【3/15】コナン・ドイルの心霊学 キリスト教会に訴える

以上で、イエス・キリストによる“しるしと不思議”が近代スピリチュアリズムの現象と原理的には完全に同じであることが分かっていただけたであろう。
したがってスピリチュアリズムというのは、決してキリスト教に取って代ろうとするものではないどころか、イエス・キリストの言動について今日まで語り継がれてきたものが驚くほど正確であり、これまで多くの真面目な求道者にとって大きな“躓(つまず)き石”となってきた奇跡的現象が、スピリチュアリズムのお蔭で真実性に富むものであることが証明される形となったのである。
そのスピリチュアリズムがなぜキリスト教を代表する人たちによって非難と憎悪の的にされなければならないのであろうか。
一方、われわれは、新約聖書で語られているキリストの言動のすべてが、一言一句ゆるがせにできないほど正確なものであるという考えが誤解であることも指摘したいのである。その考えのために、古来、どれほど多くの弊害が生じてきたことであろうか。
できることなら – まず無理かも知れないが – キリスト教会が思い切った態度で、新約聖書の中から明らかに改ざんされていると思われる箇所、あるいは挿入話であると考えられるものを取り除く作業をやってほしいものである。そうしたものが、どれほどバイブルの印象を汚し、純正と思われる話の価値まで下げてしまっていることであろうか。
一例をあげると、マタイ伝23章にバラキヤの息子ザカリヤがエルサレムの神殿内で殺された話が出ている。キリストの口から出た話のように書かれているが、ヨセフスの『ユダヤ戦記』によると、これは実際はエルサレムが戦火に巻き込まれた時に起きたことであって、37年も後の話である。これによって現行のマタイ伝はキリスト没後に書かれたものであることは明らかである。
こうした点をキリスト教会が満場一致で改めるなどということは奇跡中の奇跡で、まず考えられないことである。というのも、キリスト教会としては新約聖書の冒頭を飾るテクストは“教会”の存在を強く位置づけるものにしたいからである。が、残念ながら、キリストの時代に“教会”はカケラほども存在しなかったのである。
マタイ伝の信憑性をさらに失わしめる事実に、キリストと弟子の漁師たちがラテン語やギリシャ語で会話を交わした – それどころか、語呂合わせのダジャレまで言い合った、ということになっていることである。改ざんの目的は明々白々である。
ローマ・カトリック教会の教皇制度は完全にこの福音書を土台としている以上、これがそう近い将来に改められることは、まず考えられないことである。
古代の大思想家といわれる人物たちが、オリンポス山の男女の神々が闘争を繰り返したという神話を本気で信じた – 少なくとも信じた上での著作を残している事実が今日のわれわれには“驚異”に思えるように、現代のクリスチャンの道徳的勇気の欠如と知的正直さの欠落が、われわれの子孫にとって“奇っ怪”きわまるものに思える時代が到来することであろう。
キリスト教精神は実に崇高である。それを理性と進歩の流れに乗せるためには、そうした他愛ない改ざんや挿入箇所を修正し、さらに、すでに主張したように、重点の置きどころをキリストの“死”から“生きざま”へと改める必要がある。
が、正統派はそういう問題には深入りしたがらない。信仰が阻止するのか、それとも他に何か理由があるのかは知らないが、いずれにせよ彼ら上層部の者は、同じ教会内で批判的な考えをもつ者たちにとって、その問題が足もとに散らかっている邪魔な石ころであることに気づいていない。
信じやすい人間にとっては簡単に信じられることでも、理知的思考力に富む人間にはとても信じられないことがあるものだ。“仔羊の血によって救われる”だの、“有り難き主の御血によって清められる”といったセリフは、信心深い人間を快い感情で満たすかも知れないが、思慮深い人間にはグロテスクに思えるであろう。
身代りの贖罪説は理性的にみてとても承服できるものではないが、その問題は別として、そもそもその概念は異端のパルティアの神話から来たもので、トーロボーリアムというミトラ神の儀式において、新しい改宗者に雄牛の血で洗礼を施したことに由来する。そんな野蛮な儀式から出た概念が、思慮深く、かつ感性の鋭い現代人に訴えるはずがない。

「片手落ちというものがありません」あくまでも霊界側の視点でのお話です(祈)†
僕の物質界生活中に結果が出るとは言っていない、僕の帰幽後に霊界側が計画した通りの結果に到達する。「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡も、僕の物質界生活中には達成できないとしても、僕の帰幽後にそのようになる。奴隷の女の子たちの救出も、僕の物質界生活中には実現できない、しかし女の子たちは強姦殺人されて以降に霊界で十分すぎる埋め合わせがあるのだから何も心配する必要はない。だいたいこういう意味でいいでしょう。大俯瞰的視点で永遠という時間の尺度で全体を眺めれば「素晴らしい結果に到達した」と言えるのでしょうが…続きを読む→

「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†
現在の苦難を耐え抜かなければその罪障消滅が達成されず、キミはまた物質界に再降下しなければならなくなるんだよ。我々はキミのためを思ってキミをその苦しみの中に閉じ込めているんだよ。罪障消滅が達成されなかったらキミがまた苦しい思いをする事になるんだよ。これで終わりにするためにその苦しみに耐えるんだ。という意味で霊団が僕を脅し続けているのかも知れません。イヤ、僕のこれまでの人生をよくよく振り返ってみた時に、僕はそういう理由で物質界に降下した人間じゃないと思う。幼少の頃から絵を描き続け、マンガ家も経験し、Dreamworkに突入して死ぬまで絵を描き続ける事を固く固く決断していた。僕はそういう罪障消滅目的の人間ではないと思う、そうだったら絵の才能を賦与されていないと思う。僕に関してはそれはちょっと違うと思う。現在の僕の状況は霊性発現によって「後説」で賜ってしまった追加試練だと思う。守護霊様の管轄内で生活していた時はこんな状況には全くならなかった。「100の光の霊団」の管轄に切り替わってから僕の人生が一気におかしくなった…続きを読む→

「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†
コイツらが僕を憎もうが憎むまいが、奴隷の女の子を信じられない人数、強姦殺人しまくって遊んできたコイツらは「神の因果律」によって自動的機械的に帰幽後、暗黒の底の底に落ちていく事になります。そこに僕の裁量などありません。自分のおこないによって自分を地獄に落としている、ただそれだけの事です。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分たちが1番偉いと本気で信じ込んでいます、この宇宙、上には上がいる事を全く理解できません、物質界生活中、生まれてから死ぬまでワガママ放題、自分の全人生をウソで塗り固め、国民を虐げて私腹を肥やし続けてきた奴らですから人格が全く形成されていません、幼稚極まるガキという事です。そんな奴らが反省などできる訳がありませんからいつまでもどこまでも暗黒の底の底でのたうち回りながら僕に対する憎しみを燃やし続ける事になるでしょう。しかしその憎しみの念は上層界で進歩向上の生活を送る僕には全く届きません。霊界は思念フィルタリングという機能がありますので下層界の邪念は上層界に届かないのです。(※「ベールの彼方の生活2巻」7章 天界の高地 3 霊界の情報処理センター 参照)…続きを読む→
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