南アフリカのケープタウンに住むデコック夫人は腹部の腫瘍に苦しんでいた。所用のためロンドンに滞在中に病院で診断を受けたところ、やはり悪性のものかどうかは今のところ判断できないとのことだった。
帰国すれば生体組織検査が待っている。その結果次第でそのまま治療を続けるか手術をするかの判断が下される。〇〇日にサウサンプトン港から帰国する予定だが、出来ればそれまでに心霊治療をお願いしたいのだが…というのが私へのデコック夫人の手紙のあらましである。
ところがその手紙の宛名書きの住所が間違っていたために、私のもとに届いた時はすでにロンドン滞在期間があと1日で切れるという日だった。今ごろは恐らくロンドンの宿泊先を引き払ってサウサンプトン市にいるはずだ。私はそう判断して、夫人が乗船することになっているユニオン・キャスル・ラインへ速達便を送り、遠隔治療を致します、と書いておいた。
それから3週間してケープタウンのデコック夫人から手紙が届いた。そのあらましを紹介すると、乗船してからもまだ腹部に痛みを覚えていたが、それが次第に消えていき、3、4日すると痛みを忘れるようになり、5日目の朝には腹部のしこりが失くなっていた。
おかげで残りの船旅がとても快適で、デッキでのゲームやスポーツを楽しんだ。ケープタウンに着いてからさっそく病院へ行って検査してもらったところ、腫瘍は影も形もなかったという。
このように、遠隔治療も確かに効く。今日では世界中で広く行われている。右の例のように治療家と患者とが顔を見合わせることなく、治療が遠方から治癒エネルギーを送って治療するやり方で、患者がそこにいないということから“不在治療”ともいう。
直接療法の場合は患者が目の前に存在し、その患者から病気の症状や病歴などについて細かく聞くことができる。事情をのみ込むと治療家は患者の身体に手を当てる。するとその手を通じて治癒エネルギーが流れ込む。患者は立ちどころに治る…といった調子に行けば言うことはないのだが、実は心霊治療もそう単純なものではない。
およそ半数以上の患者はその場では何の反応も変化も見せないのが普通である。ところが次に訪れた時には症状が大幅に改善されていたり全快していたりすることがよくある。聞いてみると、治療してもらった日は何ともなかったが、2、3日して朝目を覚ましてみたら痛みがすっかり消え症状が良くなっていたというのである。
なぜこういうパターンになるのだろうか。私は長年の経験からこう推理した。つまり治療を担当する霊は彼らなりの診断にもとづいて治療に当るのであるが、患者によっては精神的な歪みや緊張が障害となって治癒エネルギーを受けつけないことがある。
そこでその場ではいったん治療をあきらめ、その患者が帰宅してから寛いだ時、たとえば熟睡中などをねらって治癒エネルギーを注入する。翌朝目を覚ましてみると、すっかり良くなっているということになる。
この推理を背後霊に質してみたらその通りだとのことだった。実は遠隔治療もこれとまったく同じ原理なのである。距離の遠い近いは関係ない。霊界では時間と空間(距離)が地上とはまったく異る。大西洋のド真ん中を航行中の客船の中にいる患者を治すのも隣の家の患者を治すのも、霊にとっては同じことなのである。
今や、地球の反対側で行われているオリンピック競技が地球をまわっている人工衛星を中継してテレビの画面に映し出される時代である。こうした遠隔治療の原理も別段不可思議なことではなかろう。
ただ遠隔治療には1つだけ欠かせない条件がある。治療家と患者は“直接”の接触は必要ないが“間接的”な接触は絶対必要だということである。それはふつう手紙を媒体にして行われる。
本人の書いた手紙を私が手に持つことによって患者とのつながりが出来る。さらにそれを読むことによっておよその症状がのみ込める。それが背後霊に伝わる。背後霊はそれに基いて準備を開始する。
私のほうでは何月何日から治療を始める旨を患者に連絡し、症状に変化が出れば、どこがどうなったということを知らせてほしい。何の変化もない時もその旨を連絡してくれるようにと書き添える。間隔は患者によって1週間に1回の時もあれば2週間に1回の時もあり、1か月に1回の時もある。
この患者からの経過報告は非常に大切である。症状の変化によって治療箇所を変えたり打ち切ったりしなければならない。たとえば椎間板ヘルニアの場合だと、ヘルニアそのものは正常に復していても、坐骨神経の後遺症が残っていることがある。それが脚に残っている時は脚に治療を集中しなければならない。
