【8/17】モーゼスの「霊訓」(上)第11節 “儀文は殺す。されど霊は生かす”

[この頃には、迫ってくる例の影響力が一段と強まり、他の通信が一切締め出されてしまった。7月24日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが、ダメだった。その影響力には不思議と精神を高揚させるものがあり、それが私の精神活動を完全に支配していた。

日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に1分1秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい教えのことを考えた。考えはじめると、すぐにその影響力が割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。

それまで私はキリスト教神学を長年にわたって広く深く勉強してきたが、数ある教説も、アラ探しをする意図のもとに読んだことは1度もなかった。辻褄の合わない点も、批判するよりむしろ、うまくつなぎ合わせるようにしたものである。

ところが今や私にとってまったく新しい考え – それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆(くつがえ)しかねない思想を突きつけられている。

7月26日、私は前回のインペレーターの通信にふたたび言及してこう述べた – ]

[あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日ごろ尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何といっても、私たちが信仰の基本として教え込まれてきたキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。

私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、あえて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去1800年以上もの長きにわたって存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。

いったいあなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、また、イエスの名のもとに教えを説くかと思えば否定し、古い福音に代えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。

また、あなた自身の地上での身元の確認と、あなたが広言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力をそなえた者なら誰もが得心する証拠です。

天使であろうと人間であろうと、あるいは霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られてきた言葉だけで、神の起源とその拘束力とについて、これほど致命的な変化を受け入れるわけにはいきません。

また、そのように要求されるいわれもないように思われます。その変化には、徐々にではあっても、歴然たる相違点が発見されます。あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られてくる思想には団結性がないものと判断せざるを得ません。]

煩悶と懐疑は軽信に勝る

友よ、これほど真摯にして理性的な質問をそなたより引き出し得たことは、われわれにとって大いなる喜びです。真摯に、そして理知的に真理を求めんとする心 – その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、すべてを正しい理性によって検討し、その理性的結論には素直にしたがう用意のある心、これこそ神意にかなうものであることだけは信じて欲しく思います。

われわれはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性のある真面目な心の証として称賛します。

従来の信仰をそれ相当の根拠なしには捨てず、一方、新しい言説は、形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる…そうした懐疑と煩悶の方が、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑(うの)みする軽信的態度よりはるかに価値があります。

思想的風雨にさらされても何の反省も生まれず、そよ風にも能面のごとき無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じない無感動と無関心の魂よりも、はるかに貴重です。

そなたの抱く懐疑の念は、むしろわれわれの指導の成功の証として称賛します。そなたがわれわれに挑む論議は、神の使者として述べた言説を、分別心をもって検討してくれていることの証拠として歓迎します。そなたを煩悶させている問題については、いずれ、われわれの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるつもりです。

われわれには、証拠を提示することの不可能な、ある超えられない一線があります。それは、われわれも十分に承知しております。われわれは人間世界で言うところの“証人”を立てることができないという、大きな不利な条件のもとで難儀しています。

われわれは地上の人間ではありません。それゆえ、法廷に持ち出すたぐいの証拠を提示するわけにはまいりません。そなたには、ただわれわれの証言を聞いてもらい、理解してもらう – 証拠によって明らかにし得ないものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのです。

木はその実によって知れる

それは、われわれの説くことが、われわれとともにこの仕事にたずさわる者を除いては、まずもって、これを支持してくれる者がいないからでもあります。実際には、われわれの霊団の者の多くが地上時代の身元を明かしております。(1)

そうして、その名前の歴史上の人物について、そなたは決定的ともいえるものを事細かく知り尽くしておられる。

あくまでもそれでは納得できないと言うのであれば – もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めた情報にすぎないというのであれば、われわれとしては、そなたとのこうした霊的な交わりのもつ霊的雰囲気に着目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄を収めざるなり(2)”とイエスが述べた判断の基準を思い出していただきたい。

われわれの教えが神意に適うものであるとの証を、全体の雰囲気の中にかならずや見出されるであろうことを断言して憚りません。

しかし、これ以上この点について弁明していては、われわれの使命の沽券(こけん)にかかわりましょう。そなたがこの点を質されたことには、われわれはみじんも驚きを感じておりません。

