【3/31】これが死後の世界だ (6)霊体の誕生と成長

さて次に吾々が興味をつなぐ問題は、霊体がどういう過程で生まれ成長するのかということである。
この際忘れてならないことは、デービスの説では人間の個的存在は地上への誕生をもって始でまりとすることで、これが人間のいわば原初的状態である。従ってこの地上は魂の奥に内在する霊的才能とエネルギーの全部を開発できる場ではない。
それにはまだまだ幾段階もの新しい場が必要である。そこでデービスは死後の段階的過程を、その才能とエネルギーの開発のための場であると主張する。次にその主張を「偉大なる調和」第1巻から抜粋してみよう。
「ここで新たな問題が生ずる。人間はいかにして自己の霊体を支え旦つ維持しているかとい問題である。これは実に大きな問題ではあるが、これも“自然界の一連性”の原理の枠内で自然に解決がつく。
つまり霊体と物質との関係を説明すれば、それでおのずとその問題の解答となるのである。そこで私はその説明の第一段階として、まず脳髄と全身の機能との関係を説明することにする。
脳髄はいうまでもなく全身を支配する中枢器官であり、常に自己に必要な養分を摂取しては、それを浄化し純化してより高度な物質を生成する。
すなわち固形物を流動物と化し、流動物から活電気を生成し、さらにその活電気を精化して活磁気を拵え、そして最後にその活磁気を一種の霊素 – 吾々が物事を考え決断し、あるいは愛し合い、意志を働かせ、そして行動する時に使用する霊的カロリー源にしてしまう、生理学者がいうところの養分 – 顕微鏡などによって見ることの出来る養分が器官や筋肉や導管や細胞膜から脳髄へ運ばれるのではない。
すでに一通りの消化と純化を経てもはや物質の領域を超え、化学的手段ではその存在を確かめることの出来ないもので、それを脳髄、つまり霊が摂取し、調合し、そして使用する。
生理学でも説いているように、人間の身体は個々の組織また機能の完全密接な連絡関係によって維持されている。これを私は“機能の相互補助”と呼んだり“天の配剤の妙”と呼んだりしている。
食べたものを消化してくれるのは胃だけではない。腸はもとよりのこと、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、心臓、肺臓、そして大親分の脳髄までが、たったひとつの食物の消化に関与しているのである。機能上から言ったら、脳がいちばん積極的で且つ高等な消化器官であるとも言えるのである。
「では、胃に入った食物はその後どういう変化の過程を辿るのであろうか。その過程は大きく7段階に分けることが出来る。まず胃に入るとすぐに化学的作用と電気的作用を受けて細かく砕かれる。それが胃に具わっている他の物質と結合し合って無数の組成物を作り上げる。
かくして出来あがった組成物つまり栄養分は、身体各器官の親和力の作用を受けて、骨、筋肉、内臓等に吸収されていく。が、これで消化吸収作用の全部が終ったと思ったら間違いである。
「そうやって各器官に吸収された栄養分は、こんどはその器官に具わっている消化機能の作用を受けてさらに消化され、そこで霊的ともいうべき高度な物質と化合して、精神の第1要素であるところの“運動(モーション)”の原動力となる。
その化合物がさらに消化と純化の過程を経ると、こんどは精神の第2要素であるところの“精力(ライフ)”の原素となり、それがさらに進むと、精神の第3要素であるところの“感性(センセーション)”の原素となる。そしてこの感性的要素がもう一段純化されると、ついに精神機能そのものの栄養素となってしまう。
「以上の作用を根本的に司るのは活電気と磁気、それに大脳に具わっているところのガルバーニ電気(注8)の3つである。かくして吾々は精神機能が肉体機能とまったく同じ原理、つまり一連性をもった相互補助の原理によって維持されていることを知った。」
デービスの説の特徴はあくまで物質を出発点としていることである。要するに精神的な力も能力も、あるいは霊体そのものも、ことごとく物質から養分やエネルギーを摂取していると言うのである、この説は霊魂というものをむやみに不可思議視して物的身体とまったく異質のものとしたがる神学者の考えと真っ向から衝突する。
しかし理性的に判断した場合どうしてもデービスの説に自然性つまり調和というものを認めざるを得ない。デービスの哲学はあくまで整然とした法則で出来あがっており、どこにも不可思議なもの或いは奇蹟といったものを雇い入れる余地がないのである。霊体も肉体と同じ原理によって出来あがっているのであり、その原理はエーテル界の生成にも当てはめることが出来るのである。