このことに関連して、よく次のような面白いことが起きる。手紙が届く。読んでみると「昨年あなたの遠隔治療のおかげで肺ガンを治していただいた者です。つきましては…」と、知人や親戚の者への治療を依頼してくるのである。
文面から察するに、遠隔治療で自分が治ったことがこの私にも手応えでわかっていると思い込んでいるらしいのである。私にもそこまでは分からない。治ったか治ってないかは報告していただかないと分からない。
その連絡の間隔はさっきも言ったとおり1週間だったり2週間だったり1か月だったりする。危篤状態の時は1時間ごとになり、そうなると手紙ではなく電話連絡になる。本人はだめだから看病している人に報告してもらう。
こうした治療法を祈りによる信仰療法と同じと思ってくれては困る。遠隔治療を施す時の治療家の心理状態は祈りではない。一種の思念操作である。それは直接治療の時も同じである。
遠隔治療を施す時、私は直接治療の時と同じく背後霊との一体化を求める。そして患者の住所と氏名を述べ、心の中に症状を思い浮かべて、実際にその患者に手を当てて治療している様子を“映像化”する。
治療に当る霊との一体化 – これがカギである。人間と霊との間にも親和力というのがある。心霊治療家の特性は結局霊医との親和力とそれを意識的に誘導する能力にある、と言える。
祈りとは言わば神への語りかけである。そして、その祈りの内容の大半は利己心に発していると言ってよい。そんなもので事が成就されるはずはない。成就されるのは、せいぜい、ひと通りの文句を口にしたことによる気休め程度でしかない。
真の祈りの言葉は実は1つしかない。「御心の成就されんことを」 – これだけである。こちらから、ああしてほしい、こうしてほしいと頼んでみても仕方がない。神には全てが知れている。あなたにとって今何がいちばん大切かは神には分かっている。
だから、ひたすらに神の恵みに感謝し、御心の命ずるがままに生き、置かれた境遇の自分にとっての意義を理解しようと努力することである。そのためには特別仕立ての建造物はいらない。仰々しい言葉もいらない。僧侶もいらない。儀式もいらない。時刻をきめる必要もない。あいた時間ならいつでもいい。1日の用事がすっかり終わってからでもいい。要するに“神を忘れない”ことだ。
思うに、在来の宗教が宗教としての存在意義を発揮できずにいる主な原因の1つは、聖職者が心霊能力をもち合わせず、政治的ないし宗教学的才覚によって地位を確保している点にある。
いかに立派そうな大聖堂で病気平癒の祈りを述べても、その僧侶に治癒能力がなかったら何の効果もない。もしも信仰心と祈りの言葉だけで病気が治るのなら、例のルルドでもっと多くの人が治ってもいいはずである。
(ルルド – フランスのピレネー山脈の麓にある洞窟に聖母マリヤが出現し、その命に従って少女が掘った泉の水で木コリの眼病が治った話がきっかけとなって、そこがカトリックの信仰治療の場となっている。(128頁参照)
今やルルドは信仰治療のメッカとしてカトリックの華やかさと威勢と信仰の権威が治療行為1つに集中されている。そこには枢機卿を始めとして何名かの主教、何十人もの牧師、何百人もの尼僧、そして何千という信者たちが1日中ほぼひっきりなしに祈りを捧げている。
カトリック教会の途轍もない大きい力が聖母マリヤへの盲目的信仰と相まって、そこに集中されている。ここ100年あまりにわたって何100万もの病弱者が訪れている。なのに、実際に治った者はホンのわずかにすぎない。もしも祈りと信仰心だけで治るのであれば、もっともっと多くの人が治ってもいいはずである。
そのルルドでの治療風景を8ミリ映画におさめた女性が私のところにそれを見せに来てくれたことがある。実は私は写真が趣味で、ある同好会に加入しており、その女性もその会員の1人なのである。彼女はボランティア活動の1つとして肢体不自由児を大勢連れてルルドへ行き、その時の様子をカメラにおさめたわけである。
カラーでナレーションも入り、宗教的な音楽をバックに流して、実に見事な出来ばえであった。とくに子供たちが不自由な体をある者は車イスで、ある者は松葉杖にすがりながらも明るく陽気にはしゃぎながらルルドの難路を進む様子、そして到着した聖地でそこかしこに立てられた聖像に感心したり、立ち並ぶみやげ店で思い思いに買い物をする風景は、同情心をさそうと同時に感心もさせられた。