が、もしも右の弁明でもなお得心がいかないとなれば、われわれとしてはもはやこれ以上つけ加えるものを持ち合わせず、あとはそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐づよく祈るほかはありません。それまでは押しつけがましいことは言わずに、辛抱づよく待つことにしましょう。

人工の教義は、死後、無価値となる

われわれの霊団に所属する各霊 – 地上時代はそれぞれ異なる国家、異なる時代に生き、神および死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては、語ろうと思えば多くを語ることができますが、それはまた別の機会に譲るとしましょう。

差し当ってここでは、地上生活には避け難い誤解を指摘しておきます。地上の人間はいわゆる自説(オピニオン)というものがほとんど無価値であることを知りません。

死の過程をへて肉体から離れる。すると、目隠しをされていたベールが取り払われたように、それまで金科玉条としていた信仰が、いかに愚にもつかぬ、他愛ない幻想に過ぎないものであったかを思い知らされます。

が、目隠しをされている今は、それがわからないのです。一方、程度こそ違え、すべての神学的教義には、その奥に本質的にきわめて類似した真理の芽が宿されていることも知りません。

友よ、人間はとかく宗教というものを難解なものにしたがりますが、本来宗教とは決して難解なものではありません。人間に授けられている限りある知性によっても、十分に理解し得るものです。

かの神学的産物 – 神の啓示を被い隠している気まぐれな人工的教義はいたずらに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に、何の役にも立ちません。

向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探求は、いつの時代も同じでした。目の見えない者が光を求めるように、迷える魂が必死に真理を求めますが、迷信という名の迷路があります。無知という名の霧があります。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまづ)きつつ進み、時には路上に倒れて踏みつけられます。が、すぐまた立ち上がり、手を差しのべつつ、なおも光を求めます。

こうした彷徨(さまよえ)る魂は、そなたの目にはみな同じように映るかも知れません。が、われわれ霊界の者の目には、実に多くの相違点があることがわかります。古来、人間的ドグマの迷路の中にあって必死に光源を求めて喘(あえ)ぎつつ進む魂は、外側より見た目にはみな一様に見えるでしょう。

が、われわれから見れば、“教会”と呼ばれる各教派を特徴づけている神学上の教説は、そなたが考えているほど同一ではありません。われわれの目にはその質的な差異が見て取れます。

また、われわれは未知なるものについてまったく同一の理解をもつ者は2人と存在しないことを知っています。いかなる魂も、大なり小なり、他の魂と同じような見解は抱いていても、決して同一ではありません。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過したのちでしかありません。人間的詮索は肉体とともに滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りのない目に、それまでおぼろげに抱いていた真相が姿を現わし、鋭さを増した判断力によって地上生活の印象を修正していきます。

そのとき悟るのは、すべてに真理の芽が宿されていること、それが、ある者においては受容性豊かな心と霊的洞察力とによって生長を促進され、またある者においては、束縛された知性と卑しい肉体ゆえに生長を阻害されるということです。

しかし、神と、自分のたどる宿命についての真理を求めてやまない魂においては、死とともに地上時代の誤った信仰は速やかに影をひそめ、みな、その低劣さと非真実性を悟っていくものです。いつまでも地上時代のままを維持し続ける者は、真理への欲求を欠く者に限られます。

地上時代の信仰の相違は、死後は取るに足らぬものとなる

これでそなたにもわかるであろう。真理はいかなる人間、いかなる宗教の専有物でもないのです。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことができます。

ギリシャのヒポリタス(3)がおぼろげながら垣間(かいま)見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことができます。

同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめました。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には、教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しい理解がありました。

それと同じ真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その教説の言葉に力と真実を賦与したのでした。

このように、彼ら指導者の教説には同じ純粋な宝石が輝いているのです。その光が彼らをして、人間が神から授かった真理の堆積物(たいせきぶつ)を清め、神の概念および霊のたどるべき宿命についての、より霊的な解釈を施すことによって人間の歩むべき道をいっそう気高く、いっそう崇高なものにするという共通の目的のために、一丸となって邁進(まいしん)せしめたのでした。

彼らにとって今や地上時代の教説の相違は取るに足らないことなのです。そうした夾雑物はとうの昔にかなぐり捨て、かつて地上で魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは、跡形もありません。

それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておりません。“復活”の信仰も見当たりません。とうの昔に捨て去っております。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅です。

