【3/9】コナン・ドイルの心霊学 “しるしと不思議”はすべて霊媒現象

「使徒行伝」第2章の冒頭に、ペンテコステの日に使徒たちが“ひとつの場所”に“心をひとつにして”集まったとある。心をひとつにするということは心霊実験会で最高の現象が見られる時に欠かせない条件のひとつである。
さらに続けて“激しい風が吹き”そのあと“舌のようなものが炎のように分かれて現われ、ひとりひとりの頭上にとどまった”とある。これは物理実験会で見られる現象とまったく同じで、1873年にクルックス博士が行なった実験会での現象を紹介すると –
《いくつかの発光性の固まりがすごい速度で飛び交い、出席者のひとりひとりの頭上に降りた…》
《こうした現象 – 私はあえてすべての現象と言ってもよいかと思う – が発生する時は、前もって一種独特の冷たい空気が漂い、時にはそれが強烈な風となることもあった。机の上に置いてあった書類が吹き飛ばされたことが何度もある。寒暖計を見ると数度も下がっていた…》
現象そのものが似ているというだけでなく、まず冷たい風が起こり、それから光が発生するという順序も同じというのは不思議ではなかろうか。やはり、19世紀という長い時間を隔てても変ることのない、心霊的法則というものがあることを示唆していると言えるのではなかろうか。
バイブルには、さらに“みんなが集まっていた場所が揺さぶられた”とある。これも近代の心霊現象と共通したもので、実験室のすぐそばを大型トラックが通り過ぎたように揺れた、といった表現をしている。
パウロが“われわれの福音は言葉で届けられるだけではない – パワーを伴っている”と述べているのも、明らかにそのことを言っていると考えられる。“新しい啓示”を説く人がパウロと同じことを言っても、少しもおかしくない。
実は私もまったく同じ体験をしている。アマチュア霊媒のフェニックス氏による交霊会で、やはり冷気を含んだ一陣の風が吹いてから、柔らかなモヤのような炎が現われて、15人の出席者の頭上を漂った。奇しくもペンテコステの日の現象と同じく“2階屋敷”での出来事だった。
さきに私は、こうした現象の合理的説明は、現象がどういう形態を取るにせよ、それを起こしているのは同じ始源から発する霊力であるとする以外に考えられないと述べた。パウロは「これらはすべて、この唯一無二の霊力を活用したものであり、霊能者ひとりひとりに割り当てられているのである」と述べている。
まったく同じことを言っているとみてよい。近代スピリチュアリズムでは、そのことをれっきとした事実によって証明してくれているが、パウロの表現は実に見事である。
そのパウロは“叡智のことば”“知識のことば”“信じる心”の3つを最も大切な要素として挙げているが、これがさらに“霊力”と結びつけば、他界からの高等な霊界通信を生み出すことになる。霊的治療もしかりで、今日でも秀れた心霊治療家によって行なわれている。
これも霊力の仕業であり、治癒エネルギーを病的な身体に注ぎ込むことによって健康を回復させるのである。注ぎ込んだだけ治療家自身の霊力が失われる理屈になるわけで、イエスが「今わたしに誰か触わりましたね?わたしの身体から徳力が脱け出ていきました」(ルカ8章)と言った、その“徳力”とは“霊力”のことだったのである。
そのほかの“奇跡”と呼ばれている現象、たとえば物品引寄(アポーツ)、物体および人体の浮揚などもみな霊力の仕業である。さらには“予言”もある。もっとも、これは正確に当たるものもあるが、とかく気まぐれで、人を惑わすことすらある。
そのいちばんいい例が、初期キリスト教時代におけるエルサレムの陥落とエホバの神殿の崩壊の予言で、当時の人はそれを地球の終末と信じたのだった。現代に至るまでにも、いい加減な予言が繰り返されており、したがってこれが無視されたり否定されたりしても、とやかく言える筋合いではない。
もうひとつ、直感的能力として、“スピリットを見分ける”能力がある。初期のキリスト教時代にはどのような方法でスピリットと交信したかは、私の知るかぎり記録はないが、ヨハネが「出て来たスピリットを何でも信じてはいけない。はたして神の味方かどうかを見分けるために、そのスピリットを試しなさい」と言っているところをみると、霊界との交信はよく行なわれていたのであり、同時に、今日と同じように、いい加減な低級霊の侵入によって悩まされていたことが窺われる。
ある法廷弁護士が著した本に、ふだんはドイツ語は話せない娘さんが完璧なドイツ語でしゃべった話が出ている。それを読んで間もなく、著名な医師から手紙が届き、自分の子供のひとりが中世のフランス語で長文の通信を書いたので読んでみてほしい、とあった。こうしたことは今も昔もよくあることで、慎重な態度が肝要である。

「実はもうハラールの準備が」意味不明の言い訳で自身の罪を回避しようとしているのです(祈)†
皆さま、真実を見つめる眼をお持ちになって下さい。それは【視点外し】と言います。ごまかしです。ペテンです。ウソです。コイツらがどのような言い訳をしてきたとしてもそれをもって大量強姦殺人の大罪が軽減されるという事は絶対にありません。コイツらの言い分に耳を傾けてはなりません。コイツらが何と言ってきてもその視点外しに踊らされる事なく「真実一点」を凝視して下さい。その真実とは「明仁、文仁、徳仁、悠仁が大量強姦殺人魔である」という真実です。その真実から眼をそらせようとするコイツらの作戦にまんまと引っかからないで下さい。そもそも根本的にお考え下さい。大量強姦殺人魔に弁明の機会を与える事自体がまずおかしいのです。発言そのものを許してはなりません、問答無用で独房に入れなければなりません。発言させるならまず逮捕して身柄をしっかり拘束した上で監視下でしゃべらせるべきであって、自由の状態でコイツらが語る内容には一切情報としての価値はないとみるべきです。自身の大罪をゴマかし通そうとしてくるに決まっているからです、それ以外の事を言う訳がないでしょう…続きを読む→

「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†
「イエスの成年時代」の復刊書籍の表紙の線画を描くにあたってどうしてもそういうたぐいのモノを見ざるを得ない状況になってしまい、イエス様の磔刑(はりつけ)の宗教画とかを見ていたのです。するとイエス様が十字架を運ばされている絵が複数出てきます。自分が間もなく磔刑にされて殺される十字架を自分で背負って運ばされているのです。要するにイエス様が当時の民衆の人気者で、霊能がずば抜けていたために、それを当時の聖職者だの律法学者だのといった、自分の事をエライと勘違いしているバカヤロウどもが嫉妬して、イエス様にイヤガラセしてイジメて殺したと、そういう事だと思います。※「イエスの成年時代」の中に、逮捕、連行したイエス様を律法学者どもが取り囲んで取り調べをしている最中に、その中のひとりがイエス様に野獣のように飛び掛かって殴り倒すというシーンがあります。皆さまがどのようにお感じになられるか分かりませんが僕の考えをストレートに書きますと、聖職者だの律法学者だのといった人間は「原始人」です「原始的微生物」です。そういうおこないをして帰幽した先に、自分にどれほどの地獄が待ち受けているかを全く理解していない、宇宙最大級の近視眼の愚か者という事になります…続きを読む→
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