特に夜になって無数のローソクが灯され、それがまるでホタルのように暗闇の中で光り輝く中を子供たちの聖歌が響くシーンは感激的だった。見終わって、私は「見事な出来ですね」と言ってから、うっかりこう聞いた。「で、どなたか治った人がいましたか。」
彼女はそれを冒瀆的な言葉と受け止めたらしい。一瞬表情をこわばらせたが、すぐに、「いいえ、1人も治りませんでした」と答えてから、こんどは笑顔を浮かべて「でも、あの子たちには良いことをしてあげたと思っています」と明るく言った。
果たしてそうだろうか。私の考えでは、そういう体験をしたことがその子たちにとっては却ってのちに本当の治せるチャンスを失わせることになりはしないかと気にかかるのである。つまり心霊治療のことを耳にしても、「心霊治療家なんかに何が出来るというのか。ルルドであれだけのカトリック教会の力でも治らなかったのに」と思うに違いない。現にそれに似たケースがあるのである。
ある時、近くの婦人が訪ねて来て娘の治療に来てほしいと言う。自殺もしかねない状態だというので私はさっそく行ってみた。見ると30に満たない女性で子供が3人おり、立派なモダンな家に住んでいる。
が、この4年ばかり脊椎のいちばん上の骨の脱臼で苦しみ、あれこれやってみたが一向に良くならず、神経が異常に興奮している。首は外科用の頸輪(カラー)で保護され、鎮痛剤と精神安定剤でどうにか保っているという感じである。
「どんな治療をして下さるんですか」と聞くので、私は心霊治療家だと答えると、「まず治せないでしょうよ。牧師さんがこの家まで来て下さって祈禱をして下さっても治らなかったんですから」と言う。私も、牧師は宗教家としては立派な方でも治癒力に関するかぎり近くの肉屋さんと少しも変わらないと言うわけにはいかなかった。
不愉快な思いをさせられながらも治療してみたら症状がずっと良くなった。が、この人は完治は難しいと思った。というのは宗教的偏見が魂の奥深くこびりついていて、それが治癒力の流れを阻害するのである。が彼女もまだ若い。そのうち目覚める日も来るだろう。私はそう期待したい。
■2023年12月6日UP■「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†2000年前のイエス様の磔刑を思い出してみて下さい。この物質界はとにかく嫉妬、嫉妬、嫉妬であふれかえっています。イエス様も多くの霊能を発揮した事によって当時の律法学者どもの嫉妬をかって磔刑にされて殺されました。この地球圏物質界は一見進歩が進んでいるように見えますが、それは物質面のみが異常に発達しているだけであり、精神面はまだ全然進歩していないと思います。霊的知識がまるっきり理解されていない事がその証左といえるでしょう。僕がある状態になる事をおもしろくなく思っている人間がそれはそれはたくさんいるのです、そいつらが僕をそういう状態にさせないよう陰湿極まる妨害をしてくるに決まっています。それが世の常です。僕に関する言われなき悪い噂をメディアを駆使して広めたりして国民に僕という人間の悪印象を植え付けようとイメージ操作をしてくるでしょう。(例えば守護霊様の背の低さを悪用するなどして)そういう事を絶対にやってくるはずです…続きを読む→ ■2022年3月2日UP■「太陽の方を向きなさい」これは帰幽後の話で物質界生活中は最悪という意味です(祈)†ある意味「暗殺よりヒドイ」と僕は思っていまして、何をどう頭をひっくり返しても許容できない事を霊団に言われているのです。信じられない、本当に最悪、こんな人生死んでも有り得ない、霊団はそういう状況に僕を突入させる事を完全に決定したと意味を受け取れる内容であり、到底承諾できません。その苦しみを身に浴びる事によって「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡の実現につながり、奴隷の女の子たちの救出につながるという事であれば、まだ耐える意味を見出す事もできると思うのですが、霊界側はもう完全に女の子たちを見殺しにする事を決定した様子で「目標に到達できないのに苦しみだけ続行させられるとはどういう事だ」という考えがイヤでも出てきてしまうのです…続きを読む→