その啓発的影響力 – ただ存在するだけで他の魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上で大いに教説を異にした霊たちを結びつける、神秘的な親和力の絆が存在します。

今その彼らが、より崇高にして純粋な宗教的知識を広めるために共同の仕事に一丸となっていることが、決してそなたが考えるほど不可思議なことではないことの理由(わけ)が、これで得心がいくことであろう。

そのための地上の道具として最も適切とみて、そなたを選んだのです。その判断に誤りはないことは、われわれが1番よく知っています。われわれの述べたことを根気よく熟読玩味(じゅくどくがんみ)すれば、いずれそなたも、その合理性に得心がいくことであろうことを確信します。

その絶対的証拠は?と問うのであれば、それは、そなた自身が死のベールを突き破り、一点の曇りもない目をもってわれわれの仲間入りをするまで待つほかはありますまい。

今のわれわれとしては、精々、そなたが少しずつわれわれに対する確信を築き上げてくれることを望むのみです。どうかイエスが人を裁く時に使用した判断の基準 – おのれが裁かれんと欲するごとくに人を裁くべし、という神の摂理をわれわれにも適用して欲しく思います。

思想上の指導の難しさ

われわれの教説に矛盾があるように思うのは誤りです。これまでそなたと交信したさまざまな霊によって、いろいろな形での論議がなされ、取り挙げられた論点もまた多様でした。

確かにわれわれは、そなたをわれわれが伝えんとする根源的教説へ向けて徐々に導くために、取りあえずそなたの精神に深く根差し、われわれの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたって必須でないものは避けてきました。

そのことは否定しません。われわれの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあったからです。それを目ざして、幾つかの接点を確保し、大切にして参りました。一方、それとは関わりのない問題点は避けてきました。

そうした、これまで見過ごしてきた点、論議を避けてきた諸点については、これ以後に取り挙げることになりましょう。が、これまでも、われわれから見て明らかに誤りがあり、いつまでも放っておけないとみた見解について、そなたの方から批判を求めてきた時は、遠慮なく啓発してきたつもりです。

われわれの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古い停泊所から運び出さんとする動きがよくみて取れます。それを見てわれわれは、そなたをその潮流と風のなすがままに放置し座礁(ざしょう)するにまかせておくに忍びず、われわれがその水先案内をしてきました。

その際われわれは、教説という名のロープを一本また一本と、少しずつ穏やかにゆるめ、より安全にして確実な港へ係留してきました。もしも一気にその港へ引っ張り込んでいたなら、古いロープは切れ、そなたの魂は疑念と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄(ほんろう)され、救われる見込みはなかったことでしょう。

われわれが衝突を避けられるものは避け、荒波を立てないよう配慮したことを咎(とが)めてはなりません。致し方のないことだったのです。そなたの思う方向へ向けて援助することは出来ないでもありません。

が、かりに援助してそのロープを締めることによって、そなたの魂を死物と化した遠い過去へいっそう強くつながれることにはしたくなかったのです。

そなたの心の態度ひとつで、われわれはそなたをその嵐から超然とさせ、新たな生命あふれる信仰をたずさえて、より静かでより広い海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を、首尾よく乗り切れるよう援助することが可能となるのです。

こうした作業においてわれわれは、そなたに過激な衝撃を与えぬようにと、慎重の上にも慎重を期してきました。いかなる点においても指導を誤ったことはないことを断言します。ごまかしたこともありません。そなたに与えたわれわれの教説には、あらかじめ徹底した吟味が為されております。

なるべくそなたの精神に宿る思想を取り出し、それを敷衍(ふえん)し発展させるよう心がけました。そうしてその中に、より新しい、かつより真実に近い見解を育み、導き、注入するよう努めましたが、いかなる点においても偽ったもの、歪められたもの、あるいは誤ったものは一点もありません。

また、われわれ霊団の者が個々に述べてきた教説には、実質上の齟齬(そご)は何ひとつありません。一見したところそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさと、そなたの精神による種々の影響のせいです。

つまり、通信霊の未経験に起因する場合もあるでしょうし、そなた自身の先入観の影響も大いに考えられます。そなたの精神が受けつけようとしないものは、われわれも伝えることはできません。