「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†
聖書には真実でない事がたくさん書かれています。人類史上最大の汚辱と言っても過言ではない「ニケーア会議」の時に様々なウソが聖書に書き加えられ、そのウソが世界中に広まっていき、イエス様の2000年の苦悩へとつながっていったのです。キリスト者はイエス様の御名を悪用して私腹を肥やす事を2000年にわたって続けてきました。特に中世ヨーロッパの暗黒時代が最悪で、キリスト教の要職についていた人間たちは、自分たちの地位、生活を守るために真実を公言する人間を徹底的に処刑してきました。キリスト教の人間が「主よ、主よ」とイエス様の御名を連呼する時、それはイエス様に対する最大級の侮辱であり、イエス様の悲しみをさらに増幅させ、積年の誤謬(ごびゅう)を払拭するどころかさらに加速させ続ける、イエス様をさらに十字架にかけ続ける許されざる呪いの行為となります。僕、たきざわ彰人からお願いしたい事としましては、間違いだらけの聖書を読むのはやめましょう。「シルバーバーチの霊訓」を筆頭とした正真正銘の霊関連書籍に目を通すようにしましょう。そして教会に足を運ぶのもやめた方がイイでしょう…続きを読む→

■アナログ絵287UP。奴隷の女の子たちがどれだけヒドイ目に遭わされているか、何としても理解して頂かねばなりません(祈)†
その苦悩を1ミリも理解できない方があのようなコメントを返してきた事があるのです。霊団のインスピレーションに感応できるようになるまでの修行の道のりがどれほどのものであったか、facebookの女性然り、ご覧の皆さま然り、僕がどれだけ力説しても1ミリも伝わらないでしょうし僕もそんな事言いたくもありません。facebookの女性はインスピレーションを小バカにしていました、受け取れもしないくせに。霊的なものをバカにする、僕は霊性発現以降ずっとこの手の軽蔑、嘲笑を浴び続けてきました…続きを読む→

「ようやく春が訪れます」霊界側の積年の悲願がようやく成就されるという意味ですが(祈)†
現在の霊団はアフォじゃネィかというくらい僕をイジメにイジメ抜こうとしてきますが、この宇宙に偶然はありませんのでもちろんこれにも意味がありまして、物質圏に降下しての霊的知識普及の仕事は苦難と忍耐のレベルがタダ事ではなく、並大抵の忍耐力では務まらないのだそうです。深海(6000mとか8000mとか)で潜水服を着て活動しているダイバーが、もうひとりのダイバーに潜水服越しに話しかける、霊界の人間が物質界の人間に語りかける事はそれくらいむずかしく忍耐がいる事なのだそうです。何しろ異なる次元間にあんなシチメンドクサイ橋、こんなシチメンドクサイ橋をかけて波長の下降操作をやらねばなりませんので、それが不愉快でならないのでしょう。つまり現在霊団が僕をイジメまくっているのは、帰幽直後からその潜水服をやらせるためなのではないかと、つまり猛烈にストレスのかかる仕事をやらせるために僕の精神力を鍛え続けていると、そういう意味なのではないかとイヤな予測をしているのです。本気の全力でお断りしたいんですけども。その対価として祝福だの何だのと言ってくるのではないか、と考えると少しこのインスピレーションの意味も納得できたりできなかったり…続きを読む→
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