には邪霊の群れがうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして、虎視眈々(こしたんたん)、その機を窺っております。多くの者がその餌食(えじき)となって悲劇への道をたどり、それだけわれわれの悲しみを増し、手を煩わせることにもなっております。
瞑想の生活こそ、われわれとの交信にとって最も相応しいものです。もとより、行為の生活に取って代るべきものではありません。行為の生活の中に適度な瞑想の時を取り入れるのが望ましいといえます。煩わしい気苦労もなく、過労による体力の消耗もない時こそ、最も瞑想に入りやすいことは言うまでもありません。
しかし、魂の奥底にそれを求める欲求がなければなりません。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間的誘惑も、霊界の存在の認識と霊交を妨げることは有り得ません。が、やはり、環境が清浄で平穏な時の方が、われわれの存在を知らしめることが容易であることに違いありません。
[注釈]
(1)イエスという名の人物に関しては、その実在を立証する確かな資料は何ひとつない。聖書学者の中にはイエスを架空の人物と断定している人もいるほどである。
確かに、今日のような“住民登録”などという制度のなかった時代のことであるから、そういう意味での証拠資料があるはずはないし、日本で“聖書”と呼ばれているバイブル、およびそれを土台にして体系づけられているキリスト教神学がまったく根拠のない、人間的創作物であることは、インペレーターやシルバーバーチといった古代霊から指摘されるまでもないことで、そのこと自体に異論をはさむ人はいない。
が、近代になって、もしかしたらこれがイエスではないか、と推察される人物のことを書き記した古文書が幾種類か発見されている。
当然のことながらそれらはキリスト教会からは否定もしくは黙殺されているが、私自身も直接その種の資料をいくつか入手して目を通し、原始キリスト教から今日のキリスト教へと発展していった過程を歴史的にたどり、その最大の転機となった325年のニケーア会議の舞台裏で行われた“歴史上最大の陰謀”(ある聖書学者の表現)、そして私の専門であるスピリチュアリズム関係の資料、たとえば霊言・自動書記等による霊界通信や、妖精・自然霊に関する霊視記録および日本古来の霊的資料、さらに最新の天文学の情報を照合した上での私個人の直観的確信を述べさせていただけば、現在イエス・キリストと呼ばれている人物は地球の守護神直属の高級自然霊、西洋流にいえば大天使の一柱が降臨したもので、その背景には2000年後の今の時代はおろか、何十世紀にもわたる遙か遠い未来を展望した遠大な計画があって、イエスはその端緒を開く目的をもって生身で地上に生まれてきた – それが死後2000年ほどたって、こんどは霊界側の総指揮者として地球浄化の事業を推進している – インペレーター霊団やシルバーバーチ霊団もその配下にある…そう理解している。
「死ぬぞ」僕が日本の中心に行くと100%殺されるそうですが、ならなぜこの仕事をやらせた(祈)†
物質界の問題を僕という道具を介して解決しようなどとはサラサラ考えていないのではないか。事実放置してますし。僕の帰幽後の状況がよくなるために苦難を与え続けている、まぁそれは了解としても、あんたたちのやっている事はどう考えてもおかしいんじゃないのか。邪悪に目をつぶりすぎている、奴隷の女の子を見殺しにしすぎている。どうやってもその部分は納得できない。で、僕にその問題を解決する能力がないというなら最初からやらせなければよかっただろ。霊界の人間は物質界の人間の心の中が丸見えだ。僕というキャラがどれだけの力量でどういう仕事はできてどういう事が不得手なのか、僕本人よりあんたたちの方が把握しているはずだ。だったら僕という道具を使用して物質界の邪悪を滅ぼせるか滅ぼせないか事前に分かってたはずだ。つまり最初から何もしないつもりだったんじゃないのか、だから今、僕を閉じ込める事にのみ全力を集中させて僕に何もできないようにしているんじゃないのか、油断していたら僕自身の努力で事態が前進してしまうかも知れないのでそうならないように全力で僕を封じ込めようとしている、そういう事なんじゃないのか。あんたたちは一体何がしたくて生きてるんだよ。霊界の仕事って一体何なんだよ…続きを読む→
「地上とのつながりがすでに無くなっていた」これは僕への最大級の脅し文句です(祈)†
僕の予測ですが(これが正解だと思ってます、最悪の正解ですが)霊界側はもう何もしない、このまま僕を閉じ込め続ける事だけを考えている、交霊会も実は全然やる気がないのではないか、という気さえしています。事実全然やってないじゃないですか。インスピレーションだけを徹底的に降らせて、あとは僕にテキスト撃たせて拡散させる、それが霊界側としてはいちばんカンタン、ラク、消費パワーが少なくて済む、物質圏付近に降下する犠牲的作業をせずに済む、その霊界側にとって犠牲の少ない方法(インスピレーションのテキスト化)で十分に成果を上げているので、それで霊団は「ラクだから大好き大好き♪」とムカつく事を言ってくるのではないか、などと思ったりもするのです。霊界高級霊の方々が犠牲的降下をせずにインスピレーションという霊にとってのごく自然かつ通常の通信方法で仕事をおこなえる僕という「霊の道具」をできるだけ長く物質界に閉じ込めておケツひっぱたいてこき使うつもり、これが霊団側の真相なのではないか…続きを読む→
「復刊事実上消滅」「霊媒として機能する条件」について説明させて頂きます(祈)†
「シルバーバーチ愛の摂理」より抜粋 ある日の交霊会で菜食主義の是非について問われて こんなことを言うとまたわたしは不評を買うことになるでしょうが、真実は真実として申し上げねばなりますまい。理想的な霊媒のあり方としては、アルコールや肉類、タバコ、その他、人体の質を低下させるものは極力控える方が霊媒の進化にとって良いに決まっています。地上にあっては霊は肉体を通して自我を表現するしかありません。となれば、その肉体の質が高ければ高いほど霊媒の表現力も大きくなる道理です。したがってその肉体を汚すもの、間違った刺激を与えるものは、いかなるものであっても霊にとっては障害であり良いものではありません。肉体は霊の宿なのですから。これでもうわたしの答えはお判りでしょう。動物の肉、タバコやアルコールによる刺激があなたの心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な能力の開発に益があるでしょうか。もちろん無いに決まっています。適度に摂取するのであれば害は少ないというのは当たり前の理屈ですが、理想を言うならば、霊媒は大地からの産物のみに限るのが好ましいと言えます…続きを読む→
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