そこでわれわれとしては、いつかそなたが曇りのない目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかありません。霊媒の魂があまりに煩悶している時、身体が苦痛にさいなまれている時、あるいは精神状態が病的になっている時には、明確な通信を伝えることはできません。

それどころか、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら、通信にいろいろと反映して、明確にそして十分に意を尽くすことを妨げるものです。そうしたことが、警戒心に満ちたそなたの目には“矛盾”として映るのでしょう。

が、それも些細(ささい)なことであり、また数の上でも取るに足りません。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することでしょう。そして又、ここぞという困難と危機に際して、高邁(こうまい)な霊的洞察力によって導かれていたことを知ることでしょう。

啓示には計画性がある

そなたはわれわれの説く教えが一般に受け入れられる見込みは乏しいとおっしゃるが、その点についてもそなたは真相をご存知ない。

お粗末なつぎはぎだらけの、朽ちかけた古い信仰が、より高尚にして崇高な信仰 – 本質的には対抗するものではなく補足ないし補充するもの – と置きかえられ、イエスの説いた福音が、より高い次元において理解されることになる日は、そなたが考えるよりもはるかに近い将来に迫りつつあります。

友よ、よく心されたい。今われわれが従事している神の計画が、人間の必要性との関連性を無視して不用意に届けられることは絶対にありません。われわれの仕事も神の一大計画のほんの一部門にすぎません。他にも数多くの霊団が、それぞれの使命に邁進しています。

その教えは徐々に、そして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられていくことでしょう。それが神の計画なのです。神の“時”を地上の“時”の概念で考えてはなりません。また、われわれの視界は人間の視界のような、狭く限られたものではありません。

いずれ、われわれの意図した通りの知識が地上に広まる日も到来することでしょう。その間、それに備えて、進歩的な魂は着々と教育を受けています。貴重な種子が蒔かれつつあります。やがてその収穫の時期も到来しましょう。その時を、そなたも、われわれとともに待たねばなりません。

われわれの述べたところを心して読めば、われわれが提供しつつある状況証拠などよりはるかに明確に、その本質を読み取ることができるはずです。繰り返しますが、神は決して福音の押し売りはしません。神はただ提供するのみです。それを受け入れるか拒否するかは、人間の選択に任されています。

が、そなたをはじめ、われわれが係わり合っている者のすべてが、いずれ、その神性を確信してくれることでしょう。あくまでも否定する者は、浅薄(せんぱく)な頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄のごときドグマによって束縛された者たちだけでしょう。

そうしたドグマ主義者、頑固な迷信家、偏狭な信者・独善家は、われわれは取り合うつもりはありません。魂にしみ込んだ古い信仰に何よりの安心立命を見出している者も又、われわれは取り合いません。神の御名にかけて、彼らには、そのまま古きものにすがらせておくことにしましょう。

彼らにもいずれ進歩の時が訪れることでしょう。今はその時ではないということです。そなた、およびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われわれが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はありますまい。

啓示には段階性がある

また、啓示についてのわれわれの言説を熟読玩味すれば、われわれの教説も、神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯にすぎないことを理解されるでしょう。すなわち、神を人間と同一と考えた神人同形同性説の時代から、人間的煩悩と感情を神の属性とすることの不合理を悟りはじめた現在に至るまで、神の啓示も、人間の進化とともに徐々に向上してきているということです。

本質的には、われわれの啓示はそれに先立つ啓示と何ら異なるところはありません。ただ、人間の知識と同様に、前より一歩向上したというにすぎません。その拠ってきたる根源は同じであり、それを送り届ける手段も同じです。

それは、今も昔も人間であり、完ぺきは期し難く、時には誤りを犯します。人間を通信手段とする以上、それは免れないことです。さらには、われわれの取っている態度を振り返ってみていただきたい。

われわれは一貫して、かの伝承的教説 – 単に古い時代のものという意味での伝統的教義 – を金科玉条とする盲目的信仰に代って、あくまでもそなたの理性に訴えるという立場を取っていることがおわかりいただけるはずです。

軽信に代って合理的・知性的検討をすすめ、確信に基づいた容認を要求しているのです。神の使者であるというだけで、われらの教説 – 今の時代に授けられたという意味での新しい教説を信じていただこうなどとは、さらさら考えておりません。

理性の天秤(てんびん)にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶すればよいのです。十二分に得心するまでは、決して同意することも行為に出ることも求めておりません。

それゆえ霊的教義の内容は、正しい理性を得心させるべきものであると同時に、われわれがそなたにその受け入れを求める根拠もまた、合理的かつ論理的思考を完全に満足せしめるものを有しております。

道を誤っているとはいえ真摯な求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において、過去1800年以上もの永きにわたって後生大事にされてきたもののことで、われわれが結果を焦るあまり、いたずらに反目させることになることは、神が許しません。

それほど永きにわたって大事にされてきたという事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていると言ってよいでしょう。ただ、われわれの広い視野から見る時、その説くところが古い蒙昧(もうまい)な時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ、霊性を賦与しなければならないと思うのです。

とは言え、われわれとしては急激な改革によって混乱を来(きた)すことは望みません。今あるものに磨きをかけ、新しい解釈を施したいと思います。引きずり下ろし、足で踏みにじるようなことは致したくありません。

シナイ山にて嵐のごとき口調で啓示された戒め(4)に代えて、イエスが慈悲と滅私の純心さをもって、より崇高な信仰を説いたように、われわれはそれをさらに新しいこの時代の受容能力と必要性にかんがみて説こうとするものです。

“そのようなものは今の時代でも受けつけない!”と申されるか。(5)なるほど、それもよろしかろう。われわれとしては、少なくともこうした見解の存在を知らしめるだけのことはしました。

ひとつの真理がはじめて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものです。収穫にはまずタネ蒔きの時期がなければなりません。

その後、雨にうたれ、霜に埋もれ、寒々とした冬の季節は、いかにも長く感じられることでしょう。が、やがて暖かい太陽の光に照らされてタネが芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実(みの)り、そして収穫の季節を迎えます。

耕作の時期は長いかも知れません。タネを蒔いたあとの“待つ時期”は、暗く憂うつかも知れません。が、収穫の季節はかならず来ます。その到来を阻止することはできません。

収穫時に手を貸すことはできます。タネ蒔きに手を貸すことはできます。が、手を貸す貸さないに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)はかならず到来します。

その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個々人の問題でしかありません。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そして、それに係わってきた天使が、あるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことにすぎません。

イエスは空前絶後の霊覚者

次にそなたは、われわれがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うておられる。われわれとしては、さまざまな時代に神によって派遣されたさまざまな指導者について、興味本位の比較をすることを控えたいと思います。まだその時期ではありません。

ただし、今、このことだけは明白に言えます。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け、かつ同胞に祝福を与えた霊はいないということです。

その滅私の愛によって、イエスほど人類の敬愛を受けるに相応しい霊は他にいません。イエスほど人類に祝福をもたらした霊は、他にいません。要するに、イエスほど神のために働いた霊はいないということです。が、しかし、神より遣わされた偉大な指導者を比較して論じる必要性を、われわれは認めません。

われわれとしてはその1人1人に称賛を贈り、克己と犠牲の愛の生涯を、それぞれの時代が要請した手本として賞揚したく思います。

キリストの例にしても、もしも人類がその際(きわ)立った素朴さと誠実さ、愛に発した献身と真摯な目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでいたならば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち、後の世に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚かきわまる思索の産物を残した者たちも、少しは有意義な存在となり、人類の呪いとはならずに、むしろ祝福となったことでしょう。

神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴な教えを素直に受け入れていたことでしょう。しかるに彼らは、神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴な教えからいっそう遠ざけることになりました。

今やその名と教義は、派閥間の争いの戦場と化し、その教えは滑稽な猿真似(パロディ)となり下がってしまいました。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられます。

”儀文は殺す。されど霊は生かす”

友よ、神の摂理と人間的解釈とは、截然(さいぜん)と区別しなければなりません。われわれは主イエスの威厳の前にはひれ伏しますが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説 – イエスみずからが否認なさるであろう教説を黙認することによって、イエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとしません。そのようなことだけは絶対にいたしません。

主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱(はずか)しめるのは、バイブルを正しく理解せず、その心を掴みそこねて、ただ字句どおりの解釈に固執するあまり、無知のなせる業(わざ)とはいえ、逆に神への不敬を働いている者たちなのです。

われわれではなく、彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのです。たとえ永年の慣用の歴史を有するとはいえ、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定した書物(バイブル)からの引用によって飾ろうと、さらに又、それらの書に、そこに述べられていることに異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒瀆しているのはわれわれではなく、彼らなのです。

われわれはその呪いの言葉を、哀れの情なくしては見つめることができません。われわれとしては差し当たって実害のない誤りは、あえて覆そうとは思いません。しかし、神を冒瀆し魂の向上の妨げとなる言説は、赦しておくわけにはいきません。

本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人間に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛をおろそかにすることは、神に対する人間としての義務を無視することにほかなりません。

狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマを、その一言一句に至るまで頑(かたくな)に遵守せんとする態度は、魂を束縛し、霊性を歪(ゆが)め、進歩を遮(さえぎ)り、生長を止めます。

バイブルには“儀文は殺す。されど霊は生かす(6)”とあります。それゆえわれわれは、火炎地獄のような作り話に見られる神の観念を否定します。贖罪説のような伝統的教説に代ってわれわれは、より清き、より理性的教説を宣言します。

要するに、われわれは霊性を基盤とする宗教を説くものです。死物と化した形式主義、生命も愛も見られない教条主義からそなたを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使による象徴的教訓、高き霊の界層へと誘(いざな)わんとするものです。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消します。

以上、われわれは事の重大性にかんがみて、細心の注意をもって語ったつもりです。そなたも細心の注意をもって熟読されたい。ひたすらに真理を求める心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望します。

†インペレーター

[注釈]

(1)巻末《参考資料》参照

(2)ルカ6-44

(3)ここに引用された古代の思想家および宗教家はすべてインペレーター霊団に属している。《参考資料》参照。

(4)モーセの「十戒」

(5)モーゼスの精神の中にそう反論する想念を見て取って、こう述べたもので、モーゼスが書いたのではない。

(6)コリント第2、3-6

上巻終

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「イエスの成年時代」の復刊書籍の表紙の線画を描くにあたってどうしてもそういうたぐいのモノを見ざるを得ない状況になってしまい、イエス様の磔刑(はりつけ)の宗教画とかを見ていたのです。するとイエス様が十字架を運ばされている絵が複数出てきます。自分が間もなく磔刑にされて殺される十字架を自分で背負って運ばされているのです。要するにイエス様が当時の民衆の人気者で、霊能がずば抜けていたために、それを当時の聖職者だの律法学者だのといった、自分の事をエライと勘違いしているバカヤロウどもが嫉妬して、イエス様にイヤガラセしてイジメて殺したと、そういう事だと思います。※「イエスの成年時代」の中に、逮捕、連行したイエス様を律法学者どもが取り囲んで取り調べをしている最中に、その中のひとりがイエス様に野獣のように飛び掛かって殴り倒すというシーンがあります。皆さまがどのようにお感じになられるか分かりませんが僕の考えをストレートに書きますと、聖職者だの律法学者だのといった人間は「原始人」です「原始的微生物」です。そういうおこないをして帰幽した先に、自分にどれほどの地獄が待ち受けているかを全く理解していない、宇宙最大級の近視眼の愚か者という事になります…続きを読む→
「デビルストッピング」強姦殺人魔(悪魔)が停止中という意味か?分からないなぁ(祈)†■2024年4月10日UP■
「デビルストッピング」強姦殺人魔(悪魔)が停止中という意味か?分からないなぁ(祈)†
物質界生活中に邪悪な人間の手によって苦しめられ、大いに試練を味わわされた僕たち善良な国民は帰幽後、明るい境涯に赴き、大いに自由を堪能する事になります。そして物質界生活中に奴隷の女の子を強姦殺人し続けた明仁、文仁、徳仁、悠仁は、魂も凍る暗黒の底の底に落ちて千年万年にわたる正真正銘の地獄を味わわされる事になります。そういう意味では「神の公正」がこの宇宙に厳然と働いており、それに身を委ねている限り何も恐れる事も心配する事もないという理屈になるのですが、結局物質界が最悪の場所である事は変えようとしないという事ですか、その部分だけがどうにも納得いかない。確かに霊的知識によれば真の安寧(あんねい)は霊界にこそあり、物質界生活中に幸福を求める事自体が本末転倒であり、物質界でどれだけ頑張るかによって帰幽後の霊界での幸福度が決定するという意味では、霊界での幸せを求めて物質界人生を耐え抜く事が重要と言えるのですが…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†